Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2013年9月1日(日)

回りの景色がいよいよ春近しと感じられる季節になってきた。冬の間すっかり葉を落として裸になっていた入り口ゲート近くのパイネイラの木に新芽がたくさん出始めた。以前、新芽は黄緑という固定観念があったけれど、ここで見る新芽は赤茶色っぽい色をしている。例えば桜。木の幹に近い方から枝先に向けて花が咲き、新しい葉も同様に幹に近い方から順に枝先に向けて芽を出すので、かなり青々してきた桜の木も枝先はまだちょっと赤茶色っぽい新芽が見える。

ランドマークの木もしかり。左4分の1くらいは薄い緑色なのだけれど。右4分の3ほどは、まだ新芽が出てきたばかりで、ちょっと赤茶色のような色をしている。

そして、極め付きは、お隣のコーヒー園の前の道路沿いにある大木。まるで紅葉しているのかと見紛うばかりの色で、遠くからでもはっきりとわかるので写真に撮ってみた。この木の後ろや右側にある濃い緑の木と比べてもらうと、その赤茶色っぽさが分かってもらえるのではないかと思う。

2013年9月2日(月)

この土曜日のゼーの作業で、シュハスコのかまどの右横にレンガが積み上がり、薪で煮炊きをするためのかまどが姿を現した。ゆっくりだけれど、毎週土曜日にこうして少しずつでも形になっていっていることがとてもうれしい。残るは煙突と窓と扉を取り付けて、流しを置いて、上下水道が通じれば完成だろうか?言葉で言うと簡単だけれど、完成までにはまだまだ時間がかかるんだろうなあ・・・このシュハスコのかまどが出来上がり、シュハスコ小屋が完成したら、友人たちを呼んでシュハスコパーティーをしたいものだと思っている。

2013年9月3日(火)

日曜日の朝8時前に、エドソンはゼーとヒバマーと連れ立って、パーディーニョとボトゥカトゥの境のボトゥカトゥ側にあるカンポス・ド・エリーゼオスというコンドミニオに出かけて行った。コントミニオというのは日本風に言うと塀に囲まれた団地のようなものだけれど、ここのは規模が大きくて、一軒ごとの敷地面積が広いので、農業をやっている人もいるらしい。何でも地鶏の飼育・販売をしている農家があり、ジャタイの巣も販売してくれるらしいというゼーからの情報で、ゼーを案内役に、ヒバマーは地鶏が買いたいからと同行し、エドソンはミツバチのジャタイの巣と地鶏1羽を買うつもりで出かけて行った。9時半を回って帰宅したエドソンは、ジャタイの巣を1つだけ持ち帰っていた。土曜日に地鶏を100羽も買っていった人がいて、売り切れてしまっていたためヒバマーは無駄足になりがっかりしていたという。私たちも買って帰った地鶏を丸ごと圧力鍋で煮て作ろうと思っていた夕飯を、急遽キャンセル。ジャタイの巣も1つしか残っておらず、その売れ残っていた巣箱を60レアル(約3000円)で買って帰ってきたということだった。帰宅してからエドソンは早速、その巣を家の東側に持って行き、巣箱の周りにレンガを積んで保護する作業をしていた。

2013年9月4日(水)

ニッケイ新聞2013年8月30日付けの記事に、「ブラジル一の〃美尻〃競う=ミスブンブンコンテスト=候補者が主催団体を告訴」というちょっとどうでもいいようなニュースがあった。『ブラジル全土27の州と連邦区の代表者が国内一の「美尻」を競う、第3回目の「ミス・ブンブン・ブラジル(Miss Bumbum Brasil)2013」の一般投票(一次選考)が今月10日から行われているが、北東部ピアウイ州代表のアンドレア・ド・ヴァレさんが、数キロ太ったという理由でコンテスト参加失格となり、コンテスト実行委員会を告訴する意向だという』「美尻」を競うブンブンコンテストだなんて、何ともお尻の好きなブラジルらしい。ちなみに、ブンブンというのはお尻のこと。

一方、同じくニッケイ新聞の2013年9月3日付け「コラム オーリャ!」には、以下のようなコメントが載っていた。こちらはミス・ブンブンコンテストの真逆の、深刻な問題。市立学校の教師の給与の方が、州立学校の教師の給与よりもほんの少しいいらしいのだけれど、市立学校の教師の給与は、よく遅配があったりするのでどちらがいいとは一概には言えない。ただひとつはっきりしていることは、ブラジルの教師の待遇は大学の教授を含め、驚くほど良くない。教育にお金をかけないから政治腐敗もなくならないのではないかと思う。せっかく大きな可能性を秘めた国なのに、その可能性を自ら潰しているようで、ちょっと残念。このような環境を改善するためには、これからも質の高い移民の導入が必要なのではないかと思う。

『本日付2面トップ記事にあるように、サンパウロ州立校の教師が年間3千人、一日平均8人も辞めていると知り、尋常ではない数字だと驚いた。エスタード紙は、その理由に「低賃金など待遇の悪さ、職場の雰囲気の悪さ」などを挙げていた。

コラム子が通う大学の同級生には教員として働く人が多い。私立学校で教師をする友人は、「悪い成績をつけると生徒の親が文句を言いにくる」と言って親のモラルの低さを指摘した。大学教授自体も「教員だと言うと哀れみの目で見られることがあるよね」と冗談めかして言っていた。それほどこの国では教職が重要視されていない。

人を育てることは国を作ることであり、教師は生徒・学生らの人生に深い影響を与えるものだと思う。やはりW杯の立派なスタジアムよりも、教育への投資の方がはるかに重要ではないか。(詩)』

2013年9月5日(木)

以下は、ニッケイ新聞2013年9月4日「コラム 樹海」からの転載。「マイス・メジコ」というのは、「more doctors」という意味で、海外から医師を連れてきてブラジルの医師不足を改善しようというプロジェクトの名称。でも、外国人医師をブラジルに連れてきて、言葉の問題はどうするんだろう?と、疑問に思う。まあ、日本の医師だって診察の際、患者とそんなに話をしないから、やはりいないよりもましということだろうか?テレビでは、キューバなどから外国人医師が次々に到着し、オリエンテーションを終えた後、各地に散らばって行くというニュースをやっていた。

『大陸規模国家ブラジルには数え切れない無医村が散在する。月給3万レでも誰も働きに行きたがらない僻地だ。金持ち子弟が大半の有名大学医学部卒にとって、農村で貧民の相手をするのは肌に合わないらしい。〃赤ひげ先生〃は少ない▼マイス・メジコス政策(以下MM)で外国人医師を無医村に派遣するのを、そんな伯人医師が必死に反対している。誰も行きたがらなかった僻地なのに、自分達の職場が奪われるかのように反対するのは滑稽だ。テレビでは現地住民の「どんな医者でも居ないより居たほうがいい」との声を聞いた▼当地の医療政策の根本問題は、無料の公共医療(SUS)と高額の民間医療の二律背反性だ。公共医療が充実すれば、誰も高額な民間には行かない。この二つが両立するのは貧乏人が公共医療に行き、金持ちが民間に行くという棲み分け社会ゆえだ。社会が豊かになって中間層が増えて問題が表面化した▼PT政権のこの10年間は、W杯や五輪誘致には熱心だったが、医療問題解決には積極的でなかった。6月の〃抗議の波〃でその点を突きつけられ、大統領が打ち出したのがMMであり、代表格のキューバ人医師らは来週から現地入りする。最初に伯人医師に呼びかけたが、1万5460人もの求人枠に対して6%しか埋まらなかった。その空席に外国人医師を期間限定で呼ぶ訳だ▼「足りないなら外国人を入れれば良い」とは実に移民大国らしい発想だが〃対症療法〃でしかない。根本的な医療充実政策と対にして進めるべきだ。「次はマイス・ポリチコス(外国人政治家)だ」と新聞の読者欄に皮肉ってあったのを読んで、思わず爆笑した。(深)』

2013年9月6日(金)

先週末は気温がぐんぐん上がり、真夏のような暑さになった。昼間はTシャツ1枚でも動くと暑く、夜は薄い掛け布団を掛けていると暑いので、それをどけて肌掛けだけでちょうどいいような状態になったのに、月曜日から曇り始め、火曜日はぐずつく1日になり気温がぐんと下がり、また寒くなった。それでまた昼間は着こんで冬の装いになり、夜も掛け布団を掛けて寝ている。水曜日も濃い霧が出たり晴れたりで太陽が顔を出さず、木曜日の昼前頃から薄日が差し始め、今日、ようやく朝からいいお天気になった。

今年は冬から急に夏になったり、また冬に戻ったりと、極端な気温の変化を繰り返しているので、庭の木や花もちょっと調子が狂っているようだけれど、それでも、少しずつ春に向かっているような気がする。ランドマークの木の近くに去年植えたサボテンが、今、9つほど花をつけている。そして、外ベランダ横の花壇のバラも、赤い新芽がたくさん出て、花が咲き始めた。

2013年9月7日(土)

今日は、ブラジルの独立記念日で祝日。それでダニエラとガブリエラは学校行事があるということで、今日のレッスンはお休み。その代わりに補講を10日(火)の夜行うことになっている。この子たちは私の都合や彼女たちの都合で、土曜日にレッスンが受けられないと、必ず補講を希望して、真面目にレッスンを受けてくれる。次の写真は、1日付けでアップした木の写真の、昨日現在の状態。新芽でまるで紅葉しているような赤茶色だったけれど、だんだん緑色に変化してきている。

以下は、ニッケイ新聞2013年9月6日付け「コラム 樹海」からの転載。日本ではおそらく日本人選手の結果した報道していないと思うので、いい話だなと思い、ここにコピーしてみた。

『8月28日は伯国柔道史に残る一日になった。リオの世界選手権でラファエラ・シウヴァ選手(21)がブラジル女性柔道家初の金メダルを獲得したからだ。57キロ以下級の決勝戦で米国のマルチ・マロイ選手から見事一本をとった。1日のエスタード紙特集頁の「世界王者が打ち勝った本当の敵は、貧困と自らの反抗的性格だった」との見出しの記事には実に考えさせられた▼彼女の出身は麻薬殺人事件の多さで有名な、同名の映画にもなったリオの貧民窟「シダージ・デ・デウス」だ。「この町に育った子供は早くから〃世界は不公平で残酷だ〃と理解する」と同記者は評す。圧倒的な貧困と、麻薬密売人と警察との撃ち合いによる雨のような銃弾と死――そんな日常を過ごす子供にとって、最大の夢は「ファベーラを出ること」だと記事にある▼そこですら彼女の反抗的な性格は手に余るもので、「格闘技でもやらせたら」とNGO団体に預けられたのが5歳の時。最初の柔道教師ジェラルド・ベルナルデスは「彼女は無規律で、とにかく喧嘩っ早かった」とある。彼女の将来に眩い星が輝いているとは、誰も想像していなかった頃だ▼2年前の世界大会では決勝戦で日本人選手に惜敗して銀メダルだった。その時、「メス猿め! お前の居る場所は折の中で、畳の上じゃない」とまでどこかで中傷された。今回優勝した後、彼女は「肌の色や金と関係なく、誰でも自分の闘志次第で勝利はつかめる」と宣言し、両腕を高く掲げた▼世界で最も不公平な町の一つで育った子供が、柔道によって精神と身体を鍛えて世界一を達成したことは、国籍を超えたJudoという〃道〃の勝利でもある。(深)』

2013年9月8日(日)

昨日の夕方、2020年のオリンピック開催地が東京に決まった瞬間を、テレビでリアルタイムで見ることができた。ブエノスアイレスで行われていた国際オリンピック委員会で、東京が選ばれてとてもうれしかった。近年、日本に関するいいニュースは山中教授のノーベル賞受賞くらいで、後は気の滅入るものばかりだったので、久々に良かったなと思った。「病は気から」と言うけれど、経済も理屈ではなく、気分が大きく左右する。将来に向けて何となく明るい気分にしてくれるものがあるというのは、閉塞感に押しつぶされそうな今の日本にとっては必要なことなのではないかと思う。だからこの結果は素直に喜びたい。これをきっかけに日本が元気になってくれないかと切実に思う。

昨日のゼーの作業で、また少しシュハスコ小屋のかまど作りが進展した。薪で煮炊きをするかまどの後ろにレンガが積み上がり、煙突ができあがりつつある。お肉を焼く左側のかまどの上の未完成の部分と、この煮炊き用のかまどの後ろから立ち上がった部分が、上の方で合流してひとつの煙突になる構造のようだ。

2013年9月9日(月)

以下は、ニッケイ新聞2013年9月6日付け「日系社会ニュース」からの転載。ちなみに、この本の著者の木村快さんは、長年アリアンサ研究をしておりユバ農場との関わりも深く、1998年9月1日発行の1号から2009年8月1日発行の26号まで、アリアンサ通信を発行している。この通信はインターネット上で読むことができる。このサイトは、 こちらへ

祖国で歴史抹殺された地=現代劇の名手 木村快氏が上梓

アリアンサ郷土史研究家として知られる演劇NPO『現代座』演出家の木村快さんが、8月に日本の同時代社から『共生の大地・アリアンサ(ブラジルに協同の夢を求めた日本人)』(3500円)を出版した。帯には《そこに約束の地はあったか? 歴史の闇に塗り込められた、ブラジル移住史の真相が、いま、生き生きと甦る》とある。

『現代座』は94年に「もくれんのうた」当地公演をアリアンサと12都市で行った。その時、「私たちのことを忘れないで欲しい」と出演俳優の手を握る移住者の姿を見て「一人の日本人として決して忘れない」との気持ちを固めた木村さんは、「アリアンサ史研究会」を発足させ、97年から年2回「ありあんさ通信」を発行してきた。

現代座レポート55号によれば、当初ユバ農場から「公的な史料が見つからなくて困っている」との相談を受け、日本の専門家に聞きまわったところ、《戦前の移住資料は散逸してしまい、日本には移住史の専門家もいないという。移住博物館でも「戦前の資料はあつかっていません」とのこと。国策で二〇万人以上もの移住者を送り出し、その子弟を二〇万人以上も労働者として導入していながらそんな歴史は知りませんという国があるのか》との状態だった。

90年代後半に多くの同移住地関係者に取材した証言を盛り込み、外務省や力行会の資料などを読み込んだ末、アリアンサが祖国においては《日本政府の移住政策に批判を持ち、抵抗したため、公的ブラジル移住史から抹殺され、村の生い立ちがわからなくなった村》だとの考えに達した。

ユバとの出会いから始まり、記念碑が集まる同移住地中央公園になぜか移住地名の名付け親の碑がないこと気付き、その疑問を掘り下げる過程で、隠された移住地の成り立ちが明らかにされる。社会派現代劇の名作家として知られる著者だけに、ユバ農場の物語を軸に力行会、移住組合法運動、弓場勇や永田稠など同移住地に深い関わりのある、20年がかりで発掘された数々の逸話がどんどん明らかにされ、読み応えのある一冊になっている。

2013年9月10日(火)

うちの敷地内には、入り口ゲートと家とを結ぶ道をはさんで、丘の上に2列、下側にある森との間に2列、セドリーニョを植えている。このセドリーニョをブラキアーリアに被われたままにしておくと順調な成長が阻害され、なかなか大きくならないため、時々、足元のブラキアーリアを取り除いてやる必要がある。毎週土曜日、ヒバマーにせっせとブラキアーリアを取り除く作業をしてもらっているので、先週の土曜日には道路の下側の1列がきれいになった。この写真の左側のもう1列は、今週の土曜日にお天気が良ければ、きれいになるはず。

2013年9月11日(水)

イビウーナの中村さんからいただいた今週のウィークリー・ノートを添付したメールに、2年前のガン摘出手術後の回復振りに主治医も目をみはっていたのだけれど、開腹・縫合した所にまた腫瘍ができ、抗ガン剤を受け付けなくなるという突然の変化と悪循環入りに当惑しているとあった。今週のノートは、何時ものようには行かず苦労して書いた。これが最後のノートになるかもしれない。今後は書ける時に書くことにするともあったので、ここにその最後のノートになるかもしれない文章をコピーすることにした。このノートの最後の段落で、キリスト教徒の中村さんが、無神論者でヒューマニスト(人間中心主義者)のバートランド・ラッセルの言葉を引用しているのはおもしろいなと思った。

費用対効果(2)

がん化学治療(キミオテラピア)を止めろ、というアドバイスは何人かの人から寄せられていたし、医者本も何冊か読んだ(真柄俊一著「がんを治すのに薬はいらない」等)。がん克服者でキミオ経験者は、「副作用の怖さを体験してない医者は危険だ」と言う。又、問題点としては、①年齢や体調を十分顧慮しない医者が多い、②開発に先行高額投資を要する薬品会社と医者との癒着関係がある、③全く効果がないわけでなく、一定の効果がある、とも指摘する。これは何を意味するのだろうか。Cost vs Benefitの観点から問い直してみる。

経済学にCost vs Benefitという分析ツールがある。以前この概念についてWNで触れたこともある。それで、今回はその(2)とした。実は、この分析toolは経済学に限らず様々の分野で応用されている。日常生活でも、これはチョッとおかしいと思った時、利用すると役立つ。私達の観察や思考には必ず死角があるからだ。例えば、医者は専門家で患者は素人だから、専門家の意見に従うべしと、疑問を持たずに鵜呑みにする嫌いがある。しかし、医者は患者を多く診るとは言え、患者ではない、即ち患者としては素人だ。ここに死角がある。一概に「専門家の意見に従うべき」とは言えない。ここに、キミオテラピアのCostとBenefitを測る必要が出てくる。がん細胞を撃ち滅ぼす効果と患者のオーガニズムを壊すコストの比較が必要になる。がん退治の目的で患者が死んでしまったでは、本末転倒だろう。若者に耐えられても、老人の体には過重な負担だ、ということもある。

エネルギー・バランスという考え方も同じだ。1単位のエネルギーのoutputに1単位以上のエネルギーのinputが必要になるエネルギー源は役立たない。ましてやinputが定まらないエネルギー源は問題外だ。科学者の目も死角を持っていることに注意すべきだ。政治家も、世のため・人の為だとコスト・ベネフィットを無視して得意になっていてはいけない。国が破綻する。WN26/08/2013で「世界は国家主権主義という虚構を超えられるか」と問うたのも、世界中が何かおかしい(Something’s wrong) ?と気付きはじめたからだ。米国の1%の富裕層と99%の貧困層の構図に対する疑問(ボルカー・ルールという対策は出たが実行されていない)、ブラジルに於ける「財政責任法はできたが、汚職は一向になくならない」苛立ち、租税をめぐる国家とグローバル大企業の攻防、日中韓の国境問題、スノーデン問題、シリア問題等々だ。

費用対効果は、人生についても応用できる。誰でも生涯の終りが近づくと、自分の一生を総括する。確かバートランド・ラッセルのConquest of Happinessだったと思うが、そこには「誰かが不幸になった時、自分がその原因でなかったし、逆に幸せになった時、自分がそれに幾分でも貢献したと思える、そんな人生を歩みたい」とあった。これなどは、Cost vs Benefitの考え方が反映している例だと思う。学生時代に英語の副読本で読んだが、半世紀を経た今、そのシンプルな言葉が記憶の底から甦ってくる。
イビウナ、09/09/2013中村 勉

2013年9月12日(木)

気温が上がったり下がったりと激しく変動するのに体がついて行けなかったのか、エドソンは1週間くらい前に軽い風邪をひいた。と思っていたら、土曜日あたりからガクンと症状が悪化し、鼻の奥の炎症で頭が重い症状がひどく、何だかボロボロの状態。週明けあたりから咳も出るようになった。暖かくしているのに、クシャミを何度も繰り返して、なかなか回復の兆しが見えなかった。そして私も気をつけていたのに、火曜日から風邪の症状が出始め、水曜日の夜は鼻の炎症で頭が重いだけでなく、顔が痛いという状態で、とうとうアスピリンを飲んで寝た。お陰で今日はちょっと体が楽になり、エドソンの状態も峠を越して、良い方向に向かっている。やれやれ・・・最近になり朝一番のはるとのお散歩にエドソンも参加するようになっていたのに、この風邪でエドソンはこのところ参加を中断。それでも、朝食後の畑の水やりは、してくれている。

2013年9月13日(金)

以下は、ニッケイ新聞2013年9月10日付けブラジル国内ニュースからの転載記事。この記事の中に出てくるベスト10内の大学のうち、サンパウロ総合大学はUSP=ウスプ、カンピーナス大学はUNICAMP=ウニカンプ、サンパウロ州立大学はUNESP=ウネスプという略称で呼ばれている。日本の大学と大きく違う所は、キャンパスの所在地が一ヶ所だけでなく、例えば、ウスプは8都市、ウネスプは24都市にキャンパスがある。隣町のボトゥカトゥにはウネスプの医学・獣医学部と農学部の2つのキャンパスがあり、私たちには馴染みが深い。ボトゥカトゥからさらに1時間ほど西に行ったバウルにも、同じくウネスプの工学部など複数の学部キャンパスがある。ウスプは日本で言えば東大のようなもので、若い日系人でウスプ出身という人は少なくない。ドナ・ベティのジャトバス研究所やマックス・フェファー文化センターにかかわっているのはウスプ出身の人たちばかりで、ウネスプとはまったく連携がない。ウネスプと協力するのはウスプの人たちの自尊心が許さないのだろうか?そして、ウニカンプではイビウーナの香山さんの次男さんが物理学の教授をしていて、彼の伯系米人の奥さんも音楽の教授をしている。こんな具合に、この3校は私たちのとても身近にある。

全国大学ランキング=USPが2年連続1位
=昨年と評価基準変わるも=上位安泰、分野別の特色も

フォーリャ紙が2012年から始めた全国大学ランキング(RUF)調査の13年度の結果が9日付同紙で発表され、サンパウロ総合大学(USP)が昨年の調査に引き続いて1位になった。

今回の全国大学ランキングは、昨年と基準を変えて行われた。昨年は、大学の論文や研究が出版されたり他の論文などに引用されたりしたなどの「学問調査」が全体の55%を占め、教授陣や学力向上度などの「授業内容」が20%、企業における卒業生の割合を指数化した「労働市場」が20%、特許申請した数を指数化した「革新性」が5%となっていたが、今年は「学問調査」が40%に下がり、「授業内容」を32%、「労働市場」を18%、「革新性」を4%にした上、研究が国際的に発表されたことや留学生の受入を指数化した「国際性」が新たな要素として6%加味されている。

調査対象は192の大学またはそれに準ずる高等教育機関で、1位となったのは昨年に引き続きUSPだった。同大学は新入生と最終学年の学生に受けさせる学力試験(ENADE)に参加していないために「授業内容」のポイントが落ち、同部門で3位となったが、「国際性」では2位、残り3部門では1位を獲得した。

上位10大学の陣容に変わりはなく、リオ、ミナス・ジェライス、南大河、サンタカタリーナ、パラナ、ペルナンブーコの各連邦大学が2、3、4、7、9、10位となり、聖州のカンピーナス大学とサンパウロ州立大学が5、6位、ブラジリア大学が8位となっている。また、聖州のABC連邦大学財団は、総合順位は61位で高くはなかったものの、「国際性」で1位となった。

「優秀校」とされる上位25校は、15、19位に入ったリオ州と南大河州のカトリック大学を除くと全て公立大で、19校が南東もしくは南伯の大学だった。聖州は5校が入っていた。

また、部門別に計30の大学の学部の順位も発表されており、各分野で専門性の強い大学や財団が顔を覗かせているのも興味深い。例えば、「経営」「経済」の部門ではジェトゥリオ・ヴァルガス財団(FGV)が共に1位、「報道」の労働市場でカスペル・リベロ財団が1位など、聖州の財団が上位に入る。部門によってはマッケンジー大学の名前も少なくない。

5月に発表されたQSユニバーシティ・ランキングのラテン・アメリカの部では、USP1位、カンピーナス大学3位、リオとミナス・ジェライスの連邦大学がそれぞれ8、10位と上位で健闘していたが、昨年9月発表のQSワールド・ユニバーシティ・ランキングでは、最高のUSPでさえ139位と、まだまだ課題を残している。

2013年9月14日(土)

昨日はエドソンの誕生日だった。でも、夕飯にローストビーフを作ったくらいで、特別なことはしなかった。ただ、木曜日の午後からひとつ開き始めたランのつぼみが、金曜日の朝には完全に花開いたので、これがいいバースデープレゼントになってくれた。そして今朝は、いつもの手作りパンとコーヒーと果物とヨーグルトだけでなく、目玉焼きとベーコンもつけてというリクエストで、ちょっと豪華な朝食を作った。

先日、エドソンも私も風邪をひいているとブログに書いたら、広島の友人が、病気平癒のご利益があるかもと言って、最近京都伏見稲荷大社に行った時に携帯電話で撮った千本鳥居の写真(以下)を送ってきてくれた。感謝。感謝。何でも稲荷大社は「神」「自然」「人」が一体となる場所で、千本鳥居を拝みながらくぐり、千本鳥居にいざなわれながら山を登って行くと、自然の懐に抱かれ、神様に会えるのだそうだ。1300年前にまつられた由緒正しき場所だ。こんなふうに自然の中に八百万の神を感じる日本人の感性はいいなあと思う。それでふと、アメリカの大学時代に必須だった宗教のクラスでのアフリカ人学生の発言を思い出した。「日本の神道はこの木に神がいる。あの山に神がいると、あそこにもここにも、やたらあちこちに神がいるというけれど、おかしくないか?」というような内容だった。一神教のキリスト教徒の彼には、あちこちに神を見出す八百万の神のいる神道は認めることができないのかもしれないけれど、この世の中の生きとし生けるものは誰が創ったのか?と言えば、キリスト教では神が創ったことになっている。では、その神が創ったものに上下関係などあるのだろうか?みな等しく神聖なのではないのか?その神聖なものの中に神を感じる日本人の感性の方がよほど謙虚で自然なのではないか?と思ったものだった。

突然ですが、ここでクイズです。
Q1 ミシュランが1番多くの星をつけたグルメ大国はどこ?
Q2 どの国のパスポートが1番多くの国に入れる?
Q3 現存する世界最古の国はどこ?

2013年9月15日(日)

昨日のクイズの答えは、3問ともすべて日本!

3番目の質問の答えは、ギネスブックに認定されている。日本の起源は、日本神話上は紀元前660年2月11日(旧暦:神武天皇元年1月1日)。これは初代天皇即位・記紀説に寄っていて、それから数えると日本の歴史は2660年以上も続いていることになる。神話なんて信用しないという人でも納得する考古学に基づく現実的な説は4世紀頃。それから数えても、少なくともざっと1800年の歴史があることになる。次に古いのがデンマークだそうで、建国は10世紀ごろ。1000年ちょっとの歴史。3番目はイギリスで、900年くらいらしい。ちなみに天皇家より古いのはエチオピアの皇室だったのだけれど、1974年に革命で滅ぼされたため、日本が世界一になったという。このような国体を維持し続けている日本はすごい国だとあらためて思う。そして、そこにこそ東日本大震災で世界の人々を驚かせた日本人の本質があるのではないかと思えてならない。

ちなみに、世界の外交儀礼上の序列は以下の通り。
1位:日本国天皇
2位:ローマ法王
3位:王室(イギリス、タイなど)
4位:大統領(米国、ドイツなど)
5位:首相
6位:国連事務総長
6位:主席(中國、ヴェトナム共産党など)
7位:書記(中國、ヴェトナム共産党など)
米国の大統領は、日本国天皇とローマ法王に接見するときだけWhite Tieを着用することになっているそうだ。

9月11日付けのニッケイ新聞のブラジル国内ニュースの中に、『米国の諜報活動の標的にジウマ大統領も入っていたことが報道で明らかになり物議を醸している中、8日夜のグローボ局の報道番組「ファンタスチコ」は、石油公社のペトロブラスも米国の諜報活動の対象になっていると報じた。

同番組はNSA(米国国家安全保障局)から漏れた極秘資料を独自に入手、NSAが内部のコンピューターネットワークに不正に侵入した政府、企業、金融機関のリストにペトロブラスが含まれていたことを明らかにした。9日配信グローボ紙電子版はこれに関する報道の中で「米政府は72時間に一度、ペトロブラスに関するレポートを受け取っている」と伝えている。

大統領府はこの件に関して9日に正式コメントを発表。「ペトロブラスはブラジル最大の企業。大統領への諜報と同等に深刻」と危機感をあらわにし、「安全やテロ撲滅などが目的ではない。経済的な利害が理由」との見解を示した。・・・』という記事があった。

そして以下は、このニュースに関連した、ニッケイ新聞2013年9月11日付け「コラム 樹海」からの転載。

『9・11NYテロ、リーマンショックなどを思い出す〃魔の9月〃になった。米国と欧州勢がシリア政府に爆撃すると脅しをかければ、アサジ大統領は「攻撃を受けたら中東の火薬庫に火が点くぞ」と恐ろしい言葉を投げ返す。当地ニュース解説者は「イラク戦争から時間が経って、米国軍事産業の在庫がたまってきたようだ」と皮肉る▼興味深いのは米国ワシントンのホワイトハウス前では「攻撃してアサジを倒せ!」とデモをする在米シリア人が多く、伯国最大のシリア人集団地であるパラナ州イグアス市では「攻撃反対!」という論調が多いとか。米国へ行く者と伯国へ来る者は、すでにその時点で何かが違っているようだ▼傍から見ていて実に不可思議なのは、広島や長崎の原爆、ベトナム戦争、イラク戦争などで無数の一般市民を殺してきたと言われる米国が「シリア政府は民間人に対し非人道的な化学兵器を使った」ことを攻撃開始の理由にする点だ▼加えて、この2週間で伯米関係が急速に悪化した。先々週日曜にグローボのニュースで、ジウマ大統領が米国諜報活動の標的にされたと暴露され、法務大臣が「国家の主権侵害だ」と異例の声明を出した。先週には伯国最大の企業ペトロブラスも標的にされたと報道され、米国の〃錦の御旗〃「テロ防止のための諜報」が単なるでまかせで、産業スパイを国家がやっているかのようだ▼この件で最大の問題は、アップルにしろマイクロソフトにしろ米国情報産業は諜報活動に利用されていると暴露された点だ。一国の大統領の通信が筒抜けなら、市民に秘密などありえない。信用なきネットで〃公正〃な企業競争はありえるのか。(深)』

2013年9月16日(月)

土曜日の夜はジミーの家にお呼ばれをして行ってきた。はるも連れてきていいと言ってくれたので、もちろんはるも一緒に。ジミーと弟のジェフの家は、パーディーニョで一番のペドレイロと言われている彼らのお父さんが建てた家で、パーディーニョの町の入り口近くに隣り合わせに建っている。次の写真は、ジミーの家の一番奥のシュハスコのかまどのあるファミリールームのような場所。以前ここは屋根のあるオープンスペースのベランダだったらしいのだけれど、雨が降ると床もカウンターもびしょ濡れになるので、壁と大きな窓を取り付けたのだそうだ。以来、とても居心地が良くなり、家族は1日のほとんどをここで過ごすようになったと言っていた。夕飯の前にフェルナンダがここで子供たちのためにオレンジを絞って、イチゴと一緒にミキサーにかけてジュースを作っていた。ソーダではなく、果物のジュースを手作りするなんてフェルナンダはいいお母さんだなあ・・・ジミーはヒオ・グランジ・ド・スーウ州から買ってきたという特別のワインを私たちのために開けてくれているところ。

次の写真は、夕飯が始まってからパチリ。夕飯のメニューは、レタス、ルッコラ、ミニトマト、パウミット(ヤシの新芽でタケノコのような感じのもの)、そしてチーズの入ったサラダと、ご飯と、挽き肉ではなく鶏胸肉を使ったラザニアと、ジミーが作ったというカボチャを丸ごと茹でてから、中身をくり抜いて、そのカボチャの中身とコーンビーフを混ぜて味付けをして、またカボチャの中に戻したというお料理。この入れ物に使っているカボチャはまるで陶器でできているように見えるのだけれど、触ると本物なので柔らかくて温かかった。どれもおいしかった。デザートは私が作って持参したブラウニーとフェルナンダが作ったレモンパイ。チアゴはブラウニーが気に入ったようで、何度も少しずつおかわりして食べていた。子供たちは左から3歳のレティシア、10歳のチアゴ、そして13歳のダニエラ。はるは子供たちが側にいると大興奮で大変だったけれど、私たちの食事中は持参したおしゃぶり用の骨を与えたので、どうにかこうにか静かにしていられる時間もあり、初めてのおでかけは、まあ何とかぎりぎり合格。

2013年9月17日(火)

昨日は夕飯時にすごい嵐がやって来て、激しい雨と風に見舞われた。西から吹きつける雨と風はここの夏の嵐の特徴。ここしばらくいいお天気が続きカラカラだったので、ちょうどいいお湿りとは言うものの、ちょっと激しすぎる。そろそろ雨期が始まるのかな?ひどい嵐はほんの少しの時間で収まったけれど、雨は雷を伴って一晩中続き、今朝もまだ降り続いている。今日は1日雨のようだ。雨が降っていると、私が傘を差しかけていても、モビはオシッコに出るのをいつもためらっていたものだけれど、はるはほとんど気にせず、まっしぐらにオシッコの場所に出て行く。

雨の日はお散歩はできないけれど、お天気の日でもお散歩で数回外に出る以外にも、オシッコのために何回か外に出なくてはならない。その際、オシッコをする場所は晴れた日でも、雨が降っていても、ベランダの前の芝生の上と決まっている。モビが元気だった頃はここの芝生はまだこれほどぎっしり生えていなかったので、ここも含めて、結構あちこちでオシッコをしていたけれど、はるにとってはここが一番のお気に入りの場所になっている。次の写真は、玄関を出たところからその場所をパチリ。そして2枚目の写真は、そこでオシッコをしているはる。ここに生えている芝生は私たちがわざわざ植えたものではなく、この上のハイビスカスの足元に植えた芝生から派生して自然に生えてきたもの。同じく写真に写っているマーガレットも同様に自然に生えてきたもの。最近、はるはひもなしのフリーハンドでオシッコに行くことができるようになってきた。但し、オシッコが終わった後は、毎回私が戻ってくるようにはるに呼びかけないと戻ってこないので、まだ完璧ではないのだけれど・・・

2013年9月18日(水)

2013年9月10日付けのニッケイ新聞の記事に、エスタード・デ・サンパウロ紙とFM局のラジオ・エルドラドが共同で開催していた「ブラジル一のクラシックの名曲」を決めるキャンペーンの結果が9月7日に発表されたとあった。事前に選ばれた50曲の中から読者が1曲だけ選んで投票するというもので、対象曲は最も古いものが1915年、最も新しい曲が1988年。その結果発表された「ブラジルの名曲ベスト10」を見ると、題名だけでは「イパネマの娘」くらいしか知らないなと思ったけれど、YouTubeで探して聴いてみると、見つかった5~6曲はほぼすべて聴き覚えがあった。特に、1位に選ばれた「三月の水」は何度も聴いたことがある曲だった。日本では、ブラジルの音楽がよくBGMに使われているので、曲を耳にすれば、普通の日本人の人でも結構馴染みがあるのではないかと思った。

以下は、発表されたブラジルの名曲ベスト10
1位 「アグア・デ・マルソ(三月の水)」ーーエリス・レジーナ&アントニオ・カルロス・ジョビン(1974年)
2位 「アクアレラ・ド・ブラジル」(1942年)
3位 「コンストゥルッソン」ーーシコ・ブアルキ(1971年)
4位 「アーザ・ブランカ」ーールイス・ゴンザーガ(1947年)
5位 「カリニョーゾ」ーーピシンギーニャ(1915年)
6位 「アス・ローザズ・ノン・ファーラン(沈黙の薔薇)」ーーカルトーラ(1976年)
7位 「イパネマの娘」ーージョアン・ジルベルト(1963年)
8位 「トレン・ダス・オンゼ(11時の電車)」ーーアドニラン・バルボーザ
9位 「オウロ・デ・トロ」ーーラウル・セイシャス(1973年)
10位 「コモ・ノッソ・パイス」ーーエリス・レジーナ(1976年)

1位の「アグア・デ・マルソ(三月の水)」を聴いてみたい方は、 こちらへ

2013年9月19日(木)

今年2月に発行された「楽書倶楽部」の第17号に、「香山文庫」を継承したという記事を書いたことをきっかけに、楽書倶楽部の同人で、鎌谷さんという戦後移民の70代の一世の方とメールのやり取りをするようになった。お互いの生活やら、その時々に思ったことを取りとめもなくやり取りするのだけれど、これが結構楽しい。鎌谷さんは文章を書くことが好きで、サンパウロで定期的に行われている文章会に出て書いた文章を発表し、批評などを受けながら、切磋琢磨しておられる様子。一世の人たちは戦前移民の方も戦後移民の方もとても前向きだなと思う。数年前に奥さんが脳梗塞で倒れて以来、家事全般をこなしておられるので、魚はどんなものが手に入り、どんなふうに調理して食べるというような、まるで主婦どうしのような会話もしたりする。ご自宅の庭で少し野菜も作っておられるようで、野菜作りの話などもする。それで、先日きれいな金時豆(red kidney beans)とゴーヤの種を送ってきてくださった。金時豆は1袋は試食用で、もう1袋は種蒔き用と言って、2袋も送ってきてくださった。ありがたい限り。ブラジルでは日本で見かけない様々な種類の豆を見かけるけれど、金時豆は何故か見かけたことがなかったので、いつも茶色いカリオカ豆を金時豆の代用にして料理を作っていた。でも、この金時豆を家で栽培できるようになれば、これからは金時豆も食べることができる。感謝!感謝!

2013年9月20日(金)

はるは今日で生後11ヶ月になった。体重は6.6キロ。先日ジミーの家に行った際、息子のチアゴが「はるは何歳?」と聞くので、「もうすぐ11ヶ月」と答えると、「ええっ?まだ1歳にもなってないの?ずいぶん大きいね」とビックリしていた。モビと比べれば約半分と小さいので、特別大きいとは思っていなかったのだけれど、うちに来たばかりの頃に比べれば確かにずいぶん大きくなっている。ほぼ成犬の大きさになっていると言っていいのかな?とあらためて思った。小さかった頃ははるが部屋の中を歩く足音はあまりしなかったけれど、最近はモビのように爪がタイルの床に当たって、シャカシャカシャカシャカという音がするので、何だかモビがいるみたいだなと思ったりする。次の写真は、お天気の良かったある日の午後、ベッドの中でお腹丸出しで寝ているはる。いつもは丸まって寝ていることの方が多いのだけれど、時々こんな風にひっくり返って無防備な体勢で寝ていることもある。2枚目の写真は、玄関マットの上で珍しくスフィンクスのポーズをしていたのでカメラを構えたら、後ろ足を崩してしまい、撮影失敗。このスフィンクスのポーズはモビがいつもしていたポーズで、はるはまだめったにしない。でも、最近時々モビのように、エドソンと私の両方が見渡せるこの玄関マットの上で、私たちのことを眺めて過ごすこともある。

2013年9月21日(土)

ペトロポリスの安見さんが、15日(日)に文化祭の打ち上げをしたと言って、メールを下さった。7月の上旬からちょっと体調を崩しておられたけれど、何とか文化祭を無事に終え、どうやら今は体調も完全復活されたようで良かった。打ち上げには安見さんのお宅に総勢25人が集まったようだ。右端が安見さんで、前列左側に座ってポン太郎君を膝に抱えているのが奥さんの道子さん。左側の若い女性たちは、研修旅行中で安見さんの所に滞在している日本の女子大生ということだった。

以下は、ニッケイ新聞2013年9月18日付け「コラム 樹海」からの転載。

『移民史上、最も政権中枢にいた日系人が13日に亡くなった。具志堅ルイス(享年63)だ。軍政時代には3人の日系大臣が誕生したが、みな大統領の「側近」「優秀な官僚」的な印象が強かった。具志堅の場合は自らの手で掴み取った大統領府広報長官の座だった。現役時代のルーラ大統領に面と向かって反論できる数少ない人物で「ルーラのジョーカー(懐刀)」とまで呼ばれた▼具志堅は反軍政の銀行組合運動の旗頭で、4回も公安警察に捕まり、一度は脱走までした強者だ。労働者党創立に加わり党首も務め、現政権の誰もが一目置く。選挙運動責任者として「私は伯人、決して諦めない」という標語を考案し、ルーラに被せて〃4度目の正直〃で当選させた大功労者だ▼03年に父昌永さん(沖縄県本部町)に取材すると「息子が脱走した時は、うちまで公安が調べにきたよ」と淡々と語った。親もまた肝が据わっていた。日系社会と縁遠いイメージだが、80年代には下議としてパ紙に度々来社していた▼実は昌永さんの記事が出た直後、大統領府から突然FAXがきた。父の記事に対する感謝の言葉を息子が送ってきたのだ。日系らしい細かな気遣いに驚いた▼具志堅はメンサロン裁判の被告になったが、証拠不十分で無罪放免、でもそのストレスからかガンが悪化した。当地の政治家は、大物であればあるほどツラの皮が厚くないと務まらないと聞く。日系ゆえの生真面目さが寿命を縮めたのか。事実、通夜でルーラは「具志堅はウソの犠牲になった」とメンサロンを皮肉った。親友の死をも政治発言に利用するぐらいの性根の持ち主でないと、当地で政治家は務まらない。(深)』

2013年9月22日(日)

先週は月曜日の夕方からお天気が崩れて雨が降り始め、火曜日は1日雨、雨、雨。水曜日は1日中濃霧で時々しぐれ、木曜日は午前中が濃霧。お昼頃からようやくお天気が回復し、太陽が顔を出した。それで昼食後にはるとお散歩に出ると、ランドマークの木からハラハラと白い花びらが舞い散り、地面が花びらで白くなっていた。お天気が悪い間は風で飛ばされて散ってはいたけれど、地面を埋めるほどたくさん散ってはいなかったのに、太陽が顔を出したからなのか、朝は落ちていなかった花びらがあっと言う間に地面を埋め尽くしていてびっくり。

水曜日にはると外に出た際、たくさん花をつけたランドマークの木の枝が1本、木の側に落ちていた。どうやら月曜日の夕方の暴風雨で折れたようだった。この木はとても大きいので木の上の方で咲いている花がどんな形をしているのかよくわからなかったけれど、この折れた枝のお陰で花を間近に見ることができた。つぼみの時は黄色で、花が開くと白い花になるということが確認できた。それで地面に落ちた花びらの色が黄色と白の2色だったのかと納得。花の形は何だか貝殻のように見え、なかなか可愛い花だなと思った。

この木は葉が落ち始めると同時に赤茶色っぽい新芽が出始め、その新芽の葉が青々と茂り始めたら、花が咲く。葉が落ち始める際、どんぐりのような種もたくさん木の回りに落ちるのだけれど、この折れた枝には下の方の細い枝にひとつ、このどんぐりのような種がまだくっついていた。

2013年9月23日(月)

以下は、ニッケイ新聞2013年9月20日付けの記事からの転載。ちなみに、数年前から広島のペンクラブと交流を始めた「ブラジル日系文学」には、「武本文学賞」というのがある。「ブラジル日系文学」に掲載されるのは日本語の作品が主だけれど、ポルトガル語で書かれた作品や、ブラジル文学を日本語に翻訳したものなども掲載されている。日系コロニアという狭い社会の中だけのものではあるけれど、その小さな日系コロニアの中に日本語のペンクラブのようなものが存在し、文学賞と呼ばれるものまであるのは大したものだと思う。それがジャブチ賞のように権威を持つようになるかどうかはわからないけれど、裾野の一角ではあるように思う。

ジャブチ賞ノミネート決まる=ブラジルを代表する文学賞

『日本に芥川賞、アメリカにピューリッツァー賞、イギリスにブッカー賞といった著名な文学賞があるように、ブラジルでも権威とされている文学賞がある。それがジャブチ賞だ。

ジャブチ賞は1959年に制定されたブラジルの文学賞で、ブラジル書籍評議会によって運営されている。文学賞の場合、一般的に注目されるのはやはり小説だが、ジャブチ賞の対象は幅が広く、小説以外にも、詩、児童文学、伝記、ルポルタージュ、教科書などのジャンルがある。また、部門別で見た書物も、建築・市街化計画や美術、教育、人文科学、自然科学、通信など多岐にわたる。賞の数は年によって多少の違いはあるものの、例年25~30といったところだ。

この賞はブラジルの作家たちにとっては名誉のバロメーターの一つとでも言うべき賞であり、過去にジョルジュ・アマード、ラシェル・デ・ケイロス、ルーベン・フォンセカ、リジア・ファグンデス・テレス、ジョアン・ウバウド・リベイロといった過去半世紀のブラジルを代表する作家たちも受賞してきている。

今年度のジャブチ賞のノミネート作品は27部門で10作品ずつ選ば、18日に発表された。最終選考の結果は10月17日に発表される予定だ。気になる小説部門ではダニエル・ガレラの「バルバ・エンソパーダ・デ・サンゲ」やズエニール・ヴェントゥラの「サグラーダ・ファミリア」が有力と見られている。

なお、ブラジル絡みの文学賞としては、毎年5月に発表される、ポルトガル語で書かれた文学作品を対象としたカモンエス賞も重要で、こちらはブラジルのみならず、ポルトガルやアフリカのモザンビーク、アンゴラなどの文学作品が賞を争う。』

2013年9月24日(火)

9月21日(土)はブラジルでは「木の日」だったらしく、各地で花祭りや植樹式といった春の行事があったらしい。ペトロポリスでも桜の植樹式をしたと、安見さんからメールをいただいた。ペトロポリスでは1995年に日伯修好100周年を記念して、リオ日系四団体と領事館が桜を植樹したため、その後ペトロポリスは桜の名所になったのだけれど、4~5年前から立ち枯れが目立つようになったので、今回ペトロポリス市が160本の苗木(内60本はノーバフリブルゴの松岡さん寄贈のもの)を準備して植え替えをすることになったということだった。ペトロポリス市からは、市長、市長室長、市議会議長、土木局長、水道局長、環境局長、市儀典長。リオからは、木村総領事代理、宮本元リオ日系協会長が出席して植樹式が行われたと言って、何枚かその時の写真を送ってきてくださった。次の写真は、その内の1枚。そう言えば2~3年前、パーディーニョの小学校の子供たちが、パーディーニョの町に入る道路沿いに苗木をたくさん植えたことがあったけれど、「木の日」関連の行事だったのかと思い出した。でも、硬く痩せこけた地面に大きな穴も掘らず、土の準備もせず、ただ植えただけで、その後の手入れもしていないので、枯れてしまったものも少なくなく、辛うじて生きながらえている木もほとんど成長が見られない。ちゃんと正しい植え方をすれば、今頃は道路沿いがずっときれいになっていただろうにと残念に思う。

2013年9月25日(水)

先週に続き、今週もまた悪天候で始まった。日曜日の夜8時前頃、また激しい嵐が来て、突然停電してしまった。それで私たちは早々にブレーカーを落として寝ることにしたのだけれど、雷と雨と風はほぼ一晩中吹き荒れた。いつものように夜中に何度も目が覚めたけれど、はるがオシッコに起きなかったので、結構よく眠ることができた。月曜日も火曜日も連日ぐずつくお天気で、今朝ようやく太陽が顔を出した。ただ、気温が下がっていたこの2日間以上に、今日はさらに気温が下がり、冷たい風が吹いて冷え込んでいる。

日曜日の悪天候は、川の氾濫や大雨で民家が浸水したり、倒壊したり、ひょうが降ったりと大変な被害をブラジル南部3州にもたらしたようだった。そして、サンパウロ州の西部のタクアリトゥーバという町では、『22日午後4時前、強い寒気の流入で竜巻が起き、バスターミナルや体育館、ガソリンスタンドなども全半壊するなど、壊滅的な被害が出た。高速道を走行中に巻き上げられたバスの運転手や、体育館の屋根に直撃された青年など、少なくとも3人が死亡、停電も起き、電話も一時不通となった』と、ニッケイ新聞の記事にあった。こんな被害がここでは出なかったのはありがたいことだと思った。

以下は、ニッケイ新聞2013年9月24日付けの「大耳小耳」で見かけた短い記事のコピー。世界に羽ばたく日系ブラジル人というところだろうか?

『ニュースサイト「メガ・ブラジル」によれば、日系ブラジル人モデルのファビオ・イデさんがフィリピンで爆発的人気を博している。イデさんは日本の雑誌でモデルをした後、同国に拠点を移し俳優業に専念。ネスレやウニリーバなど世界大手メーカーのCMにも出演した。日英ポ語に、タガログ語まで話すマルチタレントだ。一世の苦労をバネにブラジル社会に羽ばたいた日系子弟、今は世界を舞台に活躍中か』

2013年9月26日(木)

昨日の朝の最低気温は5度だった。もうすぐ10月だと言うのに、まるで真冬が戻ってきたように寒い。ストーブはつけていないけれど、つけて温まりたいという衝動にかられる。今日は昨日よりも太陽が力強く輝いて、すっきりとしたきれいな青空が広がっているけれど、相変わらず冷たい風が吹き、水は氷のように冷たく、気温が低い。

先々週、メル友の鎌谷さんが送ってきてくださった金時豆、この月曜日に茹でて、牛肉と金時豆の赤ワイン煮を作ってみた。一晩水につけた後、圧力鍋で煮て、水蒸気が出てきたらすぐに火を止め、鍋の圧力が下がるのを待つ間、余熱で豆を煮るような感じにしたのだけれど、それでも豆の皮が柔らかいため、皮が破れてしまった豆がいくつかあった。でも、見かけはどうでも、ホクホクとしてとても柔らかく、ほんのり甘い金時豆の味はとてもおいしかった。この豆は元々皮が柔らかいので、一晩水につけた場合は圧力鍋ではなく、普通の鍋で煮ても十分柔らかくなるのかもしれないと思った。次の写真の1枚目は茹で上がった豆。2枚目は調理後の赤ワイン煮。この赤ワイン煮にはチリパウダーを少し振り入れているのに、豆自体の味がカリオカ豆よりも甘いので、チリパウダーのピリッとした感じがあまりしなかった。私の母はこの豆をいつも甘く煮ていたけれど、エドソンは甘い煮豆というのはブラジル人の常で苦手なので、うちでは甘い煮豆は作ったことがない。いつもお肉などと一緒に煮た塩味の煮豆を作っている。

2013年9月27日(金)

イビウーナの香山さんから引き継いだ「香山文庫」の本の整理やデータベース作りを手伝ってくれる人を募集したいと思いながらも、まだホームページもできていない状態で、長らく最初の一歩を踏み出せないでいた。でも、先日ペトロポリスの安見さんからいただいたメールに、研修旅行中の日本の女子大生が滞在しているとあり、そう言えば、以前どこかのNPOと関係しておられたようだけれど、その関係かと思い出し、お尋ねしてみることにした。すると、サンパウロのモンチアズールというファベーラを主に援助しているCRI (Childrens Resouce International))という日本のNPOと、サンパウロ新聞社社長が理事長をしているチャレンジ・ブラジルという日本からのボランティアの仲介をしている団体に関係しているということだった。

それで、安見さんから教えていただいたチャレンジ・ブラジルの理事長で、サンパウロ新聞社社長の鈴木雅夫氏にメールでご連絡して、こちらの状況をお伝えして相談してみた。すると「研修生を受け入れていただけるのであれば、私どもとしましては大歓迎です」と、すぐに長い返事を下さった。

鈴木氏は40年前に日本学生海外移住連盟という組織から研修生としてサンパウロ新聞で1年間仕事をした関係で、若者の交流の手伝いをしたいと思い、ブラジル関係者を集めてNPOチャレンジ・ブラジルを12年前に立ち上げたのだそうだ。チャレンジ・ブラジルを立ち上げた時は、サンパウロ新聞の東京支社長をしておられたのだけれど、立ち上げた直後にサンパウロ本社勤務になったため、以後、ブラジル側での受け皿をしておられるということだった。サンパウロ新聞の東京支社にあるチャレンジ・ブラジル事務局の門を叩くのは、ポルトガル語のスキルアップをしたい人、サッカーやカポエラなどのスポーツや、サンバなどの音楽など、ブラジルへの様々な興味があり、ブラジル社会に触れ、住んでみたい人、外国人向けの日本語教育を勉強したい人、日系移民について研究したい人など様々で、チャレンジ・ブラジル側はそれぞれの希望が叶えられる受入先を探し、アドバイスしながら、これまで100人もの若者たちをブラジルに送り出してきたということだった。そして、その内の約10%程度の若者たちはブラジルに住み着いているというからすごい実績だなと思った。

ブラジルにはワーキング・ホリデーのような長期滞在ビザがないため、90日間有効の観光ビザを利用することになる。この観光ビザはブラジル国内で一度延長することができるので、最長180日(半年)間まで滞在できる。私たちもこの観光ビザでボランティアの人に来てもらって、部屋と食事を提供する一方で、本の整理とデータベース作りを手伝ってもらいたいと思っている。手伝ってもらう人は図書館司書の経験のある人の方がいいけれど、その条件をつけるとハードルが高くなってしまい、ボランティアの来てがないのではないかと危惧していた。でも、鈴木氏によると、「書籍の整理は図書館司書のように特別な勉強をしていないと整理しても使い物になりません」が、チャレンジ・ブラジルの理事のひとりに海外日系人協会事務局長をしている方がおられ、この協会はJICAの横浜研修センターにあり、同センターには移民資料館や図書館があるので、図書の整理の仕方を事前に研修して送り出すことは可能だということだった。何ともうれしいお言葉。ちなみに、若者でなくても、シニアポランティアでも、私たちはもちろん、チャレンジ・ブラジルも受け入れてくれるので、ブラジルに興味のある方はぜひチャレンジ・ブラジルの門を叩いてみられては?

チャレンジ・ブラジルのウェブサイトは、 こちらへ

2013年9月28日(土)

2週間前ダイニングルームの窓辺のランが、花をひとつ咲かせた。その後、ひとつ、またひとつと花が開き、現在4つの花が咲いている。まだつぼみがもう2つあるので、それらが開けば6つの花が咲くことになるので楽しみ。

昨日、たまたまお昼前頃NHKのテレビで、「あまちゃん」の後に始まる「ごちそうさん」の番組紹介を見ていたら、その後、イル・ディーヴォが英語判の「花は咲く」を歌うミニ番組があった。彼らの歌声がとても素敵だったので、ここにYouTube上にあったこの歌にリンクをはってみた。

イル・ディーヴォ(IL DIVO)が歌う「花は咲く(Flowers will bloom)」の英語判は、 こちらへ

2013年9月29日(日)

以下は、ニッケイ新聞2013年9月28日付けの日系社会ニュースにあった記事の転載。同じ日のコラム「大耳小耳」には次のようにあった。

『帰国支援事業を使って帰国した2万人の伯人の再入国禁止が〃解除〃された。再入国を希望する日系人と日本企業とのマッチングを行う場としての役割が高まるCIATEの大嶽達哉・専務理事によれば、「当時50代後半、60代だった年金受給者層が戻ることは考えにくい」という。約2万人の事業利用者のうち7千人が扶養家族だったという事実をふまえ、「30、40代の家族連れが再入国を希望する層の中心となるのでは」とみている』

〃3年問題〃がついに決着=来月15日から入国許可

『日本政府は27日、2009年から国内の日系人を対象に1年間実施した「帰国支援事業」を利用して帰国した日系人の再入国を、10月15日から許可することを発表した。

発表資料によれば、再入国をしようとする日系人の安定的生活を確保するため、査証申請の際に、事前に企業と契約を結び、1年以上の雇用期間のある「雇用契約書」の写しの提出が条件となる。同事業を利用して帰国した人は計2万1675人に上り、うちブラジル国籍者は全体の9割以上に上る2万53人だった。

事業開始当初は「日系人の身分に基づく再入国は認めない」という条件が付されており、国内最大級の集住地である静岡県浜松市の鈴木康友市長が「日系人として再入国できないのは問題だ」と記者会見で意見を述べ、伯国のカルロス・ルッピ労働大臣(当時)が「施策の無効化」を求める公文書を送るまでに発展した。

これを受け日本政府は同年5月、「09年4月から原則として3年をめどにし、今後の経済・雇用情勢の動向等を考慮して見直しを行う」としたものの、4年半が経過した現在まで、政府側の具体的な動きはなかった。

聖市のCIATE(国外就労者情報援護センター)で開催されるコラボラドーレス会議出席のため来伯した厚生労働省職業安定局の堀井奈津子・外国人雇用対策課長は、今年7月時点で有効求人倍率が0・94倍、完全失業率が3・8%と2008年のリーマンショック以前の水準に戻りつつあることを挙げ、「雇用情勢の改善が進んでいることを考慮した結果」と説明する。

「日本のリアルな雇用状況を広く公表していきたい」と話しており、主にCIATEを通じて再入国希望者への情報提供に力を入れたい考えだ。また、「日本語能力があれば職種の幅が広がる」と続けた。

今年5月には、支援を受けて帰国した日系人女性が再入国の認可が下りなかったことを不服として国を相手取り提訴、決着を前に名古屋入管から在留許可認定証を付与されていた。

しかし政府側は、この女性が支援を受けた当時未成年であり、帰国後結婚した日系人男性が訪日を希望して査証を獲得していた「定住者の妻」という身分を考慮したとし、〃特例〃という扱いに留めていた。

この件について堀井課長は「直接の契機ではなかった」と今回の決定での関連性を否定しており、日系人の労働問題に詳しい二宮正人弁護士も「これまで再三に渡って日系社会からの投げかけられてきた要請が、景気の回復とともに実ったのでは。裁判が与えた影響は少ない」との考えを示している。』

2013年9月30日(月)

土曜日はいいお天気で気温も上がり、少し寒さが和らいでほっとしたのもつかの間、夕方から曇り始め、南西からの強い風がビュービューと吹き荒れた。ここの南方を雨雲が通過していた関係らしかった。そして夜半過ぎから雨が降り出した。はるがオシッコに起きた午前3時前はちょうど雨が止んでいたけれど、北西の空に稲光が何度も見えた。そしてオシッコから戻って少しすると、ここでも稲光が始まり、雷が鳴り、雨が降り始めた。ゴロゴロ、ザーザーと結構な雨が明け方近くまで降り続いた。朝には何とか雨は止んだけれど、1日太陽が顔を出さない曇り空。そして今朝は濃霧で明け、朝食が済むと雨が降り出した。毎週のように週の前半は悪天候で始まる。これで3週間連続こんな不安定なお天気が続いている。あと3週間で夏時間が始まるとは思えない寒さに、一体どうなっているのだろう?とため息が出る。

金曜日は家の中にいると寒いので、午後から家の東側の庭で草取りをした。前日まで吹き荒れていた風が少し和らいだので、戸外の太陽の下にいるとポカポカと暖かかった。ガーデン・グレヴィーリャの芽が出てきているから草と間違って抜かないでねとエドソンに言われ、大き目の草だけ取っていたら、エドソンが示した芽のすぐ側にもうひとつさらに小さな芽を発見。次の写真の左側が親グレヴィーリャで、右側がエドソンが示した芽。そして、その真ん中の小さくて周りの草と変わらないようなものが、私が見つけた芽。エドソンもこの芽には気づいていなかったので、芽の周りに石を置いて目印にした。

次の写真は、上の写真の左側のガーデン・グレヴィーリャをアップで撮ったもの。たくさん緑色をした種がついている。これが茶色くなると地面に落ちて、その内のほんの少しが新しい芽を出すことに成功する。落ちる種の数に比べれば、ちゃんと芽を出すものはほんのわずかだけれど、2つも自然に芽を出したのは大成功と言えるのかもしれない。



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