Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2018年1月1日(月)

明けましておめでとうございます。

今年は戌年。うちの丘の上にはモビが眠っている。そして、モビがガン治療に入る前に、体調を崩して、一週間通い続けたサンパウロ州立大学獣医学部附属病院での治療中に旅立ってしまったフィオナは、大学病院に検体として提供したため、うちにお墓はないのだけれど、おそらく2匹とも草葉の陰から私たちを見守ってくれているだろうと思っている。そして、今一緒に暮らしているはるとひろとめいは私たちのすぐ側で愛情を注いでくれている。この子たちはみなここでの私たちの生活を穏やかなものにしてくれる、私たちにとっての守り神のようなありがたい存在。さて今年はどんな一年になるだろう?みんな大きな病気をせず、健康で穏やかに一年を過ごしたいと願っている。

2018年1月2日(火)

30日の夜から降っていた雨が、日付が変わった頃から強い風を伴うようになり、その風で午前3時頃また停電してしまった。朝になっても復旧していなかったので、朝食後にエドソンがカロリナ・ソイルまで状況を確認しに行くと、すでに電気工事の人たちが来て作業をしていたそうで、彼の帰宅後すぐに電気が復旧して助かった。お陰で予定していた洗濯や掃除を午前中に済ませてから、お昼に年越しそばを作ることができた。次の写真は、その年越しそば。朝からめんつゆの中でスライスした干し椎茸を戻して、鶏胸肉とねぎとわかめを入れて作ったのだけれど、干し椎茸がめんつゆの中でいいだしを出していて、エドソンに好評で良かった。大晦日はいつものように「紅白歌合戦」をBGMにして家事を済ませ、「行く年来る年」はエドソンとふたりでテレビの前に座って一緒に見て、日本時間の0時で「おめでとう」とみんなで(はるもひろも一緒に)言い合って、午後はゆっくり、恒例のさだまさしの「朝まで生テレビ」を見て2時間ほど過ごした。朝一番で停電だったのは想定外だったけれど、今回はすばやく復旧して、予定していたことが何とかすべてできて良かった。そう言えば前年も大晦日の朝停電で、紅白は途中から見たんだったと思い出した。

2018年1月3日(水)

ここは日本のように年末年始に数日間お休みが続くなんていうことはないため、エドソンは週末の土、日と、元旦の月曜の3日休んだだけで、昨日から仕事に戻った。今週は社長のパウロが休暇で家族を連れて旅行に出ているため、そのバックアップとして、普段は在宅で仕事をしているエドソンも事務所に出なければならず、朝8時前に、雨の降る中出勤したのだけれど、事務所には誰も来ておらず、鍵もかかっていて中に入れないため、戻ってきて、いつものように家で仕事をしていた。出かける際、ペドレイロのミウソンが仕事に来ると連絡してきたけれど、この雨だと仕事にならないから来ないかもと、言い置いて出かけたのだけれど、エドソンが戻ってきた頃には雨が止んでいて、それからしばらくしてミウソンたちも来てくれた。でも、いつまた雨が降り出すかわからない空模様だから、そんな状況でもできる細かい作業だけをして、雨が降り出したらすぐに切り上げて帰るということだった。すると、10時過ぎに建築資材のお店のトラックがやって来て、年末に配達してくれるはずだったセメントを持って来てくれた。次の写真は、そのトラックとその荷台に積まれたセメント。

そして、12時から事務所を開けることになったからと、エドソンは早いお昼を食べて、再度出勤して行った。最初から初日は12時からということになっていて、エドソンだけ知らされていなかったのか?それとも、鬼の居ぬ間に社員がみな羽を伸ばした結果なのか?何だかよくわからないままの仕事始めとなった。次の写真は、午後1時頃、ミウソンたちが一旦仕事を切り上げて帰って行った後、撮ったガレージ。ガレージの前面にあった木枠が取り外され、ガレージの中の床にコンクリートを入れるための準備として、でこぼこだった地面が平らになっている。午後3時前くらいにミウソンたちは戻ってきて、ガレージの中に土を運び入れて、平らにする作業をして5時前頃帰って行った。すると、待っていましたとばかりに雨が降り出した。

2018年1月4日(木)

2日の夜、10時過ぎにベッドに入り横になってしばらくすると、これまで聞いたことのない鶏の変な鳴き声がした。エドソンが「今、鶏の声がしたね」というので、「二度鳴き声がしたね」と応えると、エドソンは懐中電灯を持って、鶏の様子を見に行った。私も寝室の窓を開けて様子を伺うと、エドソンが「出て来てごらん」と言うので、私も懐中電灯を持って畑に行った。すると「オンサ(ジャガー)の子供が中にいる」と言うのでびっくり。ふたつの懐中電灯で暗闇を照らすと、猫よりも少し大きめの猫科の動物が金網で囲まれた鶏の運動場の中にいた。どこから中に入ったのか、出口が見つからず、必死で金網に登って逃げようとするのだけれど、逃げられないでもがいていた。それで、撮ったのが以下の写真。しばらく見ていたのだけれど、どうしようもないので、鶏小屋の扉を締めて、鶏が襲われないようにして、念のため運動場を懐中電灯で照らして確認してみると、小屋のすぐ前辺りにクロちゃんが横たわっていた。「ああ、クロちゃんが犠牲になったんだ・・・可愛そうに・・・」クロちゃんの屍骸は翌朝処理することにして、オンサもそのままにして、その晩は家に戻った。家に戻ってエドソンがネットで調べてみると、どうもこの動物はオンサではなく、ジャグアチリカ(Jaguatirica)というオンサの親戚で、オンサよりも体の小さいタイプのものだということがわかった。オンサの声は聞いたことがあっても、姿を直接見たことはないというエドソンは、ジャグアチリカなんて動物も生まれて初めて見たと言っていた。この動物は開拓時代にたくさん殺されて、今では絶滅危惧種なのだという。野うさぎによる農業被害がずいぶん出ているのは、野うさぎの天敵であるこういった動物の数が激減しているからなのだそう。生態系のバランスが崩れると、そういうことが起こるんだなと、何だか納得。それにしてもここには野うさぎもいるんだから、鶏なんか襲わないで、野うさぎを襲ってほしいものだと思った。でも翌朝、クロちゃんの屍骸は食い荒らされることなく、そのままだったので、おそらくあのジャグアチリカは母親で、子供の所に食料を持って帰ろうとしたのだろうというのがエドソンの見解だった。

翌朝、クロちゃんの屍骸をビニール袋に入れて、畑の隅のシュハスコ小屋の横のレンガの上に置いて、鶏たちを小屋から出して、餌を与える準備をしていたら、エドソンが仕事に出かけたのと入れ替わりに、作業にきて仕事をしていたペドレイロのミウソンが、畑にやって来た。そして、鶏の屍骸を埋めてあげると言ってくれたので、ビニール袋のクロちゃんを渡して処理を頼んだ。うちの入り口ゲートの所まで来た際、ちょうど出かけるエドソンとすれ違い、エドソンがミウソンに事情を話して、処理を頼んだということだった。私にはクロちゃんを埋めるための深い穴を掘る力がないので、とても助かった。感謝です。ミウソン。

2018年1月5日(金)

ペトロポリスの安見さんご夫妻は、年末年始は恒例の友人達との団体旅行で、ミナス・ジェライス州南部の観光地として有名なモンチ・ヴェージ(Monte Verde)に行かれたという。海抜1,600mのところで、雨が降って寒かったため、真夏のお正月なのに暖炉に火が入れられたのだそう。真夏のブラジルの元旦に火を入れた暖炉の前で撮った写真というのは、とても不思議な光景だなと思った。以下がその写真。いつものメンバーでわいわい楽しんでこられたご様子。

そして、ブラジルのクリスマスと年末年始の過ごし方の変遷を、ご自分の経験を通して教えてくださった。以下は、そのメールの説明をコピーしたもの。『ところでブラジルは、4~50年前はクリスマスが重要で家族で集まりFESTA(パーティー)をし、正月は関係が無かった。その後、1980年代末から一般の会社では、社員の有給休暇の一部を全員で取るようにしてクリスマスから正月まで9日間の休暇にするようになりました。その時から「Feliz Natal e Feliz Ano Novo (Merry Christmas & Happy New Year)」と挨拶したものです。最近は正月を祝うのが当然となり、「Boas Festa」と挨拶をするようになってきています。我々のブラジルでの生活様式も、ブラジルに来たころは、クリスマスは友人家族から招待を受けるとき以外は寝クリスマスでした。最近は娘の結婚相手の家族との関係で一緒に家族でクリスマスを祝うのと、正月は友人と旅行が過ごし方の定番になりました。ブラジルは異文化の混ざり合いの国家で別の文化が生まれてきているということでしょうか』

そして、12月1日から1月10日までペトロポリスの中心街は、Boas Festaのイルミネーションで飾られていて、すごい人出なのだそう。その写真も送ってきてくださったのだけれど、そのイルミネーションがとてもきれいで、何だかブラジルとは思えない。やはり、ペトロポリスはブラジルの中のヨーロッパだなと思う。

2018年1月6日(土)

雨が降ったり止んだりのお天気だったのだけれど、3日も作業に来てくれたペドレイロのミウソンたちのお陰で、ガレージの建設作業が少し進んだ。ガレージの中の床にコンクリートが入り、きれいになった。次の写真は、3日の午後、彼らが作業を終えて帰って行った後、撮ったガレージ。今週はパウロが休暇中で留守なので、パウロの家での作業ができないから、うちに来てくれているのかなと思ったのだけれど、4日は作業に来なかった。4日の夕方エドソンが帰宅して、「ミウソンたち今日は来なかったよ」と言うと、「ああ、今日はパウロの所で作業していたよ。うちで次の作業を始める前に、ガレージの床に入れたコンクリートが乾くのを待たないといけないとか、いろいろ段取りがあるんだろう」ということだった。

2018年1月7日(日)

我が家の西側にあるランドマークの木の回りには、以前は何もなく、この木だけが1本ポツンとあったのだけれど、その後、リグストルンとハイビスカスを西側に植え、ランドマークの後ろに捨てたというか、埋めた種から自然に生えてきて成長した色々な果物の木がたくさん生えて、賑やかになっている。次の写真は、そのランドマークの木の南側を撮ったもの。写真の真ん中の木の上の方の葉が赤いので、まるで花が咲いたように見える。この赤い葉は新芽で、時間が経つと緑色に変わる。この木はおそらくマンゴーの木だと思うのだけれど、やはり私たちが意図的に植えたものではなく、埋めた種から自然に生えてきたもの。この木の右側にある背の高い木は、何年か前のクリスマスの際、買ってきて飾り付けをして使い、クリスマスが終わってからここに植えたもの。その当時と比べてずいぶん背が伸びて高くなっている。マンゴーの木の左側にある木は、パパイアの木で、これも埋めた種から自然に生えてきたもの。小さな実をよくつけるのだけれど、私たちが食べる前に鳥や虫に食べられてしまうため、なかなか私たちの口には入らない。でもこの夏はこれまでにポツポツと2つほど採れたので、ありがたくいただいた。そしてパパイアのさらに左にある木はフランボヤンジーニョという可愛い花が咲く木。クリスマスの木の後ろには、背の低く細いタイプの竹がうっそうと茂っている。

2018年1月8日(月)

この夏は雨が多く、手伝いの人たちが作業に来れない日が多い上、ゼーやマリアは来てくれても、畑仕事が得意なジョゼは来てくれない状態が続いている。畑の準備を手伝ってもらおうと、彼が来るのを待っていたのだけれど、いつまで経っても来ないので、しかたなく先月私がひとりで草取りをしたり、畝を耕したりという作業をぼちぼちとしたため、種蒔きの時期が遅れに遅れてしまった。オクラ、金時豆、ラディッシュ、かぶの他、鎌谷さんからいただいたブラジル産の白いおたふく豆を蒔いたのだけれど、金時豆以外は芽を出して元気に育っている。最近ようやくラディッシュとかぶの芽が間引きできるくらいに育って来たので、間引きして採ってきたのが以下の写真。右側の根元が白いものがかぶで、左側の根元が赤いものがラディッシュ。大きなボールにいっぱいなのだけれど、茹でておひたしにすれば、ほんの一握りにしかならないだろうから、朝のサラダに混ぜて食べた方がいいかな?などと考えている。畑で育てている野菜を採ってきて、さて、どうやって食べようかと考えるのも何だか楽しい。それで結局、朝のサラダに混ぜるには量が多すぎるので、1/3をサラダに混ぜることにして、量は少ないけれど2/3の量を使って、ほんの一握りの量のおひたしを作った。そのおひたしにかつお節をふりかけたのが2枚目の写真。おひたしはエドソンも好きなので、ふたりで喧嘩をしないように半分ずつ分けていただいた。ずいぶんお久しぶりのおひたしに満足、満足。

2018年1月9日(火)

この7日の日曜日は、恒例の七草粥ならぬ大根粥を作って食べた(以下写真)。東京で暮らしていた頃は、近くのスーパーで七草粥のための七草をパックにした便利なものが販売されていたので、大根粥にその七草を混ぜて、なんちゃって七草粥として食べていたのだけれど、ここでは七草などもちろん手に入らないので、いつもの普通の大根粥を作った。鶏ガラスープでご飯と大根を炊いて、ネギとラディッシュの間引き菜と、塩コショウお酒で調理しておいたトリ胸肉を小さく裂いたものを混ぜて出来上がり。土鍋でコトコト炊くだけなので、とても簡単にできる。でも、クリスマス前にボトゥカトゥに買出しに行った際、梅干しや柴漬けのような味の花梅の漬物を買うのを忘れたので、赤みのアクセントを添えることができず残念。エドソンはこれにオリーブ油をかけて、おいしいと言って食べてくれる。これが普通のブラジル人なら食べないだろうなとよく思う。お互いの食習慣を無理なく受け入れられるから一緒に暮らして行けるのだけれど、その基本がなければ、一緒に暮らすのはとても大変だろうなと思う。私にはその点の苦労がなくて感謝。

2018年1月10日(水)

去年だったか一昨年だったか、庭のフランボヤンの木の結構太い一枝がドスンと音を立てて地面に落ちたことがあり、それは虫が切ったのだとわかったと、このブログに書いたけれど、またまた同じフランボヤンの木の枝が虫に切られてしまった。と言うか、その破壊工作はもう1~2ヶ月前から進行していたのはわかっていたのだけれど、夜の間に作業をするらしく、昼間はまったく姿を見せないため、切られるがままにどうしようもなかった。今回は最後まで虫が作業を終えて、枝が自然に落ちたのではなく、エドソンがかなり深く切られてしまっているので、枝を触ってみると折れたということだった。以下写真が、その虫に切られたフランボヤンの木と、その枝。この枝を切る虫は、このフランボヤンだけを標的にするのはどうしてだろう?

2018年1月11日(木)

居間のソファーにゴロンと横になって、西側の窓から外を眺めていると、夕日が沈む頃に、正面に見えるユーカリの木がまるでイルミネーションを飾りつけたようにキラキラ輝く時がある。先日、1日中曇り空で、時々霧雨が降るようなお天気だったのに、夕暮れ時にほんの少し太陽が顔を出し、その夕日が沈んで行きながらユーカリの木をキラキラと照らして、葉が風で揺れるとさらにそのキラキラ度が増し、何ともきれいだったので、写真に撮ってみた。静止画ではその息を飲むような躍動感がないけれど、ちょっとキラキラしている感じは、ある程度わかるだろうか?ここにはペトロポリスのようなきれいに飾り付けられたイルミネーションはないけれど、時々こんな自然のイルミネーションを見ることができる。

2018年1月12日(金)

今週は、日曜日は曇りがちながら雨は何とか降らずに済んだので、お掃除に支障がでなかったのだけれど、月曜日と火曜日は丸2日、雨、雨、雨。そして、水曜日に少しお天気が回復し、頼りないながらも日差しがある時間もあった。そのせいか葉切りアリの活動のスイッチが入ってしまったようで、まだ成長途上のモリンガの木の内の2本や、ランドマークの木の側のハイビスカスや、入り口ゲートの桜や、防風林の列のリグストルンなど何本もの木が襲われてしまっていることに、昼食後のお散歩に出た際気づいた。次の写真は、防風林の列の一番下のリグストルンの木の足元に葉がたくさん落ちているのを撮ったもの。その葉が細かく切られたものが画面奥の方に向かって道を作って続いているのがわかるだろうか?そう。これが葉切りアリが葉を運んでできた道。葉切りアリの姿は見えないのだけれど、この葉の跡を辿って行くと、防風林を通りすぎてしばらくしたところで右折して、マンジォカや桜が植わっている丘を登って行く道ができていた。2枚目の写真がその道で、真っ直ぐに踏みならされた線になっているのが見える。おそらく活動中はすごい数のアリがこの道を行ったり来たりするので、場所にもよるけれど、こんなふうにはっきりと道ができる場合が結構ある。私は、まだ成長途上のモリンガの木を弱らせないように、少しずつ遠慮しながら葉を切ってきて、朝の野菜サラダに混ぜて食べているのだけれど、遠慮のない葉切りアリに木が裸にされて悲しくなった。葉切りアリはガンと一緒で、平和共存ということを知らないようだ。

2018年1月13日(土)

今週も、晴れ間よりも雨や曇りの時間の方が多く、お天気が良くない日々なのだけれど、ペドレイロのミウソンたちがガレージの建設作業に数日来てくれた。次の写真は、水曜日に進んだ作業の状態を、翌木曜日の朝撮ったもの。2枚目は木曜日の作業が終わった後、夕方撮ったもの。少しずつガレージの天井作りが進んでいる。先週エドソンは休暇中のパウロのバックアップで事務所に出て仕事をしたのだけれど、どうも今年から仕事の態勢が変わり、コンピュータシステムの維持管理に加えて、事務所のマネジメントもエドソンがすることになったらしく、今週も毎日エドソンは事務所に出て仕事をしている。と言うか、これからずっとなので、私とワンコたちだけでお留守番をする生活が続くことになった。仕事に出るエドソンと入れ替わりのように、ミウソンたちが来て作業をしてくれていると、彼らが丸1日いなくても、何だかちょっと安心する。

2018年1月14日(日)

入り口ゲートに向かう道沿いのエリアにあるフランボヤンジーニョは、この夏は花が咲くのが遅いなと思っていたら、最近ようやく5~6本の木に花が咲くようになった。ほとんどはオレンジ色か濃いピンク色に黄色い縁取りのカラフルな花が咲くのだけれど、2本だけ、黄色一色のフランボヤンジーニョの木があり、それらも花を咲かせ始めたので、その内の1本の写真を撮ってみた。この写真の黄色い花の右後ろに見えるのは、オレンジ色に黄色の縁取りのフランボヤンジーニョ。

2018年1月15日(月)

昨日掲載したフランボヤンジーニョと同じエリアにあるワイルドベリーの木3本が、最近また実をつけ始めたので、時々採取してきてはありがたくいただいている。次の写真は、その収穫してきたワイルドベリー2種類。少し大きな黒い実の方は、めったに実をつけず、実をつけても黒く色づくのを待っている間に、何かに食べられてしまって、私たちの口にはなかなか入らない。でも、今回ごく小さいものが4つ採れた。どちらもあまり甘みは強くないのだけれど、独特の味が結構おいしい。エドソンはお散歩の途中で、たまに実を採ってそのまま口に放り込んで食べたりする。そして、ついでにワンコたちにも1粒だけとか言いながら与えたりする。「ワンコたちがお腹を壊すといけないからやめて」と言っても、「大丈夫だよ」と言って、たまに与える。持病のあるはるには与えないからまあいいかと思って私は見ている。以前、このベリーを味わったことのあるめいとひろは、とてもおいしいと感じたらしく、以後、ベリーの木の側に行くと、とても食べたがるので、静止するのが大変。幸い今のところ、誰もお腹を壊したことはない。

2018年1月16日(火)

先週の金曜日もミウソンたちが来てくれ、ガレージの天井にコンクリートを入れる作業をしてくれた。ガレージは小さいので天井もそんなに広くはないのだけれど、やはり、天井にコンクリートを入れる作業は大変な作業なのだろう。この日はミウソンと、ミウソンのお父さんと、手伝いの人といういつもの3人態勢ではなく、もう2人若いお兄ちゃんが来て、5人で作業が行われた。次の写真は、金曜日の朝、作業が始まって間もなくして撮ったもの。ミウソンのお父さんは、ここから少し離れた砂利や砂の山の前でコンクリートミキサーを回して、コンクリートを作る作業をしているので、この写真には写っていないけれど、ガレージの前に3人の若い人たちが写っていて、天井の上にはコンクリートを入れたカートを押しているミウソンが写っている。ガレージの前に滑車のようなものが見えるけれど、ふたりの助っ人の内のひとりが、カートでここまで運んできたコンクリートを、水色のシャツを着た人が黄色いバケツに入れて、もうひとりの助っ人がこの滑車を使って上に引き上げると、上にいるミウソンがそのバケツからコンクリートをカートに移し替えるという流れ作業をとても手際よくやっていた。2枚目の写真は、天井にコンクリートが入り、作業が完了した状態。午後3時頃には作業が完了して、5人は帰路についた。

2018年1月17日(水)

日曜日の午後、掃除が終わり、「はい、お待たせしました」と言って、掃除をしている間ケージの中に居てもらったひろとはるをケージから出した。すると、ひろは真っ直ぐに居間のベッドのところに行き、「ああ~、やれやれ」とでも言うような感じで仰向けにひっくり返って体を伸ばしてびくともしない。それで写真に撮ろうと思い、カメラを向けたら、エドソンの側に行っていたはるがそれに気づいて戻ってきて、ラブラブの戯れ合いを始めた。それが次の写真。はるがひろを攻撃して、ひろはいつものように防戦に努めている。1枚目の写真のひろはすごい形相をしているけれど、これはあくまでもラブラブ行動なので、どちらも本気で噛んだり、怒ったりしているわけではない。1日に何度もこのラブラブをふたりは繰り返すのだけれど、飽きる様子はまったくない。

2018年1月18日(木)

ペトロポリスの安見さんが、イルクーツクのELENA KOPYTINAさんという女性がFACEBOOKに掲載した写真(たぶん15日付け)を2枚送ってきてくださった。1枚目は外気温マイナス62度Cのもので、2枚目はまつ毛に氷が付いた顔写真だった。「それにしてもイルクーツクの気温はものすごい、部屋に居ても暖房が切れたら凍え死ぬだろう」と書いておられた。イルクーツク(気温マイナス62度C)とリオ〔気温38度C〕の同じ日の温度差は丁度100度C。「2014年7月のバイカル湖観光では真夏の暑い日だった。緑一杯、ここが極寒の地であることが想像できなかった」ともあった。私はずっと昔、アメリカ、サウスダコタ州のスーインディアン居留地にあるYMCAの友人を訪ねた際、マイナス30度Cくらいの気温を経験したことがある。鼻で息をすると鼻毛がガチガチと凍り、息を鼻から出すと、ジュワーと凍った鼻毛が元に戻るという経験を初めてした。寒さが痛いくらいだった。部屋の中では1日中ストーブをガンガン焚いて、夜はパジャマの上に何枚も重ね着をして、毛布を何枚も重ねてかけて、ストーブから遠くないベッドで寝たことを憶えている。よくそんな極寒の地で暮らして行けるなと思う。ここはこの夏お天気の良くない日が多いので、最高気温は25度Cから29度Cくらいを行ったり来たりしているのだけれど、ここの気温と比べても、イルクーツクとの温度差は90度Cくらいなのかと思うと気が遠くなりそう。ちなみにリオの38度というのも、穏やかな気温に慣れた私たちには無理、無理と思った。

2018年1月19日(金)

次の写真は、昨日の朝撮ったガレージ。天井にコンクリートを入れて数日が経過したので、次の作業に進むことが可能になったらしく、水曜日に仕事に来たミウソンたちは屋根を作るための作業を始めてくれた。いつもはお昼に食べるお弁当を持参するのに、この日のお昼は家に帰ったらしく、2時間くらいしてまた仕事に戻ってきた。でも、午後4時くらいから雷が鳴り出し、雨が降り出したので、カートやレンガをガレージの中に入れて帰る仕度を始めた。するとすぐに土砂降りになったため、それを一時中断してガレージの中に避難。私は私で、コンピュータ、テレビ、冷蔵庫などなどのコンセントを抜いて、雷被害を防ぐための対策をした。何度も書いているけれど、ここは雷が一番怖い。しばらくザーザー降りが続いたので、これだとミウソンたちは足止めを喰らって帰宅できないなあと思っていたら、ほんの少し雨足が弱まったのを見て、雨に濡れながらトラックの荷台に道具を乗せて、午後5時を少し回って帰って行った。そして、彼らと入れ替わりのようにエドソンが帰宅した。入り口ゲートのところでちょうど彼らとすれ違ったと言っていた。いつもはもう少し遅い時間に帰宅するのに、この日は激しい雨が降り出したので、5時前に事務所を出たようだった。

2018年1月20日(土)

ニッケイ新聞の2018年1月19日付け「コラム 樹海」に、ロナウジーニョのことが書かれていたので、以下にその記事をコピーしてみた。サッカーは天才的だったかもしれないけれど、政治の世界ではどうだろうか?政界などに進出して名選手の名前を汚すことにならないだろうか?このコラム子同様、私も疑問に思う。

ロナウジーニョは政界に進出するのか?

伯国が誇ったサッカー界の英雄のひとり、ロナウジーニョがついに正式に現役引退を発表した▼もう2年以上も実戦での姿を見ていなかったことから、アナウンスがなくても引退しているものと想っていた人が伯国では多かった。それでも02年のセレソンのW杯世界一の立役者のひとりであり、メッシの前の時代のバルセロナのスーパースターで、「世界一プレイヤー」の称号まで得たほどの人物だ。反響はかなり大きい▼ただ、コラム子が気になることがある。それは「なぜ、今のこのタイミングで現役引退発表なのか?」ということだ。別にそのまま「事実上引退」で済ますこともできたと思うのに、なぜ今あえて現役引退を発表したのかが気になるのだ▼実はロナウジーニョに関しては昨年末、気になるニュースを耳にしていた。彼が、この10月に行なわれる統一選挙で、ミナス・ジェライス州の上院議員か下院議員に出馬する、という話だ。正直なところ、彼が政治家を目指すようなタイプだとは思っていなかったので、驚きは大きかった▼そのときの報道で耳にしたのは、ロナウジーニョを選挙に誘っているのが、保守系右翼政党の全国環境党(PMN)。その当時、話題の極右大統領候補のジャイール・ボウソナロ氏の政党となり、「愛国党」に改名予定だったところだ▼これに関しては非常に謎が大きかった。なぜ、伯国での登録名どおり「ロナウジーニョ・ガウーショ」と南大河州出身者(ガウーショ)という名前を持つ彼が、いくら現役の晩年にアトレチコ・ミネイロを南米一に導く活躍をしたからといって、なぜミナス・ジェライス州なのか。プラス、黒人で多少なりとも人種差別も経験したはずなのに、なぜ極右政党なのか。それがわからなかったからだ▼ただ、その後、PMNとボウソナロ氏の関係が決裂。これでPMNの今後の勢いや知名度アップがあるとも思えず、同党からのロナウジーニョ擁立は正直微妙に映る。果たして、それでも政界進出はあるのだろうか▼伯国で政界進出といえば、94年W杯で伯国を優勝に導いたエース・ストライカー、ロマーリオの例がある。彼は11年にリオ選出下議、15年には同じく上議に当選。この10月にはリオ州知事選への出馬も有力視されるなど、これまでの政治史上で最も成功した元サッカー選手になりつつあり、後続に道を切り開いている最中だ▼そこをロナウジーニョが続けられるか・・となると、コラム子にはいささか疑問だ。政治知識の有無以前に、彼の現役晩年の素行ゆえに心配になるのだ。ロナウジーニョはバルセロナを退団して以降、どこか糸の切れたタコのような状態になり、移籍を数々繰り返した。前述のようにアトレチコ・ミネイロの在籍時のみ往事の輝きが戻ったが、それも長続きしなかった。その後も移籍した先では「練習に参加しない」ことなどが問題となり、最後のフルミネンセも放り投げるようにして中途半端に終わっていた。そんな人物で果たして政界がつとまるのか▼サッカー選手として大きな栄光を味わった人物が、引退後に同じように別の道で成功する例はどんな大物選手でも稀だ。その意味でロナウジーニョのその後も気になるのだが、果たして? (陽)

2018年1月21日(日)

次の写真は、最近畑で採れるようになったミニトマト。畑で赤くなるまで待っていると虫にやられてしまうので、緑色からうっすら赤くなり始めたものを早めに採ってきて、台所の流しの前のこの窓のところに置いておくと、いい感じに赤く色づいてくる。この写真のトマトは3回目くらいの収穫。これまでに収穫したものは、朝のサラダに混ぜていただいた。「これは畑のトマトよ」と言うと、エドソンは「いいですねえ」と言って喜んでくれる。今年から会社のマネージメントもすることになったエドソンは、毎日事務所に出て仕事をしているのだけれど、町の食堂で食べることができる量が多く脂っこいお昼ご飯は食べたくないと言って、私が作ったサンドウィッチと魔法瓶に入れた桑の葉茶を持参して、お昼に食べている。サンドウィッチにもうちのトマトも混ぜてと言うので、ツナとマヨネーズにトマトを刻んで混ぜたものとレタスをはさんだサンドウィッチを作ったりしている。

2018年1月22日(月)

次の写真は、金曜日の夕方撮ったガレージ。木曜日は作業に来なかったけれど、ミウソンたちは金曜日に作業に来てくれたので、また建設作業が少し進んだ。1枚目はいつものように食堂の南側の窓から撮ったもの。2枚目は、家の東側の畑の中から撮ったガレージの後ろ姿。

2018年1月23日(火)

金曜日の夕方、めいとのお散歩に出たら、お隣のコーヒー農園との間の柵沿いの大きな木の足元に、この辺では普通に見かける少し大型の鳥(ワシの一種)がいて、側に小鳥がいたので親子かな?と思った。このワシの一種は、何ヶ月か前につがいなのか、毎日のように2羽がこの辺りにいるのを見ていたので、巣を作って、卵を生んで、ひなが孵ったのかと思ったのだ。めいとのお散歩を終えてからカメラを持って戻ると、居場所を少し変えて、2羽が入り口ゲートの方に向かって歩いていた。この大きめの鳥が移動するのに合わせるように、小さい鳥も付かず離れずという感じで移動するし、小鳥の色が薄茶色で全然違うのだけれど、小鳥の間は保護色で目立たないようになっているのかもしれないなどと思い、やはり親子だと思ったのだけれど、エドソンに写真を見せて確認すると、親子ではなく、まったく種類の異なる鳥だということだった。だったら何故この小鳥は大きな鳥の後をついて行くように離れないのだろう?と、不思議に思った。次の写真3枚は、この2羽の様子を撮ったもの。1枚目の写真など、まさにひなが親鳥について歩いているように見えるのだけれど・・・。

2018年1月24日(水)

入り口ゲートを入った所から見える丘の3分の2ほどのエリアで、去年はとうもろこしを栽培した。その後育ったとうもろこしを収穫して、さらに立ち枯れしたとうもろこしを倒して、草を取り除く作業を何回かしてもらった。どうも収穫の際に落ちた種があったようで、立ち枯れしたとうもろこしを集めたラインに落ちたその種から、自然に芽が出て丘の所々にポツンポツンととうもろこしが育ってきたのでびっくり。次の写真が、その丘の状態を撮ったもの。ところどころに大きさの異なるとうもろこしが見える。画面の右側に見える緑は、丘の一番下の狭いエリアに先月種を蒔いて育ってきているとうもろこし。そして、2枚目の写真は、このポツンポツンと生えて育ってきているとうもろこしの内、いち早く育った1本から収穫したベビーコーン2本。合計10本くらいのとうもろこしが育っているので、これからもう少しベビーコーンの恩恵に預かれそう。これぞまさしく棚からぼた餅。

2018年1月25日(木)

1月18日(木)7:00配信の「文春オンライン」の記事に『「ノーベル平和賞」だから何をしてもいいってわけでもねえだろ』というのがあった。言葉使いはちょっと乱暴だけれど、言っていることはもっともなので、以下にリンクをはってみた。このサイトは、こちらへ

そして今、サンパウロ州では黄熱病が大きな問題になっていて、黄熱病のニュースを目にしない日がない状態。「サンパウロ州保健局が19日、2017年1月からこれまでに州内で確認された黄熱病の発生件数が81件、死者が36人に上ったと発表」したという。以下は、ニッケイ新聞2018年1月23日付け「コラム 樹海」からの転載。今、リオデジャネイロではペトロポリスの安見さんたちが野口英世展をしておられるけれど、とてもタイムリーだと思った。多くの来場者があるといいなあ。

黄熱病との闘いは移民史の一部

世界保健機関(WHO)が16日に聖州を「黄熱病感染危険地帯」に指定したことで、一気に危機感が高まった。予防接種をうってもらおうと聖市保健所には前日から列ができ、テレビや新聞もその話題で持ちきり。だが、この病気は移民史においては最も身近な病気の一つであった。日本移民が開拓する中で戦った強敵の一つは、マラリアや黄熱病などの感染症だ▼例えば、細江静男医師は1939年、ブラ拓の依頼でノロエステ線の黄熱病調査のために、森の中で死んだサルの肝臓採取の仕事をし、その後、バストス移住地に帰った時に発病した。《バストスに帰って二三日してから身体が非常にだるく食欲もなくなり、立っても坐ってもいられぬほど、腰、背骨、関節が痛んできた》(『ブラジルの農村 病第一編』1968年、日本移民援護協会発行、PDF版354頁)▼さらに《毎日毎日三十九度、四十度の発熱、そのうち身体は真黄色になってしまった。世話をしてくれた相沢光三郎薬剤士は「多分死ぬだろう」と考えたという。熱は七日、八日で引いて逆に低温となった。食欲は全くなく絶食状態。ただ水をのむだけとリンゲル氏液を二五〇CCくらい、毎日血管注射するだけ。体重は十七貫(六三・七五キロ)から十二貰(四五キロ)にへり、大便は黒いのをたれながし、 尿はほとんど出ない。涙も汗もつばきも尿もみな真黄で、立っても、すわっても、ねてもいられない》(PDF版335頁)と壮絶な病状を、医者らしく科学的に自己診断する。だが本人は黄熱病だと分かっておらず、数年後に聖州立医科大学で熱帯病を学んだ際、「あれが黄熱病であったか」と気付いたと告白している。それぐらい当時は医学知識が普及していなかった▼だがその16年前、1923年に早々と黄熱病を研究しにブラジルへやって来た日本人研究者がいた。米ロックフェラー研究所の野口英世博士だ。同年11月からサルバドールのオズワルド・クルス研究所バイア支所で研究し、翌3月に帰米した。詳細は昨年1月17日付の毛利律子さんコラム「野口英世の足跡を追う」に詳しい。短期間に当地医学界に強い好印象を与えた。バイア連邦大学医学部の図書館玄関には、シャーガス病発見者にして伯国医学界の大御所カルロス・シャーガス博士、オズワルド・クルス研究所創立者である同博士のレリーフと並んで、野口英世が掛かっているという▼同連邦大学医学部のヴィアンナ・ジュニオル教授は野口を直接知る一人で、リオの出版社から伝記『Noguchi』を出版。野口はすでに世界的に著名な学者だったが、伯人研究者にも丁寧に接した。《唇には日本人らしい微笑を常にたたえ、礼儀正しく、愛想がよく、(中略)注意深く、控えめで、ためらいがちで、恐ろしく勤勉だった》(49頁)と記す▼朝8時には実験室に入って忙しく研究を始め、昼に2時間ほど休みを取った後、午後7時まで研究を続けた。その後、毎日2時間のポ語の授業を受け、床に就くのは常に深夜になっていた(同47頁)と書く▼ブラジル時報紙1924年3月7日付に、野口は「教えにではなく学びに来た」との記事が掲載された。伯人記者との会見では質問にポ語で応え、記者を驚かせた。講演は多くの伯人に感銘を与えたとある。野口英世は研究者である以前に語学の天才でもあった▼この『Noguchi』の本を持ってきたのは、笠戸丸移民を祖父に持つ元連邦警察署長の池田マリオさん。「子供の頃、お爺ちゃんからよく言われた。野口英世は蛍を集めて手灯りにして勉強した。お前もそれぐらい一生懸命やらないといけない」と思い出す。野口の学問が蛍雪の功であったか知らないが、左手の大火傷にも関わらず、ほぼ独学で医師試験に合格した苦労人だった▼「野口英世はたった3カ月しかブラジルにいなかったが、残した功績は大きい。当時の医学界のブラジル人は先を競って野口から教わろうとした。そんな有名人がコロニアでは知られていない。もっと日系社会にも知ってほしい」と熱く語った。先人の多くは黄熱病で斃れた。それを追悼する気持ちも忘れず、今回の危機にも焦らず冷静に対処したい。(深)

2018年1月26日(金)

西隣のコーヒー農園や我が家のクアレズマは、例年たいだい年末年始の頃に咲き始めるのだけれど、今年は年が明けても一向に花が咲かないので、雨が多くて気温が低いから、まだ夏になったと感じないのかな?と思っていた。そうしたら、今月の中旬頃になりようやく元気に咲き始めた。次の写真は、うちの敷地内の丘の上の貯水タンクの側にあるクアレズマ2本。2枚目は、この2本の内の右側の小さい方の木の花をアップで撮ったもの。3枚目は、庭のクアレズマの木2本。右側の木はたくさん花を咲かせているけれど、左側の木はまだつぼみの状態。お隣のクアレズマやうちのクアレズマを見ていて思ったのだけれど、丘の上のクアレズマやお隣のクアレズマは何年経っても背丈があまり変わらないのに、庭のクアレズマはどんどん背が高くなっていて、今では見上げるようになっているのはどうしてだろう?種類がちょっと違うのかな?

2018年1月27日(土)

今月23日に、リオの日本総領事館から立て続けに注意喚起メールが届いた。1月24日(水)にルーラ元大統領の第2審が行われることに合わせて、23日の午後コパカバーナ海岸で「ルーラ元大統領の汚職事件に関する第二審(明日)の有罪判決を求める抗議デモが予定されています」というメールと、24日午前リオ市のセントロ地区で「ルーラ元大統領の支持者らによる抗議デモが予定されています」というものだった。そして、24日夕方エドソンが仕事から戻るとすぐネットのニュースをチェックし、テレビのグロボニュースをつけた。その結果、3対0の全員一致でルーラの有罪が確定したことがわかった。ここまで来るのにとても長い道のりだった。こんなひっちゃかめっちゃかなブラジルだけれど、民主主義と正義がまだ何とか生きていることを示すことができて、ひとまず良かったと思った。

1月25日付けのニッケイ新聞には、『ルーラ裁判=全員一致、第2審で有罪確定=量刑延長9年から12年に=「彼の犯罪であることは明白」と判事』という記事があった。以下は、インターネット上の記事のコピー。無料で読めるのはこれだけで、この続きは購読手続きをしないと読めないのであしからず。

『24日、リオ・グランデ・ド・スウ州ポルト・アレグレの第4地域裁(TRF4)で行なわれたルーラ元大統領(労働者党・PT)の罪を問う第2審裁判で、昨年7月のパラナ州連邦地裁に続いて有罪判決が下った。3判事全員が有罪を支持した。フィッシャ・リンパ法上ではルーラ氏は大統領選に立候補できないが、控訴・上告を重ねて出馬の道を探ることになりそうだ。同日付現地サイトが報じている。
審理は午前8時30分からはじまり、原告である第4地域検察のマウリシオ・ゴタルド・ジェルム検事が、ルーラ氏とレオ・ピニェイロ被告をはじめとしたOAS社との疑惑に関し、「他の国でとうに終わった政界と企業との時代遅れの癒着が行なわれた。ルーラ氏は堕落した」と責めた』

2018年1月28日(日)

畑のラディッシュの何本かが収穫できそうな大きさになっていたので、ほんの数本収穫してみた。抜いてみたらまだちょっと小さいかなと思った。でも、ひとつはすでにひび割れていた。かぶもひとつ抜いてみたのだけれど、ラディッシュと同じような大きさで、早すぎたようだった。そして、この他にも何本かまたラディッシュの芽を間引いて、これらの葉をまたおひたしにしていただいた。

2018年1月29日(月)

新しいガレージの建設工事のために使う砂や砂利の山が家の南西側にあるのだけれど、その砂の山の上やまわりから草が生えてきている。1本背の高い草がピンク色の花を咲かせたので写真に撮ってみた。2枚目はその花のアップ写真。このピンクの花の咲く草を見たのは初めて。この花の咲いている左側に生えている緑は、草ではなく、大木になる種類の木ではないかと思う。おそらく鳥が種を運ぶのだろうと思うのだけれど、敷地内のあちこちで、この木の芽が出て育っている。でも、ここで大きくなってもらっても困るので、どこかに移し替えるか、これを引っこ抜くかしなくてはいけないなと考えている。

2018年1月30日(火)

次の写真は、入り口ゲートに向かう道沿いのフランボヤンジーニョの1本の幹に、マリンボンドという黒い蜂が作った巣を撮ったもの。マリンボンドは毎年のようにうちの家の軒下や窓枠のところに巣を作るので、初めの頃は蜂を退治した後、巣も取り除いていた。でも、取り除いてきれいにすると、また翌年その場所ないし近くに巣を作るので、ある時、蜂を退治した後も巣を取り除かずにいたら、その周辺には巣を作らないことを発見。以来、古い巣は鳥や風で破壊されるまで放っておくことにしている。その関係か、近年マリンボンドが集団で家の軒下を飛び回っていることはあっても、大きな巣を作ることはなくなった。家の軒下などよりも、自然の木の幹などに作った方が安全そうだと理解してくれたのかもしれない。2枚目の写真は、居間の隅の窓枠のところに数年前にできたマリンボンドの巣。殺虫剤で蜂を退治した後、残った巣はそのままにしているので、以後、この窓枠のところには巣を作らなくなった。この写真を掲載したのは、家の回りに作る巣の形と、フランボヤンジーニョの幹に作った巣の形が違うので、場所によって巣の形が変わるのはおもしろいものだなと思ったから。

2018年1月31日(水)

1月30日付けのニッケイ新聞の「コラム 樹海」にすごい記事があったので、以下に転載してみた。日本とブラジルとの凄まじい文化の違いを感じる。ちなみに、「フィーリョ・ダ・プッタ」というのは、日本語では「娼婦の息子」という意味。この記事のことをエドソンにすると、「その女の人、ブラジル人?」と聞くので、「バイアーナだって」と言うと、「ああ」と納得した感じで、「ブラジルの、特に、北東部の女性は性格が激しいので有名だからね」と言っていた。

「フィーリョ・ダ・プッタ!」と怒鳴られた朝

ドンドンドンドン―――昨年末のナタル(クリスマス)深夜3時、突然、サンパウロ市の自宅マンションのドアを暴力的に叩く音がして、「中央玄関のドアを開けろ!」と怒鳴るかん高い女の声が響いた。「5階住民だ」とピンときた。

その32歳のバイアーナ(バイーア州出身女性)と恋人の中国人男性は、ナタル前日に中央玄関の電子鍵を無くしたらしく、アパート住民をインターフォンで次々に呼び出し、電子錠を開けさせる行為を繰り返していた。

昨年9月に強盗未遂事件がアパートで起き、12月に新しい電子錠前に取り換え、出入りに電子鍵が必要になっていたからだ。

最初こそ、心優しい住民が降りて中央玄関を開けてやっていたが、深夜から早朝にかけて出入りを繰り返す彼女らの行動パターンに誰もついていけず、すぐに皆無視するようになった。その挙句、直接にドアを叩いて回るようになったのだ。恐怖のナタルだ。

翌朝4時半、こんどはゼラドール(管理人)がうちのドアを叩いて、「問題の女が、中央玄関のインターフォンと開閉センサーを壊したから、誰も出入りできなくった」と報告しに来た。しかたなく下に降りて行き、彼女とのやり取りをデジカメで動画録画した。

「あなたがこれを壊したのか?」と丁寧に聞くと、「1500回もインターフォンを押したのに、誰も開けてくれなかった。あたしは共益費を払っている。お前はすぐ扉を開けるべきだ。フィーリョ・ダ・プッタ!」と青筋を立てて、ものすごい剣幕で怒鳴り散らしてきた。

完全に目が座っている。ドラッグだろうか、興奮状態だ。1週間前に渡した電子鍵を二つも無くし、家賃や共益費を3カ月も滞納しているのに、そう怒鳴ってくるかと呆れはてた。

怒りを抑えるのに心臓がバクバクした。なんて朝だ…。

数年来、彼女の騒音や異様な立ち振る舞いに、住民はずっと悩まされて来た。深夜に相棒の中国人と大喧嘩をし、怒鳴り声や何かを壊す音を頻繁にさせていた。自宅で安らげない生活だった。

昨年初めにマンション管理組合の前理事長(二世)は心労が重なって脳溢血で倒れ、コラム子にお鉢が回ってきてからは特に辛い日々だった。

心労の一つが件の女性だ。倒れた前任者のストレスが、今は痛いほどよく分かる。役員になってからは、言葉の不自由な外国人である悲哀を噛みしめてきた。就任して真っ先にやったのは、以前の怠慢なマンション管理運営会社を辞めさせ、東洋街の大空不動産に替えたことだった。

件の彼女は他のマンション住民に対し、「私の恋人は中国人マフィアのボスとアミーゴだから、PCC(サンパウロ州最大のマフィア)とつながっている。言うことを聞かないとPCCの暗殺リストに名前が載るわよ」と脅していることが分かった。

法律を守る気が最初からゼロの相手に、社会の決まりを守らせるのは本当に難しい。この社会の根本的な問題だ。

放っておけないと決断し、大空不動産の小林優子社長に相談した。彼女の決断は早かった。

「調べたら、その女性は賃貸で入っていますが、自分の名前で契約していません。契約は、彼女が入居した当時に付き合っていた日系男性です。彼とマンション所有者に直談判して契約解除させましょう。そしたら彼女が住める法的な根拠がなくなります。不法侵入者として追い出しましょう」。そんな手があったかと目からウロコだった。

コラム子が撮影した狂気の映像を見せると、両者はすんなり契約解除に合意した。このままなら部屋が壊されると恐れたようだ。

即座に小林さんは「賃貸契約が解除されたので◎日までに明け渡しなさい」との書類を例の彼女に渡した。我々は固唾を飲んでその日を待った…。

――だが彼女は出なかった。

そこからがすごい。

小林さんは「彼女が建物を出た時に電子鍵をキャンセルしましょう。24時間のポルテイロを雇って、彼女がもう建物に入れないよう警備し、彼女の荷物は賃貸契約した日系人に運び出してもらえばいいです」と提案してきた。

自分の電子鍵をかざしても中央玄関が開かないことに気付いた彼女は、再び怒鳴り始めた。だが小林さんは一歩も引かず、流ちょうなポ語で「あなたにはここに住む法的資格がありません。もう入ってはいけません」と懇々と繰り返した。身体は小柄だが、芯が太い。

その日のうちに賃貸契約した日系男性が、例の女性の部屋のドアの鍵を変え、荷物を運びだした。あっけないほどの手際の良さに舌を巻いた。プロの仕事だ。

ふと「管理会社をもっと早く大空に替えていたら、前任者の脳溢血は避けられたかも」と思った。奇しくもこの追い出しの直前、半身不随状態だった前任者が昇天した。きっと天国から我々の事を応援してくれていたに違いない。

他の住民の迷惑を顧みず好き勝手に振る舞う無法者や、不法占拠者で困っているマンションは多い。言葉の不自由な一世にとって、頼れる日系不動産屋の存在はまことに有難い。(深)



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