Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2015年1月1日(木)

あけましておめでとうございます。

未年元旦

大晦日は例年通り、朝8時15分からのNHK紅白歌合戦を見た。というか、前半は家事やはるのお散歩に出たり入ったりで全然見ることはできず、テレビが付いているというだけだったのだけれど・・・。後半は時々テレビの前で立ち止まって聞いたり、居間のソファーに腰かけて聞いたりできた。その後、「ゆく年くる年」を見ながら、ブラジル産のお酒「東麒麟」を温めて準備して、エドソンとふたりで日本の年越しの時間に乾杯をした。その後は「2015新春生放送、年の初めはさだまさし」を見た。昼間っからテレビを付けることなんてないのだけれど、大晦日だけは特別。ブラジルに来て、テレビでNHKを見ることができるようになってから、大晦日は毎年この同じスケジュールで穏やかに年越しできていることに感謝。次の写真は、居間のソファーに座って紅白を見ている私の膝の上で丸くなっているはるをパチリ。

2015年1月2日(金)

大晦日の夕飯は、大晦日定番のローストポークをエドソンが作ってくれた。今回は日曜日に収穫した豆を使ってファロファを作ると言って、前の日から豆を水に浸したり、当日の朝はその豆を煮たりと、仕事の合間、合間に台所に行って、作業をしてくれていた。次の写真は、エドソンが作る前に用意したファロファの材料。左から時計回りに、我が家で採れた豆で作った煮豆、我が家のネギ、ベーコン、玉ねぎ、ゆで卵。ベーコンと玉ねぎとにんにくをオリーブ油で炒めて、マンジォカの粉と残りの材料とオリーブを混ぜて完成。マンジォカの粉に何を混ぜて作るかは各個人や家庭で違うため、一口にファロファと言っても様々。エドソンが作ったファロファは具沢山のしっとりとしたファロファだった。

次の写真は、ファロファを作っているエドソン。足元のはるは、いい匂いがするので、何か落ちていないかと床をクンクン嗅ぎ回っている。私ひとりが台所で作業をしている時は、「ママはお仕事している」とわかっているので、台所にお邪魔虫には来ないのだけれど、エドソンが台所に来て何かし始めると、はるも必ず仲間に入れてとやって来る。

次の写真は、出来上がった夕飯を並べた食卓をエドソンがパチリ。右からジャガイモと玉ねぎと豚肉をローストしたもの、我が家の庭のタイムなどをたっぷり使って味付けがしてある。その左の黄色い器はにんにくご飯、ファロファ、そしてレタスとトマトのサラダ、残り物のきゅうりの酢の物。にんいくご飯とファロファの上に乗っている緑色のものは、エドソンが飾りにと乗せた我が家の畑のパセリ。シンプルだけれど、おいしくいただいた。

午前0時前から、リオデジャネイロ、サンパウロ、ブラジリア、フロリアナポリスからの中継をテレビで見ながらカウントダウンを待ち、スパークリングワインを開ける用意をした。0時ちょうどにワインを開けて乾杯し、各地の花火を見ながら、この日2度目の新年のお祝いをした。

2015年1月3日(土)

年末の29日には雷雨があったけれど、30日、31日には雨が降らず、穏やかに年が明けた。元旦の朝は青空が広がり、気持ちのいい風が吹いていた。昼食後にはるのお散歩がてら丘に登って回りを見渡すと、それぞれ西、南東、東の方角に雨雲が見えた。次の写真は、丘の上から撮った西の方角の空。画面の奥で空が灰色に見えるのは雨が降っている場所。ここは視界が開けているので、遠くで降っている雨もよく見える。

一方、北の空はきれいな青空に夏雲が浮かぶ、いつもの暑い夏の空。

そして、南西の方角は北の空とは違い雲が多く、頭上に黒い雲が覆い被さりそうになっているのがわかる。この写真に写っている水色の貯水タンクの回りに種を蒔いたグアンドゥ豆の木が大きくなっている。

この写真を撮った後、1時過ぎに家に戻ると、パラパラと雨が降り出した。でもその雨はすぐに止み、またいいお天気が戻ってきた。それなのに、その明るい中、雷が鳴り出し、1時間くらいして雨が降り出し、4時くらいまで続いた。その間一応、電源は落としたのだけれど、近くで雷が落ちることはなくほっとした。

2015年1月4日(日)

2週間前、エリカたちが3泊4日でやって来た際、パラカンビのシチオの敷地内にあるバナナの木から大きなバナナの房を2つも持って来てくれた。こんなにたくさんどうしようと思ったけれど、まだ緑色で硬かったので、そのまま下のガレージに置いたまま、その存在を忘れていた。そうしたら、クリスマス以降気温がぐんぐんと上がり暑くなったため、一気に熟してしまって、さあ大変。年が明けてから気づいて、慌てて毎日バナナを食べているのだけれど、それだけでは追いつかないので、40本近く皮を剥いてタッパーに入れて冷凍したり、冷蔵したりして、毎日他の果物と合わせてジュースを作って飲んでいるような状況。次の写真は、ガレージから上の台所に持って上がったバナナのひと房。

このバナナの房を台所に持って上がると、はるは房にくっついているバナナの匂いを興味深そうに嗅ぐだけだったのに、下の方の熟れすぎてしまったバナナが房から外れてしまったものを目ざとく発見すると、皮をガリガリと食べ始めた。あっと気がつき、止めさせようとしたのだけれど、エドソンが皮を剥いてやってみたら?と言うので、バナナの皮を剥いて、バナナを小さくちぎって、食事用のプレートに入れてやると、おいしかったようで、一気に食べてしまった。次の写真は、最後の一切れを口に入れ、頬張っているはる。

2015年1月5日(月)

次の写真は、玄関隅に置いた我が家のお正月飾りの小さな門松。毎年12月29日頃から三が日が終わるまで、玄関ドアには小さなしめ縄のお飾りを飾り、玄関内の隅にはこの小さな門松を飾っている。今年はクリスマスツリーの飾りと一緒に、今日片付けるつもりでいる。このようなお正月飾りも、サンパウロのリベルダージ(東洋人街)に行けば販売されているのかもしれないけれど、年末にわざわざそのためにサンパウロに行くのも大変だし、ここではこのようなものは手に入らないので、東京で暮らしていた時に買って使っていたものを、いまだに使っている。このお正月はブラジルに来て6回目のお正月だったので、これらの飾りは10年近く飾っていることになる。永くお世話になってます。

2015年1月6日(火)

この時期ボトゥカトゥに行くと、オレンジやスイカなどを満載したトラックが道路の端に止まって、果物を販売しているのをあちこちでよく見かける。スーパーで買うよりも安いので、私たちはパオン・ジ・アスーカーに行く途中に止まっているトラックからよくオレンジを買う。5レアル(約250円弱)と10レアル(約500円弱)の2種類の袋詰めがあって、私たちは10レアルの袋を買うことが多い。次の写真は、先週土曜日に買ったその10レアルのオレンジの袋。この写真を撮った時は、もうすでに20個ほど使った後だったのだけれど、重量を測ってみたら6キロ弱あった。ということは10レアルの袋は10キロくらいなのかな?大量のバナナを消費しなくてはならないので、このオレンジを絞ったジュースとバナナとりんごを一緒にミキサーで混ぜてジュースを作り、毎日朝昼せっせと飲んでいる。

それで、10月下旬頃から毎日作って飲んでいた桑の葉のお茶はしばしお休み。ちなみに、この桑の葉のお茶を飲み始めて12月末で2ヶ月あまり続けたことになる。何と、エドソンの体重が5キロ弱減るという効果が出た。前面に出ているお腹の具合は、若干小さくなってきているかな?という程度だけれど、それよりも側面のお肉がなくなったようで、ズボンのベルトは一番奥の穴を使うようになったとエドソンは言っている。現在ほぼベスト体重に近くなっているらしい。私は余分な脂肪がついていないということなのか(身長に比べ確かに体重は少ないものの、お腹まわりはしっかり脂肪がついていると思うのだけれど)、同じようにお茶を飲んでいたのに、体重の増減は全くなし。

2015年1月7日(水)

家の前の庭でキーキーと賑やかな鳥の鳴き声がするので、居間の横の窓から外を見ると、アメンドインの上に、4羽の鳥がいた。カメラを取ってきて構えたら右側の竹の方に移動してしまい、しばらくすると2羽がまたアメンドインの上に出てきた。私たちが植えた木々がかなり大きくなり、アメンドインもずいぶん広がってきていて、環境が良くなっているからか、以前はあまり家の近くまでは来なかった鳥たちが、最近はすぐ側まで来るようになっている。

2015年1月8日(木)

比較的頻繁にメールでやり取りしている友人たちもいるけれど、1年に1度だけ、年が明けてからお年賀メールのやり取りで近況を知らせ合う友人たちも少なくない。この時期1年に1度だけでも、忘れずに近況を知らせてくれるメールが届くと、とてもうれしい。次の写真の田野中さん夫婦は、広島県と山口県の県境にある小瀬川ダム湖畔で、「ポット・プーリー」という名前の小さなレストランをやっている。奥さんが私の同級生で、ずいぶん長い付き合い。去年の8月に広島に帰省した際、東京在住だけれど、同じ時期に夏休みで実家のある広島県湯来町に戻っていた友人夫婦と一緒に、湯来から広島に戻る途中で、彼らのレストランに立ち寄りお昼をいただいた。この写真は、お年賀メールに添えて送られてきたもの。ふたりがいるのは敷地内の野菜畑の中。お揃いのシャツとエプロンをつけて、ふたりともとてもいい笑顔だ。ここで無農薬の野菜を育てて、その新鮮でおいしい野菜をふんだんに使ったパスタランチをレストランで提供している。お世辞抜きでとてもおいしい。一緒に出されるおいしいパンも彼女の手作り。お料理が盛り付けられているお皿などの食器は、陶芸をやっているご主人の手作り。何から何まで心のこもった温かみのある手作りのレストランだ。ここは山の中なので、寒さの厳しいこの冬は、すでに10数センチの雪が2度も降り、テラスの屋根の雪下ろしを2度したとあった。この写真は11月に撮ったものだそうなので、ほとんどの木々が葉を落として裸になっている。彼らの左側奥に見える建物がレストラン兼住居で、右側奥に、写真では見えないけれど、小瀬川ダム湖がある。

彼らはここで、もう25年も頑張っている。私たちにとっては田舎暮らしの大先輩。定期的にご主人から送られてくるメールマガジンで四季折々の様子を読みながら、私たちももっとここでの田舎暮らしをていねいに楽しまなくてはと励まされている。ポット・プーリーのサイトは、こちらへ

2015年1月9日(金)

ニッケイ新聞の2015年1月7日付け日系社会ニュースに「らぷらた報知・主幹 高木一臣さん」の訃報記事があった。この記事のサイトは、こちらへ。 「らぷらた報知」というのは、アルゼンチンの邦字紙で、「同紙の発行部数は公称1千部。一世の高齢化に加え、駐在員の購読者数が減少傾向にあるようだ。外務省の海外在留邦人数調査統計では、日系企業進出は51社(13年10月時点)。今では亜国の日本商議所が年4回発行する会報が、情報の質も高く評判が高いといい、邦字紙の存在感が薄まっている様子だ」と、別の記事にあった。

以下は、同じくニッケイ新聞2015年1月7日付け「コラム 樹海」からの転載。このような記事を見るにつけ、日本を飛び出して海外で暮らしている人たちには、おもしろい人たちがいるなあと思う。

『「最初はアルバイトのつもりだった。初出勤したら電話で僕を雇った編集長が亡くなってた。で、僕に白羽の矢が立ったわけ」。つまり、半世紀以上編集長を務めたわけだから、ギネスものではなかろうか。昨年11月に89歳で亡くなったアルゼンチンの邦字紙「らぷらた報知」の高木一臣主幹の入社時のエピソードだ(本日付け7面で訃報)▼コラム子が取材した2003年当時、78歳だったわけだが、そのエネルギッシュさには気圧される思いだった。ブエノスアイレスはラバージェ通りのアサード屋。話題も豊富で話上手とはいえ、6時間の問わず語り。隻眼で胃も腎臓も取っているというのに、ずっと肉を食べ続けていたのだから、その健啖ぶりに迫力さえ覚えた▼ラジオの日本語アナウンサーを務め、俳優としても知られ、加えて編集長と三足のわらじを履いていた。プライベートも拓大出身のバンカラ気質に溢れ、強盗に早代わりしたタクシー運転手を締め落としたというのだから恐れ入る▼亡くなる1カ月前まで、翻訳記事と社説「展望台」を書き続けた。12年前は2千部だったという同紙だが、現在は半減した。ブラジル同様、購読者も減っているのは当然とはいえ、今後の問題は編集体制だろう。編集長だった崎原朝一さんも、そのわずか6日前に80歳で亡くなった。現在、同紙は週2回発行を続けるが、日本人スタッフはわずか1人だという▼紙面はまだまだ日本語中心。対岸の火事とはどうしても思えない。創刊も本紙の前身パウリスタ新聞と同年だ。お隣コロニアの名物新聞人の冥福を祈るとともに、同紙の発行継続を祈りたい。(剛)』

2015年1月10日(土)

この冬日本は全国的に寒さが厳しいようで、比較的穏やかな広島でも雪が何度も積もっているようだ。12月17日に広島市内でも十数センチの雪が積もったと言って、兄が真っ白に雪の積もった実家の庭の写真を送ってきてくれた。2枚目の写真は、2年前の10月に撮った同じ庭の写真。兄はこの庭がとてもお気に入りのようで、彼の年賀状にはこの庭の四季折々の写真が使われていた。

一方、こちらはクリスマス以降暑い毎日なのだけれど、年が明けて、元旦から毎日のように午後遅く、ないし、夜になると雷が鳴り激しい雨が降る日が続いている。そのため、雨の後は気温が下がり、また翌日気温が上がるというのを繰り返している。毎日降っていた雨が、この木曜日から降っていないので、気温はどんどん上がり、いつもなら涼しい午前中でも、座っているだけでジワッと汗が出てくるような感じになってきている。こんな暑さはここでは本当に珍しい。下手に草取りなどで動くと夏バテしそう。これまでの雨のお陰で、今のところここは昨年のような水不足の心配はないけれど、サンパウロ市内は雨が降ると洪水になり被害が出る一方で、サンパウロ市の水瓶であるカンタレイラの貯水池にはたいして雨が降らず、水が貯まらないらしく、鎌谷さんのところなど、元旦から4日連続断水で水が出なかったとメールにあった。サンパウロは年末の28日の暴風雨で、あちこちで老木が倒れて電線や電信柱を倒し、停電や断水を引き起こしたようだった。前園さんのことろも丸2日間の停電と断水で、とんでもなく不便な年の瀬となったと嘆いておられた。雨が降らなくても困るし、降り過ぎても困る。自然との付き合いはなかなか難しい。

2015年1月11日(日)

はるがカウンターテーブルの前の丸椅子の足元に乗って、うまくバランスを取るというのは以前にも書いたけれど、今度はあらたなひねり技で、体をねじってバランスを取っていたので、写真に撮ってみた。はるは本当におもしろい子だ。先々週はるにバナナを食べさせたのが良くなかったのか、朝食の際、先週2度ほど食欲がなく、一度はお昼を食べて1時間半後くらいに嘔吐したりと、少々心配したのだけれど、その後はまたいつものように食欲旺盛なはるに戻ってくれた。欲しがるからといって、おもしろがって何でも与えてはいけないなと、またまた反省。

2015年1月12日(月)

ランドマークの木の側に自然に生えてきた(おそらく私が捨てた台所から出た野菜や果物のくずの中にあった種から生えてきた)パパイアの木に、実が一つなっていることは何度か書いた。長さ10センチくらいまで育つと、それ以上大きくはならなかったけれど、まだ実が青いので黄色くなるのを楽しみに待っていた。ようやく数日前に、もうそろそろいいかな?と、エドソンと相談して、収穫してみた。私たちから見える半分は黄色というよりもベージュ色という感じだったのだけれど、裏側は結構黄色くなっていて、下の方はだいぶ熟して柔らかくなっていた。2枚目の写真は、このパパイアを半分に切ってみたもの。右側の半分でわかるように、下の方は黒くなった部分もあり、かなり痛んでいた。もう少し早く収穫するべきだったかな?左側は種を取って、悪い部分を切り落として、皮を剥いたもの。食べてみると、お店で売られているパパイアとは比べ物にはならないけれど、甘味も多少あり、食べられなくはなかった。今現在この同じパパイアの木には、新しく小さな実が4つほどあり、花もいくつか咲いているので、それらもせめてこれぐらいまでちゃんと育ってくれるといいのだけれどと期待している。

2015年1月13日(火)

先日、インターネット上のニュースで、「末期がんから自力で生還した人たちが実践している9つのこと」という記事が目に止まったので、読んでみた。「劇的な寛解」をした患者の例は、多くの医学論文で報告されているけれど、これまでこれらは特別な例外と考えられていて、誰も真面目にその理由を研究した人はいなかったらしい。その点に注目したアメリカの医師が、「劇的な寛解」事例を報告した医学論文をくまなく分析し、日本を含む世界10カ国で寛解者と治療者のインタビューを行った結果、ガンの自然治癒を体験した人々には、「9つの共通する実践事項」があったという内容だった。以下が、その「がんの劇的寛解の起因になったと考えられる9つの仮説」だという。具体的な説明は、この人の本を読まなくてはわからないので、ここに記した表題だけでは具体的に何をどのように実践したのかよくわからないけれど、一応その9つの共通点をここにコピーしてみた。

・抜本的に食事を変える
・治療法は自分で決める
・直感に従う
・ハーブとサプリメントの力を借りる
・抑圧された感情を解き放つ
・より前向きに生きる
・周囲の人の支えを受け入れる
・自分の魂と深くつながる
・「どうしても生きたい理由」を持つ

2015年1月14日(水)

次の写真は、うちの西隣のコーヒー農園の入り口近くを撮ったもの。右側に行くと入り口ゲートがあり、左側に行くと家と倉庫があるのだけれど、その道沿いにクアレズマの木が一列に植わっていて、今、紫色の花を咲かせている。木によって花の咲き加減が異なるけれど、だいぶ色がはっきりしてきれいになってきている。この並木の手前、中央の緑色の低木がコーヒーの木で、並木の向こう側はまた別の持ち主の牛の放牧場。このコーヒーの木の手前の草ぼうぼうの場所からうちの敷地。この写真で見ると、お隣のコーヒー農園はあまり大きそうには見えないけれど、左側に行くと敷地がど~んと広がっていて、うちなんかの比ではなくとても大きい。

次の写真は、うちの丘の上の貯水タンクの側にあるクアレズマの木。この木は今ほぼ満開状態だからなのか、紫色と薄いピンク色の花が共存しているように見える。2枚目の写真はうちの庭のクアレズマ。この木はつぼみがたくさんある状態で、花はまだちらほらとしか咲いていない。多少種類が異なるのか、植わっている場所の違いからなのか、花の咲き具合がそれぞれみな少しずつ異なっている。

2015年1月15日(木)

次の写真は、うちの庭に2本ある木の1本を撮ったもの。名前が思い出せないのでエドソンに聞くと、モングバ(monguba)とか、カスターニャ・ド・マラニョンと呼ばれていると教えてくれた。カスターニャ・ド・マラニョンという名前は教えてもらった覚えがあるなと思った。この写真に写っている実が茶色に乾燥した頃、この固い殻を割り、中に詰まっている実を取り出してローストすると、とても口当たりの軽いナッツになる。去年初めてこのナッツを食べておいしかったので、今年もまた食べられることを期待して待っているところ。

2015年1月16日(金)

この夏は例年になく暑い。1月14日付けのニッケイ新聞に「現在、大西洋上に存在する南大西洋熱帯高気圧(ASAS)の影響で、リオ、ミナス・ジェライス、エスピリトサントの南東伯3州が記録的な高温と旱魃に襲われている。特にリオ州では、連日のように気温が40度に達しても雨が降らないというかなり深刻な事態だ。先週の予報の時点では聖州も影響を受けるはずだったが、想像以上に湿気が多いのか、雷と夕立が多い日々が続いている」とあった。先日、エドソンのお母さんが電話をしてきて、いつもは家の中で一番涼しい台所ですら気温が37度にもなったと言って、悲鳴を上げていたけれど、これは冷房がないとしんどい気温だ。それに比べればここの暑さなんてどうということはないのだけれど、最高気温が連日30度を越える日が続き、扇風機をかけていても、ただ座っているだけで汗が出てくるというのはここでは珍しく、エドソンも私も少々バテぎみ。半袖のTシャツとジーパンでは暑いので、上は袖なしのタンクトップを着て肌の露出を増やし、下はスカートをはいて風の通りを良くしてしのいでいる。そんなわけで食欲もいまいちなので、夕飯には野菜などの具材とソーメンとおつゆを冷たく冷やしたソーメンサラダをもう3回も食べた。週に1度は食べていることになる。昼間は連日最高気温が30度を越えていても、夜は気温が下がり涼しくなり、朝は気持ちのいい風が吹き通るのがここのいいところなのだけれど、防犯上窓を開けたまま寝ることができないため、屋外が涼しくても、家の中は明け方近くまで熱がこもるため、夜も扇風機は欠かせない。例年、ひと夏に扇風機が必要な夜はそうそう続かないのだけれど、今年は連日扇風機のお世話になっている。

1月14日付けの記事には、「聖市を襲う連日の暴風雨=南部、西部で大規模停電も」という記事もあった。連日の暴風雨と言っても、地域差があるようで、サンパウロの水不足はさらに深刻さを増している。この記事のサイトは、こちらへ

2015年1月17日(土)

ペトロポリスの安見さんが、またまたご自宅で咲く花の写真を送ってきてくださった。11月がパウブラジルの花、12月がアカシアの花、そして今月の第三段はモクレン(ポルトガル語でマギノリア、英語でマグノリア)の花だ。私の知っているモクレンは白やピンクの花で春の花なのだけれど、安見さんが送ってきてくださったモクレンの花は橙色(オレンジ色)で、今季節は夏。こんなモクレンもあるのかと驚いた。でも、モクレンには400もの種類があるということなので、黄色や橙色だってあるんだ。それにブラジルの桜は春ではなく冬に咲く花。ブラジルで咲くモクレンが春ではなく夏に咲いても不思議ではないのかもしれない。以下に、安見さんからいただいたメールにあったモクレンの花にまつわるエピソードの一部をコピーしてみる。

『あまり目立たない橙色の花ですが、花の匂いは栗の花の匂いとそっくりです。ペトロポリスの街路樹の大半がこのマギノリアで、ペトロポリスの街づくりをした時にドンペドロ二世がポルトガルより持ってきて植えたものといわれており、あやかって我が家に20年以上前に植えました。(モクレンの街路樹の多いペトロポリスの町は、花が咲くと夜、町中にいい香りが漂うのだそうだ。そして、花が終わり青い実がなると、サビアという鳴き声がとても美しいことで有名な鳥がたくさんその実を食べに来るとも書いておられた。)マギノリアの街路樹は、数年に一度枝葉が伸びて視界をさえぎるようになると幹を残して丸裸に枝を切ってしまうと、すぐに芽が出てかっこいい木になります。常緑樹で日陰を作り街路樹に適していると言えます。

この木にまつわる我が家の話。数年前離れの屋根裏にガンバ(スカンク)の家族が住みつき、追っ払っても戻ってくる。どこから屋根に登るのだろうと調べたところ、マギノリアの枝が屋根の上に伸び、ここを伝って出入りしているようで、思い切って枝を払いました。これが正解で、ガンバの家族は進入路を阻まれ屋根裏に住みつかなくなりました。』

2015年1月18日(日)

エドソンは雨が降っていない限り、森の中の貯水タンクから丘の上の貯水タンクに水を汲み上げるために、1日に1回森に行く。以前はこのふたつのタンクにはお互いに連絡を取り合って、水量に合わせて自動的に水を汲み上げる装置を付けていたのだけれど、1年前の落雷でこの装置が壊れてからは、深刻な水不足という問題も発生したため、自動汲み上げはせず、毎日水の具合をいちいち確認した上で、汲み上げられるときに、手動でスイッチを入れて汲み上げるようにしている。先日も、エドソンが森に水を汲み上げに行ったついでに、いつものようにジャタイの様子を見たり、果樹園を見回って戻ってくると、果樹園の桑の木の1本が葉切りアリにやられていると言うので、写真を撮りに行ってみた。何本もある桑の木の中の1本だけがほとんどの枝に葉のない状態になっていた。丸裸とまでは行かないけれど、次の写真で枝に葉がないのがわかるだろうか?この夏は入り口ゲートの両脇の木々や、道沿いのセドリーニョなどが裸にされる事態が発生していないので、今年は葉切りアリの活動があまり活発でなくて良かったと思っていたのだけれど、ここ1週間ほど続く晴天で、活動が活発化したようだった。

数日前まで元気だったけれど、ひょっとしてと思い、土曜日の朝、入り口ゲートの木々をチェックしてみると、昨年丸裸にされた後、再び元気にたくさん葉を付けていたリグストルンが、葉切りアリの攻撃を受けてかなりの葉を失っていた。この他、4本あるブーゲンビリアも2本に攻撃された形跡があった。次の写真は、かなりの葉を失ったそのリグストルンの木。

入り口ゲートの周辺を探してみると、葉切りアリの巣が6つも点在していた。次の写真は、その内の2つ。大きな穴の周辺に切り取って運んで来た葉がたくさん散乱しているので、すぐそれとわかる。うちで見かける葉切りアリは、普通のアリと見分けが付かないような小さく黒い葉切りアリと、赤黒い色の大きな葉切りアリの2種類なのだけれど、この穴には、赤黒い大きな葉切りアリが出入りしていた。早速、葉切りアリ用の除虫剤を噴霧して、グループが全滅してくれることを願った。でも、エドソンの話だと、これらの穴は土を運び出すためだけの作業用の穴で、葉を運び込む穴ではないらしいので、本物の出入り口を探さないと根本的なアリ退治にはならないらしい。やれやれ・・・

2015年1月19日(月)

以下は、ニッケイ新聞の2015年1月16日付け「コラム 樹海」からの転載。この記事の初めに出てくる高坂正堯氏は、やさしそうな顔とやんわりとした関西弁で、的を射た現実主義的な評論をしておられたことをなつかしく思い出した。「アーロン収容所」の著者である会田雄次氏も京大の先生で、同時期の多くの論客の中で、何故かこのおふたりのことがとても印象に残っている。まあ、そんなことはどうでもいいのだけれど、このコラムを読んで、深沢編集長はいつもいいところをつくなあと思った。

移民は「海を越えた」のでは?

『国際政治学者の高坂正堯は「イギリスは海洋国であったが、日本は島国であった」と論文に書き、地理的には島なのに英国は外に開かれ、日本は鎖国していると論じた▼昨年11月27日付週刊「新潮」の連載「世界史を創ったビジネスモデル」によれば、大航海時代にイングランドの王族らは海賊ドレイクを支援し、引き渡しを要求したスペイン王の要請を断って、逆にナイトに叙任した。同じ頃、日本では倭寇などが現れたが《彼らは「あぶれ者」として切り捨てられてしまった。この部分がしぼみ、鎖国に至った》と対比した▼同連載によれば、世界銀行の調査ではイギリスは現在467万人も外国移住しているが、日本は77万人。総人口との比率では英国が7・5%、日本は0・6%。日本人が移民しない理由として《外に出れば「あぶれ者」になってしまうから》と分析する▼企業駐在員は《つねに日本の本社に顔を向けている。そして、海外勤務を終えれば、組織の中で『国際派』に》なるが、移民は《「ディアスポラ」(離散した者、故国喪失者)になる。有り体にいえば「あぶれ者」~》と指摘する▼以前『海を越えた日本人名事典』(冨田仁編、紀伊国屋書店、85年)という1万5千円もする本を見つけ、どれだけ移民が出ているかと胸躍らせて手に取ったら〃移民の祖〃水野龍すら出ておらず、大いに落胆した▼同書には江戸期から明治までの欧米諸国への日本人漂流民、留学生、旅芸人ら渡航者1700人が網羅されている。要は、不思議なことに帰国しないと日本的には「海を越えた」ことにならない訳だ。今も精神的に鎖国していると痛感する一冊だった。(深)』

2015年1月20日(火)

去年の10月中旬に種を蒔いた金時豆が、いい感じで立ち枯れてきたので、そろそろかなと思い収穫してみた。前回は実験的に少ししか種を蒔かなかったけれど、今回は蒔く種の数を増やしたので、収穫量も多く、バケツ半杯分程度の収穫があった。

次の写真は、サヤから取り出した金時豆。虫が食っていたり、豆がぷっくり膨らむ前にしなびたようになったものもあったけれど、それらの悪い豆を取り除いて、いい豆だけの重量を計ってみると480グラムもあった。豆のサヤを開けて、中から3つ4つ5つと、綺麗な赤い金時豆が出てくると、結構感動し、このワクワク感はいいなあと思った。金時豆はおいしいし、ほとんど失敗なく収穫できるので、今年の春(9月か10月)はまた少し蒔く種の数を増やしてみようかなと思ったりしている。

2015年1月21日(水)

この月曜日から、ブラジルはとても大変な事態になっている。ここ2年ほど続いている干ばつでサンパウロは深刻な水不足に陥っていることは何度も書いたけれど、この水不足のため、ほとんどの電力を水力発電に頼っているブラジルでは電力不足になることが長い間懸念されていた。でも、政府は無為無策のままずっとこれを否定し続けていたのだけれど、月曜日に突然、電気料金を今後1年間に50%を目途に順次値上げすると発表したのだ。さらにそれに追い討ちをかけるように、何の警告もないまま、突然ブラジル全土の南半分の諸州のあちこちで、1時間だけだったらしいのだけれど、突然電力の供給を止めたのだ。幸いうちはこの停電には見舞われなかったけれど、月曜日の夜のテレビニュースで、この停電によりリオやサンパウロで様々な問題が発生したと伝えていた。その中で大きく報じられていたニュースのひとつは、この停電のためにサンパウロの地下鉄の一部が運行中に止まってしまい、乗客は最寄りの駅まで歩いて行かなくてはならず、暑さのために気分が悪くなった乗客も出る騒ぎになったというものだった。

どうやら、この夏の猛暑も手伝って、電力の需要と供給のバランスが崩れ、電力供給システムが崩壊寸前になったため、それを避けるために強制的にシステムを止めたらしい。火曜日にはそのシステムに改善を加えたので、大丈夫ということになり、一応強制停電は発生していないけれど、その改善もいつまでもつかわからないというのが専門家の見方のようだ。このような事態になっているのに、月曜日の夜の時点で、エネルギー省の大臣からのコメントや説明は何もなく、ジウマ大統領への取材を申し込んだメディアも拒否され、昨日(火曜日)になっても、この電力危機に関する政府からの説明はまったくなく、国民はわけのわからない状態に置かれている。

ブラジルの電力の発電や供給のシステムは日本とはずいぶん異なっているようで、状況を理解するのは難しいのだけれど、ごくごく単純化して説明すると、だいたい次のような感じになる。まず、日本では各地方に1つ半官半民の電力会社があり、発電から送電、供給まで一貫して行う独占企業の様相を呈しているけれど、ブラジルでは、例えば、イグアスの滝の近くにあるイタイプーダムではひとつの会社によって発電業務が行われ、その発電された電力を、例えば、イタイプーダムからサンパウロまで送電するのはまた別の会社が行い、サンパウロに送電された電力をサンパウロ市内の各地域の各家庭に供給するのはまた別の会社(複数あるのかもしれない)なのだという。でも電気料金を決めるのは政府で、これらの業務を委託された民間の電力会社は政府の指示に従うしかないのだとか。2年前に選挙対策として、ジウマ大統領が電気料金の値下げを全国放送のテレビで大々的に宣伝したということがあったけれど、この電気料金の値下げで電力会社は利益が出なくなり、設備投資に回すお金がなく、電力の需要に見合った設備投資をしてこなかったため、今回のようなシステム崩壊寸前の事態になったらしい。つまり今回の問題の責任はジウマ大統領にあるのだけれど、こういう都合の悪いことになると、彼女は逃げ回るばかりで、テレビの前に出て説明しようともしない。

去年の選挙で再選を果たしたジウマ大統領は、選挙期間中、対抗馬のアエシオ氏が大統領になったら、電気は止まるし、税金も上がると言って、アエシオ氏を猛烈に批判していたのに、彼女の第二次政権が今月始まって三週間も経たない内に、電気料金(つまり、電気料金に上乗せされる税金)の値上げを発表し、電気をあちこちで強制的に止めるような事態になっても何の説明もせず、さらに、どこから何%というはっきりした数値はまだこれから決めるらしいのだけれど、その他の税金も上げると発表した。政府予算が足りないから税金を上げればいいと、単純に考え実行するような政府のお陰で、こんな踏んだり蹴ったりの事態に見舞われていることを、ジウマに投票した人たちは今どう思っているのだろう?嘘と不正にまみれた無能なジウマと一緒に、ブラジルは奈落の底へとつながる坂を転げ落ち始めてしまったのかと、暗い気持ちになった。

2015年1月22日(木)

我が家は木造ではなくレンガでできているので、そのレンガの壁が夏の強い直射日光に焼かれて、家の中が暑くなるのを防ぐために、家の北側の車寄せにパーゴラ(日陰棚)を作るのが当初からの計画だった。でも作業をしてくれる約束のエディが何度頼んでも作業に戻ってきてくれないため、何年も放ったらかしの計画倒れの状態が続いている。この夏はクリスマス以降暑くなったものの、年明けから1週間くらいは毎日のように雨が降っていたので、何とかしのげていたけれど、ここ10日ばかりは2度ほどほんの少し雨が降っただけで、ほぼ毎日晴天が続き、これまでにない異常な暑さが続いている。午後になると室内の温度も31~2度になる。この日曜日など、1日中まったく風がなく、夜になっても外気温があまり下がらなかったため、昼間の日差しで焼かれたレンガの壁が夜になっても熱を発しているような状態で、扇風機をかけて横になっていても汗をかくという寝苦しい夜になった。それで、月曜日の朝起きるとすぐに、朝食も食べず、エドソンがパーゴラができた際に使うつもりで買っておいたネットを家の軒下にカーテンのように吊るす作業を始めた。

次の写真は、ネットを吊るし終えた家の北側の状態を、夕方になって撮ったもの。この時期、お昼を過ぎると家の中のカーテンをすべて閉めて外気温が室内に伝わらないようにしているのだけれど、さらに家の外にこのネットのカーテンがあると、午後から家の中で感じる戸外の日差しと熱気が多少緩和されるように感じた。とにかくこの異常な暑さをなんとかしのがなくてはならないので、こういう応急処置を思いつき実行してくれたエドソンに感謝。

2015年1月23日(金)

火曜日からお天気が崩れ、気温が下がるという予報通り、火曜日の夜雷雨があり、夜明け前くらいまでずっと降ったり止んだりを繰り返したため、気温が下がり、水曜日の朝は涼しく気持ちのいい朝になった。午後からはまた日差しが戻って暑くなり、西の空や北の空は明るく、レーダーサイトに雨雲は写っていなかったのに、午後4時前後から突然の雷雨になった。このような東から突然来る雷雨はちょっと質が悪いので、激しい雷が鳴っている間じゅうずっとヒヤヒヤしたのだけれど、何事もなく2時間ほどで収まってくれほっとした。次の写真は、この雷雨の際、比較的明るい西の空を向いて、居間の中から撮ったもの。普通だったら西からお天気が崩れるので、西の空がこんな風に明るいなんてことはないのだけれど、東から突然お天気が崩れる場合は、ここは土砂降りでも、西や北の空の雲の合間に青空が見えていることもある。

いつもは午後7時くらいになっても西日が強く、カーテンを閉めていてもダイニングルームが暑いため、なかなか夕飯という気分になれないのだけれど、水曜日は雷雨があったお陰で涼しくなったので、午後7時頃から夕飯を食べようとしていた。すると、また突然の東からの雷雨で、今度は雨だけでなく、ひょうが20分ほど激しく降り注いだ。1時間半ほどで嵐が通り過ぎた後、エドソンが畑を見に行き、畑のネットの上に溜まっていたひょうの写真を撮ってきてくれた。地面に落ちたひょうはすぐに溶けてしまったけれど、畑のネットの上にはあちこちにひょうが溜まっていたようだった。

このひょうが降った嵐のお陰で、気温がガクンと下がり、水曜日の夜は扇風機がいらないだけでなく、このところ使っていなかった肌掛けをかけないと肌寒いくらいだった。お陰で久しぶりによく眠れた。翌朝の木曜日、朝食後にはるとのお散歩に出ると、庭の木々の葉がたくさん地面に落ちていて、暴風とひょうのあばれぶりがはっきりと見て取れた。

次の写真は、ランドマークの木の側のパパイアの木、ひょうと暴風のせいで枝葉がたくさん折れ、ボロボロの無残な姿になっていた。木曜日の午前中の室内の気温はずっと22度前後で、戸外は曇り空で風もあったため、まるですっかり季節が変わってしまったように涼しい1日になった。今朝も曇り空で昨日同様に涼しい。でも、予報では明日あたりからまた暑さが戻ってくるというから、つかの間の涼しさなのかもしれない。

2015年1月24日(土)

以前、私がブラジルリポートを書いていた中国新聞のインターネットサイトの「海外リポート」に、同じくアルゼンチンからリポートを書いていた相川さんから、以下のようなメールが来た。彼女が関わったテレビ番組の紹介のようで、今のアルゼンチンがわかるおもしろそうな内容なので、ここに紹介することにした。テレビ東京の番組なので、関東地方以外の人たちには見ることができないのかもしれないけれど、番組のWEB SITEなどの情報もあるので、興味のある方はそちらでチェックしてみてください。

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いつもお世話になっております。来たる2015年1月26日(月)夜10時からテレビ東京「未来世紀ジパング」にてアルゼンチンが登場します。

【日経スペシャル~未来世紀ジパング~ 】
1/26(月)よる10時~ 放送(90分スペシャル)
テレビ東京のファミリー向け経済番組
「未来世紀ジパング」番組HPです。
http://www.tv-tokyo.co.jp./zipangu/
今回のテーマで、アルゼンチンが取り上げられます。

経済番組であるジパングという番組目線で、その国の現在を知ろうという 内容です.

史上八回目のデフォルト(テクニカルデフォルト)を経験したアルゼンチン、そして、ハゲタカファウンドとの戦い、人々の日常はどうなっいるか、の状況のもと、アルゼンチンで活躍、躍進している日本企業の皆様方に登場していただき、アルゼンチンの特徴をお見せしながら沸騰している現地経済と日本人の活躍を描いた、未来世紀ジパング アルゼンチン編が放送されます。

そのため今回は多くの日系企業の皆様に大変お世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。

今回の番組の前宣伝ビデオと説明が以下にあります
http://www.tv-tokyo.co.jp/zipangu/next/#section1

アルゼンチン関係をはじめラテンアメリカ関係者の方、是非ご覧ください。また、ご興味のある方にお知らせいただければ幸いです。

「主観的アルゼンチン ブエノスアイレス事情」アルゼンチンをはじめ、ラテンアメリカのいろいろについて主観的にお知らせ、語っています!
http://blog.livedoor.jp/tomokoar/

アルゼンチンをはじめ、ウルグアイ、チリ、パラグアイなどの撮影コーディネーション、スペイン語日本語通訳(同時、逐次)、各種翻訳はファニプロ ラテンアメリカにお任せください。
http://tomokoargentina.wix.com/funnyprolatinamerica

相川知子
TOMOKO
tomokoargentina@gmail.com

2015年1月25日(日)

ブラジルに来て以来、ほぼ6年近くブログに日々の生活を書き綴っているけれど、ブログサイトを引越しすることになり、金曜日に金土2日分のブログをアップした後、エドソンが引越し作業をしてくれ、土曜日の夕方、新しいサイトへの引越しが完了した。そして、これまでブラジルに来て以降もメールのやり取りのある人たちにブログサイト移動のお知らせを一斉メールで送った。メールアドレスが変わっていて送信先不明で送ったメールが戻って来てしまった人も数人いたけれど、まあ仕方がない。

次の写真は、水曜日の夜ひょうに襲われる前に撮っておいたランドマークの木の側のパパイアの木。この木にひとつ実がなったので試食したことは、以前紹介した。その同じ木にまたたくさん実がなっているので写真を撮ったのだけれど、この後、ひょうのために無残な姿になってしまったのが、23日にアップした写真。このパパイアとは別に、ランドマークの西側にもう1本ある小さ目のパパイアの木は、ランドマークの木の下で多少守られて、この木ほどボロボロにならずに済んでいた。こちらにも1つ実がなっているので、全部で10個以上実がなっていることになる。幸いひょうで実が落ちることはなかったけれど、これらがみんなちゃんと成長してくれるかどうか、ちょっと心配している。

さらに、このパパイアの木の側に、ねぎとトマトが生えてきたことも以前書いた。そのトマトの近況が次の写真。これはミニトマトではなく、普通サイズのトマトの木のようで、緑色の実がひとつなっている。そして、ランドマークの木から西に下りて行った道のさらに下に植えたジャカランダの木の足元にもトマトの木を発見。支え棒もないのに、風で倒れることもなくよく育っているとびっくり。2枚目の写真がそのトマトの木。まだこれも実が赤くなってはいないけれど、普通サイズのトマトの実が4つ5つなっている。この春畑に植えたトマトや、以前畑に植えていたトマトが枯れた後、自然に生えてきたミニトマトも含め、これらすべてが順調に赤くなれば、今年はトマトの豊作が期待できるかも?でも、水曜日に降ったひょうにずいぶん痛めつけられたようなので、こちらもちゃんと実が熟すまで元気でがんばれるかどうか?

2015年1月26日(月)

ニッケイ新聞に2015年新年特集として、興味深い解説記事三本が掲載されていたので、以下にそのサイトへのリンクをはってみる。これらを読むと、ブラジルという国の今の姿が見えてくるように思う。

『リオ五輪で抗議行動は起きるか?=W杯で大統領が罵倒された理由=階級間憎悪のメカニズム』 この記事のサイトは、こちらへ

『リオ五輪で抗議行動は起きるか?=「ゆがみ」を直す「ゆがみ」とは=PB疑惑次第で弾劾裁判も?!』 この記事のサイトは、こちらへ

『リオ五輪で抗議行動は起きるか?=不発に終わったW杯での抗議行動』 この記事のサイトは、こちらへ

2015年1月27日(火)

ランドマークの木の西側下の道沿いに植えた桜の木の並木のもう一段下がった位置に、セドリーニョを一列に植え、その後しばらくしてから、セドリーニョの間にユーカリの木の苗木を植えたのだけれど、成長の早いユーカリの木はセドリーニョを追い越して、今ではセドリーニョの背丈を優に2倍くらいに成長している。次の写真の左奥に見える木々が桜で、その右側、画面ほぼ中央に見える背の高い木々がユーカリの木。ユーカリの右側に少し背の低い木が見えるのがセドリーニョ。この写真では全部緑色で、ユーカリの木の間にセドリーニョがあっても見分けが付かないけれど、かろうじて一番手前のセドリーニョはそれとわかる。セドリーニョよりも背の低い道沿いの緑色の木々は、主にグアンドゥの豆の木。

このユーカリの木がどれほど背丈が伸びたかというのは、次の写真で確認できる。次の写真は、玄関を出たベランダから、ランドマークの左後ろの雑草低木のさらに後ろから頭を出しているユーカリの木々を撮ったもの。3~4本のユーカリの木のてっぺんがそれぞれ三角形に見えているのがわかるだろうか?以前はベランダからはユーカリの木は見えなかったのに、今でははっきりと見える。この画面の中央に写っているのは、ひょうで痛めつけられたパパイアの木。日曜日にはるのご飯を作ろうと思い、畑にアルメイラオンの葉を取りに行ったついでに、畑の野菜をくまなく見て回ったら、ほとんどの野菜にひょうで打たれた傷がついてた。ミニトマトもひょうが当たって傷ついた実がたくさんあった。

2015年1月28日(水)

家の南側の三角地帯に植えたグアプルブという木がどんどん成長して、グレヴィーリャを追い越すまでになっていたのに、先日の朝、台所の窓からふと見ると、以前はグレヴィーリャの木の列の間に2本のグアプルブの木が見えていたのに、左側の1本しか見えない。???どうしてだろう???と思っていたら、エドソンが見に行ってくれ、グアプルブの木が途中から折れてしまっているのを発見。どうやら先週火曜日と水曜日に立て続けに襲った激しい嵐で、その東からの暴風(つまりこの写真の木の後ろからの風)で折れてしまったらしかった。種から育てて、ずいぶん立派に育っていたのにとても残念。次の写真は、先月中旬に撮影したグアプルブ。

次の写真は、嵐の後で上部半分が折れてしまった現在のグアプルブ。残っている幹の部分だけでも3~4メートルの高さがあり、枝がいくつか残っているので、また復活して成長してくれるのか、このまま成長が止まってしまうのか、あるいは枯れてしまうのか、しばらく様子を見ないと何とも言えないねとエドソンと話している。がんばれ!グアプルブ!

2015年1月29日(木)

我が家の朝食で食べるパンを手作りし始めて久しい。昨年の日本への一時帰国から戻って、パンの形を小ぶりに丸くしてみたりしたのだけれど、どうもこの形だと中心部に焼きむらができるのか、食感がしっくりこないので、今度は長細い形にしてみた。するとこれが何だかいい感じで、最近はずっとこの形で作っている。そうしたら先日、焼き上がったパンを見てエドソンが、「最近パンの形がどんどん細長くなってきてるけど、そのうち野球のバットくらいの長さになるんじゃない?」とからかう。そうかなあ・・・?たまに成形の時に細長くなったりするけれど、今回のはそれほどでもないと思うけどなあ・・・

2015年1月30日(金)

先日、外ベランダ横のバラの花壇の足元の草取りをした後、新しい土を少し入れる作業をした。ここには7本のバラを植えていたのだけれど、1本は完全に枯れてしまい、新しく植えて1年以上経つ2本のバラの木もなかなか大きくならないし、植えてから年数が経ち大きくなっているバラの木も何回か枝を切ったりしたのだけれど、あまり元気がないので、新しく土を入れてみることにした。そして、このバラの木々の足元に入れようと思って貯めていたワインのコルク栓と、カスターニャ・ド・マラニョンの殻を入れてみたのだけれど、数がまだ全然足りなかった。ワインのコルク栓はここで暮らし始めてからずっと貯めていて、結構貯まっていると思っていたのだけれど、入れてみると右側4分の1くらいの分量でしかなく、この足元全体に行き渡らせるまでにはまだ何年もかかりそう。

2015年1月31日(土)

今月中旬に写真を掲載した際、まだ花がほとんど咲いていなかった庭のクアレズマは、だいぶ花開いてきて、今では家の中からでもはっきりと花が見えるようになった。次の写真は、ベランダから撮ったクアレズマ。

この水曜日に兄からメールで、28日の朝、母の意識がおかしくなり、救急車で病院に運ばれたと連絡があった。脳梗塞が疑われたけれど、検査の結果どこも異常はなく、血液中のナトリウムが不足しているようだということだったらしい。この知らせだけでは母の状況がよくわからず1日心配しながら思いを巡らせ、母の命がまだある間に直接お別れを言うために急いで帰国しようと考え始めていたら、翌朝のメールで、翌朝は意識と元気を取り戻していて、おしゃべりもできるようになり、退院してもいいことになったと連絡がありほっとした。母は、60代半ばになってから、自宅近くで脇見運転の若者の車にぶつけられる交通事故に遭ったのを皮切りに、クモ膜下出血で倒れたり、まだ父が生きている頃、入浴中に湯船の中で意識を失ったりして救急車のお世話になっているのだけれど、それらを含めて母が救急車で病院に搬送されたのは今回で5回目。その都度、がんばって治療を受けて元気に帰宅しているので、兄は「さすが不死身のお母さんです。恐れ入りました」とメールに書いていた。でも、介護施設でちゃんと栄養管理されたものを食べているのに血液中のナトリウムが不足していたり、突然意識がおかしくなるというのは、父の時と同様、体の耐用年数が終わりに近づいているんだろうなと思った。これからはいつ何があってもおかしくないのだと、これまで以上に実感した出来事だった。



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