Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2019年2月1日(金) | ||||
下にあったガレージをエドソンのワークショップ兼セミナールームにするために、新しいガレージを家の南東側に建てて、下を改築した。その後、その部屋に作った2つの大きな窓にカーテンを取り付ける話になっていた。でも、なかなか買い物に行く時間がなく、カーテンがないままの状態が続いていた。それで、どうせお金を使ってカーテンを買って取り付けるのなら、ルシアとセージオに頼んで作ってもらわない?と、私は提案した。ここしばらくふたりには会っていなかったのだけれど、数年前に会った際、ルシアはマッサージの仕事をやめて、椅子の張替えやカーテンなどを作る仕事を始めたと話していたのを憶えていたから。そして、先週の土曜日の朝エドソンがうまい具合にスーパーでふたりにバッタリ出会ったので、その話をして、火曜日の夕方ふたりに来てもらった。どんなカーテンにしたいか、生地はどれにするかをサンプルから選んだり、窓のサイズを測ってもらったり、ついでに下と上で使っている古くなって座面の生地が破れたりしている三人掛けと二人掛けの二脚のソファーの張替えも頼んだ。次の写真は、上の居間で私たちと話をしているルシアとセージオ。ルシアに飛びついているはるも写っている。
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2019年2月2日(土) | ||||
楽書倶楽部の2月号向けに、「日本の大学に日本人移民史研究学科を」という記事を書いて、締切りギリギリの1月上旬提出した。それを読んでくださった主宰者の前園さんが、「あなたのおっしゃる通りです。ニッケイ新聞に掲載してもらって、もっと多くの人に読んで理解してもらいましょう」と言ってくださり、ニッケイ新聞の深沢編集長と話をしてくださり、掲載されることになっていた。その時点ではいつどのように掲載されるか決まっていなかったのだけれど、先日前園さんが29日付けで「ぷらっさ(読者投稿コーナー)」欄で掲載されましたとメールをくださった。それで前園さんと深沢さんにお礼のメールをお送りすると、深沢さんから「ネットにも掲載して、日本の学者さんにも読んでもらおうかと思います」本棚の写真を撮って送ってくださいと言ってこられた。30日の朝写真を撮ってお送りすると、しばらくして、アップしましたと、その記事のサイトアドレスを知らせてくださった。「ぷらっさ」欄に掲載された記事はネットでは普通読めないのだけれど、ネットでも読めるようにしてくださったことに心から感謝。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2019年2月3日(日) | ||||
以前、ご近所にあるドナ・ベティのファゼンダでマネージャーをしていて、私たちととても親しくしていたエリゼウは、5年前に両親の面倒を見るために、ファゼンダを辞めて実家のあるミナス・ジェライス州北東部の町へ帰って行った。でもせっかくエリゼウが戻って一緒に暮らし始めたと思ったら、高齢の両親が相次ぎ怪我をしたり病気になったりして、町外れのエリゼウのシチオよりも治療に通いやすい、町で暮らすお姉さんのところに引っ越したので、彼が両親の面倒を見ることはなくなったと聞いていた。ひとりになったエリゼウはその後生計を立てるために、いろいろな植物の栽培を試みて、モリンガの栽培がうまくいったらしく、これから本格的な収穫と出荷作業が始まるという時になって、ご近所の放牧地で放牧されていた牛が敷地内に入り込み、モリンガをほぼ食べ尽くしてしまうという事件が発生したという。敷地を囲む柵の一部が壊されていて、意図的に誰かが牛を入れたことがわかったので、警察に被害届を提出して訴えたのだけれど、その放牧牛の所有者は隣町で元副市長をしていた人なので、警察は何もできないと言って動いてくれなかったという。そんな理不尽な経験をして経済的にもとても大きな痛手を被ってしまい、ひどく落ち込んだエリゼウがシチオを売り払おうと考えているというので、エドソンが彼を何とか励まそうと、パラカンビで所有しているシチオを無料で貸してあげるから、そこでモリンガ栽培をしないかと提案した。でも、エリゼウはリオの人たちは信用できないからリオでは暮らしたくないと断ってきた。それで、今度は、じゃあ、パーディーニョに戻ってきて、僕と一緒にモリンガ栽培をやらないかと、エドソンは誘っている。それからかなりの時間が経つのだけれど、エリゼウからはまだ返事がない。どうしたものかと悩んでいるのだろうか?でもエドソンは、エリゼウがここに戻ってこなくても、うちでもモリンガ栽培がしたいと考えていて、以前からモリンガに興味を持って、数本のモリンガを育てているのだけれど、様々な要因でなかなか思うように育ってくれない。それで、ボトゥカトゥにあるUNESP(サンパウロ州立大学)の農学部が作っている農業コンサルティングの会社に、今年になって連絡をして、土の調査やモリンガ栽培で助言を受けることにした。この会社は、医学部の学生さんが病院でインターンとして働くのと似たようなシステムで、仕事をしているのは農学部の学生さんたちで、教授の指導を受けながら学業と両立させて仕事をしているのだという。木曜日の朝、4人(女性1人、男性3人)の学生さんたちが約束通りやってきた。次の1枚目の写真は、丘の上のガジーボで、敷地を見下ろしながら話を始めたエドソンたち。2枚目以降は、敷地内を見て回った後、庭のテーブルのところに戻って来たので、冷たい桑の葉のお茶を出して飲んでもらいながら、話を続けているみんなを撮ったもの。ちなみに、モリンガというのは、「医者いらずの薬木」と言われている木で、葉も、花も、根も、すべて利用でき、人の健康維持に役立つ植物。朝ドラの萬平さんの言い草ではないけれど、この木を育てることができれば、人の役に立つことができるので、うまく行くといいなと願っている。
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2019年2月4日(月) | ||||
次の写真は、先月マウリシオが砂利を敷いてくれ、補修が完了した道を撮ったもの。1枚目は、坂を下りた所から北の入り口ゲートの方向を向いて撮ったもの。2枚目は、その同じ場所から振り返って南の方向を撮ったもの。この作業により、ランドマークの木の前に積み上がっていた砂利の山がきれいに消えてなくなった。
インターンネット上で2/2(土)16:56配信の夕刊フジの記事に、『「日本を弱くしたい」米ルーズベルト民主党政権の間違い 日本を「侵略国家」と決めつけ』というのがあった。この記事は、『いまや日本の「敵」と見なされつつある韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権をはじめとして、日本にミサイルを向けている北朝鮮、沖縄県・尖閣諸島などで日本の安全を脅かす中国と、日本の周りは「困った隣人たち」ばかりだ。振り返れば、明治維新以来、この150年もの間、日本の周囲には、国際法を理解する「まともな独立国」がなかったし、いまもない。太平洋の先には、同盟国の米国があるが、この米国もまた、「困った隣人」だ』という文章から始まるのだけれど、これを読んで、まったくその通りだなと思った。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2019年2月5日(火) | ||||
先週、ルシアとセージオにカーテン作りとソファーの張替えを頼もうと思い、うちに来てもらって話しをし、見積りをもらうことになっていた。翌日知らせると言っていたのが1日遅れて、金曜日にエドソンはセージオから見積りを受け取ったのだけれど、カーテンと言うか、ブラインドが1500レアル、ソファーの張替えは1700レアルという見積りだったので、たまげた。全自動でリモートコントロール付きのブラインドならともかく、普通の何ということはない手動のブラインドでその値段は高すぎるでしょう。そして、1700レアルと言えば新品の普通のソファーの3倍の価格。ちょっといいものでもその半分の値段で買える。新しいものを買うよりも多少値が張るだろうということは予想はしていたけれど、合計3200レアルというのは、ここでの金銭感覚では32万円という感じで、そんな高額ではとても彼らには頼めない。それで、エドソンはこちらにはそれだけの予算がないから、今回の依頼は撤回すると伝えたそう。こちらもよくわからず頼もうとしたのも悪かったのかもしれないけれど、エドソンは、ここの人たちの常で、セージオも私たちがお金持ちだと勘違いして吹っかけてきたようだと言って、とてもがっかりしていた。ブラジルでは、相手がお金を持っていると見ると、請求価格を吊り上げてぼったくろうとする人が少なくないのだけれど、セージオとルシアもそんなことをするのかと何だか少し悲しくなった。パーディーニョの人たちが受け取る給料はとても低い。ここはサンパウロではなく物価の安い田舎町だからという理由で、人を安くこき使う慣習が根付いている。例えば、新卒か数年の経験があるかないかで多少異なるけれど、大卒のIT技術者でも月給は1200~1400レアルくらいで、スーパーで商品の搬入やお客さんの荷物持ちなどをして働いている高卒のお兄ちゃんたちと変わらない額しかもらえない。サンパウロで同様の仕事をすれば少なくともこの2~3倍の給料がもらえるはずなので、理不尽だなと思う。さすがにエドソンのお給料はそれよりもずっといいけれど、サンパウロの標準レートからすると、10分の1とは言わないまでも、驚くほど安い。だから、3200レアルという金額がここではどれほど高額な見積りであるか、多少理解してもらえるだろうか? | ||||
2019年2月6日(水) | ||||
先週、ルシアとセージオが来た際、最近知り合った女性で日本語を勉強したいという人がいるんだけれど、と言うので、その人からエドソンに連絡をしてもらって、日を決めて会って話しをしましょうと言っておいた。翌日すぐその女性からエドソンに連絡が入ったので、日曜日の午後来てもらって話しをした。次の写真は、日本語を勉強したいというその女性カミーラ(Camila)とご主人のヒシエリ(Richielly)。ふたりともサンパウロ州のバウル(ここから北西に車で2時間弱くらいの所にある大きな町)の近郊の町の出身のようで、パーディーニョの人ではなく、うちのご近所にあるカロリナ・ソイルにご主人が職を得て、1年足らず前にパーディーニョに引っ越してきたということだった。カミーラは子供の頃から日本語とか日本の文化に興味があって、独学で少しずつ勉強してきたので、カタカナや漢字はまだだけれど、ひらがなは読めるようだった。でも、日本食は焼きそばくらいしか食べたことがないと言っていた。まだちゃんとした会話ができるほどの知識はないようだったけれど、「こんにちは」と言えば、「こんにちは」と返してくれ、簡単なテキストなら少し読めるようだったし、憶えている日本語は外国人っぽい変なアクセントがなく、きれいな発音だった。それで、彼女は車の運転をしないので、週に1回火曜日の午後、ご主人が送り迎えをしてレッスンに来ることになった。そして、話が終わって帰る際は、「ありがとうございました。先生」ときれいな日本語で言って帰って行った。彼女は子供ではなく主婦なので、教科書で勉強するだけでなく、一緒にお料理をしたり日常的な生活を日本語で紹介しながら言葉や言い回しを憶えてもらったらおもしろいかもしれないなと思った。それで早速昨日からレッスンが始まった。
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2019年2月7日(木) | ||||
うちでは何年か前に、エドソンのお母さんがパラカンビから持ってきてくれた2本のアセロラの苗木を植えたのだけれど、そのうちの1本はだいぶ大きくなってから何故か突然枯れてしまい、1本だけが生き残っていた。その生き残りの1本が今年初めて実をつけてくれ、しかも鈴なりにたくさん実をつけてくれたので、感動ものだった。次の写真は、その実をつけているアセロラの木。2枚目は、鈴なりの実を近くから撮ったもの。それでちょうど収穫しようと思っていたので、火曜日のカミーラとの最初の日本語のレッスンの際、彼女にアセロラの収穫を手伝ってもらい、その機会を利用して1から100までの数の数え方などの練習から始めた。何しろ彼女とのレッスンは送り迎えをしてくれるご主人の仕事の都合で、通常の1時間半とか2時間ではなく、3時間という長丁場なので、途中で休憩を入れてお茶を飲んだり、インターネット上の言葉遊びの映像を見て繰り返したてもらったり、ひらがなカードで少しずつ遊びながら単語を憶えてもらったり、いろいろ工夫しながらやらなければと考えている。収穫したアセロラはもちろんカミーラと私とで分けて半分持って帰ってもらった。以前彼女たちが住んでいたシャカラでもアセロラの木があり、ジュースを作って飲んでいたのでなつかしいと喜んでくれた。3時間のレッスンの途中で2度お茶をしたり、彼女がトイレに行ったりと、いろいろブレークはあったけれど、さすがにちょっと疲れた。でも彼女はとても真面目にレッスンに取り組んでくれたのでうれしかった。
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2019年2月8日(金) | ||||
先週は毎日35度、36度という日々で、いい加減にしてほしいなと思っていたら、2日土曜日には記録をさらに更新して、午後の最高気温が37度というあり得ない数値になったので、体感温度よりもその数値を見てひっくり返りそうになった。そして、日曜日は33度で、午後から雨が降り、気温が下がりほっと一息。そして、月曜日はさらに気温が下がり最高気温は26度だったので、お昼過ぎくらいまでは涼しくていい気持ちと思っていたら、だんだん涼しいを通り越して寒くなってきたので、全開だった窓をすべて閉めた。そして、水曜日は朝の気温が17度、最高気温が21度と、半袖では寒いので、長袖のTシャツの上から長袖のトレーナーを羽織ってもなんだかスースーする感じだった。夜は薄い掛け布団をかけて寝たのだけれど、暑くはなくちょうど良かった。次の写真は、畑を被っていたマラクジャ(パッションフルーツ)のつたを取り除いたり、草ボウボウになっていた畑の草取り作業をしてくれているマウリシオを月曜日に撮ったもの。2枚目の写真は、雨が降るとドロドロになる畑の通路に砂を入れる作業が完了した状態を撮ったもの。砂を入れても数年すればまた地面が顔を出して、元の状態になるのだろうけれど、それまではこれでしばらく大丈夫。
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2019年2月9日(土) | ||||
次の写真は、火曜日にカミーラと一緒に収穫したアセロラと、先週の土曜日にエドソンが2パック買ってきたぶどうのうちの1パックを、洗って容器に入れてすぐ食べられる状態にしたもの。アセロラは採れたてで新鮮で、十分甘いからジュースにしないでこのままぶどうのように摘んで食べようとエドソンが言うので、ジュースにはしなかった。でも水曜日にジョゼ・ハファエウが彼の家で採れたアセロラをたくさん持ってきてくれたので、そのアセロラでジュースを作った。1月下旬の日曜日から英語のレッスンを始めたルーカスは、やはり日曜日の午後よりも平日の夜の方が都合がいいと言うので、水曜日の夜にレッスン日を変更。そして、それにジョゼ・ハファエウも加わり、この水曜日から週に一度、二人一緒に英語のレッスンを始めた。1月に仕事を辞めると宣言したルーカスは、エドソンに説得されてまだ仕事を続けているのだけれど、ルーカスが辞めると行った1週間足らず後、ジョゼ・ハファエウもどうしても我慢できないことがあったらしく、彼の場合は、即、辞めてしまったということだった。そして、彼はボトゥカトゥにあるUNESP(サンパウロ州立大学)の知り合いの教授のプロジェクトを手伝い始めたらしい。そして、今年修士課程の試験を受けて、来年から修士課程に進もうと計画しているということだった。さらに、博士課程にも行こうと考えているので、それなら論文を英語で書けないまでも、英語の文献を読みこなさなくてはいけないから英語が必要ということに思い至り、私と一緒に英語を勉強しようと考えたようだった。日曜日しか時間がないので、日曜日の午後英語のレッスンをする予定だったフランは、やはり物理的になかなか時間が取れないみたいで、レッスン開始がずっと延期になっている。大学を卒業するまでは時間を作るのが難しいのではないかなと思っていた私の予測が何だか当たったみたい。まあ、そんなこんなで、現在は、月曜日の夜はムリロ、火曜日の午後はカミーラ、水曜日の夜はルーカスとジョゼ・ハファエウ、土曜日の午後はマテウスと、5人の生徒さんを教えている。
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2019年2月10日(日) | ||||
2月5日付けニッケイ新聞の「コラム 樹海」の「アユタヤ日本人町の二の舞を演じるな=サンパウロ新聞廃刊について思うこと」という記事を読んで、サンパウロ新聞が廃刊したことを知った。この記事のサイトは、こちらへ。 この記事を見て驚いて、サンパウロ新聞のインターネットサイトを見てみると、わずかだけれど、新しい記事が掲載されているので、一体どういうことだろう?と混乱した。そして、サンパウロ新聞でひとりだけ知っている記者さんにメールでお尋ねすると、「昨年末で廃刊となったのは事実で、我々編集部員などは全員、解雇(クビ)になりました。そのため、紙媒体は完全に発行していないのですが、幹部の意向でインターネット版のみ、一部の人間が別の形で継続しているという変な形です。読者の皆様には訳が分からないだろうと、申し訳なく思いますが、幹部が決めたことなので、我々雇われだった身にはどうすることもできません」「私は現在のインターネット版にはまったく関与していないため、詳細は分かりませんが、翻訳できるブラジル国内面の記事のみが(一部、日本の支局からの社会面記事もあるようですが)ネット上に掲載されている状態のようです。廃刊の原因は1世の読者減少と会社の経営難などが主な原因で、数年前から厳しい経営状態に陥っていたようです」という返信をいただいた。彼は現在フリーランスで、サンパウロにある月刊日本語雑誌「ピンドラーマ」の記事書きや営業、その他各種日系団体イベントの撮影などを、少しずつやっているということだったけれど、大変だろうなと思った。日本語を理解する日系人人口の減少に関する私の危惧が、すでに現実として起こっていたことに、わかってはいたものの、とうとう来たかと唖然とした。 | ||||
2019年2月11日(月) | ||||
元サンパウロ新聞の記者さんとのメールのやり取りの中で、ついでと言っては何なのだけれど、ニッケイ新聞に掲載された私の記事のサイトをお送りして、ご意見、ご助言をいただけないかとお願いした。すると、「確かに日本政府などにもっと協力してほしいところですが、これまでの取材などから、いかに日本政府がブラジル日本移民およびその子弟に対してリップサービスだけでの対応であるかを痛感してきました。本当に難しい問題だと思います。 大学の研究者にしても、全部ではないですが、自分たちの研究を優先させるために、日系社会の資料を利用する人も数多く見て来ました。中には、日系社会の資料を自分のものとして持ち帰り、返却しない人も過去にはいたので、どこまで日系社会の資料を見せるのかも難しいところです。・・・日系社会でもそうした議論を深めてほしいですが、実際はなかなかそこまでいかないのが実情ですね。まあ、自分たちのできることをやって、次の世代に期待するしかないと個人的には思っておりますが」という返信だった。日本から取材や調査で来た人たちが(NHKの取材班ですら)、資料を返却せずに日本に持ち去ってしまうケースがままあるということは、映像作家の岡村さんからも聞いていたので、そのことに関する指摘には驚かなかったけれど、私の思いがどうあろうと、現実は厳しいということを再認識させられた感じはした。ちなみに、この記者さんもホームページを開設しておられて、移民の方々の記事を掲載されているので、香山文庫のサイトでもぜひリンクを張ろうと思った。彼のホームページ、「マツモトコージ苑」は、こちらへ。 | ||||
2019年2月12日(火) | ||||
昨年の12月くらいから週に3回前後、マウリシオが手伝いに来てくれるようになったので、手伝いの人たちにやってもらいたくてもずっと実行できないでいた様々な作業が次々に進むようになりとてもうれしい。次の1枚目の写真は、ランドマークの木の前と車寄せのエリアを撮ったもの。ランドマークの木の前に積み上がっていた砂を地面に広げて、雨が降った後に車が入ってきても地面がドロドロにならないようにしてもらった。それでランドマークの木の前の砂利と砂の山が消え、この場所がすっきりとした。2枚目の写真は、ガレージから伸びる滑走路のようなコンクリートの先に、砂で道を作ってもらって、完成した状態。この砂の道に沿って右に回り込むと、以前写真を掲載した砂利の道につながるようになっている。そして、右前方にはまだ2つほど砂の山が見えるけれど、それよりも手前にあった砂の山と、砂利の山はきれいになくなり、ここもすっきりとし、広くなったような感じがする。
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2019年2月13日(水) | ||||
数年前に、サンパウロ在住の映像作家の岡村さんが数人の学生さんたちと来てくださった際、お土産にくださった数冊の本をぼちぼち読んでいたのだけれど、浅田次郎著の「蒼穹の昴(そうきゅうのすばる)(上)(下)」の2冊だけがまだ未読で残っていた。中国の歴史物のようなので、ちょっと食指が動かず、読むのが億劫だったから。でも、昨年のクリスマス直前の落雷で停電し、いつ電気が復旧するかわからない状態で、何もできなかったため、ようやくこの本を読む気になり、読み始めた。するとぐいぐい引き込まれて、電気が復旧した頃には1冊目の3分の2くらいを読み終えていた。それから、時間のある時にぼつぼつ読んで、2月6日に2冊を読了。とてもおもしろい本だった。私は昔から小説よりも、例えば、犬飼道子氏などのエッセイの方が好きで、あまり小説を読んでこなかったのだけれど、山崎豊子氏にしろ、この浅田次郎氏にしろ、すごい才能を持った人たちの書いた小説というのはこれほどおもしろいものなのかと、目から鱗だった。そして、食わず嫌いは良くないなとつくづく思った。それにしても中国の文化というのは日本のそれとはまったく異なり、とても暴力的で恐ろしいと思った。この物語の舞台は、清朝末期の時代なのだけれど、北京のカトリック教会の神父が、併設された孤児院の子供たちにガラス工芸は教えても、主の教えについては教えない。それは親のいない子供らが、異端者として生きることを望まないからだとあった。ただ、読み書きといくつかの戒律だけは教えていて、その戒律は、「一つ、盗むな、二つ、兵士になるな、三つ、子を捨てるな」とあった。ここに「嘘をつくな」がないのは如何にも白髪三千丈の中国らしいなと思った。そしてこの部分だけでも何となく中国の文化や習慣が垣間見えるような気がした。おそらくこれは今もたいして変わっていないのだろうなと思う。
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2019年2月14日(木) | ||||
次の写真の1枚目は、日曜日の朝ジョゼ・ハファエウが持ってきてくれた大量のアセロラとズキーニ。彼はうちに来る際、自宅で収穫したものをよく持ってきてくれる。感謝。感謝。ちょうど、日曜日の朝食で前回彼からもらったアセロラで作ったジュースを飲み終えたので、またあらたにこのもらったアセロラの半分でジュースを作った。2枚目の写真は、家の前でアンテナやコンピュータを出して、衛星の通過時間に合わせて何かやっているエドソンとジョゼ・ハファエウを食堂の窓から撮ったもの。
2019年2月12日付けのニッケイ新聞に、『被爆者平和協会の3人を顕彰=平和普及活動に州名誉功労賞=「亡くなった皆と一緒に受賞」』という記事があった。会長の森田さんは94歳になられても、尚、元気で頑張っておられるんだなあ・・・。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2019年2月15日(金) | ||||
次の写真は、家の前の水道の蛇口の側にある植物を撮ったもの。これはカストロの蓼沼さんからいただいた水仙が咲いていた植木鉢なのだけれど、しばらくすると水仙の葉がすべて枯れてしまい、何もなくなってしまっていた。でも、最近草が生えてきて、白いような薄ピンク色のような花が何度も咲くので、抜いたりせずにそのままにしていた。すると先日、手伝いのマウリシオがこれはゴマだよと教えてくれた。自然に生えてきたので草だとばかり思っていたのだけれど、水仙が枯れてしまった後、この植木鉢の上にテトラパックを置いて、ゴマの種を蒔いて芽がでるかどうか試してみたそのゴマがこの植木鉢にも落ちて生えてきたのだろうか?試験的にゴマの種を蒔いて、芽が出たものは、モリンガの足元に移植したのだけれど、十分な水を毎日あげることをしなかったので、そっちの方は枯れてしまったのに、こちらは元気に育っていたなんて・・・。
昨日に続き、同じく2月12日付けのニッケイ新聞に、『楽書倶楽部=初の「大賞」作品は広川さん=80歳女性のときめき描く』という記事があった。同人の皆さんの間で好きな記事を選ぶ投票が昨年末行われ、たぶんこの2月号で結果発表があるのだろうなと思っていたのだけれど、この新聞記事で一足先にその結果を知ることになった。1位の広川さんと2位の村上さんはおふたりともほぼプロのような小説を書かれるので、さもありなんと思ったけれど、何と、昨年10月号用に書いた「おもしろい日本語と英語の違い」という私の駄文が有澤さんの文章と同数票の3番手に選ばれていたことを知り、びっくり!内容はラジオ番組の受け売りなので、何だかむしろ恥ずかしく、穴があったら入りたい気分になった。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2019年2月16日(土) | ||||
マウリシオは、とても目の行き届く人で、家の回りでチコチコ(スズメの一種)の巣や、野バトの巣などをよく見つけては私に教えてくれる。次の写真は、家の前の庭の糸杉にチコチコの巣があると言って教えてくれたので撮ったもの。1枚目の写真は、糸杉のあまり高くない場所、ちょうど私の目の高さにあるその巣を撮ったもの。2枚目の写真は、その巣の中を撮ったもの。卵が2つあるのが確認できる。
次の写真は、同じくマウリシオが教えてくれたマリンボンドの巨大な巣。家の西側の庭の数本の桜の木のうちの一番奥にできていた。このさらに奥にはヒメシマダケの林があるので、桜の木の回りにヒメシマダケの芽が出てくると、その芽を折って林が広がらないようにしている場所なので、知らずに近づいたら攻撃されるところだった。危なかった。
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2019年2月17日(日) | ||||
簡単な大工仕事ができ、畑作りが上手な手伝いのゼーが、数年前に畑の隅っこに植えてくれた植物が、何もしなくても青々とした葉を茂らせ、ずっと元気にしているのだけれど、それが何なのかわからず、ずっと手つかずでそのままにしていた。先日マウリシオが畑の草取りをしてきれいにしてくれた際、この植物の根は食べることができるんですよと言って、いくつか掘り起こしてくれた。見かけはしょうがのような植物で、アサフラオン(açafrão)と言うのだそうで、エドソンが調べてみると体にともて良いものだということがわかった。さらに英語名を調べてみると、ターメリック(termeric)だということがわかり、なあんだ、つまりカレーの材料になるあの黄色いウコンなんだと納得した。ターメリックにはクルクミンという黄色ポリフェノール化合物が含まれていて、抗腫瘍作用、抗酸化作用、抗アミロイド作用、抗炎症作用など様々な効用があり、アルツハイマー病に効果があり、リュウマチの痛みを軽減したりもするという。それで先々週の土曜日に早速、エドソンが鶏肉料理にこれを刻んで混ぜて調理してくれた。ちょっとしょうがに似た味と匂いがするのだけれど、自己主張がそれほど強くなくなかなかいい感じだった。ただ、しょうがと違って、ターメリックは皮をむいたり、刻んだりすると、まな板も包丁も指も黄色く染まるのがちょっと困ると言えば、困る。以後、時々刻んでお米に混ぜてご飯を炊いたりもしている。次の写真は、そのアサフラオン。今まで畑にこんなお宝があることを知らず、宝の持ち腐れだったことを反省。そして、教えてくれたマウリシオに感謝。マウリシオは植物や動物のことを本当に良く知っている。
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2019年2月18日(月) | ||||
12日(火)の夕食の時、エドソンがジャーナリストのヒカルド・ボエシャ氏がカンピーナスからサンパウロに戻る途中、ヘリコプター事故で亡くなったと、話していた。最近はブラジルのテレビのニュース番組を見なくなったけれど、ブラジルに来たばかりの頃はこの人がメインキャスターを務めるTVニュースをよく見ていた。エドソンのお父さんのようにくぼんだ目をしていて、何となく好きなキャスターだったので驚いた。翌13日付けのニッケイ新聞に、「《ブラジル》著名キャスター、リカルド・ボエシャがヘリで墜落死=タブーなし、厳しい批評で有名」という記事があったので、その記事にリンクをはってみた。この記事のサイトは、こちらへ。 この土曜日から日曜日に日付が変わる午前0時に夏時間が終わり、日曜日から通常時間に戻った。これでまた日本との時差はマイナス12時間。このところ朝起きる時間がだんだん薄暗くなってきていたので、通常時間に戻り、またしばらく明るい中で起きることができるようになったのはうれしい。例年は、夏時間が終わっても、特別な感慨はないのだけれど、今年は、何ヶ月も続いた暑い日々のせいか、ああようやく終わったかと、ほっとした感じがあった。でも、実際のところ、2月に入り雨がよく降るようになり、お天気が悪く気温の低い日が多くなっていたので、夏時間が終わる前から気候の変化はすでにあったのだけれど、何故だか夏時間が終わったと思うと、ああ、やれやれと今年は思った。 | ||||
2019年2月19日(火) | ||||
先週、ペトロポリスの安見さんからメールをいただいた。毎年2月、カーニバル前後にピースボートがリオの港に入港するのだけれど、今年もやって来たと言うことだった。ちなみに今年のカーニバルは3月最初の週末。このポートは早朝リオ港に入りその日の夜10時には出港していくのだけれど、停泊している間、乗船者は色々なグループに分かれてリオを楽しむのだそう。その一つがリオ在住の日系人との交流で、リオ側の参加者は日本語が話せる人ということで、リオの老壮会のメンバーに声がかかり、毎回20~30名が参加し、安見さんご夫妻も今年で四回目の参加をされたと言う。リオ日系協会が招待するということで昼食を準備して、食事をしながらの懇親会で、「どうしてブラジルに来たのですか?住みやすいですか?物価はどうですか?」等々の質問で始まり、話好きの人たちが集まるのか、わいわいがやがやで、楽しかったと言う声が多くあるのだそう。そして、今回はピースボート側が夜にリオ側の14名を船内の見学と夕食に招待してくれたため、ご夫妻で参加されたと言う。安見さんは前からピースボートで世界一周をしたいと思っていたので船内見学に興味があったようだ。私にも様子が分かるようにと写真を沢山送ってきてくださった。以下に、そのうちの数枚を掲載してみた。安見さんはこれで世界一周してみたいのだけれど船酔いが心配で、船が大きいので揺れないよと言う人も居るのだけれど、今回聞いてみたところインド洋から喜望峰の間でかなり揺れたと言っていたので、やはり彼は参加出来ないと言う結論になったそう。ちなみにこの船の乗客数は1,000名。内日本人が800名、残りは台湾を始め東南アジアからで、乗組員は400名の規模なのだそう。写真を見ると、さすがに大きくて立派な船だ。船内もなんだかとても豪華。そして、食事がちゃんとした日本食なのには恐れ入った。私も子供の頃、瀬戸内海を広島から四国の松山に行くだけで船酔いするような人だったので、外洋に出る船には、いくら年をとって感覚が鈍くなっているとは言っても、乗ることはできないだろうなと思う。
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2019年2月20日(水) | ||||
先週、サンパウロ在住でメル友の毛利さんが楽書倶楽部主宰者の前園さんの事務所を初めて訪ねられると聞いていた。その後、前園さんからは、ひとりでお迎えするよりも何人かでお迎えしようと、広川さん、村上さん、鎌谷さん、松井さんにも声をかけて、みんなでお迎えして和気藹々と話が弾んだとメールをいただいた。毛利さんからも楽しい時間を過ごしたとメールをいただいていたのだけれど、今度は、前園さんから、その日に撮った写真ですと、以下の写真が届いた。去年から毛利さんとはメールのやり取りはしているものの、お目にかかったことはなかったので、毛利さんって、前園さんがおっしゃていた通り、美人で魅力的な方だなあと思った。1枚目の写真は、左から前園さん、村上さん、広川さん、毛利さん。2枚目の写真の男性ふたりが松井さんと、鎌谷さん。ああ、私もこの場でみなさんとの楽しいお話しに加わりたかったなあと思った。私もサンパウロに住んでいれば気軽に出かけて行けるのだろうけれど、ここからでは到底無理。だからと言って、サンパウロで暮らす気もさらさらないので、仕方のないことと諦めるしかないねと、自分自身と対話している。「両方(両頬)いいのは頬被りだけ」どちらかを取れば、もう一方は諦めなければならない。昔母が言っていた言葉を思い出す。
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2019年2月21日(木) | ||||
インターネット上で、2/18(月)23:17配信Japan In-depthの記事に、古森義久氏の「韓国反日感情、非は日本側に非ず」というのがあったので、以下にリンクをはってみる。この記事のサイトは、こちらへ。何で見たのだったか思い出せないのだけれど、最近、日中韓三ヶ国の物事の判断基準の違いについて書かれた文章を読んだ。それには、日本は何かを判断する際、それが正しいかどうかと考えて判断するけれど、中国はそれが損か得かで判断し、韓国はどちらが上か下かで判断するという内容だった。中国も韓国も法治国家ではないので、何とも言い得て妙だと思った。ことほど左様に、中韓は日本とは似て非なる国なのだということをはっきりと認識する必要があるとも思った。 | ||||
2019年2月22日(金) | ||||
郵便局に届いていた2019年2月15日発行の楽書倶楽部第46号を、この火曜日にエドソンが持って帰ってきてくれた。今回はちょっと早く届いたな、と思った。今年から新しいボウソナロ政権に変わり、様々なことが改善するといいのだけどと思っていたのだけれど、どうやら最悪だった郵便事情は、わずかながら改善の兆しを見せ始めているのかな?まだ断言するのは早すぎるけれど、正常な状態に戻ってくれることを切に願っている。次の写真は、その第46号で、以下は、その号に掲載された私の文章。この号のために書いた文章をニッケイ新聞に掲載していただいたので、急いで楽書倶楽部用にもう1本書いて提出したもの。
楽書倶楽部の今月号向けに、「日本の大学に日本人移民史研究学科を」という原稿を書いて、一月上旬前園さんに提出した。原稿を読んでくださった前園さんが、「あなたのおっしゃる通りだと思います」とメールをくださり、その考えをもっと理解してもらうために、ニッケイ新聞に掲載してもらいましょうと言ってくださった。そして、前園さんがニッケイ新聞と話をしてくださり、掲載していただけることになった。 その原稿には、日本の大学に日本人移民史を研究する学科をつくってほしい、そのために日系コロニアの中心にいる皆さんに動いてほしいという希望を書いた。ブラジルの日系一世や準二世の方々は高齢になられ、人口が減少し続けている。楽書倶楽部の同人の皆さんの間でも訃報を聞く機会が増えている。その訃報に接する度に、先細りする日系社会は今後どうなるのだろうと漠然とした不安を感じるようになった。日系社会の一世や準二世の方たちが皆いなくなってしまったら、これまでのような日系社会は消滅して、百十年におよぶ皆さんのご苦労がなかったことになるのではないかという危機感を覚える。このブラジルで頑張ってこられ、立派な日系社会を築き、ブラジルに一言では言い表せないほどの多大な貢献をしてこられた皆さんのことを記憶に留め、後世に伝えて行くために、日本の大学に移民史を研究する人を育てる専門学科を設立してもらえないだろうかと考えたのだ。 リオやサンパウロに移民資料館があり、日本にもJICAの横浜本部に海外移住資料館(http://imingakkai.jp/index.html)が併設されていることは知っている。広島でも二十年ほど前から移民資料館を作る計画があり、文化担当職員がアメリカ(カリフォルニア、ハワイ)、ブラジル、ペルーなどからたくさんの資料を収集して持ち帰っているという。ただ広島の場合、比治山の放射線影響研究所が移転した後、そこに資料館の建設を予定しているものの、放射線影響研究所の移転先が決まらないため進展していないと聞いている。移民資料館を作って、日本人移民のことを記憶に留めようとする努力に反対する気持ちはまったくない。それはそれでとても意味のあることだと思う。ただ、資料館という箱物だけではなく、移民史を様々な角度から深く掘り下げて、研究する人たちを継続的に育てて、それらの記憶に血を通わせることも必要なのではないかと私は思うのだ。毎年毎年、若い人たちがその研究学科に入ってきて、様々な研究をし、現地調査で例えばブラジルを訪れ、日系社会に触れ、さらに深く移民の足跡を知る一方、ブラジルの日系社会もそんな彼らに触発されて、先達の記憶を留めようと努力する。そんな好循環を私は期待したい。 一般の日本人にとってブラジルは物理的にも、精神的にも、とても遠い国だ。日本国外で最も多くの日本人の子孫が暮らす国で、一世や準二世の人たちが日本人であることを片時も忘れることなく、私たちの想像を越えた血の滲むような長年の努力の結果として尊敬を勝ち得、一般のブラジル人の日本や日本人に対する印象がすこぶる良く、皆ともて親日的なのだということはほとんど知られていない。一般の日本人のブラジルに対する印象は、サッカー、カーニバル、アマゾン程度でしかない。近年は日本に出稼ぎに行く日系子弟が多く暮らすことで、より身近になった面もあるけれど、決して肯定的な印象ばかりではない。昔、多くの同胞が移住してどれほどブラジル社会に貢献してきたのか、現在彼らがどんな眼差しで日本を見つめているのかなどに、まったく関心がないように私には思える。それを何とか変えて、お互いにより良く理解し合うためにも、日本人が自分たち自身を見つめ直す機会にするためにも、日本移民を研究する人たちを育てる意義はあるのではないだろうか。 私はブラジル人の夫と共にブラジルに来て、この三月で丸十年になる。夫は四~五世代目の生粋のブラジル人だけれどジェイチーニョが大嫌いという真面目な性格で、一般的なブラジル人の価値観よりも、日本人の価値観の方がよほど親和性があるような人。その上、成人してからずっとアメリカや日本で暮らしていたため、ブラジルが故郷とは言っても頼りになる友人知人がほとんどおらず、まるでポルトガル語を流暢に話す外国人のような感じで、ブラジルの理解困難な人々の価値観や言動に振り回されてヘトヘトになることの多い十年だった。でも、振り返ってみると、わからないことや困ったことがあるといつも私が頼っていたのは、ブラジルに来てから知り合った一世や準二世の方たちだった。ブラジルに日系社会がなかったなら、私たちのここでの生活はもっとずっと大変だっただろうと、つくづく思う。香山文庫を私に引き継いでと言ってくださった香山さんや、前園さんを始めとする親しく知り合った楽書倶楽部の皆さんには本当にお世話になってきた。皆さんに直接何かをお返しすることはできないかもしれないけれど、そのご恩に報いるためにも、恩送りの精神で、将来を見据えて私に何ができるだろうかと考えながら今年は新年を迎えた。 | ||||
2019年2月23日(土) | ||||
昨日は私の誕生日だった。平日だと、夜英語のレッスンがあったりして、ゆっくり夕飯を作って食べているゆとりがないのだけれど、金曜日ということもあり、エドソンが私の希望に沿って夕飯にフィレミニョンのローストビーフを作ってくれた。うちでは誕生日と言っても、外食することもなければ、プレゼントを贈ったりという特別なことは何もしないのだけれど、お互いに食べたいものを作ってお祝いするというのが定番になっている。ほぼ毎週末一度は夕飯を作ってくれるエドソンではあるけれど、誕生日には何が食べたい?と、聞いてくれて、それを作ってくれたので、それだけで私はとてもうれしい。ちなみに、パーディーニョのスーパーのケーキは、日本で普通に手に入るような甘さ控えめのケーキではなく、甘ったるくて重いケーキなので、パーディーニョの自宅で注文に応じておいしいケーキを作っている女性に頼んで作ってもらおうと話していたのだけれど、エドソンの事務所で働く女性スタッフのひとりのご主人が、やはり注文に応じてケーキを作ってくれるという情報をルーカスから得て、エドソンはその人に注文した。次の写真が、持って帰って来てくれたそのケーキ。いちごと生クリームのケーキを頼んでくれたのだけれど、ケーキの上にいちごは乗っておらず、スポンジケーキの部分が三層になっていて、その間にも生のいちごははさまれておらず、いちごを丸ごとジャムにしたものがはさまれていた。ちょっとイメージしていたものと違ったのだけれど、味は甘ったるくはなかったし、まあいいか?ありがとう。
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2019年2月24日(日) | ||||
入り口ゲートに向かう道沿いに植えた黄色い花が咲く木が、今年もたくさん花を咲かせて満開状態なので撮ったのが次の写真。この木はあまり大きくならないようで、現在も私の腰ぐらいの高さ。大きな木ではなく、ノイヴィーニャやハイビスカスの後ろの列に植えているので、あまり目立たないけれど、さすがにこれだけたくさん黄色い花が咲いていると、見逃すことなく気づくことができた。
私もエドソンも焼きナスが好きなのだけれど、和ナスが滅多に手に入らないので、作る機会は非常に少ない。先月、久しぶりに和ナスが手に入ったので作ると、エドソンがおいしいおいしいと言って、また作ってほしいと言うのだけれど、洋ナスでは同じようにはできないだろうと思っていた。でも、エドソンが何度か洋ナスを買ってきて、作ってというので、先日ようやくその洋ナスで作ってみた。結果から言うと、やはり洋ナスでは同じようにはできなかった。ナスはナスでも洋ナスと和ナスは別物なのだと実感した。まず、皮も実も洋ナスは和ナスよりも固いので、切り分けて大きさを小さくしても、なかなかうまい具合に焼けず、オーブントースターで和ナスを焼く時間の3倍の時間をかけて焼いてみたのだけれど、それでも、まだ皮は固く、手で剥くことができずナイフを使って剥く始末。そして、実は柔らかくなった部分とあまり柔らかくならなかった部分があり、種がコリコリと固く、舌触りが良くなかった。そんなわけで味も和ナスで作った焼きナスのような具合にはならず、食べられないわけではないけれど、やはり和ナスで作った焼きナスの比ではないという結論に達した。ああ、どうして日本の食材はこうもおいしいのだろう? | ||||
2019年2月25日(月) | ||||
先日、今年の私の英語の生徒さんは4人で、日本語の生徒さんが1人来るようになったので合わせて5人を教えていると書いた。でもその後、仕事と学校で超多忙のためよく体調を崩していたので、去年はレッスンを止めていたヴィトーが、昨年末で学校が終わったから再開したいと言って来た。そして、ジョゼ・ハファエウのガールフレンドのヤスミン(Iasmyn)は、パーディーニョの病院でのお昼過ぎまでのインターンシップと午後から大学に行く間の時間に、平日の午後レッスンを受けたいと言っていたのだけれど、ここに来る足がないらしく、来るのは無理なようだった。すると、毎週日曜日にジョゼ・ハファエウがエドソンのところに来る際、一緒に連れて来て、彼がエドソンと一緒にプロジェクトをやっている間にヤスミンにレッスンをしてもらえないかと言ってきた。それで日曜日に来たいと言っていたフランはどうも来れそうにないので、代わりにヤスミンを受け入れることにした。さらに、2月の新学期になっても何も連絡がないので、止めたのだとばかり思っていたルイーザが、つい最近になってから再開したいと連絡をして来たため、木曜日の午後受け入れることにした。ここの人たちはレッスンを止める際、止めるとは言わず、しばらく休むと言って来なくなったり、まったく何も言わず、突然来なくなったりするので、ルイーザも音沙汰がなかったので止めたのだろうと思っていたら、そうではなかったので、ちょっと驚いた。そんなこんなで私のスケジュールをまとめると、月曜日の夜、ヴィトーにはムリロに合流してもらい、火曜日の午後はカミーラの日本語、水曜日の夜はルーカスとジョゼ・ハファエウ、木曜日の午後はルイーザ、土曜日の午後はマテウス、日曜日の午後はヤスミンというスケジュールになり、英語の生徒さん7人と、日本語の生徒さん1人を教えることになった。それでレッスンがないのは金曜日だけになった。でも金曜日は掃除をする日と決めているし、金曜の夜はゆっくりしたいので、これで私の1週間は一杯になった。ちなみにレッスンではないけれど、月に2回、木曜日の夜、パーディーニョに老人ホームを作ろうとしている財団の例会をうちで受け入れているので、さすがにこれ以上のレッスンは体力的に受け入れる自信がない。何とか体調を崩さないようにがんばらなくてはと思う。次の写真は、この日曜日にヤスミンのレッスンが終わった後、ヤスミンとジョゼ・ハファエウに私のバースデーケーキを食べてもらっているところ。
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2019年2月26日(火) | ||||
広島の友人が、スーパーで買ったという以下の桃とフリージアの写真を送ってきてくれた。毎年この時期にこの花を見て、梅だとばかり思っていたのだけれど、今回、これを買った際、名前を見たら桃と書かれていたので、梅ではなく桃だったんだと初めて気づいたと書いていた。彼女のおばあさんの名前がウメだったので、今の時期にこの花を見る度におばあさんのことを思い出していたのだけれど、とんだ勘違いだったので、おっちょこちょいな孫に苦笑しているだろうと言っていたのがおかしかった。
まあ、この時期は桃の節句だし、桜よりも一足先に梅が咲き始め、同じ時期に咲く花なので、どっちがどっちと見分けるのは難しいかも・・・と、思った。それで、ネットで調べてみると、基本(1)花弁(花びら)の形(2)花柄(3)幹(4)香りで見分けるのだとあった。以下がその詳細。 | ||||
2019年2月27日(水) | ||||
最近テレビでよく見るようになったルノーのコマーシャルを見ながら、どうしてこんなブラジルのノヴェラ(連続テレビドラマ)のようなコマーシャルを作るのだろう?と、ちょっと暗い気分になっている。以前にも書いたことがあるけれど、ブラジルのノヴェラは嫉妬、恨み、妬み、嘘、仕返し、裏切り、人の不幸せは蜜の味と言った、おどろおどろしい内容のオンパレードで、それが嫌で、もう見なくなって何年にもなる。それなのに、どうしてコマーシャルまでそんなネガティブな内容で作ってしまうのだろうか?と思った。ブラジルの文化と国民性を反映していると言えば、それまでなのだけれど、日本ではまずお目にかからないタイプのコマーシャルだと思う。これはフランス人の感性なのだろうか?それともブラジル人の感性なのだろうか?どういうコマーシャルかは、以下の写真を見てもらったら何となくわかってもらえるのではないだろうか?とにかく不幸せ度100%と言った感じの怖い顔の人たちが出てきて、角付き合わせて言い争いをする内容で(何を言い争っているのかは私にはわからないけれど)、車の宣伝とはまったく関係なさそうな印象を見ているものに与える。こんな不幸な言い争いの種になるような車を買いたいと思う人がいると製作者側は思っているのだろうかと不思議でたまらない。ああ、嫌だ。見たくはないのだけれど、コマーシャルなので、番組の途中で嫌でも目にするため、どうすることもできない。
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2019年2月28日(木) | ||||
2019年2月26日付けニッケイ新聞の「コラム 樹海」に、「元隠れキリシタンが作った保和会の役割」というのがあった。隠れキリシタンの人たちが結構たくさん、ところによってはほぼ小さな村ごとブラジルに移民してきていることは、以前何かで読んだことがあるけれど、この記事で、ブラジルでのその後の様子を垣間見ることができた。この記事のサイトは、こちらへ。
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