Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2013年12月1日(日)

次の写真は、丘の上の防風林の外側に1株だけ植えたヒメシマダケ。植えてからずっと新芽が出ず、小さいままだったけれど、今年は親竹よりも何倍も背の高い新芽が出てきて、私たちを驚かせてくれた。今年の冬は雨が多かったので、竹の成長を促したのだろうか?このヒメシマダケの前後に植わっているのは、コロアデクリスト。このラインよりも左側はヒバマーに時々草刈りをしてもらっているので、うちの庭の一部という感覚なのだけれど、これよりも右側はブラキアーリアで草ボウボウの大地。

次の写真は、種から育てて、ここに植え替えたクヌギ。同じような小さな苗を2つ植えたのだけれど、左側はだいぶ大きく育ち、右側は植えた時と比べ多少大きくなっている程度で、まだまだとても小さい。植物の成長を見ていると、同じ時期に同じような苗を同じような環境に植えても、成長のスピードにとても大きな差があるのに驚く。でも人間も同じようなものかもしれないと時々思う。それが自然というものなのかな?このクヌギの後ろのセドリーニョも、同じ頃にとても小さな苗を植えたのに、今では2メートルを優に越える高さに育っている。

2013年12月2日(月)

今、ニッケイ新聞で連載されている「日本の水が飲みたい」という小説が、何だかとてもおもしろく、興味深く読んでいる。この小説の主要な登場人物は、元警察官で現在サンパウロで旅行代理店を経営している日系二世のジョージさんと、日本から無謀にも何のつてもなくひょっこりブラジルにやって来た中嶋和尚という若いお坊さん。このお坊さんサンパウロに着いてすぐ、空港近くで強盗に襲われそうになり走って逃げているところを、ジョージさんが助けるところから物語は始まった。ジョージさんがいろいろ調べてくれたお陰で中島和尚が訪ねたいと思っていた僧侶はすでに日本に帰国後亡くなっていることがわかり、さてどうするかという時、リベルダージでの移民法要を頼まれて行ったことから、今度はアマゾンに法要に行くことになり、現在、アマゾンの密林を進んでいるところ。この小説の中に出てくる様々な仏様や観音様などの説明や、仏教的な解説や表現がおもしろい。例えば、30日付けのストーリーの中に、アマゾンの密林の入り口を『閻魔大王』がいる様な所だと中島和尚が感じた後、アマゾンでの法要を頼んで和尚をアマゾンに連れて来た西谷さんとの間で、次のような会話をしている。 へえっ~、エンマ様ってそういう人なの・・・?知らなかった。

「いよいよ密林です」
高い大木で包まれ、中嶋和尚は、地球中空説に出てくる様な未知の世界、超常現象の別世界に飛び込んだ気がした。
「いま通った密林の入口は『閻魔大王』がいる様な所でしたね」
「死者を地獄に落とす方ですよね」
「いえ、そんな方ではありませんでした。古代インドでは太陽の子で『この世で初めて死んだ者』と云われ、あの世への道を発見し、死者が出れば自分の天上の楽土へ導いてくれていましたが、紀元前二世紀になって、死者が正しい事を言えば微笑み、嘘を言えば怖い表情になる『人頭幢(にんとうどう)』と云う嘘発見器みたいな杖を持ってからは今の役割をする神になり、そして、お釈迦さまに説得されて仏さまになったのです」
「あの恐ろしい地獄の『閻魔大王』が仏だとは・・・」
「本来は優しい方だったのですけど、今の赤ら顔の憤怒(ふんぬ)な顔になったのは中国で作られたイメージで、下界をも支配して、死の神、地獄の王となられたのです。・・・、『閻魔大王』や『阿修羅』に代表される古代インドの異教の神々は、お釈迦さまに説得され、仏界の守護神として融合していったのです」
「日本にも古来の神々がおられたでしょう。仏教に帰依したのですか?」
「日本には古来から神道があります。その神道は、神楽に代表される、おめでたい行事にはいいのですが、反対に死者に対しての宗教的ケアーを満たせませんでした。それで、それを満足させてくれる仏教が役割分担としてスムーズに受け入れられたのです。奈良時代から『神仏習合』と云われ、神社とお寺が『敬神崇仏(けいしんそうふつ)』と云う形でお互いに尊敬しあって共存してきました」

2013年12月3日(火)

ペトロポリスの安見さんは、文化祭等の案内を作るのに必要だからと、今年4ヶ月CorelDRAWのコースを、今はPhotoshopのコースをご夫婦で一緒に受けておられるそう。そして、その練習問題で画面の一部を入れ替えたり、色を変えたりといろいろの操作をして作ったものですと言って、夕焼け空に映える生け花や、闇夜に浮かぶハイビスカス一輪などの写真を送ってきてくださった。夫婦一緒に新しいことに取り組んでおられるところが何ともいい。おふたりは本当に意欲的にいろいろなことに取り組まれるなあ・・・と脱帽。次の写真は、夕焼け空に映える生花。

そして、先日、CEFET ( Centro Federal de Educação Tecnológica de Petrópolis )技術大学の「春の文化祭」で、ドイツデー、イタリアデー、日本デーが各一日づつあり、その内の日本デーに招待されて参加。「ドイツ、イタリアは大きいコロニアだが、小さい日本も呼んでくれてありがとうといいました」と、メールにあった。次の写真は、たくさん送ってきてくださった写真の一部で、一枚目は合気道のデモンストレーションの様子で、二枚目は安見さんが挨拶しておられる写真のようだ。送ってきてくださった写真は、この他にもコスプレや折り紙のワークショップやJポップの会場のものなどがあった。

2013年12月4日(水)

先週、ヴィラ・シーコにはるを預けた際、ヴィラ・シーコのロビーにはクリスマスツリーなどの飾り付けがされていて、ボトゥカトゥの眼科や店などでもクリスマスムード一色だったので、我が家でも12月に入ってすぐ1日の日曜日に、例年のように、玄関ドアにクリスマスリースを飾ったり、台所と居間の間のカウンターテーブルの上にクリスマスツリーを飾った。クリスマスツリーはいつも年が明けてから敷地内に地植えするのだけれど、去年の木はどこに植えるか決めかねて、ベランダに出したままにしていたので、今年は新しい木を買わず、その木を再利用することにした。でも、ベランダにある時は気づかなかったのだけれど、カウンターテーブルの上に上げてみると、木のてっぺんがほとんど天井に触れそうで、この1年の間に40センチ以上成長していて、さすがに来年のクリスマスでは使えないねと、エドソンと笑った。

2013年12月5日(木)

東京で暮らしていた頃、エドソンは業務が始まる前にコンピュータシステムのチェックを完了するために、曜日によって7時か7時半までに会社に着くように、家を6時か6時半に出ていた。そういう早い時間は、お腹がまだ目覚めておらず、食欲がないというので、朝ご飯は果物と野菜の手作りジュースと、ヨーグルトだけを食べて出勤していた。でも、ブラジルに来てからは普通の時間に起きるようになり、ちゃんと朝ご飯を食べるようになった。そして、ポルトガル語で朝食のことをカフェ・ダ・マニャン(朝のコーヒー)というように、それまで家であまり飲むことのなかったコーヒーを朝食で飲むようになった。でも、2ヶ月くらい前に手伝いのゼーから目にいいという葉物野菜をもらって以来、コーヒーは週末だけにして、平日は果物と野菜のジュースを作ってというので、週に1度の買い物で手に入る果物と、ゼーからもらった葉物野菜か、我が家の畑のコウヴィで、ジュースを作って飲むようになった。次の写真は、今週飲んでいるジュースの材料で、りんご、バナナ、桃、オレンジ、パイナップル、そしてコウヴィ。2枚目の写真は、この材料をミキサーで混ぜて出来上がった2人分のジュース。このジュースには緑の葉物野菜とりんごとバナナは必ず使うけれど、その他の材料は、いちごやマンゴーやキウィーやニンジンに入れ替わることもある。

2013年12月6日(金)

今週は毎日暑い日が続いている。最高気温は30度あるかないかで、それほど高くはないのだけれど、日差しが強く、湿度が70%前後あるからか、家の中にいてもとても暑く感じる。こんな風に暑い日が続くと、夕方ザーっと激しい風が吹き、雷を伴う雨が降り、気温がぐんと下がることがある。昨日はこの夕立が降った後、涼しくなり、ほっと一息つくことができた。この水曜日はあまり強い風が吹いていなかったので、夕飯にエドソンがシュハスコのかまどで魚を焼いてくれた。この魚は先週ボトゥカトゥに行った際、エドソンが選んで買ったもの。頭と尾ひれは切り落とされ、うろこと内臓もきれいに処理されていた。海の魚というだけで、日本語で何と言う魚なのかわからないので、どんな味かちょっと不安があったけれど、焼きあがって、ライムの絞り汁をかけて食べてみると淡白な味で、その味は広島で暮らしていた頃に食べた記憶がある。でも、どうしても魚の名前が出てこない。何はともあれ、ブラジルで初めての焼き魚は成功で、おいしくいただいた。

2013年12月7日(土)

南アフリカ元大統領のネルソン・マンデラ氏が5日(木)、95歳で亡くなった。翌6日(金)の夜のテレビニュースは、ブラジルのグロボもイギリスのBBCもアメリカのCNNも、どのチャンネルを回してもマンデラ氏の追悼特集番組をしていた。

以下は、ニッケイ新聞2013年12月6日付け「コラム 樹海」からの転載。満州に移住した人たちは、戦後の混乱の中で命を落とし日本に帰国できなかった人も少なくない。その他中国に取り残された残留孤児の問題が長く尾を引いているけれど、永田稠が満州に建設した力行村に移住した人たちは、戦後地元の人たちに助けられて全員無事に帰国を果たしていると読んだことがある。「剣で取ったものは剣で取り返されます」という永田の言葉はまさにその通りになったわけだ。そして、同じく永田がブラジルに建設したアリアンサ村も、日本の国策に振り回されて紆余曲折はあったけれど、しっかり生きつづけ、今も設立当時のアリアンサという名前で存在している。

『満州事変の直前、日本力行会の永田稠会長は、小磯國昭陸軍次官と永田鉄山軍務局長に呼ばれ、「満州に農業移住させることは可能か」と訊かれた。稠は《可能である。だが剣で取ったものは剣で取り返されますから鍬で開かねばなりません》(永田泉著『素晴らしい満州日本人開拓団』、2010年、19頁)と答えた(詳細はレジストロ連載85回)▼当時、海外移住送り出し経験を持つ者はないに等しい状態であり、伯国人材は貴重だった。ドイツ、スイスなどに駐在した国際派英才の永田軍務局長は武装移民に反対していたので、梅谷光貞を関東軍移民部長に送り込んだ▼永田稠は33年に武装移民を現地調査した報告書を関東軍に提出するが《今まで移住事業の実務をやったことのない拓務省管理局に担当させたのがそもそもの間違いである》と強い筆致で批判した上で《人類の移住史上いまだ一度も行われたことのない暴挙だ》とこき下ろした。当時、関東軍の方針や拓務省を批判するには相当な勇気が必要だったに違いない▼梅谷は満州での激務がたたって36年に肝臓病で逝去する。永田稠が38年に満州に力行村を建設したのは、志半ばで病没した同志梅谷への〃弔い合戦〃の意味合いがあったのではないか。永田稠が満州移民に参画したのは事実だが、国際協調的な移住という楔を、満州に打ち込もうと孤軍奮闘したように見える。当時の関東軍に対して言うべきことを主張して憚らない姿は立派だ▼日本近代史の重要な一部として位置づけられるべき逸話といえる。もし満州移民への参画が原因で彼らが移住史から拭い去られたのであれば、解せない気がする。(敬称略、深)』

2013年12月8日(日)

2週間ほど前、メル友の鎌谷さんが送ってきてくださった広島ペンクラブの冊子の中に渡辺晋先生のペンネームを発見して、懐かしいと思ったばかりだけれど、この金曜日にその渡辺先生から郵便が届いていた。昨年開催されたIPPNW広島大会のプログラムと、先生の句集2冊が同封されていた。広島大会のプログラムは昨年すでにコピーしたものを大会ポスターと一緒に送ってくださったのに、今回は世界大会の整理がついて余分が残ったからと、わざわざ本物を1部送ってきてくださり恐縮しきり。ちなみにこのプログラムの表紙の絵は大会ポスターと同じもので、渡辺先生が広島大会のために描かれたもの。私は俳句はやらないけれど、SFファンタジー句集というのは何だかおもしろそうと思った。

そして、上塚周平の従弟の上塚司という人のブラジルと広島での足跡を調べているのだけれど、何か分かれば教えてほしいという依頼だった。「香山文庫」をざっと見てみたけれど、昭和25年に出された「ブラジル移民の父 上塚周平」と、2007年に出された「移民の父 上塚周平伝 荒野の人」という2冊の本があるだけで、上塚司のものはなかった。何でもこの人は熊本出身の代議士で、移民推進に尽力し、戦後は、広島の世界平和記念聖堂を建立する際、資金集めに尽力したのだそうだ。それでインターネットで上塚司の広島やブラジルとの関わりを検索してみたところ、広島の世界平和記念聖堂の建設秘話や、上塚司のアマゾン開拓構想に関するものや、ニッケイ新聞紙上で上塚司のことを「アマゾン開拓の父」と書いている記事などが見つかった。私は上塚司のことはまったく知らなかったけれど、ブラジルと日本の関係や移民に関するエピソードは、本当に奥が深いなあと思った。そして、何度も書いているけれど、日本では学術的に移民のことをちゃんと研究している研究者がいないのは実に残念なことだと思う。

2013年12月9日(月)

昨日の日曜日は私の英語の生徒さんとその家族、つまり、ジミーの家族5人、ジェフの家族4人、ガブリエラの家族4人(ただしお父さんは仕事で来れなかったので、実際は3人)を招待してシュハスコをした。まずジミーが午前10時過ぎに氷と缶ビールを入れたアイスボックスを2つ持ってきてくれたので、うちで買っておいた缶ビールやソーダもこのアイスボックスに入れて準備。11時前にはジミーの奥さんのフェルナンダが子供たちを連れて到着し、同時にガブリエラと彼女のお母さんと妹のジュリアも到着。急いでシイタケを炒めてマヨネーズなどで和えたソースと、クリームチーズとタイムなどを混ぜたディップを作って、クラッカーと一緒に出すと、みんなとても気に入ってくれ、クラッカーがあっと言う間になくなってしまった。クラッカーをもっと買っておくべきだった・・・うれしい誤算。

シュハスコでお肉を焼くのは男性の仕事。うちでは腸詰ソーセージ2種類と牛肉とポークリブをかなりの量と、お肉をサンドイッチにして食べられるように、レタス、ルッコラ、トマト、パンを用意したのだけれど、ジミーがラム肉を持ってきてくれたので、結局ポークリブは焼かなかった。何しろ大人の男性は3人だけで、女性が4人、後は子供と赤ちゃん7人だったので、お肉はあまり必要なかったようだった。次の写真は、シュハスコ小屋でソーセージなどを焼きながら、クラッカーを食べているエドソンとジミー。

12時を回ってジェフが家族を連れてやってきた。ジェフの娘(写真手前、ニックネームはドゥーダ)は犬が大好きなようで、来た早々からはるにべったりくっついて遊んでいた。ジミーの次女で同い年のレティシアも一緒になっておおはじゃぎ。しばらくすると暑い上に興奮して、はるの方が疲れてきているようだったので、水を飲ませたり、ベランダに置いたはるのケージの上に毛布をかけて日陰を作り、しばらくはるをケージの中で休ませたのだけれど、女の子たちはずっと元気で、裸足になって動き回っていた。

次の写真は、女性陣が勢ぞろいしているところをジミーが撮ってくれたもの。この中でパーディネンセ(パーディーニョっ子)でないのは、ジェフの奥さん(隣町のイタチンガ出身)と私だけ。

ジミーの息子のチアゴがコマを持ってきていたので、妹たちとアイスボックスの上で回して遊んでいた。

次の写真は、ジェフの奥さんと生後4ヶ月になったばかりの息子のミゲル。左側はダニエラ。

シュハスコ小屋は流しがまだ設置されておらず、水が使えないという難点はあるのだけれど、今回の初めての本格的なシュハスコは大成功。右から、ジェフ、ジミー、そして、ソーセージなどを刺して焼くステンレスの串を持っておどけているエドソン。この写真ではよくわからないけれど、ビールを飲みながら、火の側でお肉を焼いているので、エドソンの顔は真っ赤になっていた。

今回は私の英語の生徒さんとその家族を招いたシュハスコだったので、女の子たちが日頃どんなことを勉強しているかを知ってもらう意味で、いつも読む練習をしているテキストの中から読みたいストーリーをひとつ選んでもらい、みんなの前で読むというちょっとした発表会をした。最初に読んでくれたのはしっかり者のガブリエラ。ブラジルでは女の子たちは12~3歳頃からデートを始めるのだけれど、ガブリエラは男の子よりも今は勉強の方がいいからと、まだデートはしていないと言っていた。

恥ずかしがり屋(と言うか、内弁慶)のダニエラは2番手。ダニエラの反対側に座っていたお父さんのジミーが、カメラでダニエラの発表を動画撮影していた。ダニエラは週の半分はお母さんに代わって妹のレティシアのお守りをしなければならないので、こちらもまだデートはしていないようだった。ふたりは仲良しで、7月から始めたレッスンを約半年、一度も休むことなく、楽しみに来てくれているのでうれしい。真面目でいい子たちが生徒さんで私はとてもラッキー。ふたりとも14歳。もちろんジミーとジェフとのレッスンも楽しいけれど、こちらは彼らの仕事の都合でキャンセルになることがよくある。

この後、デザートに用意したマラクジャムースとチョコレートムースに加え、ガブリエラのお母さんが大きなチョコレートケーキを持ってきてくれたので、それも出して好きなものを食べてもらった。午後2時半を回って女性や子供たちが帰って行った後で、雨が降り出した。ちょうどいいタイミングだった。お天気が悪い場合は、家の中で食べるつもりにはしていたけれど、やはりシュハスコはハエがぶんぶん飛んでいても、外のベランダで食べる方がシュハスコらしいので、お天気が協力してくれて良かった。ジミーとジェフは残って片付けを手伝ってくれ、イスや重いテーブルを家の中に運び入れてくれたので、とても助かった。そして、雨は1時間余りで止み、また強い日差しが戻ってきた。長い間未完成だったシュハスコのかまどがようやくできて、年内に何とか滑り込みセーフで心通う人たちと楽しいシュハスコをすることができ、いい忘年会になった。感謝。感謝。

2013年12月10日(火)

この土曜日に、手伝いのゼーとヒバマーが森の手前の地面の草刈りをして、きれいにした場所に、ミツバチのジャタイの巣を移動させるための棚をひとつ完成させてくれた。次の写真は、昨日のお昼過ぎに撮影したもの。この棚には3つくらい巣が置けるスペースがある。エドソンはこのような棚をあと3つほどここに作ってもらうつもりらしい。そして、日曜日の朝早速、ジャタイの巣箱ひとつをここに移動させていた。そして、今年はこれで一応ヒバマーたちの仕事納めになった。

ブラジル北東部のピアウイ(PIAUI)州出身のヒバマーは、今週の土曜日から何週間か休暇で里帰りするというので、今年はこれで手伝いに来てくれるのは最後で、ゼーもおそらくここの手伝いはしばらく休むと思うので、この土曜日には例年通り、ふたりには土曜日の日当プラス、もう1日分の日当をボーナスとして余分に支払った。でも、帰り際にふたりに下の部屋のテーブルをシュハスコのために上のベランダに上げてもらったり、上の部屋のタンスを下の部屋に運んでもらったりしたので、とても助かった。下の部屋の壁のペンキ塗りは年が明けないとできないけれど、誰かが泊まりに来ても、これで何とか一応泊まってもらうことはできる状態になった。ちなみに、ピアウイ州は、来年ブラジルで行われるワールドカップサッカーで日本が試合をする都市のひとつのレシフェ(綴りはRecifeなので、正確にはヘシーフェと発音する)があるペルナンブコ州の西隣りにある州。パーディーニョから北東に2時間半ほど行ったカンピーナスのバスターミナルから出ている長距離バスで、片道3日かかるのだそうだ。途中、食事やトイレ休憩はあっても、ずっと車中泊なので体力がいるだろうなあ・・・乗り継ぎの時間を入れて、片道30時間ほどかかる日本への旅行よりも大変で、聞いただけで気が遠くなりそうだった。

2013年12月11日(水)

昨日は夜明け前の4時にはるが起きたので、オシッコに連れ出すと、北の夜空に稲光が何度か見えた。そして、寝室に戻ってしばらくすると雷が鳴り、雨が降り出した。以後、丸1日雨が降り続いた。このところ軽い夕立のようなものがたまにあっても、たいした雨は降らず、毎日強い日差しが降り注いで暑い日々が続いていたので、カラカラに乾いていた大地に恵みの雨になった。こんな風にお天気の悪い日は、気圧が低いせいか、身体が何となくだるく、眠かったりするものだけれど、はるも同じように感じるのか、午前中も午後も、いびきをかいたり、寝言を言ったりしながらグーグー寝ている時間の方が長かった。次の写真は、玄関マットの上でゴロンとしているはる。このマットの上もはるが好きな場所で、はるがここでゴロゴロするとマットが汚れるので、床を拭き掃除するための大判の布をマットの上に敷いているのだけれど、何故かその布をすぐにグチャグチャに丸めて、その上にゴロンとしていることが多い。はるは1歳を過ぎる前後から、それまでの赤ちゃんの状態を脱したようで、私たちの言うこともだいぶ理解できるようになり、かなり落ち着いてきたように思う。最近モビがやっていたように時々自分の前足をペロペロなめるようになったけれど、表情やしぐさはフィオナに似ているなと思う。でも、天真爛漫なところは、はる独特だなと思う。

2013年12月12日(木)

私の母が作るそうめんつゆは、煮魚のおつゆと決まっていて、店で売られているそうめんつゆや、かつおや昆布だしで作ったつゆでそうめんを食べた記憶がない。でも、エドソンは煮魚が苦手で、私も煮魚を作ったことがなく、母の味を再現できないので、アメリカ時代我が家で夏にそうめんを食べたことはなかった。エドソンと一緒にアメリカから戻り東京で暮らし始めて、たまたま買ったお料理の本にサラダそうめんという献立があり、おつゆはだしにお酢とごま油を混ぜるので、具沢山の冷やし中華のような感じだなと思い作ってみると、結構おいしく、エドソンも気に入ってくれたので、以来、そうめんはサラダそうめんを作るようになった。最近暑い日々が続いていたので、あっさりとしたこのサラダそうめんを作ろうと思っていたら、火曜日はあいにく雨で暑くはなかったのだけれど、日曜日のシュハスコで残った焼いた牛肉やレタスなどを片付けたいと思い、この夏初めてのサラダそうめんを作った。レタス、ルッコラ、きゅうり、カニカマ、錦糸卵ならぬスクランブルド・エッグ、牛肉、そして、のり。それらを好きな分量そうめんの上に盛り付けて、おつゆをかけたものが2枚目の写真。そうめんやのりはウエノで手に入り、カニカマもスーパーのパオン・ジ・アスーカーで手に入るので、ありがたい。

2013年12月13日(金)

火曜日の夕飯の後、雨の止み間にはるとお散歩に出ると、入り口ゲートの方向に向かって、葉切りアリの長い長い行列が道の右側にあるので、それを辿って行くと、途中で道を左に横切って、ブラキアーリアの中へと消えていた。エドソンいわく、「おそらくこのアリの巣はお隣のコーヒー園の中にあるんだろうね」ということだった。次の写真は、自分たちの身体よりも大きな葉を運んでいるその葉切りアリの列。

翌朝、はるとのお散歩で前日のアリがどうなったか見てみると、夜もずっと働いていたのか、早朝から働き始めたのかはわからないけれど、同じ場所に同じ行列があった。それで、今度は何の葉を切っているのか確かめようと思い、列を逆に辿って行くと、白い花を咲かせている1本の植物の上で数匹のアリが葉を切り落とし、地面に落ちた葉を下で待ち構えているアリたちが運んでいたので、その写真も撮ってみた。我が家の木々の葉ではなく、道端に生えた草の葉を切っているのだからまあいいのだけれど、何故かこの葉切りアリたちはうっそうと茂るブラキアーリアにはまったく見向きもしない。どうせならこのブラキアーリアを切って持っていってくれればいいのにと思う。でも、ブラキアーリアを食べるのは牛くらいのようで、野うさぎのオサマ・ビンラーデンですら食べない。ちなみに、このアリたちは収穫した葉を巣に持って帰り、この葉を食べるのではなく、この葉を使ってカビを育てて、そのカビを食べるのだそうだ。つまり、巣の中に食料(カビ)生産工場を作っているというのだから驚く。

2013年12月14日(土)

ペトロポリスの安見さんたちは1週間程ポルトガルに行ってくると言っておられたけれど、先日、戻られて早速、28年ぶりで2度目のポルトガル旅行のおみやげ話満載のメールをくださった。ポルトガル旅行中、朝食以外の食事は昼も夜も1週間ずっと海鮮料理で通したそうで、おいしそうなお料理の写真を送ってきてくださった。ブラジルの食事もそうだけれど、ポルトガルも一人前のボリュームが多いらしく、一人前を二人で分けても多いのだけれど、残すのはもったいないからとがんばって食べたとのこと。

次の写真は、1.2Kgのスズキ(Robalo)。大きい!これを塩焼きにしたものが2枚目の写真で、野菜を付け合せて出てきた皿を並べて写したのだそうだ。これを娘さん夫婦と4人で食べたのだけれど、におい消しの変な香辛料も油も使わず、塩だけで焼いていて、日本の焼き魚と同じで、とてもおいしかったけれど、醤油をたらし、大根おろしをつけて、箸で食べたらもっとおいしかっただろうと残念がっておられた。さすが日本人!頭の中の身も美味しく、箸がないので指でつまんでしゃぶって食べたのだけれど、食事の後で、アルコールをしませたお手拭が出てきたのでポルトガル人も同じように指でつまんでしゃぶるのかも知れないとあった。

次の写真は、タコの姿煮。これまた大きなタコ!でもとても柔らかくておいしかったとのこと。丸ごとのじゃがいもがどど~んと添えてあるところがいかにもポルトガル料理?安見さんいわく、タコを食べるのは日本人とポルトガル人のようだけれど世界に広めてもらいたくない、なぜなら品不足になるからだそうだ。確かに・・・

次の写真は、魚介類のオジア。普通は米と煮込むものだけれど、スパゲティーとも合うと思って注文したら、メニューにはないけれど作りますと言って出てきたのがこれで、これで一人前だという。スパゲティーより貝、海老、蟹の身のほうが多かったそうだから、かなり食べ応えがあっただろうなあ・・・この他、「たら料理、アジの塩焼き、海老の炒め、アサリの蒸し焼き、たらのコロッケ、貝類のスープ等々一年分の海鮮料理を食べてきた」と言うことだった。ああ~どれもこれもおいしそう・・・食べてみた~い!スズキやアジという言葉が出てきたついでに、安見さんにポルトガル語ではそれらは何というのか伺ったところ、スズキはホバーロ(Robalo)で、アジはシェレレッチ(Xelelete)と教えてくださったので、エドソンに話したところ、アジフライの好きなエドソンは、「シェレレッチはここではどうかわからないけれど、パラカンビでは普通に手に入る魚だよ。アジのことだったの?」「ホバーロはすごく大きな魚だよ」と、言っていた。なあんだ、どっちも知っていたのか・・・日本語とポルトガル語がつながっていなかっただけなのね・・・お陰で魚に関する私の語彙が増えたので、これからはもう少し多様な魚を見つけて食べることができるかもしれない。感謝。感謝。

2013年12月15日(日)

安見さんたちの今回のポルトガル旅行の目的のひとつは、いつかは行きたいと思っているサンチアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)への巡礼路の下見だったそう。この巡礼路は、ポルトガル、スペイン、フランスとあり、ポルトガルの道はリスボン発606 km、24日間の行程(フランスからは30日間の行程)なのだけれど、交通が激しく危険なので、最近は大都市郊外から歩くのが人気らしく、ポルト(Porto)からの238.1 km、10日間というのがあるのだそうだ。

今回は、リスボン(Lisboa)から列車で約3時間のポルト(Porto)に行き、そこから一日観光ツアーに参加。高速道路が整備されていて、車で2時間半で行けるところを、10日間も歩いて行くには、確固たる信念が必要で、願掛けすることもなく、ただ話の種に歩こうと言う者にとってはきついかなと思われたようだった。高速道路を歩くわけではないけれど、地方道もよく整備されているので車がビュンビュン走っていて、のんびり歩いて行くという感じではなさそう。100 km以上歩けば証明書を発行してくれるから国境の町トゥイ(Tui)から歩けばいいと教えてくれる人もいたそうだけれど、現在思案中の様子。次の写真は、午前11時に到着した目的地のSantiago de Compostela 教会の前で撮ったもの。毎日ミサが11時から12時まで行われているらしく、それに合わせて巡礼者が到着していたけれど、シーズンオフだったので巡礼者の数は少なかったという。

ポルトは大航海時代の港町で、中心の歴史地区は歩いていける範囲にまとまっているのだそうだ。河のほとりの下町と高台の上町とそれぞれ対岸を結ぶ二層鉄橋が有名で、次の写真がその橋。ペトロポリスにあるクリスタル宮殿は1884年にフランスの工場で作られた鉄骨製で、この二重橋も同時期に同じ工場で作られたものというつながりがあり、近しさを感じたという。さすがブラジルの宗主国だったポルトガル。いろいろ深いつながりがあるんだ。この写真の左手には海鮮料理を出すレストラン街があるらしく、ここで昨日紹介したようなおいしそうな食事をされたのかあ・・・。

また、ポルトには巨大な教会がいくつもあって、内部は金ぴかなのだそう。1700年代に作られたもので、この金ぴかの金は、まさしく当時ペトロポリスを通って運ばれたブラジルの金が使われているのだという。その教会の受付嬢が、安見さんたちがブラジルから来たとわかると、「ブラジル人は皆これはブラジルの金だとクレームする」と言っていたそうだ。安見さんいわく、「それにしてもポルトガルの先代は偉い。ブラジルからの金をイギリスへの支払いに使ったため産業革命が起こり今の我々の暮らしがあると言われているけれど、一部金をこの様な形で残したので、観光収入で今のポルトガルは食っていけるのだから」と書いておられた。次の写真は、その金ぴかの教会Igreja de S. Francisco。内部は撮影禁止なので、入り口のところで撮影とのこと。

次の写真は、ポルト で一番高い別の教会の塔の193段の狭い階段を登って行って撮った、ポルトの町並みだそう。いろいろ詳しく説明してくださるので、行ってもいないのに、何だかまるで行ってきたみたいな気分になっている。

2013年12月16日(月)

安見さん夫妻がブラジルに来られたのは1973年だそうだから、もう在ブラジル40年ということか?人生の半分以上をブラジルで暮らしてこられたわけだ。その頃の日本はまだ海外旅行はまれだったけれど、ブラジル人からは休暇でヨーロッパに行ったという話を良く聞いたそうだ。ここパーディーニョでは、海外旅行はおろか、隣町くらいにしか行ったことがないという人たちも珍しくないけれど、私の英語の生徒さんのジミーとジェフの兄弟はイタリア移民の子孫なので、イタリアには1~2度行ったことがあるらしい。確か、イタリア系の人たちは、その子孫も含めてイタリア国籍を失うことはないと聞いたことがある。安見さんは先日、CEJA(成人向け卒業資格取得校)の先生たちの忘年会に参加したら、ポルトガルに行ったと言う人がかなり居て、巡礼街道を歩いたと言う先生も居て、積極的な人が多いなと思ったそうだ。ヨーロッパからの移民にとってヨーロッパはとても近い存在なんだろうな・・・

安見さんたちは28年前に一度リスボンに行っているので、同じところで写真を撮りたいと、28年前の写真を持って行かれ、昔を懐かしまれた様子。次の4枚組の写真は、28年前に撮ったもので、左上は海鮮料理レストランで夕食を食べた際、娘のえりかさんがご両親を撮ったものらしい。 左下はそのレストランの水槽の中の伊勢えびと並んだえりかさん。そして、2枚目は今回同じレストランの水槽の前で、安見さんが奥さんとえりかさんを撮ったもの。

このレストランの内装は以前と変わっていなかったけれど、シーズンオフだったからか少し閑散としていたそう。でも、ウェイターのおじさんに28年前の写真を見せると、当時は水槽に一杯水が入っていて大きな魚が泳いでいて、客の依頼で中二階から網ですくって料理したものだと懐かしがっていたという。この話を聞いて、28年も前のことを知っているウェイターのおじさんが今も働いているというのがすごいと思った。

4枚組の右上の写真は、リスボンの市街地を見下ろす展望台のところにあるタイル製の案内版の前に立ったえりかさん。そして、次の写真は、今回同じ場所に立ったえりかさん。

4枚組の右下の写真は、Torre de Belemの前の親子三人。そして、次の写真は、今回やはり同じ場所で親子三人で撮ったもの。28年前はまだ小さかったえりかさんは、今ではご両親よりも背が高くなっている。そして、28年前の安見さん夫婦はさすがに若い。

他の観光スポットである歴史建造物は全く変わりがなかったけれど、リスボンは再開発が進み近代的な大きなショッピングセンターがいくつも出来ていたそうだ。今のポルトガルはブラジルより物価が安いのでブラジル人は衣料雑貨品や電気製品を買いあさってブラジルに持ち帰っているらしい。3月に出産を控えたえりかさんは赤ちゃん用品をたくさん買ったということだった。

2013年12月17日(火)

以下は、ニッケイ新聞2013年12月13日付けのブラジル・トピックスからの転載。

エイケが米誌の「災難だった10人」に=世界的に有名な「転落した富豪」

『ブラジルの大富豪としてここ数年世界的に話題となっていたEBXグループ会長のエイケ・バチスタ氏が、アメリカの経済誌「フォーブス」最新号が選ぶ「2013年災難だった10人」に選ばれてしまった。

エイケ氏は、2000年代後半頃から、ブラジル経済繁栄の象徴的人物として注目されていた。石油などの資源採掘で知られるOGXペトロレオをはじめとするEBXグループの会長として知られるエイケ氏は、2012年には資産30億ドルで世界の長者番付で7位にランクインするほどだった。

だが、採掘した油田の埋蔵量が思ったほどではなかったなどの事業の失敗が重なり、グループ企業の価値を落として行った結果、30億ドルあったとされる資産はあっという間に減り、13年9月の資産額は9億ドルまで減少。世界長者ランキングでは7位から一気に圏外に落ち、ブラジル国内でも1位から52位へと落ちた。

現在ではOGXの負債だけで112億レアルとされ、それに伴ってエイケ氏の資産はゼロになったともマイナスになったとも言われている。

既にフォーブス誌からは7月に「ブラジル最大の負け組」と称されていたエイケ氏だが、今回の「災難だった10人」にもその凋落の勢いのまま入ってしまった。皮肉にも、この10人につけられたランキングでは、同氏がかつて世界長者番付で記録したのと同じ「第7位」だった。

ちなみに、そのランキングで1位になったのは、人種差別発言を繰り返して行なったことで訴訟を受けていたことが発覚し、それが理由で人気番組の司会を降板させられたアメリカの料理家ポーラ・ディーン氏。選ばれた10人はほとんどがアメリカ人で、エイケ氏以外の非アメリカ人は、コカイン摂取が発覚したカナダのトロントの市長ロブ・フォード氏のみだ。

しかも、今回選ばれた10人のうちのほとんどが、どちらかというと不祥事絡みで入っていることから、エイケ氏の経済的栄華からの転落が世界的に見てもいかに大きなものだったかが伺われる。(12月12日付ヴェージャ誌サイト、エスタード紙サイトより)』

2013年12月18日(水)

広島の兄がメールに産経新聞の記事の写真を添付して、協力してと言ってきた。カリフォルニア州グレンデール市に設置された従軍慰安婦像の撤去を求めるオバマ大統領宛ての請願署名で、10万人の署名が必要とのこと。テキサス親父の存在は知っていたけれど、こういう署名活動を始めたことは知らなかった。署名の期限は1月10日までとある。関心のある方はご協力ください。

この署名のやり方については、新聞記事に記載された2つ目のサイト(http://staff.texas-daddy.com/?eid=454)に日本語の詳しい説明があるので参照してください。

その一応の手順を大雑把に説明すると、以下の通りです。
(1)まず、コンピュータのブラウザに次のアドレス(http://goo.gl/mnXO3Y)をコピーして、このサイトに行ってください。

(2)このサイトに行くと、現在いくつの署名が集まっていて(右側)、10万までにはあといくつの署名が必要か(左側)という数字が表示されています。その下に、SIGN IN or CREATE AN ACCOUNTというブルーの表示がありますから、CREATE AN ACCOUNTという右側の表示の方をクリックします。

(3)そして表示された画面では、メールアドレス(E-mail address)、名前( First Name)、名字( Last Name)、郵便番号(Zip)を半角英数字で記入してください。これはアメリカのサイトですから日本語で記入しても受け付けられません。さらにこれらの下に英語で毎回変わる質問に答える課題があります。ここで何を聞かれているのか英語の意味がわからない方は、以下の翻訳サイトのどれかを利用してみてください。
http://translate.google.co.jp/
http://www.excite.co.jp/world/
http:honyaku.yahoo.co.jp/
http://honyaku.nifty.com/
http:/translation.infoseek.ne.jp/

(4)この質問に対する答えを数字や英単語で入力した後、その下にあるCREATE AN ACCOUNTというブルーの表示をクリックしてください。

(5) この後、ほんの少しして、登録したメールアドレスにホワイトハウスからメールがきます。このメールの上から4行目に青色で長いサイトアドレスが表示されていますから、それをクリックすると、署名するためのサイトに行きます。

(6)そのサイトの左下に、SIGN IN THIS PETITION(この請願に署名する)という緑色の表示がありますから、それをクリックしてください。これで署名完了です。

(7)この署名が完了した後、この画面の下にある元の画面のブラウザの[再読込]ボタンをクリックしてリフレッシュすると、署名のリストが出てきて、あなたの名前のイニシャルと、署名した日付、何人目の署名かという情報が左から2番目の枠の中に表示されて、署名完了を確認することができます。

(8)それからホワイトハウスから届いたメールの中程に、Here is your WhiteHouse.gov account information:とあり、登録したメールアドレスと、また次回別の請願で署名しようとする際に必要なパスワードが表示されています。このパスワードは忘れないようにどこかに記録しておくようにということです。

WE PETITION THE OBAMA ADMINISTRATION TO:

Remove offensive state in Glendale, CA public park

Please remove the statue in a public park in Glendale, California. It is a statue of a Comfort Women masquerading as a peace statue while in essence after reading the inscription it is promoting hate towards the people and nation of Japan.
Created: Dec 11, 2013
Issues: Foreign Policy

You can sign in this petition here until January 10, 2014.

2013年12月19日(木)

我が家の前(つまり家の北側)の庭の東半分には、いろいろな木を植えている。植えた時は小さかった苗木も、その後だいぶ大きくなってきている。その中で、2本並べて植えたマラニャォンをいう木に、先日それぞれひとつずつ花が咲いていたので、写真に収めた。次の写真は、それぞれ木の左側にある花が画面に入るように、2本のマラニャォンを撮ったもの。2枚目は、その花のアップ写真。花と言っていいのかどうか、何だかとても不思議な形をしている。

そして、次の写真は、そのマラニャォンの木になっていた実。拳を一回り小さくしたような大きさで、果物のような感じだけれど、エドソンによると、これはナッツのようなもので、栗のように茹でたり焼いたりして食べるのだそうだ。

2013年12月20日(金)

昨日、インターネット上のニュースで、ブラジル・ワールドカップの日本代表のキャンプ地が、サンパウロ州イトゥ(Itu)市に決まったとあった。イトゥはうちからカンピーナスに行く途中、ソロカバの近くで高速道路のカステロブランコを下りて北上し、トヨタの工場があるインダイアトゥーバの手前なので、確かにサンパウロや日系人の多いカンピーナスやソロカバに近くて便利だと思う。サンパウロの日系コロニアはこの決定にさぞかし喜んでいることだろう。そして、きっと全力で日本代表を支援するのではないかと思う。以下は、そのニュースからの一部転載。

『選考理由は「グループリーグ3試合を戦うために、集中して練習して、リラックスして滞在できること」(原委員長)。そのために、「ホテルを新しく建築する段階にあり、日本側の要望を汲んでくれる」状況にあったことも大きかったようだ。たとえば、「(各部屋に)バスタブが欲しい」という日本側の要望が通ったのも大きかったようで、「日本と違って向こうのホテルだと、シャワーだけというところが多い」のに比べて、大きなメリットと映ったようだ。

ほかにも原委員長は「敷地内に練習場があり、移動の負担がないこと」「室内プールが併設されていること」「散歩できるような場所があること」「新しく建設されるホテルの建物を貸し切りに近い状態で使用できること」「サンパウロ市が近く、日本食も調達できるし、困ったときに現地の人にお願いできること」などを挙げている。

デメリットとしてグループリーグの各会場から距離があり、「移動は確かに遠い」ことが挙げられるが、「カンピーナス空港まで車で30分と近く、しかも小さい空港なので利便性が高い」ことを挙げ、移動距離はあっても実質的な移動負荷はそれほどでもないとしている。』と、記事にあった。

そう、ブラジルではシャワーだけで、お風呂、つまり、バスタブがないのが普通。そういう我が家もシャワーだけでバスタブはない。時々、エドソンが敷地内にお風呂の小屋を作ろうかなどと夢想しているけれど、実現するかどうか???

一方、我が家のはるは今日で生後14ヶ月になり、うちの家族になって丸1年になった。現在の体重は7キロ。次の写真は、昨日の午後、床に座った私の上に乗って、じゃれているはるをエドソンが撮ったもの。

2013年12月21日(土)

一昨日、花が咲いていると書いたマラニャォンの木のさらに東側で、ひょろひょろと生えている木にも今花が咲いているので、見てみるとサブゲイロだった。うちにあるサブゲイロは、家の東側、畑の南側の桜の木の側のもの1本だけだと思っていたのだけれど、このひょろひょろの木が花を咲かせて、初めてサブゲイロだと気づいた。ここにはいろいろな苗木を植えたので、これが何の木だったか忘れてしまっていたのだけれど、こうして大きく育ってくれたお陰で名前を再確認することができてよかった。

10月だったか、11月になってだったかに、種を蒔いたラディッシュが育ち、ムックリ土から顔を出していたので、一番大きなものひとつと、その隣の少し小さいけれどヒビが入ってしまっているものを、試しに収穫してみた。大きさは普通お店で販売されているものと同じくらい。ヒビが入っているだけで虫には食われていない。たったふたつの収穫なので、ちょうど食べ終わって新しく作ろうと思っていた野菜の浅漬けの中に、このラディッシュと葉の部分も刻んで入れた。ほんの少しだけれど赤と濃い緑が加わり、浅漬けの彩りが良くなった。2枚目の写真は、まだ収穫していない畑のラディッシュのひとつ。12個くらい種を蒔いたのだけれど、ちゃんと成長したのはその6割くらい。まずまず成功かな?

2013年12月22日(日)

先日、カリフォルニア州グレンデール市の慰安婦像撤去を求める請願署名についてこのブログで書き、時々メールのやり取りをしていて、署名する前に行う登録手続きの中で答えなくてはならない簡単な英語の質問に答えることが、あまり苦痛なくできるだろうと思われる友人や知人数人にメールで直接協力をお願いしてみた。この問題に関心がないとか、関わりたくないという場合は、受け取ったメールは無視してと書き添えたのだけれど、メールを受け取ったひとりから『テキサス親父日本事務局にせよ、なでしこアクションにせよ署名を募るのならば、慰安婦問題についての自らの見方と、それを裏付けるデータなどを一通り説明して頂きたい』つまり、どういう趣旨なのか『主張の内容がわかりません』というお叱りを受けた。

それで、今日はその辺のところを書いてみることにした。この請願署名を始めた人は、産経新聞の記事にあるようにテキサス州に住むトニー・マラーノという64歳のアメリカ人男性で、慰安婦問題などに関して日本を支持する立場をとっている。通称「テキサス親父(おやじ)」と呼ばれていて、テキサス親父日本事務局の請願署名要請サイト(http://staff.texas-daddy.com/?eid=454)には、分かり易く明確には書かれてはいないけれど、そこに書かれていることを読むと、協力を依頼している他団体の中の、例えば、「なでしこアクション」の趣旨と同様だということがうかがえる。「なでしこアクション」のホームページ(http://nadeshiko-action.org/)には「戦時中、日本軍が慰安婦を強制連行・性奴隷にした」という事実無根の歴史の歪曲に異を唱えていることがはっきりと書かれている。そして、私自身はこれらの団体とは何の関わりもないけれど、この趣旨には賛成している。

私は、売春宿、売春婦、女衒などが合法的にビジネスとして成り立っていた当時、日本軍のために慰安婦として働いた女性たち(朝鮮人だけでなく、台湾人も日本人も)がいたことは事実だと思っている。そして、その女性たち皆が皆、自分自身の選択でそのような境遇になったのではなく、売春宿に女性を斡旋する女衒に自分の親によって売られたり、騙されて連れて行かれたりした人たちもたくさんいたのだと思う。それは同じ女性として、人間として、同情を禁じ得ないし、許しがたいことだと思う。でも、日本軍がそのサービスを利用したことは事実でも、軍が指揮して彼女らを強制的に連行したというのは事実ではないと思っている。

そもそもこの問題が大きく取り上げられるきっかけとなり、強制連行の事実を示す証拠とされたのは、吉田清治という人が書いた本だった。しかし、彼が軍の命令で韓国の済州島に行き、現地の女性を強制連行して慰安所に送ったというこの本の話は、その後、複数の人たちによる別々の現地調査で事実ではないことがわかっている。韓国メディアの現地調査でも結果は同じだったこもわかっている。そして、その本を書いた吉田清治本人も、その後、あれは本を売らんがための嘘だったと認めている。そして、元慰安婦だった人たちの証言の中にも、日本軍により強制連行され慰安婦にさせられたという証拠はないし、彼女たちの証言を裏づける目撃証言もない。例えば、広島や長崎で被爆した人たちは、被爆者認定を受けるためには、彼らがその時そこにいて被爆したことを証明するために、少なくとも2人だったか3人だったかの証人が必要という高いハードルが存在する。嘘の申告を排除するためにはそういうことは必要なのだと思う。

一方、当時オランダ領だったインドネシアでは、日本が占領後に同地に在留していたオランダ人成人女性を、軍が強制的に慰安婦にしたということがあったのは事実だけれど、その後、その関係者は処罰されている。政府が調査をして出てきた資料の中から、日本軍が関与したという「証拠」とされたのは、実は、軍医が慰安婦の健康管理、つまり性病検査や治療をしていたというものや、慰安所の経営者や女衒に対し、女性を強制的に慰安婦にすることのないようにと注意するものだった。そして、当時の慰安婦の人たちは兵隊さんよりも何十倍もの多くの給料を得ていたということも記録に残っている。

私は、メディアがこれまでマッチポンプ式に反日のニュースを作り、世論を作って来たけれど、間違いがわかってもそれを訂正することもなく垂れ流しのままにしてきたこと、そして、韓国が度を越した(病気としか言いようのない)「恨」を拡散し、諸外国まで巻き込んで嘘をまき散らす行為に、言いようのない憤りを感じている。さらに、それにより最近、東京では反韓デモが頻繁に行われ、かつてマイノリティだった在特会(在日特権を許さない市民の会)が、堂々と表に出てくるようになり、女子中学生までデモに参加して「いい気になってると大虐殺を実行しますよ」とハンドマイクで叫んだり、「いい韓国人も悪い韓国人もみんな殺せ」などとヘイトスピーチを行うようになったことをとても怖いことだと憂慮している。

これまで日本は韓国に何度も謝罪し、何とか関係を修復しようと、念書も取らず、出してはならなかった「河野談話」まで出して、韓国の言い分に何度も譲歩を繰り返して来た。でも、状況は改善するどころか悪化の一途をたどり、韓国の「恨」はエスカレートするばかりで、時間の経過は何の薬にもなっていない。むしろ、当事者はほとんど亡くなってしまった今、昔のことはもうわからないのだから、嘘でも何でも言った方勝ちの状態で、日本憎しという行動や言動を続ける韓国に対して、これまで特別ネガティブな感情を持っていなかった人たちや、ちょっと問題だなと思っていても、だまっていた人たちだけでなく、韓国が好きだった人たちまでも、やり切れない気持ちになってきているのではないかと思う。

こうした普通の日本人の間に鬱積している不満を在特会などが自分たちの目的のために利用して、在日の人たちを誹謗するのは間違っていると思う。執拗な日本憎しの言動を行っているのは、韓国政府やメディアと、それに洗脳された韓国世論なのであって。在日の人たちではないのだから。

私は、ヘイトスピーチにもヘイトアクションにも反対。在日の人たちに罵詈雑言を浴びせる東京のデモにも反対。でも、そもそも事態がこんなことになったのは、韓国の大統領や政府やメディアが日本に対して執拗に行ってきている嘘で塗り固められた非難だけでなく、諸外国にまで行って「恨」や嘘をふりまいているからだと考える。そして、この「恨」の拡散で最も辛い目に遭っているのは、在日韓国人や、在韓日本人や、在米日本人なのだと思う。憎悪は憎悪しか生み出さない。だから、Enough is enough. Basta. 友好や平和ではなく憎しみだけを増幅させるようなことは、もう止めてと言いたかった。それで、この請願活動のことを知った時、これに署名することで、ヘイトスピーチやヘイトアクションというやり方ではなく、今の状況を危惧するひとりとして、静かなる意思表示をすることができると思ったのだ。

ちなみに、本当に慰安婦問題を考えるのであれば、過去のことで日本を不当に非難するだけでは、あまりに後ろ向きで、非生産的だと思う。今現在、そしてこれから将来に向けて、どんな国でも必ず直面する「戦争と性」という難しい問題に、正面から取り組む必要があり、過去を教訓に、そのような状況下でどのようにして女性を守るかを、もっと真剣に考える必要があるのではないかと思う。そうではなく、ただ単に元慰安婦の人たちを政治利用するだけでは、彼女たちが浮かばれない。

ついでながら、慰安婦像はグレンデールだけでなく、ニューヨーク州ナッソー郡のアイゼンハワー公園にもあるらしく、テキサス親父とは別の人のイニシァティブでその像の撤去を求める署名活動も行われている。期限は2014年1月12日まで。その署名のサイトは、こちらへ。すでにグレンデールの件で登録手続きをして、署名を済ませている人は、このサイトに行くとワンクリックで署名ができる。

慰安婦問題に関してもう少しちゃんと知りたい方は、次のYoutube上にある国際政治学者の藤井厳喜氏の「従軍慰安婦の全貌―韓国と反日勢力による捏造の実態を暴く」をご覧ください。このサイトは、こちらへ

If you would like to learn more about the Comfort Women issue, please visit the following Youtube site. Mr. Genki Fujii, Analyst, International Relations, is giving a presentation on ¨The Comfort Women Controversy : Sex Slaves or Prostitutes¨ here.

2013年12月23日(月)

毎週土曜日にうちの手伝いに来てくれるヒバマーは、平日働いているドナ・ベティのファゼンダの仕事が年明けまでお休みなので、今ピアウイ州の実家に帰省している。それで、もうひとりの手伝いのゼーも、ここの仕事を休むだろうと思っていたら、ありがたいことに、先週の土曜日(14日)も、一昨日も仕事に来てくれた。お陰で午前中は草刈りを続けてもらい、気温が上がる午後からは、ミツバチのジャタイの巣箱を移動させるための棚を作って、森の手前に設置してもらう作業が進み、棚が3つに増えた。ここに移動させたジャタイたちは、家の東側のスペースにいた時よりもずっと元気になり、活発に動き回っているようなので、期待通りにジャタイのための環境改善ができ、エドソンはとても喜んでいる。

2013年12月24日(火)

今日はクリスマスイブ。我が家が完成して以来、毎年クリスマスにはリオからエドソンのお母さんと妹のエリカ夫婦が、私たちと一緒に数日過ごすためにうちに来ていたけれど、今年はエリカが妊娠中で、パラカンビとパーディーニョの間の600キロ余りを、7~8時間以上も車に揺られて移動するのはしんどいので、来ないことになり、ちょっと寂しいクリスマスになった。

次の写真は、先日ジミーがわざわざうちまで届けに来てくれたクリスマスプレゼント。大きな箱の中にはパネトーネやアップルサイダーの他、パスタやマヨネーズやオリーブといった食料品や、子供向けの駄菓子のようなものまで、合わせて17品目が入っていた。ボトゥカトゥのスーパーのパオン・ジ・アスーカーで、この時期こういうクリスマス用のギフトセットを何種類も見かけるけれど、これもパオン・ジ・アスーカー・グループと箱にあった。「たぶん、ジミーの会社の社員全員にこれを配ったんだろうね」とエドソンは言っていた。ジミーの心遣いに感謝。

2013年12月25日(水)

次の写真は、安見さんが送ってきてくださったペトロポリスの街のクリスマス・イルミネーション。川沿いの木の幹に電球が巻かれ、灯りが川面にも映って、なかなかきれい。2枚目の写真は、22日の夜行われた、ペトロポリス市の500人からなる合同合唱団によるクリスマス大合唱の様子。「今年は屋外で催されたため、生憎の小雨でちょっと淋しいものになったのは残念でした」とメールにあった。小雨のせいで少し涼しかったのだろうか?観客の服装は長袖のよう。それでも、季節は夏のクリスマスなので、合唱団のユニフォームはさすがに半袖だ。

2013年12月26日(木)

24日のクリスマスイブは、ジミーが自宅でのクリスマスディナーに招待してくれたため、彼の家族と過ごすことになり出かけて行った。ジミーの家族と奥さんのフェルナンダの両親とお兄さんの家族合わせて11人で食卓を囲むにぎやかな一夜になった。次の写真は、食事を始める前にジミーが立って、感謝の言葉を述べているところ。側でフェルナンダが動画撮影をしている。

カウンターテーブルにぎっしり並べられたお料理とジミーの家族。メニューは、七面鳥の丸焼き、ポークリブのBBQロースト、マンジィォカにオリーブやベーコンなどいろいろなものを混ぜたファロファ2種類、トマトソースとクリームソースの2種類のスパゲティ、ネギやくるみの入ったご飯、そして、野菜のサラダ。お肉はどうやらジミーの担当だったようで、前菜のおつまみとワインをいただきながらおしゃべりする合間、合間に、何度もオーブンをチェックしていた。お料理はどれもとてもおいしかった。

次の写真は、それぞれ自分のお皿にセルフサービスでお料理を取り、席について食べ始めたところ。普通七面鳥のお肉は、ちょっとパサパサした感じがあって、私もエドソンもあまり好きではなく、うちではいつも鶏を使い、ブラジルに来てからはチェスターという種類の鶏でローストチキンを作っているのだけれど、ジミーの七面鳥は時間をかけて味付けなどの下準備をしたのか、肉はしっとりとしていてパサパサ感がまったくなく、とてもおいしかった。

はるは、家を出る8時前に夕飯を済ませたので、ジミーの家にいる間、私たちが食事をしているシュハスコ部屋の片隅で、タバスコの「タッちゃん」(最近私たちはタバスコのことをこう呼んでいる)を横に置いて、ベッドの中でおとなしくしていてもらった。ベッドはケージとは違って、屋根がなく出入り口がひとつというわけではないので、タバスコの「タッちゃん」の効果は100%ではなかったけれど、前半はまずまずおとなしくしていてくれた。フェルナンダのお父さんたちは、タバスコが側にあるとはるがベッドやケージから出てこず、比較的おとなしくしていられるというエドソンの説明を聞いて不思議がっていた。

食事の途中ではるをオシッコのために一度家の外に連れ出すと、ジミーのお隣の家でも家族や友人が集まって、屋外でシュハスコをしているようで、おしゃべりの声と音楽が聞こえ、お肉を焼く匂いがした。そして、午前0時にパンパンパンパンとパーディーニョの町の花火が鳴り、居間に行ってテレビを見ていた子供たちも集まって、みんなで頬にキスして、ハグして、お祝いをした。午前0時に日付が変わってお祝いするのは新年だけじゃないんだ・・・。次の写真は、ジミーの息子のチアゴが撮ってくれたエドソンと私。エドソンの家族が来れなくなって、寂しいクリスマスになると思っていたけれど、ジミーと彼の家族のお陰で楽しいイブになった。感謝。感謝。

2013年12月27日(金)

慰安婦像撤去の請願署名への協力を、私がメールで依頼した数人の人たちの中で、平成22年(2010年)8月18日付けで産経新聞正論に掲載された、拓殖大学客員教授・藤岡信勝氏の「日本がハングルを学校で教えた」という記事をワードに打ち直したものをメールで送ってきてくれた人がいた。非常に興味深い記事なので、以下にその記事をコピーしてみる。

日本がハングルを学校で教えた

日本の歴史教育では小学生段階から日清戦争を扱い、日本はこの戦争に勝って清から賠償金を取り、台湾を日本の領土にしたことを教えているが、日本が日清戦争をたたかった真の目的を教えていない。

戦争に勝った国は、講和条約の最初の条文にその国が最も欲することを書き込む。日清戦争の戦勝国である日本が日清講和条約(下関条約)の第一条に書き込んだのは、領土でも賠償金でもなく、「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」という文言だった。日本が最も求めていたのは、朝鮮国の清国からの独立だったのである。なぜか。

半島に自主独立国家を期待
欧米列強の脅威にさらされていた明治の日本は自国の安全を確保するため、朝鮮半島に自主独立の近代化された国家が成立することを強くねがった。福沢諭吉は次のように論じた。

「いま西洋が東洋に迫るそのありさまは、火事が燃え広がるのと同じである。この火事から日本という家を守るには、日本の家だけを石造りにすればすむというものではない。近憐に粗末な木造家屋があれば、類焼はまぬかれないからである」

日本、朝鮮、清国という、お互いに隣り合う家屋の安全のためには、隣の家の主人を半ば強制してでもわが家に等しい石造りの家をつくらせることが必要である。というのが福沢の考えであり、明治政府の考えでもあった。近代日本の置かれた立場を理解させない歴史教育は教育の名に値しない。

朝鮮語を「奪った」との謬論
李朝時代の朝鮮が「粗末な木造家屋」であったことは朝鮮の外交顧問であったアメリカ人のスティーブンスさえ、日露戦争のあとで、次のように述べでいたことからわかる。

「朝鮮の王室と政府は、腐敗堕落しきっており、頑迷な朋党は、人民の財産を略奪している。そのうえ、人民はあまりに愚昧である。これでは国家独立の資洛はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされるであろう」

朝鮮の近代化は、日韓併合後の日本統治によって初めて実現した。日韓併合100周年に当たっての菅直人首相の謝罪談話を推進した仙谷由人官房長官は3月4日、日本の「植民地支配の過酷さは、言葉を奪い、文化を奪い、韓国の方々に言わせれば土地を奪うという実態もあった」と発言した。あまりの無知に開いた口がふさがらない。ここでは、日本が朝鮮人から「言葉を奪った」という官房長官の妄想についてだけとりあげる。

日本統治時代、朝鮮半島に在住した日本人は、人口の2%に過ぎない。2%の人間がどうして他の98%の人間から、土着の言葉を「奪う」ことができるのか。

仙谷氏は、日本統治下の学校で日本語が教えられたことを、誤って朝鮮語を「奪った」と一知半解で述べたのかもしれない。それなら、この謬論を粉砕する決定的な事実を対置しよう。

韓国人が使っている文字、ハングルを学校教育に導入して教えたのは、ほかならぬ、日本の朝鮮総督府なのである。

李朝時代の朝鮮では、王宮に仕える一握りの官僚や知識人が漢文で読み書きをし、他の民衆はそれができないままに放置されていた。ハングルは15世紀に発朋されていたが、文字を独占していた特権階層の人々の反対で使われていなかった。それを再発見し、日本の漢字仮名まじり文に倣って、「漢字ハングル混合文」を考案したのは福沢諭吉だった。

先人の苦闘の歴史冒瀆するな
朝鮮総督府は小学校段階からハングルを教える教科書を用意し、日本が建てた5200校の小学校で教えた。日本は朝鮮人から言葉を奪うどころか、朝鮮人が母国語の読み書きができるように文字を整備したのである。

併合当時、韓国の平均寿命は24歳だったが、日本統治の間に2倍以上に延び、人口の絶対数も倍増した。反当たりの米の収穫量が3倍になり、餓死が根絶された。はげ山に6億本の樹木が栽培され、100㌔だった鉄道が6000㌔に延びた。北朝鮮が自慢げに国章に描いている水豊ダムは、日本が昭和19年に完成させた、当時世界最大級の水力発電所だつた。

これらのめざましい発展は、統治期間に政府を通じて日本国民が負担した、現在価値に換算して60兆円を超える膨大な資金投下によってもたらされた。本国から多額の資金を持ち出して近代化に努めたこのような植民地政策は世界に例がない。日本の朝鮮統治はアジアの近代化に貢献した誇るべき業績なのである。

日韓併合100周年の首相謝罪談話は、このような歴史的事実を無視した虚偽と妄想の上に成り立っている。それは、わが国の先人の苦闘の歴史を冒瀆するものであると同時に、日本統治下で近代化に努力した朝鮮の人々の奮闘をも侮辱するものであることを忘れてはならない。(edited by T.Mori)

2013年12月28日(土)

我が家のガレージ前の三角地帯に下りる東の端の斜面に、ネギが何本も生えているとエドソンが言うので、見ると、本当に結構立派なネギが生えていた。何故ここに生えてきたのだろう?と、ふたりで顔を見合わせた。台所の野菜くずを捨てて、土を被せただけのランドマークの木の足元から生えてくるのはわかるけれど、ここに野菜くずを捨てたことはないので、まるでミステリー。不思議だ!しかも、畑のネギにはプガォンという小さな小さな黒い虫がびっしりついていたりするのだけれど、このネギにはまったくついておらず、とてもきれい。2つ目の写真は、そのネギをもう少しアップで撮った写真。早速これを収穫したのは言うまでもない。ネギは、根こそぎ抜かずに、1本、1本切って収穫すると、長~い間収穫し続けることができるので、畑のネギだけでなく、ここのネギにもしばらくお世話になることができそう。

2013年12月29日(日)

以下は、インターネット上で見かけた産経新聞9月11日(水)7時55分配信記事のコピー。

ベトナムの「歴史直視」せぬ韓国

【ソウル=黒田勝弘】ベトナム訪問中の朴槿恵(パク・クネ)大統領が過去の戦争の歴史について謝罪発言などまったくせず、ベトナム側も何ら要求していないことが韓国で話題になっている。10日付の新聞論調では、韓国が日本に対してしきりに「歴史直視」を要求していることと矛盾するではないかとの皮肉も出ている(ハンギョレ新聞社説)。

◆謝罪発言全くなし

韓国は1960~70年代のベトナム戦争で米軍支援のため延べ30万人以上の部隊を派兵、部分的に“住民虐殺事件”もあったとされる。ベトナム統一後、両国は92年に国交を結んだが、ベトナムは韓国に対し謝罪や反省、補償など一切求めなかった。

しかし2001年、金大中(キム・デジュン)大統領がベトナム訪問の際、「不本意ながらベトナム国民に苦痛を与えたことを申し訳なく思う」と“謝罪”。これに対し当時、野党だった朴槿恵ハンナラ党副総裁は「金大統領の歴史認識を憂慮せざるを得ない。参戦勇士の名誉を傷つけるものだ」と批判した経緯がある。ベトナム派兵は父・朴正煕(チョンヒ)大統領(当時)の決断で行われたものだが、朴槿恵大統領は今回の訪問に際しベトナムの国父ホー・チ・ミンの廟(びょう)参拝、献花の時を含め戦争の歴史にはまったく触れず、もっぱら経済協力問題に終始した。

◆“成熟”を見習って

中央日報は1面トップ記事で「父の時代の歴史に対する和解」とし「過去についての両国の成熟した立場と、間違った歴史認識にとらわれている日本を比較することになる」「日本への圧迫の意味もある」と奇妙な解釈を加えている。

朴大統領が謝罪をしなかった背景には、ベトナム戦争を米韓による侵略戦争とするベトナム側と「自由を守るための戦争」とする自らとの間に歴史認識の違いがある。

にもかかわらずベトナムが韓国に歴史認識の一致や謝罪、反省を求めず未来志向の協力関係を重視する“成熟”した態度は、日本ではなくむしろ韓国の対日姿勢に対する教訓であり“圧迫”になるものだろう。

一方、韓国マスコミはベトナムが60年以上も植民地支配されたフランスに謝罪や反省、補償など一切求めていないことには触れていない。

2013年12月30日(月)

次の写真は、去年だったかエドソンが買ってくれた小さな白いバラの鉢植えを、花が終わった後、大きな鉢に植え替えてベランダで育てていたら、最近ひとつだけ小さな花を咲かせたので写真に収めた。ても、この鉢にはベイジョや他の雑草が自然に生えてきて、バラよりも元気にしているので、バラの鉢というよりもベイジョと雑草の鉢のようになっている。

以下は、ニッケイ新聞2013年12月25日付けブラジル国内ニュースからの転載。大雑把に言って、1レアルは約50円なので、724レアルは3万6000円くらいということになる。そして、この最低賃金は月額。

来年の最賃は724レ=現行より6・78%増

『ジウマ大統領は23日、公式ツイッターを通じ、来年からの最低賃金を現在の678レから6・78%増の724レに上げることを定めた法令を裁可した。23日付G1サイトが報じた。

8月に議会に提出された来年度の予算案で政府は722・90レを見込んでいたが、最終的に議会では724レで通過した。

大統領は18日の時点で、来年度の最賃がこの金額になることを示唆していたが、ペルナンブコ州のラジオ番組でのインタビューで「国内総生産の正式な数値が出るのを待つ。結果によって722、723、724のいずれかになる」とコメントしていた。最低賃金の金額は、全国消費者物価指数(INPC)、過去2年の国内総生産の数字をもとに計算されるためだ。

新たな金額の最賃は来年1月から有効となる。』

2013年12月31日(火)

今年もあっと言う間に大晦日。今年前半はモビが治療の甲斐なく亡くなるという悲しいことがあったけれど、私たちがここに越して来て、いろいろしんどいことがあっても何とか笑顔で楽しくやってこれたのはモビがいてくれたお陰だったので、モビを失くした悲しみに浸るよりも、モビと出会えて、一緒に何年か暮らすことができた幸運の方を感謝したい。そして、エドソンも私も大きな病気をせず、穏やかに今年一年を過ごせたことを喜びたい。私たちがブラジルに来て以来、雨期には毎年のようにどこかで必ず豪雨により大きな被害が出る一方、まったく雨の降らない地域もあって、干ばつで農作物に大きな被害が出たりしている。国が広いからいろいろあって当然なのかもしれないけれど、自然災害の前に人間は無力だと思う。ここでも今年は乾期によく雨が降り、雨期の現在は雨があまり降らないというおかしな天候が続いており、来年はどうなることやらと思う。とは言っても、ここを終の棲家と決めたのだから、この環境で慎ましやかに順応して、感謝しながら生きて行かなくてはと思っている。次の写真は、日本時間で新年を迎えた後の我が家を外からパチリ。



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