Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2015年2月1日(日)

昨年11月中旬頃から右目にものもらいができたので、以前、新しい眼鏡を作るために受診した眼科とは別の眼科に下旬になって受診し、目薬と塗り薬を処方された。これらの薬で少し症状が緩和されたのだけれど、完全には治癒せず、大きくなったり小さくなったりをずっと繰り返していた。前回受診した際、再受診する日を1月下旬の日程で予約しておいたのだけれど、急に先生の都合が悪くなり、日程変更をする必要があると連絡があったため、これ以上引き延ばしたくなかったので、同じ日にエドソンが受診することになっていた別の先生に、私の目も診てもらうことにした。この先生はUNESP(サンパウロ州立大学)医学部で、緑内障の専門医をしているドトー・ミツオという40代くらいの日系の先生で、とても穏やかで感じのいい先生だった。日本語は少ししかわからないと言っていたけれど、検査の際の私への指示は日本語を交えてしてくれた。「先生は2世ですか?3世ですか?」と聞くと、お父さんは日本人でお母さんは3世だと言っていた。サンパウロ州の南に位置するパラナ州北西部のロンドリーナ出身ということだった。私が使っている眼鏡や目をいろいろ調べてくれた後、左右の視力にかなり差があるので、右目に負担がかかっているのかもしれない。そして、ドライアイになっているので、まつ毛の汗腺からばい菌が入り易くなっているということも考えられる。などなど、いろいろ分かり易く説明をしてくれ、以前処方されたものとは異なる塗り薬と、まつ毛の汗腺付近を1日2回拭いて清潔に保つための薬品と、飲み薬の抗生剤を処方してくれた。これらの薬を使い始めた翌日には、少し赤みとはれが引いてきて、徐々に正常に戻りつつある。

そもそもこのドトー・ミツオにエドソンが受診することにしたのは、2年余り前、視力の変化を感じた彼が、別の眼科を受診した際、緑内障の初期段階だと言われたので、以来ずっと進行を止めるための目薬を使っているのだけれど、もう少しちゃんと検査をして、他の治療法の可能性などを探りたいと思っていたからだった。昨年、日本に行った際、実家近くの眼科で検査してもらうと、1度の検査だけでははっきりしたことは言えないけれど、エドソンは緑内障を発症する可能性はあるものの、今現在発症はしていないようだという診断だった。それで今回さらに、緑内障の専門医のドトー・ミツオの存在を知ったので、彼に診てもらうことにしたのだ。広島での検査の結果を持参して、ドトー・ミツオに診てもらうと、やはり緑内障を発症してはいないようだという診断だった。この診断を確実にするために今月と来月に別の複数の検査をすることになっているのだけれど、どうやら緑内障を発症してはいない可能性が高くになり、エドソンも私も少しほっとした。

2015年2月2日(月)

土曜日の夕方6時から、NHKの「団塊スタイル」という番組を見ていたら、突然ニュースに切り替わり、ISISに人質になっていたジャーナリストの後藤さんが殺害されたという映像がインターネット上に出たと伝えていた。チャンネルを変えてCNNやBBCを見ても同じようにこのニュースをずっと伝えていた。NHKでは「殺害された」という言い方をしていたけれど、CNNやBBCの画面の見出しには「beheaded」、つまり「斬首された」と言う言葉が使われていた。そして、ニュースの中では「executed(処刑された)」ではなく、「murdered(殺害された)」という言葉をこだわって使っていたのが印象的だった。罪もない人が殺されたのだから当然だろう。翌日、日曜日の朝、他国まかせでなす術のなかった日本政府を責める記事をインターネット上で見かけたけれど、情報機関もなく、人質交渉人というような専門家もおらず、邦人を救出しに行くことのできる軍隊もない日本に、他にどんな手立てがあったと言いたいのだろう?そもそも日本のメディアが必死で改正を阻止しようとしている日本国憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とある。この他力本願を高らかに謳っている憲法をよしとする一方で、今回政府が他国まかせで主導権を持てなかったと批判するのは、矛盾しないか?単に安倍政権憎しの、ためにする批判としか思えなかった。

2015年2月3日(火)

日本とブラジルでは時差があるし、季節も違うけれど、一応、2月3日は日本では節分なので、ここでも節分ということで、今日は大豆を炒って食べようと思っている。鬼は外。福は内。

以下は、ニッケイ新聞2015年1月30日付け「コラム 樹海」からの転載。

「デカセギ」から「在日ブラジル人」へ

『ついつい「デカセギ」という言葉を使いがちだが、考えたほうがいい時代になったようだ。日本のポ語雑誌『アウテルナチーヴァ』21日付電子版は《在東京ブラジル総領事館で20日に開催されたブラジル・ビジネス・グループのアジア部会で「ブラジル人はもう日本でデカセギと見られるべきではない」と群馬県大泉町の観光協会副会長が認めた》と報じた▼大泉町は90年代に伯人居住者が人口の10%を超えて〃ブラジルタウン〃と呼ばれるようになり、近年は東京から日本人がバスツアーを組んで観光に訪れ、ブラジル料理を楽しんだりする場所として有名になった▼同グループは06年に米国南フロリダ州在住の伯人企業家が始めたもので、昨年9月に日本にアジア部会(橋本秀吉部会長)ができた。同記事には5月までに100会員を目指すとある▼思えば、1985年頃から顕著になった訪日就労から、今年で実に「30年」が経った。人間ならとっくに成人を過ぎている。最盛期の08年時点で31万人以上いた在日伯人は、同年末のリーマンショック、11年の東日本大震災という激烈なふるいにかけられ、今は18万人にまで減った。その結果、かつては一時滞在ビザが大半だったが、今は過半数が永住ビザ所有者という時代だ▼「デカセギ」という言葉には「数年間の工場労働者」という印象が付きまとうが、実際の在日一世には商店経営者や自営業者、大学教授、二世には大学を卒業して日本人と同じように企業に就職するものも増えている。いつまでも「デカセギ」と表現していたのでは、実態にそぐわない―との冒頭の意見は、確かにもっともだ。(深)』

2015年2月4日(水)

昨年末のニッケイ新聞に、『東洋街へ買出しに出かける読者はすでにご存知だろうが、リベルダーデの日系スーパーに並ぶ白米の値段が、最近になって上がっている。30~32レだった弥勒米が、37レ以上になった。紅葉や銀といったお値打ち銘柄も、もれなく30レ前後に。5レアル近い急激な値上がりには困ったもの。価格競争が生まれればとも思うのだが。』という短い記事があった。

この日本米の値上がりに関しては、昨年11月にボトゥカトゥのドナ・マリナに行った際、以前25レアルから30レアルくらいだったお米の値段が、35レアルになっていたのでたまげたのだけれど、ウエノではまだ30レアルを越えていなかった。でも、それはたまたま以前に仕入れたお米がまだ残っていただけだったようで、年が明けてから再度ウエノでお米の値段を確認すると、紅葉も銀米も35レアルになっていて、ドナ・マリナの値段と変わらなかった。それに加え、このところの水不足で、野菜作りも大変になってきているようで、レタスやルッコラなどの葉物野菜の値段も上がってきている。ここ2~3年、うちの畑では葉物野菜が不作なので、もう少し真面目に野菜作りに取り組む必要があるかな?と、思ったりしている。次の写真は、我が家でいつも買って食べている1袋5キロで、35レアル(約1700円)の銀米。

2015年2月5日(木)

今週、この夏初めてとなるトマトとオクラを収穫した。ミニトマトは畑で採れたものだけれど、大きいトマトはジャカランダの木の足元に自然に生えてきたもので、この間のひょうで表面に2~3箇所傷がついている。でも、これくらいなら十分食べられる。パパイアの木の側のトマトも赤くなったので採ってみたら、ひょうでできた傷だけでなく、2~3箇所穴があり、虫が入っていたので、残念ながら捨ててしまった。量は少ないけれど、これからこんな感じでぼつぼつ収穫できると思うと、とてもうれしい。オクラはまとまった収穫があると、メインのお料理の材料として使うこともあるけれど、一度の収穫量が少ない時はさっと塩茹でして、そのまま指でつまんでポリポリ食べるのがおいしい。早速塩茹でして完食。

2015年2月6日(金)

日曜日の午後、エドソンが下のガレージに行って、何か作業をしてる音がしていた。はるがその聞き慣れない不審な音に反応してワンワン吠えるので、「大丈夫だよ。あれはパパが何かしてる音だからね」と言って聞かせた。エドソンが戻ってきた際、「何してたの?」と聞くと、アンテナを作っていたんだと言って見せてくれた。衛星通信用のアンテナを手作りしたのだそうだ。見た目、何だかとても単純そうなアンテナだけれど、筒の中にはワイアーが通っていて、なかなか美しくうまくできたと本人は満足そうだった。

昨日の午後、衛星から発信される信号を受信する実験をすると言って、三脚に取り付けたアンテナをベランダに出して、コンピュータを眺めているエドソンをパチリ。昨日は朝から1日ずっと雨が降ったり止んだりのあいにくのお天気だったので、アンテナを外ベランダには出さず、屋根の下での実験となった。昨年12月にアメリカから打ち上げられたロケットに搭載されたITAのクレベーたちの小型衛星(キューブ・サット)が、国際宇宙ステーションの日本の研究棟「希望」に運ばれ、昨日の朝、「希望」から宇宙に放出され、地球を回る軌道に乗り、午後3時頃ブラジル上空を通過する予定だったので、その衛星からの信号をモニターするのが目的だったのだそうだ。でも、地球周回軌道には乗ったらしいのだけれど、何か技術的な問題が発生して信号は発信されず、失敗に終わったようだった。バウルで同じように衛星からの信号をモニターしていたデミウソンもやはり信号は受信できなかったということだった。このプロジェクトはITAとIMPEとブラジル宇宙機関(正式名称は知らない)が共同で行う国家プロジェクトのようなもので、JAXA(日本の宇宙航空研究開発機構)の協力会社(日本の筑波にある)と契約して、クレベーたちが作った小型衛星をNASAから打ち上げ、国際宇宙ステーションまで運び、日本の研究棟の「希望」から放出して、地球周回軌道に乗せて、様々実験をする予定だったらしいのだけれど、残念な結果に終わった。でも、エドソンの話によると、このような衛星プロジェクトは世界的に見て、ほぼ50%はうまく行かないらしいから、かなり難しい挑戦だったと言えるのかもしれない。それを思うと、小惑星イトカワに着陸して、表面のサンプルを採取して、5年間の宇宙の旅を終えて地球に戻ってきた「はやぶさ」は、今更ながらすごい偉業を成し遂げたのだと思った。昨年12月に打ち上げられた「はやぶさ2」の地球への帰還予定は2020年ということだけれど、これも無事に戻ってくるといいなあ。

2015年2月7日(土)

今週ブラジルでは少しいいニュースがあった。ペトロブラスの総裁がようやく辞任したのだ。労働者党の議会工作に関連した横領スキャンダルでペトロブラスに大損害を与えたのだから当然だろう。これからこのペトロブラスのスキャンダルが解明されて、ジウマ大統領の弾劾と労働者党への責任追及が始まるといいのだけれど・・・。ニッケイ新聞2015年2月5日付けの『PB=グラッサが遂に総裁辞任=親友ジウマも翻意し了承=第3四半期収支で決定的に=噂される後任候補は?』という記事のサイトは、こちらへ。と、ここまで書いて用意したら、6日の午後、次期総裁に労働者党とのお金にまつわるスキャンダルのあるる現ブラジル銀行総裁が就任することになったと言ってエドソンはがっかりしていた。ジウマという人はペトロブラスを立て直す気などなく、今後も労働者党の金の成る木として利用し続けるつもりのようだ。現総裁の辞任を評価したマーケットは、この人選にまた値を下げたと、今日のニッケイ新聞は伝えている。

以下は、2015年2月6日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。

ブラジルの金言「金(かね)には匂いがある」

『当地政治評論家は「金には匂いがある」(Dinheiro tem cheiro)とよく言う。大金がプンプンする場所には、分け前にあずかろうと汚職政治家などが群がることを揶揄した言葉だ▼本来は、財政健全化に務めて増税したローマ皇帝ウェシパシアヌス(紀元後69―79年在位)が有料の公衆便所を設置したときに、政敵から嘲笑され、息子までが反対したため、皇帝が公衆便所で稼いだ金貨をその鼻先にかざし、「お金に匂いはない」(o dinheiro não tem cheiro)と言ったのが元とされる▼当地の蛍は尻でなく頭を点滅させるように、いろいろなものが逆転するが、言葉もしかり▼ペトロブラス(PB)のグラッサ・フォステル総裁辞職の発表直後、経済評論家のカルロス・サーネンベルグは「彼女が在任した3年の間に、ペトロブラスの株価は3分の1に、負債は3倍近くになった」とCBNラジオで糾弾した▼ラヴァ・ジャット作戦第9弾が5日から始まり、株価暴落の一因となった汚職政治家を洗い出している。横領金額は少なくとも21億レアル(約900億円)というから呆れる▼PBの市場価格は08年にはマイクロソフトを抜いて米大陸で3位、11年には石油会社世界5位となり〃金の匂い〃を振りまいた。でも岩塩層下油田採掘を巨額自己投資で行う方針などにより、13年10月にメリル・リンチ社は「世界で最も借金漬けの会社」に降格、同作戦が止めを刺した▼〃群がった〃疑いの人物まで加わってPB両院調査委員会(CPI)を今週設置した。昨年末終了したばかりの同CPIは何だったのか?実は隠ぺいするためのなのか。もしやここでも逆転が…。(深)』

2015年2月8日(日)

土曜日の朝、洗濯物を干すために玄関を出ると、「グワッ、グワッ」とトゥカーノ(和名:オオオニハシ)の鳴き声がするので、辺りを見回すと、ランドマークの木の上にトゥカーノではない別の大きめの鳥が静かに止まっていたので、カメラを取りに戻って撮影してみた。1枚目は外ベランダから撮ったもので、2枚目はもう少し木に近づいて撮ったもの。背の高い木のてっぺんに止まっているから安心なのか、側に寄っていってもビクともせず、飛んで逃げるようなことはなかった。この後、どこからトゥカーノの声が聞こえるのか、聞こえる方向に行ってみると、西側の森の中から聞こえているようで姿は見えなかった。声が大きいので、まるで家のすぐ側の木に止まって鳴いているような感じだった。

午後になり、ベランダ横のバラの木を眺めていたら、おもしろい虫がいたので写真に撮ってみた。1枚目はほぼ同じ目の高さで正面から撮ったもの。2枚目は上から撮ったもの。緑色に少し赤みが入っているバラの葉と同じように、この虫の体も緑色に赤みが入った保護色なのが上から見ると良くわかる。自然って不思議。

2015年2月9日(月)

ニッケイ新聞2015年2月7日付けの記事から日系人関係のニュースをふたつ。

『斉藤空軍総司令官が退任=日系初の軍最高位に8年間=「心安らかに引退できる」=サンパウロで家族と過す』という記事のサイトは、こちらへ

『粟津金六の孫アワズ氏昇進=日系2人目の中央銀行理事=野村證券からも異例の抜擢』という記事のサイトは、こちらへ

この二つ目の記事に関連して、同日のニッケイ新聞の「大耳小耳」には次のような記載があった。『南銀創立の功労者・粟津金六氏(1893―1979年)は熊本県出身、神戸商業学校卒業。移民でなく、1914年に農務省の海外実業研究派遣生として渡伯し、日本大使館に勤務した。1923年に提出された日本移民入国制限を盛り込んだレイス法案の撤回に全力を尽くし、田付七太大使と共にパラー、アマゾナス州を視察し、南米拓殖会社の創立にも一役買った。トメアスー植民地開拓、パリンチンスの高拓生の受け入れにも尽力。その後、聖州に移り、宮坂国人に招かれてブラ拓に入社し、南米銀行の創立委員に。その孫が、中央銀行理事という時代になった。』

2015年2月10日(火)

ボトゥカトゥのスーパー、パオン・ジ・アスーカーのレジの横には、ガムやキャンディーやゴシップ雑誌が並ぶ棚があり、それらと一緒に真面目な「ベジャ(Veja)」などといった週刊誌も置かれている。先々週買い物に行った際、レジで順番を待っている間にエドソンがベジャなどの雑誌を取ってカートに入れていた。家に帰って買って来たものを冷蔵庫などに収める作業をしていたら、ベジャだけでなく、薄っぺらなお料理の雑誌も出てきたので、「これどうしたの?」と聞くと、「おいしそうだったから作ってくれないかなあ?と思って」と言う。ええ・・・でも、全部ポルトガル語なんだけど・・・?

パラパラとページをめくってこのお料理の雑誌を眺めていると、どれもおいしそうで、作り方の説明はわからないところもあるけれど、材料の記述にあるファリーニャ・デ・トゥリゴ(farinha de trigo)は小麦粉のこと、ファリーニャ・インテグラウ(farinha integral)は全粒粉、マンテイガ(manteiga)はバター、ヴィーニョ・ブランコ・セコ(vinho branco seco)はドライの白ワイン、オヴォ(ovo)は玉子などほとんど知っている言葉ばかりだし、シカラ(xícara)はカップのことで、ソパ(sopa)のコリェー(colher)と言えば、スープスプーンという意味だから大さじのことで、シャー(chá)のコリェー(colher)なら、ティースプーンという意味で小さじのことだということもわかるので、何とかできそうかな?と思った。ちょうどポロネギ(ポルトガル語ではアリョ・ポロ=alho-poró)を2本買ってきていたので、金曜日にエドソンに牛乳を買ってきてもらえばすべての材料が揃う「ポロネギとクリームチーズのキッシュ」というのを作ってみることにした。そして、土曜日の午後、エドソンに作り方の説明でわからないところを教えてもらって、夕飯に作ったキッシュが次の写真。雑誌の作り方を記したページにある写真とは多少見かけが異なるけれど、味はまずまずだった。エドソンにも好評で、合格点をもらった。このキッシュはポロネギとくるみとクリームチーズと玉子がメインの材料で、お肉を使っていないので、今度お肉を食べないマイーラを食事に呼んだ時にまた作ってみようと思った。

2015年2月11日(水)

12月と1月の、2ヶ月間の長い夏休みを取っていた生徒さんたちが、先週から英語のレッスンに戻ってきた。今年はカーニバルが2月13日から17日までなので、それが終わるまではレッスンの再開はないかな?と、思っていたのだけれど、予想に反して2月の第一週から再開したいということで、喜んでOKした。夏休みを満喫して、朝寝に慣れてしまっていたダニエラは、毎朝5時起きの学校の新学期が先週の月曜日に始まったばかりで、夜7時からの英語のレッスンも同時再開したものだから、先週は疲れてしまっていて、頭痛が収まらず結局1時間足らずで早退してしまったけれど、1週間が過ぎ、今週はすっかり元気を取り戻していた。次の写真は、この月曜日に元気にレッスンにやってきて、練習問題のプリントに取り組んでいるダニエラ。学校の勉強が大変になったからと、去年10月下旬にガブリエラが抜ける際、「私は止めたくないから、ひとりでも続けたい」と言ってくれ、頑張って続けてくれていることをありがたく思っている。

2015年2月12日(木)

次の写真は、台所ではるの食事の準備をしている私を見つめているはる。この写真ではじっとしているように見えるけれど、食事の準備を待つ間、はるは台所やダイニングルームを駆け回ったり、その場でぐるぐる回転したり、ワンワン吠えたりと、とても賑やかで忙しい。そんな風に喜びを爆発させない時は、お腹の調子が悪く、食欲がない時。はるの健康状態はとても分かり易い。

2枚目の写真は食事の準備ができて、いつものようにはるの前に食事を置いた後、「はい、どうぞ」と私が許可を与えるまで座って待っているはる。私と食事の容器とを交互に見ながら、じっと我慢している。この顔の表情は、「まだですか?」と言っている。はると赤い容器の間に見える青い容器は、はるの飲み水が入っていて、いつでも好きな時に飲めるようにしているのだけれど、はるはめったに水を飲まない。私が作る食事がなくなり、新しく作るまでの間に、2~3食ドッグフードにしたりすることがあると、ドッグフードは乾燥していて水分がないので、たまに水を飲む。その他、暑い日などにお散歩から戻ると、ここに一目散に来て、水を飲むこともある。

2015年2月13日(金)

ニッケイ新聞のブラジル国内ニュースにあった、ジウマ大統領の不人気に関するニュースをふたつ。 今週末、全国各地でジウマ大統領の弾劾を求めるデモが予定されているそうだと、エドソンが言っていたけれど、カーニバルの最中にデモ?本当かなあ・・・?と私は思った。でも、労働者党内でのルーラ派とジウマ派の権力闘争が激化していて、最近の世論調査でジウマ大統領の支持率は23%になり、不支持率が47%になったそうだから、徐々にジウマに対する責任追求の機運は高まっているのかもしれない。ジウマ派はこの動きをテロだと言っているようだけれど、ジウマは軍事政権時代、銀行強盗を行った武装集団に加わっていたテロリストだったのだから(このことで軍事政権時代捕まった彼女は拷問にあったことで有名)、そのテロリストが真っ当な責任追求を行う手続きを求める人たちの要求をテロ呼ばわりするなんて、やはりジウマは嘘で固められた鉄面皮だと思った。

2015年2月10日付け、『ジウマ=支持率が過去最低に沈む=不支持が支持の約2倍に=かねてからの諸問題悪化で=PT議員内でも広がる不満』という記事のサイトは、こちらへ

2015年2月11日付け、『ジウマ=支持率挽回の作戦は?=「大統領は偽善者」54%=汚職防止法制定は加速化へ=上院では罷免要求も』という記事のサイトは、こちらへ

2015年2月14日(土)

木曜日の夜、私がひとりでテレビを見ていると、コンピュータの所にいたエドソンが側にやって来て、「日系人の女性で、トミエ・オオタケという人が101歳で亡くなったってニュースにあったよ」と言うので、「トミエ・オオタケ?101歳?・・・ああ~勲章を受賞した芸術家の人!」と、以前ニッケイ新聞で見たこの人の記事のことを思い出した。翌日のニッケイ新聞に追悼記事が載っているかな?と思って見ると、『巨匠・大竹富江さんが逝去=101歳まで現役で仕事=伯国メディア一斉に悼む=13日に一般向けに通夜』という記事があった。ニッケイ社会のニュースを私よりも先にエドソンがブラジルメディアの報道で知るということ自体、大竹さんがブラジルの「文化的財産」だったということを物語っているなと思った。この記事のサイトは、こちらへ

ニッケイ新聞に、「無明舎」から出版されたニッケイ新聞深沢編集長の『一粒の米もし死なずば』という本の紹介があったので、ここにコピーしてみる。

『ブラジルといえば誰もが「コーヒー」と連想する世界最大のコーヒー豆生産国において、日本人が戦後〝紅茶の都〟レジストロを築いたことは隠された歴史だ。

アマゾン河口のトメアスー移住地が胡椒生産を実現して〝胡椒の都〟に、やはりアマゾン河中流のパリンチンスで高拓生が不可能と云われていたジュート(黄麻)生産に挑みそれまで輸入に頼っていたコーヒー豆袋を国産化した歴史もある。さらに、今もサンパウロ州バストスでは州内の卵生産の4割を独占しているなど、日本移民がブラジル建国に果たしてきた貢献の一端が農業界にははっきりと表れている。

その一つ、レジストロ地方の百年間にわたる歴史を記したのが『一粒の米もし死なずば』(無明舎、2014年)だ。ニッケイ新聞が同地入植百周年(2013年)を記念して127回連載した内容を一冊にまとめた。

「レジストロ」という地名を知っている日本の日本人は、今はもう、ほとんどいない。だが、戦前にはブラジル移住を語る上での代表的な〝花形〟日本人集団地として、移住関係の雑誌はもちろん一般紙各紙でも記事が繰り返し掲載された。日露戦争に勝利した時の桂太郎総理大臣、大浦兼武内務大臣、高橋是清日銀総裁、〝日本の資本主義の父〟渋沢栄一ら錚々たる面々が、理想に燃えてブラジル移植民に日本の将来の一端を賭けようとした場所だ。

日本で多文化共生が叫ばれるようになる遥か昔から、ブラジルの日本人集団地ではそれが日常だった。それなくして生活すら不可能だった。移民には日本の地方農家の次男三男の家庭が多く、いわば普通の庶民がいきなり外国生活を始めた。言葉や文化、気候や気質の違いはもちろん、そこに至るまでの道のりはけっして楽なものではなかった。

生存者から貴重な証言を集め、文献を探し歩く中で見えてきたものとは何か。ブラジル在住者すら知らなかった数々の歴史が、この本には収められている。

ダイナミックなブラジルの歴史の中で、翻弄されながらも基盤を築いてきた日本移民の姿を知る絶好の一冊。』

2015年2月15日(日)

木曜日の夕方、私の再受診とエドソンの検査のため、はるをヴィラ・シーコに預けてボトゥカトゥの眼科に行った。私のものもらいはだいぶ良くなっているけれど、まだ完治していないので、今後も目を清潔に保って、1日1~2回は熱いタオルを目に当てることを続けるようにと言われた。そして、エドソンが受けた検査の結果も良好で、緑内障の可能性はますます低くなってきている。次の検査は、2週間後の予定。

木曜日の夜、ヴィラ・シーコにお泊まりしたはるを、金曜日のお昼前に迎えに行った際、郵便局に行くために、パーディーニョの町の中心にある教会の側を通ると、カーニバルの飾り付けがまったくないので、どうしてだろう?と不思議に思った。はるを連れて帰宅する際、スーパー・パーディネンセに週末の朝食用のパオンジーニョとチーズをエドソンに買いに行ってもらったら、お店の人から、今年のカーニバルは中止になったとエドソンが聞いてきた。何でも、昨年のカーニバルの際、未成年者の飲酒行動が目に余る状態で、それをちゃんと取り締まらなかったということで、ボトゥカトゥ市がパーディーニョ市を訴えたため、今年は中止になったのだとか。そう言えば、毎年カーニバル前の数週間、夜になるとパーディーニョの町から聞こえてくる音楽が今年は聞こえなかったことに遅まきながら気づいた。パーディーニョのカーニバルは近隣の町の人たちにも人気が高く、ボトゥカトゥからも大勢の人が押しかけるので有名なのだけれど、この未成年者の飲酒問題にボトゥカトゥの判事の娘も関わっていたらしく、怒った判事がボトゥカトゥ市を動かしたというのが真相らしかった。未成年者に酒類を販売した業者ではなく、パーディーニョ市が訴えられたというのもおかしな話だなと思ったのだけれど、エドソンの説明だと、業者を取り締まるのは警察の仕事で、警察はパーディーニョ市に雇われているのだから、この問題の一番上の責任者はパーディーニョの市長ということになるらしい。カーニバルの中止は今年だけなのか、今後ずっとなのかは知らないけれど、いつもならカーニバルで賑やかに盛り上がっているこの時期、パーディーニョの町は、今ひっそりと静まり返っている。 次の写真は、昨日の午後2時頃、暗雲垂れ込める南の空をダイニングルームから撮ったもの。急に辺りが暗くなり、強い風が吹き始め、暴風雨になりそうな空模様だったので、 エドソンは戸外で作業をしていたヒバマーを急いで呼びに行き下のガレージに避難させ、私は家のドアや窓を締めて、テレビや冷蔵庫のコンセントを抜き、臨戦態勢に入ったのだけれど、激しい雷と雨はここの南の地域だけで、ここは暴風域から外れていたのか、暗くなっただけで、雨はパラパラとしか降らず事なきを得た。

2015年2月16日(月)

私たちが暮らしているのはパーディーニョの町の中心から南に直線で1キロ以上離れた農村地帯なので、ご近所にはほとんど家がない。うちから見えるのは誰も住んでいない西隣のコーヒー農園の家と、台所の窓から見える南東隣の果樹園農家の家だけ。パーディーニョの町と高速道路のカステロ・ブランコを結ぶ舗装された道路から、うちに入ってくる舗装されていない道路の入り口の所に工場地帯があり、5~6軒工場があるのだけれど、そこからうちまでは1キロ弱あるので、それらの建物はほとんど見えない。うちの入り口ゲートの近くまで行くと、オリベイラ鉄工所のねずみ色の建物が見えたり、工場地帯の端っこに建っている赤い家が見えるくらい。次の写真は、入り口ゲートの近くで撮ったその赤い家。2階建てなので、2階の部分が画面の中央奥に小さく見えている。

この家は私たちがここに越して来た頃すでに骨格ができていたのだけれど、長い間建設が中断して放置された状態だった。そして、私たちの家が完成して2年くらいしてから建設作業が再開され、窓が入り、壁が赤く塗られ、完成した。でも、この家の回りは金網で囲われているだけで、回りには木が1本も植えられておらず、花壇などもなく、人が出入りしているところは見たことがない不思議な家。この家の左側に見える青と赤2色に塗られたタワーは、エドソンが働いているパウロのインターネットサービス提供会社所有の電波塔。その左に見えるセドリーニョの列は、ジミーとジェフがやっている林業用機械を作っている工場の広い敷地のごく一部。彼らの工場の建物はこのセドリーニョに囲まれているので、うちからは見えない。写真手前の緑の背の低い木々は、お隣のコーヒー農家のコーヒーの木。

2015年2月17日(火)

昨日は1日雨が降ったり止んだりで、午前中はちょっと肌寒く、長袖のTシャツの上に夏用のカーディガンを着てちょうどいい感じだった。お昼前頃から家事でバタバタ動いていると少し暑くなってきて、カーディガンを脱いだけれど、長袖Tシャツだけではちょっと涼しいかな?という感じの1日だった。そして今日も昨日と同じようなぐずついたお天気で、先週の金曜日から毎日のように雨が降ったり止んだりの日々が1週間近く続いていることになる。でも、幸い暴風雨ではなく、しとしとと降るタイプの穏やかな雨なので、静かな雨の日々という感じ。昨日は午後から、トヨタの工場があるソロカバよりも少しパーディーニョ寄りのタトゥイという、ここから東に1時間くらいの所にある町から、エドソンのアマチュア無線仲間のカーロスという人が訪ねてきた。何か単発の仕事の話のようで、エドソンのワークスペースと隣のワークショップを行ったり来たりしながら話をしていた。4時間近くして、話がほぼ終わった頃に、ワークスペースにいるふたりの写真を撮らせてもらった。この人が我が家に来るのは今回が2度目。アマチュア無線仲間と言っても、バウルのデミウソンやアメリカーナのジョアオンやアディネイのようにとても親しい人ではないけれど、こうやって仕事の話を持ってきてくれるのはありがだいことだと思う。

2015年2月18日(水)

次の写真は、昨日のお昼過ぎに玄関を出たところから撮った南西の空。朝からずっとしとしと降っていた雨が一旦止んで、少し明るくなりかけたのだけれど、また西から雨雲が接近してきて、午後2時前から雨になった。月曜日の夜は何だか寒かったので、夏用の肌掛けの上に、さらに毛布を掛けて寝たのだけれど、これは正解だった。薄い掛け布団でも良かったかもと思ったくらいだった。予報では、まだしばらくはこんな感じで日々推移するらしい。こういう何だか薄ら寒い日が続くと、炊き込みご飯とお味噌汁が食べたくなるから不思議だ。まるで季節が秋に変わったように身体が感じるからか、秋の食べ物が欲しくなり、今晩は炊き込みご飯とお味噌汁を作ることにしたのだけれど、はたと、皮膚感覚とお腹が直結しているような自分に笑ってしまった。

2015年2月19日(木)

このところ毎朝霧が出て、雨がしとしと降る日が続いている。昨日は、朝起きた時は雨が降っていたけれど、朝食が終わる頃には一旦止んだので、霧の中、はると一緒にお散歩に出た。雨が降っていてお散歩ができないときは、家の前の車寄せの草の上とか、砂利の上でウンチをしてくれるので、お散歩ができなくてもはるの排泄に困るということはないのだけれど、やはり、お散歩に出た方がはるにとっては(もちろん私にとっても)いい運動になるので、雨が降っていない限りお散歩に出る。次の写真は、入り口ゲートのところでクンクン匂いを嗅いでいるはる。ご近所の犬や野良犬がここでオシッコをするらしく、ここに来ると必ずクンクン匂いを嗅いで、はるも必ずオシッコをする。毎日お互いにマーキングの競争をしているような感じだ。

2015年2月20日(金)

次の写真は、水曜日の夜、英語のレッスンに来たジミー(左)とジェフ(右)と一緒にテーブルについた所を、エドソンが撮ってくれたもの。まだ夏時間が終わっていないので、午後7時でも外は明るい。このふたりは兄弟で、ふたりで一緒に林業用機械の製造・販売の工場を経営している。隣同士に家を建てて住んでいて、とても仲がいい。性格は、お兄さんのジミーはとても真面目でコツコツと勉強する堅実なタイプで、弟のジェフは冗談好きで、レッスンをしていてもいつも冗談を言っている陽気な人。真面目なお兄さんが弟を引っ張って行っているような印象だ。彼らの下に妹さんがひとりいるのだけれど、まだ一度も会ったことがない。ジミーは一男二女、ジェフは一男一女のお父さん。毎年のようにヨーロッパのどこかで開催される林業用機械のフェアに行っているし、オランダともうひとつはチェコだったかの会社とパートナーになっているらしく、英語を学ぶ必要性を強く感じているため、出張が多く、忙しい仕事の合間にも何とか時間を作って、レッスンに通ってきてくれている。

2015年2月21日(土)

昨日は午前8時前に、エドソンがパウロと一緒にコンシャスという町へ出かけて行ったため、1日留守だったので、はると私だけでお留守番をした。いつもは在宅勤務で家で仕事をしているエドソンだけれど、月に1~2度、パーディーニョの町のパウロの会社に行って仕事をしたり、今回のように少し遠くの町にある提携会社に出かけて行くこともある。エドソンと私がふたりとも家にいると、はるは私にべったりくっついているのだけれど、ふたりのうちのどちらかがいないと、玄関マットの上で「ヒーン」と泣いてしばらく寂しそうに寝そべって、帰りを待つ仕草をする。はるにとってはエドソンと私のふたりがそろって初めて日々の生活が完結するのだと思う。でも、私たちにとってもそれは同じで、はるがヴィラ・シーコでお泊まりの夜などは、何だか寂しく物足りない感じがするので、はるがいてこその私たちの日々のような気がする。次の写真は、お昼の支度をするためにはるを私の膝から下ろして、私が台所に行った後のはるの行動をパチリ。玄関マットの上に行って、エドソンが帰ってこないかなあと待っているはる。後ろ姿から「パッパァ・・・」と言うはるのため息が聞こえてきそう。

次の写真は、外ベランダ横のバラの花壇のピンクのバラ。この木は植えて2年くらいになると思うのだけれど、一向に大きくならない。それでも、花はこれまでに何度も咲かせている。数日前にまた小さなつぼみをつけて、それが開き始めたので、撮影してみた。花は木と同様に小さいけれど、とてもきれいに咲いている。

2015年2月22日(日)

2015年2月17日付けのニッケイ新聞に、青森県五所川原市の巨大立佞武多(たちねぷた)が、サンパウロのカーニバルに参加したことを伝える『聖市カーニバル=勇壮な立佞武多に息飲む観客=なるか120周年でアギア初優勝=結果は17日午後4時に』という記事があった。この記事のサイトは、こちらへ

そして、2月20日付けの「コラム 樹海」は、この結果について次のように書いている。この記事中にある「アギア・デ・オウロ」というのは、「黄金の鷲」という意味で、たちねぷたが参加したチームの名前。このチームにはサッカーのジーコも参加したと別の記事で見た。

ブラジル人の目からみた「たちねぷた」の評価は?

『日伯外交樹立120周年を記念してパレードしたアギア・デ・オウロは4位に終わったが、テーマが凝縮された立派な行進を繰り広げた▼中でも日本人の目からすれば立佞武多の山車の勇壮さは目立っていたが、翌日それを指摘する伯字紙やテレビはなかった▼残念なことに、立佞武多が地球を半周して持って来られた意義である「復興祈願」や「義援金への感謝」が、事前の現地報道で強調されることはなかったし、当日のグローボ生中継でもあっさり流されていた▼いくら立派なことをやっても、それが見る側に認識されていないと「やってないのと一緒」なのが、悲しいかな〃報道の特性〃だ。日本語媒体がいくら報道しても一般国民には知れ渡らない。ポ語媒体の役割は大きい▼アギアや総領事館の広報からその趣旨を現地メディアに事前にもっと説明しておけば、せめて大手紙一紙だけでも大きく扱ったのでは…。それとも、したけど感心を呼ばなかったのか。同山車の発案者は「本物を見せる」意味にこだわっていたが、当地は海賊商品大国であり、本物を評価する国民性は薄い▼最近の傾向からすれば、いくら良く出来た山車でも、動かないと評価は高くない。狩猟民族の血を引く伯人からしてみれば、巨大な鳥が翼を広げたりする山車の方が遥かに「視覚に訴える」ようだ▼普段はバグンサ(乱雑)な一般庶民だが、ことカーニバルになると毎年1年がかりであれだけの大行列を組織、練習する―のは驚嘆に値する。そんな大衆の爪の先ていどの組織性をもって、政治家が10年後の国家計画(大型汚職は実に組織的だが)を立ててくれれば―とため息がもれた。(深)』

2015年2月23日(月)

昨日は私の誕生日だった。そして、夏時間が終わり、標準時間に戻った日でもあった。例年2月の第3日曜日に夏時間は終わることになっているのだけれど、先週の日曜日はカーニバルの最中だったので、1週間ずれて昨日になったのだった。金曜日にコンシャスに出かけて1日留守だったエドソンが、帰りがあまり遅くならずに済んだので、帰宅前に郵便局で届いている郵便を受け取り、スーパーに寄って買い物をしてきてくれた。私の誕生日のケーキも忘れずに買ってきてくれたのはいいのだけれど、小さなものがなかったからと直径25センチで、63レアル(約3100円)もするケーキを買ってきてくれて、ちょっと値段が高すぎるのでは?と、思った。スーパーで作って販売しているケーキはあまり種類がなく、この他には51レアルのココナツケーキがあったのだけれど、私の誕生日の特別なケーキだからこっちにしたと言っていた。ありがたいような、申し訳ないような・・・でも、やっぱりちょっともったいないなあ・・・というのが正直な気持ち。

2015年2月24日(火)

金曜日にエドソンが持って帰ってきてくれた郵便物の中に、2015年2月15日発行の「楽書倶楽部」第26号があった。発行者の前園さんは1月の半ばに腸閉塞で緊急入院と手術をして、1月末に退院したばかり。しばらく息子さんの所で静養してから2月の半ばに仕事に戻るつもりなので、2月号の発行は遅れると言っておられた。だから2月号が届くのは月末くらいになるのだろうと想像していたら、予想以上に早く届いたので、少々驚いた。同人の方たちなど支援者が駆けつけて、編集や発送に協力してくださったので、大幅な遅れにならずに済んだようだった。これは一重に前園さんの人徳のなせる技と思った。以下は、この号に掲載された私の文章。

はる

はるは、この二月で二歳四ヶ月になる雌のダックスフント。生後二ヶ月のときに我が家にやって来た。その頃、愛犬モビのガンが再再発し、ガンと共存するために試した新薬もモビには合わないことがわかり、近い将来モビとの別れを覚悟しなければならないという状況だった。そのため、夫の妹がモビを失った後の私たちのことを心配して、モビと同じ茶色のダックスフントの雌の赤ちゃんを探して、クリスマスに連れて来てくれたのだった。

同じ犬種で雌の赤ちゃんなら、きっとモビもスムーズに受け入れるだろうと、大学病院の先生が言っていた通り、モビは初日から優しく、穏やかに、見守るようにはるを受け入れてくれた。そして、大学病院の先生は、モビが闘病生活を送る中、側に赤ちゃん犬がいることは、モビにとっても慰めになるだろうとも言っていた。

はるはとにかく元気で、じっとしていられない、モビの存在などまったくお構いなしのエネルギーの塊のような子だった。最初の頃は、トイレのしつけがことの外難しく、何とか所定の場所でしてもらおうと、必要なものを買ってきて努力したのだけれど、結局、家の中の所定の場所ですることは習得できず、部屋のあちこちで排泄してしまうため困った。それでもモビと一緒に生活するうちに、モビの真似をして少しずつ家の外に出てできる回数が増えていった。ただ、モビのようにオシッコに行きたいという意思表示はできなかったため、うっかりしていると部屋の中でおもらししてしまうという事態はしばらく続いた。

はるがここで暮らし始めた当初、モビとは別にはる用に小さめのベッドを与えていたのだけれど、しばらくすると、昼も夜もいつもひとつのベッドでモビにくっついているようになった。モビの体調が悪いときは心配そうにモビに付き添っているような感じすらした。そして、はるがうちに来てから三ヶ月少々して、モビが再度手術をすることになったときは、はるをしばらくペットホテルに預かってもらった。一週間ほどして、モビがいなくなった我が家に戻ってきたはるは、少しモビを探す素振りをしたけれど、私たちの注目を一身に浴びる状態にすぐに馴染んでいった。はるはモビではないのだけれど、はるなりのやり方で私たちを毎日笑顔にしてくれ、モビのいなくなった寂しさを癒し、掛け替えのない存在になっていった。

体調の悪いモビに寄り添うはる

特別に躾などしなくても、出会ったときから私たちの言うことをすべて理解し、私たちの生活のペースに合わせてくれたモビとは違い、はるにはひとつひとつ私たちと暮らすための生活のルールを教えなければならなかった。でも、三ヶ月少々とはいえ、モビと一緒に暮らすことができたため、モビがいろいろと助けてくれた。例えば、私たちが食事をしているとき、食卓の下をウロウロしたり、私たちの食べているものを欲しがったりしないで、自分たちの番が来るまで静かにベッドの中で待たなければならないとか、夜寝る時間になったら私たちの寝室のベッドの足元に置いた自分のベッドへ行って寝るといったことは、モビが模範を示してくれたので、比較的早く習得してくれた。そして、排泄の問題も、今では意思表示できるようになり、家の中で粗相をするようなことはなくなった。

食べ物が目の前にあれば、「待て」「お座り」という指示に従うことができ、「はい、どうぞ」と言うまで待っていられるようになったのはいつ頃からだろう?ただし、食べ物が目の前にないと「待て」「お座り」と言ってもまったくできないのが、はるのおもしろいところだ。来客があると、以前はうれしくて大騒ぎをしていたけれど、最近は興奮するのは最初だけで、一通りの挨拶を済ませれば、後は静かにしていられるようにもなった。

はるにケージの中でおとなしくしていて欲しいときは、ケージの前にタバスコの瓶を置き、私の英語の生徒さんがレッスンに来ているときは、家の奥の通路に細い竹の棒を置くと、決してケージから出てきたり、竹をまたいでこちらに来たりはしない。そのため、我が家にやって来る人たちは「どうしてだろう?」と、みな一様に不思議がり、「えらいねえ」と、感心してくれる。モビもそうだったけれど、モップや掃除機など、長い柄のようなものが本能的に苦手なのだろうと思う。そして、タバスコはその匂いが嫌いなようだ。どちらも実害のない象徴的な存在なのだけれど、それを尊重してくれるはるは何とも可愛い。今でもモビのことを思い出しては夫とモビの思い出話しをよくするけれど、はるのいない暮らしなど今ではとても想像できない日々になっている。

2015年2月25日(水)

金曜日の郵便物の中に、鎌谷さんが送ってくださった朝顔とエンドウの種もあった。夏が終わったようなこの時期に蒔いても十分発芽して、育つから蒔いてみてくださいというお手紙が添えられていた。ここではエンドウと言えば、さやを食べるキヌサヤ(と言っても、日本で販売されているものよりも大きく固いものだけれど)と、実を食べるフレッシュなグリンピース(但し、日系食料品店でしか見かけない季節限定のもの)を店で買うことができるけれど、鎌谷さんが送ってくださったエンドウはさやと実の両方を食べることができる種類らしいので、日本でスナップエンドウと呼ばれている種類かな?と想像したりしている。スナップエンドウはこれまでこの辺の店では見たことがない。さてどんなエンドウなのかは、種を蒔いて、芽が出て、成長してからのお楽しみ。早速、日曜日に朝顔の種をバラの花壇に蒔いて、エンドウを畑に蒔いた。鎌谷さんにはいつも豆の種やら、種芋やらを送っていただくばかりで、こちらからは何も送って差し上げられるものがなく、感謝とともに、とても恐縮している。

2015年2月26日(木)

エドソンにバナナを買ってきてもらうと、必ず緑色のバナナを買ってくる。私はついつい黄色いバナナを買ってしまうので、すぐに熟れてしまい全部食べきる前に、バナナが柔らかくなり過ぎて、結局つぶしてバナナブレッドに使うしかなくなることがあるのだけれど、エドソンはまだ熟れていない緑色のバナナを買ってくるので、食べきる前に柔らかくなり過ぎるということはあまりない。次の1枚目の写真は、金曜日にエドソンが買ってきたバナナ。2枚目は、2日後の日曜日の午後撮影した同じバナナ。緑色のものを買ってきても、すぐに黄色くなる。ちなみに1枚目の写真のバナナの右側の黄色い果物はパパイアで、これも緑色のものを買ってきたものが黄色くなり、食べ頃になったので、土曜日と日曜日の朝食で食べたので、日曜日の午後撮った2枚目の写真にはもう写っていない。

2015年2月27日(金)

12月、1月の暑い盛りに、花は咲かせていても、数量的にはそんなにたくさんは咲いていなかったのに、2月になりよく雨が降るせいなのか、気温が下がったせいなのか、家の東側の庭のネムの木が、今たくさん花をつけている。ベランダの前のハイビスカスも真夏の間はちらほらとしか花を咲かせていなかったのに、これも同じようにたくさん花をつけている。ハイビスカスは南国の夏の花という印象があるのだけれど、ここでは暑い盛りを過ぎてからの方が花をたくさんつけて、元気にしている。

2015年2月28日(土)

2015年2月25日付けのニッケイ新聞に、日本でサッカーをしていた三都主選手がブラジルに帰ってきたという記事があり、彼がパラナ州のマリンガ出身だったということを初めて知った。ここは日系人口が少なくない土地柄。そんなことが三都主選手を日本に結びつけたのかな?21年もブラジルを離れていたそうなので、エドソンよりも長くブラジルを離れていたことになる。エドソンも帰伯後はかなり逆カルチャーショックがあったので、三都主選手にとっても逆カルチャーショックはあるだろうなと思った。『元日本代表=三都主が故郷で第2の人生=21年間の日本を振り返り=「今一番大切なのは家族」=マリンガFCと契約』というこの記事のサイトは、こちらへ



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