Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2015年4月1日(水) | ||||
ダイニングルームの窓辺の棚に並べている植木鉢は全部で7つ。ジャブチカバの盆栽、ラン、セントポーリア、ミニサボテン、竹、そして、ブラジルではアヴェンカ(avenca)と呼ばれ、日本ではアジアンタムとかホウライシダと呼ばれている植物。次の写真の手前の2つの鉢にそのアヴェンカが育っているのだけれど、向こう側の鉢は、もともとはシクラメンの鉢で、そのシクラメンが枯れて姿を消した後、何故かシダが生えてきたので、そのまま毎日水をやっていたら、お隣のアヴェンカの鉢から種が飛んだのか、アヴェンカも生えてきて、細々と育っている。元々育てていたアヴェンカの鉢のものだってそんなに元気に育っているわけではないのに、別の鉢に飛び火したことに驚いている。さらにおもしろいことに、このアヴェンカの奥の竹の鉢のすぐお隣ではなく、ひとつ離れた手前の鉢に竹が芽を出して育ち始めている。意図的に増やそうと思ってもそう簡単に増やせるものではないのに、自然にお互いの鉢を飛び越えて育っているというのがなんとも不思議。
手前の鉢に生えてきた竹は、アヴェンカよりも強いから、アヴェンカを駆逐するかもしれない。竹を別の鉢に移した方がいいとエドソンが言うので、この鉢から生えてきていた2株の竹を別の鉢に移したのが次の写真。アヴェンカの間から生えていたので、竹だけを取り出すことができず、少しアヴェンカもついて来てしまったけれど、もともとのアヴェンカを傷つけずに、その鉢から竹を移動させることはできた。2枚目の写真は、竹を取り除いた後のアヴェンカの鉢。
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2015年4月2日(木) | ||||
ブラジル被爆者平和協会会長の森田さんは91歳だというのに、とてもお元気だ。今年1月に理事の渡辺さんと一緒に広島に行っておられたようで、広島の友人が森田さんのインタビュー記事が載ったかなり大きな新聞記事を送ってきてくれたので、それを読んだ後で、サンパウロの森田さんにお送りした。今回の広島行きは、昨年10月にブラジル被爆者平和協会が編纂、出版した「南米在住ヒバクシャ 魂の叫び」という本に関して広島市記者クラブで発表し、お世話になっている方達に本をお配りするためだったと渡辺さんが言っておられた。こちらからお送りした新聞記事の返礼で森田さんのサイン入りの本を送ってきてくださったので、恐縮しきり。
2015年3月10日10時29分配信の記事で、東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士の遠藤誉氏の「メルケル首相も王毅外相も見落としている――日本とドイツでは戦後状況が異なる」という秀逸な記事があったので、以下にリンクをはってみる。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2015年4月3日(金) | ||||
今日はGood Fridayで、休日。と言ってもエドソンはこのところ忙しく、夜も仕事をしなければならない日がよくあり、案の定、今日も仕事。在宅なので、家を留守にするわけではないけれど、のんびり家の内外の仕事ができないのは残念。最近、庭で大小様々な種類の蝶々が飛び交っている。はると一緒に家を出入りしている際見かけるのだけれど、きれいな蝶々だなと思い、カメラを取りに行って戻って来るともういないということが多く、なかなかシャッターチャンスを掴むことができなかった。そんなことを繰り返していたら、先日、とうとう鮮やかな青い筋の入ったきれいな蝶々をようやく写真に収めることができた。何度も同じような場所に舞い戻って来てくれ、地面すれすれの辺りを上下に飛んで、時々地面に下りてじっとしてくれる時間があったので、少しずつ近づいて行って、次の写真を撮ることができた。ラッキー!
先週ヒバマーに入り口ゲート内外の草を取り除いてもらったのだけれど、ゲートの外にピンク色の花が咲いている草がひとつだけポツンと、取り除かれずに残っていた。かわいい花が咲いているので抜くのは忍びなかったようだ。
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2015年4月4日(土) | ||||
以下は、2015年4月2日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。文中に出てくる「カフェ・ダ・マニャン」というのは、朝食のこと。
『県連故郷巡りに同行取材し、多くの参加者と話す機会に恵まれた。最も印象に残ったことの一つは、朝食時にたまたま一緒に座った戦後移民の参加者二人による強盗経験談義だった▼一方は小柄な女性。店を経営していた頃、繁盛し始めると拳銃強盗団から頻繁に襲われるようになった。「お金がたくさん入ると幸せになれるというのはウソ。むしろ心配ごとが増えた。会計の机にピストルを忍ばせ命がけ。従業員がグルになっていると分かり、店を売った」▼もう一人は口数の少ない男性。ある生活必需品の販売代理店を経営していた時、大聖市圏の数ある代理店網で売り上げ1位を記録するほど繁盛した。「毎日トラック3台分の商品を売り切った。そしたら拳銃強盗が毎週襲ってくるようになり、妻が撃たれて重傷を負った。家族皆に防弾車を買い、自分も常時拳銃二丁を携帯した。警察が駆けつけた時にはとっくに犯人は逃げていた」と振りかえる▼対策は「蛇の道は蛇」だった。聖市には北東伯で殺人を犯してきた逃亡犯がいる。「そんな奴を従業員に雇って、強盗の一味らしいのが来た時、『俺はここで働いている。手を出すな!』と言わせたらパタリと来なくなった。犯罪者同士は目を見たら分かるんですよ。その代りに、奴を警察から守ってやった」という▼無頼小説顔負けの生涯を自分史に書くことを薦めると、苦労人らしい注意深さで眼光鋭く「どこに敵がいるか分からないから、たとえ日本語でも手の内を明かすのは危険すぎる」といい放ち、〃普通の人〃のニコニコ顔に戻った。なにげないカフェ・ダ・マニャンでこんな話が出るのは、まさに故郷巡りの醍醐味だ。(深)』 | ||||
2015年4月5日(日) | ||||
先日お昼を食べていると、エドソンが見慣れない黄色と黒の鳥が、三角地帯の奥のセドリーニョに群がっているのが見えると言う。その時は私にはよく見えなかったのだけれど、食事の後、台所でお皿を洗っていると、目の前に見える手前のセドリーニョの先の方に1羽が止まって長い間じっとしていたので、ダイニングルームの窓のところから写真に撮ってみた。中央のセドリーニョの上の方に頭が黒く、胸からお腹にかけて黄色い鳥が止まっているのが見えるだろうか?
その後、台所の野菜くずなどを埋めるために玄関を出たり入ったりしていると、三角地帯の奥に群がっていた同じ鳥たちの一部が、手前のセドリーニョに移動してきて賑やかに鳴いていたので、写真に撮ってみた。ちょっと見にくいかもしれないけれど、中央のセドリーニョに5羽止まっているのがこの写真で確認できる。エドソンも私も、このような黒と黄色の鮮やかな色をした鳥を、しかも群れで見たのは今回が初めて。この鳥がうちでにぎやかにしていたのはこの1日だけなので、どうやら冬を前に暖かな北部地方に移動する途中で、1日だけうちで羽を休めたものと思われる。
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2015年4月6日(月) | ||||
以下は、2015年4月3日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。この記事にある銀行のATMをダイナマイトで爆破して現金を奪う事件は、昨年からここパーディーニョの銀行でも何度も起こっているし、楽書倶楽部2月号の寄稿文の中にも、サンパウロとここのちょうど中間辺に住んでいる同人の方の町でも同じことが起こっているという記事があったので、本当にあちこちで起こっているのだなとあらためて思った。これらはサンパウロから警備の手薄な田舎町までわざわざ出張ってきている出張強盗だと思われる。治安の悪いリオやサンパウロを避けて田舎暮らしをしているのに、わざわざ出張してきて凶行におよぶのだから困ったものだ。
『「何かの抗議でバスを焼く」行為と並んでブラジルの〃奇習〃といえるのは、現金自動引出機をダイナマイトで爆破して現金を奪う手荒い手法ではないか。爆破の勢いで建物まで半壊させることが多い。共に社会のゆがみを反映しており、増加傾向だ▼国土が広い割に鉄道が未発達なために、公共交通機関はバスだのみ。困る人が多いことをするほど為政者は譲歩すると思っているから、無茶な抗議行動の典型として〃生け贄の羊〃のようにバスを焼く行為が頻発する。通常の犯罪と違うのは、金品目当てではなく単なる不満の捌け口である点だ。1日付けG1サイトによれば、昨年全伯でバスが662台も燃やされたから立派な社会現象だ▼引出機爆破も、軍や所轄機関が厳しく管理するはずの爆発物が頻繁に盗まれるぐらい治安が悪いにも関わらず、地方にまで引出機が普及するほど経済的に発展しているチグハグな社会でないと起きない類の犯罪だ▼2月4日付けG1サイトによれば引出機爆破は13年に106件、14年は134件、今年は2月初めまでに20件を記録し、年末までに200件越えの可能性も▼パラー州のORMニュース14年12月14日付では《銀行爆破はパラーでフィーバー(流行)》との見出しで、北東伯からきた〃ノーボ・カンガッソ〃(新盗賊団)によって警備の手薄な田舎町を狙って犯行が続発すると報じた。あの地方はランピオンの時代から余り変ってないようだ▼引出機爆破被害総額は年間6千万レアルという。そういえば、ペトロロン汚職横領額は20億レアルだから、実はたいした金額ではない?!「盛大な汚職」こそが伯国最大の〃奇習〃か。(深)』 | ||||
2015年4月7日(火) | ||||
ここではほうれん草、小松菜、チンゲンサイと言ったおいしくて使い勝手のいい緑の葉物野菜がないので、緑黄色野菜を食べようと思えば、ブロッコリーか花ブロッコリー、ルッコラやコウヴィを食べるしかない。以前、ウエノで水菜を買ったことがあるけれど、最近はとんとお目にかからない。日本にいた頃はほうれん草を毎日のように欠かさず食べていたので、ほうれん草があればなあと思う。先週の土曜日にウエノに行った際、ほうれん草のような葉物野菜があったので、ユキエさんに「これ、ほうれん草?」と聞くと、「違う。苦い味のする野菜よ」と言う。その隣に水菜に似た野菜があったので、「これは何?」と聞くと、「アルメイラオン・カスターニャと言う名前で、さっきの野菜よりも苦味は薄いけど、やっぱり少し苦味があるよ。でも炒めたらおいしいよ」と教えてくれたので買ってみた。見た感じはほうれん草と水菜を足して二で割ったような感じだけれど、これがからし菜なのかな?とも思った。早速その日の夕飯に顆粒の鶏ガラスープの素を少しふり入れて油で炒めてみた。なかなかおいしかった。どこでも見かける野菜ではないけれど、またウエノに行った際あれば買おうと思った。
土曜日の夕方、エドソンが台所の流しにドスンドスンと何かを置いている音がするので、見に行くと、巨大なマンジォカを置いているところだった。1日の作業を終えたヒバマーがマンジォカを少しもらってもいいか?と言うから、三角地帯のマンジォカを少し掘り起こしてもらったんだけれど、こんなに大きなマンジォカが収穫できたということだった。翌日がイースターだったから、家族が集まって食事をする際にヒバマーはマンジォカのフライをたくさん作ろうと思ったのかもしれない。来伯当初、パラカンビで生活していた頃、一度大きなマンジォカが採れたけれど、硬くて食べられなかった。でも、うちのマンジォカはこんなに大きくても柔らかくて、おいしい。次の写真は、そのマンジォカ。大きさを比較するために一番左側に長さ28センチのラップフィルムを置いてみた。その右側は土曜日に買ってきたばかりのごぼうの束。その右側の一番長いマンジォカは60センチくらいありそう。日曜日はこれをすべて切り分けて皮を剥いて、一部を茹で、残りは生のまますべてタッパーに入れて冷凍保存する作業に追われた。2枚目の写真は、茹でて冷ました状態のマンジォカ。右側のお皿のマンジォカは唐揚げにして夕食で食べ、左側のタッパーは冷蔵保存用。ふたりだけで食べるには量が多いので、冷凍したり、冷蔵したり、保存スペースと相談しながら無駄にしないようにしようと、ない知恵を絞っている。はるもマンジォカは大好きなので、もちろんはるにも少しお裾分け。
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2015年4月8日(水) | ||||
ここ10日ほどお天気が良く、暑くなく寒くない爽やかな気持ちのいい日々が続いていた。毎日の日差しで部屋の中も暖かく、夏用の肌掛けだけで、薄い掛け布団も毛布も必要なくなっていたのだけれど、月曜日は日差しはあっても1日中強い風が吹き、夕方からガクンと気温が下がり始めたので、夜は毛布を掛けて寝た。火曜日の明け方は、冷たい雨が降っており、外の気温は12度と急激に冷え込んでいた。7時頃には雨は止んだものの、冷たい風が吹き、時々小雨がぐずつく、どんよりとした曇り空の1日になった。予報では、今週はずっと最低気温は12~3度、最高気温は25度前後となっている。次の写真は、昨日の朝、丘に上がって、うちの北西側を撮ったもの。向こうに見える町はパーディーニョの町の西半分。
丘から防風林の間を下りる途中、モビのお墓の横のカエデの木の葉が少し黄色くなっていた。ここでは木全体が黄金色になることはないし、木が裸になることもないのだけれど、葉の一部はこうやって黄色になるので、ほんの少しだけ秋を感じることができる。
そして、庭の4本のヒマラヤ桜は、東側のものがいつも通り一番に葉を落とし始めている。写真の手前の木がそれで、後ろの木はまだほとんど落葉していない。入り口ゲートの両サイドや、ランドマークの木の西側の道沿いの桜は沖縄桜で、まだ木が若いので、落葉する気配はなく、今年もまだ花は咲かないのかもしれないと思っている。
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2015年4月9日(木) | ||||
サンパウロ市から南西に約40キロにあるイタペセリカ・ダ・セーラという町に、ブラジルの金閣寺があるというのは、今年になってからYoutube上にあった日本のテレビ番組で見て知った。その金閣寺に関する記事が、ニッケイ新聞の日系社会ニュースにあったので、以下にリンクをはってみる。『金閣寺売却の可能性浮上?=所有者は売却の意向否定=「知らない人の手に渡れば…」=円光寺の僧侶ら懸念示す』 というこの記事のサイトは、こちらへ。 ニッケイ新聞の日系社会ニュースからもうひとつ。『「レジストロ紅茶守りたい」=88歳、島田梅さん立ち上がる=新銘柄「おばあ茶ん」発売=販路開拓に奮闘中』という記事のサイトは、こちらへ。レジストロはサンパウロ州南東部にある日系集住地として有名なところ。 | ||||
2015年4月10日(金) | ||||
うちの野菜畑で今元気にしているのはマラクジャ・ドスィとカラくらいなものと書いたけれど、もうひとつフンショも元気にしている。フンショは2年くらい前に一度苗を植えて育ててみたことがあって、その後種が飛び散って、毎年自然に生えてくるようになり、今年は畑の畝をふたつもフンショが独占するような事態になっている。ミツバチのジャタイがフンショの花を好むので、ジャタイの巣箱の近くに種を蒔いて育てようとしても全然芽を出さないのに、畑では勝手に飛び散った種からたくさん芽を出している。それでここで芽を出したものを、森の手前のジャタイの巣箱の近くに植え替えようと思って、今のところ生えるがままにしている。
それから畑の東端の背の低いブロック塀のところに、つる性のオレンジ色の花が被うように広がってきている。これも畑に自然に生えてきたものを抜いて、ブロック塀の向こう側に捨てたものが、何故か元気に育ってきてしまって、こんなふうに伸びてきている。何度も繰り返し書いているけれど、ここでは私たちが意図的に育てようとする植物はなかなか思うように育ってくれない場合が結構あるけれど、育てるつもりがなく、捨てたものが自然に元気に芽を出して育つことが頻繁にあり、不思議でしょうがない。
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2015年4月11日(土) | ||||
家の南側の三角地帯のオレンジの木の内、現在2~3本にオレンジが実って、黄色く色づき始めている。木によって人の背丈前後に成長したものもあるし、何故かあまり成長していない木もある。次の写真は、1枚目が成長した木で、2枚目は畑に生えてきたのと同じオレンジ色の花を咲かせるつる性の植物に巻きつかれていたせいか、あまり大きくなっていない木。どちらもオレンジが黄色く色づき始めている。足元の緑はブラキアーリアを茂らせないために植えたアメンドイン・フォファジェイロ。でも、ブラキアーリア対策とは言え、ちょっとアメンドインの元気が良すぎるかも?
次の写真は、同じく三角地帯で成長しているシュシュ(和名:ハヤトウリ)。三角地帯の西側の柵沿いに植えたグレヴィーリャの足元から生えてきた芽が、すぐ側の柵を伝ってつるを伸ばしている。この写真を撮る前に、すでにここから4つほど収穫したのだけれど、この写真にはさらに4つほど写っている。
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2015年4月12日(日) | ||||
2015年4月10日付けニッケイ新聞のブラジル国内ニュースに、『ブラジル音楽史上、最大のスター、ロベルト・カルロスが7日、音楽配信サービスの「スポティファイ」に、彼がこれまで発表してきた全ての音源を聴き放題にすることを発表した』という記事があった。50年を超える彼のキャリアの中で発表したアルバム61枚の楽曲が全て聴けるのだそうだ。スポティファイ(spotify)は、日本ではまだ準備中で利用できないようだけれど、ブラジル音楽だけでなく、音楽好きの人には夢のようなサイトだと思った。スポティファイで検索すれば、日本語でいろいろ説明が出てくる。 同じく4月10日付けのニッケイ新聞「コラム 樹海」に、デモへの参加を呼びかけるような記事があり、ちょっとびっくり。
『「ブラジル史上最低の支持率7%の大統領」「辞任でも剥奪でも弾劾でもいい。合法的にジウマを辞めさせろ」「こんな汚職だらけの政府、見たことない」「彼らは何も分かっていない。私たちの政党は〃ブラジル〃そのもの」などの呼びかけがインターネット上を駆け巡っている▼12日(日)には聖市パウリスタ大通りのMASP周辺を中心に、午後2時ごろから第2回目の抗議デモが予定されているからだ。軍警発表では前回の3・15は100万人が同大通り周辺に集まったが、今回はそれ以上との予測も。呼びかけ団体の一つVem Para Ruaは全伯273市で呼応したデモがあるという▼もう一つの団体Movimento Brasil Livreも161市でデモがあると予告する。こちらの運動の中心人物の一人がカタギリ・キムで、19歳なのに彼のフェイスブック賛同者は5万人近くいる新世代の日系人だ。彼はジェン・ウィリ下議から「政治的文盲」と批判されたのに反発し、「オレに知的な拳骨を食らわせて見ろ!」と噛み付いている過激な若者だ(ブラジル・ポスト電子版4日付)▼日本移民や日系人はあまりデモに参加してこなかったが、「ブラジルを良くする」ことに反対する者もいない。外国人だって税金を払っているし、政治腐敗はゴメンだ。なら一度参加してみてはどうか。黄緑のシャツを着る必要はない。ただそこに姿を現すだけで十分な意思表示だ▼自分が行けないなら、子や孫に参加するよう促してもいい。県人会や文協の青年部で示し合わせて参加する手もある。構える必要はない。ただその場にいるだけで〃この国の歴史に参加した〃満足感が味わえるだろう。(深)』 | ||||
2015年4月13日(月) | ||||
昨日の朝、私たちの食事が終わって、はるに食事を出して、洗った食器の片付けをしていたら、玄関ドアに何かがぶつかったような「ドン」という音がしたので、野良犬でも来ているのかと思い、居間の窓から覗いて見ると、ハチドリがドアにぶつかったようで、お腹を上にしてひっくり返っていた。カメラを持って出て見ると、まだ意識はあって、体がピクピク動いていた。
上の写真を撮った後、優しく手に取って、手の平の上で腹ばいに向きを変えると、パタパタパタと羽ばたいて、側のベランダの欄干まで飛んで行って止まった。脳震とうを起こしていただけだったようなので、そっとしておこうと思い、はるとお散歩に出るのを控えて、家事をしながら時々窓から様子を観察した。ずいぶん長い間ここでじっとしていたけれど、10分以上経ってようやく元気を取り戻したようで、羽を少しパタパタさせた後、無事に飛び立って行った。居間のガラス窓に小鳥がぶつかってくることは時々あるけれど、玄関ドアにぶつかったのは今回が初めて。ハチドリは居間やダイニングルームの窓のところでまるで家の中を覗くようにホバリングすることがあるけれど、玄関ドアにぶつかるなんて、この子は前をよく見て飛んでいなかったのかな?
そして、これも同じく昨日のこと。その数日前に久しぶりにイビウーナの中村さんに差し上げたメールに対する返信があり、もうすでに日本に戻っておられ、東京でアパートを借りて新しい生活をスタートさせているということだった。こちらを引き上げる準備でいろいろ大変とは思いつつ、引き上げられる前にこちらに一度いらっしゃいませんか?お迎えに行きますからと、何度もお誘いしていたのだけれど、お目にかかることができず、少々寂しく思った。でも、娘さんや息子さん家族の側での暮らしなので、老後の心配がなく良かったなと思った。 | ||||
2015年4月14日(火) | ||||
昨日の朝、はるの朝一番のオシッコで外に出ると、メル友の鎌谷さんからいただいてバラの花壇に種を蒔いた朝顔がふたつ花を咲かせていた。朝露に濡れたピンクと青の大きな花が並んで咲いていたのでびっくり!つぼみがあるのはわかっていたけれど、まだつるもそれほど伸びていないし、当分咲かないだろうと思っていたので、花が目に飛び込んできた時は、「わあっ!」と感激した。エドソンもきれいだねと喜んでくれ、この花は何という名前かと聞くので、「日本語でアサガオ、英語でmorning gloryよ」と教えてあげた。
さて、この日曜日に行われた反政府、反汚職のデモのことだけれど、今回は22の州の複数の都市とブラジリアで行われた。サンパウロ市のデモではアヴェニダ・パウリスタ通りに前回は100万人もの人が集まったけれど、今回はその約4分の1の27万5000人だったという。ただデモを開催した都市の数は前回を大きく上回ったということだった。今回はサンパウロ市の参加者が少なかったため、ジウマ政権は「政府を認める人たちが増えた結果だ」と解釈しているらしい。「前回のデモから1ヶ月しか経っておらず、期間が短かったから、もう少し日をあけてやった方が良かったんじゃないかなあ?」というのがエドソンの弁。ちなみに、デモのことをブラジルではマニフェスタサオン(manifestação)と言う。テレビでデモの様子を伝える各地からの中継ニュースを見ていたら、「Fora Dilma! Fora PT!(出て行けジウマ!出て行け労働者党!)」という字が踊っていた。ポルトガル語で「ここから出て行け(Get out of here.)」と言う場合、「Sai daquí.(サイ ダキ)」というので、「ジウマ出て行け」なら「Sai Dilma!」になるような気がするけれど、foraを使うんだねと、エドソンに言うと、sai(=leave)よりもfora(=out)の方が強い言い方なのだそうだ。そして、デモ参加者の多くはブラジルのサッカー代表のユニフォーム(黄色のシャツに緑の線の入ったもの)を着たり、黄色や緑色、または青色のシャツを着ている人たちが多いというのが特徴。これらは国旗の色でもあり、ブラジルの人たちはこのブラジルカラーが大好き。 | ||||
2015年4月15日(水) | ||||
12日のデモの写真がたくさん掲載されたニッケイ新聞の記事があったので、ここにリンクをはってみる。『パウリスタ大通りデモに27万人=写真グラフ=軍介入を支持する街宣車も=ルーラ氏への注目高まる』という2015年4月14日付け記事のサイトは、こちらへ。昨日書いたブラジルカラーが溢れるデモの様子を写真で見ることができる。 次の写真は、我が家から入り口ゲートに向かう道の上から、西側の森の方を向いて撮ったもの。ヒバマーがきれいにブラキアーリアを取り除いてくれているので、木や植物がよく育っている。中央のセドリーニョの右側に見える背の低い緑の植物は、種を蒔いて、芽を出し育っているグアンドゥ豆。後ろに見える2本のセドリーニョの間に横一列に並ぶひょろひょろとした背丈のある植物は、十数本のとうもろこし。私たちが食べるためのミニとうもろこしはすべて収穫を終えてしまったのだけれど、種を取るために少しだけとうもろこしの実を残して、育てているところ。
1月下旬に襲った嵐で、幹の上半分が折れてしまったグアプルブの木は、あれから2ヶ月半を経過して、新しい枝を伸ばし、元気にしている。良かった。良かった。折れた幹の左右から枝が出て伸びているのが次の写真でわかる。
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2015年4月16日(木) | ||||
つい先日、サンパウロ市内で不法就労の外国人を取り締まる一斉立ち入り捜査が行われたというニュースがインターネット上にあったとエドソンが話してくれた。それによると、中国人経営のランショネッチ(軽食店)が立ち入り捜査を受け、そこで働いていた不法就労の中国人たちが、みなその店で寝泊まりしながら朝5時から夜12時まで働かされていたという事実が発覚したということだった。中国人の店が不法就労の中国人を使って搾取していたなんてニュースには別に驚きもしないけれど、それよりも驚いたのは、この捜査で何と店の冷凍庫から犬の死骸がたくさん出てきたということだった。どうやら中国人社会には犬の肉を売買するネットワークがあり、中国人経営のランショネッチでは犬の肉が使われていたことがわかったからだ。今後はランショネッチを利用する際、中国人経営の店には入れないねとエドソンと話した。以前、ソロカバでシイタケ栽培のための菌床を作って、シイタケ栽培農家に卸している日系の人の工場を見学したことがあったけれど、その際、シイタケの栽培をしているのは日系人がほとんどだけれど、シャンピニオン・マッシュルームの栽培は、ほとんどが中国人で、多くは衛生環境がとても悪い状態で栽培されているという話を聞いてから、マッシュルームは買わないことに決め、一度も買ったことがない。でも、今後もブラジルの中国人人口が増え続けると、食べられないものが増えるのではないかと、このニュースを聞いて心配になってきた。 ダイニングルームの窓辺のセントポーリアが、2つ目の花(左側)を咲かせた。この花の下にまだ2つつぼみがあるので、うまくすると3つ目4つ目と花が増えるかもしれない。
そして、ダイニングテーブルの上のランも今つぼみを3つつけている。これは白いランだったかな?ピンクだったかな?花が咲くのが楽しみだ。
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2015年4月17日(金) | ||||
今週、ペトロポリスの安見さんからメールをいただいた。この日曜日に、安見さんがお世話をされているペトロポリス日系協会が、日系移民100周年を記念して2008年から毎年開催しているペトロポリス日本文化祭が高く評価されて、ペトロポリス文学アカデミーから文化事業貢献団体として表彰されたということだった。多彩な企画を多くの市民を巻き込んで続けてこられたのだから、当然と言えば、当然だけれど、とにかく大変めでたい!次の2枚の写真は、授賞式の時に撮影されたものと、その表彰状。
日本移民100周年を記念して2008年に始めたペトロポリス日本文化祭は、今年で8回目。今年は日伯修好条約締結120周年の年なので日本、ブラジル双方で、いろいろな記念行事が行われるのだろうけれど、ペトロポリスの日本文化祭は、すっかり恒例の催しとなり、老舗的な存在になってきているような気がする。今年、ペトロポリスでは、7月19日に帝国博物館中庭でリオの日系団体との花見ピクニックが行われ、8月5日から9日はクリスタル宮殿で文化祭、8月11日から15日にはCasa de Claudio de Souzaでの講演会、更に9月には米国在住日本人ピアニストとペトロポリスのコーラスが帝国博物館の劇場で共演することなどが検討されていると言う。 | ||||
2015年4月18日(土) | ||||
木曜日の朝、ここの秋の花であるマナカが咲いていることに気づいた。次の写真は森の木々の手前にあって、はるとのお散歩コースからはっきり見える場所にあるのに、何故かいつも「あっ、マナカが咲いている。昨日まで咲いてなかったと思うんだけど・・・」という具合に突然気づくのはどうしてだろう?朝顔と同じで、ある日パッと咲き出すのかなあ・・・?距離があると写真ではあまりはっきり見えないので、木の側まで行って撮ってみた。足元に大きな枯れ枝があり、マナカの木を見上げると木の右側に張り出した枝が途中で折れたのだということがわかった。1月の強風で幹が折れてしまったグアプルブのように、マナカもどうやら被害に遭っていたようだった。
同じ日の朝、桑の葉茶を作るために、果樹園に桑の葉を取りに行ったついでに、2週間くらい前にジャタイの巣箱の近くに移植したフンショがどうなっているかな?と、思い、ジャタイの巣箱の近くまで行って見ると、そこから見える森の木々の中に、花を咲かせているマナカの木が2本あったので、それぞれの写真も撮ってみた。そして、幸いなことに、大小何本か移植したフンショは何とか枯れずに生き延びていてくれた。移植したすぐの2日間くらいは水をやりに行き、その後は放っておいたのだけれど、雨が1度降ってくれたお陰で、根付いてくれたようだった。最近頻繁に出る朝霧にも助けられて、水分補給は十分だったようで、ほっとした。
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2015年4月19日(日) | ||||
夏の間は家の中に日差しが入ってくることはないけれど、太陽がかなり北に移動する秋から冬にかけては、午後から日差しが家の奥まで入ってくるので、お天気がいいと、戸外の気温が低くても、家の中は暖かいという好環境が生まれる。でもまだ4月なので、昼間は居間の横のドアや台所の窓を開けていても寒くはなく気持ちがいいので、陽溜りは暖かいというよりも暑いだろうと思うのだけれど、最近はるは、午後になると、居間の陽溜りに行って、ベッドをここに持ってきてと私たちに要求する。それで、ベッドを居間の陽溜りに移動すると、そこで日光浴というか、お昼寝を始める。次の写真は、そのお昼寝中のはる。普通はとぐろを巻くように丸まって寝るのに、陽溜りでのお昼寝となると、こんなあられもない寝相で寝ていたりする。気持ちがいいんだろうなあ・・・。
今日はここから北東へ1時間少々行ったところにあるピラシカーバという町で、アマチュア無線の催しがあるらしく、エドソンはバウルのデミウソンと一緒に朝6時半過ぎに出かけて行った。それで、私とはるはふたりだけでお留守番。 | ||||
2015年4月20日(月) | ||||
次の写真は、家の西側のランドマークの木(画面右側奥)の方角を向いて撮ったもの。画面の右側手前の木はフランボヤンという名前の木で、大木になるので、時々枝を切ってあまり大きくならないようにしている。でも先日エドソンが「どうもこの木は根を浅く水平に伸ばすらしいから、その内車寄せの低いレンガの列を壊したりするかもしれない。可哀想だけれど切り倒そうかと思う」と言い出した。「ええっ、こんなにきれいに葉を茂らせているのに、可哀想・・・」このフランボヤンの足元にあるのは、ほんの少しだけ花をつけているラベンダー。画面の左端はパパイアの木で、その右側のV字のような形の背の低い木は、フランボヤンジーニョという名前の木。フランボヤンジーニョ(小さなフランボヤン)と言うだけあって、この木はフランボヤンのようには大きくならず、根は垂直に伸びるのだそう。この写真を撮った時は、たくさん花のつぼみをつけていた。
次の写真は、そのフランボヤンジーニョの花のつぼみをアップで撮ったもの。つぼみが赤いので、ピンク色の花を咲かせるのではないかとエドソンは言っていたけれど、数日して花が開き出すと、やはりエドソンが言っていた通りピンク色の花(2枚目写真)だった。パラカンビから持ってきた苗をここに植えて育てていたのだけれど、今年初めて花を咲かせてくれた。これからは秋になると、マナカに加えてフランボヤンジーニョも目を楽しませてくれることになるんだねとエドソンに言うと、「冬は勢いが落ちるけれど、基本的にフランボヤンジーニョは1年中花を咲かせる木だよ」という返事。と言うことは、あちこちにたくさん植えると、1年中可愛い花が楽しめるということなので、せっせと種を蒔いて育てなくてはと思った。
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2015年4月21日(火) | ||||
今日はチラデンテス(Tiradentes)の日で、休日。チラデンテスと入力してインターネットで検索すると、wikipediaに「ブラジルの独立運動の先駆者である。彼はポルトガルの支配に抵抗し、ブラジルの独立に大きく貢献した。最終的にポルトガル政府に拘束され処刑されたが、現在はブラジルの英雄として広く国民に知られている」「チラデンテスの名は19世紀頃からブラジル独立の英雄としてブラジル中に知られるようになった。現在彼が処刑された4月21日はブラジルの祝日に制定されている」という説明が出てくる。ちなみに、チラデンテスというのはこの人の名前ではなく、「歯を抜く」という意味で、彼の歯科医師という職業から来ている。本名はジョアキン・ジョゼ・ダ・シウヴァ・シャヴィエー(Joaquim José da Silva Xavier)。 先週の月曜日から花を咲かせ始めた朝顔は、以来毎朝1つから4つの花を咲かせて私たちの目を楽しませてくれいる。次の3枚の写真は、火曜日、水曜日、木曜日と花の咲き具合を撮ったもの。これらの写真を撮って観察していると、どうやら水色、ピンク、紫、濃い青の4色があるということがわかった。
続く金、土、日も、この4色が代わる代わる咲いていたので、もうすっかり4色だと思い込んでいたので、鎌谷さんにも4色咲いたと報告したのだけれど、昨日の月曜日の朝、何と、真っ白い朝顔が咲いていてびっくり。これでうちの朝顔は5色あることがわかった。でも、白い朝顔なんて初めて見たような気がする。
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2015年4月22日(水) | ||||
土曜日の夕方、エドソンがオレンジを40~50個収穫してきてくれた。次の写真は、ダンボール箱半分くらいになった今年初めて収穫したオレンジ。これからはまたしばらくこの我が家のオレンジを絞って、オレンジジュースを楽しむことができる。感謝。感謝。
ダイニングテーブルの上のランの花の3つあるつぼみの内、ひとつが開いた。ふたつ目ももうすぐ開きそう。お隣の花瓶の背の高い黄色い花は、車寄せの西の端にたくさん生えている雑草なのだけれど、黄色の花がきれいだなと思い、何本か切ってきて、花瓶に差してみた。こうして花瓶に差してみると雑草とは思えない。自然の恵みに感謝。
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2015年4月23日(木) | ||||
庭のヒマラヤ桜の木の足元に、芝生に埋もれるようにして2本ほど小さな桜の芽が生えてきていたので、根を痛めないように、根の回りの土も一緒に取って、鉢に植え替えて育てることにした。次の写真は、鉢に植え替えたその2本の芽。今、庭にあるヒマラヤ桜も、イビウーナの中村さんのところからこんな小さな芽だったのをいただいて帰って育てたものなので、これらもおそらくちゃんと育つのではないかと思う。
次の写真で、桜の芽を植えた鉢の後ろの低いレンガ塀沿いの向こう側に、何だが棒のようなひょろひょろした葉のあるものとないものとが10本見えるけれど、これらは花が開かず、下を向いて咲くタイプの赤いハイビスカスの枝を、果物ジュースのテトラパックを鉢にしたものに植えて育てているところ。2週間くらい前に作業をして、最初は桜の鉢のようにレンガのこちら側に並べていたのだけれど、背が高いため強い風が吹くと倒れてしまうので、風から守るためにレンガの向こう側に並べている。ここだとすぐ側(左側)に水道の蛇口があり、毎日水をやるのが楽だし、芝生やアメンドインの上なので、直射日光でひどく乾燥することも避けられて都合がいい。
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2015年4月24日(金) | ||||
次の写真が、昨日育てていると書いた花が開かず下を向いて咲くタイプのハイビスカス。最初はマウリシオからもらったこの1本のハイビスカスを庭に植えて育てて、大きくなってから枝を切ってテトラパック に入れた土に差して育てて増やして行き、今では、ランドマークの木の西側の道沿いを中心に10数本植えている。このハイビスカスは普通のハイビスカスよりも強くて、枝をテトラパックの鉢に差しただけで育ってくれる上、1年中花を咲かせてくれ、花の鮮やかな赤い色が目を楽しませてくれるので、少しずつ増やしている。
次の写真は、ランドマークの木の西側の道沿いに並んで植えたハイビスカスの列。写真ではあまりよくわからないかもしれないけれど、道沿いにこの赤いハイビスカスがあるととてもいい感じなので、ハイビスカスの列を延ばして行こうと考えている。
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2015年4月25日(土) | ||||
次の写真は、5月頃になると庭で可愛い白い花を咲かせる木の苗木を、入り口ゲートに向かう道沿いのハイビスカスの列に植え替えたところ。この木の名前は知らないのだけれど、晩秋になると、小さな白い花をたくさん咲かせてとてもきれい。元気のいい木のようで、木の回りに種を飛ばすらしく、自然にたくさん芽が出て来て育っていたので、その芽をていねいに掘り起こして、植え替える作業をした。何本かまとめて植えると、ちょうどいいブッシュを形成するので、次の写真のように、1ヶ所に数本、等間隔に3ヶ所、合計十数本を植えた。うまく根付いてくれて、花を咲かせるようになると、秋の時期、ハイビスカスの赤と、この木の白い花で、並木が紅白になっていいのではないかという発想。
今日は、サンパウロで「楽書倶楽部」の創刊5周年記念の親睦会が、午前10時からお昼を挟んで午後3時くらいまで開催されるので、前々からエドソンの予定も確認して、早朝のバスで出かけて行き参加する予定だったのだけれど、2週間余り前になって、突然エドソンの仕事関係の会合とそれに続く会食が入ってしまい、行けなくなってしまった。親睦会にはエドソンと一緒に出席すると返事をしていたのに、キャンセルしなければならなくなり、主催者の前園さんをずいぶんがっかりさせてしまった。親睦会は年に1度だけで、これまで出席したことがなく、前園さんのお年と健康を考えると、ひょっとしたら今年が最後になるかもしれないという状況で、よりによってめったにないエドソンの仕事関係の会合と会食が同じ日に重なってしまうなんて、何とタイミングの悪いことか。でも、エドソンに仕事があるからこんな田舎町でも何とか生活して行けるのだから、仕方がない。 | ||||
2015年4月26日(日) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2015年4月24日付け、「コラム 樹海」からの転載。
『「今チラデンテスが生きていれば抗議行動を先導してパウリスタ大通りに行っていたはずだ」。21日「チラデンテスの日」のテレビやラジオからは、そんな言葉を何回も聞いた。最初に独立運動をし、国民の祝日まで設けられた英雄のことだ▼その時代、ポルトガルでは鉱物資源の採取にはQinto(5分の1税)を王室に納めていた。それを1789年に植民地ブラジルにも適用することになり、金採掘ブームだったミナス州では、それを不服とする一派がいた▼その一人がチラデンテス(歯を抜くものの意)で名前の通り歯医者もしたが、公務員をしている時にブラジル人がいかにポルトガル人から搾取されているかを知り、独立運動のグループを立ち上げた。その団体の旗が現在のミナス州旗だ。この独立運動は仲間の裏切りで密告され、彼は全責任を負わされ公開処刑された▼つまり、当時は20%の税金で「搾取から独立を!」となっていたが、現在の税率はなんと41%(Veja電子版、13年IBPT調査。間接税も含めた総額)だという。1年のうち150日間は税金を払うために働いている計算になる。その上、税金が国民へのサービスに還元される割合に関するIBPT調査では、世界30カ国のうちでブラジルは5回連続で最下位…▼国民には医療費や教育費削減、増税などを次々に押し付けるくせに、国庫から各政党に支給される政党基金が〃3倍〃に増額される法案は承認された。ペトロロン汚職では未曾有の横領額が政治家に…。辛い部分は国民に押し付け、連邦議員は自分の取り分だけは確保している。もしチラデンテスが生きていたら抗議だけですむだろうか?(深)』 以下に、もうひとつ2015年4月25日付けの「コラム 樹海」から。 『マチュピチュといえば、『訪れたい世界遺産』でダントツの人気。当地でも「行く、行った」とよく聞く。〃空中都市〃だけに麓に訪問拠点となるマチュピチュ村(旧アグアス・カリエンテス=温泉)がある。その初代村長は日本人だった▼1895年、福島県生まれの野内与吉氏がその人。南米での成功を夢見て、17年にペルーに渡り南米各地を転々とした後、クスコ―マチュピチュ間の鉄道敷設に携わる。29年の完成後も留まった野内はその器用さで、機械の修理はお手の物、川の水を引き畑を作るなど村人の尊敬を集める。現在観光客が疲れを癒している温泉も、森林伐採時に沸いたとか。35年に初のホテルを建設。郵便局や交番、裁判所に無償提供し村の発展に尽くした。その貢献を買われ、村長に就任した▼移民50年祭の臨席でブラジルを58年に訪問した三笠宮殿下がマチュピチュを訪れたさい、娘が花束を手渡したニュースで郷里にその活躍が知られ、半世紀ぶりの帰国を果たすも翌年、ペルーに戻った2カ月後にその生涯を閉じた▼今回、子孫によるレストラン「AIKO」の訪問も楽しみの一つだったのだが、かつてホテルだった扉は閉じられたまま。近所の数人に聞くと「閉めちゃったようだね」。ホテルを併設していたシネ・ニテロイを中心にリベルダーデが発展したように、マチュピチュ村もホテル・ノウチが中心だった。「消えた移住地を求めて」(小笠原公衛著、人文研刊)によれば、記念館にし、銅像を建てる計画もあったようだが…。インカ帝国の神秘に奪われる心の隅に忘れず置いておきたい日本人の歴史だ。(剛)』 | ||||
2015年4月27日(月) | ||||
本来なら土曜日に親睦会に出席した際に直接いただいて帰るはずだった「楽書倶楽部 第27号 創刊五周年記念号」が、親睦会への出席をキャンセルしたため前園さんが郵送してくださり、金曜日に届いていた。明日は広島の母の誕生日なのでそれに合わせて以下の文章を書いて、この号の楽書倶楽部に寄稿した。母は89歳になる。彼女の母親も姉も88歳で亡くなっているので、「私も88まで生きるんかねえ・・・?」と言っていたけれど、それを追い越して、父と同じ歳までがんばってくれていることをうれしく思っている。
私の母は、四月下旬に八十九歳の誕生日を迎える。広島の実家近くの老人介護施設で暮らすようになってから、三年少々になる。昨年八月、久し振りに母に会いに行くことができた。老いは確実に進み、痩せて小さくなっていたけれど、心身ともに安定して、穏やかに暮らしていてくれて、ほっとした。週に一度は母に会いに行ってくれている兄や義姉のお陰だと感謝している。 八十歳を少し過ぎてからは、さすがに日々の買い物や夕飯作りがしんどくなり、両親は一階、兄夫婦は二階という二世帯住宅で独立して暮らしている義姉に、夕飯のおかずだけは作ってもらうようになっていた。それでも、四年前に父が亡くなるまで、父の世話をしながら、母は一通りの家事をこなしていた。 父の死後、兄夫婦とひとつ屋根の下で暮らしているとは言っても、昼間兄夫婦はふたりとも仕事に出ていて家にいないため、ひとりぼっちで家にこもらせてはいけないと思い、ケアマネージャーさんに母の要介護度を審査してもらい、週3日のデイ・サービスに行けるようにしてもらった。それから何とか新しい生活のペースができたとひと安心したのだけれど、数ヶ月後のある日の午後、デイ・サービスから戻ってから、雨の中、傘をさして門のところにある郵便受けに郵便物と夕刊を取りに行って家に戻る際、バランスを崩してひっくり返り、冷たい雨の中で動けなくなっているところを通行人に発見されて、救急車で病院に運ばれるということがあった。それから母の様子が少しずつおかしくなり、夜中に起きてトラブルを起こすようになったため、とうとう兄が急ぎ介護施設を探して、お世話になることになった。それで急遽、施設に入所したばかりの母に会いに行ったのが、二〇一二年の一月のことだった。 私が会いに行くと、私のことはちゃんとわかるものの、自分がどこにいるのかよくわかっておらず、現在と何十年も昔がごちゃ混ぜになった混乱した世界にいるようだった。毎日、母のところに行って、冷たい母の手を擦りながら、母の疑問に答えて繰り返し状況を説明したり、他愛のないおしゃべりをして過ごした。そうするうちに母は自分が介護施設にいることを理解してくれた。ただ、「食べるものがなくてもいいから、一緒に連れて帰って」と言われた時は、とても辛かった。「ごめんね。ブラジルは遠いから、一緒に連れて行ってあげられないのよ。ごめんね」と言うしかなかった。大好きな母なのに、側にいてあげられない自分が悲しかった。 そして、さらに数日すると、「お母さん、変わったと思う」と言って、ポツリポツリとその言葉の意味するところを話してくれた。父が亡くなり、自分がもう誰の役にも立たなくなっただけでなく、兄夫婦に面倒を掛けるようになってしまったことがとても情けなく、これ以上生きていたくない、早く死にたいと思うようになり、生きる気力を失ってしまったということが、母の話しからわかった。「お母さんがいてくれるから、私はここに帰ってこれるけれど、お母さんが死んでしまったら、私が帰ってこれるところはなくなるのよ。だからお迎えが来るまでは頑張って」と、私は母に言った。そんなやりとりをしてから、母の顔に生気と笑顔が蘇り、母の言葉通りに変化が現れた。両手を持って介助すれば、立ち上がり、ゆっくり歩いてトイレに行けるようになったり、介助がなくても自力で少し食事ができるようになっていった。介護施設で働く人たちは、そんな母の変化に「ご家族のちからってすごいですねえ」と言って、一緒に喜んでくれた。 以来、心身ともに安定して、穏やかに暮らしてはいるものの、年々迫りくる老いは如何ともしがたく、今では車椅子が無くてはならず、嚥下障害を起こさないための特別な食事や、様々な介助が必要な状態になってきている。母の発話が不明瞭になり、会話が成立しなくなっていると、兄から聞いていた通り、母の話しはとても分かりにくくなっていた。それでもこちらの言うことには、相づちを打ったり、表情豊かに反応してくれるので、ちゃんと理解してくれているのだと感じた。ある日私が「側に居てあげられなくて、ひとりで寂しい思いをさせて、ごめんね。一緒に連れて帰ってあげられなくて、ごめんね」と言うと、母はきっぱりと首を横に振り、「お母さんはここでこうしてお世話になっているのが一番いいんだと思う」というようなことを言ったので、そのことを帰って兄に話すと、「えっ!お母さんそんなこと言ったの?」と驚いていた。母は考えていることや、感じていることをうまく言葉にして表現できない状態にはなっているけれど、ちゃんと状況を理解して受け入れてくれているのだと、胸が熱くなった。そして、この母の言葉が心からのもので、気持ちが安定していることは、「家族や施設の人たちに見せるとびっきりの笑顔は他の入居者にはない良い表情です」などと、時々兄から来るメールでも感じられ、ありがたく思っている。
母の生まれた家は、母が小学校にあがって間もなく、父親が病死したため、兄が中学校を中退してラジオ店を開き、ラジオの販売や修理で家族を養っていた。その兄も戦時中召集され、フィリピンで戦死。さらに原爆で妹まで失い、一回り年上の姉はとうの昔に嫁いで満州暮らしだったためその生死もわからず、戦争が終わったとき、母親とふたりきりになり、十九歳で母親を養っていかなければならない立場になっていた。女学校から建物疎開に動員されていた十三歳の妹を探して、原爆が落とされた翌日市中心部を歩き回り、想像を絶する地獄を見たにもかかわらず、その時は神経が麻痺していて怖いとは思わなかったと言い、戦争が終わったときは、「これからはきっとすべてが良くなる」と、固く信じて疑わなかったと、ずっと以前話してくれたことがあった。それを聞いたとき、あの悲惨な状況で何故そんなに前向きに強くなれたのだろうと驚いたことを憶えている。 戦後数年して、父とお見合い結婚した母は、父の身長が百六十五センチの自分よりもずっと高かったのと、父が長男ではなく七人兄弟の末っ子だったので、自分の母親の面倒もみることができるということで結婚を決めたのだと言っていた。母は口数が少なく、父に反論するようなことも一切ない、優しい人だけれど、冗談も好きで、よくおもしろいことを言っては笑わせてくれた。何よりも、家族が一番大切で、どんなときも私の味方でいてくれたことはどれほどありがたかったかしれない。私がアメリカの大学に留学するときも、アメリカで仕事を得て家を出るときも、ブラジル人の夫と結婚するときも、そして、その夫とブラジルに移住すると決めたときも、本当は寂しくて嫌だと言いたいのに、いつも何も言わず、娘の幸せを一番に願ってくれた。私はそんな優しく芯の強い母が大好きで、自慢でもある。 決して平坦ではなかった人生を、黙々といつも忍耐強く、家族のためだけに生きてきた母を、今ひとりぼっちにしている自分が情けない。本来なら母の側で、穏やかな老後を送ってもらえるようにしなくてはならないのにと、自責の念にかられる。でも、私はここであなたが見せてくれている老いから目をそらさず、年老いてもあなたのように良い笑顔で過ごそうと、あなたを目標に頑張っていますから、許してください。そして、お誕生日おめでとう。 | ||||
2015年4月28日(火) | ||||
去年は日本に行くためにエドソンのビザの申請や受け取りなどで、何度かサンパウロに出かけて行ったので、ついでにリベルダージ(東洋人街)の丸海(日本食料品店)で、エドソンの好きなわさび漬けの素や浅漬けの素をたっぷり買い溜めしておいたのだけれど、とうとう全部使いきってしまった。浅漬けは手作りできるので大丈夫だけれど、わさび漬けは手作りしたことがないので困った。それで、インターネットで検索して見つけた、チューブの練りわさびを使って作る「きょうりのわさび漬け」というのを参考に、きゅうりを大根に変えてわさび漬けを作ってみた(以下写真)。野菜に塩をふってしばらくおいて、水気を絞って漬けるようになっていたので、そのようにしてみたら、エドソンの評価は「おいしいけど、ちょっとしょっぱい」ということで、翌日まだ半分残っていた大根を切って、塩をふらず、そのまま一緒に混ぜて漬けてみると、しょっぱさとわさびの強烈なパンチが少し緩和され、ちょうどいい感じになった。これからは大根に塩をふらずに作ればちょうどいい味になることがわかった。わさび漬けの素を買わなくてもわさび漬けができることに、エドソンはずいぶん喜んでくれた。
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2015年4月29日(水) | ||||
メル友の鎌谷さんからいただいて畑に種を蒔いたスナップえんどうがひょろひょろと芽を伸ばし、いくつか花を付け始めた。金時豆の花はピンク色だったけれど、スナップえんどうの花は白なんだと、妙に見入ってしまった。色は異なるけれど、花の形はとてもよく似ているように思う。
次の写真は、三角地帯で育っている3本目のグアプルブの木。セドリーニョの木の間に、まだ背の低いグアプルブが葉を広げているのが見える。手前のセドリーニョの列の1本が強風のせいか、左に傾いてしまっているため、ダイニングルームの南側の窓から、はっきりとグアプルブが見える。この三角地帯にはエドソンが種から育てたグアプルブの苗を3本植えたのだけれど、この1本はまだ小さい時に虫か何かに食べられてしまい、しばらく瀕死の状態だった。それがしばらくして息を吹き返して少しずつ大きくなってきている状態なので、セドリーニョやグレヴィーリャを追い越す勢いの他の2本と違い、まだまだ小さい。でもグアプルブの成長は速いので、来年にはおそらくセドリーニョに追いつくのではないかと思っている。
次の写真は、昨日兄から送られてきた母の写真。昨日は母の誕生日だったので、プリンとお花を持って会いに行ってくれ、写真を撮って送ってきてくれた。感謝。お母さんいい笑顔ですよ。
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2015年4月30日(木) | ||||
「楽書倶楽部」の前園さんが、先日の親睦会で撮影された全体写真を送ってきてくださった。とても盛会だったようで、『60人もの出席があり、さすがの県連の会議所も狭く感じられるほどでした。深沢ニッケイ新聞編集長の講演「日系移民の現況」という題でさすが記者だけあって克明に調査されてのお話だったのでとても興味深いものでした。みなさんにとても喜んで貰えた親睦会でしたのでほっとしました』とメールをくださった。返す返すも参加できなかったことが残念。前園さんは今回が最後になるかもしれないからと、ずいぶんがんばって準備をされたようなので、大変だったのだろうと思う。『緊張がなくなったせいか少々疲れ気味』とも書いておられた。来年もぜひ開催してほしいなあ・・・。そして、来年こそは参加したいなあ・・・。同人誌が5年も続くことは異例のことだと、大羽さんが今月号に書いておられたけれど、それもこれもすべて前園さんが主宰しておられるからこそ可能なこと。まずは前園さんに元気でいていただかないと、と思う。今月号は記念号なので、すべての寄稿者の写真と短い略歴が掲載されている。それを見ていると、皆さん70代や80代で、60代は数少ない若手という感じ。どうか皆さんこれからもお元気で長生きしてください。
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