Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2018年4月1日(日)

今年、日本では桜が例年よりも1週間から10日早く咲き始め、3月の下旬には多くの場所で満開になったとニュースで言っていた。広島でも3月の下旬には満開になり、友人が写真を送ってきてくれた。1枚目の写真の手前は縮景園という庭園で、その向こう側に立ち並ぶビル群は広島の中心部の八丁堀あたり。2枚目と3枚目は川沿いの桜を近くから撮ったもの。4枚目は桃の花。桜の花と桃の花が同時に咲いているというのも何だかいいなと思った。

2018年4月2日(月)

広島の兄が、「こちらは例年よりもかなり早く桜が満開となり、28日比治山と平和公園、29日三輪明神、30日尾道千光寺公園と花見のはしごをしています。しかもこの前後1週間は連日好天高気温が続いて、絶好の花見日和という珍しい天候です」とメールをくれた。お花見のはしごかあ~、いいなあ~。そして、そのお花見のはしごで撮った写真を送ってきてくれた。1枚目は平和公園で撮った写真。兄の後ろにいるのは「青さぎ君」だそう。私が広島で暮らしていた頃は、太田川の川辺でよくさぎをみかけたけれど、あれからうん十年、しかも平和公園は広島市の真ん中にある公園で、人通りも多いのに、青さぎが普通にそこにいるなんて、広島は今でも結構環境がいいんだなと思った。2枚目は尾道の千光寺公園の満開の桜の前の義姉。

2018年4月3日(火)

3月下旬のある日、いつものように食堂の西側の窓から見える景色を眺めながら朝ご飯を食べていたら、朝日を浴びたユーカリの木の上の方が黄色く見えるので、葉が黄葉しているのだろうか?と思った。エドソンに言っても、ふたりとも近眼だからあまりはっきり見えない。ユーカリは落葉樹ではないから、黄葉なんてしないよね、ひょっとして花が咲いているんだろうか?と言うと、そうかもしれないねと彼が言うので、その後、カメラを通して見てみると、やはりこの黄色は花だった。次の1枚目の写真が、食堂の窓から見えるユーカリの木2本。2枚目は、その木をアップで撮ったもの。このアップ写真でもちょっと見えにくいけれど、花と丸い実がなっているのがぼんやり見える。ユーカリの花なんて初めて見た。それでこれらの木からほんの少し離れたところのユーカリの並木を見てみると、そこの木々にも同じように花が咲いていた。植えた時期がほぼ同じなので、どうやら今年一斉に花が咲いたのかな?それともこれまで気がつかなかっただけなのかな?日本は春で桜が咲き、ここは秋でユーカリが咲いている。3月下旬に、森の手前にある秋の花のマナカも咲き始めたので、今度写真を撮って、ここに掲載しようと思っている。

2018年4月4日(水)

次の写真は、我が家の入り口ゲートの両側にある桜の木を撮ったもの。左側の木は葉が茂っているけれど、右側の木は葉切りアリに襲われて、裸になっている。この2本は何故か右側の木が毎年葉切りアリに襲われて裸にされてしまう。それで、体内時計が狂ってしまうのか、まだ花の咲く時期でもない今の時期に、少し花が咲いたり、花の時期をだいぶ過ぎた9月頃に、また花が咲いたりして、木全体が一斉にきれいに花で被われるということがない。家の回りの桜の木々は今の時期、だいぶ落葉して、7月から8月にかけて花を咲かせる準備を始めているのだけれど、この写真の左側の木はほとんど落葉しておらず、青々をした葉を茂らせている。そして例年この左側の木はあまりたくさんの花を咲かせない。どうしてだろう?2枚目の写真は、右側の裸の木の、1本の枝先に花が咲いていたので撮ったもの。ここでは桜は早くても6月中旬にならないと咲かないのに、3月下旬にこんなふうに花を咲かせるなんて、不思議。不思議。

2018年4月5日(木)

去年の今頃だったか、手伝いのマリアにうちで収穫したとうもろこしと鶏肉でスープを作ってもらって食べたことがあるけれど、今年はエドソンが自分で作ってみると言って、土曜日朝の買い物で買い物リストにはなかった鶏の手羽元とハツを買ってきた。そして、その日の午後、とうもろこしをバケツ一杯収穫して来てくれた。日曜日の午前中、ベランダでその収穫されたとうもろこしの皮をむく作業をし、その後、包丁でとうもろこしを軸から切り取る作業を台所でした。次の2枚の写真は、それぞれの作業が終わって撮ったもの。ベランダの椅子に座って皮をむく作業をしている間、めいが私の前に座って、私の作業を見つめながら付き合ってくれたので、終わった段階でめいを入れてとうもろこしと皮の写真を撮ろうとしたのだけれど、めいがカメラの前に来てくれないので、エドソンに協力してもらって次の写真を撮った。2枚目の写真は、軸から切り離したとうもろこしの実。量が多いため、ほとんどは容器に移して冷凍保存にした。とうもろこしの缶詰を買えば、こんな作業はしなくても済むのだけれど、自分たちで育てたとうもろこしを収穫して、手間をかけて皮をむいたり、軸から切り離したりする作業もなかなか楽しく、贅沢な時間だなと思う。エドソンがこれで晩ご飯を作ってくれるというのだから、どんなスープができあがるのだろうと想像しながら作業をした。

次の写真は、日曜日の晩ご飯を作っているエドソンの足元で、ひろがずっとエドソンの手元を見上げているので、写真を撮ろうとしたのだけれど、カメラを向けると私の方に注目してしまい、ひろが上を見上げているおもしろい写真を撮ることができなかった。2枚目の写真は、できあがった夕飯。とうもろこしと鶏肉のスープを作ると言っていたのに、どうも気が変わったらしく、出来上がったものはスープではなく、あっさり味のとうもろこしのソースをご飯の上にかけ、鶏手羽元とハツを圧力鍋で柔らかく煮た後、別のなべで玉ねぎ、にんにく、オリーブ、粒マスタード、オクラなどと一緒に調理したものを横によそったエドソンオリジナルの料理になった。食材をいっしょくたに混ぜてしまわず、別々に調理しているので、それぞれの食材の味を損なうことなく、おいしい晩ご飯が出来上がった。感謝。

2018年4月6日(金)

ニッケイ新聞の4月4日付けの記事に、『日本の若者、伯国で何を得た?=交流協会の研修生体験記=第2回=自分らしい「生き方」を教えてもらった1年 國仲祐希』というのがあったので、以下にリンクをはってみる。この女性は、ブラジル日本交流協会の研修留学生として、ブラジルに滞在した経験を語っている。ブラジルに来るまで、ブラジルに日系社会があることを知らなかったという。日本の人たちは日本を出た人たちには興味も関心もないので、若い人たちが知らないのも仕方のないことなのかもしれないけれど、アメリカが広島、長崎に原爆を落としたことを知らない若いアメリカ人や日本人が少なくないことと重なり、何だかなあと思った。この記事の最後に、2019年度研修留学生募集の案内があるので、興味のある方はぜひ応募してみられては?この記事のサイトは、こちらへ

2018年4月7日(土)

先日、ここの秋の花の代表のようなマナカが咲き始めたと書いたけれど、この水曜日にようやくその花の写真を撮った。1枚目は、家の西側にあるランドマークの木の前から、木々の間にわずかに見えるマナカ。森の端にある大きな木なので、以前はよく見えていたのだけれど、マナカの木の前に植えたグアプルブの木や、この写真のように手前にある孟宗竹やセドリーニョが大きくなって葉を茂らせているので、見えにくくなってきている。2枚目の写真は、側まで行って、上を見上げて撮ったもの。

2018年4月8日(日)

今週、ブラジルではルラ元大統領の逮捕に関して、最高裁がどのような判断をするかで注目が集まっていた。ブラジルでも一般人は裁判が始まる前から逮捕拘留されるけれど、政治家はなかなか逮捕されず、第一審、第二審共に有罪になれば、ようやく逮捕、収監されるという法律がある。でも、ルラは何が何でも逮捕、収監を免れようと画策し悪あがきを続けていた。水曜日の夜中までかかって最高裁で審理が行われ、6対5で、何とか逮捕、収監が決定した。そしてこの決定を受けて、翌日、木曜日にルラの汚職事件を担当するモロ判事が、金曜日の午後5時までに連邦警察に出頭するようにとルラに命じる通達を出した。けれど、ルラは労働者党の牙城である金属労組の建物に泊まり込んで、最高裁の命令には従わないという姿勢を示し続けていた。そして、その労働組合の建物の回りには労働者党とルラを支持する人たちが詰め掛けて、逮捕に反対している様子がテレビでずっと生中継されていた。一般国民は法律に従わなくてはならないけれど、自分は例外で、一審も二審も有罪判決が出て、その後の民主的な手続きを経て出された最高裁の決定にも従う気はないと言って抵抗しているその姿は見苦しいとしか言いようがなかった。そして、その支持者とされる人たちが仕事をほっぽり出して金曜日に集合するなんて、労働者党が例によってお金を出して人を集めているに違いないのだけれど、例えそうでないとしても、この様子からわかることは、共産主義というのはまさにカルト宗教だということだった。彼らには善悪や、国や国民や社会ルールなどどうでもよくて、大事なのは彼らの信じるイデオロギーと利益のみ。ルラの後に同じ労働者党から大統領になったジウマの罷免を求めて全国各地で行われた大規模デモでは、ブラジルの国旗やブラジルカラーの黄色、緑、青のシャツを着た人たちであふれてとても平和的に穏やかに行われたけれど、ルーラ支持で組合の建物の回りに集まっている人たちは、労働者党の赤い旗と赤いシャツで、まったくブラジルカラーがなく、拳を上げて何か叫んでいる姿にその違いが際立っていた。そして、ようやく土曜日に連邦警察に出頭するとルラは表明したものの、夕方になってもまったく動かず、連邦警察からの最後通達を受けて、暗くなってからようやく建物から出てきた。そして、出迎えていた連邦警察の車で、まず、連邦警察に連行され、体調の検査を受けて、ヘリコプターでサンパウロのコンゴーニャス空港に運ばれ、そこから連邦警察のプロペラ機でパラナ州のクリチバに移送された。このルラの悪あがきのジタバタは世界中の笑いものになっただろうと思う。でも、もし、最高裁がルラの人身保護令の発動要求を認め、ルラが逮捕を免れていたら、ブラジルの民主主義は地に落ちるところだったのだから、ルラが無事逮捕され、ブラジルではまだ何とか正義と民主主義が生きていることがわかり安堵した。

ヤフーのニュースサイトに、4月7日付けで「ルラ元大統領、出頭命令に応じず 籠城続ける ブラジル」という記事があり、さらに、今日付けのヤフーニュースに「ブラジルのルラ元大統領、警察に出頭 収賄で禁錮12年」という記事もあったので、それらにリンクをはってみる。日本ではブラジルのことはめったにニュースにならないけれど、今回のルーラのジタバタはニュースになったんだなと複雑な思いがした。ルラ籠城の記事のサイトは、こちらへ。 ルラ逮捕の記事のサイトは、こちらへ

2018年4月9日(月)

次の写真は、入り口ゲートに向かう道沿いのアメンドインの間で花を咲かせている1本の草。肉眼で見た花の色はこの写真よりも少しピンク色が濃かったので、緑のアメンドインの間でパッと目に飛び込んできたのだけれど、写真を撮ってみると、何だかとても薄いピンク色に写っている。ピンクの色だけでなく、花がとてもかわいかったので、ここに掲載することにした。

2018年4月10日(火)

このところ朝霧が出ている日が多く、アメンドインの上や地面を這うように張り巡らされた蜘蛛の巣が、空気中の水分で白くなり、ちょっと霜でも降りたように見えるので、次の写真を撮った。最近の朝の最低気温は15度くらいなので、もちろん霜など降りたりはしない。まあ、ここは冬でも氷点下になることはないので、基本霜などは降りないのだけれど・・・。2枚目の写真は、1枚目の写真のアメンドインの部分をアップで撮ったもの。この写真は午前9時前頃撮ったのだけれど、もっと早い時間だとさらにはっきりと見えて、時間の経過と、太陽の日差しと共に、水分が蒸発するからなのか、蜘蛛の巣の白さが薄くなり、見えなくなる。

2018年4月11日(水)

次の写真は、先日、夕食の後、めいを寝床のあるシュハスコ小屋に移動させた後、戻ってきた際、ベランダの玄関前のレンガの柱に蛾が止まっていたので、それを撮ったもの。シュハスコ小屋の窓のところに、これよりも大きな蛾がたまにいることがあり、以前、写真を撮ってこのブログに掲載したことがあるけれど、この蛾は大きくも小さくもなく、中ぐらいの大きさで、初めて見る種類の蛾だった。

2018年4月12日(木)

4月10日 付けのニッケイ新聞の「ひとマチ点描」に、「ブラジルにも蝉はいるよ!」という短い記事があった。それを読んで、「えっ?どうしてブラジルには蝉がいないという人がいるのだろうか?」と不思議に思った。ここでは日本の真夏に聞こえるミーン、ミーンという蝉の鳴き声は聞かないけれど、それとはちょっと異なるいろいろな鳴き声が聞こえるので、いろいろな種類の蝉がいるのだろうと思う。午後6時になると決まって寂しげに鳴く蝉もいて、エドソンはその鳴き声を聞くと郷愁を覚え、その昔この蝉の鳴き声を聞いていた子供の頃を思い出すと言う。サンパウロはビルに囲まれた都会だから蝉の声が聞こえる環境がないのかなあ?でも、日系人はサンパウロ市だけでなく、サンパウロ州の田舎に行くほど多く暮していて、各地に俳句をたしなむ人たちがいるのだから、蝉の声を聞いているはずなのに・・・。それとも、そもそも蝉の鳴き声というものがわからず、聞こえてくる鳴き声が蝉の鳴き声だということに気づいていないのだろうか?不思議。不思議。以下は、その記事のコピー。

『「ブラジルにも蝉はいるよ!」と実物を持ってきてくれたのは、聖市近郊モジ・グアスーのシャッカラに住む南雲良治さん(82、新潟県)だ。「確かにね、日本の蝉ほど煩くないかな。でも夏の間シャーシャーと鳴いてるよ。これはウチの裏庭の木にとまっていたやつ。たまたま手が届くところにいたから捕まえた」とのこと。

以前から当地俳句界の一部には「ブラジルには蝉がいない」という説がある。要は「蝉しぐれ」という季語が使えるかどうか、という話だ。「蝉しぐれはブラジルでは聞けない」という主旨の俳句が俳壇に載るたびに、南雲さんは「そんなことないのにな~」と首をひねっていたという。

捕まえようにも、なかなか手に届くところに蝉が止まらず、この機会を待っていたのだとか。「これで確かでしょ! ブラジルにも蝉はいるからね」と南雲さんは念を押した。

――蝉しぐれ夏と論争ともに過ぎ――(深)』

2018年4月13日(金)

今月1日付けのブログで、友人が送ってきてくれた広島の縮景園の桜が写っている写真を掲載したけれど、今度は別の友人が、その縮景園の名残りの枝垂れ桜の写真を送ってきてくれた。どんな花もきれいだと思うけれど、桜だけはきれいを通りこして、何だかとても心に響くものがある。ひょっとして、日本人のDNAの中に何かの記憶が組み込まれているからなのだろうか?ブラジルでは日系の人たちがあちこちに桜を植えて、桜を増やしていっているけれど、それは日本人のDNAのなせる技なのではないかと思えてしまう。

2018年4月14日(土)

4月10日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」に、先週発売になった『日本文化』第7巻では明治維新150周年を特集しているとして、「明治のどの部分からブラジル移住は始まったか」という記事があった。ブラジルには錚々たる人たちが移住しているんだなと、再認識。そして、なるほど、日本の人たちが海外に出た人たちに関心がないのは、こういう背景もあるのかもしれないとも思った。以下は、その記事のコピー。

明治のどの部分からブラジル移住は始まったか

「明治維新150周年」が日本で盛大に祝われようとしている。明治のどんな部分からブラジル移民が始まったのかを解き明かしたいコラム子にとっては、少々関心がある行事だ。

というのも「なぜ日本で殖民事業を開始した榎本武揚や“ブラジルの吉田松陰”大武和三郎は旧幕臣で、水野龍(りょう)は土佐藩士(高知県)で、その女房役たる上塚周平は肥後藩(熊本県)だったのか」という問いが頭から離れないからだ。

つまり、明治政府を主導した薩長の人材ではない―という点だ。

1885年に伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したとき、榎本は旧幕臣から唯一大臣に選ばれたが、閣僚構成は薩摩4、長州4、土佐1、旧幕臣1だった。

つまり明治維新の中心になったのは薩長土肥だが、政府を主導したのは薩長のみ。新政府側だが劣勢の者たち(土肥)、権力者から虐げられた側(旧幕臣)から「殖民事業」は発生している感じがする。

ちなみに薩長土肥の「肥」は肥前藩(長崎県、佐賀県)であり、上塚の肥後藩は入っていない。だが新政府側に立って戦ったのに中枢に入れなかったという意味では劣勢の側だ。

榎本は1897年、公式植民団としては日本初の榎本殖民団40人弱をメキシコに送り込んだ。その時、徳川家康を支えた三河武士の根城である愛知県でまっさきに募集をかけた。不遇に扱われていた旧幕臣を送り出すためだ。

だが非公式には、明治元年1868年に、会津若松藩地区からの移民団がカリフォルニア州ゴールドヒルに渡った。すぐに四散してしまったが、アメリカ大陸初の日本人植民地「若松コロニー」建設を目指していた。

これはやはり、薩長に最後まで抵抗した「奥羽越列藩同盟」の会津藩士が我先にと米国に安住の地を求めた動きだ。

ブラジル関係者の高知県出身者の先駆け水野龍が8歳の時、坂本龍馬が31歳で暗殺された。幕末の土佐藩の同じ時代の空気を吸っていたといってよい。 坂本龍馬は北海道移住を夢見ていた。甥・直寛は坂本家5代目当主として、龍馬の遺志を継いで移民団「北光社(ほっこうしゃ)」を設立し、1897年に家族など約100戸を連れて北海道北見の原野へ開拓に入った。

もし龍馬が生きていれば、水野龍の海外雄飛の想いと共鳴しあい、坂本家のメンバーが第1回移民船・笠戸丸に乗っていたかもしれない。

高知県人には、戦前の3大邦字紙の一つ『日伯新聞』の創立者・三浦鑿(さく)もいる。コチア産組創立者の下元健吉本人に加え、あとを継いだ井上ゼルバジオ忠志(ただし、二世)も両親がそうだ。海外殖民学校を創立してアマゾナス州マウエスに卒業生を送り出した崎山比佐衛もしかり。

衆院議員までやってから米国を経て伯国移住した西原清東、パラナ州の日本人移住の大功労者の氏原彦馬、日系初の連邦下院議員・田村幸重の父・義則も高知県宇佐町出身だった。同県出身の著名な初期移民は実に多い。

ブラジル初の邦字紙・週刊『南米』を創刊した星名謙一郎は宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市)出身だ。外務省通商局長、メキシコ駐在、アルゼンチン兼ウルグアイ兼パラグアイの特命全権公使をしたあと一移民としてブラジル移住した古谷重綱も。

宇和島藩祖は伊達政宗の長男伊達秀宗であり、幕末においては仙台本家(伊達家)が奥羽越列藩同盟に連座しこともあって、基本的に中立を保ち、新政府に強い藩閥を持てなかったところだ。

この奥羽越列藩同盟とは、東北地方と新潟県の諸藩が『東日本』として独立することを目的に作った同盟であり、現在でも薩長史観の観方をする本には「賊軍」などと表現されて地域だ。

そんな新潟県で1870年に生まれたのが、戦前の3大邦字紙の一つ「ブラジル時報」を創立した黒石清作だ。高浜虚子が渡伯に際して《畑打って俳諧国を拓くべし》の餞別句を贈った佐藤念腹、戦中の日本人差別被害を訴えた本を出して日本人で唯一DOPS(社会政治警察)から発禁処分を受けた気骨あるジャーナリスト岸本昂一も新潟県人だ。

こうやって並べてみると「賊軍」と「新政府の劣勢者」が中心になって始めたのが、ブラジル移住といえなくもない。

先週発売されたばかりの『日本文化』第7巻では明治維新150周年を特集している。そんな移民とのつながりを頭に置きながら、ぜひ読んでみてほしい。(深)

2018年4月15日(日)

3週間ほど前、ボトゥカトゥのショッピングセンター内にあるテンダという量販スーパーに買い物に行った。日本食料品店のウエノまで行く時間がなかったので、そこで販売されていた日本米を買ったのだけれど、以前はもみじというウエノでも置いているブランドのお米を置いていたのに、その日は見たことのない日本米しかなかったので、どうしようかとちょっと悩んだ。でも、次回ウエノに行ってお米を買えるのがいつになるかわからないので、どうしてもつなぎとして1袋確保しておく必要があったので、買った。輸入の日本米と袋にはあるのだけれど、ササニシキならぬサニシキとあり、何となくうさんくさい。輸入は輸入でも日本からの輸入ではないんだろうなと思った。でも、味は本物の日本米には負けるけれど、ここでいつも食べている日本米と変わらない味だった。

2018年4月16日(月)

ペドレイロのミウソンがしばらく来なかったため、ガレージの建設作業が止まっていたのだけれど、この土曜日に久しぶりに来てくれ、少し作業が進んだ。この土曜日は、ガレージの壁を少し壊して、ガラスのレンガを入れる作業が行われた。エディはレンガを積み上げて行く際に、ガラスのレンガも続けて同時に入れるというやり方をするのだけれど、ミウソンは、そうするとガラスのレンガが汚れるからと言って、出来上がった壁を壊して、ガラスのレンガを入れるというので、壁をうまく壊せるのだろうか?と、ちょっと不安だった。でも、何とかきれいにガラスのレンガが入って、ほっとした。ただ、せっかく積み上げたレンガや上塗りしたコンクリートを壊すというやり方は、何だかもったいないなあと思った。ここにガラスのレンガを入れたのは、明り取りのため。この明り取りがあれば、昼間は電気を付けなくても、ガレージの中が十分明るくなるから。

2018年4月17日(火)

顧客対応なのにポルトガル語がちょっと変で、言葉遣いも良くないため、パウロの会社で雇ったミレーニをたった一ヶ月で首にしたことは、以前このブログで書いた。エドソンが雇い主だったら、もう少し時間をかけて我慢強く訓練したのだろうけれど、雇い主のパウロとジャナイーナはそんなに我慢強くないので、首にせざるを得なかったようだった。それを可愛そうに思ったのか、エドソンが抱えている国際アマチュア無線連合(IARU)の「データ入力の作業をうちでやってもらおうかと思う」と言って、この仕事に興味があれば、日曜日に話においでとミレーニに伝えていたら、ボーイフレンドが運転する車でやってきた。仕事で忙しいエドソンは時間がなくてずっとほったらかしにしていた作業なので、手伝ってもらえれば助かるし、ミレーニにとっては収入と経験になり、このデータ入力の仕事をしたことを履歴書にも書けるので、彼女にやる気があれば頼むつもりのようだった。それで、土曜日に下の部屋に机とコンピュータを入れて、ベッドやソファーを隅に移動させて準備をした。次の写真は、日曜日の朝、下の部屋でエドソンがミレーニに仕事の説明を始めたところをパチリ。子供の頃の面影はなく、きれいなお姉さんになっているので、町で会ってもあの小さかったミレーニだとはわからないなと思った。一時間足らず仕事のやり方を説明して、本人がやりたいというので、来週の月曜日から来てもらうことになったということだった。

2018年4月18日(水)

4月17日付けニッケイ新聞の「コラム 樹海」に、『「ルーラなき後」を考えられないPTの末路は?』という記事があった。無料で読めるのは最初の部分少しだけなのだけれど、その部分だけでも以下にコピーしてみた。ルラ逮捕後も大統領候補としての支持率が31%もあるらしいけれど、これは以前にも書いたように、彼らはルラを教祖とする労働者党というカルト教団のコアな信者なので、真実かどうかはどうでもよく、善悪の問題でもなく、信じるかどうかなので、何があってもこの数字に大きな変化はないのではないかと思う。恐ろしいことだと思う。

『昨年から「refem de Lula(ルーラの人質)」という言葉を、いろいろな政治評論家から聞く。最多の連邦議員を抱える労働者党(PT)が、ルーラを大統領候補にすることにこだわるあまり、他の生き残り策を考えられない様をそう表現している。ルーラは1月時点の支持率調査で35%というダントツ1位を誇った。彼の逮捕後初の調査が15日に発表されたが、それでも31%▼同じ調査で極右候補のボウロナロは17%と2位だが、ルーラ逮捕後もあまり変化がない。16日朝8時台のCBNラジオでジャーナリストのジェルソン・カマロッチは「PT幹部はルーラ逮捕への国民の反発で、ルーラ支持率がさらに上がると読んでいたが、実際は下がった」との情報を明らかにした。さらに「ルーラとボウソナロだけは2年前から実質的にプレ選挙運動を始めていた。左と右が対になってお互いを攻撃して話題を作り、相手の存在を際立たせてきたから支持率が上がった。今回ルーラが逮捕されて片割れがいなくなり、ボウソナロも勢いを失うかも」という興味深い分析を披露していた▼』

2018年4月19日(木)

水曜日に時間ができたから、また掃除しに行きましょうか?と、ドナ・クレウザから連絡があったので、エドソンがお願いしたよと言ってくれた。私が朝、ルイーザの英語のレッスンをしている間、下の寝室とシャワールームの掃除をしてもらい、ガレージの窓2つもきれいにしてもらった。ルイーザのレッスンが終わった後、ガレージから車を外に出して、土で汚れたガレージの床を掃いてもらった。私は聞いていなかったのだけれど、お昼は持ってこなくてもいいとエドソンに言われたので、持ってきていないというので、残っていた冷やご飯でジャコチャーハンを作り、これだけではちょっと少ないので、残り物の挽き肉とニラの炒め物を温め直し、きゅうりの酢の物も出して、一緒にお昼を食べた。私のつたないポルトガル語でも彼女とはいろいろ話ができるので、とても楽しい。昼食後、しばらく休憩していてもいいよと言うのに、すぐに作業を再開しようとするので、昼食後はすごく汚れまくっていた台所のガスオーブンの中の掃除を頼み、ふたりでゴシゴシと格闘した。ガラス扉にこびりついた油汚れは何とか落とすことができたけれど、オーブンの中の天井と壁にこびりついた油は落とすことはできなかった。これ専用の洗剤があるので、今度買って持ってきますから、その際、もう一度掃除しましょうと言ってくれたので、昨日はガラス扉とオーブンの中のランプだけをきれいにした。この後、家の中の各部屋の床の拭き掃除をしてもらった。日曜日に掃除機をかけて、拭き掃除をしたばかりだけれど、あまり日を置かず、また拭き掃除をすればきれいさを保てるので、とても助かる。次の写真は拭き掃除をしてくれているドナ・クレウザ。「ブログ用にまた写真撮らせてね」と言うと、「またですかあ?」と言って笑い飛ばしているところ。彼女のこういう明るい性格が私はとても好き。部屋の掃除が済むと、ほうきで軒下の蜘蛛の巣を取り払い、ベランダの椅子などをすべて移動させて、床のタイルを洗ってくれ、外階段もきれいにしてくれた。感謝。感謝。

2018年4月20日(金)

明日から急ぎ広島に行きますので、ブログはしばらくお休みします。戻りましたら再開します。



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