Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2018年3月1日(木)

ペトロポリスの安見さんご夫妻が牽引しておられるペトロポリス日系協会が、去年の10月ペトロポリスで「EXPO-JAPÃO」という展示会を開催されたことは、このブログで書いた。その際、リオ総領事館の広報文化センターでも同じ展示会を開催しないかという誘いがあり、今度は「野口英世」に焦点を当てた展示会を、1月15日から2月23日までの1ヶ月あまり開催された。それが終了し、ほっとしたところでその展示会の様子を写真と共に知らせてきてくださったので、紹介しようと思う。

次の写真は、この展示会の案内に使われたパンフレット。

次の写真は、展示会開催前の1月11日に、ペトロポリスから10名でリオに行って、一気に会場の飾りつけを完了させた後、働いたメンバー全員で撮られた記念写真。

会期中、生徒さんたちの見学が沢山あったそうで、そんな見学者の生徒さんたちを撮ったのが次の写真。この生徒さんたちは中学生かな?高校生かな?「見学者記帳ノートを見ると、リオの日系社会の人たちが多数来場してくれたようで嬉しい限りです」とメールにはあった。

2018年3月2日(金)

リオ総領事館の広報文化センターで開催された「野口英世展」の会期中の一日、OSWALDO CRUZ研究所の先生方による黄熱病の歴史講演会も実施されたということだった。領事館側が偉い先生方の講演会場が展示場の一角では申し訳ないと、Museu do Amanhaでやる交渉をして実施されたのだそう。ここはオリンピックの時に作られ、今やリオの一大観光名所で、客船の船着場の脇にあるらしい。「サントスヅモン空港から新設のVLT市内電車が通っていて、水族館、バスターミナルとつながり観光客で何時も一杯です」とメールにはあった。

次の写真は、その講演会案内のパンフレット。この夏は各地で黄熱病の患者が多く出ていて、連日TV O GLOBOで黄熱病発生件数と死亡者数を報道していたので、関心の高い催しとなったようだった。

次の写真は、講演会で話をされたオズワルド・クルーズ研究所の三人の先生方。それぞれの講演が終わって質疑応答の時間になり撮影されたようだ。「会場は30名の席で後ろの床に座って聞いていた人もいたので40名は入ったようでした。病理研究の学生さんが多数出席したようです」とあった。

次の写真は、「講演会が終わってほっとして外に出たら丁度日が沈むところで、Museu do Amanhaが夕日に照らされ綺麗でしたので久々一瞬のデートをしました」とあった。Museu do Amanhaは日本語にすると「明日の博物館」。建物は宇宙船か何かのようで、まさに明日(未来)感のある建物だなと思った。

2018年3月3日(土)

先週末、マーセロとアニー夫婦がここに滞在していた日曜日のお昼前に、エドソンは彼らをパーディーニョ観光に連れ出し、例によって、バー・ド・ヴィヴァンにも行って、コシニャとキビを買って帰ってきてくれたので、うちでゆっくりお昼にした。その際、バー・ド・ヴィヴァンにパーディーニョ観光のパンフレットが置いてあったらしく、1部持って帰って来てくれたので、それを広げて次の写真を撮ってみた。1枚目の写真の右側には、バー・ド・ヴィヴァンの近くから見える「眠れる巨人」と呼ばれる山の景色が写っている。その他の写真は、パーディーニョや近隣の町の宿泊施設や、見どころや、レストランなどが紹介されている。でも、住所がなく電話番号だけのものもあり、ちょっとわかりにくい案内だなと思った。これまでこんなものは存在すらしていなかったのだから、これを作っただけでも大きな進歩ではあるけれど、観光案内パンフレットには精密でなくても地図があった方がいいのではないかと思った。

2018年3月4日(日)

先週末うちに泊まったマーセロとアニーが日曜日の午後帰ると、エドソンも私も何故だかどっと疲れが出てしまった。私は月曜日は1日頭が重く、午後2時間近く横にならないとやっていられない感じだった。夕方仕事から帰宅したエドソンも疲れているようで、何だか風邪をひいたみたいと言って、夜早めに寝たのだけれど、翌朝起きると症状全開で、とても辛そうに仕事に出て行った。この1週間ほど前に出張でイタぺヴァに行った時に、インフルエンザをもらってきたのだろうか?私の体調は火曜日くらいからだいぶ平常に戻ったのだけれど、エドソンは風邪の症状がひどく、1週間ずっとしんどい思いをして過ごした。さらに金曜日の午後、お天気が崩れ、雷が鳴り出したので、コンセントを抜いていつも通りに対応したのだけれど、エドソンが帰宅して、インターネットに接続しようとしたら接続できなので、私が変なことをして何かを壊したのではないかと疑われてしまった。でも、エドソンが外のアンテナに取り付けてある受信装置を調べに行くと、どうもそれが壊れていることがわかり、私のせいではないとわたりほっとした。お天気のせいで電気が切れたり入ったりしたようで、それが原因なのか、これまで何年も使っていた装置が壊れたらしかった。翌朝、8時半には会社からホドリゴともうひとり若い人が部品を持って来てくれて、受信装置を直してくれたため、1時間後にはインターネットが使えるようになり、感謝。感謝。何だかいろいろあった1週間だったなあ・・・。土曜日に建設作業に来てくれたミウソンも彼のお父さんもひどい風邪がなかなか抜けず、しんどそうにしていたようなので、町では今風邪が流行っているんだと納得した。次の写真は、去年、ワイルドベリーやフランボヤンジーニョの側に植えた木が、初めて黄色い花を咲かせたので撮ったもの。背丈はまだ膝下くらいの小さい木だけれど、こんな可愛い花を咲かせるのかとうれしくなった。

2018年3月5日(月)

土曜日にミウソンとお父さんが建設作業に来てくれたのだけれど、ふたりとも風邪で体調が悪かったようで、未完成だった屋根を直しただけで、お昼過ぎには帰って行った。ふたりが帰ってから撮ったのが次のガレージの写真。屋根の前後に開いたスペースがなくなって、ちゃんと屋根ができあがった。ただ、屋根の下の隙間にレンガやコンクリートを入れるのはまだ先になりそう。その後、マテウスが2時になってもレッスンに来ないので、ひょっとしてミウソンが帰る際、入り口ゲートの鍵をかけてしまったのかもしれないと、エドソンが鍵を持ってゲートに行くと、やはりゲートの鍵がかかっていて、マテウスはゲート前で、送ってきてくれたおばあさんの車の中で待っていたということだった。やれやれ、土曜日は手伝いの人がいたりするので、早く帰る際もゲートの鍵をかけたりしないのだけれど、この土曜日は手伝いの人は誰も来ておらず、ミウソン自身も体調が悪かったからか、うっかり鍵をかけてしまったようだった。

2018年3月6日(火)

広島の友人が自宅にあるお雛様の写真を送ってきてくれた。ひとつは100歳で、もうひとつは65歳ということだった。1枚目の写真のお雛様が、ちょっと古風な感じなので100歳なのかな?いずれにしても時代物のお雛様を大事に持っているというのはいいなあと思った。私は大人になってから、山口の大内人形の小さいものを自分で買って今も持っているけれど、子供時代は家に雛人形などなく、手持ちの熊だったか犬のぬいぐるみやこけしや人形などをかき集めてきて並べて雛人形の代わりに飾って、なんちゃってひな壇を作ったりしていたことをなつかしく思い出した。私の母方の祖母はいいとこのお嬢さんだったので、雛人形を持っていたのかもしれないけれど、母の子供時代は祖父が早くに亡くなり、経済的に大変だったようなので、母も雛人形など持っていなかったのではないかと思う。たとえ祖母のものがあったとしても、生活のために質屋に入れたか、原爆でなくなってしまったのだろうと思う。だから私は祖母や母の雛人形というのは見たことがない。日本では、季節ごとにスーパーなどの飾り付けや売り出す商品が変わり、3月が近くなるとひなあられなどがお店に並んだりするので、ああ、お雛様の季節かと思うけれど、ここでは、せいぜい、イースターの時期に大きな卵の形をしたチョコレートや、クリスマスの時期にはパネトーネという長期保存のきくケーキが所狭しと並ぶくらいだろうか?ただ、自然界では、この時期限定で飛ぶトンボを最近毎日見かけるのと、夏の終わりから秋の初めにかけて鳴くセミがとてもにぎやかに鳴いているので、秋だなと感じる。トンボやホタルは水のきれいな所でしか生息できないので、サンパウロ市内ではもう見られないと鎌谷さんから聞いた。でも、ここは環境のいい田舎町なので、まだ見ることができる。

2018年3月7日(水)

次の写真は、うちにある高さ5センチくらいの小さな大内人形。この人形についてきた説明書によると、「大内人形は24代大内弘世が、京より美しい姫を迎えましたが、姫があまりに都を恋しがるので、これを慰めようと都より多くの人形師を呼び寄せ、大内御殿の一室を人形で飾って喜ばせました。町の人々はこれを人形御殿とよびました。このほほえましい物語から大内人形が生まれ育ちました」とある。

2018年3月8日(木)

2月9日付けの中国新聞セレクト紙に「横路先生の思い出」が掲載された後、小泉さん、大木さん、兄の助けを借りて、その紙面をあちこちに発送してもらった。広島県医師会(IPPNW日本支部)では横路先生は現役を退かれて久しいので、追悼などするつもりはないということだったようだけれど、IPPNW日本支部事務総長の片岡先生が県医師会長に掛け合ってくださったのか、詳しい経緯はまったく分からないのだけれど、県医師会速報のIPPNWコーナーに、中国新聞の許可を得て、この記事を転載する話になっているというご連絡をいただいた。これが実現すれば、より多くの方々に、先生のご逝去をお知らせすることができるのでうれしく思った。そして、IPPNW本部が各国支部に宛てて送った追悼文も一緒に掲載してもらえないだろうかとお願いした。ただ、英文のままでは検討してもらうこともできないし、そのまま掲載したのでは読者に理解してもらえないので、大急ぎで日本語に訳して、今週の月曜日には医師会に届くようにその翻訳原稿をメールに添付して送ったのが、以下の文章。小泉さんと大木さんに大急ぎで翻訳原稿を見ていただき、修正の指摘をしていただいた。おふたりには心から感謝。

送信者:IPPNW事務局長 マイケル・クリスト
送信日:2016年12月8日(木曜日)
送信先:IPPNW国際評議員各位
主題:親愛なるIPPNWの偉人逝く

親愛なるIPPNWの友人の皆さん、

悲しいお知らせがあります。我々の運動を支えてきた先駆者がまたひとり旅立たれました。

横路謙次郎先生はIPPNW日本支部創設メンバーでした。1985年の夏、日本支部事務総長に就任された時には、そのわずか数ヶ月後にIPPNWがノーベル平和賞を受賞して、国際的な注目を浴びることになるとは夢にも思っておられなかったことでしょう。

1945年当時、横路先生は広島で1年生になったばかりの医学生でした。運命の巡り合わせか、8月6日は広島市外に出ておられました。原爆投下後まもなく市内に戻られ、筆舌に尽くしがたい恐ろしい光景を目の当たりにすることになりました。それからの5週間、先生は爆心地から1,000メートルほどのところにあった救護所にとどまり、救助活動にたずさわりました。

横路先生はその後の人生を、放射線の影響を調査・研究し、ヒバクシャを思いやり、核兵器が二度と使用されないようにするために捧げられました。

先生は、広島大学原爆放射能医学研究所(現在の原爆放射線医科学研究所)の教授として、後には、研究所所長として、さらに実験病理学のスペシャリストとして50年以上もの間、研究にたずさわってこられました。放射線によって引き起こされる白血病や放射線誘発乳ガンを始め多くの異なる臓器の発ガン研究に取り組まれ、日本の放射線誘発ガン研究の基礎を築かれました。先生は研究を通じて、発ガン実験に貢献され、ガン発生のメカニズムの解明に尽力されました。また、放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)にも深く関わっておられました。HICAREは1991年に設立され、核実験、核兵器製造、あるいは原発事故などで被曝した人々に医療を提供しています。

横路先生は長年にわたりIPPNWの上級職を務められ、1989年の広島と長崎での第9回IPPNW世界大会開催に尽力されました。また、核兵器のない平和な世界を目指すIPPNWの使命を支援して、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国、および日本の医師を団結させるためにIPPNW日本支部主導のもと北アジア和平イニシアティブを主催されました。この努力の一環として、先生はIPPNW代表数名を先導して、平壌での医師や政府関係者との対話や、IPPNW北朝鮮支部の実現に寄与されました。ケン(先生をよく知る者たちはこうお呼びしていました)は、我々と一緒によく笑ってくださるとても穏やかで、心優しい方でした。個人的には先生が私に示してくださった友情と励ましに感謝してもしきれない気持ちです。

横路先生が旅立たれたのは数ヶ月前のことでしたが、我々がその訃報に接したのは昨夜でした。ご夫婦円満だった素晴らしい奥様を残して先に逝かれたのだろうと思います。しかし、その奥様も健康状態が悪化しておられるのではないかと危惧されます。

2017年に核兵器禁止条約を国連で採択させることこそが、横路先生への最善の追悼になるものと思います。

敬具
IPPNW事務局長
マイケル・クリスト

2018年3月9日(金)

メル友の鎌谷さんが、「綺麗な歌声ときれいな歌い手、ぐうぜんみつけました」と言って、ウクライナ人のナターシャ・グジー(Nataliya Gudziy)という女性が、「千と千尋」の主題歌「いつも何度でも」をとてもきれいな日本語で歌っているサイトを教えてくださった。この女性のお父さんがチェルノブイリ原発で働いていたので、原発から3.5キロのところに家族と住んでいて、原発事故当時、彼女は6歳だったのだそう。原発事故は夜中に起こったので、住民は大きな事故が起きたことを知らず、翌日はごく普通に生活していたのだけれど、2日後に、事故は大したことはないので、荷物を持たずに、3日間だけ避難してくださいと言われて避難したという。でも、20年以上経った今も家に帰ることができないと言っていた。「ウクライナ美人が千と千尋~主題歌を熱唱」と入力してグーグルで検索すると、たくさんヒットする。その中で、歌を歌っている4分ほどのサイトにここでリンクをはってみる。このサイトは、こちらへ

2018年3月10日(土)

以下は、2018年3月6日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。この記事の中にある100万レアルは日本円に換算すると、3200万円余りだけれど、ここの生活実感からすると、100万ドルとほぼ変わらず、1億円超と言う感じの大金。

ブラジル医療業界最強のやり手が狙う友好病院

サンパウロ日伯援護協会の与儀明雄会長に直接、「救済会のような伝統的な福祉団体を潰していいのですか? 援協はもっと恵まれない移住者の支援ができないですか」という話をぶつけてみた。

すると「日本移民の路上生活者の保護を、援協は最近あまりしていないように一般では思われています。ですが、実は毎月約100万レアルを恵まれない日本人のために使っており、きちんと理事会で報告されています」と答えた。

「身寄りない人があちこちで保護された場合、日本人だからと言って援協に連絡が来ます。多くの場合、精神的に問題があり、援協施設には預かれない。そうなるとブラジル人施設に預けて、援協がその費用の面倒をみることになります。そういう人だけで20数人います。援協施設に入居している人でも、費用全額を負担していない人も多い。入園者には『4千レアルも月々払わされて高い』と文句を言われる方もいますが、実費は7千レアルかかっているケースもある。そういう負担を合計すると月100万レアルになるのです」という。

日本政府からの保護者金は年間63万レアル程度で、「毎月の福祉経費の6割にすぎません」とか。この100万レアルが、大黒柱・日伯友好病院の利益から回されている。

与儀さんは「一人居なくなったら代わりに一人いれる。それが精いっぱい。やみくもに保護していくと援協の財政が傾きます。バランスが難しいんです」と言葉を結んだ。

その友好病院を担当する第一副会長の井上健治さんにも聞いた。すると順風漫歩な経営かとおもいきや意外な話が…。

「援協は今では『職員数2千人を擁する南米最大の日系団体』とか言われますが、ブラジルの病院としてはぜいぜい中規模。昨年、今年と続けざまにブラジル最大手の病院チェーン(Rede D‘Or)が友好病院へ買収交渉に来ました。今年は社長自らが。一歩間違えれば、コチア産組や南米銀行のようなことになってもおかしくない、舵取りが難しい時期なんです」との危機感を持っている。

Rede D‘Orは傘下に37病院を持ち、手術用ベッド5200床、契約医8万7千人という伯国最大の民間医療グループ。17年3月20日付フォーブス誌電子版によれば、創立者のジョルジ・モル・フィリョ氏の個人資産はなんと32億ドル(3383億円)。伯国で13番目の資産家だ。その社長自らが友好病院の買収に乗り出してきている。つまり、本気だ。

井上さんは「もちろん、与儀さんは断りました。ですが経営状態が悪くなれば、いつ…」とも。友好病院がいま高い利益率を誇っている理由は二つ、公益団体登録を維持して免税であること、そして国が運営する統一医療保健システム(SUS)を受け入れていないことによる。SUS患者を引き受けると、その経費は国が負担することになるが、経費に全く見合わない微々たる負担しかせず、しかも支払いが常に遅れる。受け入れ始めると経営は一気に悪くなる。

とはいえ通常、SUSを受け入れないと公益団体登録は出ない。援協は苦肉の策で、サンミゲル・アルカンジョに別のSUS病院を作るなどの対処をして、友好病院の良好な経営をなんとか維持している。

井上さんは「もし公益団体登録が抹消されて税金を払うことになったら、友好病院は一気に赤字かも。かといってSUSをやっても大変なことに。非常に難しい時期。それに医療分野はすごく競争が厳しい時代です。どんどん巨大医療グループの病院ばかりになってきている。南銀が買収された時と一緒…」とため息をつく。

そんなブラジル医療業界最強のやり手が、虎視眈々と友好病院を狙っており、もしも経営面で何らかの弱点が現れようものなら、襲い掛かろうと待ち構えている。

「どんな意地悪な競争相手が現れて、僕らが思いつかないような手で陥れてくるか分かりません。まさに生き馬の目を抜く世界です。困っている人をすべて受け入れていたら、すぐに援協は赤字になって経営が悪化する。支援はすべき。でも、そのバランスが難しい」と腕を組んだ。救済会のために援協の方がつぶれてしまうのでは本末転倒だ。

とはいえ、救済会の将来は、援協経営陣の「温情ある理性的判断」にゆだねられている。(深)

2018年3月11日(日)

セドリーニョの列に沿って蒔いたとうもろこしが芽を出して、成長し、最近実をつけ始めた。それで、エドソンがベビーコーンをせっせと収穫して食べようというので、先日、20本ほどベビーコーンを収穫した。次の写真の真ん中の1本は、すでにベビーコーンの域を出て成長し過ぎてしまっているけれど、他はちょうどいい大きさだった。1本のとうもろこしの木に複数の実がなるので、20本くらい収穫しても、数本のとうもろこしからの収穫でしかなく、本当にせっせと毎日でも収穫しないと、すぐに大きくなってしまうのではないかと思う。でも大きくなったものはそのまま育てて、鶏たちの餌にできるので無駄にはならず、それはそれでいいのだけれど。

2018年3月12日(月)

次の写真は、昨日朝一番のオシッコとウンチに行く前のひろとはるの様子を撮ったもの。1枚目は、ひろにリードをつける途中でパチリ。2枚目はひろにリードをつけている間、玄関の扉の前にいるはるをパチリ。3枚目は、リードをつけ終わって、「さあ、出かけましょうか」と、玄関の扉の前で待っている2匹をパチリ。2匹とも外に出る際はリードをつける決まりになっていることにもう慣れっこになっているので、おとなしくリードをつけさせてくれる。玄関の扉も、私が鍵を開けて、扉を開けるまでいつもこの写真のように待っている。ひろはいつも上を向いて、鍵穴に注目しながら待つのだけれど、はるは鍵穴にはあまり関心がないようだ。そして、扉を出る順番はいつもひろが先で、はるは二番手。でも、外から戻って足を拭いたり洗ったりする際は、はるが先で、ひろは二番手。はるは足をきれいにした後は、私とひろの間を通らず、ひろの後ろを通って家の中に入る。人間の子供でも教えなければ、構わず人の前を通るものだけれど、はるは教えていないのにひろの後ろに回って家の中に入るから不思議だ。何とお行儀のいい子だろう。

2018年3月13日(火)

この土曜日に手伝いの人たちが来てくれたら、防風林の外側のエリアや入り口ゲート近くに、私が育てている桜の苗木を植えてもらおうと思っていたのだけれど、またドナ・ベティの所で仕事だったのか、誰も来てくれなかったので植えることができなかった。前々からやろうやろうと思いながら、ずっと実行していなかったので、日曜日の午後、意を決してようやく重い腰を上げた。台所の野菜くずなどを丘の上に埋めに行った際、ついでに苗木を植えるための穴を掘って準備をして、その後、苗木を8本ほどバケツに入れて運んで行って植え、ジョウロに水をたっぷり入れて持って行き、水をやった。お天気が良かったので、たったこれだけの作業で汗びっしょりになってしまった。私にはこれが精一杯で、無理をして入り口ゲート近くにも植える作業を続けると完全にへばってしまうことうけあいなので、日曜日の作業はここまで。次の写真は、植えた苗木を中心に丘の上に向かって植えた苗木を撮っているのだけれど、ひょろひょろの苗木なので、後ろの方はあまりよく見えない。画面左上に丘の上のガジーボが見える。2枚目の写真は、この同じ苗木の反対側から丘を下に向かって撮ったもの。これまでに十数本植えた苗木がだいぶ大きくなり、葉が茂っているのが見える。

2018年3月14日(水)

1月、2月は気温が低めで、雨の日が多く、夏とは思えない涼しい日が多かった。でも、そろそろ秋だという3月に入ると、まるで季節が逆戻りしたかのように、暑い日々が続いている。夏の間でもこんなに暑くなかったのにと、驚いている。1月、2月に夜、夏だと言うのに、毛布を掛けて寝る日が結構あったのに、このところ暑くて毎晩扇風機を掛けて寝ている。

うちの敷地内の西端にある森の中の貯水タンクに下りて行く途中に、桑の木があり、さらにその一段下にアボカドの木がある。ここのアボカドの木は、ランドマークの木の側に捨てた種から自然に生えてきたものとは違い、ちゃんと苗木を買ってきて、ここに植えて育てていたもの。植えてから6~7年経つのだろうか?今年初めて実をつけてくれた。先月、エドソンがアボカドの木に10個ほど実がなっているから、もうすぐ収穫できそうだよと言っていたので、昨日、桑の葉を取りに行った際、木の回りをぐるりと回って見てみると、9個実がなっていることが確認できた。その際撮ったのが次の写真。木が大きくて、実が上の方になっているので、手が届かない。さて、どうやって採ろうか?虫取りネットのようなものがあるといいのだけれど・・・。

2018年3月15日(木)

先月、うちにある白い花の咲く木の名前がノイヴィーニャだということがわかったと書いた。このノイヴィーニャは花が終わった後、たくさん種を飛ばすようで、しばらくすると、木の周辺から新しい芽がたくさん出てくるので、それを植え替えて増やしていっている。入り口ゲートに向かう道沿いにたくさん植え替えたものがだいぶ大きくなって、去年はきれいに花を咲かせてくれた。その中で、1本だけ突然変異のように大きくなったノイヴィーニャがあるので、写真を撮ってみた。1ヶ所に3本植えた苗木の内の右側の1本だけが、背丈が異常に高く、葉の大きさも大きく、何だか同じ木とは思えない。けれど、これもノイヴィーニャであることに間違いはない。毎年5月か6月に花が咲くのだけれど、今年、花が咲いた際、花も大きなものが咲くのか確認してみようと思っている。

2018年3月16日(金)

以下は、2018年3月13日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。

米本土攻撃の秘密基地建設にメキシコ日本移民?

『海を越えて五百年 日本メキシコ交流史』(荻野正蔵著、2016年、メキシコで刊行、以下『5百年』と略)という440頁、フルカラーの大著をめくりながら、メキシコと日本の絆は実に深いとしみじみ考えさせられた。

特に驚いたのは、「日本人初の榎本植民地と、真珠湾攻撃直後の米本土攻撃用の在メキシコ日本軍潜水艦基地の不思議な関係」という〃歴史的事実〃だ。環太平洋時代にふさわしい、すごい歴史が羅列された本だ。

日本初の集団地「榎本植民地」を構想したのは、幕末に函館の五稜郭に立てこもって幕府軍最後の攻防戦をした旧幕臣・榎本武揚であることは有名だ。

『五百年』63頁には、《明治になって20年というのに、旧幕臣は相変わらず冷や飯を食わされていた。(中略)そんなとき、日本にいたメヒコの公使がチアパス州の土地を買わないか、という話を榎本のところに持ってきた。広さは6万7千ヘクタール、琵琶湖がすっぽり入る大きさだ。太平洋の向こうなら誇り高い旧幕臣も気兼ねなく暮らせる、と榎本はひらめいた》とある。

だから徳川家康を支えた三河武士の根城である愛知県で30人の募集をかけた。だが20人しか集まらず、残りを播磨(兵庫県)から8人集めた。《三河は吉良上野介、播磨は浅野内匠頭の地である。忠臣蔵の世界が再現した。移民団は2つのグループに分かれ、お互いに口もきかなかった》(同64頁)とある。

明治という時代は「江戸時代の延長」だと強く感じる。

1897年5月19日、榎本らが買った土地のあるメキシコ国最南部チアパス州エスクイントラに、植民団35人が到着した。これが彼らの「移民の日」だ。しかし2カ月で10人が逃亡、日本から資金送金されず、契約労働者は逃亡し、わずか5年足らずで事業は崩壊した。

でも、13人は榎本植民地のあったアカコヤワ村を中心にチアパス州内に残った(115頁)。同村では2010年までに6人も日系村長が誕生、うち2人は2期も務めた。日系人への信頼は絶大だ。

その村から30キロほど南西に向かうと太平洋岸。同118頁には、そこに《謎の潜水艦基地 チアパスの日本人が建設に協力?》という興味深い逸話が紹介されている。

1941年12月7日(メキシコ時間)の真珠湾攻撃は有名だが、その2週間後の同月20日頃から、日本軍は潜水艦で米国本土への攻撃を始めていた。日本海軍の巡潜乙型潜水艦9隻がカナダ、アメリカ、メキシコの海岸線で通商破壊戦を始めた。

《それからひと月足らずの間に、アメリカのタンカーや貨物船5隻を撃沈、5隻を大破、その総トン数は6万5千トンに上った。西海岸に面する住宅街の沖合、多くの市民が見ている前で撃沈するなど、派手な作戦だった》(同119頁)とある。

これを読んで、ふと思いだした。ほぼ同じ頃、ブラジルの海岸線でもドイツ軍のUボートが同様の作戦を展開していた。南米大陸を補給基地と考えていた米国にとっては、大西洋のドイツ潜水艦、太平洋の日本潜水艦は大きな脅威だったはずだ。

日本軍潜水艦の航続距離は1万4千海里(2万6千キロ)もあり、太平洋横断を優にできる能力を持っていた。だが、緊急事態が起きた時のために補給基地「ラ・パルマの秘密基地」が作られたようだ。

2005年に現地でドイツ系二世が『Base Secreta La Palma』(ラ・パルマの秘密基地)として小説の形をとって、父が関わった秘密基地建設の様子を描いて発表した。ドイツ本国からの命を受けて基地建設を計画し、アカコヤワ村周辺の日本移民がこっそり建設を手伝った。つまり、日独の両軍が使う基地だった。

しかも《ドイツではロケット発射装置を曳航してカリフォルニア湾に入り、フーバーダムを爆撃、破壊する計画を立てていた》(同119頁)とも。

同ダムはニューディール政策の柱として1937年に竣工し、約400億トンの貯水量を持つ。琵琶湖のそれが280億トンだから大きさが分かる。ブラジルのイタイプーダムと同様に、「米国の誇り」といえる巨大国家事業だ。破壊されればカリフォルニア州、ネバタ州、アリゾナ州が停電する事態に。

もしこの計画が実現していたら、歴史が変わっていたかもしれない…。(深)

2018年3月17日(土)

水曜日の朝一番のはるとひろのオシッコとウンチとお散歩を兼ねて、入り口ゲートまで行って戻る途中、道沿いのエリアにふたつあるサボテンのひとつに、白い大きな花が咲いていることに気づいた。それで、はるとひろのお散歩の後、一旦家に戻り、カメラを持って、今度はめいとのお散歩に出た際、次の写真を撮った。このサボテンは自力では立っていられないようで、地面を這うように成長しているのだけれど、今回初めて花をつけ、しかもその花が20センチ超の大きなものだったので驚いた。2枚目の写真は、その花を上から撮ったもの。花の中にもうひとつ花があるように見えるものは何なんだろう?

同じ日の午後5時頃、花はどうなっているかなと思いながら、まためいとのお散歩の際、カメラを持って行くと、お昼過ぎのお散歩の際はまだ開いていた花は、次の写真のように、閉じてしまっていた。そして、翌朝、また開いているだろうか?と期待して行って見たのだけれど、この写真よりもさらにしおれた感じで、しなだれていた。たった1日かぎりの命だなんて何と儚いと思った。

2018年3月18日(日)

何年前だったか、韓国人の人がシンシアリー(SINCERELEE)といういう名前で、韓国人の国民性や、韓国の社会で何が起こっているのかを日本語で発信しているブログサイトのことを兄が教えてくれた。以来、たまにそのサイトを覗いて、記事をかいつまんで読んでいるのだけれど、お隣の国とは言っても韓国と日本は、ものの考え方がこんなにも異なるのかと驚いてしまう。これまでにも何度もシンシアリーが繰り返し書いていることではあるけれど、問題が発生しても韓国社会が変わらない理由を述べている記述が3月14日付けであったので、ここにコピーしてみる。ちなみに、2~3年前に、以前のサイトから新しいサイトに移動しているので、新しいサイトへのリンクもはってみる。このシンシアリーの新しいブログサイトは、こちらへ

韓国人が、自分と社会を一体化する時

「人を楽にしてくれる国・日本」にて、「個人の問題なのか、社会の問題なのか」と書いたことがあります。韓国人は、基本的に、個人(自分)が社会の一部だという考え方ができません。「配慮は自分が他人にやるものではなく、他人が自分にやるべきだ」と考えているのも、そのためです。自分だけが特別だからです。社会問題が発生しても、韓国人(個人)はよくある「世の中が悪い」を貫きます。自分のせいだとは言いません。だから自分が問題解決のために何かをやるべきだとも思いません。 ただ、そうやって「悪い世の中」から他国に移住しても、差別がどうとかブツブツ言いながら韓国に帰ったりします。

韓国社会でなにか問題が起きれば、韓国人は「公憤」しながらその問題の犯人を叩きます。犯人が「上」にいた人でも、一気に下に落とされます。そして、大衆はその人を徹底的に叩き潰し、「これで問題は解決された」と信じて疑いません。この現象を、「韓国人って愛国心が強いな」「韓国人は正義感が強い」と美化する人もいるみたいですが、実は、「魔女」一人を徹底的に叩くことで「私のせいじゃない(≒全てが叩かれているその人のせいだ)」「悪を叩いたから私は善人」とする、自分をその問題から隔離するため(自分をその問題とは関係ない存在にするため)の自己防御にすぎません。いわば、韓国人は社会と自分を別々だと思っています。万が一でも自分が社会の一部であってはなりません。いざという時に責任を取るはめになるからです。

ただ、そんな韓国人が、社会と自分(または自分の『ウリ』など)を必要以上に一体化させる時があります。一体化することでただの自分の価値が上がりそうな時、急に「大韓民国マンセー」になります。スポーツ試合などでよくあります。この場合は、「一緒に喜ばないと自分の価値が下がりそうだ」と書いたほうがいいかもしれません。そして、全てに行き詰まったときもまた、自分と社会を完璧に一体化させます。嘘エントリーで、韓国人は嘘がバレると「全てがそうだろう?(다 그런 거지)」と言う、と書いたことがあります。それと同じです。世の中が全てそうだ。私だけが悪いわけではない!

今日、李明博氏が育った町(その町では、李明博氏は英雄になっています)のおばあさんが、記者にこんなことを話しました。「それぐらいの金を裏で受け取ってない大統領っていないでしょうに。朴槿恵大統領の弾劾でもう十分でしょう」http://v.media.daum.net/v/20180314133852187

これもまた、大統領という限られた範囲ではあるもの、「誰もがそうだ」と考える一例でありましょう。

朴「おばあさん、私は関係なくないですか?」
おばあさん「あんたはウリの町とは関係ない」

2018年3月19日(月)

この土曜日は、ゼーは来なかったけれど、マリアとゼーのお兄さんと彼の10代の息子の3人が手伝いに来てくれた。お昼休み前に、防風林の外側の桜の木の間に植えているマンジォカを掘ってみたら、いい感じに収穫できそうだから、「何本かもらって帰ってもいいですか?」とマリアが聞くので、エドソンは「かまわないよ。うち用にも2~3本掘ってくれない?」と頼んでいた。昼食後のお散歩などが済んで、家事をしていたら、ひろたちがワンワン吠えるので見ると、マリアがマンジォカを持って来て、玄関横に置いてくれたのだとわかった。次の写真は、その玄関横に置かれた数本のマンジォカ。日曜日の夕飯に早速一部を茹でて、フライにして、久しぶりのマンジォカを堪能。

2018年3月20日(火)

うちの敷地内の西側にある森を北に向けて拡張するために去年の10月頃だったか、カエデの木を50本余り植えた。しばらくはひょろひょろとして頼りなげで、その上、葉切りアリに襲われた苗木もあったりしたけれど、あれから半年近くを経て、だいぶ葉を茂らせてきているので、次の写真を撮ってみた。ちょうど土曜日に足元で茂っていた草が取り除かれたので、木がはっきりと見える。数本大きな木が混ざっているのは、カエデではなく、自然に生えてきた土着の木々。画面中央右側の地面を這っている緑の葉は、カシというウリの一種。このカシは野性に近いからかとても元気な植物で、どんどんつるを伸ばして広がり、たくさん実をつけてくれる。手伝いのマリアもよくこれを採って持って帰るのだけれど、次々に実をつけるので、私たちだけでは食べきれないでいる。

2018年3月21日(水)

次の写真は、家のベランダの前にあるハイビスカスの花壇。ここのハイビスカスは苗木を植えて以来何年も、葉切りアリに襲われたことなどなかったのだけれど、去年初めて手前の2本が葉切りアリの襲撃に遭い、右側の木から始まって、左側の木へと順番に丸裸にされてしまった。しばらくすると、右側の木は元気に復活して、葉を茂らせたのだけれど、左側の木は一部枝が枯れ、なかなか復活せず、今年に入りようやく若葉が出てきていた。それなのに、3月になると、何故かその若葉が黄色く変色し始め、先週にはついに木が右側に傾いてしまった。どうしてだかわからないのだけれど、どうも根腐れしてしまったようで、引っ張ってみると簡単に木が抜けてしまった。2枚目の写真は、その抜いたハイビスカスの木。ランドマークの木の右後ろ辺りに移動させたところを撮ったもの。

2018年3月22日(木)

うちと東隣りの境界の柵沿いに、グレヴィーリャとセドリーニョをほぼ交互に植えているのだけれど、現在建設中の新しいガレージの後ろの辺りには、くぬぎともう1本種類の異なる木もあり、大きく育っている。次の写真の中央にその2本が見える。写真では2本の区別がつきにくいかもしれないけれど、左側の木は、パウ・フェホ(Pau Ferro=鉄の木)という名前の木で、パウ・ブラジルの親戚なのだそう。先週、このパウ・フェホに花が咲いていると、エドソンが言うので見てみると、肉眼では見えにくいのだけれど、写真をズームで撮ってみると、2枚目の写真のように、木の上の方の枝先に黄色い花が咲いているのが確認できた。この木に花が咲いたのは今年が初めて。ちなみに、パウ・ブラジルというのは、黄色い花を咲かせる大きな木で、この木から赤い染料がとれるため、昔ヨーロッパで染料として利用され、ブラジルの国名の由来になったと言われている木。

2018年3月23日(金)

日差しが強くとても暑い日は、昼食後のお散歩ではその日差しを避けるために入り口ゲートに向かう道ではなく、防風林の小路を行くことがよくある。先日もこの防風林の小路を上がり始めると、最初のグレヴィーリャの木の足元でひろがオシッコをした後、この木の幹に鼻を近づけてクンクンしているので、何だろう?と思って見ると、セミの抜け殻があった(以下写真)。木の幹の下の方にちょこんと小さい抜け殻があるので、私ひとりでフラフラ歩いていたらきっと気づかなかっただろうなと思う。2枚目の写真は、ちょっと角度を変えて、アップでその抜け殻を撮ったもの。ここではセミの声は家の周囲で毎日うるさいほど聞こえるのだけれど、セミの姿を見ることはほとんどないのに、セミの抜け殻をこんな風に見つけるなんてと思った。

2018年3月24日(土)

先週の土曜日と今週の月曜日の2日間で、ガレージの後ろ側と右側の外壁にコンクリートを塗る作業が進んだ。月曜日の午前中、配達のトラックが来たので撮ったのが次の写真。砂と砂利とタイルを積んでいるけれど、うちに配達されたのは、ガレージの床に敷くタイルのみ。砂と砂利はどこか他所に配達するものだったらしく、トラックが帰って行った後見ると、砂と砂利はどこにも積み上がっていなかった。

今週初め、朝食後のめいとのお散歩に出た際、西隣りとの境界に近いエリアで育っているオクラに、実がなっているように見えたので、近くに行ってみると、2つほど大きな実がなっていた。こんなに大きくなってしまっては固くて食べられないかな?と、思ったのだけれど、収穫して家に戻って、ナイフで切ってみると柔らかい。茹でて、夕飯に出して、早速おいしくいただいた。次の写真は、次の朝収穫したオクラ。畑に蒔いたオクラは芽は出たものの、日当たりが良くないからなのか、一向に大きく育たないのに、ずっと後になって、ゼーがとうもろこし畑沿いに蒔いたものや、西隣りとの境界エリアに蒔いたものは元気に育って、実をつけるようになっている。畑のオクラが失敗だったので、今年はオクラを食べられないと思っていたのだけれど、ゼーのお陰で、毎日収穫して食べることができるようになった。感謝。感謝。ちなみに、この写真のオクラの下にあるのは、ローズマリーの枝。ここ数年毎朝飲むローズマリーとエルヴァ・ドスィのハーブティーに欠かせないもの。これはメニエールのめまいを予防するためにもう何年も飲んでいる。日本への一時帰国など、ひどく疲れる状況でなければめまいは起こらないので、必要ないといえば必要ないのだけれど、毎日飲んでいたら何だか習慣になってしまい、朝の家事が一段落して、コンピュータの前に座ると、このお茶がないと何かもの足りず、飲みたくなるので、続けている。

2018年3月25日(日)

先日、広島の兄がメールで、「町内会で野良猫捕獲活動をやっているけど、昨日我が家の裏庭でイタチが捕獲かごにかかりました」と言って、その捕獲されたイタチの写真(以下)を送ってきてくれた。うちの実家は広島市中心部ではなく、中心から離れてはいるものの、住宅街で、山がすぐ後ろに迫っているような場所でもないのに、そんな所にイタチが暮らしているなんてと驚いた。何でも、イタチは生息域がそれほど広くないので、近辺の人家の床下にでも住んでいたのかもしれないということだった。イタチは鳥獣保護法で、捕獲してはいけないことになっているらしく、捕まえても解放してやらなければならなかったので、わざわざ車で運んではるばる己斐の山で解放したということだった。でも、そうすると己斐周辺に出没することになるんじゃないのかな?と思った。

2018年3月26日(月)

先週の金曜日と土曜日にもペドレイロのミウソンとお父さんが作業に来てくれたので、ガレージの建設作業がまた少し進んだ。ミウソンたちが仕事を終えて帰って行った後、夕方5時前頃、階下にある現在のガレージのドアの鍵をかけに行くと、建設中のガレージの上に虹が出ていたので、カメラを取りに戻り次の写真を撮った。その後、めいとのお散歩に出かけようとして、車寄せの所でめいがオシッコをするのを待っていて、ふと振り返ると建設中のガレージの上に出ていた虹が、見る角度が変わったことで、家の上に出ているように見えたので、またまたカメラを取りに戻り、写真を撮った。この後、めいとのお散歩で入り口ゲートまで行って振り返ると、もう虹は消えてしまっていた。ほんの一瞬出ていた虹を見逃さずに、写真に収めることができ、何だかハッピーな気分になった。

2018年3月27日(火)

入り口ゲートに近いエリアに植えていて、枯れてしまったイペーの木の足元から複数の新しい芽が出て、育っていたのに、先月下旬、手伝いの人たちが草を取り除く作業の際、このイペーの芽も草と一緒に取り除いてしまい、ずいぶんがっかりした。そうしたら、今月中旬頃、この同じ枯れたイペーの木の足元から、再び複数の芽が出てきて育ち始めたので、驚いた。木は枯れてしまっていても、どうも地下茎が足元にあるようで、芽が育っている時は、新しい芽は出てこないのに、その芽を取り除くと新しい芽が出てくるようで、不思議だなあと思った。次の写真は、その育ち始めた新しいイペーの芽。レンガの囲いの中の芽が一番大きく、囲いの外側にも3つの芽が出ているのがわかる。この芽の回りに草がぼうぼうに生えていたので、それを取り除いてから撮ってみた。めいとのお散歩の途中なので、めいも写真に写り込んでいる。

2018年3月28日(水)

今年の年明けから、エドソンはコンピュータシステムの維持管理の仕事に加え、会社のマネージメントもしなくてはならなくなり、ほぼ毎日事務所に出て仕事をするようになった。それで、日帰りや泊まりがけの出張もよくあるので、事務所内外の多くの人と関わるようになった。夕方帰宅するとその日あったことで特筆すべきことがあると、時々話してくれる。事務所ではスタッフ採用の面接もするらしく、これまでに何人もの人を面接して雇っているのだけれど、その中で日系三世の若い人を技術職で雇用したんだけれど、彼はなかなか優秀でよくやってくれている。とか、顧客担当者の追加採用で複数の女性の面接をしたんだけれど、お隣のウィリアムの所で住み込みで働いているカゼイロのジョアオンの娘のミレーニが面接にやって来た。とか、話してくれる。ミレーニは12歳くらいの頃、妹と弟と三人で短期間だったけれど、うちに英語のレッスンに来ていたことがある。以来会っていないその子が高校を卒業して18歳の大人になっていたので、見違えてしまって、会ってもまったくわからなかったと言っていた。ここでは高校に行きながら、仕事をしている人は珍しくないのだけれど、ミレーニはこれまで一度も働いたことがないらしく、パウロやジャナイーナはそんな未経験の彼女を採用することに少し後ろ向きだったらしい。でも、働きながらお金を貯めて大学に行きたいという彼女の言うことを信じ、エドソンは、彼女は悪い子ではなさそうだし、やる気があれば、いろいろ吸収していいスタッフになるかもしれないのでチャンスをあげようということで雇用したという。

でも、訓練期間を経て、実際に顧客からの電話を受けたり、顧客に電話をして遅れている支払いをお願いしたりする仕事を始めると、電話での言葉遣いがとても悪く、教えられた通りに電話に出ることをしないので、エドソンや、パウロや、先輩の女性が何度も注意したと言う。それでも、まったく直らず、と言うか、直す努力をしないので、雇用を続けるのは難しいかもしれないと話していた。すると先週の金曜日にエドソンが帰宅すると、「採用からちょうど一ヶ月になる今日、解雇した」と話してくれた。本来ならジャナイーナの責任部署のスタッフなので、彼女が解雇を言い渡す役割なのだけれど、その日は病院での検査に行っていて留守だったので、エドソンが解雇を言い渡したということだった。顧客対応なのに、言葉遣いが悪いだけでなく、まともなポルトガル語を話せないのは、高校を卒業しているのに、ちょっと酷すぎるという判断だったようだ。まともなポルトガル語を話さないというのはどういうことかと聞くと、ポルトガル語に存在しない言葉を遣ったりするらしく、例えば、ドアが開いているというような時に「アベルト」(英語でOPEN)と言うべきところ、「アブリド」とポルトガル語に存在しない言葉を使うのだという。家族や友達との間で、そんな風に話しても何となく通じてしまい、間違いを指摘されることもなく来てしまったのかもしれないけれど、これから社会に出て働いて行こうと思うのなら、そのポルトガル語を何とかしなければいけないのだけれど、さて、彼女が身を置いている環境で直して行くのは至難の技かもと思った。

2018年3月29日(木)

先週の木曜日、エドソンが郵便局に行ってくれ、届いていた小包や郵便を持って帰って来てくれた。小包は3月3日に兄がSAL(航空便よりも時間がかかり、船便よりも早いタイプの安価な郵便)で発送してくれたもので、通常1ヶ月はかかるところ、3週間で届いたので、うれしい驚きだった。と言うのも、ブラジルの郵便事情は近年どんどん悪化していて、ここからサンパウロ市に向けて出す郵便は普通郵便ではなく書留などにするからか、3~4日で届くのだけれど、サンパウロ市内から発送される普通郵便は、届くのに2~3週間かかり、日本やアメリカからの航空便は2~3ヶ月かかるような状況で、SALが3週間で届いたのだから、ただ驚くしかなかった。一方、一緒に届いていた横浜の従兄弟からの年賀状は、昨年の12月に出されたものなので、3ヶ月かかって届いたことになる。今年1月中旬に、サンパウロの総領事館に在留証明を求める文書を書留で送った際、3日後には総領事館に届いたのだけれど、総領事館の書留受領署名の入ったハガキが戻ってくるのには2週間余りかかった。その後、待てど暮らせど在留証明が届かないので、ハガキが戻って来てから2週間ほどしてメールで問い合わせた所、4週間前に発送されていたことがわかった。また時間とお金をかけて書類を集めて申請し直すのもやっかいなので、遅れついでに届くまで待つことにした。それから1週間後、発送から5週間後に在留証明は届いた。エドソンが郵便局で苦情を言うと、最近全国で1万人近くの職員が解雇され人出不足になっている上、郵便事業の民営化に反対して仕事を遅らせる闘争をしているから時間がかかっているという説明だったらしい。でも、郵便の遅延は最近始まったことではないし、郵便局職員は、政府に対して闘争しているつもりかもしれないけれど、利用者をみな敵に回しているということに気づいていないのだろうか?

次の写真は、サッカー大好き人間の兄が40年ほど関わってきた中国電力サッカークラブの歴史を、彼がまとめて作った、できたてほやほやの冊子。これと、「この世界の片隅に」のDVDを入手したから送ろうと思うけれど、他にも送ってほしいものがあったら知らせてと言ってくれたため、遠慮なく、ここでは手に入らない食料品(例えば、常温保存のできる広島音戸のちりめんじゃこ)とか、身の回りの品物(例えば、洗顔クリーム)とか、エドソンが必要としていた電子部品などを送ってもらった。久しぶりの日本からの宝船の到着に、エドソンとふたりでとてもハッピーに盛り上がった。兄には大々感謝!!

2018年3月30日(金)

次の写真は、兄から届いた小包の中にあった「この世界の片隅に」のDVDと、このアニメの舞台となった呉や広島の絵地図。兄がこのアニメを見た際、画面の中に当時のおばあちゃんやお母さんを見かけたような気がしたと言い、母と同い年のすずさんの生活を見ながら、当時の母のことを思って涙したらしいので、ぜひ見てみたいと思っていた。送ってきてくれて感謝。感謝。私の新しいコンピュータにはDVDを見る機能がないので、エドソンが早速、私が以前使っていてリタイアさせたラップトップにDVDを見るためのソフトをインストールして、見れるように作業をしてくれたのだけれど、リタイアさせた問題のあるラップトップだからなのか、DVDを入れても変な音がして、作動しないため、まだ見れないでいる。

2018年3月31日(土)

昨日は、聖金曜日(Good Friday)で休日。明日はパスコア(イースター)。とは言っても、私もエドソンもキリスト教徒ではないので、この週末は三連休という以外に、特別な意味はない。だた、私の英語の生徒さんのひとりのジルベルトは、アヴァレの大学で勉強しているお姉さんを、木曜日にお母さんが迎えに行かなければならないので、ジルベルトをレッスンに連れてこれないため、お休みになるという影響があったくらい。昨日は三連休の初日なので、朝ご飯は、いつものサラダとゆで卵とトーストではなく、珍しくうちのワイルドベリーをたっぷり入れたパンケーキを作り、カナダ産のメープルシロップをかけていただいた。ひとり1枚ずつ焼くのは面倒なので、ずぼらな私はいつもフライパンで大きな1枚を焼いて、ふたりで半分に切って食べている。



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