Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2015年10月1日(木)

暑くていいお天気が続いていたので、お天気が崩れて雨が降り出したらフランボヤンジーニョなどの苗木を植えようと思っていたら、先週金曜日の夕方に暴風雨があり、以後降ったり止んだり、曇り空だったりのお天気で、苗木を植えるのにちょうどいい感じになった。でも、あいにく金曜日の午後私が蜂に刺されて、数日ダウンしていたので、実行に移せないでいた。幸い日曜日に救急病院で注射を打ってもらったのが効を奏して、体調がだいぶ回復し、月曜日から普通に動くことができるようになったので、入り口ゲートに向かう道沿いにヒバマーに掘っておいてもらった穴に、フランボヤンジーニョの苗木12本と、花が開かないタイプの赤いハイビスカスの苗木4本を植える作業を火曜日にすることができた。3日間グータラとベッドに横になって寝ている時間が長かったので、少し生産的なことができて自己満足。次の写真の、左側のセドリーニョの前にポツポツと見える緑色の小さなものが、フランボヤンジーニョの苗木の列。右側の道路沿いの緑のアメンドインの左側にこれまたポツポツと見えるひょろひょろとした緑がハイビスカスの苗木の列。画面の向こう側に見える黄色のシャツを着た人は、ブラキアーリアを取り除く作業をしてくれているヒバマー。ヒバマーは毎年9月に2週間くらいまとまった休みを取って、その間うちに来て仕事をしてくれるので本当に助かっている。彼にとっては有休期間中うちで働くことで、収入を増やすことができるので、お互いにとって好都合なのは本当にありがたい。

2015年10月2日(金)

ペトロポリスの安見さんから、「9月20日の博物館でのピアノリサイタルで、今年のペトロポリス日系協会がかかわった日伯友好120周年記念行事は完了しました」とメールをいただいた。「今年実施したイベントは、博物館の庭での花見ピクニック、ポッセ文化センターの日本展、ノゲイラ文化センターの折り紙作品展、成人向け補修校の切り紙教室、TV O Globoの地方局Inter TVでの日本文化展と今回のピアノリサイタルで、7、8、9月にわたりました」とメールにあった。ブラジル全国を見渡しても、こんなに盛りだくさんの日本関連イベントを行うところはペトロポリス以外ないのではないかと思う。それにしてもよくされるなあと、そのエネルギーに感心してしまう。次の写真は、そのピアノリサイタルのもの。

このピアノリサイタルは領事館がアレンジしてくれたので、安見さんご夫妻は現地でのお世話だけということで、簡単なことと思って取り組まれたらしいのだけれど、ピアノの調律、練習等の準備を入れ丸二日間のお世話は細かく気を使い心配することが沢山あり、チェックリストを書いて対応されたという。「芸術家は一般的に繊細で細かいことを言う人が多いという我々の心配でしたがピアニストのJUNKO UENOさんはおおらかで冗談によく反応して明るい人だったので助かりました」とあり、リサイタルは無料でも観客が集まるか等の心配があったのだけれど、収容能力150席の会場に130席は埋まりほっとされたようだった。

TV O GLOBOの地方局Inter TVの日伯友好文化展は、テレビ局の広間でペトロポリスの風景写真と日本の器具、装飾品を一緒に展示するというもので、和食器、着物関係、人形等の飾り物などが展示され、8月5日から9月25日までほぼ2ヶ月も続いたのだそう。日伯友好文化展のことはニュースやコマーシャルの間にほぼ連日2~3回宣伝が行われたので、宣伝効果は抜群だったらしい。ご夫妻がこの映像に結構長く写っておられたので、街で5歳くらいの男の子が道子さんの顔を見て、このセニョーラ、テレビに出ているよとお母さんに話しかけていたそうで、おふたりの顔が広く知れ渡ることにもなったようだった。次の写真は、放映されたテレビ画面を写したもの。

2015年10月3日(土)

入り口ゲートに向かう道沿いに、孟宗竹の芽が土を押し上げているのをエドソンが見つけ、そこを掘ってみると4つタケノコが生えてきていたので、ヒバマーに手伝ってもらってそのタケノコを採ってきてくれた。次の写真は、その小さな4本のタケノコ。日本の茹で方は、皮ごと米ぬかで茹でるのが一般的だけれど、ブラジルの茹で方は皮を剥がしてから茹でるらしく、エドソンが皮を数枚取ってしまった後なので、小さいタケノコがさらに細く小さくなってしまった。米ぬかがない場合はお米と一緒に茹でる方法もあるとインターネット上にあったので、この状態で、お米を少し入れて一緒に茹でてみた。

次の写真は、茹で終わって皮をむいた状態のタケノコ。生まれて初めて採れたてのタケノコを自分で茹でたのだけれど、小さなタケノコがさらに小さくなってしまい驚いた。これだけでは量が少なく、おかずにならないので、タケノコご飯を作っていただいた。苦味などまったくなく、とても柔らかくておいしかった。ここの自然の恵みには感謝。感謝。

2015年10月4日(日)

次の写真は、昨日の午後、丘の上から西を向いて撮ったもの。この1週間ほとんど毎日一度は雨が降ったので、手伝いのヒバマーは大変だったと思うけれど、せっせとブラキアーリアを取り除いてくれ、その面積が段々と広がってきている。ここにグアンドゥ豆を蒔いて、2枚目の写真のように育てて、ブラキアーリアが生えてこないようにしたいと思っている。昨日も朝は雨だったのだけれど、朝食が終わる頃に一旦止み、午後からまた雨模様の1日になった。そして、今朝も深い霧の中。ここ最近また、本当によく雨が降る。

次の写真は、同じく丘の上から南を向いて撮ったもの。貯水タンクの回りのグアンドゥ豆の木が大きくなって、今ではタンクが隠れるようになっている。植えた木々が成長して、その向こうの我が家の屋根はほとんど見えない。

2015年10月5日(月)

以下は、10月3日付けニッケイ新聞の「日伯コンサル奮闘日記」からの転載。

第46回 日本人が信じられないブラジルの不都合な真実 ⑦

ついに今週1ドルが4レアルを超えた。わずか2年前には、2レアル前後だったのが半分になってしまったわけだ。しかし4レアルを超えたのは、実はこれが初めてではない。

確かルーラが大統領に就任した2002年の10月頃にも、一瞬だったが4レアル台を打っている。その時の驚きと、対円でも使い出があったのを覚えている。

なぜなら、1990年代初頭の年率3000%というハイパーインフレのブラジルを訪問し、為替のスリリングな世界や、半公然化した闇の両替の面白さ、溢れるストリートチルドレンの問題などを体験しながらも、物価の安さを堪能していたのだが、95年のレアルプランの成功により、1ドル=1レアルに固定されて、いきなり物価が高止まりし、あらゆるものが高くて、参った経験があったからだ。

そこから7年で4分の1に、そして20年で2度、4分の1になったことになる。為替が400%変わるというのは、例えば1ドル360円の時代から7年で90円になる、そして90円だったものが360円になるということだ。日本では信じられない動きである。90円から120円まで動いて、円安・アベノミクスと言っているのは、ブラジルからすると誤差になってしまう。

今は確かに、この20年間で最も大きな経済の下落時期かもしれない。失業者も増え、再びストリートで生活する人が日常化し、治安の悪さも昔に戻りつつあるように思う。

この20年間で、先ほどのルーラショック、アジア通貨危機に端を発したラテンアメリカの通貨危機、そしてリーマンショックなど、何度か経済が急減速し、為替が大幅に振れる時期があったが、GDPは増え続けており、結局下げ相場の時に、一気に投資をしてマーケットを押させた企業が、その後の回復局面で事業を急拡大させ、大きな利益を手にしている。

要するにブラジルの下げ局面は、実は大きなチャンスである。今までの半分の金額の投資で、市場が手に入るのだ。こんな美味しいことはない。

オマハの賢人と言われるバークシャー・ハザウェイのウォーレン・バフェットやアメリカの投資ファンドは、逆張りで経済の後退局面でリスクを取って優良企業を安く買い、回復局面で大儲けをするわけだが、ブラジルは、それにはおあつらえ向きの市場というわけで、現在欧米の投資ファンドは活発に買いに動いている。

景気後退局面のレアル安の時に大きく投資をして、市場を握り、回復局面で儲け、ピークで売り抜けると高い利益が見込めるというのがブラジルの真実だが、これはなかなか日本企業には不都合らしい。

安全第一で、100%安全を担保しないと投資ができない、元本保証を求める日本人のメンタリティでは、景気後退局面では、投資を控えて頭を低くし通り過ぎるのを待ち、回復局面で頭をもたげ、みんなが儲け出したのを確認して、すべて高くなって初めて投資をする。

高く買っているので、当然利益は少なくなるわけで、やっぱりブラジルは儲からないなあとつぶやくことになる。売った方の外資系投資ファンドは、高くなって誰も買わなくなったものを最後に来て高値で買ってくれる日本企業のことを、サンキュー!ラスト・インベスターと呼んでいるそうだ。

2015年10月6日(火)

日曜日は午後から少しお天気が回復し、曇りがちながら時々うっすら陽もさすようになったので、延び延びになっていた畑仕事をした。9月にヒバマーに手伝ってもらってマラクジャやカラのつるを取り除いてもらい、大まかな草取りはしていたのだけれど、あれから1ヶ月、また草が生えてきていたので、それらを抜いて、くわで土を起こして、小芋とこんにゃく芋の種芋を植えた。次の写真は、作業を終えた後の畑の様子。この畑には畝が5つあるのだけれど、一番右側でスナップエンドウが少し芽を出し始めている畝は写っていない。2列目の畝には、あまりに小さくて収穫しなかった小芋の葉が見える。この畝にあらたに小芋とこんにゃく芋の種芋を植えた。真ん中の畝には、バジル、とうがらし、フェイジャオン・ポーコという豆と、ムクナ豆が育っている。左から2列目の畝には、フンショととうがらし、そして、土曜日の朝、パーディーニョのお店で売れ残ったレタスの苗をタダでもらったからと、エドソンが植えたばかりのレタスの列。左端の畝には、フンショやセージ、イタリアンパセリなどが細々と生えている。

次の写真は、日曜日の夕飯に使うと言って、エドソンが畑から採ってきたイタリアンパセリ。2枚目は、畑に生えているイタリアンパセリ。

2015年10月7日(水)

毎年10月4日から10日までの1週間は、国連の世界宇宙週間。国連は、2000年に宇宙科学技術が人類の発展に貢献したことを記念して、10月4日から10月10日までの1週間を国際レベルで祝す「世界宇宙週間( World Space Week)」とすることを宣言。10月4日は、1957年に人類初の人工衛星「スプートニック1号」が宇宙に飛びだし、宇宙空間の探査の道を拓いた日であり、10月10日は、1967年に「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」(宇宙条約)が発効した日であることを考慮したものだそうだ。

それに合わせてエドソンはボトゥカトゥのエンブラエー高校で、今日の午後、衛星通信に関する授業をして、金曜日にはイギリスのAMSAT-UK(アムサット・ユーケー)の協力を得て、エンブラエー高校宛てのメッセージを衛星から送信してもらい、衛星通信のデモンストレーションをする予定だという。去年は、バウルのアマチュア無線仲間のデミウソンが関わっている、サンパウロ州立大学の気象観測バルーンプロジェクトにエンブラエー高校の生徒たちにも参加してもらうということをしたのだけれど、今年はこの世界宇宙週間に合わせて、衛星通信に関する授業とデモンストレーションをすることにしたようだ。世界宇宙週間の間に行われる宇宙関連のイベントは、国連がサイトに登録することを奨励しているらしく、エドソンもちゃんとエンブラエー高校での授業とデモンストレーションを国連に登録したということだった。このエドソンのエンブラエー高校でのボランティア活動は、好評だった去年に続き今年も行われ、毎年の恒例になりつつある。

2015年10月8日(木)

次の写真は、昨日エドソンが世界宇宙週間に因んで衛星通信に関する授業を行ったボトゥカトゥのエンブラエー高校の校舎。

次の写真は、少し暗いけれど、エドソンがプレゼンテーション中に使ったAMSAT-BR(アムサット・ブラジル)の世界宇宙週間(World Space Week / Semana Mundial do Espaco)に関するサイトを写したもの。

次の写真は、授業が終わり、生徒たちと一緒に撮ったもの。この子たちは高校2年生だそうだ。授業中の質疑応答では質問をしなかったものの、授業が終わってからひとりの男子生徒がエドソンのところにやって来て、いろいろ質問をし、とても強い関心を示していたらしい。この生徒はその後、再度エドソンのところにやって来て、今読んでいるスティーブン・ホーキンスの分厚い本を見せていたと言う。こういうおとなしいけれど、いい意味でちょっと変わった子が将来、宇宙科学の道に進んでくれたらいいなというのが、エドソンの夢。

2015年10月9日(金)

以下は、10月7日付けニッケイ新聞の「コラム 樹海」からの転載。私は短歌や俳句の素養はまったくないけれど、何なんだろう、作品を読んでいるとこれらの短い言葉の中に作者の様々な思いが伝わってきて、いいなあと思えるのは日本人のDNAのなせる技なのだろうか?

『先の全伯短歌大会の中から独断と偏見で選んだ作品を紹介したい。あれほど辛かった開拓生活が懐かしく思える心境になった様を詠んだ「渡伯時の想い出ぼろぼろこぼれ出て行きて探せど板小屋はなく」(新井知里)▼子供移民には日本の家こそが「我が家」。常にどこか旅路にいるような感覚が詠み込まれた「コロノの家わが家と思わず幼なごはうちへ帰ろうと移住せし頃を」(高橋暎子)▼納得したと思っていたはずなのに、生活の必要から泣く泣く国籍を離脱した時の心境がふと込上げる様を描いた「白飯(しろいい)の粒たつ見れば自ずから目がしら潤む帰化人のわれの」(上妻博彦)▼難民のニュースを見て、かつての移民船を思い出して詠んだ「大人らの心配よそに船上で無邪気に手を振る難民の子ら」(山田節子)。中東情勢を詠み込んだ「戦争をせよと教へる神ありや平和を祈り逃げ惑ふ民」(富岡絹子)も考えさせられる歌だ▼子らに日語は伝わらなかったが、ふとした瞬間に見せる仕草にDNAを感じる様を「祖父の血をかくもそれぞれ受けしかと子等の仕種を見つつおそるる」(川久保タミ)と表現したのも面白い▼長年の二人の日常が崩れた心境「朝まだき熱きカフェを独り呑む妻亡きあとの無量のしじま」(木村衛)も深い悲しみが伝わってくる▼喜寿の祝いだろうか。子らが準備してくれた赤飯にガルフォが添えてある様子に「郷に入れば」の心境で「お赤飯皿にガルフォの祝い膳郷に従い慣れ来し幾とせ」(相部聖歌)には達観が溢れている▼「半世紀住み居て歌えぬブラジル国歌リオ五輪までに覚えてみたき」(金谷はるみ)も共感を呼ぶ作品ではないか。(深)』

2015年10月10日(土)

この水曜日に、エドソンはエンブラエー高校から7時前に帰宅すると、「今テレビで、連邦会計検査院(TCU)の審理をライブ中継しているからグロボテレビに変えてもいい?」と言って、夕食は後回しにしてテレビを見始めた。これはジウマ大統領とPT(労働者党)が必死になって阻止しようとしていた政府の粉飾会計疑惑の審理で、ようやくその審理が実現したもの。でも、審理が実施されたからといって、結論は最後までどうなるかわかない状態だったのだけれど、連邦会計検査員は無事審理を行い、連邦政府の14年度会計に、満場一致で「違反」という判断を下した。これでPTによってお金と権力でズブズブになったブラジルにまだ三権分立と民主主義が機能していることを示す結果になった。その結果いよいよ議会でジウマ大統領の罷免に向けた動きが進展するのではないかと期待されている。このことを報じる10月9日付けのニッケイ新聞、『TCU=粉飾会計で「違反」判決=判事投票は満場一致=連邦政府78年ぶりの屈辱=頼みの綱はレナンのみか』という記事のサイトは、こちらへ

木曜日の夜、エドソンは遅くまで下のガレージで、翌日のエンブラエー高校での衛星通信のデモンストレーションで使うための衛星通信受信用アンテナを作っていた。以前作って今、使っているアンテナは周波数の異なる別の衛星の通信を受信するためのものなので、今回のAMSAT-UKの衛星からの電波を受信するためには、あらたなアンテナを作る必要があったのだそう。次の写真は、衛星からの電波を受信するため、学校の駐車場に設置したそのエドソン手作りのアンテナ。

エドソンは、金曜日の朝6時前から起き出して、コンピュータの前で準備を始めたので、私も6時半には起きて朝食の準備をした。外は霧が出て視界が悪く、西から大きな雨雲が接近してきていたので、屋外でのデモンストレーションで雨が降ると困るなあ・・・と、言いながら、エドソンは朝食を済ませて、午前8時前には出かけて行った。私とはるたちは、例によってお留守番。でも、幸い雨雲は南をかすめて通ったため、ここもボトゥカトゥも雨は降らず、薄日もさして、デモンストレーションは何の問題もなくスムーズに行ったようだった。次の写真は、衛星からの電波を受信しているコンピュータを覗き込んでいる生徒達とエドソン。エドソンの右側の黒いシャツに黒いズボンの男性は、このエンブラエー高校の校長先生。と言うか、彼は教師ではないらしいので、ディレクターと言った方がいいのかな?AMSAT-UKから送られてきたメッセージも無事受信。皆感激の様子だったという。2枚目の写真も生徒達。それぞれの写真の後方に見える建物は、ブラジルの航空機メーカー、エンブラエーの工場で、エンブラエーは中型ジェット旅客機や軍用機などを製造している世界第4位の航空機メーカー。本社は、サンパウロ市よりも東に位置するサン・ジョゼ・ドス・カンポスにあり、そこと、このボトゥカトゥの2ヶ所に工場があるのだけれど、その2ヶ所で工場敷地内に高校を設立して、地元出身の成績優秀な生徒を試験で選抜して入学させ、授業料無料でハイレベルな教育を行っている。日本ではトヨタが似たような感じで学校を作って教育活動をしているけれど、授業料が無料かどうかは知らない。

2015年10月11日(日)

はるとひろはかなり性格が違う。はるは人を怖がらず、誰にでもフレンドリーで外から人がうちに来るとうれしくて仕方がなく、その人に飛びついて行く。ひろは臆病な性格で、知らない人が来ると遠巻きから関心を持ちつつ観察しながら、怖いものだから吠えたりする。はるはめったに吠えないけれど、長い棒状のものが嫌いで、掃除機やモップやほうきなどを私が使うとそれらに吠えかかってくる。でも、ひろはよく吠える一方で、それらの棒状のものに対して特別な嫌悪感や恐怖感はなく、それらに吠えかかったりはしない。それで、境界線を示すために、竹の棒を置いておくと、はるはそれをまたいで越境したりはしないのだけれど、ひろにはまったく意味がないようで、竹の棒を置いて、ここからあっちへは行ったらダメと言っても、まったく効き目がない。ひろがうちに来る前から、はるは私たちとの生活のペースができあがり、ずいぶん落ち着いてきてはいたけれど、ひろが来てからはさらに私たちの言うことをよく聞いてくれるようになった。ひろの行動に制御不能なところがあるので、余計にはるの聞き分けの良さが際立つようになったのかもしれない。以前は、ケージに入るのを嫌がることが多かったはるだけれど、最近はケージに入ることに抵抗のないひろにつられたのか、私たちの食事の前に、「ケージに入ってくださ~い」と言うと、はるは率先してケージに入ってひろが来るのを待つようにすらなった。次の写真は、ある日の午前中、私が台所で仕事をしていた際、私の立っている流しの前で、私のすぐ横に座って、私のすることを見つめているひろ。はるは私が台所で仕事をしていると、台所には来ず、おとなしくベッドの中などにいることが多いのだけれど、ひろはよく台所に来て、こんな風にしていることがある。動いたら踏みつけそうな近距離なので、ちょっと危ないのだけれど、時々こんなはるはしない行動をひろはする。

2015年10月12日(月)

金曜日はエンブラエー高校での衛星通信のデモンストレーションを終えて、正午頃帰宅したエドソンは、昼食を食べてから仕事に追われていたけれど、午後遅くに、忙しい仕事の合間を縫って郵便局に行ってくれた。お陰で、前園さんから火曜日に発送したと連絡をもらっていた楽書倶楽部第30号を手にすることができた。以下は、この号に掲載された私の文章のコピー。

手伝いのヒバマー

うちでは週に一度、毎週土曜日に、草刈りなどの仕事をしてもらうために、手伝いの男性に来てもらっている。四十代半ばのヒバマーという人で、二〇十二年の四月から来てもらうようになったので、もう三年半続けてもらっていることになる。

ヒバマーはブラジル北東部のピアウイ州の出身で、ここパーディーニョに住む親戚を頼って移住して来て、十数年前からここで暮らしているらしい。黒人の血は入っていないようだけれど、長年にわたる炎天下での肉体労働で日焼けして、真っ黒な顔をしていて、実年齢よりも老けて見える。結婚はしておらず、以前一緒に暮らしていた女性との間に幼いひとり息子がいるため、その女性に子どもの養育費を支払い、週末は息子と一緒に過ごすという生活をしている。平日はうちのご近所にある大きな竹のファゼンダで、やはり草刈りなどの力仕事をして月々の生活費を稼いでいる。以前、その竹のファゼンダのマネージャーをしていた人と夫が親しくしていたので、その人の紹介でうちに来てくれるようになった。

私たちの住むシャカラは、パーディーニョの町から三キロほど離れている。そのためセントロのアパート暮らしで自動車を持っていないヒバマーを、以前は夫が車で送り迎えしていた。ここ一年ほど前から夫が彼に自転車を貸してあげると、自力で来てくれるようになり、送り迎えが必要なくなった。お天気が許す限り、朝七時前にはちゃんとやって来て、夫の指示がなくても慣れた様子で作業を始めてくれる。

ここでヒバマーにやってもらう主な作業は、エンシャーダを使っての草の除去などなのだけれど、それを黙々としてくれ、しかも作業がとても早い。その他苗木を植えたり豆の種まきを手伝ってもらったり、冬は暖房用の薪ストーブに使う薪割りをしてもらうこともある。ただ、自分の頭で考え創意工夫が必要な作業は苦手らしく、夫が頼んだことがうまくできないこともある。そんな時も夫は決して声を荒げたり、彼を怒鳴りつけたりすることはせず、「こうしたらどうかなあ」と、穏やかに自らやって見せて、彼の自尊心を傷つけないように、我慢強く理解を促している。

ヒバマーは初等教育すら受けていないようで、簡単な計算はできても字の読み書きができない。でも、嘘をついたり、人の目を盗んで作業をさぼったりするようなことのない正直な人で、真面目に仕事をしてくれるので、夫は彼をとても信頼している。大学教育などの高等教育を受けていても平気で人を騙したり、ごまかしたりする人たちも少なくないブラジルの社会で、教育がなく貧しくてもこんなに真っ直ぐで実直な人に出会うと、人間形成における教育の役割というのは一体何なのだろう?人の善良さというのは、教育や環境とは関係なく、持って生まれてくるものなのだろうか?と考えてしまう。

昨年の七月から八月にかけて、一ヶ月ほど日本訪問でここを留守にした際、夫はヒバマーに留守番を頼んだ。平日の昼間はご近所のファゼンダでの仕事に行き、夕方から翌朝までは必ずここに泊まり込んでもらうことが条件だった。ただし、週末にひとり息子やガールフレンドをここに連れてくることは構わないと許可していた。そして、家の下のガレージ横の部屋にテレビを設置し、彼が不自由なく生活できるように、ガレージの隅に簡易の台所を設置して準備した。

留守中、ヒバマーは夫との約束をちゃんと守ってくれていた。私たちの留守中パーディーニョの町でお祭りか何か催しがあったらしく、仕事仲間に一緒に行こうと誘われても、留守番を頼まれているからと断り、夜間出かけたりしていなかったということが、旅行から戻って少しして夫の耳に入ってきた。そのことを夫が彼に感謝すると、夫に信頼されて、ここでの留守番を任されたのは自分にとっては名誉なことだったからというのが彼の応えだった。彼を見下したりせず、ひとりの人間として対等に付き合っている夫を、ヒバマーは尊敬してくれていて、その夫から信頼されていることを名誉なことだと思ってくれているのかと、それを聞いて私は唸ってしまった。

夫の話だと、パーディーニョの地元の人でヒバマーのような純朴で正直な働き手を見つけるのはかなり難しいらしい。そう言えば、以前知り合った、ソロカバで工場を経営している日系の人も、地元ソロカバの人は雇っても真面目に仕事をしなかったり、すぐにやめてしまったりするので、彼の工場で働く人たちは地方から雇ってくるのだと言っていた。地方にはまだまだ勤勉で純朴な人たちが多いということらしい。でも同時に、開発が進み、学校に行けなかった人たちが学校に行けるようになり、社会が豊かに便利になって行くと、人々の純朴さや善良さが失われる傾向にあるというのは皮肉なものだと思った。

2015年10月13日(火)

楽書倶楽部同人の谷口範之さんが作品集第2弾を刊行されたと、ニッケイ新聞の記事にあり、この本に関する連絡先は、それを発行した前園さんの日毎叢書企画出版にとあったので、前園さんにご連絡して、「香山文庫」に1部寄贈していただけないかとお願いした。そうしたら、谷口さんに連絡をして許可を取ってくださった。さらに、日毎叢書企画出版が編集協力をして、つい最近出来上がったばかりのブラジル農協婦人部連合会創立二十周年記念誌(20 anos da Fundacao da ADESC)も一緒に送ってくださると言って、送ってきてくださったのだけれど、小包の中にあったのは楽書倶楽部第30号と、ずっしりと重いブラジル農協婦人部連合会創立二十周年記念誌だけで、谷口さんの本が入っていなかった。メールで、谷口さんの本が入っていなかったので、申し訳ないのですが、再度送っていただけないでしょうかとお願いすると、「肝心の谷口さんの本が入っていないなんて、なんということでしょう。齢はとりたくないものです。来週送りますから勘弁してね」と、すぐに返信をいただいた。これは年のせいではなく、前園さんは仕事がお忙しくて、やらなければならないことが多いからだと、私は理解している。そんな中でも私の勝手なお願いを聞き入れて、時間を作って本を送ってくださるのだから、本当に頭が下がる。感謝。感謝。週末は、同人のおひとりで、つい最近老人ホームに入所された諏訪さんをお見舞いに行くと言っておられた。仕事だけでなく、みなさんを気遣って、本当にお忙しそう。諏訪さんはひとり暮らしで、脚が悪く、出歩くのがなかなか大変ということは楽書倶楽部に寄稿されている文章で知っていたけれど、老人ホームに入られたのかと、ちょっと私の母のことに思いを重ねた。

2015年10月14日(水)

先日、NHKテレビの「あさイチ」という番組で、イーストを使わずベーキングパウダーとプレーンヨーグルトを使い、オーブントースターで簡単にできる手作りパンというのを紹介していたので、作ってみた。でも、番組でやっていたようには膨らまず、うちのオーブントースターでは火力が弱いのか、うまく焼けないので、途中でオーブンに入れ替えて焼いたりして、出来上がったのが次の写真のパン。レシピ通りに作ったのだけれど、エドソンは食べながら「このパンに塩をちゃんと入れた?」と聞いてきた。塩も砂糖もすべてちゃんと分量通り入れたのだけれど、塩味は感じず、砂糖の甘味のある何だかスコーンのような感じのパンができあがり、???。これは失敗だったかな?と少々がっかり。以前、同じくあさイチで紹介されたポップオーバー作りに挑戦して、失敗したのに、我ながら懲りないなあ・・・。トホホ・・・。

2015年10月15日(木)

庭のハイビスカスガーデンの左側に2本あるクチナシの木のうち、大きい方のクチナシの木に花が咲き始めた。小さい方はまだ全然その気配もない。次の写真は、その2つのクチナシの木。右の木は小さいので、アメンドインの緑に埋もれてそこに存在することすらよくわからないけれど、4つ5つつぼみをつけているので、時間差でもうすぐ花を咲かせてくれるのではないかと思う。玄関を出た向こう側正面に植えた桜の木々の側にも3本のクチナシの木があるのだけれど、こちらはまだまだかな?と思っていたら、このうちの1本に今朝ひとつ花を咲いていた。

次の写真は、外ベランダ横のバラの花壇で咲いている花。薄ピンク、ピンク、ラベンダー、紫の4種類の色の花が咲いている。8月下旬の暴風雨で列の右側半分くらいが手前になぎ倒されてしまったのだけれど、その後花はちゃんと上を向き直してしっかりと咲いている。今、バラは咲いていないので、この花がこの花壇を賑わしてくれている。ここを通る度に、エドソンはきれいだねと言って、満足そう。

2015年10月16日(金)

以下は、10月10日付けニッケイ新聞の「日伯コンサル奮闘日記」からのコピー。ここに書かれていることはみなブラジルの現実。これを読むとブラジル人はのんびりした性格なのかと思うかもしれないけれど、ただ単に効率が悪く、効率などあげる気がまったくないように思える。ただし、車の運転に関してはとてもせっかち。こちらが制限時速を少し超えて走っていても、ヘッドライトをチカチカさせて、そこどけそこどけと行った感じで、制限時速などおかまいなしにビュンビュン飛ばして追い越して行く。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」という交通標語が昔あったけれど、ここは広いブラジル。だから急がないとやっていられないのかな?でも、車の運転以外は本当に気が遠くなるほど何ごとにも時間がかかるのがブラジルでもある。この二面性をどう理解したらいいのかは、いまだに???

第47回 日本人が信じられないブラジルの不都合な真実 ⑧

なかなか予定が立たないブラジルという話を何度か書いてきたが、大いに予定を狂わされるものの一つで、今の日本では信じられない、われわれにはどうしようもできないのが、ブラジルのストライキ(以下スト)である。今週もなんと銀行職員のスト。ATMは動いているものの窓口は閉まっている。企業活動にかなり影響が出るだろう。

少し前には、サンパウロのグアルーリョス国際空港の税関がストで、荷物が止まってしまっていたし、郵便局のストもあった。3月に日本から郵便局ルートで送った荷物が、サンパウロの最寄りの郵便局に着いたのが7月だった。何をどうすればこんなに時間がかけられるのかが不思議だ。

これで着かなければ、どこかで止まって忘れ去られたのかと観念できるところだが、遅れても着くのがブラジル。遅れることに慣れていて、それを待てるのもブラジル人。欲しいものを手に入れるためには、1、2時間並ぶのは平気な人たちである。すぐに前後の見知らぬ人と、まるで長年の友達のように話し始めるので、1、2時間はあっという間。だから、イライラしたり怒ったりしない。

ストの中でもちょっと面白かったのが、昨年W杯の直前ぐらいにリオデジャネイロであった、銀行の警備員のスト。給与と食費のアップを要求したストで、確か一週間近く続いたと思うが、泥棒王国のブラジルにとってはまたとないチャンス到来か、と思ったが結局何もなかったようだ。逆に、警備員は本当に必要か、という疑問を銀行の経営陣が持ったのではと思わせるストだった。

ストは教職員、大学教授から病院職員、バスの運転手、地下鉄職員とありとあらゆる業種に及んでおり、いつどこで、「停滞」に遭遇するかわからない。おまけに、集中豪雨などによる停電や突然インターネットが落ちることは毎月のようにあり、仕事が進まなくなる。

さらに出かければ、いたるところが渋滞で、営業でも1日2軒から3軒まわるのが限界である。社員は1年に1カ月の休暇をとり、時間ぴったりに帰る。残業代は平日が60パーセント増し、土日は倍払いとなるし、すぐに労働裁判になるので、日本のようなサービス残業は絶対にさせられない。

日本は所属している企業・団体や、仕事が家庭や個人よりも重視される傾向にあるが、ブラジルは会社や仕事よりもすべてにおいて個人が優先される。職場においては個人の労働環境であり、仕事よりも家庭や家族が大事だ。さらに、企業はオーナーのものであり、資本と経営、資本家と労働者が明確に分かれている。

ほとんどの会社やお店でオーナーはお金を出す人であり、現場の仕事はやらず経営はプロを雇って結果を求める。社員はある意味、数字であり、育てて将来の幹部にということはあまりない。当然、そこで働く社員もそれがわかっているので、頑張って効率を上げたり、売上が少しでも上がるような工夫をしようとしない。

そこで今日1日が楽しく過ぎることを考え、同じ労働量で少しでも待遇が良いところがあれば転職もする。お互いブラジル人同士、それがわかっているので、効率が悪いために並ばされても文句も出ない。

効率重視、所属団体へのロイヤリティの高い日本人には、なかなかわからないブラジル人の実態である。経済悪化で失業が増え、何もしなくても売れていた時代が終わり、売上を上げるためには顧客サービスが重要であることが認識されれば、少しは効率が上がるかもしれない。文化と歴史に深く絡まったことなのでそう簡単には変わらないとは思うが……。

2015年10月17日(土)

家から西の坂道を下りて行った道沿いにあるハイビスカスや孟宗竹の茂みの中に、とても大きくてまっすぐな竹が生えて来ていることに気づいた。次の写真の、緑の中にまっすぐ見える茶色いものが、その若竹。親竹よりも太くて親竹を超えて成長しそうな勢いなので、びっくり。この茂みの後ろにはもう一つ竹の芽が出てきている。

この竹から左に少し行くと、次の写真のように、3つ芽が出てきているのが見える。

そして、さらにこの少し左には、2つ芽が出ていて、すっくと伸び始めている。孟宗竹は道沿いに数本植えてあるのだけれど、家に一番近いこの竹が一番元気がよく、毎年複数の新しい芽を出している。来年は、春になったら芽が土を押し上げていないかどうか気をつけて観察して、タケノコ採りをしようねとエドソンと話している。

2015年10月18日(日)

政治なんてどこの国もお金にまみれて混沌としているものだけれど、労働者党の仕切るブラジル政治は信じられないくらい汚職まみれで泥沼状態。よくもここまでと思うくらい。ジウマ罷免を求めていた下院議長が、ペトロブラス関連で受け取った多額の賄賂を、自身と妻名義のスイスの秘密口座に隠し持っていることが連邦警察庁によって暴き出された途端、今度は自身の議員罷免を逃れるために、ジウマへの罷免議案を進めないことを条件に、ルーラ元大統領らと交渉していると言う。ニッケイ新聞10月16日付けの『クーニャ=連邦政府に助け求める=議長延命のため苦肉の策=ジウマの罷免は弱体化か?=ルーラもバックアップへ』という記事のサイトは、こちらへ

以下は、10月16日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。ジウマ罷免よりも財政再建の優先をとあるけれど、問題はジウマにはその能力がないこと。ジウマ政権の下では財政再建など無理だろうと思われる。

収入の半分近くを国債の利払いに浪費する国が、まずすべきことは何か

借金の利払いのために収入の半分を使っている一般家庭があれば「借金しすぎ」と判断されるが、実はブラジル政府もそれに近い状態だ。我々が国に払っている高い税金の半分近くが、国債の利払いに浪費される。本来なら税金は教育、医療、インフラ整備などの公共投資に回されて国の富を豊かにすることで国民に還元されるはず…▼この公債問題の専門家マリア・ファトレリ氏は『カルタ・カピタル』誌サイト6月9日付記事の中でこう告発をする。国の借金を賄う国債を発行するのは中央銀行。国債を買う権利があるのは12金融機関のみでシティバンク、イタウ、HSBCなどの国際金融機関。なぜ国際的銀行が多いかといえば、世界でブラジルほど金利が高い国はないからだ▼今の基本金利は14・25%。国債はそれ以上の利子で売りに出されるから、20%近い場合も。その利払いに税金が使われる構図だ。国民から広く集めた税金が国債を通して国際金融機関に吸い上げられるシステム―とファトレリ氏は告発する▼「途上国から収奪」という意味で、国債は資本主義の時代の「新植民地主義の手法」だと批判する活動家まで。伯国が国債を大量発行するキッカケは軍政時代に米国から強要されたからとの指摘も。そんな国債を格付けするのが米3大格付け会社だ▼ジウマ政権の最大課題の財政調整は、いかにこの借金を払うために国内向け投資を削るかが焦点だ。財政調整が遅れると、ケツを叩くように格下げがやってくる。伯国が最優先すべきは、借金払いを終えて財政再建することだ。大統領罷免のドタバタ以前に、そんなまっとうな〃夢〃を語る政治家が出ないものか。(深)

2015年10月19日(月)

この土曜日にとてもうれしいことがあった。待ちに待ったはるとひろのお留守番スペースに扉がついて、使えるようになったのだ。8月中旬から作業を始めてくれたエディは、その後土曜日というと雨が降るため、9月は一度も作業に来てくれず、一体いつになったらお留守番スペースができるのだろうかと、少々途方にくれていた。でも、この土曜日はいいお天気になり、7週間ぶりにエディが作業に来てくれたため、まだ少し未完成だったレンガの壁が積み上がり、小さな扉2つと、シュハスコ小屋の扉ができて、取り付けられた。まだ扉に塗料を塗ったり、シュハスコ小屋の中の水回りの作業が残っているけれど、とりあえず、扉が取り付けられたことで、はるとひろをここに入れて安全にお留守番させることが可能になった。次の写真は、小さな扉を取り付けるための作業をしてくれているエディと、扉を持って待っている手伝いのお兄さんとエドソン。この手伝いのお兄さんは、以前この家を建設中に来ていたマノ君だった。ひげなんか生やしていたので見違えてしまった。エドソンは午前中スーパーに食料品の買出しに行ってくれた時間以外は、1日中ずっとエディを手伝って、作業をはかどらせてくれた。そのお陰で大きな進展があり、とてもうれしい。

次の写真は、シュハスコ小屋の扉。最初エドソンは、一枚板のとてもいい扉を買ったのだけれど、シュハスコ小屋にこんな立派な扉は必要ないし、はるたちが出入りする小さな出入り口を作らなくてはならないため、一枚板の扉は店に返し、いい材質の木材を買って、エディに手作りしてもらうことに方針を変更。そして、できあがったのがこの扉。扉の左下に、はるたちがオシッコやウンチの際、シュハスコ小屋から外の草地に出入りが自由にできる出入り口を作ってもらった。写真はその小さな出入り口を開けて撮ったもの。2枚目の写真は、シュハスコ小屋の西側から撮ったこのスペースに取り付けられた2つの小さな扉。この2つの扉を両方閉めておけば、はるとひろはこの中で安全に過ごすことができる。

昨日から夏時間が始まった。この時期は朝明るくなる時間が早いので、目が覚める時間も自然に早くなる。そのため1時間前倒しになっても無理なく移行できるような感じだ。これから来年の2月後半に夏時間が終了するまで日本との時差はマイナス11時間。

2015年10月20日(火)

今日は、はるの3歳のお誕生日。ひろは今年の2月23日生まれなので、丸8ヶ月になる。食事の量は変わっていないのに、ひろは順調?に体重を増やして、今では8.5キロにもなっている。はるの体重も少し増えて6.8キロになっているけれど、はるに比べるとひろの成長ぶりは驚くばかり。そのため、最近では2匹が並んで歩いていると、一目でひろの方が体が大きいことがわかる。左がひろで、右がはる。写真ではわかりにくいかもしれないけれど、2匹のお尻のあたりに注目してもらうと、はるのお尻まわりというか、腰まわりの方が少し細いのがわかるだろうか?

次の写真は、昼食後のお散歩から戻って、ケージの中でデレーっとくつろいでいるひろ。ひろはこのケージが好きで、昼食後のお散歩の後、ひとりでケージの中に入って昼寝をしていることがよくある。ひろにとってこのケージはsafe house(隠れ家)のようなもので、家の中でウンチをしたり、いたずらをしたことに私たちが気づいて、「ひろっ~!」と叫ぶと、一目散にケージに走って行って、中に入ってしまう。何かいけないことをしたという自覚はあるのだと思う。

次の写真は、ひろがケージで昼寝をしているので、ひとりで静かに自分のベッドで横になっているはる。

2015年10月21日(水)

次の写真は、ランドマークの木のすぐ側、入り口ゲートに向かう道に下りて行く坂沿いにあるサボテン。今年も新しい芽が3つほど出て、大きくなり始めている。

次の写真は、入り口ゲートを背に撮ったイペーの木2本。ここには3年くらい前、等間隔で3本のイペーの苗木を植えた。そのうちの一番手前の1本は順調に大きくなっている。でも右奥の木は植えて間もなくトラクターにひかれたり何度かのアクシデントに見舞われ、それを乗り越え何とか育っているので、まだとても小さい。この木の向こうにもう1本、手前の木ほどではないけれど、この小さい木の2倍くらいに育っていた木があったのだけれど、今年の秋、葉切りアリにやられたのか葉を落とし、突然枯れてしまったので、今は2本だけになってしまった。

2015年10月22日(木)

以下は、10月17日付けニッケイ新聞の「日伯コンサル奮闘記」からの転載。ポルトガル語がまだ片言しか話せないことの言い訳に聞こえるかもしれないけれど、ポルトガル語は本当に複雑で難しい。それに比べると英語の何と簡単なことかと思うのだけれど、ブラジルの人には何故かその簡単な英語がとても難しいようだと、ここで英語を教えていてとても強く感じる。似ているからこそ難しいのかな?と思ったりするのだけれど、その理由はまだよくわからない。

第49回 日本人が信じられないブラジルの不都合な真実 ⑨

ブラジルの言語は、ポルトガル語である。大企業の役職以上の人であれば、多くは英語を話せるが、日常生活の現場では、ほとんどの場所で英語は通じない。ある意味、日本よりも通じないかも知れない。

例えばデスクとか、チェアーなどの初歩的な言葉はもちろん、数字なども知らないことがある。英語とポルトガル語で似た単語も割とあるが、スペルが近くても意味がかなりかけ離れている言葉もあり、翻訳機やネット翻訳をそのまま使うと、とんでもない間違いになるケースもある。日本からの出張者が、あまりの英語の通じなさに愕然とするのも何度か見てきた。

さらに不都合なことに、ポルトガル語は他のラテン語起源の言語と同様で、男性名詞、女性名詞から、複雑な時制・変化などがあり、ブラジル人でも正しい文法を使える人は限られるほど難しい。だから、歳をとってから学習するには、とてもつらい言語だ。

また、口語と文語がまったく違い、文語の中でも、日本語に似て正式な文章には独特の表現がたくさん使われ、メール文、報告書、目上の方に対する書面、公式文書など、各々すべて使う言葉や表現が違ってくるらしい。私もまともに話すことや書くことは早々に諦めてしまった。

さらに、ポルトガル語は主語を始め、省略して話す傾向があり、名前や機関名も俗称をそのまま使ったり、短縮して頭文字で呼ぶことも多い。多少会話がわかるようになったり、新聞が読めるようになっても、真意が理解できなかったり、逆の意味にとってしまうこともある。

しかも、ブラジル人同士でも、解釈がマチマチの場合も多く、同じことを確認するのに3人ぐらいに聞かないと、真実に近づけないことも多い。ブラジル人はおまけに、おしゃべり大好き、ピアーダ(笑える小噺)大好きなので、世界でも有数のSNS大国だ。言葉に対するこだわりが強く、感性も鋭い。

このようなポルトガル語とブラジル人の特性から、マーケティングの際にも、日本人の発想で行うとほとんどの場合に失敗する。ブラジルのマーケティングにおいては、所得の高い方から順にA/B/C/D/E層に分けて考えるのが一般的だが、階層が離れると使う言語・表現が違ってくる。例えばA層とD層では、響く言葉がまったく異なると考えた方がよい。

さらには、国土が広いので地域の格差や多様な方言にも対応が必要となってくる。しかし、これがなかなか国土も狭く、所得・教育格差が小さい日本の人には理解してもらえない。グローバルで同じCMや広告を使おうとしたり、ネットを使った戦略もありきたりだったりする。ブラジル独自の展開が必要であることを、説明しても、ポルトガル語の複雑さやブラジル人の特性がなかなか理解されないため現状維持となってしまうことが多いようだ。

と、このようにポルトガル語×ブラジル人の特性を一生懸命日本語で説明をしましたが伝わらないですよね?

2015年10月23日(金)

このところ毎週、週の半ばに最高気温が32度から34度くらいの暑い日が2~3日続いては、スーッと気温が下がって過ごしやすくなったりを繰り返している。昨日は午後からひょうの混ざった激しい雨が何度か降り、気温がぐんと下がった。天気予報によると、どうやらこれからしばらく雨の日々が続くようだ。だから今朝も涼しくぐずついている。リオデジャネイロでは連日40度を超える暑さが続いているそうなので、それに比べたらここは過ごしやすいなあと思う。最近の暑さのせいなのか、ひろは昼夜を問わず仰向けになって大の字になって横になっていることが多い。まったくの無防備。

庭のハイビスカスガーデンの横にあるくちなしの花が咲いたと、先週書いたけれど、それから数日して、家の西側のくちなしの花も咲き始め、ハイビスカスガーデンの横の小さい方のくちなしも花を咲かせた。両方で5本あるくちなしの木のうち4本が花を咲かせているので、家を出入りする際、ほのかにくちなしの花の香りがするようになった。次の写真は、ダイニングルームの窓から西側の桜の木々の手前にあるくちなしの木3本。2枚目の写真は、ハイビスカスガーデン横のくちなしの木2本。

2015年10月24日(土)

先週の土曜日にはるとひろのお留守番スペースができたので、翌日の日曜日の午後早速、私が家の掃除をする間2匹にしばらくこのスペースにいてもらった。初めはシュハスコ小屋の中に入って匂いを嗅いだり、外に出て匂いを嗅いだり、興味津々と言った感じで、ここにいることに大きな抵抗はないようだったのでほっとした。でも、シュハスコ小屋の前のスペースの芝生がまだ完全に生えておらず、土がむき出しになっている部分があったため、そこを2匹があちこち足で掘り返して穴を開けまくり、掃除が終わって迎えに行くと、足や鼻先を土だらけにしていた。穴掘りをするという彼らの習性を知らなかったわけではないのだけれど、かなり芝生が広がってきていたので、ここをオシッコとウンチの場所として認識してくれるものと考え、こういう行動に出るかもしれないということは想定していなかった。土で体を汚した2匹をそのまま家の中に入れるわけには行かないため、1匹ずつ抱きかかえてシャワールームに連れて行き、エドソンに彼らの体を洗ってもらった。それで仕方なく、この芝生が広がりつつあったスペースにレンガを運んできて敷き詰め、穴を掘れないようにしたので、翌日の月曜日は問題なく過ごしてくれた。次の写真は、日曜日の午後、お留守番スペースの中で土だらけになっている2匹をエドソンが撮ったもの。2匹が注目しているのはカメラを持ったエドソンではなく、その隣にいる私なので、視線がカメラに向かっていない。左がひろで、右がはる。

2015年10月25日(日)

昨日は、エドソンが夕飯はシュハスコにしようというので、物置のようになっていたシュハスコ小屋を午後から整理して、掃除をし、ガレージで使っていた簡易の台所の流し台を二人でシュハスコ小屋に運んで準備した。昨日はお天気は悪くなかったのにエディが仕事に来てくれなかったので、水回りの配管ができておらず、流し台を移動させても使うことはできないのだけれど、お肉を焼く際、物を置く台にはなるので、移動させようということになった。次の写真は、火をおこし、お肉を焼き始めたエドソン。シュハスコのかまどの左に移動させた流しが見える。

次の写真は、シュハスコのかまどで焼き始めたお肉。昨日は風が強かったのだけれど、扉を締めていればシュハスコ小屋の中は風の影響をあまり受けず、なかなか居心地のいい空間だった。

次の写真は、シュハスコ小屋の中の簡易のテーブルの上にパンやレタス、トマトのサラダなどを置いて、お肉が焼けるのを待ちながらワインを飲んでいるエドソン。はるもたまたまエドソンのところで顔を出したので一緒に写真に写った。はるたちは普段、自分たちの食事以外にお裾分けを受けることはないのだけれど、シュハスコの際はちょっと特別で、彼らにもお肉のお裾分けを何度かした。たまにここでこうして食べるのも悪くないなと思った。

2015年10月26日(月)

ダイニングルームと外階段に囲まれた箱庭にあるソテツの真ん中に、何やらラグビーボールのような楕円形の、メロンのようにも見えるものができていることに気づいた。これはソテツの実?これまで毎年葉が出て成長してきているけれど、こんな風に実のようなものができたのは今年が初めてのような気がする。それともこれが葉の芽になるのかな?もうしばらく観察してみないと何とも言えない。

ま、それはともかくとして、今日は、イビウーナの香山さん90歳のお誕生日。長寿のお祝いは正式には数え年で数えるのかもしれないけれど、満で数えれば今年が卒寿ということになる。先日は、コチア青年の古希(70歳)、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)の祝賀会が行われ、総領事からの祝辞が一番印象に残ったと、鎌谷さんがおっしゃっていた。いわく「元気な 80歳のコ チア青年、この元気をもう暫く続ければ白寿、99歳になれば文協が祝ってくれます。もう一年百歳になれば日本政府が祝ってくれます。頑張って、領事館を元気なコチア青年でうずめてください」という内容だったと。このコチア青年の祝賀の該当者は200人くらいおられるらしいのだけれど、実際に出席されたのは20数人だったとか。お住まいがサンパウロ市内でなければ、遠くからサンパウロまで出向くのはなかなか大変だと思うので、出席したくてもできなかった人も多かったのではないかと思う。それにしても、ブラジルに来られた1世や準2世の方たちにはお元気な方たちにが多いのはどうしてだろう?と、思う。ブラジルの気候がよかったのか?それとも、海外に飛躍しようと考えてブラジルに来られたのだろうから、もともと強靭な精神や体に恵まれた人たちなのかな?と、思ってみたりした。いずれにしても、1世や準2世の方たちが頑張って、ブラジル社会に大きな貢献をされてこられたお陰で、今のブラジルでの日系人や日本人に対する高い評価があるのだから、香山さんを始め、みなさんにはできるだけお元気でいていただきたいと願わないではいられない。

2015年10月27日(火)

以下は、10月24日付けニッケイ新聞の「日伯コンサル奮闘記」からの転載。

第50回・最終回 日本人が信じられないブラジルの不都合な真実 ⑩

ブラジル南部サンタカタリーナ州のジョインビリ、ブルメナウ、フロリアノポリスの3都市を市場調査で回ったが、ブラジルはやはり広い。ヨーロッパ、特にドイツ風の街並み、白人比率の高さ、街の清潔さ、オーガナイズされた雰囲気がある。

黒人と同時に、日系人にもめったに会わない。さらに、北部が40度超えの暑い日だったが、長袖2枚は必要な寒さであった。

ブラジルの調査データは間違いも多く、本当に一部を切り取って全体に見せたりするので、まったくあてにせず、自らの足で歩いたお陰で、今回も様々な発見があった。

多様な店舗を見て回ったが、南部特有のスーパーマーケット、ショッピングセンター、薬局があり、南東部や北部・北東部とは分断された印象を受けた。

もちろん、ショッピングセンターの中は、お馴染みの全国ブランドの店舗がたくさんあり、かわり映えはしないものの、地域の人気店もあり、興味深かった。

特に南東部のショッピングセンターには、ほぼ一店しか入っていないのに、この地域ではいずれも3つ以上の大型玩具店が入居しており、子どもの数の多さや子ども向けの消費意欲の高さを感じた。

スーパーも、全国どこにでもあるロジャースアメリカーナスは別として、アンジェローニやハバンなどの南部特有のチェーンがあり、品揃えや強いブランドも南東部とは違っていた。

ブラジルの都市部を歩いて最初に驚くのは薬局の多さだが、大きなチェーン店が代わる代わる出て来て、街の風景の一部になっている。

サンパウロならば、ドロガ・ライア、ドロガリア・サンパウロ、オノフレなどであり、リオであれば、パンチェコ、ドロガシルといった感じだが、南部ではそれらの店舗はほとんど見ない。

南部の街に溶け込んでいるのは、カタリネンセであり、ファルマシア・セッシといった店舗だ。薬局も最近はM&Aの嵐が吹き荒れており、どんどん大手に吸収されるとともに、外資の傘下に入ったところもある。

また、一部の進んだところでは、法律改正により、医薬品以外も扱えるようになり、一気にコンビニ化が進んでいる。ブラジルでのコンビニ化の第一弾はガソリンスタンドで、第二波はもともと24時間経営のノウハウのある薬局ではないかと思っていたが、その通りになりつつある。

まだ緒に就いたばかりなので、日本のいずれかのコンビニも中堅の薬局を買収してブラジル進出をしないだろうか。

このようにブラジルは、日本の約23倍の広い国土の中で、地域ごとに特徴を持った流通があり、消費者の肌の色、国のオリジン、気候や風土がまったく違い、それに合わせた展開が必要となる。

さらに、広い国土に対応するのであれば、本来日本式に問屋、一次卸、二次卸と販売ネットワークを張り巡らせたいところだが、これまで述べてきたように税制の壁がそれをさせてくれない。なるべく中抜きをして、直接店舗に卸さなければ、とんでもない末端価格になってしまう。

一方、業界で1、2のシェアと取ると、信じられないくらい儲かるのもブラジル。ゴールをそこに定め、きちんとした市場調査に基づいて論理的な戦略を立て、それを実行するのに十分な投資を一気呵成に行って、ブランドを築けば、極めて美味しい市場であることも真実だ。

しかし、偶然?行き当たったブルメナウのオクトーバーフェストで、景気の良いドイツにタイムスリップをした気分でジョッキを傾けながら、ブラジル人が信じられない日本の不都合な真実がそれを許さないのかもしれないなあと思いつつ、約1年続いたこのコラムの筆を置かせていただきます。ご笑読ありがとうございました。皆様のビジネスの成功と健康を祈念して、“サウージ!”。

2015年10月28日(水)

家の西側にあるランドマークの木の後ろに植えた3本のリグストルン(和名はねずみもちの木)の内、一番右側の木の上の方に白い花が咲いていることに、この月曜日気づいた。リグストルンはここの3本だけでなく、防風林の列に数十本植えていて、みなずいぶん背が高くなってきているけれど、今のところ花が咲いているのはこの1本だけ。

次の写真は、ランドマークの木に向かって左側を、家を背にして撮ったもの。今年はこの部分にたくさんのヒメシマダケの芽が出てきていて、この空間を埋める勢い。2枚目の写真は、この同じ場所を反対側の道に下りて撮ったもの。画面左側手前はハイビスカスでその後ろにランドマークの木が少し見え、右側にこんもりとしたヒメシマダケの群生が見える。この間の空間にたくさんの芽が出ているので、来年はここから写真を撮っても家の屋根は見えなくなっているだろうと思う。

2015年10月29日(木)

次の写真は、ランドマークの木の後ろの道沿いに植えたマンジォカ。だいぶ大きくなってきている。ここには以前、雑草低木が何本も生えていたのだけれど、去年だったか強風で倒れたりして見苦しくなって来たので、エドソンがヒバマーに頼んで取り除いてもらい、その後、マンジォカを植え、それがだいぶ育ってきているので写真に撮ってみた。この写真の左側に写っている道を行くと、入り口ゲートがある。

次の写真は、右側にある家から続く坂道を下りて来て少し行った所でいくつか芽を出している孟宗竹。左側の芽はまっすぐ伸びて、だいぶ背が高くなり、枝葉が出始めている。右側の芽は出始めの頃、地面をはうばかりで上を向かないので大丈夫だろうかと思っていたのだけれど、ようやく上を向いて成長し始めている。この2つ以外にも、大小3つの芽が育ちつつある。

2015年10月30日(金)

今日は、ニッケイ新聞10月27日付けの記事の中から日伯の歴史にかかわる記事を2本紹介します。

『明治3年=バイーアで切腹した日本人=海軍のエリート候補生=薩摩武士の前田十郎左衛門=後輩に山本権兵衛、東郷平八郎』という記事のサイトは、こちらへ

『日伯外交120年周年と移住=両国側の思惑と条約締結=日清、日露戦争との関係は=1879年に最初の気運』という記事のサイトは、こちらへ

次の写真は、居間の日溜まりのベッドで仲良く一緒にお昼寝をしているひろ(左)とはる(右)。ひろははるのお尻の上に頭を乗せて、はるのお尻を枕代わりにしている。

2015年10月31日(土)

日本に限らず、世界の人たちにとってブラジルと言えば、サッカー、カーニバル、アマゾンといったイメージしかないと思う。これは日本のイメージが富士山、芸者、寿司(最近は、アニメ、コスプレなどもあるかもしれないけれど)というのとあまり変わらない。「ブラジルってどんな国?」という質問に対する一番の答えは、多様で画一的でない国なので、「一言では言えない」というのが正解だと思う。ブラジルは日本の22倍以上の広い国土があり、北は熱帯のアマゾンから南はヨーロッパのような美しい街並みが広がる地方があり、その中間にはセハードという乾燥した、かつて不毛の大地と呼ばれた地域もある。だから一言では言えない。目の見えない人が象の体を触って、触った部分だけで象という動物がどういうものかを描写しても、全体像を知ることができないのと同じようなもの。ブラジルはアメリカと同じように様々な国の移民からできた新しい国だけれど、言葉が英語ではなくポルトガル語というだけでなく、アメリカとの違いはたくさんある。その中で強く感じる違いのひとつは、人種差別の希薄さだろうか?

例えば、アメリカでは学校などで何かの書類を記入する際、白人か、アジア系か、アフリカ系か、ヒスパニック系(=スペイン語系)かを尋ねる項目がある場合が少なくないけれど、ブラジルでは一切そういうことがない。つまりブラジルはアメリカほど人種の違いにこだわりがないし、人種とか皮膚の色による差別意識も希薄だと感じる。もちろん黒人系の人たちは白人系の人たちに比べて教育程度が低いとか、貧しいという傾向にあり、社会格差はあるけれど、アメリカほどはっきりとした差別意識はないように私には感じられる。実際、ブラジルでは人口の約半数は、黒人、もしくは黒人との混血で、白人、先住民、アジア系などもいろいろ混ざっていたりもするので、アメリカほど皮膚の色や人種に敏感ではない。エドソンは主にスペイン人、フランス人、ドイツ人の血を引いている4世か5世だけれど、ご先祖さまの中には先住民インディオの血が混ざった人もいたらしいので、アメリカ時代、書類で何系かの項目を選ぶ際、困ったと言っていた。単純に白人というカテゴリーを選ぶ気にもならないし、ブラジルはスペイン語圏ではないのでヒスパニックでもなく、該当する答えがない。ラテン系という項目があればいいのだけれど、それもないと仕方なく、その他という項目があればそれを選んでいたらしい。ブラジルで暮らしていると、アメリカのように単純に人種を区別することにどんな意味があるのだろうと思う。



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