Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2014年8月20日(水)

昨日の午前10時25分、予定よりも少し早く、トロントからサンパウロに無事到着し、タクシーと高速バスを乗り継いで、午後3時に、我が家に帰宅。1ヶ月ぶりの我が家に、「ホーム、スイートホーム」を強く実感。「やはり我が家が一番いいねえ~、落ち着くねえ~」とふたりで何度も繰り返した。今日は午前中にパーディーニョの町の郵便局に溜まっているだろう郵便を取りに行き、ボトゥカトゥのスーパーマーケットで食料品の買出しをしてから、はるをヴィラ・シーコに迎えに行く予定。冬のパーディーニョに戻る前に、異常に暑かった日本から涼しいトロントで3日ほど過ごし、体を少し休めることができたので、急激な気温の変化に体が驚くことはなかった。そして、昨晩は気持ち良く、ぐっすり眠ることができたので、今朝はふたりとも元気に目覚めることができた。寝不足でずっと充血して真っ赤だった私の目も正常に戻っていた。次の写真は、私たちを迎えてくれた我が家の桜。留守中、かなり寒い日があったらしく、今年は桜を見ることができないと思っていたのだけれど、花が咲いていてうれしく思った。いつ咲き始めたのかわからないけれど、どの木もみな花をつけている。

2014年8月21日(木)

昨日は、午前中ボトゥカトゥに食料品の買出しに行き、その後ヴィラ・シーコにはるを迎えに行った。旅行中、エドソンは「はるはどうしているかなあ~?」「寂しがっていないかなあ~?」「I miss Haru Juju.」と何度も繰り返し言っていた。1ヶ月もの長い間ヴィラ・シーコに預けたのは初めてだったので、はるは私たちに捨てられたと思って、人格(犬格?)が変わっていないだろうか?という心配もした。でも、犬舎から飛び出してきたはるは、一目散に私たちのところに来て、喜びを爆発させたのでほっとした。はるは以前のままのはるだった。家に戻っても、生活のルーティンはまったく以前のままで、留守にしていたのが嘘のような感じだった。次の写真は、今日朝食後のお散歩から戻り、いつものようにエドソンのワークスペースの側のソファーの前に置いたベッドでくつろいでいるはる。夜はいつも私たちの部屋で一緒に寝ていたはるは、ヴィラ・シーコの犬舎で、ひとりで寝るのが寂しくて、泣きながら扉に顔を押し付けて開けようとしたようで、鼻の上とおでこにつくった傷の跡が残っている。今回の旅行で、私たちにとって、はるの存在がどんなに大きなものかをあらためて再確認した思いでいる。はるがいてくれて、私たちは本当に幸せだと思う。

2014年8月22日(金)

今回の日本への一時帰国で、広島滞在中に、兄が「シンシアリーのブログ」というのを読んでいて、おもしろいから読んでみろと言って、そのサイトを教えてくれた。ある韓国人が韓国の実態を日本語で、真正直に綴っているものらしく、私もお気に入りに入れて読んでみることにした。まだ、こちらに戻ったばかりでゆっくり読んでいる時間はないのだけれど、ブログの頭に、まず最初に読んでとあった「はじめに」というページと、昨日付けのページを読んでみた。これからぼちぼち読んでみようと思っている。韓国で今何が起こっているのか?この人は韓国の反日をどのように見ているのかなど、いろいろ書いてあり、おもしろそうな感じだ。興味のある方は、こちらへ

旅行に出る前に、ダイニングルームと外階段の下にある箱庭のポインセチアが元気にしており、その回りにポインセチアを圧倒するようにたくさん芽を出していたサボテンのようなアロエのような植物が、たくさん花を咲かせていたので、以下の写真に撮ったのだけれど、1ヶ月経った今もこの写真と同じように相変わらず花盛りの状態が続いている。何という名前の植物か知らないけれど、下向きにたくさん薄ピンクの花をさかせている光景はなかなかいい感じだ。

2014年8月23日(土)

留守中雨が降らず水不足になった場合、市の給水車に給水してもらうためには、背の高い草がボウボウだと丘の上の貯水タンクまでトラックが上がってこれないので、旅行に出発する直前、エドソンが市に頼んでトラクターに来てもらい、草刈りをしてもらった。そのお陰で、背が高くボウボウだったブラキアーリアが刈られて、その刈られたブラキアーリアが今では枯れて、長靴を履いていれば楽に歩けるようになっている。幸い留守中に何度か雨が降ったらしく、給水車の出動を頼む必要はなかったようだった。昨日の朝、はるとのお散歩の際、我が家の丘の上からその風景を撮ってみた。1枚目は、丘から少し右を向いて、入り口ゲートを右側にとらえた写真。入り口と右側の電信柱の間にある木は、自生の松。竹は自生のものや、私たちが自ら植えたものなどたくさんあり、梅の木はご近所のタケイシさんからいただいた苗を2本植えているので、一応、我が家には松竹梅が揃っていることになる。写真上部の緑豊かな場所は、西隣のコーヒー農園のコーヒー畑。

2枚目は、カメラを少し左に移動させて撮ったもの。写真上部の緑の部分は、前の写真同様、西隣のコーヒー園。そして、さらにその上の部分は、別の農家の牛の放牧場。

3枚目は、さらにカメラを左に移動させて撮ったもの。我が家の防風林の先にお隣のコーヒー園の家が見える。以前も書いたけれど、ここの持ち主はバウルに住んでいて、ここには普段誰も住んでいない。建物の左側にバスが止まっている。おそらく今コーヒーの収穫の時期なので、季節労働者を入れて収穫作業をしているのだろうと思う。働く人たちの姿は見えないけれど、話し声が聞こえる。2枚目に写っている左端の電信柱は、この写真の右側に写っているものと同じ。

2014年8月24日(日)

私たちが旅行から戻った火曜日、ジミーがミナス・ジェライス州に出張していて留守だったので、高速バスが止まるパーディーニョのホドサーブ・ソヒーゾに私たちを迎えに来てくれたのは、カーロスさん(ジミーの奥さんのお父さん)だった。帰る道すがら、彼はパーディーニョの町に以前からあるサンタンデール銀行が、私たちの留守中、強盗に襲われたと話してくれた。6月にはブラデスコという新しく開店した銀行が強盗に襲われたばかりなのにと、驚いた。そして、20日(水)の午前中、パーディーニョの郵便局に郵便を取りに行くと、入り口ドアに張り紙がしてあり、私たちがこちらに戻った19日(火)の夜、強盗に入られたため、修復作業が行われており、この日は営業していないということだった。郵便局の前で他のお客さんと話をしていた郵便局員の男性にエドソンが話を聞くと、これで郵便局が強盗に入られたのは7回目だという。木曜日も営業再開はされず、金曜日になってようやく再開され、郵便を受け取ることができた。さらに、20日にボトゥカトゥからの帰路、パーディーニョのスーパー、パーディネンセにエドソンにお肉を買いに行ってもらうと、そこのオーナーさんのところにも最近強盗が押し入り、家族をみな縛り上げて、金庫の場所を教えろと脅迫し、3時間も居座ったあげく、結局、家電製品などを盗んで行ったという話を、エドソンがオーナーさんから聞いてきた。何てことだ!一体全体パーディーニョの町はどうなっちゃっているんだろう?幸い、金曜日現在、郵便局に押し入った強盗はパーディーニョの住人(ただし、パーディーニョっ子ではなく、他所からパーディーニョに移り住んだ人)だったことがわかり、すでに逮捕されたと聞き、少しほっとした。それにしても、最近、何故ここではこんなに強盗事件が頻発しているのだろう?そして、郵便局強盗犯以外はまだ捕まっていない。

金曜日に受け取った郵便物の中に、2014年8月15日発行の「楽書倶楽部」第24号が届いていた。以下は、この号に掲載された私の文章のコピー。

日本人の国民性

人の本性というのは、言葉ではなく行動に現れると言われる。三年半前の東日本大震災の時、被災地の人たちは、あの未曾有の大災害に直面して、日本人の本性、つまり国民性を、まざまざとその行動で示してくれたように思う。

宮城県南三陸町の遠藤さんという若い女性職員が、防災庁舎で最後まで無線を握り締めて避難を呼びかけ続けたことはよく知られている。津波が押し寄せる中、自分のことよりも、とにかく一人でも多くの人に助かってもらいたいという気持ちで必死だったのだろう。このエピソードを聞き、津波が引いた後の無残にも骨組みだけになった遠藤さんがいた防災庁舎の建物の映像を見たときは、息がつまりそうになった。

今年になってインターネット上で、参議院議員の佐藤正久氏が数年前に行った講演を聞いた。佐藤氏は元陸上自衛隊イラク先遣隊長で、「ヒゲの隊長」として有名になった人だ。その講演の中で氏は、「日本人はすばらしい民族で、いざというときに覚悟が出るのです」と言って、自衛隊員と共に入って行った被災地での様々な経験を語った。

《ある病院に行くと、被災から一週間ずっと寝ていないため目を真っ赤にした院長先生が頑張っていた。「何でそんなに頑張るのですか」と聞くと、次のような答えが返ってきたという。

「佐藤さん、実は波が来たとき入院患者全員を屋上に上げようと思った。でも全員は無理だった。その中に八十過ぎのおばあちゃんがいました。波がおばあちゃんをベッドごとさらっていきました。ベッドの上でおばあちゃんが屋上の私を見て、『ありがとうございました』と言って波の中に消えていったんです」

「佐藤さん、分かりますか。『ありがとうございます』と言って波の中に消えていったんです。私はあのおばあちゃんの姿、あの言葉、一生忘れることはできません。だから私は今必死なんです。自分の命があと一週間持てば誰かにバトンを渡すことができる。でも、今、私しかいないのです。誰がこの原発に近い病院に来ますか。今、私しかいない。自分が今頑張らなければみんな亡くなってしまう。自分なんかどうなってもいい」

震災から一ヶ月ほどして、佐藤氏が宮城県のある浜に行った際、三歳くらいの息子が見つからないと一所懸命に探しているお母さんがいた。それから半月後に遺体が見つかったけれど、震災から一ヶ月半も時間が経過していたので、かなり傷んでいて違うかもしれない。そういう状態でお母さんに見せるわけにはいかないので、毛布にくるんで服だけを出してお母さんに見せたところ、服を見て、間違いないと確認できたという。そして、その子を抱いて「よかったね。本当によかったね。自衛隊さんが助けてくれたよ。本当によかったね。今度生まれ変わったら、大きくなったら、自衛隊さんに入れてもらおうね。そして、一人でも多くの命を救おうね」と、そのお母さんが泣きながら言うのを聞いて、居合わせた隊員たちはみな号泣したという。

宮城県多賀城市には自衛隊の多賀城駐屯地があり、ここも津波で大きな被害が出て、隊員一名が命を落としている。この駐屯地の隊員九百名は、電話も携帯電話もつながらず、家にも帰れず、自分の家や家族がどうなっているか確認できないまま、人命救助で一番大事な三日間、七十二時間は家族よりも被災者を優先して救助活動を行った。そして、四七七五名の命を救った。自衛隊、警察、消防、海上保安庁全部で救った命が二万七千名。これらの隊員が家に帰ることができたのは被災から五日目以降で、帰ってみると家が無くなっていたり、身内が亡くなっていた隊員も少なくなかった。彼らもまた被災者だった。

そのような状況で自衛隊員たちを突き動かしていたのは、目の前で覚悟を持って、自分よりも人のことを考えている被災地の人たちだった。「最初の三日間は俺たちしかいない。今、頑張らないで、いつ頑張るんだ」という気持ちで結果を出していった。「被災地のど真ん中の部隊の意志と誇り、義務と責任です。俺たちしかいない。覚悟があれば義務と責任が深堀りできるのです」と佐藤氏は言う。》

被災者の人たちも自衛隊の人たちも、互いを思いやり行動することで、その覚悟を示したのだった。この講演を聞いて、私は、大東亜戦争後、大陸でソ連の捕虜となり、強制連行され抑留された多数の日本人のことを思い起こした。

例えば、ウズベキスタンの首都タシュケントにあるナヴォイ劇場は、レンガで造られたビザンチン様式の美しい劇場として知られている。 一九六六年のタシュケント大地震でもびくともせず無傷だったこの劇場は、永田行夫元陸軍技術大尉(当時二五歳)率いる日本人抑留者四五〇名によって、一九四五年から二年の歳月をかけて造られた。乏しい食料しか与えられず、栄養失調になりながら、強制労働させられ、次々に仲間が倒れて行くという状況でも、日本人としての誇りを失わず、真剣に責任感を持って仕事に取り組んだ人たちの実直さが、被災地の人たちの姿と重なる。

ナヴォイ劇場

こうした日本人の国民性は昔も今も変わらない。このような苦難の中で、覚悟を持って事に当たることができるのが日本人なのだと思う。いざと言うとき、同様のことが私自身にもできるかどうか自信はないけれど、少なくとも、私も同じ日本人なのだから、立派ではなくとも、恥ずかしくない生き方をしなければと思っている。

2014年8月25日(月)

先週の水曜日にボトゥカトゥに行った際、スーパーのパオン・ジ・アスーカーではなく、ドナ・マリナに行って野菜や果物をどっさりと買って帰った。ドナ・マリナでは週に3回、カンピーナスの中央卸売市場に仕入れに行くらしく、どうりでいつ行っても新鮮で、種類豊富な野菜や果物があるんだなと納得。パーディーニョのスーパーはどこも、サンパウロの中央卸売市場に仕入れに行くのだけれど、週に1回だけなので、金曜日か土曜日に買い物に行かなければ、葉物野菜はしおれかけていたりする。今回ドナ・マリナでは、これまでブラジルでは見たことのなかったニラがあったので、一束買った。日本で販売されているサイズの3~4倍の大きな束だったので、値段は、4.80レアル(約240円)と、他の野菜に比べて少々高めだった。でも、ブラジルで初めて手に入れた貴重なニラ。早速、白菜や挽き肉と炒めて中華風に調理したり、野菜炒めに入れたりして、楽しんでいる。

ドナ・マリナで買って帰った野菜や果物を使って、早速、はるの食事を作ったり、常備菜の白菜の浅漬けや、大根のわさび漬けなどを作る作業を毎日のようにしている。金曜日にはこちらに戻って初めてのパンとアップルケーキを焼いた。これまでパンにはくるみとチーズを入れてローフにして焼いていたのだけれど、今回は、くるみをきらしていたこともあり、何も入れずに、小ぶりの丸いパンにして焼いてみた。広島の友人が尾瀬川ダムの畔でやっている山のレストランで食べた手作りパンには及ばないけれど、まあまあかな?と、自己満足。こういう日常が楽しめることが、とてもうれしい。

2014年8月26日(火)

以下は、インターネット上で見かけた8月22日(金)11時0分配信「女性自身」の記事のコピー。

朝日元ソウル特派員が告発「慰安婦狩り嘘なのは常識だった」

朝日新聞は5日と6日付の朝刊で、「慰安婦問題を考える」という特集記事を2回に分けて掲載した。「誤報の検証」である。このなかで、韓国・済州島での“慰安婦狩り”を証言した著述業の故吉田清治氏の証言を虚偽だと判断し、すべての記事を取り消した。

朝日の検証記事で《当時、虚偽の証言を見抜けませんでした》と書いているが、そんなはずはないと話すのが、かつて吉田氏を取材したこともある元朝日新聞ソウル特派員のジャーナリスト・前川惠司氏だ。

「川崎支局にいた’80年ごろ、初めて吉田氏と会いました。印象としてはヌルッとした人だなと。彼は炭鉱などへ労働者を送り込む労務報国会にいて、朝鮮で畑仕事をしている人たちを無理やりトラックに乗せて連れ去る“徴用工狩り”をしていたと証言しました。でも、そのときは“慰安婦狩り”についてはまったく触れていなかったのです」(前川氏・以下同)

やがて吉田氏の「慰安婦狩り」の証言は頻繁に記事になっていく。前川氏は韓国で伝手をたどり、強制連行された女性たちを探し歩いたが、そういう噂を聞いた人すら一人もいなかった。

「ある人は『日本人が無理やり娘をさらったりしたら、暴動が起きる』と言いました。吉田氏が慰安婦狩りをしたという済州島は自転車でも2日とかからず一周できる小さな島です。日本軍が部隊を出して数百人も強制連行すれば、あっという間に島中に知れ渡る。慰安婦狩りなどありえない、それが当時の常識的な判断でした」

吉田氏は’92年8月に元慰安婦に謝罪する目的でソウルを訪れた。

「そのとき私は『この嘘つき』と思っていましたが、他社の特派員も同様だったようで、済州島での慰安婦狩りについて執拗に聞き続けるので、吉田氏はしどろもどろになって、途中で怒りはじめたように記憶してます。みんな吉田氏をはなから疑っていたんです」

朝日新聞は’92年1月11日付の記事で《主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる》と書いているが、これも「慰安婦」と「挺身隊」を混同した誤報だと認めた。当時は慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料にも両者の混同がみられたからと言い訳しているのだ。

「でも、同じころ、朝日は別の記事で《挺身隊といっても慰安婦とは限らない》(’92年3月7日付朝刊)というソウル発の記事を書いているんです。それなのに、当時は研究が進んでいなかったと書くのは無理な話です。要は、記者が裏づけ取材をしなかった証拠です。記者としての“基本動作”を怠ってきたわけで、記者の取材そのものを見直す必要があるでしょう」
(週刊FLASH 9月2日号)

2014年8月27日(水)

先日、エドソンが「見て、見て」と言って、巨大なカラを収穫してきた。普通サイズのカラの3倍くらいはある。日本ではたまに、巨大な野菜や、変な形の根菜が収穫されると、新聞の3面記事になったりするけれど、まさにそんな記事になりそうな感じの大きなカラだと思った。右が手の平大の普通サイズのカラで、左がその巨大カラ。

旅行に出る前は、我が家で収穫したオレンジを毎日のように絞って飲んでいたけれど、旅行から戻ってみると、留守中、ヒバマーがしっかり収穫して飲んでくれていたようで、オレンジの収穫の時期はすでに終わっていた。でも、レモンはまだ収穫できるようで、エドソンが箱一杯のレモンを収穫してきてくれた。次の写真は、箱から4~5個取ってレモンジュースを絞っても、まだ箱一杯のレモン。色が少々緑色をしているけれど、味は変わらない。

2014年8月28日(木)

旅行に出る前に、パーディーニョの町のモラエス家具店に冷蔵庫を買いに行った際、台所の食器棚で、私の希望に近いものがあったので、旅行から帰ってから、再度見に行き、良かったら買うことにしていた。それで、この月曜日にエドソンが町の銀行に行く用事があったので、ついでにモラエス家具店にも行って食器棚の大きさを確認することにした。私がいいと思っていたものはちょっとサイズが大きすぎて、うちの台所のスペースに合わないことがわかり、断念。サイズの合う別のものを選んで注文して帰った。なるべく翌日配達しようと思うけれど、保証はしかねると言っていたけれど、ちゃんと翌日の火曜日の午前中に配達してくれ、配達に来た3人の人たちが組み立て作業をしてくれた。この食器棚回りの準備がまだ整っていないため、とりあえず設置してもらっただけで、食器などを移して台所の整理整頓をするまでには至っていない。それでも、とにかく3年越しの念願の食器棚が来たので、私としては、とってもハッピー!次の写真は、食器棚を台所に運び込んで、組み立て作業を始めている人たち。

次の写真は、組み立て作業が終わり、完成した食器棚。これで収納場所がなくて床やカウンターに物があふれた状態をぼちぼち改善できる。ありがとうエドソン!

2014年8月29日(金)

以下は、ニッケイ新聞2014年8月21日付けの「コラム 樹海」からの転載。

人材をつぶす日本の教育界

『南麻州カンポ・グランデであった沖縄移民百周年記念行事で、数年前に本紙で働いていた元研修記者に出会った。今は日本の高校で歴史を教えている。ウチナーンチュの熱い集いを見ながら、「いやー、すごいですね!」と目じりにしわを寄せて笑う。わざわざ夏休みを利用して訪れ、この歴史的行事に馳せ参じた▼そんな〃親日系家〃との出会いに嬉しくなり、「授業でコロニアのことも教えているの」と尋ねると、「日系社会のことも扱うし、外国人を授業に呼んだりする」という。生徒は当然、教師の生の体験談に食らいつく。ブラジルに興味を持つ子も増えるだろう▼そう言うと、彼は「でも色々難しくてね」と言葉を濁した。一部の保護者が「外国のことなんて話されると、子供が留学したがるからやめてくれ」と苦情を寄せ、保守的な校長が彼の指導を制限するのだとか。「もう窮屈だ。仕事をやめてブラジルに来たい」。そう漏らす彼の後姿に、ユニークな人材をつぶす日本の教育事情を覗き見た気分だった▼子どもにより多くの可能性を見せて自分で選ばせるより、自分に都合の良い鋳型に彼らの未来を流しこみたい親が多いのだろうか。こうした〃教育〃がまかり通るから、日本中が叫ぶ「グローバル人材」が育たないのだ。彼のような人材をつぶすことに何のメリットがあるのだろう▼来伯する政治家らが「日伯の絆」を強調しながらも、デカセギ子弟がバイリンガル人材として日本社会で活かされることは少ない。県人会の大半も母県との交流が細々とした草の根レベルで止まるのは、国民側に「冒険したくない」という暗黙の抑制があるからなのかもしれない。(阿)』

2014年8月30日(土)

先週こちらに戻った頃は、寒くはないものの、朝晩は涼しい感じだった。それが週末辺りから暑くなり、戸外では真夏のような暑さで、夜も掛け布団を掛けていると暑いので、それをどけて夏用の肌掛けだけで寝るようになった。今の時期にこんなに暑くて湿度が40%を下回っている状況は異常だねとエドソンと話していたら、火曜日の夜少し雨が降った後、気温が下がり始め、水曜日の夜は薄い掛け布団がないと寒いくらいだった。そして、木曜日の朝は久しぶりにうっすら霧が出て、すっかり空気が変わってしまっていた。今朝の最低気温は9度。予想最高気温は26度。この時期らしい気温に戻ったようだ。ここは暑いと言っても、日本のように34度とか35度というような暑さにはならず、気温としては30度を少々越えるくらいで、湿度が低いので、家の中にいて汗をかくようなことはまずない。ただ、戸外は日差しが強く、紫外線もかなり強いため、太陽が照りつける暑い日は帽子を被って出ないとすぐ日焼けしてしまう。

はるはオシッコに行く際、リードをつけようとすると必ず玄関でのびをするので、昨日、その瞬間を撮ってみたのが次の1枚目の写真。2枚目は、私の膝から下りて、のびをしているはる。まず最初に前足を広げてのびをして、その後、後ろ足ののびをするのがいつものパターン。

2014年8月31日(日)

こちらに戻ってから少しずつつづり始めた旅行中の日々に関するブログをようやく書き上がったので、今日エドソンに手伝ってもらってアップすることができた。1ヶ月分のブログで長いので、別サイトにアップしてみた。このサイトは、こちらへ



  Home Copyright (C) 2009 Kyoko Yoshida   Next