Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2015年5月1日(金)

この月曜日からはるの体調が良くない。月曜日の午後下痢をしたので、薬をあげて落ち着いたように見えたのだけれど、火曜日の朝のお散歩で、下痢というほどではないものの柔らかいウンチをして、最後にウンチに血がついていたので、ぎょっとした。薬を飲ませて様子を見ていると、今度は嘔吐。その後食事を手作りのものからドッグフードに変えて、毎食投薬して、下痢も嘔吐もなく状態が回復してきたと思ったのだけれど、夜中にまた嘔吐。水曜日は食欲はあるのに、食べると嘔吐を繰り返し、水曜日の夜から木曜日の朝にかけて何度も嘔吐するので、とうとう木曜日の朝、はるをペットクリニック「ポリ・ヴェット」のドトーラ・ヴィットリアのところに連れて行き、診てもらった。熱はなく、便を顕微鏡で調べても特に異常はないということだった。血液検査のための採血では初めてのことで、はるが嫌がってあばれるかと思ったのだけれど、比較的おとなしくしていてくれ、ヴィットリアはあっと言う間に採血を終えた。すごく上手!結果が出るのは翌日か翌々日になるだろうけれど、どうも胃ではなく肝臓の問題じゃないかと言うことで、別の検査施設で超音波検査の予約を入れてくれたので、すぐに検査を受けに行った。幸い胃も肝臓も問題なし。ただ、食べた物がうまく胃で消化されず、腸への移動がうまく行かず、時々食べた物が逆流するという状態になっているようだと言うことだった。その超音波検査の結果を持って、再度ヴィットリアの所に行き、とりあえずの薬を処方してもらってお昼過ぎに帰宅。その後は夕食前に一度嘔吐。寝る前にもう一度嘔吐したけれど、夜中は一度も嘔吐することなく、朝までよく寝てくれたので、助かった。昨日の夜7時前にはヴィットリアがわざわざ電話で血液検査の結果を知らせてくれた。肝機能が少し弱っているということで、投薬する薬とその飲ませ方などを指示してくれ、何かあったらいつでも電話してと、彼女の携帯電話の番号を教えてくれた。これから1ヶ月余り、はるへの投薬が続くことになった。勤務時間外なのにわざわざ電話をしてきてくれて、プライベートの電話番号まで教えてくれて、ドトーラ・ヴィットリアは本当によくしてくれる。こんないい獣医さんがついていてくれるのだから、はるはきっと大丈夫、元気になる。

朝顔の花が毎日元気に咲くようになって三週間ほどになる。先日、複数咲いている中に白い朝顔がふたつ咲いていた。ひとつは後ろ向きだったので、花の正面に回って眺めてみたら、何と筆でさっと青い色を引いたように太さの違う筋が何本か入っていて、真っ白ではなかった。鎌谷さんの説明によると、この白くて青い模様入りの朝顔は、同じ大きさで青いものとペアの西洋朝顔なのだそう。西洋朝顔はつると葉っぱの股から花柄が出て、花のつぼみが2つ3つ出てくるのだけれど、日本の朝顔は1つの花が基本なのだそう。それぞれに異なる特徴があるようだ。これでいただいたのは5種類ではなく6種類の花色の種だったことになる。何だか毎日が驚きの連続で、朝、はると一緒に外に出て、今日は何色がいくつ咲いているのかな?と、確認するのがとても楽しみ。次の1枚目の写真は、最初に花開いた白地に青い筋の入った朝顔。2枚目はそれから4日くらいして咲いたもうひとつの白地に青い筋の入った朝顔。

2015年5月2日(土)

30日の木曜日は、午後から何だかずいぶん寒くなったので、エドソンが今年初めて薪ストーブに火を入れた。去年よりも1ヶ月近く早い火入れとなった。翌日のニッケイ新聞の記事に、寒気団が接近して、今年の最低気温を記録したとあったので、急激な気温低下を体が敏感に感じたんだなと思った。でも、昨日は1日日差しがあって暖かだったので、夜になっても家の中は暖かく、ストーブをつけなくても大丈夫だった。一方、先月の中旬、咲き始めているのに気づいたマナカの花が今満開の状態。森の中のマナカの木々はジャタイの巣箱の所まで行かないと見えないけれど、森の手前の大きなマナカの木は家の中からでも見える。次の写真は、居間の西側の窓から撮影したそのマナカの木。手前のだいぶ葉を落とした桜の木々の間、画面の奥にピンクや白の花がこんもりと咲いているのが見える。

このマナカの木は、ヒバマーのお陰で足元の草を取り除いてきれいにしてあるので、木の足元まで行くことができる。それで、手の届く所にある枝を数本切って、花瓶に差してみた。ハイビスカスは花が1日で終わってしまうので、枝を花瓶に差しても花はすぐしおれてしまうけれど、マナカは満開の状態が桜よりも長く続くので、花瓶に差しても大丈夫のようだ。マナカを花瓶に差してみてひとつ発見があった。マナカは白とピンクの2色の花を咲かせるのだけれど、咲き始めが白く、徐々に花びらの先からピンク色に変わって行き、数日すると全体がピンク色に変わるということがわかった。エドソンが言っていた通りだった。そして、この写真のテーブルの上の白いランは、3つすべての花が咲きそろった。

2015年5月3日(日)

金曜日はメーデーでお休みだったのだけれど、エドソンは木曜日にはるをクリニックに連れて行くために仕事を半日休んだので、金曜日は仕事だった。それで、ドトーラ・ヴィットリアから指示されたはるに飲ませる薬は、昨日の土曜日にボトゥカトゥへ買いに行った。はるは木曜日の夜、寝る前に嘔吐して以来、嘔吐しなくなり、食欲もあり、お散歩もご機嫌に出かけることができる。でも、肝機能の回復には結構時間がかかるようで、これから40日間の投薬が始まった。はるの食事については特に何も言われていないけれど、エドソンがいろいろ調べた結果、ご飯に鶏の胸肉と人参を少し混ぜて作り、出来上がりにオリーブオイルをかけて混ぜたものを食べさせるとお腹にも優しく、肝臓にもいいということで、それを毎日作って食べさせている。モビもそうだったけれど、はるも体調が悪くても、ご機嫌は悪くなく、比較的元気なので助かっている。次の写真は、土曜日に買い物から戻り、私たちが荷物を家の中に運び入れる作業をしている間、ベランダの椅子の所で待っているはる。モビと違って、カメラを向けるとはるは顔を背けてしまってカメラを見てくれない。どうしてだろう?

以下は、ニッケイ新聞の2015年5月1日付け「コラム 樹海」からの転載。

なぜグローボ特派員は被災地の平静さに感動するのか

『「大震災にも関わらず、ネパール国民は商店略奪もせず、家族を失った悲しみに耐え、平静を保っている」とグローポTV特派員は感動しながら伝えた▼これを見て東日本大震災の時に、同局特派員が「被災地で商店略奪は起きず、信じられないことに、被災者同士助け合う光景が繰り広げられている」との驚きを伝えていたのを思い出した。〃神〃に対する考え方が違うことが、天災時の国民の態度と関係する気がする▼西洋の神は実に荒々しい。「ギリシア神話」に登場する女神ガイアは嫉妬から天空神ウーラノスの男根を切り取らせた。旧約聖書『創世記』では、神は地上に増えた人々が悪を行っているのを見て、「これを洪水で滅ぼす」とノアに告げ、箱舟の建設を命じた。洪水は40日続き、地上の生きものを滅ぼしつくした▼〃神〃が人格化され、人が自然と対峙する雰囲気がある。どこか人の目から〃神〃を解釈している感じがする。西洋では、天災は人に敵対する現象だから、害を及ぼさない様に自然を〃征服〃する必要があると発想する。天災は憎むべきもので、自らが生き残るための略奪は正当化される▼でも東洋的には人は自然の中から生まれ、人はそれと〃共存〃する他ない。地震や津波も含めて、厳しい自然は〃八百万の神〃そのものだ。神は自然と一体化し、山や川、草木にも神が宿る。それゆえ大地震が起きても「受入れるしかない」との諦観が漂う。西洋史に出てくる「神は死んだ」とか「神を憎む」という言葉自体、どこかそぐわない。それに自然は異教徒を殺せとは命じない。穏やかな神のイメージの方が、世界平和に近い感じがする。(深)』

2015年5月4日(月)

以下は、インターネット上で見かけた5月1日配信のNEWSポストセブンの記事からの転載。

『台湾人と日本精神』著者 戦時欧米国と日本の決定的違い解説

親日を超えた「愛日家」を自任する男性が、戦前に日本の領有下にあった台湾にいる。日本の短歌を愛好する団体「台湾歌壇」の代表を務める蔡焜燦(さい・こんさん)氏だ。今年4月に、14年前に小学館文庫から発刊された著書『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)』が日本の読者の反響を呼び、単行本の「新装版」として発刊されることになった。そんな蔡氏が “元日本人”としての誇りを語る。

* * *
大東亜戦争を「悪」だと教えられてきた戦後の日本人は驚くかもしれないが、当時の台湾にとって日本は「最良の統治者」だった。

確かに内地(日本本土)から台湾に来た日本人の中には、我々を「チャンコロ」と呼んでバカにする者もいたのは事実だ。

しかし、台湾を「化外の地」と呼んで放置してきた清国とは違い、大日本帝国は台湾に乃木希典、後藤新平、明石元二郎など、日本国首相になってもおかしくない一流の政治家や軍人、行政官を派遣し、台湾の近代化を推進した。台北市の下水道整備は東京よりも早かったほどである。私が通った公学校(小学校)の各教室にはスピーカーがついており、放送学習が行なわれていた。これも本土の学校にはなかったと聞いている。

そうした物質的なもの以上に我々台湾人が日本を尊敬した理由は、「日本精神」に裏打ちされた道徳教育にある。「日本精神」とは、台湾では勤勉、正直、約束を守る、公を大事にするといった善行を意味する言葉として現在も使われている。

日本人の教師たちは教育を「商売」と考えている中国人とは違い、「日本の将来を支える人材を育てる」という使命感と情熱があった。恩師たちの多くはすでに他界してしまったが、そのご家族との交流を続けている我々世代の台湾人は多い。植民地を搾取の場としか考えなかった欧米列強と日本の決定的な違いを示すエピソードだと思う。

* * *
終戦を陸軍航空整備学校奈良教育隊の一員として迎え、台湾に帰国した後、私は小学校の体育教師の職を得た。突如として公用語となった北京語の素養がほとんどなかったが、体育教師なら最低限の北京語でも務まったからだ。かつて素晴らしい日本人教師に教えられた体験から、子供たちの役に立ちたいという思いもあった。

だが、「中国式」の教育現場を見て、そんな意気込みはあっという間に失せた。

要するにすべてが金、金、金だった。落第しそうな子供がいれば、その親が校長や教務主任に賄賂を持っていく。教師たちは馴染みの文房具店と結託して、子供たちの学費をピンハネしていた。そこには罪悪感など全くなかった。

ちなみに「中国式」は嘘、不正、自分勝手などを意味し、台湾では、勤勉、正直、約束を守る、公を大事にするといった善行を意味する「日本精神」の対義語として使われていることを、ぜひ日本人には知っておいていただきたい。

◆蔡焜燦:1927年、台湾生まれ。台中州立彰化商業学校卒業。1945年、岐阜陸軍整備学校奈良教育隊入校。終戦後、台湾で体育教師となるが、後に実業界に転身。半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」会長などを務める。司馬遼太郎が『台湾紀行』の取材をする際に案内役を務め、同作中に「老台北」として登場したことでも知られる。短歌を愛好する「台湾歌壇」の代表として日本文化を広く紹介してきた功績が評価され、2014年春の叙勲で旭日双光章を受章。

●構成/井上和彦(ジャーナリスト)
※週刊ポスト2015年5月8・15日号

2015年5月5日(火)

2月3月は雨が多く、土曜日に雨ということがよくあったため、ヒバマーがここの作業に来れない日が多く、あちこちずいぶん草ぼうぼうになっていたのだけれど、4月はお天気のいい日が多く、毎週土曜日にちゃんと来てくれ、チラデンテスの日の4連休の際にも日曜日以外の3日間仕事に来てくれたりしたので、ずいぶん作業がはかどり、あちこちがとてもきれいになった。家の北側の防風林の列の間の丘に上がって行く小路もカエデが左右に枝を伸ばして、丘の上に出る最後の所にある桜の木も枝が交差して、手で避けて通らないと通れない状態になっていたのだけれど、カエデの木の足元の枝をきれいにはらってくれたので、歩き易いきれいな小路が復活した。それまではこの小路の下に立っても、丘の上にある桜の木々が枝を伸ばしているため向こう側は見えなかったのだけれど、枝をはらってくれたお陰で、丘の上の光が見えるようになった。この写真の右側はグレヴィーリャの列。グレヴィーリャのさらに右側にはリグストルン(ねずみもちの木)の列がある。小路の左側はカエデの列。そのさらに左側は沖縄桜の列。この写真ではよく見えないけれど、桜の列のさらに左側にはセドリーニョの列がある。みんなよくここまで大きく育ってくれたものだ。

次の写真は、先月25日にNight Runに参加されたという安見さんから届いたもの。「海岸のぶかぶかの砂地3Kmとアスファルト通り2Km、計5Kmのランニングでした」とメールにあった。この写真は一週間後に主催者から送られてきたものだという。すごいなあ・・・。格好いい!

2015年5月6日(水)

次の写真は、先月つぼみをつけ始めて、咲き始めたと紹介したフランボヤンジーニョ。真っ先に咲き始めた下の方の花はしおれてしまっているけれど、この花も今満開状態。

次の写真は、庭のベンチ(写真奥)の側のカモミルの花。最初に種を蒔いて花が咲き、シーズンが終わり枯れた後、抜き取ったのだけれど、枯れた後抜き取る前に、種が飛んだらしく、自然に芽を出し、成長するようになった。写真中央のひょろひょろした植物は、去年花が咲いた際に紹介したランの一種。

次の写真は、白い花が咲き始めた庭の木。居間の北側の窓から見える側はまだこれほど咲いていないのだけれど、反対側の木の北側は、こんな感じでだいぶ花が咲いている。この花も枝を切って花瓶に差すとテーブルが華やぐ。ここの秋は春よりも様々な花が咲いて、色とりどり。

2015年5月7日(木)

今日、エドソンはバウルのデミウソンとふたりで、ここから200キロほど東のサンパウロからさらに東に行ったサン・ジョゼ・ドス・カンポスにあるITA(Instituto Tecnológia de Aeronáutica)とINPE(Instituto National de Pesquisa Especiais)に出かけて行った。それで、私とはるはお留守番。エドソンは昨年の10月に開催された第1回ブラジルアマチュア無線全国大会で、ブラジルには存在していなかったアムサット・ブラジル(AMSAT BRASIL)の技術グループをデミウソンら数人のアマチュア無線愛好家と一緒に立ち上げる計画を発表した。その後、エドソンがアメリカのAMSAT本部に承認申請を行い、今年の1月だったか2月にアメリカ本部からアムサット・ブラジル(AMSAT BRASIL)が正式に承認されて、立ち上げられた。それで複数の衛星プロジェクトを行っているITAとINPEで、アムサット・ブラジルの技術グループがどのように彼らのプロジェクトに関わり、支援できるかを話し合うことが今日の訪問の目的らしい。デミウソンはこのアムサット・ブラジル技術グループの立ち上げメンバーのひとりなので、仕事を休んで同行したというわけ。これはふたりにとって仕事ではなく、あくまでもボランティアなのだけれど、ふたりとも結構真剣。

エドソンがアマチュア無線が趣味と言うと、「へえ~、(このコンピュータの時代に)今でもアマチュア無線なんてやっている人がいるの?」と言う人が時々いるけれど、アマチュア無線は災害時の(例えば、先日のネパールでの大地震などの)際に、唯一利用可能な通信手段というだけでなく、最先端の衛星通信の分野では無線のことを知らなければプロジェクトが失敗するほど、とても重要な技術。例えば、この2月に国際宇宙ステーションから宇宙に放出されたブラジルの小型衛星は地球の軌道に乗れず、失敗に終わったけれど、その小型衛星の様子を確認するのは、衛星から発信される無線のビーコンを地上で受信することから始まる。無線のビーコンが発信されないとか、地上で受信できなければ、衛星に搭載されたコンピュータは何の役にも立たない。だから、決して時代遅れの技術ではなく、むしろ最先端の技術。エドソンは昔からこの衛星通信技術に強い関心を持ってかかわってきたので、知識と経験が豊富。

2015年5月8日(金)

先日、オレンジが収穫できるようになったと書いたけれど、今年はオレンジの収穫量は去年と比べ少なめ。でも、レモンは去年同様たくさん収穫できるため、そのレモンを毎日せっせと使う努力をしている。オレンジジュースがない時にレモンジュースを作って飲んだり、サダラドレッシングを作る際、ワインヴィネガーの代わりにレモンの絞り汁を使ったり、チーズケーキや、夕食の鶏肉ときのこのクリーム煮にレモンの絞り汁を入れたり、先日はレモンをたっぷり使ってサーモンのマリネを作ってみた。次の写真は、玉ねぎと人参とレモンを混ぜたマリネ液をサーモンの上にかけた状態のもので、これから冷蔵庫でしばらく寝かせるところ。

次の写真は、冷蔵庫で半日寝かせたサーモンのマリネをフライパンで焼いて、玉ねぎと人参を別のフライパンで炒めたものと、キヌサヤを炒めたものを添えて出来上がり。いつも食べている塩・コショウしただけのサーモンのソテーとは一味違って、レモンの酸味が効いた一品になった。

2015年5月9日(土)

ダイニングルームの窓辺のセントポーリアの花が2つ咲いたと先日書いたけれど、その後、2つ新たに芽が出てきて、現在、花が7つも咲いている。この状態で、まだ開いていないつぼみがふたつある。最初にもらった時にたくさん咲いていた花が終わり、翌年からはせいぜい3つか4つ花を付けるだけだったけれど、今年はこんなにたくさん花を咲かせてくれ、うれしい限り。

5月6日付けのニッケイ新聞に、「『楽書倶楽部』創刊5周年=最新27号は大部156頁=チリ、ミナス州からの寄稿も」と題した以下の記事があった。イビウーナの香山さんから紹介していただいて、新米移民にもかかわらず、この日系コロニアの隅っこにでも参加させていただけているのは、本当に幸運なことだと思う。

『創刊して3号ほどで休刊・廃刊する雑誌が多いことを〃3号雑誌〃というが、雑誌『楽書倶楽部』は創刊5周年を迎えて第27号を発刊し、その記念親睦会を25日に文協の県連会議室で開催した。つぶれる雑誌や新聞があっても、創刊することは珍しい昨今、5年続いてなお執筆陣を増やしているのは異例だろう。当日は執筆者や愛読者ら60人以上が集まり楽しい一日を過ごした。

日毎叢書企画出版を共に興した野口浩さんが10年に亡くなった後、前園博子さんが主宰する形で、石田勉、山本ロゼリー、大羽豪三3氏らと一緒に発行してきた寄稿誌だ。

隔月発行として10年4月15日に28頁で創刊。27号では49人もが顔写真と略歴入りで執筆し、156頁となった。手作り製本のため150部限定。寄稿者にはチリ在住の吉村維弘央(いくお)さん、ミナス州在住の荒木昭次郎さんら遠方からの投稿も多いのが特徴だ。

最初に司会の松井英俊さんは亡くなった関係者の野口浩、小池まこ、渡辺光、山路正芳(まさよし)、中村勉(べん)、後藤宗治(むねはる)、高橋祐幸(ゆうこう)7氏に哀悼の意を表して黙祷を捧げた。

前園さんは「ずっしりと厚い最新号を手にして感無量の思い」と挨拶し、石田さんも「せいぜい続いて2、3年と思っていたのが5年にもなった」と感慨ぶかげ。同人代表で広川和子さんが「前園さんの心のこもったおもてなしの姿勢は、本の細かい部分にも反映されている」との感想をのべ、愛読者代表の井料賢治さんは「2日で読み通し、その後気に入ったものを読み返す。これからも長く読ませてもらいたい」と要望した。

卒寿者表彰に続き、本紙の深沢正雪編集長の講演「日系社会の動向」が小一時間行なわれ、谷口範之さんの乾杯の音頭で昼食になった。その後、JICAシニアボランティアの与那覇博一さん(介護士)が、ユーモアたっぷりの語り口で手品を披露し、会場を沸かせ、「弟子希望の方には、ぜひお教えしたい。ぜひ楽しませる側に」と呼びかけた。

知人に誘われて初参加の石井かず枝さん(75、二世)は「息子から昔の思い出を書き残して欲しいといわれていたので、これを機会に何か書ければと思っています」とのべた。前田安隆さん(79、佐賀)は「会費がなく、書ける人が書くスタイルが近づきやすい。5年も続くのは大したもの」と評価した。

前園さんは「新しい人を歓迎しているので、ぜひ書き送ってください」と呼びかけている。日毎叢書企画出版(電話=11・3209・4954、送付先Rua da Gloria, 332 3and. s/32 CEP:01510-000 SãoPaulo –SP)』

2015年5月10日(日)

大きな音をたてる掃除機を使うと、在宅で仕事をしているエドソンの邪魔になるので、掃除はエドソンが仕事で忙しい平日ではなく週末にするようにしている。それでも掃除機の音がうるさいので、掃除機の嫌いなはるを外のベランダにつないで掃除を始めると、エドソンもよく家の外に避難したりする。先週、私がはるをベランダに出して掃除を始めると、エドソンも外に出てはるをお散歩に連れて行き、しばらく時間を潰し、戻ってからも、掃除が終わるまではると一緒にベランダの椅子に座って待っていたので、居間の窓から二人の後ろ姿をパチリ。はるは2つの椅子のアームの上で上手に腹ばいになっている。

次の写真は、はるが体調を崩した理由が肝機能の低下とわかった後、作り始めたはる用のご飯で、鶏の胸肉と人参とご飯を混ぜたもの。食べさせる前に毎食温め直して、お皿に盛った後、オリーブオイルを少しかけて食べさせている。食事は私が作り、毎食、食事をお皿に入れて、オリーブオイルと薬を加えて混ぜる作業はエドソンがしてくれている。投薬が1ヶ月余り続くので、様子を見ながらしばらくは続ける予定。1回にこれくらいの量を作るのだけれど、はるは私たち同様、朝、昼、晩と、1日3食食べるので、これで3~4食分。現在は食事に薬を混ぜている以外は、まったく以前と変わらず元気で、毎食歓喜の雄叫びをあげて元気に食事をしている。

以下は、5月7日付け、ニッケイ新聞の「コラム 樹海」からの転載。今、うちでもエリゼウからもらったモリンガの種を苗床に蒔いて育てているのだけれど、早くちゃんと地植えしたものが育って、収穫して食べられるようになるといいなあ・・・。

奇跡の薬木、モリンガ

『「読者の興味を引きそうだね」と編集部で話していた「医者要らず、薬屋いらずの薬木 〃銀の弾丸〃モリンガ」(1日付け本紙4面、野澤弘司さん寄稿)が予想を超える大反響を巻き起こした。先方の事情で問合せ用電話番号が使えず少々混乱を招いたが、直接編集部まで質問に来る読者まで現れた▼コラム子はモリンガの存在をこの寄稿で初めて知ったが、元は北インドの原木で、約5千年前に書かれたアーユルヴェーダの医学書にも登場する歴史ある薬木だとか。東南アジアをはじめアフリカや沖縄でも栽培され、その薬効から各地で「緑のミルク」「生命の木」「奇跡の木」など様々な別名で呼ばれている▼寄稿でも、14年間その葉を煎じて飲み続けた人が血糖値や健忘症等数々の病を完治させ、「余命わずか」から「健康体」になったとの記述があったが、血糖値抑制効果に関しては医学的にも証明済みという。必須アミノ酸、ビタミン、ミネラルの種類や含有量も他の食品と比べて格段に豊か。それが体調を整え、最終的には病さえ癒してしまうのかも▼健康食品としてだけではなく、実が含む油は食用・化粧用に、その絞りかすは水の浄化装置に、根は西洋ワサビの代用品として余す所なく使えるため、ゴミゼロの循環型社会にと、普及に努める大学教授もいるそうだ。野澤さんが普及に鼻息が荒いのも頷ける▼そんな奇跡の薬草を少し分けてもらったので、しばらく飲んで見ることにした。健康状態があまりに改善するので「飲む前の写真を撮っておいた方がいい」とすら言われ、期待が膨らむ。人類5千年の知恵が見出した自然の恵み、はてさて医学を超えるかどうか。(阿)』

2015年5月11日(月)

先週、ずいぶん久しぶりにエーナーニから電話があり、土曜日の夕食にワインとバナナブレッドを手土産に、エーナーニとカローウのうちに呼ばれて行ってきた。食卓につくとエーナーニが「少しはポルトガル語わかるようになった?」と、私にふってきたので、「まだ、あまりよくわからないのよ。ぼちぼちね」と返したら、「前よりだいぶ話せるようになったじゃない」と一応ほめてくれた。でも、これくらいは前から話せてたけどなあと、思った。次の写真は、食事を始めたところをパチリ。私の椅子の右側に、持参したはるのベッドを置いているのに、ちゃっかりエドソンのところに行って、はるも一緒に写真に写っている。エーナーニとカローウはおしゃべり好きな楽しい人たちだし、彼らの話題に出てくる人たちは私も知っている人たちばかりなので、話していることが理解し易く、時々私も合いの手を入れたりして参加できたので、楽しいひとときだった。この写真を撮った際、遊びに行ってまだ帰宅していなかった男の子たち(次男と三男)が、しばらくして戻ってきて、お母さんのカローウに食事をお皿によそってもらって、お姉ちゃん(長女)と一緒に隣の台所でおとなしく食事をしていた。彼らの長男のネトは、デザートが終わった頃帰宅して、もう食べてきたからと、デザートも食べずに私たちと一緒にテーブルについて話に加わった。今月18歳になる彼は、高校を中退してしまったらしく、今はペドレイロ(家を建てる人)を手伝う仕事をしていると言っていた。久しぶりに行った彼らの家は、敷地を囲む塀や入り口の扉が新しくきれいになっていたり、庭に大きなプールができていたり、飼い犬が3匹に増えていたりと、だいぶ変わっていた。次回はうちに食事に来てねと約束して、10時頃失礼した。

インターネット上で、Wedge 5月7日(木)12時10分配信の、ちょっと長いけれど、とても興味深い記事を見かけてので、ここにリンクをはってみる。中国問題・日中問題評論家の石 平 氏による『中国が仕掛ける「歴史戦」に決着をつけた安倍首相の米議会演説』というこの記事のサイトは、こちらへ

2015年5月12日(火)

先週、NHKの天気予報で「立夏」と言っていたので、季節が逆のこちらでは「立冬」を迎えたことになる。お天気がいいと昼間の日差しで家の中が温まり、寒さはあまり感じないけれど、日差しがなく、強い風でも吹いていると寒くて、ストーブのぬくもりがほしくなる。それで、久しぶりに水炊きが食べたいなあと思っていたところ、この土曜日にようやく白菜が手に入り、水炊きの食材がほぼ揃ったので、日曜日の夕飯は水炊きを作って食べた。土鍋で鶏のもも肉と、昆布、大根、人参、白菜、豆腐、しいたけ、そして、青みにルッコラを入れて炊き、ポン酢でいただいた。水炊きは野菜をたくさん食べることができて、体が温まるので、体が喜ぶ。日曜日は午後から雨になり、ちょっと寒くなったので、この冬初めての水炊きはグッドタイミングで、とても体が温まり、おいしかった。

2015年5月13日(水)

庭の糸スギとフランボヤンの木の間、ラベンダーの側に、ひょろひょろと何か植物が伸びてきていたのだけれど、雑草ではないので、そのまま成長するにまかせて放っておいた。そうしたらこれまでは緑の葉だけだったのが、先日、先端に白い葉や花のつぼみが出ているのに気づき、びっくり。これって白いポインセチアでは?これまで2度ほどクリスマスの時期に普通の赤いポインセチアの鉢植えを買ってきて、家の中で飾り、だいぶ弱ってきた頃に、庭に地植えにしたことがあるけれど、枯れはしないものの、元気がなく、かろうじて生きながらえている感じだし、それらを植えた場所はこことからずっと離れた所なので、その種が飛んできて自然に生えてきたとも思えない。鳥が種を運んできたのかなあ・・・?と、不思議に思っていたら、「エリゼウからもらったんだったかなあ・・・?何を植えたんだったか忘れたけれど、僕が何かの苗を植えたような記憶がある」とエドソンが言う。ああ、犯人はエドソンだったのか?植えた本人が忘れてしまっているのに、ちゃんと育ってくれてありがとう。

2015年5月14日(木)

メル友の鎌谷さんからいただいた種を畑に蒔いて育てていたスナップエンドウが、小さな実をつけた。まだ小さいのに、すでに2つ3つ虫にかじられてしまったものもあるので、実がふくらんでいるものを収穫してみた。まだ実がふくらんでいないものもいくつかあり、それらはそのままもうしばらく様子を見ることにした。次の写真は、右側がその収穫したスナップエンドウで、左側はきぬさや。ボトゥカトゥのスーパーやウエノで手に入るきぬさやは、日本のものよりも倍とは言わないまでも、5割方大きいので、お隣のスナップエンドウがとても小さく見える。でも、実際収穫できたスナップエンドウはとても小さかった。手前の2つのスナップエンドウが一番大きいのだけれど、それでも普通のスナップエンドウよりも5割方小さいように思う。あと数個追加で収穫できたとしても、蒔いた種の数よりも少ないので、失敗だったなと思う。気温とか日照時間とかが生育に関係するのだろうから、まだ大丈夫と鎌谷さんは言っておられたけれど、季節的に種を蒔く時期が遅すぎたのかもしれない。このところ朝晩冷え込むようになったので、朝顔も花は咲くものの、花の大きさが小さく元気がなくなってきている。

2015年5月15日(金)

次の写真は、先日の夕方、火を入れた薪ストーブの前のエドソンとはる。仕事を終えてワインを飲みながら、ストーブの前のはるのベッドに座り込んで薪を焼べているエドソンの、膝の上に乗っているはるの目が、カメラのフラッシュに反射して、電飾のように光っている。毎日ストーブをつけているわけではないけれど、今週はお天気が悪い日が多く、そんなちょっと寒い日は、朝一番とか、夕方から夜にかけてストーブが欠かせなくなってきている。さらに、お天気が悪いと洗濯物が乾かないのだけれど、ストーブの横に持ってきて干すと、よく乾くので助かっている。去年までは、我が家建設の過程で出た廃材をストーブに焼べていたけれど、小さいサイズのものがなくなったので、今年は家の周りの木々を剪定して出た枝や、森で枯れた木の幹などを集めてきて、ヒバマーに斧で割って、ちょうどいいサイズにしてもらったものを焼べている。わざわざ薪ストーブ用の薪を買わなくても焼べることができる木々があるのでこれも助かっている。

2015年5月16日(土)

昨日はうちから見えるパウロの会社の電波塔で何か問題が発生していたらしく、午前中インターネットが使えなかった。それでエドソンが仕事にならなかったので、ちょうどはるの投薬開始から2週間後にポリヴェットのドトーラ・ヴィットリアのところに連れて行って、再診を受けなければならなかったこともあり、午前中ボトゥカトゥに行ってきた。ドトーラにはるを診てもらいながら、その後のはるの様子を報告して、現在の食事は鶏の胸肉と人参とご飯を混ぜたものに、さらにオリーブオイルを少しかけて食べさせていると話したら、「オリーブオイルはいいですね。完璧!」と言ってくれた。どうやらはるは生まれつき肝臓が弱いらしく、脂肪分の多い食事をさせるのは良くないのだとか。だから欲しがってもマンジォカのフライなどは与えない方がいいということだった。うちで食べさせている食事は手作りで、お肉は以前鶏のレバーだったのを、その後挽き肉に変え、体調を崩してからはさらに鶏の胸肉に変え、後は野菜とご飯なので、これを続けている限りは問題なしということだった。ただ、ヴィラ・シーコでお泊まりしたり、半日過ごすだけでも、庭を走り回っている間に虫を食べたり、他の犬の嘔吐物を食べたり、とにかく何を口にするかわからないから、今後はヴィラ・シーコから戻ったら、2~3日薬を与えて、肝機能の働きを助けるようにするといいと助言してくれた。はるの肝臓が弱いのは病気ではなく、体質なのだから、これからはこれとうまく付き合って行くしかないようだ。

2015年5月17日(日)

ブラジルに来てから「ジャポネース ガランチード」という言葉を何度となく見聞きした。最初は「バカみたいに正直な日本人」、つまり「だまし易い」というような意味合いで、日本人をバカにする言葉として使われていたようだけれど、今では「日本人は信用できる」という意味合いで使われている。どんなことがあっても正直で誠実であることを貫き通した日本人移民の人たちが、ブラジル社会で信頼される存在となり、この侮辱的な表現が今では賞賛の表現へと意味合いを変えたというふうに、私は理解していた。ニッケイ新聞にこの「ジャポネース ガランチード」という言葉に関する読者間の散文のやり取りがあったので、ここにそれぞれの記事へのリンクをはってみる。この3本の散文を読んでみると、この表現の変遷と、日系人の人たちのこの表現に対する気持ちを少し垣間見れたような気がする。

まずは、2015年4月11日付け『「ジャポネース ガランチード」ってなに?=サンパウロ 西銘光男』という散文記事のサイトは、こちらへ

次に、2015年4月18日付け『「ジャポネース ガランチード」=サンパウロ 駒形秀雄』という散文記事のサイトは、こちらへ

最後に、2015年5月9日付け『ジャポネース・ガランチード=マリンガ 園尾彬』という散文記事のサイトは、こちらへ

2015年5月18日(月)

先日夕食に呼んでくれたお返しに、エーナーニとカロウを招くのは今週の土曜日くらいがいいかなと、考えていたのだけれど、今週の土曜日は、アチバイアのシオックの所へ行くことになったので、予定を1週間早めて、一昨日の土曜日にエーナーニとカロウを夕食に招いた。夕食の献立は、ティラピアのフライ、キャベツと玉ねぎとケーパーをマヨネーズと酢とサラダ油で和えたサラダ、きゅうりの酢の物、そして、トマトを少し混ぜたガーリックライスを私が作り、エドソンがグアンドゥ豆を少し収穫してきて、ベーコンとオリーブとパセリとねぎとマンジォカの粉を混ぜて、ファロファを作ってくれた。エーナーニもカロウもグアンドゥ豆を食べたことがないと言っていたので、豆を味見してもらうために作ったようだった。ちなみに、グアンドゥ豆は枝豆のようにまだ青い状態でも収穫して食べることができるので、とても便利。エーナーニはきゅうりの酢の物には手を出さなかったけれど、その他はすべておいしいといっておかわりをして食べてくれた。エーナーニもカロウもキャベツのサラダをいたく気に入ってくれて、カロウは家で作ってみると言っていた。食後のデザートに作ったティラミスも、初めて食べたと言っていたけれど、気に入ってくれて良かった。この魚のフライの献立は、人を招く際ワンパターンのように出している何の変哲もないものだけれど、変わったものをあまり受け付けないここの人たちにはこれでも結構珍しいものなので、最初はお肉料理を出しても、2度目以降は少し目先を変えて魚のフライにすることが多い。

次の写真は、カロウがお土産に持ってきてくれた台所用品。カボチャの形をした焼き物の目の部分に爪楊枝入れと、塩の容器が入っていて、口の部分にナプキンを入れて使うものらしい。何だか赤鬼の顔のように見えるユーモラスな置物だ。これからはテーブルの上に置いて使わせてもらおうと思っている。

2015年5月19日(火)

先月、ボトゥカトゥの日系食料品店「ウエノ」のユキエさんが、「ちょっと苦味があるけれど、炒めて食べるとおいしいよ」と教えてくれたアルメイラオン・カスターニャが本当においしかった。前回2回ほど炒めていただき、歯触りがとてもシャキシャキしているところはちょっと違うけれど、ほうれん草のようだと思ったので、残りをさっと塩茹でしておひたしにして、かつお節とお醤油をかけて食べてみると、まさにほうれん草のような感じでおいしかった。それで、今回あらたに買った束の半分を、最初からおひたしにしてみた。

次の写真は、買ってきたセロリを洗って、茎の部分と葉の部分とに分けてタッパーに入れたところ。こうしておくと結構新鮮な状態で日持ちがするのだ。ここで手に入るセロリは(と言ってもパーディーニョでは手に入らず、手に入るのはボトゥカトゥだけれど)、一束がとても大きいので、買う際ちょっと二の足を踏む。でも先日、スーパーにいつになく新鮮なセロリがあったので、季節柄ポトフなどに使えると思い、買って来た。ここのセロリは、日本で見かけるセロリよりも茎の部分が細いのが特徴。葉は量が多すぎて、使いきらないうちにダメにしてしまうことが少なくないけれど、刻んでカレーに入れたりして、せっせと消費する努力をしている。

2015年5月20日(水)

次の写真は、居間の南側のソファーに腰かけて北側の窓から見える眺め。この時期、小さな白い花を咲かせる木がとてもきれい。その横に花が下向きに咲いて開かないタイプの赤いハイビスカスがあるので、庭が紅白に彩られている。画面中央からはみ出している背の高い木は、ユーカリの木。そのずぐ左隣にはセドリーニョが1本見える。ユーカリの木の後ろはリグストルン(ねずみもちの木)の列。

次の写真は、同じく居間の南側のソファーから見える西側の窓の外。ランドマークの木の手前にフランボヤンの木と、そのさらに手前に糸杉が見え、画面右側の端にだいぶ葉を落とした桜の木の一部が見える。

2015年5月21日(木)

先週の土曜日の午後、玄関の土間の拭き掃除をしていると、外に出ていたエドソンが戻ってきて、「これ見て」と言うので見上げると、ごぼうのように細いマンジォカを数本見せて、収穫して来たという。エドソンいわく、ごぼうのように細いからマンジォカというよりも「ゴボウォカ」だそう。次の写真の手前がごぼうで、上側がその細いマンジォカの1本。マンジォカの皮はごぼうよりも茶色が濃いけれど、本当にごぼうのようだ。前回、家の南側の三角地帯から収穫して来てくれたマンジォカはすごく太くて大きかったけれど、これは果樹園のすぐ下で育てている若いマンジォカで、どのくらい育ったかを見るために、試しに収穫して来たということだった。果樹園のすぐ下側には三角地帯よりも多くのマンジォカを植えているので、これらが育って収穫できるようになると、私たちだけでは食べきれない。あちこちにお裾分けして回らないと、と思う。この細い「ゴボウォカ」を早速茹でて、唐揚げにして食べてみたら、柔らかくて、甘くて、おいしかった。

2015年5月22日(金)

ずっと以前から私の英語のレッスンを受けたいと言っていたパウロが、去年の11月にようやくレッスンを受け始めたものの、2回来ただけで、12月はクリスマス休暇だと言って来ず、年が明けても戻ってくることはなかった。レッスンが気に入らなかったふうはないのだけれど、近隣の複数の町でインターネットの会社を経営していて、あちこち忙しく飛び回っているのだから、最初から毎週決まった時間にレッスンを受けるのは無理があったのだろうなと思う。一方、最近のブラジル経済の悪化により、製造業は厳しい状況にあるようで、ジミーとジェフの林業用機械の会社も大変らしく、何とか生き残るために必死のようで、レッスンのお休みが続いていた。結局、今月初めに連絡があり、現在の猛烈に忙しい状態が一段落するまでしばらく休むということだった。そして、ジミーが仕事でいないことが多いため、ダニエラの送り迎えもできなくなり、ダニエラのレッスンもお休みということになった。そのため、私の英語のクラスは開店休業状態が続いていた。そんな中、高校生の頃、ホドリゴやルアナと一緒にレッスンに来ていたヴィトーが、数年ぶりに一人でレッスンを受けたいと言ってきたため、この水曜日から週に一度2時間のレッスンを始めた。技術系の短期大学を卒業して、20歳になったヴィトーは、現在テクニカル・サポートとしてパウロの経営するインターネットの会社で働いている。高校生の頃よりもずいぶん大人になったなあという印象だった。

2015年5月23日(土)

次の写真は、居間の東側のソファーに腰かけた状態で、正面の西側の窓から見える外の眺め。窓の外に見えている木々は沖縄桜。苗を植えてから2年くらい経つのでだいぶ大きくなったけれど、まだ一度も花を咲かせていない。ヒマラヤ桜はだいぶ葉を落として花芽が出てきているけれど、沖縄桜はまだ葉をほとんど落としていない。木が若い時は冬になってもほとんど葉を落とさないのはヒマラヤ桜も同じなので、この分だと今年もまだ花を咲かせないかもしれない。桜の右側に見える黄緑色の木々は、ヒメシマダケ。画面の左側のほんの少し見える背の高い木は、ユーカリの木。

次の写真は、同じく居間の東側のソファーから見える北側の窓の外の景色。すぐ手前に見えるのはハイビスカスの庭で、その後ろにだいぶ葉を落としたヒマラヤ桜が見える。

2015年5月24日(日)

ジウマ大統領率いるブラジルのPT(労働者党)は共産主義政党なので、普通の民主主義国よりも中国やベネズエラなど反民主主義的というか独裁的な国との関係の方により重きを置いている印象がある。つい先日、中国の李克強首相が企業家約150人を伴って来伯して、ブラジルとの大規模な経済活動に合意したというニュースがあった。中国企業がブラジルに進出するということは、それに伴い多くの中国人労働者がブラジルにやってくることを意味する。現に、中国はブラジルにビザ要件を緩和しろと要求し始めている。そして、そうやってブラジルに来た人たちは仕事が終わっても中国に戻ったりはしないので、ブラジルの中国人人口が増え、それに伴う多くの社会的な問題が発生することは目に見えている。さらに、中国企業の進出によりブラジル国内の企業が潰れるという憂き目に遭うことも十分予想できる。これはブラジルの将来にとって決して良いことではない。それに他所から(例えば、日米が主体となってやっているアジア開発銀行から)大借金をしている中国が、その借金を返済することなく、ブラジルに資金を貸すなど片腹痛い。中国ではなく、日本がこんなふうにブラジルとがっぷりと関わってくれればいいのにと、ため息が出る。以下は、これに関するニッケイ新聞の5月20日付けと21日付けの記事。

『〃救世主〃李首相が来伯=鉄道や電力事業に投資=(上)=基幹工事などに530億ドル=牛肉や航空機輸出の合意も』という記事のサイトは、こちらへ

『〃救世主〃李首相が来伯=リオ―リマ大陸鉄道構想も=(下)=牛肉輸出解禁や大型融資の手土産』という記事のサイトは、こちらへ

2015年5月25日(月)

23日の土曜日、いつものように7時には仕事に来てくれたヒバマーに、外出することをエドソンが伝え、1日の作業と留守番を頼んで、はるをヴィラ・シーコに預けに行き、その足でアチバイアのシオックの所に向かった。はるは現在投薬中なので、朝晩の薬と、自家製の食事と小びんに入れたオリーブオイルを忘れずに持参した。昨年の4月にご主人のデマーコが亡くなった後、彼が残したアマチュア無線関連の機器を、エドソンとアメリカーナのアディネイが5月に行って整理したのだけれど、その後、アディネイの仕事が多忙を極め、毎年彼が中心になって開催していたアメリカーナ・アマチュア無線協会のフェアを開催することができなかったため、その際、競売にかけたり、欲しい人に無料であげる予定だったものが、そのまま処分できずに残っているから、もし使えるものがあったらもらってくれないかと、シオックから連絡があり、約1年ぶりにシオックの所に行った。アチバイアはここから北東へ車で3時間ほどの所にある。正午前にシオックの家に到着し、サンパウロから手伝いに来ていた長男のペドロと長女のマリリアと一緒に5人で昼食に行き、その後、エドソンとペドロがデマーコのワークショップにこもってエドソンが引き取れるものと、ガレージセールに出したらいいものとに分ける作業をした。その間シオックと私は夕飯の食材と翌日の朝食のパンなどを買いにスーパーに行った。次の写真は、そのスーパーの野菜の棚の隣にあった日本食材がたくさん並ぶ棚を撮ったもの。上段に、紅しょうが、しょうがの甘酢漬け、たくあん、油揚げ、糸こんにゃく、こんにゃくなど、中段に、かまぼこ、ちくわ、豆腐、餃子、下段に、しめじ、もやし、巻き寿司などが並んでいる。さらに別の場所には、お米やわさびやカレーのルーや料理酒などなども並んでいた。日系食料品店ではなく普通のスーパーにこんなに日本食材が揃っているなんて、さすがに日系人口の多い、都会のアチバイアだなと思った。

次の写真は、土曜日の午後5時前頃、エドソンが引き取ると決めた書籍や雑誌や機器を車に積み込んでいる途中で撮ったもの。愛する夫や父親の思い出が詰まっていて、捨てるに忍びなく、できればエドソンにもらってほしいという家族の気持ちが痛いほど伝わってきて、結局エドソンは車のトランクと後部座席が一杯になるほど多くのものを引き取ることになってしまった。でも、家族が喜んでくれただけでなく、エドソン自身も親友のデマーコが残したものを引きつぐことで、彼を身近に感じることができるからこれでいいんだと言っていた。

2015年5月26日(火)

シオックは1ヶ月ほど前に別の場所に小さめの家を借りて暮らし始めていて、家族と一緒に18年余り暮らした家は人に貸すために家財道具を整理したり、窓枠のペンキをきれいに塗り替える作業などを少しずつ行っているということで、各部屋ひっくり返っていたけれど、ほぼ空っぽになっていた。次の写真は、シオックが引っ越して今住んでいるコンパクトな3LDKの借家。土曜日の夜、私たちはここに泊めてもらった。この借家はコンドミニオと呼ばれる塀に囲まれた小さな住宅街にあり、ここには十数軒のまったく同じデザインと大きさの家が並んでいた。入り口に守衛さんはいないけれど、ゲートは常に閉まっていて、ここの住人はゲートの自動開閉ができる装置を持って出入りしている。ここの住人のほとんどは、年金生活者で、自分の家を売ったり貸したりして、ここに移ってきた人たちということだった。2枚目の写真は、この住宅街をシオックの家の前から入り口の方向に向かって撮ったもの。敷地が塀で囲まれていて、関係者以外は入れないようになっているため、ブラジルで普通に見かける家が塀で囲まれた街並みではなく、少しコンパクトではあるけれど、アメリカの住宅街のように塀のないオープンな居住環境になっている。

1年前に会いに行ったシオックはご主人を亡くしたばかりで、自身も仕事をしながらガン治療を始めていたため、副作用で髪が抜けカツラを使用して、顔色もあまり良くなかったけれど、その後、手術をして、ガン治療も一応終わった今は、自前の髪で、顔色も以前よりはずっと良く、普通の生活を取り戻しつつあるようだった。でも夕方仕事から戻ると、やらなければならないことがたくさんあるのだけれど、疲れてしまっていて、なかなか何も進まないと言っていた。今は一応治療は終わったと言っても、大変な治療や手術が終わって半年くらいしか経っていないのだから、体が疲れやすくても当然だろうし、そんなに焦ることはないのではないかと思った。

次の写真は、日曜日の朝、みんなで朝食をいただいた後、シオックたちはサンパウロへ出かけ、私たちはパーディーニョへと戻る前に、ペドロが撮ってくれた私たち3人。

2015年5月27日(水)

シオックの所へは、うちで収穫したレモンを14個ずつ入れた袋を2つ用意して、ひとつはシオックに、もうひとつはお姉さんのブウィにお土産として持参した。アチバイアは果物の生産が盛んなので、簡単にいろいろな果物が手に入るのだけれど、ライムではなく、リマオン・シシリアーノ(つまりレモン)は珍しいと言って喜んでくれた。日曜日にこちらに戻る際、「ミシリカ・ポンカンがあるんだけど持って帰る?」とシオックが言うので、1袋いただいて帰った。まるでレモンとポンカンを物々交換したみたいになってしまった。ミシリカというのは英語で言うところのタンジェリン(みかん)のことで、ポンカンは日系人の人たちが育て始めたのでそのまま日本語でポンカンという言葉が使われている。ポンカンはみかんの一種だということを示すためにミシリカという言葉を添えているのかな?この近辺ではポンカンはあまり見かけないので、アチバイアから戻り、久しぶりのみかんの味を毎日楽しんでいる。ちなみに、柿もブラジルでは日系人の人たちが育て始めたので、そのまま日本語で「カキ」と呼ばれている。

次の写真は、アチバイアに行く前に撮影した我が家の朝顔。長い間元気に毎日咲いていた朝顔は、ここ1~2週間気温が低くなったため、元気がなくなり、毎日ではなく1日か2日おきに咲くようになり、花の大きさも小さくなってきていた。この日は久しぶりに複数の花が元気に咲いていたので写真を撮った。元気がなくなってきているとは言っても、朝顔のつるはここに差した竹の枝を伝って1メートル半くらいの高さまで伸びている。どうやらこの元気のいいのは白と白地に青い筋の入る2種類の西洋朝顔のようで、時々以前同様元気に大きな花をつけている。

2015年5月28日(木)

以下は、ニッケイ新聞2015年5月23日付けの「コラム 樹海」からの転載。ブラジル人の女性が嫉妬深いというのは、この田舎町で暮らしていてもよく感じる。ご主人がご近所の奥さんと挨拶しただけでヒステリックに腹を立てる奥さんや、ご主人が仕事であちこち飛び回っていると、絶対浮気をしていると、証拠もないのに確信している奥さんなど少なくない。どうしてそういう反応になるのだろう?と、不思議に思う。彼らは基本的に配偶者を信頼していないように見受けられる。でも、男女を問わず、信じられないほど大っぴらに浮気をしている人たちがごく普通にいるので、そんな環境の中で暮らしていると、何だかそれが普通になってしまって、相手を信じられなくなるのかな?と思う。

ブラジル人女性の嫉妬心

『日本にも「悋気(りんき=やきもち)嫉妬は女の常」という言葉はあるが、ブラジル人女性のそれは特にすさまじい。当地の女性と付き合ったことがある男性陣は、きっと賛同するに違いない▼コラム子の風貌は平均的日本人だが、家人とスーパーで買い物中、コラム子を品定めしていたらしき男性の若い恋人から睨みつけられたことがある。「そりゃ睨む相手が違うだろう」と思っても無駄である。彼女にとって恋人の注意を引く女性こそ敵なのだ▼先日、日本式ファッションの普及を目指す伯J―ファッション協会の会長から、「会員同士の嫉妬がひどくて、会が中々まとまらない」とのぼやきを聞いた。お互い切磋琢磨するより他を引きずりおろせ―という発想。同会長によれば、自分より見栄えのよさそうな女性を見た時に、ブラジル人女性がまず抱く感情は嫉妬だそう▼知り合いのロリータ・ファッション(フリルたっぷりのお姫様スタイル)愛好家などは、〃同業者〃からネットに悪評を流される嫌がらせを受けたとか。そうした行為がすでに「美しくない」のだという美学を説いた所で、ジェラシーに燃える彼女たちには通じない。女性は虚栄心が強い生き物だが、それで心の平穏を乱すのは程々にしたいもの▼勿論、日本にも嫉妬はある。ただし、日本人には嫉妬心を醜いと思う感性や、相手を貶めたいと思う卑屈さを恥じる奥ゆかしさがある。「悋気嫉妬は女の常」は世界共通かもしれないが、表面化の仕方は様々だ▼とはいえ、「悋気は女の七つ道具」とも言うように、多少の嫉妬は女を美しくもする。「女房は化粧のひとつもしない」と不平をこぼしている男性は、夫人の嫉妬心をくすぐるのも一手だ。(阿)』

2015年5月29日(金)

次の写真は、丘の上の貯水タンクの周辺を撮ったもの。貯水タンクの回りに植えたグアンドゥ豆がだいぶ大きくなっている。グアンドゥ豆の足元は日陰になるのと、グアンドゥ豆の葉が落ちるためブラキアーリアが生えにくくなるので、ヒバマーに少しずつブラキアーリアを除去してもらい、そこにグアンドゥ豆の種を蒔いてもらい豆を育てている。

次の写真は、丘の上のグアンドゥ豆の花を近くから撮ったもの。つぼみが赤く、花が開くと、黄色い花が咲くので、赤と黄色の花が可愛い。

2015年5月30日(土)

最近、Youtube上でケント・ギルバート氏がKAZUYA君やテキサス親父のトニー・マラーノ氏など色々な人たちと対談したり、ブログで様々正論を述べている様子を見聞きすることが多くなったなと思っていたら、先日、インターネット上で以下の記事を見かけたので、リンクをはってみることにした。

5月26日(火)12時5分配信PHP Biz Online 衆知(Voice)『韓国人こそ歴史を学べ!〔1〕/ケント・ギルバート(米カリフォルニア州弁護士・タレント)』という記事のサイトは、こちらへ

5月26日(火)17時21分配信PHP Biz Online 衆知(Voice)『韓国人こそ歴史を学べ!〔2〕/ケント・ギルバート(米カリフォルニア州弁護士・タレント)』という記事のサイトは、こちらへ

また、彼は自身のブログで、アメリカ人ジャーナリストのマイケル・ヨン氏が書いた慰安婦問題に関する検証記事を日英二ヶ国語で掲載したり、TBSのワシントン支局長が「週間文春」でベトナム戦争当時に「韓国軍慰安所」が存在したことをスクープした記事も日英二ヶ国語で掲載したりして、とてもいい論戦を張っている。日本人が日本語だけで何を言っても日本の外には伝わって行かないけれど、日本人ではない人が第三者の立場で英語で論戦を張ってくれると、よりスムーズに伝わると思うので、日本人にとって彼のブログはとてもありがたい存在だと思う。彼のブログ、「ケント・ギルバートの知ってるつもり」のサイトは、こちらへ

2015年5月31日(日)

木曜日の夜、パウロと彼のビジネスパートナーでもあり、コンシャスという町で同じくインターネットサービスを提供する会社をやっているジーマがやって来た。エドソンは彼らの会社のコンピュータシステムを作り、維持管理を行っている。彼らとのミーティングはそもそも先週の火曜日の夜予定されていたのだけれど、パウロの急用でキャンセルになっていた。そして、この木曜日の朝、今日はどうだとパウロから言ってきた。でも、夕方になっても最終確認の連絡が取れなかったため、またキャンセルだと思い、6時頃夕食を食べ始めたら、パウロから電話があり、今から行くと言う。急いで私たちの夕食を済ませて、飲み会の準備をしているところにふたりはやって来た。食事ではなく、ワインを飲みながら、仕事の話しをするのが目的なので、その日の午後焼いておいたパンと、パンのお供にうちで採れたタイムをクリームチーズに混ぜてディップを作り、夕方これまたうちで採れたマンジォカを唐揚げしておいたものをオーブンで温め直して、夕食の残りのサラダを出して何とかしのいだ。3時間ほど賑やかに話し、ワインを3本あけて、出したものをすべて食べて、彼らの飲み会兼ミーティングは終了した。



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