Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2015年8月1日(土) | ||||
ひろがうちの家族の一員になってから1週間が経過した。この1週間の前半はエリカたちが来ていたので、みんなの食事の仕度やひろたちの世話で毎日バタバタと忙しかったけれど、ひろはあまり大きな抵抗なく我が家に馴染んでくれたようでほっとした。でも、エリカたちが帰った翌日、ひろは何故か玄関マットの上やダイニングルームで何度もオシッコをするようになり、それを止めさせるために、私たちとひろとの格闘が始まった。エリカたちに置いて行かれたことが悲しかったのか、はるがまだ赤ちゃんの頃、同じように玄関マットの上で何度かオシッコをしているので、洗った後もその匂いがわずかに残っているからなのか、何かに抗議しているのか、理由はわからない。でも、それまで家の中ではウンチはしてもオシッコはしていなかったので、少々頭を抱えた。それでこれまで以上に頻繁にふたりをオシッコに連れ出すようにして、何とか家の中でオシッコをさせないようにしている。ウンチも何とか水曜日の朝のお散歩の際に初めて外ででき、午後4時にヴィトーの英語のレッスンが終わった後、また2匹を連れ出すと、ひろはその日2度目のウンチをしてくれた。ひろは1日に2~3度ウンチをするのだけれど、2度ほど外でウンチができた日は、ああ良かった今日はこれで大丈夫かな?とほっとして散歩から戻ると、間髪を入れずに台所の隅でその日3度目のウンチをしたりするので、ああ・・・とため息が出る。ちょっとでも気を抜いて、ひろのかすかなサインを見逃してしまうと、ひろはウンチやオシッコをしてしまう。まだまだ気が抜けない日々。何とか家の中ではなく、外でウンチとオシッコをすることを習慣づけてくれたらいいなと願っている。次の写真は、ベランダの椅子に座っている私の脚の間から顔を出しているひろ。
はるの名前は私が提案して名づけたので、ひろの名前は、エドソンが名づけた。エドソンが名前を考えている時、「ひろって日本語でどういう意味?」と聞くので、使う漢字にもよるけれど、広いとか深いとかいう意味だから、広い知識や深い知識のある人を「博学」とか言うんだけどなどと説明すると、「じゃあ、ひろにしよう」と言うことになった。エドソンによるとワンコの名前は長いものではなく、2音が一番いいのだとか。そして、はるは日本語名なので、ひろにも日本語名をつけたかったようだった。パラカンビにもらわれて来た3ヶ月前から、エリカやお母さんたちにもひろと呼んでもらっていたので、ここに来た時はひろもその名前に馴染んでいて、自分の名前だと自覚しているようだった。次の写真は、ひろに馬乗りになって、交尾の仕方を教えようとしているはる。はるは去勢手術を受けているし、ひろはまだ赤ちゃんなのだから交尾は無理なんだけれどなあ・・・。本能というのはすごいものだなあ。
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2015年8月2日(日) | ||||
以下は、2015年7月31日付けニッケイ新聞の「コラム 樹海」からの転載。
『上がり続けるインフレ率(現在約9%)より、大統領支持率(10%)の方が低くなりそうな異例の雲行きだ。ラヴァ・ジャット作戦で次々と政財界要人が逮捕される様子を、英フィナンシャルタイムスは「終わりないホラー映画」と喩えた▼自分にも嫌疑がかかった下院議長は、連邦警察を〃野放し〃にする連邦政府が悪いと逆切れの様子。与党PMDB議員にも関わらず野党宣言をして、驚くことに、誰もそれを諌めない。むしろPTと連立解消して、以前の様にPSDBと組みなおす素振りまで▼来週再開する議会は連邦政府にとって正念場になりそうだ。特に8月16日予定の大抗議行動は、現政権への不満を訴える場として、今からネット上で盛り上がっている。前回までのデモは「政党抜き」に特徴があったが、今回からはPSDDBが軸の一つになる▼3・15デモでは聖市だけで100万人、今回はそれを上回ってもおかしくない。あの時よりも政治不信が高まった。〃民主主義のお祭り騒ぎ〃に思えた3・15デモだが、あの時にはただのアイデアだったBNDES議員調査委員会は現実のものになった。さらに連邦会計検査院による粉飾会計の違法判断が下れば、それをテコに大統領罷免提案が待っている▼とはいえ、罷免されて旧弊まみれのテメル氏が大統領に昇格し、PSDBと組む方向へ行っても理想的な終着点とは言いがたい…。8・16で本当に目指すべき方向を、今こそ国民が考えるべき時だ▼でないと、この「ホラー映画」は「ふりだし」に戻るだけ。もしそうなら、この国では日常自体が「ホラー映画」か。いや、それはもうナンセンス・コメディ?! (深)』 | ||||
2015年8月3日(月) | ||||
次の写真は、居間の日溜まりに置いたベッドでおとなしくゴロゴロしているはる(左)とひろ(右)。ひろがうちに来て2日目の夜に、2匹は自発的にひとつのベッドで一緒に寝たのだけれど、ベッドが2匹一緒だと狭くて窮屈だったからなのか、一緒に寝たのはその一晩だけで、以後はるはひろと一緒のベッドで寝るのを嫌がるようになった。はるが自分のベッドに入って横になると、ひろは一緒に寝ようとはるのベッドに入っていくので、はるはベッドから飛び上がってひろのベッドに避難して離れてしまう。それでひろは仕方なく、はるのキューブ型のベッドの穴の中に潜り込んで寝ることになる。ひろはパラカンビのお母さんの家で、ピンシャーのラリーニャとキキという母娘犬と一緒の犬小屋で寝ていたので、ひとりぼっちで寝るのは寂しいらしく、同じひとりで寝るのならはるの匂いの染み付いたはるのベッドで包まれて寝て我慢している様子。昼間もひろがはるのピンクのベッドを占領するので、はるはひろのベッドに横になって住み分けをしている。でも、夕飯が済んで、私が居間のソファーでテレビを見ている間は、ひろが同じベッドに入ってきて寝るのをはるは許している。そして、寝室に行って本格的に寝る時間になると、またはるはひろを寄せ付けない。2匹は基本的に仲がいいのに、一体どういう心理状態なのだろう?と、不思議に思う。
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2015年8月4日(火) | ||||
エリカたちが来る1週間ほど前に咲き始めた桜は、2週間近くほぼ満開の状態を維持して、その後新緑の葉がたくさん出てきて、花が落ち始めたけれど、今もまだ花が咲いている。次の写真は、日曜日の午前中に撮った庭の桜。パッと咲いてパッと散るソメイヨシノよりも花の日持ちがいいので驚いている。この写真を撮った後、コンピュータにアップして見ると、画面右下に白い朝顔が写り込んでいることに気づいた。この白い西洋朝顔はいまだに時々ひとつふたつ花をつけていて、その寿命の長さにも驚いている。そして、今年たくさん桜の花が咲いて気づいたのだけれど、花が落ちる際、花びらがヒラヒラと落ちるのではなく、まるで椿のように花全体が少ししおれてからポロリと落ちるので、桜吹雪というのは見られない。ペトロポリスの安見さんのお話によると、日伯修好100周年で植えたペトロポリスの桜は、植樹して10年目くらいが良く咲いて20年くらいで枯れるのだそう。そうすると、今年は修好120年なので、多くは植樹から20年が経過して、そろそろ寿命が近づいているということになる。ブラジルは気温が高いので早く咲く代わりに枯れるのも日本に比べて早いのだそう。安見さんのお宅の桜は今年で26~7年目なので、今年はまばらにしか咲かず、いよいよ切り倒さねばならないようだとメールに書いておられた。うちの桜は一番古いもので小さな苗を植えてから5年なので、少なくともこれから5年から10年は一番いい状態の桜の花を楽しめるということなのかな?
次の写真は、玄関前の外階段沿いのサツキ。一番向こう側のピンクのサツキ3本が一番早くたくさん咲き始め、最近になって、白、薄ピンク、小さなピンクの3種類のサツキもぼつぼつと咲き始めている。
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2015年8月5日(水) | ||||
ひろの体重は6.5キロなのに、抱いた感じ体重7キロのはるよりも重いのはどうしてだろう?と思っていたら、エドソンが絶対ひろの方が重いと言うので、ふたりで計り直すと、ひろの体重はやはり6.5キロで間違いはなかった。それでひょっとしてと、はるの体重を計ってみると、以前計った際7キロだったものが5.6キロに減っていたので驚いた。どうりではるの胸まわりのリードが最近何だか緩くなっているはずだ。4月下旬に体調を崩したため、1月半ほど投薬を行う一方、食事に使うお肉を鶏レバーから鶏胸肉に変えたのだけれど、食事の量は変わっていなかったものの、野菜やご飯に混ぜるお肉の割合が減っていたのかもしれないと反省。でも、エドソンは、ひろが来てから毎日一緒に走り回ったり、戯れあったりと、格段にはるの運動量が増えたので、カロリー消費が増えて体重が減ったのだろうと言っている。それで摂取カロリーを増やすために、食事に少し挽き肉を混ぜてみてとエドソンが言うので、鶏肉の量を少し増やし、挽き肉を少し加えて、食事を作るようになった。体調が正常に戻り元気にしているので気づかなかったのだけれど、ひろのお陰ではるの変化に気づくことができ、ひろに感謝。次の写真は、エドソンのワークスペースにあるソファーの前で座っているはる。ひろは私が動き回っていると常に私について回るけれど、はるは私の午前中の用事が済むまでこうやってエドソンの側で座って待っていることがよくある。
次の写真は、食卓の上のラン3鉢。右側の黄色いランはエドソンがエリカたちとボトゥカトゥのスーパーへ行った際買ってきた新しいもの。左側の2種類のピンク色のランは前からあるもので、エリカたちが来る前頃からつぼみが開き始めた。毎年ちゃんとつぼみをつけて開花してくれるのはうれしい限り。でも、真ん中のピンクのランは、つぼみが4つついてほころび始めていたのに、4つの内3つは花が開かないままつぼみの状態で落ちてしまって、結局花開いたのは1つだけだった。どうも毎日少しずつやっていた水を、ある時期数日おきにしたのがいけなかったようで、現在はまた毎日こまめに少量の水をやるようにしている。
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2015年8月6日(木) | ||||
エリカたちがパラカンビから持ってきてくれたウルクンの殻を開いて、中の実を取り出す作業を土曜日にした。次の写真は、その取り出した実の半分量。土曜日にちょうどエディが来ていたので、ウルクンを知っているかと聞くと、知っていて、たまにお母さんが作ったウルクンご飯を食べることがあると言っていたので、半分の量を瓶に入れておすそ分けした。エリカたちが持ってきた大量のウルクンの半分くらいは、殻が茶色ではなく黒っぽくなっていて、それらは古くて傷んでいたので、実を取り出すことはできず、当初、こんなにたくさんどうしようと思った割には、それほどの量にならず、少々ほっとした。エドソンのお母さんはこれを油で炒めて、その油をご飯を炊くときに使うのだけれど、これをそのまま電気釜に入れてご飯を炊いてみてとエドソンが言うので、やってみると油がないぶんあっさりとしたウルクンご飯ができた。
火曜日の夕方、仕事帰りにハファエウがエドソンに話しがあってやって来たので、一緒に夕飯を食べた。私たちの夕飯が終わり、はるたちの食事が終わり、私が流しでお皿などを洗っていると、はるとひろはエドソンの椅子の両側におとなしく座って私のすることを眺めていたので、なかなかいい情景だなと思い、写真を撮ろうと思ったら、カメラの電池切れで写真を撮れず、残念。その代わりと言ってはなんだけれど、次の写真は、先日の夕方、エドソンのお母さんが持ってきたお父さんの形見の鳥笛のコレクションをひとつひとつ試しに吹いているのに注目しているひろ(左)とはる(右)。
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2015年8月7日(金) | ||||
6月から7月にかけて、安見さんご夫妻は、ペトロポリスの旅行仲間の人たちと、21日間の東南アジアへの団体旅行に行かれ、その後グループとは別行動で日本にも1週間行かれたので、合わせて31日間の旅行を楽しまれた様子。その旅行の写真や感想をメールでくださったので、ここに紹介してみる。 まず、ドーハ経由でベトナムの首都ハノイへ。 「1990年ごろまで戦争、戦争で疲弊しきった国なのに、今や戦争の傷跡は見当たらなかった。さらに社会主義共和国なので暗いイメージを持っていたが、商店は活気があり暗いイメージはなかった。市街地はオートバイであふれていた。オートバイを運転しながらインターネットを操作している青年には驚いた。信号が少ない、横断歩道でオートバイは止まってくれないので、歩行者は同じ速度でどんどんオートバイを押し分けて進むことになる。幸い無謀なオートバイ運転は見かけなかった。」
「うどん、ソーメンは米粉製。腰があって大変おいしい。ホテルの朝食は、バイキング方式でうどんを提供するコーナーがある。(次の写真は、どんぶりうどんと味噌汁、そして、朝食バイキングのうどんコーナー)ハノイ近郊は米の二期作が行われていて水田が広がっていた。」
「ニンビンからハロン湾。自然景色の素晴らしい観光地。中国の桂林から続く石灰岩大地の一角。ハロン湾観光は船で一泊した。」
ベトナムの次は、カンボジアのアンコールワット。「以前、戦争当時に埋められた地雷があり危険で旅行者は行けないところと読んで、我々は一生行けないと思っていたのでこの巨大な建造物を見て感激。広大な敷地を、暑い暑いなかをへとへとになって歩きながら、これほど高度の文明を築いて、何があって崩壊してジャングルに埋もれてしまっていたのか考えた。発掘も進んでいるようなのでもっと崩壊の理由が明らかになっていくのだろう。各国の援助で改修工事をしていた。ガイドが日本の援助は大きいと言っていた。」
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2015年8月8日(土) | ||||
昨日に引き続き、今日も安見さんご夫妻の東南アジア旅行のお話。これらの国の中で私が行ったことがあるのはタイだけ。それで、安見さんの写真と感想を読みながら、ちょっとだけこれらの国へも行ったような気分になっている。 カンボジアの次は、タイのバンコク。「発展著しいと聞いていたが高層ビルが立ち並び立派。倉庫跡地を改修して作られた一番人気のマーケットに行った。ものすごい店の数とものすごい客。この中の大きな劇場でオカマショーを見た。かなり洗練された豪華で素晴らしいショー。ショーが終わって出演者が出口に勢ぞろい、出てくる観客と記念写真。女以上にきれいな連中だ。」
タイの次はバリへ。「寺院をたくさん見学した。見学にはショートパンツ、肩を出した服装は入場拒否されるとの事前注意があったので我々の団体では入れなかった人はいなかったが、アンコールワットでは入場を拒否されていた女性を見かけた。でも物凄く暑い。軽装で歩かねばどうしようもない暑さ。寺院のほうも仕方がないと理解して、寺院によっては入り口に腰布が準備されていて着用して見学、男も女も。」
次の写真は、大こうもりを持っての記念撮影。「大蛇を首に巻いて記念撮影もあったが勇気が出なかった。猿が沢山いる寺院があった。訪問客の持ち物、メガネやハンドバックを獲るいたずら猿が多い。食べ物を持っていたらすぐひったくられてしまう。」
最後はシンガポール。「シンガポールは国土の20%が埋立地とのことだ。そこに近代的な高層ビルが立ち並んでいる。街路はきれい、かなり規則が厳しいようだが当たり前かもしれない。有名なホテル・オーシャン・ベイに泊まった。我々の部屋は49階抜群の眺め。59階の上に世界で一番高いところにあるプールに入った。素晴らしい。宿泊客しかプールに入れないし、現在宿泊予約は6ヶ月以上前とのことだ。」
以後はグループを離れ、夫妻は東京へ。「東京羽田着、夕日に映える富士山が一瞬見えた。」
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2015年8月9日(日) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2015年8月6日付け「コラム 樹海」からの転載。
『上塚周平は「移民の父」、渡辺トミ・マルガリーダは「コロニアの聖母」と言われるように、平野運平は「祖人」と形容される。その人にしか使われない特別な説明語が着く人物は、移民史上ごく少ない。本当に敬愛される人物にだけ許された特権だ▼「祖人」を辞書で探しても出てこない、コロニア独自の言葉使いだ。「祖」は「開祖・教祖」という言葉に使われるように「一派を開いた人。物事のもと」(デジタル大辞泉)という意味。最初の植民地は「桂」の1913年だが日本の資本。移民が資金を持ち寄って始めたと言う意味で、平野植民地が「民間初」であり、呼びかけた平野が「祖人」だ▼同百周年式典を取材していて残念なことが一つあった。運平の故郷を代表する静岡県人会から誰も出席がなかったことだ。500人もの来場者がいて、聖市周辺からバスも出たのに、県人会からは誰一人こない▼先々週「県人会からバスを出さないのか」と杉本教雄(二世)会長に電話で尋ねた時、「元会長の後藤宗治さんの一周忌が1日にあるから、2日の平野式典には行けない。挨拶文は送るつもり」と言われ、ガッカリした。それが理由になるのか…。式典当日、開会直後に来賓が呼ばれた時、「静岡県人会代表」との声がむなしく何度か響き胸が痛くなった▼超多忙な総領事が駆けつけているのに、最も縁がある県人会代表が来ないのはチグハグだ。当地で最も有名な静岡県人、平野が命がけで作った植民地が百周年なのに…。だいたい後藤元会長自ら生前、ねじり鉢巻で取り組んでいた県人会記念誌発刊はどうなったか? 彼が生きていたら…。やはり歴史に対する意識の問題か。(深)』 以下は同じくニッケイ新聞同日付けの「コラム 大耳小耳」から。メル友の鎌谷さんもコチア青年で、いろいろなお世話をされている。多分この記念誌の編纂にも関わっておられるのだろうと想像する。 『9月20日に60周年を盛大に行う予定のコチア青年連絡協議会。会報7月号を見ると、コチア市の公園で火事や盗難の災難に見舞われていた慰霊碑やコチア産組の恩人の胸像を移転する先として、国士舘スポーツセンターと15年間の無償賃貸契約を結び、移設することになったとか。天国の産組創立者・下元健吉も、これで安心か。記念誌に掲載する原稿の呼びかけに対し、なんと90編以上集まり、ぶじに募集締め切りになったとか。今時それだけの数の原稿が寄せられる団体が他にどれだけあるだろうか。』 | ||||
2015年8月10日(月) | ||||
今、ランドマークの木の幹の間でランがたくさん咲いている。これはここに自然に生えてきたものではなくて、もらった鉢植えをこの木の幹の間にただ置いただけで、水やりなど何もしていないのだけれど、毎年元気に花を咲かせるので驚いている。ランはもともと寄生植物なので、こんな風に寄らば大樹の影のような環境が向いているのかもしれない。一緒に写真に写っているねずみ色の植物はサボテンの一種なのだと思う。これもどこかからもらったものをここに置いていたら少しずつ増えていって、木の足元にも小さなものがいくつも生えてきている。ここの春は一応9月からなのだけれど、8月は毎年お天気が良く、寒くなく、暑くなく穏やかなので、こんな風にいろいろ花が咲きだすと、何となくもう春のような感じがする。
以下は、8月7日付けニッケイ新聞の記事からの転載。ジウマの支持率はこれでインフレ率を下回ったことになる。今年、ブラジルと中国がブラジルからペルーまでの南米大陸横断鉄道を造るプロジェクトに合意したというニュースがあった。そのニュースに関してこのブログで紹介したかどうか記憶にないのだけれど、先日、中国からそのプロジェクトの内容に関する案が提出された。それが何とアマゾンを破壊して鉄道を敷いたり、国が保護している先住民の居留地の中を分断するように横断させるというとんでもない計画らしいことがわかってきたという。ジウマと労働者党は一体ブラジルをどこまで痛めつけたら気が済むのだろう?
『ダッタフォーリャによる最新の世論調査で、ジウマ大統領の支持率、不支持率で、遂に民政復帰後の大統領の中でのワースト記録を更新した。一方で、大統領がその座を追われると実際に思っている人も、まだ過半数には満たないが増えつつあることもわかった。6日付フォーリャ紙が報じている。わずか2年余りで急転直下、最悪の状況へ一直線に向かっている。 今回の調査は4~5日に、全国201市の3358人を対象に行われた。ジウマ大統領の支持率(最高、良好評価)は前回6月の調査時の10%から落ち、8%となった。不支持率(悪い、最悪評価)は65%から71%に達した。 これは92年9月に大統領罷免となったフェルナンド・コーロル氏が、その直前に記録した「支持率9%、不支持率68%」をも更新する歴代ワースト記録となった。 内訳を見ると、14年の大統領選の際にジウマ氏の大票田となった北東伯でも「支持10%、不支持66%」、北伯が「支持9%、不支持65%」と悪化している。 所得別に見ても、これまでジウマ氏の支持基盤であった「最低所得の2倍以下の所得」の層で「支持10%、不支持69%」となっており、四面楚歌の状態だ。 今回のダッタフォーリャは罷免の可能性についても尋ねており、「議会はジウマ大統領のは罷免手続きを進めるべき」との質問に66%が「するべき」と答えた。この数字に関しては前回調査の63%からわずかに上がっただけだ。 「ジウマは大統領の座から追われることになると思うか」の質問には「はい」が38%で「いいえ」が53%。国民の中では「大統領に不満はあるものの、罷免までは行かないだろう」との考え方が多いことをうかがわせている。 しかし、6月の時点では「はい」が29%で「いいえ」が64%だったことを考えると、大統領の座を任期まで守れないだろうとの考えに傾きはじめていると見ることもできそうだ。 支持率の推移を見ると、2年前の13年3月調査では支持率が65%もあり、不支持率は9%しかなかった。W杯前年である同6月の「抗議行動の波」直後にいきなり支持率は30%と半減し、不支持率は25%と急増したが、それでも支持率の方が高かった。 その後、W杯後半の14年7月から選挙キャンペーンが始まると同時に支持率が一時的に上昇し、同10月には支持率42%、不支持率20%まで改善していた。ただし、選挙終了直後から急激に悪化し、今回ついに歴代大統領で最悪の数字までたたき出した。』 | ||||
2015年8月11日(火) | ||||
次の写真は、地面に落ちた桜の花が、風で吹き溜まっている様子。この写真でわかるように、花びらが散るのではなく、花がそのまま落ちるので、桜の木の回りあちこちにこんな風にピンクの吹き溜まりができていて、この吹き溜まっている感じがとてもきれい。2枚目は芝生の上に落ちている桜の花。
果樹園に3本ある大き目の実がなる桑の木の内、一番早くから若葉を出していた木がつけていた実が色づき始めている。去年よりもたくさん実をつけているので、去年よりも多くのジャムを作ることができるかな?これよりも小さい実をつける桑の木は、十数本あるのだけれど、そちらは最近ようやく若葉が出始めている段階で、実をつけて色づくのはまだずっと先のようだ。
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2015年8月12日(水) | ||||
次の写真の茶色の壺のような物は、ブラジル伝統の水のろ過器。1年半以上前に、雨不足でうちの森の泉が枯れてしまった際、水質が変わったからなのか、私がお腹を壊したことがあったので、以来、台所で使う飲み水と調理用の水は、20リットルの大きなボトルのミネラルウォーターを買ってきて使っている。でも、最近物価がどんどん上がっているので、たいして高価ではないミネラルウォーターも毎週のこととなるとあまりバカにならない。水が出ない時は買うしかないけれど、水が豊富に出ている時は、少しでも節約しようと、エドソンがこの水のろ過器を買って来てくれたので、今月から我が家の水をこのろ過器に通して、飲み水や調理用に使うようになった。このろ過器はパラカンビのお母さんの所にも、シチオにもあったし、他所の家庭でもよく見かけるごくごく一般的なもので、100レアル少々(約5000円弱)の手頃な値段。やはり伝統的なものというのはバカにならないなと思う。
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2015年8月13日(木) | ||||
ひろが我が家にやって来るまで、はるは午前中私の家事が一段落してお昼までのほんのひととき、コンピュータの前に座る私のひざの上にいることを常としていたのだけれど、ひろが来てからはほとんど絶え間なくひろと戯れ合っているので、私のひざに座る日課から遠ざかっていた。でも、時々思い出したように膝の上に来たがる。でも、そんなときは同時にひろも来たがり、どちらか1匹だけというわけには行かない。一度はるを膝の上に乗せた後、ひろも乗せようとしたら、はるが強く拒絶したので、2匹を一緒に膝に乗せることができないため、最近はめったにはるを膝に乗せることはなくなった。それで、たま~に、ひろがケージの中で骨をかじっている時とか、居間のベッドで寝ていて気づかない時に、はるを膝に乗せたり、反対にはるが寝ていて気づかないときにひろを膝に乗せたりしている。次の写真は、そんなまれな機会を得て、私の膝の上で丸まっているはる。
次の写真は、ある日の午後、はるとひろが仲良く並んで居間の横のドアの網戸の前で外を眺めていたので写真に撮ってみた。私がコンピュータデスクのところでカメラを構えると、その気配に気づいたひろが振り向き、私を見ている。はるは気づかないのか、気にしていないのか、まったくこちらを見ない。
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2015年8月14日(金) | ||||
次の写真は、今週の初めに撮影した地平線に沈み行く夕日。この居間の西側の窓から見える夕日の位置は、季節によってずいぶん異なる。8月上旬頃までは、この写真の位置よりもずっと右側(北側)で太陽が沈むので、防風林の陰になって、こんなふうに太陽が沈む所は見えないのだけれど、春が近づくにつれ太陽が南下してきて地平線に沈む夕日が見えるようになる。これからさらにランドマークの木の後ろ、さらには木の左側(南側)というふうに位置が変化して行く。太陽の沈む位置で季節を感じることなんて日本ではなかったことだけれど、ここは視界が開けていて、日の出も日の入りも見えるので、こういう季節による変化をはっきりと見てとることができる。
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2015年8月15日(土) | ||||
次の写真は、ある日の夜、ひとつのベッドで一緒に寝ているはるとひろ。ひろが来て、最初の晩はひろの青いベッドで一緒に寝たはるとひろだったけれど、翌日からはるがひろと一緒のベッドで寝るのを嫌がり、ひろははるのベッドの穴の中で、はるは隣に置いたひろのベッドの中で寝る毎日だった。すると最近、はるはやはり自分のベッドの方がいいのか、時々妥協策なのか、はるがベッドの上で、ひろはベッドの穴の中でぎゅうぎゅうになりながら寝るようになった。こんな感じで寝ていても、途中、夜中にオシッコに起きた後は、別々になったり、最初は別々に寝ていたのに、オシッコから戻ってからは一緒に寝たり、少しずつ一緒に寝ることが多くなってきている。
次の写真は、小さなはるのベッドの中でひろがはるを抱きかかえるようにして横になっているところをパチリ。今週になってから2匹はこんな感じで毎晩ラブラブな感じで一緒に寝るようになった。夜中にオシッコに起きることもなく、ほぼ朝までひとつのベッドで一緒に寝ていることもある。そして、何故か一緒に寝るのははるのベッドの中で、新しく買ったひろ用の青いベッドの方では一緒に寝ようとしない。はるはめったにカメラ目線にならないけれど、ひろはほとんどいつもこの写真のようにカメラを向けるとこちらを見つめて、カメラ目線になる。
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2015年8月16日(日) | ||||
昨日の土曜日の午前中、はるとひろを連れてボトゥカトゥのペットクリニック、ポリヴェットに行った。ひろの健康診断と予防接種が主な目的だったのだけれど、はるも一緒に診てもらった。ひろは私たちが予想した通り、お腹に虫がいるということがわかったので、それを駆除するための薬をもらい、予防接種の注射をしてもらった。体重は300グラム減って、6.2キロになっていたけれど、ドトーラ・ヴィットリアの診断によると健康状態はとても良好なので心配ないということだった。うちに来て以来、はると毎日戯れ合っているので、ひろもパラカンビにいた頃よりも運動量が増えたことによる体重減のようだった。そして、はるのお腹には虫はいなかったけれど、ひろと一緒に暮らしていてお互いの食事のプレートをなめ合ったりしているので、はるもひろと同じ薬を飲まなくてはならないということだった。はるの体重は400グラム回復していて、6キロになっていた。はるも健康状態が良好で、今の状態をキープするのがベストということだった。ただ、はるの前足がちょっと外に開きすぎているのはビタミン不足による骨の発育に問題があるのかもしれないので、1日2回粉状のビタミン剤を食事に混ぜて食べさせることになった。次の写真は、ポリヴェットの診察室の診察台の上のひろ(手前)とはる(向こう側)。ひろは待合室で待っている間、初めての環境で不安だったのと、他の患者犬が数匹いたこともあって、ずっとヒーン、ヒーンと泣いていたけれど、診察室に入ってからは驚くほどおとなしくしていてくれた。注射の際もまったく嫌がらず、泣きもしなかった。
次の写真は、車の助手席の床に置いたベッドの中のひろ(左)とはる(右)。2匹をここに座らせるのは窮屈で、はるが嫌がるかもしれないと思い、家を出る際、ひろはケージに入れて、後部座席にそのケージを置いて、私たちやはるが見えるようにして出発した。でも、ひろがずっと泣きつづけるものだから、カロリナソイルの所まで来て車を止めて、ひろをケージから出して、助手席の床に入れた。この狭い環境をはるもひろも嫌がらず、ひろは途端に静かになり、何も問題なくボトゥカトゥへ行って帰ることができた。車の中でのひろは、まるでモビのようにおとなしく、はるよりもずっと穏やかなので助かった。そして、はるもひろがいると安心するのか、これまでよりもずっと静かにおとなしくしていてくれた。2匹を連れて外出するのはとても大変だと思っていたのだけれど、予想外に楽勝だったのでほっとした。
長時間2匹を連れ回すのは無理だと思っていたので、ポリヴェットと薬局だけで帰宅するつもりだったのだけれど、思いの外2匹がおとなしくしていてくれたので、ポリヴェットの近くのドナ・マリナにも寄って、パーディーニョのスーパーでは手に入らない野菜や果物を買って帰ることができた。次の写真に写っている野菜や果物の中で、パーディーニョのスーパーでも何とか手に入るものは、ブロッコリ、カリフラワー、いちご、マンゴーくらい。その他はまず手に入らないものばかり。これだけで合計102レアルちょうど(約5000円弱)だった。
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2015年8月17日(月) | ||||
8月14日(日本時間)、安倍晋三首相が戦後70年の談話を発表したので、以下に産経ニュースにあった談話全文が掲載されているサイトにリンクを張ってみる。この首相談話のサイトは、こちらへ。尚、日本政府発表の英訳は以下にコピーした。
On the 70th anniversary of the end of the war, we must calmly reflect upon the road to war, the path we have taken since it ended, and the era of the 20th century. We must learn from the lessons of history the wisdom for our future. More than one hundred years ago, vast colonies possessed mainly by the Western powers stretched out across the world. With their overwhelming supremacy in technology, waves of colonial rule surged toward Asia in the 19th century. There is no doubt that the resultant sense of crisis drove Japan forward to achieve modernization. Japan built a constitutional government earlier than any other nation in Asia. The country preserved its independence throughout. The Japan-Russia War gave encouragement to many people under colonial rule from Asia to Africa. After World War I, which embroiled the world, the movement for self-determination gained momentum and put brakes on colonization that had been underway. It was a horrible war that claimed as many as ten million lives. With a strong desire for peace stirred in them, people founded the League of Nations and brought forth the General Treaty for Renunciation of War. There emerged in the international community a new tide of outlawing war itself. At the beginning, Japan, too, kept steps with other nations. However, with the Great Depression setting in and the Western countries launching economic blocs by involving colonial economies, Japan's economy suffered a major blow. In such circumstances, Japan's sense of isolation deepened and it attempted to overcome its diplomatic and economic deadlock through the use of force. Its domestic political system could not serve as a brake to stop such attempts. In this way, Japan lost sight of the overall trends in the world. With the Manchurian Incident, followed by the withdrawal from the League of Nations, Japan gradually transformed itself into a challenger to the new international order that the international community sought to establish after tremendous sacrifices. Japan took the wrong course and advanced along the road to war. And, seventy years ago, Japan was defeated. On the 70th anniversary of the end of the war, I bow my head deeply before the souls of all those who perished both at home and abroad. I express my feelings of profound grief and my eternal, sincere condolences. More than three million of our compatriots lost their lives during the war: on the battlefields worrying about the future of their homeland and wishing for the happiness of their families; in remote foreign countries after the war, in extreme cold or heat, suffering from starvation and disease. The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, the air raids on Tokyo and other cities, and the ground battles in Okinawa, among others, took a heavy toll among ordinary citizens without mercy. Also in countries that fought against Japan, countless lives were lost among young people with promising futures. In China, Southeast Asia, the Pacific islands and elsewhere that became the battlefields, numerous innocent citizens suffered and fell victim to battles as well as hardships such as severe deprivation of food. We must never forget that there were women behind the battlefields whose honour and dignity were severely injured. Upon the innocent people did our country inflict immeasurable damage and suffering. History is harsh. What is done cannot be undone. Each and every one of them had his or her life, dream, and beloved family. When I squarely contemplate this obvious fact, even now, I find myself speechless and my heart is rent with the utmost grief. The peace we enjoy today exists only upon such precious sacrifices. And therein lies the origin of postwar Japan. We must never again repeat the devastation of war. Incident, aggression, war -- we shall never again resort to any form of the threat or use of force as a means of settling international disputes. We shall abandon colonial rule forever and respect the right of self-determination of all peoples throughout the world. With deep repentance for the war, Japan made that pledge. Upon it, we have created a free and democratic country, abided by the rule of law, and consistently upheld that pledge never to wage a war again. While taking silent pride in the path we have walked as a peace-loving nation for as long as seventy years, we remain determined never to deviate from this steadfast course. Japan has repeatedly expressed the feelings of deep remorse and heartfelt apology for its actions during the war. In order to manifest such feelings through concrete actions, we have engraved in our hearts the histories of suffering of the people in Asia as our neighbours: those in Southeast Asian countries such as Indonesia and the Philippines, and Taiwan, the Republic of Korea and China, among others; and we have consistently devoted ourselves to the peace and prosperity of the region since the end of the war. Such position articulated by the previous cabinets will remain unshakable into the future. However, no matter what kind of efforts we may make, the sorrows of those who lost their family members and the painful memories of those who underwent immense sufferings by the destruction of war will never be healed. Thus, we must take to heart the following. The fact that more than six million Japanese repatriates managed to come home safely after the war from various parts of the Asia-Pacific and became the driving force behind Japan's postwar reconstruction; the fact that nearly three thousand Japanese children left behind in China were able to grow up there and set foot on the soil of their homeland again; and the fact that former POWs of the United States, the United Kingdom, the Netherlands, Australia and other nations have visited Japan for many years to continue praying for the souls of the war dead on both sides. How much emotional struggle must have existed and what great efforts must have been necessary for the Chinese people who underwent all the sufferings of the war and for the former POWs who experienced unbearable sufferings caused by the Japanese military in order for them to be so tolerant nevertheless? That is what we must turn our thoughts to reflect upon. Thanks to such manifestation of tolerance, Japan was able to return to the international community in the postwar era. Taking this opportunity of the 70th anniversary of the end of the war, Japan would like to express its heartfelt gratitude to all the nations and all the people who made every effort for reconciliation. In Japan, the postwar generations now exceed eighty per cent of its population. We must not let our children, grandchildren, and even further generations to come, who have nothing to do with that war, be predestined to apologize. Still, even so, we Japanese, across generations, must squarely face the history of the past. We have the responsibility to inherit the past, in all humbleness, and pass it on to the future. Our parents' and grandparents' generations were able to survive in a devastated land in sheer poverty after the war. The future they brought about is the one our current generation inherited and the one we will hand down to the next generation. Together with the tireless efforts of our predecessors, this has only been possible through the goodwill and assistance extended to us that transcended hatred by a truly large number of countries, such as the United States, Australia, and European nations, which Japan had fiercely fought against as enemies. We must pass this down from generation to generation into the future. We have the great responsibility to take the lessons of history deeply into our hearts, to carve out a better future, and to make all possible efforts for the peace and prosperity of Asia and the world. We will engrave in our hearts the past, when Japan attempted to break its deadlock with force. Upon this reflection, Japan will continue to firmly uphold the principle that any disputes must be settled peacefully and diplomatically based on the respect for the rule of law and not through the use of force, and to reach out to other countries in the world to do the same. As the only country to have ever suffered the devastation of atomic bombings during war, Japan will fulfil its responsibility in the international community, aiming at the non-proliferation and ultimate abolition of nuclear weapons. We will engrave in our hearts the past, when the dignity and honour of many women were severely injured during wars in the 20th century. Upon this reflection, Japan wishes to be a country always at the side of such women's injured hearts. Japan will lead the world in making the 21st century an era in which women's human rights are not infringed upon. We will engrave in our hearts the past, when forming economic blocs made the seeds of conflict thrive. Upon this reflection, Japan will continue to develop a free, fair and open international economic system that will not be influenced by the arbitrary intentions of any nation. We will strengthen assistance for developing countries, and lead the world toward further prosperity. Prosperity is the very foundation for peace. Japan will make even greater efforts to fight against poverty, which also serves as a hotbed of violence, and to provide opportunities for medical services, education, and self-reliance to all the people in the world. We will engrave in our hearts the past, when Japan ended up becoming a challenger to the international order. Upon this reflection, Japan will firmly uphold basic values such as freedom, democracy, and human rights as unyielding values and, by working hand in hand with countries that share such values, hoist the flag of “Proactive Contribution to Peace," and contribute to the peace and prosperity of the world more than ever before.
Heading toward the 80th, the 90th and the centennial anniversary of the end of the war, we are determined to create such a Japan together with the Japanese people. | ||||
2015年8月18(火) | ||||
リオデジャネイロ州のペトロポリスでは8月6日から9日までの4日間、「BUNKA-SAI 2015」が開催された。そして、6日から15日までは日本週間として、各種の講演会やワークショップも行われたようだ。安見さんが文化祭の写真を40枚も送ってきてくださったので、その内の何枚かをここに紹介しようと思う。次の2枚の写真は、6日の夜の開会式の様子。安見さんは開会の挨拶だけでなく、袴をつけて三三七拍子をやられたようだ。鏡開きで使われているお酒がブラジルで作られている東麒麟(あずまきりん)というのが何ともブラジルらしくていい。
次の写真は、文化祭会場のクリスタル宮殿の外観。ここはペトロポリスの有名な観光スポットのひとつ。2枚目の写真では、外にもテーブルとイスがたくさん置かれて、大勢の人たちで盛況な様子。
次の写真5枚は、会場の中で行われた太鼓、柔道、武道、ジャパンポップなどのデモンストレーションや演奏の様子。テレビカメラの前でインタビューを受けている女性は、日本から派遣されて来ている柔道ブラジル代表強化コーチの藤井裕子さん。文化祭期間中、ペトロポリスの柔道教室の練習イベントにも参加してもらったのだそう。安見さんのネットワークの広さがうかがえる。
次の写真4枚は、文化祭で行われた凧、折り紙、生花、マンガ教室の様子。
次の写真は、会場内の展示物と、インタビューを受けている安見さん。ペトロポリスの文化祭の特徴は、日系人口の少ないペトロポリスで町全体を巻き込んで、多彩な催しを実現しているところだと思う。いつもながら、安見さんご夫妻のエネルギーと献身的な貢献には頭が下がる。
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2015年8月19(水) | ||||
この16日の日曜日に、今年3回目となる「ジウマ出て行け」というジウマ大統領の弾劾を求める大規模なデモがブラジル各地で行われた。ジウマ大統領の政治母体である労働者党の腐敗の闇と、ブラジル史上最悪の8%という支持率を記録したジウマ大統領の無能と無策により引き起こされている過去25年間で最悪の経済状況に抗議するデモだ。次の写真はそれぞれ、リオのコパカバーナ海岸と、首都ブラジリアで行われたデモの写真。インターネット上のBBCニュースなどから写真をコピーしてみた。ブラジリアの写真には、囚人服を着たルーラ元大統領の大きな風船人形が見える。ルーラを逮捕しろというメッセージのようだ。警察の発表によると、サンパウロでは35万人、ブラジリアでは25万人がデモに参加したという。100万人が参加したサンパウロでの1回目のデモと比べるとかなり人数が減少しているけれど、全体の数は2回目よりも多かったようだ。この抗議行動の対象となっている労働者党の底なしのような腐敗は、多くの逮捕者が出ていて隠しようのない事実なのに、なぜかブラジルでも名門と言われるUSP(サンパウロ総合大学)の教授たちの多くは、いまだに共産主義の労働者党を支持しているというのだから、不思議でしかたがない。学者という人たちは日本でもそうだけれど、閉ざされた空間で、現実を見ようとせず、現実離れした考え方しかできない人たちなのだろうか?
8月18日付けニッケイ新聞に掲載された、『マニフェスタソン=PTへの逆風さらに強まる=LJの影響明確に=ルーラにも非難の矛先=モロ判事の英雄化も進む』という記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2015年8月20(木) | ||||
先々週の文化祭に続き、8月11日から15日までペトロポリスで行われていた「日本週間」が終わり、安見さんがまた写真をたくさん送ってきてくださった。次の写真は、日本食に関する講演会で、「日本人は毎日どんなものを食べているのか?」「日本人はなぜ細身が多いのか?」という、ブラジル人からいつも聞かれる質問に答えて、道子さんがスライドショーを準備して紹介している様子。この後さらに二人のブラジル人の栄養士さんがそのスライドショーにそって、ブラジルとの比較をして、かなり興味の持てる内容だったとメールに書いておられた。この講演会の後は、お茶、おにぎり、そして味噌の味を紹介するためにモロキューを参加者に振舞われたそう。準備が大変だっただろうなあ・・・。
次の5枚の写真は、それぞれ期間中行われた切り紙教室、切り紙の作品展示、折り紙教室、マンガ教室、マンガの講演会。
ペトロポリスにはスズキメソッドで教えているバイオリン教室があるのだけれど、次の写真は、その教室の生徒さんたちが演奏しているところ。彼らの演奏に合わせて、日本の歌を皆で歌われたのだそう。皆で一緒に歌う前に、ローマ字で書いた歌詞の読み方と発音練習をしてから、「むすんでひらいて」「荒城の月」「もみじ」の三曲を歌われたという。安見さんいわく、「音楽ってすごい、日本語を一切話せない人たちが歌っているのに日本語として、日本人が聞いてわかるのですから」
BUNKA-SAIの開会式で、皆さんに加わってもらって安見さんが披露した三三七拍子が好評だったようで、またやろうという要望があり、今回はブラジル人の男性が袴と扇子でやられたのが次の写真。「これからは何かにつけて三三七拍子で式が始まることでしょう」と書いておられた。
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2015年8月21(金) | ||||
以下は、ニッケイ新聞8月19日付け「コラム 大耳小耳」からの転載。ブラジルと日本では時間の感覚が違うという意見には、私も同感。そして、私はコーヒー飲みではないので、コーヒーの味はあまりよくわからないのだけれど、以前、おいしいコーヒーはみな輸出に回してしまうから、ブラジル国内で流通しているコーヒーはあまりおいしくないのだと聞いたことがある。でも、この人はコーヒーを勧めている。ということは、ブラジルでも自慢できるおいしいコーヒーが飲めるということかな?それともこの人が勧めているのはブラジルではどこの家庭でも一般的なカフェズィーニョ(日本でいうところのエスプレッソ)なのかな?ちなみに、フェジョアーダというのは、肉やソーセージなどと一緒に調理した煮豆をメインに、にんにくご飯、コウヴィの炒めもの、オレンジなどが一緒に出されるのが定番の煮豆料理。 『ブラジルに暮らして1カ月半、強く実感したのは時間感覚の違い。大都会サンパウロでも街中に時計がほとんどないし、地下鉄の駆け込み乗車も少ない。ある程度満席になると、皆目の前で発車する電車を悠々と見送り、次を待つ。一方日本では、例え地方の駅でも電車を目がけて走る、走る。まるで時間という目に見えない猛獣に追われているかのようだ。日本の友人に味わわせたいベスト3は、コーヒー、フェジョアーダ、そしてこのゆったりした時間感覚だ。とはいえ長所短所は表裏一体、時間にルーズなのは困りものだけど』 次の写真は、昨日みんなで朝一番のお散歩をして家に戻るところをパチリ。いつもはエドソンがひろのリードを持ち、私がはるのリードを持つのだけれど、写真を撮るためにこの時はエドソンに両方を持ってもらっている。左がはるで、右がひろ。
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2015年8月22(土) | ||||
以前、「暮らしの手帖」の読者が投稿した記事の中に、桜の花が終わったあと、小さな赤い実がなるので、毎年その実でジャムを作るというのがあった。桜の木は子どもの頃から家の庭や学校にもあって、とても身近な存在だったけれど、桜の木につく毛虫に刺された思い出はあっても、赤い実がなっているのを見た記憶はない。サクランボの木と桜の木は違うのだから、実なんてならないだろうと、その記事を読んで思っていた。そうしたら、今年、我が家のヒマラヤ桜の木が、花が終わる前からたくさん実をつけているのに気づいた。写真のように小さくて黄緑色をしている。これが赤くなるのだろうか?
以下は、8月20日(木)15時50分配信のインターネット上の「アゴラ」記事からの転載。
中国政府は、来月やる「抗日戦争勝利70周年」の軍事パレードに、韓国の朴槿恵大統領を招待していますが、彼女はまだ参加するかどうか決めかねているようです。それはそうでしょう。韓国人は、「抗日戦争」で中国を侵略した日本軍の側だったからです。 日中戦争には(朴大統領のお父さんを含めて)24万人の朝鮮人が志願兵として参加し、そのうち2万人あまりの死者が靖国神社にまつられています。朴大統領は中国に行って「われわれの先祖が中国を侵略したことは申し訳ない」とおわびでもするんでしょうか。 それより現実的なリスクが、韓国にはあります。北朝鮮の政権はいつ崩壊するかわからない状態で、そのとき「第2次朝鮮戦争」が起こる可能性もあります。1950年代の朝鮮戦争で韓国人を数十万人殺したのは、中国なのです。 中国が圧倒的な軍事的優位を背景にして、香港のような形で朝鮮半島を支配する可能性もあります。19世紀まで朝鮮半島は500年間、中国の支配下に置かれていたので、同じ儒教国として文化的な親和性は高いでしょう。 冷戦時代の「資本主義と社会主義」という対立はもう過去のものです。中国も経済は資本主義なので、韓国とあまり変わりません。それよりも大きな問題は、国際秩序についての考え方の違いです。 ヨーロッパやアメリカでは、何百年も戦争を繰り返した末に、戦争は(理由を問わず)すべて違法だというルールをつくりましたが、日本は1930年代にそれを壊して自滅しました。安倍首相が8月14日の談話で、日本が「国際秩序への挑戦者となってしまった」と反省したのは、そういう意味です。 中国の国際秩序についての考え方は、そういう西洋的なルールとはちがい、中国が世界の中心で他の国はそれにしたがう冊封秩序というものです。いまだに「歴史問題」で日本に謝罪を求めているように、正しい国が悪い国を征服する戦争は正しいと考えています。この点も韓国と似ています。 だから朴槿恵大統領が考えるべきなのは、慰安婦問題などという昔話ではなく、これから中国の脅威をどうするかという問題です。その際、アメリカの支援は不可欠です。1950年にアメリカの国務長官が「アメリカの防衛ラインは日本までだ」と発言して韓国を除外したことが、北朝鮮が開戦する原因になったといわれています。
韓国が中国に接近してアメリカとの関係をこじらせると、東アジアの情勢は不安定になり、その影響は日本にも及びます。朝鮮半島の「有事」を抑止する米軍の活動を集団的自衛権で支援することは、日本のためでもあるのです。 | ||||
2015年8月23日(日) | ||||
金曜日に2015年8月15日出版の「楽書倶楽部」第29号が届いていた。今回の号で、毎回同人を紹介する「らくがきえんせ(らくがきっ子とからくがき人という意味の日本語とポルトガル語の造語で、楽書倶楽部の同人のことを本誌ではこう呼んでいる)」で私を紹介するから短い文章を書いて、若い頃の写真と一緒に送ってと前園さんに言われ、急いで文章を書き、15年くらい前の、東京で暮らし始めたばかりの頃の写真を送った。ほんの15年前だけれど、ふたりとも、特に、エドソンが若いのにびっくり。年月というのは正直なもので逆らえないなあと思った。そして、たくさんいらっしゃる在伯年数の長い移民の皆さんの中で、私はおそらく一番の新米移民だと思うので、私なんかを紹介してもらっていいのかな?と、ちょっと気後れしつつ文章を書いた。次の写真は、届いた「楽書倶楽部」第29号で、続く文章は前園さんが書いてくださった私を紹介する文章。そして、2枚目の写真は、この「らくがきえんせ」に掲載された15年前のエドソンと私。そして、私が「らくがきえんせ」に書いた文章、「楽書倶楽部」と私 。そして、最後の文章が、この号に寄稿した私の文章、「事なかれ主義」。
らくがきえんせ紹介(12) 吉田 恭子さん
ブラジル人の夫と共にブラジルに移り住んで六年と数ヶ月が経過しました。いまだにどこへ行くにも、何をするにも、夫という保護者の同伴が常に必要な子どものような新米移民です。サンパウロから西へ二〇〇キロも離れた小さな田舎町のシャカラで暮らし、ポルトガル語もまだおぼつかない私の世界は、とても限られた狭いものですが、それでも欲求不満に陥らず、楽しくやって行ける理由のひとつは「楽書倶楽部」があるからだと思っています。 イビウーナの香山さんが前園さんと「楽書倶楽部」を紹介してくださり、二〇十二年四月の第十三号から投稿させていただくようになりました。以来、ここでの日常や、日々の思いを「楽書倶楽部」に綴ることで、そして、他の同人の方たちの文章を楽しみに読み、行間ににじみ出ているそれぞれのお人柄を感じることで、お目にかかったこともないのに、まるでたくさんの友人ができて、その友人たちとおしゃべりしているような気分を味わっています。 家族や親しい友人が身近におらず、夫とふたりきり。ブラジルでの生活は価値観の相違や慣れないことも少なくありませんが、「楽書倶楽部」を通じて、日系コロニアの片隅に受け入れられ、同人のみなさんとつながっているように感じています。このような心地良い居場所を与えてくださった香山さんと前園さんと「楽書倶楽部」の同人のみなさんには心から感謝しています。
五月の下旬、追い込み漁で捕獲されたイルカの入手を禁止することを、日本動物園水族館協会(JAZA)が決めたというニュースがあった。 世界動物園水族館協会(WAZA)が、和歌山県太地町のイルカの追い込み漁は残酷な動物虐待で、協会の倫理規定に反しているため、そこで捕獲されたイルカを日本の水族館が購入していることを批判。四月二十一日付けでJAZAの会員資格を停止していたのだという。 そのため、WAZAから脱会することになれば、今後の動物の入手などに支障が出るかもしれないという状況で、JAZAはどう対応すべきかを判断するための投票を行った結果、99票対43票で、追い込み漁で捕獲されたイルカの購入を禁止することを決めた。この結果を受けて、JAZAの会長は、反捕鯨団体からの圧力があったことは間違いないとしつつ、JAZAの真意は他にあるが、民主的な投票で決まったことだからと説明したというのだけれど、本当にそうだろうか? JAZAの百五十ニ会員の内訳は、動物園が八十九会員、水族館が六十三会員。表面的には民主的な投票と言っても、水族館の数の方が圧倒的に少ない状況で、多勢に無勢だ。それに何よりも、イルカ漁をしているのは日本だけではない。太地の追い込み漁とは異なり海辺を血で真っ赤に染めるような残酷なイルカ漁をしている国の存在は無視して、日本だけを標的にした言いがかりのような批判に、反論することもなく、真意は他にあると言いながらWAZAの非民主的なやり方に屈してしまったことが、私は残念でならなかった。 このニュースに触れて、「ああ、また日本の事なかれ主義か?」と、ため息が出た。JAZAの事務局は、「追い込み漁は必要以上にイルカを傷つけることなく捕獲できる方法で、国や県から許可されている正当な漁業だ。水族館に売却されることに何ら問題はない。しかも、あまり知られていないが太地町のイルカは世界中に輸出されている」「日本はイルカを傷つけることなく捕獲する技術に優れている。イルカを捕れないアジアの国々を中心に、水族館用としてイルカの輸出が行なわれている」と説明する。 週間ポスト五月二十九日号の記事によると、太地のイルカが輸出されている「相手国で最も頭数が多いのは、急速な経済発展で水族館建設がブームになっている中国で、毎年三十~五十頭。韓国にもニ◯一四年に十ニ頭、ニ◯一三年にはロシアへ十五頭、ウクライナへ二十頭を輸出。過去十年を見るとアメリカ、台湾、ベトナム、タイ、イラン、トルコ、サウジアラビア、UAEなどにも輸出実績がある」 「太地では輸出までの期間にストレスなく生け簀で飼育できる。検疫体制もしっかりしているので、病気を持った個体を買わされる心配もなく、国際市場では太地のイルカは人気がある。ウクライナやロシアに輸出されたイルカはヨーロッパの水族館に転売されたケースもあると聞いている」と、過去イルカの輸出に関わった仲介業者の弁もあった。 そうであるならば、何故、そのことを正々堂々と述べて反論しないのか。和歌山県のホームページでは、イルカ漁に関する和歌山県の主張を日英両語で十ニ項目に渡って詳しく説明している。WAZAが太地町で捕獲されたイルカを購入している日本を非難するのであれば、同様に太地町のイルカを購入している他の国々はどうなのか。また、自分たちが太地町のイルカを購入していることは棚にあげて、一緒になって日本を非難しているそれらの国々に、その問題点を突きつけることなく、日本だけが太地町のイルカの購入を禁止すると決めてどうなるというのだろう。 今回のことで「旨味」を得た人々がいると指摘するビジネス関連記事も見かけた。太地の追い込み漁で捕獲されたイルカを買えなくなれば、日本には繁殖のための設備やノウハウがないため、WAZA加盟の欧米の水族館関係者に頼ることになり、欧米の水族館業界は人材育成、設備、研修などで日本とのビジネスチャンスが生まれる。また、“自然保護ルート”を活用する場合は、自然保護ビジネスに関わる人々の元へとお金が流れるという仕組みだ。 さらにもっと“旨味”を得たのは反捕鯨団体だと、その記事は指摘する。「産経新聞が入手したシーシェパードの活動報告書によれば、ニ◯◯四年の収入は百ニ十万ドル(約一億四千万円)に過ぎなかったが、ニ◯一ニ年では千三百六十五万ドル(約十六億二千万円)に拡大。この八年で十一倍強という急成長の原動力はなにかといえば、日本の捕鯨船への体当たりやらイルカ漁の網を切るなどの“過激なパフォーマンス”が世界的に注目されたことが大きい」但し、彼らは白人のイルカ漁には口を閉ざして、収入源を減らすようなことはしない巧妙さだ。 このような偽善的な動物愛護ビジネスが、恥ずかしげもなく存在する現実を前に、易々と膝を屈する事なかれ主義が日本の将来のためになるとは私にはどうしても思えない。 | ||||
2015年8月24日(月) | ||||
金曜日の朝、エディが注文しておいてくれた建築資材を配達するトラックがやって来た。家の南側に我が家を建てる際に余って使わなかったレンガが積み上がっているのだけれど、その側にトラックの荷台の砂利と2種類の砂と赤レンガを下ろしてくれ、セメントは家の東側に積み上げてくれた。これでようやくシュハスコ小屋の前にレンガを積んで、はるとひろをお留守番させる際のスペースを作る作業が始まると思うと、とてもうれしい。
エディは今、大きなプロジェクトを抱えているそうなので、平日は無理だけれど、土曜日に来て仕事をしてくれることになり、この土曜日から作業が始まった。次の写真は土曜日の午後5時前、仕事が一段落して、エドソンと立ち話をしているエディ(左側)。今回頼んだ仕事は、土曜日だけやる小さな仕事だからなのか、手伝いの若い人を連れずにひとりでやって来たので、のんびりと作業をし、この日は向こう側のレンガが積み上がっただけだった。こちら側にもレンガの壁を作って、両側に木の扉をつけると、何とかはるとひろのためのお留守番のスペースができる。シュハスコ小屋はお天気が悪い時に安全を確保したり、戸外の日差しがきつい時に避難できるスペースになり、シュハスコ小屋の前の土の部分は芝生が伸びればオシッコとウンチをするスペースになる。
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2015年8月25日(火) | ||||
7月は乾季だというのに中旬頃までよく雨が降ったけれど、下旬になりぴたりと雨が降らなくなり、ここ1ヶ月ほど穏やかないい陽気の日々が続いていた。先週の水曜日と木曜日に強い風が吹き、気温が下がり始め、金曜日の朝の気温は11度まで下がっていた。でも、土曜、日曜は、またいいお天気になり、週末の雨の予報はどうなったのかな?と、思っていたら、昨日の月曜日の午後から雨が降り始め、乾ききっていた木々や大地に潤いが戻った。日付が変わって止んでいた雨は、未明にまた雷を伴いザーザーと降り、一旦止んで、また降り出した。どうやら今日は1日雨のよう。23日に亡くなった義姉のお母さんを弔う涙雨のようになった。 先週、桑の実がかなり色づいてきたので収穫した。家に戻って重量を測ってみると725グラムもあった。次の写真は、台所の流しに置いた我が家で一番大きなボールにいっぱいの桑の実。白っぽいものもあるけれど、これは表側が赤くなっていたので採ってみると、裏側はまだ白い状態だったもの。まずはこの半分量の360グラムを煮て、ジャムを作った。このジャムを作る際のお砂糖は買ってきたものだけれど、桑の実を煮るときに混ぜるレモン汁はうちで取れたレモンを使うので、かなり自家製の感じが強くなる。取っておいたマーマレードジャムの空き瓶ひとつ分の量のジャムができた。今年の初物となる桑の実ジャムを、早速朝食のテーブルに上げてパンにつけて食べてみた。満足!満足!次はヨーグルトに混ぜて食べようとエドソンが言い、買い物の際、ヨーグルトを買ってきてくれた。昨日も1キロ近くの桑の実が収穫できたので、せっせとジャムを作らなくてはと、うれしい悲鳴を上げている。
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2015年8月26日(水) | ||||
以下は、8月15日付けニッケイ新聞の「日伯コンサル奮闘日記」からの転載。最後の段落にある「フィオ・デンタル(fio dental)」というのは、英語で言うところのデンタル・フロスのことで、歯間をきれいにするための糸のこと。これは日本にもあるけれど、どうして「これが流行るかも?」なのだろうと少々不思議に思った。
朝晩冷え込んで、風邪ひきの人も多いサンパウロから、熱中症で死者も出ている東京に戦々恐々で戻った。相当覚悟をしてきたが、運良く帰国した日から猛暑が和らいできて、溶けそうにならずに済んだ。 しかし、まさか南国ブラジルから極東の日本に来て、暑さを恐れるようになるとは思わなかった。日本の湿度の高さは独特で、ブラジルの35度と日本の35度では、明らかに日本の方が息苦しく、過ごしにくい。さらに、途中の30時間弱のフライトで体が冷やされ、体力を消耗した後なのでダメージも大きくなる。 きっかけは震災などだったが、この暑さも手伝って、少し前にこのコラムにも書いたが、ビジネス用の服装も、日本はどんどんラフになっている。クールビズということで、ノーネクタイが普通になったが、実はブラジルは何十年も前からクールビズだったとも言える。 逆に、最近のサンパウロの冬は寒く、ちょうど今頃は、みんなウォームビズを実践している。クーラーはあるが、暖房がほとんどないブラジルで、断熱材を使っていないオフィスビルの部屋は、しんしんと冷えて、事務所の中でもウォームビズでないと寒くて風邪をひきそうになる。 なかなか日本の人には、ブラジルで部屋の中でコートを着て、寒さに震えながら働いている光景はイメージできないだろう。同じ10度ならば、確実に東京よりサンパウロの方が体感温度は低く感じる。 このように、日本とブラジルで、逆転現象が様々な分野で起こっているのだ。何と言っても、最近ブラジルに行った人が異口同音に愚痴るのが、物価の高さだろう。昼食1500~2000円は当たり前。焼き魚定食3000円、冷奴1000円など、日本ではあり得ない価格が街にあふれている。 携帯端末「iPhone6」が15万円、家庭用ゲーム機「プレステ4」が20万円。日本人からしたら誰が買うのかと思うが、ブラジルもiPhoneユーザーは多く、大画面好きなので、特にiPhone6プラスは他国よりもユーザーが多いのではないかと思う。とにかく何でも高い。あらゆる物がこの10年で、ブラジルの方が高くなってしまったようだ。 ちょっと変わったところでは、ある意味日本文化とも言える刺青。ブラジルで刺青をしている人の多さには驚く。ほとんど、イヤリングの穴を耳に開けるのと同じファッション感覚である。 ワンポイントなどの刺青も含めれば、若者の半分以上がしているのではないだろうか。間違った漢字を入れている人もいれば、遠山の金さんのように両肩全体に派手な柄を背負ったお嬢さんも珍しくない。このようなファッションTATOOが日本に逆上陸する日も近いかもしない。 ボサノバも、実はブラジルでは日常的にあまり聞かれていない。どちらかと言うと日本の方が、レストランやカフェなどで流れている曲はかなりの確率でボサノバである。うるさくなく、心地よく、暗くなく、日本人の心情に合っているのかもしれない。 このように、日本とブラジルを頻繁に往来していると、実は日々世界は動いていて、いろいろなところで逆転現象が起きていることに気づく。このトレンドのかすかな動きをマーケティングでキャッチして、ビジネスに活かせるようになると面白い。 サンダル専門店「HAVAIANAS」も日本で浸透し、ラバーシューズブランド「Melissa」もついに原宿にオープンした。それらを履いてビーチに繰り出す若者が増えているということは、次に流行るのはフィオ・デンタル(fio dental)かも…。湘南がリオになる日も近い!? | ||||
2015年8月27日(木) | ||||
月曜の午後から降り始めた雨は、火曜も降り続き、強まったり小降りになったりしながら、1日中ぐずついた。雨が降るのはひろがうちに来て初めてのことなので、雨の中でオシッコやウンチができるかどうか心配だったのだけれど、オシッコははるがすれば真似をするので、ちゃんとできて問題なかった。でも、ウンチはいつものお散歩の途上でする場所まで行けないので、なかなかその気になってくれない。はるがしても、ひろはもよおさないようで、2日間でうまくできたのは2回だけ。どうしてもしてくれない時は、諦めて家に戻ると家の中でするということを2~3回繰り返した。水曜日に太陽が戻って3日ぶりのお天気になったので、はるとひろを外ベランダにしばらくつないで外の空気を満喫させることにした。はるたちのタオルや雑巾を欄干に干し、私たちの衣類も洗濯して干し、彼らが外にいる間に、家の中をモップで拭き掃除したりと、せわしなく家事に勤しんだ。次の写真は、雨でできた水たまりがまだ乾いていない状態のベランダにいるはるとひろ。右側で座っているのがひろで、欄干の下から向こう側に頭を突き出して、何かを眺めているのがはる。今朝はまた夜明け前から強風とともに激しい雨が降り出し、どうやら今日は1日雨の模様。昨日、洗濯や掃除をしておいて良かった。
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2015年8月28日(金) | ||||
次の写真は水曜日の午後撮った写真。1枚目は、先週の土曜日にヒバマーがブラキアーリアを取り除いてくれた家の北西側を南から撮ったもの。家から入り口ゲートを結ぶ道が左側に見える。右側のセドリーニョ沿いの小路は入り口ゲートへの近道。2枚目は、同じエリアを反対側の北から撮ったもの。画面右側に見える裸の木は、イペーの木。桜と同じように1年に一度花を咲かせる前に葉を落として裸になる。普通、イペーは9月頃咲くのだけれど、この木はまだ若いので、これまで一度も花を咲かせたことがない。今年はどうかな?
以下は、8月25日付けニッケイ新聞の「コラム オーリャ」からの転載。外国では禁止されている薬剤を使っていたりするブラジル農業の現実があるので、ブラジルの食材がいいかどうかは定かではないけれど、ひとつ言えることは、前回、21日付けのブログで紹介した「コラム 大耳小耳」にあった、日伯の時間感覚の違いから来るのではないかと私は思っている。日本のように常に時間に追われて忙しい毎日を送っていると、おいしいものもゆっくりとおいしいと味わっている時間がないけれど、ゆったりとした時間の中で、仕事や時間に追われることなく生活していると、心にゆとりができるのではないかと思う。
『家族で移り住んで2カ月目のコラム子が驚いたのは、当地の食材で作る料理が大好評なことだ。〃適当〃に調理しても家族が喜んで食べる。日本では無かったことだ。これは一体どうしてか。 東京の弓田亨というパティシエ(菓子職人)によると、ビタミンやミネラルなどの微量栄養素が豊富な食材ほど、食べた時に体が喜ぶような感覚が得られるという。コラム子も彼のお菓子を何度か取り寄せたが、そのおいしさには毎回感動させられた。生きる元気が湧いてくる味だった。 同じような感動を味わったのは、フェイジョアーダや絞りたての生ジュース、出来立てのポン・デ・ケージョを食べた時だった。腹の底から元気が出るようなおいしさで、抱えていた悩みや不安を一瞬忘れてしまったほど。 数年経てば見方も変わるかも…。でも今は素直に生命力溢れる食材に感謝したい。(将)』 | ||||
2015年8月29日(土) | ||||
次の写真は、昨日掲載した写真と同じ場所からセドリーニョの列と、その前で育っているマンジォカの芽の列を撮ったもの。いつ頃だったかずいぶん前に、エドソンがここにマンジォカを植えたのだけれど、まだ芽は小さい。そのためはっきりと見えないかもしれないけれど、小さな緑の列がそのマンジォカの列。そして、2枚目は、そのマンジォカの芽のひとつを近くから撮ったもの。
次の写真は、昨日の午後シュハスコ小屋の窓のガラスが配達され、お店の人が窓にガラスをはめ込む作業をしているところ。ちゃんと窓の大きさを計測してから店に戻って、ガラスを切ってきてくれたはずなのに、何故か持ってきたガラスは窓よりも少し大きかったため、車の後ろで手作業でガラスを切る作業をしなければならず、エッジが機械で切ったようにすっきりきれいにならず、仕上げが雑だったのにはがっかり。でも、家の窓ではなくシュハスコ小屋の窓なので、「まあいいか」と諦めることにした。とにかく、少しずつ前進していることに感謝しよう。
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2015年8月30日(日) | ||||
次の写真は、昨日の午後撮ったシュハスコ小屋の前のスペース。昨日エディは中年の手伝いの人とふたりで来て作業をしたので、畑の側のレンガの壁が2倍の高さになり、こちら側のレンガの壁も立ち上がり、また少し進展した。お昼はシュハスコをするとエドソンがエディに約束していたので、お昼前からエドソンは小屋の中で火をおこしてお肉を焼いたり、台所からパンを運んだりして、せっせと働いてくれた。ふたりで1日仕事をしてくれるとはかどるだろうなと期待したのだけれど、お昼を食べ終わって、少し作業をしただけで、2時半には仕事を終えて帰ってしまい、昨日はここまで。
12時を少し回って、サンパウロの東に位置するサン・ジョゼ・ドス・カンポスから、INPE(Instituto National de Pesquisa Especiais=National Institute for Space Research=ブラジル国立宇宙研究所)で学ぶ学生さんがふたり到着した。ふたりはコロンビアからの留学生で、その内のひとり、修士課程で学ぶジャイミという学生さんをエドソンがボランティアで技術支援しているのだけれど、メールやスカイプでのコミュニケーションだけでなく、直接エドソンと話して、いろいろ学ぶために週末を利用してやって来た。もうひとりのジョージという学生さんはエドソンとの直接の関わりはないのだけれど、コロンビアの大学で教授をしていて、INPEに留学して博士号を取ろうとしているのだそう。その博士論文の課題を決めかねているので、エドソンと話すことで何かヒントが得られないかと一緒にやって来たらしい。次の写真は、昨日の午後、ダイニングルームで話をしている3人。真ん中の人がジャイミで、右側の人がジョージ。ジャイミは流暢なポルトガル語を話していたけれど、ジョージのポルトガル語は流暢な中にも、私の耳には少しスペイン語訛りがあるように思えた。
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2015年8月31日(月) | ||||
土曜日の夕飯は、豚肉と玉ねぎをトマトジュース、ワイン、ウスターソース、カレー粉で煮込んだものと、千切りじゃがいもとハムとルッコラを混ぜたサラダ、きゅうりの酢の物、そして、ガーリックライスを3カップ炊いた。そして、デザートにはアップルケーキを出し、十分な量があると思ったのだけれど、ジャイミとジョージはモリモリと食べてくれ、夕飯が済んでみるときゅうりの酢の物以外はほぼ完食状態だった。そして、ジョージもワイン好きだったので、4人で2本半のワインを空けた。翌日の日曜日の朝食は、その日の朝エドソンが町のパン屋に行って買ってきたパオンジーニョ(小さなフランスパン)とポン・ジ・ケージョ(チーズパン)に、チーズとハムとレタス、いちごとバナナ、コーヒー、オレンジジュース、ココナツのヨーグルトを出したのだけれど、こちらも完食。さすがに若い男性たちなのでよく食べる。そして、ふたりともとても気さくな人たちで、食事の際の話はおもしろく、楽しかった。次の写真は、日曜日の朝、朝食後にさっそくエドソンのワークスペースに行って話し込んでいる3人。
3人はずっと話し込んでいて、12時を回っても昼食にしようと言わないので、1時近くになって私の方から昼食にしようと声をかけ、スパゲティ・ミートソースとデザートのブドウを出してお昼にした。昼食後、3人は腹ごなしにお散歩に出て、戻って来てからベランダの椅子でまたまた話し込んでいるので、次の写真をパチリ。ジョージはお疲れの様子。この後、家の中に入り、コーヒーを飲みながら、またひとしきり話し込んだ後、4時前に2人はサン・ジョゼ・ドス・カンポスに向け帰って行った。彼らの話しを聞くとはなしに聞いていると、エドソンが彼らを支援するのは「Pay it forward」なのだから気にすることはないというようなことを、何度か言っているのが聞こえた。つまり、「情けは人の為ならず」で、古い言葉で言うところの「恩送り」なのだから、受けた恩をエドソンに返す必要はなく、彼らが同じように将来誰かを支援すればそれでいいのだという考え方であることを説明しているようだった。2人は午後8時にサン・ジョゼ・ドス・カンポスに無事帰り着いたと連絡をくれた。バタバタと忙しかったけれど、2人とも充実した時間を過ごし、食事などもおいしいと喜んでくれ、お役に立てていることを実感できる週末になった。
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