Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2014年7月1日(火)

はるがうちに来たばかりの頃、はるのお腹の皮膚は白っぽいのに、モビのお腹の皮膚は黒いのは何故だろうと思っていた。でも、はるが成長するに従いお腹の皮膚の色がだんだん黒っぽくなってきているので、赤ちゃんから成長するに従い皮膚の色は変わるのかと納得。ただ、ひとつ変わらないのは、はるの胸の中心にあるハート型。白っぽい毛が渦を巻いて、ハートの型に見える。この写真でわかるだろうか?

2014年7月2日(水)

ニッケイ新聞で2014年6月19日から26日の間に、5回に渡り、戦後の勝ち負け抗争に関する「パウリスタ延長線戦後史1=子孫にとっての勝ち負け抗争」と題する連載があった。

戦後ブラジルのメディアによって、テロ集団のように宣伝された「臣道聯盟(しんどうれんめい)」は、「単なる精神修養団体で、ツッパン支部では日本精神に関する講話、日本語教育、柔道などをやっていただけ」で勝ち負け抗争に組織的に関わってなどいなかったこと、後に「臣道聯盟」は司法的にも行政的にも無実とされたにもかかわらず、テロ集団というイメージだけが残ったこと、「戦勝狂信者からお金をだまし取るために1943年頃に組織された」と言われていた「臣道聯盟」が結成されたのは、実は終戦後の8月だったこと、ブラジルが対日宣戦布告したのは、1945年5月7日で、それまでの日本移民は、ドイツやイタリアと同じレベルの対戦相手(敵国)ではなかったにもかかわらず、1943年7月7日に政府が出したサントス市地域に住む枢軸国人の24時間以内の強制立ち退き命令では、イタリア移民は除外され、ドイツ移民と日本移民全員が立ち退きの対象とされたため、「病人も含めた6500人以上の日本移民は財産の処分はおろか、身の回り品すら持ち出せないまま、聖市の移民収容所に送られた」こと、「実行者十数人以外、172人の大半は、臣聯幹部という〃容疑〃で逮捕され、御真影や日の丸を踏まなかったために監獄島アンシェッタ島送りにされた」こと、そして、昨年から始まった真相究明委員会の「ツッパン公聴会でアドリアノ・ジョーゴ委員長は、戦中戦後の日本人差別が、勝ち負け抗争勃発の一因になったという考え方を公式に認めた」ことなどなど、歴史の闇に押しやられていた事実に光が当てられていて、とてもおもしろかった。

パウリスタ延長線戦後史1=子孫にとっての勝ち負け抗争

(2)扇情的なモライスの著書=勝ち組子孫に大ショック残す
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(3)臣聯は司法、行政的にシロ=戦中戦後の日本人差別とは
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(4)米国の排日プロパガンダ=宣戦布告前から敵性移民扱い
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(5)郷土史にモライス著から引用=「情報戦の時代に生きている」
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(終わり)「家族の歴史に誇りを感じて」=郷土史家、修正申し出る
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2014年7月3日(木)

前回、6月の上旬に雨が降って以降、もう4週間もまったく雨が降っていない。本格的な乾季は7月からのはずだけれど、これは少々早すぎる。それにここはこの時期、雨が降らなくても、夜から朝方にかけて濃い霧が出ることが多いので、朝地面が濡れていることが多い。でも、その霧も何故かもう2週間くらい出ていないような気がする。こんなふうに雨も降らず、霧も出ない状態で、暖かないいお天気が続くと、森の中の泉から湧き出る水も減少の一途で、いつ止まってしまうか分からない状態なので、節水をしながら戦々恐々としている。

先日、はるとの朝のお散歩に出た際、まだ背の低いグアンドゥの豆の木に花が咲いているのに気づいた。次の写真の右端は、青い花が咲くジャカランダの木。手前はハイビスカスで、中央奥がセドリーニョ。その間に1本、セドリーニョの左側に1本、背の低いグアンドゥの豆の木が見える。2枚目の写真は、セドリーニョの前のグアンドゥの豆の木を近くから撮ったもの。ジャカランダの木の陰になっているので少し見えにくいかもしれないけれど、つぼみは赤く、花が開くと、花の色は黄色という不思議な豆の花。

2014年7月4日(金)

次の写真は、私たちの寝室の窓から見える景色。窓から竹林が見えるように、意図的にここに竹を一株植えたのだけれど、その後、植えた株の回りにたくさん新しい芽が出てきて、いい感じに小さな竹林ができつつある。その足元の右側に、何か大きな緑の葉の草が自然に生えてきたのを、抜かずに成長するがままに放っておいたら、どんどん成長して、地を這うように左側に延びて行き、今では完全に竹林の足元を飾るような感じになっている。しかも最近白っぽい花をたくさん咲かせているので、何だかいい景色だなあと思いながら、毎日眺めている。

2014年7月5日(土)

家の南側の三角地帯で育てているマンジォカをエドソンが収穫してきてくれた。次の写真は、台所の流しでマンジォカの皮をむいてくれているエドソン。小さく切って、皮をむいたものがいくつかまな板の上に見える。右側のさつまいもを長くしたようなものが、皮をむく前のマンジォカ。マンジォカはとても硬い芋なので、皮をむいた後、まず茹でて柔らかくしてから、唐揚げにする。2枚目の写真は、出来上がったマンジォカの唐揚げ。我が家で初めて収穫したマンジォカは、少し甘味のある外側カリカリ、内側ホクホクのおいしい唐揚げになった。はるがその匂いに反応して食べたそうにするので、小さなものを2~3個おすそ分けしたら、すっかり気に入ってしまったようだった。

2014年7月6日(日)

4日金曜日の午後5時からあったブラジル対コロンビアの準々決勝の試合は2対1でブラジルが勝ったけれど、夜のグロボニュースで、ネイマールが負傷して病院に運ばれたというようなことを言っていた。でも、私たちは試合を見てはいなかったので、そんなことになっているとはその時まで知らなかった。コンピュータのところにいたエドソンに「ネイマールが病院に運ばれたとかニュースで言ってるけど、何があったの?」と聞くと、インターネット上のニュースによると、ネイマールとコロンビアの選手が接触して、ネイマールが骨折したらしいと言う返事だった。より詳細がわかった翌日のニュースでは、コロンビアの選手の足がネイマールの背中に思いっきり当たったことで、ネイマールは第三椎骨を骨折したとあった。神経までは損傷してはいないということだけれど、大変なことになってしまっているようだ。ネイマールはとてもいい選手だし、何よりもいつも笑顔で、カリオカの典型的な優しい話し方をするので、エドソンと私のネイマールに対する好感度は非常に高い。早く回復、復帰して、さらに偉大な選手への道を歩んでほしいと心から願っている。

今、ダイニングルームのテーブルの上の白いランの花が3つと、窓辺のピンクのランの花3つが花開いている。窓辺のピンクのランをテーブルの上に持ってきて、白いランと一緒に並べて写真に撮ってみた。ピンクのランは花が大きく、枝先にはまだ3つつぼみがあり、これらのつぼみも少しずつ大きくなってきている。

2014年7月7日(月)

今年もカラが豊作で、そろそろ収穫の時期になったようだ。野菜畑でたくさん実をつけているカラのいくつかが地面に落ちているので、それを拾い集めてみたら、大きなボール一杯になった。玉子くらいの小さなものから手の平大の大きなものまで様々。これから当分また、たくさん採れるカラをジャガイモや里芋代わりに調理して、せっせと食べなくてはと思っている。このボール一杯のカラの中から小さめのものをいくつか使って、カラとベーコンの炊き込みご飯を早速作っていただいた。そして、残りのほとんどは土曜日に手伝いにきてくれたヒバマーにおすそ分けした。

2014年7月8日(火)

最近、この田舎町には不似合いな事件が続いている。今年になってから高速道路のカステロブランコ上のパーディーニョへの出口を挟んで4つあるホドサーブの内の、ホドサーブ・スターとホドサーブ・ソヒーゾにある銀行のATMが重機のようなもので壊され、お金が盗まれるという事件が続けてあった。以来、ホドサーブのATMは復旧されることなく、利用できない状態が続いている。そして、先月中旬のある晩、パーディーニョに新しくできたブラデスコという銀行の支店が強盗に襲われ、爆破され、お金が盗まれた。このグループは銀行強盗を働いている間、何人かがパーディーニョの警察の前で銃を構えて、警官が動けないようにしたというから、とても計画的だ。そして、昨晩は、サンパウロ州第2の都市であるカンピーナスにあるサムスンの工場に、重武装した大勢の強盗団が押し入り、200人の従業員を無抵抗にしておいて、8000万レアル(約40億円)相当のコンピュータなど電子機器を8台のトラックに積んで強奪したという事件があった。こんな大掛かりな強盗事件がやすやすとやってのけられるのは、警察の関与があったに違いないと、エドソンは疑っている。でも、どうしてこういった組織犯罪がこの近辺で増えているのだろう?カンピーナスはサンパウロの北西1時間ほどのところにある、サンパウロ同様の大都市だから、こういうこともたまにはあり得るのかもしれないけれど、治安のいいはずのこの田舎町でたて続けに大きな強盗事件が起きるというのは、ちょっと異常としかいいようがない。強盗団はサンパウロから来ているという話があるけれど、地元の人間が手引きしているのではないかという話もあり、とても嫌な感じだ。

2014年7月9日(水)

昨日のブラジル対ドイツの準決勝戦は、1対7でブラジル惨敗。これは歴史的な敗戦なのではないだろうか?昨日の午後5時半頃、はるのオシッコで家の外に出ると、花火が何度も上がったので、ブラジルが点を入れたのかと思い、家に戻ってからテレビのチャンネルを試合の生中継をしていたグロボに変えたら、0対4で、すでに大負けの状態だった。前半戦ですでにこんなに点を奪られて、あらあらと思っていたら、見ている際に5点目が入ってしまった。そうしたらブラジルの観客がボチボチ競技場を後にし始めたので、これで決まったなと思った。そして、試合が終わった頃、結果を確認すると、さらに得点差が広がっていて、驚いてしまった。でも、これでジウマ大統領の支持率が意味もなく上がる可能性はなくなり、ちょっとほっとしたというのが正直なところ。

次の写真は、家の東側の庭で育っているグアンドゥという1本の豆の木。この豆の木に咲いていた黄色い花は今もまだ少し咲いているけれど、だいぶ終わりかけていて、その代わりに豆の実がたくさんなっている。この実は、まだふくらんでいない初期の状態だけれど、これが太ってさやの中に豆ができると、枝豆のように塩茹でして食べることもできるし、乾燥させて保存可能な豆としても食用にすることもできる。森の近くの果樹園や、丘の上の貯水タンクの回りにもこれとは少し異なるけれど、やはりグアンドゥをたくさん植えているので、これらがみんなたくさん実をつけると、うれしい悲鳴になりそう。

2014年7月10日(木)

入り口ゲートの両側のグレヴィーリャとリグストルンの木々は、この夏繰り返し葉切りアリに襲撃されたため、なかなか新しい葉が育ってきておらず、相変わらずほぼ丸裸の状態が続いている。辛うじて両側の桜は葉切りアリに一度襲われてから盛り返し、今、葉が茂っているけれど、本来ならこの時期は葉を落として花を咲かせる準備をしなければならないのに、葉が茂っているということは今年は花は咲かないということなんだろうか?そして、ブーゲンビリアも葉切りアリのせいで、一向に大きくならない。そんな訳で、ここで今元気にしているのは、柵沿いで赤い花を咲かせているコロア・デ・クリストだけ。この植物は樹液に毒性があるからなのか、葉切りアリはまったく見向きもしないため、元気に育っている。

2014年7月11日(金)

以下は、インターネット上で見かけたJapan In-Depthの6月30日(月)18時5分配信記事のコピー。

<慰安婦問題>河野談話と朝日新聞の罪
~なぜ事実ではない「強制連行」が世界中で広まったのか?

慰安婦問題というのは、国際社会での日本に対する冤罪だといえるだろう。6月20日に公表された河野談話検証の有識者新報告がそのことを改めて裏づけたーーアメリカでのこの問題をめぐる動きを長年、報道してきた私がいまの時点で感じる総括である。

私はワシントン駐在の産経新聞特派員として日本の慰安婦問題の取材に2000年代はじめからかかわり、とくに2007年のアメリカ議会下院での日本非難決議に関しては集中的に報道にあたった。

このプロセスではアメリカや韓国、中国側は一貫して慰安婦問題を「日本軍の20万人の性的奴隷(sex slave)」と断定した。日本軍が組織的、政策的に朝鮮半島などの一般女性を強制連行して拘束し、奴隷に等しい売春婦にした、という見解が前提だった。日本の官憲が公式の政策として女性たちを強制連行して「性的奴隷」にしていたというのだった。

ところがこの断定が事実ではないのだ。日本の軍や政府が組織的、政策的に一般女性を強制連行していたという主張の証拠はどこにも存在しないのである。

そのことを膨大な資料や証言を基に裏づけたのが今回の有識者新報告だった。慰安婦の徴用は実際には民間業者が全面的にあたった。女性の募集は当時の新聞広告などでも広く宣伝された。

個々の女性のなかには家族の借金などを理由に本人の意思に反して徴用された人たちもいた。だが日本軍や日本政府が組織の方針として無理やりに女性たちを徴用したことはなかったのだ。

ではなぜ事実ではない「強制連行」が世界中で広まったのか。

最大の理由は1993年に出た当時の官房長官の河野洋平氏による「河野談話」だといえる。同談話には日本軍による強制徴用があったことを認めたように受けとれる文言が入っていた。河野氏自身も当時の公式会見で官憲による強制性を認める発言をした。

同時に朝日新聞が一貫して「強制連行」を強調する報道をした。いまでは虚構だらけの報道だったことが判明している。

今回の新報告は当時の河野氏ら日本側が韓国側の一方的な主張に引きずられ、事実でないことも事実であるかのように黙認してしまった経緯を詳述していた。

慰安婦は軍隊のための売春だった。そこには女性たちの明らかな犠牲や悲劇があった。その事実にはいまの日本の政府も国民も謙虚に同情や反省を述べてしかるべきだろう。

だが日本の軍隊や政府が罪のない若い女性たちを公式の方針として大量連行していたと断ずる糾弾はあくまで冤罪であり、ぬれ衣なのである。その点を主張することは後世の日本国民の名誉のためにも不可欠だろう。
古森義久(ジャーナリスト/国際教養大学 客員教授)

以下も、同様にインターネット上で見かけたJapan In-Depth7月7日22時34分配信記事のコピー。

<司法の原則を踏みにじる中韓>米最高裁判所は慰安婦問題で
「日本には謝罪も賠償も必要ない」と判決ずみ

慰安婦問題をめぐっての日本非難の動きがなお絶えない。

韓国を訪問した中国の習近平主席も朴槿恵大統領と共同で慰安婦問題をまた提起して日本を批判するような言動をみせる。一方、アメリカではなお韓国系勢力による慰安婦漫画展などという日本へのいやがらせも続いている。

しかし、アメリカではこの慰安婦問題は8年以上も前に最高裁判所によって、「日本側の謝罪も賠償ももう必要はない」という判決が出たことは、日本側ではあまり知られていない。司法には国際的に「一事不再理」という大原則がある。一度、裁かれて判決が出た事件や容疑はもう二度とは裁かれない、という原則である。だから日本側は米中韓などの各国に対し、いまこそこのアメリカ最高裁の判決を告げるべきなのだ。

2006年2月21日、アメリカ最高裁は第二次大戦中に日本軍の「従軍慰安婦」にさせられたと主張する中国と韓国の女性15人が日本政府を相手どって起こした訴訟への最終判決を下した。この訴えは在米のこの15人が「ワシントン慰安婦問題連合」という政治活動組織の全面支援を得て、2000年9月に首都ワシントンの連邦地方裁判所に対して起こした。

訴訟の内容は女性たちが日本軍に強制的に徴用され、慰安婦となったため、そのことへの賠償と謝罪を日本政府に求める、という趣旨だった。そんな訴えがアメリカ国内でできるのは、外国の国家や政府による不当とみられる行動はそこに商業的要素があれば、だれでもアメリカの司法当局への訴訟の対象にすることができるという特別な規定のためだった。

訴えられた日本政府は、戦争にからむこの種の案件の賠償や謝罪はすべて1951年のサンフランシスコ対日講和条約での国家間の合意や、1965年の日韓国交正常化での両国間の合意によって解決済みと主張した。ワシントン連邦地裁は2001年10月に日本側のこの主張を全面的に認める形で訴えを却下した。

原告側はワシントン連邦高等裁判所に上訴した。だがここでも訴えは2003年6月に却下された。そして訴訟は最高裁へと持ち込まれ、同様に却下となったのである。

アメリカの政府もこのプロセスで日本政府の主張への同調を示した。 だからアメリカでは司法も行政も、日本の慰安婦問題はすでに解決済みという立場を明確にしたという経緯があるのである。この点を日本は世界に向けて、主張すべきなのだ。
古森義久(ジャーナリスト/国際教養大学 客員教授)

2014年7月12日(土)

ボトゥカトゥにショッピングモールができると、ずいぶん前から言われていたけれど、ようやく今年の4月末にオープンすると聞き、楽しみにしていた。でも、建設の進み具合を見ていて、どうも予定通りに4月末にオープンするとは思えないとエドソンと話していたら、やはりオープンは5月末にずれ込んだ。みんな期待して待っていたようで、ずいぶん大勢の人たちが連日というか、毎週末というか、詰め掛けているようだった。ジミーやジョズエも行ってきたと言うので話を聞くと、まだ店舗スペースが埋まっていない場所が多く、週末だったから人が多くて、フードコートで食べ物を注文して1時間以上待たされたと呆れていた。私たちはなかなか行く時間がなかったのだけれど、昨日、マッサージに行く前に少し眺めるだけと思って立ち寄ってみた。テンダ(TENDA)というスーパーマーケットが入っているというので、どんなお店か行ってみた。ここは日本風に言うと、業務用スーパーとか、卸しの量販店のような店だった。とても広くて、商品の値段も普通のスーパーよりも安い感じだったので、少し買い物をした。このショッピングモールはバウルのショッピングモールよりも広いので、スーパーで買い物をしたら時間切れになってしまい、半分近くは見ることができなかった。見て回った限りでは、衣料品店、靴屋、メガネ屋といったところが主な店舗だった。そして、相変わらずオープンしていない店舗スペースが目立った。変わったところでは、小さなアイススケートリンクがひとつあった。広いフードコートもあったけれど、私たちは時間がなかったので、そこには入ってみなかった。この他、映画館が3つか4つあるらしいのだけれど、そこまでたどり着く時間はなかった。次の写真は、そのショッピングモールの正面玄関(画面右端)。ちなみに、ブラジルではショッピングモールのことを、ただ「ショッピング」と呼ぶので、左に大きく出ている名称は、ショッピング・ボトゥカトゥとなっている。

この後、予約の時間通りにマッサージに行った。マッサージ師のリアさんとジュリアさん母娘の家は、このショッピングから比較的近い場所なので、とても便利。次の写真は、エドソンと私のマッサージが終わった後、ふたりに並んでもらってパチリ。コリコリに固まっていた私の体は、2回目のマッサージの後くらいからだいぶほぐれてきて、3回目の昨日は、気の流れがずいぶん良くなり、70%くらい改善していると言って、ジュリアさんは喜んでくれた。彼女達は、これから長くお世話になる私たちにはとても大事な人たち。

2014年7月13日(日)

エドソンがボランティアで支援しているITAの衛星プロジェクトの内の、リディアのグループに最近加わったサンパウロの大学の学生さんが、この週末泊まりがけで訪ねてくる予定だったのだけれど、金曜日の夜遅く、急に来れなくなったと連絡が入った。今週末と来週末は、私たちが留守中、ここで留守番をしてくれるヒバマーが生活できるように下のガレージを片付けて、簡易の台所を準備しなくてはならなかったので、この学生さんの予定がキャンセルになり、私はちょっとほっとした。次の写真は、ガレージの中の棚を東側(シャワールームの前)から西側に移動させて、棚から一旦下ろしたものをまた棚に移動させているエドソンとヒバマー。彼らは物の移動といった、もっぱら力仕事を担当し、私は動かした棚を雑巾がけしたり、床を拭いたりとお掃除を担当した。シュハスコ小屋に移動していた簡易の台所のための流し台と料理用のガスストーブをガレージの中に設置し、新しく買ったテレビをガレージ横の寝室に設置し、アンテナにつなげる作業をエドソンがしてくれ、お昼前までには、少しずつ準備が目に見える形で整い始めたので、それにも少し安堵した。

2014年7月14日(月)

次の写真は、移動の終わったガレージの中の棚。2つ目の写真は、ガレージの中のシャワールームの横の壁に設置した流し台とガスストーブ。流し台に取り付ける下水用のパイプはまだつながっておらず、ガスストーブをプロパンガスにつなぐ作業なども今週末にする予定。この簡易の台所を見て、4年前は、この流し台とガスストーブを使って、私たちはここで仮住まいをしていたんだなあ・・・と、ちょっと感慨にふけった。流し台の壁の左側のドアがシャワールームのドアで、さらにその左側のドアが寝室につながるドア。

2014年7月15日(火)

12日の土曜日に行われたサッカーW杯の3位決定戦で、ブラジルはまた1点も奪れずにオランダに負けてしまった。そして、昨日の決勝戦のドイツ対アルゼンチンは、どちらも点が奪れずに、延長戦にもつれ込み、ドイツが勝利した。終わってみれば何だか波乱含みのW杯だったなあと思う。私たちの回りにサッカー狂はいないので、この結果をサッカー好きのブラジル人がどのように受け止めているのかはわからないけれど、とにかくW杯は終わり、これからは11月の大統領選に向けて、別な意味で賑やかになるのだろうと思う。

次の写真は、土曜日の夕方、家の南側の三角地帯からエドソンが収穫してきたマンジォカ。マンジォカの木を引き抜くと、こんな感じでたくさんマンジォカが採れるのか・・・?知らなかった。マンジォカは芋、つまり根菜なので、当然と言えば当然なのだけれど、こうやって引き抜いたそのままの姿を見ると、へえ~と思った。この写真に写っているのは2株だけだけれど、エドソンが採って来たのは3株だったので、とりあえず2株をヒバマーにおすそ分けして、持って帰ってもらい、残りの1株の内の数本をまた茹でて、唐揚げにした。カラも今たくさん採れるので、土曜日に来たエディやジミーにもおすそ分けした。みんなにおすそ分けして食べてもらわないと、私たちだけではとても消費しきれない。自然の恵みは本当にありがたい。

2014年7月16日(水)

乾季はだいたい例年7月からだというのに、今年は6月の初めから5週間もずっと暖かな晴天続きで雨が降らなかった。そのため森の泉から湧き出る水量も危険なほど減っていたのだけれど、先週の火曜日の未明、水曜日の午前中、そして、木曜日の午後と3回にわたり、数時間ずつ恵みの雨が降ってくれた。そのお陰で、泉も少し元気を取り戻し、湧き出る水量が増えた。それで丘の上の貯水タンクに何度か水を汲み上げることができ、やれやれと一息ついた。うちはふたりだけの生活で、農業をやっているわけではないので、少しの水でも何とかやって行けるけれど、お隣はアテモイアの果樹園に大量の水を使うため、とうとう井戸も溜池も枯れてしまったらしい。そのためここ2週間くらいの間に何度も市の給水車に来てもらって、貯水タンクに水を補給してもらっている。そうこうしているうちに、今ある井戸の側にあらたに100メートル級のアルテジアーノと呼ばれる井戸を掘ることにしたらしく、先週の月曜日に大きなトラックが4台もやってきて、井戸掘り作業が始まった。作業の人たちは連日ここに泊まり込んで、朝早くから、夕方遅くまで、すごい騒音を響かせていた。先週の土曜日の朝の時点で150メートル以上掘り進んだらしいのだけれど、岩盤を掘り進むばかりで、水はまったく出ないらしい。水がないと果樹園をやって行けないので、死活問題なのだろうけれど、大金をかけて井戸を掘っても、ここは大地の際で土の下は厚い岩盤のようなので、200メートル近く掘っても結局水が出なかったという例は、この辺りでは普通にあることらしく、まるで博打と同じだなと思った。次の写真は、ダイニングルームの窓から撮った井戸掘り作業のトラックやタワー。土曜日も日曜日も丸1日作業が続いたけれど、とうとう水が出ないため諦めたのか、月曜日の午前中、タワーが撤収され、トラックはみな帰って行き、静寂が戻った。

2014年7月17日(木)

パーディーニョの町のモラエス家具店で買った冷蔵庫が、同日に配達され、下のガレージのシャワールームの前のスペースに設置された。以前、私たちがここで仮住まいをしていた時に冷蔵庫を置いていたのと同じ場所だ。そして、この新しい冷蔵庫は私の身長よりも低い小さめのもの。次の写真の冷蔵庫の右側のドアは寝室のドア。留守中、上の我が家の家電製品はすべてコンセントを抜き、ブレーカーも落とす予定なので、冷蔵庫の中の生ものは、出発までになるべく食べ切るようにするつもりでいるのだけれど、使いかけの瓶詰の保存食品のようなものは、引き続き冷蔵保存が必要だし、ヒバマーがここで寝泊まりして食事をするためには、冷蔵庫が必要なので、思い切って購入した。予備の冷蔵庫があれば、将来的に、来客時に食料品を買い込んでも保存場所に困ることはなく、楽に対応できるので、無駄にはならないと思っている。

2014年7月18日(金)

次の写真は、ランドマークの木の側のパパイアの木。この木の高さは私の胸ぐらいで、まだあまり大きくはないのだけれど、ひとつ小さな実がついているのを発見!写真中央、上に放射状に広がる葉のすぐ下、幹の右側に小さなラグビーボールのような形をした緑色の実があるのがわかるだろうか?これがちゃんと成長するかどうかは、現時点ではまったくわからない。ここは畑ではないので、特に肥料をやったわけでもないのに、この痩せこけた土地で育って、実までつけたことに驚いている。このパパイアの木の後ろにいくつか見える穴は、台所から出る野菜グズなどを埋めるために、ヒバマーに掘ってもらったもの。その掘ってもらった土を見ると、土というよりも、柔らかい岩を小さく砕いたようなとても荒いゴロゴロしたものなのに、よく育っているなあと、感心しきり。

そして、このパパイアの木の右側にあるフランボヤンズィーニョという木にも、たくさん花のつぼみがあることを発見!小さな赤みを帯びたつぶつぶがたくさんあるのがこの写真でわかるだろうか?つぼみは赤みを帯びているけれど、何色の花が咲くのかは咲いてみないとわからないので、楽しみだ。

2014年7月19日(土)

ランドマークの右後ろに植えた小さかったサポテンもだいぶ大きくなり、今たくさん花のつぼみをつけていて、そのつぼみのいくつかはすでに花開いている。このサポテンの足元の土に注目してもらうと、昨日私が言った岩を小さく砕いたようなとても荒いゴロゴロとした土というのが、少し具体的に理解してもらえるのではないだろうか?でも、こんな石ころゴロゴロの土壌も、水不足も、サボテンには関係ないのかな?

次の写真は、我が家の野菜畑で今朝収穫したラディッシュ。リベルダージの店で買ったものと比較すると、あれほど大きくきれいではなく、傷もあるけれど、まずまずの出来だと思う。留守番のヒバマーに食べてもらおうかと思っていたのだけれど、出発までに食べきれない食材を下の冷蔵庫に移動させていて、野菜は白菜や人参やキャべツなどがあったので、これらを食べてもらい、ラディッシュは今日チアゴたちをレッスンに連れてくるジミーと彼の家族に食べてもらうことにした。

2014年7月20日(日)

以下は、ニッケイ新聞2014年7月18日付け「コラム 樹海」からの転載。自由主義国と共産主義国が一緒に銀行を作って、本当にうまく機能するのだろうか?

実体持ち始めたBRICS

『w杯決勝戦、ドイツ代表が1点を決めた瞬間、メルケル首相は飛び跳ねて喜び、ジウマ大統領は座ったままで驚きを表現したが、ロシアのプーチン大統領の顔はピクリとも動かなかった。宿敵ドイツが勝利した瞬間であり、次期w杯主催国として義務的に決勝戦に立ち会っているだけで、頭の中はBRICS会議のことで一杯だったのではないか▼2010年のBRICS5カ国の国内総生産は世界全体の18%、人口では計30億人と世界の半分近い大市場だ。今回BRICS開発銀行を発足させ、初代総裁国はインド、本部は中国に置くという具体的内容を決め、第6回会議(15日)にして〃実体〃を持ち始めた。ジウマ大統領は交渉決裂なら設立自体が今声明に入れられず、今会議も無成果では10月選挙に差支えがあると考え、初代総裁国の座をインドに譲ったようだ▼欧米とはウクライナ問題で対立するロシア、次期覇権国かと牽制されがちな中国からすれば、BRICSを軸に同盟関係を増やしたい。だから翌日、南米11カ国代表と会合を持ち、影響力を中南米に広げる方向性を明確に示した。W杯でアメリカ大陸勢が躍進し、親近感を高めた絶好のタイミングを活かした。従来の覇権は「ロシアと東欧」対「EU」のように地理的に集中する特徴があったが、BRICSは世界に遍在する新しい形の勢力圏を目指すようだ▼ロ中が先導する形で素早い〃パス回し〃が始まった。それに追いつこうとするかのように、2週間後に安倍首相がやってきて「第2のセラード開発」を思わせる大型農業支援を発表するようだ。ブラジルはしばらく国際舞台の主役級の一人で居続けそうだ。(深)』

同じく18日付けの、『BRICS=南米首脳たちと合同会議=各国大統領からは大好評=銀行発足を喜ぶ声目立つ=外交面でジウマに好材料』と題する記事は、こちらへ

2014年7月21日(月)

ダイニングルームの窓辺のピンク色のランは、ひとつ、またひとつと花を開き、昨日の朝、最後のつぼみが開き、6つすべてが咲きそろった。壮観、壮観。

庭の桜の木は、今年はたくさん花芽をつけているので、きれいに花を咲かせるかと思っていたのだけれど、5月末に一旦冷え込んだものの、6月はずっと雨の降らない、暖かないいお天気の日が続き、今月の第2週に雨が降って、また朝晩冷え込むようになったので、いつ花を咲かせたらいいのかわからなくなったようだ。ちらほらと花を開くつぼみがある一方で、ほとんどのつぼみは固いまま開く気配もない。次の写真のように、新しい葉(中央の花のすぐ下)が出てきてしまっているので、花を咲かせる時期を逸してしまったのかもしれない。

次の写真は、家の南側の三角地帯に下りていくところにある一番古い桜の木。この木はいつも一番に花をさかせるのだけれど、今年は、今頃になって葉が黄色くなり、葉を落とし始めている。例年とは異なる今年の気候で、植物の体内時計が狂ってしまったのだろうか?

2014年7月22日(火)

今日付けのニッケイ新聞、ニッケイ社会ニュースに「ブラジル被爆者支え30年=平和協会、聖市で記念集会」という記事があった。 この記事は、こちらへ。現在90歳の会長の森田さんには元気に長生きしていただきたいと心から思う。

明日から日本に一時帰国するため、このブログはしばらくお休みします。私にとっては2年半ぶり、エドソンにとっては約4年ぶりの日本で、楽しみです。8月に戻ってから、また再開します。



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