Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2018年2月1日(木)

お隣の土地に生えている大木の大きな枝が、自分の土地に張り出してきて、自宅の屋根に覆い被さるようになっていて、台風などでその枝が折れると自宅の屋根が倒壊する恐れがある場合でも、日本では張り出しているその木の枝を無断で切ってはいけないという法律がある。お隣の土地の所有者と話し合って、切ってもらわなければならないのだけれど、その費用がかさむ場合、誰が費用を負担するかなどの話し合いも必要となりなかなか複雑らしいという記事を最近見かけた。

同じ時期、メル友の鎌谷さんから、何だか絶妙のタイミングでブラジルで木を切る際はいろいろ問題があって頭が痛いというメールをいただいた。鎌谷さんのご自宅で大きくなった木の枝をノコギリでボツボツ切り落とす作業を休日になるとしているのだけれど、平日にその作業をして市役所の監督官に見つかったら罰金なのだという。駐車場を経営する知人が邪魔になる木を切ったところ3万レアル(約10万円)の罰金を喰らったため、粘りに粘って1万レアルまで値下げしてもらったものの、まだ支払えないでいるという話も書いておられた。また、鎌谷さんの自宅の近くの日系協会の敷地の入り口を変更した際、新しい入り口となる場所に樹が3本あって邪魔なので、切り倒すための許可を市から得るのに随分時間がかかり、結局切り倒す樹1本につき、10本の苗木を敷地内に植えなければならなかったのだそう。

サンパウロ市内に植えられた街路樹は古くなって虫食いの樹が多く、大風が吹くと倒れる危険性があり、実際、毎年あちこちで倒れて停電の原因になったりしているため、多くの住民が何度も市役所に切ってくださいと頼むのだけれど、人手が足りないのか、なかなか実現しない。その一方で、個人が邪魔な樹を切ると即罰金なのだという。街路樹が倒れて家や車が壊れたら、どんどん市役所を訴えて補償してもらうような習慣ができれば、家の側の樹や屋敷内の樹は適当に切ってもいいことになるだろうにと嘆いておられた。

さらに、昔、日系移民の間で養鶏が盛んだった頃、養鶏家が鶏舎を建てるのに、土地を平らにしてから鶏舎を建てる際、樹木がたくさんあるとブルドーザーが入らないので、何とかしなければならなかったのだけれど、養鶏家が自分で木を切れば罰金だったものが、木こりにその仕事を頼んだら罰金にはならなかったと聞いて、ブラジルに来たばかりの頃しばらく暮らしていたパラカンビのシチオでのことを思い出した。敷地内の古くなったマンゴーの大木を人に頼んで数本切り倒してもらったことがあった。自分の敷地内と言っても簡単には樹を切り倒せないと言っていたのにと思ったのだけれど、あの人たちは木こりだったのかな?と、今頃になって気づいた。

2018年2月2日(金)

昨日の朝起きて、寝室のカーテンを開けると、目の前に大きく明るいお月様が見えた。それで、外に出て、家の北西側に出ているその月を、朝6時半頃撮ったのが次の写真。日本では先日、何年ぶりかで皆既月食が見られたようだけれど、ブラジルではどうだったのだろう?でも、少なくともこのスーパームーンを見ることができて、何だかとても得をしたような気分になった。

次の写真は、先日掲載した砂山に生えている草の花。先日掲載したものよりも多くの花が開いていたので、また写真に撮ってみた。朝、玄関から外に出る際、朝日にあたって、このピンク色の花がきれいに見える。

2018年2月3日(土)

この水曜日の午後、ワイルドベリーを収穫しに行き、家に戻る際、坂をあがった所にあるサボテンの写真を撮ろうと立ち止まると、何かが頭のまわりをブンブン飛び回るので、頭をバタバタさせて場所を移動したのだけれど、左側の首と言うか喉と言うか、耳の下と顎の下の中間辺をチクリと刺されてしまった。どうやらワイルドベリーの近くのフランボヤンジーニョに巣を作っているマリンボンドが、ついてきて攻撃してきたようだった。たまたまこの日はエドソンが家で仕事をしていて、刺された場所が場所だからと、すぐにパーディーニョの救急に連れて行ってくれた。その日の担当医師は日系2世の若い男の先生で、診察の後、注射と薬の処方をしてくれた。注射をしてもらいに処置室に行くと、中年男性の看護師さんが扉を閉めて鍵までかけるので、どうしてだろう?と、思ったら、注射はお尻にすると言う。とても痛い注射だった。その後、この救急の薬局で薬をもらって帰宅したのだけれど、蜂に刺されてチクチクキリキリする首の痛みよりもお尻の痛みの方がひどいくらいで、薬の副作用で頭がボーっとして体がだるい。さらに、お尻の痛みが腰にもきて、ソファーに横になっても体の置き所がないような居心地の悪さだった。マリンボンドに刺されたのはこれで何度目だろう?トホホ・・・

翌日木曜日の朝起きると、お尻の痛みは消えていた。刺された際に少し腫れた首は、翌日には腫れが引き、肌の赤みはそのままで痛みはかゆみに変わっていた。そのかゆみは、かゆいのと痛いのとでは痛い方がましと思えるくらいだった。この日はエドソンが午後早く帰宅したので、金曜日にはるたちを予防接種に連れて行く予定を前倒しすることにした。午後3時を回って、はるとひろを車に乗せ、めいをケージに入れて車の後部座席に乗せて、ペットホテル兼クリニックのヴィラ・シーコに行った。次の写真は、予防接種が終わり、ヴィラ・シーコの受付の所でつながれて待っている3匹。はるはヴィラ・シーコが大好きで、側に複数の人がいるので大興奮。ひろは自宅以外の変わったところが怖くて、到着直後にオシッコのおもらしならぬ、ウンチのおもらしをまたしてしまった。でも、注射をしてもらった後は少し落ち着いたようだった。一番何事もない感じで落ち着いていたのはめいただ1匹。注射の前に体温を測ると、はるもひろも興奮していたので体温が正常よりも高かったのだけれど、めいだけは正常の体温だった。めいはうちに来たばかりの頃体調を壊して、ここに入院したことを憶えているのかなと思った。

ヴィラ・シーコで体重を測ってもらうと、はるは7.5キロ、ひろは11.5キロ、めいは8.5キロだった。そして、ひろはちょっと太りすぎだと言われてしまった。食事の量ははるよりもほんの少し多いだけで、めいよりも少ない量なのに、ひろの場合食べたものが120%身についてしまうのではないかと思った。

2018年2月4日(日)

次の写真は、先日マリンボンドに刺される前に撮ろうとしたサボテン。何ヶ月か前に、小さな芽が5つくらい出てきている写真を掲載したけれど、それらの芽がずいぶん大きくなったので、また写真を撮ってみた。昨日土曜日の朝撮ったので、庭のテーブルの上には手伝いのマリアのお昼ご飯の入った赤い袋が置かれているのが見える。ゼーやゼーのお兄さんは、この日ドナ・ベティの所での仕事があって、来てくれたのはマリアだけだった。ゼーたちは金曜日は夜10時までドナ・ベティの所での仕事が終わず、夕食もなしで大変だったと、マリアはエドソンに愚痴っていた。肉体労働をする人たちはかなりの量の食事をするけれど、お昼を食べてから、夜10時まで食事なしで作業をさせるなんて、ずいぶんひどいことをするなと思った。

2018年2月5日(月)

庭の東側に2本ある、カスターニャ・デ・マラニョンという名前のナッツの木の内の1本に、花が咲き始めたので、次の写真を撮ってみた。木の奥や上の方で咲いているのを撮ったので、1枚目の写真は焦点が合っておらず、ピンボケになってしまった。この夏はとにかく雨の多い日々なのだけれど、ここ数日雨が降らず比較的いいお天気が続いている。ただ、気温は低めで、夜は毛布が必要になってきたので、もうそろそろ秋かな?と思えるような日々。今週末から始まるカーニバルが終われば、次の週には夏時間が終わり、気分は一気に秋になる。

2018年2月6日(火)

日曜日の午後3時頃、家の外でエドソンを呼ぶ声がして、10代の男の子が立っていたので、誰だろう?と思ったら、以前、お隣のウィリアムの所で住み込みで働いていたマウリシオの次男のマテウスだった。当時は5歳くらいだったマテウスが13歳になり、身長も伸び大きくなっていたので、見違えてしまった。親子三人で訪ねて来たというので、入り口ゲートの鍵を渡して、入ってきてもらった。ドナ・クレウザは週に一度パウロの家の1階のガレージや倉庫の掃除をする仕事をしているので、たまにエドソンが事務所に行った際、バッタリ出会ったりしていて、メールのやり取りをしているのは知っていたけれど、うちで何か手伝いの仕事はないかと、訪ねてきたようだった。家の掃除や洗濯は私がぼちぼちやっているので、特に手伝ってもらう必要はないのだけれど、彼らには仕事が必要なようだったので、月曜日に来てもらって掃除を手伝ってもらうことにした。次の写真は、居間でいろいろおしゃべりに花を咲かせている所をパチリ。マウシリオは高速道路沿いのニーニョ・ヴェージという大きなコンドミニオ(門と塀に囲まれた団地)で仕事をしているのだけれど、どうも近々失職することになったらしく、それもあってドナ・クレウザが頑張らなければならない状況のようだった。知らない人を家に入れて仕事をしてもらうのは、ブラジルの人と違って私は慣れていないので、あまり居心地のいいものではないのだけれど、ドナ・クレウザは気心が知れているので、その辺の違和感や心配がないのがありがたい。

2018年2月7日(水)

月曜日の朝8時に、約束通りドナ・クレウザが来てくれた。この日エドソンは午後から事務所に出る予定で、午前中は家で仕事をする日だったので、彼女に何をしてほしいか説明してもらって、早速、下のガレージ横のシャワールームと寝室の掃除を頼んだ。シャワールームのビニールのカーテンが汚れているのだけれど、それを取り外して洗うのは大変なので、私は雑巾で拭くぐらいで、徹底的に洗ったことはなかったのだけれど、彼女は取り外して洗うという。寝室もほうきで掃いて、雑巾がけをしてと頼んだのだけれど、ソファーやベッドを動かして、洗剤と水をたらして床を磨き上げてくれ、すっかりきれいになり、大感謝。次の写真は、下の寝室の床を磨き上げているドナ・クレウザを部屋の外から撮ったもの。

午前中に下のシャワールームと寝室の掃除が終わったところで、上に上がってきてもらって昼食休憩にした。彼女はお昼にご飯と煮豆と鶏肉を持ってきていた。3人でおしゃべりをしながらお昼を食べた後、エドソンは仕事に出かけて行き、私はワンコたちとのお散歩をするからと言って、彼女には1時までゆっくり休憩してもらった。午後からは、家の掃除を手伝ってもらい、私が掃除機をかけるから、その後雑巾がけをしてと頼んだのだけれど、本棚の上やタンスの上のホコリを拭き取ったり、寝室の鏡台やキャビネットを動かして、後ろ側の掃除をしたり、とにかく隅々まで目の行き届いた仕事をするので、徹底的にきれいになった。お陰でいつものズボラな掃除でも結構時間がかかるのだけれど、彼女と一緒に掃除をしたのに、いつも以上に時間がかかった。そして、部屋の中の掃除が終わると、窓を拭きますねと言って彼女は外に出たのだけれど、窓拭きだけでなく、軒下の蜘蛛の巣をほうきで取り除いたり、めいのいるベランダの椅子に水を掛けてゴシゴシ洗った後は、ベランダと階段の掃除と、頼んでいないことまでするので、何だか申し訳なかった。でも、これは彼女のきちょうめんな性格とプロ意識のなせる技なので、さすがに引く手あまたなはずだと思った。私自身も午前中に洗濯をしたり、洗面所や台所のマットやはるたちのベッドを外ではたいて、ベランダの欄干に干したりと、ずっとバタバタ作業をしたので、4時半頃に一連の作業が終わった時には、さすがに疲れた。

2018年2月8日(木)

食堂の窓際の白いシクラメンの花がいくつか咲き始め、サツキもひとつ花をつけたので、撮ったのが以下の写真。家の外の玄関前の階段沿いのサツキもチラホラと花をつけ始めている。今まで意識していなかったのだけれど、どうもこれらのサツキは1年に2回花を咲かせるようだと気がついた。メル友の鎌谷さんが住んでおられる地区の街路樹にはつげの木が植えられていて、刈り込まないで自然のままに放っておくと、どんどん成長して花が咲くようになり、その花はすがすがしい香りがするのだとか。そして、気候が気に入ると、年に3~4回花を咲かせるのだそう。つげの木というのは日本では生垣によく植えられているけれど、花が咲いたり、その花の香りがいいということは知らなかった。

2018年2月9日(金)

次の写真は、入り口ゲートに行く途中にあるイペーの木。イペーの木はブラジルの桜と言われている木で、桜が終わった9月頃花を咲かせる。ただ、桜と違い、花の色はピンク、黄色、白など、何種類かある。画面の前方の木は元気に葉を茂らせているけれど、画面の後ろの木は枯れて裸になっている。この木は1年以上前に、突然葉が落ちて、木が枯れてしまったのだけれど、原因は不明。この2本の木のさらに手前右側(画面には写っていない)に、もう1本小さな苗木が育っていたのだけれど、これも一度枯れて、しばらくすると、新しい芽が出てきたので、すごい生命力と思っていた。でも、低温でしもやけのようになったのか、やはりある日葉が茶色になり枯れて苗は消えてしまった。その結果、3本植えて、1本だけが生き残ったことになる。でも最近、奥の枯れたイペーの足元や回りに4つほど芽が出て育っているのに気づいた(2枚目写真)。その芽の内、枯れた木のすぐ足元で育っている一番大きな芽を撮ったのが3枚目の写真。この3本の木はどれもまだ一度も花を咲かせたことがないのに、枯れてしまった木の足元に芽が出てくるなんて不思議だなと思う。ちなみにここに植えたイペーはピンクの花が咲くはずなんだけれど、早くそのピンクの花を見てみたい。

2018年2月10日(土)

今、日本では平昌オリンピックの報道で賑わっているようだけれど、ブラジルではオリンピック関連の報道はまったく見ない。ブラジルから選手が参加しているのかどうかもよく知らない。冬のオリンピックだから参加する選手がいなくても不思議ではないけれど・・・。その代わり、こちらは今カーニバルの真っ最中。以下は、2018年2月9日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。

カーニバルのパレードとは真剣な競技だ!

今週から来週にかけて、ブラジルでは、最も有名なリオをはじめとしたカーニバルの週間だ。コラム子がブラジルに来て住みはじめたのは2010年4月のことだが、この季節を体験するのも8回目。既に自分にとってもおなじみのものとなっている▼ただ、日本からやってきた身として毎度思うことなのだが、ブラジルでのカーニバルの印象と、日本をはじめとした外国のそれではあまりにイメージが違いすぎることだ▼日本だととにかく、「女性が裸に近い派手な姿でサンバに乗って踊る祭」という印象が強い。それが決して間違っているわけではない。だが、彼女たちはただ楽しく踊っているわけではないこと。その認識がどうも日本人には足らないように思われるのだ▼その証拠とも言えるのが、日本版ウィキペディアの「リオのカーニバル」の項目だ。そこに書かれているのはあくまでダンスと音楽のことだけで、一番肝心なところが完全に抜け落ちているのだ。それは「カーニバルは、エスコーラ・デ・サンバと呼ばれるサンバグループ同士の真剣なコンテストである」ということだ▼逆にこれがポルトガル語版ウィキペディアの「リオのカーニバル」だと、割かれていることはほとんどデスフィーレ(パレード)でのエスコーラの対決のことだ。グローボ局が毎年、2夜連続で夜通しでリオのサプカイのサンボードロモ(サンバ会場)から中継しているのは何も「裸踊りに興じている人たち」ではなく、エスコーラ同士の戦いなのだ。それはサッカーの選手権のそれと同様のものであり、成績の悪かったエスコーラは2部に落ちるというシステムまであるほどだ▼ブラジル人の中にどれだけこのコンテストに夢中か示す例をあげておこう。これもやはりポルトガル語版ウィキペディアなのだが、この毎年のリオのデスフィーレでの成績を、1932年から2017年までの結果を、参加エスコーラはもちろん、審査員から獲得した得点までが詳細に書かれている。日本でこのように古い公式記録が残っているのはせいぜい野球くらいのようだが、それくらい「競争することに長年のファンがついている」存在なのだ▼かくいうコラム子もブラジルに来た当初はそうした事情がわかっていなかった。少しずつそれがコンテストであることを知っていき、数年前に年度別成績表をネット上で発見したときは、ブラジル人たちのデスフィーレに対する愛を感じ、深く感動も覚えたほどだ▼こうしたことからコラム子もグローボの深夜の中継を見るようにしているのだが、とにかく名門エスコーラになるほど出番が朝方になるのでつらい。ベイジャ・フロール、マンゲイラ、サルゲイロ、ポルテーラ、チジュッカといったところが名門だが、サンバの主題歌が全て同じに定められ、各エスコーラの持ち時間が1時間ある中でこれを見続けるのはよほどの愛情がないとできないことでもある。それでも、天才演出家パウロ・バロスの奇想天外なパレード演出などを見ると「起きてて良かった」と思えるものだ▼浅草サンバ・カーニバル関係者は当然周知のことだろうが、こうしたブラジル現地流のカーニバルの楽しみ方が、日本の一般の人にも伝わらないものか。幸いなことにカーニバルに憧れる日本の若者たちがエスコーラの一員として参加する話も珍しくない。そんな彼らの体験談が日本で正確に伝わって行って、徐々にカーニバルの印象そのものが変わっていけば良いのだが。(陽)

2018年2月11日(日)

次の写真は、2011年4月に亡くなった父の葬儀が一段落した後、5月に大木さんと一緒に横路先生ご夫妻を広島のケアハウスにお訪ねした際、近くにおいしいとんかつ屋さんがあるからと出かけて行き、そのお店でお昼をご馳走になった時に撮ったもの。今年の4月は横路先生の三回忌。2016年12月に、その年の春に先生がお亡くなりになっていたことを、先生のご子息から喪中のハガキを受け取ったごく少数の原医研関係の先生からの情報で知った。以来、何とか先生を追悼できないかと考え、追悼記事を書いてほしいと、以前中国新聞の海外リポートで最初にお世話になった編集の方に相談をして、1年前から働きかけをしていたのだけれど、時期を逸してしまっていると何も動かなかった。でも、今年の年明けに、中国新聞が追悼記事を書くのは難しいけれど、普通紙とは別にセレクトという朝刊紙を出しているので、その一面の「想」というコーナーに「横路先生の思い出」を私が書いてはどうかと、提案していただき、それが実現した。本当はもっとちゃんと肩書きを持った方に書いていただきたかったのだけれど、後々責任問題になっても厄介だし、広島から遠く離れたブラジルにいる私が書くのが一番無難だろうという判断になった。これをきっかけに何か追悼の動きが出るといいですねと、中国新聞の方はおっしゃるけれど、どうかなあ・・・?記事は予定通り2月9日付けで掲載されたのだけれど、そのイメージコピーのブログへの転載は、まだ中国新聞から許可が下りていないので、許可が出てからの転載になる。

2018年2月12日(月)

2018年2月8日付けのニッケイ新聞に、「サンパウロ州の月曜日の定番食が無形文化財に=バンデイランテス時代からの伝統メニュー」という写真付きの短い記事があった。アメリカで暮らしていた頃、ボストン近郊でエドソンの知人と3人で一度朝食を食べに行ったダイナーで、朝食のメニューにステーキ&エッグというのがあって、ビーフステーキと目玉焼きに、確かフレンチフライもついていて、その上トーストが何枚も山のようにお皿に盛られて出されていたので、アメリカには朝からこんなステーキと大量のトーストを食べる人たちもいるのかと驚いたことがある。そしてこの記事の写真は、まさにそのステーキ&エッグのような代物だったので、欧米人の驚きの食習慣を再度垣間見たような感じがした。この記事のサイトは、こちらへ。そして昔、父のバレーボールの先輩が、日本代表としてブラジル遠征した際、ぞうりのように大きく分厚いステーキが出てきたので、こんなものを毎日食べているような相手と試合をして勝てるわけがないと思ったと話していたと、父が話してくれたことがあったのを思い出した。ブラジルには貧しい人たちも多く、みんながみんなぞうりのように分厚いお肉を食べているわけではないけれど、確かに毎週末のようにシュハスコ(ブラジル版バーベキュー)をする人たちも少なくないし、日本人の想像をはるかに超えるかなりの肉食なのは間違いないと思う。だからだろうけれど、最近老若男女、年齢に関係なく肥満人口が増えているという現実もある。

2018年2月13日(火)

2月9日付けで中国新聞のセレクト紙に、「横路先生の思い出」という私の記事が掲載された。その紙面を中国新聞から90部余り送ってもらい、日本支部事務局元職員二代目の小泉さんと三代目の大木さんと私の兄の助けを借りて、手分けしてIPPNW日本支部の各県支部や、横路先生をご存知で、まだご健在の少数の先生方など関係各位に発送してもらった。その際に、添付するために用意したのが以下の文書。字数制限のある短い記事には書ききれなかったことを少しこの文書で書いた。

平成30年(2018年)2月9日

関 係 各 位

IPPNW日本支部元職員
吉田 恭子

中国新聞セレクト紙送付について

拝啓 時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。

さて、今年4月に、横路謙次郎先生(IPPNW日本支部元事務総長)の三回忌を迎えるにあたり、僭越ながら中国新聞セレクト紙「想」のコーナーに、「横路先生の思い出」と題して短い文章を書かせていただきました。つきましては、その掲載紙をお送りいたしますので、よろしくご査収くださいませ。

今年は、IPPNW日本支部設立から36年、初の広島大会から29年ですが、先生は日本支部設立当初から共に歩んでこられました。1985年に日本支部事務総長に就任以来、2007年4月に片岡勝子先生と交代され、その任を退かれるまでの22年間、日本支部の顔として誠心誠意献身されました。

1990年代初めにご病気をされた後、歩行が少し困難になられましたが、それでも毎日バスでご自宅から医師会館まで通い、海外でのIPPNWの様々な会議にも積極的に参加されました。日本支部の報告書を見ると、2005年に広島で行われた第5回IPPNW北アジア地域会議での市民公開講座で講演をされたり、広島県医師会速報のIPPNWコーナーに毎年寄稿されていました。退任直前の2007年3月にも「海外医学生 ヒロシマ研修」で、5つの国・地域からの参加者を前に講義をされるなど、IPPNW日本支部の活動をご自身のライフワークと考え、最後まで精力的に取り組まれました。

そのような先生のご逝去を深く悼み、IPPNW本部は「Dearly Departed IPPNW Giant(親愛なるIPPNWの偉人逝く)」という長文の追悼メッセージを各国支部に宛てて送っています。

三回忌を機に、横路先生の足跡と貢献に思いを馳せ、皆様のこころの中で先生を偲んでいただければ幸甚と存じます。皆様の今後の益々のご隆盛をお祈り申し上げます。

敬具

2018年2月14日(水)

中国新聞セレクト紙の「想」のコーナーに掲載された「横路先生の思い出」という私の記事を、ブログに転載する許可が、2月13日付けで正式に中国新聞からおりたので、ここにそのイメージコピーを掲載してみる。

ただ、イメージが小さくて、ブログ上では記事を読めないので、同時に、中国新聞の広島平和メディアセンターのインターネット上のサイトに掲載された記事へもリンクをはることにした。この記事のサイトは、こちらへ

2018年2月15日(木)

毎週ではないけれど、日曜日の朝、朝食の前にエドソンはシャワールームではるとひろの体を洗ってくれる。シャワーをしてきれいになった日は何故だか決まってはるが私の膝の上に来たがる。朝の一通りの家事が一段落して私がコンピュータの前に座るまでは私の後をついて回ったり、エドソンの側に座って私の動きを注視しているはるだけれど、私がコンピュータの前に座ると即やって来て膝の上に上げてと前足を椅子に乗せてくる。はるを膝に乗せると、例え寝室のベッドの中にいてもわかるようで、ひろが「僕も!」とやって来るので、ひろも膝に上げる。2匹を膝に上げると結構重い。何しろ2匹合わせて19キロあるのだから。この日曜日の朝もはるが膝の上に上げてとおねだりしてきたので、上げるとやはりひろもやって来たので、2匹を膝に上げたところをエドソンが写真に撮ってくれた。30分くらい彼らが気持ちよさそうに居眠りをしたところで、「じゃあ、もうそろそろいいでしょうか?下りてくれる?」と言うと、自発的に膝から下りてくれ、その日はそれで満足してくれる。

2018年2月16日(金)

毎年5月頃に小さな白い花を満開に咲かせる木がうちの庭にはある。この花が終わると、あちこちに種を飛ばして、その種から芽を出すのだけれど、その芽を入り口ゲートに行く道沿いに植え替えて増やしている。でも、この木の名前がずっとわからず、白い花が咲く木としか呼べなかった。すると、最近、エドソンがインターネット上で花木の検索をしていて、この木の名前がノイヴィーニャ(Noivinha)だということを発見した。次の写真は、インターネット上にあったそのノイヴィーニャ。まさにうちにある木と同じ。ノイヴィーニャはノイヴァ(Noiva=花嫁)から来ている言葉で、「小さな花嫁」という意味になる。花が咲くと木が真っ白になり、まるで花嫁さんがウェディングドレスをまとったようになることから来ているらしい。名前がわかり、しかも何だか可愛い名前で、うれしい気分になった。

2018年2月17日(土)

インターネット上で、横路謙次郎と検索すると、複数のヒットがあるけれど、その中で、先生が医学生にご自身の体験を語っている(おそらく中国新聞の記事だろう)があったので、以下にリンクをはってみる。「ヒロシマを聞く 被爆者から若者へ未来への伝言」というサイトで、「恐怖の放射線」「開腹したら血で真っ赤 感覚麻痺し怖くなかった」という記事で、「入市被爆者で医師の横路謙次郎さん(78)は、医学生の播磨綾子さん(21)と郷田聡さん(22)を広島逓信病院(広島市中区)へ誘った。かつて横路さんが被爆者を治療し、遺体を解剖した場所だ」とあり、三人の会話がテープを起こしたようにそのまま載っている。横路先生のいつものしゃべり方そのままで、先生の声が聞こえてくるようだと思った。この時78歳だったということは、2005年頃の記事なのかなと思った。この記事のサイトは、こちらへ

上記の記事とは別に、いつだったか検索した際に見かけた、やはり新聞記事だと思うのだけれど、上記の内容をまとめたような記事があった。でも、今検索してもこの記事は何故か出てこない。そのため元のソースはわからない。記事全文ではないかもしれないけれど、コピーしておいたものがあるので、以下に転載してみる。

『うめく被爆者の治療を手伝いながら、当時十八歳の若い医学生は原爆の放射能の恐ろしさに身震いした。その体験が戦後、被爆者のがんについて研究し、核戦争を防ぐ運動に取り組む「原点」となった。

核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部事務総長を務める横路謙次郎さん(78)=広島市南区。原爆投下当時、広島の医師は空襲に備えて市外への疎開が禁止されていた。だから、多くの医師は原爆に傷つき、命を落とした。生き残った医師たちは治療に追われた。ひっきりなしに続く患者の列に、薬はすぐに底をついた。

自身は当時、広島県立医学専門学校(現広島大医学部)に入学したばかり。原爆投下の前日、広島県北へと疎開し、熱線は浴びなかった。

惨状を知り、広島に戻ったのは投下の三日後。広島逓信病院(中区)の庭に張ったテントで、治療や遺体解剖に追われる医師を手伝った。外傷が少ない被爆者の血液検査をした時のこと。白血球などが通常の一割に減っている。「おかしい。何かが起きている」

原爆とは知らない。焼け跡から引っ張り出した台に犠牲者の遺体を乗せ、解剖した。首から腸にかけまっすぐメスを入れると、胸にも腹にも血がいっぱい。体内深く、放射線は人間の命を襲っていた。止血機能も奪うのだと、疑問の答えは見えかけた。しかし、なすすべは分からなかった。

無力感を覚えた日から六十年。広島の医師や研究者たちは、被爆者にがんや白血病などの後障害が多いことを突き止めてきた。だが今も、がんの詳しい発症メカニズムは分からない』

2018年2月18日(日)

カーニバルの2~3日前から急に暑くなり、夏が戻ったと思っていたら、日曜日の午後雨が降り、気温がぐんと下がった。以後、毎日曇りがちで午後になると雨が降り、最高気温が20~21度程度という涼しいというか薄ら寒い日々になった。でも、サンパウロ市では雨が降らず、カーニバルの行進は何の支障もなく行われたとニュースにあった。そして、15日の木曜日も明け方ザーザーと雨が降り、その後は降ったり止んだりだったのに、ミウソンと彼のお父さんのふたりがガレージ建設の作業に来てくれた。3週間以上作業が止まっていたのだけれど、作業が再開され、また少しずつ工事が進み始めた。次の写真は、木曜日の午後、ガレージの天井にコンクリートを入れる際、天井を支えていた支柱を取り払う作業に、ミウソンたちとは別の人が来ていたので撮ったもの。エドソンがこの人に320レアル支払っていたので、この支柱はミウソンの所有ではなく、レンタルをしたものだということがわかった。一方、天井の上では、屋根を作るための作業が行われていて、エドソンが梯子の上に上がって、ミウソンたちと話をしていた。

そして、昨日で夏時間が終わり、今日から通常時間に戻ったため、今朝はいつもより朝寝をしたのだけれど、それでも起きたのは通常時間の6時半(夏時間だと7時半)で、今日は1時間得した感じ。でも、昨日の夜から降っていた雨が、今朝も降ったり止んだり。今日は1日こんな感じなのかな?

2018年2月19日(月)

2018年2月16日付けのニッケイ新聞コラム「東西南北」に、『カーニバル期間中のリオ市の治安は散々だった。以前なら騒動が起こるのは、主に市の中心から離れた北部や西部のファヴェーラ周辺だったが、今年はイパネマやレブロン地区といった比較的安全だった南部の観光地でも集団強盗が頻発した。リオ州のペゾン知事も、「治安維持対策が甘かった」と自分で認めてしまうほど。犯罪者たちとの闘いは、カーニバルが終わっても続く。せめてこの反省を活かして欲しいところ』とあった。リオの町では警察と密売組織との間で銃撃戦が日常茶飯事に起こっている。内戦中のシリアとどこが違うのかと思う。まあ、銃撃戦だけで砲撃がないところが違うと言えば違うけれど・・・。リオの人たちは災難が我が身に降りかかるまで現実を見ないようにしているのか、感覚が麻痺しているのではないかと私には思える。金曜日の午後、美容院から帰宅すると、リオデジャネイロ州の治安維持に陸軍を投入することを連邦政府が決めたとエドソンが言っていた。この政府の決定からも、リオの治安状態がどれほど深刻かということがわかると思うのだけれど、リオの人たちは一体いつになったらそれを実感として理解するのだろう?

同じく2月16日付けの「コラム 樹海」には「政治批判を受け止めたリオのカーニバル」と題する記事が掲載されていた。『今回のリオの場合、市と州の政治腐敗を伴った財政破綻により、カーニバル自体の開催さえ危ぶまれていた』とあったけれど、薬の密売組織や組織犯罪グループのお金が大きく動くカーニバルほど腐敗したイベントはないことをみんな知っている。それなのに、腐敗しているのは政治だけのような物言いだなと思った。そして、記事の最後に、『その表現の根底にある考え方は、見る人の視点によっては必ずしも一致しないかもしれない。だが、こうした、世に対するストレートな不満がしっかりと公の場で表現され、さらには受け止められたこと。そして、当の批判を受けた政治家から咎められることもないこと。こうした状況があるうちは、問題山積な国ではあるが、まだブラジルは恵まれている方なのではないかと感じた』とあった。でも、これがルーラやジウマ政権への批判だったとしたらどうだったかと考えないのだろうか?批判を受け入れいない共産主義政権を同じように批判できただろうか?そして、お咎めなしで済んだだろうか?彼らを何とか民主的に追い出すことができ、民主主義が何とか機能している現政権下だから実現したのだと考えないのだろうか?メディアやエンターテイメントの世界はどこも左で、民主的な政権を批判するのを得意としていて、左の政権を批判することはできない現実を見てほしいものだと思った。この「コラム 樹海」の記事のサイトは、こちらへ

2018年2月20日(火)

次の写真は、日曜日の午後撮った建設中のガレージ。木曜日に続き、金曜日と土曜日にも作業が行われた。お陰でガレージの屋根がだいぶできてきた。当初はガレージに屋根は作らずに、平らなコンクリートの天井にしようかという話もあったのだけれど、結局、瓦ではないけれど、スレートの屋根を取り付けることにしたらしい。そして、四面ある外壁の左側一面にコンクリートがきれいに塗られ、レンガのむき出しの部分が減り、少しずつちゃんとした建物らしくなってきている。

2018年2月21日(水)

次の写真は、昨日から私と英語のレッスンを始めた新しい生徒さんのジウベルト(英語の発音にするとギルバート)。彼は13歳で、土曜日にレッスンをしているマテウス同様、以前パーディーニョにあった英語学校に通っていたのだという。英語学校が閉校になり、彼の両親はどうしようかといろいろ悩んでいたところ、ジミーから私のことを聞き、今月初めに連絡してきたのだった。エドソンがちょうど忙しく、折り返しの連絡が遅れてしまい、結局先週の土曜日の午後、両親と一緒にうちに来て話をして、今週からレッスンを始めることになった。彼は以前の英語学校で、マテウスと同レベルのクラスだったとはいえ、マテウスは去年の8月からすでに私とレッスンを始めていて、驚異的な速さで進んでいるため、マテウスに合流させることはできない。それで彼は彼で、個別にレッスンをすることで合意した。同じ学校に通い、英語学校でも一緒のクラスで勉強していたという割には、マテウスが私と英語のレッスンをしていることは知らなかったようで、ふたりは特別親しいというわけでもないのかな?と思った。ちなみに、マテウスの親友は、何と、ドナ・クレウザの次男のマテウスだということを、先日彼らがうちに遊びに来た際、話していて発見した。何だか最近やたら13歳の男の子たちと縁があるなあ。

2018年2月22日(木)

2月6日(火)に発送された楽書倶楽部第41号は、16日(金)にはまだ届いていなかったけれど、20日(火)にエドソンが郵便局に行くと届いていた。2週間かかっているけれど、まあここの郵便事情からして、それほど遅くもなく速くもないという感じだ。ただ、ここはアマゾンの奥地ではなく、サンパウロから車で2時間半という場所なにの、何をどうしたらサンパウロからここまで郵便を届けるのに2週間もかかるのだろうと不思議ではある。でも、これはまだいい方で、1月半ばにサンパウロの総領事館に依頼した在留証明は、私の依頼文書を発送から3日後に総領事館は受け取っているのに、そらから1ヶ月以上になる20日(火)現在まだ届いていない。以下は、第41号に掲載された私の文章。

パーディーニョの光と影

私が暮らすサンパウロ州パーディーニョは、とても小さな町で、住人の多くがクルリ、サルトリ、ヴィヴァン、オリヴェイラ、ホーダーとう名字で、血縁関係にあるか、結婚で親戚としてつながっている。外の世界にあまり関心がなく、ずいぶん狭い世界に生きているという印象を受ける人も少なくない。実際、生まれてこの方半世紀以上もパーディーニョの町から一歩も外に出たことがなく、車で三十分ほどの大学病院のある隣町のボトゥカトゥへすら行ったことがないという人さえいる。

四十年近くも、従兄弟同士だというふたりの人が馴れ合いのように交代で市長になることを繰り返していて、多くの住人が市役所関係の仕事に就いている。公務員は首になることがないし、一般の会社の従業員のようにあくせく働く必要もなく、定年後も定年前の給与と同じ額の年金が保証されているため、みな競って市役所に勤めたがるのだと聞いた。

こんな小さな田舎町なのに、薬の密売人が複数人いて、住人の間、特に、若年層に薬が広がってきているらしい。そして、町の中心部にある郵便局や銀行がよく強盗に襲われる。昨年の11月上旬にも町に2つある銀行が同時に、午前2時頃爆破され襲われた。強盗団は追跡されないように、警察署もマシンガンで襲撃したという。

町の人たちの話では、この銀行強盗は、パーディーニョの薬の密売人がサンパウロの薬の密売組織とつながっていて、強盗団を手引きして起こしたものだろうということだった。そして二日後に、パーディーニョの住人が二人逮捕された。ひとりは薬の密売に深く関わっていた男で、もうひとりは町に複数あるプロテスタント教会のひとつの牧師ということだった。町の人々だけでなく警察も誰が薬の密売をしているかを知っていても何もしないのだから、こういうことは起こるべくして起こったのかもしれない。小さな町なので住民はほぼみな顔見知りで、家族や親戚もたくさんいるのに、こんなことをして住民に迷惑をかけて、逮捕された人の家族や親戚はこれからどんな顔をして暮らして行くのだろう?

こんな風に書くと、この町は影ばかりで救いようがないようにも思えるけれど、一方では、近年パーディーニョの町も少しずつ変わってきたと思えることもいろいろある。ニ十代、三十代、四十代といった若い世代の人たちが、親の世代よりも広い視野で頑張っている姿に接することが増えたのだ。

林業機械の工場を経営している兄弟、インターネットのサービスを提供する会社を手広く経営している人、小さな店から始め、今では大きな家具店を経営している人は、みな三十代から四十代前半なのだ。この人たちは親から仕事を受け継いだのではなく、自力で起業し、私たちが引っ越して来た後、会社を大きく成長させている。そして、最近、建築資材を販売する店を始めた人も、ハンバーガー専門のレストランを始めた人も彼らと同年代。母親が細々とやっていた小さな洋品店を引き継いで、立派な店にした姉妹はまだ二十代と頼もしい。

そして、うちのご近所のファゼンダでは、ここ数年フランスからチーズ職人を定期的に招いて、やはり三十代の人たちが本格的なチーズ作りを始めている。昨年十月に南米各国のチーズを集めてサンパウロで行われた品評会で、このファゼンダで作られている何種類かのチーズのうちの二種類が、金賞クラスと銅賞クラスに選ばれるという快挙を成し遂げている。また、うちのご近所の別の大きなコーヒー・ファゼンダでは、入り口前の広場の眺めの良さを利用して、ここにカフェ・クエスタというガラス張りの店を始めて活況を呈している。ここは南に開けた眺めがとてもいい場所なので、うちに泊まりがけの来客があると、必ずその景色をお見せしている絶景スポットなのだ。その景色を楽しみながら、このファゼンダで作られているコーヒーを楽しむことができるという、この辺では珍しいカフェができて、とてもうれしく思ったものだった。さらにうちでも時々利用する材木店のご主人は、趣味が高じて地ビール作りを始め、今ではあちこちの店に卸すまでになっている。

さらにもっと若い人たちに目を向けると、十代で妊娠して子供を生んでしまう女の子たちがいたり、高校に行かない人や中退する人が少なくない中、近年、大学に行く若者も着実に増えている。前述の洋品店を経営している姉妹もふたりとも大学を出ている。そして、私たちがここに来たばかりの頃知り合った女の子は、高校を卒業するとすぐに離婚経験のある子持ちの男性と結婚したものの、ほどなく離婚して、心機一転、大学に行き資格を取り、今では看護師として働いている。そして私たちの知り合いの十代の子供たちはみな大学に行くことを当然のように考えて、勉強に励んでいる。

これらは私たちがここへ越してきた八年ほど前にはまだ明確には見られなかった傾向で、その頃と比べて隔世の感がある。ブラジルでは機会の平等が保証されていても、光の方へは向かわず、影の方へ行ってしまう人たちも少なくない厳しい現実はあるものの、光の方向に進もうする若者たちが確実に増えているのだと思うと、将来が楽しみでもある。

2018年2月23日(金)

玄関を出入りする際見える、建設用の砂や砂利の山のところに草木が生えてきていることは以前このブログで書いた。ピンク色の花が咲いていた草は、花が終わってしまったけれど、今度は、その側の木に黄色い花が咲いているようなので、行ってみると、やはり咲いていた。次の写真は、その花の咲いている木。後ろにセメントの袋が散乱している。これまでにこの辺に散乱していたセメントの袋を回収してみると、大きな50リットルのゴミ袋3袋分になった。とても重いので、ミウソンに頼んで、彼らが仕事を終えて帰る際、トラックに積んで、カロリナソイルの側のゴミ集積場に出してもらったのだけれど、これらもまたゴミ袋に回収しないといけないなと思いながら、ようやく今朝重い腰を上げた。でも、雨に塗れてヨレヨレになった下の方の袋の間にアリが巣を作っていて、卵を抱えたアリがうじゃうじゃ出てきたのには困った。今回も50リットルのゴミ袋3袋分になった。2枚目の写真は、黄色い花を角度を変えて、近くから撮ったもの。この葉の感じからは、どうやら私が思っていた大木になる木ではなさそうだということがわかった。でも、これも何かの木なので、花が終わったらやはり引き抜かないといけないだろうなと考えている。

2018年2月24日(土)

以前、ブラジルではピョンチャンオリンピック関連のニュースを見かけないと書いたけれど、エドソンは一度インターネット上の新聞でブラジルから参加している選手(何の競技だったか憶えていない)の記事を見かけたと言っていた。そして、2018年2月23日付けニッケイ新聞のブラジル国内ニュースに、「平昌五輪=イザドラ・ウィリアムズ=ブラジル人として初の女子フィギュア、フリーに進出」という記事があった。でもこの女子フィギュアスケート選手はアメリカ生まれのアメリカ育ちで、お父さんがアメリカ人でお母さんがブラジル人とあった。ブラジルで暮らしたことがなくてもブラジル代表選手になっているところが日本とは違うなあと思った。おそらくこの人は、アメリカとブラジルの二重国籍なのだろうなと思う。この記事のサイトは、こちらへ

日本のオリンピック関連のニュースを見ていると、メダルの数が何個になったかということをしきりに取り上げているけれど、それよりも何よりも、メダルを取った選手も取らなかった選手も想像を超える努力をして、この大きな大会に挑んでいる姿はそれだけでとてもすがすがしい。そして、そんな選手が苦しみから這い上がって、自分自身に打ち勝ってメダルを手にする姿はさらに神々しくもある。ここでは放映権の関係とかで、NHKニュースを見ていてもいつも動画が静止画に変わってしまい、実際の演技や競技を見ることはできないので、音声で結果だけを聞いて、アスリートとして立派なだけでなく、人間としてもすばらしい彼らや彼女たちに「ありがとう」と言っている。

2018年2月25日(日)

次の写真は、土曜日のお昼過ぎに撮った建設中のガレージ。左側の壁にドアが取り付けられた以外は、一見何も変わっていないけれど、先週は、外からは見えないガレージの中の壁や天井にコンクリートを塗る作業が行われた。今週は作業には来ないらしいので、しばらくはこの状態からの進展はなさそう。

昨日は、ゼーとマリアとゼーのお兄さんの3人に加えて、お兄さんが10代の双子の息子2人を連れてきたため、総勢5人で草刈り作業が行われた。最近、彼らはドナ・ベティのファゼンダで土曜日も仕事ということが多く、うちに来れないことがよくあるので、広い範囲で草が茂り始めていたのだけれど、お陰で昨日はかなりの部分で草刈りが進んだ。それはそれで喜ばしいのだけれど、夕方めいとお散歩に出ると、枯れたイペーの木の足元や周辺から芽を出して成長していたイペーの苗木が取り除かれていたので、ショックだった。彼らは田舎暮らしで、ドナ・ベティのファゼンダでも草刈りを主な仕事にしているのに、アメンドインとそれに似た雑草の区別がつかないようで、その雑草を取り除かず、そのままにしていたり、取り除いてほしくないイペーの苗木を取り除いてしまったりするので驚いてしまう。そして、アメンドインの間から生えている背の高い雑草を引き抜いてと言っても、くわで所々取り除くだけで、1本1本引き抜くことはしてくれないので、相変わらずほとんどの草がそのままになっている。どうしてかなあ・・・?次の写真は、家の西側の庭の生い茂っているアメンドインを草刈り機で切っているゼーを撮ったもの。

2018年2月26日(月)

この土曜日と日曜日は、サンパウロ市よりもさらに東に位置するサン・ジョゼ・ドス・カンポスからマーセロとアニー夫婦が泊まりがけでやって来た。それで土曜日午後のマテウスのレッスンはお休みにした。エドソンとマーセロが仕事の話をするのが主な目的なのだけれど、二次的な目的は家族旅行で、アニーと息子のハカも一緒なので、土曜日の午後はみんなでおしゃべりをしたり、敷地内をお散歩したりして過ごした。夕食は、アニーがお肉よりも魚が好きと言っていたのを憶えていたので、ティラピアのフライ、キャベツと玉ねぎとケーパーのマヨネーズサラダ、きゅうりの酢の物、豆腐とカシのみそ汁、そして、ゆかりを混ぜたご飯を用意した。マーセロはインドネシア人の女性と結婚するくらいだから、偏食ではなく何でも食べるようで、私の作った料理をどれも初めて食べたけれどおいしいと言って、おかわりをして食べてくれた。「ゆかりの味は独特だけれど、おいしいね」とか、「このキャベツのサラダに入っている緑のものは何?甘いような辛いような、おもしろい味だね」などと言うので、その都度、ゆかりの袋を見せたり、ケーパーの瓶詰を見せたりして、話題が広がった。アニーはみそ汁が大好きだけれど、作り方を知らないというので、うちで使っているブラジルの日系食料品店で普通に買えるかつお出しやみそをみせて、作り方を教えてあげ、かつお出しを一袋あげたので、とても喜んでくれた。次の写真は、土曜日の午後7時頃撮った夕飯の食卓。この時、息子のハカは居間のソファーの上で寝てしまっていたので、大人4人だけでの夕食になった。アニーは歯の治療中とかでアルコールは飲まず、マーセロはワインよりもビールがいいと言ってビールを飲んだ。アニーはイスラム教徒なので、マーセロはアニーと結婚するに際して、インドネシアでイスラム教に改宗したというのだけれど、ふたりともアルコールは飲むし、アニーはヒジャブをかぶっていないし、イスラム教徒だと言わなければ、普通のブラジル人と何も変わらない。ちなみにマーセロはレバノン人移民の4世だけれど、家族はみなイスラム教ではなく、スピリティズモ(心霊主義者)なのだそう。ブラジルでは自分はスピリティズモだと言う人によく遭遇する。

2018年2月27日(火)

日曜日の朝食は何時にしようか?と、土曜日の夜マーセロたちと話していて、ゆっくり起きて8時頃にしようかということになったのだけれど、6時半頃にお隣の犬がやって来たらしく、めいだけでなく、ひろやはるまで反応してベッドから飛び出して吠えるものだから、おそらく下の寝室で寝ていたマーセロたちも目が覚めたのではないかと思った。はるとひろを外に連れ出して朝一番のオシッコとウンチをさせた後、鶏小屋の扉を開けに行くと、ハカが「パパイ」とお父さんに声をかけているのが聞こえ、めいとお散歩に行って家に戻ると、下のガレージの前で、マーセロとハカがお散歩をしていたので、ああ、やっぱり目が覚めてしまったんだなと思った。それで、7時半頃には食事の仕度ができたので、エドソンに彼らを呼びに行ってもらい、みんなでゆっくり朝食のテーブルを囲んだ。ハカは何を食べるのかわからなかったので、ゆで玉子とマンゴーだけを用意していたら、お砂糖とチョコレートクリームたっぷりのドーナツと牛乳とゆで玉子を食べ、マンゴーは食べなかった。「う~ん、朝から甘いドーナツか・・・」

前の晩も、私たちの夕食が終わってから目覚めたハカは、電子レンジで温めた牛乳に何かの粉を混ぜたものを食べただけで、普通の食事はしなかった。年齢は5歳くらいだと思うのだけれど、こういう食事でいいのかなあ・・・?とちょっと疑問に思った。そして、甥っ子のブライアンもそうなのだけれど、起きているほとんどの時間、携帯でゲームか何かをしている。携帯に子守りをさせるのは、洋の東西を問わず、最近の傾向なのだろうけれど、私にはどうも違和感がある。世代の違いだろうか?次の写真は、大人たちが食卓でゆっくりお昼を食べながら、グダグダ長話しをしているので、ハカは自分の食事が終わると、さっさと居間のソファーに行って、携帯で遊んでいたので撮ったもの。めったにぐずったりしない聞き分けのいい子だけれど、ブライアン同様、夜寝る時間や食事時間が不規則で、食事内容も偏りがあるように見受けられるのがちょっと気になった。でも、これがブラジルの子育てなんだろうなあ・・・。

2018年2月28日(水)

2018年2月27日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」に、「《ブラジル》日系社会、統合時代の幕開けか」という記事があった。この記事の中の「憩の園」は、サンパウロ市近郊のグアルーリョス市にある老人ホーム(救済会が経営)で、渡辺マルガリーダさんが創立者。救済会は戦中に社会政治警察に拘束された日本移民を支援するために、1942年5月に発足。戦後移民の受入れや支援を目的に1959年1月、日本移民援護協会(現サンパウロ日伯援護協会=援協)が発足するまで、救済会はコロニアが一番苦しい時期に延々と移民支援をしてきた。それがいよいよ立ち行かなくなったらしい。「伝統ある救済会を無残に潰すよりは、できれば日系団体に合併してほしい。合併できるとしたら援協しかないのでは」という内容。この記事のサイトは、こちらへ



  Home Copyright (C) 2009 Kyoko Yoshida   Next