Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2013年8月1日(木)

早いもので、もう8月。パーディーニョに来て丸4年が過ぎ、5年目に入った。最初の1年弱はお隣での居候生活。そして、次の1年強はガレージでの仮住まい。ようやく住めるようになった我が家で暮らし始めて2年。その間ストレスに感じることもいろいろあったけれど、モビがいてくれたお陰で楽しく幸せに過ごすことができた。私たちにとってモビの存在は大きかったなあとあらためて思う。今ははるがいてくれるけれど、モビのことを常に思い出している。

先週の寒波には震え上がったけれど、週末辺りからお天気が回復し、比較的暖かい穏やかな日々が戻ってきてほっとしている。家の中に日差しが差し込むと本当に暖かい。はるも日溜まりに置いたベッドの中で気持ち良さそうに過ごしている。でもときどきストレスを発散させるためなのか、ベッドの中のタオルを噛んでボロボロにしてみたり、お腹を出してひっくり返って自分の前足やアクロバット的に後ろ足を口に入れて、爪を噛んだりする。文字通り爪を噛むので、はるの左前足の爪は右よりも短い。こんなことをする犬って、他にもいるのだろうか?動物心理学的に、はるはそんなにストレスを溜めているのだろうか?以下の3枚の連続写真は、その証拠写真。

2013年8月2日(金)

親族の結婚式に出席するために7月27日に韓国に行った呉善花(オソンファ)さんが、仁川国際空港で入国を拒否されたというニュースをネット上で見た。その件でさらに、「なぜ、呉善花さんは祖国・韓国へ入国できないのか?」という2013年7月30日6時32分配信の西村幸祐氏の記事をネット上で見かけたので、ここにリンクをはってみる。この記事のサイトは、 こちらへ

当局は入国拒否の理由を言わず、ただ入管管理法76条の書面を渡して、入国することができないという書類にサインしろと言うだけだったと言う。76条は韓国社会に政治的、或いは経済的な悪影響を与える人物は入国できないというものらしいので、つまりは、韓国は中国や北朝鮮同様、思想や言論の自由を認めない国という事実を世界に示したことになる。

時を同じくしてソウルで行われたサッカーの東アジアカップで、韓国人サポーターが「歴史を忘れた民族に未来はない」という横断幕を掲げるという相変わらずの事件があった。試合前からこの横断幕を掲げていたこのグループは、後半戦前に横断幕を下ろすように命じられると、それに反発して後半戦が始まる前に引き上げて行ったそうだから、そもそも韓国チームの応援が目的で競技場に行ったわけではないということがわかる。試合が始まってから日本側サポーターの一部も、係員にすぐに制止され取りあげられたようだけれど、旭日旗を掲げていたから日本が悪いということらしい。でも、試合が終わり、震災後の韓国の人たちの支援に感謝するという横断幕を掲げた他の日本人サポーターグループのことは韓国国内ではニュースにならなかったというのは一体どうして?

そして、これまた同時期に「戦時中、三菱重工業に徴用された韓国人5人が同社に慰謝料の支払いを求めた裁判の差し戻し控訴審で、釜山高裁は30日、三菱重工業の賠償責任を認め、原告1人当たり8000万ウォン(約700万円)の支払いを命じる判決を言い渡した」というニュースがあった。

これは「日韓の国交を正常化し・・・日本の援助に加えて、両国間の財産、請求権一切の完全かつ最終的な解決、それらに基づく関係正常化などの取り決めを行った」1965年の『日韓基本条約』をまったく無視した判決で、韓国が法治国家ではないことを示したと言える。

呉善花さんによると、「日本の政治家はこれまで謝ってきたけれども、いまなお韓国人が謝罪を要求するのは、その謝り方が韓国式の謝り方ではないからである。土下座をして、手をすり合わせながら涙を流し、繰り返し『悪かった』といったうえで、日本の領土の3分の1ほどを差し出す」というのが韓国式なのだという。だったら韓国は何故、1965年の日韓基本条約にそもそも合意したのか?そして、国交正常化後、日本が韓国に対して行ってきた膨大な経済援助や無償の技術移転について、何故国民に伝えないのか?と、思う。ドイツと日本はよく比較されるけれど、そもそもドイツはユダヤ人に対しては謝罪しているけれど、近隣諸国に対しては謝罪はしていないし、近隣諸国とは今でもこのような国交正常化の条約を結んでいないはずだ。ドイツのユダヤ人迫害は戦争の有無に関係のない犯罪であって、日本の戦争犯罪と一緒にしてもらっては困る。

2013年8月3日(土)

木曜日の午後、エディナの美容室で3ヶ月半ぶりにカットとカラーをしてもらった。帰宅すると、私の留守中、はるがずっと泣き止まないので困ったとエドソンがこぼしていた。モビも私がひとりで外出すると、しばらく泣きつづけたものだけれど、モビのベッドを移動させてエドソンの側にいられるようにすると、そのベッドの中でおとなしく私の帰りを待っていたのに、はるは居間のドアのところに行ったり、玄関のマットの上に行ったり、エドソンの側に来たり、ストーブの前でオシッコをしてしまったり、と、全然落ち着いてくれなかったようだ。玄関のところで泣きながら待っている証拠写真を撮っておいたよと言って、エドソンが次の写真を見せてくれた。ちょっとピンボケだけれど、玄関マットの上でドアの方を見つめているはるが写っている。

次の写真は、先日エドソンが収穫してきた大きなカラ(左側)。その大きさを実感してもらうために、普通サイズのカラと、ちょっと成長の悪い小さいサイズのカラを並べてみた。だんご三兄弟ならぬ、カラ三兄弟と言ったところ。

2013年8月4日(日)

金曜日の夕飯に、ボトゥカトゥの実さんと道子さんご夫妻を招待した。実さんは2世。道子さんは1世。でも日系社会で育った実さんは日系訛りのあるポルトガル語を話し、子供のころブラジルに来た道子さんは一生懸命ポルトガル語を勉強したので、ほとんど訛りがなく、知らない人がふたりのポルトガル語を聞くと、道子さんが2世で、実さんが1世と思われるらしい。元々はロータリークラブの関係で知り合ったご夫妻だけれど、日系人会のお世話もされている。ふたりともとても顔が広く、わからないことはいろいろお尋ねしたり、ここでは数少ない日本語が通じる人たちなので、とてもありがたい存在。初めてうちに来ていただくので、街灯などないこの農村地帯で迷わないように、まだ陽がある明るい時間帯にお出でいただいた。それで、夕飯の前に丘の上に上がって、日の入り前の景色を眺めてもらった。先週の寒波が遠のいて以来、暖かく穏やかな日が続いてはいたけれど、金曜日はまるで春のような陽気になり、道子さんは半袖のTーシャツ姿で、元気だなあ。以下は、ふたりが交代で撮って、送ってきてくださったその時の写真。

2013年8月5日(月)

ニッケイ新聞の「コラム 樹海」に、2日続けてブラジルの現実を如実に示す面白い内容の文章が掲載されたので、その2本を以下に転載してみた。まず、1本目は2013年8月1日付け。うちで家具を買って、その組み立てをしてもらえなかったというような経験はないけれど、その他のことでは、何か問題が起こってクレームを入れても、なかなか問題が解決しないことは結構あり、「我慢」を重ねた末、結局「諦める」ことも少なくない。ブラジル生活は修行という記述に、「その通り!」と思わず手を打った。

『ブラジルで学んだことを挙げれば、「諦め」だろうか。ゴネ得が横行する現在の日本とは逆の価値観で社会が動いているこの国では、主張することが「暖簾に腕押し」に感じることが多い(昨今のデモの例外はあるが)。時間と労力の消耗を天秤の片方に乗せ「なかったこと」にするのも処世術の一つ。しかしその裏をかいてくる場合があり、修行不足の身を恥じることも▼組立式の食器棚を買った。配送日の指定時、「組み立ててくれるよね?」と確認すると「もちろん」と笑顔の親指。コラム子の不在中に配送され、ポ語の不如意な家人が受け取った。梱包されたままの巨大なダンボール箱を見て、即座に浮かんだのは「逃げたな…」だった▼何の迷いもなくドライバーを手に取った。電話でレクラマ、時間を設定、待ちぼうけーという状況が目に浮かび、自分でやったほうが早い、という判断を下したわけだ。真夜中に5時間、売り子の親指を折ってやりたい怒りを抑えつつ平常心を保った。まあ崩れはしないだろう…。何故か残った部品は無視し、眠い目をこすりつつも克己心に満ち溢れていた▼翌朝、「ボンジア!組み立てに来ました~」とのインターフォンの声に耳を疑った。別の日に組み立てとの説明がなかったこともあるが、見事な諦め損。「一人でやったの? 部品が多くて難しいから仲間でも出来ない奴がいるよ。さすが日本人、今の仕事辞めたら連絡しろよ!」との言葉にすっかり気をよくした。幼少時のプラモデル経験がものを言ったか▼本稿を書いている前日、NETの設定4回目のすっぽかしを食らっている。まだまだ修行は続きそうだ。(剛)』

2本目は、2013年8月2日付け。バスの車掌もそうだし、サンパウロの地下鉄の駅の切符売り場の人たちもそう。サンパウロの地下鉄は路線の乗り換えをしても一律料金なので、東京で地下鉄やJRの切符を買うように複雑ではない。それなのに、切符の自動販売機などはなく、2~3人が窓口で切符を販売しているものだから、いつも切符を買うための乗客の長い列ができている。とても効率が悪い。

『バスの中ほどでアクビをかみ殺してヒマそうに座っているコブラドール(車掌)を見るたびに、〃奴隷の呪い〃の権化だと感じる。現金で払う乗客は少なく、ほぼ必要のない役職だが、労働組合が強いからバス会社は人員削減ができず、バス賃はいつまでも高い▼伯国が近代化するための道筋に転がる最大の障害の一つはこの〃奴隷の呪い〃だろう。郵便局も同様で、局員のストが恐いから郵政民営化はありえず、宅急便のような産業は育たない。宅急便がないとネットで物を買っても配達されないから、その手の近代産業も育たない▼この〃呪い〃の原因は奴隷時代に酷使されたという被害者感情ではないか。奴隷開放から125年経っているが、それが広く国民の無意識に刻み込まれているから、過剰に労働者の権利を主張する伝統が生まれた。雇用者を訴え、ストを打つことは、常に〃正しい〃と思われている節がある。治安に責任を持つ警察、インフラの要の空港職員、子供の将来を担う教育者、人命に関わる医者まで平気でストを打つ▼正式な医者になる前のインターン期間として、SUS運営の地方保健施設への勤務を義務付ける法令に反対して、全伯で医者や医学生がストをした。良く考えたら、国民の税金で運営されている公立大学医学部の学生が、一般庶民のために2年ぐらい奉仕して何が問題なのかと逆に不思議だ▼伯字紙で「公立大学法学部卒業生も、弁護士や裁判官になる前にファベーラで法律相談を2年間することを義務付けるべき」との声を読み、なるほどと思った。この国で唯一ストをしないのは、待遇や給与を自分で決められる政治家ぐらいか。(深)』

2013年8月6日(火)

ペトロポリスの文化祭が8月3日に始まった。ペトロポリス市長やリオ日本総領事も出席して開会式が行われたようだ。安見さんがまた何枚か写真を送ってきてくださったので、その一部をここに掲載してみる。1枚目は食品サンプルを使った展示のよう。こんなにたくさんのサンプルどこから入手したのだろう?2枚目は「食文化」か「食と健康」に関する講演の様子だろうか?そして、3枚目は寿司職人さんによるデモンストレーションのようだ。

2013年8月7日(水)

去年、ミツバチのジャタイの巣箱をジェラウドから1つもらって育て始めて以来、エドソンはすっかりジャタイにはまってしまっている。ジャタイの様子を見ていると楽しいし、気持ちがとても穏やかになるとまで言う。1つのジャタイの巣箱から始まったのだけれど、その後、ジャタイが竹の中に作った巣をエリゼウから何度かもらったり、エーナーニの農場で見つかったジャタイの巣をもらいに行ったりしながら、だんだん増えて行き、今ではジャタイの巣が5つとミリンの巣が1つ、合わせて6つに増えている。家の東側に屋根を取り付けて作ったジャタイたちの巣箱を置く専用の場所(以下写真)ができたので、シュハスコ小屋の軒下からすべての巣箱を移動させ、エドソンは毎日のようにジャタイの様子を見に行き、はちみつを水で溶かした食事を与えたり、せっせと世話をしている。先日の寒波の際は、一番弱そうな巣箱を2つ家の中に持って入って避難させたりもしていた。巣の移動距離が大きいとジャタイたちは新しい環境にすぐ順応するらしいのだけれど、今回のように移動先がシュハスコ小屋のすぐ下のスペースで、移動距離が小さいと混乱するらしく、巣を移動させた後も、シュハスコ小屋の方に戻ろうとしたり、シュハスコ小屋に近い私たちの寝室に入ってきたり、間違って別のグループの巣箱に入ろうとして喧嘩になったり、しばらくは大変だったらしく、目が離せない状態だったようだ。

エドソンが話してくれるジャタイの生態はとても興味深い。グループは女王バチを中心に形成され、蜜や花粉を取りに行くために外に出て行く働きバチは年をとったメスたちで、若いメスたちは巣の中で巣の建設や補修をしたり、掃除をしたりと様々な家事を役割分担して働き、外には出ないのだそうだ。そして、巣の警護にあたるのもメスのハチなのだと言う。そして、巣の外に飛び出して行くハチは、蜜のある場所や自分たちの巣のある場所をちゃんと記憶しておかなくてはならないので頭が大きく、巣の警護に当たるハチは、そのような記憶力がなくてもいいので、頭が小さいのだそうだ。で、オスは一体何をするかというと、蜜の水分を取り除いたり、ワックスをコントロールしたりという作業もするらしいけれど、主な仕事は女王バチとせっせと子作りに励むことというのだから驚いた。ただ、これまでの研究でわかっているのはそこまでだけれど、研究がさらに進むと、オスの役割で何らかの新しい発見があるかもしれないという可能性も無きにしも非ずということらしい。ジャタイの世界は人間の世界とはずいぶん異なり、女性中心の世界で、まさにメスの天下のようだ。

そして、女王バチが次々に生む子供の中から、将来の女王バチをどのように選ぶのかはわからないけれど、将来女王バチになるために選ばれた赤ちゃんのハチは、サナギの時期に他の赤ちゃんたちとは異なる特別食を与えられて育てられるのだそうだ。そして、その将来女王バチになるために育てられたハチが巣立つ時期になると、まず先遣隊が新しい巣作りに適した場所を探しに出て行き、適当な場所が見つかるとそこを掃除して巣作りのための基礎工事を行い、その間、連絡係がそのことを元の巣に戻って知らせると、新女王バチとオスたちの一部がハネムーン飛行をしながら新しい場所へと移動し、到着後そこで新しい巣作りをするのだそうだ。その際、元々のグループの1割くらいの数のお供を引き連れて分家するというのだからおもしろい。そして、ジャタイが他のミツバチと大きく異なるところは、普通のミツバチの女王バチは他の働きバチたちとは違って、ローヤルゼリーの特別食を食べるのだけれど、ジャタイの女王バチは他の働きバチたちと同じエサを食べること。そして、ジャタイは非常に清潔なことなのだそうだ。普通のミツバチは何かの糞などを持ち帰って、巣の補強に使ったりするけれど、ジャタイは絶対そのようなことをせず、ジャタイの巣は非常に清潔なので、蜜も衛生的なのでそのまま食べても大丈夫で、たくさん量が獲れないこともあって非常に高価に取引きされるらしい。ジャタイの蜜の味は前にも書いたけれど、普通のハチミツとは違い、メイプルシロップのような味で、とてもおいしい。次の写真は、巣の出入り口から顔を出しているミリンたち。ミリンはジャタイよりもさらに小さく、黒い色のミツバチ。ちなみにジャタイもミリンもブラジル固有種のミツバチ。

2013年8月8日(木)

以下は、ニッケイ新聞2013年8月7日付けの記事からの転載。この記事はサンパウロ市の交通機関の問題点を指摘しているけれど、それでもサンパウロの地下鉄の路線はリオよりも多く、バスのターミナルと地下鉄の駅がつながっているので、バスから地下鉄に乗り継ぎたい場合、バスターミナルからタクシーに乗って最寄りの地下鉄の駅まで行かなくてはならないリオよりもよっぽど便利だと私は思う。そして、バスに乗って初めての場所に行く場合、運転手さんか車掌さんに降りたい場所を言って、その停留所が来たら教えてもらうという手もある。ただ、ポルトガル語が話せない外国人にはそれも無理だけれど・・・

それにつけても大昔、IPPNWの世界大会でストックホルムに行った際のことが思い出される。市の中心部にあった航空会社に用があって、国際会議場から電車とバスを乗り継いで、ひとりで行かなければならないことがあった。でも、私がどこそこの停留所で降りたいので着いたら教えてくださいと、バスの運転手さんに頼んだら、運転手さんだけでなくその会話を耳にした乗客の中にも普通に英語を話せる人たちがいて、親切に教えてくれ、問題なく降りることができた。そして、レストランやお店でも英語が普通に通じて、あちこちうろうろするのに何の苦労もしなかった。でも、ブラジルでは英語を話せる人は少数派なので、こういうわけにはいかない。

初心者には使いづらい=サンパウロ市の公共交通=慢性的な問題が山積

サンパウロ市は世界でも有数な、交通に問題を抱えた都市として知られ、現在も、地下鉄の工事や運営に関する関連企業のカルテル疑惑や、交通渋滞や電車の故障などによる事故の数々が毎日のように報道されている。今回はそんなサンパウロの交通事情について語って行こう。
サンパウロの交通問題を語る際に避けて通れないことのひとつに、鉄道を利用する公共交通機関網の未発達さがあげられる。現在サンパウロの電鉄は、地下鉄5路線とCPTMと呼ばれる公営電車6路線で構成されている。だが、地下鉄の長さは全て合計しても全長78キロにしかならない。サンパウロの地下鉄設計は1970年代にはじまっているが、これは同じ時期に建設がはじまったメキシコ・シティの3分の1の長さにしかならない。なお、世界で4番目に長い東京の地下鉄の全長は304キロだ。
サンパウロでは現在も地下鉄の拡張工事が行われており、州の発表によると現在は2路線の拡張工事と2路線の新設工事を行っており、いずれも2014年には開通の見通しと言われている。だがサンパウロの場合、地下鉄の開通の遅れは日常茶飯事で、なんらかの事情で工事が長期にわたり中断されることも珍しくない。
また、それに輪をかけて、地下鉄建設におけるカルテル問題がこの7月に発覚。既に運行している路線に関しては大きな影響は出ないだろうが、工事中の路線にカルテル疑惑のある企業が絡んでいたりした場合は、工事に支障が生じる可能性もある。
また、サンパウロ市内には電車網が届いていない地域が多い。そういう地域にはバスが対応しているが、サンパウロのバスがまたやっかいだ。バスに乗っても運転手や料金係(コブラドール)は決して行き先を言わないため、自分の降りる目的地は自分で窓の外を見て判断しなければならない。そのため、はじめての場所へ行くようなときには使いにくい。どのバスに乗るかも、バスの運営会社のサイトか、グーグルの地図で調べるしかない。
そうなると、残る手段は自家用車かタクシーしかなくなるのだが、市内の主要な通りの渋滞は世界的にも有名で、とりわけ月~金曜の夕方はすし詰め状態となる。また、タクシーを使う場合、運転手は基本的にポルトガル語しか話さないので、旅行客には非常に不向きで不安材料も多い。
今や人口1千万人を超える南半球屈指の大都市であるサンパウロだが、前述したような点を考慮すると、国外からの観光者などが一人歩きするのを妨げ、短期間での解決が難しい問題が多いのもまた事実。それを解消するためにも、地下鉄の設置は大きな課題となる。

2013年8月9日(金)

2週間ほど前、ボストンのチャーリーからメールが来て、1989年のIPPNW広島大会のころ事務局長だったビルが奥さんのデーナと一緒にボストンに用事があって来るから、ピーターやカレン、マイケルなど元IPPNWのスタッフ何人かに声をかけて、7日から9日のうちの1日、同窓会をしようと思っているのだけれど、私たちもSkypeで参加できないか?ということだった。それで、家を留守にする予定はないから参加できると思うけれど、Skypeアドレスなど知らせてと返事をした。その後何も連絡がなく、7日も連絡がなかったので、8日の夜だとエリゼウがレッスンと夕食に来るかもしれないから、ちょっと困ったなと思いながら寝た。そして8日の朝、いつものようにメールをチェックすると、7日の夜10時16分にチャーリーから、こちらはスタンバイして待っているからSkypeしてというメールが来ていた。あちゃー・・・私たちはここでは早寝早起きの生活をしているので、夜10時にはもう寝てしまっていた。それに、そもそも何日の何時と前もって連絡しておいてくれなくては参加は無理。やれやれ・・・でも、何とか集まることのできた数人で撮った写真を、翌日8日の早朝、メールに添付して送ってきてくれていた。後列左から、チャーリー、ビル、ビルの奥さんのデーナ、ピーターの奥さんのジュディ、ニック、前列左から、ピーター、ジジ、カレン。みんな相応に年を取っているけれど、あまり変わっていない。

2013年8月10日(土)

次の写真は、ある日のはる。お昼ご飯のチャーハンを作ろうと、私がガスレンジの前で玉ねぎやベーコンなどを炒め、エドソンが畑から採ってきたコウヴィを洗ったり、刻んだりしていると、はるがエドソンの足元に座って、彼の作業に注目しているので、写真に撮ってみた。私がひとりで台所でごそごそと後片付けや食事の支度をしている時は、様子を見にくることはあっても、すぐにベッドに戻って行き、台所に座り込んで私の作業を眺めるなんてことはめったにないのに、エドソンだとどうしてこんなふうに注目するんだろう・・・?

2013年8月11日(日)

ガン闘病中の友人デマーコは、以前の抗ガン剤治療が効果をあげていなかったため、5月に入ってから薬が変わり、その副作用で免疫力が落ちて、治療を中断したり再開したりを繰り返している。さらに悪いことにガンの痛みがあるため、それを抑える投薬も受けている。でも、その治療でもしっかり痛みをブロックできないようで、3週間ほど前にどうにも痛みがひどいため救急に駆け込んだということだった。以前から痛みがあると聞いていたので、ガンの痛みにも効果があるかどうかはわからないけれど、私が愛用している遠赤外線のウォーマーを貸してあげることを思いついた。10年以上も愛用しているので、これが壊れて使えなくなると困ると思い、前回日本に戻った際に買っておいた予備があったので、その予備を郵便で送ってあげた。でもそれが届く前にあまりにも痛みがひどいので、治療を受けているサンパウロのガン専門病院の担当医に連絡をして、即入院となってしまった。そして、1週間足らずで退院して帰宅してから届いていたウォーマーを使うようになったら痛みが和らぎ、だいぶ楽になったと連絡をくれた。とにかくむごい痛みだけでも何とかならないかと心を痛めていたので、良かったなと思った。

このウォーマーは、遠赤外線の熱で体の痛みを緩和し、体の中の老廃物や過剰塩分を排出して、内臓諸器官を活性化するというのがうたい文句。老廃物云々に関してはよくわからないけれど、寒い時期にただ体を温めるためだけでなく、腰痛、腹痛、肩こりなどがある時は、その部分にこのウォーマーを当てると、本当に痛みが和らいだり消えたりすることを実感している。体を冷やすと病気になると、よく言われているけれど、ある友人の話だと、「石原結實先生の著書によれば大抵の病気は体を温めることで治る」とあったということなので、病気が治るかどうかは別として、体を温めるということ自体は健康にいいことなのだろうと思っている。

2013年8月12日(月)

毎週土曜日に手伝いに来てくれているヒバマーとゼーのお陰で、草刈り作業や木々の枝打ち、シュハスコのかまど作りなどが少しずつ進んでいる。ゼーの仕事のベースはゆっくりだけれど、仕事自体は丁寧なので、エドソンは満足しているようだ。次の写真は、少しずつ形が見えて来ているシュハスコのかまど。

7月下旬の寒波襲来の後、ほぼ満開だった桜の花はすっかり落ちてしまい、葉の新芽がたくさん出て来て、裸に近かった桜の木々が葉をたくわえ始めた。でも、その後暖かく穏やかな陽気が続いたせいか、このところまた花を咲かせ始めているので写真に撮ってみた。庭の3本の木すべてに少し花が開いていて、特にこの写真の木は、少し離れたところからでもピンクの花が見えるほど。あの寒波がなかったら一気に咲いていたのかもしれないけれど、ひと冬に二度桜の花を楽しむことができたのはあの寒波のお陰かもしれない。そして、土曜日まで暖かかったお天気が昨日は気温がぐんと下がり、久しぶりに薪ストーブに火を入れた。桜の花が咲くと、花冷えのような寒さが来るのはどうしてだろう?不思議だな・・・

2013年8月13日(火)

ペトロポリスの安見さんから文化週間のイベントが終了したというメールをいただいた。いろいろなイベントの写真を送ってきてくださったので、ここに紹介してみようと思う。まず1枚目は、切り紙講習会の写真。子供に教えることが目的の大人の人たちが参加した講習会になったようだ。

次の写真は、漫画本を作った人の作品を紹介するイベントらしく、その作品のいくつかが写っている。

次の写真は、風呂敷の歴史を紹介し、着物の着付けのデモンストレーションをするイベントが終わった後に皆で記念撮影したもの。

次は、ペトロポリスの大学で行われた日本移民史の講演と、日本への留学制度と経験談を聞くイベントの写真。

次は、HAIKAI(俳句)の表彰式。児童の部と大人の部に分けられ、応募のあった俳句から優秀作品が選ばれたようだ。応募はほぼブラジル全土からあり、日本やポルトガル、ヨルダンからも応募があったということだった。インターネットで募集されたのか、ネットの威力はすごいと書いておられた。

最後は、ペトロポリスにあるスズキ・メソッドで教える音楽教室の生徒さんたちによるバイオリンの演奏会の写真。とにかくこういうイベントで講習会や講演会ができる人材がいるというのは、さすがにペトロポリスと思うし、更にそれらにたくさんの人が関心を持って集まるというのがすごいと思う。パーディーニョでは無理。ボトゥカトゥでもどうかなあ・・・?

2013年8月14日(水)

家の南側の三角地帯のオレンジの木に花が咲いて、その花の回りをミツバチのジャタイが飛び回っているとエドソンが教えてくれたので、オレンジの花の写真を撮ってみた。ここに植えたのは確か5~6種類の異なるオレンジやレモンの木2本ずつだったと思うので、実をつける時期が多少異なるため、今花を咲かせているのは5~6本だけだった。それでも三角地帯に降りて行くと、オレンジの花のいい香りが漂っていた。中には花と同時に実をつけているものもある(2枚目写真)。そして、オレンジの花はつぼみの時から真っ白なのが普通だけれど、一番大きく育っている木に咲いている花のつぼみはちょっとピンクというか紫色なので、比較するために、そのつぼみと花の写真(3枚目)も撮ってみた。この木はひょっとして実の色が赤いタイプのオレンジなのかな?

2013年8月15日(木)

今週はちょっと冷える毎日だったけれど、昼間は太陽の日差しが家の中まで温めてくれるので、1日中寒いという感じではなかった。でも、昨日は1日中霧の中で、時間を経るごとにどんどん気温が下がり、今朝の最低気温は3度だった。7月後半の寒波が戻ってきたような感じで、また震え上がっている。今日は薪ストーブだけでなく、エドソンのワークスペースにガスストーブをつけ、はるにも服を着せて、暖をとっている

以下は、インターネット上にあったNEWSポストセブン8月14日(水)7時5分配信の「中国 ソ連の脅威消滅で靖国利用し日本に圧力と櫻井よしこ」と題する記事からの転載。

『安倍首相の靖国神社参拝をめぐって中国、韓国からの攻勢がますます強くなっている。自国を守るために戦死した先人の霊を悼む行為は国家指導者にとって万国共通の責務であるはずだが、我が国では残念ながらそうではない。なぜ首相の靖国参拝はかくも“政治問題”となってしまったのか。ジャーナリストの櫻井よしこ氏が解説する。

* * *
これまでの報道や安倍首相自身の発言から、安倍首相が靖国参拝の深い意味も、靖国参拝が「問題化」した経緯もよくよく理解されていることが伝わってきます。

いわゆるA級戦犯の方々は1978年秋の例大祭の直前に合祀され、1979年春に毎日新聞によってスクープされました。1979年、大平正芳首相は春の例大祭にも秋の例大祭にも参拝しましたが、その年の暮れに中国を訪問すると、大平首相は大歓迎を受けました。

その翌年、靖国参拝で知られていた中曽根康弘氏が訪中した際には、中国人民解放軍副参謀長の伍修権氏が、日本の軍事費の倍増を求めました。つまり、中国は靖国参拝をまったく気にも留めておらず、まして日本の軍国主義と結びつけて考えてはいなかったのです。それは韓国も同様です。

その後も、日本の首相は靖国神社を参拝し続けました。中国が方針を換えたのはA級戦犯の合祀が明らかになってから6年半も後、中曽根康弘首相が1985年8月に参拝した後のことです。

ソ連が弱体化し、1985年3月にゴルバチョフ大統領が誕生すると、中国はソ連の脅威を言い立てる必要がなくなり、今度は日本に圧力をかけるために靖国参拝を利用するようになりました。つまり参拝批判は「国民感情」ではなく、あくまでも政治的要因だったのです。

安倍首相は今年5月にアメリカの外交雑誌『フォーリン・アフェアーズ』のインタビューを受け、2006年の小泉首相の靖国参拝を「心の問題」として支持した、ジョージタウン大学のケビン・ドーク教授の見解を引いて、こう答えました。

「ドーク教授は、南北戦争での南軍将兵が埋葬されたアーリントン国立墓地を歴代大統領が訪れたが、南軍がその保持のために戦った奴隷制の承認を意味はしないと言明しました。靖国参拝についても同じことが言えると思います」

このように、靖国参拝がA級戦犯の方々や軍国主義を賛美するものではないと説明し続けることこそ、大切です。』

2013年8月16日(金)

水曜日の夜読んだインターネット上のブラジルの新聞ニュースに、ブラジルが韓国企業のサムスンを提訴したという記事があったとエドソンが言うので、どういうことかな?と思い、インターネットで検索してみると、次のような内容だった。

ブラジルの労働雇用省が、マナウスにあるサムスンの工場(この工場では、サムスンの一部スマートフォンを組み立てている)を2度監査した結果、劣悪な労働条件が明らかになったことを受けて、ブラジルの検察当局が、同国の労働者の権利を侵害したとしてサムスンを提訴した。この工場の労働者は、休憩なしで毎日10~15時間以上の立ち仕事を行っており、中には最長27日間連続で勤務した従業員もいるという。さらに、労働雇用省の調査によると、労働者は安全とされるペースを上回る速度で部品を組み立てており、1分あたりに行う動作回数は、安全上定められた上限の最大3倍に達していた。マナウス工場は約5600人の労働者を雇用しているが、2012年には2018人が腰痛、腱炎、滑液包炎など健康上の問題を理由に離職を申請しているという。

BBCは、サムスンが32秒で携帯電話1台を、65秒でテレビ1台を組み立てさせるなど、過酷な作業ペースを強要した疑いもあると報道。APF通信は、サムスンはマナウス工場の作業員とすでに1200件の法的争いを繰り広げていると伝えた。当局は今回の訴訟で、2億5000万レアル(約106億円、約1億1000万ドル)の賠償金を求めているとあった。

Photo: David Shankbone

つい2~3日前にも、中米ホンジュラスで韓国企業が従業員にトイレに行く時間を節約して生産性を上げるために、大人用おむつを着用するように強制した(しかも、そのおむつ購入費用は自費)というニュースを聞いたばかりだったので、韓国企業の無法ぶりが印象に残った。

この「Company in Honduras Allegedly Forced Employees to Wear Diapers at Work」という英文記事のサイトは、 こちらへ

2013年8月17日(土)

昨日は、お昼前にはるをペットホテルのヴィラ・シーコに預けてから、パーディーニョの町で食料品の買出しをして家に戻り、午後1時半頃、アメリカーナに向けて出発した。今日土曜日に恒例のアマチュア無線のフェアがあるのと同時に、午前中別会場でアマチュア無線の試験もあるため、ゆとりを持って前日から出かけて行くことにした。

家を出てから、いつものようにカステロ・ブランコ上のホドサーブ・スターで車の燃料を満タンにして、洗車をしてもらっている間に簡単にお昼を食べた。そして、アメリカーナに向け出発。アメリカーナまでの往路は何ヶ所か渋滞していたため、エドソンが予約しておいたアメリカーナのホテルに到着したのは午後5時を少し回っていた。チェックインして荷物を部屋に運び入れ、夕飯に呼んでくれたジョアンの家に向かう。ジョアオンの家は新築で、ホームシアター用の部屋の内装などまだできていない部分もあったけれど、とてもモダンできれいな家だった。我が家と違って、ずいぶんお金をかけて造ったという感じの家だった。家の後ろには小さなプールとシュハスコをするためのスペースもあった。次の写真は、そのプール。プールの右側奥にバーカウンターがあり、さらにその右側の壁にシュハスコのかまどがあるのだけれど、その部分は写真に収まりきらなかった。

次の写真は、ジョアオンと奥さんのベル。ベルはカンピーナスでフルタイムの仕事をしているので、夕方6時過ぎに帰宅してから私たちとひとしきりおしゃべりをして、それからおもむろにラザニアを作ってくれた。ジョアオンの娘2人(フェルナンダとバーバラ)は、それぞれクラスや友達とのパーティーなどに出かけて行ってしまったので、私たち4人だけでの夕食となった。それでダイニングルームではなく、台所の横の朝食用のテーブルでこじんまりと夕食をいただいた。

次の写真は、ジョアオンのところで飼われている11歳のオスのテリア。名前はデクスター。この子はとても小さくて、静かでおとなしいいい子だった。はるもこのデクスターのように静かでおとなしかったらいいのにと言うと、赤ちゃんの頃ははるのようにエネルギーを持て余して元気で、家の中のいたるところでオシッコをして困ったと話していた。じゃあ、はるも大人になったら落ち着くのかなあ・・・?

次の写真は、私たちが食事をしているところに訪ねてきた同じくアメリカーナに住むアディネーと息子のガブリエウ。

次の写真は、ジョアオンの次女のフェルナンダが作ったチョコレートといちごのケーキ。夕食後のデザートにいただいた。まるでケーキ屋さんで買ってきたようなきれいなケーキで、スポンジケーキの部分が柔らかく、甘さ控え目でとてもおいしかった。

2013年8月18日(日)

土曜日の朝は6時に起きてホテルで朝食を食べ、チェックアウトしてから、7時過ぎにフェアの会場となっている公園に向かった。このフェアの世話をしているアディネーと手伝いの人は来ていたけれど、他にはまだ誰も来ていなかった。アディネーの息子のガブリエウはお父さんが大好きなようで、お休みの日はいつもお父さんと一緒に行動しているらしく、この日も朝一番からお父さんと一緒に来ていた。8時過ぎにアマチュア無線の試験会場となっているSENAI(州立の技術専門学校)にアディネーが私たちを車で連れて行ってくれた。アマチュア無線の資格の中には3段階あって、エドソンはアメリカでも日本でも一番上の資格を持っているのだけれど、ブラジルでは国外で取得した資格は認めてくれないため、その一番上の資格を取得する必要があった。それで今回、アメリカーナでのフェアに合わせて試験が行われることになったので、この機会に試験を受けることにしたらしい。次の写真は、その試験会場で、試験が始まるのを待っている受験者の人たち。約200人が受験するということだった。日本と違って、試験開始時間が8時半からと決まったのは前日だったらしく、しかも時間通りに始まらないのはブラジルの常で、9時前頃になって、受験者にどの教室で受験するのかが知らされ、ようやく試験が始まった。

私はさっきまで受験者の人たちでごった返していたテーブルとイスがたくさんある休憩室のようなところでイスに腰かけて待っていたのだけれど、20分ほどすると、早々エドソンが試験を終えて出てきた。速い!バーバラも試験に来ていたけれど、一気に初級を飛ばして中級の資格を取る計画らしく、4種類の試験を受けなければならないので、彼女の場合は、当分終わらないということで、私たちだけで試験会場を後にして、フェアの行われている公園に歩いて向かった。試験会場から公園までは比較的近く、その道路の真ん中には川があり、その川沿いに遊歩道があったので、その遊歩道上で、今来た方向を振り返って写真を撮ってみた。

フェアの会場に着くと、ちょっと疲れたので、会場の入り口近くに座っていたガブリエウの隣に座ってしばらく過ごした。でもそこは、チャリティーの呼びかけに応じて粉ミルクの缶詰を持って来た人たちからその粉ミルクを受け取るテーブルだったので、みんな私がその係だと思うらしく、粉ミルクを持ってきたけれど、どうすればいいかと私に話しかけてくるので困った。その都度、ガブリエウがここに名前を書いて、このシールにも名前とコールサインを書いてから缶に貼ってと説明して対応してくれたのだけれど、はたから見れば子供のガブリエウではなく、大人の私が係だと思って当然よねと、何だかちょっとおかしかった。次の写真は、お昼を食べに行った近くのレストランで撮影。このテーブルの人たちはLABREというアマチュア無線リーグの中のひとつの部会に属する人たちで、食事をしながらその部会の懸案事項などを話し合っていたようで、2時間もひたすら食べながら話をしていた。左の男性はフラビオ。その右側はリオからわざわざこの日の朝飛んできたジョアオン・サアード。ジョアオンは21年前エドソンが渡米するまで職場が同じだった友人。流暢な英語を話すので、少し私と話をしてくれた。この日はこの昼食時の一時以外は、ずっとひたすらエドソンが友人たちとおしゃべりするのを側で聞いているだけだったので、ジョアオンと話ができて楽しかった。

昼食が終わって会場に戻っても、まだエドソンたちのおしゃべりは続き、4時前頃になってようやく会場を後にした。アメリカーナからの復路は交通渋滞もなくスムーズで、6時にはカステロブランコからパーディーニョに行く出口にあるホドストップまで戻ることができた。久しぶりの長距離ドライブと、ただひたすらエドソンを待つ1日だったので、腰や肩や首が痛くなったけれど、とにかくずいぶん久しぶりの外出と外食だったし、前の日にはジョアオンとベルと一緒に夕食を食べながら楽しくおしゃべりできたので、とてもいい気分転換になった。感謝。感謝。

2013年8月19日(月)

以下は、ニッケイ新聞2013年8月16日付けの『「ニンジャ」VS「ゲイシャ」=ブラジル式の新報道合戦?』と題する記事のコピー。このネーミング、何とも日本好き(というか日本のマンガ好き)なブラジル人の若者らしい発想だとは思うけれど、日本人的には何だかちょっと変な感じがしてならない。

『6月にブラジル全土で起きたデモは、「この国の真実が知りたい」と欲する若者たちに新しい創造性を刺激した。それが独立マスコミの登場だ。

この独立マスコミは、全国各地のデモの前線に立ち、そこで実際に起きたことをレポートや写真に収め、ネットを通じて報道している。

だが、そこで日本人にとっては思わぬことが起きた。その独立マスコミで最も注目されているメディアの名前に日本語が使われたのだ。それが「ミディア・ニンジャ」だ。ニンジャは現在フェイスブックを通して16万人以上、ツイッターを通じて1万9千人以上の人々に対してニュースを発信している。

ニンジャの存在はブラジルのマスコミに対し、新たな可能性を広げることにも寄与した。だが同時に、この「ニンジャ」という名前が思わぬ影響を及ぼすことにもなる。それが、ニンジャに対抗して立ち上がった新メディア「ミディア・ゲイシャ(GAYSHA)」の誕生だ。

「ミディア・ゲイシャ」はその名の通り、ニンジャに対抗して生まれたメディアだ。コンセプトもニンジャを強く意識している。例えば、ニンジャのジャーナリストが、ボサボサの髪型にボロボロの服を着て取材をしているのに対し、ゲイシャのメンバーは髪型やメイクをバッチリと決めて、着ている服もカラフルだ。それは構成メンバーにデザイナーやアーティストなどを含んでいるために生じた差のようだ。

「ニンジャや既存のメディアだけに独占はさせない」とゲイシャのある女性メンバーは語っている。

ニンジャのライバルになるべく立ち上がったゲイシャは、14日夜の時点で、フェイスブックで約500人、ツイッターで13人に記事を報道しているという。(8月15日付フォーリャ紙より)』

2013年8月20日(火)

はるは今日で丸10ヶ月になった。この週末、泊まりがけでアメリカーナに行った際、はるを2泊3日でヴィラ・シーコに預け、日曜日のお昼前に迎えに行った。昼間は他の犬たちと元気に楽しく遊んだようだけれど、夜はヴィラ・シーコの犬舎の個室でひとりで寝なければならないのが嫌だったらしく、自宅から持参したベッドを噛んでボロボロにしてしまっていた。うちではタオルをおしゃぶり代わりに噛んでボロボロにしても、自分のベッドを噛むようなことはなかったのに、よっぽどひとりぼっちにされたことが嫌で腹立たしかったのだなと思った。以前、モビが手術を受けた際、1週間ほど預かってもらった際は、まったく問題なかったのだけれど、あれから4ヶ月余り、私たちの寝室で一緒に寝る生活に慣れ、はるなりに強い愛着を私たちに持ち始めたということなのかもしれない。でも、この行動はちょっと困ったものだと思った。日曜日に家に連れて帰ってお昼を食べさせて体を洗った後、はるはまるでヴィラ・シーコでは寝ていなかったのかと思えるほど、夕食の時間までずっとストーブの前で毛布とタオルに包まってグースカ寝て過ごしていた(以下写真)。

ヴィラ・シーコから戻るといつもしばらくおとなしいのだけれど、今回はさらにその傾向が強く、月曜日の朝のレッスンに来たハファエウや、夜のレッスンに来たジミーとジェフに少し興奮したものの、以前ほどではなく、レッスンの間もおとなしく、とても静かにしていてくれた。そして、エドソンが時々ひもなしではるをオシッコに連れ出しても、どこかに駆け出して行くことなく、ちゃんと言うことを聞いて、オシッコが済むと戻って来るので、精神的に成長したのかな?と思った。次の写真は、ある日のはる。はるはベランダのイスの上が好きで、この時はイスのアームに両肘をついて景色を眺めていたので、写真に撮ってみた。

2013年8月21日(水)

以下は、ニッケイ新聞2013年8月16日付け「コラム 樹海」からの転載。ブラジルに来た移民の中で一番人口が多いのはイタリア系移民。ここパーディーニョもイタリア系移民が造った町。 これだけイタリア系移民が多いのに、リオやサンパウロなどの都会は別として、サンパウロの内陸部の田舎町ではピッツァリア以外のイタリア料理店はまず見かけない。家庭ではラザニアなど様々なパスタ料理を作り、大好きな料理はイタリア料理と言う人が多いのに、どうしてだろう?不思議でならない。機会あるごとにいろいろな人に「何故?」と聞きまくっているのだけれど、ブラジルに来たイタリア移民はイタリア南部の貧しい人たちだったので、そもそもイタリア料理といえる食文化がなかったのではないかというところに落ち着くのだけれど、でも、家では食べているわけだから、やはりどうしてだろう?と疑問は残る。

『レジストロ地方百周年連載を書きながらしみじみ感じるが、ブラジルの歴史を少しでもほじくり返すと、すぐに欧州の歴史とつながる。たとえば南大河州では1835年からファラッポスの戦いが起きたと同連載で書いた。この戦いには、のちに祖国統一に貢献するイタリア人英雄ジュゼッペ・ガリバルディも参加していた▼彼は1835年に南米に移り、最初は帝都リオ、1838年から南大河州に移って反乱軍大尉として戦った。そこで羊飼いの娘アナ・マリア・ジェズス・リベイロと知り合い生涯の伴侶となった▼彼はそのあとウルグアイでも戦争に参加した。南米でゲリラ戦術を磨きながら十年余りを過ごし、1848年に祖国へ帰還した。1860年に千人の義勇兵(赤シャツ隊)を率いてシチリア島に上陸し、賛同した農民が加わってどんどん兵力が膨れあがり、連戦連勝してシチリア王国を制覇、その勢いで南部全体をまとめあげてイタリア統一に劇的な役割を果たした▼伯人妻は「アニータ・ガリバルディ」の名で夫と共に常に最前線で戦い戦死した。チェ・ゲバラもそのカリスマ性や農民を巻き込むゲリラ戦術を参考にしたとは有名な話だ▼統一戦争でイタリア各地は戦場となり食糧が不足し、大水害にも見舞われ、大量の移民を新大陸に送り出すきっかけになった。伊移民は当地で奴隷並みの扱いに苦しみ、それを祖国に告発する者もいて、伊政府も渡伯中止を宣言。そのために労働力不足に陥った聖州の珈琲農園は日本移民に目を向けるようになった。「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、「イタリアが統一されればブラジル日本移民が始まる」!?(深)』

2013年8月22日(木)

先週は、この冬2度目の寒波襲来で冷え込んだけれど、アメリカーナはここよりも標高が低いこともあり暖かで、特に、土曜日はお天気が良かったのでカーディガンを着ていると暑いくらいだった。でも、午後6時頃パーディーニョに戻ると寒くてカーディガンを着込まずにはいられなかった。やはりここは寒いなあ・・・とあらためて実感。日曜日も寒く、1日薪ストーブを使ったけれど、月曜日からお天気が回復し、徐々に気温が上がり始め、気持ちのいい日々が戻ってきた。2度目の寒波が襲来する前に咲き残っていたらしい桜がまた咲き出したと書いたけれど、今現在もまだ咲いている。庭の4本の桜の木の内の一番若くて小さい木は、今年はまだ花を咲かせないだろうなと思っていたら、ほんの少しだけ花を咲かせていることを発見。そして、家の東側に1本植えた桜も同じように今2つ3つ花を咲かせている。これでイビウーナの中村さんからいただいて育てたヒマラヤ桜6本すべてが、今年は花を咲かせたことになる。それにしても、うちの桜はパッと咲いて、パッと散るというのと違って、長く楽しませてくれる変り種のようだ。

ベランダ横に作ったバラの花壇に植えたベイジョという花は、夏が盛りで、1年目の冬は完全に枯れてしまい姿を消したのだけれど、この冬は完全に姿を消すことなく、弱々しいながら少し花をつけているものもある。アメリカーナから戻ると、家からつながっている屋根つきのベランダと、屋根のない外ベランダの間のコンクリートが剥がれた部分にベイジョが芽を出し、花を咲かせていた。ベイジョは風であちこち種を飛ばして、そこで芽を出す花なので、これまでにもバラの花壇の外でいくつか芽を出していたけれど、こんな土がないような場所でどうして芽を出したのだろう?まさに「ど根性ベイジョ」だ。

2013年8月23日(金)

今週はお天気のいい暖かいい日が続いているので、水曜日の午後と木曜日の午前中それぞれ3時間ずつくらい草でボウボウになった畑の草取りをした。次の写真は、水曜日に草取りを始める前に撮影した畑。レタスやルッコラの苗が植わっている畝は、比較的草が少ないけれど、その左右の畝は草ボウボウ。

次の写真は、2日間草取り作業を進めて、だいぶきれいになった今朝現在の状態。まだ作業は完了していないけれど、今日、明日と作業をすれば、完了するかな?と思っている。現在、この畑で育っているのは、7月始め頃に植えた2種類のレタス、ルッコラ、ミニトマト、キヌサヤ、ポロネギ。その他は、以前からあるヤーコン、数種類のコウヴィ、バジル少しと、セージとタイムだけ。マラクジャは虫がついてコントロールできなかったので、根元から切り落としたのだけれど、驚くことに根は生きていて、葉がたくさん出てきている。抜こうと思っても、根がタコ足のように広がり、深くて抜けないので、ヒバマーに手伝ってもらわないと抜けそうもない。草取りが完了したら、今週末か、来週、この他の野菜の種蒔きをしようと思っている。

2013年8月24日(土)

昨日の午後、ボトゥカトゥに食料品の買い出しに行ったついでに、ポリヴェットのペットショップに行き、はるの新しいベッドやお散歩用の丈夫なひもや鎖を買って帰った。 はるが噛んでボロボロにした前のベッドは、はるが成長して小さくなっていたので、今回は大きめのものを買ったのだけれど、ちょっと大きすぎたかな?モビが使っていたベッドと同じようなサイズなのだけれど、縁が高いので車の助手席の床スペースに入りきらず、結局、これからは車に乗る際はタオルを床にしくしかないか?とエドソンと話している。家に帰ってからしばらくは新しいベッドに見向きもせず、私たちが台所で夕飯の仕度をしているのが気になって、台所でうろうろしていたけれど、そのうち気がつくと、居間に置いた新しいベッドの中ではるが寝ていたので、気に入ってくれたんだなと思った。

そろそろ夕飯ができるという頃になっても、はるが気持ちよさそうに寝ていて、エドソンまで一緒に横になって寝心地を試しているので、おかしくて写真に撮ってみた。

2013年8月25日(日)

金曜日にボトゥカトゥから戻って、パーディーニョの郵便局に行くと、「楽書倶楽部」の第19号が届いていた。以下は、この号に掲載された私の文章のコピー。今回はモビのことを偲んで書いた。父の思い出を書いた際も思ったことだけれど、父やモビのことを考えながら、気持ちを文書にするという作業は、悲しみの気持ちを癒して、心の整理を助けてくれる作業だなと思った。この「楽書倶楽部」を受け取って、次回の原稿をまだ用意していないことに気づいた。きゃ~!急いで何を書くかを決めて原稿を書かなくては・・・

モビ

約二年半におよぶ闘病の末、今年四月六日にモビがこの世を去った。モビはダックスフントのオス犬で、私たちと出会った時すでに六歳くらいの成犬だった。一緒に暮らしたのは三年九ヶ月足らずと短かったけれど、まるで前世でも私たち夫婦と深いつながりがあったのではないかと思えるほど無条件の愛情を注いでくれ、我が子のように愛おしい特別な存在だった。

ボトゥカトゥのペットクリニックで受けた病理検査の結果、モビの首にできたしこりは悪性腫瘍だということがわかった。そして、ガン治療や外科手術は、同じボトゥカトゥにあるサンパウロ州立大学獣医学部付属病院で受けた方がいいとアドバイスされ、大学病院に通い始めた。

抗ガン剤治療を二~三回受けた後、手術で腫瘍を摘出し、更に三ヶ月におよぶ抗ガン剤治療を受けて、何とか克服したように見えた。しかし、それから半年ほどで再発してしまい、また半年間におよぶ抗ガン剤治療を受けた。最初の治療でも、再発してからの治療でも、モビは抗ガン剤と一緒に投与される薬の副作用による体重の増加と、その副産物として大きないびきをかくという変化はあったものの、抗ガン剤自体による副作用はほとんどなく、体調を崩すことなく元気に過ごしていた。

犬のガン治療も人間のそれとほとんど変わらず、治療で使われる抗ガン剤などは人間の薬と同じだった。人間の治療と違うところは、薬の量が体重に比例して少なく、抗ガン剤投与の間隔が十日に一度と短いこと。そして、その治療に使われる抗ガン剤は、自分たちで調達して病院に持参しなければならないことだった。

モビがガンを発症して以来、私たちの生活はモビを中心に回るようになった。大学病院に受診すると、まず採血が行われた。血液検査の結果が出るのを待って治療が行われるため、長い時間待たされた。午前八時前に到着して受付を済ませても、治療を終えて病院を出るのはだいたいいつも午後一時前後。ひどいときは午前中に治療をしてもらえず、午後二時以降にずれ込むこともあった。

その間、モビは他の患者犬たちが吠えたり騒いだりしてもびくともせず、いつも静かに私たちの膝の上で待っていた。採血の時も、治療の時も、その他の検査の時も、嫌がって抵抗するようなことはなく、おとなしく身を任せていた。モビを診てくれたレジデントの中には、「モビはあなたたちのことを信頼しきっていますね」とか、「患者がみんなモビのようにいい子だと診察がとても楽なんだけれど」と言う人もいて、病院の常連になるに従い、定期的に入れ替わるレジデントやインターンの人たちみんなに名前を憶えられ、可愛がられる存在になっていた。

ガンが再再発する前の、まだ元気な頃のモビ

再発後の抗ガン剤治療で首の腫瘍がほぼ消えて、治療が終わりほっとしたのもつかの間、三ヶ月もしないうちにまた腫瘍が戻ってきてしまった。再再発ということで、抵抗力をつけ始めた腫瘍に対して延々と抗ガン剤治療を続けることは難しいらしく、ガンと共存して行くために、キナヴェットという新薬を試すことになった。何とか薬を入手して、自宅での一日一錠の投薬が始まり、しこりが縮小し始めた。しかし、10日ほどして嘔吐が始まった。薬の副作用で肝機能がダメージを受けてしまい、残念ながらモビにはこの薬は向かないことがわかった。

最後の望みを託した薬がモビには使えないことがわかり、抗ガン剤治療も徐々に効かなくなるだろうと思われる状況で、いずれ来るモビとの別れを覚悟しなければならないのかと、夫と話し合うようになった。ちょうどそんな時、楽書倶楽部第16号が届き、広川和子さんの「虹の橋の袂で」を読み、くじけそうな気持ちを少し立て直すことができた。そうだ、私も天国に行く時、虹の橋の袂にある野原で、きっと待ってくれているであろうモビを探して、必ずモビと一緒に天国への虹の橋を渡ろう。でも、今はとにかくモビと一緒に頑張ろうと思い直した。

それからは、抗ガン剤治療、体調悪化、治療の中断、体調回復、腫瘍の肥大化、抗ガン剤治療再開、体調悪化というのを繰り返すようになった。ついには腫瘍の肥大化に伴い皮膚から出血するようになってしまい、再度の手術が避けられない状態になった。そして、四月二日の午後、腫瘍を摘出し、左耳を切除し、皮膚移植をするという大変な手術が教授の執刀で行われた。手術は成功し、モビはこの手術によく耐え、一時は回復するかと思われた。結果的に肥大化した腫瘍から拡散した毒素が内臓をかなり痛めつけていたところに、術後の薬の大量投与で、モビの心臓がその負担に耐えられなかったようで、四日後の夜、大学病院とは別の民間の動物病院の集中治療室で息を引き取った。

モビは最期の日、丸一日嘔吐で苦しんだけれど、合間、合間には穏やかな表情で私たちを見つめ、「僕はふたりの側にいるだけでとても幸せ。だから僕の側にいて」とでも言うように、私たちの側を離れようとしなかった。モビが亡くなった翌朝、モビを動物病院に迎えに行った。夫はモビの元気な頃の姿だけを記憶していたいからと、冷たくなったモビと対面することを拒んだけれど、私はどうしてもモビの最期をこの目でちゃんと確認したかったので、モビと対面させてもらった。冷たくなっていても、私にとってモビはモビだった。そして、うちに連れて帰り、私たちの手で敷地内に埋葬することができたので、今もモビは私たちと一緒にここにいて、私たちを見守ってくれているような気がしている。

2013年8月26日(月)

金曜日にボトゥカトゥに行った際、日本食料品店のウエノにも行き、大根、ゴボウ、セロリなどスーパーのパオン・ジ・アスーカーでは手に入らない野菜を買って帰った。年に一度、この時期になると見かける新鮮なグリーンピースもあった。ウエノさんの店では、市場から仕入れたものだけでなく、自分の農場で栽培している野菜や果物も季節季節で販売するので、時々こんな風に旬のものがあって、季節を感じることができるのでうれしい。

土曜日は、たまたま色々なものを食べきってしまっていたため、朝から洗濯機を回しながら金曜日に買ってきた野菜を使って浅漬けを作り、はるのご飯(はるのご飯は私たちが食べる日本米ではなく、安いブラジル米を使っている)を炊き、お昼前後にデザートのアップルパイの用意をして、午後はダニエラとガブリエラのレッスンが終わってから、パン生地を作り、夕飯のローストチキンの準備ができてから、燃料費節約のために、アップルパイとパンとローストチキンを一緒にオーブンに入れて一度に焼いた。我ながら1日よく働いたと満足したのだけれど、いざ夕飯を食べるという時になって、ご飯が炊けて保温状態になっている炊飯器のふたを開けたら、中は空っぽ!あらあっ~!いつものように早目にお米を洗って準備しておいたと思ったのに、お米の入っていない炊飯器のスイッチだけ入れていた自分に、ちょっと落ち込んだ。いつもはスイッチを入れる前にふたを開けて中にお米が入っていることをいちいち確認するのに、土曜日は何故かそれもしなかった。これはボケの前兆か・・・?トホホ・・・

2013年8月27日(火)

先々週の週末は、私たちがアメリカーナに行ってここを留守にしたため、送り迎えが必要なヒバマーとゼーには仕事を休んでもらったのだけれど、先週末はまた仕事に来てもらった。お陰でゼーが作業してくれているシュハスコのかまどのレンガがまた少し積み上がった。

ヒバマーには柵沿いのブラキアーリアを取り除く作業を続けてもらっているので、ブラキアーリアに埋もれていたコロア・デ・クリストが姿を現した。次の写真は、丘の上から北を向いて、柵沿いのコロア・デ・クリストの列を撮影したもの。ブラキアーリアに被われていたので、みんなひょろひょろと弱々しく、花も咲いていない。一方、2枚目の写真は、頻繁にブラキアーリアを除去してコントロールしている三角地帯の柵沿いのコロア・デ・クリスト。こちらは枝が伸びて、元気にたくさんの花を咲かせている。ブラキアーリアがあるとないとでは、こんなにも成長に違いが生じるのだから、恐ろしきブラキアーリア。

先週末は夏が来たように気温が上がり暑くなったけれど、昨日からまた徐々に気温が下がり、今日は夜明け前から霧雨が降っていてちょっと寒い。丸首のTシャツ1枚だった装いから、またババシャツとタートルネックのシャツの上にカーディガンという冬の装いに戻ってしまった。

2013年8月28日(水)

以下は、ニッケイ新聞2013年8月27日付けのブラジル国内ニュースからの転載。このところ日本では福島原発の貯水タンクから放射能汚染水が海に漏れ出しているというニュースでもちきり。BBCやCNNでは、シリアで化学兵器が使われたようだが、使ったのは政府側か反政府側かというニュースばかり。でも、今週ブラジルでは以下の記事のような外交問題に関わるニュースで政府内がひっくり返っている。ジウマ大統領もパトリオッタ外務大臣もこのことを知らなかったのに、海軍の上層部は知っていたという謎だらけの亡命劇。そして、パトリオッタ外務大臣は更迭というよりも、国連代表へ横滑りしたらしい。それなのに昨日のNHKのニュースで取り上げられていたブラジルからのニュースは、サンパウロ市で建築中のビルが倒壊して死者が出たというもので、ブラジル政府をひっくり返しているこの大問題に関してのニュースではなかった。複雑怪奇で解説が難しいから取り上げられなかったのだろうか?

ボリビアの上議が伯国亡命=ラパスの大使館で長期保護
=体調悪化を係員が見かね=両政府ともに遺憾を表明

ボリビアのエヴォ・モラレス大統領から殺人や賄賂の横流しなどの罪で告発を受け、ラパスのブラジル大使館に約15カ月間かくまわれていた上院議員が、連邦政府や外務省の了承なしに大使館の判断のみで伯国に渡ったことで、両国政府に波紋が広がっている。26日付伯字紙が報じた。

ラパスの伯国大使館にかくまわれていたボリビアの上院議員ロジェール・ピント・モリーナ氏は、23日午後3時に伯国大使館の車で同市を離れ、24日夕方、伯国とボリビアとの国境付近にあるマット・グロッソ州コルンバーに到着した。ピント氏はその後、友人から借りた小型ジェット機で迎えに来た上院外交委員会のリカルド・フェラッソ委員長とともに、25日午前1時20分、ブラジリアに到着した。

この行為に対し、伯国連邦政府と外務省は遺憾の意を示した。それはボリビアの大使館側から事前に説明を聞いていなかったからだ。アントニオ・パトリオッタ外相は26日、フィンランドへの外交日程をキャンセルし、この件に関しての対応に追われた。

政府と外務省は、ピント氏の伯国への移送に関しては承認もしておらず、事前の通達もなかったと表明したが、ピント氏をボリビアに送還する意図はない。それはピント氏の体調に問題が生じていたからだ。

ピント氏は2012年5月28日、「エヴォ大統領から命を狙われている」とラパスの伯国大使館に訴え、伯国に身柄の保護を求めた。同年7月8日、伯国は保護を行うことを了承したが、その数日後にエヴォ大統領がこれに反発して大使館に圧力を加え、両国間でこの問題に関して討議する委員会まで作られた。ピント氏は、ボリビア政府から大使館の外に出た際の身の安全を保障されなかったため、大使館の外から一歩も出ることができなくなった。日も差さず、換気も悪い部屋で限られた話し相手との生活を1年以上余儀なくされたピント氏は、体調不良と鬱状態に陥り、最近はそれが悪化の一途にあったという。

ラパスの伯国大使館大使代行のエドゥアルド・サボイア氏は、ピント氏の状況を見かね、独断でピント氏を伯国まで送ることを決め、23日午後3時、伯国海軍兵2人を護衛として2台の車でラパスを発ち、22時間かけて1600キロ離れたコルンバーに到着した。その間、ボリビア警察に3度止められたが、サボイア氏が同乗しており、ことなきを得たという。

サボイア氏は、「人道的理由からこの判断に踏み切った」と報道陣を前に語っている。

一方、ボリビアは、ピント氏は犯罪者であり政治亡命者ではないと発表し、伯国に事情説明を求めている。同氏の所属する政党・全国民主行動は右翼政党で、左翼政権のエヴォ大統領とは政敵同士の関係にある。

2013年8月29日(木)

以下は、インターネット上で見かけた産経新聞8月25日(日)13時0分配信の記事のコピー。

韓国こそ「ドイツに学べ」 戦犯国非難は“壮大な誤解”

『ドイツのメルケル首相が最近、国内のダッハウにあるナチス時代のユダヤ人強制収容所跡を訪れ、犠牲者に頭を下げる写真が、韓国のマスコミで大々的に報道された。新聞はほとんどが1面トップだった。

ドイツではよくあるシーンだが、韓国でのこの異様な関心はなぜか。

ある新聞は頭を下げたメルケル首相の写真にわざわざ日本語で「安倍が見習うべき姿」という文章まで付けていた。

つまり「ドイツはこんなに過去の歴史について謝罪と反省をしているぞ、それに比べ日本は…」という、日本非難のためのおなじみの「ドイツに学べ」論である。日本でも似たような議論をよく聞くが、はて。

メルケル首相はナチスによるユダヤ民族虐殺現場で頭を下げているのだが、日本は過去、韓民族に対しナチスのようなことをしたのだろうか。

韓国は日韓併合で日本の支配、統治を受け植民地になったが、第二次大戦で日本と戦ったわけではない。逆に日韓は一緒になって米国、中国など連合国と戦ったというのが実態だった。

韓国のテレビインタビューで「日本人としてメルケル首相の写真をどう思うか?」と質問されたので「立派な姿です」と答え「ところで韓国ではしきりに日本に対し『ドイツに学べ』というが、では歴史的に韓国はナチス・ドイツ時代のどこに相当するのか。フランス? ポーランド? チェコ? それともユダヤ人…」と反問したところ、相手は絶句していた。

ヨーロッパでナチスの植民地だった国はない。だからドイツの戦後処理に関し韓国が参考にすることは基本的にはないのだ。

韓国には意図的な歴史の歪曲がある。自らを日本やナチス・ドイツに対する戦勝国である連合国になぞらえ、日本を戦犯国といって非難するのがそうだ。

しかし、靖国問題もそうだが、韓国は日本と戦争した敵国ではないため、いわゆるA級戦犯問題とは直接関係はない。極東裁判は日本の韓国支配を裁いたものではないし、植民地支配は戦争犯罪ではない。にもかかわらず韓国がA級戦犯を理由に靖国問題にこだわるのは“壮大な誤解”なのだ。

ナチス・ドイツの歴史を振り返り、あえて韓国に相当するような国を探せばオーストリアかもしれない。

ヒトラーの故郷でもあるオーストリアはナチス・ドイツに6年間、併合されその一州になった。ナチス・ドイツと一体だったため、戦後は連合国の米英仏ソによる分割占領後、中立化を条件に1955年、独立を回復した。韓国(朝鮮)が戦後、連合国の米ソに分割占領されたのと同じだ。

興味深いのはオーストリアはナチス・ドイツとの過去の関係を国際社会に謝罪していることだ。これでいくと韓国は日本との過去を謝罪、反省しなければならないことになるが…。

「ドイツに学べ」で思い出した。韓国と北朝鮮の間でまた南北離散家族再会の話が出ている。

しかし、ドイツでは東西分断中も家族の相互訪問や手紙、贈り物の交換など自由な交流があり、結果的に1990年に統一が実現している。

韓国と北朝鮮こそそうしたドイツにしっかり学び、南北交流をちゃんとやって早く統一してはどうか。

そして少数派の東ドイツ出身のメルケル首相のように、統一コリアで北朝鮮出身の大統領が誕生するような姿を早く見せてほしい。(ソウル・黒田勝弘)』

2013年8月30日(金)

家の西側にあるランドマークの木に、今年はちょっとした異変が起きている。ここ1週間くらい葉がたくさん散っているので、上を見上げると、新芽が出ている枝とまだ茶色く枯れたような枝、そして、緑を青々と讃えた枝があり、何だかちくはぐなのだ。そして月曜日の朝、はるとのお散歩から戻ると、白い花びらがはらはらと風に飛ばされて木の回りにたくさん落ちている。「???」と思って上を見上げて目を凝らして見るのだけれど、花の姿は見えない。再び「???」とても不可解だった。火曜日の朝、はるとのお散歩の際、再度木を見上げて観察すると、今度は左側の葉が青々としている部分に花が咲いていて、それが散っているのだとわかった。月曜日は1日曇り空だったので光の加減でよく見えなかったのだけれど、火曜日はお天気が回復し、ちゃんと確認できた。それでその証拠写真を撮ってみた。7月、8月と、2度に渡って、ちょっと強烈な寒波が来て、その狭間の期間は暖かかったりしたので、木の体内時計に異変が生じて、いつ新芽を出したり、花を付けたりしたらいいか混乱してしまったのではないかというのがエドソンの解説だった。去年は一斉に花が咲いて、白い花吹雪がきれいだったけれど、とりあえず、木が弱ってしまったわけではなさそうなので、一安心。だから桜も2度に渡って花を咲かせたのかな・・・?おかしな気候のせいだったのか?

2013年8月31日(土)

去年、アチバイアのデマーコとシオックが遊びに来てくれた際持って来てくれたランは、最初付けていた花が散った後、しばらくしてから新しい芽が伸び始めて再度花を付けたのだけれど、今年は根元からまったく別の新しい芽が出てきて、今5つ6つつぼみを付けている。ダイニングルームの窓際に置いて、毎日少し水をやっているだけで、液体肥料など特別なものは与えていないのに、こんな風に芽が出てきて驚いている。ランは強い花なんだなあと思う。

次の写真は、同じくダイニングルームの窓際に置いたシクラメン。このシクラメンは今月初めに夕飯に来てくれた道子さんと実さん夫婦が手土産に持って来てくれたもの。この花もとても元気に次から次へと新しい花芽が伸びてきて、たくさん花を咲かせている。ダイニングルームに4鉢あるランのうち、2鉢は買ってきた時と変わらず花を咲かせており、1鉢は4ヶ月以上もの間花が咲き続けていたのが終わり、上記の1鉢はこれからという状態。これらにこのシクラメンが加わり、ダイニングルームを華やかにしてくれている。



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