Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2016年2月1日(月) | ||||
以下は、1月30日付けニッケイ新聞の「コラム 樹海」からの転載。
『有名な経済評論家カルロス・アルベルト・サルネンベルグが28日にCBNラジオ番組中、何度も楽しそうに「日本じゃ、たったの3万4千レアルの賄賂で財政政策の中心にいる大臣が辞職する。これがブラジルじゃあ、どうだ。日本の政治家に、もしスイス銀行の隠し口座が見つかったら、どうする。その恥を雪ぐには3回ぐらいハラキリしても死に切れないんじゃないか」と大笑いしていた。それを聞き、バカにされているような複雑な気分になった。伯国メディアは総じて「日本ではたった3万レアルの賄賂で大臣が辞める」こと自体を〃事件〃として扱って、当地の倫理なき現状にあてこすっている▼これは昨日付本面で《【共同】甘利明経済再生担当相(66)=衆院神奈川13区=は28日、週刊誌が報じた金銭授受問題の責任を取って辞任した。記者会見で、建設会社側から大臣室と地元事務所で現金計100万円を受け取ったと認め、秘書への監督責任にも言及した。(中略)国政への影響などを考慮し辞任を決めたと述べた》と報じた件だ▼たしかにブラジリアには、スイスの銀行が「彼の口座は存在する」と証明してきたのに、本人は「私が管理しているわけではない」と、しらばっくれて下院議長に居座る呆れた御仁がいる。甘利経済再生相はアベノミクスやTPP締結の中心人物であり、それが〃たった〃100万円の問題で辞職することがブラジル人にはコッケイに映る▼クーニャ下院議長がBTG銀行に有利になるように条文を書き換えた代わりに受け取ったと疑われる賄賂は4500万レアル(13億円)。ロベルト・コスタ被告(元石油公社供給部長)が2010~11年の間にスイスの口座でオデブレヒト社から受け取った横領金額は2300万ドル(約24億5千万円)と報じられた。つまり3桁も違う▼コスタ被告と同じく公務員だが、対照的な内容の〃横領記事〃として、日本ではこんなものもあった。《厚生労働省は19日、職業安定局の男性係長(44)が隣接する人事院の給湯室にあった冷蔵庫から缶ビール3本を盗んだとして、停職3カ月の懲戒処分にした。厚労省によると、係長は10日午後2時ごろ、人事院庁舎内の売店を利用した帰り、給湯室の冷蔵庫から缶ビールを盗んだ。人事院職員に見つかって取り押さえられ、警視庁丸の内署で事情聴取を受けた》(14年9月19日付共同)。これが記事になる国の〃潔癖〃さに感嘆すると同時に、百鬼夜行の西洋世界の現実からあまりに浮世離れしている気がした▼サルネンベルグは「たった100万円だったら、ブラジルの政治家は受け取らない。そんな少額ならバカにされたと感じて、賄賂としてはむしろ逆効果」ともコメント▼もちろん、「日本の政治家はそれだけ潔白」と反論できるし、実際に肯定的な伯人評論家もいる。だがサルネンベルグの言葉には、ユダヤ系的な〃トゲ〃というか、国家財政の行方を左右する者が「100万円」で足元を救われるのは不釣合いだという「世界の裏の常識」がある。賄賂に寛容すぎるブラジルの〃常識〃も異常だが、日本の潔白さも、「極端」という意味でどこか共通している▼もちろん不正はいけない。だが潔癖すぎるのも「温室の中の嵐」「平和ボケ」的な違和感が漂う。どこかガラパゴス的で、国際的な大物政治家が生まれる風土として不適当だ。あれだけグローバル化しているように見えて、日本国内の〃空気〃は今も十分にユニークだ。とはいえ「そのままでいてほしい」と願う部分も、正直言って自分の中にはある。我々のような在外日本人は、世界と日本国内のそんな「空気のズレ」を歯軋りしながら見ているしかないのだろう。(深)』 | ||||
2016年2月2日(火) | ||||
1月27日付けニッケイ新聞の「コラム 大耳小耳」に、『インターネットで「サンバ」と日本語で検索すると「ブラジル不況でカーニバル中止へ」といった見出しの記事がいくつか出てくる。日本の日本人の9割は「カーニバル=リオ」という認識を持っているから「リオが中止になるらしい」と勘違いした書き込みをしている人までいる。あまりに多くのニュースに触れる現在、見出しだけ読んで終わる人も多い。全伯各地で地方自治体ごとにカーニバルは行われるから、中止する地域があるのは事実。とはいえ、リオ中止はありえない。「見出しで目を引かなくては」という思いは分かるが、あまりに誤解を招きやすいものはいかがなものか』と、あった。
この記事にある「カーニバル=リオ」という認識は、リオのサンポドロモというカーニバル会場で行われるコンテストが国際的に一番知られていて代名詞になっているからなのだろうけれど、この記事にあるようにカーニバルはブラジル国内各地で行われる。パーディーニョのような人口5000人少々の小さな町でも町の主催で行われる。そして、リオやサンパウロなど大きな町では、テレビ中継される有名なカーニバル会場だけでなく、ブロッコ・ダ・フア(Bloco da Rua=道のカーニバル)と呼ばれる、市民グループや地域住民が通りに繰り出して行われる「道のカーニバル」が無数にある。カーニバル命のようなブラジルで、経済不況だからと言ってカーニバルが中止になることは滅多にないことだと思う。上の写真は、昨年のリオの「道のカーニバル」の写真のひとつ。 | ||||
2016年2月3日(水) | ||||
次の写真は、この日曜日の朝のひろ(後ろ)とはる(前)。シャワーを浴びて、朝ご飯を食べて、お散歩に行き、戻ってきてから、私が台所で桑の葉茶を作ったり、彼らのバスタオルを洗ったりと、ごそごそいている間、食堂の隅の日だまりで仲良く日光浴をしている2匹。この日はいいお天気で、朝は気温も高めだったのだけれど、朝一番でエドソンに体を洗ってもらったので、体を乾かしているのだろうか?気持ちが良さそう。最近ひろの体重がどうも重くなったような気がするので、体重を計ってみると、前回計った時と比べて1キロ増えて9.5キロになっていた。念のためはるも計ってみると、はるも体重が増えて7.6キロになっていた。ひろはだいぶ重くなっているけれど、お腹に脂肪はついておらず、体形はきれいな流線型をしているので肥満ではないのだけれど、食事の量を少し減らした方がいいのかな?と思い、ほんの気持ち量を減らすことにした。
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2016年2月4日(木) | ||||
シュハスコ小屋の中の流し台の窓のところに生きているのも死んでいるのも色々取り混ぜて、蜂や蛾がよくいるのだけれど、先日は蝶々の死骸があった。まるで昆虫採集の標本のように羽を広げて死んでいたので、外の芝生の上に置いて写真に撮ってみた。大きさは3~4センチ弱の小さな蝶々。羽の色は真っ白ではなく、微妙に淡い黄色やピンクの色が見える。どうして虫たちはシュハスコ小屋が好きなのだろう?シェルターの役割を果たしているのかなあ?
次の写真は、このところ朝食で食べている焼きバナナサンド。1本のバナナを半分に切り、それを3枚にスライスして、エアー・フライアーで焼くと、フライパンで焼くのと違って油を使わないので、あっさりとした味の焼きバナナができる。それでエドソンはすっかり気に入っていましい、バナナが6本あることもあって、毎日のように焼きバナナサンドを作って食べている。ただ、パンはこの写真のパオンジーニョ・フランセーザ(小さなフランスパン)でないとおいしくないというこだわりがエドソンにあるので、パオンジーニョがない時はこれが作れない。焼きバナナにふりかけてあるのは、少量の砂糖とシナモン。
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2016年2月5日(金) | ||||
外ベランダの前の階段沿いにサツキを12本ほど植えているのだけれど、成長が遅い。最近はアメンドインに被われてしまって、サツキの存在があまりわからなくなってしまっている。そんな中、サツキのすぐ側に自然に生えてきた木がどんどん成長して、大きくなってきた。そのすぐ右隣のサツキも、他のサツキよりも勢いが良く背が高くなってきている。この自然に生えてきた木は、一体何なのか、どこまで大きくなるのかわからないのだけれど、せっかく生えてきたのだからこのままにして、どんな木になるのか見てみようと思っている。
2月3日付けのニッケイ新聞に、『日伯観光ビザ3年間有効に=90日、何度でも出入国可』という以下の記事があった。日伯のビザ要件が緩和されたことは喜ばしい。とは言っても、エドソンが日本に行けるのは3年に1度あるかないかなので、有効期間が3年というのは短すぎて、結局、毎回申請することになるのだろうなと思う。一昨年日本に行った際に取ったビザが、すでにこの3年間出入りができるビザだったのであれば良かったのだけれど、今度日本に行けるのはいつになるかはわからないので、それまでは緊急事態に対応できない状態に変わりはない。 『一度の手続きで3年間の間に何度でも出入国できる短期滞在数次査証(いわゆる観光ビザ)に関する日伯相互の覚書が、武藤容治外務副大臣とアンドレー・コヘイア・ド・ラーゴ駐日伯国大使によって東京で2日に交わされた。 相互に有効期間が最長3年、一回の滞在可能期間が最長90日になる。昨年6月15日より、日本側は有効期間3年、30日滞在可能な数次査証の発給を開始したが、今回から日伯で同条件になった。 日本側は2日から発給開始しているが、ブラジル側は手続き期間中で開始時期は未定。 これまでブラジル側は90日滞在後、手続きによりさらに90日延長(1年で最大6カ月間)を認めていたが、この制度の改正に関する言及はされていない。なお、単次ビザの発給もこれまで通り継続される。』 | ||||
2016年2月6日(土) | ||||
今年は昨日からカーニバルの期間が始まった。9日の火曜日が最終日。でも、2月2日付けのニッケイ新聞では『聖市で道のカーニバル開幕=真夏の市街を40万余が行進』という記事があったので、すでに前哨戦はあちこちで始まっているということになる。この記事のサイトは、こちらへ。ここでも、毎年カーニバルの時期は、家の外に出れば、夜パーディーニョの町からわずかに賑やかな音楽や太鼓の音が聞こえてきていたのだけれど、去年に続き、今年もパーディーニョの町のカーニバルは中止になったらしい。でも、パーディーニョの場合は経済不況のためとか、ジカ熱対策のための財源確保のためとかという理由ではなく、確か一昨年のカーニバルでボトゥカトゥから来ていた未成年者らの飲酒が問題になり、それを取り締まらなかったパーディーニョ市がボトゥカトゥ市に訴えられて、法廷闘争になったため、去年は中止になったと聞いた憶えがあるので、どうも今年の中止もまだこの件が尾を引いているためらしい。 食堂の窓辺の棚の上のランが、年が明けてからひょろひょろと芽を伸ばし始め、花のつぼみを5つ付け始めたので、写真に撮ってみた。このランは白い花が咲くんだったかな?以前咲いていた花が終わってから、もうずいぶん長い間新しい芽が出てきていなかったので、枯らしてしまったのかな?と思っていたのだけれど、そうではなかったようで一安心。
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2016年2月7日(日) | ||||
2月6日付けのニッケイ新聞の「コラム 樹海」に『もう一つのカーニバル。真打「ウニードス・ダ・ラヴァ・ジャット」登場?』という記事があった。 ラヴァ・ジャットというのは、ブラジルの石油会社ペトロブラスに関わる巨大汚職事件の捜査作戦名で、これまで経済界から逮捕者が次々に出て、徐々に政界にも手が伸び始め、ルーラ元大統領も関わっていた疑惑が様々な証言からあぶり出されつつある。この記事の最後にあった「SBC市のマンションのドアを朝早く叩いて、石井氏が『お前にパラナ州への旅行が当たったぞ』と言ったら、指が1本欠けたヒゲ面の住人は『セニョールは間違ってる。俺はタダの労働者だ』と返す?!」という一行に笑ってしまった。座布団2~3枚あげたい感じだった。この中の石井氏というのは、以前紹介した「連邦警察のあのジャポネース」というサンバ曲で歌われている日系の連邦警察官の名前で、SBC市というのは、大聖市圏サンベルナルド・カンポ市のこと。そして、「指が1本欠けたヒゲ面の住人」といのはルーラ元大統領のこと。ルーラは政治家になる前、労働者として組合活動をしている頃、事故で指を1本失っている。でも、障害者年金を得るためにわざと事故に遭ったという黒い噂もある。つまりこの一行は、ルーラ元大統領への疑惑が確証へと変わり、連邦警察の石井氏が、サンベルナルド・カンポ市のルーラのマンションに、彼を逮捕しに行った際のふたりの掛け合いはこんなふうになるのだろうか?と、言っているのだ。こんなふうに説明するとちっともおもしろくもおかしくもないけれど、私はおおいに笑わせてもらった。これが実現するといいのだけれどなあ・・・。ちなみに、ルーラはサンベルナルド・カンポ市に不正に入手したとみられる3軒のマンションを所有し、アチバイアにも広大な敷地の豪華別荘を不正に所有しているらしい。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2016年2月8日(月) | ||||
以下は、インターネット上にあったジカ熱に関する記事。TBS系(JNN)2月6日(土)11時1分配信とあった。この土曜日の夜見たNHKのニュースで公衆衛生の専門家のような人が、日本ではジカ熱はあまり心配する必要はないというようなことを言っていたので不思議に思った。この問題は中南米だけの問題ではなくなってきたからこそ、WHOが国際衛生緊急事態宣言を出したということをちゃんと理解しているのだろうか?蚊が媒介するだけのデング熱の患者が昨年少し出ただけで、日本はあれだけ大騒ぎをしたのに、デング熱より重篤な健康被害を起こす可能性のあるジカウイルスに関して心配ないとどうして言えるのだろう?しかも、このウイルスを媒介するのは蚊だけではないらしいということも分かってきていて、厄介なことになっている。その上、四肢の運動神経に障害が出るギラン・バレー症候群(Guillain-Barré syndrome)を引き起こす疑いも濃くなってきているというのだから、もっと危機感を持って対応した方がいいのではないだろうか?
『妊婦が感染すると、頭の小さい「小頭症」の子どもが生まれる可能性があると指摘される「ジカ熱」の感染が、中南米を中心に広がる中、ブラジルの保健機関が、ジカ熱の患者の唾液と尿から生きたジカウイルスが見つかったことを明らかにしました。 ロイター通信などによりますと、ジカ熱について調べているブラジルの保健機関は、5日、ジカ熱の患者2人の唾液と尿から生きたジカウイルスを発見したことを明らかにしました。生きたジカウイルスが唾液と尿から発見されたのは初めてだということです。 この保健機関は、唾液や尿によってジカウイルスが感染するかどうか結論づけるには、さらに研究が必要だとしていますが、妊婦に対し、ジカ熱の徴候が見られるパートナーなどとのキスや食器類の共有を避けるよう呼びかけました。 ジカ熱の感染を巡っては、アメリカのテキサス州で性交渉による感染が確認されたほか、ブラジルで輸血による感染が報告されており、唾や尿からも感染する可能性があるのかどうか、懸念されています』 | ||||
2016年2月9日(火) | ||||
次の写真は、庭のヒマラヤ桜。まだ夏だと言うのに4本の木のうち手前の2本はかなり葉を落としてしまっている。この夏は天候不順で気温の低い日が続いていたからなのか、季節を勘違いしたのか、12月くらいから落葉が始まり、現在はこんな状態。1月下旬頃から暑い日も結構あるので、さすがに花が咲いたりはしないだろうけれど、本来ならこの時期はまだ緑の葉を茂らせているはずなのに・・・。一方、目を左側に移すと、玄関前の沖縄桜は落葉しておらず、まだ葉が青々としている。この違いは何なんだろう?
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2016年2月10日(水) | ||||
次の写真は、庭の東端のフランボヤンの木。花を咲かせたことはまだ一度もないけれど、枝を広げてかなり大きくなってきている。写真の画面には写っていないけれど、この木の左側にもう1本フランボヤンの木があり、これも負けず劣らず大きくなっている。この写真の後ろ側にはこれまた大きくなったパラナ松2本が左右に見え、そのまた後ろにセドリーニョが見える。これらはすべて小さな苗木を植えたもので、ずいぶん大きくなったなあ、それだけ年月が経過したんだなと、いまさらながら思う。これでもまだみんな成長の途上で、まだまだ大きくなる予定。
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2016年2月11日(木) | ||||
次の写真は、食堂の隅のベッドで丸まっているひろ(右)とはる(左)。このベッドはいつもここに置いてあるので、朝夕の食事時になると、私たちが食事を始める前から2匹はここで丸まっていたり、戯れ合っていたりする。昼食時は食事の支度ができて、私がエドソンを呼ぶと、エドソンよりも先に彼らが食堂にやって来るのだけれど、朝夕は台所でごそごそ始めると、呼ばないのにやって来て、台所や食堂をウロウロしたり、このベッドの中で待っていたりする。このベッドは2匹にはちょっと窮屈そうだけれど、この窮屈な感じが彼らにはいいみたい。はるとひろは基本的にとても仲がいい。ただ、夜はひとつのベッドで一緒に寝ないで、ひろはキューブ型ベッド、はるは平らなベッドで別々に寝たりする。でも、朝起きると、いつの間にか2匹一緒にキューブ型ベッドで寝ていたり、はるがキューブ型ベッドの中にいて、ひろが平たいベッドの方に移動して別々に寝ていることもある。はるは時々夜中に「ヒーン、ヒーン」と小さな声を出して私を起し、キューブ型ベッドに入って行き易いように、私に移動の手助けを求め、しずしずとキューブ型ベッドに移動することもある。寝ているひろに気を遣っているのかな?と思ったりするのだけれど、反対にはるがキューブ型のベッドで寝ている時、ひろがドタドタと入って行くと、「ウワン!」と大きな声を出してひろに文句を言ったりする。2匹の関係を見ているととてもおもしろい。
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2016年2月12日(金) | ||||
ニッケイ新聞は普段は日曜と月曜が休刊日なのだけれど、今週は火曜日までカーニバルだったので、10日水曜日も休刊となり、11日付けの木曜日に出された新聞に、カーニバル関連の記事がいろいろ載っていた。サンパウロのカーニバルの上位5組の華やかな写真が掲載された『サンパウロ・カーニバル名場面』という記事のサイトは、こちらへ。優勝した「インペリオ・デ・カーザ・ヴェルジ」は日本人が多数所属しているのだそうだ。 『2016カーニバル特別写真グラフ=絢爛豪華な文化の祭典=日本人も参加し盛り上げる』という記事のサイトは、こちらへ。 『聖市カーニバル=インペリオ三由さん2度目の優勝=「あと10年続けたい」=初出場の日本人も多数出場』という記事のサイトは、こちらへ。この記事の最後に掲載されていた「コラム 大耳小耳」に、フマキラー社の「どこでもベープGO!未来、480時間」というのを持参した日本人女性の体験談があったけれど、最近はこんな優れものがあるのか?ブラジルでもこれを販売してくれないかなと思った。私はへペレックス(Repelex)という虫除けのクリームやスプレーを使っているのだけれど、それでも外で作業をしていると、虫に刺される時は刺されるので、こういうものがあったら外で作業をする際役に立つと思った。さらにデング熱だけでなく、最近のジカ熱感染の拡大で、へペレックスを買うお客さんが増えているようで、お店からこのへペレックスが姿を消していて、入手しにくくなっている。以下は、その「コラム 大耳小耳」からの転載。 『細川多美子さん主催のリオのマンゲイラ・ツアーに、わざわざ日本から参加した若い女性は、フマキラー社の「どこでもベープGO!未来、480時間」を持参。「日本では今行ったら危ないとさんざ脅されました。でも、これのおかげでリオに滞在中、一度も蚊に刺されませんでした」と嬉しそうに報告。電池式で持ち運びができ、小さな扇風機を内臓しており、足首に装着すると体中に蚊がよらず、20日間も持つとか。ブラジルでは当然売っていないが、リオ五輪に参加する選手はもちろん、観戦客の皆さんもこれは必須か。いっそのこと、フマキラーさん、ブラジルに進出したら? 「どこでもベープGO!未来」の問題点は、当地ではそれを足首に装着すると、ジロジロと人から見られること。その日本人女性は「リオのメトロに乗った時、私の回りだけ人がいなくなるんですよ。最初はびっくりしました」という。それもそのはず、ブラジルで囚人が刑務所を出るときに装着する足首式位置情報発信機(tornozelei-ra)にそっくり。引ったくりの子供も怖がって寄ってこないし、独身の若い日本人女性だけに、「悪い虫」除けにも好評?!』 | ||||
2016年2月13日(土) | ||||
この夏は、苗床で種から育て、芽が少し大きくなってきてから畑に植え替えた小松菜やからし菜が育たずほぼ全滅し、毎年よく育つ金時豆を、今回は畑ではない場所に蒔いたら、場所の選定を間違えたのか、ほとんど芽を出さず、芽が出たものも豆がうまく育たなかったり、どこに蒔いてもいつもちゃんと育っていたオクラでさえうまく育たず、さんざんな状態になっている。畑に蒔いたフェイジャオン・デ・ポーコという豆も、たくさんなったものの、多雨だったため、収穫前に豆が腐ってしまうものが続出で、いいとこなし。お百姓で食べているわけではないので、収穫できないからと言って、生活に困るわけではないけれど、とても残念。その一方、朝顔は今も白い西洋朝顔がたくさん咲いていてとてもきれい。最初に咲き始めた花が種をつけ始めたので、先日、種を採取してみた。次の写真の丸い種は、ピンクや紫の花が咲く日本朝顔の種で、3つくらい見える小さな種は西洋朝顔の種。今回は花の数がとても多いので、時間をかけてかなりたくさんの種が採取できそう。
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2016年2月14日(日) | ||||
次の写真は、うちの入り口ゲートから正面に見えるパーディーニョの町の東端にできた新しい住宅街。私たちがここで暮らし始めた頃、ここは何もない場所だったのだけれど、数年前に宅地造成がされ、土地の販売が始まり、去年くらいから家が建ち始めた。ジミーの新居もこの住宅街のどこかにあるので、ひょっとして見えているのかもしれない。
次の写真は、防風林の小道を丘に上がって行く途中、大きな蝶々が2~3匹、頭上を飛び交っていたので、上を見上げてカメラを構えて撮ったもの。でも、うまい具合に2~3匹が同時にカメラの画面に入ってくれず、結局1匹しか捉えることができなかった。
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2016年2月15日(月) | ||||
次の写真は、この夏あちこちに生えているピンクの花を咲かせている草。地面がブラキアーリアに被われていると、他の違った種類の草が生えてこないのだけれど、ブラキアーリアを取り除くと、それまでに見たこともない草が生えてくるから不思議。見えにくいかもしれないけれど、この写真の中央左側に黄色い蝶々が羽を閉じて止まり、花の蜜を吸っているのがわかるだろうか?この蝶々を撮るつもりはなかったのだけれど、花を撮ろうとカメラを構えたら、ちょうどこの蝶々がやってきて、画面に収まってしまった。
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2016年2月16日(火) | ||||
以下は、2月13日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。
『年始には北朝鮮が自称〃水爆〃実験、さらにロケット発射など、日本周辺が不穏な空気に包まれている。「南米には原爆がなくてよかった」と他人事のように考えているかもしれないが、歴史的には案外そうでもない▼原爆投下70周年の昨年は、考えさせられる取材機会が続いた。ラーモス移住地への長崎平和の灯分灯の折には、日本の報道関係者に「どうしてブラジルは核拡散防止条約や非核地帯条約の締結に意欲的だったのか?」との質問を受け、調べる中でとても勉強になった▼南米でブラジルとアルゼンチンは常に競争的な隣国関係にあり、1970年代、80年代を通して、両国軍事政権は極秘裏に原爆開発計画を進めていた。ポ語版ウィキペディアによれば、ブラジルは1970年代の西ドイツと原子力協定を結んで、原発技術の移転を進め、1980年から極秘の「パラレロ計画」でウラン濃縮を始めた▼軍政下の議会核エネルギー部会は、秘密銀行口座コードネームDeltaを開き、核開発の費用を捻出していた。民政移管直後の87年、サルネイ大統領は「20%の濃縮ウランがある」と衝撃の発表をし、90年就任のコーロル大統領はパラー州にあった関連試験場を閉鎖した▼議会調査委員会の報告によれば、二つの原爆開発計画が進められていた。一つは20~30キロトンの破壊能力を持つ型、もう一つは広島投下型と同じ12~15キロトンの型だ。1981年にイラクから8キロのウランを密輸しており、積極的に開発を進めようとしていたことは明白だ▼原爆被害推測サイト(www.carloslabs.com/node/16)で、聖市セー広場に広島型原爆が投下された想定をしてみたら、見事にリベルダーデ広場は即死圏に入り、パウリスタ大通りやアクリマソン公園の直前あたりまで、核爆発の火の玉が広がり、建物が消滅することが分かった。爆風はパライゾ駅とアナローザ駅の中間ぐらいの建物をなぎ倒す。17万人が即死し、19万人が負傷すると推測される▼昨年11月28日、『Hiroshima e Nagasaki』(ベンジャミン出版、中川クリスチアネ、遠藤パウロ編著)出版会で、ブラジル被爆者協会の森田隆会長(91、広島)らと話していて感銘を受けた。各地で被爆体験の講演をすると、必ず「アメリカを恨むか」「復讐しようと思わないか」と来場者の伯人から質問を受ける。そんな時、「復讐心はもう通り越した。いくら復讐しても平和は来ない。これからどうしたらいいかは、皆さんで考えてほしい」と問いかけると、相手はみな一様に考え込んだ表情になる、と。「そうすると、それまでより一歩踏み込んだ考え方を、皆さんがするようになる。それが我々の役割」と森田さんは手ごたえを感じている▼中東のイスラム圏、欧米のキリスト教圏、もしくはその相互関係において起きている抗争は、基本的に『報復の論理』だ。その復讐の鎖を断ち切ること以外に、世界に平和をもたらすことは難しい。どうしたら、そういう考え方への共感が広められるのか。難しい問題だが、今最も大事な問題だろう▼伯亜両国が原爆開発を放棄したのは1991年12月13日だった。奇しくもラーモス移住地で核兵器廃絶を祈って長崎平和の灯分灯式が行われたのは14年後の12月12日、「南米平和」という節目のタイミングでもあった。(深)』 | ||||
2016年2月17日(水) | ||||
月曜日の朝、はるとひろを朝一番のオシッコに連れ出そうと、玄関ドアを開けると見知ぬ犬が座っていたので驚いて、「わっ」と、声が出てしまった。続いて出てきたはるたちもワンワン吠えたてるものだから、この犬は怖がって小さくなってベランダの椅子の下に避難したものの、逃げて行かない。はるとひろが大騒ぎを続けるものだから、エドソンも出てきてこの犬をシッシッと追い払おうとするのだけれど、体を低くしてエドソンに近づいて行こうとして、なかなか逃げようとしない。野良犬なら人を見るとすぐ逃げて行くし、お隣の犬ならシッシッと追い払えばお隣に帰って行くのだけれど、この犬は、結局、以前ジャタイの巣箱を設置していた家の東側の、今は物置のようになっているスペースの隅に座り込んで動こうとしなくなってしまった。朝食後のはるたちとのお散歩が済んで、エドソンが見に行ってみると、まだ同じところにいるというので、カメラを持って行き、犬の写真を撮ってみた。この子は捨てられたのか?迷子になったのか?こちらを少し警戒しながらも、とても人になついている様子のフレンドリーな女の子で、成犬ではなくまだ子供のようだった。以前、誰かに飼われていたことは明らかだけれど、何日間放浪してきたのか体は汚れて痩せている。さっさと逃げてどこかに行ってくれればそれで終わりなのだけれど、逃げずにここから動かないため、さてどうしたものかとエドソンとふたりで頭を抱えた。
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2016年2月18日(木) | ||||
月曜日の朝現れた迷子の子犬は、午前中は家の東側の物置スペースで丸くなっていたけれど、午後からは玄関横のベランダに来て、椅子の後ろで横になったり、外ベランダに出てゴロンとしてみたり、玄関前の階段で横になったりしながら、まるでここを我が家と決めたかのように離れようとしない。お腹が空いているのだろうけれど、エサを与えれば、絶対ここに居ついてしまうだろうからとグッと我慢して、せめて水だけでもあげようか?と、水を与えると、勢いよく飲んだ。
どこかに行ってくれないかなと思いながらも、どこかに行ってちゃんと生きて行けるだろうか?と思ったり、顔の表情は笑顔の可愛いはるに似ていて、目が合うと尻尾を振って、私たちの側にこようとする行動はひろに似ているなと思ったり。仕事をしながらもこの子のことが気になるものだからエドソンも私も何度も何度もこの子の様子を確認しないではいられなかった。午後3時頃からお天気が崩れ嵐になったのだけれど、幸い西からの強い風が吹かなかったので、ベランダの隅までは雨が吹きつけず、この子が雨に吹きさらされることはなかった。嵐の中、ベランダで小さくなっている犬を見ながら、この子を受け入れるとしても、家の中ではるたちと一緒に飼うわけには行かないから、外で自由にさせて、いなくなったらいなくなったときという気持ちでいれば飼えるかな?でも、予防接種や去勢手術はしないといけないね。お金がかかるね。などとこの子を受け入れることを考え始めている自分たちに苦笑した。結局、翌日の朝までこのままで様子を見よう。どうするかはそれから考えよう。と、ふたりで話し合っていたのに、「食べるものはなくてもいいから、ここに居させて」と目が訴えているようで、夕方頃には可哀想で見ていられなくなって、エサを与えてしまった。そして、同時にもうこの子を受け入れるしかないかということになった。それで早速、名前は迷子の迷から取って、「めい」と名づけることにした。
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2016年2月19日(金) | ||||
火曜日の朝、一連の朝の仕事が一段落した後、めいの体を洗うことにした。まずベランダで少しエサをやり、下の水場までついてきたところでまた少しエサをやり、水場の中でまたエサをやり、これをめいが食べている間に体に石けんを撫で付けて、嫌がる様子がないのを確認してから体を洗った。お天気が悪く、水が冷たかったので、体を洗っている間震えていたけれど、抵抗することもなく、素直に洗わせてくれた。見た目も痩せていると思ったけれど、体を洗うと、本当に痩せていて、骨皮筋子さんといった感じで、ゴリゴリと骨が手に触れた。肩に怪我をしたのか?皮膚病なのか?皮膚がただれて傷になっている部分があり、脇腹に直径5センチ前後の大きさで毛が薄くなっている部分などもあり、何かの病気を持っていないといいのだけれどという心配はあるものの、それ以外は比較的きれいで、しらみなどはついていないようだった。バスタオルで体を拭いて乾かした後、ベランダに戻って、ベランダの掃除をし、家の中からはるたちのケージを持ち出して、中にボロボロになったはるたちのキューブ型ベッドを入れて、めいの寝床を作った。とりあえず、しばらくはベランダの隅に置いたこのケージの中で寝起きしてもらことにした。
月曜日の夕方から少量ずつエサを何度にも分けて与えていたので、元気を取り戻したのか、それまではめったに声を出さず、ましてや吠えたりしなかったのに、翌日からは何かを見たのか、気配を感じたのか、その方向に向かってワンワンと、番犬よろしく吠えるようになった。すると、家の中のひろとはるも、めい以上に反応して吠えるものだから、まあうるさいったらありゃしない。やれやれ・・・とほほ・・・ | ||||
2016年2月20日(土) | ||||
はるとひろは家の中にいてもめいのことが気になり興奮気味。玄関のところで外にいるめいの匂いを必死に嗅いだり、クーンクーンと声を出して泣いたりと忙しい。玄関を出る度に、ベランダにいるめいに向かってワンワンと吠えていたけれど、2日目火曜日の午後くらいからお互いにだんだん慣れてきて、吠えずに鼻を突き合わせてお互いの匂いを確認したり、お散歩に一緒について来るめいと戯れ合ったりと、少しずつ慣れて仲良くなり始めた。でも、まだドトーラ・ヴィットリアにめいの健康診断をしてもらっていないので、エドソンはあまりめいをひろたちと戯れ合わせないようにと言っている。次の写真は、お散歩に出て、ウンチをしているはるの側で、戯れ合っているひろとめい。やはり異性だからなのか、はるよりもひろの方がめいに関心があって、めいにあまり近くに来ないように言うのだけれど、お互いに戯れ合いたくてしかたがない様子。
一方、日本時間2月17日午後5時45分、こちらの時間で17日午前6時45分に、アストロHを乗せたH2Aロケットが種子島宇宙センターから無事打ち上げられた。エドソンはいつもより少し早く起きて、インターネット上で実況中継されるこの打ち上げを見守り、打ち上げ成功を確認した後、ブラジル上空をこの衛星が通過する際の信号を受信しようと、アンテナなどを外に持ち出して設置し、アンテナにつなげたコンピュータの画面に見入ったり、家の中に戻って、ワークスペースのコンピュータを確認したりと、出たり入ったり忙しくしていた。そして、打ち上げから約30分後に衛星の通過を確認し信号受信に成功。九州工業大学のプロジェクトチームに、信号受信のメールを送ったり、データを送ったりした後、8時頃になってようやく朝食ということになった。次の写真は、衛星からの信号を受信しようとしているエドソンを食堂の窓からパチリ。2枚目の写真には、エドソンの側に来て体を舐めているめいが写っている。
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2016年2月21日(日) | ||||
一昨日の金曜日の夕食は、ジミーとジセレーニの新居に呼ばれたので、めいにはシュハスコ小屋のお留守番スペースで留守番をしてもらって、はるとひろを連れて行ってきた。ジミーはパーディーニョの東端の新しい住宅街に土地を買っていたので、そこに家を建てたのだと思っていたら、建売りの2LDKの家を買ったので、所有している土地にはまだ何も建っていないのだということがわかった。どうりでやけに家が建つのが速いなと思ったら、建てたのではなくて、建売りを買ったのかと納得。この家には定番のシュハスコのかまどがないので、みんなで食事をする際はこれを使うんだと言って、鉄板焼きをジミーが作ってくれた。牛肉と玉ねぎとマンジォカとトマトとチーズを炒めて、しょうゆをたらして、まるで日本の鉄板焼きそのものといった感じだった。これとジセレーニが作ってきれいに盛り付けられたサラダをたっぷり。この辺の人にしては珍しく野菜たっぷりの食事に満足。でもこの後、煮豆のスープもあり、少々食べ過ぎたかも。
ジミーのところで食事をしていると激しい雨が降り出したので、帰宅後めいをシュハスコ小屋から出さずに、そのまま小屋の中で寝てもらうことにした。翌朝迎えに行って見ると、シュハスコ小屋の扉の下の小さな扉から元気に出てきた。でも、念のために扉を開けて中を確認したら、夕食に食べ原型がそのまま残った食事と、お昼に食べて消化され原型を残さない食事をすべて嘔吐していた。機嫌良くはるたちと一緒にお散歩には行ったものの、ベランダで朝食を出しても食べず、お昼に残り物のお肉を小さく刻んで食べさせようとしても、やはり受け付けず、もうお腹には何もないのに、また吐いてしまった。朝からずっと飲まず食わずでぐったりしているので、午前11時過ぎから来ていたエドソンのアマチュア無線仲間の人たちが3時半頃帰って行ってから、ヴィラ・シーコに電話をして獣医さんがいることを確認して、ヴィラ・シーコにめいを連れて行って診てもらった。何か悪いものを食べたのか、うちに来て食事が激変したからお腹が拒否反応をおこしたのか、はたまた重篤な病気を持っているのかは現時点ではわからないけれど、腹痛があるということで、痛み止めやお腹の薬など3種類の薬を注射してもらい、一晩自宅で様子を見ることになった。健康診断もついでにしてもらおうと思っていたのだけれど、週末にすると検査料金がぐんと跳ね上がるので、まずはお腹の治療をしてから、検査は平日にした方がいいという獣医さんからの助言で、そうすることにした。1時間半ほどしたら薬の作用で痛みが収まるので食事を与えてくださいということで、帰宅してから、獣医さんに言われた通り、鶏の胸肉とご飯と水で雑炊のような食事を作り、オリーブオイルを少しかけてめいに食べさせると、きれいに食べてくれたので、ひとまずほっと胸をなでおろした。 | ||||
2016年2月22日(月) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2月18日付けのブラジル国内ニュースからの転載。
『デング熱やチクングニア熱、ジカ熱を媒介するネッタイシマカ対策は世界的な課題となりつつあるが、蚊のボウフラを駆除するための薬が小頭症を引き起こす要因となっているのではないかとの声が上がり、同薬使用を中止する州が出てきた。 妊婦がジカ熱に感染した事が原因と見られる小頭症児増加は、ブラジルの医療関係者が世界に先駆けて報告し、その後も因果関係を示すと思われる例が確認されている。 だが、ジカ熱に罹患した事で起きる病気は小頭症だけではない。ブラジル国内では、誕生時の頭囲は正常だが、頭蓋骨の中は脳よりも水の方が多い子供も見つかる、視覚や聴覚の障害なども確認されるなど、様々な症例が見つかっており、一種の先天的症候群として扱う方向で動いている。 また、ブラジルやホンジュラスでは、ジカ熱感染後に自己免疫傷害のギラン・バレー症候群を起こす患者の増加が確認されている。 ジカ熱と小頭症の関係が騒がれだした事で言われ始めたのは、ピリプロキシフェンと呼ばれるボウフラの駆除剤がジカ熱の影響を増幅し、小頭症児の増加を招いているのではないかという説だ。ピリプロキシフェンは、ボウフラが湧きそうな所にまいてボウフラや蚊の卵を殺す薬だが、ジカ熱が流行した国はブラジル以外にもあったのに、小頭症児増加といった報告はなかったため、この薬がジカ熱感染に伴う種々の病気を増幅させている可能性があるという声がアルゼンチンの科学者の中から沸き上がり、ネット上で流れた。 こういった説をうけ、リオ・グランデ・ド・スル州ではボウフラ駆除のために同薬を使うのを中止したが、ブラジル保健省は適正な使い方をしている分には安全上の問題はないとしている。 これに対し、アマゾナス連邦大学(Ufam)と国立アマゾン地方研究院(Inpa)が同地方の植物や虫に生じる菌類を使い、3年間かけて開発、研究中の駆除剤は、植物に吹きかけたり水溜りに投げ込んだりすれば24時間以内にボウフラや卵を死滅させるが人畜無害という優れもので、大半は既に、農業で病虫害が起きた時に使うために農務省の承認も得ているという。 菌類を使った駆除剤は生産コストも安く、環境への影響も小さいが、問題はまだ大量生産や商用化のための技術移転が出来ていない事。アマゾナス州政府の支援も受け、バイオ技術を駆使した製品は製造も簡単とされ、早期の技術移転と量産体制作りが待たれている。(17、18日付G1サイトなどより)』 | ||||
2016年2月23(火) | ||||
めいは土曜日の夕食は食べることができ、嘔吐もしなかったのだけれど、翌日の日曜日は朝食をまったく受け付けなかった。どうもめいの状態が思わしくなく、伝染性の強い病気も疑われるため、めいが寝泊まりしたシュハスコ小屋にはるとひろを入れてお留守番させるわけには行かないので、私ははるたちと家に残り、エドソンがひとりでめいをヴィラ・シーコに連れて行った。幸いヴィラ・シーコでの簡易テストは陰性だったので、月曜日までヴィラ・シーコに入院して、点滴などをして様子を見て、月曜日に精密検査をすることになり、エドソンはひとりで帰宅した。ヴィラ・シーコに行く途中、めいは前日の夕食で食べて、まったく消化されていない食事を車の中ですべて嘔吐したため、エドソンの帰宅後、車の助手席の掃除をしなければならなかった。はるとひろはこの病気の感染を予防するためのワクチンをちゃんと接種してはいるものの、もしめいがこの病気だったら100%大丈夫とも言えず、不安が募った。 翌、月曜日の午前中、エドソンがヴィラ・シーコに電話をしてドトーラ・ジャナイーナにめいの様子を尋ねると、血液検査の結果、異常はなかったので、恐れていた伝染性の病気ではなかったことが確定した。でも、相変わらず食事を与えると嘔吐を繰り返すということで、超音波検査をしてお腹を調べることにエドソンは同意した。そして同日午後遅く、エドソンが再度電話でドトーラに超音波検査の結果を聞いたところ、慢性か急性かはわからないけれど、膵臓に問題を抱えているということがわかり、抗生剤の投与を始めたということだった。他の犬への伝染性の強い病気だったら、治癒しないだけでなく、他の犬たちの命にもかかわるため、めいを安楽死させなければならないところだったのだけれど、最悪の事態は避けられて、めいは命拾いした。 一昨日はエリカの息子(で、私たちの甥っ子)のブライアンの2歳の誕生日だった。そして、昨日は私の誕生日で、今日はひろの1歳の誕生日。でも、めいのことが気がかりで、落ち着かない日々で、バースデーケーキでお祝いという気分でもなく、誕生日どころではなかった。さらに21日の日曜日から夏時間が終わっていたのに、月曜日の朝まで私はまったく忘れていて、月曜日の午前中、コンピュータの表示画面の時計を見て、あれっ?とようやく気づく始末。胃の痛むような土曜日からの3日間がようやく落ち着いた。 | ||||
2016年2月24(水) | ||||
久しぶりにペトロポリスの安見さんからメールをいただいた。2月4日にリオ日系協会でピースボード乗船者との懇親会があり、2月18日にはリオ総領事公邸で東京マラソン(2月28日)に招待された選手団の壮行会があり、それらに参加されたということだった。ピースボードの世界一周南半球周りは毎年1月~2月にリオにやってくるのだそうで、リオではいろいろな観光、訪問コースがあり、その中の一つに現地在住日本人との懇親会があり、それに借り出されて参加されたのだそう。昨年は奥さんの道子さんの学友夫妻がこれでやって来られ、「ご本人の希望で団体と別れ建設中のオリンピック会場、ヘクレイオの娘と我々のアパートやバッハの海岸をご案内しました」とあった。ピースボートは結構昔からあるけれど、若い人たちだけでなく、高齢の参加者もあるのかと少し驚いた。次の写真は、そのピースボートの懇親会の集合写真。
以前、ジウマ大統領訪日の際に、安倍首相からペトロポリスマラソンクラブの選手を東京マラソンに招待する段取りになっていたのだけれど、ジウマ大統領が訪日予定をドタキャンしたため、その段取りがこけてしまったということは安見さんから聞いていた。でも結局、東京都がマラソンクラブ所属の5名の選手を招待したので、その壮行会がリオ総領事公邸であり、ペトロポリス在住の安見さんご夫妻もそれに招待され参加されたということだった。次の写真は、招待された選手5名と監督、左はリオ総領事、ガンバレ寄せ書きを持って、コルコバードの丘が見える公邸屋上で撮ったものだそう。
ペトロポリスのアヴェニダ・ヒオ・ブランコ(Av. Rio Branco)という通りは、日曜の午前中は車を締め出してランニングコースになるそうで、往復6Km、安見さんも時々走ったり、歩いたりしておられ、マラソンクラブの人たちもグループでトレーニングしているので出くわすことがあり、この5人の中の何人かは見たことのある顔ぶれだったという。次の写真は、安見さんご夫妻と招待された選手たち。でも、選手は5人ではなく4人しか写っていない。一緒に写っているこの2人の女性は誰だろう?
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2016年2月25日(木) | ||||
ヴィラ・シーコに入院して、集中治療室で治療を受けているめいは、徐々に良い方向に向かいつつあるけれど、毎日抗生剤の点滴を受けているので、まだ当分退院できそうにない。めいは先週の金曜日の午後はるたちとお散歩をした際、ウンチをして以来、どうやら一度もウンチをしていないらしい。抗生剤の点滴を受け始めるまでは、食べては嘔吐することを繰り返していたからお腹に何もないとは言え、何日もウンチをしないのはちょっと普通ではないので、それも心配の種。 次の写真は、5つのつぼみがすべて開いた白いランの花。ダイニングテーブルの上のピンクやオレンジのランの花がほぼ終わりかけた頃、この白いランが咲き始めた。それで、窓辺の棚の上から食卓の上に移動させて、食事の際に眺めて楽しんでいる。
以下は、2月23日付けニッケイ新聞「東西南北」からの転載。 『ルーラ前大統領やジウマ大統領の選挙参謀として知られるジョアン・サンターナ氏への逮捕令状が22日に出されたことで、労働者党(PT)がいよいよ窮地に立たされた。それに先立って行われたイボッピの世論調査では、18年の大統領選へ再出馬が予想されるルーラ氏への拒絶率は61%と、実に3人に2人に近い高さになっていることがわかった。在任中の支持率は80%に届こうかという時期があったことを考えると、この数字は屈辱的にも映る。サンターナ氏に関する捜査の今後の展開や、聖州の疑惑の住宅問題2件の進展いかんで状況がさらに悪化するのは必至。まさにがけっぷちの状況だ。』 同じく2月23日付け、ニッケイ新聞「コラム 樹海」には『戦中の隠れた功労者・宮腰千葉太』という記事があった。こういう人たちがいたからこそ、今のブラジル日系社会があるのかなと思った。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2016年2月26日(金) | ||||
以下は、2月20日付けニッケイ新聞からの転載。
【ロサンゼルス共同=伊藤光一】第2次大戦中の1942年、ルーズベルト米大統領が日系人の強制収容に道を開く大統領令を発してから19日で74年。毎年この日は米国で「追憶の日」と呼ばれ、日系人関係者らが苦難の歴史を振り返る。強制移住を体験した2人の日系人に当時の話を聞いた。 巽幸雄さん(95)と和歌山県出身のチャーリー浜崎生平さん(93)は、戦前に海を渡った日本人たちの一大漁場があった、ロサンゼルス近郊のターミナル島で暮らしていた。主に和歌山県と静岡県出身の約3千人が漁業に従事していたという。だが付近に海軍施設が多く、国防上の理由で48時間以内の退去という、他の地域にない厳しい退去命令が出た。 巽さんは「住み慣れた家から慌ただしく出た」と回想する。所持品はトランク2個分だけで父の経営する水産加工会社も解散。行き先不明の移送バスに長時間揺られ、砂漠に近いカリフォルニア州マンザナー強制収容所に隔離された。大人たちは「これからどうなるんや」と途方に暮れた。収容所は鉄条網に囲まれ、共用トイレは仕切り扉もなく、囚人のような扱いだった。外出できたのは終戦後だ。 真珠湾攻撃があった41年12月7日(日本時間8日)、漁船のエンジンが故障して島の港にいた浜崎さんは、連邦捜査局(FBI)に逮捕された。兄が日本軍にいたことによるスパイ容疑だったようで、「イスラム教徒を排斥する今のムードと似ている」と感じる。 大統領令が出た後、南部アーカンソー州の収容所に送られたが、所外で労働する条件で釈放。全米を転々とした。農作業や機械工をしたが、生活基盤は弱く物乞いも経験。白人の友人に強制収容の話をすると「なぜ居住の自由を奪われるのか」と一様に驚かれた。 日系人だけで編成した米陸軍442連隊などが欧州戦線で際立った活躍を見せ、米国社会に少しずつ日系人への理解が広がった。浜崎さんは「立派な青年が大勢死んで、信頼が少しできた。差別は誰にでもある。平等なんぞ闘って勝ち取るものや」と日本語で話す。 39年から大漁続きで新築住宅が並んだターミナル島。今は繁栄の跡形もない。家屋は破壊され、漁業権を剥奪されて戦後も戻れなかった。戦前に漁業をしていた日系人は2人を含め4人が生存しているだけだ。 | ||||
2016年2月27日(土) | ||||
サンタ・カタリーナ州の州都であるフロリアノポリスという島で開催される衛星プロジェクト関連の国際会議で、エドソンが講演することになり、明日から3泊4日で私も一緒にフロリアノポリスに行くことになった。この会議は講演者にも参加登録料の支払いを要求していたので、しばらく参加登録をせず様子を見ていたようなのだけれど、2月の上旬になりようやくエドソンの参加登録料を免除すると言ってきたので、参加を決めたようだった。ブラジリアの時と同様、旅費も宿泊費も自腹なのに、その上ドル建てで高額な参加登録料が必要なら行かないつもりだったらしい。一方、ヴィラ・シーコに入院中のめいは元気を回復し、普通に食事をし、ウンチもするようになったのだけれど、まだ日曜日までは毎日抗生剤を打ってもらわなくてはならないし、私たちも留守をするので、引き続きヴィラ・シーコでお世話になっている。そして、私たちの留守中、はるとひろもヴィラ・シーコでお泊まりしてもらうので、今日、夕方連れて行く予定。ブログは帰宅後に再開します。 | ||||
2016年2月28日(日) | ||||
サンパウロのパーキンソン病協会で、患者さんや患者さんの家族を対象に、患者さんの病気の症状を少しでも緩和するためのマッサージのやり方をボランティアで指導されているメル友の鎌谷さんは、パーキンソン病の症状を和らげるのに効果があると言われているムクナという豆を粉にしたものを、それを生産販売している友人を通じて入手しておられる。ムクナ豆には中高年になると減少するドーパミンというやる気などを司る神経伝達物質が含まれているため、私たちもとても興味があり、試しに4つほど送っていただいた。エドソンはそれをさっそくヨーグルトに混ぜて毎朝食べ始めたのだけれど、ドーパミンは神経系の痛みにも効くようで、彼の職業病ともいえるお尻から足にかけての痛みが和らいだと言っている。ムクナ豆を豆として食べたことはないので、豆自体がどんな味なのかは知らないけれど、この粉はきな粉のような色と味で食べやすく、特に、ヨーグルトに混ぜるとおいしいと言って、エドソンは気に入って食べている。ムクナ豆はブラジル原産の野性の豆で、ある日系人を通じて日本の研究者に紹介され、研究が行われ、L-ドーパをたくさん含んでいることが発見され、以来、日本では少しずつ知られるようになった健康食品のようだ。私の友人のそのまた友人がパーキンソン病を患っていて、ムクナ豆のことを体験者から聞き、飲み始めたのだけれど、250グラムで1万円と高額で、おいしくないし、効果もまだ実感がないと言っているというので、どこの製品を買っているのだろう?と思った。ムクナ豆は暑いところで栽培されたものの方がL-ドーパの含有率が高いらしく、鎌谷さんのご友人が生産しているのはミナスジェライス州なので、サンパウロ州で栽培され製品化されたものよりもL-ドーパの含有率が高いのだそうだ。ひょっとして効果が実感できないと言っている人が購入しているムクナ豆の粉はサンパウロ州産のものなのかな?と、思ったりした。次の写真は、鎌谷さんが送ってくださった150グラム30レアル(現在の為替レートだと日本円で1000円もしない)の「むっくりムクナ」という商品。
以下は、2月25日付けニッケイ新聞からの転載。
『伯国東京農大会(沖眞一会長)が5日、同会館(Rua Dona Cesaria Fagundes, 235, Saude)で東京農工大学院の藤井義晴教授を招いて『薬草講演会』を行なう。午前9時から正午まで、入場無料。 主題は、雑草の生育を抑制する緑肥として利用さえる「ムクナ豆」について。藤井さんは同分野の研究で博士号を取得した第一人者だ。当地では有機農法の土壌改良に広く普及している。 またその種子は、パーキンソン病の治療薬として注目されているという。脳内のドーパミン不足を引き起こす同病は、治療薬としてLドーパ製剤を用いるが、種子からは同等の成分が検出された。また、栄養価の高さから日本では健康食品としても販売されている。 案内のために来社した沖会長、長井邦夫実行委員は「農業関係者はもちろん、健康健康志向の人には興味深い内容になりそう。質疑応答の時間もとっています」と来場を呼びかけている。問い合わせは同会(11・2275・0534)まで。』 | ||||
2016年2月29日(月) | ||||
以下は、2016年42月15日発行「楽書倶楽部」第31号に掲載された私の文章。私は楽書倶楽部の第13号から寄稿を始めたので、これが20本目の文章になった。(途中、号数のカウントされない記念号が2度発行されているので、こんな号数になっている。)楽書倶楽部は1年に5回発行されるので、ちょうど丸4年書き続けてきたことになる。
昨年十一月、夫の仕事に同行してブラジリアに行く機会があった。カンピーンナスのヴィラコッポス空港からブラジリアまでの飛行時間は1時間半。拡張工事中のこじんまりとしたヴィラコッポス空港からブラジリア空港に到着すると、その違いは歴然としていた。さずがに首都の国際空港だけあって、きれいな空港だった。でも、荷物を受け取って、空港の到着口を出ると、手に手にプラカードを持ち、お揃いのTーシャツを着た人たちが大きな声で何かを叫んだり、太鼓に合わせて歌を歌ったりして、乗客が出てくる度に何かをアピールしていたのには少々驚いた。 私たちの滞在中、町を案内してくれた夫の友人の話によると、ブラジリアではジウマ大統領罷免を要求する抗議行動と、軍政復活を求めるデモが連日のように行われているということだった。実際、車で移動中に何かのデモのため大統領府近くの道路が封鎖されて、迂回しなくてはならなかったり、昼間、ホテルの部屋の中に居ても外からデモ行進の声が聞こえてくる日もあった。帰宅後、ニッケイ新聞の記事で、その日は「黒人の意識高揚の日」を前に、人種差別と暴力に反対する黒人女性によるデモ行進などがあったことを知った。 ブラジリアは人工の計画都市として有名な町だけあって、主要道路は片側三~四車線と広く、整然としており、信号がなく、高速道路のように立体交差になっていたり、道路の中央と両側にとても広い緑地帯があったりと、私が知るリオやサンパウロ州の町とはずいぶん違った印象の、まさに計画的にデザインされたきれいな都市だった。ただ、都市の外観は整然としていたものの、その計画都市がそこで暮らす人々にとって本当に住みやすいのだろうかという疑問もわいた。 まず、この地区は学校や教会の地区、この地区は病院の地区、この地区はホテルや商業施設の地区というふうに、色々な施設が計画的に地区ごとに分けられているのは、かえって不便なのではないかと思った。例えば、住んでいる地区が学校地区から遠いと、通学に時間がかかるだろうし、スクールバスや親の車で子供を送迎するのが普通のブラジルでは、すべての学校がみなひとつの地区に集中していると、子供の送迎で住民が一斉にその一つの地区に集中することを意味していて、一日に二度交通渋滞が起きることになる。そして、ブラジリアの住所表記は他の地方とは異なり、通りに名前がなく、かと言って、日本のような番地もないようで、ブラジリアで暮らし始めてまだ2年ほどの別の友人は、ホテル地区内にある私たちが滞在するホテルがなかなか見つけられず、近くまで来ているのに、近辺をグルグル走り回ることになってしまった。 ブラジリアは当初、人口30万人の都市として計画されたと聞いた。しかし、今ではその人口が想定の10倍の300万人にも膨れ上がり、近隣の都市からもブラジリアに通勤してくる人たちを加えると、昼間の人口は相当数になるため、飽和状態を通り越して、都市機能が麻痺しかかっているのではないかと感じた。将来的に人口が増えた際のことを想定して、東京の山手線やサンパウロの地下鉄のような公共の交通機関を作る計画をしていなかったのは致命的だと思った。 公共の交通機関としてバスはあるものの、朝夕のラッシュ時の渋滞は酷く、昼間は利用者が少ないため、バスの本数はかなり減り、車がないと身動きできない状況だった。さらに、主要道路から一歩、街の中に入ると、車社会なのに駐車場が完備していない所が少なくないようで、道路は路上駐車の車であふれており、車を駐車する場所を見つけるのに一苦労だった。もうすでにある中心部のホテルや商業施設に駐車場が完備していない所があるだけでなく、建設途上の新しい集合住宅でも駐車場を作る計画がない場合が少なくないと聞いて、驚きを禁じ得なかった。 ブラジリアにはとてもユニークなデザインの建物が多く、見ていて楽しい一方で、大統領府前の広場の石畳でさえあちこち石がはがれてゴロゴロとしていて、せっかくきれいに造られた街も維持管理が十分でないという残念な側面もあった。予算的に電車や地下鉄のような公共交通システムを導入することが難しいのであれば、エコシティーとして有名なパラナ州のクリチバ市が導入しているバス高速輸送システムのようなものを導入すれば、都市機能は格段に良くなるのではないかと思った。 せっかく計画的に造ったユニークな都市なのだから、絶えず改良を重ねて、ブラジルの首都としてふさわしいエコで美しい都市を目指してほしいものだと思った。ちなみに、クリチバのこのバス高速輸送システムは、現在毎日300万人近くの乗客が利用しているそうなので、一考に値するのではないだろうか。
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