Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2014年3月1日(土)

今年のカーニバルは、今日から4日(火)まで。その間は世の中すべてがカーニバルモードになるので、仕事はお休み。それで、ヒバマーとゼーには23日の日曜日にも仕事に来てもらったりしので、今日はお休みしてカーニバル休暇を楽しんでもらうことにした。もちろんエディも今日は井戸掘りの作業に来ないだろうと思っていたら、何と予想に反して、手伝いの男の子を一人連れて来てくれたので驚いた。次の写真は、井戸掘り作業が始まった3週間前の2月8日(土)の朝撮ったもの。右側のコンクリートの円筒は、7日金曜日の午後、イタティンガの店から届いた井戸を作るための資材。左側は、エディのトラック。

このところ週に1度は雨が降るようになったので、森の湧水の量も増え、丘の上の貯水タンクに水を汲み上げることができるようになり、一時期のような水不足の問題は解消している。お陰で手洗いではなく、洗濯機での洗濯もできるようになり助かっている。気分的にゆとりが出てきたので、エディの作業がのんびりゆっくりでも、比較的鷹揚に構えていられるようになった。エディが掘ってくれている井戸は、穴を掘りながら、前の写真に写っているコンクリートの円筒を穴の中に入れて、掘り進めて行くタイプのもの。8日と18日の2回の作業で穴が掘り進められ、6つの円筒が入り、今日の作業で、残る2つの円筒が入ったのだけれど、まだきれいな水が出てこないので、もう少し掘り進める必要があるらしい。

2014年3月2日(日)

昨日、エドソンはエディの井戸掘り作業を確認するために何度も家を出たり入ったりしながら、その一方で、新しいコンピュータの設定をしたり、落雷で壊れた機材をワークスペースから移動させた後、散らかったまま手つかずの状態だったワークスペースの整理をしていた。ここにはたくさんの機材があったので、それらを片付けた後も、まだたくさんのコードが机の上や床のあちこちにあふれている。ここをきれいにするにはかなり時間がかかりそう。

2014年3月3日(月)

今夏は、例年になく暑く、降雨量が少なかったので、水不足で節水しなければならなかったので、畑に水をまくことができなかった。それで長い間取っても取っても次々に新しい芽を出して元気にしていたパセリがすっかり枯れてしまった。枝豆も豆がなかなかふくらまず、元気がない。今、畑で元気に成長しているのはカラぐらいなものだろうか?最近、ようやく雨が時々降るようになり、水不足は解消したけれど、私たち人間にとっても、畑の野菜たちにとっても、今夏は大変な日々だったなと思う。次の写真は、先週金曜日にボトゥカトゥのスーパーに行った際、買って帰ったパセリの苗。これをまた畑に植えて、日々の食卓を賑わせたいと思っている。

2014年3月4日(火)

庭の西端の車寄せ近くに何株もイングリッシュ・ラベンダーの苗を植えてから、かなりの月日が経過しているのだけれど、デンタータ種と違ってなかなか大きくならず、花も咲かせないので、どうしてだろう?と、不思議に思っていた。そうしたらこの夏、一番大きな株に数本長い枝がひょろひょろと伸びてきて、2月に入る頃花をつけた。次の写真は、その花をつけたイングリッシュ・ラベンダー。この写真でもわかるように、周りにはいくつも同じ種類のラベンダーがあるのだけれど、まだみな小さく、花をつけているのはこの1株だけ。

2014年3月5日(水)

夏の間は毎日暑かったので、草取りなど外での作業はずっとしていなかった。でも家の前が草ボウボウになったので、1月だったか、ゼーに一度草取りをしてもらったことがある。雨が降らず水不足でも草は元気に育つから不思議。最近また草ボウボウになり始めたので、比較的涼しく曇りがちだったこの月曜日の午前中に、久しぶりに草取りをした。次の写真は、家の前の状態。この写真の奥から草取りを始めたので、奥の3分の1ほどがきれいになった。手前の3分の2はまだ手つかず。ところどころにある緑のこんもりしたものはマーガレットなので、抜かないでそのままにしてある。

この草取りをしている時、草の間にミニトマトを発見。最初は草だと思って抜きそうになったのだけれど、葉の形が普通の草とは異なり、トマト独特の匂いがしたのでよく見ると、小さな緑色のトマトの実がふたつなっていた。畑のトマトの種が風で飛ばされて、居間のドアの前辺りで自然に芽を出したものと思われる。がんばって育てようとしても育たないことがよくあるのに、自然に芽が出たトマトにちゃんと実がなっているなんて、自然というのはとても不思議。

2014年3月6日(木)

3月1日(土)に安見さんのところに孫娘さんが誕生した。4日の朝メールで知らせてくださった。お孫さんの名前は、Antonia Marie(アントニア・マリエ)ちゃん。まりえちゃんを抱いて一緒に写真に写っているのはまりえちゃんのお父さんだと思う。出産予定日は3月12日だったのだけれど、早まって28日に入院、3月1日に無事出産となったということだった。おじいちゃんおばあちゃんにとって、孫というのは特別な存在で、子供以上に可愛い存在らしいので、安見さんご夫妻もずいぶん喜んでおられることだろう。ブラジルではアメリカなどと同様、女の子が生まれると髪の毛が薄いからなのか、頭にヘアバンドをするのだけれど、まりえちゃんは髪の毛がふさふさしていて、ヘアバンドなしで、日本人の赤ちゃんみたいだと思った。

一方、先週のメールでメル友の鎌谷さんに、私たちの甥っ子が生まれたことを報告したら、鎌谷さんの長男さんのところも1月に男の子が生まれていたということが返信メールでわかった。「男の子の孫ができたことでこのブラジルにこれで私の血は絶えることなく、少なくとも私の生きている間は大丈夫との思いを強くしたのですが、同時にこれで本当によかったのか、ブラジルは本当に孫にとってもいままで以上に暮らしよい国になってくれるのだろうか、という将来に対する不安も少し出てきたことも事実です」と書いておられた。喜びと共に、自分の孫だからこそ、彼の将来を心配されている気持ちは何だかわかるような気がした。

2014年3月7日(金)

以下は、ニッケイ新聞2014年3月4日付け、ブラジルトピックス記事からの転載。

カーニバルの宴の後は=ゴミの山で明けたリオの街

『リオ・デ・ジャネイロ市でも2日夜からスペシャルグループによるカーニバルのパレードが始まったが、3日朝のリオの街はラッパ地区などの中心部(セントロ)や南部などでゴミの山が出来、市民や観光客から苦情の声が上がっている。

サンボドロモでの宴に酔いしれた人々やブロッコと呼ばれるサンバ集団について回った人々が投げ捨てたゴミや近隣の商店からのゴミ、一般住民が出すゴミも混じったゴミの山は、道路を塞ぎ、悪臭を巻き散らかす。

2日午後は市役所前で清掃夫達のストも起き、2月28日から清掃作業が滞っているとされるリオ市だが、市と契約した清掃会社は、司法当局が清掃夫のストは違法としたため、清掃業務は通常通りに行われたと説明しており、抗議行動を行った人々は自分達のカテゴリーの代表ではないと釈明している。

一方、ブロッコによるパレードなどの企画、管理を担当するドリーム・ファクトリ社は、ラッパやサンタテレーザ地区の主要な道路の清掃を手伝うため、1日がかりで人海戦略を展開し、道路の清掃を行うと文書で通達した。清掃用のトラック2台と約60人の人々による清掃作業は、市と契約している清掃会社を支援するためで、箒とちりとりを手にした人々が街に繰り出した。

清掃会社の言葉とは裏腹に、約1万5千人いる清掃夫の40%はストに参加しているとされ、行進に参加するブロッコが最も多く、サプカイのサンボドロモもあるセントロではほぼ全員がストに参加していると言う。サンボドロモの清掃に関しては、清掃夫が足りず、午後1時までに終わるはずの清掃は、終了予定を午後4時に変更して行われているのが実情だ。

清掃夫達の給与は月800レアルで、スト参加者は、月給を1200レアルに増額し、週末の仕事には残業手当を支払う事を要求しており、市役所が対話に応じるまでストを続ける予定だ。リオ地方労働裁判所は1日、清掃夫達のストは違法との判決を下し、清掃夫達の要求は簡単にはのんでもらえそうもないが、一部の清掃夫達がスト決行を前面に出している間、本当に泣きたい思いをするのは何の罪もない市民や観光客という事になりそうだ。(3日付フォーリャ紙サイト、G1サイトなどより)』

2014年3月8日(土)

広島の友人が送ってきてくれた「忘れられない日本人移民」という本の中に、ブラジル被爆者平和協会会長の森田隆さんのことも書かれていた。森田さんに関する記述のところまで読み終えて、とても懐かしく思い、森田さんと渡辺さん宛にメールを差し上げた。そうしたら森田さんは3月2日に卒寿のお誕生日を迎えられ、ますますお元気と渡辺さんから写真を添えた返信メールをいただいた。森田さんの被爆当時のお話は伺って海外リポートに記事を送ったことがあるけれど、子供の頃のことや、ブラジルに来られる前後のことまでは伺わなかったので、この本でさらに深く知ることになった。写真の森田さんは、福福しいお顔で、紫色の衣装がよく似合っておられる。それにしてもこの本は、著者の岡村淳さんの暖かい眼差しが隅々に感じられるとてもいい本で、読んでいて心が洗われるようだった。この本を送ってきてくれた友人には心から感謝。

2014年3月9日(日)

以下は、ニッケイ新聞2014年3月7日付け「日系社会ニュース」にあった、「黒碕薫さんが〃凱旋講演〃=『るろうに剣心』大ヒット=伯国は子供時代過ごした故郷=日系社会も作品に影響与え」という記事からの転載。

『世界的にヒットした時代物漫画『るろうに剣心』のストーリー協力をし、作家、脚本家でもある黒碕薫さん(45、神奈川)が来伯し、国際交流基金日本文化センター主催で伯国内3都市(マナウス、リオ、聖市)で講演会を行った。聖市では2月27日にピニェイロス区のFnacで開催された。父親の転勤に伴い小学生の数年間をブラジルで過ごした黒碕さんは、第2の故郷と思える国での〃凱旋講演〃となり、漫画やブラジルに対する熱い思いを語った。

講演前の記者会見では、伯人記者が熱のこもった質問を浴びせた。子どもの頃の当地体験がどう創作活動に影響を与えているかと訊ねると、「当時は本当に物がなかった。本も全然なかったので、図書館などにある本を片っ端から全部読んだ。それが作家としての今の自分を作ったと思う」と懐かしそうに語った。

当時の日系社会に関する印象を訊くと、「リベルダーデにマンガ貸し本屋があって、毎週の様に行っていた。在住していたのは35年前だったが、それ以前の古いマンガが沢山あって、それを読むのも楽しみだった。ねだって、よく連れて行ってもらった」と思い出し瞳を輝かせた。

伯人記者から「日本の歴史漫画なのになぜ海外で受け入れられたと思うか」との質問に、「侍モノは異国情緒があるのと、漫画なので歴史でも難しくないからでは。漫画を通じて歴史を知るのは日本人にとって知的でとても刺激的な事だと思うが、それは海外でも同じ事かも」と分析した。

以前の日本では漫画を読む事は、読書に比べ随分卑下される行為であったが、ここブラジルではその逆で、日本の漫画の普及のお陰で本を読む人も増えた。日系人以外にも日本語を勉強したり、日本語を覚える教材として使われる事が多いが、それに関してどう思うかとの質問には、「素晴らしい事だし漫画に携わる者として嬉しい。日本では漫画が認められない時間が長かったので文化に貢献できるのは光栄だ」と答えた。

このように外国で熱狂的に迎えられていることに対して、「創作というのは自分の中に深く潜って光る物を探し、それを自分の表面に出す作業。だから意識しているのはいつも自分自身。なのでこんな風に海外から反響を頂くのは本当に想定外でラッキーだったと思う」と謙虚に答えた。

さらに「ブラジルは私の故郷。サッカーで日本が勝ってもブラジルが勝っても『私の国が勝った!』と思う。有難うブラジルと感謝している」との心情を吐露した。

会見後の講演は立ち見まで出る盛況ぶり。来場者は男女関係なく様々な年代の人達がおり、漫画が海を渡り世代を超えて愛されている事を伺わせた。講演会では創作過程や、人気漫画家の仕事現場をスライドで紹介した。通常見られないプロの原稿や技術を堪能出来るので、スライドが変わるたびに会場はファン達の熱気に包まれた。

黒碕さんの「漫画を知ってもらいたい」という情熱と、凱旋という気持ちからか、掲載前の原稿コピーを持参するなどファンへのサービスに溢れており、会場全体が熱く盛り上がった講演会となった。』

2014年3月10日(月)

先月エドソンが少し収穫してきたカスターニャ・ド・マラニャォンの実を、先週の日曜日にパンやブラウニーを焼くついでに一緒にオーブンに入れてローストしてみた。歯触りはサクサクとして軽い食感で、味は大豆を炒ったような味でとてもおいしかった。おいしくてエドソンとふたりしてパクパクとすぐ食べてしまったので写真を撮り損ねてしまった。

次の写真は、先日エドソンが作ったタケノコ料理。彼は毎日2~3回、ミツバチのジャタイたちの様子を見に森に行く。時々貯水タンクのポンプのスイッチを入れて、丘の上の貯水タンクに水を汲み上げてくれる。そのついでに周辺を歩き回って森の状態を観察したりしているようだ。それで、先日タケノコを見つけて3本採ってきたので、食べてみようということになった。細いタケノコなので、皮をむくとココナツの芯のパウミットのような感じになった。それを茹でた後、薄く切って、トマトと一緒に煮てできあがり。以前、パラカンビのお母さんが作ってくれた料理に似ている。エリゼウの話だとこのタケノコは食べることができるということだったのだけれど、あいにく味はタケノコというよりもちょっと苦いパウミットという感じで、食べられなくはないけれど、食用にはあまり向かないかなと思った。残念。

2014年3月11日(火)

ずっと以前、ペドレイロのエディがまだここで毎日作業をしてくれていた頃、壊れたカートをうちの庭に持ってきて、桜の木の側に置いた。きれいな花がたくさん咲いてきれいだからと言うことだったので、すっかり枯れてきれいとは言えないものだったけれど、その後もずっとそこに置いたままにしていたら、毎年いろいろな草が生えて、時々小さな花を咲かせたりしていた。この夏は日照りでこのカートの草はずっとカラカラに枯れたままで、見る影もなかったけれど、2月下旬から時々雨が降るようになると、見る見る緑に被われて、今では大きな葉のクローバーがぎっしり生え、ピンク色の花を咲かせている。

次の写真は、玄関を出たところから撮影した家の西側の風景。ここに6本植えた桜の木(沖縄桜)がだいぶ大きくなって、地面はアメンドインでほぼ覆い尽くされていい感じになってきている。緑のアメンドインの中にたくさんある小さな黄色いものは、アメンドインの花。一方、階段に沿って植えたサツキはなかなか大きくならないなと思って、去年の今頃の写真を見ると、桜よりも成長の速度は遅いけれど、去年に比べればだいぶ成長していることが確認できた。みんながんばっている。

2014年3月12日(水)

広島の友人が3月初めに縮景園に行ったら、梅が満開だったと、その写真を送ってきてくれた。あちらはこれから春に向かい、こちらはこれから秋に向かう。日本は春には梅や桜が咲き、秋には紅葉と、四季折々に季節を感じることができていいなあと思う。一方こちらは秋とは言っても、紅葉は見られない。落葉樹は紅葉することなく、いつのまにか葉が枯れて落葉する。秋はマナカという木がピンクと白の花を咲かせるけれど、こういう鮮やかな色は秋というよりも春という感じがするので、秋だなあ~という感じはあまりしない。しかも日本では春に咲く桜がここでは冬に咲くのだから調子が狂う。暑い寒い涼しい以外には、日本のように四季を感じることはできないけれど、一年中何かしら花が咲いているここの環境も悪くないと思っている。それによく観察していると、夏の終わりから秋にかけてのこの時期には、ツクツクボウシではないけれど、この時期だけ鳴くセミの声がするようになるし、空気も夏の空気から秋の空気に変わるような気がする。

2014年3月13日(木)

ちょうど去年の今頃、畑で初めて育てた枝豆を収穫してみて、小ぶりだけれど、まずまずの出来でうれしかったことを思い出す。今年もそろそろいいかなと思い、実のふくれたものを選んで少し収穫してみた。豆は去年以上に小ぶりだけれど、傷のないきれいな枝豆ができている。収穫した枝豆を何度も水洗いした後、重量を計ってみたら500グラム弱あった。半分を茹でてすぐ食べられるようにして、半分はタッパーに入れて冷蔵保存することにした。日本では枝豆は夏のビールのお供だけれど、ここでは秋にならないと収穫できないので暑い夏のビールのお供というわけにはいかず、季節がちょっとずれている。でも、これからしばらく毎日のように枝豆が食べられる幸せに感謝。

2014年3月14日(金)

先週エドソンは毎日少しずつワークスペースの片付けをしていた。ついでに気分を変えるためにレイアウトを変更するというので、右の壁側にあった机を奥の窓側に移動させたり、左側の本棚の奥にあったソファーを右側手前の壁のところに移動させる際は私も手伝った。以前は机の上にコンピュータのモニター3台、ラップトップが1台、無線機が2台や、その他の機材がところ狭しと並んでいたけれど、今は机の上の機材の数がぐっと減り、机の後ろから床を這うワイアーの数も激減し、何だかとてもすっきりしてしまっている。左側の本棚の前のコンピュータは落雷で壊れてしまったもののひとつ。この写真を撮った時は、まだ下のガレージに移動する前だったので、画面に入ってしまった。

2014年3月15日(土)

以下は、ニッケイ新聞2014年3月12日付け「コラム 樹海」からの転載。

『在聖総領事館主催の「日系市長と若手日系リーダーとの交流会」で、小野ジャミール市長が言った「大農場主などの金持しかなれなかった市長に、農夫の息子の私が当選できたのは、ジャポネースへの信頼感が強いから」との言葉に感じ入った。福島県人会長時代と変わらない訥々とした話しぶりで「選挙運動に100万レアル以上使っただろうと良く聞かれるが、15万しか使っていない」という姿に日系政治家の矜持を感じた▼樋口マルコス市長も「州と連邦は、市の税収から上前をはねる。連邦はその金で巨額の政策を実行し、しかも会計監査は市に対するものよりゆるい」と市政の難しさを説いた。「市が地元ラジオで広報をしても2、3千レアルしか使えないが、連邦政府がいくらテレビ放送しても誰も文句を言わない」▼援協イッペランジア・ホームに免税許可を出さなかったスザノ市のトクズミ・パウロ市長には一つの先入観を持っていた。だが日系市長だからこそ、日系団体を特別扱いすると政敵から標的とされる。70件も裁判を抱える彼ゆえに免税にできなかったのだと痛感した。「日系政治家だから大丈夫」と厚意を期待できるほど政治情勢は甘くない。アラブ系などに比べれば百戦錬磨が少ない証拠でもある▼「政界の現実を知り、我々はもっとインテリジェンチになる必要がある」と言っていた市長がいた。伯人政治家のマリシア(ずる賢さ)に対抗できるような、日系的な〃知恵〃を身に着ける必要がある。汚職蔓延の現実において、真面目さを売りにするだけでは、日系政治家はこの国を良くできない。今後の日系人全体の存在価値を深く問う箴言だ。(深)』

2014年3月16日(日)

次の写真は、エリゼウがカーニバル休暇で実家に帰省して、お土産に持って帰ってきてくれた豆。インゲン(左側)よりも少し長く、緑が濃い。これを塩茹ですると枝豆と同じようにさやの中の豆を食べることができるのだそうだ。細くて皮が柔らかいものはインゲンと同じように皮ごと調理して食べることもできるということだった。ブラジルにはいろんな植物があるんだなあ・・・。

次の写真は、上の写真の豆を枯らしたような感じだけれど、これは木の種。さやの中にたくさん種がある。左側に置いたステーキナイフよりも少し長い。エリゼウはいつも私たちにいろいろなことを教えてくれ、ここでの田舎暮らしをより豊かで楽しいものにする手助けをしてくれる。でも、それも後1ヶ月あまりで終わりになる。ドナ・ベティのファゼンダの仕事を4月一杯で辞めて、ミナスジェライス州アラスアイーの実家に帰ることにしたのだという。カーニバル休暇で帰省する前、我が家に来た際、彼の決断を聞き、エドソンとふたりとても残念で悲しく、涙が出そうになった。去年の今頃、辞めると言っていたけれど、もうしばらくいて欲しいというドナ・ベティらの要請で、彼が指摘した様々な問題が改善されるかどうかを見極めてから、再度考えてみることにして、この一年仕事をしてきたけれど、やはり何も改善されなかったので、もうこれ以上自分はここにいても意味がないと判断したようだった。ドナ・ベティの周りにいる人たちの中でエリゼウは一番の得がたい宝物のような人なのに、それを認識することなく、彼を手放すなんて気が知れない。そして、エリゼウは私たちがここで一番信頼できて、一番親しくしている友人なので、そんな人を失うのかと思うと、気が滅入る。ドナ・ベティのファゼンダで働いているヒバマーやゼーたちスタッフも、エリゼウが皆から尊敬されるとてもいいマネージャーだったので、このニュースにとてもがっかりしているとエドソンが言っていた。

2014年3月17日(月)

以下は、ニッケイ新聞2014年3月14日付け「コラム 樹海」からの転載。

『米国フォーブス誌の2014年版「世界長者番付」によると、資産10億ドル以上の億万長者は1645人いる。最も富豪が多いのは米国人で492人、世界の富がいかに米国の一部に集中しているかを如実に示すリストだ。次に中国人152人、ロシア人111人、ドイツ人85人、その次がなんとブラジル人65人で5番目だ。次が英国人47人、フランス人43人だ▼実は日本人は27人しかいない。ブラジルの半分以下だが、見方を変えればそれだけ格差が少ない社会といえる。逆にブラジルは昨年の46人から65人に急増した。世界第3位の経済大国より、7位の伯国に金持ちが多い▼昨年『エポカ』誌7月号に「2050年までに世界の貧困者は30億人に増える」との記事が出た。国連発表によれば現在、世界人口70億人中の10億人が貧困状態にあり、90億人に達する2050年には貧困者が3倍になると予測される。つまり格差は拡大し続ける▼ただし、伯国内だけみれば、昨年10月に開始10周年を祝ったボウサ・ファミリア(以下BF)などの政策により、中流階級が大幅に増えた。同政策は伯国人口の実に4分の1に当たる1380万家族(約5千万人)の貧困家庭に、国庫から毎年240億レアルを配っている▼4日付エスタード紙には「W杯まで100日」特集が組まれ、《W杯にかかる総経費は最終的に300億レアル》との予測も出た。つまりBFの1年分よりはるかに大きな金額な訳だ。ちなみに伯国人一の億万長者(34位)のジョルジェ・レマン氏の資産額は約464億レアル、BFの2年分近い…。やはり長者増は単純に喜べない気がする。(深)』

以下も、同じくニッケイ新聞2014年3月15日付け「コラム オーリャ!」からの転載。

『旅行好きの日系二世の女性と話していて、行方不明機のことからマレーシアの不思議に話題が広がった。マレーシア人以外に中国人、インド人が暮らしており、それぞれに他民族と関わるのを避けているそうだ。

例えば交通事故が起き、相手が他民族だと、カッとなるのを抑えて冷静に連絡先を交換して後は保険会社を通して…となるそう。「ブラジルだったらもう大変なことになるのにね」と両国の違いを可笑しがる。

経済の悪化に応じて欧州では保守政党が躍進し、移民への風当たりが強くなっている。日本でも最近インターネット上で外国人差別発言が多発し問題化している。

ブラジルは多民族国家だが国内に人種、民族、宗教の争いは少ない。世界からすると、むしろブラジルの方が余程不思議な存在かもしれない。(石)』

2014年3月18日(火)

次の写真は、私たちの夕飯が終わり、はるの夕飯を出す前に、じゃれあっているエドソンとはる。はるは私たちがしゃがんだり、床に寝っ転がったりすると、必ず、私たちの体の上に乗ってきてじゃれるのだけれど、これがその証拠写真。エドソンが台所の床にわざと寝っ転がると、彼の体の上にあがってうれしくてたまらないという感じで、エドソンの体の上で動き回っていた。そういう私たちもはるとじゃれあうのはとても楽しく、気持ちが和む。家の中では、はるはまるで私たちの影のように、私たちが動くと必ずぴったりくっついてはるも動く。はるは寝ていても、私たちが動けばすぐに目を覚ましてベッドから飛び出してくる。彼女の神経は100%常に私たちに向けられているのがわかる。こんなはるの存在は、私たちにはなくてはならないものになっている。

2014年3月19日(水)

以下は、ニッケイ新聞2014年3月12日付け日系社会ニュースからの転載。

刊行=『上塚司のアマゾン開拓事業』=孫芳郎、中野順夫氏が共著

『アマゾニア産業研究所の80周年を記念し、上塚芳郎、中野順夫さんが『上塚司のアマゾン開拓事業』を昨年に刊行した。限定500部。高野書店で販売中(協力費として100レアル)。

上塚のおいたちと植民思想に触れ、ヴィラ・アマゾニア建設、アンディラー模範植民地、アマゾニア産業株式会社、ジュート産業など、戦前の日本人アマゾン移民史を補う貴重な一冊だ。

明治維新後の農村事情から、当地の農業事情を踏まえ、田付七太大使の視察や福原八郎による調査団、国士舘、日本高等拓殖学校の拓殖教育など、移民を送りだす日本側の動向にも迫った。

芳郎さんは52年東京生まれで、上塚司の孫。77年北里大学医学部を卒業し、05年には東京女子医大教授に就任した。共著に『抗凝固薬の適正な使い方』(医療薬出版・08年)ほか。

中野順夫さんは43年北海道生まれで、70年にブラジル移住。以来農業に従事し、『コチアの解散』や『ブラジルにおける有機農業』などの報告がある。

問い合わせは高野書店(11・3209・3313)まで。』

以下も、ニッケイ新聞2014年3月18日付けブラジル国内ニュースからの転載。カンタレイラ水系というのはサンパウロやカンピーナス、グアルーリョスなどサンパウロ州東部の大都市に水を供給している水源で、もうずいぶん前から水不足が懸念されていたけれど、いよいよ大変なことになってきたようだ。一方、昨年9月から始まった北伯マデイラ川の増水が最高水位を更新中で、川の水位は19メートルを超え、感染症なども報告されているという。この広いブラジル、雨が降らず水不足の地域があるかと思えば、ボリビアの大雨やアンデスの雪解けなどが原因らしいのだけれど、町が浸水している地域もある。自然とうまく共存して行くことはなかなか難しい。

カンタレイラに渇水警告=W杯開催期の7月に突入か

『猛暑と少雨のために史上最悪の貯水量となっている聖州カンタレイラ水系が7月に渇水状態になる見込みと、監視委員会が発表したと17日付エスタード紙が報じた。

この委員会は国家水資源庁と聖州水資源エネルギー局が設置したもので、カンタレイラ水系の貯水池の水位の変化を逐一観察。2月の時点での渇水予測は8月からだったが、それが前倒しされた。この場合の渇水は通常のポンプで吸い上げられるところの水がなくなるという意味で、取水口より下の水を利用すれば4千億リットルの水は確保できるという。

ただし、この部分の水の吸い上げには通常のポンプが使えず、湖底の泥なども混じるため、聖州水道会社は2月に外部の業者と契約し、湖底にブロックなどを沈めて水位を上げ、新しいポンプを設置するなどの準備を始める意向だ。

同水系からの水を購入していたグアルーリョス市は供給量が削減され、給水制限が始められた。』

2014年3月20日(木)

先日、エリゼウからもらって、このブログに写真をアップしたインゲンのような緑色の長い豆は、フェイジャオン・デ・コーダと言うのだそうだ。塩茹でして食べてみると、枝豆の味とは違う。でも、どこかで食べたことがある味。エドソンとしばらく考えて、この味はおたふく豆だと気づいた。豆が長いので、半分に切って塩茹でし、その後さやから豆を取り出してから、そのままスプーンですくって食べた。おいしかった!

それからもうひとつの、茶色の枯れたような豆は、インド原産のモリンガという木の種だった。日本名はワサビノキと言うのだそうだ。葉・花・樹皮・果実のさやなどに、ワサビに似た香味があるところから名付けられたといわれると、ウィキペディアにあった。ただ、熱帯から亜熱帯にかけて分布する木なので、日本では天草地方や小豆島などで栽培されているだけらしい。この種子からとれたモリンガ油は、時計用にも用いられるような最高級のマシンオイル(機械油)とされているそうで、たんぱく質、繊維、各種ミネラル、各種ビタミン、アミノ酸などの栄養素を極めて高いレベル、しかもバランス良く含んでいるともあった。タイ料理やビルマ料理にはこのモリンガを使ったものがあるらしい。

2014年3月21日(金)

昨日広島の兄から、14日(金)に次男の賢志のところに男の子が無事誕生したと連絡があった。最初の子どもの名前はひらがなで「すみれ」だったけれど、今回は漢字一文字で「葵」とあった。生まれて間もない写真を比べると、すみれちゃんよりも大きくて元気そうな男の子だ。顔は、お母さんのまるちゃん似なのかな?今年は私たちの身近で赤ちゃん誕生というニュースが続き、ベビーラッシュの様相を呈している。命がつながって行くというのはすばらしいことだなあと思う。

2014年3月22日(土)

今月はカシャサ(Cachaça=俗称:ピンガ、サトウキビから作られるブラジルの蒸留酒)の当たり月になった。先週、エリゼウがいつものお母さんの手作りチーズや、彼の実家で採れた豆などをお土産に持って来てくれた。その際、高品質のカシャサ生産で有名なミナス・ジェライス州のカシャサを1瓶持って来てくれたのに加えて、昨日は、バウルに住むデミウソンが、サンパウロでの仕事の帰りに、うちに立ち寄り、製造元は違うけれど、やはり同じミナス・ジェライス州のカシャサを1瓶お土産に持って来てくれた。普通、カシャサはそのままではなく、ライムの絞り汁と砂糖を混ぜたカイピリーニャと呼ばれるカクテルのようなものを作って飲むのだけれど、シュハスコの際に作って飲むくらいで、普段何でもないときに飲んだりはしない。それで、しばらく出番はなさそう。でも、腐るものではないので、ありがたくいただき、遠来のお客さんに出す機会が来るのを楽しみにしていようと思う。

2014年3月23日(日)

昨年、モビが亡くなりしばらくした頃だったろうか、サンパウロの岡井さんから電話があり、輪湖俊午郎氏の著書「流転の跡」を、数ヶ月かけてポルトガル語に訳し、完成した翻訳原稿をペレイラ・バヘット在住の輪湖氏のご家族(ふたりのご子息はすでに亡くなっており、現在はご次男の奥さんが一族をまとめておられるので、その五月さんに)送った。でも、それを印刷出版する資金がないからか、どうにもならずそのままになっている。それで、家族に出版の意志がないのであれば、出版されないまでも、あなたのところで持っておいてもらえば、何かの機会に日の目を見ることもあるかもしれない。だから、あなたのところにその原稿を送ってもらおうと思うのだが・・・。というようなお話だった。私にだって本を自費出版するような資金はないけれど、インターネット上で公開することはできるかもしれないと思い、とにかく原稿をお預かりすることに同意した。

その後、五月さんから2度ほど電話があり、こちらの住所やメールアドレスを聞いてこられたのだけど、いつまで経っても何も届かないので、何度か五月さんにお電話をしてみるものの、いつもお留守で電話がつながらない。そうこうするうちに時間だけが経過して行った。それで、香山さんに五月さんの住所がわかれば教えてくださいとメールしたのだけれど、電話番号しかわからないという返事。次に、メールをされない岡井さんにはお手紙を書いて、その後の経過をご報告して、五月さんの住所をお尋ねすると、電話をくださり、「これまで待っても届かないということは、家族にその気がないということだろうから、もういいです。私も年で体調も悪く入退院を繰り返しているような状態で、これ以上もう何もできないから諦めます」と言われ、五月さんの住所も原稿のコピーがあるかどうかも教えていただけなかった。

せっかくの岡井さんの労作を埋もれさせるのはあまりにも心苦しいので、五月さんに再度電話をしてみようと思いつつ、日々の生活に埋もれ、ついつい電話することを忘れ、また月日だけが経過し年が明けてしまった。そして、今月、カーニバル休暇が終わってから、思い立ってようやくお電話してみることにした。幸いにも今回はご本人とお話することができた。でも、もうとっくの昔に郵送したと言われるのだけれど、こちらには何も届いていない。ここはすごい田舎町だけれど、これまで郵便が届かなかったことはない。大切な翻訳原稿を紛失してしまったのかと、背筋が凍った。でも幸いCDで送られてきた原稿のコピーをちゃんと取っておられるということで、今度はそのコピーをメールに添付して送っていただく約束を取り付けた。そして、今月20(木)に五月さんの娘さんからようやくその265ページの労作「O RASTRO DA VIDA NOMADE」が届いた。ずっと構想だけで実現していない「香山文庫」のウェブサイトを何とか実現させて、この翻訳原稿をそのサイトに掲載したいと願っている今日この頃。

2014年3月24日(月)

先日、はるとのお散歩に出た際、庭の桜の木の間から遠くに赤い屋根が見えるのに気づいた。一瞬、「あれっ?」と思ったけれど、すぐに、カロリナソイルからこちらに向かってくるすぐのところにあるファゼンダの入り口近くで新しく建設中の家があったことを思い出した。10日ほど前、ボトゥカトゥからの帰りにその側を通った際、屋根の建設が始まっていたけれど、もうできたんだとびっくり。次の写真の中央の緑の中に、うっすら赤い屋根が見えるのがそれ。

2014年3月25日(火)

次の写真は、我が家で料理に使っている油三種。左から、カノーラオイル750ml、エクストラバージンオリーブオイル500ml、ココナツオイル200ml。値段は量に反比例して、カノーラオイルが6.29レアル(約300円)、エクストラバージンオイルが14.90レアル(約700円)、ココナツオイルが23.49レアル(約1100円)。カノーラオイルは揚げ物などお料理全般に使い、オリーブオイルはサラダドレッシングを作るときや、お肉をオーブンで焼くときなどに使い、ココナツオイルは朝食用のパン生地やケーキを作るときなどに使っている。ココナツオイルはオリーブオイル以上にとても体にいいらしく、先月エドソンが買ってきたので使ってみたら、焼きあがったパンにかすかにココナツの香りがして、パンもおいしくなったように感じたので、以来、少しずつ使っている。でも、量が少ないのに値段がとても高いので、かなりの貴重品。

2014年3月26日(水)

10日あまり前に、夏のような暑い日が数日戻ってきて、先週、何度か雨が降った後、また涼しくなった。月曜日にはさらに気温が下がり、ちょっと寒くなった。さすがにエドソンも半袖Tシャツだけでは寒いので、その上に長袖のシャツを着込んでいる。昨日の朝のお散歩で、森の緑の中にピンク色の花が見えたので、マナカが咲き始めたのかと思い、行ってみると、クアレズマの花だった。家の前の庭にあるクアレズマはずいぶん前に花が終わってしまっているけれど、森の近くのジャタイの棚の周辺では5~6本のクワレズマが花盛りだった。

次の写真は、森から少し上がってきて、いろいろな種類の果物の苗を植えた果樹園のところから森を振り返って、上の写真のクアレズマ(中央のピンク色)の辺りを撮影したもの。この果樹園の木々はまだ小さいけれど、ヒバマーに丹念に草を取ってもらっているので、植えたときに比べれば、だいぶ大きくなってきている。

2014年3月27日(木)

次の写真は、家の北側の防風林のカエデ(左)と桜(右)の列の間に、ポツポツと移植したゴールデンカモミルの列。半年余り前にエドソンが移植してくれ、私も移植したばかりの頃は時々水をやって枯らさないようにしていたら、元気に大きく育ってくれた。後は放っておいても種が散って増えて行くだろうと思う。カエデと桜の木の足元のアメンドインも広がってきている。

一方、庭のゴールデンカモミルは以前よりもさらに広がって、元気にしている。

2014年3月28日(金)

次の写真は、アメンドインの花の形がよく見えるように、近距離から撮ったもの。ブラキアーリアを駆逐するためにアメンドインをあちこちに植えているのだけれど、アメンドインが地面を覆うと、緑の絨毯が敷き詰められたようになるので、とてもいい。

次の写真は、家の南側の三角地帯に下りて行く斜面の土砂崩れを防ぐために植えたアメンドイン。植えてから半年以上経過しているので、かなり広がってきている。4年くらい前に、家の建設工事が始まったばかりの頃、ここに植えたアメンドインはまったく育たなかったけれど、この2度目の挑戦で、今ではいい感じになってきている。

2014年3月29日(土)

次の写真は、エドソンがインターネット上の新聞記事で見つけたもので、これは今年のW杯サッカーで日本代表チームがキャンプ地として使うことになっているサンパウロ州イトゥーのリゾート施設。工事がかなり遅れているということだったけれど、やっと完成したのかな?

2014年3月30日(日)

以下は、ニッケイ新聞2014年3月27日付け「コラム 樹海」からの転載。この記事を読んで「過剰露出文化」と性的な早熟というのは相関関係にあるのかもしれないと思った。ブラジルの子どもの性体験年齢はどんどん下がっていて、最近の調査では、初体験が8歳にまで下がっているらしい。だから子どもが子どもを生むという事態になっている。当然のことながら、そうなると学校へは行かなくなるため、生きて行く上で必要最低限の知識を身につけることも、おおらかに子ども時代を過ごすこともなく、心は置き去りにして、ひとっ飛びに体だけ大人になるというのは、いかにも可哀相だなと思う。

『日本では独自の「カワイイ文化」の一つの到達点として、女性がお嬢様風の洋服やカールした髪、付けまつげで可愛さを追求するロリータ・ファッションが流行っており、一説には100万人も愛好者がいるという▼当地でも10年ほど前から愛好者が増えだした。今では約1万人もおり、しかも大半が非日系人だとか。昨月は日本風ファッションの普及を目指す「J―ファッション協会」が設立され勢いがつきそうだ―と思っていたが、設立趣旨をよく読むと「イジメと戦う」との気になる一文があった▼その意図を佐藤クリスチアーニ会長に尋ねると、「昔はリベルダーデ辺りにもロリータ・ファッションの子が歩いていた。でもブラジルではこういう服装は幼稚と思われて、物を投げつけられたり陰口をたたかれたりする」という。特に教育水準の低い層がこうした心無い行為に走りがちとか▼一方、当地の女性は幼い時から過剰なまでに色気を追求することが成熟の証とする、過剰露出文化があるように見える。全身を奥ゆかしく包む「隠す美」で「幼児風」のロリータ・ファッションとはある意味、対極の女性美のあり方かもしれない▼それもあって、理解できない異物として排除しようとするのか。この種の行為は「寛容で懐の深い国ブラジル」といえど、他国と変わりない。文化の輸入に現地化はつきものと考えれば、胸元の一つでも開けて〃現地化〃するという手もある。でも、そうすると文化の本質が損なわれると危惧する声も。カワイイ文化ならではの方法で、どう差別を乗り越えて普及するか―協会の手腕が試されそうだ。(阿)』

2014年3月31日(月)

以下も、ニッケイ新聞2014年3月28日付け「コラム 樹海」からの転載。

他人事でないウクライナ

『当地では11年10月にウクライナ移民120周年が祝われ、同国のヤヌコーヴィチ大統領(=当時、現在はロシアに亡命し法的大統領を主張)が来伯した。文協でも同9月28日の民族芸能祭に各国総領事館代表らが特別に出席して祝った▼そのウクライナのクリミア地方がロシアに編入されたことで緊張が高まっている。伯国の視点からみると、ウクライナ移民と日本移民には、移住した動機が日露戦争前後のロシアを軸とする国際紛争と経済不況という共通点があり、洋の東か西かの問題であって歴史的〃双子〃のような存在だ▼ロシアは年中使える不凍港を求めて南下政策をとり、ウクライナやバルカン半島、極東に拠点を確保するために戦争を繰り返してきた。今回もそうだとの説を読んだ。ウクライナ新政権はEU寄りで、ロシアの重要軍事拠点だったクリミアから黒海艦隊を追い出し、米海軍、NATO軍に駐留させようとしたからロシアが怒って軍を駐留させたという▼ウクライナに紛争が起きて行き詰ると、矛先がいずれ極東に向くのではという恐怖感がある。日露戦争前の1895年から1920年代までの間がウクライナ移民のピークで5万人が伯国南部へ移住し、中南米最大の集住地(約100万人)となった。一方、日本移民は日露戦争直後に当地移住を開始し、戦前だけで約20万人が渡った▼そんな風にあちらで起きたことが10年、20年後に日本側でも起きる印象がある。1986年にウクライナのチェルノブイリで起きた原発事故もそうだった。その25年後、福島原発事故が起きてしまった。ウクライナ問題はどこか他人事に思えない。(深)(※訂正=26日付け本欄で「セアラー州(州都マセイオ)」とあったのは、正しくは「フォルタレーザ」)』



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