Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2014年12月1日(月)

サンパウロ市在住のメル友の鎌谷さんが送ってくださった、小芋とこんにゃく芋の種芋を10月中旬畑に植えた。あれから一月半あまり経つ。これらの種芋を植えた次の日に種を蒔いた金時豆はすぐに芽を出して、元気に育っているのに、小芋の芽はひとつふたつしか出てこず。どうしてだろうと思っていた。その上、しばらくすると畑の畝にところどころ穴が開いていて、植えたはずの種芋が4つも消えてしまうという珍事があった。もぐらか、野ねずみか、野うさぎに食べられてしまったのだろうか?今まで畑の作物がこんな被害に遭うことはなかったので不思議でならない。次の写真は、元気に育っている金時豆の列。真ん中の柱を伝っている葉はカラのつる。2枚目の写真は、一番最初に芽を出して、今一番大きく成長している小芋の芽。これ以外にもつい最近芽を出したばかりの小さいものを合わせて、4つ5つ芽が出てきている。単に成長が遅いだけだったのかな?と思ってみたり・・・でも、蒔いた種がすべて芽を出した金時豆と違い、芽を出した小芋の方は植えた種芋の半分にも満たないのだから、成長が遅いだけでは説明がつかない。そして、金時豆と一緒に蒔いたオクラと枝豆も、芽を出しているのは蒔いた種の半分にも満たない。今年はどうも調子が良くない。気温が低い日が続くお天気の影響だろうか?

次の写真は、こんにゃく芋の芽。写真手前の芽が出てきたばかりのものは、何だか竹の芽のようだけれど、その奥のもう少し大きくなったものは、青い葉が出てきている。こんにゃく芋はつい最近までまったく芽が出てくる気配がなかったので、失敗だったのかなと思っていたのだけれど、今のところ4つほど芽が出てきている。これも芽を出した確率は半分弱ながら全敗は免れた。

2014年12月2日(火)

以下は、ニッケイ新聞2014年11月29日付け「コラム 樹海」からの転載。ルーラやジウマも直接関与していたという疑いが浮上している、あのペトロブラス疑惑に日系人が2人も関わっていたのかと、ちょっと驚いた。以前、アメリカーナの警察で仕事をしているアディネイから、日系人は普通のブラジル人に比べて犯罪を犯す人の比率がとても少ないと聞いたことがある。でも、不思議なことに、犯罪を犯す日系人は、普通のブラジル人犯罪者でもしないような凶悪犯罪に手を染めたりするとも聞いた。一線を越えてしまうと歯止めが効かなくなるのだろうか?ちなみにこの記事にあるネウマ・コダマという女性は白人との混血のようだけれど、キャメロン・ディアス似というのはちょっと違うのでは?と思った。ちなみにこの記事の中のピアーダというのは、ジョークのこと。

日系キャメロン・ディアスが発明したパンティの新しい使い方

『「ブラジルではパンティの新しい使い方が発明された」とピアーダのネタにされている行為をした日系女性がいる。伯字紙報道によれば、ネウマ・コダマ容疑者(47)は3月15日にイタリアのミラン行き飛行機に搭乗する際、20万ユーロもの現金をパンティなどの衣服に隠していた▼彼女は今話題のペトロブラス疑惑で、資金洗浄の中心を担ったと言われるアルベルト・ユセフ容疑者の元恋人、かつては「キャメロン・ディアス」「アンジェリーナ・ジョリー」とのあだ名を持っていたと記事にある。連邦警察からはユセフ容疑者の重要パートナーとして見られ、グローボ紙にも「伯国4大ドレイロの一人」と大物扱いされている▼ドレイロとは犯罪で得た資金を、架空口座等を転々とさせるなどして出所不明にし、再び世間で使えるように処理する資金洗浄業者だ▼グローボ紙電子版5月1日版によれば、彼女はサントアンドレー市で両替業「アヴァイ・カンビオ・エ・ツリズモ」社(8年前に閉鎖)を営んでいた。連警は「月平均400万レを洗浄」と疑っている▼ユセフ容疑者の仲間に、もう一人日系人がいる。建設会社からの〃賄賂880万レにノッタ・フィスカル(領収書)を切った〃という妙な形で有名になった仲村渠シンコ容疑者(男性)だ▼ユセフ容疑者は幼少期を北パラナの日系集団地ロンドリーナでパステルを売って過ごしたと言うから、どこかで日系人と愛称がいいようだ。今まで犯罪者が少ないことで定評があった日系だが、実は知能犯の右腕にはうってつけかも。犯罪でも〃伯人並み〃時代の幕開けか。あとは日系政治家の名が出ないことを祈る。(深)』

2014年12月3日(水)

ここ何ヶ月か、他の店ではあったりなかったりしても、ボトゥカトゥのドナ・マリナには必ずイチゴがある。しかも他の店よりも値段が安く(1パック300グラムほどで、3・29レアル=約150円)、その上新鮮で品がいい。それで、ドナ・マリナに行くといつもイチゴを買って帰ることにしている。イチゴを生で食べるだけでは芸がないので、以前このイチゴでババロアを作ったら、思いの外エドソンに好評で、喜んでくれたので、このところ、何度も何度も繰り返し作っている。

先週の金曜日にパオン・ジ・アスーカーに行ったら、チェリー(cereja=セレージャ)があったので、1パック(500グラム)買った。よく見るとチリからの輸入品で、値段は22・90レアル(約1100円)だった。これだけの金額を出せば牛肉のステーキ肉が1キロ買える。他の果物に比べて高いとは思っていたけれど、あらためて値段を確認してドッキリ。こんな値段では何度も買えないけれど、チェリーが出回る時期は短いので、1年に1度の贅沢と自分を納得させて、「えいっ!やっ!」と清水の舞台から飛び降りるような気分で購入。

2014年12月4日(木)

次の写真は、この火曜日に撮影した金時豆の花。まだ咲き始めたばかりなので、2株くらいしか花をつけていないけれど、スイートピーのような感じの可憐な花が何とも可愛い。

日本とブラジルの距離は物理的にも精神的にも遠いなあとよく思うけれど、ニッケイ新聞2014年11月15日付け、日伯コンサル奮闘日記「第5回 東京とサンパウロのキョリは拡がっている?」は、まさに、このことについて言っていて、おもしろく読んだ。この記事のサイトは、こちらへ

2014年12月5日(金)

先日、インターネット上でおもしろい情報を目にした。2014年11月にオーストラリアで開催されたG20で各国首脳が宿泊したホテルの宿泊料金を紹介したものだった。以下がその上位5人。
1位:米国オバマ大統領、マリオットホテルのプレジデンシャルスイート、1泊約25万2000円
2位:中国習近平主席、スタンフォードプラザのスイート、1泊約17万1000円
3位:イギリスキャメロン首相、トレジャリーホテル、1泊約12万7000円
4位:ロシアプーチン大統領、ヒルトンホテルのキングスイート、1泊約6万2000円
5位:オーストラリアアボット首相、リッジスのデラックスキングスイート、1泊約5万円
そして、20ヶ国中宿泊料金が一番安かった首脳は、日本の安倍首相で、その宿泊先はノボテルの、1泊約2万円の部屋だったのだとか。

これと比較して、東京都知事の舛添氏が2泊3日で韓国を訪問した際に宿泊したホテルは、ロッテホテル新館のコーナースイートで、1泊約7万1000円の部屋だったとか。都条例の規定によれば、知事の出張の際の宿泊料上限は2万6900円で、「担当部局が承認すれば上限を越えても良い」とあるらしいのだけれど、それにしても規定を越え過ぎでは?と思った。しかもこの舛添氏の率いた11人の訪韓団にかかった経費は合計1,007万円だったともあった。以前、石原氏が東京都知事をしていた頃、小笠原諸島の自然を守るために、ガラパゴスだったかを視察した際の経費がかかり過ぎだとマスコミが騒いでいたように思うけれど、必要もない韓国訪問を行って、2泊3日で1千万以上の経費を使ったことへの批判がないのはダブルスタンダードでは?しかも、2018年の韓国平昌冬季五輪が、韓国独自で開催できそうにない状況になってきていて、日本との共催説が出てきていたり、2020年の東京五輪の経費を抑えることばかり言っている舛添氏は、ひょっとしてそれを理由に、東京五輪の日中韓による三ヶ国共催を目論んでいるのではないかという懸念まで出てきている昨今、東京はとんでもない都知事を選んでしまったものだと思う今日この頃。

2014年12月6日(土)

最近、気温が低めで雨もよく降る。この木曜日は1日冷たい南風が吹き、雨が降り続いた。気温がどんどん下がり、昨日も今日も寒いので長袖Tシャツの上からカーディガンを着込んでいるような状態。ずっと厚い雲に被われて、たまに一瞬日が差したりする程度。気温は低く夏らしくはないけれど、それでも家の外は花盛りの季節になっている。庭の桜の木の側にエディが数年前に置いた壊れた作業用のカートは、冬の間草が枯れ、ちょっとみすぼらしいのだけれど、夏になるといつの間にか青々とした草が生えてきて、花が咲く。今年も大きな葉のクローバーが生えてきて、今ピンクの花を咲かせている。

そして、同じく冬の間は完全に姿を消すのに、この時期になると必ず芽を出す植物2株が、今年もハイビスカスガーデンの横で芽を出した。次の写真はその内の大きい方の1株。いつもは花を咲かせてから葉が出てくるのだけれど、今年は花が咲いたのかどうか気がつかず、今月始めに足元のアメンドインに埋もれるような恰好で、葉が出てきていることにようやく気づいた。律儀に今年も逢いにきてくれたんだねえ。ありがとう。

2014年12月7日(日)

以下は、ニッケイ新聞2014年12月4日付け「大耳小耳」からの転載。

『日本祭りで農林水産省が検討している和食試食会では大混雑が予想され、その場のみの盛り上がりで終わってしまうことを、現場をよく知る本橋県連会長は危惧した。それより、安倍首相来伯時に聖州と技術提携を結んだ潜水艇「しんかい」についてなど、日本の技術と伯国の繋がりが示されるものの展示を、と本橋会長は逆提案したとか。でも、農林水産省がヘソを曲げて出展を取りやめることを恐れた外務省筋から叱られ、その案を取り下げたとの経緯も代表者会議で報告された。「思ったら言う」のがブラジル式。ヘソを曲げずに聞き流す〃国際感覚〃が欲しいところ?!』

2014年12月8日(月)

昨夜ベッドに入りしばらくすると、ほんの短時間雨が降り、はげしい雷が鳴り、また停電してしまった。ちょうど2週間前に雷で停電になったばかりなのに、こう頻繁に雷の被害が出るのは本当に困ったものだ。ただ、前回はほぼ丸1日停電が続いたけれど、今回は半日ほどで復旧したので助かった。次の写真は、うちの電気の状態を調べに来てくれた電力会社の修理の人たち。確認を終えて帰るところをパチリ。

異常気象により自然には振り回されることが多いこの頃だけれど、一方で今、我が家の東側の庭は花盛りでもある。以下の写真は、順に、フンショ、アモー・アガハジーニョ、サブゲイロ、ネムの花、そして、ガーデングレヴィーリャ。この庭で今花がないのは、中央に植えて大きくなったヒマラヤ桜だけ。これらの植物の中で、フンショだけはここにわざわざ植えたものではなく、野菜畑で枯れたものを引き抜いて、ブロック塀の際に捨てたものから種がこぼれ落ちたのか、芽を出し息を吹き返し成長したもの。これまでにも何度も同じことを書いているけれど、育てようとしても育たない植物もたくさんあるのに、育てるつもりはなく、捨てた実などから自然に芽が出てきてしまうことが結構ある。自然というのは不思議なものだなあと思う。

2014年12月9日(火)

先週、ジェラウドが久しぶりにやって来て、つる性の植物の鉢をひとつ持ってきてくれた。まるでワックスでできた造花のような花が咲いている不思議な植物で、フロー・ジ・セーラ(flor de cera)という名前だという。この植物はとてもデリケートで、どのように育てたり増やしたりするかをいろいろと教えてくれた。その後、エドソンがジェラウドをジャタイの巣箱の所に案内したら、パラカンビのお母さんからもらって、ジャタイの巣箱の横に置いて育てていた植物がたくさん花をつけていて、ジェラウドにこれは同じフロー・ジ・セーラだと言われて初めて、パラカンビのお母さんからもらった植物が同じフロー・ジ・セーラ で、現在花を咲かせていることに気づく始末。以下の写真が、ジェラウドにもらったフロー・ジ・セーラとその花の部分をアップで撮ったもの。下を向いて咲いているので、下の方から撮ってみた。

以下の写真は、ジャタイの巣箱の横で、垂れ下がったつるの先の方で4つ花をつけている、パラカンビのお母さんからもらったフロー・ジ・セーラ。2枚目は、4つの花の内の2つをアップで撮ってみた。上のピンク色の花の方はこれから下の白と赤の色に変わって行くのだろうと思う。

2014年12月10日(水)

今年7月の中旬、ランドマークの木の近くのパパイアの木に実がひとつなっているのを発見したことをこのブログで書いたけれど、そのパパイアの実、あれから5ヶ月ほど経つので、少し大きくなっている。でもこれって普通の成長速度なのだろうか?それともこの木は特に遅いのだろうか?パパイアというのは何ヶ月くらいで収穫可能になるのだろう?1枚目の写真は、その木から少し離れて木の全体像を撮ったもの。高さが2メートルくらいになっている。2枚目は、ゆっくりと成長している実。そして最後の写真は、今回新たに見つけたパパイアの花。パパイアの実を見ながら木を観察していたら、この実の少し上に3つ4つ花が咲いるのを発見したので、写真に撮ってみた。パパイアの実というのは枝にできるのではなく、木の中心の幹に花をつけ、実をつけるんだ。

2014年12月11日(木)

はるは居間の横のドアの所で外を眺めていることがよくある。外に小鳥がよく来るのだけれど、その音に反応して尻尾を振りながらワンワンと吠えたりする。先日の日曜日のお昼前に、またドアの所でワンワンと吠えるので、エドソンが「何がいるの?」と、ドアの所に来てはると一緒になって、外を眺めていたのでふたりの後ろ姿を写真に撮ってみた。このドアには網戸の手前に取り外しのできる突っ張り棒でのれんを掛けているので、立ったままだと外が見えないため、エドソンもはるの視線と同じ高さになって、床に這いつくばって外を眺めている。

2014年12月12日(金)

以下は、ニッケイ新聞2014年12月10日付け「コラム 樹海」からの転載。十数年前、アメリカでエンロンというエネルギー大企業での不正が発覚し、アメリカ史上最大の企業破綻をしたことは記憶に新しいけれど、このブラジルのペトロブラスの不正疑惑は、エンロンの不正をずっと上回るものだと言われている。エンロンは私企業だったけれど、ペトロブラスは国営企業。国営企業がいろいろな所から訴えられたり、破綻したら、どういうことになるのだろう?ジウマ政権(その前のルーラ政権も)と労働者党の罪は重い。

モーロ判事は〃正義の味方〃か

『「セルジオ・モーロ」の名に聞き覚えのある人も多いだろう。100億レアル(約4679億円)もの公金横領を暴いて今話題のペトロブラス(PB)疑惑を捜査するラバ・ジャット作戦の若き指揮官、クリチーバ連邦裁判所の判事だ。〃今年の国民的英雄〃とまで書く新聞もある▼パラナ州議会サイト11月17日付によれば、同判事はパラナ州マリンガ市生まれの41歳。同市の州立大学(UEM)法学部を卒業後、博士号をとり、ハーバード大学留学を経て、パラナ連邦大学教授も兼任。PB疑惑で〃必殺技〃となっている司法取引「減刑付き供述」の発祥の地米国で学んだ訳だ。03~07年に97人を違法送金で有罪にしたバネスタード事件で判事として頭角を現す。その97人の一人がPB疑惑の中心人物アルベルト・ユセフ被告で、10年越しの〃宿敵〃のような二人の関係だ▼与党連邦議員が今件を自分たちの根拠地ブラジリアへ移管しようとするのをひたすら拒み、いずれ首都に潜む巨悪を裁く段階になった時に突き付けるよう、「減刑付き供述」を駆使して圧倒的な証拠集めをしているように見える。その姿には、どこか孤高のヒーロー的雰囲気が漂う▼かと思えば政治批評サイト12月6日付に「モーロ判事の妻ロザンジェラは弁護士で、ベット・リッシャ州知事(PSDB)の補佐官と仕事をしている」との記述も気にかかる。最大野党PSDBといえば聖州、ミナス州が本拠地と見られがちだが、パラナ州もPSDB王国だ。だからクリチーバで証拠固めを―との政治力が裏で働いているのであれば、それはそれで不気味な動きだ。(深)』

2014年12月13日(土)

ニッケイ新聞に週に一度掲載される「日伯コンサル奮闘日記」というのがとてもおもしろい。ブラジルにおけるビジネスに焦点を当てて書かれている記事なのだけれど、これらを読むと、ブラジルのことがとてもよくわかる。以下に、2014年11月29日付けの記事を転載してみる。

第7回 ブラジルで儲けるとはどういうことか? ②

前回のコラムでも書いたが、ブラジル人はいかに税金、労働賃金、家賃を最小限に抑えるかを考えながら商売をしている。特に物価が高いリオ・デ・ジャネイロでは尚更だ。そんなリオで家賃を払わずに堂々と営業をしている人たちがいる。

リオの朝は気持ちいいので、日頃運動をしない私でも早起きをしてランニングをしたりするが、フラメンゴ、ボタフォゴ、コパカバーナ、イパネマの各海岸にはどのビーチ沿いの舗道にもランニング専用のレーンがあり、毎日多くの人がランニング、ウォーキング、サイクリングなどをしている。

そんなビーチに、昔はなかったテントがいくつか建っているのを発見した。テントの中を覗いてみると、体力測定やトレーナーみたいにトレーニングのメニュー作りなどのお手伝いをしている人たちがいた。ちゃんとした会社になっていて、テントにはURLが大きく書かれ、立派なホームページもある。

どうやら、ビーチ沿いを毎日ランニングしている人たちをターゲットに、プライベートトレイナーのようなことをしているらしい。勝手にテントを建てているのではと思い、役所に聞いてみたところ、ちゃんと届け出ていて、役所の担当者が認めたところだけに許可を与えているとのこと。

では、スペース費はいくらか聞いたところ、なんと無料で貸しているらしい。サービス会社に連絡をすると、おおよそ月に50レアル(2250円)から100レアル(4500円)を取って、トレーニングメニュー作りや、簡単なトレーニング機器の貸し出しをしている。テントを張って、少しのトレーニング用器具を買って置いておくだけなので設備投資もわずかであり、会員を何百人か集めれば、良いビジネスになる。

リオのビーチにはさらにその上を行く人たちもいる。リオのホテルでは、夏の書き入れ時に多くの従業員が辞めて、夏が終わるとまた戻って来るので大変困っているらしい。なぜかと言うと、夏の間はビーチで、ビーチチェアやパラソルのレンタルの商売を自分でやった方が実入りが良いので、そちらに行ってしまうらしい。

レンタルチェアとパラソルだけなので、元手はせいぜい両方で1万円前後。10セットで10万円。それらを毎日1セット2500円程度で貸し出す。ブラジルの夏は11月からせいぜい3月までなので、5カ月で毎土日に10セット貸し出すと、125万円の売上げ。平日も加え、1日2回転する日もあることを考えれば、ざっと200万円ぐらいにはなりそうだ。

彼らはどんなにがんばって1年間ホテルで働いても、200万円は稼げない。さらに、初期投資の10万円を出せない人たちを集めて、胴元をやっている人もいる。30人程度売り子を集めれば、日本円で年間数千万円の稼ぎになり、初期投資は1年目だけなので、数年やれば豪邸が建つ。

もちろん、領収書もない現金商売で事務所も不要なので、税金も家賃も払っていないだろう。良くビーチを見てみると、ココナッツジュース売り、アイスクリーム売り、タオル売り、お土産物売りなど、ビーチ沿いに豪邸を建てた人がたくさんいそうだ。

当然、外資系企業であるわれわれがそのような商売は出来ないけれど、ブラジルにはビジネスチャンスはたくさんあり、各分野でまだまだ隙間や手のついていないニッチな市場はいっぱいある。日本で行き詰まっている若者は、ブラジルで一旗挙げてみては?

2014年12月14日(日)

上の写真は、ペトロポリスの安見さんのお宅で今咲き誇っているアカシアの花。高い木のテッペンで咲いているので、遠くから望遠で撮ったものだそうだ。アカシアというのは、安見さんが言われるように、「中の島ブルース」とか「アカシアの雨がやむとき」とかいう歌で、名前は私も知っていたけれど、実際にどんな花が咲くのか知らなかった。この写真で初めてアカシアの花を見た。小さな可愛い花なんだなあ・・・。ちなみに、安見さんのカラオケ十八番は「中の島ブルース」なのだとか。パウブラジルの木の時もそうだったけれど、安見さんはいつもそれらの木にまつわる思い出や体験談を話してくださるので、とても楽しい。以下がそのアカシアにまつわるお話。この中のポートアレグレというのは、ブラジル最南部の州、ヒオ・グランジ・ド・スーウ州の州都。

『1970年代中東戦争勃発、石油価格高騰、当時ブラジルは石油を輸入に頼っていたので外貨が不足し、経済危機に陥りました。我が社の主流製品は石油の元となる重油を燃料とするボイラを生産していましたので、一気に重油焚きボイラの需要がなくなり代替燃料を使うボイラの開発に追われました。このため薪等固形物燃料の市場調査でブラジル中を歩きました。

その中の一つ、ポートアレグレ近郊は皮革産業が盛んで、皮のナメシ工場が沢山あります。皮のナメシには、アカシアの皮に含まれるタンニンが必要で、アカシアの植林が盛んです。皮をむいて、残った丸太はボイラ用燃料に使っていました。そこで初めてアカシアの木を見ました。

苗木を一本持ち帰り我が家に植えました。アカシアはペトロポリスの涼しい気候に合っているのかすくすくと伸び今では大木になって、毎年この時期に黄色い花を咲かせています』

2014年12月15日(月)

先週は雨、雨、雨の1週間だった。1日中ずっと降り続くわけではないのだけれど、午前と午後の2度雨が降る日が多かった。一番よく降ったのは13日の土曜日で、前の晩から降り始めた雨が、翌日のお昼過ぎまでしっかり降り続き、一旦止んだのだけれど、午後遅くからまた小雨になるという1日だった。パーディーニョに来て暮らし始めた最初の夏は雨が多く、パーディーニョの町の真ん中を流れる川の側にある小学校が水に浸かったり、カステロ・ブランコからパーディーニョに上がってくる道路の数ヶ所で土砂崩れがあったりと、あちこちで被害が出たけれど、この夏はどんな夏になるのだろう?次の写真は、日曜日の朝ベランダから南西の方角を向いて撮ったもの。濃い霧に包まれて、うちの敷地内の木々は何とか見えるけれど、その先はまったく見えない。外に出ると、この霧で眼鏡や髪が濡れるような状態。でも、雨は降っていなかったので、はるとのお散歩はできた。そして、午後になりようやく厚い雲の間から少し太陽が顔を出し、久々に雨が1滴も降らない1日になった。今朝も相変わらず気温が低いけれど、雨は降っていない。ときどき青空がのぞく。2枚目の写真は、1枚目とほぼ同じアングルで今朝撮影したもの。

2014年12月16日(火)

家の南側の三角地帯の柵沿いに植えたグレヴィーリャの間に、グアプルブという木の種を4つエドソンが蒔いてから2年くらいになるだろうか?その内の1つの種は何者かに食べられてしまい芽が出ず、芽が出たのは3つ。その3つ出た芽の内の1つは何度も虫に葉を食べられ、なかなか大きくなれないでいるけれど、残りの2つは元気に育って、今では3~4メートルはあるグレヴィーリャと同じくらいの高さになっている。先週、例によってはるとのお散歩に出て、帰りに家に向かって歩いていたら、グレヴィーリャの間にグアプルブの木が立っているのが目に飛び込んできて、いつの間にかこんなに大きくなっていることに初めて気づいた。次の写真の両側がグレヴィーリャで、その真ん中で枝を広げているのがグアプルブ。こんなに大きくなっているけれど、これでもまだ成長途上なので、来年はグレヴィーリャを追い越して、さらに背丈が伸びていることだろうと思う。

2014年12月17日(水)

9月の中旬、イグアスの滝から戻ってから、家の北側の窓枠にマリンボンドが巣を作っていたのを撃退したのだけれど、その後、生き残ったこの同じグループの蜂なのか、家の南東側に回って、エドソンのワークショップの壁のガラスレンガのところで巣作りを始めた。ここは高すぎて簡単には届かないし、下手をするとまた刺されたりするかもしれないので、仕方なく放っておいたら巨大な巣が出来上がった。次の1枚目の写真がそれ。2枚目の写真は、同じくマリンボンドの巣で、家の南側の同じくエドソンのワークショップの窓枠のところにできた別のグループの巣。これもかなり大きい。その他にも2箇所、ガレージのドア枠と家の北側の窓枠のところに巣を作り始めていたのは、簡単に手の届く所だったので、葉切りアリ用の殺虫剤を少し噴霧して撃退した。この殺虫剤はすぐには蜂を殺さないのだけれど、薬を被って巣に戻ると、その薬が巣全体を汚染して、巣が全滅するというもので、巣は放棄され、二度とその巣に蜂が戻ってくることはないという効果を発揮する。

2014年12月18日(木)

以前、はるがカウンターテーブルの前に置いたイスの足元に、うまい具合に乗ってバランスを取ることがよくあったけれど、その後、体が大きくなったからなのかやらなくなった。そうしたら、この火曜日の夕方、このカウンターテーブルをはさんでエドソンとふたりで話していたら、エドソンの足元でゴソゴソし始め、久しぶりにイスに乗ったので、写真に撮ってみた。1枚目は、はるが乗った状態でエドソンがイスを持ち上げて動かしてもビクともせず、バランスを取っている状態。2枚目は、イスを床に下ろしてから撮影したもの。なあんだ、今でもできるんじゃない。ここしばらくは飽きていただけなのかな?

2014年12月19日(金)

外階段脇の箱庭が草ボウボウなので、水曜日の午後、草取りをしていたら、シダの茂みの中から卵がふたつ入った小鳥の巣が出てきた。「あらら・・・ごめんなさい」こんなところに小鳥が巣を作っているなんて思いもよらなかった。こんなに露出してしまっては、親鳥が巣を放棄してしまうかもしれない。この巣を見つけたので、シダをこれ以上切り取るのは止めて、草取りも止めた。一旦家の中に入って別の用事を済ませてから、この写真を撮りに外に出てみると、チコチコの親鳥が巣に戻っていた。でも、私が出てきたので、親鳥はまた飛んでいってしまった。草ボウボウという小鳥には願ってもない環境だったのが、巣がこんなに露出してしまい、環境が悪くなったので、ヒナがかえるまでちゃんと卵を抱き続けてくれるかどうか?それで、巣の背後のシダを何本も折って、巣を被うようにして、巣が外敵からはっきりと見えないようにしたけれど、少々心配になってきた。

2014年12月20日(土)

以下は、ニッケイ新聞2014年12月18日付け「コラム 樹海」からの転載。私は在外選挙人登録をしていないので、今回の衆議院選挙への投票もしていない。以前、ちょっと調べてみたことがあるけれど、手続きが複雑で手間がかかる印象だった。サンパウロ州内に住んでいるので、手続きや投票にはサンパウロの総領事館まで行かなければならないのだけれど、ここからエドソンとふたりで(ひとりではいまだに遠出はできないので)サンパウロまで往復するのは、飲まず食わずの強行軍でも、時間(移動だけで片道3時間前後)とお金(往復200レアル前後、日本円に換算すると約1万円だけれど、ここの物価の感覚では2万円。これだけ出せばほぼ2週間分の食料が買える)がかかって大変。日本への郵便投票が可能と言っても、日本との1往復半のやり取りは、この記事にあるような3週間では無理。ここはサンパウロ市内ではなく、サンパウロから200キロも離れた田舎町なので郵便事情があまり良くなく、日本からのEMS(海外書留速達)でも1週間では届かない。そういうわけなので、普通郵便のやり取りだと、1月半はかかると思う。この記事が言うように、インターネット投票が無理でも、在外公館との郵便による投票を可能にしてもらえれば、私も投票可能になるかもしれないけれど、現状では負担が大きすぎてとても無理。ちなみに、サンパウロ州の人口は4404万で、面積は約25万㎢。一方、東京都が人口約1339万人で面積は2188㎢。サンパウロ市の人口が1132万人で、面積が1523㎢なので、東京都はサンパウロ市と比較するとちょうどいい感じだと、日伯コンサル奮闘記にあった。そして、関東地方の人口が4116万人で、面積が約3万2424㎢なので、サンパウロ州は関東とほぼ同じ人口ということになるけれど、面積は10倍(本州と四国を足したぐらい)。そんな広い所で投票可能な場所がひとつだけというのは、なかなか不便。

『14日にあった衆院選の投開票の結果、投票率は52・7%と戦後最低を記録した。国外では、有権者数10万5836人中、投票したのは19・97%の2万1138人だった(総務省統計)。これでも国内の投票率の2分の1以下だが、実際、在留邦人は125万8263人もいるので、わずか1・6%しか投票しなかった計算になる▼当地でも昨日報じた通り、在外選挙人登録者1万6000人中、投票したのは6%の958人とやはり微々たるもの。「どこに投票しても同じ」という一種の諦念が日本国民全体にあるとはいえ、祖国日本を想い、絶えず動向を注視している移民が多い当地において、この数字は少々低すぎる印象だ▼問題の所在は、一つに投票所の少なさがある。たとえば在ベレン領事事務所は4州が管轄下に置かれているが、投票所は同事務所のみ。日本ですら投票のために県をまたごうとは思わないだろうから、ましてや国土が日本の22・5倍もあるブラジルで、である▼高齢になると外出が億劫になるし、一人で出歩くのも物騒だ。自宅でインターネット投票ができれば理想的だが、それが無理なら、せめて在外公館との郵送によるやり取りで投票出来るようにならないものだろうか。現行の制度だと郵便投票には日本と1往復半のやり取りが必要なので、3週間はかかる。手続きに手間取ると、投票を前にして踏み留まってしまう▼2000年に在外選挙が始まったものの、実際に投票するのが全在留邦人の2%にも満たないではもったいない。格式ばった手続きよりも、各国や地域の状況にあった、有権者が投票しやすい制度作りを進めてほしい。(阿)』

2014年12月21日(日)

今年はエリカがブライアンを出産して、しばらく産休を取り、最近仕事に戻ったばかりなので、クリスマスにお休みを取ることができないので、今年はパラカンビからお母さんとエリカ夫婦はうちに来れないと言っていたのだけれど、先月末、クリスマスの前に週末をはさんで、駆け足で行くことにしたと連絡があった。しかも、直前になってリオデジャネイロ州の北にあるエスピリト・サント州在住の従姉妹のエジヴァニと彼女の22歳になる息子も一緒に来ることになったと追加の連絡もあった。ちょっと大人数だけれど、まあとにかく、エドソンのたったひとりの血のつながった甥っ子のブライアンにようやく会えることになり、喜んでいる。それで、みんなにクリスマスプレゼントを買って用意した。私たちからエリカに、私たちからデニウソンに、エドソンからブライアンに、私からブライアンに、はるからブライアンに、エドソンからお母さんに、私からお母さんに、エドソンから私に、私からエドソンに、そして、私たちからはるに、しめて10品のプレゼントを用意した。

エドソンから私へのクリスマスプレゼントは、今年の初めにお鍋のセットを買ってもらったので、当分なしという約束をしていたのだけれど、みんなが集まってプレゼント交換するのに、エドソンから私へのプレゼントがないというのはよくないからと言って、プレゼントを買ってくれた。ラッキー!お店によって、ギフト用に袋に入れてリボンをサービスで付けてくれるところもあるけれど、そういうことをしてくれない店で買ったものは、包装紙を買ってきて、家でラッピングした。ただし、はるへのプレゼントは新しいベッドとタオルなので、大きすぎてラッピングはなし。そして、従姉妹とその息子さんには、急だったので、家にあったmade in Japanの小さな品物をプレゼントすることにした。それなのに、土曜日の夕方一行が到着すると、お母さんと従姉妹の息子さんは来ておらず、ちょっとがっかり。

2014年12月22日(月)

土曜日の夕方無事に到着したエリカたちは、引っ越して来たのかと思うほどの大荷物を車から下ろして、下の部屋に移動させた。その間、私が上の居間でブライアンのお守りをしていたのだけれど、はるがいつも以上に大興奮で騒ぐので困った。しばらくして、ブライアンをソファーに下ろして座らせようとしたら、はるがソファーに飛び乗ってきたので、ブライアンが驚いて泣き出してしまった。はるはこれまでソファーに飛び乗るようなことをしたことはなかったのだけれど、ブライアンによほど興味を持ったようだった。荷物の移動が済んで、上に上がってきたみんなとしばらくおしゃべりをしてから、それぞれシャワーを浴びてさっぱりしている間に、夕飯の支度をした。そして、8時を過ぎてゆっくりと食卓を囲んだ。次の写真は、大人の夕食の前にエリカがブライアンに食事を食べさせているところ。側に立っているのは従姉妹のエジヴァニ。

私たちが食事をしている間、はるには例によってケージの中で待ってもらっているところ。でも、いつになく大勢で、しかもとても気になるブライアンまで側にいて、とても落ち着かない様子。

次の写真は、みんなで食卓を囲んで夕食を食べているところ。メニューはジャガイモとハムのグラタンと、しいたけとベーコンのクリームソーススパゲティ。

2014年12月23日(火)

一夜明け、月曜日の朝、例によって大人たちよりも先に食事を終えて満足そうなブライアンをパチリ。

そして、私たちの朝食。エリカたちがこちらに来る途中で買ったというクリーミーなとうもろこしのケーキもいただいた。デニウソンは食べ物の好き嫌いが多く、例えば果物では、パパイアは嫌いとか言う人なのだけれど、今回用意した果物(メロン、いちご、ぶどう)に嫌いなものはなかったようで、一通り取って食べてくれた。

次の写真は、朝食を終えて、居間でくつろいでいるみんな。カメラを向けたら、ソファーの上のブライアンを支えているエジヴァニはブライアンの後ろに隠れてしまった。

次の写真は、クリスマスツリーの側に置いたプレゼントの山。本当なら25日の朝、プレゼント交換するところなのだけれど、エリカたちは23日に帰ってしまうので、21日の日曜日の朝、食事が終わってから行った。このプレゼント交換は、いつも結構盛り上がるので楽しい。

プレゼント交換が終わり、はるのために買った新しいベッドにはるを入れてみているエドソン。この四角いベッドは上部を持ち上げてキューブ型にすることもできる。2枚目の写真は、上部を完全に持ち上げないままで、中にはるを入れてサンドイッチにしてみたりと、いろいろ試しているところ。これまで使っていたベッドは昼間用として使い、新しいものは寝室に置いて、夜用として使う予定。はるがこの新しいベッドを気に入ってくれたようで良かった。

ブライアンが被っている帽子は、はるからブライアンへのプレゼント。大きさがぴったりだった。

プレゼント交換の後は、みんなでお散歩に出かけることになり、外に出たエリカとブライアンが居間の窓から部屋の中をのぞいていたので、パチリ。ブライアンが手に持っているのは、プレゼントが入っていた袋で、触るとガサゴソ音がするので好きらしく、ずっと手に持って遊んでいた。

果樹園の側で、大きくなったグアンドゥの豆の木を見ながらおしゃべりしているみんな。もちろんはるも一緒で、エドソンの足元にいる。

果樹園からさらに下りて、ジャタイの巣箱のところまで来ると、おもしろい花をつけた木があったので、その花の写真を撮ってみた。この木は私たちが植えたものではなく、元からここにあって、ブラキアーリアを取り除いた後、大きくなったもの。

丘の上まで上がったところで、みんなをパチリ。午前中は、曇りがちで結構強い風が吹いて涼しかったけれど、午後から晴れて暑くなった。

2014年12月24日(水)

次の写真は、プレゼント交換で、私とエドソンの間で交換したもの(左側の青いシャツ2枚)を含め、私たちがもらったプレゼントの数々。エドソンのお母さんは来なかったのだけれど、お母さんから私たちへのプレゼントもエリカが持ってきてくれていた。2枚目の写真は、私たちからエリカの家族3人へのプレゼントを広げて撮影したもの。写真を撮った後、私たちが買った衣料品は全て青色だったことに気づき、エドソンと笑ってしまった。そして、お昼前から夕方まで、エドソンがみんなを昼食と買い物に連れ出している間に、私ははるとお留守番をしながら、夕食の支度をした。

次の写真は、21日(日)夜のクリスマスディナー。メニューは、チェスターと呼ばれる種類の鶏の丸焼き、レタス+ルッコラ+トマトのサラダ、ジャガイモ+ハム+ルッコラのサラダ、きゅうり+わかめ+カニカマの酢の物、そして、ガーリックライス。デザートはエドソンが、ティラミスを食べたことのないみんなにティラミスを食べさせたいということで、ティラミスを作った。ちなみに、このチェスターは何キロだったか確認し忘れたけれど、特別大きくも小さくもない標準サイズで、値段は52.14レアル(約2500円)だった。

夕食後、ようやく相手をしてもらえてはしゃいでいるはる。エリカに飛びついてじゃれるはるにエリカが悲鳴をあげているところ。

2014年12月25日(木)

22日は月曜日で、エドソンは普通に仕事をしなければならなかった。それで、パラカンビのシチオに植える花や木の苗を買いたいというエリカの希望で、朝食の後、私がみんなをボトゥカトゥの植木屋さんに案内した。その後2~3箇所で用事を済ませた後、午後1時を回って帰宅してから少し遅いお昼にした。午後は、みんなにお散歩やお昼寝など自由にしてもらっている間、私は夕飯の準備をした。夕飯には、エドソンがシュハスコをするつもりでいたのだけれど、風が強く、1日雨が降ったり止んだりしていたため取りやめ、お肉はオーブンで焼いてローストビーフを作った。そして、私が作る焼きそばが食べたいとエリカが言うので、焼きそばも作った。従姉妹のエジヴァニは、あまり好き嫌いがないようで、初めて食べるきゅうりの酢の物や焼きそば、それに焼きそばに添えた紅生姜にも抵抗がなく、何でもおいしいと言って食べてくれた。植木屋に行った帰りに「植木屋で梅の木を見たけれど、梅って、どんな果物?」とエジヴァニが聞くので、家に帰ってから夕食の前に、うちにある梅干しや梅酒、ご近所のタケイシさんからもらったピンガに漬けた梅などを試食してもらったら、どれもみな気に入ったようだったけれど、特に、梅酒がおいしいと感激していた。

23日(火)は前日の夜からの雨が降り続いていたため、朝食を終えた後、デニウソンが雨に濡れながらたくさんの荷物を車に積み込む作業をして大変だった。そして、9時を少し回ってからみんなはパラカンビに向けて帰っていった。途中、サンパウロから東がとても混雑していたようで、パラカンビ到着まで11時間近くかかったようだった。今回は甥っ子のブライアンに会えることを私たちはとても楽しみにしていたので、3日間とはいえ、一緒に過ごせてとてもうれしかった。ブライアンはとても物静かでよく笑い、めったにぐずらないいい子だった。うちにいる間、はるが飛び跳ねて騒ぐので驚いて2~3度泣いたくらいだった。お腹がすいたら泣いたり、眠いと泣く子も少なくないけれど、ブライアンはそんなことでは泣かない子だった。ブライアンは、おでこが広いところとか目の感じはエリカに似ているけれど、物静かな性格はエドソンに似ているのかな?と思った。大勢でとても賑やかだった家の中は、彼らが去った途端に静かになった。さすがにはるも疲れたようで、1日雨だったこともあり、その後コンピュータの前に座ってブログを書いている私の膝の上や、午後からは居間のベッドの中で、ぐっすりと眠っていた。私も午後からはると一緒にお昼寝をした。

Feliz Natal!

2014年12月26日(金)

以下は、2014年12月23日付けニッケイ新聞「コラム 樹海」からの転載。ブラジルではレストランで食事をした後、テーブルにチップを残したことがない。私たちはめったに外食をしないし、高級レストランに行くこともないので、自信はないけれど、たぶん会計にサービス料が含まれていてチップはいらないのだと思う。でも、ここから遠出をする際はいつも、高速道路沿いにあるホドサーブ(サービスエリアのような場所)で車の燃料を満タンにしてもらって、無料で洗車をしてもらうのだけれど、その際エドソンはいつも洗車の作業をしてくれた人に5レアルくらいのチップを渡す。毎年12月のこの時期、チップというか心付けを渡すのは、毎週土曜日に手伝いに来てくれるヒバマーくらいだろうか?1年の締めくくりとして感謝の気持ちを込めて、12月は働いてくれた日数よりも1日分か2日分多くお金を渡すことにしている。2ヶ月に1度奇数月に、この記事のように電気のメーターを読みにくる人もいるけれど、偶数月の12月には来ないからかこの人にチップをねだられたことも、渡したこともない。エドソンに次の記事にあるカイシーニャ(チップ)について聞いてみると、リオではそんなこと聞いたことがないと言っていた。どうやらどこでもある習慣ではなく、地域により違いがあるようだ。

『毎年、ナタール(クリスマス)の時期になると「カイシーニャ(チップ)」という言葉を良く聞く。受付やレジに靴箱位の箱が置いてある事も多いが、水道や電気のメーターを読みに来る人やゴミ回収の人達もほぼ例外なく「カイシーニャ」と言ってくる▼仕事のある日に来る可能性も高いので、この時期になると何がしかの金を家に置いておき、誰か来たら渡してもらうようにしておくのだが、19日朝は家を出ようと準備をしていた時に呼び鈴が鳴った。この日来たのはエレトロパウロの人で、いつものようにメーターを読んだ後、何も言わずに門の方へ向ったが、請求書を渡しながら「良かったらカイシーニャを」と言ってきた。「ちょっと待って」と声をかけ、心ばかりの金を渡す▼考えようによっては、その仕事をして給料やボーナスももらっているのだから、何でと言いたくなるが、日頃の感謝を表す意味の心づけだと思えば腹も立たない。手持ちの金がなく、「ちょっとで御免ね」と言いながら小銭を渡した時も、金額も見ずにポケットに突っ込むと「良いナタールを」と言って去っていく。週3度通るゴミ回収車の人には、「気は心」とごく小型のパネトーネを人数分持たせた事もあった▼伯国に来て間がない頃、物乞いをする人は「相手に良い事をさせてあげている」と考えているといわれた事がある。家の前で手を叩いてお金をくれと言う人の中には酒や麻薬を買う金が欲しくて人の好意を悪用する場合もあるので要注意だが、今年もここまで守られてこの季節を迎えた事を喜び、相手のサービスへの感謝を込めたカイシーニャを渡す内に、今年のナタールもすぐそこに。(み)』

2014年12月27日(土)

エドソンと一緒に(同じ会社で)仕事をしているエンジニアのハファエウが、25日のクリスマスの日のお昼に、ボトゥカトゥの彼の家でシュハスコをするので、はるも一緒に来ませんか?と招待してくれたので、行ってきた。途中、ボトゥカトゥの町は道路上の車も人もほとんどなく、スーパーマーケットもレストランも、店はみな閉まっていて、ひっそりとしていた。唯一開いていたのは薬局と、ガソリンスタンドくらいだった。みんなそれぞれの家の中で家族とともにクリスマスの日を過ごしているのだろうと思われた。でも、家族がいない独り身の人たちには辛い時期かもしれないとも思った。次の写真は、ハファエウの家の一番奥にあるシュハスコの部屋の隅で、お肉やソーセージを焼いたり、焼けたお肉を切ったりと、忙しく立ち働いているハファエウ。

次の写真は、ハファエウのお姉さん夫婦(背中を向けている白髪の男性とその右上の目をつむっている女性)と、彼らのふたりの娘さんとそのボーイフレンド、そして、ハファエウのガールフレンドのマイーラがテーブルを囲んでいるところを撮影。ハファエウのお姉さんは学校の先生をしていて、来月、インドへ旅行すると言っていた。ブラジルから出たことがないのに、初めての海外旅行がインドだなんて、何とも大胆!下の娘さんも来月から、ニューヨークのシネマアカデミーに短期間留学すると言っていた。なかなか元気な家族のようだ。

次の写真は、右端がハファエウのお母さんで、その隣ではるがじゃれついている人がハファエウのお兄さん。この家には、お母さんとハファエウとお兄さんの3人が暮らしている。ハファエウのお母さんやお兄さんに会うのはこれが初めてではないということもあるのだけれど、みんなとても気さくに私たちを迎えてくれた。ちなみに、この時のハファエウのお母さんの頭にはカーラーがいっぱい。この後しばらくしてからカーラーをはずして、髪をきれいにセットしていた。きれいにセットした後、写真を撮るべきだったかな?でも、家族のパーティーで全然気取っていないところが何だかいい感じ。

シュハスコの部屋の全体が見えるようにと、ドアの辺りから撮影してみたのだけれど、全体を撮影することは無理だった。ハファエウはずっとシュハスコがまの前でお肉を焼いたり切り分けては、そのお肉をみんなのいるテーブルに持ってきてくれる作業を続けていた。ハファエウは作る人。他のみんなは食べる人という感じだった。お疲れ様。

次の写真は、私たちのテーブルの下で、ハファエウのお兄さんからお肉をもらおうとしているはると、ハファエウのところのニーナ。はるとニーナは特別仲良しにはならなかったけれど、喧嘩はせず、お互いの存在を嫌がらず、気にしていないような感じだった。食事中はるがうろうろしないように、ケージとタバスコを持参したのだけれど、みんな犬好きなようで、自由にさせればいいよと言ってくれたので、はるもニーナ同様、あっちに行ったり、こっちに来たりと自由に動き回らせてもらい、みんなに愛嬌を振りまいていた。

次の写真は、私のところに来て、テーブルの上にある食べ物の匂いを嗅いでいるはる。最初、ほんの少しお肉をあげたのだけれど、あまりあげると癖になると困るので少しで止め、みんなにも何もあげないでと頼んで、はるにははる用に持参したドッグフードを与えた。しばらくはお肉に味をしめて、ドッグフードを食べようとしなかったけれど、誰からもお肉をもらえないことがわかると、ようやくドッグフードを食べてくれた。

みんなのお腹が一杯になり、もうお肉を焼く必要がなくなったハファエウが、腰を下ろしてテーブルでのおしゃべりに参加した。家族が集まるクリスマスのシュハスコに私たちを呼んでくれたハファエウと彼の家族に感謝。

次の写真は、マイーラと私。パーディーニョは22日からお天気が悪く、寒い日が続いていて、25日の朝も寒かったので、半袖ブラウスの下に長袖のTシャツを着て行ったのだけれど、シュハスコを食べているうちに日差しが出てきて、気温が上がったので、さすがに暑くなり、この後長袖のTシャツは脱いでしまった。

次の写真は、マイーラが撮ってくれた我が家の家族写真。はるはよそを向いてしまっているけれど、モビと違ってカメラ目線をすることができない子なので、まあしかたがない。

午後4時前にハファエウの家を出て帰宅。パーディーニョもお天気が回復して暖かくなっていたけれど、午後7時頃から9時頃まで激しい雷雨に襲われた。最近は、雷雨になれば必ず停電し、雨や風が吹かなくても何故か停電することがあるのだけれど、9時頃に雷雨が通り過ぎた後、ブレーカーを戻してみると電気がつき、停電していなかったので、驚くやら、うれしいやら。

2014年12月28日(日)

この夏はほとんど毎日のように雨が降り、お天気が悪く寒い日が多いし、朝、雨が降っていなくても霧が出ていたりして、朝陽を拝める日が少ないのだけれど、26日の朝は、久しぶりに朝陽が昇るのを見ることができた。そして、部屋の中の壁が朝陽で赤く染まった。次の写真は、朝6時半頃、東の空から昇っている朝陽。ここでは季節によって、日の出、日の入りの太陽の位置が南北に大きく移動するのがよくわかる。2月頃になると、左側にある木の辺りから日が昇るのだけれど、12月のこの時期はこの木よりも南側から昇っている。この写真では、まだたくさん雲が出ているけれど、その後雲が消え、青空が広がり、気持ちのいい1日になった。

2014年12月29日(月)

26日はいいお天気になり、午後、ハーハーハーハーと笑っているような鳴き方をする鳥(正式な名前はわからないのだけれど、私たちは「笑い鳥」と呼んでいる)の声が、家のすぐ近くでするので、どこにいるのだろう?と、声のする方角を探して見ると、西側のユーカリの木の側の柵の上に止まって鳴いていたので写真に撮ってみた。この写真ではちょっと見えにくいかもしれないけれど、画面の右側のユーカリの木の左側の杭の上に茶色っぽい大きな鳥が左を向いて立っているのが見えるだろうか?この写真は、玄関から撮ったのだけれど、もう少し近づいて撮ろうと思い、玄関から出ると気配に気づいて、杭から飛び降り、柵の向こう側に行ってしまったので、もう少しアップで撮ることはできなかった。

2014年12月30日(火)

草ボウボウになっていたランドマークの木の回りの草を、この土曜日にヒバマーに取り除いてもらったら、パパイアの木の側に青々とした植物が姿を現した。何だろう?と思って近づいて見ると、ネギとベビートマトの木だった。これは雑草ではないので、ヒバマーが取り除かず、そのままにしておいてくれたようだ。ここはだいぶ前、ヒバマーに穴を掘ってもらって、台所から出る野菜くずなどを埋めた場所。畑のネギはこんなふうに元気じゃないのに、土壌の悪いこんな所で、またまた捨てたものから元気に芽を出して育っているものがあるなんて、うちは一体どうなっているんだろう?本当に不思議。でも、もちろんこのネギは収穫してありがたくいただくつもり。ベビートマトも花がひとつふたつ咲いているので、実がなったら収穫しようと思っている。いずれにしろ、ありがたき自然の恵みに感謝、感謝。

2014年12月31日(水)

今年もあっと言う間に大晦日。年明け早々、私がめまいで体調を崩したり、想像を越えた落雷の被害に遭ったり、干ばつで水不足に陥ったため水質の変化で私がお腹を壊したり、エドソンの仕事がガタガタしたりと、年初の数ヶ月は災難続きで、何という年だと思っていたら、私が厄年だったということが判明。友人が東京でお世話になっているお寺で私のためにお祓いをしてくれたお陰で、以後は何とかつつがなく過ごせるようになり、感謝の言葉もない。今年前半は日本への一時帰国を考えていたものの、運転免許の更新をしなければならないことに気づき、W杯サッカーの影響で航空券手配の困難も予想されたため延期。さらに、5年前に日本の運転免許をブラジルの運転免許に変更する手続きをした際、デトラン職員の単純な情報入力ミスで、エドソンが日系の帰化人ということになっていて、それを訂正してもらうのにすったもんだ。でも、時間はかかったものの、何とか無事にふたりの更新完了。後半は、やっと日本への一時帰国を果たした。ついでに、イギリスとカナダを経由してAMSAT-UKのシンポジウムに参加したり、観光をしたりすることもできた。そして、9月にはブラジル国外から初めてとなる友人夫婦の来伯もあり、クリスマスには甥っ子のブライアンとも対面を果たすことができ、今年も充実した楽しい1年だったと思いながら大晦日を迎えることができた。ただ、とても悲しく残念なことは、今年4月と7月に、エドソンの数少ない親友がふたりも亡くなったことだった。ふたりのご冥福と、残された家族の再生を心から祈りたい。

そして、私の英語のクラスの1年を総括すると、年の初めは生徒4人、2クラスだったものが、その後生徒8人、4クラスに増えたのだけれど、日本への一時帰国で1ヶ月余りお休みをして、こちらに戻った後も、引き続きジョズエの休暇などが重なり、長くレッスンをお休みしているうちにやる気をそがれてしまったのか、ジョズエとヘナトのクラスが消滅。10月中旬には、学校の勉強が大変で時間的にゆとりのなくなったダニエラが離脱。11月に大学受験の統一試験を受けた高校3年生のカロリナが、どうも希望の大学に行けそうにないから、来年は予備校通いになるという状況で、チアゴがレッスンを止めたいと言い出し、彼らのクラスも消滅。それと入れ替わりのように、11月中旬から、パウロがレッスンに通ってくるようになったため、結局、月曜日がジミーとジェフのクラス。火曜日がダニエラのクラス。水曜日がパウロのクラスとなり、生徒4人で3クラスを抱えて1年を終えることになった。ただ、ダニエラ以外の大人の生徒さんたちは仕事が忙しく、お休みをすることが多いので、実質安定的にやっているのはダニエラのクラスだけで、大人たちのクラスはいつまで続くかな?と、思いながらやっている。生徒さんの出入りはいろいろあるものの、とにかく生徒さんがいることをありがたく思っている



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