Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2013年11月1日(金) | ||||
10月29日に、ペトロポリス市立劇場で市立小学校児童の合同学芸会があり、安見さんの自宅近くのサンジェラルド小学校が「A ROSA DE HIROSHIMA(広島のバラ)」の歌と振り付けで参加し、ペトロポリス日系協会が浴衣を提供したというメールがペトロポリスの安見さんから届いた。この合同学芸会のテーマは、ヴィニシウス・デ・モラエス(Vinicius de Moraes)生誕100周年記念ということだった。それで最近テレビで彼の映像をよく見かけるのかと、ようやく納得。このテレビの映像を見ながら、「この人誰だろう?」と思っていたのだ。 ヴィニシウス・デ・モラエス(1913年10月19日誕生、1980年7月9日没)という人は詩人で、ボサノヴァの作詞、作曲をたくさんしているらしい。彼の作った歌の多くはブラジル音楽のクラシックになっているとウィキペディアにあった。この「A ROSA DE HIROSHIMA(広島のバラ)」は1973年に作詞されたもので、2009年の「ローリング・ストーン誌」で、ブラジル音楽ベスト100の中の69位に選ばれたともあった。
YouTube上の「A ROSA DE HIROSHIMA(広島のバラ)」を聞いてみたい方は、 こちらへ。映像の方は広島と長崎その他が混在していてちょっと???なので、目をつむって聞いてください。
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2013年11月2日(土) | ||||
冬の間、畑のコウヴィにたくさん小さな虫や虫の卵がついて、無残な状態だったのだけれど、時々とても大きくてきれいなコウヴィをくれる手伝いのゼーが、虫のついた汚い葉を丹念に取り除くと、新しい葉に虫がつくことを防ぐことができると助言してくれたので、先月半ばに、先端の新芽だけを残して、虫のついた他の葉をすべて取り除いて、ほぼ裸にした。そうしたら最近とて大きくきれいな葉がたくさん出てきて、ゼーの言った通りになった。これまで放っておいてもたくさんできていたのだけれど、やはり手入れをして悪い影響を及ぼすものは排除することが大切なのだと実感。先日、コウヴィに黄色い花が咲いていたので写真に撮てみた。コウヴィの花を見るのは初めてのような気がする。コウヴィははるの食事に欠かせない食材だし、私たちもコウヴィを千切りにして炒めてよく食べる。コウヴィはカルシウムとビタミンAが豊富なので、骨粗しょう症やガンを予防してくれるありがたい野菜。
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2013年11月3日(日) | ||||
去年の夏、エドソンのお母さんがパラカンビから持ってきてくれた3~4株のカモミルを、家の前の庭に植えたのだけれど、冬の間に枯れてしまい完全に姿を消していた。そうしたら、枯れる前に種を四方八方に飛ばしていたようで、春の訪れとともにたくさん芽を出して、成長を始めている。このカモミルは黄色い花を咲かせるタイプなので、ゴールデン・カモミルという名前で、普通のカモミルは白い花が咲くのだそうだ。知らなかった。冬の間姿を消しても、周辺に落ちた種がしっかり芽を出す強い花だということがわかり、あちこちにこの花を咲かせようと、エドソンが何本か家の南側の防風林の間に移植してくれた。
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2013年11月4日(月) | ||||
次の写真は、今年8月に日本で出版された木村快著「共生の大地アリアンサ ブラジルに協同の夢を求めた日本人」。広島の兄に頼んで送ってもらった。イビウーナの香山さんのところにもあったので、さすがに入手が速いですねと言うと、長年親交のある著者の木村さんが送ってきてくれたのだということだった。去年の8月には、アリアンサ日伯文化体育協会から「アリアンサ移住地 創設八十年」という記念誌もブラジルで出され、歴史の闇に消されていたアリアンサの歴史が少しずつ明らかになってきている。国策として移民を送り出した側の日本にちゃんとした記録や資料が残っておらず、移民史を学術的に研究する研究者もいないという現状で、これらはともて貴重な書籍だと思う。ブラジルの日本人移民史を知る上で、アリアンサの歴史を無視することはできないのだから。
そして、最近ニッケイ新聞で連載されている「日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年」という記事の中にも、アリアンサに関する記述が出てきている。以下は、ニッケイ新聞2013年11月1日付け「コラム 樹海」からの転載。 『レジストロ連載第66回にある、アリアンサ移住地建設を企図して発足した「信濃海外協会」の発起人の一人、小川平吉(国務院総裁)の子孫が、実は身近なところにいる。聖市の文協会長選挙に立候補した経験を持ち、聖南西文化体育連盟の広報理事として活躍している小川彰夫さん(二世、70)だ▼平吉の弟・脩平の息子正夫の子供にあたるという。平吉は1901年に近衛篤麿と共に上海の東亜同文書院創立に参画し、1903年に衆議院総選挙以来、当選10回を数える。対露強硬派の急先鋒だった▼国務院総裁の後、司法大臣、鉄道大臣を歴任するなど1920年代に政権中枢にいた長野県人だ。彰夫さんの父正夫は、やはり代議士の上塚司が主導するアマゾン移住に賛同し、第2回高拓生として1932年にパリンチンスへ入った▼上塚第2植民地の立案者の一人、粟津金六は32年当時、アマゾニア産業研究所所長をしていたが、勝手知ったる聖州の方が地味良しと説いたこともあり、第2回生の多くが南下し、正夫も聖州へ向かい彰夫さんは聖市で生まれた▼平吉が1942年に死去した時の葬儀委員長はあの頭山満。東京朝日新聞は通常一段の死亡記事に特例で2段見出しを立て、頭山の談話で日露戦争を回想させ、「小川君はそのころから尊敬すべき国士だった」と書いた。この小川一族は政界においては宮澤喜一、鈴木善幸、林銑十郎、吉田茂、財界では三菱の岩崎家にも姻戚関係があるという▼まさに日露戦争当時の〃国士〃の系列にある青柳育太郎が育て上げたレジストロ地方の百周年式典に、平吉の子孫が関わっているとは、一世紀に跨る日伯交流史の一幕だろう。(深)』 以下も、同じくニッケイ新聞2013年11月1日付け日系社会ニュース「大耳小耳」からの転載。 『アリアンサ移住地建設の発起人の一人、今井五介は、後にモジ市コクエイラ区にカザロン・デ・シャーを建設するなど、アリアンサ以外にも当地に関わった。1886年から4年間米国で辛酸を嘗めるなど、渡米経験を持つ長野県人という、永田稠、輪湖俊午郎らとの共通点を持つ。片倉組は1873年に小さな製糸工場として始まり、五介らの奮闘で従業員1万5千人という日本一の工場に育て上げた。高額納税者として貴族院議員に担ぎ上げられた。だが五介は従業員と一緒になって労務に携わり、娘も一般女子見習い工と同等の働きぶりだったという。小川平吉と共に、政界からブラジル移住を推進した立役者として、もっと脚光を浴びてもいい人物だろう。』 | ||||
2013年11月5日(火) | ||||
次の写真は、エドソンが買ってきたモコト・ヴォビーノ(MOCOTO VOBINO)。牛のアキレス腱だという。500グラムちょっとで3.03レアル(約150円)。先週の金曜日の夕飯に、エドソンがこれでモコトスープをつくってくれた。ちょっと脂肪の固まりのように見えるけれど、これは骨の回りのたんぱく質の固まりで、これでスープを作るとコラーゲンたっぷりのおいしいスープができるということだった。モコトはゼリーの原料としても使われる。ブラジルではモコトという名前のゼリーをスーパーなどで見かける。以前アメリカに住んでいた時、ベジタリアンの友人がゼリーを食べていたので、エドソンが「ゼリーは何でできているか知っている?牛のゼラチンだよ」と言うと、彼女はとても驚いていた。寒天は海草なので植物性だけれど、ゼラチンは動物性ということを彼女は知らなかったようだった。このモコトスープは、フェイジャオン(煮豆)同様、典型的なブラジル料理のひとつ。昔はとうもろこしの粉で作るポレンタもそうだったけれど、貧しい人たちの食べ物と言われていて、パトロン(雇用主)が食べずに捨てる肉の部位を、奴隷や貧しい使用人たちは豆と煮て煮豆を作ったり、豆や野菜と一緒に煮込んでスープを作ったりして食べていたのだそうだ。でも、プライムミートを食べていたパトロンよりも、この様な食事をしていた使用人の人たちの方がよっぽど栄養バランスの優れた食事をしていたというのも何だか皮肉な話だなと思った。
次の写真は、エドソンが作ってくれたモコトスープ。レンズ豆、白いんげん豆、ジャガイモ、玉ねぎ、トマト、オリーブ、コウヴィが入った具沢山スープ。塩味だけで、特別な味付けはしていないのだけれど、豆や野菜のうまみとコラーゲンのお陰で、おいしいスープに仕上がった。
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2013年11月6日(水) | ||||
シュハスコ小屋の煙突は、数週間前には小屋の中で立ち上がっていたのだけれど、お天気の具合やお休みなどなどで、それ以上は作業が進展していなかった。でも、この土曜日にようやく屋根の上に煙突が姿を現わした。ゼーは黙々と真面目に丁寧に作業をしてくれるのだけれど、スピードがとにかく遅い。そして、屋根瓦を煙突に合わせて電気ノコで切る作業がなかなかうまく行かないので、エドソンが代わりにやったりしていた。お酒の飲み過ぎのせいで手が震えるので、真っ直ぐにうまく切れないとエドソンが言っていた。そんなに年の人ではないのだけれど、長年の深酒のせいでだいぶ身体がしんどいらしい。彼に大きな仕事も任せようと思っていたエドソンは、結局、ゼーには無理だという結論に達したようだ。ここでは腕がよく、真面目に働く人を見つけるのは簡単なことではないので、少々残念。次の写真は、土曜日の午前中シュハスコ小屋の上で煙突を積み上げる作業をしているゼー。2枚目は、土曜日の作業が終わって、まだ完成ではないけれど、屋根の上に姿を現わした煙突。
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2013年11月7日(木) | ||||
以下は、インターネット上で見かけたNEWSポストセブン10月27日(日)7時6分配信記事の転載。「NHK深夜便」というラジオ番組は、私の友人のお母さん(東京在住)がいつも聞いているというので、番組の存在は知っていたけれど、私自身は一度も聞いたことはない。でも日本の高齢者の人たちには絶大な人気があるらしい。取り上げる内容が幅広く、質が高いようなので、何となくうなづける。ちなみに、ブラジルの日系人高齢者の間でも以下の記事に出てくるラジオ体操はとても盛んらしく、ラジオ体操関連の記事を時々見かける。
明治神宮が朝早く開門するとラジオ体操をする高齢者グループが訪れる。「ラジオ深夜便」を聞いて、終わると外に出てくるというラジオ体操参加者から教えられた「深夜便」で繰り返し放送され、若者からも反響が大きかった『統合失調症の母との歩み』について、作家の山藤章一郎氏が紹介する。
* * * 〈明治神宮宝物殿〉前。杖をついた爺さんが、ヨイショとベンチに腰かけた。 「3時に起きて。やることないの。〈深夜便〉終わる5時、外に出て。まあ掃除でもやるかって。でも、あんた、ホウキって、シャッシャッ、結構、音出て。うるさいっ、近所迷惑だっ。うちの婆さんに叱られて。まあほんと、ラジオ体操ぐらいしかやることないの」 ベンチから立ち上がる。6時30分。宝物殿の受付脇のラジカセから放送が流れてくる。ラジカセは〈明治神宮お早う体操会〉のメンバー会費で買った。 ♪「腕を前から上にあげて大きく背伸びの運動から」 10月の朝。腕、脚を動かすと汗ばむ陽気である。全国には、約820か所のラジオ体操会場、2800万人の愛好家がいる。ラジオ体操はいまから85年前に始まった。「国民保健体操」と呼ばれたという。歌もつくられた。 ♪「躍る朝日の光を浴びて まげよ伸ばせよわれらが腕 ラジオはさけぶ一 二 三」 定年から20年経つという爺さんが、意外なことをいいだした。 「『ラジオ深夜便』聞いて。ほんとに毎朝、大晦日も元旦も雨が降っても雪が降ってもここへ来て、ちょっとシャキッとすんの。もうなんにも楽しみないからね。そうそうあんた、〈深夜便〉でなんども繰り返し放送された話。あれは泣けた。もういっぺん聞きたいんだけどな」 あとで調べた。4時から放送される「明日へのことば」というコーナーで紹介された話だった。タイトルが『統合失調症の母との歩み』という。 私が2歳のとき母は「発症」した。父は外に女をつくり帰ってこない。娘の私は母の料理をいちど「美味しい」といった。母はそれを8年間毎日つくりつづけ、自分はせんべいだけを食べ、ひたすら煙草をすいつづけていた。 夜は寝ずに闇のなかをのそりのそり歩きまわり、わけの分からないことをぶつぶつ呟く。家は貧しい。中学になって、母が制服をつくってくれた。できあがったのは変なもので、あちこち針が残っていた。学校ですさまじいいじめにあった。踊り場から突き飛ばされた。 転げ落ちて、スカートがめくれ、下着が丸見えになった。落ちた痛みより、そのことが恥ずかしかった。私は、突き落とした5人の男女を階段の下から見上げて、心に決めた。「あいつらより絶対にいい人生を生きてやる」 同時に母への怖れが憎しみに変わった。身なりが貧しいからこんな目に遭う。母を恨んだ。見返してやる職業をめざす。医学部に合格し、精神科医になった。精神科の勉強で、母の病気は〈統合失調症〉だったと知る。 だが同時に思う。目的を達成しても、動機が復讐だと心は救われない。私の過去はボロボロだ。そしていまは孤独。母とはまったく会わなかった。もう1分1秒も生きたくない。2度の自殺をはかる。 助かったが、しょんぼりと生きていた。人にいわれた。お母さんとこのまま会わなかったら、あなた自身が幸せになれない。そうだ、母を見捨てたままでは、自分はどうせろくな人生しか生きられない。札幌の奥の方に住んでいた母親に会いに行く。 母は空港まで迎えに来ていた。1台1台のバスに首を突っ込んで、私の名前を呼びながら探している。「いっちゃん、いっちゃん」その姿が目に飛びこんできて私は驚く。なんてちっちゃくなったんだろう。再会への不安も恨みもすべて消し飛んで私は声をあげた。 「お母さん」 ひとり暮らしの家に入ると、あの8年続いた料理が出てきた。母の私への思いは子どものころに止まってしまっていた。 私は50歳を過ぎている。人が回復するのに、締切はない。「もう遅い」といってしまってから、可能性はしぼんでいく。
精神科医、夏苅郁子さんの話は、圧倒的な共感を呼んだ。中村プロデューサーも驚いた。「別の枠で再放送したらまた要望があって再々放送。〈深夜便〉だから長いお話を静かにお届けできて。この時は、若い人からも痛切な感銘が寄せられました」 | ||||
2013年11月8日(金) | ||||
先月の10月16日に、外務省が尖閣諸島と竹島に関する日本政府公式動画の配信を始めたことを、つい最近インターネット上のニュースで知った。今年中に10カ国語に翻訳されて、それぞれの配信が始まるとあったので、YouTube上で検索してみたら、すでに英語判の配信が始まっていたので、その日英両語の動画サイトにリンクをはってみた。 「日本の領土尖閣諸島・竹島」と題する日本語の動画サイトは、 こちらへ。 「The Senkaku Islands - Seeking Maritime Peace based on the Rule of Law, not force or coercion」と題する尖閣諸島に関する英語判の動画サイトは、 こちらへ。 「Takeshima - Seeking a Solution based on Law and Dialogue」と題する竹島に関する英語判の動画サイトは、 こちらへ。 | ||||
2013年11月9日(土) | ||||
今週は、月曜日からお天気が崩れ、冷たい雨が降ったり止んだり。また冬が戻って来たような毎日で、洋服を着込み、夜は収めた掛け布団をまた出してきてしのぐ寒い日が続いていた。つい先日真夏日の暑さで扇風機をかけていたのが嘘のよう。木曜日の夕方、太陽が西の地平線に沈む際、雲の切れ間からほんの少し顔を出し、真っ赤な光を放って家を照らした。金曜日の朝は相変わらずの曇天だったけれど、午前10時前後から時々薄日が差すようになり、短時間だったものの久しぶりに太陽と青空を見ることができた。そして今朝は、久しぶりの快晴となり、午後から暑くなりそうな予感。次の写真は、昨日の朝、西の空に、雲の合間から出た青空をパチリ。
以下は、ニッケイ新聞 2013年11月6日付け「コラム 樹海」からの転載。 『もし順番が逆だったら…と背筋が寒くなった。ここ2週間の石油資源を巡る動きはどこかハラハラさせられた。現実にはリブラ油田入札、OGX会社更生法適用、ガソリン値上げ許可という順番で起きたが、まず間違いなく大統領の入念な配慮でそう順番づけられたのだろう▼万が一、逆の順番だったらと想像した。ガソリン値上げのインフレへの影響は大きい。政府が定めたインフレ上限に収まっていたのは、その値上げが抑えられていたからだ。もし値上げが最初に起きていたら、その後の展開は暗い経済見通しを基調に否定的に見られたはずだ▼値上げの後にOGX会社更生法適用なら、「ブラジルの資源バブル崩壊の象徴」という欧米メディアの報道の信憑性が高まった。国内の有名エコノミストは「あくまでバチスタ特有の経営手法の結果」と個人のせいにして経済全体の悪評につなげないよう苦心していたが、それもムダになっていただろう▼逆の順なら外国の投資家から「資源バブル崩壊」とみられ、ペトロブラスの株価暴落の危機もありえ、リブラ油田入札に応じる会社は出なかったかも…。最初に入札成功という朗報があったからこそ、後の否定的ニュースが打ち消され大きな混乱がないまま現在に至ったのでは▼だがガソリン値上げにより、今後インフレは政府目標上限を超える。それを打ち消す良い数字をどこかで出さないと経済見通しはいずれ悪化する。さてジウマの次の手は何か▼一国のインフレ率をペトロブラス一社で左右するだけでも大したものだが、外国からみた〃資源大国〃のイメージも支えている。この会社に何か起きたら国全体が大変なことになると痛感した。(深)』 | ||||
2013年11月10日(日) | ||||
はるはうちに来たばかりの頃、彼女のために買ったケージを毛嫌いして、中に入ることを頑なに拒んだので、使わないままダイニングルームの片隅に置いていた。そうしたら最近、何故かそのケージに自分で出たり入ったりするようになった。それで、場所を移動させて、ダイニングルームと台所の間に置くと、私たちの食事中や。私の英語のレッスン中は、ベッドを持ってこなくても、この中で待てるようになった。ただし、いつもというわけではなく、その日の気分で行動が変わるので、おとなしく中に居てほしい時は、ケージの前にはるの嫌いなタバスコのボトルを置くことにした。これがあるとケージから出てこない。次の写真は、昨日の朝、私たちが朝食を食べている際、ケージの中で待っているはる。朝日が顔にあたっているので、まぶしそうに目を細めている。
先日、インターネット上で、「巷で囁かれているアメリカンジョーク」というのを見かけて、笑ってしまった。でも、日本はヨーロッパなどと異なり台風や地震というむごい自然災害に頻繁に襲われるので、決して「すごしやすい気候」とは言えないし、頭の痛い隣国は韓国だけではないけどなあ・・・と思った。以下、そのジョーク。 〈神が日本を創るとき、勤勉な人間と美しい風景とすごしやすい気候を与えた。天使が言った。「神様、これでは日本が恵まれすぎています!」神は言った。「心配するな。試練は与えてある。日本の隣に韓国を作ったから」〉 | ||||
2013年11月11日(月) | ||||
庭のハイビスカスガーデンの横の小さなくちなしの木は、小さいままで、一向に大きくならないのだけれど、今年はこれまでになくずいぶんたくさん花を咲かせているので、玄関からベランダに出たり、バラの花壇の辺りに行くと、ほんのりとくちなしのいい香りが漂っている。この香り大好き!!次の写真は庭の北側から撮影したもの。アメンドインに埋もれたようになりながらくちなしが小さな白い花を咲かせている。この左側にもさらに小さなくちなしの木があり、少し花を咲かせているのだけれど、カメラのアングルが悪く、ハイビスカスの陰になってしまい姿が見えない。現在、黄色のマーガレットがあちこちで花盛り。バラも枝打ちした後丸裸になっていたけれど、最近、新芽がたくさん出てきて赤い葉をつけ、つぼみをつけ始めている。ハイビスカスもぼちぼち咲き始めた。
次の写真は、ベランダの西側の桜の木々の手前のくちなしの木3本。こちらはハイビスカスガーデンのくちなしよりもずっと背丈が高いのだけれど、小さいくちなしよりも花が遅く、先週の金曜日辺りから3本の内の1本が花を咲かせ始めた。奥のもう1本もたくさんつぼみをつけているので、もう少しすると花が咲き始めるものと思われる。手前の1本は、この土曜日にゼーに植木鉢からここに植え替えてもらったばかりなので、つぼみはまだなく、今年は花を咲かせるかどうか???
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2013年11月12日(火) | ||||
家の下のガレージ横に作ったエドソンのワークショップ兼オフィスと、上の家のゲストルームを入れ替えることにした。オフィスは自宅とは離したいというエドソンの希望で、ワークショップ兼オフィスを下に作ったのだけれど、結局、仕事は家のワークスペースでやっているし、ワークショップで夜間作業をしたい時など、わざわざ鍵と懐中電灯を持って下まで行くのが面倒なのと、オフィスと言っても知らない人が訪ねてくるわけではないので、自宅とオフィスを分ける必要もあまりなく、下の部屋には独立した洗面所とシャワールームがあるので、下をゲストルームにすると、上の部屋よりも気兼ねなくトイレやシャワーを使ってもらえる。そして、夜中にはるがオシッコに起きてゲストの邪魔になることもないなどなどの理由で、決断した。 それで、少し前から納戸の整理を始め、来客用のベッドシーツや毛布やベッドカバーなどを収めるスペースを作り、ベッドのマットレスを納戸に移したり、ガレージの大掃除と整理をしたり、それが済むと、ベッド枠を下のガレージに移動させ、上の部屋の掃除をして、ワークショップの作業台をひとつずつ下から持って上がり、作業台の上に置く無線機その他の機器を持って上がりと、毎日少しずつ、少しずつ作業を進めている。次の写真は、下から移動した作業台などが入り、ちょっとワークショップらしくなってきている上の部屋。下のワークショップだった部屋と比べて上の部屋はかなり小さいので、整理整頓しないとすべて持って上がれない。そのためかなり時間がかかっている。この新しいワークショップで早速エドソンは少しずつ今抱えているプロジェクトの作業を始めているけれど、下の部屋はまだたくさんのものであふれてひっくり返っている。
下の部屋はワークショップとして使い始めてからあまり掃除をしていないので、ずいぶん汚れてしまっている。それでこの部屋を空っぽにした後は大掃除をして、壁の塗り替えをして、シャワールームのドアも塗り替え、シャワーカーテンをガラスの扉にやり替えたりと、ゲストにとってできるだけ居心地のいいスペースにするため、やらなければならないことが山積している。 | ||||
2013年11月13日(水) | ||||
以下は、この11月1日にインターネット上で見かけた『「山本太郎議員が陛下に手紙」何が問題なのか 高崎経済大・八木教授に聞く』と題する記事のコピー。 『山本太郎参院議員が秋の園遊会で天皇陛下に手紙を手渡した問題が波紋を広げています。山本議員は手紙の内容について、福島第1原発事故をめぐる現状を書いたものだと説明していますが、「皇室の政治利用だ」「非常識だ」などと批判する声もあります。山本議員の行動をどう見るか。皇室問題に詳しい高崎経済大学の八木秀次教授(憲法学)に聞きました。
「直訴」をどう見る まず話を持っていく先を間違えています。天皇陛下はそういう存在ではありません。現在の天皇は「政治的中立」であるということが理解できていない。彼は国会議員なので国会の中で訴えていけばいいのです。田中正造(足尾銅山の鉱毒問題を天皇に直訴した明治時代の政治家)を気取ったのでしょうが、非常に滑稽に見えます。 そして場所も間違えています。園遊会は政治的な事を言う場ではありません。実際、手紙を渡しても、天皇陛下から侍従長に手渡されスルーされてしまった。現行憲法における天皇陛下の位置付けが分かっていないのでしょう。天皇は国政に関与できません。まるで専制君主制のイメージを持っている印象を受けます。 今の憲法における天皇は、政治に関与しないことで国民を統合していく。そこを期待されています。それを、無理に「反原発」という国民の間でも賛否が分かれている問題に引きずり込もうとした。憲法が分かっていないから、こんな失礼なことができたのでしょう。国会議員の取る行動ではありません。 彼は国会議員だから、ちゃんと手続きを踏んで、信念を政策に実現できる立場が与えられています。例えば、福島の方がやむにやまれず、陛下に辛い現状を伝えるのとはわけが違います。質問主意書を出したり、メディアを使って訴えるとか、いろんな手法があるにも関わらず「直訴」するというところが理解できません。
「政治利用」に当たるのか 皇室の政治利用とは、政治的主張などを「天皇の権威によって権威付ける」ことですが、そういう意味で、山本議員の行動は政治利用「未遂」と言えるかもしれません。 明治憲法下で、昭和天皇は2回だけ政治的意思を示したといわれています。二・二六事件(1936年に起きた陸軍青年将校によるクーデター事件)と終戦のときです。しかし、今はその余地はありません。そこの部分が現行憲法では強められました。 現行憲法下でも、例えば天皇は国会を召集します。しかし国政に関する権能はありません。天皇は国民統合の象徴で、いかなる政治的立場にもつかず、いかなる政治的意思も持たないことで、現在の天皇制は守られています。それは、国民が党派に分かれて対立していても、天皇はいかなる政治的立場にも立たないからこそ、国民を統合できるからです。
「直訴」は請願なのか 今回の行為が「請願」だという考え方もあるようですが、請願とは一般国民が行うことです。国会議員は国民から請願を受ける立場であり、政府を飛ばして天皇にお願いするのはおかしな話です。』 | ||||
2013年11月14日(木) | ||||
私たちの寝室の北側の窓に小鳥が激突することはないけれど、何故か居間の北側の窓には時々季節などには関係なく、小鳥が激突する。我が家の窓でそういう事故が起きるのはこの居間の窓ひとつだけで、他の窓ではそういうことは一度もない。大きな鳥が激突することはないけれど、小鳥でも激突するとドーンというとても大きな音がするので、はるもびっくりして飛び上がるくらい。窓のところまで見に行くと、窓下のコンクリートの上で脳震とうを起こしてひっくり返っていたり、起き上がってもしばらく動けずにじっとしていたりする。最悪の場合、激突死ということもたまにある。次の写真は、先日窓にぶつかってコンクリートに落ちて、ひっくり返っていた小鳥が、何とか態勢を整えて起き上がったところを部屋の中からパチリ。この小鳥はこの態勢でしばらくの間動かなかったけれど、そのうち飛び立って行った。
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2013年11月15日(金) | ||||
最近、夏と冬が週替わりのように、入れ替わり立ち替わりやってくる。先週は寒かったけれど、土曜日から急激に真夏日が戻ってきて、また連日扇風機のお世話になっている。でも、水曜日の夕方は気温がぐっと下がり、夜はちょっと肌寒いくらいの感じになった。昼間は暑く、朝夕は涼しいというここらしい気候がようやく戻ってきつつあるのだろうか?気温の変動が激しいので、身体が悲鳴をあげても不思議ではないのだけれど、毎日おいしくご飯を食べて、せっせとはるとのお散歩をしているお陰か、体調はいたって良好。感謝。感謝。 家の西側に植えたヒメシマダケが毎年ぐんぐん芽を出して拡がってきている。今年もたくさん芽を出していると先月書いたけれど、それからさらに芽が増えて、背丈が2メートルを優に越えるものも何本か出てきたので、写真に撮ってみた。画面左側の後ろのヒメシマダケの親竹と、手前のレンガの仕切りとの間に何本も芽を出し、ひょろひょろと伸びてきているのが見える。ここに移植した足元のアメンドインも少しずつ広がって来ている。
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2013年11月16日(土) | ||||
この前の日曜日に、ペトロポリスで歴史地区を回る6.5Kmのランニングがあり、安見さんは娘のえりかさんと参加したと言って、先日メールと写真を送ってきてくださった。つい最近まで4ヶ月くらい体調を崩しておられたのに、病み上がりでランニング?と、驚いた。しかもえりかさんは現在妊娠5ヶ月半。元気な親娘だなあと感心しながらメールを読むと、走り始めて1Kmも行かないうちに「びり」になってしまい、その上足が上がらなくなり、走ろうと気張っても走れず、とうとう最後まで歩いた。とあった。結果は男子219人中218番目で「びり」から2番目のゴールだったそうだ。でも一応脱落はせず、完走記念メタルを手にしたのだから、立派なものだ。
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2013年11月17日(日) | ||||
金曜日は、「共和国宣言の日」という祝日だったので、三連休の週末になった。それでヒバマーとゼーが金曜、土曜と2日続けて手伝いに来てくれた。まず、先週ゼーが作っておいてくれた四角いコンクリートが、金曜日の朝一番に、シュハスコ小屋の煙突の上に乗り、煙突が完成。
そして、ジャタイの巣箱を家の東側から森の近くに移すための準備も始まった。森の中の貯水タンクのある場所に下りてゆく途中、森の手前の左側の緩やかな傾斜地を覆うブラキアーリアを取り除く作業をしてもらった。ここは森のすぐ手前なので、強い風が吹いていても、森の木々や斜面に守られてあまり風を感じない。そして、森の中にはいろいろな野性の花々が咲いているので、ここなら食べ物にもあまり困らないだろうと言うことで、より良い環境を求めてここに移動することにした。次の写真は、地面の草をくわで切り離した後、まだ草をどける作業が行われていないので、草ボウボウに見えるけれど、地面の上で枯れつつあるブラキアーリア。2枚目は、ブラキアーリアをくわで取り除く作業をしているヒバマー(手前)とゼー(奥)。
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2013年11月18日(月) | ||||
昨日インターネット上のニュースで、鉄拳さんが新しい長編のパラパラ漫画をリリースしたというニュースがあったので、見てみた。いつもながら鉄拳さんの漫画はいいなあと思った。この漫画は、長野県大町市出身の鉄拳さんが、地元紙・信濃毎日新聞社の創刊140周年記念の依頼を受けて自伝的エピソードを交えながら家族愛を描いたものだそうだ。 YouTube上の『鉄拳「家族のはなし」(新聞印刷機アニメーション)』を見てみたい方は、 こちらへ。 | ||||
2013年11月19日(火) | ||||
シュハスコのかまどの煙突ができたので、テストしてみようということになり、日曜日の夕方エドソンが、冬の間暖房用に使っていた薪で火をおこして、お肉を焼いてくれた。普通、シュハスコをする場合は、スーパーなどで売られているシュハスコ用の炭を使うのだけれど、それはまだ買っていないので、今回は薪を利用。シュハスコで焼いたお肉は、フライパンで焼いたお肉や、オーブンで焼いたお肉とはひと味違う。まず、塩は普通の塩ではなく、岩塩を使う。味付けはそれだけ。アメリカのようにステーキソースなど使わない。シュハスコでお肉を焼く際は、油を使わない上、お肉の余分な油が下に落ちるので、焦がさないように上手に焼けば一番あっさりとした感じにおいしく焼けるように思う。エドソンは自分でデザインしたシュハスコのかまどで焼いたお肉がおいしくできたので、とても満足そうだった。そして、ブラジルのガスレンジには魚を焼くための機能はないので、ブラジルに来て以来焼き魚を食べたことがないのだけれど、シュハスコを使えば魚を焼くこともできる。これからはたまにシュハスコを使って焼き魚も食べようとエドソンと話している。
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2013年11月20日(水) | ||||
今日、はるは生後13ヶ月になった。次の写真は、はるの日常のふたコマ。1枚目は、夜、私たちが居間でテレビを見ている時に、私たちの足元に置いたベッドの中で無防備に大の字になっているはるをパチリ。2枚目は外ベランダで過ごしているはるをアップでパチリ。こういう場合、モビはカメラを向けるとカメラを見つめてポーズをとってくれたものだったけれど、はるはカメラを向けると私の手の中のカメラが気になって、カメラの前でじっとしていることができない。だからはるがカメラを見つめている写真を撮るのはとても難しい。
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2013年11月21日(木) | ||||
昨日は、「黒人意識向上の日」という休日で、ドナ・ベティのファゼンダの仕事がお休みだったので、ヒバマーとゼーがまたうちの手伝いに来てくれた。ただ、昨日は全国的な休日ではなく、サンパウロ州が独自に祝日と定めているだけらしい。でも、サンパウロのニッケイ新聞は休刊だったけれど、何故かパーディーニョのスーパーやオフィスは毎年のことながら、どこも休んでおらず、平日と変わらず営業というのはどうしてだろう?そんな訳で、エドソンもいつも通りに仕事をしなければならず、下のワークショップの片付けは進展しないまま、またお預けになってしまった。 先週末の三連休も、エドソンは新しいコンピュータシステム構築の仕事で忙しくしていたので、ほとんど平日と変わらない日々だったけれど、ペトロポリスの安見さんのところは、15日が道子さんのお誕生日だったこともあり、リオで暮らしているお嬢さんがやって来たのを始め、お嬢さんの友人でリオ総領事館公報文化センターの女性や、ブラジル柔道女子ナショナルチームの指導で今年の4月から着任している女性柔道家夫妻、これから半年間サンパウロのニッケイ新聞で記者として働く予定の女性などの来訪が重なり、千客万来だったようだ。こういう若い人たちとの交流があるというのは何ともうらやましい。
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2013年11月22日(金) | ||||
以下は、ニッケイ新聞 2013年11月20日付けの「コラム 樹海」からの転載。 『「五輪はリセット(やり直し)する良い機会」。竹中平蔵元蔵相の先週の講演で、そんな言葉に考えさせられた。竹中氏は2020年の東京五輪に向けて羽田空港にもっと国際線を乗入れるなどの国内改革や規制緩和をする理由にできるとの意味で、前掲の言葉を出した▼これを聞いて、伯国の場合はむしろ来年の「W杯」だと考え直した。というのも、メンサロン裁判の一部が結審して、労働者党(PT)の元党首、金庫番、官房長官がそろって刑務所行きになったからだ▼現与党のまさに核心にいた3人が、その政権が指名した最高裁判事によって汚職を裁かれて投獄されるという事態は、実に〃民主的〃だ。驚くほどきちんと三権分立が機能している。当国にとっては歴史的な瞬間だ▼少なくとも今までは「与党要職にある人物は罪を問われない」のが不文律なのかという雰囲気があった。労働者党の中でも、良い一部分がこの判決を支えていたのだろう▼伯国初の黒人の最高裁長官が、この判決実行(投獄)を指示したのが、共和制宣言(王制廃止)の祝日だったのも象徴的だ。前近代的な王政を底支えしていた奴隷制度が廃止され、将棋倒しのように翌年に同宣言が出された。黒人最高裁長官就任を奴隷解放になぞらえれば、「伯国政界の汚職体質」は奴隷制や王政のような前近代的なものであり、黒人自らがこの判決で「伯国をリセットした」ように見えた▼その判決を支えた社会背景には、6月の〃抗議行動の波〃がある。来年のW杯を契機に、国民全体が社会の根本的な部分をやり直そうと政権に求める機運が高まっている。サッカー以上にこの展開が楽しみだ。(深)』 | ||||
2013年11月23日(土) | ||||
居間の前のハイビスカスガーデンの右側に、毎年冬になると消えて、春になると花を咲かせた後、葉を伸ばす葉物植物が2本あるのだけれど、そう言えば今年は花が咲かないねと、だいぶ前にエドソンと話したことがあった。そうしたら1週間ほど前、ピンクの花がアメンドインとマーガレットに埋もれるようにして咲いているのを発見。もう1本の白い花の方はまだ何の兆しもないけれど、ピンクの花とは再会できうれしく思った。
次の写真は、今ほぼ満開に花を咲かせているくちなしの花。今年はこれまでよりも花の数が多いので、離れた場所からでもこの木の存在がすぐわかる。ハイビスカスガーデン横の小さなくちなしの花の方は、花のほとんどが茶色く枯れて、咲き終わりつつあるようだけれど、こちらは今が最盛期。
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2013年11月24日(日) | ||||
「楽書倶楽部」の同人でメル友の鎌谷さんは、「ブラジル日系文学」編集者の中田みちよさんが月に2回開催している文章サークル「余暇」に参加されている。そして、ブラジル日系文学は広島ペンクラブと文章のやり取りなどの交流をしている。それで先日、中田教室の2011年の文集と広島ペンクラブが発行している会誌「ペン2013(下)」を、送ってきてくださった。私が広島出身なので、この会誌の中に「知った人の名前があるかもしれませんね」と言っておられたけれど、目次をざっと見てみると、川堀耕平先生と天瀬裕康先生(これはペンネームで本名は渡辺晋先生)の名前を発見した。昔、広島県医師会で核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部の仕事をしていた時、おふたりは作業部会などに関わっておられたので、接する機会が多く、とてもお世話になった。おふたりとも私の好きな先生方だったので懐かしく思い、早速会誌の中のおふたりの文章を読んでみた。ちなみにこの「ペン」の表紙の絵も川堀先生のものだった。おふたりはそれぞれ80代後半と前半という年齢ながら、お元気にしておられることをうれしく思った。
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2013年11月25日(月) | ||||
先日、インターネット上で中国の今をリポートしている興味深い記事「中国・瀋陽をたずねて(上・下)」を見かけたので、以下にリンクをはってみた。 「中国・瀋陽を訪ねて(上)国家は反日、しかし…」のサイトは、 こちらへ。 「中国・瀋陽を訪ねて(下)若い世代が問い掛ける今」のサイトは、 こちらへ。 | ||||
2013年11月26日(火) | ||||
木曜日の午後からお天気が崩れ、金曜日も雨が降ったり止んだりだった。そして、土曜日は時折小雨が降る程度で、徐々に回復するかと期待したのだけれど、日曜日は夕方からまた雨が降り始め、月曜日は濃霧で雨が降ったり止んだりの1日になり、ちょっとやれやれ。でも、下のワークショップとして使っていた部屋の片付けを週末に少し進めることができたので、気分は悪くない。そして今日、ようやくお天気が少し回復した。次の写真は床やソファーの上にあふれていたケーブルや無線機器の付属品やパーツなどを、隣のガレージに据え付けたテーブルの上に移動させた後、ほぼ空っぽになった下の部屋。左に見えるテーブルの上にはまだパーツなどの細々したものが乗っていて、エドソンが整理するまで動かすことができないけれど、ここまで来たらあともう少し。
次の写真は、ガレージの中。上から持って下りたベッドの枠や、ワークショップから移動させた機器やパーツが乗っているテーブルで、ガレージの右側半分はいっぱいになっている。後ろの棚も整理して、掃除をしてここから移動させなければならないのだけれど、まずはゲストルームを完成させなければと思っている。
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2013年11月27日(水) | ||||
これまで私が使っていた眼鏡のレンズに傷がついて、見えにくくなっていたので、9月に、エドソンがボトゥカトゥの眼科に受診する際、ついでに私も検査をして眼鏡の処方箋を書いてもらい、新しい眼鏡を作ったのだけれど、車運転用の少し度の強い眼鏡にどうも違和感があるので、昨日、再度受診して、調べてもらった。でも結局、新しい度の強い眼鏡に目が(と言うか、脳が)まだ慣れていないだけということで、しばらくこの眼鏡を使い続けながら様子を見ることになった。エドソンが受診する際は、私が車に残ってはるを見ていられるけれど、私が受診する際は、エドソンが一緒に行かなければドクターと話ができないので、はるはヴィラ・シーコに預けて行った。はるは、お泊まりだと1日30レアル(約1500円)かかるけれど、朝預けて、用事を済ませた後、午後迎えに行くデイケアだと20レアル(約1000円)なので、とても助かる。 ヴィラ・シーコにはるを迎えに行くと、ロビーの長椅子の上にモビにとてもよく似た、目のクリクリしたおとなしいダックスフントが寝そべっていたので、「うちの犬もダックスフントなんですよ」と、その子の頭をなでながら、横に座っていた飼い主のおばあさんとちょっとおしゃべりをした。その子は11歳のメスで、名前はソフィア。老犬になって体調が良くないので、鍼灸治療を受けたところだと言っていた。そして私たちがはるを連れて帰る際、ドトーラ・ジャナイーナがヴィラ・シーコの開店1周年記念に作ったという犬の足跡柄の入ったマグカップをひとつくれた。マグカップの中に小さな字で、「UN ANO, GRAÇAS A SUA CONFIANÇA NO NOSSO TRABALHO(=one year, thanks to your confidence in our work=1周年、私たちの仕事に対する皆さんの信頼に感謝します)」と書いてあり、マグカップの柄の根元に2013年10月とあった。ヴィラ・シーコは去年の10月にできたのかあ~。じゃあ、はるの生まれ月と同じだ。そして、今はるがお世話になっている。おもしろいご縁だなあ・・・と、思った。
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2013年11月28日(木) | ||||
次の写真は、ダイニングルームの窓下で、外階段に囲まれた箱庭のような花壇の現在の様子。玄関を出たところからパチリ。ソテツの左側にある葉物植物は、階段沿い(写真手前)に植えていたものの種が飛んで、自然に生えてきたもの。そのまた左側の砂利の川は、雨の時に上の屋根から落ちてくる雨水(今だに雨樋がない)で土が侵食されるので、レンガを左右に置いて、間に砂利を入れて、土が流されないようにとずいぶん前に私が作ったもの。最初にここにソテツをドンと植えた時は、他に何もなく寂しかったけれど、今では何だかとても混雑して、雑然としてしまっているけれど、まあ、にぎやかでいいかな?なんて、思ったりしている。
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2013年11月29日(金) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2013年11月23日付け日系社会ニュースの「大耳小耳」からの転載。この記事の中の富江さんというのは、11月5日にブラジル連邦政府から「文化勲章」を送られた「ブラジルヴィジュアルアートを代表する」女性芸術家の大竹富江さん(99歳)のこと。 『画家の若林和男さんによれば、やはり「日本美術界は日本社会の縮図」とか。絵そのものの良さより肩書きが物を言うので、「芸術院(文化庁の特別機関)の会員になると、海外では名も知られていない人の絵が1枚1千万円に跳ね上がる。日本で絵が売れているのは、この会員含めた20人くらい」とのこと。間部よしのさんも「日本に比べたらブラジルは極楽」と全く同感のよう。富江さんが肩をすぼめて「もう帰りたくない」と言っていたのもわかる気がする。携帯電話技術などが日本だけが独自の方向で発達し、世界に広がらない様子を「ガラパゴス化」というが、芸術界でも同じ?』 ブラジル社会から敬愛されているという日本人女性芸術家の大竹富江さんに関する連載記事が、2013年11月20日付けから「ハイカラさん海を渡る=移民画家 大竹富江の一世紀」と題して、ニッケイ新聞に掲載されている。こういう日系一世の人たちのことを読むにつけ、いつも思うことだけれど、ブラジルというおおらかで自由な世界との出会いがあったからこそ花開いたのかもしれないけれど、日本を飛び出してブラジルに来た人たちには、狭い日本では収まりきれない、何か共通した大きさと、自由にたくましく生きて行く意志と力を感じる。この連載記事を読みたい方は、 こちらへ。 | ||||
2013年11月30日(土) | ||||
火曜日にお天気が少し回復すると、水曜日の午後からまた気温が上がり、暑い日々が戻って来た。次の写真は、庭のベンチに座って見た庭の様子。中央左右に丸く生えていたアメンドインが、広がってひとつにつながり、そのアメンドインの手前と向こう側に植えた芝生も、少しずつ広がってきているのがわかる。そして、ラベンダーが中央にポツポツポツと3箇所こんもりと咲いている。2枚目の写真は、ベンチとは反対側から撮ったもの。ハイビスカスガーデンの足元は芝生やアメンドインやマーガレットで埋もれている。右手前の小さなくちなしの木は、花の時期は終わったと思っていたら、まだ少し花を咲かせている。庭のベンチは背の高いユーカリの木の右側にあるのだけれど、木々に隠れて見えない。
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