Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2017年7月1日(土)

今朝は朝食前は曇り空ながら、それほど寒くない感じだったのだけれど、朝食を食べている頃から霧が出始め、朝食後のはるたちとのお散歩に出た際には濃い霧で視界が悪く、気温も下がっていて、樹木の側を通ると、木から水滴がポタポタ落ちる音がしていた。そしてお散歩から戻ると帽子をかぶって出なかったため髪が濡れてしまっていた。次の写真は、はるたちとのお散歩から戻って、帽子をかぶり、めいとのお散歩に出て、戻ってから撮った、家の前の写真。霧で家の前のハイビスカスの濃いピンクの花もすべてがボヤけて見える。

6月27日付けで、ニッケイ新聞に「謝罪求める声、未だ届かず=米国強制連行、不法滞在扱い=ペルー移民への理不尽な扱い」という記事があったので、以下にリンクをはってみた。戦時中、ブラジルの日本人や日系人は、一部の指導者層の人たちが逮捕されて適正な裁判などまったくなしで、大西洋岸の島にある監獄に送られたり、大西洋岸のサントスに住んでいた人たちがサンパウロ州内陸部に強制移住させられたりということはあったけれど、アメリカのようにみなが強制収容キャンプに送られることはなかった。一方、ペルーの日本人や日系人はアメリカに送られ、強制収容キャンプに入れられたことは知っていたけれど、アメリカ到着後に身分証明書を取り上げられたため、その後ずっと不法移民扱いを受けてきたことは知らなかった。アメリカに送られ戦後ペルーに戻ることができなかったのなら、今現在ペルーにいる日系の人たちは戦後移民なのだろうか?この記事のサイトは、 こちらへ

2017年7月2日(日)

次の写真は、入り口ゲートに向かう道沿いのエリアに2つあるワイルドベリーの木のひとつ。以前、ベリーが少しずつ採れるようになったと書いたけれど、このところ最盛期と言う感じで、毎日のように20粒あまり採れるので、朝せっせと食べている。あいにく採ってから洗ってプラスチックの容器に入れて冷蔵庫で保存していても、新鮮さがあまり長くは保てず、すぐ痛んでしまうため、少量ずつ毎日消費するばかりで、まとまった量をジャムにするとかということはできないでいる。でも、まあこんな風に毎朝食べることができるほど収穫できるとは予想していなかったので、うれしい驚きではある。

ペルーの日系人のことを少し調べてみたら、NGOブラジル人労働者支援センターのサイトに、「ペルーの日系人」という文章を見つけ、疑問が少し解消した。ペルーの日系人が全員アメリカに連行されたのではなくて、主だった日本人が連行されたということだった。この文章を一部抜き出してみると、『ペルー在の主だった日本人が強制的に米国に連行され、収容所に入れられたのです。日本人は家や財産を没収され、着の身着のままでした。米国は、太平洋の戦いで日本軍の捕虜となった米国人と捕虜交換をするための人質として、南米の移民に目をつけたのです。米国はペルー政府に経済援助を約束し、その引き換えに日本人を連れ去りました。日本人を金で買ったのです。米国はブラジルに対しても日系人を差し出すよう要請しましたが断られました。太平洋地域の戦場で、米国人捕虜の数が日本人捕虜の数を大きく上回っていましたので、捕虜交換のために米国はなんとしても日本人の人質を確保したかったのです。』『結局、ペルーから2300人を超す日本人が米国に連行されました。そのうち500人ほどが実際に交換捕虜として、戦時の日本に強制送還されたようです。その上、ペルーの日本人は連行される際、旅券も査証も発行されませんでしたので、戦争が終わると、なんと「米国への不法入国者」とされてしまいました。そのため大半のペルー移民は戦後日本に強制送還されました。』この文章を全部読んでみたい方は、 こちらへ

2017年7月3日(月)

何だかあっという間に今年も1年の半分が過ぎ、7月に突入してしまった。この時間の経過の速さは何なんだろう?年をとったということなんだろうとは思うものの、それにしても驚いてしまう。毎日家事などのルーティーンですぐに1日が終わってしまう。なかなかやるべきことに手が回らない。何だかもっとがんばればいろいろできたのではないだろうか?などと反省したりもするけれど、まあ、「昨日と同じ今日が明日も続く」という感じで日々穏やかに暮していられるのだから、それはそれでとてもとてもありがたいことだと思っている。

今週は日曜日から気温が下がり、寒くなり、この先1週間はこの寒さが続く予報。でも、先週はお天気が良く、最低気温10度以上、最高気温20度少々の暖かくて穏やかな日々が続き、とても気持ち良かった。次の写真は、そんな先週のある日のお昼前、居間の日溜まりに置いたベッドの中ではるとひろが仲良く気持ちよさそうに寝ていたので、エドソンが撮ったもの。どうしてひろはこんな風に無防備にひっくり返って寝るのだろう?と見ていておかしくてたまらない。寒くてストーブを付けている時は、ストーブの前から離れないふたりだけれど、お天気が良く、居間に日差しが差し込む穏やかな日は、こうして居間のベッドで過ごすのが習慣になっている。日溜まりの中にベッドがないと、はるは日溜まりの中にひろと一緒に立って私を見つめて「ワン」と一声上げる。「ベッドを日向に移動してちょうだい」と私に要求するのだ。私が「はいはい」と言って、ベッドを日向に移動させると、ふたりはおもむろにベッドの中に入って寝そべって、日差しを満喫し始める。彼らとのこういうやり取りは何とも楽しい。

2017年7月4日(火)

次の写真は、畑で咲いたこんにゃく芋(だと思う)の花。画面右奥に見えるのは、ずいきと小芋で、この並びにこんにゃく芋もいくつかあったのだけれど、この1本だけが残って、後は消えてしまったようだ。その1本だけ残ったものが花を咲かせたことになる。ずいぶん不思議な花。これはこの後どうなるのだろう?

そして、次の写真は、食堂の横の箱庭の壁際で育っている赤い葉物植物。名前は知らない。去年初めて7月頃に花が咲いたのでブログに写真を載せたけれど、今年もここにある4本の木のうち、この1本がたくさん花を咲かせているので、また写真を撮った。

2017年7月5日(水)

うちでは、薄茶色の鶏1羽とこげ茶色の鶏2羽をご近所のファゼンダのマネージャーのジョアオンのところから買い、その後うちの手伝いのゼーの兄弟にとうもろこしを分けてあげたお礼に、黒い鶏を1羽もらい、計4羽を飼っていた。薄茶色の鶏がどうもボスのようで、当初、こげ茶色の1羽が家出してしばらく戻ってこなくなったのは、ボスにいじめられていたから戻りたくなかったようだということがだいぶ経ってからわかった。その後新入りの黒い鶏が来たら、ボスだけでなく、ボスと仲良しのこげ茶色の鶏も、ボスにいじめられていたこげ茶色の鶏も、みんながこの黒い鶏をいじめ始めて、しばらく一緒に食事を食べることを認めない時期があった。その後、仲良くなったわけではないものの、少しずつあからさまないじめは減少していった。そうこうしているうちに、ボスと仲が良く、うちで卵を一度も生んだことのないこげ茶色の鶏の様子がおかしくなり、手伝いのジョゼにみてもらったところ、口の中だけでなく喉の奥まで何かが詰まっているような状態で、何の病気なのかわからない、こんなのは初めて見たと言う。食事をしなくなって弱っていったので、変な病気で、他の鶏に影響してもいけないので、処分して埋めてもらった。それから1週間くらいして、今度は黒い鶏の様子がおかしくなった。処分したこげ茶色の鶏とは異なり、何かに感染したのか、足元がフラフラするようになり、食事をしなくなり、とうとう動かなくなった。みんなにいじめられて、しばらくまともに食事ができなかった時期があり、その後も十分食べていなかったのか、体力や免疫力が落ちて、何かに感染したのかもしれないということで、これまた大変なことになる前に処分し、鶏小屋を消毒する事態になった。それで、結局、4羽だった鶏は、現在、薄茶色のボスと、こげ茶色のいじめられっ子の2羽になっている。今のところこの2羽は何の問題もなく元気にしている。2羽の鶏を失くしはしたけれど、元々卵を生んでくれていたのはこの残っている2羽だけだったので、鶏の数が減っても、生んでくれる卵の数や頻度には何も変わりがない。相変わらず薄茶色のボスは時々、こげ茶色の鶏をつっついたりするようだけれど、以前よりも一緒にいることが多くなった。ただ、私がレタスなどの葉物野菜を持って行くと、ボスがこげ茶色の鶏をつっついて、まるで「あんたは後で」と言っているように、一緒に食べることを許さない行動をとる。困ったものだ。

2017年7月6日(木)

次の写真は、1.8リットル容量のピッチャーに入れた絞りたてのオレンジジュース。レモンジュースの場合は、4~5個を手で絞って、後は何倍かのお水と大さじ3杯くらいの砂糖を加えないと酸っぱくて飲めないけれど、オレンジジュースの場合はお水を加えたりせず、100%果汁なので、写真のような1.5リットル弱のジュースを作るのに、大きさにもよるけれど、だいたい25個くらい絞るので、電気絞り器が大活躍する。この写真のジュースは、果肉が赤い色をしたオレンジばかりを絞ったので、赤っぽいとても濃いオレンジ色をしている。普通の黄色い果肉のオレンジを絞ると、黄色っぽいオレンジ色のジュースができる。赤い果肉のオレンジは、黄色い果肉のオレンジよりも酸味が弱く、両方を混ぜて絞ると何だかちょうどいい味になるような気がする。

2017年7月7日(金)

ニッケイ新聞の「コラム 樹海」にサンパウロ州の発展の基礎となった鉄道に関する興味深い記事が(上)(中)(下)と3本連載されたので、その3本の記事にリンクをはってみた。

2017年6月27日付け「コラム 樹海」の『サンパウロ州を「ブラジルの機関車」にした鉄道=(上)=帝政の終わりとサッカー王国の誕生』のサイトは、 こちらへ

2017年6月30日付け「コラム 樹海」の『聖州を「ブラジルの機関車」にした鉄道=(中)=世界に誇る10・5度勾配』のサイトは、 こちらへ

2017年7月4日付け「コラム 樹海」の『サンパウロ州を「ブラジルの機関車」にした鉄道=(下)=礎石になった日立のラック式』のサイトは、 こちらへ

2017年7月8日(土)

7月に入り、桜がちらほらと咲き始めた。家の南側の三角地帯に下りて行くところにある一番最初に植えた桜の木が、例年、最初に花を咲かせ始め、庭の桜が少し遅れて咲き始めるのだけれど、この木も庭の桜もちらほらとは咲き始めてはいるけれど、今年はこれらの木よりも若い桜の木が早く咲き始めた。防風林の列の途切れた西端にある次の写真の1本が一番たくさん花をつけている。でも、同時に若葉も出てきているので、花を咲かせる準備をする前に、おそらく葉切りアリに葉を落とされてしまったのだろうと思う。この桜の木の左後ろの木は、サンタバーバラの木。そのまた左に見える葉が茶色っぽくなっている木は、くぬぎ。

そして、防風林の一番上のモビのお墓を囲むように5本植えた桜の木も、今年は例年よりも早く花が咲き始めた。ここの木はまったく剪定をしていないので、枝が縦横無尽にワイルドに伸びている。この写真の桜の木の左後ろに見えるカエデの木の足元右側に、長方形に並んでいる石が少し見えるけれど、これがモビのお墓。写真の右後ろに見える緑は、現在育ちつつあるとうもろこし。

2017年7月9日(日)

金曜日の夜、久しぶりにジミーとジセレーニと一緒に、パンとワインとチーズを楽しんだ。ジセレーニがゴルゴンゾーラとパルメザンチーズとハムの盛り合わせを一皿作って持ってきてくれ、うちでは今年新しく私の生徒さんになったムリロが作っているパーディーニョのブルーチーズと、私が焼いたパンと豚肉とジャガイモの蒸し焼きを出した。デザートにはうちで採れたマラクジャを使ったパウンドケーキを作ったのだけれど、これがとてもおいしいと好評だった。何しろ、うちで採れたオーガニックのフレッシュなマラクジャを使っているのでと、しっかり自慢。ふたりは1月末からうちでの英語のレッスンに戻って来ていたけれど、やはり忙しくて時間的な余裕がない中、無理をしていたので続かず、5月からお休み状態。あれやこれやと、やりたいことはたくさんあっても、時間は1日24時間、1週間は7日しかないのだから、優先順位を決めてやって行かないと、どれも中途半端になってしまうということで、英語のレッスンはしばしお休みとなったようだ。それにしても、先週は最低気温が1桁だった寒さが、この日は少し緩んで、最低気温が2桁になったとは言え、ジミーが半袖で上着も着ておらず、今日は暖かいねと言うのでびっくり。若いから元気だなあ・・・。

2017年7月10日(月)

先週、毎日のように薪ストーブを使ったので、家の東側の物置スペースに積み上げられていたユーカリの木の枝や幹の部分を薪にしたものを全部使い切ってしまった。それで、この土曜日にゼーに頼んで、切り倒した後、庭に横たわったまま、まだ薪にしていなかったユーカリの木の一部を切って、薪を作ってもらった。次の写真は、その積み上げられたユーカリの木の薪。庭には4本のユーカリの木があったのだけれど、背が高くなり過ぎたと言って、今年の初めに、エドソンがゼーたちに切り倒してもらった。しばらく、枝だけを薪にして、幹はそのまま庭にころがったままだったのだけれど、少しずつ薪にしてもらって、今、ストーブの薪として大活躍している。まだ2本の幹が横たわっているので、この冬はこのユーカリの木のお陰でストーブの薪には困らないだろうと思う。今週は最低気温が2桁で、最高気温は20~21度という予報なので、しばらく薪ストーブは必要ないけれど、今週後半から、また最低気温が1桁になるようなので、準備万端、薪を用意してもらうことができ感謝。感謝。

2017年7月11日(火)

土曜日の午後、エドソンはゼーに言って道沿いと、道から一段下のセドリーニョの列の足元の枝をはらう作業をしてもらった。夕方はるたちとのお散歩に出た際、「どう?さっぱりしたでしょう?」と、エドソンはなかなかのご満悦。まあ、さっぱり感はあるけれど、同時に何だか寂しくなった気もしなくもない。

セドリーニョの足元の枝をはらったものだから、視界が良くなり、防風林の北側のエリアで育っているとうもろこしが、道からでも良く見えるようになった。今の時期、気温が低く、雨もあまり降らないので、春や夏の時期と違って、とうもろこしの成長は遅いように感じる。

2017年7月12日(水)

次の写真は、防風林の列のカエデの木が少し黄色くなってきているのを撮ったもの。ここでは木全体が黄金色に輝くことはないけれど、寒い日の多いこの時期には、少し黄葉し、たくさん葉を落とす。2枚目の写真は、防風林の列の上から下を向いて、このカエデの並ぶ小路を撮ったもの。足元にはたくさんの葉が落ちて、ちょっとブラジルとは思えない景色がとてもいい、と私たちは思っている。枯葉の上をサクサク音を立てながら歩く感触が何とも言えない。この小路は、うちの敷地内で、私たちが最も好きな場所のひとつ。

2017年7月13日(木)

先日、7月に入り桜の花がぼちぼち咲き始めたと書いたけれど、まだまだ満開には程遠い状態。その中で、家の南側の三角地帯に下りて行く入り口の所の桜がだいぶ花開いたので写真を撮ってみた。次の写真の桜の木の右側の枝だけ見えている木の方が、中央の木よりも古くて、いつも一番早く咲くのだけれど、今年は、木の左半分は花が咲いているのに、右半分はまだ咲いていないという状態。そして、この木よりも若い左側の木がいち早くたくさん花を咲かせた。あいにくこの木は写真の左側にあるセドリーニョの陰になって、食堂からは見えないので、ちょっと残念。2枚目の写真は、右側のヒマラヤ桜の花をアップで撮ったもの。

2017年7月14日(金)

防風林の並びの丘の上の桜もだいぶ花が咲き始めたので、写真に撮ってみた。入り口ゲートの辺りから丘を振り返ると、うっすら数本の桜の木がピンク色になっているのがわかる。でも、ここの木がすべて同じように一斉に花を咲かせるわけではないので、遠くからだとこれが桜の木だとは判別しにくい。ここに桜の木があると知らない人は、あの薄ピンクの木は何だろうと思うかもしれない。この写真の花をたくさん咲かせている真ん中の桜の木の向こう側にモビのお墓がある。この木の前で赤い花を咲かせているのは、コロア・デ・クリストという植物。その前の緑はとうもろこし。

上の写真を撮ってから、この木の後ろから始まる防風林の小路に回り込むと、先頭のカエデの木の葉が赤いので、次の写真を撮った。この小路に並ぶカエデの木の葉は、先日紹介した通り、多くは緑色で、少し黄色くなっている葉と、茶色くなっている葉があるものの、葉が赤くなっているのはこの木だけなので、あれっ?と思った。防風林の一番上側で、日当たりがいいから赤くなっているのかな?カエデの葉が赤くなっているのは初めて見たような気がする。

2017年7月15日(土)

お天気が悪くなければ、朝と昼の食後はみんなで(私がはるを連れて、エドソンがひろを連れて)お散歩に出る。定番は入り口ゲートまでの往復コース。でも最近、森の近くまできれいに草が取り除かれて、歩き易くなったので、森の近くまで下りて行ったりもしている。めいとのお散歩は、はるとひろとのお散歩が終わった後、私がひとりでめいを連れて出るので、だいたいいつも入り口ゲートまでの往復でお茶を濁している。今週、火曜日と水曜日の昼食後のめいとのお散歩で入り口ゲートまで行くと、丘の上の柵の杭の上に大きな鳥が2羽止まっていた。2日連続で同じ場所で、同じようにじっと静かに止まっていたので、お散歩を終えて、めいを家のベランダに戻してから、カメラを持って写真を撮りに行き、次の写真を撮った。いつ見ても同じ方向を向いて止まっていたのに、カメラを取りに行って戻ると、この写真のように2羽の向きが少し変わっていた。この写真は水曜日に撮ったのだけれど、この日は午後4時を回ってからのめいとのお散歩の際も、この2羽はまだここにいた。

2017年7月16日(日)

次の写真は、昨日手伝いのゼーが持ってきてくれたお米。これはうちで育てた稲を刈り取った後、ゼーが知り合いの所に持って行って、脱穀と精米をしてもらったものの一部。ゼーたちに手伝ってもらってうちで育てて収穫したものは、いつもみんなで分配することにしているので、お米も私たちの分を持ってきてくれたのだった。重さを計ってみると6.3キロもあった。先月買ったばかりの日本米と半々に混ぜて食べようと思っている。このお米のお陰で、今年はもうお米を買う必要がないのではないかと思う。商品化されたお米と違って、ゴミや十分精米されていないもみ殻のついたお米が混じっていたりするので、お米を洗う際にそれらをひとつひとつ取り除く手間はかかるのだけれど、我が家で育てたオーガニックのお米を食べることができるのだと思うと、そんな手間など何のその。とにかくありがたい。感謝。感謝。

2017年7月17日(月)

土曜日の午後、エドソンがジョゼと一緒にご近所のドナ・ベティのファゼンダに行って、マネージャーのジョアオンの所で飼っている鶏を3羽もらってきた。前回のようにお金を払って買ったのかと思ったら、うちのとうもろこしを持参してブツブツ交換してもらったのだそう。うちで収穫したとうもろこしがとても役に立っている。次の写真は、新入りの3羽を迎えて5羽になった現在の状況。次の写真の左から2番目の薄茶色の鶏とその右側のこげ茶色の鶏が、前からうちにいる鶏で、その他の3羽がこの日うちに来たばかりの鶏。古株の2羽は、いじめっ子といじめられっ子の関係なのだけれど、新入りに対して2羽とも首と足を伸ばして体を大きく見せて、ここは私たちの縄張りだからねと言っているよう。そして、新入りの3羽は新しい環境が怖くて腰を屈めているので、この2羽と同じ大きさなのに小さく見える。薄茶色のボスは濃い色の鶏が嫌いらしく、薄茶色の新入りの鶏にはあまりちょっかいを出さないのに、右端の黒い鶏を早速いじめていた。やれやれ・・・。今回は2対3で、新入りが少数派ではないので、新入りの3羽が団結してあまりいじめられないようにしてくれるといいのだけれどと思っていたら、早速、日曜日に卵を4つ生んでくれた。殻が水色の卵を生むボス以外は、みな似たような色の殻の卵を生むので、どの鶏が生んだものかはよくわからないのだけれど、新入りの鶏も生んでくれたことは確かで、ちょっとほっとしている。

2017年7月18日(火)

土曜日の午後、エドソンが新しい鶏を連れて戻った頃、ゼーが家の西側の庭のアメンドインを刈ってくれているところだったので、写真を撮った。左側にいるのはマリアで、ゼーが刈り取ったアメンドインを集めてカートに乗せて捨てる作業をしていた。2枚目の写真は翌日の日曜日の朝撮ったこの同じ場所。ずいぶん背が高く伸びてしまったアメンドインをこうして刈り取ると、今年の春から夏にかけてまたきれいに生え揃ってくれるはず。階段沿いでアメンドインに被われていたサツキも足元から姿を現した。そして、足元をアメンドインに被われている右側の桜の木々もだいぶ花をつけ始めている。

2017年7月19日(水)

日曜日のお昼、パウロがフルトス・ド・マー(frutos do mar=シーフード)のフェイジョアーダを作るからと、彼らの新居にお呼ばれした。普通、フェイジョアーダ(煮豆料理)と言えば、黒か茶色の豆に肉類を混ぜて作るのだけれど、パウロが作るものは、白いんげん豆に魚やエビ、貝、イカなどのシーフードを混ぜて作るので、フルトス・ド・マーのフェイジョアーダと呼んでいた。次の写真は、パウロの家の右側一番奥にあるシュハスケイラ(焼肉用の台所)で調理中のパウロ。左側に流しやガスレンジが並び、右側にシュハスコのかまどがある。これらはみなカスタムメード。2枚目の写真は、調理が終わってテーブルの上に置かれた、できたてでグツグツいっている大鍋のフェイジョアーダ。

この食事会には、パウロの両親だけでなく、アヴァレでパウロ同様インターネットサービスを提供する大きな会社を経営している人とその奥さんと息子も来ていて、総勢10人でテーブルを囲んだ。私たちはワインを1本と、うちで採れたマラクジャ(パッションフルーツ)で作ったパウンドケーキと桜の枝4本を手みやげとして持って行った。本当なら新居完成祝いに何かプレゼントを持って行くべきなのかもしれないけれど、家に飾る桜の花で勘弁してもらうことにした。次の1枚目の写真の最後部に見えるピンク色の花が、私たちが持っていった桜。

次の写真は、シーフードのフェイジョアーダとエビのファロファとご飯をよそった私のお皿。すべてパウロが作ったもの。パウロがフェイジョアーダに入っているシーフードを、「エビにムール貝にルーラ(イカ)に・・・」と説明していると、「ジウマは入れてないだろうな」とこのアヴァレの人が言ったので、みんな大笑いをした。ルーラというのはイカのことなのだけれど、同時に好調だったブラジル経済をダメにした2代前の大統領の名前でもあり、ルーラの次に同じ労働者党から大統領になったのが、ジウマで、この人がルーラから引き継いだ腐敗政治でさらに国をボロボロにしてしまい、その結果、弾劾されて任期終了以前に追い出された人なので、ルーラが入っているということはジウマも入っているんじゃないか?という冗談なので、彼の一言がみなに受けたのだった。でも、こんな風に説明してしまうと、おもしろくも何ともないかもしれないけれど・・・。

2017年7月20日(木)

パウロの新居はお金にいとめをつけずに細部に渡ってこだわって建てた彼らご自慢の豪邸。食事の前に奥さんのジャナイーナの案内で各部屋を見せてもらった。まず、家の1階はガレージと倉庫とバスルーム付きの来客用の部屋があり、家族の居住スペースはすべて2階にある。玄関ホールから大理石のような階段を上がったところに次の写真のテレビを見る部屋があった。ここは家族で一緒にテレビを見るというよりも、サッカー好きのパウロが友人を呼んで、ビールを飲みながらサッカー観戦をするための場所なのだろうと思う。この左側にはまだ家具の入っていない居間があり、居間から続く家の右側に台所、食堂、シュハスケイラ(シュハスコ用の食堂と台所)が順番に並んでいる。2枚目の写真は、居間から撮った台所の写真。この向こうに食堂があるのだけれど、食卓や椅子がまだ入っておらず、使われていない。その先のガラス扉の向こうにみんなでテーブルを囲んだシュハスケイラの食堂と台所がある。このシュハスケイラが立派な台所であり食堂なのだから、もうひとつの台所と食堂は必要ないのでは?と思った。でも昨日掲載したみんなで囲んだ大きな食卓は、本当は食卓ではなくビリヤード台で、食堂に食卓と椅子がまだ入っていないので、このビリヤード台を食卓にして使っているんだと言っていた。

次の写真は、食堂からシュハスケイラに入った所で、パウロの次女のマリア・パウラを撮ったもの。この日は暖かかったのでお腹を出していても大丈夫なお天気だったけれど、何故かモフモフの耳当てをアクセサリーのようにずっと首にかけていた。この子もお姉ちゃんのイザベラ同様ひどい偏食で、食が細いので、肌につやがなくガリガリに痩せている。アヴァレから来ていた男の子もマリア・パウラもパウロの作ったシーフードのフェイジョアーダは一切食べず、ご飯と彼らのためにエアー・フライアーで焼いたサーモンだけを食べていた。ふたりとも同じように偏食ながら、男の子は肥満児で、マリア・パウラはガリガリと両極端なのは不思議な光景だった。マリア・パウラのお姉ちゃんのイザベラは、冬休みの1ヶ月間、学校から他の生徒たちと一緒にバイーア州に行っているということで留守だった。この旅行はただの観光旅行ではなく、行った先の施設か何かでボランティアとして働くものらしかった。バイーア州は北東部の州で暑い所なので、お料理にはスパイスが使われていて辛いらしく、イザベラは食べることができず、バナナとピザしか食べられない毎日らしいとお母さんのジャナイーナは話していた。ただ、たとえ辛くなくても、偏食の彼女が食べることのできる料理は限られているから、どこへ行っても似たり寄ったりの経験をするのではないかなと思った。

台所などとは反対の家の左側には、イザベラの寝室、ふたりの娘たち用のバスルーム、マリア・パウラの寝室、そして一番奥にバスルーム付きの夫婦の大きな寝室が並んでいた。娘たちの部屋には床から天井近くまである引き戸の大きなクローゼットと、その並びに作り付けの勉強机があり、机の前の壁にはフラットテレビが取り付けてあった。夫婦の寝室にも壁2面を使った引き戸の大きなクローゼットがあり、バスルームには次の写真のように真ん中の洗面台とトイレをはさんで、右に大きなジャクージーと左にシャワールームがあった。でも、洗面台の前に鏡がないのはどうしてだろう?彼らの家の中で私がうらやましいと思ったのは、きれいなカスタムメードのシステムキッチン(昨日写真を掲載したパウロがお料理中のシュンハスコのかまどを備えた台所)と、各部屋の床から天井近くまである引き戸のクローゼット。どちらもスペースに合わせて特別に作ったものなので、ずいぶんお金がかかったのだろうなと思う。私たちが我が家を建てていた頃には、ボトゥカトゥのどこにこのような仕事をしてくれるお店があるのかないのかまったく情報がなく、システムキッチンに関してはたまたま見つけたお店で見積りをしてもらったものの、料金が高すぎて頼むことは諦めた。私たちがここに来た当時は、システムキッチンもアルミサッシの窓も作り付けの引き戸のクローゼットも、とにかくまったく一般的ではなく、ほとんど普及していなかった。今でもまだ一般的と言うにはほど遠く、お金にいとめをつけなければ入手できるという代物。基本的に予算に上限のない人がたっぷりお金をかけて作った家と、予算に限りがあって、その中で何とか自分たちの希望を叶えようと悪戦苦闘して作った我が家とを、比べた所で意味はないのだけれど・・・。まあ、正直少しうらやましいとは思った。でも、我が家は自分たちでデザインして悪戦苦闘した分だけ、特別な思い入れがあり、エドソンと私にとっては世界でたったひとつのHome Sweet Homeなのだから、我が家が一番とも思う。

2017年7月21日(金)

昨日の午後4時半頃、エリカとブライアンとデニウソンがパラカンビから無事到着した。午前7時頃家を出たらしいのだけれど、私たちと違って、朝食だ、トイレ休憩が、昼食だと言って、何度も途中にあるホドサーブで止まるものだから、いつも時間がかかる。当初は6月末に来ると言っていたのが、7月上旬になり、中旬になりと、二転三転して、ようやくやって来た。1年ぶりの再会。到着して車から降りてきたエリカが去年亡くなったお母さんにそっくりになっていたので、ちょっとびっくり。ブライアンは3歳と半年近くになり、おしゃべりしたり、走り回ったりと、大きくなったという印象と同時に、1年前とあまり変わらない赤ちゃんのような感じからまだ抜け出していないとも感じた。昨日の夕方彼らが到着してから、上でみんなでおしゃべりしていると、ブライアンがはるを追いかけ回したりして、じっとしていられないものだから、夕方6時前に毎日やっているNHKの子供番組をつけてみた。言葉はわからなくても何か惹きつけられる物があるらしく、テレビのすぐ前に立って動かなくなった。テレビから離れてソファーに座って見なさいとエリカが言っても動かないので、エリカが一緒にソファーに座ると、おとなしくテレビを見始めたので、次の写真を撮った。

2017年7月22日(土)

昨日エリカたちはお昼前からボトゥカトゥに出かけて行き、午後4時頃戻ってきたのだけれど、ブライアンは疲れて車の中で寝てしまったようで、午後6時過ぎに夕飯の仕度ができて、下の部屋に迎えに行くまで寝ていたらしく、夕飯の時は寝起きだったためちょっとご機嫌斜めだった。みんなが食卓について、食事を始めたので、カメラを向けると泣き出してしまった。やれやれ・・・。

ひろは生後6ヶ月でうちに来るまで、3~4ヶ月パラカンビでエリカたちと暮らしていたのだから、エリカたちのことは憶えているはずなのに彼らのことを怖がって、彼らがいると食堂のケージから出てこない。夕飯が済んで、はるとひろにオシッコをさせて家に戻ってから、ようやくケージには戻らず、遠巻きながらブライアンたちのことを観察し始めた。はるがデニウソンに戯れついて遊ぶのを見ていて安心したようで、徐々に距離が縮まって、ブライアンが側に来ても逃げずに、体を撫でることを許すようになった。夕飯の時はご機嫌斜めだったブライアンもはるとひろのお陰で、ご機嫌がすっかり直り、かなりの間楽しく一緒に遊ぶことができた。

2017年7月23日(日)

昨日の午前中、エドソンはいつものようにスーパーに買出しに行く際、デニウソンも一緒に連れて行った。スーパーだけでなく、材木店にも行ったようで、彼らが帰宅してしばらくして、お昼前に、材木屋さんのトラックが来て、丘の上に作り始めたガジーボ(gazebo=東屋)の屋根などに使う材木を配達してくれた(以下写真)。小学生くらいの女の子(右)は娘なのか、一緒に来ていた。2枚目の写真は、丘の上の一番高い場所に、2メートル四方で立ち上がったガジーボの4本の柱を昨日の夕方撮ったもの。この4本の柱の上に屋根というか天井を作って、足元にコンクリートを入れるというだけの簡単なものを手伝いのジョゼに作ってもらっているところ。これはここに座ってぼーっと景色を眺めるための場所。ここに来た頃からこのガジーボを作る計画だったのだけれど、ようやく形になり始めた。今年は鶏も飼い始めることができたし、ずいぶん長い間停滞していたことが少しずつ動き始めているので、とてもうれしい。

ブライアンがいくら「出ておいで」とケージの前にしゃがんで中を覗き込んで言っても、ひろがケージの中から出てこないので、ブライアンの方からケージの中に体をつっこんでひろを撫でるという行動に出た。それで、昨日のお昼前に撮ったのが次の写真。ブライアンは愛嬌を振りまくはるよりも、なかなか気を許さないひろの方が気になるようで、ひろもブライアンのことが嫌いではないのに完全には恐怖心をぬぐえないようで、こうしてケージの中から出てこようとしない。何だか不思議な関係。

昨日の夕飯は、4時頃から火を起こして、エドソンとデニウソンがシュハスコ小屋でお肉とリングイッサ(腸詰)を焼いてくれた。私はビナグレッチとフレンチフライとガーリックライスを用意し、リマの豆を煮ておいて、煮豆の味付けはエドソンにしてもらった。エドソンはリングイッサを854グラム(13.66レアル=約482円)、牛肉は1.85キロ(51.62レアル=約1,824円)の塊を買ってきた。でも、全部焼いたのでは多すぎるからと、それぞれ半分ずつを焼いてもらったのだけれど、その半分(つまり、リングイッサ400グラムと牛肉900グラム)をみんなで完食。さすがにおいしいとみんなの食が進む。そして、夕飯の後、はるとひろとめいにオシッコをさせてから、エドソンが買ってきてくれていたデザートを食べて、いざ、プレゼント交換。最近、エリカたちはクリスマスではなく、7月から8月の桜の時期にやって来るようになり、クリスマスのプレゼント交換ができないので、1年に1回のこの機会にプレゼント交換をすることにした。ブライアンは両親からもらったおもちゃがとても気に入った様子。でも、同時にエリカたちがエドソンにプレゼントした道具箱もとても気になるようで、しきりに覗き込んでいた。

私たちはエリカにカーディガン、デニウソンにT-シャツ、そしてブライアンにはズボンとフード付きのスウェットシャツのセットを贈り、エリカたちからは、次の写真の品々を贈られた。「僕へのプレゼントはふとつだけで、キョウコには4つも?いいなあ・・・」とエドソンがボヤいてみせる。私たちは彼らにひとつずつしかプレゼントしていないのだし、私へのプレゼントは台所用品で、エドソンもその恩恵を受けるのだから感謝、感謝。

2017年7月24日(月)

今、桜のお陰で家の回りがとても華やいでいる。次の写真は、玄関を出て正面に見える桜。一番手前左に見える木が一番たくさん花を咲かせている。他の木々は花と同時に葉も出てきてしまっているので、花があまり目立たない。

次の写真は、家の南側の三角地帯に下りて行くところにある3本の桜。左側の2本が満開になっている。

次の写真は、庭の4本の桜のうちの3本。この写真は、土曜日に撮ったので、手伝いのゼーの車や、彼らがお昼休憩をするテーブルの上に置かれた荷物も一緒に写っている。2枚目の写真は、左側の木の桜の花をアップで撮ったもの。

上の写真の、庭の桜の右側の木に、普通の薄ピンク色の花に混じって、濃いピンクの花も咲いていたので、次の写真を撮った。庭の4本の木の内、濃いピンクの花が混じって咲いているのはこの木だけ。この木の北側にはセドリーニョがあって、日陰になっている時間が長いから、こんなふうに2色の花が咲いたのだろうか?不思議。不思議。

2017年7月25日(火)

日曜日のお昼は、うちから東に車で10分くらいの台地の際にある、バー・ド・ヴィヴァンというランショネッチにコシニャとキビをみんなで食べに行った。これまで何度もここに来ているけれど、お店の中の写真を撮ったことがなかったかなと思い、エドソンが注文をしている間に以下の写真を撮った。このお店は夜、バーとして営業しているのだと思うけれど、週末の昼間はランショネッチとして、コシニャやキビなどを販売している。この写真には写っていないけれど、右側のスペースにビリヤード台があり、男性が3人くらいでビリヤードに興じていた。ここのコシニャはおいしいことで有名で、ここからの景色もいいので、週末にはボトゥカトゥなど近隣の町からオートバイや車でたくさんの人がやって来る。2枚目の写真は、お昼を食べ終えてから、店の前の道路の反対側に行って、店の建物を正面から撮ったもの。店の前にオートバイや車がたくさん見えるけれど、この写真では見えない店の右側から入って行く狭い道にも車が何台も駐車されていた。

店の前の道路を横切って、店とは反対側の景色を見ると、遠くに高速道路のカステロ・ブランコ上にあるホドサーブ・スター(日本で言うサービスエリアのような場所)が見えたので、以下の写真を撮ってみた。このホドサーブ・スターを左に見ながらカステロ・ブランコをしばらく行くと、右側にパーディーニョに行く出口がある。

この台地の際には、以前はバー・ド・ヴィヴァンしかなかったので、こんな景色のいい場所にレストランか何かを建てて営業すれば流行るだろうに、ここの人たちはそういうことは考えないのかしらね?と、エドソンと話していた。そうしたら、バー・ド・ヴィヴァンのすぐ手前の右側の狭い土地に、2年ほど前だったか新しくパイネイラ・ヴェーリョ(古いパイネイラの木)というお店ができた。レストランには見えない店の構えから、ここもランショネッチなのかなと思っていたのだけれど、この日、立ち寄って覗いてみるとポル・キロのレストランだった。ポル・キロというのは、お料理が店の奥の大きなテーブルに数種類並べられていて、お客さんは好きなものを好きなだけ自分のお皿に取って、その重さによって料金を支払うという、ブラジルではよくあるシステムのレストランのこと。でも、レストランの中と外を区別する窓などの境がなく、オープンなレストランなので、風の強い日とか、雨の日はどうするんだろう?と、ちょっと不思議に思った。次の写真は、お店の建物を撮ったもの。お店から出てきているエドソンとエリカが写っている。この店は土曜と日曜のお昼だけの営業ということだった。店の回りに駐車されている車の数からも、結構流行っている感じだ。

2017年7月26日(水)

日曜日のお昼、バー・ド・ヴィヴァンから戻って一息入れた後、ブライアンがお昼寝をしている間に、下の部屋の前で日向ぼっこをしながら4人で家族会議を開いた。エドソンはたったひとりの甥っ子ブライアンの将来をとても気にかけていて、いい環境で、質の高い教育を受けさせたいと願っている。そのための協力は惜しまないと、これまでも繰り返し言ってきているのだけれど、今回はさらに踏み込んで、ブライアンの将来について具体的にいろいろと話し合った。エリカとエドソンは同じ両親の下で生まれ育ったのだけれど、性格も物の考え方もまったく違うので、どこまでエドソンの言っていることがエリカに伝わったかはよくわからない。ブライアンの親はエリカとデニウソンで、エドソンと私ではないので、こちらが何をどう考えても、最終的にどうするかを決めるのは私たちではなく、エリカとデニウソン。さて、彼らがどう判断するか・・・。とにかくブライアンのことを最優先に考えて決めてくれるといいのだけれどと、願っている。

次の写真は、日曜日の夕飯に食べたハンバーガー。今年になって、パーディーニョのセントロにハンバーガー専門店ができた。そのお店は私の英語の生徒さんのムリロの友達がやっている店なので、ぜひ食べに行ってやってくれと言われていた。それで、エドソンは5月に開催したアマチュア無線の衛星通信に関するイベントの際、この人に頼んで、いつもは営業していない日曜日のお昼にわざわざ店を開けてもらって、参加者がここでお昼を食べられるようにしてもらったことがあった。でも、普段は週末の夜しか営業していないので、これまでエドソンと私はこの店に行くことができなかったので、エリカたちがいる間に、お持ち帰りで試してみようということになり、エドソンとデニウソンが店に行って、ハンバーガー4つと、4人分のフレンチフライと、ジュースを買ってきてくれた。しめて68.80レアル(約2,427円)。この店のハンバーガーはお肉を100グラムと200グラムの2種類のどちらかの重さで選んで、パンを選び、間に挟むトマト、レタス、ベーコン、ハムなどの食材を選ぶというものらしかった。ヴィトーからここのハンバーガーは大きくておいしいと聞いていたけれど、100グラムの小さい方のハンバーガーを買ってきてくれたのに、マクドナルドのハンバーガーよりもずっと大きくて、胃にもたれる感じがなく、とてもおいしかったので感激。今後も機会があったらお持ち帰りをして食べようとエドソンと話した。

2017年7月27日(木)

次の写真2枚は、月曜日の朝撮ったもの。はるはデニウソンがかまってくれて、体を撫でてくれるので、彼が側にいると、すぐ彼の所に行って甘える。ブライアンも一緒になって楽しそうにはるをかまっている。ひろはだいぶ慣れてケージから出てきてはいるものの、右に行ったり、左に行ったり、彼らの側をうろうろそわそわするばかりで、あまり近くには行けないでいる。

ブライアンは基本的にハッピーないい子で、とても可愛い。でも、エリカとデニウソンがとても甘いので、うちにいる間、ブライアンだけでなく親たちにも彼に対してやってはいけないことを教えなくてはならず、どうしてもエドソンが厳しく対応することになってしまう。例えば、食卓でブライアンが携帯電話で動画を見ることを許すエリカたちに、それを止めるように言って止めさせたり、食事中はちゃんと椅子に座って食事に集中して、食べ物で遊んではいけないなどとブライアンを諭したりと、結構細かいことを厳しく言わなければならない。それでもエドソンは厳しいばかりではなく、ほめるところはちゃんとほめてあげるし、ちゃんとかまってあげるので、ブライアンもエドソンが厳しいだけではなく、彼のことを大好きだということもわかっている。だからブライアンもチチオ(titio=おじちゃん)のことが好きなようで、ちょっとほっとする。

2017年7月28日(金)

火曜日の朝食後、5泊6日のここでの滞在を終えて、エリカたちはリオデジャネイロ州のパラカンビに向けて帰って行った。そして、夕方6時頃に無事帰宅したと連絡があり一安心。彼らがいる間は、食事の準備や、洗濯、掃除などで毎日忙しかったけれど、帰ったら帰ったで、彼らが使った大判のバスタオルやベッドシーツやベッドカバーの洗濯、部屋の掃除に毎日追われている。「孫は来てうれしい、帰ってもうれしい」と言うけれど、一年に一度しか来ない彼らも、孫ではないけれど、ちょっとそんな感じかな?と思う。

先週の土曜日に、「ゼーに桑の木の回りに生い茂ったグアンドゥー豆の木を取り除いてもらったから、今年は桑の実の収穫がし易くなったよ」とエドソンが言っていた。でも、エリカたちがいる間、その状態を見に行く時間がなかった。そして、昨日ようやく見に行ってみた。エドソンの言葉通り、桑の木の回りのグアンドゥ豆の木が取り除かれて、上の写真のように桑の木がはっきりと姿を現し、木へのアプローチが容易になっていた。中央手前の緑の葉に被われた木3本は、大きな実のなる桑の木で、後方のまだあまり緑の葉が出ていない木々は、小さな実のなる桑の木。大きな実のなる桑の木は、枝にたくさん実をつけているので、その写真以下の2枚も撮ってみた。これらが赤くなって収穫できるのは9月。この様子だと今年もたくさん収穫できそう。ウキウキ。

2017年7月29日(土)

次の写真は、家の西側にある玄関前の庭に咲く桜6本。家の北西にあるランドマークの木の前辺りから撮ったもの。ほぼ満開の木や、ピークを過ぎて若葉が茂り始めた木など、1本1本状態が異なるのがうちの桜の特徴。この桜の木々の手前の低い位置に、桜と同じようなピンク色の植物が見える。この植物は葉が肉厚なので、サボテンの一種なのかな?と思うものの、何なのかは知らない。何もせずただ放ってあるのだけれど、自然のままあちこちにどんどん増えていっている。この植物は1年に一度こんな風に花を咲かせてから枯れて行く。2枚目の写真は、そのピンク色の植物を近くから撮ったもの。

2017年7月30日(日)

次の写真は、家の前の庭に4本ある桜の木のうちの1本。この木の左側の枝が垂れ下がっていて、枝垂れ桜のような感じで何だか風情があるなあと思ったので、写真に撮ってみた。枝の左後には糸杉と、葉を落としたフランボヤンが見え、さらに後ろにはランドマークの木が見える。2枚目の写真は、家の東側の庭にある桜の木。今ほぼ満開の状態。

2017年7月31日(月)

以下は、2017年7月28日付け、ニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。とてもいい本のようなので、香山文庫に加えようと、早速サンパウロ新聞にメールを送り、送料込みの料金と振込先の詳細を確認して、本を入手する準備を始めた。

数十年に一度の大仕事『ブラジルの大地に生きる』

コロニア人物紹介本で、これほど網羅した本はもう二度と出版されないかも――このほどサンパウロ新聞から出版された『ブラジルの大地に生きる』(392頁)のことだ。なんと2年半かけて北はアマゾンから南は南大河州まで、靴をすり減らして歩き回って120人も取材した労作だ。

うち100人を担当したのは松田正生記者だ。彼にとっても、一生一代の大仕事になったのではないか。昨年百周年を迎えたブラジル邦字紙業界においてもメルクマール(道標)といえる一冊だ。

移民史といえば、ついつい近場の聖州、パラナ州あたりに偏ってしまいがち。ところがこの本は北伯、北東伯だけで32人、南麻州6人、南大河州19人だけで半分を占める。従来なかなか手の届かなかった、聖市から遠方に住む移民・日系人に焦点を当てて取材したもの。

サンタカタリーナ州が入っていないのが残念だが、それでも邦字紙史上まれなほど、日本の23倍の広い国土を歩き回って汗をかいたことは高く評価すべきだ。

これに匹敵するのは移民50周年で刊行された『輝ける人々』(サ紙、1959)や『ブラジル日本移民人国記』(池田重二著、日伯文化出版社、58年)、同60周年の『在伯邦人産業文化躍進の六十年』(池田重二、サ紙)など多くない。数十年に一度、それぐらいの大仕事だ。

かつてのこの種の人物紹介本は、経済的に豊かな成功者だけを取材して費用をもらって出版することが多かった。80年代までこの種の出版事業はいくつかあったが、90年代以降、パッタリなくなった。今から100年後の研究者が見た時、90年代以降に活躍した人物をまとめて本にしたものは多くない。

今回の松田記者の本は、純粋に取材価値のある人物だけを選んだという点で、いままでの出版事業系の本とは一線を画す。だから、資産家でもなく、有名でない人も含まれている。記者が移民史として残す価値があると判断した人だけが掲載されている。

同書の前書きには、こうある。《社会的に有名である人も、そうでない人も、不器用で回り道をした人も、一人ひとりがブラジルで自身または家族の生活を築いています。その歩みを少しでも記録に残せたらとの思いで取材を進めました。(中略)それぞれの土地で日本人・日系人が地域の発展に貢献してきた。その功績は、日本の人は知らなくても、それらの地域の歴史に確かに刻まれています》。

残念なことに250部しか印刷しておらず、数多い関係者に謹呈すれば、一般読者に販売できる冊数は百冊あまりしかないようだ。この本は日本側の移民史研究者には必携の史料になるし、早々に売り切れる可能性がある。

バストスの阿部五郎さん(二世)の回の締めくくりには、次の世代への期待として「私たちが子供の時に教わった、他人に迷惑をかけない、親の顔に泥を塗るなといったこと、そういった財産を持ち続けてくれたら十分」(276頁)と書かれている。さらに「これが一番大きな財産だと思う。一世が夢見てきたブラジルに金の成る木はなかったけど、残した遺産には大きなものがあった」と締めくくられている。その阿部さんは先日、サントス厚生ホームで亡くなった。

「最後の日本兵」小野田寛郎さんの回も興味深い。コロニアに関して《「皆さん苦労している。その点見上げたもの」。独立独歩で新天地の生活を切り開いた人たちの足跡から、今の日本に伝えられるものがあると話す》(305頁)とあり、斎藤準一空軍大将の存在をそのシンボルとして挙げ、《100年たって日系人がブラジルの国、国民から本当に認められたということ》と語っている。

二世にその国の軍のトップを任せる―とは、そういうことなのだ。行間からいろいろなことを考えさせられる本だ。(深)



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