Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2018年5月3日(木)

広島での約1週間の滞在を終えて、5月1日(火)の午前、定刻通りにサンパウロ空港に到着。出発の時同様パウロの運転する車でエドソンが迎えに来てくれて、午後1時前に我が家に帰宅。その日は家に戻って少しごそごそしてからベッドに横になり、4時間近く寝て、エドソンが作ってくれた夕食を軽く食べて、シャワーを浴びてから、またバタンキュウ。翌朝は明るくなる前に目が覚めたものの、何とか体を休めることができたので、ここでのルーティンのスケジュールをこなし始めたのだけれど、朝食後にエドソンを送り出して、鶏に餌をやり、洗濯機を回し始めたくらいから気分が悪くなり、ベッドに戻ることにした。結局、午前中2度嘔吐して、起きると気分が悪くなるため、丸1日ずっとベッドで過ごすことになってしまった。お昼過ぎに職場に出ているエドソンにSOSのメッセージを送る。するとすぐに飛んで帰ってきてくれ、お腹の薬やめまいの薬を出してくれ、ワンコたちをお散歩に連れ出して、昼食を与えくれた。その後、まだ仕事が残っているからと言って仕事に戻って行った。2度目の嘔吐をした後飲んだ正露丸や、お昼過ぎにエドソンが出してくれた薬が効いてきたのか、午後からは横になっている限り体が楽になり助かった。年を経るごとにブラジルと日本の長距離の往復がだんだんきつくなってきていることを実感。広島で到着の翌々日と出発の前日の2度、いつものマッサージのお店でマッサージをしてもらわなかったらこれぐらいでは済まなかったのではないかと思う。昨晩、ほんの少し、インスタントの鶏ぞうすいを食べることができ、昨晩もある程度まとまった時間眠ることができたので、今日は、何とかゆっくりと動いて家事ができるくらいになっている。

2018年5月4日(金)

今回急ぎ広島に戻ったのは、母が口から食事をすることができなくなり、点滴で命をつないでいるような状態になったから。今後は徐々に弱って行くことが予想され、危ないからすぐ戻れということになっても、航空券の手配や留守中の家のことなど心配しなければならない準備がいろいろあって、すぐには動けない。それで、今すぐ命の危険がある状態ではないものの、前回広島に母の様子を見に行って2年になるし、今回無理をしてでも戻れるときに戻って母に会っておこうと思ったから。私が広島にいる間、週の前半は熱があったため母の意識があまりはっきりしておらず、私を認識することはなかった。でも週の後半平熱に戻ると、看護師さんの呼びかけに反応して笑顔をしたり、うなづいたりするようになった。家族には反応しないのに、いつもお世話になっている看護師さんや介護士さんには反応するんだねと、母に冗談を言うと、「お母さん、わかっておられますよ」と看護師さんは言っていた。そして、土曜日は92歳の誕生日だったので、小さなお花を持って行き、「お誕生日おめでとう」と言って、顔の側にかざすとお花を見てくれて、口をもぐもぐ動かして何か言いたそうにしてくれた。ブラジルに戻る月曜日の朝、空港に行く前に立ち寄った際もちゃんと目を開けていて、兄が「恭子は今日ブラジルに帰るからね。また恭子が戻って来るまで頑張るんだよ」と母に話しかけるので、「がんばってね。でも、無理をしてまで頑張らなくてもいいよ」と私が言うと、表情が崩れて笑顔を見せてくれたので、ああ、わかってくれているのかな?と、感じられ、とてもうれしかった。私のいない留守中、私を空港に送り迎えする段取りや、自分の仕事のことや、ワンコたちや鶏の世話から三度の食事や家事まで、すべてをひとりでやらなければならないエドソンは、とても大変な思いをするのに、あえて私を広島に行かせてくれ、ひとりで頑張ってくれたことに心からの感謝の気持ちでいっぱい。

2018年5月5日(土)

家を10日余り留守にしている間、ペドレイロのミウソンと彼のお父さんが毎日作業に来てくれたようで、帰宅してみると、ガレージ建設がずいぶん進んでいた。下のガレージの2つのドアが取り外され、ひとつは新しいガレージに取り付けられ、もうひとつは約束通りミウソンのシチオに移動させたようでどこにも見当たらなかった。そして下のガレージの扉のあった部分にはレンガが積み上げられ、壁ができていた。次の写真は、木曜日の午後撮った新しいガレージ。火曜日に戻った際は、まだ前の通り扉は白いままだったけれど、水曜日に緑色のペンキが塗られ、この写真のように変化した。2枚目の写真は、下のガレージだった場所の現在の姿。扉が取り払われ、壁ができているけれど、窓がまだ入っていないので、大きな穴が開いている状態。

2018年5月6日(日)

広島の実家では、家の前の歩道に植えられたハナミズキが満開で、義姉が育てている庭の花も咲き誇っており、5年前に庭の木に取り付けたという鳥の巣箱に、今年初めてシジュウカラが巣を作り、ひなを返したそうで、毎日盛んに鳴き声が聞こえていた。玄関横の庭に置かれた鉢には、彼らが飼っているメダカが数匹泳ぎ、街中なのに何ともいい自然環境に囲まれているなと思った。そして、ここパーディーニョの我が家に戻ると、広島に行く前にはまだ咲いていなかった白い小さな花を咲かせるノイヴィーニャがどれも満開で、庭のポインセチアもたくさん白い花をつけ、昨年エリカが持って来てくれ、外階段横の箱庭に植えた2本のダリアの苗のうちの1本が、黄色い花を咲かせていて、ここは秋の盛りなのに花いっぱいの状態なのでびっくり。次の2枚の写真は、庭と入り口ゲートに行く道沿いで咲くノイヴィーニャ。道沿いのノイヴィーニャは入り口ゲートの方向を背にして撮ったもの。この道沿いに少しずつ植えているので、手前に来るほど木が若く、まだ小さい。

次の写真は、庭の糸杉とフランボヤンの木の間で咲く白いポインセチア。

次の写真は、外階段横の箱庭で咲くダリア。

2018年5月7日(月)

今年になってエドソンが採用して、パウロの会社でエドソンと一緒に仕事を始めた日系3世のトシオ君のお父さんは、日本に出稼ぎに行っていて、1年半に一度家族に会うためにブラジルに戻ってくると聞いていた。そのお父さんが私と入れ替わりのようにゴールデンウィークを利用してパーディーニョの家族の所に戻ってくる予定なので、私が日本からパーディーニョに戻り、彼が日本に出発する前にうちでみんなで食事をしようという話になっていた。でも、私が帰宅して体調を崩したので、どうなることかと思ったのだけれど、木曜日は休み休みではあるけれど、そこそこ家事ができたし、エドソンが仕事を少し早めに終わって帰宅して鶏肉のドラムスティックを料理して、夕飯のメインを作ってくれ、私はご飯とサラダを用意するだけでいいからと言うことで、金曜日の夕飯に家族を招くことにした。当初来るのはトシオ君と両親だけと思っていたのだけれど、トシオ君よりも6歳年上で結婚して小さな子供のいるお姉さんと、トシオ君のガールフレンドも来ることになり、子供を含め総勢6人の大人数でこりゃ大変と思った。でも、お姉さんは7時を過ぎないと仕事が終わらないということで不参加になり、お母さんが預かって世話をしているお姉さんの子供が寝ていて起こせないので、直前になってお母さんとその子も不参加になり、結局、トシオ君と、お父さんのジョージさんと、トシオ君のガールフレンドのアナの3人だけがやって来た。次の写真は、食卓を囲み、さあ食べましょうというところで撮ったもの。左から時計回りに、アナ、トシオ君、お父さん、エドソン。トシオ君の家族はパーディーニョで暮らし始めて16年で、もともとはサンパウロかどこか他所の出身のようだった。お母さんはイタリア系の人なのに、トシオ君は100パーセント日系人という顔をしているのでおもしろいなと思った。アナもパーディーニョの人ではなく、ここから北西にあるバウルよりもさらに西のマリリアの手前のガーサという町の出身だそうで、どうして、いつパーディーニョに来たのかは知らないけれど、ひとりで来て働いていて、トシオ君の家族と一緒に暮らしているということだった。アナは英語が話せるので、「どこで勉強したの?」と聞くと、語学学校で学んだことはなく、子供の頃からテレビや映画を見て憶えて話せるようになったと言っていたのでびっくり。そして、日本文化が大好きと言うので、さらにびっくり。出身地のガーサには日系人も多く、毎年冬に桜祭りが行われ、その際、太鼓に合わせて踊ったりすると言っていたから、盆踊りのことかなと思った。トシオ君のお父さんは三重県にある自動車部品を作る会社で働いているそうで、日系人、フィリピン人、ベトナム人、中国人、オーストラリア人など様々な国籍の人たちが働いているということだった。少し日本語も話せるようだったけれど、彼の日本語は私のポルトガル語と大差ないのか、会話はほぼポルトガル語だった。

2018年5月8日(火)

次の写真は、ランドマークの木の側のフランボヤンジーニョの花のところでヒラヒラ飛んでいた地味な色のアゲハ蝶を撮ったもの。このフランボヤンジーニョのところで2匹がヒラヒラしていたのだけれど、少し距離があったため、ひとつの画面に2匹を同時に捕らえることはできなかった。羽をバタバタさせて、ヒラヒラと動き回っているので、シャッターチャンスが難しかったけれど、この写真に写っているのは、蝶々だということがちゃんとわかるから、まあいいかな。広島に行く前ここは気温が下がり、寒くなりかけていたのに、留守中の後半から気温が上がったらしく、以来ずっといいお天気で、暑くもなく寒くもない、朝方ちょっと涼しい日もあるけれど、半袖シャツでもいいような、とてもいい感じの穏やかな日々が続いている。一方、広島滞在中の前半はちょっと寒い感じで、長袖Tシャツの上から薄いカーディガンを羽織ったり、フリースのジャケットを来て出かけていたのに、後半は暖かくなり半袖シャツでもいいくらいになった。何だかここのお天気に似ているのがおかしかった。

2018年5月9日(水)

広島の友人が、彼女の知人が東広島で30年やっている「認定こども園」(幼稚園と保育園の合体型)に行ってきたと言って、写真を送ってきてくれた。「木の香りのするサンルームからは、水田の風景が広がり、緑の風が吹き渡る園庭は、森のようでした。給食も、無農薬で完全手作りの和食主体。梅干や味噌まで作っていました!まさに、里山で育つ子どもたち。日本らしい風景なので、ご覧ください。もうすぐ田植えです」と、メールにはあった。こんな自然豊かな環境で育つ子供たちは、ある意味贅沢だなと思った。

2018年5月10日(木)

今回の広島滞在中、「無印良品」がラップフィルムを入れるケースを販売していると何かで読んだ憶えがあると友人に話すと、すぐそこにお店があるから行ってみる?ということで、お店に連れて行ってもらった。すると、ありました。ありました。日本のラップフィルムは箱にフィルムを切る刃が付いていて、クルッ、パッと、片手でとても簡単に切れるけれど、日本国外のものはアメリカでもヨーロッパでも、もちろんブラジルでもそのような優れものはなく、フィルムはハサミで切るというのが常識。それでそのケースをひとつ買って帰った。でも、フィルムがブラジルのものは薄いからなのか、品質が劣るのか、ケースに入れたフィルムがスルスルと出てこないだけでなく、何とかフィルムを出して切った後は、切り口のフィルムがケースのすべり止めにへばりついてしまって、次に使おうとする際、そのフィルムをケースからはがすのが大変で、ちょっとがっかり。でも、アルミホイルやクッキングペーパーを入れて使えば、すべり止めにへばりつくことはないだろうから、問題なく使えそうなので、無駄にはならなかったかな?と思った。そう思いながらも、へばりついた部分をそのままにして、その上の部分でフィルムを切って使ってみると、当然のことながら使用した後、あらたにフィルムがへばりつかないため、何とか使えるようになった。次の写真は、その「無印良品」で買ったケースと、左に日本から持って帰ったサランラップと、右にブラジルのラップフィルムを並べて撮ったもの。でも、日本では必要のないこのようなケースが何故販売されているのだろう?と、不思議に思った。海外へのお土産用に需要があるのだろうか?

2018年5月11日(金)

下の来客用の寝室(兼香山文庫)とガレージの間にあるシャワールームの壁のタイルと窓の縁の間に、プラスターを塗る仕上げ作業が行われないまま何年も経過していて見苦しかったのだけれど、ガレージの扉を取り除き、壁を作ったりする作業の過程で、ミウソンが白いプラスターを使っていたので、ここもそのプラスターを塗って仕上げてもらえないかなとエドソンが頼んだらしい。それで、帰宅して数日後にここがきれいに仕上がっていることに気づいた時は、とてもうれしかった。長年使って汚れた簡易のシャワーカーテンを、上のシャワールーム同様ガラス扉に変えれば、ここもだいぶきれいになり、うちに泊まってくれるお客さんにとって使い易くなるだろうと思う。この写真の窓の向こうに見えるのは新しいガレージ。

次の写真は、日曜日の午後撮った新しいガレージの中。電気がなくても奥の壁に入れたガラスレンガのお陰で、昼間はとても明るい。奥の壁に物置用の棚が取り付けられて、電気の配線作業が進んでいる。このガレージの床を見ると、一見木の床のように見えるけれど、これも実はタイル。まだ作業中なので、汚れて埃っぽいけれど、ガレージにしてはもったいないようなきれいな床だなと思った。この電気の配線が完了すれば、一応新しいガレージが完成!後は、家の下の元ガレージだった場所に窓が入り、大きな台の上で埃を被っている様々なものを整理して、掃除をして、エドソンの作業場所兼セミナールームにして行く作業が残るだけになった。

2018年5月12日(土)

ペトロポリスの安見さんは、長年ランニングイベントに参加したいと考えながら勇気が出なかったそうだけれど、6年前、お嬢さんが一緒に出ようと誘ってくれたリオのフラメンゴ海岸通りで行われた5Kmに初めて参加された。以来、歩いている人も沢山いるし、早く走れないことを心配する必要はなく、とにかく参加することが大切で、次のイベントに参加するために普段から体を動かす動機付けになると考え、100個のメダルを集めることを目標にされたと言う。でも、考えてみるとこの6年間で18個のメダルを集めたけれど、目標達成の100個まで残り82個もあり、年に3個のメダル獲得というペースでは、27年以上かかることになることに気づかれたそう。そうすると現在77歳の安見さんは104歳を越えてしまい、この目標を達成させることは不可能。可能にするための解決策としては、もっと参加回数を増やすしかない。それで、今年は1月、3月、4月、5月とすでに4回参加し、メダルの数を22個に増やされたそう。

次の写真は、4月15日にリオにある彼らのアパートの近くで行われた「DIVAS RUN」に、安見さんたちのピラティスの先生とお嬢さんと3人で参加された時のもの。後ろの人たちは予備運動のズンバという踊りを踊っているのだそう。会場に着くと女性はピンクのシャツ、男性は白と別れていて、大多数がピンクの女性だったので、どうして女の人ばかりなのかとお嬢さんに聞くと、「Mulher Maravilhas(カッコいい女)」と言うイベントだけれど、男性も参加していいのだということだったそう。

2,000名程度の参加者の内、男性は100名程度だったそう。次の写真は、走っている安見さんの勇姿。

途中、雨が降ってきたため、走り終わって雨に濡れながらメダルを見せているのが次の写真。成績は70歳から99歳の男子クラスで3位だったけれど、このクラスで何人が参加したのかは不明だそう。男子全体では82名中71位でビリではなかったと言う。ご立派。

次の写真は、5月5日のNight Runで、スタート前にお嬢さんとふたりで撮られたもの。夜8時スタートで、2.5Kmの海岸の砂地と、2.5Kmのアスファルト通りの合計5Kmを走るものだったそう。海岸の砂浜は、夜の潮風で気持ちが良いのではと思ったら、そんなことはなく、走り出しから汗が噴き出したとメールにはあった。参加者7,000名程度で、成績は54分11秒。男子75歳から79歳クラスで3位。これまた何人中かは不明だそう。2枚目の写真は、完走してメダルを持って、お嬢さんとお嬢さんの友人の三人でパチリ。どうかこれからもますますお元気で走ってください。

2018年5月13日(日)

ニッケイ新聞のインターネットサイトに、パソコンの修理や販売などを行うPC Liberdadeという会社の広告サイトがあったので、何気なくサイトを見てみると、ブログサイトがあり、たまたま開いたそのページのトップにあった2018年3月23日金曜日付けの「ブラジル人とのビジネス」という記事がすごかったので、その記事のサイトにリンクをはってみることにした。「ここを見ている人は十分ご存知かと思いますが、基本的にブラジル人は時間を守りませんし、約束を守りません。それは彼らが時間や約束事にルーズだからというのもありますが、彼らだってその仕事が彼らの中で優先順位が高ければちゃんとやります。だからちゃんとしないのはナメられているからとも言えます」という文章で始まるずいぶん長い記事なのだけれど、日本人には到底想像もつかない、理解しがたい衝撃的なブラジル人の実態が説明してあり、読みながらかなり手厳しいけれど、その通りだなと思った。この記事のサイトは、こちらへ

2018年5月14日(月)

下の部屋の窓を頼んでいた会社の人たちが、木曜日の午後、何の連絡もなく窓を入れる作業にやって来た。午後からジルベルトの英語のレッスンがあったので、お昼過ぎに入り口ゲートの鍵を開けておいたから入ってこれたけれど、そうでなければゲートは閉まっていて、入ってこれなかったのに・・・。来る前にエドソンに連絡してくれてもよさそうなものなのにと思った。それでエドソンに窓を取り付ける人たちが来たけれどと、メッセージを送ると飛んで帰って来てくれた。この人たちの作業は側でしっかり見ていないと、作業が雑だったり、意図的に手抜きをしたりすることを過去の経験から学んでいるので、エドソンはしっかり側で見ながら、ここがちょっと傾いているとか、ここに毛バリは入れないのかとか、いろいろ細かく指摘したものだから、4時までには作業が終わると言っていたのに、5時になっても終わらず、翌日の金曜日の朝一番で再度来てくれ、作業を完了してくれた。木曜日にエドソンがお目付け役をしてくれたお陰で、キレイに窓が入り、後々の問題も発生しないだろうと思われ、良かったと思った。次の写真は、それぞれ木曜日に作業が行われているところと、金曜日に設置が完成した後の下の窓の様子を撮ったもの。

2018年5月15日(火)

数年前、我が家に迷子としてやって来たワンコのめいは、昼間はベランダにつないでいるのだけれど、夜はシュハスコ小屋に移動して寝かせるようにしている。でも、私の留守中、エドソンがめいをシュハスコ小屋から出したり入れたりするのは大変なので、私の出発1週間くらい前から、夜もベランダで寝ることに慣れさせる練習を始めた。それで夜間、寒かったりするとかわいそうなので、エドソンがめいのために犬小屋を買ってきてくれて、ベランダに置いてくれた。はるやひろはこういう狭い空間が大好きなのだけれど、めいはどうもあまり好きではないらしく、まったく関心を示さず、小屋に入ろうとはしてくれなかった。結局、この犬小屋には見向きもせず、ずっとベランダの椅子の上で寝ていたようだった。ベランダにいると他の動物が近づいたり、気配を感じると、夜中にワンワン吠えたりして、結構うるさかったのだけれど、何とか私の留守中、大きな問題もなく過ごしてくれた。私が戻ってからは、夜は以前のようにシュハスコ小屋で寝かせるようになったので、夜吠えることはなくなり静かになった。でも、犬小屋をせっかく買ったのだから、何とかめいに使ってもらおうと、使い古しの枕カバーの中にはるたちの古いベッドのクッションを入れたものを小屋の中に入れてみた。すると思った通り小屋の中に入ってくれた。次の写真は、小屋にクッションを入れてもなかなか小屋に入ってくれないめいと、ようやく小屋に入ってくれためい。でも、これも長くは続かず、クッションを引っ張り出して、枕カバーを破り、中の綿をベランダにまき散らしてしまった。クッションが気に入ったのに、どうして破ったりするのだろう?やれやれ・・・。それで、廃棄処分にする予定だった使い古しのジーパンで丈夫なカバーを作って小屋に入れてみると、今のところ破ったりせず、気に入って使ってくれている。でも、いつまでもつかなあ・・・?

2018年5月16日(水)

日曜日の午前中、洗濯を済ませた後、畑からタイムを採ってきて洗って乾燥させる準備をしたり、雑巾を洗って干したりと、家を出たり入ったりしていると、エドソンがちょっと来てというので、ついて行くと、鶏小屋の北側のエリアにある木を指して、「見て」と言う。「あっ、ウルクンだ!」「えっ?ここにウルクン植えてたの?」と聞くと、何年か前にお母さんがパラカンビから持ってきてくれたウルクンの苗をここに植えたんだと言う。ここにこの木が育っていたのは知っていたけれど、これがウルクンだということはこの赤い実を見るまでわからなかった。次の1枚目の写真は、赤い実を付け始めたウルクンの木。2枚目と3枚目はその実をアップで撮ったもの。このトゲトゲの実というか、殻の中に赤茶色の種のような実がたくさん入っていて、それをご飯に混ぜて炊いたりすると、ご飯が赤というかオレンジ色のような色に炊き上がる。グアムではこのウルクンで色を付けたご飯のことをレッドライスと呼んでいるらしい。

2018年5月17日(木)

次の写真は、シュハスコ小屋の後ろにあるローズマリーやアロエを撮ったもの。アロエがたくさんオレンジ色の花を咲かせている。アロエの後ろのローズマリーの木がちょっとワイルドに育ちすぎているので、足元の枝を切ってすっきりさせないといけないなあと、思いながらこの写真を撮った。

2018年5月18日(金)

次の写真は、家の東側の畑から撮ったもの。右側の棒が突っ立っているように見えるものは、エドソン手作りの衛星通信受信用のアンテナを鉄パイプの先に取り付けた簡易のアンテナ。ペドレイロのミウソンが「小さなアンテナタワーがあるんだけれど、使いますか?」と聞いてきたらしく、それを買い取り、ペンキを塗ってもらって、ここに設置してもらったのが、左側の緑のタワー。右側の簡易の鉄パイプのタワーから、この左側の頑丈なタワーに衛星通信受信用のアンテナを移す計画らしい。この写真には、さらに左側にディッシュアンテナがあり、さらに左に鉄パイプが見えるけれど、この鉄パイプも衛星通信受信用のアンテナとして使っていたもの。でもこの夏、豆のつるがすごい勢いで伸びてパイプに絡みついて、アンテナを壊してしまったので、現在はアンテナは取り外されて、パイプだけが立っている。

2018年5月19日(土)

毎朝、鶏にエサを与えるのは私の仕事。とうもろこしや粉のエサは、ネズミに食べられないようにシュハスコ小屋の中に置いたプラスチックのバケツの中に入れ、ふたをして保存している。それ以外にも、畑で採れるコウヴィの葉や、毎朝食べるサラダに使えない少し傷んだレタスやルッコラなどを与えている。まず、とうもろこしを与えてから、鶏小屋のエサの容器と水を入れた容器を取り出して、シュハスコ小屋の中の流しで洗って、新しい水と、粉のエサを入れて用意する。この木曜日にいつものようにそれらの作業をシュハスコ小屋の流しでしていたら、流しの前の窓のところに何だか変わった昆虫がヒラヒラしていたので、何だろうと思って見ると、羽がシースルーで向こう側が透けて見える蝶々のようだった。珍しい蝶々なので、エサやりが終わった後、カメラを取りに行って戻り、次の写真を撮ってみた。ここにはいろいろな蝶々がいるけれど、こんなのは初めて見た。

2018年5月20日(日)

次の写真は、2018年4月15日発行の楽書倶楽部第42号。日本に行っている間に届いていたのだと思うのだけれど、私の留守中エドソンは忙しく、郵便局に行く暇がなかったため、私が戻ってから、5月2日(水)に郵便局に行って届いていた楽書倶楽部他の郵便を持って帰ってくれた。日本から戻って体調を崩したりしたものだから、この号に掲載された私の文章をブログに載せることをすっかり忘れてしまっていたことにふと気づき、遅まきながら、以下にその文章を載せるような次第。

ウドの大木

日本の男性は背の高い女性が苦手。何よりもまず「デカイ女だな」と拒否反応を示す。たとえ口に出して言わなくても男の沽券に関わるとでも感じるのか、一緒にいると居心地が悪いという気持ちがひしひしと伝わってくる。女性達はと言うと、「背が高くてうらやましい」「何を食べてそんなに背が高くなったの」「その身長少し分けてほしい」などと言う。でも、背が高いと日本では不便なことの方が多いという現実があることは理解してくれない。

私の身長は一七五センチ。高校二年生くらいでこの身長に到達して以来、ずっとこの身長と付き合ってきている。私が今十代や二十代だったとしてもずいぶん「デカイ女」だという印象を与えるだろうけれど、私が若かったのは何十年も昔の話なので、こんな身長はやはり珍しく、目立っていたのだろうと思う。

ただ、人よりも背が高いことを不便だとは思っても、特別恥ずかしいと思うことはなかった。親から受け継いだ遺伝子のなせる技なので仕方がないことだと受け入れていた。両親や兄、従兄弟らも背が高かったので、自分の身長が高いことをあまり自覚していなかったのかもしれない。自分が回りの子供たちよりも大きいことを初めて自覚したのは、小学校入学前の幼稚園での運動会だった。その時、母親が子供をおぶって走る競技があり、母が私をおぶって走る際、他の子たちよりも大きな私をおぶって走らなければならない母が可哀想だと思ったことをはっきりと憶えている。

小学校の低学年の頃は、運動会の徒競走というと、背が高いという理由で、同じ学年の子供たちとではなく、一学年上の子供たちと一緒に走らされた。高校までは体に合わせて作った制服があったので良かったけれど、高校卒業後私服を着るようになると、体に合う服を見つけることは難しく、着るものに困った。Lサイズと言っても、身頃の幅が大きくなるだけで、袖丈や着丈はそれほど長くはならないから、ちんちくりんを着ている印象は否めなかった。そして、バーゲンセールで販売される服はMサイズと相場が決まっているため、流行のファッションを楽しむこととも無縁だった。バスなどに乗って頭をぶつけることもしばしばだった。

極めつけは、高校三年の時、毎年行われる学校での健康診断の際、五十代くらいの男性医師に、「背が高いね、何か運動やってるの?」と聞かれた際のこと。中学校から高校二年の一学期までは軟式テニスをしていたものの、その時はすでにテニスを止めて英語の勉強をしていたので、「いえ、何もやっていません」と答えると、「ウドの大木か」と吐き捨てるように言われた。それで乙女心が深く傷ついたわけではないけれど、ただ運動をしていないというだけで、そんなことを言うのか?と驚いた。あれから何十年も経っているのに、いまだにその時のことを憶えていること自体、傷ついた証拠だろうと言われれば、そうかもしれないとも思うけれど、私の人生でそんなふうに私という人間を完全否定するようなことを言われたのは、その時が初めてだったので、強く印象に残っているのだと思う。

家に帰って、母にそのことを話すと、母も娘時代、女学校に通う際、ご近所の店の前を通る度にその店のご主人に「天井がありますで、天井が」と冷やかされ、恥ずかしかったと話してくれた。母は今では九十歳を超えほぼ寝たきりとなり、体が小さくなってしまっているけれど、若い頃の身長は一六五センチだったので、昭和初期当時としては目立っていたのだろうと思う。

それで母の結婚相手に対する条件は、自分よりも背が高く、長男ではない人だった。戦後、知人の紹介で七人兄弟の末っ子で、中学から大学までバレーボールの選手だった百八十二センチと長身の父とお見合い結婚をした。戦争で亡くなった大好きだったお兄さんが「お前は今のまま素直で優しい女性でいなさい。お母さんのことをくれぐれもよろしく頼む」と遺書のような手紙を母に残していたため、母ひとり娘ひとりとなった戦後、結婚相手には母親と同居し、面倒を見ることを認めてもらわなければならないと心に決めていたのだ。そしてその両方の条件にうまく合う父と出会い結婚したため、彼らの子供として生まれた兄と私は小さく育ちようがなかったのだ。

でも、そんな両親のお陰であまり大きな病気をせず健康に育ち、自分自身を否定的にとらえることなく、母のようにおっとりと歳を重ねることができたのだから、心から感謝している。そして、背が高いという理由でいじめられたことはないし、アメリカでの大学生時代、身長が百九十センチ近くあったドイツ系の女性教授から、「私は背の高い女性が好きなの」と言って、可愛がってもらったこともある。さらに私よりも背の低い夫が、そんなことはまったく気にもせず結婚してくれ、今の穏やかな暮らしがあるのだから、背が高いことで経験した不便さなど、結局たいしたことではなかったと感じている。

2018年5月21日(月)

先週はほぼ毎日午後から雨が降る予報だったけれど、結局、水曜日の未明に降っただけで、次に降ったのは土曜日の午前中だった。土曜日の雨は冷たい雨で、犬小屋の中にクッションが入っていないとベランダに置いた犬小屋に絶対入らないめいも、さすがに冷たい雨を避けたかったようで、前日めいがクッションを破ってしまったため、小屋の中にクッションはなかったのに犬小屋の中で雨が止むまでおとなしくしていた。お昼前に雨は止んだものの気温は上がらず、午後の最高気温も15度ぐらいにしかならなかった。この土曜日の雨は季節を変える雨だったようで、翌日曜日の朝の最低気温はぐんと下がって7度。朝から太陽が顔を出して良いお天気になったのだけれど、最高気温は15度くらいにしかならなかった。それで、まだ薪ストーブをつけるほどではないのだけれど、エドソンがどうしてもストーブに火を入れようというので、今年初めてストーブに火を入れた。そして、今朝、月曜日の朝の最低気温は5度。今年一番の寒さになった。これまで最低気温が15度前後だったものが最高気温になり、最低気温は一桁になったため、この急激な変化にふるえ上がっている。季節は確実に冬に向かっている。

2018年5月22日(火)

次の写真は、日曜日の午後撮った鶏たち。私の留守中、手伝いのゼーに芝刈りをしてもらったようで、家の前の伸びきった芝がすっきりきれいになっており、その刈った芝が鶏小屋の前の運動場に入れられていた。さらに留守中、エドソンにはオクラを収穫する時間がなく放ったらかしだったので、実が大きくなりすぎてしまっていて、私が戻ってから小さめのオクラを少し収穫できただけで、残りは硬くて食べられる状態ではなくなっていた。それで、ひょっとして鶏は食べるかなと思って何本か採って与えたのだけれど、全然見向きもしてくれなかった。やはり私たちにとっておいしくないものは、鶏にとってもおいしくないのかな?

2018年5月23日(水)

インターネット上で検索すれば出てくるものの、ネット上のヤフーニュースやテレビのNHKニュースなどで見かけなかったので、日本でどのくらいのニュースになっているのかいないのかわからないのだけれど、この日曜日、中国が同時に2つの衛星の打ち上げに成功した。この2つの衛星はハルビン工科大学の学生たちが造ったものだそうで、エドソンはそれら衛星の信号を受信しようと、日曜日の夜はコンピュータの前にへばりついていた。そして、私が寝る準備を始めて、台所でゴソゴソしているとやって来て、両腕を高く上げて、「受信成功!」とうれしそうに私に報告してくれた。ハルビン工科大学というのはMITと肩を並べるようなレベルの高い大学なのだそう。アメリカにはものすごい数の中国からの留学生が様々な大学で学んでいるけれど、中国人留学生が集団でカンニングをするということで有名な反面、トップレベルの成績で卒業する人たちもたくさんいる。そして、卒業後にみんながみんな中国に戻るわけではないけれど、何しろ全体数が多いので、一部戻っただけでもすごい数になるのだと思う。それで、そのような優秀な卒業生たちがこれらの大学で研究を続けていて、大学のレベルを上げているのかもしれないなと思った。そして、エドソンは昔アメリカで暮らしていた頃、イギリス人アマチュア無線家のジェームズ・ミラーさんのソフトの一部を利用して新しい衛星通信ソフトを開発したのだけれど、今回の2つの衛星の通信ソフトは、そのエドソンが作ったものを使っているのだと言う。以前、やはり中国の衛星がこのソフトを使っているのに、エドソンたちにクレジット(つまり、このソフトはエドソンがミラーさんのソフトの一部を利用して開発したものという明記)をしていなかったので、それを指摘したことがあったらしいのだけれど、今回はちゃんとふたりの名前とコールサインが、コンピュータ上で受信した信号の中に明記されていたと言って見せてくれた。中国は知的財産を保護する意識が低く、国際的な規約を無視する傾向が強いのだけれど、衛星プロジェクトに関しては、最近、まじめに規約を守ろうとする姿勢があり、エドソンが参加している国際アマチュア無線連合(IARU)の周波数調整グループに頻繁に相談してくるようになったと言い、だんだん世界基準に合わせようという姿勢に変わってきているのかなと、エドソンは言っていた。さらに中国は、今年末に月面探査機の打ち上げと、世界で初めてとなる月の裏側への探査機着陸を計画していて、今回打ち上げに成功した2つの衛星は、地球と月の裏側との通信のための中継衛星として使われるのだと言う。習近平が目指すアメリカに次ぐ「宇宙強国」への計画が着々と進んでいることがうかがわれる。

2018年5月24日(木)

次の写真は、西隣りのコーヒー農園のコーヒーの木。赤いコーヒーの実がたくさんなっているのが見えたので、お隣りとうちとの境界線の柵のところまで行って撮ったもの。2枚目は、その実をアップで撮ったもの。まだ赤く色づいていない実も見える。収穫の時期は8月頃だと思うので、それまでにはこれらの実も色づくのだろうな。

2018年5月25日(金)

ブラジルに来たばかりの頃は、ポルトガル語を勉強する意味もあって、夜はテレビのノヴェラ(連続ドラマ)を見ていたのだけれど、ブラジルのノヴェラの内容は人間の暗い面ばかりが強調されたとてもおどろおどろしいものが多く、極めつけのように酷かった「アヴェニダ・ブラジル」というノヴェラを、2回くらい見ただけで嫌気がさして、以後ノヴェラは一切見なくなった。(蛇足だけれど、2016年弾劾され、大統領を罷免されたジウマ前大統領は、この「アヴェニダ・ブラジル」のファンで毎日見ていたと聞いたことがある。)その代わりに、下のガレージでの仮住まいが始まると、衛星放送でNHKを見ることができるようになったので、夜はもっぱらNHKの朝のニュースと朝ドラを見るようになった。NHKの朝ドラは、ブラジルのノヴェラの真逆で、見ていてほのぼのとこちらを元気にしてくれるような内容だけれど、ブラジルのノヴェラを見ていると、ノヴェラが描写する不幸がこちらにも伝染してきそうな感じがするのだ。私は基本、昼間はテレビを見ない。でも、その代わりに時々YouTubeで日本のラジオ番組を聞くことがある。例えば、今年3月いっぱいで終わってしまったけれど、日本放送の「そこまで言うか」をよく聞いていた。勉強家の飯田浩司アナウンサーとゲストコメンテーターの人たちとのやり取りが好きだった。最近は、武田鉄矢の「今朝の三枚おろし」というラジオ番組がおもしろくて聞いている。金八先生はかなりの読書家で、縄文時代のことや、白川静先生に触発された漢字の話や、司馬遼太郎さんの本から日本の歴史をひも解いたり、彼が読んだ様々な本から得た情報を分かり易く話してくれる。先日は、「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」中田整一編・解説とうい本の内容を長い時間かけて紹介していた。この淵田美津雄という人は、真珠湾攻撃の第一攻撃隊隊長として日米開戦にかかわり、ミッドウェー海戦を奇跡的に生き残り、フィリピンのレイテ島沖の戦いを立案し、広島原爆の翌日に入市して二次被爆したのに生き残り、戦艦ミズーリー号上での日本の敗戦の瞬間に立会い、極東裁判では、だまし討ちの真珠湾攻撃で3000人の米兵を殺した殺人罪で起訴されたものの、無罪となり開放されたというすごい人なのだけれど、それだけでなく、戦後この人が辿った道がまたまたすごくて、聞いていて引き込まれてしまった。淵田美津雄やマーガレット・コベルという名前をインターネット上で検索して、彼がどんな人だったのかぜひ読んでみてください。私はこの二人の関係が、ルカの福音書23章34節、「父よ、彼らを赦(ゆる)したまえ、その為(な)す所を知らざればなり」という言葉で結びついているというエピソードに涙してしまった。

2018年5月26日(土)

長年連絡が途絶えていたエドソンの幼なじみで親友のホドルフォ(Rodolpho)から2週間くらい前に連絡があり、エドソンは電話で長話しをしたそうで、時間が取れたら週末うちにおいでと誘ったと言っていた。先週末に来るのかと思って焦ったのだけれど、まだ日程は決まっていないと聞いてちょっとほっとした。そうしたら、この水曜日の午前中エドソンから連絡があり、木曜日から月曜日まで、ガールフレンドのニーズィア(Nysia)を連れて来るとホドルフォが知らせてきたと聞き、何とも彼らしいと思った。彼らが来るのはうれしいけれど受け入れ準備が何もできていない。下の部屋やシャワールームの掃除やベッドメーキングをしたり、上の私たちの居住スペースも彼らがいる間は掃除なんかしていられないので、彼らが来る前にしなければならないと、かなり焦った。下の部屋は水曜日の午後、上は木曜日の午前中頑張って何とか準備完了。そして、木曜日の午後、ホドルフォたちはエドソンの事務所でエドソンと合流して、午後3時頃一緒にやって来た。夕食までの時間、積もる話をして、午後8時くらいに夕食開始。リオでおいしくて有名なパン屋さんのパンをおみやげに持ってきてくれたので、私が作った豚肉と野菜のトマト風味のポトフと一緒にいただいた。彼らが持ってきてくれたパンは、この辺では手に入らないとてもおいしいパンだったので感謝、感激だった。どうしてこういうおいしいパンがここではないのだろうかとあらためて残念に思った。次の写真は、食卓で夕食を食べ始めたホドルフォとニーズィア。ホドルフォに会うのは8年ぶりくらいだったけれど、ヒゲや頭に白いものが混じっているだけで、あまり変わっていないなと思った。

2018年5月27日(日)

エドソンは金曜日は仕事を休もうと思ったらしいのだけれど、どうしても休めず、午前中いつものように仕事に出て、お昼に戻ると言って出かけて行った。でも結局、忙しくて帰宅したのは午後3時前だった。ホドルフォたちは水曜日の早朝リオを発ってここまで来ているので疲れているだろうから、朝は時間を決めずに、起きた時に上がってきたらいいということにしていた。すると、ニーズィアは10時頃上がってきたけれど、ホドルフォは午前中はずっと寝ていて上がってこなかった。ニーズィアはとてもよく喋る人で、英語も話せるので、朝食を食べながら、私を相手にずっとおしゃべりをし、彼女の朝食が終わったのは12時過ぎだった。はるたちのオシッコとお散歩の時間になってしまったので、ニーズィアに手伝ってもらって、みんなのお散歩をしている頃、ホドルフォが起きてきた。お腹がすいたと言うので、もう昼食の時間なのだけれど、用意していた朝食を食べてもらった。エドソンから何時に戻れるか連絡がないので、ホドルフォが朝食を食べている間、おしゃべりをしながら待っていると、ようやく連絡があり、2時過ぎないと事務所を出られないということだった。それで、ホドルフォたちに、ふたりは朝ご飯を食べ終わったばかりだけれど、私はお昼を食べる時間だから用意しておいたご飯とカレーを食べるけれど、あなたたちも食べる?と聞くと、食べるというので、3人でカレーを食べた。ふたりともちゃんとした朝ご飯を食べたばかりなのに、お昼もしっかりカレーを食べるので、ちょっとびっくり。午後、エドソンが戻ってからはエドソンとホドルフォは一緒に外を散歩したり、家の中でワインを飲みながら、夕飯を食べながら、夕食後も延々と話して、午前3時頃にようやく寝たみたいだった。私は翌日が土曜日だろうが、ワンコたちはほぼ決まった時間にオシッコをする必要があるし、7時前にはやって来る手伝いの人たちのために入り口ゲートの鍵を開けに行かなければならないので、夜は10時過ぎには失礼してシャワーを浴びて、ベッドに入った。次の写真は、夕方居間でワインを飲みながらおしゃべりしているホドルフォとエドソン。いくら話しても話しても話が尽きないという感じだった。

2018年5月28日(月)

土曜日は、お昼に食べるコシニャなどをここの台地の東端にあるバー・ド・ヴィヴァンに買いに行くついでに、景色を楽しんだり、午後からカフェ・クエスタに行って景色とコーヒーを楽しむ観光以外は、家でゆっくり食事をしたりお散歩をしたりして、みな気ままに過ごした。日曜日は、お昼にエリオという人のシチオに呼ばれていたので、みんなで出かけて行った。エリオは80歳の老人で、結婚しておらず子供もいない。生まれはパーディーニョらしいのだけれど、2歳の時にサンパウロに引っ越して以来、学校も建築家としての仕事もずっとサンパウロだったという。仕事を引退後、ボトゥカトゥに引っ越してきて暮らしていて、おじいさん、お父さん、そしてエリオへと受け継がれたパーディーニョにある広大な土地の中にある小さなシチオに、週末だけ来ているらしい。彼はこの広大な土地に老人ホームを建てたいと考えており、財団を設立して、何年か前から資金調達などの活動をしているらしい。エドソンは、パウロの奥さんのジャナイーナからこの財団で活動しているイレーニという女性を紹介され、イレーニのご主人のヒウド、理事長のエリオ、ディレクターのベネディートなど、主要な人たちと一度会って話をしている。でも私がこの人たちと会うのはこの日が初めてだった。次の写真は、ベランダのテーブルを囲んでいる人たちを撮ったもの。左からエリオ、エドソン、ヒウド、ひとりおいて、パウロ、ベネディート。右端の若い男女は、ヒウドの息子とお嫁さん。

次の写真は、ベランダ横で楽器を演奏しながらムジカ・ハイース(パーディーニョ発祥のカントリーミュージック)を歌っているおじさんたち。この人たちは、財団の人たちとはちょっと違う感じの人たちだなと思っていたら、どうも、頼まれて演奏をしに来ていたようだった。田舎のシチオでの食事のお伴に聞くのにちょうどいい雰囲気の音楽を奏でていた。

次の写真は、家の中の食堂のテーブルに置かれたデザートのプリンやアイスクリームを取りに行っている人たち。この他にも後からメロンが出てきた。左から、べネディート、エリオ、パウロのお父さん、ヒウド。手前の子供を含めた3人の人たちは誰だかよくわからない。

次の写真は、ベランダから見えるハイビスカス。ブラジルで見る地植えのハイビスカスはとても大きいので、パラカンビで初めて見た時はとても驚いた。2枚目の写真は、ベランダの前の広い庭。大きな木の枝にブランコやハンモックが下げてあり、木の前の地面には敷物とクッションが置いてあり、寝転ぶことができるようにしてあった。この日は穏やかで暖かな日だったので、とても気持ちが良かった。

2018年5月29日(火)

日曜日にエリオのシチオで新しく出会った人たちは、これまでパーディーニョで知り合っている人たちとはちょっと一味違う感じの人たちだった。と言うか、エリオは生まれはパーディーニョでも育った場所はサンパウロだし、べネディートはセザリオ・ランジの出身で、ボトゥカトゥにあるサンパウロ州立大学医学部を卒業して、ボトゥカトゥで精神科医として開業している人だし、イレーニもヒウドと結婚してパーディーニョに来た人で、出身はカンポス・ド・ジョルダオンというから、根っからのパーディネンセ(パーディーニョっ子)ではないからだろうかと思った。次の写真は、大多数の人たちが帰って行った後、財団の今後のプロジェクトの可能性などについて話している左から順に、エリオ、べネディート、エドソン。べネディートは英語をとても流暢に話し、長い時間私と話してくれて、とても楽しかった。ちなみにエリオもべネディートほどではないけれど、英語を話すことができたので、直接いろいろ話すことができてうれしかった。エリオが英語を話すことを知らなかったパウロは、エリオが私と英語で話しているのを見て驚いていた。エリオはパーキンソン病を患っていて、ちょっと体が不自由そうだったけれど、頭脳は明晰のようだった。車も自分で運転していたので、驚いた。

次の写真は、上の写真のテーブルの反対側に座って話に加わっているイレーニ。彼女はこの日、裏方に徹していたので、あまり話すことはできなかったのだけれど、とても穏やかにソフトに話す人で、感じのいい人だなと思った。パーディーニョで手工芸品作りやヨガのクラスなどをしていると言っていた。ちなみにご主人のヒウドは、パーディーニョでネブラスカという名前のアイスクリームの製造・販売をしている。このアイスクリームに関してはここで暮らし始めた当初から聞いていたし、食べたこともあるのだけれど、ヒウドや彼の家族に会うのは初めてだった。ちなみに、どうしてブランドの名前がネブラスカなのかは、聞いていないのでわからない。次に会う機会があったら聞いてみようと思っている。

ベランダのテーブルを囲んで話していると、家の横にある大きな木の方から鳥か何かが尾を引くようなおかしな声で鳴くのが何度も聞こえたので、何だろう?と、イレーニやヒウドたちと見に行くと、木の上の枝に尻尾とくちばしだけが黄色く、体は黒い、比較的大きな鳥が数羽見えたので、次の写真を撮ってみた。3枚目の写真の、木からぶら下がっている茶色いものは、この鳥たちの巣なのだそう。写真に写っている左側の巣はちゃんとした原型をとどめているようだけれど、右側のふたつは古い巣なのか、壊れているみたいだった。

2018年5月30日(水)

次の写真は、午後遅く片付けが終わった後に撮ったベランダ前の庭の木。右側にあったブランコとハンモックは取り外されているけれど、左側のかご状の腰掛けはそのまま下がっていた。この写真には写っていないけれど、この木の右手前側にあるココナツの木の上の方にリスがいるよとヒウドが教えてくれたので撮ったのが2枚目の写真。逆光だったのでちゃんと写るかなと心配したのだけれど、何とかリスが何かを食べているところが撮れた。

次の写真は、築150年だというエリオのシチオの家。ちなみにシチオというのは自宅とは別に、週末とかお休みに行って過ごす場所なので、別荘というような意味合いの言葉。この家の前のベランダにあった大きなテーブルや椅子などが片付けられた後、イレーニが車に運ぶ荷物の整理をしているところが写っている。

すべての片付けが終わった後、何人かでエリオが老人ホームを建てようと考えている彼の敷地内の場所に行って撮ったのが次の写真。左からエドソン、べネディート、ホドルフォ、ニーズィア、イレーニ、エリオ。背景の森の中にパード川の源流となる小川が流れていて、その奥左側の森の中にエリオのシチオの家があるのだけれど、木々に隠れていて建物は見えない。

2018年5月31日(木)

2018年5月23日付けのニッケイ新聞に、『認知症になった認知症専門医=長寿社会が問いかけるもの=「生きること」と「終わらせること」=聖市在住 毛利律子』という記事があった。とても示唆に富む記事だったので、ここにその記事のサイトへのリンクをはってみる。この記事のサイトは、こちらへ

5月26日付けのニッケイ新聞には、『《ブラジル》トラック・スト=全国でパニック状態に=空港、工場、市場が麻痺=市民の食糧、医療にも悪影響』という記事があり、トラック・ストの影響を伝えていた。パーディーニョの町のガソリンスタンドもガソリンやアルコール燃料が底をついたようで、いつ燃料が配達されるかわからないので、不要不急の外出は避けようと、今週のジルベルトとルイーザの英語のレッスンはキャンセルになった。スーパーマーケットも商品の搬入ができないので、商品が品薄になり開店休業状態らしい。ブラジル人は本当にストが好きだ。こんな非生産的なことをしているから悪循環で、ブラジルはポテンシャルはあってもそれに見合った発展をしないのだろうなと思う。この記事のサイトは、こちらへ



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