Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2018年10月1日(月)

次の写真は、家の西側のランドマークの木の側の坂を下りたところにあるジャカランダの木。先週、この木に花が咲いているのに気づいたので撮ってみた。ジャカランダは木を植えて10年くらいしないと花を咲かせないと聞いていたので、花が咲いているのに気づいた時は驚いた。うちのジャカランダは苗木を植えてから、まだ5~6年くらいしか経っていない。木はだいぶ大きくはなってはいるけれど、まだ大木にはなっておらず、当分花は咲かせないだろうと思っていた。うちからボトゥカトゥに行く途中の道沿いの農家に大きなジャカランダの木があり、毎年今の時期に木全体に見事な青紫の花を咲かせているのが見えて、とてもきれいなのだけれど、うちの花をアップで撮って見ると、花の色は青紫というよりもラベンダー色だなと思った。そして、イペーの花よりも小さいけれど形がイペーの花に似ているとも思った。それにしてもうちで初めてジャカランダが花を咲かせてくれ、身近で眺めることができ大感激!うちにはもう1本ジャカランダの木があるのだけれど、こちらの方はランドマークの木の横の、ヒメシマダケの林の中に埋もれてしまっていて、木が見えなくなってしまっているので、回りの竹を取り除いた方がいいかなと思い始めている。

2018年10月2日(火)

数ヶ月前、家の南側の三角地帯にあるグレヴィーリャの1本に黄色い花が2つ3つ咲いているのを見つけて、初めてだったので驚いたとブログに書いた。それから数ヶ月後に、またいくつもの花が咲いたと書いた。そして、今回が三回目になるのだけれど、あれから花がどんどん増えて、たくさんの花で花盛りになっているので、また写真を掲載することにした。何本もあるグレヴィーリャの内、この1本だけが花盛りというのも不思議なのだけれど、こんな風に長い時間をかけてゆっくり花を咲かせるこの木の性格が、何だがおっとりのんびりしていていいなあと思う。

2018年10月3日(水)

先週の土曜日、久しぶり(3ヶ月ぶりくらいかな?)にドナ・クレウザとマウリシオが手伝いに来てくれた。ドナ・クレウザには例によって下の部屋やガレージ、シュハスコ小屋、窓拭きなどの掃除をしてもらい、マウリシオには家の回りの草取りなどの外回りの仕事をしてもらった。1枚目の写真は、泥のついた車の車輪で汚れたガレージの床をきれいにしてくれているドナ・クレウザ。2枚目は、下の部屋の前の草取りをしてくれているマウリシオ。向こう側の窓に、カメラを構えてマウリシオの写真を撮っている私が写り込んでいる。

次の写真は、マウリシオが森の竹林から採ってきた長い竹の先にほうきを縛り付けてくれ、ドナ・クレウザが窓の周辺にできている蜘蛛の巣を取り除いてくれているところ。その側で、マウリシオはガレージに向かうコンクリートの2本の道の間の土を少し取り除く作業をしてくれている。この部分の地面を少し低くして、この部分を含め、下の部屋やガレージの前に白い砂を敷き、砂利を敷こうとエドソンは考えているらしい。

2018年10月4日(木)

ペドレイロのミウソンは、離れの基礎工事を始めてくれたものの、砂や砂利が配達され、その後レンガも配達されたのに、3週間ほど作業に来てくれなかった。月曜日の朝食後、シュハスコ小屋の流しで鶏に与えるエサの準備をしていると、ワンコたちがワンワン吠え、手を叩く音がしたので、顔を上げると、ベランダの向こうにミウソンが立っていた。急いで入り口ゲートの鍵を取ってきて渡し、入ってきてもらった。その後、洗濯などを済ませて、台所の野菜クズなどを埋めに行くために外に出ると、建設現場の側にトラックが来ていて、砂や砂利を下ろしていた。以前配達された砂と砂利は、雨が続いた直後だったため、エドソンが指示して狭い建設現場ではなく、ランドマークの木の側に下ろしてもらったのだけれど、現場から距離があるため、やはり側にないと不便ということで、それらを重機を使って現場に移動させる話になっていた。でも、重機の都合がつかなかったらしく、エドソンが許可をして、再度配達してもらったということだった。ランドマークの木の側に下ろしてもらった砂と砂利は入り口ゲートから家まで続く道の補修に使うから無駄にはならないというのがエドソンの説明だった。お昼過ぎに、めいとのお散歩に出ると、ミウソンたちはもういなくなっていたので、配達を受け取るためにだけ来たのかな?と思い、入り口ゲートの鍵をかけた。でも、夕方帰宅したエドソンが、ミウソンたちは午後からまた戻ってきて、基礎部分にセメントを入れたみたいだねというので、ゲートの鍵は閉めたのに、どうやって入ってきたんだろう?と聞くと、鍵は開いていたよと言う。「えっ?閉めたつもりが閉めていなかった?ボケたか?」と思った。

そして、翌日の火曜日の午前中、森の手前の果樹園の桑の葉と実を採りに出ると、ミウソンたちが来て作業をしていたので、またびっくり。彼らが来ることがわかっていて、エドソンが仕事に行く際ゲートの鍵を開けたままで出かけたのかと思い、念のためエドソンにメールで連絡すると、出かける際、ゲートのところでちょうどミウソンが待っていたので、中に入れたということだった。そして、月曜日の午後はどうやって入ったのかと聞くと、ゲートの鍵がついている一番先の鎖を切って、無理やり入って来たということがわかり、エドソンも私も少々腹が立った。何故そんな破壊行為を平気でするのか理解に苦しむ。昼間はエドソンが仕事に出ているので、ここにはワンコたちと私しかいないのだから、彼らが作業を終えて帰って行けば、当然のことながらゲートの鍵はかける。お昼に一旦家に戻って、午後からまた作業に来るのであれば、私に一声掛けてくれても良さそうなものを・・・。ほんのちょっとのコミュニケーションの手間を省かないで欲しいものだと思った。それで、今後、作業を中断して、また戻ってくる場合はいいけれど、仕事を終えて帰る際は必ずゲートの鍵をかけて帰ってとエドソンからミウソンに言ってもらった。次の写真は、水曜日の朝一番のめいとのお散歩に出た際撮った建設現場。床下部分の壁が少し立ち上がってきているのがわかる。

2018年10月5日(金)

昨日の午後5時を過ぎた頃、居間の西側の窓から見える葉を落としたフランボヤンの木の枝に、野バトが2羽仲良く止まっていたので、次の写真を撮った。風もなく穏やかで、のどかな夕暮れのひととき。

次の写真は、ベランダの側の芝生の上に置いたワイルドベリーに白い花がいくつか咲いているので撮ったもの。花が咲いている枝の背後の枝には、この花よりも前に咲いた花が散り、緑色のベリーが実を結んでいる。地植えにしようしようと思いながら、いまだにぐずぐずと実行していないため、相変わらず鉢のなかで細々と生きながらえている。申し訳ない。

2018年10月6日(土)

広島には、町のほぼ中心、平和公園の南側を、西は己斐から東は比治山まで東西一直線に結ぶ片側二車線の広い道路がある。この道路は100メートル道路とか、平和大通りとか呼ばれている。100メートル道路という名前は、この道路の幅が両側の緑地帯やアクセス道路を含めて100メートルあるから。そして、平和公園の東側の100メートル道路沿いには大きなホテルが複数立ち並んでいて、緑地帯には数多くの木が植えられている。それらの木の中にはイチョウの木が何本かあり、秋になるとぎんなんが鈴生りになるらしい。次の写真は、三井ガーデンホテルの斜め前のイチョウの木と、鈴生りになっているぎんなんを、このご近所の職場で働く友人が撮って、送ってくれたもの。

この木から少し離れた所で道路沿いの芝生の清掃をしている人たちがいたので、そのひとりに声をかけて、「実が落ちたら拾って持ち帰って良いの?」と聞いたところ、「早いもの勝ちよ」と言われたので、台風24号が去った翌朝6時に家を出て、車を飛ばしてぎんなんを採りに行ったのだそう。次の写真は、その2日後、拾ってきたぎんなんの黄色の皮を洗って、ベランダに干したところ。これを後で煎っていただこうと楽しみにしているということだった。2枚目の写真は、15年くらい前に百貨店で買ったぎんなん専用のペンチと煎り具だそう。へえ~、こういう専用の道具があるのか・・・。知らなかった。ぎんなんは茶碗蒸しの中に入っているものしか私は食べたことがないけれど、煎って食べたりもするんだ。こうやって秋の味覚を楽しむのもいいものだなあと思った。

2018年10月7日(日)

金曜日の夜、エドソンがまた、ルーカスとガールフレンドのパローマを夕食に招いた。事務所でルーカスと話していて、ガーリックやタイムなどでしっかり下味をつけて焼いたローストポークが好きという話をエドソンがしたらしく、ルーカスが食べてみたいと言ったからということだった。ジョゼ・ハファエウもルーカスもいい子たちなので、エドソンは彼らと関わるのが楽しいのだろうなあ。まあそれはともかく、金曜日の夕飯は、ローストポークと、人参サラダと、レタス、ルッコラ、きゅうり、ミニトマトのサラダと、ガーリックライスを作り、デザートはいちごに生クリームとメイプルシロップをかけたものを出した。テーブルの向こう、ランの花の鉢植えが並ぶ手前のワインカラーの飲み物は、初めて作った桑の実のジュース。ルーカスとパローマはワインも飲むので、夕食の前にはワインを飲みながら、私の英語の生徒さんでチーズ職人のムリロが作った青カビのチーズを少し出して食べた。でも彼らはワイン飲みというわけではないので、ワインだけでなく、こういう飲み物を出したら飲むのではないかと思ったら、やはり食卓についてからはワインのお代わりをせず、桑の実のジュースの方を飲んでくれた。彼らのワイングラスに入っているのは、その桑の実のジュース。ちょっと赤ワインよりも色が薄いので、ロゼワインのようにも見える。飲んでみると、ちょっとワイルドな桑の実の味もして、なかなかいいじゃないと思った。エドソンにも好評だったので大成功!このジュースを作るためにできたシロップを赤ワインに少し混ぜたり、牛乳に混ぜたりして試飲してみたのだけれど、どれもいい感じだった。これまで桑の実で作るものはジャム一辺倒だったけれど、シロップ作りが成功したので、いろいろ応用できそうだなと思った。

2018年10月8日(月)

金曜日にワンコたちとのお散歩に出た際、坂を下りた辺りに大きなタケノコが1本生えているのを発見した。それが以下の写真の中央の茶色いもの。8月9月とよく雨が降ったので、そろそろタケノコが生えてくるかもしれないねとエドソンと話していたのだけれど、すでにこんなに太くて大きなタケノコがニョキッと生えていたので、びっくり。それで辺りを見回して見ると、数本芽が出てきていた。

小さな芽でも、放っておくとすぐに大きくなってしまうので、土曜日の朝、早速、掘り起こして5本のタケノコを収穫。それで、すぐに皮をはいで、半分に切って、鍋で茹で始めたところが次の写真。タケノコは採ったらすぐに茹でて保存するのが一番いいようなので、即実行。そして、この写真のタケノコのほとんどを日曜日の夕食で今年初のタケノコご飯に使用。エドソンが以前買ってきて残っている里芋も一緒に入れてと言うので、タケノコご飯に里芋?と思ったのだけれど、要望に応えて里芋も入れて炊いてみたところ、全然違和感がなく、案外おいしかった。先日は広島から秋の味覚のぎんなんの便りが届いたけれど、こちらは春なのでタケノコの季節到来!今年も旬の味覚を堪能できる幸せに感謝。日曜日にはエドソンが家の東側の庭から、2本のタケノコを見つけて掘り起こしてきてくれたため、これらもすぐに茹でて、冷蔵庫に保存。これらはまだ序盤戦なので、これからタケノコ掘りとタケノコを茹でる作業に忙しくなりそうな予感。

2018年10月9日(火)

先週、ペドレイロのミウソンたちが月曜日から金曜日まで毎日作業に来てくれたので、家の土台がしっかりと現われてきた。次の写真は、土曜日の朝撮った離れの建設現場。

この日曜日、ブラジルでは選挙の投票日だった。大統領だけでなく、連邦議会の議員、州知事などの投票が行われた。その中で一番の注目はもちろん大統領選挙。労働者党(PT)の元大統領のルーラが刑務所に入っているにも関わらず大統領選に出ようとして、認められず、副大統領候補だったハダジを大統領候補にしてキャンペーンを行い、一方、弱小政党で、メディアがことあるごとに揚げ足を取って極右だとレッテルを張り攻撃していたボウソナロとの対決になっていた。結果、ボウソナロが46%、ハダジが29%で、どちらも過半数に届かなかったため、10月28日に決戦投票が行われることになった。ハダジの29%というのは、コアな労働者党の信者の数なので、この数字は何があっても変わらないのだけれど、要するにコアな信者しかPTを支持しなかったということになるのだと思う。今回の選挙でうれしいニュースは、連邦議会議員に立候補していたPTのジウマ元大統領が落選し、その他の多くのPT議員も再選されなかったこと。そして、選挙が始まるまで弱小政党だったボウソナロの政党の候補者の多くが連邦議会議員に選出され、彼の政党が議会での最大勢力になったこと。軍や警察の関係者、教会関係者、地方の農業従事者など多くの団体が次々にボウソナロ支持を表明した結果なのだろうと思う。つまり、大多数の国民がPTに「ノー」と言ったことになる。この選挙の結果を伝える記事があったので、以下にリンクをはってみる。この記事はかなり左にバイアスがかかっていて、ツッコミどころ満載ではあるけれど、どんな状況かはある程度わかるのではないかと思う。この記事のサイトは、こちらへ

2018年10月10日(水)

次の写真は、ペトロポリスの安見さんがメールに添付して送ってきてくださった9月25日付けのサンパウロ新聞に掲載された私のエッセイ。楽書倶楽部の8月号に掲載された私の文章を、サンパウロ新聞の「女性の広場」に転載したいと、前園さんを通して言って来られたのが8月下旬だった。それに同意はしたものの、いつ掲載されるとか一切知らなかったので、9月下旬にサンパウロの毛利さんからサンパウロ新聞読みましたというメールをもらった時は、「はて?何のことだろう?」とすっかり忘れてしまっていた。同じ日に前園さんから9月25日付けで掲載になり、新聞紙面を送ってくれることになっているから、近々届くでしょうとメールをいただき、「ああ、そうだった」と思い出す始末。その新聞紙面は、相変わらずの郵便事情でまだ届いていない。その数日後、ブラジル被爆者平和協会の渡辺さんからも読みましたとメールをいただき、10月に入り、新聞が届いた安見さんからも読みましたとメールをいただき、やはり新聞だといろいろな人たちが目にするのだなと再認識した。この文章は、いつも通り楽書倶楽部が届いた後の9月末日のブログにコピーを掲載しているもの。新聞に私たちふたりの写真が掲載されているということだったのだけれど、どんな写真が掲載されているのか、この記事の写真を見て、楽書倶楽部の七周年記念親睦会の時に、カメラマンの役を買って出ておられた前園さんの息子さんが撮られた1枚だということがわかった。

2018年10月11日(木)

今回の選挙結果に関して、ニッケイ新聞10月9日付けの記事を拾ってみた。「大統領選の投票日直前に急展開=ボウソナロとハダジで決戦へ=聖市在住 駒形 秀雄」という記事のサイトは、こちらへ。ちなみに、メディアはボウソナロのことをレイシスト(人種差別主義者)と非難するけれど、彼は3回結婚していて、現在の3人目の奥さんは黒人の血を引く女性(両親のどちらかが黒人)で、この奥さんとの間に娘がひとりいるそうだ。レイシストの白人男性が黒人の血を引く女性と結婚するだろうか?

また、今回の選挙で日系議員の多くが落選したというニュースもあった。「統一選聖州=戦後初、コロニア関連が全員落選=飯星、太田、安倍氏ら涙呑む=パラナ州では西森氏当選」という記事のサイトは、こちらへ

もうひとつ、「《ブラジル》ロライマ州=先住民女性が下議に当選=190年の歴史の中で初の快挙」という記事もあった。この記事は、購読契約者しか読めない記事なので、リンクははらないけれど、先住民の「女性議員」が選出されたのは史上初ということらしい。ちなみにこの女性は弁護士出身のようだ。

2018年10月12日(金)

インターネット上に、10月10日(水)16:56配信で、夕刊フジの『反省なし、あきれた朝日社説 「慰安婦大誤報」も知らんぷり 「韓国の主張が国際社会の法理に反することを分かってない…しかも上から目線」』という記事があったので、以下にリンクをはってみる。ちなみに、朝日新聞の韓国支局では、あの旭日旗に似た朝日新聞の社旗を掲揚していないという記事を以前見たことがある。事実をちゃんと報道して中国からの嫌がらせで締め出される産経新聞と、韓国におもねって自社の社旗を胸を張って出すこともせず、事実を報道しようとしない朝日新聞と、どちらがまともな報道機関と言えるだろうか?この記事のサイトは、こちらへ

2018年10月13日(土)

次の写真は、エドソンが先週金曜日の野菜市で買ってきたジャブチカバの実。買い物袋の中のこのつぶをちらっと見た時、ぶどうを買ってきたのだと思った。中のビニール袋を取り出すと、1キロ5レアルという手書きの値段シールが張ってあったので、ずいぶん安いぶどうだなと思い、袋を開けると、ぶどうではなくジャブチカバだった。ジャブチカバというのは大きな木の幹にブツブツと直接実がなる不思議な果物で、この実が木になっているところを見ると、ちょっとドキッとするのだけれど、ぶどうと同じような感じで食べることができる。ただ、味はぶどうのような酸味はなく、種の部分はぶどうよりも大きいブラジルならではの果物。ちなみにジャブチカバはブラジル原産で、今はブラジル以外の国にも植えられているのかもしれないけれど、昔はこの木はブラジルにしかなかったらしい。

2018年10月14日(日)

10月10日(水)12:00配信JBPRESS(Japan Business Press)に「世界で売りたいため? 日本を貶める村上春樹の大罪」という長い記事があり、いろいろ考えさせる内容だったので、以下にリンクをはってみる。この記事のサイトは、こちらへ

この記事の中で、昨年ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏の作風と村上春樹氏の作風を比較して、「イシグロの作風はリアリズム小説あり、SF仕立て、あるいはファンタジーの趣のものなど、多岐にわたる。しかし、どの作品にも共通して、人間の生が抱える原理的な不自由、すなわち『運命の囚われ人』を描いていることだといわれる。そのテイストはカフカに近いという人もいる」一方、「村上作品に登場するのも、多くの場合、疎外意識をもった人物ではあるが、その不自由さはイシグロの登場人物ほど切羽詰まっていないと評される。イシグロの世界では『意のままにできない現実』のただ中に否応なく巻き込まれる人物であるのに対して、村上ワールドの人間は自分を取り巻く『なじめない状況』に距離を保ち、これと批判的に関わるという『重さ』の違いがあるようだ」とあった。

そして、『日本にノーベル賞が来る理由』の著書もある作曲家で指揮者の伊東乾氏によると、「アルフレッド・ノーベルの遺言の趣旨からするノーベル賞の設置意図は『人類全体に対して、最大の公益をもたらした人を顕彰する』ものだという。また、文学賞は『literatureのfieldにおいて、理想を指し示す方向で最も際立った仕事/作品を生み出した人物に与えられる』と規定され、作品の売り上げや作家の人気度には一切関係ない」のだそうだ。さらに、村上春樹氏の様々な講演発言には「海外向けと国内向けの二重基準」があると伊東氏は指摘している。

この記事の後半、南京事件に関して、村上氏は『騎士団長殺し』の中で、「日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、降伏した兵隊や市民の大方を殺害してしまいました。正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが、とにかくおびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます」と述べているのを、様々な事実関係を丁寧に説明して「そもそも40万人虐殺などファンタジーでしかあり得ない話である」と否定している。

つまり、日本軍の南京入城に先立ち、場内には「安全区」が設けられ、市民は全員安全区に避難したため、殺されるような市民はおらず、当時の駐仏中国大使で国際連盟代表も兼ねていた顧維鈞が国際連盟における会議で、「兵士」2万人が殺されたと提訴したものが、その後、中国の宣伝意図のもと「市民」2万人となり、「婦女子」2万人に変容し、東京裁判では「(市民)57418人」となり、共産党政権になると一気に「(市民)30万人」になり、南京の記念館にも掲げられている。これは日本を貶めようとする中国独特の三戦(世論戦、心理戦、法律戦)の一種以外のなにものでもない。当時の南京市民が20万人だったのに、どうやったらその人口以上の人々を虐殺できるのか?と疑問を投げかけている。この記事の後半部分はぜひ読んでみてほしい。

2018年10月15日(月)

広島の友人が、むかし明石家さんまが「生きてるだけでまるもうけ」とか「生きてるだけでめっけもの」とテレビで言っていたけれど、「明石家さんま語録」というサイトを見つけたと言って、次のサイトを教えてくれた。このサイトは、こちらへ

私が楽書倶楽部に寄稿してきた文章を、主宰者の前園さんが1冊の本にしてくださったことは、すでにこのブログに書いたけれど、インターネット上に楽書倶楽部のホームページを作って管理しておられる石田さんが、そのホームページ上で「私のブラジル生活」を読めるようにしてくださったと、前園さんから連絡をいただき、感謝感激!本には含まれていないパーディーニョの町の写真まで掲載されていて、びっくり!この本のサイトは、こちらへ。画面の左側の本文をクリックすると、152ページの本文を読むことができる。それから、石田さんからの連絡事項として、このPDFを読み込むのに、Microsoft Edgeを使うとPDFを変に読み込むときがあるため、ブラウザをGoogle ChromeかFirefoxに変更すると、ちゃんと読めるということだった。

2018年10月16日(火)

先日の夕方、台所の野菜くずを埋めに行ったり、ワンコたちとのお散歩に行ったりと、家を出たり入ったりしていた時、家の西側の駐車スペースの背の低い草むらの中に黄色い小鳥がいた。その側に同じ種類の鳥なのか、灰色の小鳥もいて、何かをついばんでいるようだった。私が側を通っても気にせず草むらにいたり、側の桜の木に飛び移って避難してみたりを繰り返しながら、ずいぶん長い間ここにいたので、写真を撮ってみた。エドソンによると、この小鳥はカナリオ・ベルガ(canario belga)という名前だそうで、つまり、カナリア?黄色い鳥は草むらの中でも目立つので、見つけて撮ったのが次の1枚目の写真。この写真を撮った後、灰色の小鳥も側にいてひとつのフレームに収まったので、2羽を一緒に撮ったのが2枚目と3枚目の写真。この2羽はツガイのようで、黄色いのがオスで、灰色がメスなのだそう。以後、毎日のように午後になると見かけるので、きっと近くに巣を作っているのだろうとエドソンは言っていた。

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2018年10月17日(水)

インターネット上のWedgeの記事に、『李登輝が今も大切にしている「日本の精神」とは?』というのがあった。李登輝氏が総統の座についたとき、民主化や自由化を進めていくなかで「三つの改革」を行わなければならないと考えたという。その改革とは「司法改革」「教育改革」「精神改革」だそう。

2016年、沖縄の台僑団体が主催する歓迎会が石垣市内のレストランで開かれた際、李登輝夫妻は控室に置かれていた湯呑みに目を留めた。そこには「日常の五心」という文字が書かれていたという。これこそが彼が推し進めたかった「精神改革」を端的に表しているのだそう。その五心とは以下の通り。

一、「はい」という素直な心
一、「すみません」という反省の心
一、「おかげさま」という謙虚な心
一、「私がします」という奉仕の心
一、「ありがとう」という感謝の心

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2018年10月18日(木)

ベランダの前の庭のハイビスカスは、葉切りアリに葉を落とされて裸になった後、新しい葉が生えてくるまで、ずいぶん長い間ほとんど花を咲かせず寂しい状態だったけれど、ようやく復活して、今たくさんの花を咲かせている。左側の木には濃いピンクと白っぽい色の2つに異なる色の花が咲いている。以前も書いたけれど、この庭にはこの濃いピンクと、白っぽい花の咲く木の2種類の木を植えていたのだけれど、白っぽいものはあまり大きくならず、そのうち姿を消してしまっていた。でも何故か、この濃いピンクの花の木の1本に融合してしまったようで、時々、この白っぽい花も咲かせるようになった。1本の木に2色の花。不思議だ。2枚目の写真は、このハイビスカスの庭を反対側から撮ったもの。こちら側にはサーモンピンクの花が咲く木と、黄色の花が咲く木を植えていて、今、サーモンピンクの花が咲いている。黄色の花も1つ2つ見えるけれど、あまり元気がない。濃いピンクの花と違い、これらの薄い色の花は年がら年中咲くわけではないので、色合いともども華やかさはあまりない。

2018年10月19日(金)

10月17日付けのニッケイ新聞に、「FCバルセロナがロナウジーニョを処分=極右大統領候補ボウソナロへの投票で」と題するとても奇っ怪な記事が掲載されていた。ロナウジーニョーはFCバルセロナの大使をしているらしいのだけれど、彼はブラジル人で、自分の国の大統領選で誰に投票しようと、スペインのサッカーチームであるFCバルセロナには何の関係もないと思うのだけれど、何故、自分の国の大統領選で誰に投票したかで、ロナウジーニョが罰せられなければならないのか理解に苦しむ。例えロナウジーニョがスペイン人で、スペインの大統領選でいわゆるメディアの言う「極右」の候補に投票したとしても、民主主義社会には思想信条の自由があるのだから、処罰の対象になるようなことではないだろうに。例えば、スペインで誰かが共産党の候補に投票したため会社を首になったりしたら、非難囂々だろうと思うのだけれど、何故そのダブルスタンダートを何とも思わないのだろうか?

彼らはブラジルのことを何も知らず、メディアの偏向報道を何の疑いもなくそのまま信じて、メディアに踊らされて、本当のことを知ろうともしない。この記事には『バルサ関係者はスポルト紙に対して、「ボウソナロ氏が30年に及ぶ政治家活動の中で行ってきた、女性嫌悪や同性愛者差別、人種差別などの行為は、バルサの赤と青のユニフォームの精神として受け入れられるものではない」として厳しく批判した』とあるのだけれど、ブラジル人には国を食い物にしてダメにした共産主義の労働者党(PT)の候補にノーという自由がある事実を何と考えているのだろう?ボウソナロがどういう政治をする人なのか多くのブラジル人にとっては未知なのは事実だけれど、彼には多くの優秀な専門家からなるブレイン集団がいて、彼を支えている。一方、PTのハダジのブレインは刑務所の中のルーラだけだ。PTは専門家を蔑ろにする傾向があり(例えば、郵便事業のトップにPTの政治家を据えた結果、郵便事情がどれだけ悪化したかわかっているのか?)、自分たちのために組織的な贈収賄のシステムを築き上げて、お金を好き勝手に動かし(教育などの予算をどんどん削減して、そのお金でベネズエラを支援したり)、政治をめちゃくちゃにして、国を傾かせ、結果、ジウマ元大統領は民主的に弾劾され、その前のルーラ元大統領は一部の犯罪が立証されて服役中だという事実を彼らは何と考えるのだろう?PTは犯罪者集団で、はっきりと、ブラジルをベネズエラのような国にしたいと言っている。ベネズエラでいい思いをしているのはマドゥーロ大統領とその取り巻きだけで、国民は困窮して、ブラジルに逃げ出してきているのに。そして、同じ共産主義の中国をとても立派な民主主義国だと言っている。そんな頭のおかしい党の人間を大統領にしろと彼らは言うのか?私はブラジル人ではないから投票権はないけれど、この国で暮らしているのだから、この国のリーダーにはよりましな人になってほしいと心から願っている。だから、PTにだけは政権に返り咲いてほしくない。絶対に!!!

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2018年10月20日(土)

次の写真は、木曜日の夕方撮った離れの建設現場。先週はミウソンが作業に来なかったので、進展がなかったのだけれど、今週は月曜日から木曜日まで作業が行われ、床の部分にレンガが入り、その上からコンクリートが入り、土台が完成した。このコンクリートが乾くまではしばらく作業ができないので、また当分次なる進展はないのだろうけれど、少しずつ形になっていることがうれしい。

次の写真は、昨日のエドソンのお弁当。木曜日の夕飯の時に、「明日の午後はアヴァレに行かないといけないんだ」と言っていたけれど、だからお昼はいらないとは言わなかったので、事務所でお昼を食べて、午後からアヴァレに行くのかと思っていた。すると金曜日の朝食が終わり、出かける段になって、「おお、そうそう、今日はアヴァレに行くからお昼はいらないよ」と言う。そういう情報は早めに正確に伝えてくださいね。それで、このエドソンのお弁当は昨日の私のお昼ご飯になった。

今年になってから、それまでの在宅勤務から、事務所に出て行かなければならなくなったので、初めの何ヶ月かはサンドウィッチを作っていたのだけれど、サンドウィッチにあきたのか、お昼もサラダがいいと言うので、ここ何ヶ月かはこんなお弁当を作っている。朝食で食べるのと同じサラダとゆで卵が基本で、茹でたブロッコリーやカリフラワーがあればそれらも入れて、その他にスライスハムとチーズを入れたり、この写真のように前の日の夕飯で作ったコロッケとかフライドチキンなどがあると、それを入れたりしている。そして、この日の果物はぶどうだったけれど、りんごだったり、バナナだったりすることもある。そして、毎日私が作る桑の葉のお茶を魔法瓶の水筒に入れて持って行っている。さらに、おやつにアーモンド、カシューナッツ、ピーナツなどを混ぜたものを持って行って食べている。このお弁当を見て、パウロは「こんなお昼でよくお腹がもつなあ、病気にならないか?」などと言うらしい。でも、彼の娘のマリア・パウラは、お肉かお魚とご飯をほんの少ししか食べず野菜を食べないという偏食なのに、そっちの方が病気になると思わないのだろうか?実際、彼女はやせこけて、肌が白いを通り越して青白く、病院で血液検査をする際、血管が見つからず、何度も何度も注射針を腕に刺されて大泣きをしたということがあったと聞いている。エドソンはマリア・パウラのように偏食をしているのではなく、野菜を多く食べて、炭水化物の摂取量を制限して、バランスよく食べるようにしているのだけれど、どうもパウロには理解できないらしい。

2018年10月21日(日)

今年6月、ニッケイ新聞に「ブラジル留学生の会」の集まりがあるという記事があり、そこに連絡用のメールアドレスが記載されていたので、香山文庫を手伝ってくれるボランティアを募集しているというメールを送り、留学生の会で情報を共有してもらえないかと依頼した。そのメールを送って1ヶ月後、実行委員会の人からボランティアの日数は何日間からで、人数は何人から受け入れているかという問い合わせの返信をもらった。それに対し、ここはサンパウロから約200キロほど離れていて、高速バスで片道2時間半はかかるので、最低1泊2日ないし2泊3日で来てもらえると助かる。そして、来客用の部屋は1つだけでベッドは2つしかないので、同時に受け入れられるのは2人という返信を送った。すると翌日早速、パラナ連邦大学とサンパウロ大学の女子学生さんからそれぞれ関心を示すメールが相次いで届いた。彼女達が本当にここまで来てくれて、作業を手伝ってくれることになるかどうかは、その時点ではまだわからなかったけれど、反応があったことをとてもうれしく思った。そして、今月上旬、このサンパウロ大学の学生さんから再度連絡があり、3人で20日(土)ー21日(日)の1泊2日の日程で行きたいと連絡をもらい、初めてのボランティア受け入れが実現した。次の写真は、3人をサンパウロからの高速バスが止まるホドサーブ・ソヒーゾで午前11時過ぎに出迎えた後、「眠れる巨人」という名前の山が見えるバー・ド・ヴィヴァンにお昼に食べるコシニャとキビを買いに行った際撮ったもの。左から吉田壮太さん、野田沙希さん、佐藤海斗さん。3人とも上智大学外国語学部ポルトガル語学科在籍の学生さんで、1年間の交換留学でサンパウロ大学に来ている人たちなので、当然のことながらみなポルトガル語を普通に話していた。

2018年10月22日(月)

土曜日にサンパウロから来てくれた3人の学生さんたちには、昼食を食べた後、下に行って、どの本からどの順番で、目次データを入力してほしいという説明をして、早速作業を始めてもらった。3人ともちゃんとノートパソコンを持参してくれて、せっせと入力作業をしてくれた。次の写真は、大きなテーブルを囲んで作業をしてくれている3人を撮ったもの。

午後、私はマテウスの英語のレッスンがあり、夕飯を作る時間がなかったので、ご近所にできたレストランのカザラオン・ユーリコ・ヌネスかハンショ・ド・マルーリに夕飯を食べに行くことにしていた。でも、ネットで再確認すると、カザラオンは土曜日の夜は開いていないことがわかり、ハンショ・ド・マルーリに行くことにした。4時半頃仕事を終えてもらい、ワンコたちを連れて、うちの敷地内をお散歩がてら案内し、5時半頃出かけて行った。次の写真は、ハンショ・ド・マルーリに着いて、店構えを撮ったもの。なかなかきれいなお店だったので、期待したのだけれど、いろいろ期待を裏切られ、とてもがっかり。まず夕方から気温が下がったため、お店の中でも外からの風でとても寒かったこと、エドソンが頼んだカイピリーニャ(ピンガにライムを絞って混ぜたアルコール飲料)が、手作りではなくカイピリーニャとは言えないものだったこと、運ばれてきたナイフとフォークが汚れていたこと、料理の豚肉の一部が生焼けだったことなど、信じられないことが重なったため、エドソンはウェーターと女性マネージャーそれぞれに静かに説明し、追加の注文などはせず、さっさと支払いを済ませて、場所を変えることにした。そして、パーディーニョのセントロのピザのお店に行くと、お店の中は暖かく、接客の黒人のお姉さんはとても感じが良く、頼んだピザもみんなおいしいと言って食べてくれたので、何とかその晩のトラブルを挽回することができ、ほっとした。料金が高く、高級感を売りにしているレストランなのに、上記の問題が重なり、エドソンはひどく落胆して、二度と行かないと何度も繰り返し言っていた。初めてのレストランに人を連れて行く場合は、まず、私たちが行って確認してからでないと、同じようなことが起こるかもしれないという教訓を得た。

2018年10月23日(火)

21日の日曜日は、朝7時半頃上がってきてもらい、みんなでおしゃべりをしながらゆっくりと朝食を食べた。エドソンはムリロの作る青カビのチーズをどうしても彼らに食べさせたいと言い、食べてみたいという同意を得て、パオンジーニョに乗せてトーストして食べてもらったのだけれど、みなおいしいと言って喜んでくれたので、エドソンも喜んでいた。この3人は、ブラジル人と違い偏食がなく、何でもおいしいと言って食べてくれるうえ、冒険することに臆病ではないため、青カビのチーズだけでなく、桑の実のジュース、ジャブチカバの実、桑の葉茶など食べたことのないものでも、どんなものか試してみる勇気があり、昼食に作ったタケノコご飯も、エドソンが焼いたローストポークも気持ちのいいほど完食してくれて、とてもうれしかった。今年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑先生は、学会などで他所の土地に行くと、必ず食べたことのないものを食べてみる人だったという記事があったけれど、まさに彼らもそんな感じだなと思った。せっかくブラジルまで来ているのだから、できる限りの経験をしようという前向きな姿勢が感じられた。その上、3人ともとても真面目で、ずいぶんしっかりデータ入力の作業をしてくれたことに、大感謝だった。そして、私とエドソンにとっては彼らといろいろ話すことができたことも、良い刺激になり、楽しい時間だった。次の写真は、日曜日の午後、作業が終わり、本を書棚に戻してくれている佐藤さん。土曜日と日曜日の1日半で、書棚の一番上の段の60冊余りの本のデータ入力を終えてくれたことは、うれしい驚きだった。感謝。感謝。

2018年10月24日(水)

次の写真は、日曜日の午後5時頃、サンパウロに戻るために、うちを出発する前に撮ったもの。3人は上智大学から同じサンパウロ大学に来ていて、大学近くの同じ学生寮のような所で生活しているからなのかとても仲が良く、チームワークが良かった。たまに一緒に旅行したりもしているらしい。最初、3人で来ると聞いた時は、来客用の寝室は1部屋しかなく、ベッドも2つしかないので、男女混合だとどうなんだろう?女性だけだとしても、3人目の人には、エドソンの家族が来たときに使っていた補助マットレスで寝てもらわなければならないので、大丈夫ですか?と問い合わせたところ、大丈夫ですという返事だったので、受け入れたものの、若干心配だった。でも、実際に彼らが来て、3人の穏やかな連携ぶりを見て、大丈夫だなと感じた。とてもおとなしい人たちだけれど、はるばるブラジルまでやって来るだけのことはあって、何でもチャレンジしてみようという勇気と積極性と、お互いを思いやる優しさが垣間見られ、ああ、いい学生さんたちだなと思った。

うちを出発してから、バス乗り場のあるホドサーブ・ソヒーゾに行く途中にあるクエスタ・カフェに立ち寄った。ここはパーディーニョの数少ない観光スポットなので、そこからの景色を見てもらおうと思ったのと、ポン・ジ・ケージョがあれば、それを買って、帰りのバスの中ででも食べてもらおうと思ったのだ。何しろ、帰りのバスをサンパウロに6時までには帰り着ける2時50分発の便ではなく、せっかくここまで来たのだから目一杯作業をしたいということで、次の6時10分発のバスを選んでくれたので、サンパウロ到着はスムーズに行って9時前後になるので、お腹がすくだろうと思ったから。次の写真は、その見晴らしのいいクエスタ・カフェで撮ったもの。風が強かったため、髪が風で乱れている。

上智大学からは毎年数人の学生さんをブラジルの複数の大学に送り出しているらしく、今後も留学生の会のメールアドレスに連絡すれば、上智大学他から来ている留学生さんたちにボランティアを募る連絡をすることができることがわかり、うれしかった。サンパウロに戻ったら、今回の経験を宣伝してください。そして、日本に帰って、次に来る留学生さんと話す機会があれば、その人たちにもぜひ宣伝してくださいとお願いした。今回の経験が、これからにつながるといいなと願っている。

2018年10月25日(木)

先週は木曜日の午後くらいまで結構暑かったのだけれど、木曜日の夜激しい雨が降ってから気温がガクンと下がり、金、土、日と、雨は降らずお天気は悪くないものの、なんだか気温の低い寒い日が続いたため、学生さんたちには少し寒い思いをさせてしまったかもしれない。ホドサーブ・ソヒーゾでバスを待っている間、今後のことを考えて、そこで予備の毛布を2枚調達した。長距離高速バスは暑くなくても冷房がかなりきついので、私はバスに乗るといつも寒いなと思うのだけれど、長距離を移動する人たちの中には、毛布と枕を持参してバスに乗っている人たちもいるので、そういう人たちのために、ホドサーブでは毛布を販売しているのだろうなと思う。次の写真は、買ったその2枚の毛布。

次の写真は、日曜日の午後、うちの丘の上から西を向いて撮ったもの。何だか賑やかな音楽が近くで聞こえるので、何だろうと思っていたら、馬のパレードをやっていたので、学生さんたちにも作業の手を止めて出てきてもらい、見てもらった。何もない田舎町なので、ここの自然環境以外に見てもらえるものはあまりないのだけれど、まあ、こんな馬のパレードなんてサンパウロでは見ることはないだろうから、偶然だったけれど、良かったかなと思った。

2018年10月26日(金)

サンパウロ市の東洋人街と呼ばれているリベルダージには、ニッケイ新聞の入っている同じビルに、楽書倶楽部の主宰者の前園さんの日毎叢書企画出版の事務所や、楽書倶楽部の編集スタッフのひとりで、楽書倶楽部のウェブサイトを作って運営しておられる石田さんの事務所も入っている。石田さんのバックグラウンドは知らなかったのだけれど、コンピュータの修理などをしておられて、コンピュータに関する困りごとに対応しておられるので、技術移民だろうかと思っていた。今回石田さんが私の本を楽書倶楽部のサイトで読めるようにアップしてくださったことをきっかけに、何度か直接メールのやり取りをした結果、彼は1969年に日本電電公社からブラジルのスタンダード・エレートリカに直接採用されて来伯した技術者のひとりだったということを知った。4年後にNEC DO BRASILに移った後も、リオデジャネイロ州内の各地で、電話局建設工事で交換機のテストに関わられたということだった。そして、昭和四十三年(1968年)十月三十一日発行の週刊現代に掲載された、「初任給20万の条件を出した外国企業ーーひっぱりだこになった日本人技術者の値段、勤勉な日本人は何人でも」という記事のサイトを送ってきてくださった。日本で高専卒の技術者の給与がせいぜい4万円あるかないかの時代に、ブラジルの企業は20万円を出してでも優秀な日本人技術者が欲しかったんだということが驚きだった。最近、アメリカのトランプ大統領が厳しい移民政策を打ち出しているので、アメリカを目指していたインドなど様々な国の技術者が、就職先をアジアに変えているというニュースを見たけれど、中国や韓国は日本よりもずっといい給与を提示して人材をかっさらって行っているようなので、日本企業も、もう少し技術者確保の対応を考えた方がいいのではないかなと思った。この記事のサイトは、こちらへ

2018年10月27日(土)

2018年10月23日付けニッケイ新聞に、「ボウソナロ優勢のまま乗り切るか=28日、いよいよ決戦投票=思い切って占う、新政権でどう変わる!=聖市在住 駒形 秀雄」という記事があったので、以下にリンクをはってみる。いよいよ明日28日にブラジルの新しい大統領が決まる。この記事のサイトは、こちらへ

2018年10月28日(日)

今月、はるは満6歳になった。そして、ひろは3歳8ヶ月、めいは4歳弱になったことになる。最近、めいとお散歩に行く際に付け替える短めのリードが何かの拍子ではずれてしまい、めいが勝手に走り出して家出をしたことが2度ほどあった。1~2時間フラフラすれば戻って来るだろうと思っていたのだけれど、1度目は10分足らずで戻ってきて、ベランダの椅子の上にいつも通りに座っていたのでおかしかった。そして、2度目は、20分くらいして、下のガレージの辺りをウロウロしているのが台所から見えた。そのすぐ後、鶏に葉物野菜を与えるために鶏小屋に行くと、野菜畑の中でめいがウロウロしていたので、戻ってきたら与えようと思って持っていたおしゃぶりのスティックを見せると、それにつられて私の側に来たところを確保。無事ベランダに連れ戻すことができた。要するに、めいは我が家のベランダでの生活にすっかり慣れたので、そんなに長い間家出をしたままにはならず、うちの敷地の外に行くこともないということがわかり、何だかうれしかった。一方、はるとひろも相変わらず元気で、真逆の性格ながら、仲良く暮らしている。今日は、はるとひろの共通点を記録しておこうと思い、このブログを書いている。はるもひろも、何故か右耳の内側にほくろというか、黒い点がある。大きさと位置が少し異なるけれど、不思議だなあと思う。1枚目の写真はひろで、2枚目の写真がはる。黒い点があるのがわかるだろうか?

2018年10月29日(月)

まずは、昨日の大統領決選投票の結果から報告すると、選挙前のいろいろな世論調査の結果同様ボウソナロが勝利した。労働者党のハダジを排除でき良かった。ボウソナロは様々な改革を進めたいと考えているようだけれど、一朝一夕には結果を出すことはできないだろうから、時間はかかるかもしれないけれど、未来に希望をつなげることができたので良かった。

10月27日付けニッケイ新聞の寄稿文に、「新風が吹きぬけた統一選挙=聖市在住 諸川有朋=10月13日期」というのがあった。この寄稿文を寄せた諸川さんはボウソナロのインタビューを見てから、彼の真面目さ、長年望んできた意志に賛同するようになったそう。ブラジル中の国民、特にインターネットを通して情報を得ている多くの国民も賛同しているものと思われると言って、ボウソナロについて次のように書いていた。諸川さんの文章の後半部分を以下にコピーしてみた。

『私が数週間前にボ氏が記者会見するのを見たときに、記者は「貴方はただの下院議員として長年勤めてきた。だが、大臣になった経験が無いのにどうして大統領候補に出馬するのですか」と問われた。ボ氏は次のように答えた。

「私は他の下院議員以上にプロの政治家として、自分の金儲けでは無く、ブラジルが良くなるためには何をしたら良いのか、しなければならないのかを、真面目に熱意をもって国民の代表として働いて来ました。そして多数の専門委員会に参加し、数年の間に172の法的プロジェット、5の憲法修正法(PEC)、委員会に対して470の追加プロジェットを提出した。だが可決されたのはほんの僅かで、同席議員から、貴方の考えは右翼派すぎて可決できないと言われました。そこで自分の真面目な考えを実行するにはどうしたらよいのか考えはじめた。
『長』にならなければならない、と思うようになり、下院議員議長に3回立候補しましたが、僅かの議員から支持されたのみでした。
そこで私は戦略を変えて、自分が真面目にブラジルを良くしたい考えや、ブラジルの政治改革、新しい考えの必要性、国民の考えを変える必要性を、確信を持って下院議員一人一人に説得を続け、百人以上の下院議員の仲間、同志に賛同が得られた。
労働党の政治のやり方に初めから常に反対し続けてきた。また、下院議員の役割として、ブラジル中をできるだけ歩き(自分の費用で東北伯、北伯(ロライマ)、中部、東部、南方(リオ・グランデ・ドスールを歩き)、地方の問題点に理解を深めて、ブラジル全体の問題を把握した上、それらの問題を解決するために大統領に立候補した。下院議員を27年務めたうちに育った願望である。」』

メディアはボウソナロのことをブラジルのトランプだ、極右だと呼んでいるけれど、それはただのレッテル張りでしかない。トランプはボウソナロのように全国を回って実状を理解しようとしただろうか?極左だった労働者党に反対すれば、みな極右とみなされるだけのことなのに・・・。10月28日のNHKの朝のニュースでも、ブラジルの大統領選挙について珍しく取り上げていたけれど、やはりメディアの理解は浅く、専門家と称される人のコメントも何だか中身が薄く、わかっていないなと思った。長年に渡る腐敗にまみれた共産主義の労働者党の政権にはこりごりで、労働者党に何としても政権に戻ってきてほしくない、ブラジルを変えたいと願う普通の人々の気持ちをメディアはわかっていない。

2018年10月30日(火)

タケノコが毎週4~5本採れるため、せっせと食べたり、人にあげたりしている。私が作るものはタケノコご飯にしろ、タケノコと豚肉を煮たものにしろ、おしょうゆ味で和風になるのだけれど、この日曜日に、エドソンがオリーブ油でタケノコとトマトを炒めた料理を作ってくれた。ブラジルに来たばかりの頃、パラカンビのシチオで暮らしていた際、エドソンのお母さんがココナツの芯のパウミットとトマトで、同じようなものを作ってくれたことがあった。タケノコとパウミットは味も食感も似ているからと言って作ってくれたのだけれど、なかなかおいしい洋風の一品ができあがった。

2018年10月31日(水)

広島出身でフランス在住の友人が、夏休みに読んだ作家の米原万理さんの「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」という本のことを彼女のブログに書いていた。米原さんは、60年代に小学校3年から中学2年までチェコのプラハで暮らした後、日本に帰国したそうで、帰国して間もなく、ギリシャ人の友人に書いた手紙の一節に、「友達が何人かできたのだけど、トイレに行くときに一緒についていってあげなくてはならないという変わった風習があります」というのがあり、「わーそうだった!と、トイレの件には笑った。私なんかは、そんなこと疑問にも思わず、その日本の風習にどっぷり浸かっていたなぁ。まああれは、子供なりの社交だったに違いない」と書いていた。

私は幼稚園、小学校、中学校と必ず一度転校していて、幼なじみのようなとても親しい友達がおらず少し浮いていたのか、友達と連れ立ってトイレに行くようなことはなかったし、他の女の子たちが連れ立って行っていたという記憶もない。だいぶ後になってから最近の女の子たちはトイレに連れ立って行くらしいというようなことを聞いた憶えがあるくらいだった。それで、私の時代よりも後に始まったことなのだろうと、思っていたのだけれど、フランスの友人は私よりも若いものの、米原さんは私よりも年上なので、どうも世代の違いでもなさそうだと思った。そこで、年齢の異なる数人の友人にこの件に関して尋ねてみた。米原さんよりも少し年上の友人と、米原さんと私の間くらいの年齢の友人と、私と同い年の友人にメールのついでに聞いてみたところ、誰も友達と連れ立ってトイレに行くようなことはしていなかったということだった。ただ、私と同い年の友人によると、小学校4~5年生位の時、女子が仲の良い友達と連れだって2人でトイレに行く事が流行っていたということだった。でも、そんな風潮はどうもおかしいと思う生徒もいて、先生を交えてホームルームの時間に一度話し合ったことがあったという。この友人は、女の子の一緒に行きたいという気持ちは理解できるし、もし、自分にそんな友人がいたらそうしていたかもしれないけれど、自分は一人派だったと返事をくれた。米原さんよりも年上の友人は姉御肌の人で、男女の区別なく多くの友人がいる人だったようだけれど、彼女も一人派だったらしく、もうひとりの少し年上の友人だけでなく、彼女の30代後半のお嬢さんも一人派だったようで、連れ立ってトイレに行くことはなかったと教えてくれた。だから、これは年代とか地域とかの違いではなく、どうも個人の性格の違いのようだなと思うようになった。と言うことは、私自身も含めて、私の回りには一人派の人たちが少なくないということなのかな?これって、「類は友を呼ぶ」ってことなんだろうか?と、ちょっとおかしかった。



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