Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2016年9月1日(木) | ||||
例年8月初めに行っているペトロポリスのBUNKA-SAIを、今年はオリンピック開催期間中を外して、8月25日の開会式から28日まで4日間行いましたと、安見さんからメールをいただいた。今年で9回目となる文化祭は、初めて市の中心にある公園で行われ、次の写真のように、鳥居と木々の向こうに屋台が見え、日本の神社の縁日の雰囲気が出たと書いておられた。毎年開催場所は異なるのに、いつも立派な鳥居があるのはどうしてだろう?と思い、お尋ねしてみると、この鳥居は組み立て式で、毎年の文化祭会場で組み立てているということだった。安見さんが鳥居の見本写真数枚と、縦横の比率を教え、市役所出入りの業者が作ったのだそう。へえ~っ!組み立て式でこんな立派な鳥居ができるのですか?ペトロポリスの業者さんはレベルが高いんだなあ・・・。この鳥居のお陰で、まるでどこかの大きな神社の入り口のよう。2枚目の写真は、鳥居を入って行った中の会場の賑わい。3枚目の写真は、夜の様子。天気に恵まれ昼も夜も大変な人出だったそう。従来のイベントに加えて今年はラジオ体操第一を加えたということだけれど、この混雑した人出の中でみんなで体操をされたのかなあ?屋台の建物が結構立派だけれど、どちらかと言うと日本というよりもちょっと中華っぽいかな?
次の写真は、ペトロポリスの初音ミクちゃんとのスリーショット。このミクちゃん何と身長183cmだそうで、一緒に写っている安見さんご夫妻が小さく見える。この人はビデオゲームの宣伝ガールなんだそう。いつものことながら盛りだくさんで、楽しそう。
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2016年9月2日(金) | ||||
数日間におよぶ上院での質疑応答などの審議の末、一昨日の31日にジウマの弾劾を問う投票が行なわれ、賛成多数でようやくジウマの弾劾が成立した。こうなるだろうとは思ってはいたけれど、29日と30日にはサンパウロのパウリスタ大通りで労働者党の息のかかった人たち数百人によるデモが行なわれたりして、最後まで安心できなかったけれど、正式に弾劾が成立してほっとした。ちなみに、ジウマを追い出すためにこれまでブラジル各地で何度も行なわれた何万人、何十万人、何百万人の大規模デモではまったく見られなかった器物破壊などの乱暴狼藉が、この労働者党主動の小さなデモでは行なわれた。労働者党の正体を露にするようなデモだと思った。そして、弾劾成立後すぐにミシェル・テメー(Michel Temer)大統領代行(以下写真)が正式に大統領になる就任式が行なわれ、晴れてテメーが大統領になった。これからの残された2年4ヶ月の任期の間に、何とか経済を建て直して欲しい。少なくとも建て直しの道筋を作って欲しいと切に願っている。テメー大統領は、その後すぐに閣僚との会議を行い、その会議が何とテレビ中継された。ジウマの秘密主義の頃にはなかったことだ。そして、その後さらに国民に向けたテメー大統領の演説がテレビ中継され、午後10時には中国でのG20に出席するために大統領専用機でブラジルを飛び立って行った。75歳というブラジル史上最も高齢の大統領ながら、何ともエネルギッシュだと思った。
この弾劾の成立を受けて、ジウマも演説を行なったのだけど、ターミネーターじゃあるまし「Nos vamos voltar. (=We will be back.)」と発言し、まったく罪の意識のない懲りないサイコパスのようだと思った。そして、サンパウロのパウリスタ大通りではジウマ罷免成立を祝う平和的なデモが行なわれる一方で、別の場所では「テメー出て行け」と新政権に反対するデモがあり、道路にゴミ袋を移動させて火をつけたり、警官隊に発火物を投げたり、バス停を壊したり、銀行や商店を破壊する行為が繰り返された。彼らの目的はデモではなく破壊行為それ自体だというのは明らかで、これはデモではなくテロだと思った。平和的な大規模デモで国民が意思表示をした結果、憲法に則って下院と上院でジウマ罷免の審議が行なわれたことを、ジウマはクーデターだと非難していたけれど、法を犯して、破壊行為をすることはテロではないのか?と問いたい。でも、ジウマ自身昔はテロリストだったのだから馬の耳に念仏か?彼女が初めて大統領に就任した時は、多くの人々がとても彼女に期待したのに、嘘に嘘を重ねて無能を晒すだけでなく、悪行三昧をして、言っていることにもまったく整合性がなく、期待を裏切ったジウマの罪はとても重い。 | ||||
2016年9月3日(土) | ||||
以下は、インターネット上にあった8月31日(水)8時10分配信アゴラの『蓮舫にまさかの二重国籍疑惑 --- 八幡 和郎』という記事からのコピー。 『アゴラでも蓮舫さんの国籍問題、中国風の名前へのこだわり、日本国家への忠誠度への疑問、それも含めたスキャンダルについて、民進党が身体検査なしに代表にしようとしていることは疑問だと書いた記事を連続して寄稿してきた。 それを夕刊フジでも載せようとして蓮舫事務所に確認など編集局からしたのだが、十分な回答がなかったので、本日発売の8月30日付けで掲載した。いつ、中華民国籍の放棄手続きがされたか証拠の文書とともに示されることを期待している。 今回、二重国籍でないという確認が取れなかったことには、私もいささか驚いている。そこで、この蓮舫の国籍問題について、あらためて、整理しておきたい。 蓮舫の父親は台湾出身の貿易商・謝哲信で、母親は資生堂の美容部員だった日本人の斉藤桂子で、日本生まれだ(現在は新宿でスナック経営)。 当時の国籍法では、父親の単独国籍となったうえで希望すれば帰化することになっていたので、中華民国籍の謝蓮舫として育った。 ところが1984(昭和59年)5月25日に国籍法が改正され、85年1月1日から施行されて、蓮舫のように母親が日本人だと、日本国籍を与えられて、22歳までに選択できることになった。 そこで、どの時点かは不明だが、蓮舫は日本国籍を選択する手続きを法務局にしたようだ。 ただ、この選択の時には、もう一方の国籍を放棄するように努めるようにと法律でされて、窓口ですみやかに手続きを取るように指導されるが、確認はされないのである。 どうして、一時的にせよ二重国籍が認められるかというと、たとえば、社会主義国のように国籍離脱を認めない国もあれば、男性の場合には兵役を果たさないと離脱を認めない国もあるから、そういう場合にまで離脱しない限り日本国籍を選択できないというのも可哀相だからだ。 しかし、女性の蓮舫にとってこれが理由になるとは思えない。 いずれにせよ、法的には日本国籍選択後、たとえば数週間とかのうちに中華民国の国籍を放棄することが求められているわけだが、現実には面倒くさいか、あるいは、何か二重国籍のメリットがあるから放置している人もありうる。 つまり、
(1)法令に従い中華民国籍を放棄した であると三種類の状況が存在しうる。 かつて年金問題では加盟していない期間が短期あると言うだけで政治家として不適格といわれたものだ。国籍問題は、年金問題などとは重大性が根本的に違うし、違法な状態があったことがあれば政治家としての資格はない。 また、どこかの国民であることは、義務もともなうわけで、日本国の利益以外に従うべきものがあることになるし、それは、日本国のように緩やかなものとは限らない。 まして、いま、尖閣問題で日本は中国や台湾と向かいあっている。そのときに、自衛隊最高司令官がどっちの味方か分からないのでは困るのである。 そもそも、生まれながらの日本人でなく、少なくとも18歳まで中華民国人謝蓮舫として育った人をなにも首相候補たる野党第一党の代表にするベキでないと考えるのが世界の常識だ。 さらに、村田蓮舫という本名があるのに、頑として村田姓を使わないし、子供にも中国人らしい名前しか付けなかった華人意識のかたまりである。 さらに、そんなことはないと信じたいが、二重国籍かもしれないというので問題でないと思う日本人がいるとすれば、この厳しい国際政治のなかであまりにもお人好しと言うことだろう。 *ここで問題にしているのは、違法な二重国籍だったら良くないということです。二重国籍を認めている国で二重国籍だったとしても問題はありません。蓮舫さんも国籍法改正から日本国籍選択までのあいだは合法的二重国籍です。ただ、テロの問題などがいろいろ出て、最近の世界では二重国籍が認められない、あるいは、二重国籍の場合には、国民としての権利を停止するような方向に流れていくと思います。--- 八幡 和郎』 | ||||
2016年9月4日(日) | ||||
次の写真は、先日エドソンが撮影した日の入りの様子。ダイニングルームの窓から撮ったので、夕日がちょうどランドマークの幹の間に沈むという位置になった。
次の写真は、庭の桜の木。たくさんなっている実が色づき始めている。木の足元にもたくさんこの実が落ちている。小鳥たちがこの実を食べて、あちこで糞をするので、そこからまたたくさん桜の芽が出てくるのだろうなあ。
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2016年9月5日(月) | ||||
以下の写真は、「楽書倶楽部」8月15日発行の第34号。8月の第一週に発送されたのに、三週間経った先々週の23日火曜日にもまだ届いておらず、10日後の9月2日の金曜日にエドソンが郵便局に行ってくれると届いていた。ただ、受領印の日付は24日(水)となっていたので、1日違いで受領できなかったことになる。サンパウロからの郵便は最近はだいたい1週間くらいで届いていたけれど、時々、こんなふうに時間のかかることがあるので、まったくもって予測不可能。そして、以下は、この号に掲載された私の文章。
ブラジルに来た当初、夫の実家のあるリオデジャネイロ州パラカンビのシチオで四ヶ月余り暮らした。そこは町外れだったため、電話回線が来ておらず、携帯電話も会社により電波が十分に届かない状態だった。そのためCLARO、TIM、VIVOと言った会社の携帯電話を家族や友人から借りて試し、何とか電波の届く携帯電話会社を探して、インターネット接続も含めたプランで契約をした。 現在もサンパウロ州の田舎町の農村地帯で暮らしているため、携帯電話の電波が届かないところが結構ある。うちも家の中にいると電波が不安定で、携帯電話のアンテナが辛うじて立つのは、居間の北西側の窓辺だけ。そのため夫の携帯電話は常にその窓辺に置いておくようになった。それでも、外からかかってきた電話がうまくつながることはあまり多くない。こちらから携帯電話をかける場合は、わざわざ家の外に出て、パーディーニョの町が見える所まで行って、通話しなければならない。 ブラジルはとにかく国土が広いので、全土に電波を行き渡らせることはとても難しいのかもしれないけれど、電波が届かないこと以外にも、日本では経験したことのない携帯電話の使い勝手の悪さを様々経験した。まず、日本では携帯電話の番号は、固定電話の番号とは異なり、市外局番などなく、全国どこにいても番号が変わることはないけれど、ブラジルの携帯電話は固定電話のように、電話番号の前に市外局番がついている。そのため、リオデジャネイロ州パラカンビからサンパウロ州パーディーニョに引っ越してきたら、電話番号を変えなければならなかった。さらに、地域外に出て電話をかける際は、相手の市外局番の前にまた別の三桁の番号を入力しないとつながらない。最初はそれを知らなかったため、サンパウロに行った際、会う予定の知人に電話をしようにもつながらず困ったことがある。 以前は夫だけでなく、私も携帯電話を持っていたのだけれど、私ひとりで外出することはまずないため、経費節約の意味もあって、私には必要ないと考え数年前キャンセルすることにした。しかし、夫が携帯電話会社に電話をしてキャンセルの手続きをしようにも、一時間以上保留にされて結局つながらなかったり、何とか担当者につながっても、その担当者が無能なのか、故意なのか、何度手続きをしてもキャンセルされず、いつまでも基本料金が引き落とされる状態が続いた。結局、キャンセルは取りやめて、私の携帯電話はプリペイドのプランに変更した。しかし、プリペイドのプランも、携帯を使わず入金したお金が残っていても、翌月に繰り越されず消えてしまうため、もったいなくて、事実上私の携帯電話はまったく使わない状態になってしまった。ただ最近、異なる携帯電話会社では三ヶ月間繰り越し可能だと聞いたので、私たちが使っている携帯電話会社のサービスが特に悪いだけなのかもしれない。 夫は、自宅でコンピュータを使って仕事をする在宅勤務なので、携帯電話を使うことはめったにない。そのため、月々の基本料金が一番安いプランに変更した。変更して数年は以前と何も変わらなかったのだけれど、最近になり、かかってきた電話がどこからかかってきているのかを知らせる相手の電話番号表示がなくなった。電話に出てもうまくつながらないことが少なくないのに、誰からかかってきたのかわからないため折り返し電話をかけることもできない。相手の番号を表示するプログラムをわざわざ追加で買わなければならないサービス内容に知らないうちに変わっていたのだった。さらに、携帯電話会社からのセールスの電話は頻繁にかかってくるのに、普通の電話はほとんどかかってこなくなった。それなのに、携帯電話会社からは留守番電話にメッセージが何件ありますという自動音声の電話がかかってくるようになった。その留守電メッセージを聞くためには別料金がかかる仕組みなので、もったいないと言って、夫はメッセージを聞こうとはしない。夫の家族や友人なら固定電話の番号やEメールアドレスを知っており、携帯にメッセージを残すようなことはしないため、わざわざ料金を支払ってメッセージを聞く必要はないからだ。 さらに最近おかしなことを経験した。夫が仕事で訪れたサンパウロ州東部の町からパーディーニョの知人に電話をしようとした際、夫の携帯はプリペイドのプランではないのに、金額が不足しているため入金しなければ使えないというメッセージが流れて使えなかった。ことほどさように、ここでは携帯電話は役に立たず、ほぼ無用の長物になっている。ただ、ここはよく停電するため、その際、電力会社に復旧工事を依頼するには携帯電話がないとできないのと、外出時や緊急時の連絡用にはあった方がいいだろうということで、完全には手放せないでいる。でも、最近、携帯電話会社の乗り換えはキャンセルとは異なり、とても簡単にできるらしいと聞いたので、この際、二人の携帯電話を、受信電波の状態がそれほど変わらなくても、せめてプリペイドの繰り越し期間が三ヶ月ある携帯電話会社に乗り換えようかと考え始めている。 | ||||
2016年9月6日(火) | ||||
次の写真は、ダイニングルームで咲き始めたラン2鉢。1枚目の写真のランは、買った時は青い色の花が咲いていたのだけれど、その青い花が枯れた後、あらたに咲いた花は白く、今年咲いた花も白いので、青い色の花を咲かせるためにはきっと何か薬品を与えるんだろうねとエドソンと話している。このランは買って1年少々だけれど、2枚目のピンクのランはもう3年かそれ以上になるのではないかと思う。毎年花を咲かせてくれるので、うれしい限り。
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2016年9月7日(水) | ||||
今年、熊本地震で大きな被害が出た際、在日米軍がオスプレイを使って支援したことに批判があったことを憶えている。ヘリコプターなどと比べてオスプレイの特性や機能性が格段に高いことは知っていたので、それを出して救援活動をするのに何の問題があるのだろう?と、不思議に思っていたのだけれど、先日、偶然インターネット上で見た動画の中で、以下のとても明解な新聞記事を紹介していたので、その新聞記事をネットで探して、以下にコピーしてみた。この記事を書いたロバート・D・エルドリッヂという人のことはこの新聞記事で初めて知った。そして、こういう論客が出てきたことをうれしく思った。
熊本地震の救援活動のため、在日米海兵隊がオスプレイを投入したことに批判が出ているのですか。はあー、情けない。情けない。政治的な主張と、災害対応は分けて考えるべきです。少なくとも今くらいは、意味のない議論はやめなさいと言いたいです。 オスプレイは従来のヘリコプターCH46と比べて、搭載量は3倍、速度は2~3倍、航続距離は2~4倍です。災害において最も役立つ航空機です。自衛隊のCH47の搭載量はオスプレイより多いですが、航続距離や速度は劣ります。他の自衛隊のヘリは搭載量が少ない。被災地から48人を急いで搬送するときに、6人しか運べないヘリ8機と、24人を運べるオスプレイ2機のどちらがいいでしょうか。オスプレイは航続距離が長いので、給油せずに何回も被災地を往復することができます。
フィリピン台風災害で活躍 東日本大震災の「トモダチ作戦」で在沖海兵隊は迅速に展開しましたが、旧型のCH46ヘリは現地まで3日かかりました。あのときオスプレイが日本に配備されていたら、3時間程度で展開できたでしょう。海兵隊は、孤立した宮城県気仙沼市の大島の救援活動も行いましたが、地元の方は「あのときオスプレイがあれば」と言ってくれます。日本では今後、南海トラフ地震の発生が予想されています。被災地は東海から四国まで広範囲になり、道路が寸断されて孤立する集落が多く出るでしょう。そうなれば、海上からの作戦が重要になります。海兵隊、オスプレイの能力を生かせます。海上自衛隊のヘリ搭載護衛艦や米軍岩国基地(山口県)を燃料補給や整備の拠点にすれば、被災地のインフラに負担をかけない利点があります。 熊本でのオスプレイの役割は物資輸送だけで、南海トラフのシナリオと比べれば任務としては1ランク、2ランク下でしょう。しかし、自衛隊と米軍が一緒に仕事をすることで、相互運用性は確実に高まります。防災では日ごろから顔の見える関係を築いておくことが重要です。そこから生まれる教訓は次の災害で確実に役に立ちます。命をもっと救うことができます。それでもオスプレイに反対だという人に聞きたい。被災して、極めて重要な72時間以内に、医療が必要な人たちをどうやって早く病院に連れて行けると考えているのか。平和や命の大切さを訴えるあなたたちは、そのために何をしているのか。イデオロギーのために次の災害で同胞を犠牲にするのか。そこまで最低に堕(お)ちているんですか。
日本人と労苦をともにした経験に大きな意味 ■ロバート・D・エルドリッヂ氏略歴 1968年、米ニュージャージー州生まれ。平成2年に来日、11年に神戸大大学院法学研究科博士後期課程修了。13年から大阪大大学院准教授。21~27年に在沖縄米海兵隊政務外交部次長を務め、東日本大震災では米軍による仙台空港の復旧策などを提言、実現させた。著書に「沖縄問題の起源」(名古屋大学出版会)、「オキナワ論」(新潮新書)など。
以下は、東日本大震災の時、在沖縄米海兵隊政務外交部次長として「ともだち作戦」を発案し、陣頭指揮を取ったエルドリッヂ氏に、沖縄で何があったのかを説明するサイト。この『沖縄左翼と差し違えて処分されたエルドリッジ博士は、日本の恩人だった!』にリンクをはってみた。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2016年9月8日(木) | ||||
昨日はブラジルの独立記念日で祝日だったので、月曜と水曜の朝、英語のレッスンに来るジョアオンはお休みするかと思っていたら、以外にも休まずやって来た。月曜日に何か用事があってお休みしたので、その埋め合わせだったのかもしれない。ジョアンのために入り口ゲートの鍵を朝一番で開けておいたら、7時にヒバマーたちがやって来たので驚いた。先々週の土曜日に、まだあまり大きくなっていないグアンドゥ豆の木の間に、「カリオカ豆を蒔いて育ててもいいか?」と聞いてきたので、エドソンは「問題ないよ、土地の使用料なんて取らないよ」と答えたという。それで昨日は休日で、ドナ・ベティのところの仕事がお休みだったのでヒバマーとゼーとゼーの奥さんの3人で豆を蒔きに来たのだった。うちの仕事に来たわけではないのだからもちろん日当はいらないと言うことだった。ジョアオンのレッスンが終わる10時半頃には作業が終わったようで、ジョアオンがおじいさんと帰って行く際には、もうヒバマーたちは引き上げていなくなっていた。 次の写真は、ランドマークの木の西側の道沿いで黄色い花を咲かせているイペーの木。イペーの開花時期は普通9月なのだけれど、今年この木は7月末に花をつけたので、驚いたのだけれど、どうもあれは先走りの狂い咲きだったようで、現在の方が花の数が多い。そして、庭のイペーの木もつぼみをつけ始め、そのつぼみがわずかに開き始めている(2枚目写真)。
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2016年9月9日(金) | ||||
一昨日、エドソンが「桑の実が色づいてきているよ」と言うので、今年始めて桑の実を収穫してみた。果樹園の奥にある小さな実のなる桑の木の実はまだ緑色だけれど、手前の大きな実のなる木にはたくさん赤い実がなっている。もう収穫できるものもあったので収穫してみたら、中くらいのボールに約半分の量になった。ジャムを作るためにはもう1回同じくらいの量を収穫しなければならない。でも、これから1日か2日おきに収穫できると思うので、今年もまた桑の実ジャムを作るのに忙しくなりそう。去年はこの大きな実の収穫が終わり、果樹園の奥の小さな実の収穫を始めようとしたら蜂の集団に襲われたので、今年は気をつけなければと思っている。そして、冬の間は葉を落としてしまうため作ることができなかった桑の葉茶も作ることができるようになった。コレステロール値を下げようと食事で努力しているエドソンのために、これから毎日せっせと桑の葉茶も作らなけなれば。
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2016年9月10日(土) | ||||
以下は、ニッケイ新聞の9月9日付け「コラム 樹海」からの転載。
『東京五輪と東日本復興のために、日本では労働者不足が深刻になり、外国人技能実習制度を5~6年に延長する検討(現状3年)がされていると聞き、〃足元〃を見ていない考え方だとガッカリした▼元々この実習制度は「途上国の外国人に技能の習得の機会を与える」という金看板だが、実態としては中小零細企業の単純労働者不足を補う役割を担ってきたと多くの専門家が指摘している▼だから「非人道的な長時間労働」や「最低賃金を下回るような賃金支払い」が問題視され、2015年の失踪者は5803人という新記録を作った。それほど歪みのある制度を、なぜ期間延長するのか理解に苦しむ▼それよりも、現状は日系三世までに限定されている「特別定住ビザ(以下、特定ビザ)」を全ての世代に解禁したらどうか。せめて四世まで。イタリア系の様に何世でも「国籍」が取得できる制度を日本でやるのはムリがあるが、「日系人に限って特定ビザを与える」だけなら可能ではないか▼ただし、その前提として在日二世には日本人児童・生徒と同じ「義務教育」を適用するべき。当地では、ブラジル人も移民の子も同じ様に扱われる。それは最初から「移民政策」だからだ。先進国たる日本では、外国人労働者は「一時滞在」で、その子弟の教育の面倒を見る必要は無いとするのはオカシイ▼日本が「移民政策」をとらないために、日本で育った日系人には日本語もポ語も会話のみ、きちんとした読み書き能力がないものが多数いると聞く。世界に冠たる先進国社会のど真ん中で、外国籍児童の多数がそんな風に育って誰も問題にしないのは異常だ▼一部で聞く「公教育の中で外国人子弟にバイリンガル教育を」という考え方は理想的だが、現状からすれば困難が多過ぎる気がする。大事なのは、どの言語でもいいから「論理的な思考能力」を発達させることだ。必要であれば、高校生・大学生になってから第2言語としてポ語を勉強すればいい▼「家庭内で親と会話ができなくなる」と言う人もいるが、家庭内で会話をしない親も相当に悪い。ブラジルで日本移民の子供が日本語を片言でもしゃべるのは、親が日本語で通したからだ。日本の場合、親のせいで、子供の論理的思考能力まで失われるのでは、親の知的能力の低さを、世代を超えて拡散させる手伝いを日本がしている形になる▼在日二世を公教育システムに受け入れ、日本人と同じように扱えば、彼らの将来は開ける。論理的思考能力の低い、会話だけのバイリンガルよりも、能力の高いモノリンガルの方が社会の役に立つ。国籍の違う子供や混血児を受け入れる雰囲気を、日本の教室内に醸成すべきではないか▼日本の教育を受けた在日二世世代が20代になれば、家庭内で親を指導する立場に変わる。「日本社会はこうだ」「日本文化はこういうもの」と仔細に親に説明するようになり、親自体の日本理解も深まり、地域住民との溝も浅くなる▼「在日一世に日本語を教えて、日本人並にしゃべらせる」という発想はエリートのもので、社会階層が中流以下の移民労働者向けの考え方ではない。大事なのは在日二世への教育だ。日系人でそれができないなら、他の外国人受け入れは更に難しい▼ブラジルの日本移民をみたら一目瞭然だが、ブラジル人なみにポ語をしゃべる一世がどれだけいるのか。日本人ですらできないことを、どうして日本で外国人に強いるのか▼ブラジルの日本移民がどう適応してきたか、なぜ二世を大学にやったのか。そこに在日ブラジル人二世が日本社会に適応するためのカギが隠されている。日本の政治家や官僚は移民史をもっと知るべきだ▼国策で移民を送り出し、そこから190万人に増えているのに、この人的絆・資源とどう付き合っていくのか、どう活かしていくのかという長期的ビジョンがない。まったく残念だ。(深)』 | ||||
2016年9月11日(日) | ||||
7月の中旬、玄関前の階段沿いに咲いているサツキの写真を掲載したけれど、この時は、まだつぼみだった白い色のサツキが、今一番元気良く咲いていて、次に元気なのがその右隣の薄いピンク色のサツキ。それにしても今もたくさん花を咲かせている一番左側の濃いピンクのサツキの息の長いことに驚いている。この4種類のサツキはなかなか大きくならないけれど、年々花の数は増えているような気がする。そして、長い間私たちの目を楽しませてくれる。2枚目の写真は、白いサツキをアップで撮ったもの。
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2016年9月12日(月) | ||||
数日前に、ほんの少し花を咲かせ始めたイペーの写真を掲載したけれど、その後花の数が増えたので、また写真を撮ってみた。イペーの木は桜と同じように、花が終わるまでは葉が出てこないので、何となく枯れ木に黄色い花がポツポツ咲いているような感じだけれど、これが大木になって、木全体がたくさんの花で黄色に染まると壮観だろうなと思う。今年の花の数は、去年よりも増えているので、年々少しずつ木が成長しながら花の数も増えて行っているようだ。
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2016年9月13日(火) | ||||
次の写真は、一袋24ロールのトイレットペーパー三袋がひとつになったもの。手前に少し写りこんでいる茶色いものは、「何だ?これ?」という感じでやって来て写ってしまったひろの頭。日曜日の午前中、ボトゥカトゥのショッピングモールの中にあるテンダ(Tenda)という業務用スーパーと言うか量販スーパーで買ってきたもの。このスーパーで販売されている商品は他のスーパーよりも値段が少し安く、まとまった量を買うとさらに割引になるので、トイレットペーパーや洗剤など長期間保存しておけるものはここで買おうと思い、時々行こうとエドソンと話していたのだけれど、なかなか出かけて行く時間がなかった。でも、ようやくこの日曜日に行くことができた。このトイレットペーパーの他に、ペーパーナプキン、コーヒーフィルター、歯磨きなどを半ダースから1ダースずつ、台所で使うココナツ洗剤を1箱、洗濯洗剤や柔軟剤などは大きなボトルのものを2本ずつ買ったので、当分はこれらを買わなくてもやって行ける状態になった。
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2016年9月14日(水) | ||||
広島三越で働いている友人が、広島東洋カープのユニフォームを着ている三越玄関前のライオンの像の写真を送ってきてくれた。今年広島東洋カープが25年ぶりに優勝したため、広島はずいぶん盛り上がっているらしく、三越もシンボルのライオンにユニフォームを着せてお祝いしているようだ。このユニフォームは特注だろうから、優勝するだろうという予測の下にライオンの形に合わせて作ったのだろうけれど、三越もなかなかやりますねえ。広島では毎年ゴールデンウィークの期間中、フラワーフェスティバルという催しがある。これは1950年に球団設立以来、万年最下位を低迷していたカープが75年に初優勝して、広島市中心を東西に横断する100メートル道路で優勝祝賀パレードをしたことに端を発している。以来、毎年春になると、この100メートル道路で市民がパレードをし、その道路の両脇の広い緑地帯では様々なステージが繰り広げられ、とても賑やか。それほどに広島とカープは切っても切れない間柄なんだと思う。この優勝をうけて、またここで優勝祝賀パレードをするのかなあ・・・。
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2016年9月15日(木) | ||||
次の写真は、安見さんが送ってきてくださった「ペトロポリス市立混声合唱団」の写真。先月あったBUNKA-SAIの開会式で撮影されたもの。この合唱団は、毎年BUNKA-SAIの開会式で演目の中に1~2曲日本の歌を入れて参加しているのだけれど、今年は6曲すべて日本の歌を歌ったのだそう。その際、開会式に参加していたリオ連盟の鹿田理事長が感心して、9月18日のリオ敬老会に招待したため、団員は久々の遠征と日本食が食べられることに大喜びとあった。
「どうやってこんなに一度に覚えたのかと聞いたところ、10年前BUNKA-SAIに参加するにあたって、YUMI KOMOOKAさんが選曲して発音指導してくれた」のだそう。「その後毎年少しづつ練習レパートリーを増やして、・・・今や10曲以上歌える」と言う。彼らはドイツ祭りではドイツ語で歌い、イタリア祭りではイタリア語で歌うそうで、10年間練習を続けて、とうとうBUNKA-SAI(日本祭り)ではすべて日本語で歌えるようになったということらしい。「YUMIさんの指導が良かったのだ。ありがとう」とは安見さんの弁。 このYumiさんという人は、2008年に安見さんご夫妻が当時運営をされていた成人向け中学高校の分校に手伝いに来てくれていた人で、あの時Yumiさんが選曲発音を徹底的に面倒を見たことで、10年目にして大きく花開いたことになる。リオの敬老会への出演交渉を安見さんがされ、合唱団の所属長である市文化観光局長に、リオがバスと昼食は持つので、市はこれがBUNKA-SAIの一環として経費を請求しないことで出演交渉が成立したのだそう。 さらに追記として、ペトロポリス混声合唱団は、昔は有名だったのだけれど、時代の流れか主要人物はヨーロッパに行ってしまい、コーラスでは食べて行けないし、市は芸術にお金を出さなくなり、若者は宗教音楽よりPOPの方が好みになってきているなどなどの理由で、最近は市の行事のみに出演するだけで遠征のチャンスはないらしい。そこに飛び込んできたリオへの遠征に、団員は喜んでいるということだった。市が芸術にお金を出さなくなったとは言っても、混声合唱団が存在するということそれ自体、やはりペトロポリスの文化度は高いなと思う。 | ||||
2016年9月16日(金) | ||||
今週私はとんでもない大ボケをやらかしてしまった。13日の火曜日はエドソンの誕生日だったのに、すっかり忘れていた。9月に入ってから「エドソンの誕生日が近づいているなあ」と、何度も思っていたのに、具体的にどうしようとまでは考えておらず、18日に前園さんや鎌谷さんたち楽書倶楽部の同人の方たち数人がこちらに遊びに来てくださる予定の方にばかり気を取られ、その前のエドソンの誕生日を当日忘れてしまった。前日までは、火曜日に美容院に行った帰りにスーパーに寄って小さめのケーキを買ってお祝いをしようと思っていたのに、美容院が終わって帰宅する際、何故スーパーに寄ろうと思っていたのか思い出せず、そのまま真っ直ぐ帰宅してしまった。そして、15日の木曜日の朝、ふと、「あれっ?エドソンの誕生日のこと忘れてた?」と気づくまで2日間思い出さなかった。我ながらこのボケ具合に唖然!今週エドソンは何だかとても口数が少なく、元気がなく落ち込んでいる感じなので、先週、仕事のことでパウロたちとガタガタあったのが尾を引いているのだろうか?などと考えていた。でも、実は仕事のガタガタで気持ちが重く沈んでいたところに、さらに追い討ちをかけるように私が彼の誕生日をすっかり忘れていたことにひどく傷ついていたんだと納得。彼のお母さんが亡くなってしまった今、彼の誕生日をお祝いしてあがられるのは私しかいないのに、その私が忘れてしまったのだから、救いようがない。申し訳ない!それで昨日、遅まきながら、バースデーケーキとして彼の大好きなティラミスを作り、夕飯はローストチキンを作って、2日遅れのバースデーディナーとした。次の写真は、久しぶりに作った甘さ控えめのそのティラミス。
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2016年9月17日(土) | ||||
以下は、9月13日付けニッケイ新聞の「コラム 樹海」からの転載。
『「言葉」というのは不思議なもので、本人がしっかり理解していないと相手に伝わらない。以前、分かりやすい解説で有名なジャーナリスト池上彰が、こんなことを言っているのを聞いてガッテンした▼「後輩がニュース原稿を読んだのを聞いて、一カ所だけ意味がとれないところがあった。後から『あの部分はどういう意味だったの』と確認したら、本人も『やっぱり伝わっちゃいましたか。実は僕も原稿のあの部分だけ、意味が理解できていなかったんです』と告白した。やっぱり自分が理解していないままアナウンスしても、相手に伝わらないんですね」。つまり、たんに言葉として発音するのと、意味を分かって口にするのとでは雲泥の差がある▼日本の外国語大学のポ語学科を卒業した若者と話す機会が時々あるが、発音が良かったり、難しい言い回しができたりする反面、ブラジルの歴史や文化、人物、社会の仕組みを知らないのに呆れることが度々ある▼試しに、彼らに当地の新聞を訳してもらうと、単語を機械的に置き換えているだけで文脈を理解した文章になっていないことが多い。さらに日本語自体がオカシイことも多々あった。いくら大学で勉強して文法に詳しくなったところで、実際のブラジル社会を知らなければ本当の〃理解〃は不可能だ。それ以前に日本語文章能力が満足でないものに翻訳はムリだ▼同じことが「外国理解」にいえる。日本語や日本の歴史や文化を知らずして、外国のことを理解しようとしても限界がある。その人が日本を理解しているところまでしか、外国理解は進まないからだ。まずは母語である日本語で日本に関する論理的な認識能力を叩き上げることが重要だ。それがないのに、一足飛びに外国語を勉強しても、どちらも中途半端になる▼物事を理解するには順序がある。急いでいるからと、それをすっ飛ばすと「わかったつもり」にしかならない。そこでいつも思うのは、日本における「日本移民や日系人の存在の軽さ」だ▼血統や国籍、人種、文化変容というものを考える場合、日本人と外国人の中間にいるのが移民や日系人だ。日本では外国人や外国文化、移民や難民を理解しようとするとき、日系人をすっ飛ばして、いきなり外国人を理解しようとする傾向が強い▼なぜ柔道や剣道が延々と型を繰り返し練習するのか、茶道や華道が基本形を大事にするのか。そこには「筋道」があるからだ。外国理解〝道〟の先達は移民諸氏であり、彼らに耳を傾けるのが一番早い上達法だ。この問題には二世代、三世代先を見る視線と忍耐がないと、身体にしみ込んだ深い認識にならない▼移民家族こそが「日本人の臨界、限界」だと常々思う。移民の家庭においては、同じ血筋の中に外国人である子や孫がいて、国籍も違えば言葉も文化も異なる。でも「家族」の絆でつながる。その家庭環境の中で、どのように親の文化が子孫に広がり、現地文化や考え方が親に浸透していくのか。一世はどんな心理過程で現地適応していくのか、また二世はどんな葛藤を抱えるのか。そんな現地化の過程を一つ一つ解き明かし、理解する営みの先にこそ外国人理解があると思う▼日本人が理解するのに、最も身近で分かりやすい事例が日本人自身のはず。日本人が外国に適応していくプロセスを理解せずして、外国人の日本適応を肌感覚で理解できるのか。それらは鏡返しの現象だ。なのに日本には多文化共生や外国文化研究の学者はいっぱいいても、日本移民史やその移住プロセス研究者は少ない。その日系人不理解が外国人政策にも反映されている▼うがった見方をすれば日本の学者や官僚らは、途上国に住む南米日系人を下にみて「学ぶものなどない」とし、いまだに「脱亜入欧」よろしく欧米事例にこそ先進事例がある―との先入観を持っていると感じる▼〝足元〟たる日本移民の歴史を知らないのに、ドイツのトルコ移民の実態やアメリカの中南米移民政策を調べて、そこから日本への外国人移民導入のヒントを探るなど噴飯ものだ。「多文化共生」を金科玉条にしているNGOは欧米視察に行く前に、まずブラジル日系社会を体験しに来るべきだと思う。(深)』 | ||||
2016年9月18日(日) | ||||
次の写真は、庭のくぬぎの木。秋から冬にかけて葉がすっかり茶色になり、落葉するでもなく、ずいぶん長い間ずっと木が枯れたような状態だったのだけれど、ようやく茶色い葉が落ちて新しい葉が出てきた。1枚目のくぬぎは一番小さく、まだ茶色い葉が残っていて、下の方の枝から緑色の若葉が出てきている。
2枚目の写真のくぬぎもまだところどころに茶色い葉が残っているけれど、1枚目の写真のくぬぎよりも新しい葉が出揃ってきている。
そして、3枚目の写真のくぬぎは、防風林の一番西側の道沿いにある木で、葉が青々としている。この木の左側の裸の木は、サンタ・バーバラで、枝先に新しい葉の芽が出始めている。サンタ・バーバラは確か苗を植えたのだけれど、くぬぎはソロカバでしいたけの菌床を作って販売している日系の方の工場を訪問した際、その敷地内に植わっていたくぬぎの木の下にどんぐりがたくさんあったので、いただいて帰り、その種から育てたもの。いくつどんぐりをいただいて帰ったのか記憶にないけれど、現在、庭に3本、家の東側に1本、そして、この写真の2本、計6本が育っている。ここまでよく育ってくれました。
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2016年9月19日(月) | ||||
昨日、楽書倶楽部の同人の方たち総勢10人(男性4人、女性6人、そして車の運転手さんを入れると11人)が、我が家に訪ねて来てくださった。楽書倶楽部の主宰者の前園さん以外は、みな初めてお目にかかる方たちばかり。メル友の鎌谷さんとはもう3年くらいメールのやり取りを続けているのですっかり仲良しだけれど、お目にかかったのは今回が初めてだった。皆さんさすがに何十年もブラジルで暮らしておられるだけあって、挨拶はただのお辞儀や握手だけでなく、アブラーソ(つまり、ハグ)だった。皆さんお目にかかったことはなくても、楽書倶楽部に掲載される文章で、お名前はよく知っている方たちばかり。初めてお目にかかったという感じがしなかった。次の写真は、お昼のテーブルを囲んでいる皆さん。左から時計回りに、前園さん、寺田さん、小野寺さん、鎌谷さん、高井さん、阿久澤さん、井上さん、中野さん。松井さんと以前パーディーニョに住んでいたことがあるという男性(名前は聞きそびれた)は、この写真を撮った時はまだ外を散策しておられたので、この写真には写っていない。中野さんと井上さんは姉妹で、ここから東に50キロくらい戻ったセザリオ・ランジ(Cesario Lange)というところに住んでおられるので、サンパウロから来られた一行に途中で拾ってもらい一緒に来られたということだった。おふたりは家族と一緒にブラジルに来られた子供移民で、パーディーニョに程近いボトゥカトゥの日系コロニアで桃を栽培しておられたのだそう。それで、なつかしくて今回参加してくださったという。以前パーディーニョに住んでいて、現在は井上さんたちと同じセザリオ・ランジで暮らしておられるという男性は、ひょっとして井上さんか中野さんのご主人だったのかな?
飲み物は各自持参で、お昼の食材は持って行きますからシュハスコをしましょうという前園さんからの提案だったので、うちでは日本茶を入れるためのお湯を魔法瓶に用意し、レモンを絞ってレモネードを作り、きゅうりの酢の物を用意した。11時を少し回って皆さんが到着すると、女性軍はすぐに台所で、野菜を洗ったり切ったりしてサラダを作ったり、私が炊いておいた10合のご飯でおにぎりを作ったり、テキパキと動き、持ってきてくださった大量のお肉をエドソンがシュハスコ小屋で焼いてくれた。手作りのちらし寿司やたくあんや漬物を持ってきてくださった方たちもあり、盛りだくさんの昼食が出来上がった。1時間ほどで準備ができ、上の写真のようにテーブルを囲んだ。男性軍はかいがいしく手伝ってくださった鎌谷さん以外はシュハスコ小屋でエドソンとおしゃべりしたり、外を散策して時間をつぶしておられた。食事が済むと女性軍が外を散策したいということで、丘の上に行って景色を眺めたり、森の近くまで下りて行ったりして敷地内を案内した。次の写真は、丘の上で撮った皆さん。後列左から井上さんと寺田さん。前列左から前園さん、小野寺さん、中野さん、阿久澤さん。昨日はお昼前から気温がぐんぐん上がり、とても暑くなった。それでシュハスコ小屋の中のかまどの前でお肉を焼き続けてくれたエドソンはずいぶん大変だったようで、かまどの熱で顔が赤くなったのがなかなか引かず、外気の暑さとかまどの熱でしんどそうにしていて、申し訳けなかった。今回のことで学んだ教訓がひとつ。これだけ大勢の人が集まってシュハスコをする際は、焼くお肉の量が多いので、お肉を焼く作業をしてくれる人をひとり雇ってお願いしないと、エドソンはかまどの前から離れることができない。
とにかくこんなに大勢の人が我が家に溢れることはめったにないことなので、あたふたしてしまって、もう上を下への大騒ぎだった。そのためこちらの対応も行き届かず、ひろは大勢の人が怖くてウンチをおもらしするは、はるはうれしくて大興奮で騒ぐはで、大変だったけれど、遠路はるばる訪ねてくださって、ありがたいことだった。最後にガレージ横の部屋の香山文庫に皆さんを案内して、本を見ていただいた。皆さん香山さんのことはご存知で、「香山さんの蔵書がここにこうしてあることを、香山さんは喜んでおられることでしょう」と、松井さんは言ってくださったけれど、香山文庫のホームページを作るまでは、ここにあるだけでは宝の持ち腐れなので、何とかホームページ立ち上げを実現したいと思っている。次の写真は、3時を回って帰路につかれるために車に乗り込む最後の方たち。青いTシャツのブラジル人の男性はこの車の運転手さん。その左側が松井さんと高井さん。何しろ大人数ではあるし、皆さん高齢なので、自分たちで運転せず、日系人の人が経営する配車サービス会社の車と運転手さんを雇って来られたのは正解だったように思う。午前11時くらいから午後3時くらいまでの短い滞在で、大勢の方がおられたので、なかなかゆっくりおひとりおひとりとお話することができず、嵐のような1日になったけれど、皆さんにお会いできて私はとてもうれしかった。
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2016年9月20日(火) | ||||
こちらに訪ねて来てくださった楽書倶楽部の同人の方々は、交通費を負担し、昼食の食材の費用も負担しと、結構な出費をして来てくださったのに、その上たくさんお土産を持って来てくださった方が何人もおられ、恐縮至極だった。次の写真は阿久澤さんが持って来てくださった大きな花束をふたつに分けて花瓶に飾ったもの。阿久澤さんのおうちは、サンパウロよりも東のグアラレーマという町でお花を栽培しておられるので、それを持って来てくださったのだった。隣町のボトゥカトゥに行けばお花屋さんが2~3軒あるけれど、販売されている花は鉢植えの花がほとんどで、こんなきれいで立派な切り花を見ることはまずない。おそらく阿久澤さんのところで栽培されている様々な花はサンパウロの市場に出されて、高級なレストランやホテルなどで飾られるのだろうと思う。阿久澤さんからはネギの苗一束と、かわいいリュックサックもいただいた。
次の写真は、寺田さん手作りのたくあん。ちょっと塩っぱいようなピリ辛のような味だけれど、ブラジルではたくあんを買ったことがなかったので、昼食に出して残ったものを、そのまま我が家にいただいた。寺田さんはこの他小さなおまんじゅうと手作りの桑の実のジャムをくださった。ああ、今うちでもたくさん獲れる桑の実でジャム作りが忙しいんだけどなあなどとは言わず、ありがたくいただいた。
鎌谷さんからはいわしとパンをお土産にいただいた。メールでよくここではお魚が手に入らないという話をするので、それでわざわざ持って来てくださったのだと思う。前園さんも私が費用は払い戻しますからとお願いしていたポン酢だけでなく、去年あった楽書倶楽部の五周年記念の親睦会(私たちは参加できなかった)で皆さんに配られた記念の品物や、ボトゥカトゥの日本食料品店では見かけないインスタントのカレーやラーメンを持って来てくださった。いろいろな方たちがいろいろお土産をくださったので、誰が何をくださったのかすべてを憶えきれなくて、ずいきの苗をくださったのは鎌谷さんだったかな?次の写真の、シソの葉のような苗をくださったのは阿久澤さんだったかな?と思い出せず、頭がパンク状態。昼食に出された手作りのちらし寿司や、きゅうりとかぶのキムチ和えなどは、どなたが持参されたのかもわからない始末。トホホ・・・。
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2016年9月21日(水) | ||||
前園さんが彼女のカメラで撮った写真をメールで送ってきてくださった。次の写真は、丘の上で撮ったもの。左から、井上さん、寺田さん、阿久澤さん、小野寺さん、中野さん、私。小野寺さんは短歌の先生で、いろいろな本を出版されている方。以前、サンパウロで短歌の教室をされていたのだけれど、参加者が高齢化して、サンパウロまで出てくるのが大変になったので、最近は通信教育のように郵便で生徒さんから一人2つずつ短歌を受け取って、それを添削、批評して返送することで、短歌教室を続けておられるのだそう。私のメル友の鎌谷さんも、郵便で小野寺さんに短歌を送って見てもらっている。あいにく小野寺さんとはあまりお話しできなかったのだけれど、小野寺さんに関する話は鎌谷さんから聞いて知っていた。その鎌谷さんは短歌の他に、ブラジル日系文学の編集者の中田さんが主宰する文章会にも参加されていて、エッセイではすでに入選されたことがあるので、現在は小説を書くことに挑戦されていて、俳句もやっておられる。日系の一世の人たちは本当にエネルギッシュで向上心が高いなと思う。
次の写真は、サンパウロに向けて出発する前に、皆さんでうちの前に集合して撮ったもの。阿久澤さんが前園さんのカメラで撮ってくださったので、彼女はこの写真には写っていない。後列で立っているのは、左から、松井さん、エドソン、井上さん、寺田さん、中野さん、前園さん、小野寺さん、そして、右端の名前を聞き忘れた男性は井上さんのご主人だということがわかった。前列でしゃがんでいるのは、左から、私、高井さん、鎌谷さん。
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2016年9月22日(木) | ||||
次の写真は、昨日の朝、英語のレッスンに来たジョアオン。最近もらったフットサルやサッカーのメダルとか、ロータリークラブからもらった学業優秀生に与えられるメダルとかを4つも首から下げてガチャガチャいわせながらやって来たので、ひとつひとつ見せてもらった後、この写真を撮った。ジョアオンはおもしろい子で、時々こんな風に自慢したいことなどがあると、私たちにも見せてくれる。月曜日のレッスンに来た時は、前日の日曜日にサッカーで足の親指に怪我をしたと言って、びっこを引きながら来て、怪我をした親指を見せてくれた。現在、レッスンではHe is tall.とかHe is short.などという形容詞を学んでいるのだけれど、自分のことを言わせると、I am fat.とかI am ugly.と事実とは異なる自虐的なことを言い、私のことを言わせると、You are young.とかYou are beautiful.とか言うので、もうこの歳ですでにこんなおべんちゃらを言うのか?と、おかしくて笑ってしまった。日曜日はあんなに暑かったのに、月曜日からまた気温が下がり、火曜日も、水曜日も冷え込んだので、いつも薄着のジョアオンも水曜日は暖かそうなジャンパーを着ていた。
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2016年9月23日(金) | ||||
次の写真は、前園さんがお土産にくださった彼女手作りの小魚のおつまみ2パック。前園さんは毎日忙しく日毎叢書企画出版を切り盛りしておられるだけでなく、楽書倶楽部も主宰して、隔月編集、出版されているのに、よくこのようなものを手作りする時間があるなと感心してしまう。鎌谷さんはこんにゃく芋を自宅の畑で育てて、こんにゃくを手作りされたり、納豆も手作りされるそうだし、お豆腐や梅干し、らっきょう、漬物、味噌なども自宅で手作りする人はざらで、ブラジルの日系の人たちは本当によくいろいろなものを手作りされるなあと思う。昔はそうしなければ日本食なんて手に入らなかったからと言ってしまえばそれまでだけれど、今でも手作りしていらっしゃるのはすごいと思う。私の父はこういう小魚のおつまみが好きで(と言うか、体にいいという理由もあったかもしれない)、よく食べていたけれど、私もその血を引いたのか、小魚のおつまみは大好き。ただ、ここではこんなおつまみは日本食のお店でも見かけない貴重品なので、毎日少しずつワインのおともでありがたくいただいている。
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2016年9月24日(土) | ||||
次の写真は、家の西側にあるランドマークの木。8月から9月の初めにかけて毎日葉を落として、枯れ木のようになっていたのだけれど、9月の中旬になる頃から若葉が出始めて、先日の朝、はるたちとのお散歩から戻る際、家に向かって歩きながら木を見上げると、新緑に輝いていたのでこの写真を撮ってみた。このランドマークの木は季節ごとに趣きを変えるので、見ていて飽きない。
次の写真は、寝室のベッドの中のはる(手前)とひろ(奥)。と言っても夜撮った写真ではなく、午前中に撮ったもの。最近彼らは、朝食後のお散歩から戻ると、しばらくの間、はるはエドソンの側に座り、玄関の方を向いて私がごそごそ立ち働くのを眺めていて、ひろははるとは反対側の玄関マットの上に座って、同じく私の行動を眺めている。そして、私が寝室のベッドメイキングをするために寝室に行くと、彼らもやって来て私のベッド横の壁際に置いたこの彼らのベッドの中に行っておとなしくしている。だいたい10時半くらいになると、オシッコの時間なので自発的にベッドから出てくることもあるし、私が声をかけるまで出てこないこともある。そして、オシッコが終わると、またお昼近くまでこんな感じで丸まっていることが多い。ただし、その間エドソンが仕事場を離れて、台所に来たり、玄関から外に出たりすると、一緒にベッドから出てきて、「何?何?」という感じでエドソンの後について歩き彼の行動を注視したりする。お昼近くになってお腹がすくと、まず、はるが玄関マットのところまで来て、「ご飯はまだですか?」と言うように、「ワン」と一声あげたりする。そして、お昼を食べて、お散歩をして、家に戻ると、午後からは居間の窓際に置いた別のベッドで日向ぼっこをしながら丸まって過ごす。これが彼らの最近の日課になっている。こうして見ると、彼らの生活のパターンはほぼ毎日同じで、とても規則正しいなと思う。
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2016年9月25日(日) | ||||
以下は、インターネット上で見かけた9月20日(火)17時0分配信のBEST TIMESの記事のコピー。
「いま誇るべき日本人の精神」(ベスト新書)を上梓。日本人は戦後いかに変わり、そして大事なものを失ってしまったのか。また日本人が本来もつ美徳とは何なのか。保守派の重鎮である加瀬英明氏から話を聞いた。 今日、エコロジーが、人類の新しい宗教となっている。 自然と共存しなければ、人類が生き伸びられないことが、理解されるようになっている。日本文化の最大の特徴は、いったい、何だろうか? ひとことでいえば、清浄感である。神道は、何よりも穢れを嫌う。清い心を持つことを、求める。 いま、世界的なブームとなっている和食をとれば、淡白で、できるかぎり自然を、そのまま取り入れている。素材の味を損なわずに、自然の恵みを楽しもうとする。 それに対して、中華料理や、フランス料理はさまざまな素材を用いて、もとの素材にない味をつくりだす。凝ったソースがそうだが、まるで化学の実験のようだ。 日本文化は、太古のむかしから、中国や朝鮮の文化と、まったく異なっていた。 和食には、山や、森や、川や、海の霊気が、宿っている。私たちからみると、中国や、西洋の料理は、人の手が加わりすぎている。 中国や西洋では、厚い鉄鍋が調理の主役だ。日本では素材を大事にするから、包丁だ。 私は仕事で、ヨーロッパや、中国、インドを足繁く訪れたが、インド料理も、素材の味をそのまま、活かすことがない。東アジア料理も、強い香辛料が、売り物となっている。 たしかに、私たちは中国や、朝鮮から仏教をはじめ、制度、儒教など、多くを学んできた。漢字もそうだ。だが、遣唐使が豚や、羊を連れてくることが、なかった。 美しいという漢字は、「羊が大きい」と書く。私たちの美意識は中国人のように、唾液腺にかかわることがなかった。 日本人の美意識は、雅にある。派手なものや、金銀のように光るものを、嫌ってきた。雅の語源は、平安朝の「宮び」からきているが、そこはかとない美しさや、香りを尊んだ。 中国の歴代の皇帝が住んでいた、北京の故宮というと、紫禁城を訪れると、まばゆいばかりの財宝が展示されている。 私は皇居の新宮殿にあがったことがあるが、金銀の光るものが、何一つない。ただ、気品が漂っている。 十一世紀前半の紫式部の『源氏物語』は、雅の文学であるが、「風涼しくてそこはかとない虫の声が聞こえ」(帚木)というように、雅は抑制された美である。 『源氏物語』は、私たちに平安の香りの文化を、伝えている。 梅の香が、しばしば登場する。梅も橘も、日本の原産種ではなく、中国から船で、豚や、羊のかわりに、持ち帰ったものだ。 私は中国に、全員が人民服を着ていたころから、しばしば招かれたが、不潔なのに閉口した。 漢字で「家」を漢和辞典でひくと、ウ冠の屋根の下に、豕がいると説明している。同じ屋根の下で、豚と暮していたのだ。 中国で墓参の時や、台湾でも廟に、豚の頭を丸ごと供える。私たちには、生臭さすぎる。 神道では神前に、榊を供える。榊はツバキ科の常緑樹で、清々しい光沢が美しい。 『源氏物語』の「賢木」に、光源氏が多くの恋人のなかの一人に、「変らぬ色をしるべとして」(自分のあなたへの心は、いつも変わらない)という和歌に、榊の葉を添えて、贈る場面がある。 和食は、西洋料理や、中華料理、韓国、インド料理と違って、清浄さと、何よりも季節を大切にする。私たちは、そこはかとない、繊細な隠し味を楽しむ。日本人は心を遣うから、何ごとについても、繊細なのだ。
自然は、自分をそのまま見せる。誇張することがない。
日本人は心の民として、つねに和を重んじて、自己主張することがなく、自制して、自然の清らかさを求めて、生きてきた。 | ||||
2016年9月26日(月) | ||||
次の写真は、先週の木曜日の午後、庭の桜の木の下の芝生の上で昼寝をしているめい。完全な日向でも日陰でもない、木の下だけれど、木漏れ日が適度に当たる最高の場所で、気持ちよさそうに横になっている。この日は平日だったのだけど、ヒバマーが仕事に来てくれていたので、それを察知してやって来て、午前中はヒバマーについて歩いていた。めいはヒバマーのことが大好き。お昼はヒバマーにお弁当のご飯と煮豆を少しおすそ分けしてもらって食べて、はるとひろがお散歩に出て来たところで少し戯れ合って、その後しばらくすると、ここでこんな風にずっと横になっていた。この日は私がテトラパックで育てていた桜の苗木を5本ほど地植えにするために、めいの前を何度も行ったり来たりしたのだけれど、最初の頃はその都度、頭を上げて私を見ていたものの、そのうち気にもしなくなり、桜の植え替えが終わった後、カメラを持って側に行ってもこの写真の通りお昼寝を続行していた。前園さんたちが来ておられた日も、人がたくさんいることを察知して、めいはここに来ていた。ちゃっかりシュハスコ小屋でエドソンからお肉を少しもらったりしたようだった。昼食後に女性軍みんなで外の散策に出た際、前園さんがめいを見つけて、「めいちゃん」と声をかけると、めいは前園さんの側に来て、私たちにするようにお腹を丸出しにして、「お腹を撫でて」と服従の姿勢を示し、前園さんに親愛の情を示したので、「めいちゃんが私に懐いてくれた」と前園さんは喜んでいた。
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2016年9月27日(火) | ||||
先週の土曜日は人の出入りの多い、忙しい1日になった。ヒバマーはお休みだったけれど、畑作りを手伝ってくれているジョゼと、家の回りの片付けを手伝ってくれているゼーが来てくれて、作業を続けてくれた。朝食の後、洗濯をして、ヴィトーの英語のレッスンの準備をしていると、ドナ・ベティのファゼンダの新しいマネージャーのジョアオンがやって来て、うちの野菜畑のためにジョゼが頼んでおいてくれた鶏糞を持ってきてくれた。詳しいことはわからないけれど、ジョゼがうちで畑作りを手伝っているという話しをしたため、鶏糞を分けてもらえることになったらしい。次の写真は、畑でエドソンと話しているジョアオン(横縞のTシャツの人)と、麦わら帽子を被り、こちらに向かって歩いてきているジョゼ。この後、エドソンとジョアオンがベランダの椅子に腰かけて話をしている時、ヴィトーがレッスンにやって来た。ヴィトーはこの22日の木曜日に22歳の誕生日を迎えたと言っていた。
次の写真は、家の南側に積んであった廃材を敷地内の東端の物干し場近くのスペースに移動させて、ここにまとめてあった壊れたレンガなどを敷地内の西側に移動させる作業をしてくれているゼー。この後、草を取り除いたり、シュハスコ小屋の前にはるたちのお留守番スペースを作る際使って残った砂利や砂の山を、一部を除いて平らにならしてくれた。これまで来客がガレージの前に車を止めたり、下の部屋に泊まる際、目の前に廃材やらレンガの山があり、見た感じあまり良くなかったのだけれど、何年か越しで、ここがようやくすっきりときれいになり、感謝。2枚目の写真が、そのきれいになった家の南側の様子を撮ったもの。
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2016年9月28日(水) | ||||
この土曜日はさらに、エーナーニ(Hernani)とカロウ(Carol)を夕食に招いていたので、午後は夕食作りに勤しんだ。メニューは、里芋の炊き込みご飯、鶏肉と野菜のオーブン焼き、きゅうりの酢の物、ルッコラのソテー、そして、デザートは自家製の桑の実ジャムを乗せたチーズケーキ。里芋の炊き込みご飯は、エドソンも私も気に入っていて、時々作るのだけれど、炊き込みご飯と言っても、しょうゆやお酒の他に、固形のチキンスープとベーコンも少し入っていて、和風と言うより穏やかな洋風の味なので、エーナーニたちも食べるのではないかと言うエドソンの提案で作ることにした。そして、鶏肉と野菜のオーブン焼きは、フランス在住の友人のリエちゃんが最近始めたブログにあり、おいしそうだったので、作ってみた。次の2枚の写真は、オーブンに入れる前と、焼き上がってオーブンから出したところをパチリ。リエちゃんのブログの写真を真似して撮ってみた。8種類以上の野菜をたっぷり入れて、ミニトマトがなかったので、普通のトマトを小さく切って乗せてみた。鶏肉に塩とコショウとタイムとにんにくをまぶしただけで、後はオリーブ油をかけただけなのだけれど、鶏肉と様々な野菜のうまみが絶妙なハーモニーを醸し出して、とてもおいしくでき、みんなにとても好評だった。リエちゃんありがとう!!
次の写真は、夕食にやって来たエーナーニとカロウが玄関に入ってきたところをパチリ。エドソンが手に持っているのは、ふたりがお土産に持ってきてくれたジャブチカバという木の苗。そして、カロウが手に持っているのは、やはりお土産の白いシクラメンの鉢植え。ふたりと会うのは久しぶりだったので、とても話が弾んだ。みんなが話していることがすべて理解できる訳ではないけれど、ある程度わかる部分で、私が驚いたり、あいの手を入れたりしていたので、エーナーニが「ポルトガル語がだいぶ上手になったね」とほめてくれた。「前よりは少しね」と返すとエーナーニは笑っていた。彼らが帰る際、私が育てていた桜の苗をふたつ持って帰ってもらった。1本は自宅の庭に植え、もう1本は別荘を建てようと計画しているうちから程近いところに所有しているシチオに植えると言っていた。
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2016年9月29日(木) | ||||
次の写真は、外ベランダの角のレンガの柱の上で仲良く戯れている2羽のハト。最近、ここにはよくハトが来てじっとしていることがあるのだけれど、この日曜日の夕方は2羽が結構長い時間ここで楽しそうに戯れ合っていたので写真を撮ってみた。
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2016年9月30日(金) | ||||
明後日、10月2日(日曜日)は、ブラジル全土で市長と市議会議員の選挙が行われる。州知事と州議会議員の選挙は大統領選挙と同じ年に行われるので、2年後ということになる。今回の市長選挙は、パーディーニョでは3人が立候補している。ひとりはこれまで従兄弟同士が交代で、何十年もの間ずっと市長を続けてきたジトという人と、ふたり目は今年亡くなったジトの従兄弟で市長だった人の任期中、副市長だったナポレオンという人と、3人目は元警察官(名前はど忘れ)の人。エーナーニたちはこの元警察官の人は悪い人ではないけれど、それほど知名度というか人気がないので、おそらく当選しないだろうと言っていた。そして、ジトは長年交代で市長を務めてきたため、そろそろパーディーニョには変化が必要だし、ナポレオンはとてもいい人だからナポレオンに投票すると言っていた。そう言えば、パウラとジャイミも同じようなことを言っていたなあ・・・。でも、エドソンはまだ思案中。
そして、私の英語のレッスンに来ている小学生のジョアオンのお母さんのソフィアが市議会議員に立候補している。8月の最初のレッスンの際、いつもはおじいさんがジョアオンを連れて来るのに、その日はお父さんのジュニオーが連れて来て、奥さんのソフィアが市議会議員に立候補したからよろしくと言っていた。上の写真は、先日ジョアオンが2セットずつ持ってきたソフィアの選挙のチラシと名刺の裏表を撮ったもの。ブラジルでは市議会議員候補は、どの市長候補のグループなのか、あるいは、どの市長候補を支持しているかを、だいたいはっきりさせて立候補するらしい。ソフィアと一緒に写っているのは市長候補のナポレオン(左の白髪の人)と、副市長候補のマーセロ(右)。アメリカの大統領選挙と同じように、選挙運動中に自分が当選したら誰を副市長にするかを決めていて、ふたりで選挙戦を戦うらしい。ソフィアのちらしには「Unidos pela mudanca! (= United for change!=改変のために力を合わせよう!)」とある。今年のパーディーニョの市長選挙の合言葉は、ムダンサ(=変化、改変)。さて、どうなるかな?市長を交替させて、市政を刷新することができるかな?ブラジルの選挙は完全な機械投票なので、この名刺にあるような候補者の番号を入力して、その人の顔と名前を確認して、投票する手順になっている。これは文字が書けない人が結構いるブラジルで、国民全員の投票が義務になっているため、番号を押すだけで、名前を書いて投票しなくてもいいようにという配慮なのだと思う。先進国のアメリカですら、機械投票が行われず、票を集計する際、問題が発生したりするけれど、その点、全国一律機械投票が浸透していて、集計にミスが起こる隙のないブラジルは結構先進的?
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