Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2016年6月1日(水)

先週ペトロポリスの安見さんから久しぶりに近況を知らせるメールをいただいた。5月にご夫婦でスペイン・アンダルシアを巡る8日間の日本語ガイドによる団体旅行(参加者16名)をしてきたということだった。参加者は現地マドリード集合で、そこから団体で各地を巡ってバルセローナで解散というものだったそう。参加者は安見さんご夫妻以外は皆日本からの参加だったという。団体旅行をあまりしたことのない私は現地集合という団体旅行もあるということすら知らなかった。これまでご夫妻が参加されたブラジル人団体旅行は現地ガイドがスペイン語だったので、分かったようで充分理解できなかったけれど、日本語だと良く分かり、特に、日本人ガイドの説明は日本と現地事情の比較説明をしてくれるので知りたい興味と一致して大変満足だったと書いておられた。

この週末うちに遊びに来ていたジョアオンも、4月に奥さんとスペイン/ポルトガル旅行に行ったと言って、たくさん写真を見せてくれた。何だか身近の人たちがスペイン/ポルトガルづいているなあと思った。私たちもいつか行きたいとは思いつつ、日々の生活に精一杯なのでいつ実現できるやらまったくもって見当がつかない。でも、家族の緊急事態には、不自由を強いられるのにエドソンは文句ひとつ言わず私を日本に送り出してくれるのだし、日々健康で笑顔で暮らしていられるのだから欲を言うとばちが当たる。

今回安見さんたちは、31年3ヶ月ぶりのマドリード訪問だったそうで、団体旅行の始まる前日にマドリードに到着して、昔の写真を持って行って同じ場所を探していろいろ写真を撮られたそうで、そのうちの数枚を送ってきてくださった。次の写真は31年前6歳だった娘のえりかさんと手をつないで撮られたものと、今回行って撮られたもの。昔の写真は色もあせていて、やはり年の流れを感じる。

翌日のトレード観光では、31年前はマイクロバスで街の中心地まで行けたのに、今は観光バスは街に入れないため、下に停めてエスカレーターで市街地まで登るようになっていたそうで、川を挟んで反対側で町が見える場所に行き、31年前(1枚目の写真)と同じ場所で撮った写真(2枚目)が次の写真。

「年を取ると昔のことが懐かしく、今回も一生懸命昔の場所を探しました」とメールにあったけれど、31年も前に訪れた場所を再び訪れることができるなんて、元気でなくてはできないことなので、幸運なことだなと思った。

2016年6月2日(木)

5月31日付けのニッケイ新聞の「コラム 樹海」に、『「鈴蘭灯」の本当の由来』という記事があった。サンパウロ市の中心部近くにある東洋人街「リベルダージ」にある鈴蘭灯と赤い鳥居の由来について書かれていて、あの街灯の形は鈴蘭ではなくちょうちんなのだとあったので、「へえ~、そうなの?」と思った。これらを作るために尽力した人たちがすでに亡くなっていたら取材することはできず、真実を知ることもできなかったんだなと、少々感慨にふけった。この記事のサイトは、こちらへ

同じく31日付けの記事に、『100万世帯が階層転落=不況は庶民の家計を直撃』という記事があり、ブラジルの経済不況の現状を伝えている。長い時間をかけてようやくジウマを職務停止に追い込んだけれど、大統領代行となったテメル氏がどこまで効果的な対策を打ち出して、結果を出せるかはまだまだわからない。この記事のサイトは、こちらへ

2016年6月3日(金)

今週は、昼間は薄日が差したり曇ったりのお天気でも、夕方から夜にかけて激しい雷と共にザーザーと雨が降るというお天気が連日続いている。乾季のこの時期、こんなに雨が降るのも珍しい。雨が降らずに水不足になるのも困るけれど、毎日雨というのもちょっと困る。そして、今朝は濃い霧が出てまた雨が降り出した。

次の写真は、入り口ゲートに向かう道沿いのハイビスカスなどを植えている場所よりも一段下のエリア。ヒバマーに草を取り除いてもらい、穴をいくつか掘ってもらい、その穴に台所から出た野菜くずや果物の皮や種などを埋めている。これらの穴が埋まり、土の準備ができたらモリンガの苗木を植える予定。画面の右側奥に見えるのはグアンドゥ豆の木。その向こう側はまだ手つかずの草ボウボウ状態。

2016年6月4日(土)

先日、はるたちとのお散歩に出た際には気づかなかったのだけれど、その後ひとりで桑の葉を取りに行って戻る途中、ランドマークの後ろのパパイアの木が倒れているのに気づいた。ここはランドマークの木とリグストルンの間であまり風当たりが強い場所ではないのに、どうして倒れてしまったのだろう?枝葉がすべてなくなっていたので弱っていたのかもしれない。そして、さらにパパイアの後ろ、リグストルンとハイビスカスの間にある木がオレンジ色の実をたくさんつけていることに気づいた。これはおそらくとても酸っぱい味のレモンの木。これもここにわざわざ植えた木ではなく、ここに埋めた台所から出た果物のくずから芽を出して育ったもの。今年初めて実をつけたことになる。

次の写真は、ランドマークの木の南東にあるパパイアの木。画面右後ろにランドマークの木の枝が見える。このパパイアはずいぶん前から実をたくさんつけているけれど、まだどれも色づいていない。これまでよりもひとつひとつの実が大きいような感じがする。季節的に冬は果物が採れる季節ではないと思うので、これらがちゃんと色づくかどうかはよくわからない。

次の写真は、ハイビスカスガーデンの中にあるパパイアの木。この木は前掲のパパイアの木よりもずっと前から、ハイビスカスガーデンを作った頃から自然に生えていたのだけれど、なかなか大きくならないので、きっと大きく育つことはないだろうと思っていたら、今年になって少し大きくなり、きゅうりのような細長い実を3つ4つつけ始めたので驚いている。ちゃんと育てば前掲のパパイアよりも大きくなるタイプのもののようだ。でも、これもちゃんと育つかどうかは大いに疑問。

2016年6月5日(日)

次の写真は、ある日の午後、エドソンが撮ったベランダの椅子の上で寝ているめいの写真。めいはベランダにある椅子の角をガリガリとかじって、4脚すべてを傷つけたりする一方で、こんな風に椅子の上で寝ていたり、丸まっていたりすることがよくある。

次の写真は、今朝撮った玄関前のめい。めいは早起きで、はるとひろが朝一番のオシッコに出てくるのをこんなふうに毎朝玄関前で待っている。そして、はるたちの朝食が終わり、お散歩が終わると、また玄関前に来て、私がめいの食事を持って出てくるのを待っている。めいは優しく可愛い子だけれど、汚れた足でベランダを汚すだけでなく、ベランダにねずみや小鳥の死骸を持ってきたり、私が穴に捨てて埋めた野菜くずなどを掘り返して玄関前に持ってきたりするのがたまに傷。

2016年6月6日(月)

次の写真は、昨日の朝ダイニングルームの南側の窓から撮ったもの。昨日の朝も濃い霧が出ていて、三角地帯のセドリーニョの列くらいしか見えない。画面奥にお隣の壊れた風車がわずかに見える。この三角地帯に植えたセドリーニョやグレヴィーリャが大きくなり、ほとんどこの風車を隠すようになっている。先週の日曜日から雨の降らない日は1日もなく、昨日も1日、雨、雨、雨。あれだけよく降ったのに、夜中もまた激しい雷雨で比較的近くでドカーンと大きな落雷があった。雨でもストーブをつけるほどには冷え込んではいないので助かってはいるけれど、ストーブがなければないで何日も洗濯物が乾かないので、良し悪し。今朝は11時前頃から少し薄日が差して来たので洗濯物を外に出した。洗濯物がすっきり乾くまで何とか日差しが続いてくれるといいのだけれど。

2016年6月7日(火)

昨日の朝、私がジョアオンの英語のレッスンをしている最中に、エドソンはブラジリアに向けて出発していった。今日から9日までの3日間、ブラジル陸、海、空軍合同の衛星プロジェクト関係者向けの会議があり、その会議の講演者のひとりとしてエドソンがブラジル空軍に招待されたから。昨日の午後ブラジリア入りして、会議が終わった翌日10日の朝、ブラジリアを発って帰宅する予定。今回も家からカンピーナスのヴィラ・コッポス空港までの往復の交通費やブラジリアでの宿泊費は自腹だけれど、カーピーナス=ブラジリア往復の航空券は空軍が負担してくれたので助かった。3月4月はめいの病気治療と去勢手術のためにお金がかかり、5月は私が広島に行ったのでまたお金がかかりと、予定外の出費が重なっていたので、さらなる出費を抑えるためと、今回の会議は軍関係者向けのものでオープンなものではないため、私がついて行ってもやることはないし、邪魔になるだけなので、私ははるたちとお留守番することにした。これまでエドソンが家を留守にしたのはせいぜい2日間くらいで、5日も家にいないのは今回が初めて。ブラジリアは標高がここと同じように少し高いので気候もここと同じくらいかと思い、エドソンは冬の装いで行ったのだけれど、着いてみると気温が30度を超え暑いと言っていた。ブラジリアは暑くて乾燥していて、ここは雨で湿度が高く、気温が低い。同じような標高と言っても、やはりブラジリアは赤道に近いから暑いんだと納得。

2016年6月8日(水)

月曜日の夜から火曜日の明け方にかけて、久しぶりに激しい雷雨がなかったのでお天気が回復するのかな?と期待しながら起きると、濃い霧が出て、しとしとと静かに雨が降っており、部屋の窓という窓すべてが結露で濡れていた。寝室の窓に結露ができるのはいつものことだけれど、居間もダイニングルームも、エドソンのワークショップの窓まで濡れていた。全室の窓に結露ということはめったにないので、びっくり。朝食の後で窓を拭いて湿気を取り除いてから薪ストーブに火を入れた。お天気が悪くても最低気温は10度を下回ってはいなかったのだけれど、とにかく湿度が高いのでこんなことになっているのだろうと思う。そして、昨日の午後遅くからお天気が回復し、今朝は久しぶりに太陽が顔を出し、いいお天気になった。最低気温が10度をきって9度だったのだけれど、太陽が出ていると寒さがあまり気にならない。これから数日はいいお天気が続き、最低気温は4度前後で推移するという予報なので、昼間はいいとして、朝晩はストーブが欠かせないかもしれない。

次の写真は、先日薄日が差した際撮った、玄関前の外階段沿いで咲いているサツキ。濃いピンクのサツキと薄いピンクのサツキが咲いているけれど、この他に白いサツキと花が小さいタイプの濃いピンクのサツキも少しつぼみをつけている。今年は天候不順で、桜が4月末に少し咲き出して、その後も勘違いしたつぼみがちょろちょろと花開いているけれど、サツキはいつも今頃花が咲くので、一応例年通りというところだろうか。

2016年6月9日(木)

火曜日の午後から徐々にお天気が回復し始め、昨日から太陽が顔を出し青空が見えるいいお天気が続いている。ただし、このところの最高気温は16度から18度といったところで、朝晩の冷え込みが厳しくなり、昨日今日の最低気温は5度前後だった。次の写真は、昨日のお昼過ぎにダイニングルームの南側の窓から撮った眺め。先日濃い霧が出ている写真を掲載したので、今回はきれいに晴れ上がった状態の景色を撮ってみた。気持ちのいい青空が広がり、お隣のアンテナタワーや貯水タンクや丘の上の木もよく見える。この写真を撮った際は気づかなかったのだけれど、めいがセドリーニョの列の前のアメンドインの上にいて、写真に写り込んでいる(写真中央手前左側)。

次の写真は、庭の4本のヒマラヤ桜。1枚目の写真の距離からだと花のつぼみは見えないけれど、側(2枚目の写真)まで行くと、たくさんのつぼみが膨らみ始めているのがわかる。最初に季節を間違って4月の中旬頃咲き始め、その後もパラパラと咲くので、今年は一斉に花が咲くことはないのかな?と、思っていたのだけれど、季節を間違えたのはごく一部で、大多数はどうやら一斉に咲きそうな気配になってきている。でも、それにしても通常は7月になって咲くのだけれど、このつぼみの感じだと6月中には咲きそうな勢いだ。

2016年6月10日(金)

いつもは私が起きるまでベッドから起き出さないのに、昨日の朝6時前に、珍しくひろが起き出してオシッコかウンチがしたいようなので、外に連れ出したら、とても長いオシッコをした。ウンチはどうかな?とは思ったのだけれど、めいがシュハスコ小屋から出てきて戯れつき始めたのと、とても冷え込んでいたこともあってすぐ家に引き返した。ベッドに戻って10分くらいすると、またひろが起き出して、寝室のドアのところでゴソゴソするので、電気をつけて見ると、ドアの前にウンチがあり、ひろはエドソンのベッドの足元の敷物の上に座っていた。私がウンチの処理と掃除をしている間にも何度も部屋の中でウンチの体勢をするのだけれど、もう何も出てこないようだった。どうやらお腹の調子が悪いらしい。そして、7時過ぎに朝一番のオシッコに出た際はウンチもオシッコもなかったので、すでにウンチをしているのでもうないのかなと思い、家に戻ってしばらくすると、玄関ドアの前でまたウンチ。「ええっ~!それはないでしょう・・・ひろ・・・」そんなわけでウンチの始末と掃除でバタバタしたものだから、朝食がちょっと遅くなり、8時を過ぎて朝ご飯を食べ始めた。

すると今度は外のめいも家の中のはるもひろも一斉にワンワンと大騒ぎし始め、外で男の人の声がした。それで、ダイニングルームの窓から見ると、2週間ほど前、トラクターで草刈りをしてくれた人が車寄せの砂利の上に立っていた。ちなみに、ここの人たちは玄関まで来てドアをノックするようなことはせず、家から少し離れたところから声をかけるのが普通のマナー。この人には前回の草刈りが終わった後、数週間後にまたトラクターで土地を耕してもらい、さらに数週間後もう一度耕してもらう予定だとエドソンから聞いていたけれど、いつ来るのかは知らなかったので、ちょっとびっくりした。とにかく入り口ゲートまで一緒に行って鍵を開けて、中に入ってもらった。「今日はエドソンが留守だから、仕事のお支払いはできないけど」と言うと、「ああ、大丈夫だよいつでも」と言って、仕事を始めてくれた。その晩、電話でエドソンにそのことを言うと、この人が具体的にいつ来るかは決まっていなかったということだった。どうやらこの人の都合次第のようだった。でもまあ、とにかく仕事は完了したのだから、めでたし、めでたし。次の写真は、お昼前に作業の様子を撮ったもの2枚と、3枚目は作業完了まであと少しとなった午後4時頃撮ったもの。

2016年6月11日(土)

昨日のお昼過ぎにエドソンが無事ブラジリアから帰宅した。はるとひろのお昼がほぼ終わる頃エドソンが戻りガレージの扉が開く音がすると、「何の音?」という感じではるたちは数秒フリーズした後、「パパだ!」ということがわかり、全速力で玄関に行き、ドアの前でエドソンが入ってくるのを待っていたので、カメラを構えてエドソンが入ってくるのを待った。次の写真は、エドソンが玄関に入ってきて、はるとひろが熱烈歓迎をしているところをパチリ。はるはしきりにエドソンに飛びついていたけれど、この瞬間は飛びついていない写真になった。左がはるで、右がひろ。ああ、やれやれ、無事に帰って来てくれてほっとした。その後お昼を食べた後、ボトゥカトゥに買い物に行き、私たちの食料品やはるたちのドッグフードなど、たまっていた買い物をした。ブラジリアは30度を超える真夏の暑さで、ここは最高気温でも15度以下の寒さで、隣町のボトゥカトゥはここよりも4度くらい気温が高く、旅行の疲れと相まってエドソンはとても疲れたようで、夜は8時過ぎにはベッドに入りバタンキュー状態だった。

2016年6月12日(日)

次の写真は、先週ブラジリアであったブラジル空軍主催の国際キューブサット(小型衛星)シンポジウムで、エドソンが講演したことに対する感謝状。とても立派な感謝状で、エドソンだけでなく私もちょっと感激。先日のブログでブラジリアでの宿泊費は自腹と書いたけれど、結局宿泊費もブラジル空軍が負担してくれたことをエドソンが戻ってから知ったので、ここに追記しておく。このシンポジウムにはブラジル国内のITA(航空宇宙技術研究所 )やIMPE(ブラジル国立宇宙調査研究所 )などからだけでなく、NASAやアメリカの大学などからも講演者が招かれていたということだった。どうやら昨年アメリカとブラジルの間で、両国軍の協力関係を強化する合意をしたらしく、このシンポジウムはその最初の試みだったらしい。ジウマ大統領は無為無策でブラジル経済を食い物にする以外ろくなことはしなかったと思っていたけれど、アメリカ軍との協力関係を強化することに合意したというのは数少ない功績だなと思った。でも、これはアルゼンチンなどに手をツッコミ始めた中国を牽制してブラジルへの影響力を排除するのが目的らしいので、アメリカからの強い申し出を無視できなかっただけなのかもしれないとも思う。シンポジウムの共通言語は英語だったそうだけれど、最終日は地元の高校生が招かれて、その生徒たち向けにブラジル人宇宙飛行士やNASAから招かれていた人たちがポルトガル語で講演したということだった。このNASAから招かれてきていたかなり地位の高いプロジェクトマネージャーのような人は、父親が宣教師だったので、ブラジル北東部ペルナンブコ州のへシフェ(Recife)で5歳から18歳まで育ち、ポルトガル語が話せるため、ポルトガル語で講演をしたのだそうだ。宣教師の家庭から科学者になったのか・・・。いろいろな人たちがいるものだなあ・・・。

2016年6月13日(月)

木曜日にトラクターで土地を耕しに来てくれた人が、この土曜日の午後、また来て、再度異なる機械を使って作業をし、耕した土地をなだらかにしてくれた。ちょうどヴィトーの英語のレッスンが終わり、しばらくヴィトーがエドソンとおしゃべりをして帰るところにこの人がやって来たので、ちょうどいいタイミングだった。木曜日は作業を終えるのに8時間かかったけれど、土曜日の作業は2時間半で終わった。この2日間の作業で、この人に支払う料金は1,575レアル(1時間150レアル x 10.5時間)。かなりの出費だけれど、トラクターでやってもらわないとできない仕事なので仕方がない。手伝ってくれる人がいるだけ、まだありがたいのだと思う。今度は9月に来て、ブラキアーリアが少し伸びた頃に再度土を耕してもらった後、グアンドゥーの豆を蒔く予定だとエドソンは言っていた。これはしつこいブラキアーリアをはびこらせず、グアンドゥ豆を育て、その根から出るチッソで痩せて弱った土地を改良するのが目的。次の写真は、入り口ゲート付近から土曜日の作業が終わった丘を撮ったもの。

次の写真は、入り口ゲート横の桜の木の側のパイネイラの木。木曜日の作業で木の幹の下の部分が傷ついて、細い枝も1本折れ、木が右側に傾いている。どうやら作業中にトラクターが当たったようだ。ここまで育つのに結構時間がかかっているので、枯れないといいのだけれど・・・。

2016年6月14日(火)

昨日は夜明け前から冷たい南風がビュービューと吹いてとても冷え込み、朝の最低気温はこの冬一番の寒さとなる2度だった。強い風のため体感温度はマイナス2度と天気予報には出ていた。とにかく寒いので、私はズボンの下にスパッツをはいて、毛糸のカーディガンの上にさらにウィンドブレーカーを着て体の熱を逃さないようにして、もちろん薪ストーブもガスストーブもつけて、寒さをしのいだ。朝、英語のレッスンに来たジョアオンは毛糸の帽子をかぶり、手袋をして、完全防備でやってきたのだけれど、寒い思いをさせては可愛そうなので、レッスンの間、遠赤外線のウォーマーを膝に当てて暖をとってもらった。そして、今朝は少し寒さが緩み、最低気温は5度。昨日よりはましだけれど、でもやはり寒い。

6月11日付けのニッケイ新聞の「コラム 樹海」に先日北海道で行方不明になり7日後に見つかった男の子のことに関連して『「我々は森の中で迷ったヤマトだ。ブラジル版タカユキはどこにいる!」』という記事があり、おもしろく読んだ。ブラジルの抱える問題を考えながら、ブラジル人が日本人のことをどのように思っているかを少し知ることができる。この記事のサイトは、こちらへ

2016年6月15日(水)

この月曜日はこの冬一番の冷え込みになったせいか、ジョアオンが今朝起きたら熱を出していたので、今朝の英語のレッスンはお休みするとソフィアから朝食後に連絡があった。今朝の冷え込みは昨日よりもさらに和らぎ、二桁代に戻って11度だった。最低気温が15度以上あったものが、10度くらいになると寒いと感じるのだけれど、一桁だった最低気温が10度を超えると暖かいと感じるのだから人間の感覚というのは不思議なものだなと思う。次の写真は、家の南東側で自然に生えてきて育っている雑草低木。ラベンダー色の可憐な花を咲かせていたので写真を撮ってみた。この雑草低木はあちこちに生えていて、2枚目の写真のように、家の南側のセドリーニョの列の前でワイルドに育っているものもある。

2016年6月16日(木)

次の写真は、オシッコから戻った玄関先のひろ(左)とはる(右)。ふたりを連れて外に出た際は、彼らの足の汚れ具合に応じて濡れ雑巾で足を拭くだけの場合もあるし、玄関の隅に水を入れた洗面器を置いているので、それで足を洗うこともある。オシッコやお散歩に出る前に雑巾を玄関の床に出しておくのを忘れた場合は、戻ってきたふたりに「待て」と声をかけて、雑巾を取りにいっている間、汚い足で部屋に入ってこないようにするのだけれど、この写真のように、ちゃんと言うことを聞いて待ってくれるところがとても賢いなあと思う。

2016年6月17日(金)

お豆は体にいいので、何とか頻繁にお豆を食べた方がいいのだけれど、常に豆料理を作るわけにも行かず、どうしたものかと思っていた。以前NHKの番組で小豆をご飯と一緒に炊いた豆ご飯(お赤飯ではない)というのをやっていたので、ご飯を炊く際、お豆を混ぜて一緒に炊いてみようと思い、まず、大豆を煮て柔らかくしたものを1合のお米に大さじ2~3杯くらい入れて炊いてみると、これがなかなかおいしかった。それ以来、大豆やレンズ豆や小豆などを混ぜて炊いて食べるようになった。先月リオからジョアオンが来て数日滞在した際も、いつも通り大豆と一緒に炊いたご飯を出したら、おいしいといって喜んで食べてくれた。その際、大豆は更年期の女性にとってイソフラボンが女性ホルモンのような働きをするのでとてもいいし、男女を問わず骨粗しょう症の予防効果もあるからとてもいい食材よねという話をしたのだけれど、彼は初めて聞いたと言っていた。彼ほどに健康志向が強くて、食べるものに気を使っている人でも知らなかったということにこちらが少し驚いた。私は子供の頃はご飯に豆やいろいろな具材が混ざっている豆ご飯や炊き込みご飯は嫌いではないまでも、どちらかというと白いご飯の方が好きだったのだけれど、最近は白いご飯もおいしいけれど、混ぜご飯もおいしいと思えるようになり、積極的に食べるようになったから不思議なものだ。次の写真は、レンズ豆と一緒に炊いたご飯と、お豆腐とエビと白菜としめじを炒めて中華風の味付けにしたおかず。ご飯が赤い色をしているのは、ウルクンの粉末を混ぜているから。ウルクンはポリフェノールなどの栄養素が豊富なので時々混ぜてご飯を炊いている。

2016年6月18日(土)

今週前半の強い寒波が和らぎ暖かくなったからなのか、桜のつぼみが開き始めた。次の写真は家の南側の三角地帯に降りて行くところに植えた我が家で一番古いヒマラヤ桜。この木が例年一番最初に花を咲かせるのだけれど、今年は花が開き始めた時期が1ヶ月くらい早い。いつもは6月の末頃つぼみが膨らみ始め、7月の中旬頃花が咲き始めるのだけれど、今年は4月が異常に暑かったからなのか、5月に狂い咲きした花が少しあり、全体的にいつもよりも早い開花になった。1枚目の写真は、玄関のところから撮ったもの。木がピンク色に染まり始めているのが遠くからでもよくわかるようになった。2枚目はこの桜の側まで行って撮ったもの。3枚目は花の状態がわかるように、同じ木をさらに近くから撮ったもの。

2016年6月19日(日)

この金曜日に、「楽書倶楽部」第33号が届いていた。同じく届いていた2冊の本が同封された広島からの航空郵便にはクリスマスカードも同封されていたので、発送の消印を見ると、何と昨年の12月15日発送だった。つまりこちらに届くまでに半年もかかったということで、これまでの最長記録を更新したことになる。そう言えばお年賀メールへの渡辺先生からの返信には郵便を送ったけれど、まだ届いていないようですねとあった。何をどうすれば広島からここまで来るのに半年もかかるのか、「たまげた」を通り越して呆れてしまった。でも、途中どこかで紛失しなかったのは不幸中の幸いというべきか・・・?これを送ってくださった渡辺先生は、私から一向に受領とお礼の連絡がないので、何と不義理な人間かと思っておられることだろう。以下は今月発行の楽書倶楽部に掲載された私の文章。

迷子の「めい」との不思議な出会い

私たち夫婦は、三歳八ヶ月の「はる」と、一歳四ヶ月の「ひろ」というダックスフント二匹と一緒に暮らしている。はるは一番最初に暮らしていたオス犬のモビが亡くなる四ヶ月ほど前に、義妹が生後二ヶ月の同じ犬種のはるを連れてきてくれたため、一緒に暮らすようになった。モビがガンで亡くなった後、二年以上ひとりぼっちだったはるが可哀想だからと、今度ははるのパートナーとして、また義妹が生後間もない赤ちゃん犬をもらい受け、半年ほどに成長したひろを去年連れてきてくれた。以来、まだ赤ちゃんだったひろに我が家のルールに慣れてもらうのに四苦八苦しながらも、二人と二匹の穏やかな生活が続いていた。

そんな今年二月のある日、いつものように、はるとひろを朝一番のオシッコに連れ出そうとしたら、玄関の前に見知らぬ犬がチョコンと座っていて驚いた。二匹も驚いて激しく吠えたため、その子は怖がってベランダの椅子の下にもぐり込んで小さくなってしまった。この大騒ぎに夫も玄関先まで出てきて、その子をシッシッと追い払おうとするのだけれど、怖がりながらも一向に動こうとしない。竹の棒で椅子をトントンと叩くと逃げて行き、今度は家の東側の物置のようになっているスペースに行って丸くなって動かなくなってしまった。仕方なく、そのうちどこかに行くだろうと、そのままにしていたのだけれど、午後になるとまたベランダに戻ってきて、どこにも行く気配がない。私たちが玄関を出たり入ったりする度に、怖がりながらも、身をかがめて尻尾を振り、私たちのそばに擦り寄ってきて、人恋しいという気持ちを体全体で表していた。

まだ一歳になるかならないくらいの可愛いメスの雑種犬で、以前どこかで飼われていたのは明らかだった。捨てられたのか、迷子になったのか。どのくらいの期間放浪していたのだろう。とにかく体は汚れて、やせ細っていたので、つい最近放浪を始めたという感じではなかった。こんな田舎のまわりにほとんど家などない場所にある我が家の玄関まで、どうやってたどり着いたのだろうと不思議でならなかった。

餌を与えれば居ついてしまうだろうからと、とりあえず水だけ与えて、翌朝まで様子を見て、まだここにいるようならそれからどうするかを考えようと、夫と話し合った。でも、「食べるものはなくてもいいから、ここに居させて」と目が訴えているようで、可哀想で見ていられなくなり、その日の夕方には餌を与えてしまった。こうなったらこの子をうちで受け入れるしかないと夫の同意も得て、迷子の迷の字から取って、この子を「めい」と名づけることにした。翌日体を洗ってやると、右肩に怪我をして出血しており、左脇腹には直径十センチくらい毛が抜けて薄くなっている部分があった。どんな病気を持っているかわからないので、クリニックで検査してもらい、予防接種を済ませるまでは、はるやひろと濃密に接触させない方がいいと考えて、外で自由にさせていた。

それから数日は元気にしていたのに、週明けにはクリニックに連れて行こうと考えていた矢先、嘔吐を繰り返し、食事を受け付けなくなってしまった。その日は週末だったので、獣医師がいることを確認して急いでクリニックに連れて行った。とりあえず腹痛を和らげ吐き気を抑える薬などを注射してもらって帰宅し、一晩様子を見ることになった。しかし、翌日はまた食事を受け付けずぐったりしているので、またクリニックに連れて行き、入院して検査と治療を受けることになった。血液検査で異常はなく、超音波検査をすると、すい臓が弱っていることがわかった。一週間ほど集中治療室で治療を受け、十日後に一回目の予防接種をしてもらい無事退院することができた。

めいの入院中、夫の仕事の関係で数日家を留守にしなければならず、はるとひろをいつものようにこのクリニックに併設されたペットホテルに預けた。帰宅後、はるとひろを迎えに行った日にめいも退院したので、三匹を家に連れて帰ると、その晩ひろが体調を崩して嘔吐を繰り返したため、今度はひろが二日ほど入院。どうやら突然めいが現れて興奮していたら、めいがいなくなり、まだお泊まりは三度目で慣れないペットホテルでの日々から解放されたと思ったら、また突然めいが現れるという急激な環境の変化に、性格が穏やかで臆病なひろは、精神的なストレスを溜め込んで体調を崩してしまったようだった。

ひろが退院して戻り、これでようやく穏やかな日々になると思った矢先、間の悪いことにめいの初潮が始まってしまった。すると少し離れたお隣から去勢手術をしていない大型犬数匹が連日やって来るようになったので、めいを守るために家の横にあるシュハスコ小屋にめいを閉じ込めなくてはならなくなった。一日三度の食事の後に散歩に連れ出す以外は、シュハスコ小屋の中での生活を強いて、めいには可哀想なことをした。しかし、めいが来て以来次から次へと問題が発生して、想定外の出費が重なり家計への負担が重くのしかかってきているところに、子供までできてしまっては私たちには面倒みきれない。毎晩やってくるオス犬がシュハスコ小屋の回りでゴソゴソする音や、めいの吠える声で何度も起こされる日々を過ごしながら、初潮が終わるまでめいのシュハスコ小屋での生活は続いた。

そして、四月の中旬に去勢手術と抜糸が済むと、めいは晴れて自由の身になった。めいも、はるやひろ同様優しい性格なので、三匹は喧嘩することなくとても仲良くしている。外で元気に走り回れるようになっためいはとてもうれしそうで、やっと穏やかな日々が戻ってきた。夜はシュハスコ小屋の中で寝る以外、めいは一日中玄関前のマットの上や、ベランダや芝生の上などで過ごしている。お隣の犬や野性動物が近づくと、ワンワンと吠えて家に寄せ付けないようにしてくれる。何だか不思議な巡り合わせで我が家の一員になっためいは、自ら我が家と決めたこの家と家族を守ろうという意欲満々で、今では番犬としての役割を担ってくれている。

2016年6月20日(月)

今年は夏の間例年以上に雨がよく降り、お天気の悪い日が多く気温も低めで推移した。さらに、畑に蒔いたムクナ豆の勢いがすごく、畑を被って日陰にしてしまったため、畑の野菜は育たずほぼ全滅だったのだけれど、一株のニラだけは細々と生きながらえている。お店で販売されている普通のニラの長さの半分くらいまでしか成長しないので、まだ成長途上なのだろうと思い、収穫を先延ばしにしていたのだけれど、先日、意を決して、3分の1くらいを収穫してみた。長さは短いけれど、まぎれもなくニラのにおいがして、おいしそう。緑の野菜が簡単に手に入らないここでは貴重な緑黄色野菜だ。挽き肉ともやしとニラを炒めて、豆板醤、みそ、しょうゆなどで味付けし、ピリ辛の晩ご飯を作っていただいた。

2016年6月21日(火)

以下は、6月18日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。

五輪にまつわる興味深い話いろいろ

「日本移民の日」108周年記念の五輪特集号別冊が本日出るにあたり、オリンピックに関わるうんちく、興味深い話を集めてみた。リオ五輪では「206カ国・地域」から選りすぐりの「1万500人」が参加する。大会に参加する馬の数だけで315頭、使用されるテニスのボールは2万5千個にもなる▼今回のノビダーデ(新鮮味)のある競技は二つ。92年ぶりの復帰となるラグビー、112年ぶりのゴルフだ。全部で42部門の競技に分かれ、合計「306個」の金メダルが争われる▼大多数の競技者や大会関係者を支えるために、大会期間中、供給する食事は1100万食分、3万4千人分のベッドが準備されているとか。ちなみにリオ市が五輪候補地に立候補した時、総予算は「288億レアル」。しかし現在では、なんと「370億レアル」にまで膨らんでいるという▼歴史的に見ると、伯国が初めて五輪に参加したのは1920年アントワープ大会で、なんと金銀銅各一つずつ計三つも獲得した。三つとも射撃。この時、ギリェルメ・パラエンセ選手はベルギーまでの船旅の最中、肝心の競技用の拳銃を盗まれ、なんとライバルの米国選手からコルトを借りて参加し、しかも金メダルを射止めた。ああ、貸したライバル選手の心中やいかに。日本には「他人のふんどしで相撲をとる」という言葉があるが、「他人の拳銃で金メダルをとる」とはブラジルらしいか▼次回1924年パリ大会では12人参加だがメダルはゼロ、28年大会は不参加、1932年ロス大会には67人が参加してゼロ。しかも29年の世界大恐慌の直後、コーヒー価格大下落を受け、32年のブラジル代表には遠征予算がなかった。なんと現物支給で、商船に5万5千俵のコーヒー豆を積んで、ロスまでの間に選手が売って遠征費用にするという過酷な試練が待っていた。24人が途中で脱落して帰伯、13人が自費参加した▼なかでも1万メートル走者アドウベルト・カルドーゾ選手は超人的な努力で会場まで辿り着いた。彼が乗った船がサンフランシスコ港に到着したのは、なんと試合の前日。そこから381キロも離れたロスまで徒歩とヒッチハイク(カローナ)で会場まで向かった。ようやく到着したときは競技開始10分前! なんとか参加はしたもののビリ。彼の苦労話は地元「ザ・ロサンゼルス・タイムス」紙で〃鉄の男〃として華々しく報道されたとか▼36年ベルリン大会には94人参加でメダルはゼロ。大戦をはさんで戦後初の1948年ロンドン大会では77人が参加して一つ。世界で初めて日系人がメダルを獲得したのはこの時で、重量挙げ(ライトヘビー級)米国代表として銀メダルを獲得した坂田ハロルド選手(二世)だ▼彼は後にプロレスラーとなり、アメリカに根強く残っていた反日感情を利用してヒール(悪役)として活躍した。1964年には映画『007ゴールドフィンガー』で悪役用心棒を演じ、世界的に有名になり、以後、20年に渡りハリウッドで俳優として活躍した▼次の1952年ヘルシンキ大会では108人参加してメダル三つを獲得。その1人が日系伯人初で、伯国水泳界にも初メダルをもたらした岡本哲夫選手(二世)だ。この時の1500メートル自由形ではなんと日本人の血を引く3国籍者が表彰台を独占した。1位が米国二世の紺野フォード選手、2位が日本の橋爪四郎選手、3位が岡本選手だった。リオ五輪でもこのような快挙が起きるだろうか。日系ゆえの、ひそかな楽しみだ。(深)

2016年6月22日(水)

次の写真は、先日6ヶ月もかかって届いた広島の医師、渡辺晋先生が送ってくださった本2冊。1冊は、論創社から出版された天瀬裕康著(天瀬裕康は渡辺先生のペンネーム)の「悲しくてもユーモアを ーー文芸人・乾信一郎の自伝的な評伝」。もう1冊は、広島文藝派第30号。この広島文藝派の中に渡辺先生の奥様である渡辺玲子さんが書かれた「いくつかの世界の端で」という創作文が掲載されている。渡辺先生ご夫妻は共に広島ペンクラブの「ペンHIROSHIMA」に所属しておられる。ちなみに「ペンHIROSHIMA」はサンパウロで発行されている「ブラジル日系文学」だけでなく、サンパウロの広川和子さん主宰の「たちばな」との間にも文学的な交流があるということを今回初めて知った。そして広川和子さんは楽書倶楽部の同人でもあるのだから、何だか回り回っていろいろな人たちがつながっているのだなあと再認識。

渡辺先生の本はパラパラとページをめくってみただけでまだ読んでいないのだけれど、奥様の方の北島文子を題材にした創作文は16ページと短かったのでこの週末に読むことができた。どちらの作品もブラジルが関係しているのは知っていたけれど、渡辺先生が書かれた乾信一郎は本名が上塚貞雄で、貞雄の父の光雄は北米シアトルに移住し、父の弟、つまり貞雄の叔父の司は「アマゾン開拓の父」と称された上塚司で、その従兄弟の周平は「ブラジル移民の父」と呼ばれた上塚周平だという家族関係を知った。そして、乾信一郎は北島文子とも接点があったことも知った。そもそも2年半くらい前に渡辺先生からブラジルにおける上塚司に関する情報と、戦後アマゾンでも勝ち負け騒動はあったのかという問い合わせをいただいた。それで上塚司については、香山文庫の中にあったアマゾナス日系商工会議所発行の「マナウス」の中から第二部マナウス実態調査、「1、アマゾナス州の日系人移住の歴史」の部分をお送りし、勝ち負け騒動に関しては、ニッケイ新聞に連載された「第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動真相を探る=外山脩」という記事のサイトへのリンクをお送りした。そして、その1年後くらいに、北島文子(または府未子)に関する情報を求められたため、「香山文庫」の中の「ブラジル移民文庫」DVD&CDの中にあった「北島府未子作品集」のPDFコピーと、「コロニア小説選集」の第一巻の中に、「なすび」、「ロテリアを買う女」という北島文子による2つの短篇があったので、そのPDFコピーもお送りした。ちなみに「ブラジル移民文庫」のDVD&CDは、「ブラジル日本移民100周年記念協会、移民貴重資料デジタル化プロジェクト」が作成したもので、著作権の問題はクリアされており自由に利用できる資料。とまあ、こんな具合に渡辺先生からの問い合わせで、ほんの少し情報や資料をお送りしただけなのだけれど、どちらも作品の最後に、私に資料提供をしてもらったと謝意を表してくださっていて感激。でも、奥様の短い創作文だけでも膨大な資料を参考にしておられて、その中で私が提供したものはほんのわずかなので、わざわざ名前を出してまで謝意を表していただけるほどのことはしていないのにと申し訳なく思った。ましてや渡辺先生の本の方は長い年月をかけて研究をし、資料収集をしてこられたものの集大成なのだから、私の提供した情報なんてほとんど無に等しい。ああ恥ずかしい。ただ、数年前に香山さんから「香山文庫」を引き継いだものの、計画している「香山文庫」のウェブサイトはいまだ完成しておらず、立ち上げが遅れに遅れ、ほとんど何もしていない状態ではあるけれど、こんなふうに「香山文庫」のお陰で情報提供の依頼にほんの少しとはいえ対応できたことはとてもうれしいことだった。そして、香山さんに対しても少し顔向けができるかなと思った。

2016年6月23日(木)

リオデジャネイロ州の財政危機は、「公務員給与の遅配やそれに伴う複数個所の公共救急医療施設の閉鎖、法医学研究所の遺体受け入れ拒否、燃料不足による警察車両の輪番使用といった形で表れている」そうで、それに伴い「リオ五輪開幕まで残り49日となった6月17日、リオ州政府が財政危機による非常事態宣言を発令した」というニュースがあった。リオデジャネイロ・オリンピックは本当にちゃんと開催できるのか?と思うけれど、日系人の関わる以下のような前向きなニュースもあった。

6月20日付けのニッケイ新聞に、リオデジャネイロ・オリンピックの聖火トーチと、五輪マスコットのデザインをしたのはどちらも日系人だという記事があったので、ここで紹介しようと思う。ひとつは、『日系人が聖火トーチをデザイン=ブラジルの多様性を象徴させ=美しくて大胆な形を造型』と題する記事で、 この記事のサイトは、こちらへ

ふたつめの五輪マスコットデザインに関しては、『伯国らしさ伝えるデザイン=日系三世が五輪マスコット作る=多人種、多文化の国を表現=コンペ参加の内幕を聞く』という記事で、この記事のサイトは、こちらへ

2016年6月24日(金)

1週間ほど前に桜が開花し始めたと書いて写真を掲載したけれど、その桜が七分咲きか八分咲きといった感じになってきたので、再度写真を撮ってみた。先週と今週は、週の前半に気温が下がり冷え込む寒い日が続き、後半は寒さが少し緩むというのを繰り返している。火曜日、水曜日とお天気が悪かったので、お天気が回復した昨日の朝、次の写真を撮ってみた。

次の1枚目の写真は、1週間ほど前に撮った庭の桜。ほとんどはまだつぼみの状態なのがわかる。2枚目は昨日の朝、玄関横のベランダから撮った同じ庭の桜。つぼみがだいぶ開いて五分咲きといったところだろうか?この他にもランドマークの木の後ろの道沿いの桜や、玄関前のベランダの西側の桜も少しずつ開花し始めている。

2016年6月25日(土)

次の写真は、ランドマークの木の西側の道沿いの桜並木を北側から撮ったもの。みな同じ時期に苗木を植えた桜だけれど、花を咲かせている木や、まだ葉が落ちておらずほどんど花を咲かせていない木など様々。この道なりに左に曲がって行くと、家の南側のガレージの前に出る。

次の写真は、上の道を行き、家の南側に出て、さらに東に進むと見えてくる、家の東側の物干しと畑の間にある庭を撮ったもの。ここの桜もだいぶ花を咲かせている。桜の手前の赤い花は、剪定などしていないものだから、伸び放題にワイルドに枝を伸ばしているねむの木の花。

2016年6月26日(日)

次の写真は、家の北側の防風林の列の間の桜の木の中で一番たくさん花をつけている木を撮ったもの。ここは防風林用のセドリーニョやグレヴィーリャの間で、日当たりがあまりよくないからか、例年あまりたくさん花をつけず、今年もまったく花をつけそうにない木が3本くらいある。

次の桜の写真は、防風林を抜けた一番上の木をカエデを背景に撮ったもの。この木はモビのお墓のすぐ側にある。2枚目の写真は、背が高くなったカエデの1本を下から見上げて撮ったもの。こんなふうにカエデは黄色くなっている葉もたくさんあるけれど、木全体が黄色くなることはなく、葉がきれいに黄色くならずに、すぐ茶色っぽくなるので、あまりきれいな紅葉は見られない。

2016年6月27日(月)

以下は、6月25日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。

四世にも特定ビザ発給を

最近、日系代表5団体の間で、四世にも「特別定住ビザ」(現在は三世まで)を発給するように日本政府に意見書を出す動きがあると聞き、これは歓迎すべきだと思った。現在の聖市の日系団体を見回しても、リーマンショック以降に大量帰伯した日本育ちの三世世代が職員となって活動を支えている。日本語が達者で、日本文化を深く理解する彼らの存在は、今後の「日系社会の宝」だ▼現在では一時滞在の「デカセギ」ではなく、「在日ブラジル人」というにふさわしい世代が日本に育っている。良くも悪くも〃普通のブラジル人〃化していく日系の若者が身の回りに多い中で、日本で育った世代には「第2の戦後移民」的な部分を強く感じる。帰伯した彼らには、いずれ将来の日系社会の屋台骨になってほしい▼とはいえ、そんな彼らもいずれ高齢化する。彼らの様な日本で育った世代が、日本が不況になるたびに大量帰伯し、それがブラジルの日系社会を再活性化する――そんなサイクルができたら、日伯の絆はより永続化する▼米国では1924年に日本移民排斥法が施行されて以来、移住は途絶し、戦争で対戦国となったために古株日系人は日本文化や日本語に興味を持たない人が多く、戦後移住者とは協調しない部分が強いと聞く▼ブラジルの場合、戦争を挟んだ1941年から53年以外は、最後の移民船が来た1973年まで入り続けた。さらに結果的にデカセギブームが「第2の戦後移民」を生んだ▼日本に対して思うのは、「外国人技能実習制度」とかいう中途半端な形で一時滞在労働者を入れるより、日系人を「移民」として受け入れる政策を進めてほしいという点だ。人口減少化を食い止めるために外国人移民導入政策検討との話も聞くが、まずは日系人を入れるべきではないか。だから四世にビザを解禁する意味は大きい▼もちろん、デカセギには負の側面も大きい。だが覆水は盆に返らない。前向きに対処していくしかない。何の受け入れ政策もなく1992年に三世までの特定ビザ発給を始めて、斡旋業者による不当な搾取が多発した過去に学び、ちゃんとした「移民政策」として解禁すべきだ。特に彼らの子供を日本の公教育でしっかりと受け止める体制を作って、「外国に起源を持つ日本市民」を地域住民として受け入れる機運を広めてほしい。日系人でそれができないなら、他の外国人にはもっと難しいはずだ▼日本が国際化するためにすべきことは、外国人をいれることより、日本人の若者が外国経験を積むことだ。それは留学などのハードルの高いものでなく、「なんちゃって移住体験」を積むことだと思う▼外国で数年を過ごすうちに、日本の本当の良さが骨身に沁みて分かるようになる。今の日本がそのままでも充分に凄い国だと、しみじみ実感するまで、外国に滞在する経験をすべきだ。日本の日本人は、実は黄金の椅子に座っているのに、「自分はコジキだ」と勘違いして卑下する変人の集団だと常々思う▼そんな移住体験を積んだ日本人が人口の1割を占めるようになれば、おのずと国際化する。外国人を入れるより、日本人自体が意識を国際化すべきだ。そして、外国滞在する先としては、日系社会のあるブラジルは最適だ。良くも悪くも、この国は日本とは真逆な部分が多い。でも、だからこそ、世界の中で日本がいかに凄いかが実感できる▼日本で四世ビザを解禁し、さらに日本の若者がブラジルで数年を過ごせる滞在ビザ、たとえばワーキングホリデー制度などを結んだらどうか。日系人だけでなく、たくさんの親日ブラジル人が日本を体験できる。ぜひそのような相互交流で、絆を強めてほしい。(深)

2016年6月28日(火)

玄関前のベランダは私たちとはるとひろが出入りするだけならあまり汚れないのだけれど、めいが来てからというもの濡れて汚れた足で足跡をつけたり、体についた枯れた芝生や葉っぱをたくさん落とすものだから、毎朝掃除が必要になった。先日も洗濯が終わった後、ベランダを掃除して、いつものようにほうきをベランダの隅の椅子の後ろに置こうとしたら、壁際に小鳥がいることに気づいた。じっとして動かないのだけれど、よく見ると生きていて、怪我をしている感じでもない。家の中にカメラを取りに行って戻ってきてもまだ同じ場所でじっとしているので写真に撮ってみた。めいは低空飛行で飛んでいる小鳥でも追いかけて捕まえたりするので、めいが側にいたら危なかったのだけれど、幸いめいは側におらず、どこかに遊びに行っていなかったので良かった。その後30分くらいして、はるとひろをオシッコに連れ出した際は、もういなくなっていたので、ちょっとほっとした。でも、どうしてここでじっとしていたのだろう?家事でバタバタしていて気づかなかったのだけれど、この子も窓ガラスに激突して、脳しんとうを起こして、しばらく動けなかったのかな?

2016年6月29日(水)

次の写真は、土曜日にエドソンが食料品の買出しに行ってくれたついでに買ってきたパーディーニョの地ビール。何でも無線アンテナを作るための材料を材木店に買いに行ったら、その店で作っている地ビールを売っていたから、試しに1本だけ買ってみたのだという。ビールの種類はインディアン・ペール・エールとあり、ちゃんとパーディーニョ、サンパウロとラベルに生産地が表記してある。材木店が地ビール作り?と、不思議に思ったけれど、材木店のオーナーが始めたあらたなビジネスということらしい。おいしいかどうかは、飲んでみてからのお楽しみ。

2016年6月30日(木)

EUを離脱するか残留するかを問う国民投票が、今月23日にイギリスで行われ、僅差で離脱することが決まって1週間になる。離脱が決まった直後から世界中の市場で株価が下がり続け、回復する兆しがない。離脱に投票した人たちが後悔したり、再投票を求める署名活動が行われていたり、離脱を推進していた政治家が間違っていたと言い出したり、混乱が続いている。イギリスでEU向けの製品を生産している日本企業も、イギリスからEUに製品を送る際に関税がかかるようになれば、イギリスにいる旨味がなくなるし、ロンドンのシティーから金融機関がイギリス国外に移ることも検討されているという。イギリスのEU離脱のもたらす影響はこれからも続きそうで計りしれない。EU側は、「英国以外の27カ国の首脳を集めた非公式会議を開き、英国がEUの単一市場にとどまることを希望した場合、移民を含め労働者の自由移動など除外事項を設けないことを盛り込んだ共同声明を発表した」というのが最新のニュース。一体これから世界はどうなるのだろう?6月28日付けニッケイ新聞の「コラム 樹海」に『EU離脱はグローバル化への反動』という記事があった。この記事のサイトは、こちらへ

次の写真は、ある日のはる(右)とひろ(左)。オシッコに行こうと声をかけると、一斉に玄関にやってくるのだけれど、私が玄関まで行って、彼らにリードつけるまで、ふたりはこんな感じのラブラブ状態で戯れ合うのが常。そんなふたりの一瞬を撮ってみた。決して取っ組み合いの喧嘩をしているわけではない。世の中不安定でいろいろあるけれど、彼らを見ているとここは平和だなと思う。



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