Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2016年7月1日(金)

6月21日は日本では一年で昼が一番長い夏至だったので、南半球のブラジルでは一年で夜が一番長い冬至だったことになる。これからこちらは昼の時間が少しずつ長くなって行く。このところ最低気温は一桁台を脱して12~3度になり、最高気温も22~3度で安定して、冬の寒さは一段落。次の写真は、フェスタ・ジュニーナと呼ばれる6月のお祭りの衣装を着たブライアン。鼻の下とあごが黒いのは汚れているのではなく、マーカーか何かでわざとひげを描いているから。この祭りの起源はキリスト教よりも古いヨーロッパ土着の宗教から来ているらしい。

次の写真は、家の東側の庭で今満開の桜。

2016年7月2日(土)

次の写真は、先日畑で収穫したからし菜のような青物野菜。アルメイラオン・カタルーニャだったかな?正式な名前は忘れてしまった。畑で収穫したと言っても、種から芽を育てて、畑に植え替えたものが育ったというのではなく、畑の隅の家の東側に下りて行くステップのところで他の雑草と一緒に生えていたもの。苗床で種から芽を育てて、畑に植え替えたものはまったく育たなかったのに、どうもこれは苗床に種をまく作業をした際に落ちた種から芽が出て、雑草と一緒に育ったみたいだ。雑草に埋まるように生えていたので、最近まで気づかなかったのだけれど、回りの雑草が枯れ始めて青々とした背の高い葉が生えているで見ると、あらまあ、こんなところにこんなものがという感じだった。でも、せっかくの自然の恵みなので、ありがたく収穫して、何回かに分けて食卓に上げて食べている。感謝。

次の写真は、入り口ゲートの両側の桜の木を撮ったもの。右側(東側)の木は少し花をつけているけれど新芽の葉もすでにたくさん出てきている。左側(西側)の木はまだ葉をほとんど落としておらず、木の下の方にほんの少しつぼみをつけていて、それらが少しずつ開花し始めている。

2016年7月3日(日)

次の写真は、先日英語のレッスンに来たジョアオンの頭を左から撮ったもの。床屋さんに行ったばかりで、こんな風にしてもらったんだと言って見せてくれたので、記念にパチリ。時々、こんな風に剃りを入れている男の子を見かけるけれど、最近のファッションなのかな?

6月30日付けのニッケイ新聞「コラム オーリャ」に、『海外でNHKを見ている人は在外投票を』という以下のような記事があった。『在聖総領事館管轄で1万2千人もの有権者がいるはずなのに、800人程度の投票ではさびしい』とあったけれど、サンパウロ総領事館の管轄地域はサンパウロ州だけではなく、マト・グロッソ州、マト・グロッソ・ド・スール州、三角ミナス地域も含む広大な地域。サンパウロ市内に1万2千人もの有権者がいるのに、800人程度しか投票しないというのとは訳が違う。サンパウロ市の中心部まで高速バスと地下鉄を乗り継いで3時間強のうちからでも、わざわざサンパウロまで時間とお金をかけて出かけて行って投票するのは大変なことなのに、もっと時間のかかる、場合によってはサンパウロで1泊しなければならないような地域から出て行って投票するのは並大抵のことではない。この距離は極端な例だけれど、広島から東京まで出向いて投票しなければならないのと同じようなもの。その現実を理解して言っているのだろうかと疑問に思った。郵便での投票も可能と言っても、日本とブラジルを一往復半する郵便のやり取りは、日本からの郵便が届くのに何ヶ月かかるか予測できないような現在の悪化したブラジルの郵便事情では、これも当てにならない。有権者がもう少し楽に投票できるようなシステムを作ってもらえないものだろうか?

『海外でNHKを見ている人は在外投票を』

『先日投票開始された参院選在外公館選挙で、ある有権者は「日本人として当然のこと」という意識から毎回選挙に来ていると言った。投票率が伸び悩む、日本の若者に聞かせたいような実に素晴らしい発想だ。

開始前から並んでいた別の有権者からは、「野党は反論をきちんと示すことではなく、議論を拒否し、醜い足の引っ張りあいばかりを行っている」という否定的な意見を聞いた。「離合集散ばかりしている野党に信頼は置けない」と言う厳しい声も。

とはいえ、ブラジルの在外投票の票数も伸び悩んでいる。在聖総領事館管轄で1万2千人もの有権者がいるはずなのに、800人程度の投票ではさびしい。なんとか日本の有権者に驚かれるぐらいの投票率にならないものか。普段日本のことを憂い、NHKを毎日見ている人には、ぜひ投票所に足を運んで欲しい。(航)』

2016年7月4日(月)

今朝早く前園さんからメールが来ていた。昨日の午前11時に香山さんがお亡くなりになったことを知らせてくださるメールだった。香山さんとは4月にメールのやり取りをしてからしばらくご無沙汰していたので、メールを書こうと思っていた矢先だった。先月にでもメールを出していれば、香山さんの変化にも気づけて、心構えもできたのではないかと後悔した。結局、香山文庫のウェブサイトは完成しておらず、見ていただくことができなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。4月に香山さんからいただいたメールの最後に、「とにかく長い人生には喜怒哀楽、いろいろなことがあるものですが、つねに強く生きてゆく心構えをもつことが大切です」とあったのだけれど、7歳の時にブラジルに来られて、以来83年余りブラジルで頑張ってこられた香山さんの言葉なので、ずしんと心に響く。心からご冥福をお祈りします。

2016年7月5日(火)

次の3枚の写真は、広島の友人が自宅マンションで飼っている黒と白の2羽の文鳥の様子を撮って送ってきてくれたもの。この友人は犬が大好きで、うちのはるやひろたちの写真を、私のブログで見るのを楽しみにしてくれている。できれば犬を飼いたいのだろうけれど、マンション住まいではそれは無理。その代わりに文鳥を飼い始めたようだ。かごを開けると真っ先に飛んでいくのが、ご主人のパソコンの上らしく、最初の2枚の写真はそのパソコンの上の2羽を撮ったもの。

3枚目は床の上で小松菜を食べているところ。この子たちは人間の言葉は理解しないらしいのだけれど、動作は理解するらしく、手を近づけると本能的に手に飛び移ってくるのだそう。でも、まだ鳥かごに戻りたくない時は、手を近づけてもプイと横を向いてぴょんぴょん離れて行ってしまったり、手に止まらせて鳥かごの入り口近くに行っても、パッと逆方向に飛んで行ってしまったりするらしく、文鳥にもちゃんと意思があるのがおもしろいなと思った。

パソコンの上に止まっていてフンはしないのかと思ったら、裏に紙を置いてフン害に対応しているけれど、たまに画面に落ちてくることもあるのだとか。玄関を開けて誰か帰ってきたような音がすると、ぴいぴと鳴いたり、自分たちがかごから出してほしいときには、かごにへばりつくようにしてピピピピと強く鳴いたりするそうだから、ある程度の意思表示はするようだ。文鳥は水浴びが大好きなので、ほぼ1日に一回は家の中で水浴びをさせているのだけれど、周囲は水浸しになるそうだから、体の大小の違いはあっても、生き物の世話は結構大変だなと思う。まあ、それを上回る楽しみや癒しがあるからできることかもしれない。

2016年7月6日(水)

また一緒に夕飯を食べようと言いつつ、ジミーは出張で留守にすることが多く、こちらもエドソンがブラジリアに行ったり、その後風邪をひいて体調を崩したりして、なかなかお互いの都合が合わなかったのだけれど、この土曜日にようやくジミーとジセレーニと一緒に夕食を食べることができた。次の写真は、食事が終わって、デザートのキャロットケーキを食べているところ。ジセレーニはビールが好きで、ワインはあまり得意ではなかったのだけれど、ジミーがジセレーニにワインを飲ませる訓練をしたとかで、この日ジセレーニはワインを飲めるようになっていた。ワインのお供に、私がフランスパンを焼き、それに2年前にフランスからクリスチャンとミカさんがお土産に持ってきてくれて、まだ残っていた大事なパテを添え、ジセレーニがチーズとハムとオリーブのオードブルを作って持ってきてくれたので、結構豪華な前菜になった。ちなみにこの日の夕飯のメニューは、鶏肉ときのこ(しいたけとしめじ)のクリームシチュー、ブロッコリーのソテー、ウルクンを混ぜたガーリックライス。

これまで何度も失敗しながらもめげずにフランスパンを時々作っていたのだけれど、この日作ったフランスパンはうまく膨らんでくれ、初めてとてもいい感じのパンが焼き上がった。ジミーたちにも好評で、夕飯が済んで残っていたのは3分の1になっていた。この日は気温が比較的高かったことに加え、今回は、粉とお水の割合を少し変えて、パン生地をいつもよりも長くこねたからか、うまく膨らみ、おいしく出来上がり満足、満足。

2016年7月7日(木)

7月5日付けのニッケイ新聞に、香山さんの訃報を伝える記事があったので、以下にコピーした。4日のお葬式に行かれた前園さんからのメールには、「イビウナの知名人だけあって弔問客も多く大勢の人が名残を惜しんでおられました。3日の午前11時に自宅で眠るように旅立たれたそうで安らかなお顔でした」とあった。私たちはエドソンの仕事の都合もあり、お葬式に行くことができなかったので、前園さんに相談して、お香典を立て替えていただき、持って行っていただくことができ、香山さんとご家族に対して不義理をせずに済み、ありがたかった。日系コロニアのやり方は日本と同じでお香典だということを今回初めて知った。エドソンによるとブラジルではお葬式にお花を送ることはあってもお金を包む習慣はないのだそう。日系コロニア独特の習慣のようだ。お葬式に行けないのだから香山さんを偲んでロウソクに火を灯そうとエドソンが言うので、月曜日の昼食後に白いロウソクを1本立てて火を灯し、私は締切りの迫る楽書倶楽部8月号に、すでに提出している原稿と差し替えてもらうために、朝から夕食の支度をする時間までコンピュータに向かい香山さんを偲ぶ文章を書いて過ごした。ロウソクの火は夕方5時頃まで燃え続けた。エドソンいわく、「人の人生というのはロウソクの火のようなものだね」香山さんも最後まで燃え続け、静かに燃え尽きたのだ。

■訃報■香山栄一さん

『車椅子の移民史研究家として著名な香山栄一さんが3日午前11時半頃、イビウナ市内自宅で老衰のため亡くなった。享年90。市内のパス墓地にて、4日夕方に葬儀・火葬が行われた。初七日、四十九日法要については未定。

1925年に福岡県で生まれ、33年に一家4人でノロエステ線チエテ移住地に入植し、農業一筋で働き、機械化した綿作りも行った。68年にはサンロッケ市で農機具店を開業。71年にイビウナ市で合資会社アグロ・カヤマを創立した。ところが72年に原因不明の病魔により下半身不随に。車椅子での生活を余儀なくされた。

その後、90年にトレイス・イルモンイス発電所ダム開発に伴い、日本移民が建設したノーボ・オリエンテ橋が姿を消したことに端を発して、移民史が忘れ去られていくことに危機感を覚え、93年に自分史の上梓を皮切りに、移民史研究に没頭した。

北中南米の日本移民や外国系コロニアなど多岐に及ぶ文献を収集し、自分史執筆希望者への編纂協力なども手がけてきた。一時は自宅に3千冊以上もの移民関係資料の蔵書を持っていた。研究からは5年前に離れ、1年前から老衰が顕著となり療養していた。』

2016年7月8日(金)

次の写真は、1枚目は玄関を出たところから正面に見える家の西側の桜。これは沖縄桜で、上の方の枝先の葉は落葉しておらず、木の下半分に花が咲き始めている状態。2枚目は、家の北側の庭のヒマラヤ桜をランドマークの木の北側の坂道のところから撮ったもの。4本の桜の咲き具合はそれぞれ異なり、正面左側の桜は満開で、右側の桜は花を落とし始めて、新芽の葉がたくさん出始めている。3枚目の写真は、丘の上の防風林の列が終わった辺りの桜の木。これも沖縄桜なので、やはり木の下半分くらいで花が咲き始めている状態。右側の桜の木の向こう側辺りにモビのお墓がある。これらの写真は1週間ほど前に撮ったもので、早く咲いていた桜は落ち始め、今ではたくさん出てきた新芽の葉の緑とまだ咲いている桜のピンクが混ざって、華やぎはトーンダウンしたものの、まだ花は続いている。

2016年7月9日(土)

以下は、ニッケイ新聞7月5日付け「コラム 樹海」からの転載。

忘れてはいけない7月7日

『73年前(1943年)の7月7日、社会政治警察(DOPS)は聖州サントス市の枢軸国移民に24時間以内の強制立退き命令を出し、翌8日朝10時には第1陣215人が聖市の移民収容所に送られた。直前にアメリカ商船2隻とその荷物を積んだブラジル貨物船3隻がサントス沖で、ドイツ潜水艦が放った魚雷によって撃沈されたからだった。退去させられたのは主に日本移民で約6500人、それとドイツ移民215家族だった。伯国史上、希に見る大規模な民族迫害となった▼『南米の戦野に孤立して』(岸本丘陽著、曠野社、1947年、38頁)には、撃沈後の様子が生々しく描写されている。《翌朝未明、サンビセンテの日本人の漁夫たちが沖合から網を引いて力一杯舟を漕いできたが、平日より馬鹿に重い。今頃大漁のある時節ではないはずだが、これは一体どうしたことだろう?と不思議に思いながら浜辺に引き揚げて見たら、中には三人の死体が入っていた。しかもそれがアメリカの高級船員で、日の高く昇るにつれて、海水浴場である風光明媚なゴンザガ海岸へは幾十という死体が波に打ち上げられてきた》。衝撃の情景描写だ▼この本は出版直後、DOPSから禁書にされた。帰化人・岸本昂一は刑事裁判にかけられ、伯国籍を剥奪のうえ国外追放処分にされそうになった。コンデ街やサントスの強制立退き、そして戦中の理不尽な獄中生活に関して、彼は終戦直後47年時点で、ありのままに書き残した唯一のジャーナリストだった▼誰もが震えあがるDOPS―その残虐な行為を描いたがために、彼も迫害を受けた。今なら「勇気あるジャーナリスト」と称賛されても、当時DOPSに逆らってまで彼を支援する人はごく少数だった▼最近、パウリスタ新聞1949年5月19日付に『サントス引揚げ家族は何処?』との記事を発見した。いわく《帰化人も病人も仕事の都合も何もあったものではない。悪徳商人には足元を見すかされ、鶏一羽一ミル、豚一頭二十ミルという本当の二束三文の値で買い占められたが、捨てるよりはまだましと、売れるものはみな売ってしまった》との悲しい現実▼聖市の移民収容所に送られた後も《カーマもコルションも超満員で寝るところもなく、食事は一日一回というありさま。幼児は栄養不足で病気になった。ここで乳飲児を死なせた母もいる。疲労と悲しみと飢えと寒さの幾日かのうちに発狂したものもいた。送られて来る汽車の扉も収容所の扉も、かたく錠をかけられ、実に捕虜と同じ待遇であった》。そこにサンドイッチや衣類の差し入れをしたのが、ドナ・マルガリーダら聖市カトリック日本人救済会(現救済会)だ▼立退き者の多くは《終戦ととも、聖市野菜市場に進出するもの、街を売って歩くもの、あるいはキタンダを開くもの等が現れ、各々生計を立てている。現在の聖市青物市場にズラリとバンカを並べているのは、大多数これらの人達である》とも書かれている▼サントスの地元紙ア・トリブナ43年7月11日付にある首都リオからの特別寄稿記事に戦慄を覚えた。《内なる敵》と題され、日本移民を海岸部から追放したことで、サンパウロは〃素晴らしい模範〃を見せたと称賛していたからだ。日本移民は「内なる敵」として扱われた時代があり、それを我慢して乗り越えた先人がいるから現在がある▼奇しくも岸本が会長を務めた新潟県人会はこの日曜日、創立60周年式典を行った。その華やかな様子を見ながら、ふと戦争前後の日本移民迫害と同じことが、現在は起きていないだろうか…と思いを巡らせた。国家が道を誤らないために、語り継ぐべき歴史を日系人はたくさん持っている。(深)』

2016年7月10日(日)

以下は、ニッケイ新聞7月6日付けの記事の転載。7日付けの記事には、『リオ五輪=国家治安部隊配備につく=6千人派遣し特別警備に=開幕を直前に控え厳戒態勢』とあったけれど、もうすでに「リオ五輪のために運ばれてきた40万ユーロ(およそ4500万円)相当のドイツTV局の放送機材(二つの巨大コンテナに梱包され、トラックで運ばれていた)が6月30日夜、リオ・デ・ジャネイロ市北部のブラジル大通りで盗難に遭った」とか、リオ市警が給料遅延に抗議するストをリオ空港で行ったというようなニュースもあったけれど、本当にリオの治安は大丈夫なのかなあ・・・?

被害申告書に日本語訳=五輪向け、リオ総領事館

【リオ・デ・ジャネイロ共同】8月のリオ五輪で多くの日本人が応援に訪れることを見込み、在リオ・デ・ジャネイロ日本総領事館はこのほど「安全の手引き」を作成した。ブラジルの治安の悪さは世界有数で、期間中に窃盗や強盗被害が出るのは避けられない情勢。同館は日本語訳付きの被害申告書をウェブサイトに載せている。

総領事館は五輪大会期間中、少なくとも33件の邦人窃盗・強盗被害があった2014年のサッカー・ワールドカップ(W杯)開催時の倍に当たる約1万人の日本人訪問を見込んでいる。治安は一層悪化しており、被害件数はさらに増えるとみられることからネットで状況を公開しているという。

リオ市の治安は劣悪で、15年の届け出ベースで人口10万人当たりの殺人件数は日本の25倍、強盗件数は660倍に達した。被害品を取り戻せる可能性はほぼないため、届けていない窃盗・強盗被害者はさらに多い。

総領事館は特設ページを開設。ダウンロードできる「安全の手引き」では被害を避けるため、歩きながらスマートフォンを使わないことや、タクシーに乗る場合は窓を閉めるなどの対策を呼び掛けている。

ジカ熱やインフルエンザの感染状況も随時更新するほか、日本のNPO法人などが作成したポルトガル語と日本語の対訳問診票をダウンロードできるようにしている。

2016年7月11日(月)

辞めたいと言っていた前言をひるがえして、毎週土曜日にここの手伝いに戻ってきてくれたヒバマーは、職を失ったお兄さんだか弟さんだかと一緒に戻ってくると言っていたのに、その人は何だかんだと理由をつけてこれまで一度も来たことがなかった。でも今月最初の土曜日はふたりで来ていたので、その人がヒバマーの兄弟なのかと思っていたら、最近ドナ・ベティのファゼンダで働き始めた同僚のゼーという人だった。この人は以前、ヒバマーの兄弟同様パーディーニョに3つあるホド・サーブのひとつで働いていたのだけれど、やはり最近職を失い、ドナ・ベティのファゼンダに再就職したのだと言う。奥さんもホド・サーブの厨房で働いていたのだけれど、同じく人員整理で首になったので、今は時々手伝い仕事をしたり、注文があったらパンを焼いたりしているということだった。「もしよかったらパンを持ってきましょうか?」とこのゼーが言うので、エドソンが「じゃあ、お願いしようか」と言ったものだから、この土曜日に大きなパンを持って来てくれた。そのパンはホド・サーブでたくさん販売されているものと同じパンだった。料金は10レアルと言うので、その日の夕方仕事が終わってから日当と一緒に支払った。次の写真は、土曜日の朝食で、少しスライスして食べた後、私が作って食べていたパンと一緒に撮ったもの。私が焼くパンも決して小さくはないのだけれど、持ってきてくれたこのパンと並べると、とても小さく見える。

次の写真は、この土曜日のお昼時間に庭の桜の木の下で、昼食後、休憩していたヒバマー(左)とゼー(右)を撮ったもの。ヒバマーはブラジル北東部のピアウイ州の出身だけれど、ゼーはサンパウロ州の南のパラナ州の出身なのだとか。と言っても、ゼーはまだ赤ちゃんの時に親に連れられてパーディーニョに来て以来、40年ここで暮らしているというのだから、立派なパーディネンセ(パーディーニョっ子)と言ってもいいかもしれない。二人とも40代で、ヒバマーの方が少し年が上なのだと思う。この人もヒバマー同様気の良さそうな人で良かった。

2016年7月12日(火)

はるとひろははとても仲がいいのだけれど、2匹のちから関係でだいたいいつも主導権を握っているのははる。戯れ合っている際も攻勢に出るのははるなので、ひろはやられっぱなしのことが多く、「アーアー」と悲鳴をあげることが多い。はるは優しくていい子だけれど、ひろとの関係性においてはちょっと気分屋なところがある。気が乗らないときはひろを冷たく無視したり、ひろが気に入らないことをするとギャンと文句を言ったりする。夜、キューブ型のベッドの中で寝る際も、ひろが奥に寝て、はるは手前側で寝るのが常なのに、先日何故かひろが手前側にいて、はるが奥にいたので写真を撮ってみた。その日によって、朝には入れ替わっていることもある。はるが時々キューブ型ベッドの上に寝ていたりすると、ひろはキューブの中に入りたくても入れず泣いてはるに訴えたりするのだけれど、1枚目の写真を撮った次の日だったか、翌々日だったかには、はるがキューブ型ベッドとその下の四角いベッドの間に入っていて、ひろがキューブ型ベッドの中にいたので写真に撮ってみた。結局この夜は朝までこの状態で2匹は別々に寝ていた。時々離れていたい時もあるようだ。この写真を撮った際、キューブ型ベッドの中は暗くて肉眼では見えなかったのだけれど、フラッシュをたいて写真を撮ったので、中のひろがひっくり返っているのが写っていて笑ってしまった。

2016年7月13日(水)

ダイニングルームの西側の外壁沿いに4本植えた赤い葉の植物の中で、右端のものが一番元気に大きく成長している。次の写真は、その4本を撮ったもの。左側の3本の内、階段寄りの2本は最近あまり元気がない。日当たりの加減なのか、何が違うのかよくわからないのだけれど、右端のものはダイニングルームの窓に届きそうなほど背が高くなっている。しかも最近、花を咲かせたので、それをダイニングルームの窓から撮ってみたのが2枚目の写真。この植物がこうやって花を咲かせたのは今回が初めて。

2016年7月14日(木)

先週末8日(金)から10日(日)の3日間、サンパウロ市ではブラジル日本都道府県連合会の主催による「日本祭り」が開催された。メル友の鎌谷さんはコチア青年で毎年野菜の販売などで関わっていたけれど、今年からコチア青年も県人会も役を降りたので裏方の仕事で忙しく立ち働くことなく楽だったとメールにあった。でも、パーキンソン協会の先生からパーキンソン病とマッサージ治療について15分ほど話してほしいと依頼されてこの会場で講演をしたので、まったく気楽だったわけでもなさそうだった。この大規模イベントについて7月12日付けのニッケイ新聞で様々な記事があったので、県連の「日本祭り」に関する簡単な説明をコピーすると同時に、以下に一部の記事へのリンクをはってみた。

『ブラジル日本都道府県連合会(山田康夫会長)主催の『第19回日本祭り』が、聖市サンパウロ・エキスポセンターで今月8~10日に行われた。晴天に恵まれ、昨年よりも多い、16万8千人を超える大盛況で幕を閉じた。政治経済情勢の混迷のさなか、中南米最大のイベント会場で日系社会の威信を示した格好だ。県人会含め約5千人ものボランティアにより運営された同祭では、「スポーツと健康」と題した様々なイベントや40近くの主要舞台での様々な演目で会場が熱気を帯び、来場客は様々な形で日本文化に親しんだ。』

『日本祭りの裏方のみなさん「お疲れさま!」』という「コラム 樹海」の記事のサイトは、こちらへ

『日本祭りにもっと県マスコットを』という記事のサイトは、こちらへ

『県連日本祭り特別写真グラフ=見所たくさん日系文化の祭典=老いも若きも郷土食に舌鼓=熱気と活気に溢れた3日間=食べて良し、見て良し、参加してもっと良し』という写真がたくさん掲載された記事のサイトは、こちらへ

2016年7月15日(金)

この火曜日にペトロポリスの安見さんが、「リオ領事館配信の安全情報一号です」と言って、『在リオデジャネイロ日本国総領事館メールマガジン 安全情報No.1(渡航前にしておくこと)』というメールを転送してくださったので、以下にコピーしてみる。配信希望の場合、登録すれば毎日安全情報が送られてくるようだ。でも、「こういう情報は、ものすごく危険、リオはその辺でしょっちゅう犯罪が起こっているかのような印象ですが、私の場合しょっちゅうリオに行っていますが、出会ったことがありません」「危険なところだとは思っていますがビクビクしているわけではありません。オリンピックによって良くなったところもあります」と安見さんのメールにはあった。

オリンピック関連で、領事館から日本選手応援イベントへの参加の誘いが一杯来ているそうで、「現地に行くのに、当日は交通規制や新しい交通機関をどう利用すればよいか」という問題があって、事前調査をしておられるという。そして、日本の旅行社に勤めている知り合いが、リオの日本語ガイド探しをしており、娘のえりかさんは領事館に呼ばれてアルバイトをしながら、空いている日にガイドもやることにしているのだけれど、やれない日もあるので、その際は手伝おうかと思って事前調査をしておられるのだそうだ。

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在リオデジャネイロ日本国総領事館メールマガジン 安全情報No.1(渡航前にしておくこと)
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【ブラジル渡航前にしておくこと】
リオデジャネイロは,風光明媚な国際観光都市である一方,世界有数の犯罪都市です。犯罪発生件数は増加傾向であり,人口10万人当たりの殺人発生件数は日本の25倍,強盗発生件数は660倍です(2015年比較)。州内に多くあるファベーラ(スラム街)では,重火器で武装した麻薬密売組織間の抗争や,治安当局との銃撃戦がしばしば起きています。また,一般市街地でも路上強盗,すり,引ったくり等の犯罪が多発しているほか,観光地や幹線道路等において集団強盗も発生しています。

防犯への対応に加え,ブラジルでは,蚊を媒体とするデング熱やジカウイルス感染症,更にはインフルエンザ(主にA(H1N1)pdm09)にも十分注意する必要があります。

海外では「自分の身は自分で守ること」が防犯の基本です。犯罪被害に遭わず,かつ,病気にならないためには,何よりも事前の準備が大切です。今後のメールマガジンでも紹介いたしますが,以下は日本国内において準備できる安全対策です。ブラジルへ渡航前,皆様一人ひとりが取り組んでいただきますようお願いします。

(防犯対策)
◆自動メール配信サービスへの登録
・外務省「たびレジ」
https://www.ezairyu.mofa.go.jp/tabireg/
・在リオデジャネイロ日本国総領事館「メールマガジン」
https://www.mailmz.emb-japan.go.jp/mailmz/menu?emb=rio.br
◆パスポートのほか,パスポートの写しも持参(分散して管理)
◆「安全の手引き」の持参(当館特設サイトからダウンロード可能)

(感染症対策・医療対策)
◆海外旅行保険への加入(ブラジルの医療費は非常に高額です)
◆黄熱の予防接種(黄熱熱ワクチン推奨地域であるイグアスの滝,ブラジリア,ベロオリゾンテ,マナウスに行かれる方)
◆長袖,長ズボン,蚊の忌避剤(虫除けスプレー等)の持参
◆医療機関で診療を受ける可能性に備えて,少なくとも500レアル程度(約1.6万円)のブラジル通貨,クレジットカードの持参
なお,レアル(ブラジル通貨)への両替は成田空港,及びリオデジャネイロの国際空港(ガレオン国際空港)にある一部の両替所・銀行で対応可能です。

【万が一のポルトガル語】
・泥 棒!Ladrao ! (ラドラウン!)
・助けて!Socorro ! (ソコーホ!)
・火事だ!Fogo! (フォーゴ!)

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【当館特設サイトの活用】
現在、当館では、オリンピック・パラリンピック特設サイトを設置し、治安情報、感染症・医療情報、交通情報、主要連絡先など、競技を観戦される方へ有益な情報を提供しています。是非ご活用ください。
当館特設サイト http://www.rio.br.emb-japan.go.jp/itpr_ja/rio2016.html

【当館メールマガジンへの登録】
現在,毎日,本メールマガジンにて安全情報を発信しています。お知り合いの方で,ブラジルへ渡航される方がいらしたら,本メールを転送いただき,メールマガジンへの登録をご紹介いただければ幸いです(所要1分で登録できます)。
当館メールマガジン登録 https://www.mailmz.emb-japan.go.jp/mailmz/menu?emb=rio.br

2016年7月16日(土)

昨日に引き続き今日も、リオデジャネイロ・オリンピック関連のニュースをひとつ。10日付けのブログで、ニッケイ新聞の7日付け記事に『リオ五輪=国家治安部隊配備につく=6千人派遣し特別警備に=開幕を直前に控え厳戒態勢』というのがあったと書いたけれど、様々な州から連邦政府によって召集され、リオに派遣された国家治安部隊の人たちが受け入れ態勢の不備で劣悪な生活を強いられていて、これが改善されないなら帰るといって抗議行動を行ったというニュースがあったとエドソンが教えてくれ、写真を見せてくれた。こういうニュースがあると、やはりリオの治安は大丈夫だろうか?と、思ってしまう。こんなネガティブなことばかり書きたくはないけれど、これがリオの舞台裏の現実なのだからどうしようもない。

15日付けのニッケイ新聞にも『伯人の警備・捜査要員中、警察や消防の〃精鋭部隊〃とされる国家治安部隊(FN)中、サンタカタリーナ州出身の軍警数十人が13日、「宿舎の状態が劣悪」と抗議し、派遣元に帰る事も辞さないと訴えた。隊員用宿舎には家具もなく、自費で買った空気マットや床で寝ているという。宿舎周辺には手ごろなレストランや交通機関もなく、外出どころか配備に就くにも不便だとしている。隊員の一人がインターネットに投稿した文章には、「これではまるで〃虐待〃だ。隊員の半分以上は除隊を考えている。ベッドもない、台所もない、シャワーを浴びる水も足りない。種々の手当ての支払いも遅れている」と書かれていた』

この部隊が宿舎としてあてがわれたのは、政府が低所得者用に建設している未完成のアパートらしく、雨漏りしていたり、シャワールームにシャワーヘッドも取り付けられていない状態だったとか。次の写真は、その宿舎の劣悪な状態を示したもので、1部屋に3人が自前で買ったマットレスを床に敷いて寝ている状況を写したもの。

そして、洗濯物を干したり、制服や装備品を置く場所もないため、荷物で溢れかえっているスペースを写したのが次の写真。

さらに、彼らの給料の支払いが遅延している上、勤務中の食事代として現金が渡されることになっていたのに渡されないとか、勤務が終わった後でありつける食事も粗末で、お肉とご飯だけで野菜がなく、ブラジルの食事の定番であるフェイジャオン(煮豆)すらないのだとか。その事実を示すのが次の写真。ご飯の上にお肉が2切れ乗っているだけ。オレンジ色のものはマンジォカ芋か何かだろうか?これはただ単に政府に資金がないというだけでなく、計画性のなさを露呈しているとしか思えない。軍隊は自己完結の組織で、自然災害時の救援作業に派遣されても、一般の宿泊施設に宿泊する必要がなく、自前のテントなどを持参して、食事も自前で賄えるというのが警察などとの大きな違いだけれど、ブラジルの国家治安部隊というのは軍隊とも警察とも違うらしく、自己完結の組織ではないようだ。受け入れ態勢が整っていないのに、6000人受け入れたから大丈夫という政府もいい加減だなと思った。

2016年7月17日(日)

このところお天気が良く、穏やかで暖かな毎日が続いていたけれど、昨日の朝は雨が降り出しそうな曇り空で、思った通り午前10時を過ぎた頃から雨が降り出した。それで、手伝いのヒバマーとゼーには半日分の日当を払って、11時には帰宅してもらった。そして徐々に気温が下がり、今朝の最低気温は5度と冷え込んだ。予報によると、今週はずっと最低気温は4度から8度くらいらしく、最高気温も17度前後くらいにしかならない寒い日が続くようだ。このところの穏やかな日々に、もう冬は終わったかなと思ったのはどうやら早とちりだったようだ。

今年のいつ頃からだろう?テレビのコマーシャルでフィアット(FIAT)のモビ(MOBI)という車の宣伝をよく見るようになった。音楽に合わせて「I like to Mobi, Mobi. I like to Mobi, Mobi.」とお念仏のように繰り返す言葉が耳についてしまった。イタリアの車のブラジルでの宣伝が英語というのも何だか変な話だけれど、ひょっとしてモビという車は世界中で同じ名前で販売されているのかな?とも思った。3年前に亡くなった私たちのモビは、MOBI ではなくMOBYと書くのだけれど、音は同じなので、このコマーシャルが聞こえてくるとモビのことを思い出す。ちなみに私たちのモビの名前の由来は、以前の飼い主のジウダの娘のひとりが昔、アメリカのモビ(Moby)というシンガーソングライター兼DJのファンだったからだと聞いている。この人は「白鯨(Moby-Dick)」という代表作で知られるハーマン・メルヴィルが曽々おじなので、それにちなんで自分の芸名をモビとしたらしい。次の写真は、インターネット上にあったフィアットのモビ。この写真の車の色は青いけれど、色はこの他にも赤、白、その他あるようだ。

2016年7月18日(月)

次の写真は、今月上旬、私が台所で夕飯の支度をしている際、はる(左)とひろ(右)が側に座っているところをエドソンが、少しずつ角度を変えて撮ったもの。夕方5時頃になると、毎日必ず人参かキャベツの芯かコウヴィの茎など、その時ある野菜を、はるたちに夕食前のスナックとして与えているので、それをもらおうとおとなしく待っているのだと思う。その姿が何とも可愛い。流し台の後ろのテーブルの上には、ケースに入れたパンやデザートのケーキ、果物を入れたかごや、オーブンに入れる前のお肉などがところ狭しと乗っているのが写っている。パンとケーキと果物は毎日食べるので、このテーブルの上はいつもこんな状態。パンを作る際は、このテーブルの上のものをカウンターテーブルに移動させて、スペースを作り、パン作りが終わると、またここに戻すようにしている。このテーブルは作業台兼物置のような感じで使っている。

次の写真は、流し台の前のマットの上のひろ(右)とはる(左)。私が流し台の前を離れると、入れ替わりに彼らが流し台の前のマットの上に行き、野菜スナックを待っている。

2016年7月19日(火)

今月3日に香山さんが亡くなったという知らせを受けた後、香山さんを偲ぶ文章を書き、楽書倶楽部の8月号に掲載していただこうと、急いで前園さんに原稿を送り、差し替えてくださいとお願いしたところ、「香山さんは私にとっても忘れられない恩人なのです。この原稿は楽書倶楽部に出すよりもニッケイ新聞に出し」て「多くの方々に読んでもらって香山さんの遺徳をしのんでもらいましょう」と返信があったので、どうするかの判断は前園さんにおまかせすることにした。その後、ニッケイ新聞の編集長が掲載に同意してくれたから近々掲載されますと連絡をもらっていたのだけれど、昨日の朝、前園さんから「土曜日16日のニッケイ新聞『プラッサ』欄にトップで掲載されています」とメールをいただいた。ニッケイ新聞の『プラッサ』欄というのは、読者からの投稿文章が週に1度掲載されるコーナーのこと。前園さんだけでなく、ニッケイ新聞編集長の深沢さんにもお礼のメールを差し上げたら、「こちらも、なにか追悼文を載せられないかと思っていたところでした。前園さんから言っていただき、ありがたかったです」と深沢さんから返信メールをいただき恐縮至極。以下がその文章。

香山さんを偲んで

七月三日午前十一時にイビウーナの香山栄一さんがご逝去されたと、翌早朝、前園さんがメールで知らせてくださった。四月に香山さんとメールのやり取りをした際は、まだまだお元気だったのに・・・と、その後、ご連絡していなかったことが悔やまれた。

私が香山さんと知り合ったのは、ブラジルに来てまだ四ヶ月ほどで、パーディーニョに引っ越してきたばかりの二◯◯九年の八月初めだった。その頃、出身地広島の中国新聞のインターネットサイト「海外リポート」というコーナーに、ブラジルに関する記事を書いて寄稿していたため、その題材を探していて香山さんの名前をニッケイ新聞で見かけ、お電話したのが始まりだった。以後、ブラジルの日系移民の歴史を知るための入門書のようなものだから読んでみなさいと言って、鈴木南樹の本から始まり、香山さんの自分史「わが道 ーブラジル移民準二世の半生ー」や香山さんが編さんされた「思い出で綴るチエテ郷土史 拓魂のうた」など次々に送ってきてくださり、たくさんの日系移民関連の本を読ませていただいた。香山さんにとって私はおそらく一番付き合いの短い知人のひとりだったのではないかと思う。でも私にとってコロニアの生き字引のような香山さんは、日系移民史の師匠として、ブラジル移民の大先輩として、私のブラジルでの生活に大きく深く関わることになったとても尊敬する身近な方だった。

ここで香山さんの略歴を香山さんの自分史から簡単にご紹介しておく。香山さんは、一九二五年(大正十五年)十月二十六日、福岡県遠賀郡小竹で、香山家の次男として生まれ、一九三二年(昭和七年)四月、大阪の古市尋常高等小学校に入学したものの、同年十二月二十六日には、一家四人で神戸からブエノスアイレス丸でブラジルへ向け出港。翌一九三三年(昭和八年)二月三日、サントス港到着後、サンパウロ州ノロエステ線チエテ移住地に入植している。

戦後、結婚した香山さんは、アラサツーバでの綿作、チエテ河畔での半水田米作、マトグロッソ州やサンパウロ州ビリグイなどでの米作に従事。その後イタペーバの乾燥地帯へ移転して小麦栽培を開始したものの、業績が思わしくないため、永年にわたる農業を捨てサンパウロへ移転。サラリーマン生活を三年ほど経験している。そして、一九六八年(昭和四十三年)に農業経験を生かして独立し、サンロッケに農機具店を開き、三年後に合資会社アグロ・カヤマを創立。一九七一年(昭和四十六年)にはイビウーナに移転している。この間に二男二女に恵まれている。

イビウーナに移転した後、原因不明の大病を患い、以後、車椅子生活を強いられることになる。それでも精神的に引きこもることなく、読書が趣味のひとつであったため、一九七七年(昭和五十二年)に文庫を作る計画を立て、自由に動き回れない状態であるにもかかわらず、こつこつと移民資料を集め続け、多くの友人知人と交流を続け、積極的に情報発信を続けてきた。

今から五年前、付き合い始めてまだ日の浅い私に、香山さんから「香山文庫」の蔵書を引き受けてくれないかというお話があった。何十年にも渡って移民史を研究してこられた香山さんと違い、私はまだ右も左もわからない新米移民。しかもサンパウロ市から遠く離れた田舎暮らしでは、蔵書を引き受けても埋もれさせてしまうだけだと思い悩んだ。でも、ちょっと多めに本をもらっただけと気楽に受け止め、これをどうこうしようなどと気負わなくてもいいからと言われ、いろいろお世話になってきた香山さんからの申し出なので、お引き受けすることにした。まずはインターネット上に香山文庫のウェブサイトを立ち上げたいと思い、たたき台を作る状態までこぎつけたものの、そこからなかなか完成に至らず足踏み状態が続いている。そのため、せめて香山さんにたたき台の状態でも見ていただいておけば良かったと、少し後悔している。それでもせっかく貴重な「香山文庫」を引き継がせていただいたのだから、私にできることをゆっくりでも進めて行こうと考えている。

二◯一◯年に「北パラナ発展史」を岡井二郎氏と共同編さんされた数年後、体調の悪化からか少し気力を失われ、メールに返信するのも苦痛になったと言われ、メールのやり取りを控えた時期もあった。それでもここ二年ほどはまたお元気にメールに返信をくださっていたので、すっかり油断してしまっていた。四月にいただいた香山さんからの返信メールの最後に、「とにかく長い人生には喜怒哀楽、いろいろなことがあるものですが、つねに強く生きてゆく心構えをもつことが大切です」とあった。七歳でブラジルに移住してこられ、九◯歳と八ヶ月で人生の幕を下ろすまで、八十三年余りに亙りブラジルで頑張ってこられた香山さんの言葉だけに、心にずしりと重く響く。

香山さんの長い人生の中で、私が香山さんとお付き合いさせていただいたのは晩年のほんの七年に過ぎないけれど、誰も知り合いのいないブラジルに来て、偶然にも香山さんのような方と出会い、移民史の手ほどきをしていただいたことは、私にとってはこのうえもなく幸運なことだった。ここでの生活を豊かにしてくれる有意義な香山さんとの出会いに感謝せずにはいられない。そんな香山さんともうお話しできないのかと思うととても寂しい。こころからご冥福をお祈りします。ありがとうございました香山さん。

2016年7月20日(水)

昨日、ニッケイ新聞のインターネットサイトで記事を読んでいたら、16日のプラッサ欄に掲載された香山さんへの追悼文が、昨日付けでインターネット上でも読めるようになっていた。漢数字がアラビア数字に変換されていたり、文章の段落が細かくなっていたりする以外は何も編集されていないのだけれど、せっかくなので、その記事へのリンクをはってみることにした。『香山栄一さんを偲んで=吉田 恭子』という記事のサイトは、こちらへ

次の写真は、先週撮った庭の桜。例年ならこの時期花盛りのはずなのだけれど、今年は1ヶ月早く咲き始めたので、もう終わってしまった。まだ少し花が咲いているのは、一番遅く咲き始めた入り口ゲートの西側の桜だけ。そして、どの木も花が終わった後に実をたくさんつけている。

次の写真は、外階段沿いの4種類のさつき。だいぶ盛りを過ぎてしまったけれど、桜が終わってもこちらはまだ何とか咲き続けている。

2016年7月21日(木)

インターネット上のニュース記事で、ちょっと古い記事なのだけれど、2015年8月18日(火)12時0分配信THE PAGEの『中国の南沙諸島埋め立ては、日本の「沖ノ鳥島」とどう違うの?』という記事があったので、以下にリンクをはってみた。この記事のサイトは、こちらへ

7月15日付けのニッケイ新聞の「コラム 樹海」に『改憲を巡るブラジルからの視点』という記事があった。この記事のサイトは、こちらへ

2016年7月22日(金)

パーディーニョの町で機械関係など様々な資材を販売する店をやっているジョゼ・ホーダーの息子のニコラスが、昨日の朝エドソンを訪ねてきた。5年ほど前、私たちがまだ下のガレージで仮住まいをしている頃、一度、ジョゼと彼の家族(奥さんと次女と長男)を食事に招待したことがあった。以来ジョゼとはたまに顔を合わせても子供たちとはほとんど会うことがなかったので、ずいぶん印象が変わっていてびっくり。まあ10代の男の子が大学生になりおとなになっているのだから当然ではあるのだけれど・・・。彼は現在パラナ州にあるパラナ連邦大学で電子工学を学んでいるらしく、いつもはパーディーニョにはいない。でも今は冬休みで実家に戻っていて、先日エドソンがジョゼの店に行った際、ニコラスがいて少し話をしたのだという。ニコラスはプログラミングを勉強していて、衛星通信自体に興味があるわけではないのだけれど、衛星通信にもプログラミングは大いに関係しているということで、その話をもう少し聞きたいと訪ねてきたようだった。ヴィトーといい、ニコラスといい、まじめに技術系の勉強をしている若い人たちはエドソンから吸収するものが多く、強い関心を示してくれるので、エドソンにとってはうれしいことだなと思った。

2016年7月23日(土)

次の写真は、先日エドソンが撮影したひろ(左)とはる(右)。2枚目はひろだけをパチリ。ひろは去年の7月24日にエリカたちがパラカンビから連れてきてくれたので、ここで私たちと暮らし始めてちょうど1年になる。年齢は1歳半。もうすっかり我が家の一員だ。2匹を見慣れていない人にとっては、同じ犬種で、毛の色も濃淡はあっても同じ茶色なので、どちらも同じように見え、見分けがつきにくいかもしれないけれど、性格がまったく違うように、顔の表情もずいぶん違う。私たちは顔を見なくても、お尻を見ただけでどちらかわかるくらい体型も違っている。もっと言うと、毛並みも違うので、背中を触っただけでどちらを触っているかがわかる。でも、これはやはりずっと一緒に暮らしているから言えることかもしれない。

次の写真は、はるのアップ。はるにしては珍しく目をつむることなくカメラを見つめて、普段通りの顔をして写っている。

2016年7月24日(日)

めいが家出をした。めいは外で自由にさせていたのだけれど、お隣の犬を追いかけてお隣に越境することはあっても、あまり遠くに行かず、うちの家の回りや敷地内で過ごしていた。でも、今月初め頃から、夕方になると台所の窓から南東に見えるお隣の敷地内の丘の上をウロウロして、虫でも獲っているのか、飛び跳ねている姿が毎日のように見られるようになっていた。そして、今月の8日金曜日の夕方暗くなってから、お隣からうちの犬が来て居座っているから迎えに来いという電話があった。でも、エドソンはそこでエサを与えたりしなければ、そのうちお腹がすいて戻って来るから自由にさせてやってくれと応えてわざわざ迎えには行かなかった。翌朝、お隣のカゼイロ(使用人)の奥さんが、めいを抱っこして連れてきてくれたのだけれど、地面に下ろすとまたすぐに走ってお隣に戻って行ってしまった。どうも前日お隣でシュハスコをした際、うちでは与えたことのないお肉や骨をめいにも与えたらしく、それでその晩はここには戻ってこなかったのだということがわかった。でも、午後になるとお腹がすいたのか戻ってきて、私が与えたドッグフードを食べて、手伝いに来ていたヒバマーたちの側で過ごしていた。それから数日は以前同様うちにいる時間の方が長かったのだけれど、だんだん姿を消す時間の方が長くなり、お腹がすくと戻ってきて、夜はシュハスコ小屋で寝るという生活をするようになっていった。でも、先週の月曜日の午後はるたちがオシッコに出た際、少し戯れ合った後でめいはまた姿を消してしまい、以後、食事にも戻ってこなければ、夜もうちのシュハスコ小屋で寝ている気配もなくなった。次の写真は、昨日の午後2時半頃5日ぶりに戻ってきためい。

どうもお隣で食事を与えられているらしく、シュハスコ小屋に行って水をたくさん飲んだものの、ドッグフードには見向きもせず、しばらく私たちと遊んで、敷地内をフラフラしてから、またお隣に戻って行ってしまった。お隣には放し飼いの大型犬が3匹とめいと同じくらいの小型犬が1匹いて、今月は冬休みでお隣のカゼイロの子供たち3人もずっと家にいる。その上、今、家の建て増しをしているようでペドレイロが数人来て作業をしていることもあって、にぎやかで遊び相手が多い上、食事まで与えられているので、お隣に居ついてしまったらしい。お腹がすけば戻ってくるだろうと思いながらも、めいが姿を消して5日もまったく姿を見せなかったので、どうしたんだろう?と、エドソンとふたりして心配していたのだけれど、意思に反して誰かにどこかへ連れて行かれたり、怪我や病気で動けなくなっていたわけではなく、自分の意思でお隣に鞍替えしたらしいということがわかったので、それならそれでまあいいかと思っている。

2016年7月25日(月)

ニッケイ新聞の7月23日付け「コラム 樹海」に、『リオのジャパンハウスでサンバをウリにする愚』という記事があった。サンパウロ市にジャパンハウスを作るという日本政府の計画があり、現在準備が進んでいるようだけれど、リオにもジャパンハウスを作ったらしく、『リオのジャパンハウスの正式名称は「Tokyo 2020 JAPAN HOUSE」。ブラジルで日本を紹介する施設なのに、なぜ英語なのか首を捻る。しかも先日弊社に届いたその開幕式の招待状まで全て英語…▼同館資料を見て、さらに驚いた。イベント会場「日伯友好スペシャルステージ」ではサンバのイベントばかり』という記事を読んで、「ああ、またか」、「どうしてステージの出し物が日本舞踊やYOSAKOIでなくて、サンパなんだろう?」と思った。そして以前、ペトロポリスで原爆資料展を開催した際、リオの総領事館経由で広島から送られてきた展示資料がすべて英語だったので、安見さんたち日系協会の人たちが大慌てで説明文をポルトガル語に翻訳して展示したということがあったことを思い出した。ブラジルで原爆資料展をするのに、何故資料がポルトガル語ではなく英語なのか理解に苦しんだけれど、ブラジルで日本を宣伝、紹介する施設の資料が英語というのもさらに理解に苦しむ。この施設の事業運営費は約13億円にもなるらしいのだけれど、先日サンパウロ市で行われ17万人もの人を動員した県連の日本祭りの予算は約300万レアル(約9700万円)というから、お金ばかりかけて何も効果のないことをしようとしているようで、日本国民はこんな国の無駄遣いにもっと文句を言った方がいいのではないかと思った。でも、みんなおそらく日本政府が国外で何をやっているかということに関心がないというか、知らないのだろうなとも思った。

この「コラム 樹海」の『リオのジャパンハウスでサンバをウリにする愚』という記事のサイトは、こちらへ

2016年7月26日(火)

次の写真は、ランドマークの木の北側にある2株のサボテン。今たくさん赤い花をつけているので写真に撮ってみた。毎年たくさん花をつけ、新芽がたくさん出てきて育っているので、どんどん広がってきている。2枚目の写真は、この2株の奥のサボテンをちょっと角度を変えて撮ったもの。敷地内にせっせと様々な植物を植えたお陰で、ほぼ1年中何かの花が咲いて、私たちの目を楽しませてくれている。

2016年7月27日(水)

次の写真は、昨日の午前中撮った防風林の間の丘に上がる小路を、上の方から下を向いて撮ったもの。この日曜日から寒さがぐんと緩み、ずいぶん暖かくなったので、外をそぞろ歩くのも気持ちがいい。左側のグレヴィーリャと右側のカエデがだいぶ葉を落としている。カエデの右側の列には花が終わった桜の木が若葉を青々と茂らせている。この写真を撮ってから下に向かって歩き出すと、枯葉で埋まった地面にラベンダー色のものが見えたので、側にいってしゃがんで見ると、アメンドインの茎につるを巻きつけている植物が花を咲かせていた。それが2枚目の写真。うちの敷地内では初めて見る植物だけれど、アップで撮った植物の後ろにもぼんやりとラベンダー色が見えるように、ここにだけ2つこの花が咲いている。

2016年7月28日(木)

次の写真は、玄関前の階段で咲くベイジョと、葉物植物。階段の隙間から芽を出して元気に育っている。ベイジョとこの葉物植物は種を飛ばしてあちこちから自然に生えてくるのだけれど、何故かこの階段で生えているのが一番元気がいい。特に、ベイジョは強い日差しが苦手なのか、あまり陽当たりがいいとはいえず、しかも陽が当たる時間が短く限られているここの環境が気に入っているようだ。

2016年7月29日(金)

昨日の午後は久しぶりにエディナの美容院に行き、髪のカットとカラーをしてもらった。カットとカラーが終わり、支払いを済ませてから「あなたの写真をとってもいい?」と聞くと、「何で?」と聞くので、「毎日ブログを書いているから、あなたのことを書こうと思って」と答えると、「あら、まあ」という感じで、ブラシで髪をときつけて、口紅を塗って、準備をしてから撮らせてくれたのが次の写真。エディナの向こう側にいるのはシャンプー台の椅子に座って順番を待っているお客さんのひとり。この写真には写っていないけれど、右側のソファーのところでネイリストの妹さんがお客さんにマニキュアやペディキュアをしている。ここではいつもこの姉妹が二通りのお客さんを相手に仕事をしている。私はカットとカラーで時間がかかるので、ここにいる2時間くらいの間にいつも複数の人たちがやって来る。だいたいマニキュアなどをしに来るお客さんが3人くらい入れ替わり、簡単なカットだけの人や顔の産毛の処理だけの人がひとりふたりやって来る。でも、いつ行っても何故かここで同じお客さんに2度3度と会うことがなく、いつも知らない人ばかり。この姉妹もお客さんたちも、みんな本当によくしゃべるのだけれど、私はポルトガル語がよくわからないだけでなく、彼女たちが話題にしている人たちのことをまったく知らないので、側で聞いていてもまったくもってちんぷんかんぷん。そのため誰かが話しかけてきたりしない限り、会話に加わることはまずない。

2016年7月30日(土)

うちのランドマークの木のさらに西側の道沿いにあるまだあまり大きくない1本のイペーの木に黄色い花が咲いているのに気づいた。回りをグアンドゥ豆や孟宗竹に囲まれており、花の数もまだ多くないため、気づくのに少し時間がかかった。うちに何本かあるイペーの木の内、去年もこの木が一番に花を咲かせたけれど、去年は確か花が咲いたのは9月の上旬だった。桜が例年よりも1ヶ月も早く咲いたように、イペーも例年よりも早く花をつけたのかもしれない。次の写真は、その花を咲かせたイペーの木と、その花のアップ写真。この他にもうちには庭に2本、入り口ゲートに向かう道沿いに2本(本当は3本植えたのだけれど、1本は枯れてしまった)、計4本のイペーの木があるのだけれど、それらはまだどれも花を咲かせていない。

次の写真は、我が家から1キロ程西に行った舗装道路に出るまでの未舗装の田舎道を行き、工場地帯に出る手前にあるイペーの木。この木も黄色い花を咲かせていたので、写真に撮ってみた。木曜日に美容院に行った帰り道で、車を止めて撮ったもの。イペーの木は桜と同じで、葉を落として裸になった後、花を咲かせ、花が終わると若葉が出てくる。このイペーの木は別の常緑樹とくっつくように生えているので、まるで木が青々しているように見えるけれど、イペーの木自体にはまだ葉は生えていない。

2016年7月31日(日)

次の写真は、イペーの木の写真を撮った後、我が家に向かう途中で、向こうに見えるうちの敷地を撮ったもの。以前は防風林の背がまだ低かったので、家の屋根が見えていたのだけれど、今ではすっかり成長した木々の後ろに隠れて、まったく見えなくなっている。画面の中心よりも左側の丘は、トラクターで耕してもらったばかりなので、草がなく茶色の地面がむき出しになっている。その真ん中にポツンと立っているのはここで自生している松の木。画面の右端の木が、家の西側にあるランドマークの木で、その左側に3本ほど防風林の列から頭を出しているのは庭のユーカリの木。



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