Kyoko Yoshida                                        
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2009年7月1日(水)

次のサインは何のことかわかるだろうか?

これはポルトガル語がわからなくても、世界共通のサインなので、わかって当然だけれど、禁煙のこと。英語にすると、Thank you for not smoking.という意味になる。このサインがなくて、ただ、Proibido Fumarや、Nao Fumar、あるいはNao Fumeとだけ書いてある場合もある。

では、次のサインはどうだろう?

英語に直訳すると、This area is obliged to use glasses for safety.という意味になる。これは昨日訪ねたゲディスさんの会社の実験室のような部屋の扉にあったサイン。光ファイバーのセンサーの品質検査などをしたりする部屋らしいので、保護メガネの着用が義務付けられているのだろう。

また、こちらのバスはローカルバスにも長距離バスにも、車内には日本のような広告が一切なく、その代わりに、いろいろな注意書きが前の方に書いてあったりする。長距離高速バスでは、座席の背にこんな注意書きを見かけることもある。

Proibido fazer uso de bebida alcoolica. ベビダ アウコオーリカはアルコール飲料のこと。バスの中でアルコール飲料を飲んではいけないという注意書き。

Proibido viajar em pe. ヴィアジャーは旅をするということ。ぺは足。従って、バスには立ったまま乗っていてはいけないという意味。つまり、着席しなさいという注意書き。

Obrigatorio o uso do cinto de segranca. シントはシートベルトのこと。セグランサはsafety、つまり安全のこと。従って、安全のためシートベルトを着用することという注意書き。

2009年7月2日(木)

このファームでは、台所やシャワーなどの水は水道の水を使っているのだけれど、この水質がよくないため、飲み水や料理に使う水は井戸水を使っている。でも、その井戸水の水質が最近ちょっと悪くなってきているようなので、水質検査をしてもらった方がいいだろうということになり、今日、パラカンビ市の環境部(Meio Ambiente)に行って相談することにした。

ここでは、森林再生、地域の自生樹木の苗木の育成、飲料水の水質検査、環境教育などを行っており、その中の水質検査をしてくれる事務所(Laboratorio Municipal de Analise de Potabilidade da Agua)に行くと、何と、エドソンが高校時代、仲の良かった級友で、コキーニョ(Coquinho)というニックネームの人がプロジェクトマネージャーとして働いていた。思いもよらない久しぶりの再会に、ふたりともとてもうれしそうだ。

高校時代から今のように頭が禿げていたわけではないけれど、ココナツのような頭の形をしていたので、小さなココナツという意味のコキーニョというニックネームがついていたのだそうだ。彼もエドソンと同じように目が悪かったため、サッカーが下手で、彼がゴールキーパーをしているときに、エドソンは一度だけゴールを決めることができたのだけれど、後にも先にも、エドソンがサッカーでゴールを決めたのはその一度だけだったんだと、楽しそうに話していた。彼は高校を卒業後、大学に行き科学を学び、連邦政府の環境部に職を得て、このパラカンビ市の環境部に派遣されているということだった。パラカンビにはもう住んでおらず、先週、私たちが行った、ミゲルペレイラに住んでいて、パラカンビに通勤しているという。

そう言えば、先日リオに行って、元上司の人の会社を訪ねた際、お昼を食べ終わって、パスタのお店から出たところで、偶然、エドソンの幼稚園時代からの幼なじみという人に遭遇したのだけれど、この人ももうパラカンビには住んでおらず、リオ在住ということだった。この人もエドソンと同じく小学校入学の際、2年ほど飛び級をした人だった。子ども時代、サッカーが苦手とか、小さいなど、他の子どもたちとはちょっと違うことで、どちらかというと少数派に属していた子どもたちは、エドソンも含め、みな大学に行き、それぞれ立派に成長して、パラカンビから巣立って行き、別の場所で成功していることを、とても面白いと思うと同時に、人生というのはそういうものなのかもしれないなと、つくづく思った。

水質検査は、ミネラルウォーターのペットボトルに水を入れて持参すれば、いつでも実施してくれるということが確認できたので、来週持参して、検査してもらうことにした。

2009年7月3日(金)

ファームのフェンスの内側の草を、フェンスに沿ってぐるりと取り除いてもらう作業を頼んでいた人の仕事が、2週間以上経って、昨日ようやく完了した。この人が約束を守ってちゃんと仕事をしてくれたのは初日だけで、やはり、その後は仕事に来たり来なかったりのマイペースの作業で、4分の3くらいの仕事が済んだ時に、支払いを要求してきた。全部で90レアル(約4500円弱)を支払う約束ではあったけれど、作業が完了していない時点で、全額支払ってしまうと、そのまま作業に戻って来てはくれない可能性が高いので、約半分の40レアルだけを支払う。こちらもここの人たちの気質を学習して来ているので、完全には信用できないからだ。そして、数日前に、作業が完了していないのに、頼んでもいない仕事を始めていたため、エドソンがその人と話をし、頼んでいないことはしないでほしいということと、頼んだことをまず完了してほしいということを、はっきりと伝え、昨日、ようやく作業が完了した。

この人が何故頼んでもいない仕事を始めたのかというと、これもここの人たちの特異な気質というか、思考形態で、そうやって既成事実を作ってしまい、さらなる収入を確保しようという、意図があるのだ。正直に、手際の良い、誠実な仕事をして、依頼者の信頼を獲得して、次の仕事も確保するという王道を行かず、何故、依頼者の目を盗んで、既成事実を作り、依頼者側が断れないような状況を作って、仕事を確保しようなどとするのか?この考え方の違いは一体どこから来るのだろう?

エドソンは、このファームにあるかわいい花をみつけると、時々それを取って来て私にくれるので、小さなグラスに入れて飾ったりしているのだけれど、今日は、小さな小さな竹(ちょうど人差し指くらいの大きさ)で花びんを作り、それに入れた、これまた小さな小さな草花を持ってきてくれた。エドソン流生け花だそうだ。とても可愛らしいので写真に撮った。

2009年7月4日(土)

昨日も、一昨日も夜、ザーザーと雨が降り、朝になると一応あがるのだけれど、湿度の高い、どんより曇った状態が続いている。2日前の洗濯物がいまだに乾かない。こういう日が続くと、また、衣類にカビが生えてくるのではないかと心配になる。

転んで怪我をした左膝が痛むので、今日、お母さんが薬草を取ってきて、湿布をして包帯を巻いてくれた。最初はちょっとしみたけれど、痛み止めの薬草だそうなので、だんだん痛みが軽くなってきた。彼女はこういう薬草のことにとても詳しい。

木曜日にパラカンビに行った際、スーパーで買った野菜の値段を以下に列挙してみる。

アセウガ(Acelga、白菜)1つ、1.50レアル(約75円)、ヴァージェン(Vagem、インゲン)1パック、1.99レアル(約100円弱)、エーヴィーリャ(Ervilha、きぬさや)1パック、1.72レアル(約85円)、ペピーノ(Pepino、きゅうり)2本、0.51レアル(約25円)、コウヴィフロー(Couve-flor、カリフラワー)1つ、2.80レアル(約135円)。合計8.50レアル(約420円)。

2009年7月5日(日)

明日から2泊3日の予定で、リオデジャネイロから北に1時間ほど行ったところにある、ペトロポリス(Petropolis)という町に、取材と観光を兼ねて行くことにしたので、今日はその準備をして過ごす。

ペトロポリスに行くことは、以前からエドソンと計画していたことだけれど、ついでにこの町を紹介するリポートを中国新聞の海外リポートに書こうと調べ始めたら、日本の初代公使館があったことなど、いろいろ面白い事実があることがわかったため、それらの情報も含めたリポートを書くことにし、観光だけでなく、取材を兼ねて行くことにしたのだ。このリポートを書くにあたり、取材の鍵となる、ペトロポリス在住40年近い安見さん夫妻と連絡を取ろうと、1週間余り前から、サンパウロのニッケイ新聞に問い合わせをしたり、リオの日本総領事館に連絡したりした結果、両方からコンタクトを取ることができ、夫妻にお目にかかることが可能になった。

ボストンに住んでいた時、ボストンの日本総領事館に在留届を郵送したにもかかわらず、その郵便が届いていなかったり、いろいろな手続きで総領事館に出向く機会が何度かあったが、いつ行っても対応が冷たく、教えてもらった情報も不正確だったり、あまりいい印象はなかった。こういう政府の海外出先機関は在留邦人保護が目的のひとつ、という私の理解は、どうも違うようだと感じ、いざという時はおそらく私のような名もない一般人など助けてはくれないだろうなと思ったものだけれど、リオの総領事館の年配の日本人男性職員は、こちらの説明する意図を理解し、わざわざ安見さんに連絡をしてくれ、彼の許可を取ってくれたのだ。そして、サンパウロのニッケイ新聞に送った私の問い合わせのメールは、記事を書いた担当の女性記者にちゃんと転送され、彼女からも安見さんに連絡をしてくれ、今回は、皆さんのとても親切な対応におおいに助けられ、運転免許切り替えなどでの人間不信に陥るドタバタとは全然違う現実に直面し、驚くやら、うれしいやらの準備期間となった。

もちろん安見さんも、こころよく私の取材を受け入れてくださり、短い時間で効率よく取材して回れるようにと、こちらの希望をわざわざ確認し、前もっていろいろ資料を送ってくださったりと、至れり尽くせりの対応で、恐縮してしまうほどだった。

これとは別に、4週間ほど前に、中国新聞の海外リポートに送っていた私の3本目の記事が、ようやく、「子どもは伸び伸び 初等科教育」というタイトルで7月6日付けで、サイトに掲載されたのも、うれしことだった。中国新聞海外リポートのサイトは、 こちらへ

2009年7月6日(月)

今日から8日(水)までの、2泊3日で行ったペトロポリスに関するブログは、ボリュームが大きく、写真が多いため、次のサイトに独立したページを設けた。こちらへどうぞ

2009年7月9日(木)

今日もいいお天気で戸外は日差しが強い。溜まった洗濯物がよく乾くので助かる。

午後から、うちのファームの井戸水と水道の水を、それぞれペットボトルに入れて、先週行ったエドソンの友人のいる市の環境部に持参して、水質検査をしてもらうことにする。そこではちょうど小学生を集めて、デング熱に関する講習会が開かれていた。こういう環境教育もここの仕事の一部なのだ。昔は、黄熱病やマラリアが恐れられていたようだけれど、近年この辺りでの一番の問題はデング熱らしい。地球温暖化に伴う気候の変化によるのか、リオでもデング熱のケースが増えているということだった。

この後、パラカンビのスーパーで食料品などを買い、バスで帰る前に、バス停の近くの自動車学校に立ち寄り、22日の運転実技試験の支払いを済ませる。自動車学校のマネージャーは私たちを見ても挨拶もせず、知らん顔を決め込んでいる。何やらできるだけ早く私たちを厄介払いしたいと思っているような感じだ。最初からそのように対応してくれていれば、こんなに何ヶ月も時間を無駄にせずに済んだのにと、思う。

2009年7月10日(金)

ペトロポリスの報告の中で書き忘れていたことがあるので、ここに少し書き加えることにする。ペトロポリスには最初にドイツ移民が入って町を作ったと書いたけれど、その次に、入植したのはイタリア移民で、この人達は繊維産業を起こしたので、ペトロポリスには大きな繊維工場がたくさんあったようだ。ちなみにパラカンビにあった繊維工場は、ペトロポリスにも工場を持っていたので、エドソンの友人のフランシスコは、今もその元工場の整理の仕事で、頻繁にパラカンビとペトロポリスを行き来している。ここは繊維産業が盛んだった関係で、衣料品を安く製造販売する直売店が多くあり、「週末には近隣都市から仕入れの人達を乗せた団体バスが通りを埋める」のだとか。その他、家具の製造販売のお店など、家内工業的な産業が今もたくさんあるそうで、ホドビアーリアに行くバスの中からそれらの店をたくさん見かけた。

この他に、世界に3つしかないという、ジェット機のエンジンを解体修理する専門の会社(GE-CELMA)や、サングラス用レンズ(SOLAR BRASIL)、歯科治療用材メーカー(DENTSPRAY)、「生産工場の心臓と言われる煙管ボイラ」の工場(AALBORG)など、多様な産業があり、ペトロポリスがただの観光地ではないことがわかる。

2009年7月11日(土)

うちのファームにいる3頭の牛のうち、大きくなったオス牛が、最近よくファームの柵を壊して脱走して、近所の人を追い掛け回したりするようになったので、とうとうエライニも音を上げて、この牛を売り払うことに同意してくれた。ここ数週間、知り合いの肉屋さんなどに、買い取ってくれる人をいろいろあたっていたら、結局、エライニの親戚の人が牛を買ってくれることになった。今日は午後から、牛の解体作業をする人やエライニの親戚の人達が何人もやって来て、牛小屋の前で牛を解体し、肉を切り分ける作業が始まった。私は家にこもって海外リポートやブログ書きに没頭していたので、解体作業を見なくても済んだけれど、人間を始めとするこの世の生き物はみな、他の生き物の命をもらって生きているのだという現実を実感する出来事だった。私たちも、切り分けられた肉を一部、約4キロくらいもらい受けた。牛の販売価格は、500レアル(約2万5000円弱)だったそうだ。

2009年7月12日(日)

最近、私の友人が、ブラジル関連のリスクの低い投資信託を少しだけ購入したという。最近はBRICsと言われるブラジル、ロシア、インド、中国に投資するのがお薦めらしいけれど、「原油を含む様ざまな資源が豊富で政権が安定している」などの理由で、ブラジルにしたという。経済は魔物で、何がどう影響して、どう展開するかは専門家でも予測できない部分が大きいけれど、BRICsの4カ国の中で、近隣諸国との間に紛争を抱えていないのはブラジルだけだし、国内的に問題がないわけではないけれど、内政も他の国に比べれば安定しており、一番欧米に近い民主主義国で、中国などと違い、天然資源に恵まれているので、不安材料が少ないのは事実だと思う。今、一番の問題は、ドルに対してレアルがちょっと強くなりすぎていることだろうか?

それに、企業に投資する際、最近は社会的責任を意識した投資の仕方(例えば、環境汚染などを振りまく企業には投資しないなど)が注目されつつあるけれど、国への投資も同じようなことが言えるのではないかと思う。例えば、中国は以前、大きな船に囚人と織機を乗せて、ブラジルまでの航海の間に囚人に過酷なノルマを課して生地を織らせ、ブラジルで安く販売して儲けていた。ブラジル政府がそれに気づき、正式に抗議した結果、このような非人道的なことは一応やめたようだけれど、今も密輸で中国製品がブラジルに大量に流れ込んでいるし、中国人ブローカーが暗躍していて、ブラジルへの中国人の不法入国が後を絶たず、大きな問題になっている。そして、中国はアフリカの資源がほしいので、多くの中国人がアフリカの国々で働いているのは知っていたけれど、ペトロポリスで聞いた話だど、例えば、アフリカのアンゴラという国(以前、ポルトガルの植民地で公用語はポルトガル語、そして、現在ブラジル人がたくさん働いている)では、中国から多くの囚人が送られて来て働かされているのだそうだ。そういう国に投資するということは、倫理的な問題が伴わないだろうか? と、思う。

2009年7月13日(月)

昨日は1日ずっとぐずつくお天気だったけれど、今日はお天気が回復し、いいお天気で気持ちがいい。

ペトロポリスから戻って来て以来、毎日、ほとんど家にこもってリポート書きとブログの準備に没頭しているので、お天気なんか関係ないようなものだけれど、それは大間違い。お天気がいいと家中の窓や戸を開け放すことができるので、部屋の中がとても明るくなり、鳥の鳴き声がよく聞こえるし、午後は暖かい日差しがリビングに差し込んできて、とても気持ちがいい。しかも、気温が低いので、窓を開け放していても虫があまり入ってこないのだ。気温が低くてもしぶとく生き残っている蚊もいるけれど、以前に比べると、断然虫の数は少なくなっていて、虫刺されも珍しくなっている。お天気が悪くなり、雨が降りそうになると、虫が家の中に避難して入ってくるので、お天気が崩れそうになると、急いで窓や戸を閉めるようにしているのだけれど、虫たちがお天気の変化にとても敏感なのには感心してしまう。

2009年7月14日(火)

以前、このファームにいる犬と猫のおかしな家族ついて紹介したけれど、今日、その娘犬のキキがまるで猫のようなことをしてエドソンを驚かせた。猫はいつもお世話になっている人に対して、日ごろのお礼の意味をこめて、その人への愛情表現として、ねずみの死骸などを持ってきたりするということを、以前、何かで読んだことがあるけれど、キキが同じことをしたのだ。ファームのブッシュの陰でキキが何かごそごそしているのが見えたので、エドソンが近づくと、そこで捕まえたばかりのようなねずみの死骸を、うれしそうにエドソンのところに持ってきて、差し出したのだそうだ。あり得ないことだと思うけれど、事実だからしょうがない。以前、パパ猫がエライニに同じようにねずみの死骸をプレゼントしたことがあるけれど、それを見て学習したのだろうか?私のところには間違っても、そんなものを持ってこないでほしいと思っている。

Edson流生け花の第二段。竹の花びんが細くて不安定なので、一回り大きい竹を足元に履かせ、安定感を増し、新しいアレンジをしてくれた。

2009年7月15日(水)

今日は未明から降っていた雨が、1日中降ったり止んだりの状態が続き、暗くて寒い1日になった。パラカンビに買い物に行きたいと思っていたけれど、この雨でその予定は中止。窓や戸を締め切り、家にこもって、ブログを更新する作業を続け、ようやくペトロポリス編をアップすることができた。

そして、今日、ペトロポリスの安見さんから、キタンジーニャの桜が11日の土曜日に満開になったと、写真が送られてきた。緋寒桜のこの濃いピンクが、何だかブラジルには似合っているような気がする。

2009年7月16日(木)

お天気が回復したので、今日の午後は、パラカンビに買い物に行く。まず、薬局で風邪薬を買う。ペトロポリスから戻って、2〜3日したら二人揃って喉の具合がおかしくなり、どうも風邪をひいたようだ。手持ちの風邪薬を飲んでいたので、症状はひどくはならないのだけれど、静かに体の中で風邪が活動しているのがわかる。

その後、スーパーでお米や野菜などを買って家に戻る。

2009年7月17日(金)

リオに住む、エドソンの友人のジョアオン(Joao)から連絡があり、今週末泊りがけで遊びに来ないかという。パラカンビに戻って来て以来、何度も話していたのだけれど、なかなかお互いの予定がうまくかみ合わず、延び延びになっていたのだ。今回も土曜日はいいとして、日曜日は私たちは朝から予定があるし、先週の金曜日あたりからひいた風邪がまだぐずぐずと治らないので、冬休み中の彼の子どもたちに移してもいけないので、また、次の機会にということになる。

ジョアオンは、私たちがパラカンビに戻るたびに、必ず家族を連れてここに遊びに来てくれたり、リオに呼んでくれたりする、エドソンとはとても仲のいい友だちなのだけれど、今回はどうも、お互いの予定がうまくかみ合わない。

2009年7月18日(土)

午前中、エドソンの高校時代の友人で、アデミー(Ademir)という人が、エドソンが帰ってきていることをエリカから聞き、パラカンビとヴァソーラスの間にある、パウロ ジ フロンチン(Paulo de Frontin)からわざわざ会いに来てくれた。この人は今、パウロ ジ フロンチンで警察官をしているのだそうだ。2時間近く、楽しそうにリビングで積もる話をいろいろして、私たちがちょうど午後から買い物に行くつもりだったため、彼の帰り道になるパラカンビまで車で乗せて行ってもらうことになる。

パラカンビに着くと、彼もスーパーで買い物をするから一緒に行こうということになり、帰りもついでだから送ってあげるというので、送ってもらう。行きも帰りも車で行ったので、あっという間に用事を済ませて戻ることができ、助かった。お礼にと、お昼はパスタを作るから一緒に食べて行ってくれと、エドソンがしつこく誘ったけれど、奥さんが待っているからと、お昼を食べずに帰って行ってしまった。

2009年7月19日(日)

水曜日の運転実技試験の日は、朝早く出発する予定だけれど、試験の前にコースの下見などをする時間がないかもしれないので、今日、試験場所に行って、コースの下見と練習のために自動車学校が連れて行ってくれることになり、8時半に高速道路のバス停で拾ってもらい、リオに行く。

インストラクターだけが来るのかと思ったら、マネージャーも一緒だ。この試験場所はふたりともまったく初めてらしい。試験場所は、リオの国際空港のある島の隣にあるもうひとつの小さな島で、昔、エドソンが働いていたCEPELや、ペトロブラスといった大きな会社がいくつかとぽつぽつとあり大学がひとつあるだけのゆったりとした場所。ここの普通の道路を使って試験が行われるという。その場所に着くと、他にも複数の自動車学校の車が来ていて、同じように練習をしている。マネージャーは、どこをどのように走るのかを描いた手描きのコース地図を、他の自動車学校の人に確認し、間違いのないようにと、とても慎重だ。まず、パラレルパーキングの練習を何度もして、その後、コースを何度も回ってみる。コース自体は何も問題のない、簡単なコースなのだけれど、どこで、どのレーンを走り、どこでどのくらいのスピードにしてと、いろいろ細かい。これをすると2点減点。これをしないと2点減点。と、細かい指示が出る。

何度かコース上の運転をエドソンと交代で繰り返したので、試験当日もたぶん大丈夫だと思う。当日は平日なので、道路上に駐車している車など、今日よりも車が多いかもしれないけれど、練習できてよかった。約1時間半程練習をして、パラカンビに戻る。デトランとの間に何があったのか知らないけれど、マネージャーは何だかとても慎重に、間違いのないようにとすごく気を使っている感じがする。自動車学校はデトランからのライセンスがないと運営できないので、もう私たちとトラブルを起こしたくないのかもしれない。何はともあれ、実技試験に向けて自動車学校も本気で支援してくれているのだから、ありがたいことだ。

2009年7月20日(月)

一昨日の夕方から降り続いた雨は、昨日の朝にはあがったものの、またいつ雨が降り出すかわからないような空模様が、一日中続き、今日も太陽は顔を出しておらず、相変わらずのどんよりした曇り空で、時々霧雨のような雨が降っている。

今日と明日は、実技試験直前の運転練習を予約してあるので、午前中からパラカンビに行く。練習時間内に、何度もパラレルパーキングの練習を繰り返す。これが一番減点されやすい課題なので、頭での理解を超えて、体で憶えようというのだ。

練習が終わってから、お昼を食べて、イザベウの家に行く。タリスとニコリに話を聞いて書いた、中国新聞の海外リポートの記事が掲載されたことを報告し、インターネット上で記事を見せるためだ。ニコリは友達の家に遊びに行っていて留守だったけれど、イザベウとタリスは家にいたので、ふたりに海外リポートのサイトを見せる。彼らのコンピュータでは日本語が表記できないので、日本語の部分はすべて変な記号になってしまっていて、意味をなさないけれど、写真とローマ字表記をしてある部分は確認できた。その後、お隣のお父さんの家に行き、お父さんのお見舞いをする。今日はお父さんの気分がいいようで、エドソンは少し話ができた。

2009年7月21日(火)

今日、自動車学校での最後の運転練習を終え、明日の試験の出発時間を確認してから、カベレイレイラ(Cabeleireira、美容院)に行き、木曜日にカットとカラーをしてもらうための予約をしようと思ったら、今日は空いているようで、「今すぐできるわよ」と言われたため、お昼を食べ終わったらすぐ戻って来て、やってもらうことにする。

例によって、エドソンに最初どうしてほしいかを通訳してもらってから、彼はお父さんの家に行き、あとは私ひとりが残って、やってもらう。1時過ぎから始めて、しばらくすると、11〜12歳くらいの女の子と彼女の母親らしい人が来て、ふたりでマニキュアをしてもらい始めたので、びっくり。母親がやってもらうのはいいとして、どうしてこんな子どもに?と、思ってしまった。母親はマニキュアとペディキュアだけだったけれど、女の子はマニキュアにペディキュアにシャンプーにブロードライと、ずいぶんお金をかけている。私にはどれも彼女には必要のないことばかりに思えてしょうがなかった。

2009年7月22日(水)

午前3時半起床。真っ暗な中、4時半過ぎに家を出て、高速道路上のバス停で、自動車学校の車を待つ。無数のトラックがすごいスピードで高速道路上を飛ばして行く。約束の5時を少し過ぎてマネージャーが運転する車が迎えに来てくれる。同行者は私たちのインストラクターだと思っていたら、マネージャー氏自らが来てくれた。こんなに早朝だというのに途中で、所々に渋滞があり、6時20分に試験場所に到着。7時からの試験開始に、もうすでに多くの自動車学校の車が来ている。まだ日の出前なので、あたりは薄暗い。

7時開始のはずなのに、時間になっても何も始まらない。7時を過ぎてようやくデトランの小さなテントが建つ。7時半頃ようやくデトランのスタッフが試験の手続きの説明を始める。そして、今日の受験者の名前が全員呼ばれ、試験が始まる。

とは言っても、無数の自動車学校の車が行列を作っていて、なかなか順番が回ってこない。9時過ぎに、ようやく私たちの自動車学校の番になり、まず、エドソンが先に行く。最初にパラレルパーキングをして、次にコースを1周して、おしまい。合格!3点減点されたそうだけれど、上等だ。この時点でもうすでに9時20分。私たちの自動車学校の車は行列の一番最後尾に戻り順番を待つ。それから待つこと2時間近く、11時過ぎて、ようやく私の番になる。マネージャー氏いわく、ノヴァイグアスの試験場だったら、もう5人くらい済んでる時間だそうで、ここのやり方はとても非効率的だ。それに、マネージャーの問い合わせに対して、外国人向けには通訳がいると言っていたのに、そんな人はおらず、試験官の許可を得て、エドソンが同乗して、通訳をすることが許される。同じようにまず、パラレルパーキング、次にコースを1周。レーンを変える際、左右のサイドミラーとバックミラーの3つを2回ずつ見なかったといって、3点減点。う〜ん、実に細かい。エドソンの3点減点もまったく同じケースだったようだ。でも、何はともあれ、私も合格!やれやれ、ようやくここまで来れた。コースを下見して、大丈夫とは思っていたけれど、これ以上時間を無駄にしなくてもよくなり、本当によかった。免許証は5日後に発行されるので、来週の水曜日にリオのデトランまで取りに行かなければならない。

試験場で順番を待っている間、何度も恐竜時代の生き残りのような鳥が空を飛んでいるのを見かけたので、暇に任せて写真を撮る。何という名前の鳥かは知らないけれど、パラカンビの辺では見かけず、リオの海に近い場所に来るとよく見かける。海鳥の一種なのだろう。

日曜日の下見練習の時といい、今日の試験への同行といい、マネージャー氏は人が変わったように親切だった。順番を待っている間もいろいろ確認したり、私たちにアドバイスしてくれたりして、我慢強く順番を待ち、ふたりが合格すると、とても喜んでくれ、帰りにはお祝いだと言って、パラカンビの少し手前にある高速道路上のレストランでお昼をご馳走してくれ、ファームまで送ってくれた。一体どういう風の吹き回しだろうと思う一方、私たちのケースは彼にとっても初めてのことで、どうしたらいいのかわからなかったから、あんな馬鹿な嘘をついて、時間稼ぎをしていたのかな?など、いろいろ思いながら、素直に感謝することにした。

ペトロポリスのリポートが、原稿送付から1週間という超特急で、「「皇帝の町」に息づく日本を探訪」というタイトルで、7月23日付けで中国新聞の海外リポートのサイトに掲載された。これまで原稿送付から掲載まで、いつも3〜4週間はかかっていたのに、今回は何故か、異例の速さでの掲載となった。さらに、もう1本のリポートも連載のような形で、「第二の人生、第二の故郷で生き生き」と題して、25日付けで掲載される予定だそうだ。ただ、送付から4週間ほど経つ本来の4本目のリポートはさらに先延ばしになってしまった。まあ、いつ掲載になるかは、編集サイドの予定や考えがあることなので、仕方のないことだと思う。私はただ素直に掲載を喜ぶことにする。中国新聞海外リポートのサイトは、 こちらへ

2009年7月23日(木)

運転実技試験から一夜明け、今日は何だかふたりともぼーっとしている。昨日の朝、早起きをして試験に出かけて行って、ただひたすら順番を待つ半日だったので、疲れたのだと思う。

サンパウロに移動する前に、もう一度、タンスの中のカビ臭い衣類を陰干ししたいのだけれど、今日は、晴れたり曇ったりのお天気で、湿度も高く、陰干しには適さない。もう少し湿度の低い、快晴の日を待つことにする。

今日は、うちのファームの母牛の出産予定日だというので、午後から時々牛小屋を覗いているのだけれど、全然生まれる気配がない。一方、エライニはひどい風邪をひいていて、昨日は珍しく寝込んでいた。今日は口では良くなったと言っているけれど、見るからにまだとても調子が悪そうだ。

2009年7月24日(金)

昨日の天気予報の通り、今日は朝から雨。1日ドアや窓を締め切り、家の中でこもって過ごす。エライニは薬も飲まず、病院が嫌いなのか、調子が悪くても病院に行こうとしない。エドソンが彼女に病院に行くように何度も何度も言い続けたので、ようやく重い腰を上げたけれど、やはり病院には行かず、近所にある地域保健センターに行き、薬をもらってきただけのようだ。こんなお天気なので、彼女も家に引きこもっている。早くよくなってくれるといいのだけれど。

今晩のニュースで、ブラジル最南部の州、ヒオ グランジ ド スウ(Rio Grande do Sul)の今日の最低気温は摂氏マイナス6度だったと報道していた。でも、日本と違い、寒くても雪は降らないようだ。その上、グリッピ スイナ(Gripe Suina、豚インフルエンザ)が拡がっているようで、毎日のようにニュースになっている。サンパウロ州やリオデジャネイロ州でも豚インフルエンザが拡がっていて、学校の冬休みを延長することが検討されているという。アルゼンチンのブエノスアイレス州では、新型インフルエンザの拡がりで、6月末に非常保健事態宣言が発令されたと、中国新聞の海外リポートで読んでいたけれど、じわじわと北上して、ブラジルにも拡がっているのはちょっと不気味だ。

2009年7月25日(土)

これでもかというくらい夜中も、ザーザーと雨が降り続いたけれど、今日は、何とか降らない状態を保っている。ただ、どんよりした空模様で、今にも雨が降り出しそうな状態だ。こんなによく雨が降って、お天気が悪くて、本当に今、乾期なのだろうか?まるで、日本の梅雨のようだ。

中国新聞に送ったペトロポリスリポートの第2弾が、「第二の人生、第二の故郷で生き生き」と題して、25日付けで掲載された。中国新聞海外リポートのサイトに行って、スクロールバーを動かして探すか、カレンダー上の日付をクリックして探すか、あるいは、記事のトップにあるCategories の中の、ブラジルをクリックして、これまでのリポートがすべて列挙されているページから記事を探して読むことも可能。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ

2009年7月26日(日)

今日は午前中、少し晴れたり曇ったり、時々太陽が顔を出すので、一昨日から乾かない洗濯物を外に出し、窓を開けて部屋の掃き掃除と拭き掃除をする。外は湿気があり、蒸し暑いくらいだ。でも、お昼を過ぎると、昨日と同じ、どんより状態に戻ってしまった。予報では明日からまた2日間くらい雨だという。

私の周りで話されるブラジル・ポルトガル語を聞いていると、複数形の語尾のSや普通の単語の語尾のSなどを、スではなく、シュと発音している。これはカリオカの発音の特徴のようで、パウリスタはスと発音するらしい。でも、ポルトガルのポルトガル語は、スではなくシュと発音するらしいので、おそらく、リオが昔、ポルトガル王国の植民地の首都だったり、ブラジル帝国になっても皇帝や貴族がいた関係で、ポルトガルのポルトガル語の影響が強く残っているのだろうと思う。

エドソンが電話で話しているのを聞いていると、最後にいつもアブラーソ(abraco、抱擁)と言うのだけれど、テレビのノベラを見ていると、女の人はアブラーソではなくベイジョ(beijo、キス)と言っている。以前、少し触れたことがあるけれど、ブラジルでは知り合いや友だちに会ったとき、そして、別れるときの挨拶に、男性同士は握手や抱擁をして、男女間または女性同士は頬にキスを(リオは2回、サンパウロは1回)することになっている。それと同じで、電話では直接、抱擁したり、キスしたりできないので、その代わりに電話を切る前に、アブラーソとかベイジョと言葉で言うのだそうだ。女性は普通ベイジョと言うのだけれど、アブラーソと言ってもかまわないらしい。でも、男性どうしではアブラーソだけで、決してベイジョとは言わない。他の男性に対してベイジョと言うと、ゲイだと勘違いされるからだそうだ。

2009年7月27日(月)

うちのファームの母牛が出産予定日を3日過ぎてもまだ出産しないので、エライニが「お腹の子牛はもう死んでいるのではないかと思う。どうしたらいいかわからない」と、夕方、エドソンに言ってきた。仕方なく、そもそもこの牛をお母さんが購入した大きなファームを管理しているミゲウ(Miguel)という人に、夜になって連絡をすると、夜遅かったにもかかわらず、使用人の人をひとり連れて、すぐうちのファームまで来て見てくれることになった。真っ暗な中、エドソンも一緒に、懐中電灯を頼りに牛小屋から、ファームの奥の方に出ている母牛を探しに行き、ようやく見つけると、やはり、子牛はお腹の中で死んでいたそうだ。とりあえずその場で、引き出す作業をして、その他の処置は翌日してくれることになった。エライニはミゲウたちが来る前に、私たちに何も言わず、いつの間にかどこかに出かけて行ってしまっていて、この間の騒動を見ていない。出かけるときは一声掛けて出かけるようにと、いつもくどいほど言っているのに、何故、それができないのだろう?

この牛は、そもそもお母さんとエライニがどうしても欲しいというので、世話は自分たちで責任を持つこと、そして、牛乳やチーズを販売して現金化し、えさ代などを賄うようにという条件で、数年前に飼うことを許可した経緯があるのだけれど、自分たちの手に負えなくなると、暴れん坊のオス牛の時といい、結局、エドソンの責任になってしまうのは、困ったものだ。どうして最後まで自分たちで責任を持とうとしないのか理解に苦しむ。

今朝、ミゲウは、約束通り10時半にはファームに来て、母牛に抗生物質の注射などをしてくれた。抗生物質の注射代の約50レアル(日本円で約2500円弱)は受け取ってくれたけれど、昨夜の作業代はいらないという。ここに、こんな人もいるのか・・・さすがに、大きなファームをちゃんと管理している人だけあって、頼りになる。

今日は幸いなことに、天気予報とは違い、お天気が少し回復し、ありがたいことに朝から少し日差しがある。お昼前くらいからその日差しが強くなったので、タンスの中の洋服を全部出して、陰干しをすることができた。

2009年7月28日(火)

前の晩、行方をくらましていたエライニは、お母さんのところに泊ったと言って、昨日の朝戻って来たけれど、体調が全然改善していないようなので、昨日、エドソンが彼女にちゃんと病院に行くように再度きつく指示した。その結果ようやく病院に行き、レントゲン検査を受け、肺炎という診断を受けた。けれど、病院のベッドが満室だったので、注射を打たれて、薬を処方されて、家に戻されてしまった。それで、病院の後はこのファームに戻らず、このファームのすぐ近くの彼女のお母さんの家に帰って休んでいると、昨夜、彼女の家族から連絡があったので、エドソンとお母さんがエライニのお母さんの家に出かけて行った。回復するまでファームのことはいいから、お母さんのところでゆっくり養生しなさいと言いに行ったのだ。この数日食欲がないと言って、ひとりではまったく何も作って食べようとはしなかったようだし、果物のジュースすら飲もうとしないのだから、治るわけがない。自分で食事を作りたくない、作れないのなら、誰か食事を作ってくれる人の側にいた方がいいからだ。

なのになのに、体調が悪いまま、今日お昼前にファームに戻って来てしまった。何故、雇用者の言うことが聞けないのだろう?戻って来ても仕事はできないのだし、食事をまともにしなければ、回復するものも回復しない。困ったものだ。しばらくパラカンビに行っていたお母さんが昨日の夜、ファームに戻ってきたので、実のお母さんよりも、彼女に世話をしてもらいたいということなのだろうか?でも、もし、お母さんがエライニの世話をすることで、彼女の風邪をもらって、パラカンビに帰ってお父さんに移しでもしたらと、私たちはとても心配しているのだ。どうしてわかってくれないのだろう?と思う。

2009年7月29日(水)

今日、リオのデトランに行って、無事、運転免許証をもらってくることができた。ここまで来るのに4ヵ月半かかってしまったけれど、とにかくこれで、ようやくスタートラインに立つことができうれしい。免許証を受け取る場所は、いつもの3階のオフィスではなく、1階のオフィスで、そこはものすごい人で混雑していたので、ずいぶん待たされるのだろうか?と、ちょっと心配したけれど、免許証受け渡しのデスクは混雑していなかったようで、私たちの番はすぐに来た。窓口の係りの若い女性が、初めて日本人に免許証を渡すと言って喜び、私の漢字のサインを見て感心している様子がとてもおかしかった。

デトランで時間がかからなかったお陰で、エドソンの長年の友人のパウロ(Paulo)との昼食の約束に、十分ゆとりを持って行くことができた。政府機関で働くパウロは、今年移動があり、フラメンゴ地区にある日本総領事館が入っている同じビルにあるオフィスに移ったので、その近所で一緒にお昼を食べることにした。パウロはエドソンの友人というだけでなく、以前、私たちがボストンで勤めていたNGOの国際理事を務めていたので、私も長年よく知っていて、約3年ぶりの楽しい再会になった。

お昼を食べながら積もる話をたっぷりして、2時過ぎに一緒にビルに戻り、私たちは午後2時再開の日本総領事館に行く。そして、ペトロポリスの安見さんと連絡を取ってくださった領事館の方に、お礼を言って、中国新聞の海外リポートのサイトアドレスをお知らせする。ついでに、3月に領事館でもらった運転免許切り替えに必要な書類に関する情報は、ブラジル人の場合のものだけだったことを伝え、日本人が切り替える際に必要な書類の正しいリストを参考のために渡す。今日は効率よく、リオでの時間を過ごすことができてよかった。

2009年7月30日(木)

3週間ほど前、市の環境部に井戸水と水道水の水質検査を頼んだ際、検査結果が出たら連絡してくれると言っていたのに、まったく連絡がない。仕方がないので、火曜日にパラカンビに行ったついでに環境部に寄ってみる。水道水の水質検査の結果はちゃんと出ていたけれど、井戸水の検査結果が見当たらず、担当の人も外出していなかったので、戻ったら電話してくれると言う。でも、電話がなかった場合を考えて、担当者の名前を確認して、オフィスの電話番号をもらう。やはり思った通り電話がないので、4時20分にエドソンが電話をすると、何とオフィスの人たちは、電話番のアルバイトの人を除いて、みなすでに仕事を終えて帰宅したということだった。勤務時間は4時半までなのに、気楽なものだ。

それで、昨日、リオから環境部に再度電話をすると、検査結果を紛失したという。どうしてこういう必要のない嘘をつくのだろう?コンピュータの中にあるうちの井戸水の検査結果だけを、一体どうやったら紛失するというのだろう?井戸水と水道水の2種類の検査を頼んだのに、最初から、不注意か何かの手違いで、井戸水の方の検査をせず、水道水の検査しかしなかったに違いないのに。ここの人たちのこういういい加減な対応と嘘には、私たちもだいぶ免疫ができてきているので、もうあまり驚かないけれど、「やれやれ、またか?」とは思う。

仕方なく、今日、お昼前にパラカンビに行くついでに、再度、井戸水を環境部に持参して検査を依頼する。パラカンビでは明日パーディーニョに発つ前にやらなければならないことをいろいろ片付けて、お父さんの所にもお見舞いに行く。今日から晴れて車を運転できるので、移動がとても楽で助かる。

午後からは、明日出発するパーディーニョへの引越しのために、午前中やりかけた荷造りを続ける。

2009年7月31日(金)

朝7時起床。朝ごはんを食べ、荷造りを完了させ、荷物を車のトランクと後部座席いっぱいに積み込み、予定通り9時にパラカンビのファームを出発する。昨日、今日と、小雨が降ったり止んだりというあいにくのお天気だったけれど、少なくともザーザー降りではなかったので、幸いだった。

パラカンビからパーディーニョまでの600キロ弱を、約7時間かけて移動し、午後4時少し過ぎに無事、パーディーニョに到着。途中、12時過ぎにお昼の休憩を30分ほど取っただけで、スムーズに運転を続けることができた。サンパウロまでの道中は、ところどころ小雨が降っていたけれど、サンパウロを過ぎて、パーディーニョに近づくに従い薄日が差してきて、明るい中、ウィリアムのファームに着くことができた。ウィリアムのファームでは、まず7匹の犬たちが、そして、次にマウリシオとドナ クレウザとマテウスが暖かく迎えてくれる。

マウリシオとドナ クレウザに手伝ってもらって、車の荷物をすべて降ろして、家の中に運び入れる。その後、スーツケースの中の衣類をすべて出して、私たち用の寝室のタンスの中に片付ける。でも何だかどの衣類も生暖かく湿気ていて、お天気の悪かったパラカンビから生暖かい湿気を運んできてしまったようだ。ここはパラカンビよりも気温が低く(大雑把に言って、最低気温は10度から15度、最高気温は20度から25度、ただし、多少の高低はある)、湿度も低くて、気持ちがいい。来週、お天気のいい日にまた、衣類の陰干しをしなくてはと思う。でも、何とかとりあえず、仮住まいの生活ができる状態になり、ほっとする。

ようやくブラジルでの生活の基盤作りがこれから始まるのだと思うと、とてもうれしい。普通は、仕事を見つけてから、その仕事に合わせて住むところを探すというのが順序かもしれないけれど、私たちの場合、リオデジャネイロ州内ではなく、サンパウロ州内に住むことは日本を出る前から決めていて、どこか環境と治安のいい中小規模の町に住むつもりでいたので、何度か来ているうちにいろいろな意味で、パーディーニョがとても気に入り、この町に住むことにしたのだ。しばらくは、このウィリアムのファームに居候させてもらい、仕事はこの周辺で探そうと考えている。



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