Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2019年8月1日(木) | ||||
入り口ゲートの両脇に植えた桜は、木は大きくなっているのだけれど、これまであまりたくさん花を咲かせることはなかった。特に、左側の木は桜の季節が終わる頃になってようやく「一応、私も桜ですから」とでも言うようにほんの少しだけ花をつけていた。でも、今年は例年になく葉が落ちて裸になったので、花が咲くのかな?と、思っていたら、庭の桜よりも早くたくさん花を付け始めたので驚いた。次の写真は、月曜日の昼食後のお散歩の際に撮ったその入り口ゲートの両脇の桜。2枚目の写真は、右側の桜の花を少しアップで撮ったもの。1枚目の写真ではあまり花が咲いていないように見えるけれど、近くで見るとこんな感じで、結構咲いている。
| ||||
2019年8月2日(金) | ||||
次の写真は、入り口ゲート付近から丘を見上げて撮った丘の上の桜の木々。画面の真ん中から右にかけて防風林の前に並んでいるのは、まだ若い桜の木々。丘の下、つまり、画面の右側から少しずつ苗木を植えて行ったので、画面中央の木々よりも右側の木々の方が大きく育ってきている。そして、今年初めてこれらの桜もちらほらと花を付け始めている。2枚目の写真は、1枚目の写真の左側の3本の桜を少しアップで撮ったもの。桜の枝の間から黄色や緑の葉が見えるけれど、これらの葉は桜の後ろにあるカエデの葉。
8/2(金) 7:01配信の現代ビジネスのニュースに、『韓国・文在寅政権のデタラメに、日本が「休戦」を選ぶべきでない理由』という長谷川幸洋氏の記事があった。長谷川氏の語り口はいつもソフトなのだけれど、理路整然とした物言いをするので、私はとても好きな論客。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2019年8月3日(土) | ||||
次の写真は、食堂の西側の窓から見える桜。今の時期、食卓で桜を愛でながら食事ができるのは幸せなことだとつくづく思う。まるで毎日の食事がお花見気分。画面左側に見えるユーカリの木の前にも桜の木が何本もあって、ほんの少し花を咲かせているけれど、ここの木はまだひょろひょろとして木が小さいので、花の数は少ない。2枚目と3枚目の写真は、エドソンが庭の桜の花をアップで撮ったもの。
2019年8月2日付けのニッケイ新聞に、「『移民と日本人―ブラジル移民110年の歴史から―』を読み解く―「ブラジル」日本移民研究への新たな視点―田所 清克/久保平 亮」という記事があったので、以下にリンクをはってみる。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2019年8月4日(日) | ||||
次の写真は、サンパウロの毛利さんが送ってきてくださった毛利さんのお寺(毛利さんはお寺の奥さん)にある5本の桜のうちの1本の写真。これも沖縄桜だそうなのだけれど、うちのと違ってピンクの色が濃い。2枚目は花を近くから撮ったもの。花の中心が赤っぽいのがわかる。うちのは沖縄桜もヒマラヤ桜もほとんど区別がつかず、ピンク色はこんなに濃くはない。入り口ゲート横の桜は家の周りのものよりもピンク色が少し濃い。木によってどうも性格が異なるということだろうか?3枚目の写真は、桜の幹に縛り付けた胡蝶蘭の花。日本で胡蝶蘭の鉢植えを買えば結構な値段がすると思うけれど、ブラジルの気候は蘭の栽培に適しているようで、戸外でこんな風に放っておいてもきれいに咲くのだからすごいと思う。うちの食堂の窓辺に置いた蘭の鉢植えも、毎年花を咲かせてくれる。
| ||||
2019年8月5日(月) | ||||
中国新聞に連載された記事のゲラコピーを、ペトロポリスの安見さんご夫妻にも読んでいただこうと思い、お送りしたところ、現在、例年開催しているBUNKA-SAIの準備が大詰めで、お忙しくしておられるというご返信をいただいた。今年のBUNKA-SAIは8月8日から11日だそうで、すいぶん早くから始めたペトロポリス市との調整も、途中で日程変更や会場変更があったり、イベント参加グループが40グループとなり、早々プログラムができたものの、その後に変更やら追加の参加希望などがあり、大変なご様子。ご主人は「ゴタゴタがあっても気にせず突っ走ることにしている」のだけれど、気の弱い奥様は、上手く調整を取りたいためか「体が持たないと騒ぐ」し、開催直前のゴタゴタは今年も変わりませんとあった。そして、例年やっているBUNKA-SAIの出し物の盆踊りも大変で、今年の始めから「東京五輪音頭2020」の練習を始めたのだけれど、動きがとても早く、憶えるのが大変で、10回練習会をして19人が何とか一応踊れるようになったので、7月27日に、ペトロポリスから3時間ほどのところにあるバレンサという町の日本祭りに参加して踊りを披露されたという。以下は、そのバレンサでの盆踊り参加の様子を撮った写真。踊りのレパートリーは、「東京五輪音頭2020」だけでなく、炭鉱節の振り付けで、曲を漫画好きな子供向けのトトロの主題歌にした踊りと、「浪花節だよ人生は」、「河内おとこ節」を踊られたのだそう。私は踊りは憶えてはいないけれど、炭鉱節くらいしか聞き覚えがない。それにしても、本当に毎年、毎年、大変な思いをしながらよくされるなあと、毎年、毎年感心してしまう。
| ||||
2019年8月6日(火) | ||||
次の写真は、家の北西側にある坂の下から坂の上を撮った写真。右側手前にランドマークの木があり、正面に桜が見える。ここの桜は沖縄桜で、今年はこれまでになくしっかりと多くの花が咲き、とてもきれい。この坂を登って行くと、2枚目の写真の景色が広がり、左側の庭のヒマラヤ桜が見えてくる。左に4本、右向こう側に6本の桜が満開で、今年は例年になく見応えがある。3枚目の写真は、家まで戻って、振り返って庭の4本の桜を撮ったもの。
| ||||
2019年8月7日(水) | ||||
次の写真は、家の東側の庭の桜。この桜の木もほぼ満開。2枚目の写真は、家の南側の三角地帯に下りて行くところにある桜。正面の大きな桜が我が家で一番古い桜で、例年いつも一番に開花していたのだけれど、今年は庭の桜よりも少し遅く開花し、満開になった。右側に見えるひょろひょろした桜の木は、ランドマークの木の西側の道沿いの桜並木の延長線上にあって、木が若いので、まだあまり大きくなっておらず、花の数も少ない。
| ||||
2019年8月8日(木) | ||||
次の写真は、先週の土曜日に手伝いに来てくれたゼーたち3人が、家の南側のセドリーニョの木の先端を切って、高さを切り揃える作業をしてくれているところを撮ったもの。ひとりがセドリーニョの向こう側から梯子を立てかけて、木の先端を切る作業をしていて、ゼーがこちら側で、木にくくりつけたロープを引っ張って、幹の先端が木を切っているお兄さんの上に落ちないように、こちら側に落ちるように引っ張っているところ。3枚目の写真は、その先端がこちら側に落ちたことろ。この週末は、金曜日の夜から気温が下がり始め、土曜日の朝の最低気温は5度で、午前中はずっと霧が出ていたため、こんな霧に霞んだボーッとした写真になった。この冷え込みは月曜日まで続き、火曜日になりようやく最低気温が11度になり、その後も最低気温が13~14度で推移し10度を下回ることなく、最高気温が25度を上回っているので、ほっとしている。薪ストーブは金曜日の夕方から火曜日の午前中まで毎日活躍してくれた。
| ||||
2019年8月9日(金) | ||||
7月20日から中国新聞文化欄の「緑地帯」で8回の連載が始まった私の「移民史との出会い」という記事が、8月1日で連載を完了した後、広島から読みましたと言うメールが少し届いた。私が広島県医師会で仕事をしていた当時、広報担当理事をしておられた渡辺晋先生からは、「今朝の『中国新聞』緑地帯にて「移民史との出会い」⑧を読み、感動的だったので①から読み直しました。そして貴女の、ブラジルにおける日本文化の温存を願う気持ちの強さに打たれました。これは同時に、外地に根を張った日本文化のあとを追うことの大切さを改めて認識するもとになったと感じ、愚見・お願い・ご相談を書き送る次第です」と言って、結構長いメールをいただいた。広島の兄からは、「恭子がとても意義のある大切なことに取り組んでいることがよくわかりうれしく思います」とメールをもらった。兄からほめてもらうことなんてめったにないことなので、とてもうれしかった。そして、ブラジルでは数人の親しい人たちに、中国新聞から送られてきた新聞が印刷される前のゲラをお送りして読んでいただいたのだけれど、サンパウロの大西さんから「中国新聞への連載コラム拝読しました。移民の足跡を何としても残しておきたいとの吉田さんの思いが、切ないほど伝わってきました」とメールをいただきとてもうれしく思った。そして、ペトロポリスの安見さんからも広島市立図書館などと提携して、デジタル図書館にして情報を共有できるようなことを考えては?という長いメールをいただき、皆さんいろいろ反応してくださって、ありがたかった。図書館と提携するアイデアは学校に研究科を作るよりもいいかな?両方できるともっといいかな?と思った。ただ、デジタル図書館はすばらしいアイデアなのだけれど、著作権の問題があるのと、本をスキャンするスキャナーはうちにあるような普通のものではなく、高画質のものが必要だし、大量のイメージデータを扱うコンピュータは普通のPCではなく、大きなサーバーが必要だし、何十ページ、何百ページもある本を1ページずつスキャンする作業も大きな労働力を要するし、資金的に個人ではなかなか困難なプロジェクトなので、難しいだろうなと思う。いろいろご意見をいただいたものの、進むべき方向性が見い出せず、暗中模索で、まだ一歩も前に進むことができないでいる。 | ||||
2019年8月10日(土) | ||||
これまで、私個人のメールアドレスと香山文庫のメールアドレスの両方をコンピュータ上ですぐに見られるようにしていたのに、気づかないうちに香山文庫のメールアドレスのタブが消えていて、香山文庫のメールアドレスにはめったにメールがこないため、タブが消えていることにすら気づかず、チェックすることをすっかり忘れていた。この火曜日そのことに気づいて、チェックしてみると、6月24日にFernando Yoshimuraさんという方からポルトガル語でメールが届いていた。この方は、カフェランジアにある平野植民地の子孫の方のようで、香山文庫にある「読本 ブラジル移民の父 平野運平」という本を貸してほしいと言ってこられたのかとメールを読んで理解した。でも、エドソンに見てもらったところ、購入したいという内容だったので、香山文庫にある蔵書は非売品なので、販売はできないけれど、この本を書かれた「平野運平を顕彰する会」の松尾良一氏に連絡してみられては?と、その浜松市の住所を返信メールでお知らせした。まず返信メールを私が英語で書いて、それをエドソンにポルトガル語に訳してもらってお送りしたのだけれど、最初のメールをいただいて2ヶ月近く返信していなかったのに、その返信を送ると、2時間後にはすぐまたメールが届き、「日本に連絡してみます。助かりました」というポルトガル語のメールをいただき恐縮してしまった。カフェランジアというのは、昔サンパウロ州を通っていた鉄道のノロエステ線上のここから北西にあるバウルよりさらに北西の、リンスの手前にある町で、平野運平が率いた移民グループが入植したのだけれど、マラリアが酷く、入植者の多くが亡くなったことで有名な植民地。今年、秋篠宮真子さまが来伯された際、この植民地にも訪問され、ここの人たちは一丸となって真子さまをお迎えする準備をしたことはニッケイ新聞で読んで知っていた。今回メールをいただいたことで、彼らがウェブサイトを作り、様々な歴史的資料を集めているらしいことが理解できた。この平野植民地、コロニア・ヒラノのウェブサイトは、こちらへ。そして、Youtube上にも4つの映像がアップされている。このサイトは、こちらへ。日本語でメールが書けなくなっていても、子孫の方達が何とかこの植民地の歴史を残そうとしていることがわかり、なんだがうれしくなった。 | ||||
2019年8月11日(日) | ||||
香山文庫のメールアドレスには、もう1通、7月11日にもメールが届いていた。リオ州在住のIT関係のお仕事をされている松浦さんという男性からのメールだった。今年1月30日付けのニッケイ新聞で、「日本の大学に移民史研究学科を」という私の文章を掲載していただいたのだけれど、一世の女性から賛同しますというお電話をいただいた以外はどこからも、何の反応もなかった。でもこの方からは、「たまたま、最近になって、日本の大学の先生とオンライン出版のプロジェクトを立ち上げようとしていまして、書籍や出版に関する情報を探していたところ、ニッケイ新聞の香山文庫の記事が目に止まりました」と言う長いメールをいただいていた。「日本の大学で職員・教員として、長く働いた経験があり、また私立大学の図書館で職務も経験しました(残念ながら司書ではないのですが、図書のデータベースについてはだいぶ勉強しました)。端的に申し上げると、今の日本の私立大学は財政面でどこも困窮しており、なにかお金や新規学生募集につながるような図書寄贈や研究・課程でないと、動きにくいのが現状ではないかと思います」と言って、様々提案をしてくださった。著作権の問題のない書籍からデジタル化して行ってはどうか?さらに、USP(サンパウロ大学)やJapanHouseには日本語書籍の蔵書があり、特にUSPには大きな日本蔵書の図書館があると教えて下さった。私は田舎町の引きこもりのおばさんなので、こういうことを教えていただけると、本当に助かる。ただ、JapanHouseはできてまだ間がなく、運営面で不安を抱えているので、永続性ということを考えるとどうかな?と思う。そして、USPにそのような日本蔵書の図書館があることは知らなかったので、当たってみる価値はあるかな?と、思いつつ、USPには何のコネもなく、この田舎町で見かけたことのあるUSPの関係者は頭でっかちで地に足の着いていない実践を伴わない、お金持ちに寄生するパラサイトのような印象があり、あまりいい感じを私たちは抱いていないので、私の腰はちょっと引けている。 | ||||
2019年8月12日(月) | ||||
次の写真は、先日畑で収穫したラディッシュ。まだ小粒だけれど、他の芽も育つようにと、場所を占領していたこれらのラディッシュを収穫してみた。量が少ないので、これだけではいつものラディッシュの酢の物はできないかな?でも、この晩、ちょうど大根と挽き肉のとろみ炒めを作ることにしていたので、大根葉の代わりにラディッシュの葉をさっと茹でて添えてみた。我ながらグッド・アイデア、そして、グッド・タイミング。
| ||||
2019年8月13日(火) | ||||
「大学での学科設立は不可能ではないでしょう。学科設置には大学内で発言力のある人とコネを作っておくとよいのですが、あなた自身の関係の深い大学(卒業校とか)はないでしょうか。あればターゲットの一つになると思います」と、広島の渡辺先生のメールにあった。でも、私は地元の女子短大に行き、その短大は数年前に同じく地元の4年制の大学に吸収合併されてなくなっているため、私の関係の深い大学なんてない。いろいろ考えを巡らせていたら、私自身は関係ないものの、私の回りには早稲田大学出身の人たちが結構多いことに思い至った。ブラジルには慶応の三田会があり、確か早稲田の稲門会もあったと思ったので、早稲田ご出身の大西さんにメールでお尋ねしてみた。でも、十年ほど前までは総会に顔を出していたけれど、移民組は高齢化と共に数が減り、企業出向者組が多数派となってからは、知人もいなくなって今では縁も切れてしまっているということだった。ブラジル稲門会は親睦団体として、三田会との野球・ゴルフ・テニスの早慶戦は定期的に実施されているけれど、社会活動はしていないらしい。そして、以前早大総長が来伯し、サンパウロ大学と交換留学が提携されたようだけれど、実際に学生の相互交流があったかどうかは分からないということだった。サンパウロ大学のキャンパスには、日伯文化交流が盛んだった頃に、日本側からの資金援助で日本館と名付けられた建物が建設され、文学部には日本語学科も設けられているらしい。つまり、ブラジル稲門会にアプローチするよりも、サンパウロ大学にアプローチしてみてはということのようだった。ブラジル稲門会に賛同していただき、早稲田に一筆アピール文を書いていただき、同時に日本側でも知り合いの早稲田出身の人たちの賛同を得て・・・などと考えたのだけれど、事はそうは問屋が卸さない現実が立ちはだかった。ああ、またサンパウロ大学か・・・。 | ||||
2019年8月14日(水) | ||||
「人生には時として大きな分かれ道に差しかかることがあります。どっちが良かったか、これは両方やる訳には行かないのだから考えても仕方ない。・・・周りの人から見て、客観的に幸せで立派な人生を送る人もたまにいます。でも、本人が本当に幸せと思っているかどうか、聞いてみなければわからない。案外人に言えない悩みを抱えているかもしれない。・・・人生には時々分かれ道があります。その時どちらを選ぶか、自分で選べることもあるし、どちらかに行かざるを得ない場合もあります。選んだ、あるいは行かざるを得なくなった道を一生懸命歩くしかない。精一杯生きて自分が満足することでしょう」これは、私よりも20歳近く年上の従兄弟から届いたメールの一部。私もそう思う。親からもらった命と人生、感謝しながら精一杯生きたいと思っている。
上の写真は、家の西側の外階段の下から北西を撮ったもの。左側の桜はだいぶ花を散らし、緑の葉が茂り始めている。驚くことに、桜の右側のマナカの木は、今もわずかだけれど花を咲かせている。そして、手前の階段沿いのサツキもまだまだ元気に咲いている。濃いピンクと薄いピンクの間に白いサツキが3本あるのだけれど、最近ようやくたくさんつぼみをつけて、花が咲き始めた。 | ||||
2019年8月15日(木) | ||||
8/9(金) 6:15配信のJBPressの記事に、「中国への態度に現れる韓国とベトナムの決定的な違い」という興味深い記事があった。自分で努力をしないで、悪いことはすべて人のせいにするのは簡単なことだけれど、そんなことをしていると、人を恨むばかりで、自尊心のかけらもなく、決して幸せにはなれない見本のようなものだと思った。この記事のサイトは、こちらへ。
上の写真は、毎週火曜日の午前中英語のレッスンに来るヴァレンチーナ。彼女が着ているこの体操服のような服は学校の制服で、このところいつもこれを着てやって来るので、写真を撮らせてもらった。彼女は午後からボトゥカトゥの学校に行くので、家に戻って着替える時間を節約するために、この制服でやって来るようになったのかな?ブラジルの小学校の制服は、彼女が着ているもの同様、日本人の目から見ると体操服という感じのものが多い。左胸のところに学校の名前と彼女の名前が刺繍されている。「それは学校の制服なの?」と英語で聞くと、ごく自然に「Yes.」と答えることができる彼女の理解力はなかなかたいしたものだと思う。 | ||||
2019年8月16日(金) | ||||
今週は日、月、火と、最高気温が30度近くまで上がり、「わあっ~!夏が来た!」とびっくりしたのだけれど、火曜日の夕方から冷たい南風が吹いて気温が下がり始め、水曜日の朝は12度で、日差しがなく風が吹き荒れたため、午後も気温がほとんど上がらず、夜は7度まで下がった。寒くて夕方から薪ストーブに火を入れた。その後朝は毎日7~8度の気温が続いているものの、日差しがあるので最高気温は22度、24度と徐々に上がってきている。次の写真は、桜の花が散って、庭をピンクに染めているので、撮った庭のテーブル周辺。庭の他にも道のくぼみなど風の吹き溜まりになっている所は、あちこち桜でピンク色になっている。
| ||||
2019年8月17日(土) | ||||
2019年8月15日付けのニッケイ新聞に、「広島・長崎=JHで初の平和週間=被爆体験伝え、観光地も紹介=パ大通りで郷土芸能を初披露」という記事があり、その中の写真に、お元気そうな森田さん、渡辺さん、盆子原さんの顔があったので、リンクをはってみた。この記事のサイトは、こちらへ。
上の写真は、食堂に置いたランの一鉢と、シクラメンが花をつけたので、撮ったもの。他のランも小さな芽を出しているけれど、まだまだ成長段階で、花は当分先の話しになりそう。今年はランの花も開花が遅いような感じがしている。 | ||||
2019年8月18日(日) | ||||
メル友で一世の鎌谷さんは、兵庫農科大学で農業の研修をされて、農業をするためにコチア青年としてブラジルに来られた方。彼にも中国新聞の緑地帯をお送りして読んでいただいた。すると、「兵庫農科大学が篠山に県立の大学として機能していた時は農学科には移民課なる教室があって教授、助教授、助手と先生方は揃っておられたし初代の教授は移民に関して少しは名前の知られた先生だったと聞いていました。国立へ移管された後は移民課は消えてしまったみたいです」「コチア青年が1955年に始まって2500名からの青年が移住してきて契約の4年が過ぎると独立して自分で営農を始めるのですが、ひとり者では仕事と炊事と両立さすことは難しく、コチア産組が音頭を取って写真結婚がラッシュになりました。20歳そこそこの花嫁が500名からが決心して移住して来ました。本当によく決心できたものだと感心するのですが、後年それを調査する意味で日本から調べに来た人がいます。確かあちらこちら歩いたはずなのですが、あの人は何処から調査費が出たのか。調査を頼んだのは誰だったのか?」 「東京農業大学という私立の大学があります。この大学には拓殖科なるクラスがあって当時は毎年のように卒業生がブラジルに移住してきてました。大学は続いていますが拓殖科へ入学してくる生徒はいるのかどうか?ブラジルへ移住してきた人がおおぜいいるのでその人たちに訊ねれば現在の様子、移民に関係した資料など分かるでしょうね。移民課としての教室はなくとも移民に関して講義する先生方はおられたのではないか、とおもいます」というようなメールをいただいた。これも戦後の移民の歴史の一側面。それにしても写真だけで、500名もの若い女性がはるばるブラジルにやって来たというのはすごいことだと思う。いろいろな人生があったのだろうなあと想像する。 | ||||
2019年8月19日(月) | ||||
インターネット上で、8/16(金)16:56配信の夕刊フジに、『韓国・文大統領、演説で「事実誤認」連発! 一方的に“反日暴挙”続けておいて「喜んで手を結ぶ」とは…』という記事があったので、以下にその記事をコピーしてみた。この記事の中で、日本の朝鮮統治時代に朝鮮半島の公立小学校が100校から5000校に増えたとあるけれど、それに加え、彼らが使っていなかったハングルを彼らに教えたのも日本人で、大多数が文盲だったのが、字を読めるようになったという事実も付け加えておきたい。 『韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は15日、日本の朝鮮半島統治からの解放記念日「光復節」の式典で演説を行った。韓国経済の危機的現状を認識したのか、対日批判をやや抑制した。メディアも「トーンが変わった」「対話戦略を模索か」などと報じているが、数々の事実誤認も連発させた。日韓関係の今後のためにも、文氏の演説を添削してみた。 まず、文氏は「日本が隣国に不幸をもたらした過去を顧みる中で…」と語ったが、事実はどうなのか? 国際政治学者の藤井厳喜氏は、夕刊フジの短期連載「世界を感動させた日本」で、朝鮮統治時代(1910~45年)について、《朝鮮の人口は1300万人から2500万人にほぼ倍増した。平均寿命は25歳(10年)から45歳(44年)に伸びた。工業生産指数は100(13年)から550(38年)に大躍進し、公立小学校は約100校から約5000校に増えた。鉄道はゼロから、総延長6000キロになった》と指摘している。 日本がこの間、朝鮮に注ぎ込んだ累計約21億円は、現在の貨幣価値で63兆円にのぼるという。それでも、「隣国に不幸をもたらした」と声高に主張するのか。 文氏はまた、日本の輸出管理強化を念頭に「後を追って成長する国のはしごを蹴飛ばしてはならない」「日本が対話と協力の道へ向かうなら、喜んで手を結ぶ」と演説したが、これもおかしい。 日本の輸出管理強化は、大量破壊兵器に転用可能な戦略物資など、韓国の輸出管理に疑わしい事案が続出したためである。この3年ほど、韓国側の都合で、輸出管理の意見交換をする政策対話が開催できなかった。「対話と協力」を一方的に拒否していたのは韓国であり、「(日本が)はしごを蹴飛ばす」など、聞き捨てならない。 そもそも、韓国国会議長による「天皇陛下(現上皇さま)への謝罪要求」や、韓国海軍駆逐艦による自衛隊機へのレーダー照射事件、いわゆる「元徴用工」の異常判決など、一方的に「反日」暴挙を続けておいて、どうして、「喜んで手を結ぶ」というのか。 文氏は「東京五輪で友好と協力の希望を持てることを望む」とも語ったが、これも日本をナメている。 韓国の与党内などから、「東京の放射能レベルが高い」として、「東京五輪ボイコット」論が出ていることを、多くの日本人は知っている。韓国大統領府のHPでは、東京五輪ボイコットの請願まで行われていた。 文氏の演説を受けて、親韓メディアなどからは「日韓の協議を活性化すべきだ」「隣国は仲良く」といった意見が聞こえてきた。 ただ、日韓関係を悪化させた背景には、韓国のウソやゴリ押しを日本が容認してきたこともある。次世代のためにも、きっちりケジメをつけるべきではないか。』 | ||||
2019年8月20日(火) | ||||
毎週土曜日の午前中、マックス・フェファー文化センターの広い庭で行われていた青空市が、先週からまた以前やっていたパーディーニョの入り口に近いバスターミナルに移動して、金曜日の夕方行われることになった。それで、これまでいつもエドソンはこの青空市とスーパーでの買い物を土曜日にしてくれていたのを、金曜日に変更して、ついでに郵便局にも寄るようにスケジュールを変えた。それでこの金曜日、届いていた楽書倶楽部第49号を持って帰ってくれた。以下は、その号に掲載された私の文章。この文章を書いて提出した後、ネットで見た「放ったらかしで作るパン」というのを作ってみて、薄力粉でもおいしいパンができることがわかったのだけれど、でも、そういったパンがここでは販売されていないので、この文章に書いた私の疑問はやはりまだ解消していない。それから最近、ボトゥカトゥに1軒だけイタリアレストランがあることがわかったのだけれど、やはりこれも、1軒だけではないに等しいのではないかと思っている。
ブラジルで暮らしていて、何故だろう?と疑問に思うことが多々ある。ブラジルはそもそもポルトガルを宗主国とする植民地として始まり、公用語がポルトガル語なので、ポルトガルからの移民が多いのかと思いきや、イタリア系が一番多いらしい。私が暮らす人口五千人ほどの田舎町のパーディーニョも、イタリア系移民によって作られた町なので、今でも住民の大多数はイタリア系の人たちだ。そして、隣町のボトゥカトゥで見かける医療機関や様々な店の看板もイタリア系の名前があふれている。 それほどイタリア系の人口が多く、私の所に英語の勉強に来る若い生徒さんに、一番好きな食べ物を聞くと、みな申し合わせたように「イタリア料理」という返事が返ってくるというのに、この辺ではイタリア料理のお店を見かけない。みなスパゲティやラザニアなどのパスタ料理を自宅で食べていて、それらが大好きと言うのだけれど、ピザのお店はたくさんあっても、スパゲティなどを出すいわゆるイタリア料理のお店がまったくない。6月上旬のニッケイ新聞に、「ブラジルのイタリア料理店では『アルデンテにして!』と前もって注文をつけないと、腰のあるマッサがでてこない」けれど、3月にサンパウロ市ヴィラ・マリアーナ地区に「グルメな人に最適なイタリアレストラン」が開店したという紹介記事があった。さすがにサンパウロ市はブラジルで一番の大都市なので、イタリアレストランがあるんだなと思いつつ、でも、こんな紹介記事が載るくらい珍しいということでもあるのかもしれないと思った。本格的なイタリアレストランでなくても、リオやペトロポリスで見かけた具材とソースとパスタを選んで、その場でササッと作ってくれるスパゲティ専門のお店でもあればいいのにと思うのだけれど、ない。 以前、ニッケイ新聞で、ブラジルにイタリア人が移住して来たのは乾麺が開発される以前の時代だったので、ブラジルのイタリア系の人たちが食べる麺は柔らかく、乾麺をアルデンテに茹でて食べるという習慣自体がないのだろうというような内容の記事を見かけたことがある。つまり、麺を自宅で手作りして食べるのが主流なのだろうかと、その時は思った。でも、スーパーマーケットに行くと、様々な種類の乾麺(パスタ)が販売されていて、トマトソースの種類も日本の比ではない。それほどみなイタリア料理が好きで、それらの商品の需要も高いのに、イタリアレストランはない。パスタ料理は家で食べるもので、レストランに行って食べるものではないという感覚でもあるのだろうか?いろいろな人たちに「何故?」と疑問を投げかけても、「さあ、どうしてだろう?」と言うばかりで、納得の行く返事は返ってこない。不思議だ。 一方、この小さな町のパーディーニョですら複数軒のピザ専門のお店がある。ただ、パーディーニョでも、隣町のボトゥカトゥや周辺の町でも、これらピザのお店は昼間は営業しておらず、夜だけの営業だったり、週末の夜だけの営業というところばかりで、ピザをお昼に食べるという習慣はないらしい。 そして、もうひとつ。ブラジルにはあまりおいしいパンがない。色々な国からの移民がいるのだから、世界各地のおいしいパンがあってもいいのにそれがないので、ずっと何故だろうかと思っていた。いつだったか小麦粉のせいだということを耳にして、ああ、そう言えば、パン作りには強力粉を使うけれど、ブラジルには薄力粉しかないことに気づいた。だからおいしいパンが作れないのだと納得した。 以前、リオの友人がとてもおいしいパンをお土産に持って来てくれたことがあった。そのお店はリオでも有名なお店らしく、ヨーロッパから輸入した小麦粉でパンを作って焼いていると言っていたので、やはりおいしいパンを作るためにはちゃんとした小麦粉が必要なんだと思った。だったら何故、ブラジルでパン作りに適した小麦粉を作らないのだろう?それができないのなら、何故輸入しないのだろう?と、次々に疑問が沸いてくる。 日本人は古代からお米を食べてきたので、普通にパンを食べるようになったのは近代になってからと、歴史がとても浅い。それなのに、これでもかというくらいありとあらゆる種類のおいしいパンが作られていて、どこでも簡単に手に入る。以前アメリカで暮らしていた頃も、日本にあるような様々な種類のおいしいパンを作って販売しているパンの専門店がなく、ケーキも甘ったるく重いものばかりで、日本では普通の甘さ控えめで、軽い口当たりのおいしいケーキがなく、不思議で仕方なかった。これは、ただ単に嗜好の違いなのだろうか?それとも、日本人がとても食いしん坊で、おいしいものをひたすら追求する国民性だからということなのだろうか?と、思いを巡らしている。 | ||||
2019年8月21日(水) | ||||
8月17日付けのニッケイ新聞に、『書評「移民と日本人」=京都府在住 宮沢之祐』という記事があったので、以下にリンクをはってみた。この記事のサイトは、こちらへ。 この月曜日は、とても変なお天気だった。午前9時頃小さな雨雲が通り過ぎ、雨が少し降ったのだけれど、その後は広範囲に渡って雨雲などないにもかかわらず、空は暗い雲に被われているので部屋の中も暗いのだけれど、戸外は何だか黄色く明るいという変な感じだった。エドソンがバウルのデミウソン(サンパウロ州立大学気象観測所のエンジニア)と、何だか変だね。サンパウロの大気汚染が風に流されてここまでやってきたのか?などというやり取りをしていた。その後、デミウソンは、ボリビアで始まった大規模な森林火災が国境を越えてパラグアイに飛び火し燃え広がったため、その煙が風に乗って流されて来て、空を被っているんだということがわかったと連絡をくれた。日本で、春先にゴビ砂漠から黄砂が飛んできて、空が黄色く染まることがあるけれど、どうもそれに似た現象が起こっていたようだった。そして、その夜ボトゥカトゥに出かけていたエドソンが、帰路見えた夜空のお月様の色が茶色だったと話していた。 | ||||
2019年8月22日(木) | ||||
次の写真は、昨日の午前中作って、オーブンから出したばかりのバナナブレッド。14日の夜、英語のレッスンに来たジョゼ・ハファエウが、自宅で採れたバナナを二房(一房12本くらいを)ドンと持ってきてくれたので、まず、17日(土)の午前中にその一房を使ってバナナブレッドを作った。長方形の型で焼いたものは午後のレッスンの後マテウスのお迎えに来たお父さんにあげて、正方形の型で焼いた半分は、同じく土曜日の午後やって来てエドソンと作業をしていたジョゼ・ハファエウにあげ、残りの半分は私たち用として、翌日の日曜日の朝食で食べ始め、数日で完食。そしてまだ、一房残っていたバナナで再度バナナブレッドを焼いたと言う次第。正方形の型一つだけで焼いたので、型からはみ出しそうに膨らんでいる。これを半分に切って、それぞれラップに包んで1つは朝食用として食べることにして、もう1つは保存用として下の冷蔵庫の冷凍室で冷凍した。これまでにもジョゼ・ハファエウがバナナを大量に持って来てくれることが何度かあり、その都度、バナナを無駄にしないために、こうやってバナナブレッドを作るようにしている。冷凍して保存しておくと、パンを切らした際、朝食で食べることができるし、来客の際などに出すこともできるので、とても助かっている。
| ||||
2019年8月23日(金) | ||||
横浜在住の従兄弟が、傑作川柳と傑作ダジャレというのを送ってきてくれたので、大いに笑って楽しませてもらった。それで、このブログにコピーを掲載させてもらおうかと思ったのだけれど、川柳の方はどこかの老人ホームに著作権があるみたいなので、そちらの掲載は止めて、著作権の問題のないダジャレの方だけ、以下にそのコピーを掲載してみることにした。このダジャレの作者は洋光台ハーモニカ倶楽部の横田 宰さんと名前があった。 青春18歳と熟年81歳を比較すると・・・・
・高速道路を暴走するのが18歳 ==> ・高速道路を逆走するのが81歳 | ||||
2019年8月24日(土) | ||||
ブラジルでは日系の「サクラ中矢」社と言う会社が、醤油味噌の最大手メーカーで、日系食料品店に限らず、普通のスーパーでもごく当然のようにサクラ醤油と言うお醤油が販売されている。ニッケイ新聞によると、醤油メーカーはブラジル国内だけで10以上あるらしいのだけれど、ニールセン調査では、数ある醤油メーカーの中で「サクラ中矢」社が市場の75%以上を占めているのだそう。
![]() 中矢社長によると、「我々は元々、コロニア向けの日本食調味料製造会社だった。だが、今では全伯12万カ所でうちの商品が販売され、圧倒的にブラジル人ユーザーの方が多い。それだけ日本食がブラジル社会に受け入れられた。多少は、そのお手伝いができたのではと思う」とあった。そして、ブラジル製醤油の特徴は、日本のものよりも甘味が強く、少しトロリとしているので日本の刺身醤油に近いと言う。その理由は原料の違いから来ていて、日本や北米では一般的に、醤油の原料は大豆、麦、塩、水なのだけれど、中矢社長のお父さんの時代には麦が入手しづらかったので代わりにトウモロコシを使ったのだそう。成分にタンパク質が必要だったからで、そのトウモロコシが甘味を強めているらしい。そのせいで日本側の一部専門家から、「主要成分が違うから、厳密には『醤油』とは言えない」と指摘されることすらあったそうだけれど、「移民の醤油」はブラジルに定着し、圧倒的なシェアを誇っている。それから、ブラジルの醤油には麦が入っていないためグルテンフリーなので、「日本製より健康的」と一部で評価されているのだそう。日系食料品店のなかったリオ州のパラカンビで暮らしていた頃は、ブラジル産醤油しか手に入らなかったのでサクラ醤油を使っていたけれど、ここではボトゥカトゥのウエノでキッコーマンの減塩醤油を買って使っている。ブラジル産のお醤油に比べて値段がぐんと高いのだけれど、食べなれた味なので、あればついついブラジル産のものよりも、キッコーマンの方を買ってしまう。 | ||||
2019年8月25日(日) | ||||
広島の友人が、縮景園の清風館内から撮った以下の写真を送ってきてくれた。縮景園は8月~10月の日曜日午前7時~9時の間は無料で、特別に清風館も開いていて、さらに、先着30名には清風館でお抹茶(もみじ饅頭付き)サービスと折り紙体験があると言うことだった。この早朝開園は、一昨年から始まったらしい。来園者はご近所の方々と日本人観光客が多いようだけれど、外国人観光客も毎回5~6人来られるそう。この友人は、今年、広島通訳ガイド協会に再入会して、通訳ガイドの仕事をしているのだけれど、8月はこの清風館で外国人の来園者に対して折り紙を中心に英語で対応する仕事をしていて、送ってきてくれた写真は18日の朝、清風館から撮ったものだそう。3枚目の周りが丸い写真は花頭窓から撮ったもの。私は縮景園には数え切れないほど行っているけれど、清風館に入れる時に出くわしたことはなく、中に入ったことがないため、清風館からのこんな景色は初めて見たけれど、なかなか趣きのある良い景色だなと思った。
| ||||
2019年8月26日(月) | ||||
以前、私と英語のレッスンをしていたことのあるジミーとジェフ兄弟の妹のアマンダから、先週連絡が入り、彼女の娘とその従兄弟に英語のレッスンをして欲しいと言って来た。それでこの土曜日の午後話し合いに来てもらった。平日は夫婦が二人共働いていて送り迎えができないと言うので、土曜日のお昼前に1時間のレッスンをすることで合意した。ジミーとジェフに妹がいることは知っていたけれど、会ったのは今回が初めてだった。隣町のボフェチで暮らしていて、彼女は理学療法士をしており、ご主人は、ボフェチ市のスクールバスのドライバーをしていると言うことだった。娘のエロイーザ(Heloisa)は7歳で、従兄弟のルーカスは6歳と言うことだった。私は、10歳以下の子供を教えた経験はないのだけれど、6~7歳と言うと、アルファベットを書くこともまだままならないので、歌やゲームなどの遊びを中心に英語を聞いてその指示が理解でき、英語の単語を覚えることをメインにレッスンすることにした。次の写真は、エロイーザと彼女の両親。ルーカスはこの日は一緒に来ていなかったので、どういう感じの子なのかこの時点ではまだわかっていない。
| ||||
2019年8月27日(火) | ||||
8/22(木) 7:01配信の現代ビジネスの記事に、『韓国・文在寅、世界中があきれる「無知」と「異常」のヤバすぎる正体』と言う橋爪 大三郎氏の記事があったので、以下にリンクをはってみる。記事最後のまとめをコピーすると次のようになる。『国際社会にはルールがある。条約を、特に平和条約・基本条約を守ることが、原則である。条約は、平和の基礎だからだ。政権が交代したから、内容が気に入らないから、条約を無視するのは、指導者が絶対にやってはいけないことである。そういう指導者がいた場合、「外交的解決」をはかろうと話し合いなどしてはいけない。「国際法の原則を守りなさい」と、辛抱づよく言って聞かせるしかない』この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2019年8月28日(水) | ||||
ニッケイ新聞の7月20日付けの記事に、『アマゾナス州マナウス市在住の陣内すまさん(本名・陣内節子さん)が、アマゾンに関する絵本「大蛇の住む森 私のアマゾン」を日本の啓正社から刊行した』とあり、聖市リベルダージの高野書店で限定20冊を販売予定とあった。でも、高野書店のメールアドレスはなく、陣内さんのメールアドレスに問い合わせるようになっていたので、陣内さんにメールを送り問い合わせてみた。でも、高野書店のメールアドレスはわからないと言うことだったので、日本のAmazonで調べてみると、この「大蛇の住む森 私のアマゾン」と、以前出版された「ガラシとクルピラ」と言う子供向けの本も購入可能だった。ただ、ブラジルでの郵便の取扱いが昨年末だったか今年になってからだったかに、複雑になり、海外からの手紙以外の小包は皆輸入品扱いになり、EMSか書留にして追跡番号がないと、受け取りのための登録手続きと関税の支払いができず、受け取れないようなことになっているので、さてどうしようか・・・と、しばらく悩んでいた。すると、しばらくして陣内さんが高野書店のメールアドレスがわかりましたと知らせてくださったので、高野書店に問い合わせて、購入する手配をした。その際、「私のアマゾン」と、ニッケイ新聞が以前出版していた「アマゾン(日本人移住80周年)」と言う本を混同して連絡して来られたので、そういう本があるのならそちらも購入すると言って、両方を送ってもらった。13日に発送してくださったのだけれど、16日(金)にはまだ届いておらず、本の受領は23日(金)になった。
この本の作者の陣内さんは、1937年東京生まれで、1970年にブラジルに移住し、旅行会社の仕事を通じて先住民の人々と知り合い、アマゾン地方の部族に伝わるインディオの民話と出会ったと言う。この「大蛇の住む森 私のアマゾン」は、前半は、写真と絵を使って、「ピラルク」「ピラニア」「タンバキ」等のアマゾン川の魚とその魚を使った料理を紹介し、後半は、インディオの民話10編が紹介されている。陣内さんは「アマゾンの段々と失われていく『森と水の世界』を日本の人達にも知ってほしい」と思い、元インディオの血筋を持つ画家の故ヴァン・ペレイラさんが描いた絵で絵本を作り始めたのだそう。ヴァン・ペレイラさんは、陣内さんが1992年に出版した「ガラシとクルピラ」でも絵を担当している。上の写真の本の表紙の絵は、アマゾンの民話からスクリ(大蛇)がバクに絡みついているシーンが描かれている。絵を担当したペレイラさんは、1952年、ブラジルのアマゾナス州ニャムンダーに生まれ、14歳のときマナウス市に出ていろいろな仕事をしながら、絵を学んだのだそう。 | ||||
2019年8月29日(木) | ||||
次の写真は、陣内さんが送ってくださった「ガラシとクルピラ」。左側の3冊は2004年版で、右側の1冊は2016年の第4刷の特製版。昨日ブログに書いた「大蛇の住む森 私のアマゾン」は、日本のAmazonから買わずに、高野書店から購入することができたものの、さて「ガラシとクルピラ」の方はどうしようかと思っていたら、陣内さんがお送りしましょうと言ってくださったので、書籍代と送料をお送りしますからとお願いして、送っていただいた。2016年版を1冊お願いしたのだけれど、2004年版も数冊あるので、送りますから欲しい人に差し上げてくださいと言うことで、4冊が23日(金)に届いていた。この本のガラシと言うのはインディオの男の子の名前で、クルピラと言うのはアマゾンの森の守り神のことで、エドソンもクルピラのことを知っていた。そして、陣内さんは、本名は節子で、すまと言うのはペレイラさんが付けてくれたインディオの名前なのだそう。彼女は82歳と高齢だけれど、メールでのやり取りはとても若々しく、明るい人柄が垣間見られるとても感じの良い方と言う印象だった。「一度マナウスにもお出でください」と誘ってくださったのだけれど、「マナウスに行くためには、いろいろ予防接種をしなければならないし、航空運賃は、ヨーロッパに行くより高いんだよ」とエドソンは言っていた。う~ん。それじゃあ、ちょっとやそっとではマナウスには行けないなあ・・・と思った。
| ||||
2019年8月30日(金) | ||||
ボリビアとパラグアイでの大規模森林火災による影響が、黄砂のようになって、先週の火曜日に、ここサンパウロ州にまで及び、空を暗くしたとブログに書いたけれど、このところ、アマゾンで発生している森林火災が国際的な注目と批判を浴びている。これよりも前に、INPE(ブラジル国立宇宙調査研究所)が発表したアマゾンの森林火災件数が、今年は昨年に比べて異常に増えているという調査結果に対してボウソナロ大統領が噛みついて、INPEの所長をクビにするということがあった。それでブラジルメディア(左派なので、反ボウソナロ)はボウソナロをさんざん非難していた。でも、INPEの方にも問題があって、森林火災に関する調査の手法が昨年と今年とでは変わっているので、数値だけを単純に比較することはできないという事実の説明はなかったのだから。今の時期、南米は乾期で、森林火災は毎年のように起こっていて、今年に限ったことではなく、現実には件数が異常に増えているわけではないという事実をメディアは伝えたくないようだ。そして、同じく南半球で乾期のアフリカでも同様に森林火災が起こっていることを世界のメディアは伝えない。 さらに、以下にリンクをはったニッケイ新聞の記事の中にあるように、『純粋に森林火災の数字だけをみれば、一番多かったのは「2002年から2010年の間」だ。これは不思議なことにルーラ大統領(2003年1月~2011年1月)の任期にほぼ重なる』というのに、そのこともメディアは一切言及しない。日本のメディアと同じで、都合の悪いことは報道しない自由を行使しているようだ。そして、インターネット上にあったNASAが8月15日から22日までに衛星で捕らえた森林火災を示す赤い点々を見ると、ブラジル国内よりも周辺国の方が赤く染まっているのに、今回の報道ではアマゾンの森林火災がすべてブラジル国内で起こっているような印象を与えている。と言うか、世界はアマゾンはブラジルにしかないと思っているようだ。つまりアマゾンがどんなに広いか理解していないのだろうと思う。 8月27日付けのニッケイ新聞の「コラム 樹海」で、深沢編集長がとても冷静にユダヤ・キリスト教の自然観にまで触れて良い記事を書いているので、その「アマゾン火災騒動への違和感を読み解く」という記事をぜひぜひ読んでみてほしい。この記事のサイトは、こちらへ。 この記事の中で出てくるメルコスールというのは、日本語では南米南部共同市場とか、南米共同市場と訳される南アメリカ諸国の関税同盟で、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイが加盟しており、ボリビアは批准手続き中で、ベネズエラは資格停止通知を受けており、準加盟国はチリ、コロンビア、エクアドル、ガイアナ、ペルー、スリナムとWikipediaに説明があった。このメルコスールとEUが自由貿易協定(FTA)を結ぶ方向で現在とてもいい感じで話し合いが進んでおり、この協定が結ばれれば、例えば、ブラジルの安価なとうもろこしや大豆といった農産物や牛肉などがEU内に大量に輸入されることになる。そのため、それに脅威を感じている農業国であるフランスやEU内の農業団体が様々なロビー活動やメディア操作を行っているというのが、今回の突然の世界的なブラジル批判の本質だということを理解する必要がある。 | ||||
2019年8月31日(土) | ||||
ずっと以前にもこのブログで書いたことがあるけれど、ブラジルは日本政府(田中角榮さんの時代)やブラジル国内の日系農業従事者などの協力を得て、国を挙げて不毛の大地と呼ばれていたセハード地域(アマゾンよりも南、サンパウロ州よりも北の地域)の開発を行い、農産物を生産できるようにしただけでなく、その他の地域でも、農産物の収穫率や牧畜の生産率を高めるための研究開発が何十年にも渡って行なわれてきて、国全体としての農業生産を高めることに成功してきた。それを主導してきたのがエンブラパ(EMBRAPA=The Brazilian Agricultural Research Corporation: a state-owned research corporation affiliated with the Brazilian Ministry of Agriculture)と呼ばれる組織で、そこが昨年の12月に以下のような映像を youtube上に発表しているので、以下にそのサイトへのリンクをはってみた。これはポルトガル語での発表なのだけれど、いろいろ具体的な表や数字を示しているので、ある程度理解できるのではないかと思う。でも、一応概要は以下に簡単に書いてみた。このyoutube のサイトは、こちらへ。 上の映像では、ブラジルには国の保護下にある森林が何パーセントあり、先住民の保護下にある森林が何パーセントあり、個人の保護下にある森林(例えば、うちの敷地内にある森)が何パーセントあるということを順に示した上で、最後に、これら全体を総合すると、ブラジル国内で保護されている森林面積は国土の66.3%を占め、農地として利用されている面積は国土の30.2%だと締めくくっている。ブラジルの国土の66.3%というのは、欧州の48ヶ国を合わせた面積に匹敵するそうだ。アマゾンだけでも、欧州のほとんどの国がすっぽり入ってしまう面積があることを世界の人たちはわかっているのだろうか?そして、一方、アメリカでは、保護されている森林面積は19.9%に過ぎず、国土の74.3%は農地などに利用されていることも示している。自分たちの国では森林保護などする必要はないけれど、ブラジルは森林保護をしろと言っている事実を、彼らはどう考えるのだろう? これまた以前書いたことがあることだけれど、ブラジルでは自然環境保護のため、私たちが暮らしているような田舎町の農村地帯で土地を買う場合、1アルケール(約2.5ヘクタール)以下の土地を切り売りしてはいけないことになっている。そして、その土地の中にある森は伐採してはいけないことになっている。例え自分の敷地内にある(しかも自分で植えて育てた)木でも許可なく無断で伐採すると処罰されるという法律がある。これはうちのような田舎だけでなく、サンパウロの街中でも同じことで、自宅の木でも切る場合は市の許可を得なければならない。こんな法律は日本でもアメリカでも聞いたことがない。ブラジルはいろいろ問題を抱えてはいるけれど、ブラジルなりに努力はしているのだ。ハリウッドスターやスポーツ選手が森林保護を叫ぶのであれば、このブラジルの努力を理解したうえで、まず自国内の森林保護に力を入れるよう自国政府に働きかけるべきなのではないだろうか?それから昨日リンクをはったニッケイ新聞に指摘のあった先進国(北欧、米国、日本)の周りで海洋汚染が進み、酸素欠乏状態になっている汚染海域をどうにかすることを考えることも重要なのではないだろうか?
|
Home | Copyright (C) 2009 Kyoko Yoshida | Next |