Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2015年11月1日(日)

昨日の朝一番に念のためと思い、入り口ゲートの鍵を開けておいたら、8時前にエディが作業に来てくれたのでうれしかった。9時頃少しパラリと雨が降り、気象レーダーサイトを見ると、西から大きな雨雲が接近していたのだけれど、雨雲の移動速度がゆっくりで、午後3時近くまで何とか雨が降り出さなかったお陰で、シュハスコ小屋の水回りと、小屋の前のスペースにコンクリートを入れる作業を終えてくれた。この部分に一旦はレンガを敷き詰めてひろたちが穴を掘れないようにしたのだけれど、それでもひろはレンガを無理やり力づくで動かして穴を掘ったり、レンガのかけらを食べたりするため、レンガもダメということになり、すっきりコンクリートを入れてもらうことにしたのだ。これでようやくシュハスコ小屋の中の流しも使えるようになり、はるたちのお留守番スペースも出来上がった。感謝。感謝。次の写真は、コンクリートが入ったシュハスコ小屋の前のスペース。2枚目の写真は、シュハスコ小屋の横に作られた下水溝。

2015年11月2日(月)

今日は、フィナードス(Finados=死者の日とか万霊節と訳される)で、休日。亡くなった家族や友人を供養する日なので、日本のお盆のようなもの。去年は4月にアチバイアのデマーコが2年間の闘病の末ガンで亡くなり、7月にはアメリカのブライアンが突然の飛行機事故で亡くなり、数少ないとても大事な親友をふたりも失ったエドソンだったけれど、今年は幸いそのようなことはなく、穏やかに過ぎようとしている。次の写真は、インターンネット上で見つけたタトゥイという町の墓地の写真。タトゥイはここから東に1時間足らずのサンパウロ寄りにある町。ブラジルの墓地はアメリカの墓地とも日本の墓地とも違い、どこもこんなふうに小さな家がぎっしりとひしめく住宅街のような感じなので、典型的な写真だと思い、百聞は一見にしかず、ここに掲載してみることにした。ブラジルは基本的に土葬なので、この小さな家のようなものは棺を収めているコンクリートでできた箱のお墓。まさに死者のための家のようなもの。でも、私はパーディーニョの墓地のこのようなコンクリートの箱に土葬されるよりも、できれば火葬にしてもらって我が家の敷地内に遺灰を埋めてほしいなと思っている。

2015年11月3日(火)

「日伯外交樹立120周年」を記念して、先週28日から秋篠宮両殿下がブラジに来ておられる。ご到着前からニッケイ新聞には様々な記事が掲載されているけれど、ご到着後は連日さらに多くの記事が掲載され、日系コロニアの歓迎ぶりを報道している。両殿下の日程は大雑把に次の通り。到着早々からサンパウロ市内のイビラプラエ公園内の日系移民の慰霊碑を参拝され、同公園の日本館も視察、その後サンタクルス病院も視察され、文協(サンパウロの日系協会)での歓迎会にも出席された。翌29日は、午前中はグアルーリョス市(サンパウロ国際空港がある町)にある老人ホーム「救済会・憩の園」を訪問され、大ホールで入園者代表による花束贈呈が行なわれた後、「両殿下が自ら手を取られ一人一人に声をおかけになると、感激のあまり涙ぐむ入園者が続出した」そうだ。午後からは、サンパウロ総合大学(USP)を訪問されマルコ・アントニオ・ザゴ学長や各学部生と懇談、そして、ブタンタン毒蛇研究所にも立ち寄られ、夕方からはサンパウロ州政庁バンデイランテス宮を訪問し、州政府関係者主催の歓迎式典に臨まれた。30日にはパラナ州クリチバの記念行事などに出席され、翌日は北パラナのロンドリーナ、ローランジャ、マリンガを訪れ、1、2日には南麻州カンポ・グランデに足を運ばれるという。3、4日はパラー州ベレンへ向かい、アマゾン川や市場、博物館を視察される。日伯修好通商条約を締結した5日には、首都ブラジリアで連邦議会の記念式典、ジウマ大統領との面会も予定。7日はリオへ移動し、8日の離伯まで各地で政府関係者や日系団体らと交流するとのこと。日本からの片道20数時間におよぶ長い飛行の後の短い滞在の中、この広いブラジルを南へ西へ北へ東へと休みなく飛び回るとても精力的なスケジュールだと思う。若いとはいっても体力的にかなりきついだろうなあ・・・。

2015年11月4日(水)

土曜日の午後3時前に降り出した雨は、雨足を強めたり、弱めたり、小休止をしたりしながら月曜日の朝までずっと降り続いた。月曜日のお昼前後にようやくうっすら日差しが出たけれど、午後4時くらいからまたザーザーと雨が降り出し、翌朝まで降ったり止んだりが続いた。そして、火曜日も似たような感じで午後から少し薄日が差したけれど、やはり午後4時頃から降ったり止んだりが始まった。天気予報によると今週はずっとこんな感じが続くらしい。次の写真は、雨の降りしきる月曜日の夕方、玄関前のベランダから撮った家の北西側(右)と南西側(左)。

こんなぐずつく雨の中、今日エドソンは朝食を食べた後、8時頃、バウルから迎えにきてくれたデミウソンとふたりで、ここから東へ車で片道4~5時間かかるサン・ジョゼ・ドス・カンポスのINPE(ブラジル国立宇宙調査研究所)とITA(航空宇宙技術研究所)へ出かけて行った。前回はかなり無理をして日帰りの日程を組んだので、夜明け前に出発して帰宅は夜遅くなり疲れ、INPEとITAでの滞在時間も短く大変だったので、今回は1泊することにしたらしい。今日は、到着後ITAで衛星プロジェクトに関わっている2つのグループとそれぞれミーティングを予定していて、明日はINPEで何やらイベントがあり、その中でエドソンはブラジルアマチュア無線協会の技術コンサルタントとして講演をすることになっているのだそう。その後、さらにもう1つのITAの衛星プロジェクトグループとミーティングをして、午後5時頃帰宅の途につくと言っていたので、家に戻るのは早くても夜11時頃になるのかな?

2015年11月5日(木)

次の写真は、月曜日の夕飯に作った天ぷら。残っていた白身魚の切り身1枚と、かぼちゃを片付けたかったので、久しぶりに天ぷらを作ることにした。先月とても暑い日にそうめんを作った際、少し残ってしまった手作りのめんつゆで、天つゆを作り、小エビもあったので、玉ねぎと小エビのかき揚げも作った。これらを揚げ始めたら、エドソンが畑からバジルとフンショの葉を採ってきて、これも揚げてと言うので、揚げてみた。揚げている時、フンショは特に何も匂いがしなかったけれど、バジルはいい香りが台所に広がった。食べてみるとフンショもバジルもほんのりそれぞれの味がして、なかなかおいしかった。最初、バジルとフンショを天ぷらに?と思ったけれど、シソの葉などを揚げたりするのだから、バジルでもいいのではないかと思ったというエドソンは、予想以上にパリパリサクサクとした食感に揚がったバジルの味が天ぷらに合っていて、とてもおいしいと言って喜んで食べてくれた。

2015年11月6日(金)

水曜日から泊まりがけで、サン・ジョゼ・ドス・カンポスに行っていたエドソンは、昨日の夜11時を少しまわって無事帰宅。衛星プロジェクトに関わる複数のグループとのミーティングも、INPEでの講演もうまく行き、有意義で建設的な2日間だったようで満足そうだった。ただ、彼が作ってITAの衛星プロジェクトに提供した無線ソフトの衛星への組み込が無事完了し、次の衛星の打ち上げでそれが宇宙に飛び立つところまで来ているのに、ジウマ政府からITAへの研究費の交付がストップしてしまったため、プロジェクトが暗礁に乗り上げる可能性もあるという不安を口にしていた。貧民救済をうたう「ボウサ・ファミリア」への支給は決してストップも削減もしない代わりに、国立の学術機関に国として約束していた補助金や研究費は平気で反故にするなんて、政権への支持をお金で買うジウマ政権らしい。PT(労働者党)はどこまで腐っているんだろう。

先週、玄関横の箱庭のソテツに、実のようなものができていると書いて写真を掲載したけれど、あれからその実のようなものはどんどん成長して、背が高くなってきている。次の写真は、水曜日の午後撮ったもの。

2015年11月7日(土)

サンパウロでは、今年3月に市議会が公共の場での授乳を認め、追い出したり授乳を禁じたりした場合は500レアル(再犯は1千レアル)の罰金を科すという条例を承認したというニュースがあり、今週は、サンパウロ州議会が同じく、公共の場での授乳を認め、授乳を禁じた場合は510レアルの罰金を科す法案を承認したというニュースがあった。サンパウロでは公共の場での授乳問題がここ数年続いていたらしく、ようやく決着を見たことになる。そもそもの発端は、2011年にサンパウロ市のパウリスタ大通りにあるイタウ銀行の文化ホールで行われたイベントに参加した女性が、空腹を訴えて泣き出した子供に授乳しようとしたけれど場所がなく、ホールで授乳し始めたために、警備員に摘み出されるという事件が起こったことだった。この事件を知った母親たちが、その2カ月後、乳飲み子が空腹を訴えるのに時間や場所の制限はないし、「授乳する事はみだらな行為ではなく自然な行為」で、「母親にはどこであれ、授乳する権利があってしかるべき」と訴え、その事件が発生したイタウ銀行の文化ホールで抗議行動を行ったのだという。それから4年の時を経て、市政府と州政府が公共の場での授乳を認めたというわけだ。ブラジルでは日本よりもずっと子供や子供を連れた女性が社会的に大切にされる傾向があるのに、公共の場での授乳を条例や法律でわざわざ認めないといけなかったというのは、何だか不思議なギャップだなと思った。

一方、最近、リオやサンパウロでは女性の合法中絶を困難にし、中絶薬の販売などを制限する連邦法案に抗議するデモが行われたというニュースがあった。この法案は、強姦され、望まない妊娠をした女性の合法中絶に警察への届出や法医学研究所での検査などを義務付け、被害者への経口避妊薬(アフターピル)の提供や販売も禁じかねないものだという。この法案に抗議している女性団体は、「性犯罪の被害者は法的権利や医療措置への充分な情報も与えられず、強姦被害後の緊急避妊薬の利用さえ制限されかねない。一番苦しむのは黒人や貧困層の女性だ」「私達の身体は私達のもの、中絶合法化を!」と主張し、この法案の提唱者であるエドゥアルド・クーニャ下院議長(民主社会党・PSDB)を批判している。このクーニャ下院議長は、ペトロロン事件がらみで受け取った巨額の賄賂をスイスの銀行の秘密口座に隠し持っていたことで、今、議員罷免になりかけている人物。信心深いキリスト教徒という看板を掲げて宗教組織からの支援を受けている人物が、恥ずかしげもなく不正を行い、不当な法律を通そうとしている。何という皮肉。

2015年11月8日(日)

昨日は午後1時に、ボトゥカトゥのペットクリニック、ポリヴェットで、ひろの虚勢手術の予約をしていたので、はるも一緒に出かけて行った。虚勢手術は生後6ヶ月から8ヶ月くらいの間にするものらしいのだけれど、ひろは8ヶ月を少々過ぎてしまっため、最近、家の中で時々オシッコをするようになっていた。でも、虚勢手術をすればこの行動はなくなるから心配いらないとドトーラ・ヴィットリアは言っていた。オスの虚勢手術はメスの手術のようにお腹を切ることはなく、タマタマの皮膚を少し切って、中のタマタマを取り出すだけなので、安全で簡単で、手術に要する時間も短くて済み、患者にとっても楽なのだそうだ。そして、ひろが手術を受けている間に買い物に行き、スーパーで買い物をしている間に手術が終わったと連絡があった。言われた通りとても速いので驚いた。その後ウエノでの買い物も済ませ、クリニックにひろを迎えに行くと、タマタマに絆創膏がはられ、ひろは変な歩き方をして、我が身に何が起こったのか理解出来ない感じでおびえていたけれど、まずまず元気そうだったので安心した。家に戻ってからひろは痛みがあるのか、気分が良くないのかケージの中に入り静かにしていた。そんなひろの様子を心配したはるはケージの前を離れないので、新しく買ってきたベッドを置くと、その中に入って付き添いをしていた。その様子が次の写真。その後、はるはケージの中に入って行ってひろにぴったりくっついていた。はるが側にいると落ち着くのか、ひろは泣くことなく穏やかに横になっていた。

私たちの夕食が済んで、彼らにも夕食を与えると、食欲は普通にあり、その後お散歩に出た際は、ひろはごく普通に歩くことができて、ウンチもオシッコも普通にしたので、ひとまず安堵した。そして、家に戻ってから、ガーゼが当てられ絆創膏がはられたひろのタマタマを撮影したものが次の写真。

2015年11月9日(月)

ひろが手術の傷をなめないように、首に取り付けるカラーをポリヴェットから借りて帰ったのだけれど、つけてみるとすごく嫌がって自力ではずしてしまい、その後、傷口の絆創膏もはがしてしまったため、まったく役に立たず、どうしたものかと思案にくれた。色々考えて、ウエストのゴムがゆるゆるになってはけなくなったエドソンの下着をオムツのようにはかせてみることにした。これをはかせてもあまり嫌がらず、はいていると直接傷をなめることができないので、何とか使えそう。でも、傷があるだけでなくオムツをしていることであまり居心地が良くないのか、土曜日の夜から日曜日の朝にかけて、ひろは何度も目を覚ましてベッドから出てきたので、その度にずり落ちたオムツを引き上げて、ベッドに戻すということを続けた。そして、夜明け前にもまたベッドから出てきて、私のベッドの足元でずり落ちたオムツの隙間から傷をなめていたので、仕方なく抱きかかえて、私のベッドに上げて横に寝かせ、オムツがずれないように手を添えていたら、夜が明けるまでおとなしく一緒に寝てくれた。以前、モビの最期の時が近づいていた時、モビの体調が悪く、嘔吐を繰り返していたある晩、モビを抱きかかえて一緒にベッドに横になったことがあったけれど、ひろとも一緒に寝ることになるとは思ってもいなかった。次の写真は、オムツパンツの上からタマタマの傷をなめようとしているひろ。2枚目の写真は、日曜日の朝一番のオシッコから戻りオムツをはき直して、朝食前に台所の隅で水を飲んでいるひろ。お散歩やオシッコで家を出入りする度にオムツパンツを脱がせたりはかせたりする作業の他、4針縫っているタマタマの傷を清潔に保ち感染症を予防するために、お散歩で出た際は、朝夕2度だけでお昼は必要ないのだけれど、戻ってから傷を消毒して薬を塗らなければならないので、結構大変。手術後、お尻だけが開いていて、お腹の傷をすっぽり被うことができる白い服を着せることができたはるの時の方がよっぽど楽だったなあと思う。

2015年11月10日(火)

この土曜日に久しぶりに日系食料品店のウエノに行って買い物をした。今年になってお米の値段が急激に上がってきていると以前書いたけれど、3~4ヶ月前に値上がりして35レアルになっていた1袋5キロのお米がとうとう40レアルになっていた。私たちがここに来た頃(5年くらい前)は22レアルくらいだったことを考えると、すごい値上がりだと思う。これまでウエノには値段が同じ「銀米」と「もみじ」という2つのブランドと、もうひとつ少し安くて味の落ちるお米を置いていたのだけれど、今回は「銀米」がなかったので、「もみじ」を買った。安いブランドのお米ですら30レアルだったものが35レアルになっていた。これらのお米は日本からの輸入品ではないけれど、一応日本米なので、値段がブラジル人の人たちが一般的に食べるお米の倍くらいする。でも、日本で外米と呼ばれる普通のお米はパサパサとしていておいしくないので、うちでは高くても日本米を買って食べている。ちなみにパーディーニョのスーパーでは日本米は販売されていない。あるのはブラジル米だけ。

さらに、日本からの輸入品も軒並み値上がりしているようで、今回買った「かどや」の1瓶70グラムのごま油は15レアルだったものが18レアルに、22レアルだった「S&Bゴールデンカレー」は25レアルになっていた。そんな中、値段が上がっていないものもあった。一年に一度季節限定で、この時期に販売されるウエノさんのところで育てている桃は、一箱10個入りの値段が13レアルと変わっていなかった。日本で普通に買える白桃と比べると大きさも小さく、甘さやみずみずしさも劣るけれど、欲を言えばきりがない。そもそも日本にある桃が美味しすぎるのだから、それらと比べてはこの桃がかわいそう。この桃だって柔らかくて十分甘く、パーディーニョでは手に入らない貴重品で、ボトゥカトゥのスーパーにあったとしても、この桃ほど美味しくない。だから、ウエノさんの桃はここで手に入るベストの桃なのだ。次の写真は、買ってきたその桃。写真に7つしか写っていないのは、写真を撮る前に、日曜日の朝食で早速ふたりで3つ食べてしまったから。

2015年11月11日(水)

空がどんよりとうす暗く、雨が降ったり、止んだりしながら、たまに薄日が差したりするぐずつくお天気が10日も続いていたけれど、昨日ようやく朝から太陽が顔を出し、久しぶりに明るい朝を迎えた。やはり朝はどんより曇っているよりも、明るく太陽が輝いている方がずっと気持ちがいい。お天気が回復したため、昨日は暑い1日になった。でも今日は、また朝から小雨が降っている。

果樹園に植えた3本のアセロラの木の内、1本はパラカンビのお母さんが持ってきてくれた小さな苗木を植えたものなのでまだ小さいけれど、残りの2本はエリゼウからもらったもので、私たちの胸の高さくらいになってきている。その2本の内の1本に赤い実が2つついているのをエドソンが発見。次の写真の中央に1つと、その少し右上にもう1つ実が見える。この他地面に2つ実が落ちていたので、この木は合計4つ実をつけたことになる。これからさらにもっと実をつけるのか、今年はこれで一応おしまいなのかわからないけれど、まだ成長過程の木が初めて実をつけてくれたことに感激。

果樹園にはこの他にもいろいろな果物の木を植えているのだけれど、葉切りアリに襲撃されて枯れてしまったものや、何とか無事に育ってくれているものなど様々。果物の木は苗木を植えてから何年もしないと実はならないので、まだ実をつけるようになったものは少ないけれど、これから年を重ねるごとにそれぞれ実をつけてくれるようになるといいなと思っている。

2015年11月12日(木)

昨日の朝、「MRJ」(三菱リージョナルジェット)が初飛行に成功したというニュースをインターネット上で見て、良かったなと思った。先代のYS11は高性能だったにもかかわらず、営業力不足で販売に失敗したため、40~50年ほど前に終わってしまったけれど、今回は前回の失敗を教訓にして日本の航空機産業の復活につながるといいなと思う。この話をエドソンにしたらブラジルのニュースで見てすでに知っていて、ついでに中国も小型ジェット機生産というニュースがあったことを教えてくれた。でも、中国が生産するジェット機はきっとブラジルのエンブラエーから盗んだ技術のコピーだろうとも言っていた。中国がどうやってエンブラエーから技術を盗むことができたの?と聞くと、現在のジウマ大統領の前のルーラ大統領の時代に、エンブラエーは中国に工場を作って生産をしているから簡単なことだと言っていた。共産主義が根底にあるブラジル労働者党政権の中国大好き政策は、ちょっと目に余るし、ブラジルのためになっているとは思えない。この小型ジェット機の市場は、ブラジルのエンブラエーとカナダのボンバルディアが2強のようだけれど、中国だけでなくロシアもこの市場に参入するそうなので、ライバルは決して少なくない。がんばれMRJ!!

2015年11月13日(金)

ひろのおむつパンツは途中で一回洗濯をしたけれど、4日間はき続けてもらった。一昨日、エドソンがもうそろそろいいだろうと言うので、午後から使用を止めた。お陰でオシッコなどに行く度に脱がせたりはかせたりの手間がなくなり楽になった。毎朝の抗生剤の投薬は今日で終わり、術後の経過は問題なく順調に推移した。抜糸は来週の火曜日か水曜日にしなければならないのだけれど、ちょうど私たちは家を留守にする予定なので、ポリヴェットに連れて行くことができないため、代わりにお泊まりをするヴィラ・シーコで、ドトーラ・ジャナイーナにお願いして抜糸をしてもうらうことになる。次の写真は、火曜日の夜、夕食後に撮ったもので、新しいベッドの中で一緒にいるはるとひろ。ひろもはるのように丸まって寝ていることもあるけれど、夜、寝室に行って本格的に寝る態勢になるまではこんなふうに大の字に仰向けになっていることが多い。ベッドの中でも外でも、このおむつパンツをはいているひろの仕草がおかしくて、ついつい笑ってしまう。

2015年11月14日(土)

11月12日付けのニッケイ新聞に、『演歌歌手 エドアルドさん=デビューイベントに1千人=17日午前にはNHK登場』という記事があった。このエドアルドさんは非日系ブラジル人なのだけれど、先月、日本で演歌歌手としてデビューを果たした人。以下がその短い記事のコピー。

『日本でCDデビューを果たした、演歌歌手のエドアルドさんが発売日の先月21日、足立区西新井大師での歌唱イベントに参加、デビュー曲「母きずな」を含む3曲を披露した。

集まった約1千人の観客を前に、堂々たる歌いぶりを魅せ曲が終わるとサイン攻めにあう一幕もあった。CDはその場で約750枚も売れたという。

会場に駆けつけたブラジル日本アマチュア歌謡連盟の北川朗久名誉会長は、「ステージで私を紹介してくれ、大変感激した」と喜びを語り、ブラジル時代によく教えたという「岸壁の母」も披露された。

今月17日午前9時(ブラジリア時間)から『NHK歌謡コンサート』に生出演し、デビュー曲を披露する予定。今後の躍進にしばらくは目が離せなそうだ。』

さらに、ちょっと古い記事になるけれど、10月14日付けのニッケイ新聞の記事で、このエドアルドさんの生い立ちを紹介しており、デビュー曲を視聴することもできる。こいう人生もあるんだなと思うような記事だった。この『エドアルドさん、伯人初の演歌歌手に=21日日本でCDデビュー=二人の母への想い歌い上げ』と題する記事のサイトは、 こちらへ

2015年11月15日(日)

金曜日の夕食時に西から不穏な黒い雲が広がり始め、遠くに稲妻が見えるようになったので、私たちの夕飯を済ませてから急いではるたちにも夕飯を食べさせ、オシッコとウンチのためのお散歩に連れ出すと、猛烈な風が吹き始め、雨がポツポツと降り始めた。はるたちも何だか殺気を感じたのか、いつものようにふらふらお散歩を楽しんでいる場合ではないという感じで、さっさと仕事を済ませてくれたので、走って家に戻ると、電気が消えて停電していた。2時間経っても3時間経っても電気が回復しないので、エドソンが車でカロリナソイルのところまで様子を見に行くと、カロリナソイルも停電しており、工場を動かせないので、従業員を帰宅させ、守衛さんがすでに電力会社に電話をしたということなので、かけてもなかなかつながらない状態で、うちからかける必要もないと判断して戻ってきた。ちなみにカロリナソイルはほぼ毎日24間操業している。でも、翌朝になっても電気は来ておらず、朝食後、エドソンが電力会社に電話をすると、午後1時頃復旧の予定という返事だった。午前中英語のレッスンに来たヴィトーの話だと、彼の両親が暮らすうちの近くのファゼンダも金曜日の夜は停電したけれど、その晩のうちに復旧したし、パーディーニョの町は停電しなかったという。「ああ・・・ここだけか・・・」「だったら何故、さっさと復旧しないのだろう?」とため息が出た。午後になっても電気が戻らないので、再度エドソンが電力会社に電話をすると、復旧の予定は午後9時だと言われ、がっかり。エドソンは自分で見てみた限り、カロリナソイルの側の電信柱のヒューズが飛んだだけなので、復旧には5分もあれば十分なのにと言って嘆いていた。電力会社には電話をしてもなかなかつながらず、つながっても20分も30分も保留になり、途中で切れてしまう状態で、なかなか生身の人間と話ができないため、エドソンも相当イライラしていた。そして、午後8時頃に下のガレージの街灯がついていることに気づき、電気が復旧したことを知った。これまでもよく停電はしても、長くて24時間以内には復旧していたのに、今回は24時間以上復旧せず、最悪記録を更新。日本と違って、配電システムの質が悪く、サービスの質も悪いため、ここでは日本では考えられないことがよく起こる。

次の写真は、ランドマークの木の横を下る坂道の両側にあるサボテン。1枚目は先月芽が出始めたと写真を掲載したけれど、今ではだいぶ大きく育っている。2枚目はこのサボテンの反対側にある別のサボテンで、これも一足遅れて芽を出して、少しずつ大きくなっている。

2015年11月16日(月)

今週、18日(水)と19日(木)の2日間、首都ブラジリアにあるブラジリア大学でワークショップか何かがあるらしく、ブラジリア大学からエドソンがそこでの講演を依頼されたため、私も連れて行ってもらえることになった。講演を依頼されたと言っても、旅費や宿泊費は自腹なので、誰に遠慮することもないから一緒に行こうと言ってくれ、私もくっついて行くことにした。何しろブラジルに来て以来、行ったことのある場所はリオデジャネイロ、ペトロポリス、そして、パラカンビの周辺の町数ヶ所、サンパウロ、そしてパーディーニョの近隣の町くらい。イグアスの滝には行ったけれど、観光らしい観光なんてほとんどしていないので、たとえブラジリアでの主要目的が仕事でも、半日くらいはブラジリアを見て回れたらいいかなと思っている。というわけで、今日の夕方、はるたちをヴィラ・シーコに預けに行き、明日早朝から20日金曜日の夕方まで留守にするため、ブログの更新は21日(土)以降になります。

2015年11月17日(火)

今日は朝5時起床、6時出発でブラジリアへ向かった。まず、車でここから北東へ2時間少々のところにあるカンピーナスのヴィラコッポス空港へ向かい、エドソンが予約しておいた長期間車を預けることができる駐車場に行き、車を預けて、その駐車場のバスで空港に移動。カンピーナスはサンパウロ州第2の都市。現在この空港をハブ空港にするための拡張工事が行われているということだったけれど、まだ工事中で拡張されておらず、こじんまりとした印象の空港だった。搭乗口はたくさんあったけれど、空港の建物から直接飛行機に搭乗するのではなく、みなバスか徒歩で飛行機まで行って乗るようになっていた。私たちが利用したブラジリア行きのTAM航空は30分遅れで出発。ブラジリアまでの飛行時間は1時間45分。お昼過ぎに無事到着。空港にはブラジルアマチュア無線協会の事務局長のオーランドが迎えに来てくれていた。彼の車でホテルに移動後、徒歩で近くのショッピングモールに行き昼食を食べ、すぐにブラジル宇宙局へ移動。ここではブラジリア大学で衛星プロジェクトに関わっているシャンタウというイタリア人の女性教授と、ブラジル宇宙局のガブリエウという男性に会う予定だったのだけれど、ガブリエウは急用で出かけてしまっておらず、シャンタウとだけ面会。次の写真の左側の女性がシャンタウ。

シャンタウと少しばかり話した後、彼女に連れられて教育コーディネーターの所に行って紹介され、次に応接室に連れて行かれ、教育コーディネーターの人の案内でやってきたブラジル宇宙局トップの局長さんと面会。次の写真の左側の白いシャツの人が教育コーディネーターの人で、真ん中の眼鏡をかけた白髪の人が局長さん。

今年8月に打ち上げられたロケットで国際宇宙ステーションに運ばれたブラジルの衛星が、9月になって国際宇宙ステーションから宇宙に放出され、その同じ日にエドソンが一番最初にその衛星からの信号受信に成功したということで、局長さんとの面会になったらしい。エドソンが衛星からの信号を受信したことがどうしてそんなに大事なことだったのか理解できなかったのだけれど、エドソンの説明によると、ブラジルの衛星プロジェクトにはいろいろ問題があって、衛星ができて打ち上げられ、宇宙に放出されても、地上で信号を受信するための受信装置の準備が間に合わず、宇宙局は衛星の信号を受信できる態勢になっていなかったところ、エドソンが受信に成功したので、放出された衛星が成功裡に機能していることが確認できたのだということだった。次の写真で、エドソンが手にしているのが、最近ようやく宇宙局に到着した受信装置の一部で、記念としてエドソンに贈呈されたもの。

応接室でのこの局長さんとの面会の際、宇宙局所属のカメラマンとレポーターが取材に来ていた。宇宙局のウェブサイトにエドソンの訪問に関する記事を載せるのだとか。次の写真の、左がレポーターの女性で、右がカメラマンの男性。

局長さんとの面会の後、エドソンはこのレポーターの女性からインタビューを受けた。そして、それが記事となって、以下の宇宙局のサイトに掲載された。さすがにプロのカメラマンが撮っただけあって、私の写真よりも明瞭な写真が掲載されている。この記事のサイトは、こちらへ

次の写真は、局長さんとの面会やインタビューが終わり、シャンタウとさらに数時間話した後、夕方、宇宙局を出る際撮った宇宙局の正面玄関。その後、シャンタウの車でホテルまで送ってもらった。彼女はブラジルに来て2年で、ポルトガル語はブラジルに来てから話すようになったそうなのだけれど、とても流暢にポルトガル語を話していた。でも、時々、ポルトガル語を話しているのに、イタリア語のように聞こえるので、イタリア語訛りがあるねとエドソンに言うと、かなり強いイタリア語訛りがあるけれど、とても流暢だとエドソンは言っていた。まあ、同じラテン語系の言葉なので、習得し易いとは言え、彼女はたった2年でこれだけ話し、私はブラジルに来て6年なのに、いまだに片言だなあと反省。

宇宙局からホテルに戻り、私たちを宇宙局で落としてから自宅に戻っていたオーランドに連絡をして、一緒に夕食に行くことにした。ブラジル北東部の料理を出すレストランに連れて行ってくれるその前に、ブラジリアの中心部をドライブしてくれ、ブラジリア国立博物館、外務省、国会議事堂、最高裁判所、大統領府などを見せてくれた。その中でカテドラル・メトロポリターナという大聖堂のところで止まってくれ、中にも入って見ておいでと言われたので、次の外観の写真と、内部の写真を撮った。この後、レストランで夕食を食べ、11時頃ホテルに送ってもらい、長い1日がようやく終わった。

2015年11月18日(水)

次の写真は、私たちが泊まっているホテルの部屋から撮った朝の景色。ブラジリアの通りには名前がなく、地区ごとに名前があるようで、この地区はホテルと商業施設の地区とか、この地区は学校と教会の地区とかいうふうに分かれているらしい。ちなみに私たちのホテルは市の中心部の南ホテル地区というところにあるのだけれど、番地などないものだからブラジルに来てまだ2年のシャンタウは、この地区名に慣れていないらしく、私たちをホテルまで送る際、はっきりとした場所がわからず、ぐるぐるとあちこち回って時間がかかってしまった。ブラジリアには高層ビルがあまりないけれど、この中心部の南ホテル地区と北ホテル地区には高層のホテルや商業ビルが建ち並んでいる。

今日は、シャンタウと一緒にブラジリア大学のガマ・キャンパスに行く予定だったのだけれど、急ぎの仕事ができたからとシャンタウから連絡があり、キャンセルになった。それで、エドソンは、木曜日のブラジリア大学での4時間の授業の準備を完成させると言って、昼食時に外に食事に出た以外は部屋にこもって作業をした。それで私はテレビでCNNのニュースを見たり本を読んだりして、ベッドの上でゴロゴロとしてのんびりと過ごした。次のピンボケの写真は、ホテルの部屋で授業の準備をしているエドソン。CNNは金曜日にあったパリでの多発テロの容疑者がアジトにしていると見られる、パリ近郊のサンドニーという町のアパートを警察が急襲したというニュースをライブ中継で延々とやっていた。

午後4時近くになり、エドソンの作業が終わったので、オーランドに連絡をして夕食を一緒に食べに行くことにした。でもまだ時間が早いからと、オーランドは私たちをあちこち連れて行ってくれた。次の写真は大統領府と、お椀がふたつ屋根に乗っているような国会議事堂。3枚目の写真はオーランドが撮ってくれた私たち。大統領府の前の広場の地下にはブラジリアの都市計画をした「ルシオ・コスタのスペース」というのがあって、ブラジリアの大きなパノラマ模型があり、ブラジリアの町の様子を俯瞰することができるようになっていた。ここでも写真を撮ったのだけれど、内部が暗かったのとカメラの調子が悪く、どの写真もまともに写っておらず残念だった。

ルシオ・コスタのスペースから出て来た所で、お土産物を売っている北東部出身のおじさんがいたので、エドソンは記念にその中の典型的なブラジリアのシンボルをあしらったお土産を1つ買った。10レアルだった。次の写真は、そのお土産物売りのおじさんと、2枚目の写真が買ったお土産。

ブラジリアにはオスカー・ニーマイヤーらによる独特でユニークなデザインの建物が多く、東西に延びる道路の両側に広くてきれいな緑地帯が広がっていたり、道路には信号がほとんどなく、高速道路のように右折してぐるりと回って、高架下の道路を通って方向を変えるようなデザインになっていたり、あるいは左折したい場合も交差点がなく、左側の行きたいところを通りすぎてUターンできる場所でUターンして戻って右折するというようになっていたりと、ちょっと独特な感じがする一方、メイン道路を一歩街の雑踏に入ると、道路や歩道の維持管理が良くなく、でこぼこだったり、駐車場があまりないので路上駐車の車であふれていたり、緑地帯の木々が枯れていたりという側面も見られた。光の部分と陰の部分が共存しているような感じだった。次の写真は、大統領府前の石畳の広場の無残な状態を撮ったもの。遠くから見るときれいだけれど、近くで見るとこんな感じで、維持管理がいまいちという場所がたくさんあった。特にここは、足元を見て歩かないとつまづきそうな場所だった。

次の写真は、ブラジリアの街の南東に広がる人造湖で、ブラジルアマチュア無線協会(LABRE)の所有地の水辺から対岸を撮ったもの。この水辺にはたくさんカピバラが住んでいるらしく、敷地内に植わっているたくさんのマンゴーの木の下に、カピバラがかじったマンゴーの実がたくさん落ちていた。広い敷地内に無線室やシュハスコをする場所や、事務所の建物などがあるのだけれど、もうずいぶん長い間使われずに打ち捨てられているような状態だった。資金不足で、1年に1度固定資産税を払うのと、住み込みでここの管理をしてくれるカゼイロのおじさんに給料を支払うので精一杯というような状態らしかった。2枚目の写真は、この敷地内にあったフランボヤン(flamboyant)の木の1本。フランボヤンの木の和名は鳳凰樹と言うらしい。ブラジリアにはあちこちにこの赤い花が満開に咲いたフランボヤンの大きな木がたくさんあり、とてもきれいだった。

街の喧騒から少し離れ、大統領府から東に行った湖畔に、大統領官邸があり、ちょうど6時頃だったからなのか、衛兵が国旗を下ろしているところに出くわした。小雨が降り出したので急いで写真を撮ったら、またピンボケになってしまった。ここから大統領官邸の建物まで緑の芝生が数百メートル広がっていて、塀も何もなかったけれど、この歩道と芝生の間に浅くて狭いお掘のようなものがあり、車が出入りする出入り口は厳重に警備されていた。

その後、オーランドが関係している組織に行く途中、渋滞している交差点で、後ろの車に追突される事故に遭った。車はノロノロ動いている程度だったので、追突された際の衝撃などはなかったけれど、ゴリゴリというような音がして、追突されたのはわかった。オーランドとエドソンが車から下りて、追突した車の男性としばらく話をしたり、オーランドが携帯で両方の車の写真を撮ったり、お互いの連絡先を交換したりして、相手の人とは最終的に握手をして穏やかに別れた。オーランドいわく、ブラジリアの人は運転が乱暴なんだとか。でも、これはブラジルどこに行っても同じような気がする。むしろ、ブラジリアでは道路を渡ろうとする歩行者のために車が止まってくれたので、リオでは絶対に止まってなんかくれないのにと、エドソンは驚いていた。次の写真は、追突されてバンパーにダメージを受けたオーランドの車。

この後、ブラジリアの中心から人造湖の上にかかる橋の1つを渡った対岸にあるポンタオンというところに行った。ここのゲートを入ると人造湖沿いに遊歩道があり、たくさんのレストランやバーが立ち並んでいて、東京の天王洲アイルのウォーターフロントを何倍にも大きくしたようなきれいな場所だった。対岸からボートに乗ってお店にやってくる人たちも少なくないのだとか。前日行ったレストランもやはり広い駐車場があり、高級そうな大きなレストランが立ち並ぶ地区だったけれど、街中の喧騒を離れたところにこういう洗練された場所があるのは、やはり首都と言うか、都会ならではなのかな?と思った。次の2枚の写真は、このポンタオンにあったクリスマスイルミネーション。

次の写真は私たちが入ったレストランの中から対岸の街の中心方向を撮ったもの。この写真では見えないけれど、レストランと水辺の間に遊歩道があり、お店は水辺に向かってオープンな状態になっていた。気温は昼間は30度くらいになり戸外は暑いけれど、朝夕は20度近くまで下がるため、こんなふうにオープンになっていても風が心地よく、暑くはなかった。

次の写真は、食事が来るまで、ビールやカイピリーニャを飲みながらおしゃべりをしているエドソンとオーランド(右)。オーランドは定年退職するまでずっとブラジル銀行の技術部門で働いていたのだそう。現在はボランティアでブラジルアマチュア無線協会事務局のお世話をしている。ふたりは去年、グアラレマであったブラジルアマチュア無線全国大会で初めて会ったらしいのだけれど、彼もエドソン同様ブラジリア大学とブラジル宇宙局の衛星プロジェクトを技術支援している関係で親しくなったらしい。この後、グスターボというブラジリアアマチュア無線協会の人が立ち寄って少し話して行き、それと入れ替わりのようにしてオーランドの奥さんのシウヴィアがやって来て、ビールを1杯だけ一緒に飲んで話をした。前日、ブラジル宇宙局に行く前にオーランドの自宅に寄って彼女に会っているので、これで彼女に会うのは2度目。

2015年11月19日(木)

ブラジリア大学でのエドソンの衛星通信に関する授業は午前8時からなので、オーランドが7時に迎えに来てくれ、エドソンはオーランドと一緒に出かけて行った。一方私は、シウヴィアがお昼に迎えに来てくれて一緒に観光をすることになっていたので、午前中はベッドの上でゴロゴロしながら、やはりCNNを見たり、本を読んだりして過ごした。お昼にシウヴィアが来てくれ、一緒にお昼を食べに行った後、ブラジリアには仏教のお寺があるからと言ってまずそこへ連れて行ってくれた。シウヴィアは私にお寺の本堂の中を見せたかったようだけれど、一般に公開されるのは週末だけと言われてがっかりしていた。事務所の非日系の女性に何宗のお寺か聞いたのだけれど、知らないようで、ふと見るとカウンターの上にJornal do Hongwanji(本願寺新聞)という新聞があったので、浄土真宗だということがわかった。この新聞はポルトガル語と日本語の両方で書かれていて、日本語にはすべてふりがながふられていた。ここでは1年に一度、盆踊りや屋台が出るお祭りがあり、それに来たことがあるとシウヴィアは言っていた。次の写真は、このお寺の境内にあった鐘突き堂。

次の写真は、鐘突き堂の所で撮ったシウヴィア。彼女はとても優しく感じのいい人で、我慢強い対応が何となく学校の先生の雰囲気を漂わせていたので、「あなたは教師ですか?」と聞くと、「昔ね」という返事だった。以前、義務教育を受けられなかった大人の人を対象に、ポルトガル語や算数を教える仕事をしていたのだそう。どうりでとても我慢強くて優しい人当たりなのだと思った。ブラジリア到着初日に彼女の自宅で初めて会った際、私になるべくポルトガル語で話して練習をした方がいいと言うので、彼女とはずっとポルトガル語で話をしたのだけれど、思いの外、いろいろなことを話すことができ、私のポルトガル語も多少上達してきているのかな?と、ちょっと驚いた。でも、本当は彼女が話題の豊富な人で、いろいろなことに興味を示すので、話が弾んだという側面が強かったのだと思う。ちなみに彼女には息子がふたりおり、長男のディエゴは独身のカメラマンでブラジリアに住んでいて、次男のヴィトーは専門職名は忘れたけれど、サンパウロでビジネスに関わっていて、ガールフレンドと一緒に暮らしていると言っていた。ヴィトーは来年、友人の結婚式で韓国に行くので、その後、日本にも観光旅行に行くと言っていた。シウヴィアとオーランドも去年だったか日本に観光旅行に行ったらしく、すっかり日本ファンになったと言っていた。

次の写真は、お寺の境内の外から本堂を撮ったもの。この本堂の後ろには屋根つきの広場などもあった。この後、シウヴィアは医院での予約が3時に入っているからと、街の中心部のビルの中の医院に行ったのだけれど、閉まっており、お向かいの事務所の人に聞いたら、医師に急用ができたので、午前中事務員さんがシウヴィアの自宅に電話連絡したのだけれど、シウヴィアが外出していたため連絡が取れなかったということがわかった。

この後、同じビルの下の階の「コペンハーゲン」という名前の喫茶店でシウヴィアはカフェジーニョを、私には「チョコレートが好きならホットチョコレートを試してみて、おいしいから」ということで、ホットチョコレートを頼んでくれ、小さなクッキー付きでしばしの休憩をした。この時、シウヴィアは持参のタブレットで家族の写真などを見せてくれた。それからまた移動して、町の中心部にあるテレビ塔に連れて行ってくれた。このテレビ塔の下の広い公園にはたくさんのお土産物のお店が並び、工芸品などを販売しているのだけれど、平日だったので閉まっている店が多かった。でも、週末だと人でごった返して大変だろうから、平日で開いている店は少なくても、人通りが少なくてゆっくりと見て回れたので良かったと私は思った。パーディーニョやボトゥカトゥ辺りでは見かけない様々なお土産物や工芸品がたくさんあって、見ているだけで楽しかった。こういうものが簡単に手に入れば日本に行く際のお土産になるのだけれど、ここではお土産になるブラジルらしいものがあまりなく、少々残念。次の写真は、ここで買った小さな壁掛け。この絵はブラジルの桜と呼ばれているイペーの木で、青、黄、ピンク、白と4色のイペーが描かれていて、ブラジルらしいデザインだと思って買ったもの。シウヴィアの話だと、緑のイペーもあるらしい。この他ブラジリアが位置する乾燥したセハード地帯独特の植物や動物の絵をあしらったTシャツなどもあり、買いはしなかったけれど、なかなかいいなと思った。

次の写真は、テレビ塔。このテレビ塔には展望台があって、エレベーターで上に上がれるのだけれど、またの機会にと思い、今回は上がらなかった。

この後、シウヴィアがオーランドに連絡すると、すでに大学から戻って、エドソンをホテルに送り届けたところだということだったので、私もシウヴィアに送ってもらい、ホテルに戻った。午後7時にエドソンはオーランドと一緒に、彼の所属する組織を訪問させてもらうために再度外出するのに、夕食を食べている時間がないので、私がシウヴィアからお土産にもらったチーズ味のスナック菓子を夕食代わりに食べて出かけて行った。私もお昼に食べたスパゲティがまだ胃の中で滞在している感じでお腹が空いていなかったし、疲れていたので、ホテルのレストランには行かず、同じスナック菓子を食べて、シャワーを浴びて、バタンキューと横になった。エドソンは12時を少し回って帰ってきた。

2015年11月20日(金)

ブラジリア空港出発が午前10時20分だったので、ホテルは8時半頃出てタクシーで空港に行けばいいと思っていたのだけれど、オーランドが8時から8時半の間に来てくれ、空港まで送ってくれることになったとエドソンが言うので、朝食を食べて、荷物をまとめて、チェックアウトをして、8時にはロビーで待っていたのだけれど、9時出発で十分と言って、時間変更の連絡があり、9時にオーランドが来てくれるまで、ずっとロビーで待ち続けた。空港まで20分ほどなので、それでも問題ないとは思ったのだけれど、空港に着いたら、すごい人でごった返していて、チェックインの列もふたつあり、どちらに並んだものかわからず、係の人を探して聞いて、やっと列に並ぶという始末。このまま並んでチェックインするのでは出発時間に間に合わないと思っていたら、係の人がヴィラコッポス行きの人はこちらにと言って、先頭に連れて行ってくれてチェックインできたので、何とか出発時間に間に合った。ブラジリア空港に到着した際は、飛行機は空港ビルに横付けしたのだけれど、出発の際は、出発ゲートを出たら、階段を下りて、外で待っているバスに乗って飛行機の所まで移動するようになっていた。ブラジリアの空港はさすがに首都の国際空港なので、空港ビルが大きくてきれいで、諸外国の国際空港に引けを取らない感じだと思ったけれど、バスで乗客を飛行機まで運ぶといことは空港ビルが手狭なんだなと思った。

飛行機はほぼ定時に出発。カンピーナスにもほぼ予定通り到着。車を預けている駐車場に行くバスもあまり待つことなく来たので、スムーズに駐車場に移動。支払いを済ませて、一路パーディーニョに向かい出発。朝しっかり食事をしたので、お昼は抜かして、パーディーニョまで戻り、ホドサーブ・スターで給油と洗車をしてもらってから、ヴィラ・シーコにはるとひろを迎えに行った。2匹とも元気にしていたけれど、ひろは初日に外で走り回った後、部屋に行く際、呼んでも来ないし、捕まえようとしても逃げ回るので、部屋に入れるまですごく時間がかかって大変だったとかで、あまり外で自由に走り回らせてもらえなかったようで、少しジュルルな浮かない表情をしていたけれど、エドソンがはるも一緒に優しく膝にのせて、音楽をかけて、我が家に戻るまでずっと体を撫でてやっていたので、家に帰り着くまでにはご機嫌が戻ったようだった。帰宅後は下のガレージの冷蔵庫に移動させておいたお肉や野菜を上に持って上がり、夕飯を作って食べ、はるたちのルーティンのお散歩をして、シャワーを浴びて、バタンキューとベッドに潜り込んだ。3泊4日のブラジリアへの旅は疲れたけれど、エドソンにとってはとても有意義な訪問となり、私もオーランドやシウヴィアのお陰でブラジリアをたくさん見て回ることができ、とても幸運な訪問になった。オーランドとシウヴィアには大、大感謝!!

2015年11月21日(土)

はるとひろがヴィラ・シーコでお泊まりしている間に、9月にするはずで忘れていたはるの予防接種をしてもらい、ひろの虚勢手術の後の抜糸をしてもらい、最終日にシャワーで体を洗ってもらう約束になっていたのだけれど、ドトーラ・ジャナイーナが休暇で留守をしていて、代わりに来ていた獣医さんは他所で行われた手術の抜糸は問題が起きたりした際、対応できないからと言って、やってくれなかったことがヴィラ・シーコに行ってから判明した。それで、ひろの抜糸はポリヴェットのドトーラ・ヴィットリアにしてもらわなければならなくなった。予定が遅れたので早い方がいいと思い、今日、朝食後にポリヴェットに行き、抜糸してもらい、帰りにドナ・マリナで野菜と果物をたくさん買ってお昼前に帰宅した。そして、我が家の入り口ゲートまで戻って来て、毎週土曜日の朝はヴィトーの英語のレッスンがあったことをすっかり忘れていたことを思い出す始末。ああ、失敗、失敗。旅行ボケとひろの抜糸の予定が狂ったことで、ヴィトーには申し訳ないことをしてしまったと反省。そして、午後からは荷物の整理をして、溜まった洗濯をして、旅行中のブログを書いて、アップする作業をした。

2015年11月22日(日)

今回ブラジリアに行って、ブラジリアの特徴的なことのひとつは、あちこちで行われていた抗議行動かなと思った。まず、ブラジリア空港で荷物を受け取って、到着出口を出ると、そこで待ち構えて、乗客が出てくるたびに大きな声で何か叫んだり、歌を歌ったりしているグループがいた。何に抗議しているのかはわからなかったけれど、同じTシャツを着て、手に手に小さなプラカードを掲げていた。同じ日の夜、夕食に出た際も、大統領府の近くでデモが行われていたようで、道路が一部封鎖されていた。そして、翌日18日の水曜日もホテルの中にいてもデモの声が聞こえてきたし、昼食に出た際は、デモ行進をしている人たちをちらっと見かけた。オーランドの話では、このところブラジリアではジウマ大統領の罷免を求める抗議行動と、軍政の復帰を求める抗議行動のふたつが連日のように行われているということだった。

ブラジリアから戻り、土曜日にニッケイ新聞を見ると、『20日の「黒人の意識高揚の日」を前に、18日午前中、ブラジリアで人種差別と暴力に反対する黒人女性によるデモ行進』があったという記事が掲載されていた。この日も複数の抗議行動があったらしいので、ホテルの部屋にいて聞こえたデモがこれだったのかどうかはわからないけれど、このデモは、連邦議会前の広場で別の抗議行動参加者との間に混乱が起き、発砲した市警2人が逮捕されたとあった。私たちのすぐ近くでこんなことが起きていたなんてまったく知らなかった。この11月20日付けのニッケイ新聞の『首都で黒人女性の行進=人種差別と暴力に抗議し=議会前での混乱で逮捕者も』という記事のサイトは、こちらへ

2015年11月23日(月)

昨晩、0時を回ってエドソンが起き出したので私も目が覚めた。私は気づかなかったのだけれど雷が鳴ったらしく、起きてすべての電化製品のコンセントを抜いて、開いていた納戸と台所の窓を閉めに行ってくれたのだった。エドソンがベッドに戻ってきてしばらくすると、降っていた雨がだんだん激しくなり、雷も近づいてきて、何度かすぐ近くでドカンと大きな雷が落ちた。その後停電になったようだったけれど、朝起きると幸い電気は戻っていた。朝起きた頃には雨は止んでいたけれど、辺りは深い霧に包まれていた。次の写真は、午前11時前に霧に包まれたランドマークの木の辺りを撮ったもの。

家の中でははるとひろが別々のベッドの中で寝たり、ひとつのベッドの中で戯れ合ったりを繰り返している。外が暗いので、家の中も暗く、写真も暗くなってしまった。次の1枚目の写真は、戯れ合っている最中で、ベッドの中にいるはるに飛びかかろうとしているひろ。2枚目の写真は、ベッドの底か中のタオルをひっかいているひろを眺めているはる。お天気が良くても悪くても、これがほぼ彼らの日常。左の赤いベッドは買って2週間にしかならないのだけれど、昨日何か所も破れた所を修繕したばかりなのに、早速また2か所かじって穴を開けてしまっている。ひろがもう少し大人にならないと、こういった破壊行為は続くのだろうなあ・・・。

2015年11月24日(火)

昨日は1日中断続的に雨が降り続き、夕方遅くなってようやく止んだものの、今朝はまた雨、雨、雨。気象レーダーサイトを見ると、西のマトグロッソ・ド・スーウ州の東部から、サンパウロ州南西部から北東部にかけて、さらにパラナ州の北部をも覆うとても大きな雨雲が北東に向かって移動しているようなので、どうやら今日は雨の止み間すらも期待できない1日になりそう。こう毎日雨が続くとため息が出そう。でも、こんなお天気でも、ダイニングルームのテーブルの上のランは今だに色とりどりの花を咲かせているし、ブラジリアに行く前に2つ花をつけた窓辺の棚に置いたセントポーリアが、ブラジリアから戻ると花の数が5つに増えていたりと、私たちの目を楽しませてくれている。そしてもちろん、はるとひろの存在があるので、暗い気持ちにならず、笑っていられるのだとありがたく思う。彼らの存在は本当に大きい。

2015年11月25日(水)

ペトロポリスの安見さんから、この日曜日にペトロポリス日系協会恒例の忘年会をしたとメールをいただいた。ボトゥカトゥでもブラジリアでもクリスマスの飾り付けがされて、世の中すっかりクリスマスの雰囲気ではあるけれど、今月はエドソンがサン・ジョゼ・ドス・カンポスに泊まりがけで行ったり、今回のブラジリア行きがあったり、ひろの虚勢手術があったりして、バタバタしていたので、クリスマスや師走が近づいているということがまったく頭になかった。メールをいただいて、もう忘年会のシーズンで、年の暮れかとあらためて思った。次の写真は、35名が参加されたという忘年会の集合写真と、会を始めるにあたり行われた三、三、七拍子の様子。

次の写真は、今年の活動報告をする安見さん(右側後ろ姿)に耳を傾けている参加者。ペトロポリス日系協会が今年8つのイベントを実施したことを報告し、来年は文化祭の日程が丁度リオのオリンピック開催時期と重なり、さらにペトロポリス市役所はお金がないと言っているのでどうなるかわからないけれど、協会は協会のできる範囲でやりましょうと話し合われたそう。さらに、リオ総領事館からの情報として、来年2月の東京マラソンに外国人招待選手として、ペトロポリスのマラソングループ「Pe de Vento」から選手を送る予定であるという報告もされたそう。確か、安見さんご家族はリオのオリンピックにボランティア登録しておられたのではなかったかな?来年もお忙しそうだなあ・・・。

報告会の後のお楽しみの食事会では、シュハスコの足しにとお寿司やおにぎりを用意したのだけれど、それらが最初になくなってしまい、シュハスコが大幅に余ってしまったのだそう。ここで同じことをしたら、きっとお寿司やおにぎりが大幅に余ってしまい、シュハスコはなくなるだろうなと思った。ボトゥカトゥに行けば日本食のレストランが2~3軒あるけれど、パーディーニョの人でそこを利用したことのある人はごくごく少数派だと思う。この田舎町の人たちは異質なものに関心がなく、食に関しても同じくシュハスコ一辺倒でとても保守的で、こういう変わったものは食べようともしないし、たとえ食べてみたとしても、おいしくないと言うのが関の山。食に関してオープンなペトロポリスは都会なのだと思う。

次の写真は、元ATA社員で、サンバチームに加わって半年単位で10回以上日本に行って、全国のリゾート地を歩いたという男性に来てもらって、得意のバンデイロ(ブラジル風のタンバリン)を披露してもらっているところだそう。ATA社というのは、三菱重工業の煙管ボイラーを手がけたブラジルの現地法人で、現在はもうないのだけれど、当時安見さんがそこの社長をしておられた関係で、この人を知っておられたのかな?

次の写真は、「ホタルこい」を披露しているコーラスグループ。この他「きよしこの夜」をポルトガル語、英語、日本語の歌詞を配って皆で歌われたということだった。ちなみにこの忘年会はいつも安見さんのご自宅で行われている。回りに山が迫って見えるのは、ペトロポリスが’山の中にある町だから。

2015年11月26日(木)

この日曜日にあったアルゼンチンの大統領選挙の二次投票で、クリスチーナ大統領の後継者ではなく、対抗馬で保守派のマウリシオ・マクリ氏が選ばれたのはいいニュースだった。エドソンによると、彼は民主主義国ではないベネズエラがメルコスール(南米南部共同市場)に入っていることに異議を唱えたり、中国やロシア寄りの前政権を批判している人らしいので、この新大統領の下、アルゼンチンの国家運営は正常化に向かうのではないかという期待が持てる。新大統領の一番最初の海外訪問はブラジルになるそうだから、これまで少しギクシャクしていた両国関係も改善が期待されるし、隣国が安定した民主主義体制で政治を行えば、現在労働者党にいい目に遭わされているブラジルにとってもいい影響を及ぼすのではないかと思われる。それにしても、ブラジル、アルゼンチンともに女性大統領をいただきながら、その選択が間違っていたことを思い知ることになったのは、何とも残念なことだったと思う。11月24日付け、ニッケイ新聞の『アルゼンチン大統領選=マクリ氏が逆転勝利=キルチネル政権12年で幕=今後の伯国との関係は?』という記事のサイトは、こちらへ

2015年11月27日(金)

ブラジリアから戻った翌日の土曜日は曇り空ながら雨は降らなかったお陰で、午後になって洗った洗濯物も夕方までにはきれいに乾き、ありがたかった。でも、日曜日からは連日の雨、雨、雨。それでも火曜日の夕方、西の空が赤くなり夕焼けが見えたのでちょっと期待したのだけれど、翌朝はまた雨だった。夕焼けが出たら翌日は晴れるというのは日本でのことで、ここではどうもそう単純には行かない。さらに翌日の水曜日の日没後に、火曜日の夕焼けよりもさらに広範囲にきれいな夕焼けが見られたので、午後8時前頃に次の写真を撮ってみた。そして、木曜日の朝は厚い雲に覆われて明け、お昼くらいからほんの少し薄日が射す時があり、久しぶりに雨が一滴も降らない1日となり、洗濯物がすっきり乾き感謝。感謝。そして、今朝は久々に朝から太陽が顔を出し、気持ちのいいお天気の1日になりそうでうれしい。

2015年11月28日(土)

先日、広島の兄からメールが届いた。今年はいつまでも暖かかったけれど、ようやく冬らしくなってきたこと、そして、母の様子などを知らせてきてくれた。さらに「お父さんの本を処分しようと整理したら、昭和14年から16年のスクラップブックと昭和20年代のものが出てきました。今までまともに目にしたことはなかったので、新鮮な驚きを感じました。1階の縁側で整理がてらぱらぱらと見ていたら、昔からよく聞いていたことでもあるが、資料を改めて目にすることで、様々な思いが込み上げて涙がとまりませんでした。ちょっとしたドラマでもすぐに目が潤むタイプですが、こんなに泣いたことはありません。それにしても原爆にあったというのに、こんな戦前の資料がきれいに残っているのには驚きました。二中(広島第二中学校)が三連覇したときの切り抜きをコピーしたので添付します」と言って、次の切り抜き記事の写真を送ってきてくれた。こういう新聞記事のスクラップブックがあることは私も知らなかった。戦前の極東大会で着た日本代表のユニフォームのシャツといい、戦前のスクラップブックといい、広島の父の実家にあったら原爆で亡くなったおじいさんたちともども消失していたはずだけれど、それが残っているということは、おばあさんがわざわざどこかに疎開させていたということなのだろうか?おばあさんたちにとって末息子(私たちにとっては父)の活躍はとても自慢で、その証のような新聞記事は宝物だったのかもしれないなと思った。それにしても、私も兄も涙腺が弱いのは遺伝子のなせる技かな?

2015年11月29日(日)

このところずっとブラジル政界を揺るがしているペトロブラス疑惑で、不逮捕特権のある現職の連邦議員がとうとう逮捕された。そのためジウマ政権と労働者党は上を下への大騒ぎでひっくり返っていて、ブラジルの新聞の政治面のほとんど、経済面の一部はこの逮捕されたデウシジオ上院議員の話題が独占しているという。この影響で、12月3日と4日に予定されていたジウマ大統領の日本公式訪問が、またキャンセルされる見通しなのだとか。この逮捕された上院議員は、すでに逮捕されているセルヴェロー容疑者に司法取引で証言をさせないようにするため、司法に手を回して釈放させ、国外逃亡を手助けしてやるというようなことを容疑者の息子に電話で話したようで、その会話が録音されてしまったため、捜査妨害の現行犯ということで逮捕されたのだとか。捜査の手はジワリジワリとルーラやジウマに近づいて行っているのだろうか?

ニッケイ新聞11月28日付けの『ジウマ訪日キャンセル決定か=フォーリャ電子版等が報道=デウシジオ上議逮捕の余波で=13年に続いて2度目?!』という記事のサイトは、こちらへ

以下は、ニッケイ新聞11月27日付けの「コラム 樹海」からの転載。

「アミーゴには全てを与え、敵には法で接す」という伝統

『25日のデウシジオ上議逮捕は「現行憲法の施行以来、初めて現職が捕まる」事態であり、首都に激震が走った。連邦議員には「不逮捕特権がある」と言われるが、実は例外条項として「現行犯をのぞく」とある。警察の目前で犯罪行為をするようなお頭では当選しないから、実際「特権」だと思われていた▼ところが今回、最高裁は〃現行犯状態〃との異例の判断を下した。さらに司法による事前許可のない録音が逮捕根拠として採用されたのも例外的な状況であり、ある意味、最高裁が法を拡大解釈してでも逮捕すべきと判断したといえる▼なぜそこまで―と不思議に思ったが、録音を聞き納得した。11月4日に首都であった内密な会合で同上議が、ペトロブラス疑惑で拘束中のセルヴェロ容疑者が司法取引による減刑を伴う証言をしないように金を与え、国外逃亡を提案する内容。最高裁判事の名前を次々に出して「話は通してある」という口ぶり。明らかな捜査妨害だ▼同上議はPT所属で、上院でジウマ政権を代表する「政府代表」の重職を担う。役職上、頻繁に大統領と会合を持つ。そんな人物が件の提案をし、「司法に手をまわした」とする発言だけに、最高裁は猛烈に反発せざるを得なかった▼かつてヴァルガス大統領時代には「アミーゴには全てを与え、敵には法で接す」と言われた。敵に厳法を振り回すのは当地の〃伝統〃であり、最高裁をその状態に追い込んで、敵に回したPTの今後は暗い▼同日晩の上院審議では実名評決で逮捕維持という〃前例〃まで作った。次はクーニャ下院議長が「国外秘密口座を持っていないと偽証」が「現行犯状態」となる可能性すらも。(深)』

2015年11月30日(月)

ブラジリアでシウヴィアと一緒に半日観光をした時の写真を数枚、オーランドがエドソン宛てにメールに添付して送ってきてくれた。どれも本願寺の本堂や鐘突き堂のところでシウヴィアが撮ってくれたもの。いつも私はカメラでパチパチ撮る側なので、自分自身の写真が少ないのだけれど、わざわざ送ってきてくれて感謝、感謝。せっかくなので今日は私の写真のオンパレード。



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