Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2017年8月1日(火) | ||||
次の写真は、土曜日の夕方撮った丘の上のガジーボ。4本の柱だけだったものに、屋根と言うか天井が取り付けられた。まだ、足元にコンクリートを入れたり、ヒバマーが運んで来た石を回りに積んだり、天井にペンキを塗ったりと完成までにはもう何週間か必要だろうけれど、天井ができていい感じになってきた。ジョゼはここにベンチを2つ作りつけてはどうかと言ってくれているので、常設のベンチができると、いつでもここに座ってボーッと景色を眺めることができるようになる。エドソンはこの天井の上に上がると、何の障害物もなく360度の景色が見えると言って、とても喜んでいる。このガジーボ作りはジョゼとヒバマーが取り組んでくれており、草刈りはゼーが草刈り機をかついでやってくれている。マリアには、エリカたちがこちらに来る前の週に私が収穫しておいた最後のリマ豆と、ゼーとマリアが桑の木の回りのグアンドゥ豆の木を切ってくれた後、収穫してもらっておいたグアンドゥ豆をさやから出す作業をしてもらった。お陰でたまっていた仕事がはかどり、とても助かっている。
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2017年8月2日(水) | ||||
次の写真は、日曜日の午前中玄関前の階段の所から撮った、家の西側の庭。桜の木の手前の部分のアメンドインは前の週に刈り取りが済み、向こう側の桜の木の足元のアメンドインが残っていたのだけれど、この土曜日にそれをゼーがきれいに刈り取ってくれスッキリした。そして、ここでの滞在最終日の月曜日の午後、ボトゥカトゥに買い物に行ったエリカたちが、私たちのために買ってきてくれたマナカの苗木を、ゼーに頼んでサツキの列の右側後ろに植えてもらった。マナカは毎年4月になると咲き始め、1ヶ月以上もの間ピンクと白の2色の花を咲かせて楽しませてくれる、秋を告げる木。
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2017年8月3日(木) | ||||
次の写真は、庭のテーブルの上で天日に干しているウルクン。このウルクンはエリカたちがパラカンビのシチオからもってきてくれたものを、殻から出したもの。殻の中の赤い実を取り出す作業は、土曜日に手伝いのマリアに豆をさやから出す作業と一緒にやってもらった。殻から出したばかりのものは湿っているので、土曜日も天日に干していたのだけれど、半日くらいでは十分乾燥しなかったので、日曜日も朝から夕方まで1日中、こうして天日に干した。ウルクンの下の新聞紙が風で飛ばされないように石を置いて重石にしている。このウルクンはご飯に混ぜて炊くと、ご飯の色が赤っぽくなるので、色付けに使うもの。グアムではウルクンを混ぜて炊いたご飯をレッドライスと呼んでいるとグアム在住の友人が以前教えてくれたことがある。ウルクンを入れて炊いてもご飯の味は大きくは変わらないけれど、強いて言えば香ばしい感じの味になるかなと思う。詳しい栄養価は憶えていないけれど、ウルクンにはポリフェノールなどいろいろ体にいい成分が含まれている健康食材。
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2017年8月4日(金) | ||||
次の写真は、現在我が家の食卓の上を彩る花たち。左から、1年ほど前カロウからもらったシクラメン。ずいぶん長い間咲いていた花が終わり、葉だけになっていたのだけれど、今年またたくさん花を咲かせてくれている。その右側は、いくつか花芽をつけているピンクの花が咲くラン。その右側は、この1ヶ月以上花盛りのサツキ。そして、右端は、3つ花を咲かせているラン。このランは3年くらい前だったかに買った時は青い色の花が咲いていたのだけれど、その花が終わった後は、あらたに咲く花の色は白くなり、何度も花を咲かせている。今回は花の大きさが小さいので栄養が足らないのかな?と思うものの、もう1本新しい芽も伸びて、花芽をつけているので、元気がないわけではないようだ。この食堂には7鉢のランがあるのだけれど、その内の5鉢のランが花芽を付けていて、残る2鉢は完全に終わって枯れてしまったと思っていたら、小さな新芽が出てきている。
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2017年8月5日(土) | ||||
以下は、2017年8月1日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。日本では会社の倒産数や失業者数と、自殺者数の間には明らかな相関関係があることがわかっているけれど、安倍政権の経済政策のお陰で、倒産数、失業者数ともに減り、正規雇用者数も増えているので、自殺者数は減っているというマスコミが報道したがらない事実がある。家族や従業員を抱えて会社が倒産したり、失業したりした人にはこのコラムの提案はあまり役に立たないかもしれないけれど、まだ若い人で、異常なほどの残業を強いられていて、心身ともに疲弊して自殺を考えるような人たちには、立ち止まって、その場から離れて、もう一度冷静に世界を眺めてみると、見えていなかったものが見えてきて、道が開けるかもしれないというのは、当たっているかもしれないと思った。評論家の宮崎哲弥氏が先日ラジオの番組で、イギリスのフィナンシャル・タイムズが、アベノミクスを高く評価し、安倍首相がいてもいなくてもアベノミクスは続けるべきだという社説を掲載したと言っていた。でも、安倍氏以外は増税を唱えているような人や党ばかりなのだから、安倍政権が倒れれば、アベノミクスを続けようという人はおらず、そうするとせっかく改善途上にある経済がまた悪化して、またぞろ自殺者数の増加ということになるのではないかと危惧する。
残業月200時間を超える過重労働に耐えきれず、今年3月に自殺した建設会社の男性社員のことが、日本で先日報じられたのを読んで驚いた。残業だけで200時間なら、月25日間働いたとして残業だけ毎日8時間だ。なんと一日16時間労働…、ブラジルなら「奴隷労働」と訴えられる。 25日付共同通信には、《(日本の)年間の自殺者は、16年は2万1897人と7年連続で減少。03年の3万4427人と比べると減っているが、自殺死亡率は他の先進国と比べて依然として高い》との記事があった。 政府は《自殺死亡率(人口10万人当たりの自殺者数)を今後10年で30%以上減らすとの数値目標を掲げた》とも。 これらを読んで、13年10月18日付本コラムで、こう書いたのを思い出した。《日本の自殺者が毎年約3万人と聞くたびに、「決行する前にぜひ途上国旅行を薦めたい」と思う。先進国や観光地ではなく、「普通の世界」を見た上で考え直してほしいと。ブラジルでは毎年4万人が交通事故死し、日本の8倍だ。銃犯罪死亡者に至っては3万人で、比較すらできない。贅沢なはずの環境の中で自ら命を絶つ3万人がいる一方、同じ数が銃で撃ち殺される国もある訳だ》今もまったく同じ気持ちだ。 非人間的な労働環境を強いられた時に、「冗談じゃない。いったん日本を出よう」と思ってもいいと思う。人生にはいろいろな選択肢があるべきだ。海外移住もその一つではないか。 だいたい200時間残業を強いるような労働環境からは、逃げて当然だ。じっと耐えて思いつめるより、何も考えずに日本を出る生き方があってもいい。 「自分が外国で生活できるだろうか?」という不安は当然浮かぶ。だが、南米移民の大半は留学生や駐在員、研究者のようなエリートではなく、「大衆」という言葉がふさわしい人たちだった。零細農家の次男、三男が一番多く、移民船で到着して「サントス(港)でヨーイドン!」とばかりに人生を見事にやり直した。 とはいえ戦前なら戦時体制化する日本から逃げた左派活動家、公然と徴兵逃れを自称する者もいた。移民初期にまでさかのぼれば、明治期に宗教迫害を受けた隠れキリシタン、被差別階級の人も数えきれない。外国に居場所を探すのは世界史的に見て普通のことだ。 今の日本は治安も、物質的な豊かさも、経済の安定性も、社会保障制度も世界最高と言っていい。恵まれ過ぎていて離れる気すら湧かないのかも。だが、全ての点で満点である訳ではない。世界最多クラスの自殺者がいる現実が示すのは、不満不平もあるということだろう。 追い詰められる前に、貯金を全部降ろして期限を決めずに日本を出てみたらどうか。とりあえずは観光ビザでいい。 日本や米国ではビザ期限切れ自体が犯罪扱いされるので敷居が高いが、たとえばブラジルではビザ切れ滞在自体は犯罪ではない。麻薬などで警察の世話にならなければ、ビザ切れだけで国外追放されることは稀だ。 真面目に暮らしていれば、連邦警察に罰金さえ払えば、気が向いたときに日本に帰れる。 サンパウロ市なら日本食に困らないし、日本人向け安宿もある。県人会の宿泊施設に泊まってあちこち見て回ったらどうか。 ポルトガル語ができなくても日系団体の世話になれば、片言でも日本語ができる人はいる。ユバ農場で農作業ボランティアをするとか、サンパウロ日伯援護協会の福祉部に相談する手もある。地方日系団体で日本語教師の補助をするとか、どこかで居場所を見つけられるかも。 もちろんブラジルは超格差社会で、大不況下にあり、治安もひどい。だがその有り様を見て、いかに日本が恵まれた素晴らしい国で、いろんな生き方があるかを痛感するに違いない。 もし自殺する勇気がある人がこのコラムを読んでいたら、何も考えずにブラジル行きの航空券を購入することをお勧めする。携帯を手放して、自分の目で色々なものを見て歩き、食らいつき、肌で感じ、「常識」を問い直してみるのも、たまにはイイかも? (深) | ||||
2017年8月6日(日) | ||||
この木曜日はエドソンと私の結婚17周年の記念日だった。ボストンで出会って25年、一緒に暮らし始めて23年。あっと言う間だったように感じるけれど、ずいぶんと長い年月が経過したのだなとあらためて思う。職場のお昼休みに抜け出して、予約しておいたケンブリッジ市役所で結婚の誓約をして、書類に署名しただけなので、ふたりともなかなか結婚した日が憶えられなかったのだけれど、これまで何度もいろいろな書類に結婚した日を記入してきたので、最近ようやく記憶に留まるようになった。木曜日の夜はムリロのレッスンがあったので、特別何もしなかったのだけれど、金曜日の午後はずっと台所でコロッケ作りと、エドソン希望のレモンパイ作りに励んだ。次の写真は、その出来上がったレモンパイ。前回作ったものとはレシピを変えて作ったら、今回の方が軽くておいしいとエドソンは言って喜んでくれた。前回はメレンゲの角をフォークで作ろうとして、あまりうまく行かなかったのだけれど、今回はスプーンの背でやってみたら、前回よりもいい感じになった。
同じく金曜日の午後、郵便局に行ったエドソンがアメリカのNovotnyから届いていた手紙を持って帰ってきてくれた。ネブラスカ州の田舎町で大学生だった頃親しくしていた人たちを、卒業後何年かして再訪したことがある。その時にNovotny家に泊めてもらって、お母さんのJanice(2枚目右側写真の右の女性)の車であちこち連れて行ってもらったので、その際、彼女が撮ったと思われる写真が数枚同封されていた。家の片付けをしていたら出てきたらしい。1枚目の写真左上は、Freshman Compositionや英文学の教授だったDr. Ritterと。この先生はドイツ系の女性で、身長が180センチ以上あり、いつも背筋をピンと伸ばして、品のいいアクセサリーをさりげなくしている人だった。「私は背の高い女性が好きなの」と言って、私のことも可愛がってくれた。最後まで私のことをキョウコと呼べず、いつもキョウトと呼んでいた。右上は名前は思い出せないけれど、大学の学生部長だった先生と。右下は、これまた名前が思い出せないのだけれど、Novotny家の知り合いの女性の結婚式に行ったのだと思う。右側で赤ちゃんを抱いているのはNovotny家の長女のDenise。そして左下は、後列左からRoyとよしこさん夫婦、ふたりの長男、長女のご主人、前列右からふたりの長女、長男の奥さん。Novotnyのお母さんと一緒に彼らの家を訪ねたら、5人の孫たち(2枚目左側写真の子供たち)も含めて家族全員が集まって、再会を喜んでくれた。先週メル友の鎌谷さんへのメールで、アメリカ時代に戦争花嫁の人たち数人に出会ったことを書き、中でも特別良くしてくれたよしこさん夫婦のことを思い出していたところだったので、これらの写真が届いてびっくり。ああ、なつかしい・・・。それにしても30代半ばの私の何と若いこと・・・、と思った瞬間、「あのころき~みは~、わかかあった~♪♪」という歌詞とメロディーが突然頭の中で蘇った。
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2017年8月7日(月) | ||||
次の写真は、この土曜日から私と英語のレッスンを始めたマテウス(Matheus)。背が高いので高校生くらいに見えたのだけれど、まだ中学2年生だった。マテウスはムリロのお兄さんの息子で、2年くらい前にパーディーニョの町にできた英語学校でレッスンを受けていたのだけれど、最初たくさん集まった生徒たちも徐々に減って行き、教室を維持できなくなったからと、最近閉校になってしまったのだという。この学校は新築の結構立派な建物だったので、どこかの学校がパーディーニョに分校を作ったのだろうと思っていたら、サンパウロ州西部から来た女性がひとりで開校したものだったのだそう。隣町のボトゥカトゥに行けば語学学校はいろいろあるけれど、遠いから送り迎えが大変だし、授業料も高いだろうし、さて、どうしようと悩んでいた所、ムリロが私と英語のレッスンを始めたと聞き、お兄さんがマテウスもレッスンを受けられないだろうかとムリロに相談。前の週の土曜日にムリロがお兄さんとマテウスをうちに連れてきて話をした結果、週に一度、土曜日の午後レッスンをすることで話がまとまったという次第。これまで週に2日、午前中にレッスンに来ていた10歳のジョアオンは、バウルに引っ越すことになったらしく、5月一杯で止めていたので、何だかいい具合に入れ替わりのように、また新しい生徒さんを迎えることができ、うれしく思っている。
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2017年8月8日(火) | ||||
次の写真は、エドソンが頼んでおいた砂と砂利とセメントを先週配達しに来てくれたトラック。我が家を建てている頃利用していたお店は、頼んだ材料を約束通りに配達してくれないことが多く、当てにならないので、最近は、もっぱらこの新しい店をエドソンは利用している。この店はちゃんと約束通りの日に配達をしてくれるので助かっている。ヒバマーたちがこれらの材料を丘の上に運び易いようにランドマークの木の前に下ろしてもらったようだ。2枚目の写真は、そのランドマークの木の前の砂と砂利の山をこの日曜日の朝撮ったもの。この山ができた後、変なものが突然現れたことにびっびったひろが、家を出入りする際しばらくの間、山に向かってワンワン吠えるのでおかしかった。はるはまったく気にもかけないのに、ひろは本当に臆病。
次の写真も日曜日の朝撮ったもの。土曜日は久しぶりに冷え込み、風も強く吹きつけ、特に丘の上は吹きさらしでとても寒かった。ここで作業を進めてくれたジョゼとヒバマーは大変だったろうと思うけれど、ガジーボの足元が少しずつ出来上がり、天井に防腐剤を塗る作業も進んだことがわかる。
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2017年8月9日(水) | ||||
次の写真は、ピザが食べたいと言って土曜日にエドソンが作ってくれたピザ。エドソンは以前から週末によく夕食を作ってくれていたけれど、最近は毎週土曜日の夕食は自分の担当と考えているようで、必ず作ってくれるようになった。ピザクラストを作るために、材料をフードプロセッサーで混ぜていたら、最後にイーストを入れた段階で突然機械が動かなくなってしまい、急遽、材料をフードプロセッサーからミキサーに移し替えなければならないというアクシデントがあったのだけれど、何とか無事に出来上がった。ただ、出来上がってからルッコラを乗せるのを忘れて、写真を撮ってしまった。このピザでエドソンがこだわったのは、ベーコンを前もって炒めて油分を減らし、水分が出ると困るという理由でトマトにも前もって火を通しているところ。そして、チーズはモッツァレラとゴルゴンゾーラを使ったところ。味は、ゴルゴンゾーラの量をもう少し少なめにしても良かったかな?と、思った。でも、おいしかった。ありがとう。
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2017年8月10日(木) | ||||
以下は、8月8日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。アメリカ大陸はコロンブスが発見するよりもずっと前に、北欧のバイキングが現在のカナダ・ニューファンドランドに到達していたということは遺跡調査から考古学的に証明されていることだけれど、まだあまり広くは知られていないのかな?
BBCポルトガル語版7月29日付で《コロンブス到着の500年前に設営された、アメリカ大陸最初の欧州系入植地》という記事を興味深く読んだ。ヴァイキングのレイフ・エリクソンが今から約1千年前に現在のカナダ・ニューファンドランド島に90人の男女を連れて上陸し、10年間ほどだが入植地を維持したと2冊の伝承書に記録が残っているという。野生の葡萄が実っていたことから「ブドウ(Vín、ポ語ならvinho)の地」と名付けた。 それを読みながら、10年ほど前にネット検索していてあるポ語サイトに「1493年、ポルトガル人が種子島で日本人を発見」と書いてあるのをみて、ドキリとしたのを思い出した。その時から「コロンブスがアメリカ大陸発見」という言葉をみるたびに、少し胸の奥がズキズキとうずくようになった。共に白人側の視点から見ているからだ。 以前こんな経験もあった。1992年に日本から来るヴァリグ機で、白人美人客室乗務員にたまたま気に入られた。彼女はよく面倒をみてくれた挙句、機内誌のインディオ訪問記事を開いて持って来て、コラム子に見せながら『あなたたちに似ている人がブラジルにも沢山いるわ。サンパウロについたら、ここに電話をちょうだいね』と番号を渡された。もちろん好意的に言っているのだと分かったが、少々とまどった。ある種の白人からすれば、黄色人種は同じように見えるらしい。 おもえば2000年4月22日に「ブラジル発見500周年」を北東伯の諸州政府が祝おうとして、インディオらの猛烈な抗議行動を受け、腰砕け状態で終わった。インディオらは「先住民族の強制鎮圧500周年の歴史だ」と怒り、仏紙「ル・モンド」も《ブラジルはインディオ抑圧500年を祝う》の見出し、スペイン紙「エル・パイス」も《ブラジルの苦い500周年》などと揶揄した。 インディオらが「強制鎮圧の歴史だ」というのもムリはない。実際、コロンブスは教科書的な偉人ではない。ウィキペディア「コロンブス」項によれば、彼が1492年10月11日に「アメリカ大陸発見」したときに、すでにインディオは約800万人も住んでいたとある。1493年9月、2度目のコロンブス航海は入植目的だった。その時点では、彼も移民だった。17隻の船団を組み、1500人を連れて渡り「イザベル植民地」を作った。 でも、彼が連れて行った装甲兵や騎兵隊は、非武装だったインディオの村々を徹底的に略奪破壊し、殺戮の限りを尽くした。奴隷商人もしており、インディオを欧州に連れて行った。後にスペイン人が南米でも繰り返す殺戮の行動パターンをこの時に確立したと言われる。虐殺に加え、彼らが持ち込んだ梅毒などの病気がインディオに急速に広まり、1496年にはなんと300万人を切るまでに激減したといわれる。この植民地は数年で消え去ったという。 この歴史に比べれば、冒頭のヴァイキングは実に平和な入植だった。さらに我々モンゴロイドとしては、RFIサイト4月26日付に出た《アメリカ大陸到達は定説のはるか以前だったと科学者が発見》記事の方がはるかに心やすらかに読める。米国カリフォルニア州サンディエゴの遺跡発掘の調査結果から、人類の祖先の新大陸到達は従来の1万5千年前ではなく、13万年前だと分かったとの内容だ。 従来は、まだ地続きだったベーリング海峡を歩いて渡って来たというのが定説だった。だが最近は南太平洋をカヌーで渡り、オーストラリアを通って南米大陸に入ったとの説も提唱されている。というのもアマゾン地方の先住民のDNAを調べたところ、アジア系、オーストラリア系(アボリジニ)と共通の部分が発見されたからだ。 コロンブスは、後のスペイン人征服者コルテスやピサロに並ぶような歴史的な大量殺戮を行った。黒人奴隷貿易、インディオ虐殺という二大蛮行は、新大陸国家の社会に今もその痕跡を生々しく残す歪みだ。 もしも江戸幕府が黒船、アメリカと戦争することを選択していたら、日本はどうなっていたか…。そんな「もし」を思い浮かべるたびにうすら寒くなる。(深) | ||||
2017年8月11日(金) | ||||
次の写真は、日曜日の夕方、台所でお肉を切っているエドソンの足元で、おすそ分けにありつけないかと座り込んでいるひろ(左)とはる(右)。もうすでに夕食前のスナックとして小さく切った人参をあげているのに、お肉の匂いがするものだから、エドソンの側を離れようとしない。2枚目の写真は、1枚目の写真を撮った後、はるが動いたので見ていたら、エドソンの左側に移動して、場所を変えてエドソンの手元を見上げているので撮ったもの。一方、ひろは座った場所からビクともせずに座り続けていた。結局、エドソンが作業を終え、お肉のおすそ分けがないことがわかると、ふたりとも夕飯の時間まで待つため寝室に引き上げて行った。
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2017年8月12日(土) | ||||
新入りの3羽が加わり、5羽になったうちの鶏たち。うちに来た翌日から卵を生んでくれて、環境が変わってもあまりショックを受けずにちゃんと卵を生んでくれるなんてすごいなと思っていた。昔、養鶏技師をしていたメル友の鎌谷さんに、新入りたちも来た早々から卵を生んでくれていることを報告すると、地鶏は強いんだなあと驚いておられた。でも1週間ほどするとボス以外はパタリと卵を生んでくれなくなってしまった。いくら地鶏とは言え、やはり環境が変わると何らかの影響があるのだと実感。その上、ボスと古株が新入りたちをいじめるのだからたまったものではなかったのかも。それからまた1週間ほどすると、ようやくここでの生活に慣れてきたようで、また卵を生んでくれるようになり、1日に3個から5個の卵を順調に生んでくれている。この調子で生んでくれるとお店で卵を買わなくてもよくなりそうだなと喜んでいる。ボスが生む卵の殻は水色で、もう1羽の古株の鶏が生む卵の殻は薄い赤というか、濃い肌色をしていて白い斑点があるのですぐわかる。その他の新入りの3羽の卵の殻は古株の卵よりも色が薄く、少し濃淡の色合いの異なる肌色をしていて斑点などはなく、50グラムほどの標準サイズに満たない小さいものもある。先日エドソンが、ボスと古株が生んでくれた卵を家に持って戻り、「こっちが部長の卵で、こっちが課長の卵」と言うので笑ってしまった。5羽にははっきりとした序列があるので、まさにボスが部長で、古株が課長、その他の新入りは平社員というのが本当にぴったりの表現だと思った。次の写真は、冷蔵庫の中の卵。毎日最低2個の卵を消費しているのだけれど、毎日新しく複数の卵を生んでくれるので、冷蔵庫の中の卵の数はあまり変わらない状態が続いている。感謝。感謝。
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2017年8月13日(日) | ||||
先々週、銀行振り込みをして購入手続きをした「ブラジルの大地に生きる」(以下写真)という本が、同じ週の金曜日にはまだ届いていなかったけれど、翌週水曜日に届いていた。2日にSEDEXで発送しているので、1週間かかったことになる。SEDEXというのは日本の書留速達のようなもので、どこでも2日で届くといううたい文句なのだけれど、サンパウロから車で2時間半のここにSEDEXが2日で届くことはまずない。通常3~4日はかかる。だからもっと遠くの地方だとさらに時間がかかるのではないかと思う。でも、通常郵便だと1週間では届かないだろうし、途中で行方不明になっても探しようがないけれど、SEDEXなら到着まで何週間もかかることはないし、行方不明になってもどこに行ってしまったか追跡して見つけ出すことができるので、料金は高いけれど、ここでは一番安全な方法。
さて、「ブラジルの大地に生きる」だけれど、日伯修好120周年とサンパウロ新聞創立70周年記念事業の一環として出版されたこの本は、北はパラー州やアマゾナス州から南はリオ・グランデ・ド・スル州の14の州で暮らす日本人や日系人120人へのインタビューをまとめたもの。目次をパラパラと見ていると5人ほど知ったお名前があった。まずは、一度お目にかかってお話を伺ったことのあるブラジル被爆者平和協会の森田隆さん。楽書倶楽部のメンバーのおひとりで名前だけ存じ上げていて、今年の親睦会でちょっとだけ言葉を交わした梅崎嘉明さん。お目にかかったことはないけれど、香山さんが北パラナの重鎮と呼んでいらした沼田信一さん。この方が書かれた「信ちゃんの昔話」(十巻)は香山文庫にある。変わったところでは、ブラジルだけでなく日本でも誰もが知る小野田寛郎さん。ブラジル移住後牧場経営をされていたのは知っていたけれど、サンパウロ州の西隣の南マット・グロッソ州だったのか。そして、勝ち負け抗争に関する新聞記事の中で、名前だけ存じ上げている日高徳一さん。この方は戦後のブラジル日系社会が勝ち組負け組で揺れている時、同志のメンバーと共に脇山甚作退役陸軍大佐を射殺した後、自首し、後にアンシェッタ島の監獄などに収監された。当時19歳で、模範囚として釈放された時は32歳だったという。臣道連盟が組織的に勝ち組の凶行を指示実行したという一般的な理解が間違っていたことを証言する生き証人。沼田さんと小野田さんは3年くらい前にお二人とも90歳を超えてお亡くなりになっているけれど、他のお三人は90代の今もご健在でいらっしゃる。 | ||||
2017年8月14日(月) | ||||
防風林の外側の狭いエリアで、今とうもろこしを少し育てていることは以前書いたけれど、今、季節は冬だし、長い間雨が降らないので、とうもろこしの生育があまり良くない。芽を出してもあまり育たず小さいままで枯れてしまったようなものもあり、ちゃんととうもろこしの収穫ができるまで育つかなあ?と思っていた。すると最近実をつけ始めたものがいくつもあることに気づいた。先週、エドソンが小さなとうもろこしを試しに5本ほど収穫して来てくれた。甘くて柔らかくておいしかった。とうもろこしが大きく育つまで待たずに、ベビーコーンの状態で収穫して食べた方が食べ易いということで、今育っているとうもろこしはベビーコーンとして食べようと話している。最初に収穫して来てくれた時は、写真を撮らずにすぐ食べてしまったので、2回目の今回は以下の写真を撮ってみた。皮をむいて中身を取り出すと、この写真のように小さいものがほんの数本しかなくても、むいた皮は山のようになる。でも、春になったら苗木を植えるために、ゼーに掘っておいてもらった穴がたくさんあるので、その穴に埋めて処分することができていて助かっている。
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2017年8月15日(火) | ||||
次の写真は、丘の上のガジーボの進捗状況を日曜日の朝、撮ったもの。今回はこれまでとは逆の方向から撮ってみた。天井に防腐剤を塗る作業が終わり、足元にコンクリートが入った。ジョゼはとても丁寧な仕事をするので、エドソンはとても喜んでいる。左右にベンチが取り付けられれば、早速ガジーボとして使えるようになる。このガジーボの回りにはサツキか何か、あまり背が高くならない花の咲く木を植えようとエドソンと話している。ガジーボ(東屋)というものは庭にあるのが普通で、丘の上のような見晴らしのいい場所にあるこれはミランチ(見晴らし台?)と言った方がいいとエドソンは言うのだけれど、ミランチの英語訳もガジーボらしいので、結局同じことのよう。だからガジーボでいいのよ。
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2017年8月16日(水) | ||||
先週は、とても暖かかで最高気温が28度前後になる暑い日もあり、真冬の装いを初夏の軽装に変えて過ごしていたのだけれど、昨日からお天気が崩れ、気温が下がり、また冬の装いに逆戻り。でも、1ヶ月以上まったく雨が降っていなかったので、これからしばらく続く予報のこの雨は、恵みの雨と言える。 うちの敷地内には地形に合わせて入り口ゲートに向かう道の下側に3列、上側に2列、合計数十本のセドリーニョを植えている。同じ苗木屋さんから小さな苗木をまとめ買いして植えたものだけれど、次の写真のように、木の形や育ち具合がそれぞれ違っていておもしろいものだなと思う。エドソンがゼーに言ってセドリーニョの足元の枝を払ってもらった際、枯れてしまっていたセドリーニョ1本を切り倒してもらった。するとその木の後ろの列の木が良く見えるようになり、ちょっと小さめだけれど、とても形のいいセドリーニョが1本あることに気づいた。次の写真の右から2本目の木がその美形の木。セドリーニョのコンテストをしたら優勝すること間違いなしということで「ミス・セドリーニョ」と名づけることにした。その木の手前に切らずにそのまま育つに任せている雑草低木があり、白い可愛い花が咲いていたので、その花を近くで撮ったのが2枚目の写真。
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2017年8月17日(木) | ||||
先週の土曜日の午前中、久しぶりにボトゥカトゥのショッピングモール内にある量販スーパーTENDAに、トイレットペーパーや洗剤など買い置きできるものを買いに行った。その前にショッピングモールの手前にある小型の農機具や肥料や農薬などを扱っているCACO(カコ)というお店にも寄った。久しぶりに行くと、お店の様子が少し変わっていて、店の左側にあった野菜の苗を育てて販売していた場所の半分が、ガーデニング用の植木鉢や苗木などが並ぶ場所になっていた。そこでベンチや小さな椅子も販売されていて、小さな椅子の値段は75レアルと手頃だったので、2つ買った。これまでうちの玄関で椅子に腰を下ろして靴をはけるようにしたいと思い、いろいろなお店で玄関に置くための適当なベンチはないかとずっと探していたのでだけれど、なかなか大きさと値段の釣り合うものがなく、結局、ベンチのないまま何年も経過してしまっていた。そして、ようやくみつけたのだけれど、ひとつはスリッパを入れている箱を置いたので、使えるのは1つだけ。当初の横長のベンチというアイデアとは異なるものになったけれど、まあいいか?ちなみに、下の写真の中、右奥に、水の入った赤い洗面器が写っているけれど、これははるとひろがお散歩などから戻った際、足を洗うために常に置いているもの。その向こうの2枚の板は、庭のテーブルのところのベンチで、使わない時は風雨に晒さないように、ここにこうして保管している。
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2017年8月18日(金) | ||||
ペトロポリスの安見さんが、8月10日から13日の4日間行われたBUNKA-SAIの着物ショーの写真をたくさん送ってきてくださった。その一部を以下に掲載してみる。着物ショーにはモデルとして30名が出場し、浴衣から普段着、外出着、訪問着、打ち掛けといったさまざまな着物を、道子さんと着付け教室で練習してもらった他の3人の方が着せつけたのだそう。写真を見ると男性モデルも含まれていて、老若男女さまざまな人がよく集まったなあと思う。それにしてもこれだけの種類の着物をどうやって入手されたのだろう?それに、これを4人だけで着せつけるのはさぞ大変だっただろうなと想像される。企画から人集め、着付け要員の確保と練習、襦袢や着付けのためのひもの用意、当日の差配などなど、ほぼご夫婦ふたりの主導でされるのだから、そのエネルギーには脱帽。「観客以上にモデル自身が喜んだ様子をご想像ください」とメールにはあった。孫娘のまりえちゃんも唯一の子供モデルとして出演し、ちゃんと舞台を歩いてくれるか心配されたようだけれど、うまくいったようで良かった。この後も、19日まで文化週間が続くらしい。
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2017年8月19日(土) | ||||
水曜日の午後、パーディーニョの郵便局が強盗に襲われたというニュースを、木曜日にエドソンがインターネット上のニュースで見つけた。その記事には、そこにいたお客さんの所持していた金品と、銀行業務も一部行っている郵便局のお金と郵便物が強奪されたとあったようだけれど、盗まれたのは金庫のお金だけで、お客さんの所持品や郵便物は大丈夫だったらしい。木曜日は警察の捜査で郵便局は閉まっていたようだけれど、金曜日は開いていて、エドソンは予定通りスーパーへの買出しのついでに郵便局にも行き、届いていた郵便物を持って帰って来てくれた。何と強盗が入ったのは今回が初めてではなく、去年3回入られ、今年はこれで2回目なので、もう1回くらい入られるかもしれないと郵便局の人が言っていたという。どうしてこんな田舎町の小さな郵便局が襲われるのだろう?と思ったけれど、小さな田舎町だから警備が手薄で、狙い易いからだろうとエドソンは言っていた。以前郵便局の入り口に立っていたガードマンの人も、財政難のせいなのか近年見かけなくなっていたから、なるほど、その通りだなと思った。以下は、昨日届いていた楽書倶楽部第39号に掲載された私の文章。
前回、女性天皇についての素朴な疑問と私見を述べた。しかし、誤解していた部分があったので、それを訂正する意味で、もう一度女性天皇について書いてみることにした。 愛子さまが将来、天皇になることになれば、配偶者は見つからないだろう。例え見つかったとしても出産/育児とご公務や宮中祭祀の両立は負担が重すぎるのでは?と、書いた。しかし、6月上旬に、『日本一やさしい天皇の講座』を上梓した憲政史家の倉山満氏によれば、そもそも女性天皇は、生涯独身を通さなければならないという不文法があるのだそうで、配偶者云々の議論は的外れだったことがわかった。 女帝は過去に八人存在したけれど、みな未亡人か生涯独身だった。日本の歴史において、一度だけ道鏡という民間人が「明確に天皇になろうとの意思を示して」皇位につこうとしたことがあった。その際、国を上げての大騒ぎになり、以後、女帝は生涯独身か未亡人という不文法が確立したのだという。皇室が一人の例外もなく、男系で継承されてきたのは、女性差別だと声高に叫ぶ人たちもいるけれど、不要な権力闘争を避け、安定的に伝統を守るために、皇室の血をひかない民間人男性を排除するのが目的であって、決して女性差別をしてきたわけではないということだった。 つまり、愛子さまを女性天皇にしたいと望む人たちは、愛子さまに生涯独身を通すことを強いることになるのだ。結婚だけが女性の幸せではないなどと言う人もいるかもしれないけれど、それは様々な選択肢と、自己決定権のある私たち民間人の場合なら言えることであって、自己決定権のない愛子さまに言うべき言葉ではない。愛子さまを女性天皇にするということは、愛子さまの意志がどうあれ、生涯結婚するなと言うことなのだと理解しなければならない。 そんな先例など無視して、不文法を変えればいいという人は、諸外国の多くの王朝が長くは続かなかった一方で、なぜ、皇室が二千六百年もの気の遠くなるような長い長い間、その伝統を維持し続けて、世界で一番古い王朝として存続してきたのかを考えてほしい。皇室は「先例を吉、新儀は不吉なもの」として、神話や伝説の時代から変わらない伝統を保持してきた。「『昨日と同じ今日が、明日も続けばいい』というのが、皇室の幸福であり伝統」で、「いい意味で、ノンキで平和な日本だからこそ、育むことができた文化」だと倉山氏は言う。そして、「普通なら王朝交代が起きそうなタイミングでも、その時代ごとに天皇を守ろうとする人々が現れ」、「様々な偶然が重なった結果、現代まで存続」してきた。つまり、国民が天皇と皇室を必要とする価値観ないし感性を持っていたからこそ奇跡的に続いているのであって、古代から続く文化遺産のような天皇家を守りたいと思う人々の気持ちは理屈ではないのだと思う。これほど長きに渡る歴史に裏打ちされた伝統を変えようなどと安易に考えることは、文化遺産など私たちの日々の生活には何の意味もないと言うようなものではないかと思う。 この五月に、秋篠宮家の真子さまがご婚約されるというニュースがあった。それ以降、民進党などは、皇族の減少を食い止めるために女性宮家の創設が必要だという主張を強めている。しかし、女性宮家を創設しても、その配偶者は准皇族となり皇族にはなれない。そして、皇族の血をひかない民間人男性との間にできるお子さまは男系子孫ではないため、皇族ではなく民間人ということになり、女性宮家を創設しても皇族の数が増えるわけではない。 民進党の辻元清美衆院議員は政界に進出する前に出版した『清美するで!!新人類が船を出す!』という著書の中で、皇室について「生理的にいやだと思わない? ああいう人達というか、ああいうシステム、ああいう一族がいる近くで空気を吸いたくない」「天皇っていうのも、日本がいやだというひとつの理由でしょ」と書き、「天皇制を『悪の根源』とまで断じていた」という。そういう人たちがなぜ女性天皇や女性宮家の創設を執拗に主張するのか?どんな言葉を弄しても、なし崩しに皇室を消し去ろうとする裏に隠された本当の意図が透けて見える。 皇室の抱える根本的な問題は、現在皇位継承できる男性が、皇太子殿下、秋篠宮殿下、悠仁親王殿下の三人しかおられないこと。そして、悠仁親王殿下が即位される時に、悠仁さまを支える男性皇族がおられないことなのだ。女性天皇や女性宮家の創設では、この問題は何も解決しない。この本質的な問題を何とかしない限り、これまで二千六百年も続いてきた伝統を私たちの時代で終わらせてしまうことになり、未来の世代に残すことができなくなるのだ。そんなとてつもなく重い責任を私たちは未来の世代に対して負えるのだろうか? マッカーサーの命で、皇室離脱を余儀なくされた宮家の方々に対し、日本が独立した暁には復帰させるから、それまでの辛抱だと言って、昭和天皇は送り出されたという話をずっと昔に聞いたように思う。なぜ、そのことが議論すらされないのだろうかと疑問に思う。 | ||||
2017年8月20日(日) | ||||
楽書倶楽部の前園さんから先日メールをいただいた。サンパウロにあるイビラプエラ公園という大きな公園に時々お散歩に行かれるようなのだけれど、13日の日曜日に行ったら、「偶然にも桜が咲いていて大感激しました。左側に日本館、その近くに写っていませんが先亡者慰霊碑があります。ちょうど係の人が掃除していましたのでお願いして地下室にある祀ってある仏壇に合掌してきました」と言って、その桜の写真を送ってくださった。私はサンパウロ観光というものをしたことがなく、名前だけは知っていても行ったことがないので、どれほど広い公園かはよく知らないけれど、かなり大きな公園らしい。サンパウロはここよりも標高が低いのに(おそらく500メートルくらい)、桜の季節がここよりも遅いんだと驚いた。先週の日曜日に以下写真のような満開の桜が咲いていたなんて不思議だなあ。ここの桜は今年の見頃はエリカたちが来ていた7月中旬から下旬にかけてで、8月の初めに桜吹雪が舞って、5日(日)頃を境に花は若葉に取って代わってしまった。でも、この若葉も青々として、これはこれでまた美しく、長く楽しませてくれるのだからありがたい。
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2017年8月21日(月) | ||||
エリカたちにもらって植えたマナカの木にはたくさん花芽が出ていたので、時期はずれの今頃、花が咲くのだろうか?と思っていたら、数日前にピンクの花が2つと、白い花が1つ咲いた。マナカの花は普通秋に咲くのに、もうすぐ春というこの時期に咲くなんてと思っていたら、うちの森にあるマナカは野性のマナカだから木が大きいうえ、花は秋に咲くけれど、この木は庭木用に栽培されたものなので、森のマナカのようには大きくはならず、花の時期も野性のものとは少し時期がずれるのだろうとエドソンは言っていた。そう言えば、ボトゥカトゥの入り口近くにあるいつも行くガソリンスタンドのマナカも木が小さく、先日花が咲いていたっけ。
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2017年8月22日(火) | ||||
日曜日の朝から昨日の夜までエドソンは1泊2日でパラカンビに行っていた。ここから車で2時間ほどのカンピーナス空港まで行き、そこからリオまで1時間15分くらいのフライトの後、リオの空港でエリカたちに出迎えてもらい実家に戻り、翌、月曜日の朝、公証人役場で準備された書類に署名して、午後、リオの空港に送ってもらい、カンピーナスまで飛んで、カンピーナスからうちまで車で戻り、午後7時を少し回ったくらいに戻ってくるという予定だった。移動するごとに、カンピーナスに着いた。リオに着いた。今パラカンビの家からでエリカが夕飯を作っているところ。今、公証人役場で待っているところ。リオの空港に着いた。カンピーナスに着いた。と、連絡をくれていたお陰で、移動が順調なことがわかり、ひどく心配することはなかった。でも、彼が戻って話を聞くと、用意された書類の不備で結局署名できなかったと言うので、一体何のために時間とお金をかけてパラカンビまで行ったのかと唖然とした。 日曜日にエドソンが出発する頃パラパラ降っていた雨はどんどん激しくなり、時間の経過とともにザーザー降りになり、雷が何度も鳴ったり、短時間停電したりしたので、1日の大半コンピュータが使えなかった。それでその間ずっと居間のソファーで「楽書倶楽部」や「暮らしの手帖」を読んで過ごした。月曜日はようやく雨が止んだものの、太陽は顔を出さず、気温が下がりぐんと冷え込んだので、日曜日にできなかった掃除を済ませた後、夜帰宅するエドソンやレッスンにやって来るヴィトーのために薪ストーブに火を入れた。そして、今朝、朝食が済んだ頃からようやく太陽が顔を出してくれ、丸1週間続いた悪天候から開放されほっとした。朝はまだ気温が低いのでストーブに火を入れたけれど、午後からはこの日差しのお陰で、少し気温が上がり寒さが緩むのではないかと期待しているところ。 | ||||
2017年8月23日(水) | ||||
8月22日付けニッケイ新聞の「コラム 樹海」に「《ブラジル》孫悟空の輪っかと電子足輪」という記事があった。ブラジルの刑務所人口は62万2202人(2014年)で、刑務所の平均収容人員の150%と圧倒的に満杯状態なので、ハイテク電子機器の足輪を使って、凶悪犯以外は極力、自宅軟禁に切り替えていると言う。このハイテク電子機器を使って自宅から逃げないように衛星追尾システム(GPS)で監視するらしいのだけれど、通報が入ってから警察が動くので後手に回りがちだとか。さらに、世界の刑務所人口の多い順に、「1位は米国(221万7千人)、2位は中国(165万7812人)、3位はロシア(64万4237人)、ブラジルを挟んで5位がインド(41万8536人)。不思議なことにアメリカ+BRICsだ。ちなみに日本の刑務所人口は8万805人(2007年)」とあった。この記事のサイトは、 こちらへ。 | ||||
2017年8月24日(木) | ||||
ペトロポリスの安見さんが、BUNKA-SAI終了後整理した写真をたくさん送ってきてくださった。すごい枚数なので全部は紹介できないけれど、一部をここで紹介しようと思う。次の写真はおそらく開会式の鏡割りかな?テーブルの上にドンと置かれている東麒麟(あずまきりん)と書かれた酒樽は、ブラジルで作られている日本酒。ブラジルで日本酒と言えば、輸入品でない限り東麒麟と相場が決まっているので、うちにも2本くらいあって毎年お正月にお屠蘇代わりにちょっとだけ飲む。安い料理酒も東麒麟を使っていて、こちらは毎日のお料理でお世話になっている。2枚目は、会場のクリスタルパレスを正面から撮ったものだろうと思う。
次の写真は、柔道のデモンストレーションのよう。2枚目の写真は、ペトロポリス日系協会が発行した参加証をもらって喜ぶ柔道参加者ということだった。3枚目は合気道のデモンストレーションだろうか?
次の写真は、生け花教室とマンガ教室のよう。この生け花教室はリオの生け花グループが全て無償で参加すると言ってくれて実現したのだとか。その心意気に感激して、安見さんが昼食費を負担し、グループに少し寄付をされたらしい。
次の2枚は、どうやら屋外の舞台で行われた和太鼓演奏と、毎年BUNKA-SAIに参加するスズキメソッドのバイオリン教室の生徒さんたちによる演奏のようだ。この和太鼓グループもリオからの参加で、17名が参加したので、市がミニバスを出してくれ、昼食費はこれまた安見さんが負担され、太鼓の維持費の請求は断念してもらって参加を実現されたということだった。
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2017年8月25日(金) | ||||
今日もペトロポリスのBUNKA-SAIの続き。次の写真の場所は、同じクリスタルパレスの敷地内なのかよくわからないけれど、去年同様たくさんの屋台が出て賑わっている様子がわかる。2枚目の写真は、クリスタルパレスを敷地の外から夜撮っている。入り口に毎年設置される移動式の鳥居がちゃんと鎮座ましましている。3枚目はペトロポリスのコーラスグループのようだ。昼間だけでなく、夜もイベントが続けられ、いつも思うけれど、ずいぶん盛りだくさんな日本祭りだなと思う。
6月だったか、安見さんがBUNKA-SAIのための盆踊りの練習をしている写真を送ってくださったので、その写真もこのブログに掲載したけれど、Youtubeで見つけた盆踊りの映像を使って、何度も練習会を開いて皆で憶えたという努力の結果、以下の写真のようにおそろいの浴衣を着た19名の参加者が舞台の上で、「日光和楽踊り」と「炭坑節」を披露して、「東京音頭」は一回舞台で披露した後、観客に踊り方を教えて、全員観客のところに下りて大きな円を作って皆で踊ったというのが2枚目の写真。「来年はもっともっと一緒に踊ってくれると面白いのですが」ということだった。
今年のBUNKA-SAIは、新しい市長の下での新体制の企画で、予算がない中、着物ショーと盆踊りだけすると言っておられたように記憶しているのだけれど、終わってみたらほぼ従来通り盛りだくさんのイベントが大掛かりに行われたことが写真を見るとわかる。「従来とおおきくことなったのは、参加団体への参加費を市から支給する場合、参加団体は正式に登録されていて正式領収書を発行できなければなりません。我々のところに参加してきたグループは趣味の団体ばかりで、市からの要求の書類提出が出来ない問題がありました。市は全くお金を出さないとは言っていません。以前は小額支給には正式領収書ではなく簡易領収書で支給されました。それが税金問題でうるさくなり、前日までもめて、不参加とプログラムから大半がはずされ参加の少ない祭りになりそうでした」でも、「解決策として、市内の参加グループは、機材の運搬費は市が車を出したり、グループがお金の請求を断念、無償で参加で、前日参加することになりました」市外からの参加グループは、「バレンサの太鼓コーラス盆踊りは書類準備が出来ず断念。間に入った私としては市が正式手続きをすると言うのは将来の方向正しい、それを曲げてくれと言えない」とのことだった。でも、今回で10回目となったBUNKA-SAIが、これまでの10年間に積み重ねてきた実績で、無償でもBUNKA-SAIに参加してくれた人たちが多くあり、感激されたということだった。「無償で参加したいと言ってくれる人にわれながらすごいことになったとおもっております」とメールを締めくくっておられた。以前も書いたことだけれど、安見さんが会長を務めるペトロポリス日系協会は会費など取っておらず、メンバーは様々なイベントにボランティアで参加している同好会のような存在。会の忘年会などをされればご自宅でされるし、安見さんの持ち出しは結構多いのだろうと想像される。それが市を巻き込んでこんな大掛かりなことを実現してしまうのだから、すごいことだと思う。市当局や様々なグループと頭の痛い交渉をいくつも乗り越えなくてはならないのだから、安見さんの忍耐や根気やその労たるや私の想像を超えている。 | ||||
2017年8月26日(土) | ||||
今こちらは冬で乾期なので、7月8月は例年あまり雨が降らない。今年も8月半ばに雨が降り出すまで2ヶ月くらいまったく雨が降らなかった。そうしたら今度は1週間も雨の日々が続くという珍しい現象が起こった。やはり異常気象なのかな?と思ったりする。乾期と言っても、朝露が下りていることはよくあり、1週間続いた雨が止んだ後、晴天の毎日なのだけれど、この木曜日の朝の朝露はいつにも増して量が多くきれいだったので、以下の写真を撮ってみた。セドリーニョの枝が少し白く見えるのがわかるだろうか?まるで樹氷のようだけれど、凍っているわけではなく、これは朝露で濡れて白っぽくなっている状態。ここは冬の一番寒い時でも氷点下の気温になることはないので、戸外の水が凍ることはない。ワンコたちとの朝食前の朝一番のお散歩に出ると、よくこういう光景に出くわす。朝食が済んでからの二度目のお散歩の時にはもう消えているので、ワンコたちのお陰でこういう発見をさせてもらっている。感謝。
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2017年8月27日(日) | ||||
お隣のコーヒー農園のコーヒーの木に赤い実がたくさんなっているのがうちの敷地内からも見えるので、そろそろ収穫の時期だろうか?と思っていた。すると土曜日の朝、朝食後のお散歩にワンコたちと出ると、お隣からモーターの大きな音がするのでその方向を見ると、コーヒーの木を被うようにして大きな機械が動いていた。どうやらコーヒーの実を収穫しているようだった。昔のコーヒー農園では多くの奴隷を使い、後に奴隷が解放されると、イタリア人移民、そして日本人移民と、多くの移民を住み込みで雇って人海戦術で仕事をさせていたけれど、今では機械化されて、多くの人を雇う必要がなくなったんだなと思った。ブラジルのミナス・ジェライス州よりも北にある広大な地帯はセハードと呼ばれる不毛地帯だったのだけれど、開発と機械化が進み、今ではGPSと衛星通信を使って動かす無人のトラクターが活躍して、ブラジルを世界有数の大豆生産国に押し上げた。これからの農業はブラジルに限らず、機械化がどんどん進んで行くんだろうな。というか、今まで通りではやって行けないだろうなと思った。次の写真は、うちの敷地との境の柵の側でコーヒーの実を収穫している機械を撮ったもの。2枚目は、また少し違う角度から撮ったもの。ちなみにお隣で使われていたこの写真の機械は、進行方向先頭で男の人が操作しているのが見えたので、GPSと衛星通信のハイテク機械ではなかった。
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2017年8月28日(月) | ||||
土曜日の午前中、久しぶりにボトゥカトゥのスーパーに買い物に行った。ワインの空き瓶やプラスチックの容器などがかなりたまっていたのでそれらをリサイクルに出すのと、魚とか粒コショウとかパーディーニョのスーパーでは手に入らないものを買うのが目的だった。次の写真は、この日買ってきた魚いろいろ。左から順に、サーモン638g=35.66レアル(約1,238円)。ティラピア648g=25.86レアル(約898円)。ブラジルではペスカジーニャ(英語ではヘイク、スペイン語ではメルルーサ)と呼ばれている海水魚524g=14.14レアル(約491円)。マンジューバ292g=4.48レアル(約155円)。
パーディーニョのスーパーでは冷凍のいわしとか限られた種類の魚が手に入ることはあっても、これらの魚は手に入らない。それでも少なくとも週に一度は魚を食べたいので、頻繁にボトゥカトゥに行けない分、こんなふうにまとめ買いをすることになる。マンジューバは安いけれど、この量だと一回で食べきってしまう量。実際、昨日の夕飯で素揚げにしておいしくいただいた。サーモンは輸入品なので他の魚よりもずいぶ値段が高い印象だけれど、1パック買うと3~4回分の夕食になるので、そんなに高い買い物でもないかなと思う。以前は、このようにパックされておらず、鮮魚売り場の人にほしい魚と量を言って、重さを計ってもらい、値段のシールをつけてもらわなければならず、何人かお客さんがいるとずいぶん時間がかったり、お客さんがいないと係の人もいなかったりと不便だったけれど、最近、売り場の人に言わなくても、こんなふうにパック詰めされて鮮魚売り場の横のガラス扉の冷蔵棚に並んでいるので便利になった。さらにボトゥカトゥのスーパーの野菜売り場も今年になって改装されて、千切りになって袋詰めされている野菜や、インゲン、キヌサヤと言ったパック詰めされた野菜が並ぶ棚にはガラス扉が取り付けられて冷蔵機能が追加された。一方、パーディーニョのスーパーは、エドソンが「野菜には霧吹きで水を吹きかけると新鮮さをしばらく保つことができますよ」と助言しても、まったく聞く耳を持たず、くたっとしおれたような野菜を平気で販売している。ボトゥカトゥはやはりたくさんスーパーがあって競争が激しいから改善できるところは改善しているんだなと思った。 | ||||
2017年8月29日(火) | ||||
この土曜日、ヴィトーを夕食に招いた。彼とは彼が高校生の頃からの付き合いなので、6年以上になる。でも、夕食に招いたのは初めてのような気がする。現在22歳で、仕事をしながら夜はボトゥカトゥとソロカバにある大学で週3回勉強をし、週1回は私と英語のレッスンをしている。とにかく毎日忙しいので、週末は何をしましたか?と聞いて、英語で答えさせる練習をすると、だいたい週末は昼頃まで寝て、昼食を食べてからまた夕方まで寝てとか言うことが多い。いくら若いとは言っても、そうやって体を休めないことにはやって行けないだろうなと思う。でも、時には友達と一緒に夜中の3時頃までボクシングの試合を見たとか、どこかに遊びに行ったとかいうこともある。まあとにかくよく頑張っている。この辺ではめずらしくまじめで向上心の高い若者だと思う。たぶん両親の影響なのかな?ちなみに彼のお父さんは元警察官なので厳しい人のようだ。ガールフレンドがタトゥー(刺青)をすることに彼自身抵抗はなく、むしろ恰好いいと思うけれど、自分はしない。だってそんなことしたらお父さんに殺されるからと笑って答えるような子なのだ。この日の献立は、奮発してフィレミニョンのローストビーフとローストポテト。大豆と野菜のサラダ、花ブロッコリーのソテー、そして、大根のわさび漬けとご飯。彼はあまり好き嫌いなく何でも食べるのは知っていたけれど、うちでの初めての食事なので、大根のわさび漬け以外は無難なメニューにした。でも、初めて食べる大根と、それをわさびで漬けたものでもおいしいと言って食べてくれた。
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2017年8月30日(水) | ||||
次の写真は、ボトゥカトゥの日系食料品店ウエノで買ったほうれん草。以前も書いたことがあるけれど、ここで手に入るほうれん草と呼ばれるものは、日本のほうれん草とは違う代物。でも、調理すると味や食感は似ていないこともないので、あればたまに買う。このほうれん草を見た時、久しぶりにおひたしが食べたいと思い一束買った。
かなりの量があるので、おひたしだけでなく、もう一品何か出きるかな?と思ったのだけれど、茹でてみると何だか量がぐんと減ってしまった感じで、結局、かつおぶしと自家製のめんつゆを混ぜておひたしだけを作った(以下写真)。ウエノに行った際、入り口でユキエさんに挨拶をしてから店の中で買い物をしていると、ユキエさんがポン酢を2本持ってきてくれた。店頭には出ていなかったのだけれど、以前頼んでわざわざ仕入れてもらったことがあるので、あれば欲しいと言うだろう私のために2本取り置きしておいてくれていたようだった。「わあっ~、ありがとう!!」と大感激。行きつけで(と言っても月に一度行くか行かないかくらいの頻度だけれど)お店の人を知っていると、こういういいこともあるんだねえ~。感謝。
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2017年8月31日(木) | ||||
28日月曜日の夜、夕食が済んでヴィトーが英語のレッスンに来るまでの間テレビを見ていたら、日本時間29日朝のNHKニュースで、北朝鮮がまたミサイルを発射して、今回は北日本全域にJ-アラートが発せられたと報道していた。現地時間午前5時58分に平壌から発射されたミサイルは6時6分頃北海道襟裳岬上空を通過して、6時12分頃襟裳岬から1,120キロの太平洋上に落下したと伝えていた。私が見ている間のNHKニュースではミサイルの高度への言及はなかったけれど、翌日エドソンが見た英語のニュースサイトでは高度550キロで、飛行距離は2,700キロと報道されていたという。それで、国際宇宙ステーション(ISS)は、現在高度412キロくらいのところにあり、同じ頃北海道上空を通過したはずなので、エドソンがおおまかな計算をしてみると、何と、ミサイルが北海道上空を通過した約15分後にISSも同じような経路で通過していたということがわかった。わずかに高度が異なるけれど、事前に発射時間や方向、距離などを計算して発射すればISSに激突させることもできただろうと、エドソンは言っていた。いくら無謀な北朝鮮でも、グアムに向けてミサイルを撃つぞと脅したら、アメリカからの反応が厳しく、しかも、北朝鮮が先に手を出して、アメリカが報復する場合は、北朝鮮に軍事的な支援はせず静観するという姿勢を中国が示したので、怖気づいてグアムに向けて発射しないかわりに日本上空を通過させたのだろうから、ロシア人宇宙飛行士も搭乗しているISSを狙うなんてことはしないだろうと思った。そんなことをしたら自分で自分の首を締めることになり、正に四面楚歌。ロシアだって黙ってはいられないはず。それにつけても、日本の不幸は南北朝鮮、中国、ロシアと一筋縄では行かない国ばかりに囲まれていること。もし、日本が中国大陸の東の太平洋上ではなく、ブラジルの東の大西洋上に位置していたら、もっと穏やかに暮らして行けただろうにと思えてならない。
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