Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2016年12月1日(木) | ||||
今日も昨日に引き続き、安見さんのご旅行のお土産話し。私たちは海外旅行と言えば日本に行くのが精一杯だけれど、安見さんご夫妻の旅行のお土産話しに触れることで、私も疑似体験をしているような気分になれるので楽しい。さて、スリランカの後は、インド洋に浮かぶサンゴ礁の1200の島からなるモルディブへ。モルディブはブラジルの年頃の若い女の子の間で、新婚旅行で行きたいところとして有名なのだとか。知らなかった。でも、それはリオ周辺のお金持ちの家の女の子たちなのでは?とも思った。この田舎町の私たちの周囲にいる人たちはモルディブがどこにあるかもたぶん知らないと思う。まあそれはともかくとして、安見さんご夫妻は今年結婚50周年なので、記念に行ってみようということになったらしい。滞在したのは首都マレからプロペラ機で30分行った島から、さらに高速艇で30分のFINOLHUというところ。サンゴ礁の上の水上ハウスに5泊。海に浸かって景色を眺めてのんびり過ごされたようだ。道子さんはここで79歳の誕生日を迎えたので、皆さんがケーキで誕生祝いをしてくれそうで、結婚50周年とお誕生日とダブルでうれしいことがあったいい旅でしたね。水上ハウスは素晴らしい設備だったそうだけれど、一泊1200ドルと聞いてのけぞってしまった。5泊すると6000ドル。それだけあったらエドソンとふたり分の日本への旅費が賄えるような金額なので、私たちにはとても手が届かないなあと思った。次の写真は、その水上ハウスの前で、おめかしをして夕食へ向かわれるところ。2枚目の写真は、結婚50周年の記念写真。
ここに来ていた観光客は1/3がヨーロッパ、1/3がアラブ、1/3がアジアからで、しかも韓国の新婚さんばかりだったという。ここで働いている人は、レストランの受付が台湾人、事務所の女性がウクライナ人とイタリア人で出稼ぎばかり、「皆たくましいな」と書いておられた。「アラブの女性観光客は目だけ出した黒装束、閉鎖的で友人以外誰とも話さないと思っていた。プールサイドで黒装束の女性からあんた達の写真を撮らせてと言ってきたのは意外だった。イスラム女性には近づけないが、今回近くで見た。目だけ出している。アイシャドーをがっちりやっていた。ものすごい美人の様だ。顔を見せないなんてもったいない。宗教上と言えどうしてこんな習慣になったのだろうと考えた。たぶん昔、既婚の男女とも取り合いが激しかったので混乱を避けるため黒の布をかぶせたのだろう」とも書いておられて、おもしろい解釈だなと思った。
安見さんご夫妻が参加された団体旅行はスリランカとモルディブの二ヶ国訪問だったのだけれど、乗り継ぎ地のドバイは、これまで何度も通っているけれど一度も観光していないので、今回は帰路団体と別れて3日延長してドバイ観光をされたということだった。アブダビの一日観光、ドバイ・サファリツアー、世界一のビル、ブルジュ・ハリーファの展望台に上がって、噴水ショーを楽しまれたという。「ショッピングセンターはものすごく大きく、豪華、すごい」とあった。上の写真は、ドバイ郊外の砂丘で夕日にジャンプをしているおふたり。私も70代後半になってもおふたりのように元気はつらつでいたいものだと思った。 | ||||
2016年12月2日(金) | ||||
この水曜日の午後、郵便局に行くと、1ヶ月も前に横浜在住の甥っ子が航空便で発送してくれた郵便はまだ届いていなかったけれど、2週間ほど前に鎌谷さんが送ってくださっていたズシリと重い小包が届いていた。9月に楽書倶楽部の皆さんと一緒に来られた際、階下の香山文庫にご案内すると、鎌谷さんはすぐにコチア青年に関する書籍を見つけられて、25周年、30周年、40周年、60周年とあるけれど、50周年の記念誌がないことに気づかれ、用事でコチア青年の事務所に出向いた折に、1冊譲り受けて送りますと言ってくださっていた。そして、その言葉通りに送って来てくださったのだった。ずいぶん分厚い記念誌だなあと思いながら開封すると、中からは50周年記念誌だけでなく、「コチア青年 ー妻と歩んだこの道ー」、「コチア青年移住45周年記念写真集 挑戦」、「ペン HIROSHIMA 2015(上)」の3冊も一緒に同封されていた。次の写真が、その4冊。
「コチア青年 ー妻と歩んだこの道ー」のページを何気なくパラパラとめくっていたら、鎌谷さんが書かれた文章が目に飛び込んできた。旧神戸移住センターにコチア青年の誰かが残した落書きについて書いておられる文章だった。この中に鎌谷さんが書かれた文章があるとは知らずにページをめくっていたのだけれど、すぐに見つけるなんて不思議だなと思った。そして、「ペン HIROSHIMA」は、私の知っている先生方が2~3人おられるので、目次を見ていたら、「たちばなの会」の広川和子さんの文章が特別寄稿としてあり、川堀耕平先生のところに遺稿とあったので、ドキリとした。川堀先生は、私が広島県医師会でIPPNWの仕事をしていた頃、お世話になり、良くしてくださった先生のおひとりだった。シベリア抑留経験があり、折に触れてその体験を話してくださった。とても気さくで楽しい先生だった。ご冥福をお祈りします。 | ||||
2016年12月3日(土) | ||||
毎年クリスマスツリーを買いに行くのが遅れ、ようやくエドソンの時間が取れて買いに行くと、すでにいい木は売り切れになっていたりするのだけれど、去年プラスチックのクリスマスツリーを買ったので、今年はツリーを買いに行く必要がなかったため、珍しく12月1日にすぐに飾り付けをして準備をすることができた。次の写真は、いつものようにエドソンに手伝ってもらって飾り付けをして、台所と居間の間のカウンターテーブルの上に飾った今年のクリスマスツリー。いつもの同じ飾りなので、毎年何の変わりばえもしないツリーだけれど、今年も変らず元気に、この季節の風物詩を楽しむことができることを感謝したい。
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2016年12月4日(日) | ||||
次の写真は、丘の上から西を向いて撮った写真。向こう側にだいぶ背の高くなってきているとうもろこしが見え、そのとうもろこしの手前に生えてきているじゃがいもの芽がはっきりとわかるようになってきたので撮ってみた。
次の写真は、上の写真を撮った後、場所を少し北側に移動して北を向いて、お米の芽(と言うか稲の苗と言った方がいいのかな?)が出てきているところを撮ったもの。この丘が雑草のブラキアーリアではなく、とうもろこしや、じゃかいもや、お米の芽で被われているのを見るのはとても気分がいい。最近よく雨が降り、気温も低い日が多いのだけれど、みんなどうか無事に元気に育ってください。
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2016年12月5日(月) | ||||
この土曜日に岡村さんがサンパウロから訪ねて来てくださった。彼はブラジルをあちこち歩き回って、このブラジルでひたむきに頑張って生きている市井の日系人の方たちを長い年月をかけて取材し、映像として残す仕事をしておられる。先月、香山文庫のウェブサイトのことをご連絡すると、関心を示してくださり、かねてから彼の映像を見たいと言っていた知り合いの日系農業研究者の方やUSP(サンパウロ総合大学)などにきている学生さんたちを誘って、香山文庫訪問と映像の上映会をここでしてくださるという話がトントン拍子に決まった。それで車2台に分乗して、総勢8人の方たちがやって来てくださった。最初に岡村さんのグループが到着し、田中さんのグループが到着するまでの間、ベランダで立ち話をしたり、野菜畑に案内したりして、田中さんグループの到着を待った。田中さんグループが到着してから、天候が崩れる前に、まず上映会をした。1998年にNHK-BSの「日曜スペシャル」で放送されたという「第二の祖国に生きて 映像作家の記録したブラジル移民」という1時間のドキュメンタリーを見せていただいた。岡村さんの映像を見るのは初めてだったけれど、彼のことを知った「忘れられない日本人移民 ブラジルへ渡った記録映像作家の旅」という本を読んで受けた印象と同じ、日系移民の方たちへの敬意と優しい眼差しを感じる映像だった。次の写真は、うちの居間のテレビに映像を映し出すための準備ができるのを待っているみなさん。
上映会が始まる前から準備をして、エドソンがシュハスコ小屋でゆっくりお肉を焼いてくれ、12時を回って上映会が済んでからみんなでテーブルを囲んでお昼をいただいた。今回は前日にポテトサラダと野菜サラダとヴィナグレッチを作っておき、当日はるとひろにはずっとシュハスコ小屋の方に居てもらったので、楽書倶楽部の方たちが来られたときのようにあたふたすることなく、落ち着いて対応することができた。昼食後は、私が台所でお皿を洗って片付けをしている間に、エドソンが皆さんを連れ出して敷地内の案内をしてくれたので、こちらも慌てることなくスムーズにいった。天気予報だとお昼前から雨の予報だったのだけれど、何とか2時近くまで雨が降り出さなかったので、とても助かった。雨がポツポツ降り出した頃、お散歩を終えて戻ってこられたので、階下の香山文庫にみなさんをご案内した。この間サンパウロ新聞の記者の松本さんの質問に答えながら、みなさんともいろいろなお話をすることができた。3時頃家に戻り食堂でコーヒーブレークをしながら、さらにお話をした。大人の方たちはみな在伯年数が長い方たちばかりで、いろいろなことをよく知っておられ、話が尽きなかった。学生さんたちも自分の意志でブラジルに勉強に来ているような方たちなので、とてもいい出会いになった。今回の事を提案し計画してくださった岡村さんには心から感謝。そして、4時頃ぼつぼつ帰る支度をされ、ベランダで集合写真を撮ってから、帰路につかれた。後列左から、村上さん、丹羽さん、重本さん、エドソン、岡村さん、前列左から、若林さん、浅水さん、田中さん、松本さん。前後真ん中の若い4人(女性3人、男性1人)がサンパウロの大学や語学学校で学んでいる学生さんたち。この中の若林さんは2週間後には日本に帰国するということだったけれど、またブラジルに戻ってきたいと言って、うちでのボランティアにとても興味を示してくれていた。戻ってきてくれたらうれしいな。そして、彼らはペトロポリスの安見さんが情報拡散を依頼してくださった東海大学国際学科の小貫先生のことを知っているようだった。ブラジルに勉強に来たいというほどの関心を持っているような学生さんの間ではよく知られた先生のようだった。学生さんのひとりはこの小貫先生のファイスブックの情報を見たと言っていた。安見さんにも心から感謝。
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2016年12月6日(火) | ||||
岡村さんとのメールのやり取りの中で、高齢の日系女性が作っている「おばあ茶ん」という紅茶があって、ニッケイ新聞の事務所で販売されているようですねと何かのついでに私が書いたら、岡村さんは「天谷茶(あまやちゃ)」という紅茶の方が少し値段が安くて、味もどちらかというとこちらの方が彼の好みなので、よく日本へのお土産に持参するということだった。そして、土曜日にこちらに来られる際、お持ちしますと言って、お土産に持ってきてくださった(以下写真)。この「天谷茶」は、 サンパウロ市から南へ行ったレジストロ(ないし、へジストロ=Registro)という古い日系移住地で作られている。ブラジルでは断然コーヒーの生産消費が大きいのだけれど、紅茶は日本人移民が1930年代にセイロンから持ち込んだ種から栽培を始めて、現在もこのレジストロで細々と栽培が続けられている。
この天谷茶は、岡村さんが住んでいるサンパウロ市のサウージにいくつもある日系食料品店では普通に手に入るらしい。昔日本人街と呼ばれ、現在東洋人街と呼ばれているサンパウロ中心部のリベルダージは、日系人の商業地区で、そこから地下鉄で数駅南に行ったサウージの辺りはもともと日系人が多く、日系人の住宅地という感じだそうで、最近は「出稼ぎから帰ってきた日系人がもりもり日系食料品店を開け」ているということだった。サウージはブラジル被爆者平和協会の森田さんの「スキヤキ」という日系食料品店と食堂があり、以前、一度中村さんご夫妻に紹介していただいてお訪ねしてお話を伺ったことがあるけれど、町を歩いていないので、日系人の多い町ということは知らなかった。
上の写真は、岡村さんがお土産に持ってきてくださった日系関連の本や雑誌。下の写真は、小説やノンフィクションなど。岡村さんはたくさん本を読まれるようで、どんどん本が増えてしまって困るのだけれど、捨てるのは忍びなく、あちこちに寄贈しておられるようで、今回少しうちにも持ってきてくださったのだった。小説などは、ぼちぼち読んで楽しませていただこうと思っている。この写真を撮った際、うっかり一緒に写し損ねたのだけれど、「大地と生きる 無農薬農業と歩んだ五十年」という続木善夫氏の本もいただいた。この著者の続木さんは岡村さんの奥さんのお父さんで、今年8月にお亡くなりになったということだった。農業に従事した日系人は「農業の神様」と呼ばれてブラジルの農業をとても豊かなものにした大きな実績があるのだけれど、続木さんもそのような尊敬される農業者のおひとりだったようだ。
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2016年12月7日(水) | ||||
次の写真は、この月曜日に収穫したラディッシュとかぶ。ラディッシュの写真はこの夏初めて収穫した際に掲載したけれど、今回はあの時のものよりも少しつぶが大きく、きれいなものが収穫でき、かぶもひとつ収穫したので、大きさを比較するために、並べて写真を撮ってみた。ラディッシュに比べてかぶはあまり出来が良くなく、芽が出なかったものもあり、芽が出たものもこれ以外はまだ小さく収穫できる状態ではない。たったひとつのかぶではどうしようもないので、ラディッシュと一緒に混ぜて酢の物にし、葉はいつものようにおひたしにして食べている。私は酢の物が好きで、エドソンも私が作るから影響されたのか、好んで食べてくれる。大根が手に入れば、常備菜として大根のわさび漬けを作るのだけれど、いつもはバカのひとつ覚えのようにきゅうりの酢の物ばかりなので、ラディッシュが収穫できる今は、ラディッシュの酢の物と交互に作ることができ、目先が変わっていい感じ。
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2016年12月8日(木) | ||||
昨日の朝、朝食の支度の合間にメールをチェックすると、広島の片岡勝子先生からメールが届いていた。『昨晩、伊藤隆明先生からお電話をいただき、「横路(よころ)謙次郎先生は今年の春にご逝去なさっていた」とのことです』というお知らせだった。ああ・・・半年も前に旅立っておられたなんて・・・、ある程度覚悟はしていたものの、とても悲しかった。詳細はわからないけれど、息子さんは何かあったら知らせますと言っておられたのに、やはり、その言葉通りには誰にも連絡をせず、新聞に訃報記事も載せず、半年も経ってから、伊藤先生の知るところとなったということか・・・。広島大学の原爆放射能医学研究所の所長として、放射線影響研究所顧問研究員として、広島大学名誉教授として、長年病理学を専門に癌研究に打ち込まれ、発癌に関する研究の第一人者のおひとりとして専門分野で大きな貢献をされただけでなく、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)の副会長として、IPPNW日本支部の事務総長として、長年貢献された方なのに、彼を慕う多くの人たちに見送られることなく逝かれるなんて・・・逝かせてしまうなんて・・・。寂しすぎる。来年は90歳というお歳ではあったけれど、お元気でいてほしかった。息子さんが先生を広島から岡山の施設に移されてからも、母の見舞いで何度か広島に戻る機会があったのに、結局お目にかかることは許されず、お訪ねできなかったことがとても悔やまれる。大好きな、大好きな、尊敬する先生だったので、何だか体から力がどっと抜けて、がっくりしてしまった。
![]() 横路先生の古き良き友人で、私とも親しいIPPNWの元副会長だったオーストラリアのマドックス先生には、何かあったらお知らせしますと約束していたので、昨日のお昼前にメールを送り、お知らせした。すると、昨晩早速(オーストラリア時間の朝)お礼の返信があり、IPPNWの古いメンバーたちもきっと知りたいだろうからボストン本部のマイケル・クリスト事務局長に私のメールを転送したとあった。マドックス先生はどうかお元気でいてくださいね。 | ||||
2016年12月9日(金) | ||||
先週の土曜日、サンパウロ新聞の松本さん、日系農業研究者の田中さん、留学生の若林さんら数人を誘って、こちらに来てくださった岡村さんは、「岡村淳のオフレコ日記」というサイトをインターネット上で公開しておられる。それで、香山文庫の中でもこのサイトにリンクをはって紹介しているのだけれど、12月3日(土)付けで、「クエスタの地縁」と題して、こちらにこられた時のことを書いておられるのでここにリンクをはってみた。この文章のサイトは、こちらへ。それにしてもいろいろご負担をおかけしたこと、申し訳ありませんでした。どうかこれに懲りずに、またぜひお越しください。 次の写真は、家の前の車寄せから西を向いて撮った来訪者用の駐車スペース。低いレンガの壁の向こうのヒメシマダケの元気がとても良くて、毎年どんどん増えて行くため、今ではうっそうとしたヒメシマダケの壁ができている。この写真の中に見える葉の出ていない真っ直ぐな竹が今年生えてきたばかりの若竹。前後左右にたくさん生えている。特に、右側にあるランドマークの木に向けてたくさん芽を出しているので、ランドマークの木の側に出てきた芽は折って取り除く作業を何度もしている。生えてきてほしくないところに生えてきた竹は折る。こうして何とかコントロールしている。こんなに元気のいいヒメシマダケだけれど、あいにく味は苦いらしく、タケノコとしては食べることができないので残念。ヒメシマダケの後ろに見える背の高い木は、ユーカリの木。ユーカリの木の手前に桜の並木もあるのだけれど、桜の木はユーカリの木のように背が高くないので、ヒメシマダケに隠れて見えない。
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2016年12月10日(土) | ||||
7日の朝届いていた片岡先生からのメールで、横路先生のご逝去を知り、同日昼前にオーストラリアのマドックス先生にお送りした私の私信が転送され、翌朝ボストン本部の事務局長に届き、同日事務局長から世界各国のIPPNW国際評議員に宛てて、以下のメッセージが配信された。私はIPPNW/JPPNWを離れて久しいので、そのメッセージを受け取る立場にはないのだけれど、いろいろな人を経由して、最終的には、以前勤めていたサテライフ(SatelLife=IPPNWから派生したNGO)の初代事務局長だったチャーリー・クレメンツから、8日の夜私のもとにも届いた。1989年に開催された広島大会当時の事務局長で、現在はカリフォルニア州選出の上院議員をしているビル・モニングや、当時のスタッフで、その後ハーバード大学事務局に移ったカレン・オグデンなどからのお悔やみも添付されていて、みな横路先生の死を心から悼んでくれていることをうれしく思った。ここにその国際評議員宛てのメッセージを掲載して、横路先生を偲びたいと思う。
Dear IPPNW Friends, It is my sad task to inform you that we have lost another pioneer of our movement. Dr. Kenjiro Yokoro was a founding member of the Japanese Physicians for the Prevention of Nuclear War. In the summer of 1985, he agreed to serve as general secretary of JPPNW. Little did he know that a few short months later he’d be thrust onto the world stage when IPPNW won the Nobel Peace Prize. Dr. Yokoro was a first year medical student in Hiroshima in 1945. As fate would have it, he was outside the city center on August 6th. He returned a few days after the atomic bombing to witness horrors beyond description. For the next five weeks, he took part in the rescue work, staying at a relief station located about 1,000 meters from the hypocenter. Dr. Yokoro dedicate the rest of his life to understanding the effects of radiation, to caring for the Hibakusha, and to ensuring that nuclear weapons are never used again. He served as a professor in the Department of Pathology at the Research Institute for Nuclear Medicine and Biology at Hiroshima University, and later as Head of the Institute, and was involved in experimental cancer research for over 50 years as a specialist in experimental pathology. He engaged in carcinogenesis research involving cancer of a number of different organs, including leukemia caused by radiation and radiation-induced breast cancer, creating the foundation for radiation-induced cancer research in Japan. Through his carcinogenesis research, he contributed to carcinogenesis experimentation and helped to explain the mechanisms by which cancer occurs. He was also deeply involved in the Hiroshima International Council for Health Care of the Radiation Exposed (HICARE), which was established in 1991 to provide health care to people exposed to radiation from nuclear test explosions, nuclear weapons production, or nuclear accidents. Dr. Yokoro held senior positions in IPPNW over the course of many years, and he was instrumental in organizing the 9th IPPNW World Congress in Hiroshima and Nagasaki in 1989. He also led JPPNW’s North Asia Peace Initiative to unite physicians from China, the Democratic People’s Republic of Korea, the Republic of Korea and Japan behind IPPNW’s mission of a more peaceful world without nuclear weapons. As a part of this effort, he led several IPPNW delegations to dialogue with doctors and officials in Pyongyang, and helped bring the North Korean affiliate of IPPNW into being. Ken, as some of us knew him best, was an exceptionally gentle and kindhearted person who loved to laugh with you. Personally, I will always be grateful for the friendship and encouragement that he offered me. Dr. Yokoro departed this life some months ago, though we only learned of the sad news last night. We believe that he is survived by his wonderful loving wife, though we understand that she is in failing health. There could be no better way to honor his memory than the successful negotiation of a strong Ban Treaty in 2017.
Sincerely, | ||||
2016年12月11日(日) | ||||
雨が多いのは雨期だから仕方がないけれど、夏だと言うのに、今年は気温の低い日が多い変なお天気。そんな中、今週の前半は、昼間はかなり暑くなり、ちょっと動くと汗をかく感じだった。でも、そんな日でも朝は気温が下がって涼しいこともあるので、少し温もりたかったのか、午前中ひろがひとりでダイニングルームの隅っこの日溜まりで座っていたので、写真を撮った。カメラを持ってひろの側に行くと、その音に反応して、寝室のベッドにいたはるがこちらにやって来る音がするので、ひろははるの来る方向に注目している。
はるがやって来たので、ふたり一緒のところを撮った(以下写真)。そして、「はあちゃん、sit」と声を掛けると、次の2枚目の写真のようにはるは指示通りに腰をおろしたので、またパチリ。写真を撮り終えた私がコンピュータのところに戻った後も、ふたりはしばらくこの日溜まりを一緒に楽しんでいた。私たちがこの子たちに話しかける際の言葉は、英語が主で、次に日本語、そして、ほんの少しポルトガル語というごちゃ混ぜミックス。この子たちは赤ちゃんの時から私たちと一緒に暮らしているので、それらを理解しても当然と言えば当然なのだけれど、出会った時はすでに4~5歳の成犬だったモビも、とても賢い子だったので、最初から私たちの言っていることを何語であろうととても良く理解してくれたなあと、この子たちを見ていて、時々モビのことを懐かしく思い出す。はるとひろには十分癒されているのだけれど、モビにも会いたいなあと、ふと思う。でも、横路先生がお亡くなりになっていたという知らせを受けてから、2~3日気持ちが沈みがちだったのを、はるは鋭く察知して、いつにも増して私の側から離れず、私が動くとくっついて歩き、コンピュータの前にいれば、私の膝の上に上がってきたがり、片時も私をひとりにはさせない感じだったので、その気遣いに涙が出そうになった。大好きだよ!はあちゃん、ひろくん。
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2016年12月12日(月) | ||||
日本時間9日(金)午後10時26分、こちらの時間で9日(金)午前11時26分に、国際宇宙ステーション(ISS)に物資を運ぶ補給機「こうのとり6号機」を載せたH2Bロケットが、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられた。エドソンはこの打ち上げをインターネット上のライブ中継で見たらしく、その日お昼を食べながら、H2Bロケットが無事に打ち上げられたとうれしそうに話してくれた。エドソンの友人でアマチュア無線仲間のバウル(Bauru)のデミウソンも同じようにこのライブ中継を見たらしく、男性の技術者と一緒に実況中継をしていた女性アナウンサーの声がとても魅力的だったので「惚れてしまった」などと、打ち上げが完了してから言っていたらしく、日本語がまったくわからないだけでなく、中継は声だけで、女性アナウンサーの顔は一度も写っていないのにと、エドソンは笑っていた。このこうのとり6号機は、14日にISSとドッキングする予定だという。何故、エドソンたちがこの打ち上げに注目していたかというと、INPE(ブラジル国立宇宙調査研究所)が支援するサンパウロ州のウバトゥーバ(Ubatuba)という町の公立中学校の生徒たちが作ったチューブ・サット(TubeSat=管型衛星)が、ブラジリア大学で衛星プロジェクトを実施しているシャンタウ教授所有のイタリアの会社で作ったキューブ・サット(CubeSat=小型衛星)に組み込まれて、このこうのとりに搭載されて、ISSに運ばれ、日本の研究棟「希望」から21日に宇宙に放出されることになっているから。 インターネット上のニュースでは「こうのとりは宇宙飛行士の食料や飲み物のほか、ISSの主電源に初採用された日本製新型リチウムイオン電池入りのバッテリーを運ぶ。過去最多となる、大学や企業などが開発した計7基の衛星も相乗りしている。H2Bは、世界最大の約6トンを載積できるこうのとりを打ち上げるため、主力のH2Aを改良して最大打ち上げ能力を増強した国産ロケット。今回で6回連続打ち上げ成功となり、H2Aと合わせた成功率は97.3%(37機中36機成功)に上がった」とあったけれど、この補給機がブラジルやイタリアの衛星も運んでいるのだとか、その他どんな国の期待を担っているのかなど詳しいことは伝えていない。嫌なニュースばかり伝えないで、こうのとりがどれだけ国際的に重要な役割を果たしていて、注目されているのかを、もっと広く日本国内外に宣伝すればいいのにと思った。次の写真は、インターネット上にあったノルウェーのキューブ・サット(10センチ四方で、重量1.3キロ少々)の写真。これが衛星というのはちょっとイメージしにくいかもしれないけれど、上のニュースによれば、このような小型衛星を7基載せているということなので、参考のために写真を掲載してみた。
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2016年12月13日(火) | ||||
この土曜日の午前中、エドソンがスーパーへの買出しから戻ると、申し合わせたように(と言うか、実際申し合わせていたのだろうけれど)、絶妙なタイミングでバウルからデミウソンがやって来た。私がヴィトーのレッスンをしている間、エドソンのワークスペースで何やらいろいろ話しているのが聞こえた。ヴィトーのレッスンが終わり、エドソンが買って来てくれた食料品などを冷蔵庫などにしまい、テーブルを片付けてお昼を食べる準備をすると、これからバー・ド・ヴィヴァン(ここから東に15分くらいのところにある「眠れる巨人」と呼ばれる山が見える見晴らしのいい場所にあるランショネッチ=軽食屋)に行って、コシニャなどを買ってくると言って、ふたりで出かけて行った。彼らが戻るまでの間、夕飯用のお惣菜の赤玉ねぎとトマトのマリネサラダを作ったりしながら、彼らが戻るのを待った。彼らが戻りようやくお昼。次の写真は、お昼を食べ終わり、私がひとりではるたちをお散歩に連れ出して戻っても、まだふたりが食卓で話し込んでいたので撮った写真。デミウソンの存在がちょっと怖くて、後ろで吠えているひろが写り込んでいる。
次の写真は、昼食後エドソンのワークスペースで話し込んでいるふたりを撮ったもの。デミウソンはエドソンのアマチュア無線仲間で、ブラジルアマチュア無線協会の中で、一緒にアムサット・ブラジル(AMSAT-BR)を立ち上げた人。エドソンとは共通の技術的関心事があるためとても仲がいい。彼はバウルにあるUNESP(サンパウロ州立大学)の気象観測所でエンジニアとして働いている。そして、私たちはその気象観測所がインターネット上でアップしているレーダーサイトや天気予報のサイトを利用して、ここでの雷雨などに備えている。
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2016年12月14日(水) | ||||
ランドマークの木の側に3本のリグストルン(ねずみもち)の木を植えているのだけれど、昨年、この一番右の木が初めて白い花をつけた。でも、他の2本はまったく花などつけなかったので、どうしてこの木だけ?と思っていた。そうしたら、今年は3本とも花を咲かせたので、写真を撮ってみた。防風林の並びのリグストルンは相変わらず花なんか咲かせないねと言いながら、見てみると、何と、何本かは花をつけていた。植えてからの年数や日当たりなどの環境の違いなどで、花が咲くのにかかる年数に違いがあっただけなんだと、納得。2枚目の写真は、その花を少しアップで撮ったもの。緑の中にうっすら白い花で、あまり目立たないけれど、つつましい感じで咲いている姿が何ともいい。
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2016年12月15日(木) | ||||
「香山文庫」のウェブサイトをインターネット上に立ち上げてから1ヶ月が経過した。サイトへの訪問者は今も毎日着実に増え続けていて、500名を超えた。ありがたいことだ。だから何だと言うこともできるけれど、まずは存在を知ってもらうことが大事だと考えているので、サイトへの訪問者が多いということは、様々な人に「香山文庫」を知ってもらえているということなのだと理解し、感謝している。 次の写真は、いつだったかエドソンがどこかからもらってきたワイルドベリーの苗木。3本くらいは地植えにしたのだけれど、この鉢の苗木はまだ地植えにしておらず、桜の苗木と一緒にハイビスカスの庭の前にある。でも、先日白い花を咲かせたので、写真に撮ってみた。
これらの苗木の前、車寄せのコンクリートの回りの芝生から最近たくさんきのこが生えてきているので写真に撮った。この夏は雨が多く、湿度が高いからか、こんな風にきのこが生えてきたのは今年が初めて。2枚目の写真は、そのきのこを少し近くから撮ったもの。
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2016年12月16日(金) | ||||
今週の初めに、サンパウロ新聞の松本さんから、急なニュースが入らなければ、「香山文庫」に関する記事は15日に掲載しますとご連絡をいただいていた。そして、昨日の朝、ジョアオンの今年最後のレッスンが終わってからメールを見ると、岡村さんから「本日付けでサンパウロ新聞に御文庫の記事が掲載されました」とわざわざ知らせてくださるメールが届いていた。以下が、その12月15日付けで掲載された『「香山文庫」ウェブサイト完成 パルジーニョの吉田さんが立ち上げ』と題する記事。この記事のサイトは、こちらへ。 さらに、同日付けで、『岡村氏提供作品上映会を開催 「香山文庫」の見学を兼ねて=パルジーニョ』という記事もあったので、以下にリンクをはった。この記事のサイトは、こちらへ。 皆さんのご協力に、心から感謝。 | ||||
2016年12月17日(土) | ||||
12月13日付けのシンシアリーのブログ(韓国人の人で、日本語で日韓関係や、韓国(人)の本質などについて書いている)に、「無視」と題する文章が載っていた。この人がいつも書いている日本(人)と韓国(人)の違いを読みながらいつも、文化が違うとこうまで物の考え方が違うのかと、唖然としてしまうのだけれど、今回もそんな韓国人の本質が垣間見える内容だったので、その文章を以下にコピーしてみた。同じ東北アジアで似たような国だけれど、似て非なるとはこのことかとつくづく思った。
『よく「日本と韓国とでは、『無視』の意味が違う」と言われます。 これについて「どうして韓国」の著者ホ・テギュン教授は、面白い「実例」を持って説明しています。 「どうして韓国人って、旅行に行くと、自分を真ん中に入れて写真を撮るのでしょうか。自分が見たままの風景を写真に撮ろうとせず、その中に自分がいないとダメだと思っています」韓国人は、「セルカ(自分で自分の写真を撮ること)」に拘ることが有名です。セルカって普通は記念になるように一枚撮ればいいもんですが、韓国人はそうではありません。 自分が風景の中心に来る「構図」が完成するには、ある程度距離を取らなければなりません。それが韓国で爆発的に人気を集めた「セルカ棒」です。それも似たような心理ではないでしょうか。 扇動されやすく、デモに参加しやすいというのも同じ心理(自分がその風景の中に存在しなければならない)だとする意見もあるようです。いわば、韓国人は「私が主役」でないといけません。どうしてもまわりから影響を受ける存在ではなく、まわりに影響を与える(=まわりが自分の影響を受ける)存在になりたがっています。 恨(ハン)というのも、「私は当然持っているべき権利を不当な何かによって奪われた」とする「剥奪感」からくるものだと本ブログでは書いてきました。その「権利」が、ここでいう「影響を及ぼす存在(としての力)」にあたいするものです。 いつだったか、こんなことも書きました。「もっと私を同情してくれ。でも誰も私を見下してはならない」。その矛盾も同じです。「もっと私にかまってくれ。あ、でも私が主役だからな」と書き換えることもできましょう。世界の中心たる「私」を誰も見てくれないのは、きっと誰かの陰謀だ。意図的で不当な何かの力によるものだ。そいつが加害者で、私は被害者だ。 そんなふうに書くと、本エントリーも、いままで恨(ハン)について書いてきたことと、さほど差が無いと言えます。私を見てくれないのは、私への軽蔑だ。蔑視だ。私の影響力を、私の権利を、不当に奪われたからだ。私を無視するやつらも、加害者、共犯だ。そう、韓国人にとって、無視は蔑視なのです。 「あなたは『無』なのです」は、「あなたは『下』なのです」と同じです。「私はあなたを見なくていいです(無視)」というのは、韓国人の精神世界の中では「あなたは私を見るべきです」と同じ意味なのです。主役と助役の上下関係が成立してしまいます。 日本では無視というと、無関心、度外視、アウトオブ眼中(笑)などの意味が強いみたいですが、韓国では見下す、蔑視するの意味が強いです。意味そのものが違うというより、「心理状態が違うから同じ言葉でも受け入れ方が違う」と言うべきでしょう。もっと簡単に言うと、韓国人が「なんで人を無視するんだ」と怒るシーンはリアルでもネットでもしょっちゅう目にしますが、それを日本語に訳するなら「無視するな」より、「バカにするな」のほうがニュアンス的に合ってると言えます。 どうしてもまわりに影響を及ぼす存在になりたい。まわりの影響を受けない存在になりたい。私が「中心」でありたい。中心を見ないなんて、ゆるせません。韓国人にとって「無視」とは、そういうものです。』 | ||||
2016年12月18日(日) | ||||
バラの花壇で成長している朝顔が、11月の最終日に初めて花を咲かせた。以来、ほぼ毎日2つ、4つと、少しずつ花を咲かせているのだけれど、花の数がだんだん増えてきたので、写真に撮ってみた。1枚目は、バラの花壇の右側で咲いている水色とピンクと白の朝顔。2枚目は、バラの花壇の左側で咲いている水色とピンクと紫の朝顔。この紫の朝顔の葉は、他の朝顔の葉よりも大きく、緑が濃い。そして、何だか一番元気につるを伸ばしているし、花の数も多い。毎朝、朝一番のはるとひろのオシッコに出る際、今日は何色の朝顔がいくつ咲いているかな?と思いながら玄関を出て、この花壇の前で花を目にすると心が和む。これが毎朝の楽しみになっている今日この頃。
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2016年12月19日(月) | ||||
一昨日、昨日とこの週末は、エドソンが仕事をしているパウロの会社の忘年会が泊まりがけであったため、ここから南西に1時間半ほど行ったアヴァレという町のリゾートホテルに行った。エドソンはスケジュールの詳細をまったく知らされていなかったので、土曜日の午後、あちこちの支店からみんなが三々五々集まるのだろうと思っていたら、先週の水曜日にうちにやって来たパウロが、土曜日は昼食に間に合うように来てくれと言う。でも、土曜日の午前中はヴィトーの今年最後のレッスンが12時まであり、その後、はるとひろをヴィラシーコにお泊まりさせるために連れて行かなければならないので、たとえレッスンを11時で切り上げても、到着は午後1時半頃になり、昼食には間に合わないため、私たちはホテルでの昼食はパスして、うちでお昼を食べてから出かけることにした。しかも、夜はプレゼント交換をするからくじで引き当てた相手に何かプレゼントを用意しておくようにということだった。そんなこと急に言われてもプレゼントを買いに行く時間はないので、土曜日にエドソンが食料品を買いに行ったついでにチョコレートを買ってきてくれ、それで何とかお茶を濁すことにした。次の写真は、午後3時半を回ってホテルに到着し、荷物を部屋に置いてから、外の散策に出た際撮ったもの。1枚目は敷地内の中心に位置するプールの写真。屋根の下にはバーがあって、男性陣がプールに浸かってアルコールを飲んだりしていた。2枚目の写真は、プールを通り過ぎたところにある庭。木陰に体を横たえることのできる白い椅子がたくさんあったので、散策を終えてから私たちはここでしばらくごろんとして、のんびりと過ごした。
このホテルの敷地はこの辺りに点在する湖のひとつに面していて、庭を横切って湖まで出ると、ボートやカヌーなどに乗って遊べるようになっていた。岸に立っている黄緑色のシャツに黒い半ズボンの後ろ姿のお兄さんは、ここの係の人のようで、お客さんが来てボートで出て行ったり、戻ってきたりするのを世話していた。
次の三枚の写真は、湖の対岸を撮ったもの。向こう岸にもホテルや個人の別荘のようなものが見えるので、そのうちの個人の別荘の一部のような建物を少しずつアップにして撮ってみた。
夕食は7時からと言われたので、少し部屋で休んだ後、7時前に食堂に行ったのだけれど、ドアが閉まっていて、まったく始まりそうな気配がない。それで係の人に聞くと、7時半からだと言うので、食堂の隣で開いていたバーでワインを飲みながら食堂が開くのを待った。でも、7時半とか言っても、たぶん8時くらいになるんじゃない?という私の予測が当たり、ドアが開いたのは8時少し前だった。これはブラジルではごく普通の夕食の時間。次の写真は、その食堂の中。1枚目は食事が並ぶビュッフェのテーブル。向こう側がお肉やご飯、煮豆といったメインの料理が並ぶテーブルで、こちら側はサラダとデザートが並ぶテーブル。2枚目は少し暗いけれど、私たちのテーブルから見える団体さんのテーブルを撮った写真。この日のお客さんはパウロの会社の人たちだけでなく、家族連れの人たちや、この人たちのようにちょっと年配の団体客など様々だった。
夕食を終えて食堂を出たところにあるスペースで、若い女性がギターを弾きながら歌を歌っていたので、椅子に腰かけて、しばらく彼女の歌を聞いた。ムズィカ・ポプラー(ブラジルのポピュラー・ミュージック)というジャンルの歌から、ムズィカ・セルタネージャ(ブラジルのカントリー・ミュージック)に変わると、俄然みんなが一緒に歌い出したり、手拍子をしたりして、反応が全然違うのでおもしろいものだなと思った。日本ではブラジル音楽と言えば、ボサノバやサンバだと思われているけれど、それらはブラジルの音楽というよりもリオの音楽と言った方がよく、ブラジル全体で一番人気があるのは、日本ではほとんど知られていないセルタネージャというブラジル版カントリー・ミュージックなんだというのが実感だった。
夕食後は、食堂とは別の建物の中のイベントスペースで、9時半からプレゼント交換ということだったのけれど、やはり10時近くまで何も始まらなかった。そして、何十人もの従業員とその家族(子供も含め)が一堂に会して行われたので、とても時間がかかり、終わったらもう11時半を回っていた。パウロの会社はパーディーニョだけでなく、近隣のあちこちの町に支店がある上、ほとんどが20代30代の若いスタッフで、パーディーニョのオフィスのスタッフだけでも出入りが激しいため、エドソンですらほんの数人の古くからのスタッフしか知らず、ほとんど知らない人たちばかり。プレゼント交換が終わった後でも、やはりほとんど知らない人たちという状態に変わりはなく、親睦を深めるためなら、もう少し違うやり方もあったのではないかなと思った。そして、パウロの会社がこんなに大きくなって、多くの顧客やスタッフを抱えるようになったのはエドソンが作ったシステムのお陰ということを知る人はごく少数の例外を除きほとんどいないようで、何だかなあ・・・と思った。 | ||||
2016年12月20日(火) | ||||
アヴァレで泊まったリゾートホテルの名前は、ベホ・ダグア(Berro D'Agua)。ベホというのは牛の鳴き声のことだそうで、このホテルの名前を直訳すると「水の牛の鳴き声」となり、何だか変な名前だねとエドソンと話した。次の写真は、このホテルの正面入り口。
このホテルはエコホテルというのを売りにしているらしいのだけれど、他の普通のホテルと特に変わりはなく、何がエコなのかはよくわからなかった。ただ、ホテルの敷地内のあちこちにニワトリが放し飼いになっていて、夜になっても飛び交う虫の数が少なかったのは、きっとニワトリがせっせと地面の虫や土の中の虫の卵を食べてくれているからかもしれないと、エドソンは言っていた。だから、薬を散布するよりもエコなのかな?と、思った。
次の写真は、日曜日の朝、朝食のために食堂のある建物に行く途中、湖とは反対側の敷地内を撮ったもの。
食堂のある建物の中の廊下に、このホテルの敷地を上空から撮った写真が飾ってあったので、次の写真を撮ってみた。この4つの写真のうちの右上と、左下の写真が、このホテルの中心部で、プールを囲んで、食堂の建物や宿泊棟やイベントホールの建物などがあるのが見える。他の2枚の写真で見ると、中心から少し離れた場所にテニスコートなど様々な施設もあることがわかる。アヴァレには湖が点在していて、その周辺にリゾートホテルがあることは聞いて知っていたけれど、これまでは車の定期点検で年に1~2度来たことがあるだけで、湖の近くまで来たことがなかったので、今回、こういうきれいな場所があることを実際に知ることができて良かった。
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2016年12月21日(水) | ||||
バラの花壇に種を蒔いた朝顔が元気につるを伸ばして、毎日花を咲かせていると先日書いたけれど、花壇の左右の端の赤いバラはまったく花を咲かせていないものの、真ん中の黄色にピンクの縁取りのバラが何だかたくさんつぼみをつけて咲き始めたので、写真を撮ってみた。1枚目は、バラと両側の朝顔を一緒に。2枚目は真ん中のバラだけを近くから。
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2016年12月22日(木) | ||||
今年6月、庭のハイビスカスガーデンの端っこに、何年も前から自然に生えていたパパイアの木に、初めて緑色の長い実が4つなっていたので、その写真をこのブログに掲載した。いつまで経ってもさしたる変化はなく、いつの間にか実のひとつは落ちたらしく3つになり、9月にゼーがハイビスカスの木々の回りや足元のアメンドインを取り除いた際、体が当たったらしくまたひとつ落ちて、残りは2つとなり、相変わらず緑色のままの状態だった。そうしたら今週の月曜日の朝、はるたちにこのハイビスカスの側でオシッコをさせていたら、何か黄色ものが目に入ったので見ると、この長いパパイアが色づいていたのでびっくり。私は気づかなかったのだけれど、エドソンによるとこの週末アヴァレに行く前にはもう黄色くなっていたという。それで火曜日にエドソンが収穫してみたのだけれど、上の方はまだ熟れていないのに、先っぽの方はすでに痛んで来ていてたくさん虫がついていた。その収穫した長いパパイアとスーパーで買ってきて食べ頃になるのを待っている普通のパパイアとを並べて撮ったのが以下の写真。この長いパパイア、試食はまだしていないので、ちゃんと食べることができるかどうかはわからない。2枚目の写真は、まだ色づくことなく、木になっている残りのパパイア1本を撮ったもの。
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2016年12月23日(金) | ||||
次の写真は、大きくなりつつあるローズマリーの木。うちにはこれとは別に、シュハスコ小屋の後ろに、小さな苗から育てて地植えにした木が1本ある。お料理や私が毎日飲むハーブティーでとてもお世話になっている。この木はだいぶ大きく古くなってきているので、この木がダメになる前に新しいローズマリーを育てようということになり、エドソンがいつだったか10センチくらいのひと枝を、テトラポットに植えて育てていた。しばらくして根付いたようなので、今年、地植えにしたものが元気に育ってきているのが、この写真。切った枝を土に差しただけで増やすことができるなんて、強い植物だなあと感心しきり。
数年前、ペトロポリスの安見さんからご紹介いただいて、少しやり取りをしたことのあったサンパウロ新聞社社長で、チャレンジ・ブラジルというNPOの理事長でもある佐藤さんに、「香山文庫」のウェブサイトをようやく立ち上げましたと、再度メールをお送りした。すると、サンパウロ新聞で取材して記事にし、チャレンジ・ブラジルのサイトでボランティア募集をしましょうと言ってくださった。サンパウロ新聞記者の松本さんは岡村さんの親しいご友人でもあったため、一緒にこちらに来てくださり、「香山文庫」のことを取材し記事にしてくださった。そしてその後、何度か鈴木さんとやり取りをして、12月22日付けでチャレンジ・ブラジルのサイトでボランティア募集の記事を掲載するとご連絡をくださった。この記事のサイトは、こちらへ。皆さんにいろいろ助けていただきながら、少しずつ前進して行けたらと思っている。皆さんのご支援とご協力には心から感謝。 | ||||
2016年12月24日(土) | ||||
11月中旬に「香山文庫」のウェブサイトを立ち上げてから、ペトロポリスの安見さんがお知り合いの東海大学の先生にフェイスブック上での情報掲載を依頼してくださった。そのお陰で、ブラジルに関心を持っている学生さんたちの間で、結構その情報が拡散しているようで、複数の友人から「香山文庫」のことを聞いて、サイトを見たという、在日スリランカ人2世という女性から、サイト立ち上げ10日後くらいに連絡をもらった。この女性は今年4月から1年の予定でブラジルに来ていて、語学学校でポルトガル語を学びながら、日系移民に興味があって、知り合いを通じて会うことのできる日系の人たちを訪ねて話を聞いているのだという。それで、バスでサンパウロからやって来たこの女性を22日と23日の1泊2日で受け入れた。日本にいる時、仕事の関係で回りにいろいろな国の人がいて、日系ブラジル人2世や3世の人たちとも知り合って、ブラジルの日系人に興味を持ったということだった。日本生まれの日本育ちで、日本で暮らして来たスリランカ人女性なので、ブラジルに移民してブラジルで暮らしている日系人に、何か相通じるものを感じているのかなという印象だった。百合子さんという名前なので、お母さんが日本人なのかと思ったのだけれど、両親はふたりともスリランカ人で、お父さんが留学生として奥さんを伴って来日し、広島大学で修士課程を終え、大阪大学で博士課程を終えた後、日本に定住したということだった。ご両親はゆりの花が好きだったらしく、娘さんにゆりの花の名前をつけたということだった。少し目に障害があるため、長時間本を読むことができず、ここでボランティアをしてもらうことは困難なようだったけれど、とても興味深い人で、日本語と英語が話せるため話が弾んだ。こんなにゆっくりじっくり誰かと日本語や英語で話し込んだことはなかったので、彼女よりも私の方がこの出会いを大いに楽しんだのではないかと思う。この年の瀬はエリカたち家族がこちらに来ないことになったので、エドソンとふたりだけの寂しいクリスマスになると思っていたのだけれど、22日の夕食にチェスターの丸焼きを作って、百合子さんと一緒に一足早いクリスマスディナーをした。次の写真2枚は、3人で囲んだクリスマスディナーのテーブル。
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2016年12月25日(日) | ||||
12月22日付けのニッケイ新聞に『種子島から9日、無事打ち上げ=ブラジルの高校生が作った人工衛星=小さな「日伯共同宇宙研究」』という記事があった。これは12日のブログで触れたプロジェクトと同じもの。ただ、この記事のタイトルの「日伯共同宇宙研究」というのはちょっと違うのではと思った。ブラジルの小型衛星が日本のロケットでISSに運ばれて、日本の研究棟から宇宙に放出されるのだから、日本が協力しているというのは広い意味では間違いではないかもしれないけれど、正しくは、小型衛星を日本のロケットでISSに運び、放出するというサービスを提供する、筑波にあるJAMSという会社にお金を支払ってこのサービスを受けたということで、日本側にとってこれはれっきとしたビジネスなので、共同研究という表現はどうかと思った。そしてこの記事には『宇宙航空研究機構(JAXA)広報部によると、Tancredo1は無人宇宙補給機「こうのとり」で打ち上げられ、現在すでにISSに到着している。放出は1月予定とのこと。また、Tancredo1は小衛星宇宙探査機との距離測定や宇宙空間での水分の形質変化の検出、生徒らが録音したメッセージを無線放送している』とあったけれど、21日に放出予定だったのが延期になって、まだ放出されていないのだから、これらの実験はまだ実施されていないため、「される予定」と書くべきところを「している」とするのもちょっと違う。自分で取材せずに、ブラジルの新聞に掲載されたニュースを記事にして、正しい記事を書くというのは難しいことなのかなと、この記事を読みながら思った。この記事のサイトは、こちらへ。 このウバトゥバサット(UbatubaSat)プロジェクトの最終仕上げは、衛星が宇宙に放出されて、衛星通信がうまく機能して、いろいろなデータが無事に地上に送られてくるかどうかが一番肝心なところ。でも、例によって政府からの資金提供が遅れ、データを受信できる地上局ができていないため、21日(水)にウバトゥバとINPE(ブラジル国立宇宙調査研究所 )からプロジェクトに関わっている人たちがうちに来て、エドソン手作りの地上局から衛星の電波を受信して実験の成功・不成功を確かめるという計画だったのだけれど、放出自体が延期になったので、彼らがうちに来る予定も延期になった。これまでにも何度も書いているけれど、エドソンはINPEやITAなどの衛星プロジェクトを技術支援している。去年の11月INPEで学ぶコロンビアからの留学生2人を招いて、いろいろ技術的な相談に乗ったこともあった。その内のひとりで修士課程で研究していた学生さんは、エドソンから教えてもらったり提供された技術情報を元に修士論文を書き、すでに帰国している。今回このウバトゥバサットに協力したINPEの別の修士課程の学生さんは、このコロンビアの学生が書いた論文の中で紹介されているエドソンから教わった技術を利用して、プロジェクトを支援して、それを彼自身の修士論文にしたのだという。エドソンの技術支援が少しずつ功を奏して、良い結果に結びついているのはうれしいことだと思った。
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2016年12月26日(月) | ||||
次の写真は、先々週の前半にひろとはるを撮ったもの。1枚目は、寝室に置いたひろたちのベッドの中で使っているバスタオルをひろの首に巻きつけるいたずらをエドソンがした。でもひろは嫌がる様子もなく、そのままの状態で尻尾を振りながらご機嫌にしている。何だか可愛いので、そのひろの姿をパチリ。後の3枚はその後、タオルを首に巻いたまま、ひろが居間のベッドの中に行っておとなしくしているのに、はるがちょっかいを出し始めたので、パチリ、パチリ、パチリ。この3枚の写真は、だいたいいつもはるの方からちょっかいを出し、ひろはやり過ごそうとするのだけれど、はるが止めないので、結局ふたりでくんずほぐれつになるということがよくわかる写真になった。
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2016年12月27日(火) | ||||
この夏は雨が多く、気温が低めの日が多い中、時々ぐんと暑くなったりするものの、何日も続くことはなかったのだけれど、23日から急に暑くなり、以来毎日とても暑いので、とうとうこの25日(日)にエドソンが家の北側に例年のように日よけのネットを取り付ける作業をしてくれた。次の写真は、午前中にその作業が始まったところをパチリ。作業を進めていると、屋根の上の太陽光パネルの辺りで蜂のマリンボンドがたむろしていたので、エドソンがスプレーを噴霧。一度で止めておけば良かったのだけれど、しばらく時間を置いて、もう一度噴霧したものだから、スプレーを持った右手の甲をマリンボンドに刺されてしまった。梯子の上で、スプレーを持っていたので、すぐに手を刺している蜂を払いのけることができず、ずいぶん毒を注入されたようだった。それで作業を一時中断して、午後ずいぶん経ってから、何とかネットを張り終えてくれた。ご苦労様でした。でも、刺された手がずいぶん腫れて、指や手首にまで腫れが広がり痛々しい。外での作業をする際、ついつい忘れるのだけれど、今後は必ず忘れずに長袖シャツを着て、軍手をして体を保護しないといけないねと話し合った。
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2016年12月28日(水) | ||||
25日に、広島の兄からメリークリスマスのメールが届いた。家族の近況の他に、「ロシア革命の前後にシベリアへ送られたポーランド人が革命の混乱の中で多数殺され、残された765人の孤児を世界で唯一日本が引き受けたということがあったということを初めて知り感動しました」と言って、その情報のサイトリンクを送ってきてくれた。私はそのことを知っていたけれど、送られてきたサイトをちゃんと見て知識をあらたにした。そして、こちらの近況などを書いた返信を送ると、さらにもう一つ情報連絡と言って、以下のメールをくれた。兄が涙もろくなっているのは年のせいかな?とも思うけれど、「画面の中に描かれた人たちの中に、お母さんやおばあちゃんの姿をみかけたような気もして、涙が止まりませんでした」とあったので、この映画を見たら私もきっと泣いてしまうだろうなと思った。母は何とかまだ介護施設で健在だけれど、私もこの映画の中で、その当時の母や祖母に会えるものなら会ってみたいと思った。ぜひ見てみたいので、この映画のDVDが発売されたら買って送ってと兄に頼んだ。以下は、兄からのメールの一部。 『現在「君の名は」というアニメが大ヒット中で、中国でも早速公開され大ヒットしていますが、もう一つ地味だけどじわじわと評判になっているアニメがあります。「この世界の片隅に」という映画で、先日見に行ったばかりです。戦前から終戦までの広島と呉が舞台で、主人公の女性“すず”はちょうどお母さんと同い年で、江波で育ち、草津のおばあちゃんのところへよく遊びに行き、結婚して呉に嫁いだという設定です。あの時代、食料の配給も十分になく、連日の空襲で防空壕に避難するような日々の中でも、人々が希望を失わずにたくましく生活していく姿が淡々と描かれています。また、当時の広島や呉の街並みや生活をしっかりと調べて丁寧に描写しているのも特徴で、画面の中に描かれた人たちの中に、お母さんやおばあちゃんの姿をみかけたような気もして、涙が止まりませんでした。お母さんたちもあのころ女だけ3人の暮らしで、大変だっただろうなと改めて感じましたが、あまりそのころの話は聞いていなかったことが残念な気持ちになりました。』
ブログに掲載するためにこの映画のイメージを探していたら、ウィキペディアに「この世界の片隅に」は、こうの史代による漫画作品で、フランスで『Dans un recoin de ce monde』、台湾で『謝謝你,在這世界的一隅找到我』として刊行されていて、英語版は存在しないけれど、『In This Corner of the World』という英語題名が漫画版・アニメーション映画版に共通のものとして設定されているとあった。こうの史代という名前に聞き憶えがあると思ったら、何年か前に広島の友人が送ってきてくれた「夕凪の街 桜の国」という広島を題材にした漫画の作者だった。 | ||||
2016年12月29日(木) | ||||
外ベランダ横のバラの花壇の朝顔の写真は、もう何度も掲載しているのだけれど、どんどんつるを伸ばして、花の数もどんどん増えているので、うれしくてしょうがないものだから何度も写真を撮って掲載しないではいられない。この花壇は午前10時過ぎくらいまでは家の陰なのであまり明るい写真が撮れないのだけれど、気温が低めの日は12時を回っても咲いている花も、最近の暑さで、お昼前には萎れてしまうので、明るい陽が当たっている状態では写真が撮れないのでしょうがない。
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2016年12月30日(金) | ||||
年末年始と言っても、大掃除をするわけでも、おせちの準備をするわけでもなく、我が家はいつもと変わらない日々を過ごしている。特に、今年は大晦日が土曜日で、元旦が日曜日なので、年末年始のお休みはこの週末の2日だけで、いつもの週末と何も変わらない。でも、会社によっては年末年始の一定期間会社を閉めて、従業員に長期休暇を与えるところもある。例えば、ジミーの工場は22日の午前中に立ち寄ってみたらもう閉まっていたし、ヴィトーも28日の午前中やって来て彼の勤めている会社はもう休みに入ったと言っていた。ヴィトーはエドソンに何か話があるということだったのだけれど、今年一年お世話になりましたという意味を込めて、わざわざパネトーネを持って来てくれることが主目的だったようだ。パネトーネというのはこの季節定番のケーキ。でも、ヴィトーが持ってきてくれたのは普通のドライフルーツを混ぜたパネトーネではなく、チョコレートが入ったものなので、箱にはチョコトーネと書かれている。ヴィトーの気遣いに感謝。ありがとうヴィトー。
次の写真は、やって来たヴィトーにはるが飛びついてはしゃぐものだから、エドソンがダメだよと、はるに言い聞かせているところ。ひろは例によって、ケージの中に避難。でもしばらくすると出てきて、ヴィトーに近づいて行っては吠えるので、仕方なく、ヴィトーがいる間、私の膝の上でおとなしくしていてもらった。
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2016年12月31日(土) | ||||
ここ1週間以上続く、連日の暑さに少々参っている。でも、リオでは40度半ば前後の気温だそうだから、それに比べれば、最低気温20度前後、最高気温30度前後というここの暑さなんて天国のようなもの。それは頭ではわかっているのだけれど、比較的涼しいここの気候に体が慣れてしまっている私たちは、お昼前くらいから(時には朝から)日没までは、とにかく暑いと感じ、毎日、「暑いね、暑いね」と言って過ごしている。この暑さ、まだしばらく続くという予報なので、何とかバテないように乗りきらなければ。これに追い討ちをかけるように昨日は夜8時半頃から突然吹き始めた強い風と雨ですぐに停電。今朝9時過ぎにようやく復旧。電気のない大晦日にならずに済んでよかった。 今週、安倍首相がハワイのパールハーバーでしたスピーチをNHKのニュース(ライブ)で聞いた。アメリカ議会でのスピーチに続き、これもまたとてもいいスピーチだなと思った。エドソンも一緒に聞いて、ゆっくりと一言一言語りかけるような話し方や、間の取り方がとても良く、言っていることはほとんど理解できないけれど、いいスピーチをしているというのが何となくわかると言っていた。アメリカという国の人たちはいいスピーチをする人を尊敬する。言葉がとても重要な国。日本人は言葉にあまり重きを置かないけれど、人の気持ちを察するとか忖度するという文化のない日本とは文化の異なる国の人々に、日本が何を考えているかを理解してもらい、いい関係を築こうとする場合、言葉はとても重要。それをちゃんと理解して、重要な場面で良いスピーチをする安倍さんは、これまでの日本の総理とは違い存在感がありすごいなと思う。と、そんな風に考えていたら、インターネット上で、アゴラ12月30日(金)15:31配信の『「希望の同盟」を高らかに謳った安倍総理の格調の高いスピーチーーー早川忠孝』という記事があり、「こういう素晴らしいスピーチでもケチをつける人は必ずいるものだが、いいものはいい、と素直に評価した方がいい」とあった。この記事のサイトは、こちらへ。 ちなみに、安倍首相のパールハーバー訪問は、アメリカのメディアだけでなく、BBCでもライブ中継され、ブラジルのインターネット上の新聞でも、トップニュースで扱われていた。こんな風に世界が注視している場面で何を話すかというのはとても大事なことなのだけれど、安倍さんはそれをちゃんとわかっていてうまくやってのけたのだから、ご立派。
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