Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2017年5月1日(月)

昨日の30日に、楽書倶楽部の7周年記念親睦会がサンパウロのリベルダージにあるブラジル日本文化福祉協会5階の県連会議室を会場にして行われた。それで、土曜日はこの会場に近いリベルダージの日系パレスホテルに1泊した。開始時間は10時なのだけれど、30分前にはお越しくださいということだったので、9時少し過ぎにホテルを出て、9時15分頃には到着したのだけれど、もうすでに結構な数の人たちが来ておられた。次の写真は、会場の入り口で参加者の受付をしておられた鎌谷さん。いきなり声をかけて写真を撮ったので、ちょっとびっくりした顔をされている。

次の2枚の写真は、会が始まる前に私たちが陣取った席から見える受付の辺りと、会場の中の様子を撮ったもの。1枚目の写真の左側手前に横を向いた後ろ姿が写っているのは、前園さんの長男さんで、この日はカメラマンとして出席者の様子を写真に撮りまくって活躍していた。とても明るく気さくな方で、日本語も上手で、こういう息子さんがおられるなんて、前園さんは幸せだなと思った。会場入り口の向こうに、ニッケイ新聞編集長の深沢さんと、ミナス・ジェライス州のベロリゾンチから来られた荒木さん(イタイプダム建設に関わった8人のサムライのおひとり)が立ち話をしているのも見える。テーブルの上にあるたくさんのお花は、グアラレマで花の栽培農家をされている阿久澤さんが提供されたもの。切花だけでなく、鉢植えの花も育てておられるようだ。

ほぼ10時きっかりに会が始まり、松井さんが先没者の方々のお名前を紹介した後、皆さんで黙祷を捧げた。正面の壁の楽書倶楽部七周年記念親睦会という文字の下に、この7年間にお亡くなりになった同人の方たちの写真が張り出してある。去年亡くなられた香山さんや大羽さんの写真ももちろんある。2枚目の写真は、挨拶をしている前園さん。

次の写真は、親睦会のプログラムと、最後に皆さんで合唱する「上を向いて歩こう」の歌詞が印刷された紙。2枚目は、戦後のブラジルの日系人の間で起こった勝ち負け抗争に関する取材をずっと続けておられるニッケイ新聞編集長の深沢さんが講演されているところ。戦争が始まったすぐの頃に、日米で行われた交換船に関する本を土台にいろいろ調べて、当時のブラジルの状況を探り、連載記事にしようとしていることを、いち早く話してくださった。その交換船にはブラジルからも乗った人たちがいて、その一方で、乗れるのに乗らなかった人たちもいたようで、興味深いお話だった。

2017年5月2日(火)

半年以上前から始まった7周年記念親睦会の準備は大変なので、兵庫県人会やコチア青年連絡会の役員を昨年辞められた鎌谷さんが、前園さんの手助けをしようと今回は親睦会の幹事役を買って出られて、大活躍のようだった。お昼は鎌谷さんの知り合いの信頼できる日系の仕出し屋さんに頼んだとおっしゃっていたので、お弁当だとばかり思っていたら、予想に反してにご飯ものは様々なにぎり寿司、巻き寿司、いなり寿司が用意され、何種類もの手の込んだおかずに、熱々のおでんまであって、驚いた。どれもとてもおいしくて、欲張ってたくさんいただいてしまった。次の写真は、セルフサービスで取ってきた私のお皿。お寿司などを少し食べた後、そうだ写真を撮らなくてはと思い出して撮ったもの。見事なお料理がずらりと並んだテーブルの写真を撮るのを忘れたことを後で後悔。

ゆったりと2時間余りの昼食の時間中に、いろいろな方のところを巡って、お話できたのでとても楽しかった。広島出身で、戦後シベリアに抑留された後、広島に戻り結婚され、ご夫婦でブラジルに移住された谷口さんご夫妻ともお話しすることができた。谷口さんは己斐のご出身で92歳。私の母よりもひとつ年上。奥様は88歳で観音町のご出身ということだった。私の母も大黒柱のお兄さん(私の伯父)を戦争でとられたため、市の中心部でやっていたラジオ店を閉めて、母の母(つまり私の祖母)、母、妹(私の叔母)の女3人で己斐で暮らしていたので、奇遇だなと思った。そのお兄さんは戦死し、戻ってくることはなく、妹も原爆で亡くなったので、戦後母は祖母とふたりきりになった。87歳の宮川さんはずっとバイーア州の農場で暮らしておられたのだけれど、3人組の強盗に入られて、ピストルを頭に突きつけられてお金を出せと脅され、お金がないので、農場の収穫物をごっそり持って行かれたという経験をしたそう。その後もバイーアにいたかったのだけれど、サンパウロ在住の子供たちが心配して、呼び寄せられたので、現在はサンパウロ在住。空手道場に通っておられて4段だという。短歌の先生をしていらっしゃる小野寺さんも87歳。同人の方々の大多数は80代で、次に70代の方が多く、90代の方もいらっしゃる。とにかくみなさんとてもお元気。私は最も若輩者のひとりなのではないかと思う。みなさんとても高齢なのに、腰の曲がっている人がほとんどおらず、眼鏡をかけている人も多くないことにエドソンは驚いていた。

次の写真は、午後2時から始まった「熟年が元気に過ごせる講話」をされているJICAシニアボランティアの鈴木京子さん。ブラジルに派遣されて9ヶ月ほどになるそうで、サンパウロだけでなく、あちこちにある日系熟年クラブを回って講演、指導されていらっしゃるという。お腹でする深呼吸や、嚥下障害や風邪を予防するために、口の回りの筋肉を鍛える方法や、体の血流を良くするための簡単な運動などなど、実演しながら話してくださった。次の写真は、健康のため、1日に1回は大きな声で笑いましょうと話しておられるところ。はっきりとした声で、とても聞きやすい話し方をされる元気な方だった。

2017年5月3日(水)

楽書倶楽部の4月号は、創刊七周年記念号ということで、いつものように4月の上旬に郵送されず、親睦会への参加者にはその場で渡された。と言うか、もっと正確に言うと、七周年記念の記念品のお土産の袋の中に入っていた。この号にはいつもよりも多い、46人の方たちから寄せられた文章が掲載されていて、いつもよりも厚みのある本になっていた。次の写真は、その記念号で、以下はその号に掲載された私の文章。

奇跡の国の伝統絶やすな

ブラジルの人たちに日本のことを聞かれると、私はまず最初に、日本が世界最古の国で、二六〇〇年以上の歴史がある国だということを知っていますかと尋ねることにしている。すると皆一様に初耳だと言って驚き、一番古いのはChina(シナ)じゃないの?と言う。それで、俗に「中国四〇〇〇年の歴史」などと言うけれど、中国の歴史は異民族支配も含めた王朝交代の歴史で、その都度歴史は書き換えられ、三百年以上続いた王朝はひとつもなく、四〇〇〇年も続くChina(シナ)という国は存在しないこと、一九四九年に建国された現在の中華人民共和国の歴史は七〇年にも満たないことを説明する。そして、日本の次に歴史が古い国はデンマークで、十世紀頃の建国なので、一〇〇〇年少々の歴史があり、三番目はイギリスで九〇〇年くらいの歴史があると説明する。

日本の起源は、日本神話では紀元前六六〇年に、初代天皇とされる神武天皇が大和の地に国を造ったのが始まりとされ、日本の天皇は神武天皇の子孫によって受け継がれ、現在まで綿々と続いている。そんな神話なんて信用しないという人でも否定することのできない考古学に基づく確固とした起源は四世紀頃なので、それから数えても、少なくとも一六〇〇年以上の歴史があり、いずれにしてもデンマークやイギリスよりも歴史が長く、世界一古い歴史を持った国であることに変わりはないということも付け加える。

そして、彼らがさらに興味を示せば、もうひとつ。ブラジルは昔ポルトガルの植民地でしたね。アメリカは?そうイギリスの植民地でしたね。では、日本は?と聞く。皆、答えられない。それもそのはず。日本はその長い長い歴史の中で、どこの国の植民地にもなったことがない世界で唯一の非欧州国。例外はタイで、タイの東側の諸国はフランスの植民地となり、タイの西側はイギリスの植民地となったため、英仏両国が直接国境を接して対峙することを避けるために、緩衝地帯として、中間のタイを意図的にどちらの国の植民地にもせず残したので、タイは独立を保てたのだ。しかし、自力で独立を維持したのは世界中を見渡しても日本だけなのだと説明する。

日本や日本人を理解してもらうためには、この世界に類を見ない歴史と文化と伝統を途切れることなく、これほど長く維持しているのが日本であり、日本人なのだということをまず理解してもらう必要がある。英文学をはじめとする西洋文学では、近代詩と古代詩の形式がまったく異なっていて、世界の中で、日本だけ詩(短歌)の形式が古代から少しも変わっていない。また、西洋や中東でキリスト教の教会や、ユダヤ教の教会(シナゴーグ)、イスラム教のモスクが新しく建てられる時には、近代建築様式で建てられ、古代の様式で建てられることはないけれど、日本では、近代都市に新しく神社が建てられる時でも、神代からの昔ながらの建築様式で建てられる。だからこそ私たちの心は和むと、何かの記事で読んだことがある。古代から現代へと連綿と続く文化と伝統。その歴史に断絶はなく、それにより形作られてきた国と人々。この奇跡のような国が日本であり、その伝統を長く大事に守ってきたのが日本人なのだ。そして、その中心に天皇陛下がおられる。

天皇は英語ではエンペラー、ポルトガル語ではエンペラドールと訳すけれど、西洋の王や皇帝とは異なり、日本の天皇は日本国の象徴であり、「君臨も統治もせず」、いわゆるpriest king(祭祀王)なので、国民の安寧と幸せを祈ることが歴代天皇の一番大事な仕事。そのためエンペラーとかエンペラドールと訳すと意味が少し違ってくると説明しても、理解に苦しむようだ。以前、「天皇の料理番」というテレビドラマを見ていて、主人公の料理の師匠が戦後占領軍の高官に、「あなたにとって天皇とはどんな存在ですか?」と聞かれた際、少し考えた後、「強いて言えば、みそ汁のような存在とでも言いましょうか・・・」と答えていた。つまり、普段は意識しないけれど、必ずそこにあることが当然と思われ、ないと困る存在という意味のようだった。そうすると、ブラジル人には毎日の食事に欠かせないフェイジョン(煮豆)のような存在と言ったらわかり易いだろうか?

とても曖昧な記憶だけれど、昭和天皇が崩御された後、「天皇陛下、いないと何だか寂しいぞ」という俳句をある女子校生が作ったというニュースを聞いたように思う。普段はまったく意識しない存在でも、いないと寂しいとそんな若い子でも感じるというのが、一般国民にとっての天皇陛下という存在なのかもしれない。言い得て妙だと思ったものだった。日本人にとって、天皇陛下は扇の要のような存在なのだと思う。だからこそ東日本大震災の後、打ちのめされていた人々に向かって映像を通して陛下がお話をされた際、多くの人々が心動かされ、これで何とか立ち上がれると強く勇気づけられたのだと思う。天皇陛下の他に、このように国民の心をひとつにまとめ、動かすことのできる存在は他にはない。それが私たち日本人にとっての天皇陛下という存在であり、日本人が失ってはならない伝統なのだと心底思う。この伝統を失った時、日本は日本ではなくなり、日本人は日本人ではなくなってしまう。時代によって変わるイデオロギーに押されて、大事な伝統を失ってからその損失の大きさに気づいても遅いのだ。

2017年5月4日(木)

楽書倶楽部7周年記念親睦会は、午後3時半過ぎまであったのだけれど、私たちは帰りのバスの時間があって、最後までいることができず、鈴木さんが講演されている途中、2時40分頃静かに部屋を出て、失礼した。遅れて来られた方などもあり、最終的には50人前後の参加があったのではないかと思う。とても盛会だったので、前園さんも鎌谷さんもほっとされたのではないだろうか。楽書倶楽部が7年も続いていることや、文章を寄せる同人の数が増えていることや、文章は書かないけれど、楽書倶楽部が届いていろいろな方の文章を読むのを楽しみにしている方たちもおられ、みなこうやって親睦会に駆けつけてこられる。これは一重に前園さんのお人柄によるものだろうなと思う。まあ、そう言う私も前園さんが主宰されているから文章を書いているようなところがあるのだけれど・・・。親睦会のあった東洋人街と呼ばれるリベルダージ地区は、週末はいつも多くの人でごった返すようで、土曜日も日曜日も人があふれていて、人をかき分けて歩くのが大変だった。土曜日はホテルにチェックインした後、買い物に出て以下の写真の品々を買い、地下鉄駅の近くのお店で夕食を食べた。次の2枚の写真は、リベルダージの日本食料品店で買って帰った品々。1枚目の写真の日本の食パンは、リベルダージでしか買えないもの。日系のパン屋さんが作っているのだと思う。ポン酢は丸海にはなく、隣のAZUKIというお店でキッコーマンのものがあったので、2本買った。2枚目の写真の味付けのりは、小袋に分かれて入っているものだったので、日持ちがするだろうと買ってみた。どれもここでは手に入らないものばかり。

次の写真は、くじをひいて、親睦会の記念のお土産としていただいた品物の数々。月桂樹の葉は鎌谷さんからの寄付で、新茶は井料さんからの寄付ということだった。大勢の参加者それぞれに、こんなにたくさんのお土産を揃えるのは大変だったろうな、時間もお金もかかっただろうなと前園さんの苦労が偲ばれた。お土産をいただいておいてこんなことを言うのも何なのだけれど、みんなで集まって、楽しくお話しするのが一番の目的なのだから、こんなにたくさんのお土産に苦労されることはないのにとも思った。でも、やるからにはみんなに喜んでもらいたいという前園さんの気遣いが感じられる。

そして、いただきものはこれだけではなく、井上さんからは家で育てているドラゴンフルーツがちょうど収穫できたからと、次の写真の大きなドラゴンフルーツをいただいた。重いのに、わざわざ私たちのために持ってきてくださるなんて恐縮至極。そして、寺田さんからも花の種やのりや干し椎茸などをお土産にいただき、前園さんからは以前いただいたことのある手作りの小魚のおつまみをいただいた。こちらはまったくの手ぶらなのにと、申し訳ない気持ちになった。リベルダージで買い物をするつもりだったので、その荷物を持って帰れるように小型のスーツケースに着替えだけを入れて持って行ったのだけれど、買った品々はそのスーツケースに入り切らず、柔らかい食パンと味付けのりは買い物袋に入れて持って帰ることにした。でも、さらにこんなにたくさんのものをいただいたので、結局、スーツケースとは別に、大きな袋を2つも抱えて帰宅した。

2017年5月5日(金)

今回、サンパウロに行くに当たって、はるとひろを28日(金)の夕方から1日(月)のお昼前まで、うちから30分ほどのボトゥカトゥにあるペットホテル・ヴィラ・シーコに、いつものように預けた。この3泊4日のお泊まりの間に、はるは3月に予防接種を受けなければならないところ、まだしていなかったので、予防接種をしてもらい、ひろもここ1ヶ月ばかり皮膚の調子がよくないので、診てもらい、ふたりとも月曜日の朝シャンプーをしてもらったので、ずいぶん料金がかさんだけれど、ヴィラ・シーコはとても安心して預けられる場所なので、仕方がないと思っている。めいは留守番のゼーとマリアにドッグフードを与えてもらい、時々オシッコやウンチのために散歩に連れ出すように頼み、夜はシュハスコ小屋に移動して寝かせるように頼んだので、家でお留守番してもらった。そして、万事なんとかうまく行ったので、ほっとした。次の写真は、月曜日のお昼過ぎに帰宅し、早速居間のベッドの中でくつろいでいるはる(左)とひろ(右)。ヴィラ・シーコではシャンプーをした後、シャンプーしましたというしるしのリボンをつけてくれるので、はるはピンクの女の子らしいリボンをつけてもらい、ひろはネクタイのような形のものをつけてもらっている。「ああ、やっぱり我が家はいいなあ・・・」と言っているふたりの声が聞こえてきそう。

2017年5月6日(土)

定年退職する前から、定年後のことを見据えてマッサージの先生のもとでマッサージや針やお灸を習得した鎌谷さんは、とても研究熱心な方で、自分の指先を通して伝わってくる患者さんの体の状態に合わせて、必要な治療をしてくださる。体の不調はだいたい腰の歪みから来ていて、悪く固くなっている場所をほぐして行けば問題は解消するのだけれど、体の歪みは癖になっているので、毎日自分自身で直す努力をしないと、また歪んでくる。特に、私たちのように定期的に診てもらえない者にとっては、自助努力というのが大切なので、左右の足の長さの違いをどうやって見るか、そして違いがある場合はどうすればいいかを教えてくださった。腰の歪みを矯正するには、小さく丸い角のない砂利の上を裸足ないし、薄い靴下で毎日歩くといいのだそうだ。私たちはボトゥカトゥへの必要な買い物ですらあまり頻繁には出かけて行けないので、丸い砂利を探して入手するには時間がかかりそうだなと思っていたら、リベルダージで買い物に出た際、ある店先で、足の裏が当たる部分にポチポチのついたスリッパを見つけたので、これを履けば足裏の刺激になって小石の上を歩くのと似たような効果があるかもしれないと思い、次の写真のスリッパをエドソン用と私用に二足買った。帰宅してすぐから履いているのだけれど、気持ちのいい刺激が足裏に伝わってきて、なかなかいい感じ。探し歩いたわけではなく、偶然見つけたスリッパだったのだけれど、ラッキーだったなと思う。

2017年5月7日(日)

先週末、楽書倶楽部の親睦会に出席した際、井上さんが「うちで私が作っているの」と言って、ドラゴンフルーツをお土産にくださったので、昨日の朝食で食べてみた。次の写真は、そのドラゴンフルーツを半分に切ったところ。食べてみて、???、味がしない。サンパウロで風邪をもらってきたみたいで、帰宅してから私は風邪の症状が出ているので、風邪で味覚が鈍くなっているのかな?と、思ったのだけれど、エドソンに感想を聞いても、ほんのり甘味があるけれどやはりほとんんど味がしないと言っていた。不思議な果物だ。フルーツサラダに混ぜたら他の果物の甘味がからまって、おいしいかもしれないと思った。でも、ひとつ問題が発生。土曜日の朝、スーパーで食料品を買って、一旦帰宅した後、日曜日のイベントの準備でパーディーニョに行っていたエドソンが、お昼過ぎにお腹の調子が悪いと言って戻ってきた。朝食べたドラゴンフルーツのせいらしかった。エドソンはアメリカで暮らしていた頃、食べられる花の入ったサラダを食べた際お腹を壊したり、お寿司を食べて救急病院のお世話になったこともある。私も同じものを食べたのに、どちらも私はお腹を壊すことなく大丈夫だった。今回のドラゴンフルーツも私は大丈夫だった。エドソンのお腹はとてもセンシィティブなようだ。

2017年5月8日(月)

土曜日の午後、サンパウロから東へ1時間半ほどのところにあるサン・ジョゼ・ドス・カンポスからエドソンのアマチュア無線仲間のヒデオさんが奥さんと一緒にやって来た。日曜日にエドソンとデミウソンが企画したアムサット・ブラジルの衛星通信に関するイベントがパーディーニョで開催されるため、彼もそれに参加することにしたので、それなら土曜日はうちに泊まればいいということになったらしい。ヒデオさんのお父さんは一世でお母さんが二世なので、自分は二世半だと言っていた。ANATELというブラジルのテレコミュニケーションを管理するお役所に勤めている。日本だと電波管理は総務省だけれど、ANATELはアメリカのFCC(連邦通信委員会)に相当する組織。彼らが到着した後、しばらく居間でおしゃべりをして、エドソンは翌日の会場の準備がまだ少し残っているので、3時頃彼らを連れてパーディーニョに行き、5時頃戻ってきた。次の写真は彼らが戻ってからムリロのところで作っているチーズとワインでくつろいでいるところ。彼らが戻った際、私はテレビで「ハワイFIVE-0」を見ていたので、消し忘れたテレビの画面が一緒に写ってしまっている。

午後6時前にデミウソンも合流して、しばらくワインとチーズを楽しんだ後、一緒に夕食を食べた。メニューは、鶏肉としいたけとしめじのクリーム煮、カリオカ豆と玉ねぎとベーコンの煮豆、きゅうりの酢の物、そして、ご飯。ヒデオさんの奥さんはミナス・ジェライス州の出身だと言っていたので、きっとお料理が上手なんだろうと思うけれど、日本食は焼きそば以外は作ったことがなく、基本、日本食は作れない、作らないと言っていた。

2017年5月9日(火)

日曜日は、アムサット・ブラジルのイベントが午前9時から始まるので、エドソンは8時半までには会場に行かなければならないと言って、朝食を食べた後8時頃、ヒデオさんたちと一緒に出かけて行った。私は後片付けやワンコたちの世話があるので、後からゆっくりと出かけて行き、10時半頃会場のマックス・フェッファー文化センターに着いた。会場に入ると、デミウソンが講演しているところだった(以下写真)。そして、会場の高い場所に下げられていたアムサット・ブラジルのロゴマークをアップで撮ったのが2枚目の写真。

そして、会場の受付にエリカ(以下写真)が座っていたのでびっくり。彼女は以前私がここで英語を教え始めたばかりの頃、うちに通って来ていた生徒さんのひとり。我が家を建ててくれたペドレイロのエディの長女の結婚式で会って以来だから何年ぶりだろう?その時はまだモビが一緒だったから、4年ぶりくらいだろうか?パーディーニョとイタチンガにあるお母さんの衣料品店を手伝っていて、忙しくしていたので、お店はどうしたの?と聞くと、今は軌道に乗ったのか、お母さんがひとりで切り盛りしているということだった。

デミウソンの講演が終わって、エドソンの講演が始まるまでの間、短時間休憩になった際、3年ほど前にグアラレマという町で開催されたブラジルアマチュア無線全国大会で会ったマーセロが声をかけてきて、会場の横の子供図書館にいる奥さんと息子ちゃん(以下写真)を紹介してくれた。奥さんのアニーはインドネシア人で、ブラジルに来たのは何と2週間前だという。息子ちゃんは3歳だと言っていたので、頭がちょっと混乱した。マーセロはどこでどうやってアニーと知り合って結婚したのだろう?この3年の間、マーセロはインドネシアに行っていたのだろうか?アニーはポルトガル語はまだ話せないけれど、英語を話すことができたので、しばらく彼女といろいろおしゃべりをした。今、息子ちゃんを入れる学校を、彼らが住んでいるサン・ジョゼ・ドス・カンポスで探していると言うことだった。まだ来たばかりで右も左もわからないかもしれないけれど、息子ちゃんが学校へ行くようになれば、彼の友達のお母さんたちと知り合うようになり、彼はすぐにポルトガル語を憶えるだろうから、彼と一緒にあなたもすぐにポルトガル語を憶えるわよなどと話した。彼女と話している休憩時間の間、アメリカーナのアディネイも息子のガブリエウを連れてきていて、「お久しぶり~!」となつかしい人たちと言葉を交わすこともできた。

そうこうするうちにエドソンの講演が始まったので、次の写真2枚を撮って、家に帰ることにしたのだけれど、アニーが建物の中は寒いというので、お天気が良く日差しがあるから建物の回りをお散歩したら気持ちがいいわよ、ここは小さな田舎町だから外をふらふらしても治安の問題もないからと、お散歩に誘って、しばらくまたおしゃべりに花を咲かせた。でも、はるたちにお昼ご飯を食べさせて、お散歩に連れて行かないといけないので、アニーにはまた後でと言って、お昼前には会場を後にした。

2017年5月10日(水)

日曜日のお昼に一旦帰宅して、私のお昼とワンコたちのお昼とお散歩を済ませて、しばらくブログを書いたり、休憩したりして過ごした後、4時頃エドソンを迎えに行く約束だったので、またはるとひろをシュハスコ小屋のお留守番スペースに入れて、パーディーニョに出かけた。マックス・フェファー文化センターに着くと、イベント参加者で希望する人たちに衛星放送受信用のアンテナを配布していた(以下写真)。このアンテナは、うちに一度来たことのあるサンパウロでアンテナ製造工場を経営していたブルースさんからの寄付。中国から押し寄せる安いアンテナと競争できず、経営が成り立たなくなり工場を閉めたため、廃棄するしかない運命だったアンテナなのだけれど、このアンテナは衛星放送だけでなく、アマチュア無線の衛星通信にも使えるので、衛星通信に関するイベントをエドソンたちが開催する際、希望者に配布することにしたのだった。

デミウソンとエドソンの講演は午前中だけで、昼食休憩の後、午後からは2階に上がって、この衛星放送受信用アンテナをどのように衛星通信に使うかを実際にデモンストレーションしたりしたらしい。2階に上がってエドソンを探すと、一番奥の方で、誰かと話をしていたので、次の写真を撮った。左側に半分くらい写っているのが、そのデモンストレーションに使うために会場に設置されたアンテナ。

エドソンの話が終わるまで2階でうろうろしながら待っていたら、アディネイとガブリエウがいたので、彼らと少し話をして、写真を撮った。ガブリエウは15歳になり、お父さんのアディネイとほとんど同じ身長になっている。一番左側の人はアディネイの友人で一緒に来ていたルシアーノ。2枚目はアディネイと私が入れ替わって、アディネイが撮ってくれた写真。

次の写真は、すべてが終了して、ほとんどの参加者が帰路についた後、さあ解散しようという直前に撮ったもの。左からエドソン、デミウソン、レアンドロ、マーセロ。マーセロとレアンドロはサン・ジョゼ・ドス・カンポスで一緒にINPE(ブラジル国立宇宙調査研究所)と関係した仕事をしている人たち。右端のマーセロがインドネシア人のアニーのご主人。午後から再度アニーと話していて、インドネシアにいる彼女とブラジルにいるマーセロがどうやって知り合ったのか聞くと、何とインターネットで知り合ったのだとか。しばらくやり取りした後、マーセロがインドネシアにアニーを訪ねて行き、その後アニーがブラジルにマーセロを訪ねたりして、距離を縮めてつい最近結婚に至ったのだそうだ。だから3歳の息子ちゃんはマーセロの子ではなく、前のご主人との間の子なのだそう。これで謎が解けた。アニーはこんなこともぶっちゃけオープンに話すことのできる人で、とても話しやすく、好感を持った。

今回のエドソンとデミウソンが企画したイベントには80人の参加者があり、何人かの人たちは奥さんや子供を同伴していたので、最終的には90人くらいの人が参加したのではないかと言うことだった。参加者はサンパウロ州東部のサン・ジョゼ・ドス・カンポス、サンパウロ、カンピーナス、アメリカーナや、サンパウロ州西部からもたくさん来ていたらしい。中には1000キロもドライブして来たという人もいたらしいので、サンパウロ州の西隣のマトグロッソ州から来た人もいたのかもしれない。参加者からの反響が良く、とてもいい感触を得たので、エドソンは満足そうで、来年もまたやるかもしれないと言っていた。この後、マーセロとレアンドロがエドソンのワークステーションを見るために我が家に立ち寄り、エドソンが彼らと話している間に、アディネイとガブリエウとルシアーノの3人もやって来て、マーセロたちと入れ替わりにうちで話して行ったので、千客万来の夕べになった。彼らが8時前に帰路についてからようやく夕食にありつくことができた。楽しかったけれど、さすがに疲れた。

2017年5月11日(木)

エドソンが土曜日に食べてお腹を壊したドラゴン・フルーツは、ブラジルではピタヤという名前で呼ばれていることがわかった。日曜日の夕方、うちに来たアディネイに果物を見せると、これはピタヤだと言い、エドソンもああそうだったと思い出したようだった。アディネイとガブリエウはこのピタヤが好きだというので、残っていた3つのドラゴン・フルーツを持って帰ってもらった。せっかく井上さんにいただいた果物だけれど、エドソンは食べられないので、好きな人にもらってもらえて良かった。

上の写真は、先週の土曜日にゼーのお兄さんがうちのとうもろこしを2~3袋分けてほしいということで、快く分けてあげたら、そのお返しに私たちにくれた黒い色をしたニワトリ。このニワトリは色が違うからなのか、新入りだからなのか、他の3羽に受け入れてもらえず、今のところ孤立しているようだ。3羽が外にいても、この1羽は小屋の中に引きこもっていて、私が餌を持って行って、小屋の扉を開けると、驚いて外に出たりするのだけれど、次の写真のように、他の3羽とは距離を保っている。側に行くといじめられるようだ。サンパウロに行く前の木曜日と金曜日にこげ茶色のニワトリが1個ずつ卵を生んでくれ、その後もほぼ毎日のように生んでくれ、薄茶色のニワトリもこれまで3個水色の卵を生んでくれたので、サンパウロに行く前後の、1週間余りで生んでくれた卵が1ダースにもなり、喜んでいた。でもこの黒いニワトリが来てからは、他の3羽がこの子を阻害するため、この子はずっと小屋の中に引きこもっていて、その結果、他のニワトリがゆっくり小屋の中で卵を生んでいる時間がないのか、生んでくれなくなっている。やれやれニワトリの社会もいろいろ複雑なんだね。

2017年5月12日(金)

4月30日にサンパウロであった楽書倶楽部七周年記念親睦会で、昼食が終わって午後のプログラムを始める前に全員の集合写真を撮った。先日、楽書倶楽部のホームページの広場欄を見てみると、上の集合写真が掲載されていたので、コピーさせてもらった。写真を見ながら人数を数えたら61人の参加があったことがわかった。この写真は、前園さんの息子さん(最前列中央)がカメラを自動にセットして撮ってくださったもの。下の写真も全体の集合写真なのだけれど、アングルが少し高いので、皆さんの顔が良く見える。ニッケイ新聞の深沢編集長が撮ったものらしく、前園さんが送ってきてくださったもの。

インターネット上で、「ダージリンで出会った韓国若者から見えてきた奇怪な思考方法」Wedge5月8日(月)12:30配信の記事があったので、以下にリンクをはってみる。この記事のサイトは、こちらへ

2017年5月13日(土)

先月、毎年4月になるとピンクと白の2色の花を咲かせるマナカが咲いたと、写真を掲載したけれど、今月は、毎年5月に花を咲かせる白い花が例年通り咲き始めたので写真を撮った。1枚目は庭の一番古いその木で、2枚目は入り口ゲートに向かう道沿いの木々。ここに植わっている木は、みな庭の木から増やしたもの。まだハイビスカスが小さいのでこの写真では分かりにくいかもしれないけれど、この白い花の咲いている木の間には、3枚目の写真のように、花が開かず、頭を垂れて咲く赤いハイビスカスを植えている。このエリアには、他に黄色、ピンク、オレンジのフランボヤンジーニョも花を咲かせているので、現在、とても賑やか。ちなみに、マナカは花の数は減ったものの、まだ咲いている。

2017年5月14日(日)

金曜日の昼食が終わった後、台所で洗い物をしていたら、はるとひろが激しく吠えるので、居間の窓から外を見ると、珍しい人が訪ねてきていた。うちを建ててくれたペドレイロのエディだった。エドソンが出て行って、玄関横のベランダの椅子に腰をおろして話を始めたので、ふたりをパチリ。うちの仕事に戻ってきてくれるのかな?と、ちょっと期待したのだけれど、彼が仕事で使っている機器が壊れたので、エドソンに見てほしいとやって来たらしかった。なあんだ、残念。でも、何だか積もり積もった話があったようで、彼は2時間も話しこんでから帰って行った。この写真を見て、ふたりの服装がずいぶん違うと思う人もいるだろうけれど、お天気がいいと戸外の太陽の下はとても暖かいのだけれど、室内にずっといるとちょっと冷えるので、エドソンは厚着をしていて、戸外で肉体労働をするエディーはとても薄着をしているというわけ。

2017年5月15日(月)

次の写真は、一昨日写真を掲載した入り口ゲートへ向かう道沿いのエリアに生えてきたインゲンを収穫したもの。このエリアには以前も書いたけれど、ミニトマトの木も1本あって、今も実をつけているので、数個ずつ採ってきては台所の窓辺に置いて赤くなるのを待って食べている。このインゲンが生えている場所に台所からの野菜くずを埋めた憶えはないのだけれど、何故か、生えてきて実をつけたので驚いている。このインゲンはここで普通に手に入る大きめの薄緑の大きなインゲンではなく、ボトゥカトゥのスーパーなどで時々見かける少し細めで、緑色が濃いタイプのインゲン。私はこちらの細めのインゲンの方が好きなので、これを見つけると買うようにしているのだけれど、そんなにしょっちゅうお店にあるわけではないので、結構貴重品。そんなインゲンが実をつけてくれるなんて、感謝。感激。2枚目の写真は、インゲンを収穫した際には咲いていなかったのだけれど、翌朝、うす紫色の花を2つ咲かせていたので、その内のひとつを撮ってみた。花の右側に出ているインゲンの実の方に焦点が行ってしまい、花はちょっとピンボケになってしまった。トホホ・・・

2017年5月16日(火)

次の写真は、とうもろこしを収穫した後、立ち枯れしたとうもろこしと、そのとうもろこしの間にぎっしり生えていたブラキアーリアを取り除いてもらった後の丘の風景。丘の上から入り口ゲートの方を向いて撮ったもの。左側の茶色い部分がとうもろこし畑だった所で、右側の緑の部分は、陸稲を刈り取った後。稲の刈り方が何だか雑だなと思うけれど、うちは農業を生業にしているわけではないので、手伝いの人たちのやり方に口を挟んだりはしない。そして、うちでは刈り取った稲を脱穀したり、精米したりできないので、ゼーが刈り取った稲を知り合いの農家に持って行って、脱穀、精米してもらうらしい。

次の写真は、とうもろこし畑よりも南側の桜を植えているエリアなのだけれど、桜の苗木の間にまたとうもろこしの種を蒔いてもらったので、芽が出て、育ちつつある。桜の苗木も、一番最初に植えて、葉切りアリの被害に遭っていないものはだいぶ大きくなってきている。

2017年5月17日(水)

うちの庭で今月咲き始めた花がもうひとつある。庭の西側のブランボヤンと糸杉の間にある白いポインセチア(以下写真)。正確に言うと、4月の下旬頃から咲き始めたような気がするのだけれど、今、たくさん花をつけている。赤い花と違って派手さはないけれど、これはこれでいいなと思う。2枚目の写真は、そのポインセチアの花を少しアップで撮ったもの。

2017年5月18日(木)

今日はニッケイ新聞の記事をふたつ紹介したい。ひとつは、2017年5月10日付けの、本の紹介記事。『 深沢正雪著『「勝ち組」異聞』(無明舎出版)を読む=~遠隔地ナショナリズム論と「勝ち負け」抗争の今日的再考~=岸和田仁(『ブラジル特報』編集人)』この記事のサイトは、こちらへ。終戦後のブラジルサンパウロ州とパラナ州であった「勝ち組」「負け組」抗争は、「勝ち組」=「臣道連盟」=「狂信的テロリスト」というこれまで語られてきたような単純なものではないんだろうなと思う。

もうひとつは、ちょっと古い記事になるけれど、2017年4月20日付けの、ベネズエラの現状に関する『38年間住んだベネズエラを後にして=小谷孝子(画家)』という記事。この記事は、以下の説明で始まっている。『画家の小谷孝子さんは38年間もベネズエラに住んだが、不況や治安の悪化などあまりの国情の変わりように耐え切れなくなり、昨年3月に日本に永住帰国した。「第2の祖国」への惜別の思いを込めた文章が、昨年末の12月28日にサイト「ベネズエラで起きていること」(https://venezuelainjapanese.com/2016/12/31/kodani/)に投稿された。サイト管理者から許可をえて、ここに転載する。ベネズエラではこの3月30日に、最高裁が議会の立法権限の剥奪を決定するなど、事実上の独裁国家となった。ついこの間まで、そんな国とベッタリの政権が当地にはあった。同じ南米の地に住む日本人として、けっして人事ではない体験だ。(編集部)』この記事のサイトは、 こちらへ。ベネズエラがこんなことになってしまった責任の一端は、前のチャベス大統領にブラジル国民の多額の血税を送って支援してきたルーラにもある。国の安定や繁栄や国民の幸せよりも共産主義の伝播を優先していたルーラとジウマの政権が今も続いていたら、ブラジルもベネズエラのような状況に陥っていたかもしれないと思うと、ぞっとする。

2017年5月19日(金)

昨日の朝の最低気温は13度で、ひどく冷え込んだわけではないのだけれど、朝からしとしと冷たい雨が降り気温が上がらず、時間が経つにつれ体の芯からじわしわ冷えてくる感じだったので、昼食後にとうとう蒔ストーブに今年初めて火を入れた(以下写真)。今年は収穫した後とうもろこしをはずした軸がたくさんあるので、ストーブに火を入れる際にそれを使うと簡単に火がつき、とてもよく燃えるので助かっている。ストーブに火を入れてもすぐに室内が暖かくなるわけではないのだけれど、気分的には暖かい感じになりほっとする。2枚目の写真は、そのストーブの前に置いたベッドの中に陣取っているはるとひろ。ちなみに、はるとひろの寝室のベッドにキューブ型のベッドを乗せて、火曜日くらいから使い始めたのだけれど、以来、彼らは午前中はそのキューブ型のベッドの穴の中で過ごし、お天気がいいと、午後からは日差しが家の中に差し込むので、居間の日溜まりの中に置いたベッドに移動して過ごしている。でも、昨日の午後は日差しがなかったため、蒔ストーブに火を入れた後、写真のように、彼らのベッドをストーブの前に移動すると、ずっとそのベッドの中で過ごしていた。

2017年5月20日(土)

次の写真は、玄関前の階段横の箱庭で見つけた青い実のようなものをつけている植物。画面の右手前にちょっとピントのほげた小さな花が写っているけれど、この花と青い実のようなものをつけている植物は同じもの。花が終わるとこんな風に実のようなものをつけるようだ。不思議な植物。

次の写真はその玄関前の階段横の箱庭全体を撮ったもの。つる性の植物がうっそうと茂ってしまって、足の踏み場もない状態だったので、3週間くらい前にゼーに頼んでソテツやカラーの足元の部分の茂みを取り除いてもらった。そして、ソテツの足元の部分の黄色くなった葉も払ってもらったので、青々した葉だけになり、すっきりきれいになった。ちなみに上の青い実のようなものをつけている植物は、この画面の右奥の壁に近い葉に被われた部分で見つけた。

2017年5月21日(日)

エドソンがコンピュータシステムを作って管理しているインターネットサービス会社のオーナーのパウロが、最近豪邸を完成させ、5月8日に引越してその新居に住み始めた。それで、その贅を尽くしたご自慢の新居を見せたいというのと、最近、業界団体のアメリカIT企業訪問旅行に参加して、生まれて初めてアメリカ旅行に行って来たので、その話もしたいらしく、この金曜日に彼の新居での夕食に招待された。でも、はるたちを連れて来るのは遠慮してくれというので、それではこちらが困るので、じゃあ、うちにいらっしゃいということになったようだった。それで、パウロと奥さんのジャナイーナと、娘のイザベラとマリア・パウラの4人が金曜日の夕食にやって来た。夕食というよりもワインとパーディーニョのチーズを食べるのがメインだからとエドソンは言うのだけれど、子供たちはワインはもちろん飲めないし、好き嫌いが激しく、とても偏食な彼女たちがパーディーニョの高級チーズを喜んで食べるかどうか疑問だし、ワインとチーズと、私が焼いたパンだけではお腹が太らないから、お鍋ひとつでできる豚肉とジャガイモの重ね蒸し焼きとサラダも添えることにした。そして、デザートには抹茶味のケーキを作った。次の写真は、みんなで食卓を囲んで食べ始めた所。テーブルの中央にあるワイン2本は彼らが持参してくれたもの。

子供たちは以前はソーダしか飲まなかったので、子供たち用の飲み物は持参してと頼んでおいたら、ストレートのぶとうジュースと、豆乳の入ったぶどうジュースを1本ずつ持ってきたので、最近はこういう果物ジュースも飲めるようになったんだと思った。そして、チーズは大好きと言っていたのに、やはり、私たちが出したチーズは味が強いものだったので、気に入らなかったようで、一口しか食べなかった。そして、結局、彼女たちは豚肉とジャガイモの重ね蒸し焼きとパンをほんの少し食べただけで、サラダすら食べなかった。彼女たちは基本とても偏食なんだから食べなくても気にするなとエドソンは言うけれど、せっかく作ったものをほとんど口にしてもらえないと、ちょっと何だかなあ・・・と思ってしまう。でも、パウロとジャナイーナはどれもおいしいと言って食べてくれ、特に、パウロは豚肉とジャガイモの重ね蒸し焼きを食べて、こういう料理は初めて食べたけれどおいしかったよ。手作りのパンもとてもおいしかったと言ってくれたので、少しほっとした。次の写真は、食卓の上の料理を撮ったもの。右から豚肉とジャガイモの重ね蒸し焼き、サラダ、パン。2枚目の写真は、チーズを切ろうとしているエドソンの手元を撮ったもの。

2017年5月22日(月)

次の写真は、この土曜日にボトゥカトゥに買い物に行った際、日系食料品店のひとつ「ドナ・マリナ」で買ってきたお豆腐。日曜日の夕食の用意をしようと、左側の絹ごし豆腐の容器を開けていて、おおそうだ、ブラジルのお豆腐を紹介しようと思いつき写真を撮った。ボトゥカトゥで手に入るお豆腐は、この2種類の他、もうひとつ別の会社が作っている絹と木綿の豆腐がある。ボトゥカトゥのスーパーでは、これらとは別に何だか豆腐とは思えない食感と味のお豆腐も売られているけれど、いつも買うお豆腐がなかった際、一度買って食べておいしくなかったので、二度とそれには手を出さないことにしている。写真の右側は日系食料品店でだけ販売されている木綿豆腐。エドソンはこの硬い木綿豆腐が好きで、豆腐を買う際、必ずこの大きな木綿豆腐があると買う。これで久しぶりにとうふステーキを作ってほしいと言っている。何年か前、家でお豆腐を作る方法を楽書倶楽部の同人の荒木さんから教えてもらって、何度も作ったことがあるのだけれど、結構手間と時間がかかり、作った後にたくさんできるおからを使った料理を考えるのがちょっと大変なので、最近手作りのお豆腐を作っていないなあ・・・と、これらのお豆腐を見ながら、ちょっと反省。

2017年5月23日(火)

次の写真は、昨日の午後、家の前に下げた日よけのネットの上で丸まっているめい。左側の端っこを結んで、めいの足が届かないようにして、めいがこのネットに乗って破らないようにと、一応の対策をしているのだけれど、日曜日に1日中続いた雨でその結び目が緩み、垂れ下がって来たのをこれ幸いと、ネットに乗っかったのだろうと思う。写真でもわかるように、ネットに穴が開いて、ずいぶんボロボロになっているのは、めいの仕業。ただ芝生の上に座るだけでなく、ネットを引っ張って、上に無理やり座るので、ネットが破れてしまい、だいぶ悲惨な状態になっている。この日よけのネットはもう外してもいいのだけれど、最近雨降りの日が多いので、ネットが乾いてからでないと収められず、まだ外せないでいる。

2017年5月24日(水)

次の写真は、エドソンのワークスペースにあるガスストーブの前のひろ(左)とはる(右)。蒔ストーブは先週の木曜日に使い始めたと書いたけれど、木曜日に続き、金曜日も雨だったので、ガスストーブも金曜日から使い始めた。以来、はるはガスストーブがついていなくてもガスストーブの前に陣取って、ストーブをつけてほしいとアピールしたり、ストーブがついていても彼らのベッドがストーブの前にないと、「ワン」と一声発して、ベッドを持ってきてとアピールする。昨日の朝は少し冷えたので、エドソンがガスストーブをつけると、早速ストーブの前に行って、ベッドを持ってきてとはるが要求するので、私がベッドを居間から持って行くと、2枚目の写真のように、早速ベッドの中に座って満足そうなふたり。うちのワンコたちはストーブの前が大好き。特に、火力の強いガスストーブの前が大好き。夜シュハスコ小屋に行って寝る以外は、寒くても1日ベランダや芝生の上で過ごすめいと比べるとずっと過保護で極楽状態だなと思う。

2017年5月25日(木)

次の写真は、入り口ゲートの所から振り返って見える、うちの丘を撮ったもの。1枚目は、丘の左側。画面左端に見える木はゲート東横にある桜で、その右側に葉切りアリに襲われて多くの葉を失ったパイネイラがある。そして、その右側に見えるのは、自生の松。丘の稜線に沿って見える柵の手前にだいぶ大きくなったコロア・デ・クリストの列も見える。2枚目は、カメラを右に移動させて撮った丘の右側。左に見える松の木は1枚目の写真の松と同じもので、正面奥に見える木々は防風林。我が家はこの防風林の列の向こう側にある。画面右側にあるのはもう1本のパイネイラ。こちらは葉切りアリに襲われていないので、葉を失っていない。この火曜日は久しぶりに快晴で気持ちのいいお天気になったので、昼食後のめいとのお散歩で入り口ゲートまで行った際撮ったもの。

2017年5月26日(金)

今週、久しぶりにペトロポリスの安見さんからメールをいただいた。

「このごろのブラジルは沈滞ムード、TVニュースは汚職とピストルの打ち合いばかり。公務員の給料遅配に失業。ペトロポリスの衣料店はあちこちで閉まっていますし、今回も市は金が無いの一点張りで、BUNKA-SAIは金なしでやることになります。この様に不景気ムードをまともに感じている今日この頃です」と書かれる一方で、次の例を挙げてブラジルって思っているほど不景気ではないのではと書いておられた。

「先週末は孫とリオの水族館見学をしてきました。昨年のリオ・オリンピックで再開発した港の倉庫街に、水族館が出来ています。リオ市民は3歳以上一人60レアル。一家で行くとなると結構の値段になるのに、朝インターネットで入場券を購入したら、買えた入場時刻が3時45分。結構混んでいるようでした。途中のShopping Norteで昼食をしてから行こうと、Shoppingに入ったところ駐車場入り口が混乱。中の大きな食堂街はすごい人。席の確保が大変。特別な休日でもないのにこの混みようはどうしたことか。それでも水族館に早めに着くことが出来ましたが、またこの駐車場も車でいっぱい空きスペース待ち。ようやく水族館内に入ることが出来ましたが、すごい入場者。この二ヶ所の人出の様子からブラジルはどこが不景気なのか、むしろ景気が良いと判断せざるを得ませんでした」と、あった。次の3枚の写真は、メールに添えて送ってきてくださったリオの水族館で撮られたもの。

このメールを読んで、そういう面もあるかもしれないなと思った。ブラジルはジウマを罷免して追い出した後も、政治的な混乱が収まるどころか、腐敗政治家の名前が次々に暴露され、混乱状況が続いている。そのため持ちなおしかけていた経済も、為替レートがレアル安になったり、株価が下がったりと悪化しているというニュースばかり。でも、私たちの回りを見ると、ボトゥカトゥの町にはホテルとマンションとショッピングモールが入る大きな複合ビルが複数建設中だし、パーディーニョの町でも次々に新しい家が建てられているため、うちのガレージの改修をしてもらおうにもペドレイロが見つからないという状況がずいぶん長く続いている。ジミーの経営する林業機械などの製造業の業績はどこも思わしくないようだけれど、パウロの経営するインターネットサービスの会社などは笑いが止まらないほど潤っている。一体どっちのブラジルが現実なのか?と、思う。

2017年5月27日(土)

次の写真は、我が家の西側にあるランドマークの木の側に生えているパパイアの木。この木は何年も前に捨てた種から自然に生えてきて、何度も何度も実をつけている。今年もここ数ヶ月こんな感じで実をたくさんつけているけれど、なかなか色づく気配がない。でも、ちょっと油断するとすぐに鳥に食べられてしまうのが常で、収穫のタイミングが合わず、私たちの口にはなかなか入らない。

2017年5月28日(日)

次の写真は、うちの入り口ゲートの所から見えるパーディーニョの町の東端にできた新興住宅街。以前ここには何もなかったのだけれど、区画整理され道路ができて、ここ数年でずいぶん住宅が立ち並んできた。ここがパーディーニョの町の一番東端で、パーディーニョの町はここから西に向かって伸びている。うちのゲートから直線距離で1~2キロ離れているので、肉眼ではこんなにはっきり見えないのだけれど、カメラの望遠を使って撮ったので、かなりはっきり見える。

2017年5月29日(月)

次の写真は、先日ボトゥカトゥに行った際、ドナ・マリナで買った富有柿。4つ買ったのだけれど、2つはすでに朝食で食べてしまったので、この写真を撮った時は2つしか残っていなかった。こういう一般的でない果物は、パーディーニョのスーパーでは手に入らない。パーディーニョのスーパーにある野菜や果物の種類が限られているのは、いろいろ仕入れても買う人がいないからなのだろうと思う。4月からあらたに私の英語の生徒さんになったムリロも、彼が勤めるファゼンダで作っているチーズの顧客は、口の肥えたサンパウロなど大都市の人たちで、食べ物の嗜好が保守的なパーディーニョの人たちには関心を持ってもらえないと言っていた。今の時期、たまにこれよりも小さめの柿がボトゥカトゥのスーパーにあったりするけれど、やはり日本のものに劣らないような大きくておいしい柿は、日系のドナ・マリナかウエノでしか手に入らない。季節限定の果物なので、ちょうど出回っている頃、ドナ・マリナかウエノに行けばめぐり逢えるという貴重品。安くはないので、一年に一度か二度くらいしか食べる機会はないけれど、ブラジルでもおいしい柿を食べることができる幸せを感じる。

2017年5月30日(火)

先週は毎日お天気が良くストーブの出番はまったくなし。特に、木曜日と金曜日は日差しが強く気温が高めだったため、家の中でもごそごそ動き回ると暑いくらいだった。それで土曜日に、ようやく家の前の日よけネットを取り外すことができた。でも、エドソンは火曜日の夜に参加したグループの例会で風邪をもらったらしく、土曜日はちょっと体調が悪かったので、いつもなら自分でするところ、手伝いのジョゼに頼んでネットを外してもらった。ジョゼがちょうど最後の部分を取り外したところをパチリ。彼は悪い人ではないのだけれど、基本的に口数も笑顔も少ない人なので、本人にそのつもりはないのだろうけれど、何だか私を睨んでいるみたいに写っている。

2017年5月31日(水)

昨年、天皇陛下が譲位の意向の滲むお話をされて以降、私は日本の国の根幹(古い言葉で言えば国体?)についていろいろ思いを馳せることが多く、その結果として、様々に湧き出る思いを吐き出すように、楽書倶楽部の今年2月号に「国歌と国旗」、4月号に「奇跡の国の伝統絶やすな」という文章をそれぞれ寄稿し、まだ発行されていないけれど、来月の6月号には「女性天皇」という文章を寄稿した。そんな中、インターネット上で5月27日(土)付けの週刊SPA9:00配信で、倉山満氏の文章があり、当然のことながら私の書いた「女性天皇」に関する文章よりも、こちらの方が史実に則って明確に説明していて、説得力があるので、少し長いのだけれど、以下にコピーしてみた。女性天皇を認めないのは女性差別だという人たちがいるけれど、そういう人たちの主張はお門違いで、天皇家は女性を差別しているのではなく、伝統の根幹を揺るがすような権力闘争を避けるために男性を排除しているのだということを理解する必要がある。

「女性天皇」賛成派は愛子様に生涯独身で通していただくつもりか?
【憲政史家・倉山満】

女性天皇に68%が賛成! 反対は12%。5月24日の毎日新聞が報じている。

だから、どうした?

現在の皇室典範では女性天皇(女帝)は認められていない。では女帝容認論者は、悠仁親王殿下の皇位継承を阻止し、愛子内親王殿下の御即位を目論んでいるのか。毎日新聞が何を企んでいるのかよくわからないが、悠仁親王殿下と愛子内親王殿下の対立を惹起したいのではないかと勘繰りたくなる。

平成17年にも似たようなアンケートが次々と繰り広げられ、「愛子様が天皇になれなくてよいのか?」という女帝論、「今の皇室典範では愛子様のお子様が天皇になれないのだぞ!」との女系論が、多くのマスコミでヒステリックに絶叫されていた。しかし、「女帝と女系の区別がついているのか」との一声に、その種のアンケートは尻すぼみになった。

最初に大事な結論を言っておく。皇室は一人の例外もなく、男系で継承されてきた。その男系とは男女差別であるとの誤謬がまかり通っているが、それを言うなら、むしろ男性排除の論理であると何人がわかっているのだろうか。

アナタは女帝に賛成ですか? と聞かれたら、私は「絶対に反対とは言わないが、無理やり推進する話でもない」と答える。

皇室に関して迷った時の根本基準は一つ。先例だ。そして、どの先例に従うべきかどうかを考えるために、吉例を探す。

確かに、女帝には先例がある。伝説の時代の神功皇后(神功天皇)は数えないので、有史以来、十回ある。推古天皇、皇極天皇(斉明天皇)、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇(称徳天皇)、明正天皇、後桜町天皇である。皇極天皇と孝謙天皇は重祚(ちょうそ)といって返り咲いて天皇に二度おつきになられたので、八方十代である。女帝は飛鳥時代から奈良時代にかけて集中し、明正・後桜町の二代だけは江戸時代である。

さて、この八方には共通点がある。未亡人か、生涯独身である。

推古、皇極、持統、元明の四方は即位の際に未亡人であり、その後も再婚されなかった。元正、孝謙、明正、後桜町の四方は、生涯独身を通された。

なぜか。女帝の配偶者に権力を握らせないためである。

推古天皇は、敏達天皇の未亡人である。聖徳太子と蘇我馬子との三人で、飛鳥時代を指導した。崇峻天皇暗殺という動揺に際して、擁立された。

皇極天皇は、舒明天皇の未亡人である。中大兄皇子(天智天皇)の実母でもある。大化の改新前後の動揺期に、二度も擁立された。

持統天皇は、天武天皇の未亡人である。壬申の乱に勝利した天武天皇の威厳は偉大だった。それだけに後継をめぐる争いは激しく、天皇の候補者が多すぎたので擁立された。

元明天皇は、草壁皇子の未亡人である。草壁皇子は、天武天皇と持統天皇の実子である。草壁皇子も、その子・文武天皇も早逝した。しかし、草壁皇子の系統に皇位を継がせようとの執念が、元明天皇擁立をもたらした。

以上の四方五代の天皇は、激しすぎる古代の政争のゆえに、擁立された。繰り返すが、全員が未亡人で再婚していない。

元正天皇の時代は、皇族どうしの結婚が普通であったが、それでも遠慮された。配偶者の皇族が権力を持つのが警戒されたからだ。

称徳天皇は、愛人と噂された道鏡が皇位につこうとし、国を挙げての大騒動になった。我が国の歴史において、明確に天皇になろうとの意思を示した民間人は、道鏡ただ一人である。ここに、女帝は生涯独身か未亡人の不文法が確立した。そもそも、江戸時代まで850年間、女帝が絶える。

明正天皇は、父・後水尾天皇の政治的意思で即位させられた。明正天皇の母は徳川和子、二代将軍・秀忠の娘である。後水尾帝と秀忠は激しく対立し、帝は抗議の意味で明正天皇に譲位された。それがなぜ、抗議になるのか。明正天皇は、皇室の先例(不文法)により、生涯独身を余儀なくされるからである。結果、秀忠の曾孫が天皇になることはできなくなる。明正天皇は、わずか五歳で即位し、十九歳で譲位された。その間、後水尾上皇の院政が敷かれ、女帝にはなんの実権もなかった。そして最後は尼となり、七十四歳の生涯を閉じる。政治に翻弄された人生だった。

後桜町天皇は、宝暦事件などで緊迫していた、朝廷と幕府が絡んだ複雑な政治対立を緩和するためだけに擁立された。そして後桃園天皇の若すぎる崩御も乗り切り、光格天皇を支え続けた。なお、光格天皇は現在の皇室の直系の祖先である。そして七十四歳まで静かに暮らされた。後桜町院は、皇室と日本国の繁栄のために女の幸せを自ら捨て、その私心のない姿が国母として尊敬された。

ここで、問う。

「愛子様が天皇になってほしい」と願うのは勝手だ。では、どの先例を、吉例とするのか。愛子内親王殿下にふさわしい先例とは、何ぞや。過去の女帝は、八方とも苛酷な人生を歩まれたことを知ったうえでも、まだ言うのか!?

皇室の先例、不文法に従えば、愛子内親王殿下が御即位されるとあらば、生涯、独身を通さねばならない。

皇室は男系絶対であり、男性排除の論理で成立しているからである。

仮に愛子内親王殿下が民間人の男性とご結婚されたとしよう。その民間人が皇族、そして天皇になれば道鏡そのものである。我が国の歴史で一度も存在しなかった事態である。

またその民間人の男性との間に生まれた子供が皇族、そして天皇になっても未曽有の事態である。そんなものが許されるなら、「天皇に娘を嫁がせて、その子供を天皇にする」などというメンドクサイ摂関政治は不要だった。徳川秀忠だって同じことをしようとしたが、皇室の不文法の前に敗れた。

男系絶対とは、皇室の血をひかない民間人を排除する原理なのである。ちなみに女性は必ずしも排除されない。今の皇后陛下は正田、皇太子妃殿下は小和田の苗字の民間人だったが、いまでは皇族となられている。古くは、藤原光明子が光明皇后となられた先例に遡る。だから、女性差別どころか、男性排除なのである。

女系は先例がないので、論外である。絶対に不可である。

女帝は先例があるので、「絶対に反対とは言わないが、無理やり推進する話でもない」と答える。

愛子内親王殿下は過去八方と同じく、男系女子であり、資格はある。現在の典範が女帝を禁止しているなら、典範そのものを改正すればよい。明治につくられたたかが百数十年の歴史しかない典範よりも、皇室の不文法である古代よりの先例が優先するのは当たり前だ。

では、生涯独身で通していただくのか。

実は、一つだけ方法がある。皇族の男性と結婚されることである。

現時点では悠仁親王殿下だけが有資格者である。いとこ婚は生物学的には問題ないが、無理やり推進する話でもあるまい。

あるいはダグラス・マッカーサーに無理やり皇族の資格をはく奪された旧宮家の子孫である旧皇族の方々から適切な方を探し出してくるか。

皇族のご結婚は国家の大事なので、非礼不敬を承知で申し上げた。

しかし、「女帝に賛成か反対か」と問うならば、これは絶対に避けて通れない問題である。

何よりも大事なのは、現在の皇統は、幼き悠仁親王殿下お一人にかかっているのだ。

何よりも肝要なのは、殿下が御即位される際に、帝を支える男性の皇族がどれほどおられるかであろう。

女帝に賛成か反対かなどと、お遊びに興じている暇はない。

【倉山満氏】
憲政史研究者。著者シリーズ累計35万部を突破したベストセラー『嘘だらけの日米近現代史』『嘘だらけの日中近現代史』『嘘だらけの日韓近現代史』『嘘だらけの日露近現代史』『嘘だらけの日英近現代史』『嘘だらけの日仏近現代史』のほか、待望の新刊『日本一やさしい天皇の講座』を6月2日に同時発売



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