Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2017年11月1日(水)

タケノコが次々に芽を出して、とにかくは今年はたくさん採れるので、私たちふたりだけでは食べきれない様相を呈している。そのため、うちに来る人たちに収穫したタケノコをどんどんお裾分けしている。でも、日系のホドリゴ以外はみな口を揃えて食べたことがないし、どうやって食べるのか知らないと言う。日系の食料品店に行けば商品化された茹でタケノコが少量販売されているけれど、普通のスーパーではタケノコなんて販売されていないのだから当然かもしれない。うちではタケノコご飯にしたり、豚肉と煮たり、八宝菜に入れたり、お味噌汁に入れたりと、主に和風で食べているけれど、タケノコはブラジルで普通に食べられているヤシの新芽のパウミット(Palmit)と同じような感じのものだから、トマトと一緒に炒めたりしてパウミットの代用のようにして食べることができるよと、エドソンが説明すると、みな食べてみたいと言って、喜んで受け取ってくれる。日本食のレストランにもたまに行ってお寿司を食べたりすることもあるヴィトーでも、タケノコは食べたことがないと言うので、エドソンが彼にタケノコご飯を食べさせたいと言って、土曜日の夕食にヴィトーを招いた。でも、タケノコご飯だけというわけにも行かないので、鶏もも肉のソテーとニンジンとセロリのサラダも添えた。食わず嫌いということのないヴィトーなら嫌がらずに食べてくれるとは思っていたけれど、おいしいと言って食べてくれたので、うれしかった。それでお母さんへのお土産として数本その日に採ったばかりの皮つきのタケノコを持って帰ってもらった。次の写真は、その夕飯の食卓とタケノコご飯。

2017年11月2日(木)

次の写真は、先週の土曜日にヴィトーが持ってきてくれた、彼のお母さん手作りのジャム3種類。左から、ウヴァイア(Uvaia)、梅、ジャブチカバ(Jabuticaba)。これらの実のなる大きな木がファゼンダ・ベラ・ヴィスタにはあって、先日ここのチーズ工場を見学させてもらった際、工場の前にウヴァイアの木があり、黄色い実がたくさんなっていたので、その実を食べてみたのだけれど、とても甘くておいしい実だった。ジャブチカバというのはぶどうのような色と形の実がなる木なのだけれど、実はぶどうのように枝先に房をつけるのではなく、木の幹から直接ひとつひとつボコボコと実をつけるので(2枚目写真)、初めてパラカンビのシチオで見たときはギョッとしたけれど、食べることができる不思議な実。このジャブチカバのジャムは、チーズ工場の2階でチーズを試食させてもらった際に、これをチーズと一緒に食べるとおいしいよと言って、ムリロが出してくれたのだけれど、どうやらそれもヴィトーのお母さんが作ったものだったんだと納得。それでお返しに、私が作った桑の実ジャムの大瓶もひとつヴィトーに持って帰ってもらった。何だかジャムの交換会のようになったなと思った。

2017年11月3日(金)

10月24日付けのブログで掲載した可愛らしい赤い花の写真に、デウザさんが反応してくれ、「ブリンコ・デ・プリンセーザ(王女様のイヤリング)」という名前だと教えてくれたことは先日書いたけれど、広島の友人からも「あのお花は、日本ではフクシアと呼ばれ、別名『貴婦人のイヤリング』。日本で品種改良された『天使のイヤリング』もあります。亜熱帯原産で、ヨーロッパで愛され、広まったとか」とメールをもらった。みなさんよくご存知ですねえ。ありがとう。

以前はパイやケーキを手作りして、毎日夕食後に食べていたのだけれど、去年の後半だったかエドソンが健康のために糖分の摂取量を控えると宣言して以来、特別な時しか作らなくなった。でも、時々食べたくなるようで、先日、たくさんりんごを買ってきて、「りんごがたくさんあるから、せっかくだからアップルパイを作ってくれない?食べたいな」と、エドソンが言うので、作ったのが、次の写真のアップルパイ。これまでにも何度もアップルパイの写真は掲載しているけれど、久しぶりに作ったので、写真を撮った。

2017年11月4日(土)

この木曜日はフィナードス(死者の日)という休日だったのだけれど、ペドレイロのミウソンたちが来てくれて作業をしてくれた。土曜日は来れないということで、その代わりにこの休日に来てくれたのかもしれない。この日は珍しく1日中お天気が良かったので、ずいぶん作業がはかどった。次の写真は、お昼前に撮ったもの。ガレージの中の地面をかさ上げするために、壊れたレンガや土を入れているところ。2枚目は、ガレージとは反対側の道の端に積み上がっている土をカートに積んで運ぶ作業をしているミウソンと彼のお父さん。レンガの壊れたものもここに積み上げてあったのだけれど、それらはすでにガレージに運ばれて、ここが少しきれいになっている。3枚目の写真は、翌日の金曜日の朝撮ったガレージの状態。

2017年11月5日(日)

次の写真は、先日作った牛肉とタケノコとピーマンを炒めて、ちょっとピリ辛に作った料理。できたてを撮ったので、湯気が出ているのが写真でもわかる。味はチンジャオロースーのようになった。これもタケノコ消費のための努力の一端。

次の写真は、畑のいちごの苗。農業資材や野菜の種や苗を販売しているボトゥカトゥのカコという店で、何ヶ月か前に、いちごの苗を2つ買って来て、畑に植えたのだけれど、せっかくいい感じで育っていたのに、1つの苗は、畑に侵入した犬か何か動物に掘り返されてしまったため枯れてしまった。でも、この1つは何とか生き残り、小さな実をいくつかつけ始めたので、実の下にとうもろこしの皮を敷いて色づくのを待っていたら、その内のひとつが大きくなり、だいぶ赤くなってきたので、虫に食べられてしまう前に収穫した方がいいだろうと、この写真を撮ってから収穫した。たった一粒だけだけれど、ここでもいちごが栽培できそうなことがわかったので、今度はもっとたくさんの苗を買ってきて育ててみようかとエドソンと話している。

2017年11月6日(月)

先週半ばから後半にかけてお天気が回復し、日差しが出たので、久しぶりの太陽を有効活用しようと、大物の洗濯をしたり、掃除をしたりと忙しく働き、金曜日は買い物他、溜まっていた用事をするためにボトゥカトゥを飛び回り、いろいろ達成できたと気分を良くしていたのだけれど、金曜日の夜から雨が降り出し、激しい風で夜中の2時頃停電してしまった。翌土曜日の朝、エドソンが電力会社に電話をして、停電の復旧を依頼した後、カロリナ・ソイルの工場まで行ってみると、例によって、昨夜の激しい風で煽られた木が電線に何度も触れてショートしたことがわかった。以前この木は電線に触れたことで火事になって一部が燃えたこともある。いつも同じことが発生するのでカロリナ・ソイルのマネージャーは以前、この木を切ってくれと電力会社に頼んだのに、まったく対応してくれないということらしかった。復旧予定時間を過ぎても復旧しないのでカロリナ・ソイルまでエドソンがまた見に行き、カロリナ・ソイルの守衛さんと話をした。少し前に守衛さんが電話でいつ修理してくれるのかを確認するとコンピュータ上ではすでに復旧工事が完了したことになっていたんだと話すので驚いたという。エドソンが帰宅後、電力会社の修理受付に再度電話をすると、カロリナ・ソイルが再度申し入れた修理依頼もすでに完了したことになっていることがわかった。何度も電話をして、新しく修理依頼をしても同じ事が繰り返され途方に暮れた。人手不足で作業が遅いならまだわかるけれど、作業もしていないのに、完了したことにしてしまうという事態に悪意を感じ、エドソンも私も憤慨しながらこの週末を過ごした。それで「緊急」「優先」というフラッグを立ててもらったのだけれど変化なし。でもさすがに修理完了というデータが入力されることはなくなった。日曜日になっても復旧しないので、午前中、エドソンはパウロのところに非常用のバッテリーを借りに行ったところ、ガソリンで動くジェネレーターがあるからと、貸してくれることになり、パウロが一緒に来て、そのジェネレーターを設置して動かしてくれた。感謝。感謝。これで数時間は冷蔵庫だけでも動かせるので、少しほっとした。数時間後にガソリン切れとなり、ジェネレーターが止まってしまったので、エドソンはガソリンを買いに行ってくれ、夕飯時くらいからまたジェネレーターを作動させて冷蔵庫だけはしばらく動かすことができた。電気がないととにかく何もできない。電灯がつかないだけでなく、冷蔵庫も洗濯機も動かせず、コンピュータもインターネットも使えない。ただ、調理はプロパンガスなので、食べることができないという事態にはならないことだけはありがたかった。

月曜日の朝も相変わらず停電が続いていたので、家では仕事ができないため、パウロの事務所に出向いたエドソンは、たまたま知っていたこの電力会社のカンピーナス事務所(パーディーニョを始めとするボトゥカトゥ周辺の町を統括している事務所)の人に電話をするとすぐ対応してくれたようで、お昼前に一旦戻ってきてくれ、電源を入れてくれ、すべての電化製品が動かせるようなった。それで、またお天気が崩れそうなので、いの一番に洗濯機を動かして溜まっていた洗濯をした。民営化とか言って、中国の会社に電力サービス会社を売ったりするからこんなことになるんだと、エドソンとふたりでさんざん恨み節を言い合った。

2017年11月7日(火)

電力を供給してくれたり、停電した際に修理などをしてくれるブラジルの電力会社の電力サービス部門が中国の会社に売却されてからというもの、サービスの質がどんどん悪くなってきている。以前はパーディーニョにも修理作業をするチームが常駐していたのだけれど、それがなくなり、東隣りのボフェッチという町のチームがパーディーニョも担当することになり、しばらくすると、そのボフェッチのチームもなくなり、この辺ではボトゥカトゥだけになり、そこがいくつもの複数の周辺の町の修理を担当している状況なので、とにかく人手が足りず、対応が遅くなるらしい。でも、ブラジルは亜熱帯から熱帯という気候で、雨、風、雷による自然災害の頻度や規模は、温帯気候の国とは異なり、生半可なものではない。その気候に合った対応策というものがあるのが普通なのに、効率と利益だけを追求すると利用者が置き去りにされるのだとつくづく思う。月曜日にエドソンが電話で助けを求めたカンピーナス事務所の人の話によると、中国の会社に買収されてから、人事や部門の変更や統合で、会社内部は混乱状態が続いていてちゃんと機能していないらしい。中国は共産主義国で、基本的に民間の企業というものはなく、すべて国がやっているのだから、ブラジル国営の会社を中国の会社に売却しても、ブラジル政府から中国政府に移行しただけで、民営化したことにはならないじゃないかと思う。先日郵便事業は民営化した方がいいのではないかと書いたけれど、もし中国に売却するようなことになると、サービスはもっと悪化するだろうから、民営化の意味がなくなり元も子もなくなる。どこに売却するかはちゃんと考えてほしいものだと思う。ちなみに金曜日の夜から月曜日の昼前まで3日間も停電していたのはカロリナ・ソイルとうちのあるラインだけかと思っていたら、何とそれぞれ電気供給のラインの異なる、ヴィトーの両親が住み込みで働いているファゼンダ・ベラ・ヴィスタと、ドナ・ベティのファゼンダでも同様に月曜日のお昼前まで停電していたということだった。市中心以外は後回しというのがこの会社の方針なのかと思った。

2017年11月8日(水)

10月16日にサンパウロから発送された楽書倶楽部10月号は、2週間以上経った11月1日にもまだ届いていなかったのだけれど、7日に郵便局に行くと、ようやく届いていた。以下は、この号に掲載された私の文章。

倫理と美学

日本人の母親が子供を叱る際、回りの人たちが見ているから止めなさいとか、運転手さんに怒られるから止めなさいなどと言って叱るけれど、これはちゃんとした善悪の基準を子供に教えていないからよくないというような内容の記事を、ずいぶん昔、学生の頃に読んだ記憶がおぼろげにある。欧米ではキリスト教に基づいた善悪の基準がはっきりしているから、このような叱り方はしない。日本人は宗教心に欠けるから人目をとても気にする一方で、善悪の基準があいまいだというような内容だったように思う。その時は、そうかなあ?じゃあどうして日本の犯罪発生率は低く、アメリカなどキリスト教国の犯罪発生率はとても高いのだろう?と思ったものの、あまり深く考えてみることはなかった。

ただ、「壁に耳あり、障子に目あり」とか「お天道様が見ている」という表現があり、確かに人目を気にしているようだけれど、日本には八百万の神様がいて、そこかしこで私たちの行いを(ひょっとしたら人の目を通しても)見ているかもしれない、あるいは「神様仏様は人の姿を借りて現れる」とも言うので、恥ずかしい行いをしてはいけないと考える私たちと、どんな時でも神様が見ているから、神様の教えに反する悪いことをしてはいけないと考えるキリスト教の人たちと、どこがどう違うのだろう?と、ちょっと思ったくらいだった。

それからかなりの年月が過ぎ、ある月刊誌で評論家の故福田恆存氏が書いた文章を読んで、目から鱗のように感じたことがあった。読んだ言葉通りではないけれど、簡単に言うと、日本人の価値観とか倫理観は、善悪という基準で判断するものではなく、その考え方や行いが美しいかどうか、つまり美意識で判断するものというような内容だった。その時、この説明が何だかストンと腑に落ちたことをよく憶えている。これは私の個人的な解釈だけれど、例えば、「いじめは悪いことだから止めなさい」というよりも、「自分よりも弱い者をいじめるのは卑怯なことで、美しくない行為だから止めなさい」という方が私にはよりしっくりくると思ったのだ。でも、これは日本人独特の価値観なのだろうかという疑問は残った。

それからまたまた何年もの年月が過ぎ、ブラジルで暮らすようになり、ある日、東西の価値観の違いについて夫と話している時だったか、夫が「倫理と美学は同じものなんだよ。だって英語のEthics(エシクス=倫理)とEsthetic(または、Aesthetic、エスセェティク=美学)は、語源が同じでギリシア語からきているんだから」と言ったことがあった。それまでこのふたつの英単語は知っていても、その語源が一緒という知識を持ち合わせていなかったため、それを聞いた時、福田氏の美しいかどうかが日本人の価値判断基準という古い記憶が蘇り、ああ、そうだったのかと納得できたのだった。つまり、正しいことと美しいことは同じということが基礎にある価値観で、決して日本独特のものではなく、哲学の真理なのだと理解できたのだった。

ギリシアで生まれたこの倫理と美学という言葉や概念が、ギリシアからはるかに遠い日本で価値判断基準となっている。そのことをとても不思議に思ったものだった。

東日本大震災の後、被災者の人たちが、配給されるわずかな食料や物資を奪い合うようなことはせず、商店を襲撃して商品を略奪したりもせず、整然と避難生活を送っている姿に、欧米の人たちの一部から、被災者の人たちはストイシズム(ギリシア哲学のストア学派の思想)をまさに実践しているという声があったという。

ギリシア哲学のストア学派というのは、「基本的には、欲望を厳しく節制して人格の完成と心の平穏を追及した思想」で、「自制心により人間としての内面を充実させることで、知的、道徳的な賢者になることを目指した思想」なのだという。人生は生老病死という苦しみで、その苦しみの中で如何に穏やかな心を保って暮らすかを諭す仏教の教えや、大晦日の除夜の鐘で、百八つの煩悩を振り払って、新たな気持ちで新年を迎える日本の伝統にも通じる考え方のようだと思った。ストア学派が東洋の哲学の影響を受けたのか、私たちがギリシア哲学の影響を受けたのか、その類似性はとても興味深い。

日本には恥の文化があるけれど、美しくない行いは恥ずかしいという価値観は、自分を厳しく律してこそ成り立つ価値観なので、決して簡単に身につくものではないように思う。何でもかんでもキリスト教的価値観で日本を見るのではなく、もっと広い視野で日本を眺めると、また違った日本の良さが見えてくるものなのかもしれない。ただ、様々な情報が溢れ、価値観が多様化する中で、日本人がいつまでこの美意識を失うことなく保ち続けて、倫理的な価値判断を実践して行けるだろうかとも思う。

2017年11月9日(木)

11月8日(水)と9日(木)にエドソンが複数の会議に参加するために、サン・ジョゼ・ドス・カンポスに行かなければならなかったので、7日から10日の3泊4日で私もついて行った。例によって、はるとひろをヴィラ・シーコに預けて、マリアとゼーに留守番をしてもらい、鶏とめいの世話を頼んだ。金曜日の深夜から月曜日の朝までずっと停電だったので、このまま停電が続いたらどうしようと一時は心配したのだけれど、月曜日のお昼前には復旧してくれたので、出かける準備も滞りなくできてほっとした。サン・ジョゼ・ドス・カンポスはここから東へサンパウロを通り越して、車で5時間余りと思っていたのだけれど、今回は4時間で到着した。どうやら前回行った際は、カステロ・ブランコまで下りてからエドソンが忘れ物に気づいて取りに戻ったりしたので、5時間以上かかったんだったと思い出した。長時間のドライブを覚悟していたので、4時間で到着できて、案外近かったと思った。その日の夕食はマーセロとアニー夫婦とする約束だったのだけれど、サンパウロから戻る際、彼らの車が故障してしまい、時間までに戻れなくなり、キャンセル。それで、今回私たちが泊まったホテルのすぐ近くにショッピング・モールがあったので、そこまで歩いて行って、その中のレストランのひとつでふたりだけで夕飯を食べた。次の写真は、ホテルの窓から撮ったそのショッピングモール。2枚目の写真は、夕飯のお供に頼んだカイピロスカ。さとうきびで作ったピンガとかカシャッサとか呼ばれるお酒にライムの絞り汁と砂糖を混ぜたものを、カイピリーニャと言うのだけれど、これはピンガの代わりにウォッカを使っているので、カイピロスカと言うのだそう。ふたりとも車の運転をしなくていいので、私も遠慮なくいただいた。

2017年11月10日(金)

8日(水)は、サン・ジョゼ・ドス・カンポスのテクノロジーパークであったブラジル宇宙機関(Brazilian Space Agency)のフォーラムに参加。次の写真は、そのフォーラムのオープニング。立って話しているのは、このテクノロジーパークのディレクターのひとりだと思う。彼の右手側に座っている人は ブラジル宇宙機関のトップのジョゼ・コエリョ氏。2枚目の写真は、プレゼンテーションをしている同じくブラジル宇宙機関のカーロス・ヴェラス氏。コエリョ氏とヴェラス氏には、ちょうど2年前にブラジリアにあるブラジル宇宙機関を訪問した際、一度会っている。この日の朝出かけようとしたところをホテルのロビーでばったり出会ったので、彼らの車に一緒に乗せてもらって会場まで行った。ラッキー!

エドソンの予定をあまり把握していない私は、丸1日プログラムぎっしりのこのフォーラムにずっと参加するのかと思っていたら、午後からのプログラムはあまり関係ないからと、お昼は、ブラジル国立宇宙研究所(Instituto Nacional de Pesquisas Espaciais=INPE)に移動。ここでエドソンが少し関わったUBATUBA-SATプロジェクトの人たちと会って一緒に昼食。次の写真は、INPEのキャンパス内にある食堂のひとつ。左からUBATUBA-SATプロジェクトの中心人物で、UBATUBA中学校の先生のカンジド、INPEのスタッフで、UBATUBA-SATプロジェクトを技術支援した日系3世のアウロ、アウロの上司で、INPEの教授でもあるヴァウター、そして、エドソン。この人たちは、国際宇宙ステーションの日本研究棟「希望」から宇宙に放出されたUBATUBA-SATからの信号を受信するために、高校生数人を連れてうちに来た人たち。昼食後は、アウロの仕事場へ行き、アウロとミーティング。そして、夕方、アウロがホテルまで送ってくれた。感謝。

この日の夜は、前日キャンセルになったマーセロとアニー夫婦との夕食を1日遅れで仕切り直し。次の写真のテーブルの右側がマーセロとアニー。彼らとは半年ぶりの再会。左端の頭のはげた人は、ブラジル宇宙機関のフォーラムに来ていた人で、マーセロの知り合いらしく、マーセロが声をかけて一緒に食事をすることになった。この人は起業家で、ブラジルから衛星を打ち上げて月に人を運びたいという壮大な夢を持って駆け回っているとエドソンは言っていた。

2017年11月11日(土)

9日(木)の午前中は、INPE(ブラジル国立宇宙研究所)のプロジェクトマネージャーのひとりであるオッタビオと、彼がマネージするプロジェクトの人たちとミーティング。エドソンはオッタビオから彼がマネージする衛星プロジェクトに参加して欲しいと依頼を受けているので、その関係でプロジェクトに関するミーティングに参加したようだった。1枚目の写真は、オッタビオのオフィスで。その後メンバーが集まったところで、別の場所に移動してミーティング。2枚目の写真が、そのミーティングの様子。

お昼はまたヴァウターと一緒に食べた。彼は英語を話すことができ、ずっとほったらかしになっている私のことを気づかって、英語でいろいろ話かけてくれる優しい人だった。午後2時からエドソンはヴァウターと一緒にANATEL(ブラジル国家電気通信局)とINPEとLABRE(ブラジルアマチュア無線連盟)のオフィシャルなミーティングに参加。INPEのとても広い敷地内にはとにかくたくさん建物があって、みなそれぞれに名前がついているのだけれど、エドソンが午後から参加したミーティングはBETAという建物だった。次の写真の建物の中央入り口の右側の部屋でそのミーティングは行われた。私は午前中はみんながミーティングをしている部屋の隅でひとり本を読み、午後からのミーティングは関係者ではないので、部屋の中には入らず、この写真の入り口を入ったところにあった長ソファーで本を読んで過ごした。お陰で、停電で何もできなかった日曜日とサン・ジョゼで過ごした水曜日と木曜日にそれぞれ1冊ずつ単行本を読み終え、計3冊を今週読了。読んだ本の内容で頭がパンパンになった感じだった。

2017年11月12日(日)

9日(木)午後のミーティングは2時から4時までの予定と聞いていたのだけれど、終わった時にはもうすでに5時半を回っていた。ヴァウターがホテルまで送ってくれた。この人は上辺だけでなく、本当に優しく気さくな人で、2年くらい前に神戸であった国際会議に参加したことがあって、その際、広島にも行ったよ。また機会があったら日本に行きたいなどといろいろ話してくれた。この日の夜は、エドソンのアマチュア無線仲間で、サンパウロのANATEL(ブラジル国家電気通信局)で働いている日系3世のヒデオさんたちと食事。この夫婦と再会するのも半年ぶり。今回は息子のエマニュエルも同伴していた。前日のマーセロたちとの夕飯の場所は、大音量の生演奏がうるさく、声を張り上げないとお互いの声が聞こえないような状態で、しまいに疲れてしまい、その晩と翌日、喉の調子が悪くなったので、エドソンを通じてヒデオさんに普通に話ができるうるさくない場所を選んでと特別リクエストを入れた。それで彼が選んだのがGoGo da EMA(ゴゴ・ダ・エマ=エミューの喉)というおかしな名前のバー&レストランだった。次の写真は、入り口にあったマット。このレストランの名前が入っていたので撮ってみた。ポルトガル語で喉というのはガーガンタと言うのだけれど、ゴゴも喉という意味なのだそう。こちらの希望通り店にはうるさい音楽は流れていなかったけれど、店のすぐ前にバス停があり、ひっきりなしにバスが来ては出て行く音や、激しい爆音をあげて通り過ぎるバイクの音などが結構うるさかった。ブラジルの人たちは賑やかなのが好きだからこういう騒音もあまり気にならないのだろうか?

エマニュエルの年齢を聞いたのだけれど、11歳だったか12歳だったか忘れてしまった。ヒデオさんが「このおばちゃんは英語の先生なんだよ。何か英語で話してごらん」みたいなことを言って、エマニュエルをそそのかしたのだけれど、最初はもじもじしていたので、私から英語で「日本食は好き?」「日本食の中で何が好き?」などなど、たわいのないことをいろいろ聞いてみると、一所懸命に英語で答えてくれた。日本語は全然わからないようだったけれど、この年でこれくらい英語で受け答えができるなんてすごいなと思った。翌日、ヒデオさんから「昨日の夜は楽しかった。ありがとう」というメールがエドソンに届き、エマニュエルが誰かと英語で話したのは初めてのことだったから、きっと昨日のことを彼はずっと忘れないと思うというようなことが書かれていたということだった。エマニュエルは素直でとても頭のいい男の子で、話していておもしろかった。ちなみに彼の好きな日本食はお寿司とお刺身で、好きな科目は歴史と科学ということだった。だからもちろん広島の原爆のことも知っていた。次の写真は、そのエマニュエルとお父さんのヒデオさん。そして、2枚目は、お店の人に撮ってもらったみんなの写真。エマニュエルと話していて、26歳のお兄さんがいると言っていたので、ヒデオさんは再婚なんだなとその時初めて知った。ヒデオさんの奥さんは、半年前に初めてうちで会った際はとても口数が少なかったけれど、今回は2回目だったから少し気心が知れたのか、リラックスしておしゃべりしてくれた。感謝。

2017年11月13日(月)

はるとひろをヴィラ・シーコに預けると、帰宅してから必ずと言っていいほどひろがちょっと体調を崩すのだけれど、今回は、ひろは何ともなく、はるが少し体調を崩した。金曜日の午後戻り、ふたりとも元気にしていたのだけれど、丸1日経った土曜日の夜、私たちの夕飯が済んでから、お皿を洗って、彼らに夕飯を与えるまでのほんの短い間に、誰かが食堂の隅で下痢をし、玄関マットの上で嘔吐していた。これらにまったく気づかず、現場を目撃していないので、誰が下痢や嘔吐をしたのかよくわからなかったのだけれど、はるが夕飯をほしがらず、ひろは夕飯後にちゃんとまともなウンチをしたので、体調を崩しているのははるのようだと思った。そして、日付が変わって日曜日の午前4時頃はるが起きてウンチに行きたいようなので、連れ出すと、下痢ではないけれど、柔らかいウンチをしたので、やっぱりはるだったんだなと確信。そして日曜日の朝、昼、晩の食事はちゃんとしてくれたけれど、はるのウンチはちょっとゆるい感じがしばらく続いた。でも、帰宅してからひろもはるもご機嫌が良く、食欲は普通にあるので、心配ないかなと思っている。次の写真は、サン・ジョゼに行く前の週に撮った居間のベッドの中で仲良くお昼寝中のはる(左)とひろ(右)。2枚目の写真は、日曜日の朝、食堂の日溜まりにいるひろ(手前)とはる(後ろ)。日曜日は久しぶりに朝から太陽が顔を出し、日差しが家の中に入ってきていたので、朝食の前後、ひろはこうしてこの日溜まりで寝転がったり、座ったりしていて、はるも時々一緒に横に座ったりしていたので、撮ったもの。

2017年11月14日(火)

日曜日の昼食後、はるとひろのお散歩をした後、めいとのお散歩で入り口ゲートに向かって歩いていると、ゲートの前に見かけないジープが止まっていたので、不審に思い、さてゲートまで行ってその車に何をしているのかと聞いたものかどうか悩んだ。そして、ゆっくりゲートまで行くとジープからパウロが下りてきたので、ああ、何だとほっとした。「エドソンいる?話したいことがあるんだけど」と言うので、鍵を持っていなかったので、家に鍵を取りに戻り、ゲートを開けて、彼らを敷地内に入れた。エドソンは森の貯水タンクの水を汲み上げに行っていたので、呼びに行き、彼が戻って来たところで、みんなに家の中に入ってもらい、居間でしばらくおしゃべりをした。娘のマリア・パウラがどこかでもらってきた松の苗木を植えたいというのだけれど、自宅には木を植えるスペースがないので、うちのシャカラの敷地内に植えたいというのが、彼らがうちにやって来た目的のようだった。それで、みんなで森の近くまで下りて行って、同じ種類の松を3本植えているところに、この松の苗木も植えた。1枚目の写真は、穴を掘って、エドソンがしゃがんで苗木を植えようとしているところ。エドソンを取り囲んでいるのは、左から、ジャナイーナの弟さん、パウロ、ジャナイーナ(パウロの奥さん)、彼らの次女のマリア・パウラ。2枚目の写真は、苗木を植え終わって、植えた苗木の前でパウロとマリア・パウラをパチリ。彼らに向かって右側後ろに見える木が、だいぶ大きくなっているこの苗木と同じ松の木の1本。

パウロたちが帰る際、彼らが乗って来たジープをパチリ。パウロは普段はトヨタの大きなSUVに乗っているのだけれど、休日のアドベンチャーにはジープが最適なんだと言っていた。そう言えば、ずいぶん前に、パウロがこのジープを買ったばかりの頃、わざわざうちに見せに来たことがあったなあと、思い出した。

2017年11月15日(水)

次の写真は、現在、食堂の窓際で咲いている花。このろう細工のような不思議な花も、ラン同様、毎年必ず花を咲かせて私たちの目を楽しませてくれている。サン・ジョセに行く前につぼみが大きくなって来ていたので、戻ったら花が開いているかなと思っていたら、予想通り花が開いていた。この花、下を向いて咲くので、カメラを花の下から構えて撮ってみた。

次の写真は、家の西側の庭に3本あるくちなしの木のうちの一番小さい木。サン・ジョゼに行く前にひとつ花が咲いていたのだけれど、戻ったらその花は枯れ、新しく複数の花が咲いていたので撮ったもの。サン・ジョゼで泊まったホテルの入り口横の花壇にはくちなしの生垣があって、たくさん花をつけ、辺りにとてもいい香りを漂わせていたけれど、うちのくちなしは、ここに3本と、ハイビスカスの庭の横に2本だけだし、花はまだこれだけなので、側を通っただけでは香りを感じることはできない。

2017年11月16日(木)

11月3日(金)から日付が変わった4日(土)の午前2時頃、激しい風で停電し、6日(月)のお昼前まで停電が続いたことはすでに書いた。でも、その週末はそれだけでなく、パーディーニョの町で大事件が起きていたので、そのこともここに書いておこうと思う。4日(土)の日付が変わった5日(日)の午前2時頃、ドーンという音でエドソンが目を覚まし、何の音だろう?と、台所に行ってみると、またドーンという音が遠くでして、マシンガンのような音もしたと言う。私はぐっすり眠っていたので、そんな音にはまったく気づかなかったのだけれど、翌朝、朝ご飯を食べながらエドソンがそのことを話してくれ、パーディーニョの銀行が襲われたのかもしれないと言っていた。そして、その日の朝、いつ復旧するかわからない停電状態を何とかしようと、エドソンがパウロの所に非常用バッテリーを借りに行くと、ガソリンで動くジェネレーターを貸してくれると言って、エドソンと一緒にパウロがピックアップトラックでジェネレーターを運んできてくれた。ジェネレーターの設置と冷蔵庫への接続が完了してから、パウロが携帯電話の中の写真を見せてくれたのだけれど、サンタンデール銀行が爆弾で無残に破壊されていた。一方、ブラデスコ銀行の方は爆薬がうまく起爆しなかったらしく、外壁が少し壊れた程度で済んだらしいということだった。さらに強盗団は、逃げる際に追跡されないようにするために銀行を襲った後、町の警察署をマシンガンで襲ったので、エドソンはそのマシンガンの音を聞いたのだとわかった。さらに同じ頃、隣町のボトゥカトゥでもいくつかある銀行のひとつが襲われたそうなので、どうも連携していたらしいということだった。

この事件は、パーディーニョのドラッグ・ディーラーがサンパウロのドラッグ・ディーラーを手引きしたのだろうというのが、エドソンやパウロの見方だった。そして、翌6日の月曜日には、12人いたとされる強盗団のうちの2人が逮捕されたというニュースがあった。ふたりともパーディーニョの住人で、ひとりは薬の密売に深く関わっていたホーダーという名前の男で、もうひとりは何とパーディーニョにいくつかあるプロテスタント教会のひとつの牧師だという。おそらく教会を隠れ蓑にして薬の密売をしていたのだろうとエドソンは言っていた。5,000人ちょっとしかいないこの小さな町で、多くの住人がクルリ、サルトリ、ヴィヴァン、オリヴェイラ、ホーダーという名前で血縁関係にあったり、結婚で親戚としてつながっているような所なのに、こんな銀行強盗なんかして、一体何を考えているのだろう?と、ただただ唖然とするばかりだった。この逮捕された犯人たちの家族は、今後この小さな町でどういう顔をして暮らして行くのだろう?そして、この町の人たちはこの人たちとどのように付き合って行くのだろう?その後の情報では、ブラデスコ銀行は約1ヶ月ほどで営業を再開すると発表したようだけれど、無残に破壊されたサンタンデール銀行はいつ再開できるかまったくわからないらしい。オープンしてまだ3年くらいしか経っていないブラデスコ銀行と違い、サンタンデール銀行は昔からパーディーニョに唯一あった銀行なので、そこに口座を持っている人は多く、私の生徒さんのムリロも、パーディーニョのサンタンデール銀行が再開するまでボトゥカトゥのサンタンデール銀行まで行かなければならなくなって、とても不便だと嘆いていた。

2017年11月17日(金)

我が家を建てていた頃、ペドレイロのエディーが花がたくさん咲いていてきれいだからと、自宅から壊れた作業用カートを運んできて、うちの家の前の庭に置いてくれたのだけれど、夏の間は花が咲くのでいいとして、冬になると草花は枯れてしまい、見る影もなく、錆びてきたなくなったカートが庭にあるのは見た目が良くないので、どうしたものかと毎年悩む。でも、春になるとまた緑のクローバーの葉に被われ、ピンクの花が咲くので、そうなるときれいだなと思うので、捨てるに捨てられないでいる。次の写真が、そのクローバーに被われた現在のカート。

2017年11月18日(土)

エドソンのアマチュア無線の活動を見ていると、アマチュア無線愛好家の世界というのはおもしろい世界だなと思う。その人の年齢や職業などほとんど関係なく、みな対等というか、お互いに愛好家として一目置き合っているような感じがする。例えば、エドソンはアメリカのジョゼフ・テーラー(通常ジョー・テーラーと呼ばれている、以下写真)という1993年にノーベル物理学賞を受賞した宇宙物理学者の人と親しい。

ジョー・テーラー氏に関するウィキペディアのサイトは、こちらへ

ただ、親しいと言っても会ったことは一度もなく、普通の友人関係ではないのだけれど、数年前にテーラー氏が書いたWSJTというアマチュア無線のソフトをエドソンがテストしていて、不具合を見つけたので、それを直してテーラー氏に知らせた所、とても喜んでくれ、彼がアメリカアマチュア無線連盟(American Radio Relay League=ARRL)が発行する技術誌「QEX」に掲載する予定のWSJTに関する論文のピア・レヴュー(peer review=査読)をしてくれないかと依頼してきた。彼はノーベル物理学賞を受賞した著名な学者で、エドソンは国際アマチュア無線連合(IARU)の衛星周波数調整グループで貢献しているとは言っても、名もない市井の愛好家に過ぎないのに、同じ愛好家同士で技術的関心と知識があることを対等に評価して、そのような依頼をしてくるというのがおもしろいと思った。そして、エドソンはその依頼を快く引き受け、論文を読んで自分の意見を送った。そしてQEXに掲載されたその論文を見ると、ピア・レヴューをしてくれた人たちのリストがあり、エドソンの名前もちゃんと明記されていた。その後、テーラー氏からそのWSJTというソフトを開発するグループに参加してほしいと招かれ、開発に協力したのが去年のことだったように思う。エドソンを始め、世界各地から様々な人がこのジョー・テーラー氏がリーダーとなって進められたソフト開発に協力したようなのだけれど。そのソフト開発プロジェクトチームが、今年11月初旬に、アマチュア無線に有意義な貢献をしたとして、カリフォルニア州にあるYasme Foundationという財団からエクセレンス・アワードという賞を授与された。WSJTというのは"Weak Signal/Joe Taylor"の略で、日本語にすると「微弱信号/ジョー・テイラー」。この通信プロトコルソフトウェアパッケージは、無線通信機とコンピュータで生成された通信用信号とを利用して微弱な出力電力による他のアマチュア無線局との遠距離通信を可能としたのだという。

このエドソンが参加したThe WSJT Development TeamがYasme Foundationの賞を授与されたという記事は、Yasme Foundationのサイトだけでなく、ARRLのサイトにも掲載されていて読むことができる。主要な6人のチームメンバーの中にエドソンの名前とコールサインもちゃんと明記されている。このサイトは、こちらへ

エドソンはこのYasme Foundationのことも、この財団がアマチュア無線に貢献した人に賞を贈っていることも知らなかったらしいのだけれど、この財団は結構有名らしく、国際アマチュア無線連合(IARU)の衛星周波数調整グループのリーダーのハンスさん(オランダ人)も知っていて、エドソンがプロジェクトチームのひとりとして賞を受賞したことを知って、すごいことだと称賛していたと、先週ジュネーブであったIARUの国際会議でハンスさんと会ったブラジルアマチュア無線連盟(LABRE)のフラビオが帰国後エドソンに連絡してきた。そして、この賞には1,000ドルの賞金とトロフィーが付いて来るため、ジョー・テーラー氏はこのトロフィーに名前が刻まれるチームの主要なメンバーと相談した結果、賞金はARRLに寄付し、トロフィーはARRLの博物館に寄贈展示してもらうことになったと言う。エドソンの名前もリーダーのテーラー氏を含む6人のひとりとして、このトロフィーに刻まれているらしい。その実際のトロフィーの写真はないので、財団が以前他の人に贈った別のトロフィーの写真を以下に掲載してみる。

Yasme FoundationのYasmeというのは、どういう意味なんだろうと思って、財団のサイトを見てみると、日本語の「休め」から来ていると、この財団のウェブサイトに説明があった。財団の歴史を説明しているサイトはこちらへ

2017年11月19日(日)

今年も、うちの玄関前の外階段に囲まれた箱庭のソテツが花を咲かせた。去年初めてニョキニョキ伸びてきた際は、何なんだろうこれ?と思ったのだけれど、調べてみると、ソテツの花だとわかった。ソテツには雄株と雌株とがあって、雄株には背の高い雄花が、雌株には丸い雌花が咲くとあった。だからうちのソテツは雄株で、雄花が咲いていることになる。今は成長途上なので、まだもう少し背が高く伸びるだろうと思いながら毎日眺めている。

2017年11月20日(月)

先週、先々週と、ペドレイロのミウソンは自分の所有するシチオでやることがあるからと、うちの仕事はお休みだった。先週は1日とてもいいお天気だったのだけれど、この土曜日はお昼前から雨の予報だったので、作業が進まないかもと思っていたら、たまにちょっとパラパラと降っただけで、作業を止めるほどではなく、丸1日作業をしてもらうことができ、ずいぶん進展した。次の写真は、ミウソンたちが来て、足場を組んで、レンガ積みの作業を始めた所。2枚目の写真は翌日曜日の朝撮ったもの。3方の壁がだいぶ立ち上がってきている。こんな風に少しずつでも進展して、変化が見えると、とてもうれしい。

2017年11月21日(火)

土曜日は、午後5時からボトゥカトゥの教会で、ハファエウとマイーラの結婚式があり、行ってきた。当初は、はるとひろをヴィラ・シーコに一晩預けようかと考えていたのだけれど、サン・ジョゼに行った際、お泊まりさせて戻って来てから、はるの下痢ぎみの状態が2~3日続いた後、ようやく正常な状態に戻っていたので、またヴィラ・シーコに預けて体調を崩すといけないので、シュハスコ小屋でお留守番させて、私たちは教会での式にだけ出て、イベント会場に移動してから行われる披露宴には行かないことにした。結婚式は、ボトゥカトゥの中心部にある一番古い教会に付属するチャペルで行われた。教会の後ろの道路を隔てて、ラサールという私立の学校があり、その右隣にチャペルのある敷地があった。でも、道路から見える正面には別の建物が建っていて、チャペルはその建物の後ろ側にあり、外からは見えないので、ちょっと分かりにくかった。学校の前の歩道でハファエウのお母さんを含め結婚式に行く人たち数人と一緒に、チャペルへの入り口はどこだろう?と、しばらく行ったり来たり。次の写真は、入り口を入って、正面にあった建物の横を通って奥に進むと見えてきたチャペル。2枚目の写真は、そのチャペルの中を撮ったもの。真ん中のバージンロードが白くも赤くもなく、銀色にピカピカ光っていたのでびっくり。

予定では5時から始まるはずの式は、30分以上遅れて始まった。まず、生演奏の中、正装した親しい友人たちや家族がカップルで一組ずつバージンロードを歩いて、チャペルの前に並び、次に、ハファエウがお母さんと手をつないで入場。次の写真の最初の2枚は、そのハファエウとお母さんの入場の様子。3枚目は、ハファエウと彼よりも先に入場した友人や家族が並ぶチャペルの前方を撮ったもの。ハファエウのお父さんはすでに亡くなっているので、高齢のお母さんは、末っ子のハファエウの結婚式を見届けることができるのがとてもうれしいと、チャペルまで一緒に歩いて行く際、話してくれた。親の気持ちは誰も同じなんだなと思った。

そして、次にいよいよ花嫁の登場。2人の男性がチャペルの入り口、バージンロードの途中、チャペルの前方と移動しながらトランペットのような楽器を吹いて、花嫁が入場することを知らせ、花嫁のマイーラがお父さんに伴われて入場。マイーラきれいです。

ようやく花婿と花嫁が揃い、いよいよ式が始まったのだけれど、神父さんの聖書の一節の朗読の後、さらに友人代表2人がそれぞれ異なる聖書の一節を読んだり、神父さんが新郎新婦に対して長々お説教をしたり、ふたりが誓いの言葉を交わすまでにずいぶんと時間がかかった。その間参列者も立ったり座ったりして、一緒に神父さんの言う言葉を繰り返したり、聞いたことのない賛美歌のような歌を歌ったり、これまでアメリカで参列したことのあるキリスト教やユダヤ教の結婚式とはだいぶ趣きが違う式だった。次の写真は、神父さんのお説教を受けているふたり。2枚目は、神父さんの言う言葉を繰り返しているふたり。この後、ようやく誓いの言葉が交わされ、小さな女の子がバージンロードを歩き、ノッサ・セニョーラの人形と指輪を運んできて、指輪の交換が行われた。これらがほぼ完了するまでに1時間以上かかった。

その後、チャペルの前方に並んで式を見守った友人や家族らと、花嫁花婿との記念撮影が始まったので、私たちはチャペルを後にして帰宅の途についた。私たちがチャペルに入った時はまだ、チャペルの席は半分も埋まっていなかったけれど、帰る際は満杯で、席が足らず、チャペルの後ろにはたくさんの人たちが立って参列していた。そして、外に出ると、長時間の式に退屈した小さな子供たちが親に見守られながら遊んでいた。ハファエウたちはこの結婚式と披露宴のためにイベント会社を雇ったそうで、チャペルでは音楽を生で演奏する人たち、写真を撮る人たち、ビデオを撮影する人たちがたくさん働いていた。そして、私の身近ではほぼ見ることのないたくさんの生花でチャペルのバージンロードが飾られていたので、その花のひとつを撮ったのが次の写真。これらの生花は、この辺の花屋では販売されていないので、おそらくサンパウロからわざわざ運んで来たのだろうけれど、ブラジルに来て初めてこんなにたくさんの生花を見たなあと、変な所に関心してしまった。どうか末永くお幸せに。

2017年11月22日(水)

土曜日の結婚式の後の披露宴には行かないと決めて出かけたので、夕飯はパーディーニョでムリロの友人のジョージがやっているハンバーガーのお店から、ハンバーガーとフレンチフライをお持ち帰りして家でゆっくり食べようと決めていた。それで、まず家に帰り、私がはるたちをシュハスコ小屋から出して家の中に入れたり、食事を与えたりしている間に、エドソンが店に行ってくれ、ハンバーガーを持って帰ってきてくれた。そうしてようやく夕飯にありついた時には8時近くになっていた。でも、暗くなる前に帰宅してはるとひろを家の中に入れることができたので、彼らのストレスレベルも低く抑えることができた。さらに留守中にここも雨が降ったようなのだけれど、はるもひろもちゃんとシュハスコ小屋の中で雨宿りしてくれていたようで、体を濡らしてはいなかった。次の写真は、エドソンがハンバーガーと一緒に持って帰ってきたメニュー。このメニューを見て、お店の名前がJOTA'S BURGER & BEERだということを初めて知った。2枚のメニューを広げて、その裏表両方を一度に撮ってみた。ここのハンバーガーは、パンの間にはさむものだけでなく、パンの種類を黒パンとか、ブリオッシュとか、フランスパンとか、ハンバーガーバンとか、いろいろ選ぶことができるようになっているのかと思いながら、しばしメニューを眺めて、楽しんだ。

2017年11月23日(木)

家から入り口ゲートに向かう道に下りる坂道の左右両側にサボテンを一株ずつ植えている。春になると毎年、新しい芽を出して、少しずつ大きくなってきている。以下の写真は、その両側のサボテンが見えるように、坂の下の方から撮ったもの。

今年も春になり、右側のサボテンが新しい芽を3つも出して、大きくなってきている。

一方で、左側のサボテンには芽が出てこないなと思っていたら、しばらくしてようやくひとつ芽が出てきた。左側のサボテンは右側のものに比べて出てくる芽の数がいつも少ないので、今年も一つだけなんだなと思っていた。すると今週になり小さな芽が5つも出てきていたので写真を撮ってみた。この左側のサボテンに一度にこんなにたくさんの芽が出てきたのは初めてのこと。

2017年11月24日(金)

太平洋戦争中、アメリカでは日本人移民や、アメリカ生まれでアメリカ国籍をもっている日系アメリカ人も、みな強制的にマンザナールやツールレイクなど荒野に設置された収容所に入れられ終戦まで過ごしているけれど、ブラジルではアメリカのようにみなを強制的に収容所に送り込むようなことはなかった。ただ、日本語新聞は発行停止になり、日系人が複数人集まることや、公衆の面前で日本語を使うことや、日本語を勉強するこが禁じられ、移動の自由も奪われた。そして、日系社会の主要な人たちが警察に逮捕されて、裁判などなく問答無用で監獄に入れられたことに加え、1943年7月8日、ブラジル政府の命令により24時間以内にサントスから日本移民6500人を中心とする枢軸国移民が強制退去させられるということがあった。似たようなことは、その他ペルー、アルゼンチン、メキシコ、カナダ、オーストラリアなどでもあった。日本では人々の無関心もあって、このようなことはほとんど知られていないけれど、これらはアメリカやブラジルなど当事国の人たちだけでなく、日本人も知っておかなくてはならない歴史だと思う。

2017年11月22日付けのニッケイ新聞に、「ブラジル日本移民史の快挙=サントス強制立退き証言の掲載」という記事があったので、ここにその記事へのリンクをはってみた。この記事のサイトは、こちらへ

2017年11月25日(土)

家から坂道を下りて入り口ゲートに向かう道沿いに、花が開かず、下を向いて咲くタイプの赤いハイビスカスを、等間隔に植えている。次の写真は、坂を下りた目の前に見えるハイビスカスの列を撮ったもの。みな同じ時期に枝差しをして育てて、根付いてから地植えにしたのだけれど、それぞれの苗木の性質の違いや、葉切りアリに何度襲われたかなど、いろいろ異なる条件が重なり、写真のように成長の度合いに違いが出て、大きさが異なっている。真ん中のハイビスカスがこの道沿いの木の中で一番大きく、一番たくさん花をつけている。左側のハイビスカスの後ろに生えているのは孟宗竹。右側のハイビスカスの後ろの木は青紫の花が咲くジャカランダ。でも、ジャカランダは10年くらいしないと花が咲かないらしいので、うちの木はまだ当分花を咲かせることはない。2枚目の写真は、その一番大きなハイビスカスの木を近くから撮ったもの。

2017年11月26日(日)

玄関を出て、正面に見える庭に沖縄桜の木を6本植えていて、手前の階段沿いにサツキを12本植えているのだけれど、桜とサツキの間に、この冬、マナカの木と、もう1本ボンボリ提灯のような可愛い花の咲く小さな木を植えた。そして、植えてすぐの頃、そのボンボリ提灯のような花の咲く木にひとつだけ花が咲いたと、写真を掲載したことがある。まだ植えたばかりで木が小さいので、次に花が咲くのは来年だろうかとぼんやり思っていたら、昨日、ふと見るとその木にたくさん花が咲いていたので、以下の写真を撮った。花が3つも咲いていて、まだ3つ4つつぼみが見える。この木が何という木なのか、いつ花を咲かせるのか、まったく知らなかったけれど、今たくさん花を咲かせているということは、夏に咲く花なんだなと、遅まきながら気づた。

2017年11月27日(月)

土曜日はお天気が良かったにもかかわらず、何故か手伝いの人たちは誰も来なかった。でも、ペドレイロのミウソンは来てくれて、少し作業が進んだ。次の写真は、先週、先々週と天井に使うレンガ(ふたつあるレンガの山の向こう側)や、鉄筋や、追加の砂利や砂が、建築資材の店から届き、山を作っているところを土曜日の昼食後に撮ったもの。

次の写真は、土曜日の夕方、ミウソンたちが仕事を終えて帰った後に撮ったもの。見た感じ進捗状況がわかりにくいかもしれないけれど、天井を作るための細かい準備が進んだ。

2017年11月28日(火)

以下は、インターネット上で見かけた2017年11月26日12:00配信デイリーニュースオンラインの『みずからの捏造報道を棚に上げて「米の慰安婦像を認めよ」と言う朝日新聞の罪悪』という記事のコピー。

みずからの捏造報道を棚に上げて「米の慰安婦像を認めよ」と言う朝日新聞の罪悪

「ちょっと待ってほしい」

これは朝日新聞の社説の一部。何を待って欲しいのかというと、米サンフランシスコ市(SF市)と大阪市の姉妹都市解消を、だ。

先日来、SF市内の公共地に、いわゆる従軍慰安婦像を置く(注1)ことについて大阪市の吉村洋文市長が猛反発。「姉妹都市解消も検討する」と宣言して、撤回を求めていた。それを「待て」と主張しているらしい。

「像の碑文には<旧日本軍によって数十万の女性が性奴隷にされた><ほとんどが捕らわれの身のまま亡くなった>といった表現がある」(同社説)

「姉妹都市の関係のもとで育まれてきた交流は、双方の市民の歴史的財産である。市長の一存で断ち切ってよいものではない。慰安婦の総数や詳しい被害の実態は、これまでの研究でも定まっていない。(略)外交において歴史認識をことさらに問題視する大阪市の姿勢は、安倍政権と軌を一にする」(同社説)

ここまで読んで、腸が煮えくり返る怒りを覚えた方も多かろう。もとはと言えば、従軍慰安婦問題は朝日新聞の捏造記事が発端。社説中にある<性奴隷><数十万(人)><捕らわれのまま亡くなった>など、全く証拠もない虚言に過ぎない。朝日新聞は捏造を認め、謝罪したことを忘れたかのような物言いで、まさに「おまいう」(注2)ではないか。

結果、SF市議会が全会一致で可決した慰安婦像受け入れは、大阪市や日本政府の抗議(注3)を無視したエドウィン・リー市長(注4)によって承認された。ありもしない日本の人権侵害の象徴が、公共物としてSF市にそびえ立つことになったのだ。

■朝日新聞に相応しい言葉とは?

その朝日新聞は、一方では言論を弾圧する動きに出ている。

まず日本維新の会の足立康史衆院議員が、加計学園問題に関する朝日の一連の報道を<捏造>と断じ、自身のツィッターで「朝日新聞、死ね」と放言した。さらに文芸評論家の小川榮太郎氏が、自著『森友・加計事件 朝日新聞による戦後最大級の犯罪報道』(飛鳥新社)で、朝日の「組織的な情報操作」を指摘している。

これに対し朝日新聞は足立氏に社説で噛みつき(注5)、発言の撤回を求めた。小川氏に至っては謝罪、訂正、損害賠償までも求められている。堕ちたりといえども、いやしくも言論機関ならば堂々と紙面で論争すればいいものを……。

ただ朝日新聞に突っ込まれた側は、「<朝日新聞、死ね>は言い過ぎだった。これからは<朝日新聞、廃業しろ>にします」(足立議員)「(朝日の抗議は)大半は反論を書くのが楽しみな、あまりにも無理筋の内容。(略)組織で個人を弾圧する、朝日新聞の人権感覚は天晴だね」(小川氏)と闘志満々。

さらに「ちょっと待て」と言われた吉村・大阪市長も、「<ちょっと待て>はこっちのセリフだよ、朝日新聞。吉田虚偽証言を何度も報道し、クマラスワミ報告に発展し、国際社会では朝日の虚偽報道が真実になっている。(略)僕を批判する前にやることあるでしょ」

まったくもって、その通り。日本と日本国民に将来にわたって巨大な負債を背負わせる捏造報道をしておきながら、他人の言論や行動(注6)は弾圧したり足を引っ張ったり。どんな言葉で批判されても仕方ないだろう。

死ね、廃業しろ、が言い過ぎなら……。すべての言動において「恥を知れ」か。恥を知らないから、己の罪深さに気づかないのだろうが。

(注1) SF市の慰安婦像…中国系米人団体が推進。まず私有地に像を建て、後に土地と維持費つきでSF市に寄贈した。
(注2) 「おまいう」…「お前が言うな」のネットスラング。言う資格もない奴がエラそうなことを言った時に使う。
(注3) 日本政府の抗議…大阪市だけでなく、政府としてもSF市に抗議を申し入れていた。リー市長の(議会への)拒否権発動に一縷の望みをかけたワケだが…。
(注4) リー市長…中国系米人にして、ソウル名誉市民。
(注5) 社説で噛みつき…自分への「死ね」は許せないが、<日本死ね>は市民の発言だから問題ないそうだ。
(注6) 他人の行動…大概は日本の名誉を守ろうとする行動。あるいは中韓への批判めいた行動。

文・田中ねぃ
※東京都出身。早大卒後、新潮社入社。『週刊新潮』『FOCUS』を経て、現在『コミック&プロデュース事業部』部長。本業以外にプロレス、アニメ、アイドル、特撮、TV、映画などサブカルチャーに造詣が深い。

2017年11月29日(水)

夜寝る時以外は、めいをベランダの椅子につないでいる。私たちが家を出入りする際、ベランダのめいはうれしくて、はるとひろにちょっかいを出したり、ジャンプして私たちに飛びつこうとしたりすることがよくある。でも基本的にはめいもいい子なので、飛びついたりしたらダメよと言うと、言うことを聞き、控えめに戯れるだけなのだけれど、昨日の朝、朝食後のはるとひろのお散歩に出ようとした際、ジャンプした際勢い余って、エドソンの脚にがぶりと歯を立ててしまい、エドソンに怒られてしまった。本気で噛みついたわけではないのだけれど、私たちの脚に歯を立てるなんてしてはいけないことなので、叱られてもしかたがない。体罰を加えたわけではなく、エドソンが竹の棒を見せて、飛びついて噛んだりしたらダメと強く言い聞かせただけなのだけれど、これまであまり強く叱られたことがなかったので、だいぶ響いたようだった。めいは椅子の下で小さくなってしまい、その後お散歩に行こうと声をかけても椅子の下から出てこない。しかたなく、めいを引きずり出して、お散歩に連れ出したのだけれど、入り口ゲートまでの往路は、何だかしょんぼりして元気がなく、オシッコとウンチをした後、家に戻る復路でようやく少しご機嫌が戻った。でも、その後も叱られたことが尾を引いているようで、しばらく何だかジュルルな顔をしていた。それで家を出入りする度に優しく体を撫でてやり、「めいはいい子だよ」と何度も繰り返し言っていたら、お昼頃にようやく落ち込みから脱してくれ、いつもの穏やかな表情になった。ワンコの気持ちもなかなかデリケート。次の写真は、椅子の上でちょっとジュルルな顔をしているめい。

2017年11月30日(木)

メル友の鎌谷さんは、毎週土曜日にセアザ(野菜、果物、魚、肉などなんでもあるサンパウロの中央卸売市場で、一般の人も買い物ができる)に食糧を買いに行かれるので、セアザのことをよく話してくださる。卵だけを専門に売っている店があり、いつもそこで30個13レアル(約447円)という卵を買っていたのだけれど、別の店では10レアル(約344円)と聞いて、そっちで買うようになった。でも、そのうち特大の卵が10レアルだったのが、サイズがひとつ小さい大になり、同じ10レアルで売られていることに気づき、どうして小さい卵なのに同じ値段なのか尋ねてみたのだけれど、大きさは変わっていないと店の主人がいい加減な返事をするので、そこで買うのは止めて、またもとの店で買うようになったのだそう。すると、しばらくして、その店の後ろの方のあまり人目に付かない所に地鶏の卵を見つけたので、見ると、大きさは大中小の中で、値段が30個45レアル(約1,549円)だったそう。地鶏は卵を順調に生んでくれないので不足気味で、需要が大きければ値段が上がるのもしかたのないことだなと思った、そして、見つけたからには、この地鶏の卵の味を試さずにはおられなくなったので、今度の買い物の際には買ってみようと思っているということだった。そして、うちでは鶏を飼っていて、その卵を食べているので、「恭子さんが食べている卵、街では随分高価な卵と云うことになります」と書いておられた。日本でも地鶏の卵は値段が高いと思うけれど、セアザで地鶏の卵の値段が普通の鶏の卵の4倍もするのかと驚いた。最近はめったに店で卵を買わないので、スーパーで販売されている1ダース1パックの卵の値段が思い出せない。スーパーで地鶏の卵を見たことはないけれど、普通の卵と値段の高い地鶏の卵が並んでいたら、私はきっと迷わず安い方の普通の卵を買うだろうなと思う。でも、うちで鶏を飼っているお陰で、餌やりなど世話に手間はかかるけれど、そういう地鶏の卵を食べることができているというのは、本当に贅沢なことだなと思った。



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