Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2013年10月1日(火)

夕方、台所と居間の間のカウンターテーブルを挟んで、あられをおつまみにエドソンとワイングラスを傾けていると、はるはいつも「私にもあられちょうだい」と私のいる台所側にやってくる。モビもあられが好きだったけれど、ガン治療中で炭水化物を食べてはいけなかったので、1~2個くらいしかあげることができなかった。でもはるにはそんな問題はないので、いくつあげてもいいのだけれど、彼女の場合は際限がなくなるといけないので、3~4個あげるだけに止めている。はるはあられをおいしそうに食べ終わると、今度はエドソンの側に行って、木の丸椅子の足元の所に上がってバランスを取ったりする。はるはモビがやっていたようなこと、例えば、玄関マットの上でおとなしく私たちのことを見ているとか、を段々やるようになってきたけれど、一方でモビは絶対やらなかったような行動、例えば、ベッドについているリボンなど、周りにあるものを噛んでは壊すとか、をして私たちをあきれさせる。最近始めたこの丸椅子の足元に上がる行動は、モビはやらなかったはる独特の行動なので、その決定的写真を撮ろうと、何度かカメラを構えるのだけれど、シャッターを切る前にすぐ下りてしまうので、仕方なく、はるにもう一度お願いと言って、わざと何度か上がってもらって、やらせで再現して写真に撮ってみた。以下の写真は順に、椅子の足元に上がろうとしているはる。上がって器用にバランスを取っているはる。最後は椅子から下りかけているはる。はるがいると本当に退屈しない。

2013年10月2日(水)

昨日は霧の中で夜が明けたけれど、時間の経過と共に徐々に明るくなり、午後からは少し薄日が差す時間もあった。お陰で、雨が降り出さないかと恐る恐る干した洗濯物も乾いてくれ、感謝。感謝。でも、夜半過ぎからまた雨が降り出し、今朝7時過ぎには上がったものの、またまた霧の中。ああ~やれやれ・・・次の写真は、今朝一番のはるとのお散歩から戻り、玄関の所からランドマークの木の方向を向いて撮影した景色。ランドマークの木の向こう側はまったく見えない。手前のベランダ横のバラの花壇のバラは少し咲いてはいるものの、去年の今頃と比べて、雨が多く寒かったりするからか、あまりきれいに咲いていない。しかもつぼみの段階で虫がたくさんついて花を食べてしまうので、ちょっとみすぼらしい感じになっている。

お天気があまり良くなく、湿度が高い時に衣類の整理でもないのだけれど、この家に住み始めて2年余りが過ぎたのに、引越し荷物をざっと解いただけのような状態で暮らしていたので、昨日、思い立ってタンスや引き出しなどの整理を始めた。いらないものは捨て、使える引き出しを増やし、普段着るものは寝室のタンスや引き出しに移動させ、納戸の中も整理しようと思って始めたのだけれど、これが結構時間がかかる。お天気の都合もあるけれど、いろいろスッキリさせるまでには何日もかかりそう。

2013年10月3日(木)

以下は、ニッケイ新聞2013年10月2日付けブラジル・トピックスからの転載。これが日本だったら、国連の難民認定を受けている人でも、適切なビザを持っていなければ不法入国者として犯罪者扱いで、入国管理事務所の監獄のような所に入れられ、強制送還されることもある。さすが移民の国、ブラジルは懐が深いということか・・・?

不法ハイチ移民が急増=政府は例外的にビザ発行
=よりよい仕事求めブラジルへ

『北部アクレ州からブラジルに不法入国しているハイチ人の数が、今年に入って激増している。今年1月から9月初めの間、同州ブラジレイア市の連邦警察に登録されたハイチ人の数は6千人にも上っており、「今年になって数は増えてきている。毎日50人くらいが警察署の前にいる状態」と警察関係者は漏らす。

2010年1月に30万人の死者を出し、国土の大部分を破壊した大地震が起きて以降、渡航者は増えつつあったが、2012年には年間2318人のハイチ人がブラジルにビザなしで入国。今年の場合、彼らを受け入れる同市の避難所には9月25日までに少なくとも7200人の名前が登録され、2010年から数えると1万800人にもなる。

同市警察に登録されたハイチ人の数は2010年は37人だったのが、2011年は982人と急激に増えた。今年4月だけで、ビザ申請数は1771件にも上った。

アクレ州のティアン・ヴィアナ知事は、この状況に危機感を示し「緊急事態」を発令し、今年初めには軍隊のタスクフォースが組織され、不法入国者を一刻も早くブラジレイアの外に出すため、コントロールをするよう指示する事態となっている。

バスでブラジレイアに到着する不法移民はまず連邦警察に行って保護を求め、自国の言葉で書類に記入し、面接を受ける。保護請求書と呼ばれる仮の書類が発行されると、医療や教育などブラジル人と同等の権利が与えられ、労働手帳やパスポート、CPFも取得できる。警察での登録の後、書類は国家難民委員会(Conore)、国家移民審議会(Cnig)へ送られ、5年以内の定住許可を与えるかどうかが審議される。

Cnigによれば、昨年に人道的性質のビザを受け取ったハイチ人は4682人。今年の6月までには既に870人が受け取り、日々手続きが行われている。

ブラジルの法律では、ハイチ人は難民とはみなされていない。難民は人種、宗教、国籍、社会集団、政治的意見などが理由で迫害を受けていることを証明できる人と定められているが、ハイチ人の場合は数があまりに多いため、政府も例外措置を取り、他の不法入国者とは異なる扱いをしているのが現実だ。

不法入国のハイチ人は、その多くが首都のポート・プランスから来る。バスでドミニカ共和国のサント・ドミンゴまで行き、そこで航空券を買ってパナマまで飛ぶ。パナマからは飛行機かバスでエクアドルのキトまで行く。その後は陸路の移動でペルー入りし、国境を越えてブラジレイアにたどり着く。

このルートで来た42歳のあるハイチ人男性は、妻と4人の息子、母、姉妹を残して9月9日に出発、10日かけてアクレ州に到着した。現在は州政府が運営するブラジレイアの避難所で750人の同郷人とともに暮らす。「(ハイチの状況は)前ほどは悪くはなく、まあまあ。ドミニカが投資をして道路を建設していて仕事はあるけど、仕事がない人もたくさんいる」と自国の状況を説明する。

建設作業員として働いていたが、よりよい仕事を求めてブラジルへ来た。ブラジルに着くためにはペルーの数都市を通過しなければならないため、母国からは〃渡らせ屋〃に支払う500ドルを持ち出したという。だがボルジェス氏によればこの値段はまだ安いほうで、「1千ドル払う移民もいる」とも。

米国CIAによれば、ハイチの国民一人当たりの一日の収入は3・6レアルで、アメリカ大陸における最貧国の一つに位置づけられている。(9月30日付G1サイトより)』

2013年10月4日(金)

ここ2年余りガン闘病中だったイビウーナの中村さんが10月2日の午後亡くなられた。「楽書倶楽部」の前園さんが、昨日の夕方メールで知らせてくださった。そして今朝早く、長女の真理さんからもメールがあった。9月9日付けのウィークリー・ノートを送って来てくださった際、これが最後になるかもしれない。これからは書けるときに書くとメールで言っておられたけれど、翌週の16日も、その次の週の23日もちゃんと書いて送って下さっていたので、30日のノートが来なくても無理せず休んでおられるのかな?と悠長に思っていた。でも、どうやら体調悪化でサンタ・クルス病院に入院されて書くことができなかったようだった。前園さんは奥さんの澄子さんから中村さんが入院されたこと、そして、病状がかんばしくないことを知らされていたということだった。何だかとても急な展開だったので、メールをいただいてとても驚いた。この訃報に接してエドソンとふたりでしばし物思いにふけった。そして、アチバイアでガン闘病中のデマーコの状態もはかばかしくないので、デマーコとの別れもあまり遠くない将来に訪れるのは避けられないだろうとエドソンと話しながら、とても気が滅入った。

2013年10月5日(土)

東京で暮らしていた頃、エドソンは特別サーモン好きではなかった。と言うか、魚はだいたいフライにして食べるのが好きだったので、サーモンのソテーは大して喜んでくれなかったけれど、パーディーニョに来てからは手に入る魚の種類が少ないからか、ティラピアのフライやソテーの他に、サーモンのソテーや、サーモンを使ったパスタや混ぜご飯を作ると喜んで食べてくれるようになった。それで最近はボトゥカトゥのパオン・ジ・アスーカーに行くと、必ずサーモンを買うようになった。このスーパーで売られているサーモンは、1匹丸ごとか、3枚におろした半身か、半身をさらに半分に切ってパックしたものの3種類。さすがに1匹丸ごとを買ったことはないけれど、半身のものか、パックされたものを買っている。この木曜日の朝一番で、エドソンがボトゥカトゥの眼科に検査に行かなければならなかったので、終わってからスーパーに寄って買い物をして帰った。まだ時間が早かったので、パックされたものはできておらず、半身を買って帰った。半身とは言っても1キロ余りの重さがあり、値段は40レアル(約2000円)以上した。ここでは牛肉のフィレ肉でも1キロ30レアル(約1500円)も出せば手に入るけれど、魚はお肉よりも値段が高く高級品だ。次の写真は、長さ36センチ余りのまな板からはみ出だしている買ってきたサーモン。このままでは大き過ぎるので、これを半分に切って、ラップで包んで、タッパーに入れて、冷凍庫に保存した。

2013年10月6日(日)

ニッケイ新聞2013年10月5日付けの日系社会ニュースに、中村さんの訃報が掲載された。これから奥さんの澄子さんは日本に引き上げるための準備で大変だろうなあ・・・でも、長女の真理さんが日本から駆けつけて一緒に中村さんを見取り、おそらく片付けなどを手伝って一緒に日本に戻られるのだろうから、心配はないだろう。

■訃報■中村勉さん

『ブラジル日本商工会議所の元副会頭、中村勉(つとむ)さんが2日午後2時過ぎ、サンタクルス病院で逝去した。享年75。

3日にビラ・マリアナ霊園で告別式が執り行われ、同日荼毘に付された。

千葉県我孫子市出身。62年に東大卒業後、三井物産に入社。90年に米国三井物産上級副社長、92年にはブラジル三井物産社長に就任した。93~96年まで商議所の副会頭、近年はサンタクルス病院の副理事長も務めていた。

94年以降は聖南西イビウナに〃庵〃をかまえ、妻と二人で田舎暮らしを送っていた。2011年からニッケイ新聞6面で時事随筆「イビウナ庵便り」も執筆した。』

2013年10月7日(月)

土曜日は1週間ぶりにお天気が回復し、お昼前頃から強い日差しが降り注いで、気持ちのいい1日になった。晴れたり曇ったりだった午前中、庭の草取りをしていたら、エドソンがちょっと来てというので、ついて行くと、入り口ゲートから家まで続く道沿いに植えた孟宗竹の1本に、竹の子が芽を出していると言ってその場所を見せてくれた。この道沿いにはご近所からもらった十数本の孟宗竹を植えたのだけれど、約半数近くは根付かず枯れてしまい、根付いたものからも(1本を除いて)、まったく新しい芽が出てこないので不思議に思っていたのだけれど、こんな立派な竹の子が2つ出てきていることに感動。孟宗竹というのは大器晩成なのかな?

次の写真は、唯一子だくさんの孟宗竹。でも、どの子も細くてひょろひょろしたものばかりで、上の写真の竹の子とは全然違う。この違いはどうしてなんだろう?

2013年10月8日(火)

今年の6月頃だったか、だいぶ前に収穫が終わった野菜畑のミニトマトが、立ち枯れしたようになっていたので苗を抜いて、畑の南側、家の東側にある庭に捨てた。そうしたら、その庭に2本植えているガーデン・グレヴィーリャの内の、畑に近い方のグレヴィーリャの根元から、這うようにミニトマトの芽が伸びて、最近実をつけ始めているので驚いた。でも、まともな収穫はできないだろうと思っていたのだけれど、エドソンが数個ずつ2~3回収穫して来てくれていたミニトマトを、先週サラダに入れて食べることができた。何ともありがたい棚ぼた。そうしたら、日曜日にさらに大量のミニトマトを収穫してきてくれたので、またまた驚いた。次の写真は、エドソンが収穫して来たミニトマト。

ええっ、こんなにたくさん?これで全部収穫し終わったのかな?と思い、見に行ってみると、赤い実はほぼ採り終わっていたけれど、緑の実がまだたくさんついていたので写真に撮ってみた。この実が色づけば、また収穫できるんだあ~ワクワク、と獲らぬタヌキの皮算用。そして、畑に植えたミニトマトはまだ苗がゆっくり育っている段階なのに、不思議だなあと思う。

今年は、畑に植えたレタスやルッコラの育ちが情けないほど悪く、当初は順調に育っていたきぬさやも低温と多雨のためか枯れてしまい、一番元気なはずのコウヴィにもたくさん虫がついて、畑はとても無残な状態。現在、畑で元気に青々しているのはパセリと、タイムなどのハーブ類だけで、畑のミニトマトの苗はまだ弱々しい。それなのに、捨てたミニトマトから芽が出てきて収穫できたり、ランドマークの木の足元に埋めた台所の野菜くずから芽がでてきたり、育てようとがんばっているものが育たず、一方で、育てようとしていないものが育ってきたりと、とてもおかしな事態になっている。次の写真は、ランドマークの木の足元に捨てた野菜くずの中から芽を出し、伸びてきているポロねぎ。

2013年10月9日(水)

以下は、インターネット上で見かけた「認知症」予備軍チェックリストという記事のコピー。私は一番最初の質問からつまずいた。ここはクルマがなければどこにも出て行けない環境だし、外出も週に1度するかしないか。ここでの田舎暮らしではお洒落もお化粧も必要ないので、まったくしない。変化のない画一的な生活というのも、まさにここの日常で、毎日ほぼ同じことを繰り返しているので、自閉症の子供にとっては住みやすいだろうと思うくらい。ブラジルに来て以来一度も映画を見に行ったことがないし、ブラジルのテレビ番組(ニュースやノヴェラ)で感動するようなことはまずない。そして、ここでの話し相手はエドソンとはるのみなので、英語のレッスンで生徒さんが来る週3日以外は、他人と話すことはない。健康で穏やかな生活をしたいとここに移り住み、穏やかに暮らせていることに満足なのだけれど、さて困った。

11個以上該当なら危険度90%「認知症」予備軍チェックリスト

高齢化に伴い、わが国の認知症患者は増加の一途をたどっている。さらに近年では、40〜50代で発症する『若年性認知症』も増加傾向といわれており、もはや認知症は老後の問題とはいえなくなってきているのだ。そこで、あなたの『認知症』危険度を知るために、チェックリストを紹介。11個以上当てはまる人は”要注意”だ!

□外出時はすぐクルマに乗ってしまい、ほとんど歩かない
(運動しないと、脳の前頭葉の活性化が失われていく)
□深酒、喫煙をしている
(どちらも、脳にダメージを与える動脈硬化の引き金になる)
□お洒落や化粧などに興味がなくなった
(鏡を見て、手や体を動かすほうが脳は活性化される)
□映画やテレビ番組を見ても感動できない
(ボーッとテレビを見ているのは脳を動かせていない証拠)
□几帳面でいい加減なことが許せない性格だ
(柔軟性がないと、脳に与えられる刺激も少なくなる)
□失敗をイメージしてしまう。また結果に対し、くよくよしてしまう
(マイナスの感情は、記憶力の低下につながる)
□生活がパターン化されていて、趣味がない
(変化のない画一的な生活は脳を急速に衰えさせる)
□偏食で、好き嫌いが多い
(動脈硬化になる可能性が高いという点では要注意)
□健康診断で指摘された項目を放置したままにしている
(健康管理の不徹底から脳障害→認知症というケースも)
□他人とひと言もしゃべらない日が週1回以上ある
(『会話』は脳に刺激を与えるために必要なもの)
□パズルやクイズなどの答えをすぐ見てしまう
(『すぐに楽をしてしまおう』という発想は脳の衰えにつながる)
□新聞やテレビのニュースなどの情報をすぐに信じてしまう
(情報を鵜呑みにせず、背景や原因を考えることで脳の活性化を)
□頭をぶつけることが多い
(頭をぶつけることで、脳に細かい傷が付く危険がある)
□「面倒くさい」が口癖だ
(行動的な性格でない人は脳が衰えるのも早い)
□他人の意見を聞かず、決まったものしか認めない
(固定観念がある人は自ら創造的なことをしにくい傾向が)

該当項目が3個以内:危険度0%「今のところ問題なし。このままの日常生活をキープしましょう」
該当項目が4〜6個:危険度30%「該当する項目を意識しながら、日常生活を少し見直しましょう」
該当項目が7〜10個:危険度60%「危険水域です。危機意識を持って生活改善したほうがいいでしょう」
該当項目が11個以上:危険度90%「今のままでは認知症の危険性大! 根本的な生活改善を!」

2013年10月10日(木)

先日、玄関から出たすぐのところにあるベランダの椅子の足元に緑色のバッタのような、5センチくらいの結構大きな虫がいたので写真に撮ってみた。私とはるが何度も出入りして、側を通っても、びくともせずにそこにいる。最初この虫にはるは気づかなかったけれど、二度目くらいに気づいて、通る度につかまえようとするので、はるをひもで引っ張って、バッタに危害を加えないように制御しなければならなかった。午前中、ずっと動かずにいたけれど、午後はいつのまにかどこかへ行ってしまい、いなくなっていた。

以下は、ニッケイ新聞2013年10月9日付けブラジル国内ニュースの「東西南北」からの転載。先週ほぼ1週間続いた悪天候も、土曜日にはお天気が回復し、明るい日差しが降り注ぎ、気持ちのいい1日になった。これでようやく正常なお天気に戻るのかと思いきや、日曜日も太陽が顔を出し、お天気はいいのだけれど、南からの冷たい風が吹き荒れ、気温が低く、以後ずっと同じようにお天気は良くても、風が冷たく寒い毎日が続いている。以下の記事を読むと、この低温はここだけでなくサンパウロも同様のようだ。

『春になったとたんに雨の日が続き、今週になり雨があがったと思ったら今度は急激に冷え込むなど、春とは思えない天候が続く聖市だが、7日午後3時の気温は北部サンターナの観測所で14・4度を記録した。これは過去10年の聖市の10月の気温では、2003年10月11日に14・2度を記録して以来の最低記録となった。これを受けて市防災局は低気温注意報を出した。市の他の地点では12度の地域も見られたという。聖市でのこの低温現象は引き続くものと見られ、きょう9日も最高気温こそ23度になっているものの、最低気温は13度になる見込みだという。』

2013年10月11日(金)

今週7日付けのブログで、孟宗竹の1本に立派な竹の子が生えてきたと書いた。その竹の子のひとつはぐんぐん育ち、今では私の腰の高さに迫っている。そして、もうひとつの竹の写真を掲載して、この孟宗竹は子沢山だけれど、みんなひょろひょろしていると書いた。そうしたら、水曜日にエドソンが同じように立派な竹の子が生えてきていると言うので、見に行ってみると、側のハイビスカスのすぐ横からピーンと生えてきていた。7日付けでアップした写真で確認すると、ハイビスカスの横にはまだ何もない。日曜日にはまだ何の気配もなかったものが、3~4日でこんなになっていて、成長が速いので驚いている。

次の写真は、ランドマークの木の側の雑草低木。このところ黄色い花が花盛りなので、写真に撮った。その右手前に植えたサボテンには2つ新しい芽が出てきている。この春は天候不順なのに、孟宗竹といい、この雑草低木やサボテンといい、ちゃんと育っているから驚きだ。

2013年10月12日(土)

昨日の朝8時半頃、台所での片付けを終え、寝室でベッドメーキングをしていると、外で何かを叩くような音がするので、窓から顔を出して見ると、若いおにいちゃんが外ベランダの先の車寄せの辺りに立っていた。エドソンが外に出て対応すると、もうずいぶん前(5月頃だろうか?)に網戸の製作を頼んでいたオリベイラ鉄工所の人で、網戸の配達と取り付けにやってきたのだった。ブラジルでは人の家を訪ねる際、チャイムがある場合は別として、「こんにちは、ごめんください」と声をかけることも、玄関まできてドアを叩くようなこともなく、代わりに少し離れた所でパチパチまたはパンパンと手を叩いて来訪を知らせる。前もっての電話連絡がなく、入り口ゲートに鍵がかかっていたため、ゲートを乗り越えて来訪を伝えにきたわけだ。エドソンがそのおにいちゃんと一緒に鍵を持って、ゲートを開けに行くと、すぐにトラックが入ってきた。車が入ってくれば音ですぐわかるけれど、人が入ってきた場合は音がしないので、まったくわからない。モビは結構敏感で、外に人の気配があると吠えたりしていたけれど、私と一緒に寝室にいたはるは、私が気づくまでまったく気づかなかった。次の写真は、台所の窓から撮った配達のトラックの写真。荷台には頼んでおいた4面の網戸やハシゴが乗っていた。写真を撮った際は、すでに小さい2つの網戸は下ろされて取り付けが始まっていた。

次の写真は、シャワールームの窓に網戸を取り付けているおにいちゃんたち。オリベイラ鉄工所が作ってくれる網戸は、窓全体を覆うタイプの網戸で簡単には取り外せないため、頼んだのは、シャワールームと台所の2面と、納戸の計4面のみ。寝室やダイニングルームの窓には、引き戸式の網戸を取り付けたいのだけれど、いまだにそういう引き戸式の網戸を作ってくれる人がみつからないので、取りあえず、お天気のいい日はほぼ1日中開けておくシャワールームや納戸の窓用に網戸を作ってもらった。これで、夜間でも虫の侵入をあまり心配することなく窓を開けておけるので、シャワールームに湿気がこもらなくなる。この家での3度目の本格的な夏が来る前に、ようやく数ヶ所網戸を取り付けることができ、感謝。感謝。

2013年10月13日(日)

以下は、ニッケイ新聞2013年10月11日付け「日系社会ニュース」からの転載。

夢はコロニアで漫才披露=ハーフ芸人植野行雄さん
=『月9』ドラマにも抜選=母はミナス日語校元教師

『ブラジル人と日本人のハーフで、日本のお笑いコンビ「デニス」の植野行雄さん(32)が、フジテレビ月曜午後9時枠のドラマ『海の上の診療所』(日本時間14日午後9時スタート)に日系ブラジル人の航海士役で出演する。同局屈指の人気ドラマ枠である「月9」へのブラジル人ハーフの出演は初めてと見られ、日本でも話題となっている。母・潤子さんはミナス州ベロオリゾンテの日本語モデル校の元教師。植野さんは本紙のインタビューに対し、「ブラジルの日系社会の皆さんにまで届く活躍をしたい」と意気込みを語った。

「ブラジル人顔」でありながら日本語しか話せないギャップから体験したエピソードを使ったネタが受け、昨年頃からメディアへの露出が急増。現在は「ハーフ芸人」として多くの番組に出演するブレイクを果たした。

父のフェルス・デニスさん(故人)は、ベロオリゾンテ出身の非日系人で、カナダへの留学生同士だった潤子さんと結婚。植野さんは同国モントリオールで生まれた。 1歳のとき両親について大阪へ移ったため、ブラジルでの居住経験はないが、過去4回の訪伯経験がある。「言葉のわからない自分に、日系の方々は本当に良くしてくれた。日本から一番遠い地で食べた日本食は最高だった」と話す。

植野さんが成人した後、両親は2003年から6年間ベロオリゾンテに滞在した。同地日本語モデル校の教師で、潤子さんとも共に働いた宮本君代さんは、学校を訪問した植野さんについて「関西弁丸出しの面白い青年。とても感じの良い人」と懐かしげに印象を語る。

テレビでの活躍も知っており「社交的で皆に好かれていた潤子さんの息子だけに、生徒たちもネットで動画を見ていて人気がある。私の孫も大好き。学校関係者は皆応援している」と声援を送った。

自身初のドラマ出演となる『海の上の~』は、瀬戸内海の無医島を巡り、医療サービスを提供する診療船「海診丸」の奮闘と、主人公の医師・瀬崎航太(松田翔太)が各島で繰り広げる美女との交流を描いたヒューマン・ラブストーリー。植野さんは、海診丸の航海士・山中カルロス洋平役を務める。

「底抜けに明るくちょっと間抜け。でも愛される山中は、まさにブラジル人のイメージにぴったり。自分にしか出来ない役どころ。何より親しみある日系人の役だけに気合が入る」とやる気は十分。

「ブラジル人の血は誇り。関連する仕事も増える中で、これまで以上に父の母国を知りたいと思うようになった。機会が作れればぜひブラジルで仕事をしたい。夢は日系の皆さんの前で漫才をすること」と熱く語った植野さん。今後の活躍に期待が集まる。』

2013年10月14日(月)

11日の金曜日に、2013年10月15日発行の「楽書倶楽部」第20号が届いていた。以下は、この号に掲載された私の文章のコピー。この号で「楽書倶楽部」の今年の 発行は終わり、次は来年の2月発行予定とのこと。手伝って下さるお仲間がおられるとは言っても、印刷会社の仕事を切り盛りしながら、前園さんはよくやられるなあ、といつも思う。

ミツバチのジャタイ

いつ、何がきっかけだったのか、夫がジャタイというミツバチのことを熱心に勉強し始めた。「南米在来種ミツバチのウルス、マンダサイア、ジャタイ、そしてイライ」というタイトルのDVDをインターネットで買い求め、ジャタイの巣箱をひとつ友人から譲り受けて観察を始めて以来、すっかりジャタイにハマっている。ジャタイたちの様子を見ていると、とてもおもしろく、心が和むのだと言う。

その後、ご近所の竹のファゼンダでマネージャーをしている友人から、ジャタイが竹の中に作った巣をもらったり、友人の農園にある木の幹の中にジャタイが巣を作っていると聞くと、早朝から一緒に出かけて行って、その巣をもらって帰ったりしているうちに増えて行き、今ではジャタイの巣が6つ、ミリンの巣も1つある。

家の東側にスレートの屋根を取り付けて、これらの巣箱を置くスペースを作ったり、花蜜や花粉を集め易いように、ジャタイが好み、ほぼ一年中花を咲かせるコロア・デ・クリストやガーデン・グレヴィーリャなどを庭に植えたりして、環境作りにも余念がない。日に何度もジャタイたちの様子を見に行き、寒波襲来時には、弱そうな巣箱を家の中に避難させたり、冬場はエサになる花が少ないからと、ハチミツを水で溶かしたエサを用意したりと、こまめに世話をして楽しんでいる。そして、サツキや桜が花を咲かせた際、ジャタイやミリンが花に群がっているのを発見してとても喜んでいた。

ジャタイは体調1センチにも満たない茶色っぽい小さなミツバチで、お尻に針がないため、無防備に側にいても人を刺すようなことはない。ミリンというのは、トゥピ・グアラニーの言葉で「小さい」という意味で、ミリンはジャタイよりもさらに小さく、黒い色をしているのでとてもミツバチには見えない。ジャタイもミリンも熱帯雨林の野性植物の受粉を助ける重要な役割を担っており、彼らなしでは熱帯雨林の存続も危ぶまれるほどの、なくてはならない存在なのだという。そのため「エンブラパ(ブラジル農牧研究公社)」はこれらの在来種のミツバチに関する啓蒙・保護活動に乗り出している。

巣箱の出入り口の煙突の周りに見える数匹のジャタイたち

ジャタイも他のミツバチ同様に、女王バチを中心としたコロニーを形成する。花蜜や花粉を集めるために外に出て行く働きバチは年をとったメスたちで、若いメスたちは巣の建設や修理をしたり、掃除をしたりと様々な家事を分担して働き、巣の外には出ない。そして、巣の警護にあたるのもメスのハチ。巣の外に飛び出して行くハチは、花蜜のある場所や自分たちの巣のある場所をちゃんと記憶しておかなくてはならないため頭が大きく、巣の警護に当たるハチは、そのような記憶力は必要ないので比較的頭が小さいという違いがある。

それで、オスは一体何をするのかというと、蜜の水分を取り除いたりという作業もするらしいのだけれど、主な役割は女王バチとの交尾。ただし、女王バチがオスと交尾するのは一生に一度だけで、女王バチはたった一度の交尾で得たオスの精子を体の中に溜めておく機能があり、以後は交尾なしで次々に卵を生むのだという。要するにオスの出番はあまりない。ジャタイのコロニーはオスの影がずいぶん薄い、メス中心の世界のようだ。

女王バチが生む卵の中から、将来の女王バチがどのように選ばれるのかはわかっていないようだけれど、将来女王バチになるために選ばれた幼虫は、サナギの時期に他の幼虫たちとは異なる特別食を与えられて育てられる。そして、その将来女王バチになるために育てられたハチが巣立つ時期になると、まず先遣隊が新しい巣作りに適した場所を探しに出て行き、適当な場所が見つかると、そこを掃除して巣作りのための基礎工事を始める。その間、連絡係がそのことを元の巣に戻って知らせると、新女王バチとオスたちの一部がハネムーン飛行をしながら新しい場所へと移動し、到着後そこで新しい巣作りをするという。その際、元の巣から1割くらいの数のお供を引き連れて分家するのだそうだ。

乳児にハチミツを食べさせるのは危険と、昔聞いたことがある。普通のミツバチは動物の糞などを持ち帰って、巣の補強に使ったりするため、ハチミツも汚染されることがある一方、ジャタイは絶対そのようなことをしないため、ジャタイの巣は非常に清潔で、ハチミツも衛生的なのだという。ジャタイは体が小さく産出するハチミツも少ないため、そのハチミツは非常に高価に取引きされる。以前友人からもらってジャタイのハチミツを食べたことがある。普通のハチミツとは味が違い、メイプルシロップのような優しい味で、とてもおいしかった。

これらジャタイの生態を嬉々として語る夫の話しに耳を傾けながら、正直私はジャタイのハチミツの味を密かに思い出している。我ながら「捕らぬ狸の皮算用」と思いつつも、我が家のジャタイからあのおいしいハチミツが収穫できるのはいつのことだろうと夢想している。

2013年10月15日(火)

土曜日はノッサ・セニョーラ・アパレシーダという宗教祭日だったので、毎週土曜日にうちの手伝い来てくれているヒバマーとゼーは仕事を休んだ。それで、木曜日にボトゥカトゥに行った帰りに農業資材を扱っているカコで肥料や苗などを買ってきておいたので、エドソンとふたりで午前中畑仕事をした。私が畑の草を取り、エドソンが畑を耕して肥料を混ぜ込んで畝をきれいにしてから、レタスやルッコラなどの苗を植えてくれた。10月に入り、天候不順が何とか解消して、毎日太陽が顔を出すようになったので、今度はちゃんと育ってほしいものだと思っている。

2013年10月16日(水)

はるは生後2ヶ月でうちに来た時は、お腹に虫がいて、栄養失調ぎみだったけれど、ちゃんと治療を受けて、食事も年齢に即したものを手作りで作って食べさせているので、元気に育っている。でも、円形脱毛症とまではいかないけれど、右前脚後ろの背中部分に2ヶ所ある、毛が少し薄くなって黒っぽい部分がいつまでたっても消えないので、木曜日にエドソンの眼科の診察でボトゥカトゥに行った際、エドソンの診察が終わってからはるをポリヴェットに連れて行き、診てもらった。検査の結果、この部分に真菌がほんの少しいることがわかった。それで副作用の強い飲み薬ではなく、スプレーとシャンプーを処方された。以前いたフィオナは持病があったので、亡くなる前頃はときどき免疫が下がって真菌感染していたけれど、はるはどうやらお腹に虫がいたように、この真菌も生まれた所から持ってきたのだろうとエドソンと話している。モビがガン治療中に何度も免疫が危険なほど下がったりしても、はるからこの真菌をもらうことがなかったのは幸いだったなと思った。次の写真は、処方されて買って帰ったスプレーとシャンプー。

2013年10月17日(木)

本当なら今日は、はるをヴィラ・シーコに預けて、アチバイアのデマーコのところにお見舞いに行く予定だった。でも、月曜日にメールが来て、デマーコの治療スケジュールが変更になったため、今日は都合が悪くなりキャンセルになった。しかもそれだけではなく、シオックがお腹が痛むので病院に受診。精密検査の結果、卵巣癌で、すでに内臓にも転移している状態だということがわかり、ふたりとも精神的に相当打ちのめされているということだった。デマーコの骨の癌は、身体全体に転移している状態なので、かなり厳しい闘いを強いられている。それなのに、彼を支えている奥さんのシオックまでも癌に侵され、しかもすでに転移しているなんて・・・「憎まれっ子世にはばかる」と言うけれど、彼らの場合その真逆で、愛されているから長生きできないとでもいうように、試練に見舞われ続けている。シオックは今日サンパウロの病院に入院して細胞診を受けるらしい。ひとつ幸いなことは、彼らの次男のダヴィがこの病院でレジデントをしていること。愛する息子が側にいれば多少は心強いのではないだろうか?10月に入り、数日すると多雨の状態が解消して、明るい太陽の光が降り注ぐようになったので、多少気温が低くても気持ちのいい日々を過ごしていたけれど、このニュースにエドソンとふたり、どっと落ち込んだ。そして火曜日の夜から降り出した冷たい雨が昨日も1日降り続き、今朝は雨は止んだものの、気温が低く、どんよりと曇っている。それで滅入った気持ちがなかなか浮上できないでいる。こんな時はいつも以上にはるの存在と癒し能力に助けられている。

2013年10月18日(金)

昨日のアチバイア訪問はキャンセルになったけれど、それに合わせて帰りに寄り道をしてイビウーナに行く予定にしていたので、昨日の夕方から今日の夕方まで、はるをヴィラ・シーコに預けて、今日は予定通りイビウーナに行ってきた。まず午前中は来週88歳のお誕生日を迎えられる香山さんのところにお邪魔した。前回お邪魔してお目にかかって以来、体調があまり良くなく、気力も衰え、メールの返事をするのもしんどいということで、こちらから時々メールをお送りする一方通行が続いていた。それで大丈夫だろうか?と心配していたのだけれど、顔色も良く、思いの外お元気だったのでほっとした。一時よりも最近は体調が多少いいようで、いつものように書斎のコンピュータの前に座って、私たちのことを待っていてくださった。

香山さんと同居している長女のちえ子さんは仕事があるから、代わりにご近所に住む次女ののぶ子さんが日本茶と二重焼きやおまんじゅうなどの茶菓子を用意して私たちを迎えて下さった。これらの茶菓子はイビウーナの町で作られていて簡単に手に入るらしい。さすがにサンパウロに近く、日系人口が多い町だけはある。うらやましいなあ・・・。ボトゥカトゥではパックされた小さな大福餅のようなものをたまに見かけるけれど、二重焼きなどは見たことがないし、基本的に生菓子はほとんど見かけない。

体調が思わしくなかった頃は本を読む気もせず、定期購読しているいろいろな刊行物(例えば「楽書倶楽部」や「のうそん」など)が届いても積み上がる一方だったけれど、最近ぼちぼち読んでおられるそうで、私が「楽書倶楽部」に書いた父の思い出の記事を、「あれはとてもいい話しでしたなあ」と褒めてくださった。あまり長居をするとお疲れになるといけないので、約1時間ほどいろいろおしゃべりをしてから失礼した。香山さんも、のぶ子さんも私たちの訪問をとても喜んでくださったので何よりだった。

2013年10月19日(土)

昨日はお昼前に香山さんのところを失礼して、2週間ほど前にご主人が亡くなった中村さんのところに向かう途中、適当な場所で車を止めて、持参したお昼を食べて腹ごしらえをした。午後1時頃伺う予定にしていたのだけれど、予定よりも30分ほど早く着いてしまったため、出入り口の守衛さんによると中村さんは朝早く友人の方達と出かけられてまだ戻っておられないということだった。それで、コンドミニオ(塀で囲まれた警備付きの住宅街のこと)の外の入り口前のスペースに車を止めて30分近く待っていると、守衛さんから入っていいと声をかけられた。日本から来ておられる長女の真理さんは一緒に外出しておられず、守衛室に私たちが来たら入れてあげてという電話があったということだった。ここはパーディーニョでジェラウドとホザが住んでいるコンドミニオとは違って、誰々の所に行きますといって、名前と車の番号を記入するだけでは入れてくれず、居住者側から誰々が来たら入れてくださいという連絡がないと入れないシステムになっている。私たちが中村さんのお宅で真理さんと挨拶を交わしたりしていたら、ほどなく奥さんの澄子さんがヤクルトの佐藤さんご夫妻と戻ってこられた。次の写真は、澄子さんと佐藤さん。佐藤さんご夫妻とは4年くらい前の大晦日に、中村さんのお宅で一度お目にかかったことがある。確か佐藤さんはヤクルトの野球学校の校長先生。中村さんご夫妻とは親しい間柄で、しかも近くに住んでおられるので、澄子さんにとっては頼りになる友人なのだと思う。

次の写真は、左から佐藤さんの奥さん、真理さん、そしてエドソン。真理さんとは初めてお目にかかるのだけれど、知り合って以来、ここ4年ほどメールで何度もやりとりしていたので、何だかあまり初対面という感じはしなかった。彼女はブラジルで子供時代を過ごしているし、成人してからブラジルで短期間仕事をしたことがあるので、ポルトガル語が話せる。

次の写真は、エドソンに撮ってもらった集合写真。澄子さんはご主人のことを思うと、もっとああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったという気持ちがいろいろ交差して、たまらなくて涙ぐんでおられたりしたけれど、笑顔は以前と変わらず、お元気そうだったので、こちらも少し安心した。

2013年10月20日(日)

今日は、はるの満1歳の誕生日。ヴィラ・シーコで他の犬たちと思いっきり走り回って遊んで、身体が汚れていたので、昨日、エドソンがはるの身体を洗ってくれた。ポリヴェットで処方されたシャンプーには、香料が入っているのか、シャンプー後のはるはいい匂いがする。そして、今日から夏時間が始まった。夏時間が始まる際、時計を1時間戻すんだっけ?早めるんだっけ?と、いつも混乱するのだけれど、いつものように朝6時過ぎに起きたら、もうすでに7時過ぎというのが夏時間ということなので、時間を早めるんだと納得。これで今日から日本との時差はマイナス11時間。

以下は、ニッケイ新聞2013年10月17日付けの「ブラジル・トピックス」からの転載。

ペレとビートルズとの秘話=最新伝記の記者会見で明かす

15日、「サッカーの王様」ことペレが、自身についての著作「1283」の発売記念イベントで、ビートルズと自身にまつわる秘話を披露した。

この「1283」は、ペレが現役中に決めたゴールの数を題としており、ペレに関する数ある著作の中でもペレ自身が「決定版」と呼ぶ重要な位置付けの作品で、名前と同じ1283冊限定で発売するという貴重なものだ。頁数も1283ページという大型本で値段は3600レアル(日本円約14万5千円)とかなり高価なもの。50部限定の特別版は5千レアル(約22万円)とさらに跳ね上がる。

15日にサンパウロで行なわれた記者会見では、ペレがこれまでの人生を思い出話と共に振り返ったが、その中で記者陣の興味を集めたのが、1966年にビートルズとの間に起こったある出来事だった。

この年はビートルズの地元のイングランドでワールドカップが開催された年としても知られているが、大のサッカー・ファンでもあったビートルズは、この大会のためにイングランドで合宿を行なっていたブラジル代表に連絡を取ろうとしたのだという。その申し出の内容は、「ペレと是非話がしたい」「ブラジル代表の合宿所に行って特別コンサートを開いてもいい」というものだったという。だが、それは結局実現しなかった。

その数年後、英語を勉強しようとニューヨークに留学したペレは、同じ学校で日本語を学んでいたジョン・レノンと出会うことになったが、その際、ジョンはペレに66年のW杯でのことについて聞いたという。そこでペレはジョンに「当時のセレソンの責任者が、〃あんな長髪野郎たちに、この合宿所に足を踏み入らせるわけにはいかない〃と言ったんだ」と明かしたという。

ちなみに、1966年のW杯は7月に行なわれているのだが、その前月6月の下旬にビートルズは唯一の来日を果たし、日本武道館で公演を行って、ブームを巻き起こした。また、この年の8月29日のアメリカ・サンフランシスコの公演で、ビートルズはコンサート活動を休止し、1970年の解散まで公演を行うことは2度となかった。

ペレは1974年にサントスFCで引退宣言すると、翌75年にはアメリカにわたり、サッカー・メジャー・リーグのニューヨーク・コスモスに入団し活躍したが、当時はジョン・レノンも妻のヨーコ・オノと共にニューヨークに在住している。ペレはジョンについて「彼とのニューヨークの日々についてよく思い出す」と度々語っている。

ペレ、ジョン・レノンの2人は共に1940年の生まれの同い年でもある。(16日付G1サイトより)

2013年10月21日(月)

先日、ペトロポリスの安見さんから『Ópera de Pequim 「京劇」(北京京劇院演出)を見ました』とメールをいただいた。場所はキタンジーニャ(Quitandinha)ホテルの中の劇場で、1,100席が満席だったそうだ。さすが文化都市ペトロポリス!南米初の公演で、リオとサンパウロに行く前にペトロポリスで公演があって、しかも満席というのだからすごい。本物の京劇を見るのは初めてだったそうだけれど、歌舞伎のようだと思う一方、色合いが全く違ったと書いておられた。舞台脇のスクリーンにポルトガル語の翻訳が出るのだけれど、早くて追いつけなかったともあった。京劇のことをポルトガル語ではオペラ・デ・ペキンというのか?じゃあ、歌舞伎はオペラ・デ・ジャパンになるのかな?それとも英語と同じようにそのままカブキなのかな?北京は昔英語でもペキンと言っていたけれど、いつ頃からかBeijing(ベイジン)に変わり、京劇もBeijing Opera(ベイジン・オペラ)と言うけれど、ポルトガル語は昔のままペキンと言うのかあ?と、変なところに感心してしまった。

2013年10月22日(火)

うちの土地の南西の端にある森の手前に、何種類もの果物の木を植えている。ここは苗木の回りのブラキアーリアを何回か取り除く程度で、全体的に草ボウボウだったので苗木の成長が良くない。枯れてしまったものもある。それでここ数週間かけてヒバマーに徹底的にブラキアーリアを取り除いてもらった。次の写真の左上に見えるのが森。その手前の草が取り除かれた地面に、ポツポツと見えるのが果物の苗木。みんなまだとても小さい。

9月の下旬頃だったか、エドソンがここに植えたラズベリーに数粒、実がなっていたからその場で味見をしてみたら甘くておいしかったと言って、残りの2~3粒を持って帰ってくれたことがあった。小さな粒だったけれど、確かにラズベリーの味がした。昨日、上の写真を撮りに行って、苗木を見ていたら、何本かあるラズベリーの内、実がなっているものがあった。次の写真の右上の葉の下に、2粒薄ピンク色をした実が見えるけれど、これがラズベリー。

この写真を撮って、立ち上がり振り向いたら、隣の苗木にも葉に隠れて2粒ずつ、計4粒の実がなっていた。上の写真よりも赤いラズベリーがなっているのだけれど、焦点がずれて、肝心の実の姿はボヤけてしまった。

2013年10月23日(水)

以下は、ニッケイ新聞2013年10月22日付け「コラム 樹海」からの転載。PBというのは、ブラジルの石油公社「ペトロブラス」のこと。石油の採掘権を得ようとする、中国のなりふり構わないアグレッシブな姿はちょっと恐ろしい。これにはペトロブラスの超深海油田採掘技術を盗むという裏の目的もあるというのは周知のこと。ならばぜひ盗まれないように十分な対策をしてほしいと思う。さもなければ、中国は日本海や太平洋に出て来て、またあらたな日本との領土争いや権益争いを始めるだろうから。

『物々しく軍隊が警備する中、岩塩層下油田初の採掘権入札が21日に行われた。ジウマ政権がインフレ抑制のために、PBに犠牲を強いていることも、入札を強行した背景にはあるようだ▼伯国内で産出される原油は質に問題があって輸出に回され、国内で消費される燃料の多くは輸入されている。輸入量に釣り合う輸出量があることを「国産化実現」という不思議な表現で表す。でもシリア内戦などの影響で原油の国際価格が高まる中、本来は輸入原価の高騰を国内のガソリン価格に転嫁しなければならなかった。だが、ジウマ政権はその分をPBに負担させ、優良企業だった同社の体質を悪化させてきたと専門家は指摘する▼来年の大統領選挙を控え、輸出も国内個人消費も伸び悩む中で、なんとか国内総生産の数字を上げたい現政権としては、外国からの大型投資に頼るしかない。そうなると、何が何でもリブラ油田の採掘権を入札してもらい、大型投資をしてもらうことで一気に数字を押し上げたい▼だが、予想される伯国政府の採掘事業への介入、PBが米国情報局から諜報されていたとの報道もあって、世界的な大手石油会社は二の足を踏んでいる。結局は5社で落札したが、直前まで「応札参加は中国の石油公社のみ」との報道まであった▼というのも中国は石油資源確保という国策から、採算を度外視した投資をするとみられている。と同時にPBが持つ超深海油田採掘技術をコピーする目的もあるのではとの報道もある。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」との故事もあるが、徳をするのは中国かブラジルか。ジウマ政権の腕の見せ所だ。(深)』

以下は、同じくニッケイ新聞2013年10月22日付けの記事で、この石油採掘権入札に関するより詳しいブラジル国内ニュースからの転載。。

リブラ油田=21日に入札を強行=5企業が合同で落札
=伯国史上最大の油田で=過熱する反対運動の中

今年8月以降に連邦政府が行なっていた入札事業の焦点と見られていた、伯国最大規模の岩塩層下油田で、リオ州南部沖に位置するサントス海盆のリブラ油田の入札が21日に波乱含みのまま行なわれた。19~21日付伯字紙が報じている。激しい抗議行動の中、軍による厳戒態勢で守られつつ、ジウマ政権の威信をかけて入札が強行された。

リブラ油田は世界の石油需要の3~5カ月分にあたる80~120億バレルの埋蔵量と予想されている。これは現在伯国で最大埋蔵量を誇るルーラ油田の2倍近い。リブラ油田の産出量のピークは140万バレル(日産)とも見られている。2013年現在、国内全体で1日191万バレルの産出量だが、将来的にそれが加わることで、2029年には420万バレルに増加すると予測されている。

大規模な採掘計画にも関わらず、9月19日にリブラ油田に応札希望を表明した企業は、政府予想の4分の1、わずか11社に過ぎなかった。その理由は、同油田に関する伯国側の準備の遅れに加え、最大の問題は同油田のオペレーターがペトロブラスと決まっており、今回落札する共同経営企業に対して30%分の出資負担を負う義務を持っていることだ。ペトロブラスを通して伯国政府からの介入を受けることを嫌がった世界的な大手石油会社の米国エクソン、英国BPなどが手を引いた。

応札希望社11社のうち、英国のシェル社とインドのONGC社、仏トータル社が組んだ企業体や、スペインのレプソルと中国のシノペックが組んだそれは断念したとの報もあり、実質的にはペトロブラスと中国の中国海洋石油総公司(CNOOC)と中国石油天然気集団(CNPC)の組んだ一つのグループしか興味を示していないとの報道もある。それゆえ、入札中止を求める声も目立っていた。

伯国政府としては、聖州~リオ間の高速鉄道(TAV)やコンフィンス空港(ミナス・ジェライス州)や国道262号線といった大規模入札がみな延期となり、見込んでいた外資財源確保が難しくなっている。そのため政府はリブラ油田の入札を是が非でも実現させたい意向で、21日の入札も強行した。

政府のこの態度に対し、全国的な規模で入札反対運動が起きた。連邦総弁護庁(AGU)の発表では、18日までに入札差し止めを求めた訴状が19件寄せられ、そのうちの7件は既に審議の末、却下となった。

この訴状の主はペトロブラスのガス・資源部の元部長のイウド・サウエル氏や民主運動党(PMDB)のロベルト・レキオン上院議員、社会経済開発銀行(BNDES)のカルロス・レッサ元頭取などだ。入札が不公平だとか、入札によって国家が被る損益を憂慮して反対した。サウエル氏によると損益は1768~3313億レアルにまでなりうるとする。

この入札で巨額の負担金を負うペトロブラス内部でも従業員の90%以上が、石労統一連盟(FUP)や中央労組(CUT)と共に入札反対の抗議行動を17日から起こしている。政府はこの抗議行動を想定し、入札会場のリオ市のウインザー・バラ・ホテルに陸軍を配置し厳戒態勢を敷いた。 落札は21日午後3時40分頃判明し、ペトロブラス、CNOOC、CNPCに加え、英国のシェル、フランスのトータルの5社が落札した。

2013年10月24日(木)

ダイニングルームの窓辺に置いた小さなサボテンが、少しずつ大きくなってきている。大きな鉢に植え替えなければいけないかなあと思いながら、まだ植え替えていないのだけれど、最近、また花を咲かせ始めたので、写真に撮ってみた。このサボテンの隣のランも、最後のつぼみが開き、6つすべての花が咲きそろっている。このダイニングルームの窓辺は植物にとってどうも居心地がいいようで、みんな元気にしていてくれるのでとてもうれしい。

2013年10月25日(金)

先日、ニッケイ新聞の記事に、コチア青年の古希や喜寿などを祝う会があったこと、そして、コチア青年の平均年齢は78歳を迎えたとあった。単身ブラジルに来て、半世紀もの間この異国で頑張って来られたんだなあ・・・と、ちょっと思いを馳せた。

「楽書倶楽部」の同人のおひとりで、メル友でもある鎌谷さんもコチア青年でブラジルに来られたおひとり。2015年にはコチア青年で最初にブラジルに来た人は在伯60年になると言っておられた。「みんなよく頑張ったと思うけれど、無念無念でうかばれなかった人もいると思う」とのことだった。

コチア青年というのは、日系人が作り、当時南米最大の産業組合だったコチア産業組合が、何年続けたのかは知らないけれど、総数約2500名の日本人青年の移住を受け入れ、組合員の中でパトロンとなる人のところに配耕し、パトロンのところで住まいと食事を世話してもらって経験を積んだ後、パトロンの援助で4年後に独立するというものだった。でも鎌谷さんいわく、「それは建前。当時組合の会員は5000名ちょっと。本当にパトロンと言われる人の数はうんとうんと少なかったとこの数から思われませんか。コチア青年は当時はカマラーダより安い優秀な労働者だったのではないかと、そんな気がします」とのことだった。

夢やぶれて日本へ帰国した人、自殺した人もあったようだ。でも日本へ帰国できた人はまだ幸せな方で、帰ることもできず自殺した人は無念だったことだろう。成功した人が多いので、夢やぶれた人たちのことは闇の中に忘れ去られていったのだろうか?鎌谷さんが、コチア青年50年で亡くなった方の整理をしていて自殺者の多いのを知ったと書いておられた。笠戸丸で最初に来た人たちや、初期の移民の人たちに比べれば戦後のコチア青年は恵まれていたのだろうけれど、それでも異国に移住するということはそれほど大変なことなのだと思った。

次の写真は、ランドマークの木の南側で、今年もたくさん芽を出しているヒメシマダケ。ペトロポリスの安見さんは、ご近所の竹やぶでタケノコをたくさん採って、茹でて冷凍保存して、一年を通してお料理に使って楽しんでいると言っておられた。うちはいろいろな種類の竹を植えているけれど、竹やぶができてタケノコが採れるようになるまでにはまだ何年かかることやら・・・?一番元気に広がっているこのヒメシマダケは、あいにく苦いので食べられない。残念!

2013年10月26日(土)

賢志(兄の次男)の娘、すみれの七五三のお祝いで、先週、横浜まで行ってきたと言って、兄がその時の孫娘たちの写真を送ってきてくれた。真也(兄の長男)の娘の心春は、今年8月にも真也に連れられて広島に来ているので大きな変化はなかったけれど、「すみれはお正月以来久しぶりに会ったのですが、すっかり成長していて、キャラも大きく変わって、まるで心春タイプになっているのに驚きました」とメールにあった。すみれは心春に比べておとなしく、静かな子だと聞いていたけれど、ひょうきんなところはどちらも父親に似たのかな?ずっと昔、真也と賢志が小学校に上がる前くらいの頃、誰かの誕生日だったのか、敬老の日だったのか、みんなで揃って中華料理を食べに行ったことことがあった。その時お座敷だったので、余興で真也と賢志が「おじいさんとおばあさん」をやりますと言って、腰を曲げて、杖をついて歩く恰好をして、「おじいさんとおばあさん」を演じたことがあった。この娘たちのおかしな顔(左がすみれ、右が心春)の写真を見ながら、そんなことを懐かしく思い出した。

2013年10月27日(日)

10月に入っても何だか気温の低い日が多かったので、夏時間が始まるというのに、まだ冬みたいと思っていたら、先週の土曜日にお天気が回復し、ぐんぐん気温が上がり始め、とても暑くなり、一気に夏が来てしまった。この急激な気温の変化に体がついて行けない。ここでは真夏の暑い時期に数日扇風機を使うことがある程度で、家の中にいて暑くてしょうがないということはあまりないのだけれど、先週の日曜日くらいからほぼ連日、夕方になると扇風機を使っている。1日中降り注ぐ暑い日差しに、レンガでできている家は熱がこもるので、午後遅くから差し込む西陽と相まって、家の中が暑くなる。夜はすーっと気温が下がり、戸外は涼しくなっても、家の中は暑いままなので、どうしても家の中の暑い空気と戸外の涼しい空気を入れ替えるために、扇風機が必要になる。

今日は雨という予報だったので、昨日ゼーにはシュハスコの煙突作りはお休みしてもらい、午前中は先日買ってきておいた苗木を植えたり、木の回りに肥料をまいてもらい、午後からはガレージの大掃除を手伝ってもらった。ガレージの中にはエディが置いて行ったゴミや、捨てないで取っておいたストーブなどの空き箱や、カロリナソイルや肥料の袋などが散らかっていたので、それらをすべて外に出して、捨てるものと捨てないものとを仕分けして、汚れた床の土をほうきで掃き出して、ホースの水で洗い流し、洗剤で床を洗い、また水で流し、床を乾かした後、ガレージ内に戻すものは戻してすっきりさせた。床を水洗いした後、乾かしている間は、下の三角地帯にカラを植えるために、ゼーに棚を作ってもらい、エドソンがカラを植えてくれた。次の写真は、ゼーが作ってくれた棚と、今朝、植え残っているカラを植えるための作業をしているエドソンをパチリ。前回ヒバマーにここの草取りをしてもらってだいぶ経つので、草ボウボウになっているけれど、ブラキアーリアはほとんど生えていない。ブラキアーリアがはびこっていると他の草木の生育を阻み、この様な草は生えてこないのだけれど、ブラキアーリアがいなくなると、別の様々な草が生えてくるから不思議だ。

2013年10月28日(月)

以下は、ニッケイ新聞2013年10月26日付け「ブラジル国内ニュース」からの転載。

なぜか〃芸者〃姿で抗議デモ=中国系実施の衣料見本市で
=国内業界で5万人余解雇

中国やインドからの安価な衣料品の輸入増加に伴って国内業界で失業者が増えていることへの反発で、繊維業界関連の団体や組合員が23日、繊維産業の国際見本市「ゴーテックスショー」会場のアニェンビー展示場前でデモを行った。24日付エスタード紙が報じた。

ここ数年、人民元の安値誘導、圧倒的な人件費の安さを武器にした中国製などの低価格商品が出回っている。その中でこの見本市は中国系の商業団体がスポンサーとなって開催された。見本市側は、開催目的を「中伯の繊維業界関係者の交流を強化するため」としているが、実際に中国の業界関係者が掲げたスローガンは「大手小売業者の輸入への道筋を」だった。

このスローガンからさらに中国製品に席巻されるのではという脅威を感じた国内業者は、〃けしかけられた〃として抗議を展開した。当地では知名度が低いチャイナ・ドレスではなく、皆が〃東洋〃の代表だと思っている〃ゲイシャ〃の格好で抗議行動するなど、奇妙な様相をみせている。

事実、IBGE(地理統計院)によれば繊維、衣料業界は年頭から10月までに5万5千人も解雇している。

ブラジル繊維調製協会のアギナルド・ジニス会長は、「業界では既に競争力の問題ではなくなっている」と明かし、「フェアではない輸入を撲滅するだけでなく、ブラジルは業界の競争力を高める必要がある」との見方を示した。

衣料業界の組合のロナルド・マシジャ代表も、「10年以内に保護政策が取られなければ、業界は消滅する。輸入業者以外はどの企業も潰れてしまう」と警告している。

ただし、このように業界関係者が危機感を示す中、ジーンズだけは例外のようだ。

23日放送グローボTV「ボンジーア・ブラジル」によれば、他の衣料品の生産ロットは2008年から12年で4%しか増えていないが、ジーンズの国内生産本数は27%増を記録した。また、今年の衣料業界全体の成長見込みは0・8%にとどまっている一方、ジーンズ業界では13・5%の伸びが見込まれている。

この差の理由は、原材料の違いにあるようだ。ジーンズは綿でできており、伯国は綿の生産量では世界の5位以内に入る。一方で、中国製品はアジア諸国では生産コストが安い合成繊維を使用している。

ベーシックな形のジーンズの売上げも好調だが、小売店側は洗い加工、色、モデルなどバリエーションに富んだジーンズを求めている。

中国から入るのは、だいたいベーシックな形のジーンズだという。中国製品よりもより早く流行を取り入れた商品を生産できるため、国内の業者は中国との競争には「勝利している」という感触を得ているようだ。

2013年10月29日(火)

次の写真は、玄関を出たところからの眺め。ここに移植した2度目のアメンドイン(1度目は根つかず)が元気に育ち、徐々に広がってきているので、ここの眺めもだんだん良くなってきている。ここが私たちの希望通りにアメンドインで被われるのも時間の問題になってきた。手前の階段沿いのサツキは今月また少し花を咲かせた。木はまだ小さいけれど、1年に何度も花を咲かせてくれるのはうれしい限り。少し先に見える桜の木も、その手前に見えるくちなしの花の木も、少しずつ成長してきており、今、葉が青々と繁っている。

2013年10月30日(水)

先日インターネット上で、「強制労働でも手抜きをしない日本人の仕事ぶり」という表題に出くわして、どういうことだろう?と思い、その記事を読んでみた。中央アジアにあるウズベキスタン共和国の首都タシケントの中心部で威容を誇っている国立ナヴォイ劇場(レンガ造りの三階建てで、観客席1400、1947年完成)は、 強制労働させられた日本人によって建設されたとあった。

その日本人というのは、大東亜戦争敗戦後、中国や満州で武装解除した日本の兵士や一般人を、ソ連が強制連行してシベリアに送り、強制労働させたことでよく知られている「シベリア抑留者」の一部だった。シベリア抑留を強いられた約65万人のうち、「ウズベキスタンに連行された約2万5000人の抑留者たちは、過酷な労働を強いられ、道路、工場、運河、炭鉱、発電所、学校などの社会基盤の建設にあたった。厳しい気候条件、十分な食事を与えられない厳しい収容所生活、そして就労させられた危険な仕事などの結果、病気や事故などで813人の日本人抑留者がウズベキスタンの地で命を落とした。ナヴォイ劇場の建設には約500人の抑留者が充てられ、そのうち約60人が事故などで亡くなったと伝えられている」とあった。シベリア抑留で強制労働させられた人たちの中には「旧満鉄や建設会社の技術者や関東軍の工兵たちなど、いわば最先端の技術者が多く含まれていた。彼らは戦争に敗れても日本人としての誇りを捨てることなく、丁寧な仕事をして、見事な劇場を完成させたのだった」

そして、1966年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した際も、この劇場はビクともせず、「日本人の建物は堅固だ」「日本人の建築技術は高い」という評価が定着したのだそうだ。「そのためか親日感情が強い中央アジア諸国の中でもウズベキスタンの日本人への好感度は飛び抜けている」とあり、日本人の国民性という財産について考えさせられた。

2013年10月31日(木)

家の東側にある庭の真ん中に桜の木を1本植え、それを中心にガーデン・グレヴィーリャやこでまりのような白い花を咲かせるサブゲイロなどの木を植えている。そして、野菜畑のすぐ前に孟宗竹を2本植えている。この内の1本はまったく新しい芽を出さないけれど、もう1本の方は毎年芽を出し、特に今年は今までになくたくさんの芽を出したと思っていたら、親竹よりも背が伸びてきてびっくりしている。



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