Kyoko Yoshida | Petropolis | BLOG |
2009年7月6日(月) | ||||
午前6時起床。7時に家を出て、パラカンビに向かう。月曜日はバソーラス(Vassouras)で休暇を過ごした人たちがたくさんリオに戻るので、朝8時過ぎの高速バスは混雑して乗れない可能性があるため、時間はかかるけれど、8時発のローカルバスでリオまで行こうと思っていたら、そのバスはジャぺリ(Japeri)を経由して行くバスだったので、時間がかかり過ぎるため、それに乗ることはやめ、いつもの高速バスに座席があることを願いつつ、高速バスを待つ。ほぼ時間通りに来たバスには、幸いわずかに空席があり、乗ることができた。リオのホドビアーリアに9時40分頃到着し、10時発のペトロポリス行きのバスに乗ることができた。 ペトロポリスまでの料金は15レアル(約700円)。パラカンビ=リオ間とほとんど変わらない。所要時間も少し短い1時間ちょうどだった。あいにくのお天気で山を上って行く途中は、霧で何も見えなかったけれど、ペトロポリスに着いたら、途中の山道のような霧は出ておらず、普通の曇り空だった。 町外れにあるホドビアーリアで迎えてくださった安見さん夫妻の車で、まず、ペトロポリス市内にある初代公使館に向かう。この建物は市条例で外観保持が義務付けられていて、増改築も禁止されているのだそうで、修理や維持にかなりの費用がかかるためか、ずっと買い手がつかず、建物の老朽化が激しいため、現在は改修工事が行われていた。建物のベランダのところに「ALUGA」、つまり「貸家」というサインが出ていたので、売るのはあきらめたのだろう。
この初代公使館の所在は、リオの日本総領事館にも記録がなく、長年詳細はわからなかったらしいのだけれど、安見さん夫妻が地元の歴史学者やペトロポリス市立図書館の歴史資料室室長などの助けを借りて、昨年の移民100周年を前に探し当てたのだ。この経緯などについては、現在、中国新聞の海外リポートの記事にまとめる作業をしているので、それが掲載された際、読んでみていただきたい。 以前、安見さんがこの初代公使館を発見した際、建物を見に来た時は、売りに出されていたせいか、不動産屋を通してでないと、建物を見せてもらえなかったそうだが、今回は修理作業をしている人たちに見せてもらえるかと聞くと、気安くどうぞということになり、建物の中をあちこち見て回ることができた。建物の外に出たところで不動産屋の人と出くわし、安見さん夫妻が何やらその人と話していた。ここを日本移民資料館のような形で残せればいいのだけれど、建物を買い取ったり、その後の維持、運営をどうするかという問題もあり、安見さん個人ではどうすることもできず、リオの総領事館(日本政府)もあまり関心がないようで、実現していないことを、安見さんは残念そうに話していた。
次に向かったのは、市の中心からちょっと西にある、トゥロノ ジ ファチマ(Trono de Fatima)という展望台。ここからはペトロポリスのかなりの部分が見渡せる。第三代目の杉村公使が、この丘の途中からサオン ペドロ ジ アルカンターラ大寺院(Catedral de Sao Pedro de Alcantara)と、その右側近くにあるルーテル教会の塔を含めた写真を撮っていて、その教会の隣に公使館があることを日本に送った絵はがきで説明している。杉村公使がその写真を撮ったであろう場所には現在、家が建っていて、他の場所も以前よりも木々が成長して生い茂っているため、同じような場所から大寺院を見ることができない。それで、さらに上の展望台(当時はなかった)まで上がって行って市内を見回す。
ペトロポリスには以前、ボエミア(Bohemia)という有名なビール工場があり、ビールが生産されていたという。さすが、ドイツ移民が作った町だ。現在、ボエミアはアンタークチカ(Antarctica)という清涼飲料水などを生産販売する会社に買収されて、ボエミアというビールの名前だけは残っているけれど、もうこの工場では生産されていないということだった。ビルの谷間にあるその工場の跡地が、この展望台から見える。
ファチマの展望台で、安見さん夫妻がいろいろなことを説明してくれた。
ここからは、オーストリア出身の有名なユダヤ人作家、ステファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)のお墓のある墓地も見えた。この作家は、1939年に30歳も年下の若い秘書の女性と再婚し、1941年にナチスの手を逃れて、ブラジルに来たらしいのだけれど、「未来の国ブラジル」という著書で、ブラジルの未来を高らかに賞賛していたこともあり、ブラジル政府の手厚い保護を受け、このペトロポリスで生活していたという。しかし、1942年2月に奥さんと飼い犬を道連れに、薬を飲んで自殺したのだそうだ。公式には、死の1週間前に日本軍がシンガポールを占領し、ヨーロッパとアジアで起こっていることと、現在自分がいる平和なブラジルの現実とのギャップに耐えられなくなり、(あるいは、ヨーロッパとその文化の未来に)絶望して、自殺したことになっているらしいのだけれど、安見さんは、30歳も年下の女性と結婚して、ようやくブラジルまで逃げてきたというのに、日本軍がシンガポールを占領したぐらいのことで、自殺したりするだろうか?と、本当は自殺ではなく、ナチスが送った刺客か何かに、殺されたのではないだろうか?と、疑問を投げかけていた。ツヴァイクのお墓には、今もときどき参拝者があるらしく、それは主にドイツ人と、何故か日本人なのだそうだ。そして、彼はユダヤ人なのだけれど、自殺をしたということで、ユダヤ人の墓地に埋葬されることは許されず、このカトリック系の墓地に埋葬されたのだそうだ。
次は、ここから、町の西側にあるオテウ キタンジーニャ(Hotel Quitandinha)に向かう。この建物はリオから車でペトロポリスにやって来ると、一番最初に目にする町の入り口にある建物だ。ただ、私たちはバスで来たので、町に入る手前でバスは左折して、このホテルの北にあるホドビアーリアに到着したため、道順的に、ぐるっと回って来たことになる。この建物は今でもホテルと呼ばれているけれど、現在では1階は行政機関か何かが入っていて、それ以上の階はマンションのようになっているらしく、宿泊施設としては機能していないということだった。この建物は1944年に完成し、中南米最大のカジノがあったそうだが、1946年にブラジルではギャンブルが禁止になり、カジノの営業は2年間しか続かなかったそうだ。
この建物の前には、ブラジルの国の形をした大きな池があり、この池の周りには、リオの日系4団体が1995年に、日伯修好通商航海条約締結100周年を記念して植えた桜の木がたくさんあり、ぼちぼち花を咲かせていた。ここでは気候的にソメイヨシノは根付かないため、沖縄の桜、緋寒桜が植えられたのだそうだ。緋寒桜はソメイヨシノよりも濃いピンク色をした梅のような花で、気温が下がると咲き始める品種らしく、沖縄では、1月下旬から2月に咲き、ここペトロポリスでは7月頃咲くのだそうだ。今週末くらいに満開になるらしく、私たちの訪問はちょっと早すぎたようだ。
この後、すぐ近くのLNCC(Laboratorio Nacional de Computacao Cientifica)という、ブラジル科学技術省の研究機関の建物の中にある、職員用の食堂でお昼をいただくことにする。この研究所には以前、エドソンの友人のパウロ(Paulo)が勤めていたことがあり、アメリカでの生活を引き払って、ブラジルに行くか、日本に行くかで迷っていた2000年頃、一時は真剣にペトロポリス移住を考えさせた研究機関だ。
このセルフサービスの食堂は何故か外部の人にもオープンで、しかも安い料金でおいしいものが食べられる。食事を終えた後、安見さん夫妻とエドソンの写真を撮る。
昼食後、ペトロポリスの中心街に戻り、第二代の公使館の建物に向かう。その途中、ペトロポリスのメインストリートを東端まで行ったところで、以前、鉄道の駅だったというペトロポリス中央駅、現在はバスターミナルになっているところを通り過ぎた。
日本で新橋=横浜間に最初の鉄道が開通した数年後の、1883年にブラジルで初めての鉄道がリオ=ペトロポリス間に開通している。この鉄道は、急斜面の山を昇り降りする鉄道なので、アプト式という方式の鉄道だったという。この中央駅は1960年代まで使われていたようだ。 第二代の公使館の建物は、サオン ペドロ ジ アルカンターラ大寺院(Catedral de Sao Pedro de Alcantara)の裏手にある、イピランガ大通り326番地に今もあり、お隣のルーテル教会が絶好の目印となっている。
この家は、杉村公使が住んでいた当時は、2階建てだったそうだけれど、その後3階建てに増築され、現在もその状態で残っている。当時12歳だった公使の長女が、還暦を迎えた際、自叙伝を出版しているらしく、そこには当時の公使館の間取りが書かれていて、安見さんによると、「内装はほとんど手が加えられていない」のだそうだ。現在は売りに出されているということだった。
このイピランガ大通りには、その昔、コーヒービジネスで財をなした人たちの御殿のようなお屋敷が立ち並んでいる。これらの豪邸の中には、現在、幼稚園や学校として使われている建物もあった。次の写真は、そんな豪邸のひとつ。
次に向かったのは、1918年に公使館がリオデジャネイロに移り、大使館になった後、大使館の別荘として使われていた、ベンジャミン・コンスタンチン通り280番地にある建物。この家には現在も、その当時の持ち主(男爵)の子孫の人が暮らしていて、以前も訪ねて行ったことのある安見さん夫妻を憶えていて、気さくに家の中に招き入れてくれた。
家の中は、まるで博物館のようだった。実際、博物館のように銀食器などが飾られ、毎日の生活では使っていないという部屋もあった。この大きな豪邸にこの人はひとりで、使用人の人たちと暮らしているらしい。それもなんだか寂しいなあ。
裏庭にはプールもあった。人事ながら、維持費が大変だろうなと思う。
リビングの中央のテーブルには、以前、安見さんが寄贈した日本移民100周年記念の出版物が飾ってあった。
それから、リビングの壁の棚に、何故か、「白雪」という名前の陶器の酒樽が飾ってあった。
でも、「千秋」という文字が裏返っていたり、書かれている文字がはっきりと判読できない部分もあり、どうも日本から来たものではなく、中国かどこかで作られたコピーなのではないかと疑われる。
この後、今晩泊るホテルを探しに行くことにする。安見さん夫妻に連れて行っていただいた、市の中心部にあるホテルの1軒は満室で、もう1軒は部屋はあったけれど、市の中心ということで便利はとてもいいものの、夜になっても相当の騒音があることを覚悟しなければならない場所だったので、わがままを言って、もう1軒、中心からほんのちょっと離れた丘の上の、小さなポウザーダ(Pousada、ベッド&ブレックファーストのような小さなホテル)に連れて行っていただく。ドイツの山小屋風の可愛い建物で、部屋を見せてもらうと、清潔で居心地が良さそうだったので、1泊190レアル(約9000円)と値段はちょっと高めだったけれど、ここに泊ることにする。
2泊分の料金370レアル(連泊するので10レアル割引になった)を前払いして、部屋に荷物を運ぶ。次は、市の東のはずれのカスカチーニャ(Cascatinha)地区にある、安見さん夫妻の自宅に連れて行っていただく。カスカチーニャ地区のほぼ中心にあった古い工場が手狭になったため、中心から少し離れた広い場所に工場を移したのだそうだが、その移転先の工場の近くに夫妻の自宅はある。この自宅から、現在はベルギーの会社所有になっている元工場が見えた。安見さんが定年退職する2000年に、この工場はベルギーの会社に売却されたのだそうだ。 丘の斜面に建てられた家は、かなり広く、プールや、野菜などを作っている菜園などもあり、これぐらいの家を持っていれば、ブラジルではごく普通のことだけれど、安見さんのところも、カゼイロ(Caseiro)と呼ばれる住み込みの夫婦のお手伝いさんを雇っていた。そして、安見さんの家にも緋寒桜が咲いていた。ここでは主に、彼らが現在関わっている活動についていろいろお話を伺った。安見さん夫妻が関わっている活動についても、中国新聞の海外リポート用に記事としてまとめる作業をしているので、ここでは詳細は省略する。
ペトロポリスは観光地で、週の半ばから週末にかけて混雑するためか、週明けの月曜日はレストランはだいたいお休みのところが多く、市中心部に戻って私たちだけでレストランを探すのは大変だからと、夕飯は、安見さんの自宅近くのシュハスカリーアでご馳走になる。観光バスなどで団体さんを受け入れたりもするらしく、とても大きな店だったけれど、月曜日ということもあって、お客は私たちの他にはもう一組だけで、閑散としていた。 夕食の後、ポウザーダまで送っていただき、明日、午後5時頃、夫妻が運営している成人補習校に連れて行っていただく約束をする。安見さん夫妻が、限られた時間で、どこをどのように回って行くのが一番効率がいいかを考えて、車で連れ回ってくださったので、公使館関係の見たいと思っていたところを、今日1日だけですべて回ることができた。感謝。感謝。 | ||||
2009年7月7日(火) | ||||
このポウザーダは、第二代日本公使館だった建物の裏手の丘の上にあるので、公使館の隣にあるルーテル教会の鐘が30分おきくらいに1日中鳴っているのが聞こえ、位置的にとても近いことを実感する。 朝、ゆっくりと起きて、8時過ぎに階下の小さな食堂に行き朝食をとる。このポウザーダの客室は7室だけのようで、食堂のテーブルも7つだけだった。中央の大きなテーブルに果物、パン、ケーキ、チーズ、ハム、飲み物などが置かれ、自由に取って食べるようになっていた。
この他に、目玉焼き、オムレツ、スクランブルエッグなど5~6種類の玉子料理の中から一つを選ぶことができ、注文を聞いてから作った出来立てのものをテーブルに持ってきてくれた。
今日は、昨日とは打って変わり、お天気がよく、とても気持ちのいい青空が広がっている。ゆっくりと朝食を食べた後、受付でもらった地図を片手に、トコトコと歩いて町を散策することにする。このポウザーダは町の中心から少し離れているとは言っても、非常に便利のいい場所にあり、丘を降りていったすぐのところに、旧皇族が住むピンク色の邸宅があり、皇帝博物館の裏手に出るようになっていた。
1889年ブラジルが帝政から共和制に移行した後、皇族や貴族という称号や地位はなくなったものの、現在でも皇族の末裔の人たちは旧皇族として、このペトロポリスや、リオや、パラカンビの近くのヴァソーラスに住んでいる。国の体制が変わり、王制が廃止されたりすると、王家の人たちは追放されたり、殺されたりするのが常だけれど、ブラジルでは、中にはしばらくブラジルに戻れなかった人たちもいたのかもしれないけれど、ドンぺドロ二世の娘のプリンセザイザベウなど多くは、そのままずっとペトロポリスに暮らすことを許されたらしい。もっと近代になってからも、政権がクーデターで軍事政権に変わったときも、血を見るようなことはなかったようだし、ブラジルの国民性は、比較的、平和的で穏やかなのだと言っていいのかもしれない。 この5月31日に大西洋上で墜落したリオ発パリ行きのエールフランス航空機に、この旧皇族のひとりで、プリンセザイザベウの孫にあたり、世が世なら、第5番目の皇位継承権を持っていた若いプリンシピ(Principe、皇太子)が乗っていたそうで、事故のニュースがテレビで報道される際、大きく取り上げられていた。このプリンシピはヴァソーラス系の皇族で、ルクセンブルクだったか、ヨーロッパ在住で、両親に会いにブラジルに来ていて、その帰途事故に遭遇したらしい。葬儀はヴァソーラスで行われ、ペトロポリスでも大きなミサが行われたという。 そして、このペトロポリスは面白いところで、いたるところにアジサイが咲いている。アジサイは日本原産の花だけれど、それが中国に渡り、ヨーロッパに渡り、そして、ブラジルに渡り、ペトロポリスまで来て根付き、花を咲かせ、今ではペトロポリスを象徴する花となり、この町は自らをアジサイの町(Cidade das Hortensias)と呼んでいるのだ。アジサイの町と書かれたバスが走っていたので、写真に撮る。
皇帝博物館の裏手から、ぐるっと回って表側に行くと、東京浅草の浅草寺前や、京都の観光スポットなどで人力車が観光客を待っているように、ここでは観光馬車が何台も観光客を待って、止まっていた。「市内の主要な観光スポットを1時間かけて回って、料金は50レアル(約2500円弱)です。どうですか?」と、誘われたけれど、のんびり歩いて行くからと、断った。でも、決して押し付けがましくはなく、感じは良かった。
皇帝博物館など、入館料を取る観光スポットは、普通午前11時頃から開くらしく、私たちは10時頃行ったのでまだ開館しておらず、自由に出入りできる博物館の周りの広い庭園を散策するだけにした。
この庭園にはいろいろな植物が植えられていて、つつじや、お正月の飾りに使う千両のような赤い実の植物もたくさんあった。
以前、うちのファームの木から落ちて、つぶれた状態のジャカ(Jaca、ジャックフルーツ)の写真を掲載したけれど、この庭園には木になっている状態のジャカがいくつもあったので、その写真を撮った。
そして、ここにも日伯修好通商航海条約締結100周年を記念して植えられた、緋寒桜が何本もあり、咲き始めていた。花を咲かせた桜とヤシの木が仲良く植わっている様は、とてもおもしろい光景だ。
皇帝博物館から北に向かって少し歩くと、サオン ペドロ ジ アルカンターラ大寺院(Catedral de Sao Pedro de Alcantara)がある。この大寺院は18世紀の代表的なゴシック建築で、内部のステンドグラスが美しく、ドンペドロ二世夫妻や、娘のイザベウ皇女の霊廟があることでも有名だ。
この大寺院からもう少し行くと、ヒオ ブランコ男爵の家(Casa do Barao do Rio Branco)とマウア男爵の家(Casa do Barao do Maua)という豪邸がある。下の写真はマウア男爵の家。
ここから進む方向を南西に変えて、少し行くと、植物園の温室のようなガラス張りのクリスタル宮殿(Palacio de Cristal)がある。入館料はひとり5レアル(約250円弱)。この建物は1879年に建てられ、その4年後、イザベウ皇女が盛大なパーティーをここで開いた際、何人かの奴隷に自由を与えたことが序章となり、数ヵ月後、1885年に彼女が奴隷解放の法律に署名し、奴隷が開放されたという。
ここからサントス・ドゥモンの家に向かう途中、昨日、ファチマの展望台から見たボエミアのビール工場跡地の前を通った。ここには、今もボエミアの看板がそのまま残されている。
次の写真は、そのボエミアの工場跡地の前から、昨日安見さんと行ったファチマの展望台を見上げたもの。
ボエミアの工場跡地を見て、左に曲がり、しばらく行くと、Praca 14 Bisという名前の広場に着いた。サントス・ドゥモンが作った14 Bisという名前の飛行機の実物大の模型が飾ってある広場だ。
ここを右に曲がって行くと、サントス・ドゥモンの家や、ファチマの展望台に行けるという道路標識が出ている。
この標識に従って、少し行くと、右側の丘の斜面にへばりつくように、ペンシルハウスのような小さな小さなサントス・ドゥモンの家がある。小学生の社会見学だろうか?市の観光課の人が、子どもたちを引率したり、説明したりしていた。ここも入館料は、ひとり5レアル(約250円弱)だった。
1873年生まれ、1932年没のサントス・ドゥモンは、ここに1918年から1932年までの14年間住んでいたという。何故か、彼もここで自殺して亡くなっているのだそうだ。飛行機を発明したのは公式には、アメリカのライト兄弟ということになっているけれど、本当は飛行機というものをそもそも発明したのはサントス・ドゥモンなのだ。ライト兄弟が飛行機を数メートル飛ばして公式記録に残す前に、サントス・ドゥモンは何度も飛行機を飛ばしているのだけれど、ほんの数メートルでは飛んだことにならないと考えたのだろうか?公式記録に残していなかったので、ライト兄弟にお株を取られた形になったのだ。彼は身長が152センチと低かったせいか、家の中はとても狭く、小さかった。
この家は2.5階建てで、一番上の階に、小さなシャワールームがあり、その前の部屋が寝室だったらしい。でも、台所というものがない。食事はこの家の前のホテルから運ばせていたのだそうだ。現在、入館料を取る窓口になっている一番下の階は、雇っていた女中さんの部屋だったのだろうか?真ん中の階がリビングルームで、主な展示物がここで見られる。
この家のシャワールームのシステムは、サントス・ドゥモンが自分で考えたシステムだそうで、バケツからお湯が出るようになっていたらしい。
この家の斜め向かいに、Universidade Catolica de Petropolis(ペトロポリスカトリック大学)という大学がある。エドソンは1990年に、この大学でアマチュア無線(Packet Radio)に関する講演をしたことがあり、懐かしそうだった。
歩き回っているうちにお昼を過ぎたので、ここからあまり遠くないところにあるメインストリートに向かい、食事のできるレストランを探すことにする。
どこにしようかと思い、ぐるぐると歩き回り、結局、リオで行ったのと同じ、SPOLETOというスパゲティのお店がメインストリートにあったので、そこでお昼を食べることにする。昼食後は、あちこちお店を見て回り、ペトロポリスの可愛い絵地図を買ったり、本屋に入ったりと、少し買い物をする。メインストリートやその1本後ろの通りにある店は、みなあまり大きくはないけれど、とてもきれいで、洗練された感じがする。見て回るだけで楽しい。その上、リオとは違い、危険な感じが全然なく、安心して、のんびりとウィンドーショッピングができる。ペトロポリスにも、もちろん貧しい人たちはいるけれど、ここにはファベイラ(貧民街)がないのだそうだ。通りでおばあさんが地べたに座って、何か手作りの手芸品のような物を売っていたけれど、決して物乞いではなく、商売をして生計を立てているのだ。 その後、皇帝博物館の外をぐるっと回り、イピランガ大通りを通って、朝とは逆の道を通って、ポウザーダに戻る。ポウザーダまでのこの坂を上るのは大変かも?と、道子さんが心配していたけれど、ぼちぼちと歩いて上ったので、それほどでもなかった。一日歩き回って、いい運動になった。でも、さすがに疲れたので、5時まで休憩することにする。
5時少し前に、ロビーに下りて安見さんを待っていると、ほぼ約束通りの時間に、安見さんが車で迎えに来てくださり、彼らが住んでいるペトロポリス東部のカスカチーニャ地区に向かう。カスカチーニャに向かう道路は、17世紀にミナスジェライス州で金鉱が発見されてから、その金をリオに運ぶために作られたという昔からの道路で、カミーニョ ド オウロ(Caminho do Ouro、黄金の道)と呼ばれていた道らしい。山間をくねくねと行く道で、今ではちょっと狭く、カーブで大きなバスなどと離合するのはなかなか大変という感じだった。 この地区のほぼ中心に、安見さんが以前勤めていた工場の古い建物があり、現在、この建物は、初等科(小中)の学校とスポーツセンターになっていて、彼らが運営する成人のための補習校もこの中にあり、週3日、午後4時から8時半まで開校している。この元工場が手狭になったので、安見さんが社長をしている時に、別の場所に新しく工場を建て移転し、この建物は市に正式に寄贈したのだそうだ。でも、ブラジルは地方行政でも、アメリカの大統領府のように、市長や州知事が代わると、スタッフもごっそり変わるのだそうで、そのため行政の継続性がなくなるのが欠点らしく、この建物も、安見さんの会社が正式に寄贈したということを知る人は市行政内にはおらず、書類もどこにあるのかわからない状態で、成人の補習校をするために場所を借りようと、市と掛け合う際、安見さんが持っていた昔の書類を示して、ようやく貸してもらえたのだそうだ。ブラジルでは経営悪化などで、固定資産税が払えなくなって、このような工場が行政に差し押さえられるというようなことがよくあるらしく、市側はこの工場もそれと同じように市が差し押さえたものだと思っていたらしく、正式に寄贈されたものだと理解している人はいなかったのだそうだ。 安見さん夫妻がボランティアで運営しているこの成人補習校に関しても、中国新聞海外リポートで少し説明しているので、ここでは省略する。 この補習校では、プログラムに関していろいろお話を伺い、先生や、生徒さんにも話を聞いたりした。ここに来れば、週に3回、わからないところを先生に直接質問できるとは言っても、通信教育のようなもので、働きながら自分で勉強して行くのはかなり大変だろうなと思う。そして安見さん夫妻は、派遣されてくる先生が足りなかったりすると、数学を教えたり、理系出身の道子さんなど、化学を教えたりすることもあるらしく、話を聞きながら、すごいなあと、ただただ感心するばかりだった。しかも、この補習校の生徒管理をするコンピュータシステムは、道子さんが独学で作ったものだということを聞くに至り、大変なことを難なくやってしまう、この夫妻の能力の高さに圧倒されてしまった。並の日本人ではこうは行かないと思う。 補習校を閉める8時半まで、お邪魔して、安見さん夫妻の「晩ご飯を一緒にしましょう」というお誘いをありがたく受け、私たちが泊っているポウザーダのすぐ近くの日本食のお店で、またまたご馳走になる。こんなに何から何までお世話になるつもりではなかったのだけれど、「ペトロポリスに来られたからには、ほっておくわけには行かない」とでもいうような彼らの対応には、本当に恐縮してしまった。このおおらかな懐の深さはどこからくるのだろう? 4人でいろいろ話していて、どうしてここに住みつくことにしたのか?という質問に、「う~ん、どうしてかなあ~?」「どうしてだろう?」といいながらも、彼らがブラジルと、ブラジル人をとても深く理解していて、ブラジルやブラジル人のいいところも悪いところも嫌というほどわかった上で、それでいてやはり愛して止まないという感じが、言葉の端々から伝わってきて、同時に、ここでの生活をとても楽しんでいる様子に、何となく、理解できるような気がした。 | ||||
2009年7月8日(水) | ||||
このポウザーダの名前は、ポウザーダ モンチ インペリアウ(Pousada Monte Imperial、つまり、皇帝の丘のポウザーダという意味)。看板には標高911メートルと書かれていた。ペトロポリスには他にもいろいろいい宿泊施設があるとは思うけれど、ここは本当に小さくこじんまりとした居心地のいいホテルだった。受付の若い人たちも、朝食の世話をする女性たちも、みな感じが良く、ペトロポリスに行く機会があれば、ぜひお勧めしたいポウザーダだ。
朝ゆっくり起きて、朝食を食べ、受付でチェックアウトをし、町外れのホドビアーリアまで行くバスの乗り場などを尋ねていると、このポウザーダのオーナーが、気さくに話しかけてきて、おもしろい話をいろいろしてくれた。
彼は元医師で、退職後、このポウザーダを開き、奥さんと二人暮しのようだった。お母さんがドイツ人で、お父さんがポルトガル人なのだけれど、ポルトガル語とフランス語と英語しか話せず(それだけ話せれば十分だと思うけれど)、ドイツ語は話せないと言っていた。お母さんは最初(おそらく子どもの頃)、サンパウロに移住したらしく、回りがほとんど日本人で、日常生活は日本語だったので、ポルトガル語は憶えずに、日本語を話していたのだとか。ある時サンパウロの日系人の町、リベルダージに行って、レストランに入ると、店の人がポルトガル語で話しかけてきたのだけれど、わからないので日本語で話したら、その流暢な日本語に、キリスト教の宣教師か何かで、日本で暮らしていたことがあるのか?と、店の人が驚いたらしいと、おもしろおかしく話してくれた。 私たちがペトロポリスに来た理由を話すと、とても興味深そうに聞いてくれ、カシャンブー(Caxambu)地区で、野菜や花を栽培している知り合いの日系の人たちのことを話してくれたり、どこに住むか検討中なら、ぜひペトロポリスに来て住みなさい。リオなんかと違って、ここは人もいいし、気候もいいし、とても住みやすいよと、しきりに勧めてくれた。結局1時間くらいロビーで話しこんでしまい、ポウザーダを出たのは10時過ぎになってしまった。 ポウザーダの近くのバス停から、ホドビアーリアに行くバスに乗れると聞き、そこまで歩いて行きバスを待つ。位置的に、先日見かけたバスターミナルから近いからか、次から次に、いろいろな行き先のバスが来る。ほどなくホドビアーリア行きのバスが来たので、それに乗り、ホドビアーリアに向かう。料金はひとり2.20レアル(約100円)。 ホドビアーリアに着いて、リオ行きの11時40分のバスのチケットを買い、出発まで少し時間を潰す。このホドビアーリアのちょっと目立つところに、パステラリーア(Pastelaria)があり、その名前が何と、「パステラリーア香港」といって、従業員がみな中国人女性のようだったので、びっくり。
ブラジルでは、大きなショッピングモールのフードコートに行くと、中華料理の店があることもあるけれど、他の国に比べて、数が少ないように思う。ペトロポリスにも以前、何度か中華料理店ができたことがあるそうだけれど、続かないのだとか。つまりお客が入らないらしい。世界中どこに行っても、日本料理店はなくても、中華料理店はあり、中国人の人たちは海外に移住すると、すぐに中華料理店を開いて生活を始めるようだけれど、ブラジルだけは例外のようで、何故か、ここでは中華料理店は、はやらないらしい。でも、何故パステラリーアなのか?パステラリーアはそもそも、サンパウロのリベルダージ辺りで日系の人たちが始めたらしいのだけれど、それを中国人がマネをして、例えば、パラカンビのような田舎町にも、以前はなかった中国人の経営するパステラリーア/ランショネッチが2軒もできているように、あちこちに拡がっていっているらしい。 ペトロポリスからのバスでの復路は、往路とは違う道で、お天気が良かったので、谷間の家々や山の景色も良く見え、谷の向こうの山の往路も見える。やはりちょうど1時間でリオのホドビアーリアに到着することができた。でも、ここからパラカンビに帰るバスは12時の次は、3時半までないので、3時間近く待つのは時間がもったいない。中央駅の近くのセントラウのバスターミナルから1時過ぎに出る、ローカルバスに乗って帰ることにする。中央駅の横までタクシーで行くと、すごい人でごった返している。タクシーから降りると、エドソンが緊張した面持ちで、「僕の側から離れず、気をつけて」と言う。ここはリオでも治安のとても悪い、危ない場所なのだとか。暑くて、汚くて、ごちゃごちゃしていて、人が多くて、何がどこにあるのだかよくわからない。バスターミナルで係りの人何人かに聞いて、ようやく、パラカンビ行きのバス乗り場はターミナルの中ではなく、駅前の通りだということがわかり、そこに行く。寒いくらいのペトロポリスから、とても暑いリオのセントラウに戻って来て、まるで、ヨーロッパからアフリカに来たような錯覚を覚えた。 パラカンビ行きのバスは停留所に止まっていて、すでに何人か乗客が乗っているのだけれど、運転手は近くの屋台の女性と何やら親しげに話していて、私たちがバスの前で暑い中待っていることがわかっていても、私たちを乗せてくれる気配はまったくない。そして、出発時間近くになって運転手が戻ってくるまでの間に、入れ代わり立ち代り、盗んだと思われるバスカードを使わないかと擦り寄ってくる人たちがいて、ペトロポリスとはまったく別世界の、混沌のリオに戻って来たのだと、夢からさめたような気分になった。 ローカルバスは高速バスと違い、パラカンビまで普通2時間くらいかかるはずなのだけれど、昼間の時間帯で、道路も混雑しておらず、乗り降りする人が少なかったせいか、そして、すごいスピードで飛ばしたせいか、1時間余りでパラカンビに着いてしまい、2時半過ぎには家に帰り着くことができた。 |
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