Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2013年6月1日(土) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2013年5月10日付け「コラム 樹海」からの転載。 『「中国人が激増し、大きな影響力を持ってきました」。お隣アルゼンチンの邦字紙「らぷらた報知」の崎山朝一さんとメールをやり取りする中で、そんな言葉が飛び出した。亜国人口は4千万人余だが、移民局の推計では約12万人の中国人がいる。05年には6万余だったから、わずか8年で2倍になった▼亜国中国系の多くはスーパー経営に携わっており、その数7千軒以上とか。中国系だけのスーパーマーケット会議所すらある。105周年を迎える亜国日系人口は、最近の調査で6万1千人(子孫含めて)と判明した。中国移民の激増振りが伺われる▼ウィキペディアによれば、伯国の中国人は20万人、うち13万人が聖市に集中する。戦前戦後を通した日本移民の総数が25万人だから、それに近い数がここ数十年で入った。5月5日付けエスタード紙では聖市内に日本国籍者は1万1694人、中国国籍者は8945人とあるから、おそらくビザなしを入れたらすでに中国人の方が多い▼日本では若者が留学したがらないとか、海外駐在を嫌がると聞くが、なにも最初から外国に永住する必要はない。西洋式の弱肉強食社会で生きる困難さを身をもって体験して、日本が今後どう生き残っていくかを真剣に考える材料にし、その中から日本の素晴らしさに気付いて欲しい▼ネットやテレビで見ただけでは現実は絶対に分からない。自分の目で見て、食べて、感じることが大事だ。そんな体験を促進する交流査証(2年ぐらい)を日伯間で作り、コロニアが積極的に引き受け先になったらどうか。中国人に負けない熱意で日本の若者にも伯国を体験して欲しい。(深)』 | ||||
2013年6月2日(日) | ||||
4連休だった今週末は、金曜日の午後からお天気が回復し、昨日土曜日は朝も霧が出ておらず、とてもいいお天気になり、お昼前頃から暑いくらいになった。ここ3ヶ月余り続けていた自前の水を確保するための作業が先週ほぼ完了し、先週の日曜日にエドソンがポンプの試験運転をしながら森の中の貯水タンク(1000リットル)から、丘の上の貯水タンク(5000リットル)に少しずつ水を上げた。そして、タンクを満タンにしてからエドソンが考えて設置したオートマチックのシステムが機能することを確認した上で、ようやく一昨日の金曜日に、丘の上の貯水タンクから家まで伸ばしたパイプと、屋根裏にある貯水タンクまで続いているパイプがつながった。これで自前の水を確保するためのシステムがすべて完成し、森の中の湧水が我が家の屋根裏の貯水タンクに送られてくるようになった!それを祝うのと同時に、この大変な作業を手伝ってくれたふたりのジョゼに感謝の気持ちを伝え、彼らを慰労するために、昨日のお昼はうちで用意した。メニューは、ローストビーフ、ヴィナグレッチ(トマト、玉ねぎ、ピーマン、黒オリーブを刻んで、オリーブオイルと酢で味付けしたサラダのようなもの)、フェイジャオン(煮豆)、ポテトサラダ、そして、ガーリックライス。次の写真は、左からペドレイロの仕事もできるジョゼ(エドソンは彼のことをゼーと呼んでいる)、毎週土曜日にうちで手伝いをしてくれるようになってもう1年くらいになる古株のジョゼ(ジョゼがふたりでは紛らわしいので、エドソンは彼のことをセカンドネームでヒバマーと呼んでいる)、エドソン、そして、このふたりを私たちに紹介してくれたエリゼウも一緒に。
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2013年6月3日(月) | ||||
うちの敷地と西隣のコーヒー園との境界にある森には、四方八方から豊富な泉が湧き出ている。ここに家を建て始めたばかりの頃、土地の登記手続きをする人と一緒に井戸堀りを専門とする業者がウィリアムのところにやってきたので、その業者に頼んで森の中に井戸を作ってもらった。井戸と言っても、深い穴を掘るタイプのものではなく、森の北側にある斜面に何本もパイプを通して、そのパイプから集めた水が貯水タンクに溜まるようなシステムのものだった。でも、このパイプが十分深く設置されておらず源泉に届いていなかったため、乾季になると水が十分溜まらない状態であることがわかり、とてもがっかりさせられた。それで、ペドレイロのエディにちゃんとした井戸を作ってもらう約束になっていたのだけれど、我が家が何とか住める状態になってからはほとんどここの作業に来なくなり、あちこち未完成のまま、いつまで経ってもエディたちが作業に戻って来てくれないので、今年に入ってから、エドソンはジョゼに手伝ってもらって、自力で水を確保するための作業を始めた。 ジョゼと一緒に森の中に入って、泥だらけになりながら地面を北側斜面奥に向かって掘って行き、どこからどんなふうに泉が湧き出ているのかその源泉を探した。その結果、規模は全然違ってごく小さなものだけれど、ちょっと白糸の滝のような状態で斜面のあちこちから水が湧き出ていることがわかった。そのため、エドソンはこの土地の特徴を生かして、深い井戸を掘るのではなく、この豊富に湧き出てくる水を集めて、貯水タンクに水を溜めるシステムを作ることにした。インターネット上で読んだパラナ州政府やサンパウロ州政府の論文などを参考にして、エドソンがここの地勢状況に合わせてデザインを修正して作ったのが次の写真のような馬蹄型の井戸。直径3メートル、深さ2メートルくらいの穴を堀り、馬蹄型に石を積み上げて、その石の外側をコンクリートで固めたもの。この馬蹄型の石の壁の中に水が入ってきて、石の間を通って、写真手前の取水口に水が集まるシステム。この取水口に集まった水が、パイプでつながった貯水タンクに溜まるようになっている。
次の写真は、4月上旬から作業に加わってくれたゼーの助けを借りて、石を積み上げた後、コンクリートで固めるための作業が行われているところ。ヒバマーとゼーは泥んこになりながら、頑張ってくれた。石を積み上げる際はエドソンも作業に加わり、ヘトヘトになっていた。
馬蹄型の井戸ができてから、丘の上に貯水タンクを設置する作業が行われた。次の写真は、うちのベランダから見た丘の上に設置された貯水タンク。手前の黄色いタンクは、4月下旬頃から水不足の問題が発生した際、エリゼウが運んできてくれ、家の前に置かれた給水タンク。
次の写真は、丘の上の貯水タンク。ヒバマーとゼーが、ここの傾斜した地面を平らにして、砂を敷き、この大きなタンクを下から運び上げて、設置してくれた。
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2013年6月4日(火) | ||||
次の写真は、森の中の貯水タンク(左)と、その水を丘の上の貯水タンクに上げるために設置したポンプと配電盤を風雨から守るために作った、小さなレンガの小屋(右)。馬蹄型の井戸はこの貯水タンクの右側数メートルのところにある。
森の中の貯水タンクと丘の上の貯水タンクの間の距離がかなりあるので、それをパイプでつなぐ作業も大変だった。ふたりのジョゼは、まず、草ぼうぼうの斜面の草を取り除いてパイプを通すための道を作り、パイプを通してくれた。次の写真は、下の森と丘とのちょうど中間辺りにある道路から撮影した、下の森まで続くパイプ。
次の写真は、道路をまたいでパイプを通すために、穴を掘って、パイプを通し、その穴を埋め戻しているところ。ちょうどデマーコとシオックが遊びに来ていた5月最初の土曜日に作業が行われた。
次の写真は、道路をまたいだパイプが、防風林として植えたセドリーニョ(左)と桜(右)の列の間を通って、丘の上の貯水タンクまで続いている様子。その後、エドソンが電気の配線準備をしている間に、ヒバマーとゼーがこのパイプをちゃんと地中に埋めてくれたので、現在パイプは見えなくなっている。
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2013年6月5日(水) | ||||
5月上旬、それまで2ヶ月余り続けていた自前の水を確保するための作業は、あともう少しで終わるという頃になって、何度もトラブルに見舞われた。まず、ポンプ購入の際、ポンプ屋さんで確認した、必要なパイプの直径が間違っていたことがわかった。この直径の違うポンプとパイプをつなぐためには、アダプターがあれば問題は解決するものの、標準サイズよりも太いパイプを指定されたため、その入手に時間とお金がかかったのは残念だった。そして、そのトラブルがわかった日にすぐボトゥカトゥの店にアダプターを買いに走ったのだけれど、土曜日は店が営業しておらず、月曜日に出直して調達。次の土曜日にポンプとパイプをつなぐ作業を完了。そして次に、電気の配線をして電源を入れる前の準備として、タンクとポンプをつなぐパイプに水を入れなければならないのに、水が逆流してパイプにどうしても水が溜まらず、その土曜日も試運転ならず。それで翌日の日曜日の朝ふたりで森に行って、エドソンの指示に従って、私もパイプに水を入れる作業を手伝った。でも、パイプの水がタンクに逆流してどうしてもうまく行かず、とうとうエドソンが裸になって冷たい水で満タンのタンクの中に入って足で水が逆流しないようにして、パイプに水を入れる作業を完了。 いざ試運転をしようとスイッチをいれると、今度はポンプが変な音をたてるだけで動かず、パイプに十分水がない状態で何度か始動させようとしたので、ポンプが壊れたのか?とエドソンは大ショック!昼食を食べる気力も失って落ち込んでいたけれど、午後から気をとりなおして再度ポンプのところの電圧などをエドソンが調べに行くと、ポンプが壊れたのではなく、電信柱から森の中のポンプまでの距離がずいぶんあるため、ポンプを始動する際の電圧が充分でないということがわかった。翌週、またボトゥカトゥまで電気のワイヤーを買いに走り、土曜日を待って、すでに通して地中に埋めた電線の管を掘り起こして、もう1本の電線も通して、ポンプにつなぐ電線を2本にして電圧を確保。そこまでの作業で午後5時になってしまったので、その日はそこまで。翌日の日曜日(つまり5月26日)に新たに通した電線を、エドソンが電信柱の線につなげて、試運転。ようやく水を丘の上のタンクに汲み上げることができるようになった。ああ・・・やれやれ・・・問題が発生する度に、エドソンはあれこれ頭を悩ませて解決策を考えて、ようやく、ようやくの完成!お疲れ様でした! 次の写真は、我が家に水を供給し始めた丘の上の貯水タンク。タンクの左側上部につながっているパイプが、下の森の貯水タンクから水が送られてくるパイプで、右側下部から出ているパイプが我が家とつながり、水を供給してくれるパイプ。
それにしても、エドソンはどこでどうやってこんな電気系統や配管の知識を身につけたのだろう?と不思議に思う。それを尋ねると、エドソンいわく、エレクトロニクスが専門の彼には、電気のことがある程度わかるのだと言う。だから電気の配線をしたり、配電盤を作ったりするのはお手の物らしい。ただその逆の、電気が専門の人にエレクトロニクスがわかるか?というと、それはないらしい。そして、配管に関しては、ボトゥカトゥの配管用部品を販売している専門店で、森の中の貯水タンクから丘の上の貯水タンクまでこういうふうに配管したいというようなことを、店の人に話して、こういう場合にはこの部品、ここにはこの部品と、ひとつひとつ相談に乗ってもらいながら購入したのだという。この店には本当に何度も何度も足繁く通った。でも、必要なものが何でも揃っていて、店のおにいちゃんもとても親切で、十分な知識がある人だったので助かったとエドソンは言っていた。 | ||||
2013年6月6日(木) | ||||
水を確保する作業がほぼ完了しつつあった先週の金曜日と土曜日に、その作業と平行して、エドソンが薪ストーブの煙突を屋根裏の煙突につなげる作業をゼーの助けを借りてしてくれた。次の写真は、薪ストーブの煙突を通すために天井に開けておいた穴に、煙突を通した後、その穴の部分をきれいに隠すためのプレートを取り付ける作業をしているエドソン。
薪ストーブは土曜日の夕方には使える状態になったのだけれど、土曜日は朝からいいお天気で、午後は暑いくらいの気温になったので、火を入れるのは、もう少し寒い日にしようと話していたら、日曜日は朝から冷たい雨。それで、夕方、早速火を入れてみた。次の写真は、家の建設途上で出た廃材を小さなダンボール箱に入れてストーブの横に用意し、火を入れたばかりのストーブ。その隣ではるが箱の中に鼻を突っ込んで、廃材の匂いを嗅いでいる。ちょっと目を離すと、目ざとく見つけた小さな木材片を口に入れてムシャムシャしていたりする。困ったものだ。
次の写真は、火を入れてしばらくして、廃材が盛んに燃え始めたところをパチリ。薪ストーブはガスストーブよりも部屋全体を温める効果が高いことを実感。この薪ストーブは我が家のちょうど真ん中辺にあるため、うまい具合に家全体にぬくもりが広がるような感じがする。以来、何だかとてもうれしくて、ほぼ毎日のようにこの薪ストーブに火を入れている。
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2013年6月7日(金) | ||||
以下は、インターネットで見かけた「女性自身5月27日(月)0時0分配信」とあった記事のコピー。
橋下徹大阪市長の「慰安婦容認」発言が世界中で大騒動を巻き起こしている。韓国が「女性の権利に対する尊重と歴史的認識を著しく欠いている」と批判すれば、中国も「驚きと怒り」をいち早く表明。わが安倍首相までが「安倍内閣、自民党との立場とはまったく違う」と突き放した。そして異様なまでに激しく反応したのがアメリカだった。 全方位から集中砲火を浴びている橋下氏。だが、「たしかに舌足らずの部分があるが、言わんとするところは大筋で正しい」と現代史家の秦郁彦氏(80)は擁護する。慰安婦問題の代表的な論客である秦氏が、特に大きく肯いたのは「日本軍だけじゃなくて、世界中のいろんな国の軍で慰安婦制度を活用していた」という橋下氏の主張だ。 「米軍も例外ではありません。日本では米兵によるレイプ事件が多発するのを心配して、米兵から『良家の子女を守るため』に、内務省の発案で有力業者に話をつけて『特殊慰安施設協会』(RAA)が組織された。終戦からわずか3日後の’45年8月18日のことでした。アメリカが設置を求めたという場所もあります」 大蔵省の緊急融資を受けて東京大森に最初の施設が開設されたのが8月27日。朝日新聞などに出た「急告 特別女子従業員募集 衣食住支給、前借にも応ず」という募集広告に応じて、戦争未亡人など千数百人もの女性が集まった。当初、女性1人につき、1日15人から多いときで60人の米兵を相手にさせられたが、ピーク時には全国で7万人もの女性が集まり、ようやく人手不足は解消されたという。 米軍は自ら慰安所を持たなかったが、その役割を日本に肩代わりさせていたのである。「戦場と性」は切っても切り離せない関係にあると秦氏は言う。 「第2次大戦中の日独は軍が管理する慰安所型、米英は民間経営の売春宿利用型、そしてソ連はレイプ黙認型でした。このなかで、日本の『従軍慰安婦』だけがいまも問題視されていますが、じつは日本軍の従軍慰安婦問題をもっとも激しく非難しつづける韓国にも、朝鮮戦争当時、慰安婦が存在したのです」 韓国軍特殊慰安婦の存在は’02年2月、立命館大学の国際シンポジウムで韓国の女性問題研究者・金貴玉氏によって初めて明らかにされた。「特殊慰安隊」と呼ばれた韓国軍慰安所は朝鮮戦争が膠着状態に入った’51年ごろに設置され、休戦に入った’54年3月に廃止。だが、その後も兵士相手の売春婦は存在しつづけた。そして、占領下の日本でそうだったように、韓国でも慰安婦の上客だったのが米兵だった。’09年1月7日付の『ニューヨークタイムズ』には、米兵相手の慰安婦だったという女性の次のような談話が掲載されている。 「韓国政府は米軍相手の大手売春あっせん業者でした。政府はGI相手にできるだけたくさん商売するよう熱心に奨励し、私たちを“ドルを稼ぐ愛国者”として賞賛したのです」
当然ながら、米軍もまたほかの国の軍隊と同じように、戦場で他国の女性をレイプし、慰安婦や売春婦を買い漁ってきたのである。橋下発言をきっかけに、はからずも『戦場と性』に対する後ろ暗い真実が露呈してしまったことが、アメリカが怒った本当の理由ではないか。 | ||||
2013年6月8日(土) | ||||
先日、「土が盛り上がって、こんなに大きくなっていたから、収穫してきた」と言って、エドソンが 渡してくれたヤーコンがすごく大きかったのでびっくり。以下の写真のように、比較的大きめのじゃがいも(右)と並べても、ヤーコンの方が大きい。この苗をくれたエリゼウに見せたら、こんなに大きなヤーコンは初めて見たと驚いていた。以前、まだとても小さかったヤーコンを1つ収穫して生で試食してみた際、芋というよりもしょうがのような食感と味だったけれど、調理の仕方がわからない。どうやって食べるのか聞くと、千切りにして、生のままサラダに混ぜて食べるのだとか。インターネットで調べてみると、これは芋なのだけれど、火を通しても普通の芋のようにホクホクにはならないから、やはり生で和え物にする献立が一般的のようだった。火を通した場合は、きんぴらのようにして食べればいいとあった。
それでネットにあった献立のひとつ、ヤーコンの千切りに油揚げとちりめんじゃこを混ぜた和え物を作ってみた。材料の白味噌と寿司酢はないので、普通の味噌と白ワインビネガーを代用。歯触りはシャキシャキして悪くない。味噌が違うからかとても濃い味になり、ヤーコン自体の味がよくわからなくなってしまったけれど、まあまあかな?ご飯にはよく合う副菜だと思った。エドソンもエリゼウもちゃんと食べてくれた。ヤーコンの千切りは味噌の色で何だか切干大根のように見える。次回は、カニカマを買ってきて、ヤーコンとカニカマのゴママヨネーズ和えを作ってみようかな?こちらの方が味噌味よりも抵抗なく食べられるかも?
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2013年6月9日(日) | ||||
1日の土曜日から、ジミーの長女のダニエラ(Daniela)と、同級生で仲良しのガブリエラ(Gabriela)が、週に1回午後2時から3時半まで、英語のレッスンを受けに来るようになった。ジミーとジェフのための2ヶ月間の集中レッスンが終わったら、6月から土曜日はまたフリーになるはずだったのだけれど、依頼があれば基本的に断らないことにしているので、快く引き受けた。ふたりとも13歳。明るくて素直でとてもいい子たちなので楽しい。彼女たちのここへの送り迎えは、ダニエラの母方のおじいさんのカーロスさんや、ダニエラのお母さんがしてくれていて、家族みんなで支援してくれている感じ。次の写真の左がダニエラで、右がガブリエラ。性格はガブリエラの方が少し積極的で、ダニエラはちょっとはずかしがり屋。
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2013年6月10日(月) | ||||
6月に入り、水を確保するための作業が完了したため、ヒバマーには草刈りの作業に戻ってもらい、ゼーにはペドレイロの能力を発揮してもらっている。お陰で、薪ストーブが使えるようになったり、あちこち未完成だった部分が少しずつゆっくりと出来上がり始めている。次の写真は、外階段の横の部分。激しい雨が降ると土が流れ出す状態だったのだけれど、きれいに石を積んでコンクリートで固めた壁を作り、上の車寄せのところからつながっている排水口のパイプも余分につきでていた部分を切って、すっきりしてくれた。
次の写真は、家の東側の庭と野菜畑の間の出入り口。野菜畑の方が高く、庭がぐっと低いので、上がり下りがちょっと大変だったのだけれど、レンガとコンクリートで一段ステップを作ってくれたので、上がり下りが楽になった。
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2013年6月11日(火) | ||||
安見さん夫婦が住んでいるペトロポリスはおもしろいところだ。リオから車で1時間ほどと近く、昔は皇帝の避暑地として発展したことから、この田舎町などとは比べ物にならないくらいずっと都会的で洗練された町だけれど、山間地帯にあるからか、自然と隣り合わせの暮らしがある。以下は、以前安見さんが送ってきてくださったペトロポリスで普通に見かける動物たちの写真。まず、ジャクー(Jacu)という鳥。この鳥の鳴き声はうるさいらしく、家の側に10羽くらいがしょっちゅうきているそうだ。この辺では見かけない。
次の写真は、ミコ(Mico)という小型のサル。サルはポルトガル語でマカコ(Macaco)というのだけれど、この種類はミコと呼ばれている。10匹くらいが群れで1週間おきくらいに来るらしい。安見さんがすぐ側にいても逃げないなんて、ずいぶん人に慣れているんだなあ。パラカンビのシチオでもたまに木の上でこのミコが群れているのを見たことがあるけれど、ここでは森の中にはいるのかもしれないけれど、家が森から少し離れているので見たことはない。
次の写真は、カピバラ(Capibara)。ペトロポリスの中心から安見さんの家に通じる道の川沿いに住んでいるのだそうだ。まるで自然動物園の中に町があるような感じだ。
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2013年6月12日(水) | ||||
森の中の貯水タンクのところに下りて行く途中に、昔、誰かが植えたのかレモンの木が1本あり、最近たくさん実をつけている。レモンと言っても、日本で普通にレモンと言っている黄色いラグビーボールのような形のものは、ここではリマオン・シシリアーノと呼ばれていて、レモン、つまりここで単にリマオンと呼ばれているのは緑色のライムのこと。ブラジルにはレモンにもたくさん種類があるようで、うちで採れたものもレモン。見かけは小粒のみかんのように、皮が薄く果肉がみずみずしく、きれいなオレンジ色をしている。でも、匂いも味も強烈に酸っぱい。以下の写真は、そのレモンと、大きさを比べるために、普通サイズの玉ねぎと並べてみた。
このレモンは、このままでは酸っぱすぎて食べられないけれど、果汁を絞って、砂糖と水で混ぜて、レモンジュースを作ると、とてもおいしく飲める。次の写真は、この2個を絞ってタンブラーに入れたところ。
ほんのわずかな量だけれど、これに水を1リットル近く入れ、砂糖を加えると、次の写真のような感じのレモンジュースができあがる。結構な量の砂糖を入れるので、本当は砂糖よりもステビアを使った方が健康にはいいのだけれど、今手元にないので砂糖を使っている。でも、とにかくうちで採れたものを飲んだり食べたりできることはこの上なく幸せ。
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2013年6月13日(木) | ||||
日曜日の夕飯に、ジャガイモの代わりにカラを使って、鶏レバーと野菜の煮込みをエドソンが作ってくれた。カラを里芋の代わりに使うことばかり考えていたけれど、十分ジャガイモの代わりにもなることを実感。それで、エドソンがカラでコロッケを作ってみてと言うので、要望に応えて作ってみることにした。次の写真は、茹で上がった鍋の中のカラ。皮をむくまでわからないのだけれど、むいてみると何故かジャガイモのように黄色っぽいものと、紫色っぽいものとがある。何故だろう?不思議だ。
次の写真は、出来上がったコロッケ。見かけも味もほとんど普通のジャガイモで作ったものと変わりなく、おいしかった。成功!成功!これからはジャガイモの代わりとしてもうちでたくさん採れるカラを使えるのだとわかり、食べ物に関して半自給自足を目指す我が家としては貴重な発見だった!
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2013年6月14日(金) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2013年6月12日付け「コラム 樹海」からの転載。以前は、購読契約をしていないと、ネットで読めるのは2週間くらい前の古い記事だったのだけれど、最近、サイトの形態が少し変わり、記事のすべてではないけれど、いくつかの記事が当日付けで読めるようになっている。 『百周年までの邦字紙は日本語で記事を出せばいい、二世の方が日本語を学ぶべきだという感じだった。ところが現実には、いくら想いを込めて記事を書いても日本語で書いてある限りは伝わらない。二、三世に「なぜそんなことも知らないんだ」と怒っても仕様がない。彼らに知って欲しい移民史はポ語にすべきなのだと痛感する毎日だ▼アマゾン移民80周年(09年)の連載や関連記事をまとめてポ語訳を付けた記念本が完成し、弊紙主催で14日午後7時から移民史料館(文協9階)で出版記念会をすることになった。今回の本の内容も二、三世にはほぼ知られていない。ポ語で書かれたアマゾン移民史はとても少ないからだ▼同地方関係者に限らず、普段は移民史に興味を持たない子や孫にこの本を贈ってほしい。「日本移民がアマゾン地方にも果敢に入っていき、多大な犠牲を払いながらも踏みとどまり、ブラジル社会に大貢献した」ことが分かるはずだ▼終戦後に思春期を過ごした二世は日本文化と疎遠になりがちだが、今は大胆に〃日系回帰〃する三世世代が台頭してきている。祖父はなぜ渡伯したのか、その当時の日本はどういう状況だったのか。たとえ日本語が分からなくても自分のルーツに強い関心を持つこの世代に、この本を皆さんから贈呈してほしい▼いずれは日本語学校の副読本にできるような、子供向きの日ポ両語の移民史絵本を作るべきだと前々から感じている。ぜひその時はご協力をお願いしたいが、まずはアマゾンの本が読まれないと話にならない。出版会当日のみ60、以後70レアルで販売。遠隔地の方は太陽堂、竹内書店等にご注文を。(深)』 | ||||
2013年6月15日(土) | ||||
先週の金曜日に、エドソンがアボカドやバナナと一緒に、結構大きなマラクジャ(パッションフルーツ)をひとつ買ってきた。ひとつだけなので「これどうするの?」と聞くと、デザートに使ってみてという。買ってきた時にはすでにちょっと痛んでいて、表面が少しデコボコしていたのだけれど、数日するとさらにボコボコになってきたので、完全に痛んでしまう前にマラクジャのケーキを作ることにした。次の写真は、エドソンが買ってきて数日経過した普通サイズの2倍くらいの大きさのマラクジャ。
中にたくさん実が詰まっているだろうと思ってこの大きなマラクジャを選んだらしいのだけれど、切ってみると、あらまあ・・・!?サイズは大きいのに中はスカスカ・・・何だか騙されたような気分。本当は目一杯実が入っているはずないのに、一体これはどうしたことだろう?思わず笑ってしまった。
気を取り直して、人参ケーキのレシピで人参の代わりにマラクジャの濃縮ジュースとこの実を使い、パウンドケーキを焼いてみた。この黒い種はコリコリとした食感が特徴。砂糖の代わりにハチミツを使ったからか、甘さがぐんと控えめで、ホイップクリームか何か甘いものを添えて食べた方がおいしいかな?と思った。
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2013年6月16日(日) | ||||
サンパウロのニッケイ新聞が、現在、以下のように記者を募集している。日本からでも応募できるとある。興味のある方はぜひ挑戦してみては?ちなみに、電話番号の一番最初の数字の55は、ブラジルの国番号で、その前にある+の記号は、55というのは国番号ですよということを示すものなので、実際にダイアルするのは55から。日本との時差はマイナス12時間。日本の午後9時はブラジルでは午前9時。ただ、時差だけでなく、深沢さんがデスクにいない時もあるだろうから、電話よりもメールで連絡する方がお金がかからず、簡単だと思う。 『日本語の読み書きに問題がなく、日系社会に深い関心のある人。性別年齢不問。日本在住者からの応募も受け付けます。条件など詳細はメール(nikkeybr@nikkeyshimbun.com.br)まで問い合わせを。もしくは編集部(+55・11・3340・6060/深沢)まで電話連絡を。』 | ||||
2013年6月17日(月) | ||||
この金曜日にボトゥカトゥに買い物に行った後、パーディーニョの町の郵便局に郵便物を取りに行ったら、2013年6月15日発行の「楽書倶楽部」第18号が届いていた。以下は、この「楽書倶楽部」第18号に掲載された私の寄稿文のコピー。
ある日曜日の朝かかってきた電話に出た父が、電話口で狂喜しているので、一体何が起こったのかと驚いた。それは遺骨収拾団の一員としてフィリピンから戻った先輩からの電話だった。 フィリピン滞在最後の日にフィリピン陸軍主催の夕食会があり、たまたま隣の席に座った元フィリピン陸軍大将夫人に、早稲田大学を卒業したバレーボール選手で、広島出身のサエキアキラさんを知りませんかと、尋ねられたという。それはまさに父のことだった。尋ねた本人もまさかその初老の男性が父のことを知るはずもないと思いながらも、いつもの癖で聞いてみただけだったので、知っているという返事に驚いたようだった。 戦時中、父はフィリピンにいた。バギオやセブでの任務の後、一九四四年(昭和十九年)一月に、パナイ島キャピスの部隊本部の直轄小隊長兼通信・暗号担当に配属された。部隊本部での仕事を終え、夕方将校宿舎に帰る途中、毎日のように同じ場所で待っている十歳くらいの男の子、ドドイがいた。背が高く、腰から長い日本刀を下げ、颯爽と馬に乗る若い日本人将校の父は憧れの存在だったらしく、そのうちにふたりは仲良くなった。一緒に遊んだ後、父がドドイを宿舎に連れて帰り日本式の風呂に入れたり、お礼にドドイが姉の作ったお菓子を持ってきたりしているうちに、父はドドイの家に招待されて出入りするようになる。ドドイの家は、祖父も父もキャピス州の州知事をしたことがあるような家柄で、祖父、両親、姉五人と、親を亡くした従兄弟の十人家族だった。 夕食が終わると毎晩のように将校宿舎を抜け出していた父は、ある日部隊長に見つかってしまう。正直にその家族のことを話すと、自分も連れて行けということになり、以後、部隊長や他の将校たちも出入りするようになった。家族と日本軍将校たちとの交流の様子は、ドドイのお祖父さんの日記の随所に見られる。 お祖父さんは、一九◯五年(明治三十八年)から一九五二年(昭和二十七年)まで、四十七年間一日も欠かさずスペイン語で日記を書いていた。一九八◯年(昭和五十五年)に、ドドイの一番上の姉ディヴァにより、記憶されるべき家族の歴史として、一九四四年三月から十月までの八ヶ月間が英語に翻訳され、印刷製本され、家族や親戚に配られている。 そんなキャピスでの状況が一変したのは、アメリカ軍がフィリピンに上陸してからだった。ある日の午後、しばらく会っていなかった家族を心配して父が様子を見に行くと、家はもぬけの殻になっていた。そして、ちょうど家の裏手にある川に止めた小舟に荷物を積んで出ようとしていたお祖父さんが、憲兵に見咎められているのに出くわした。キャピスの憲兵隊には将校はおらず、父の方が階級が上だったため、父の口添えで見逃してもらったような恰好になり、以来、家族は父に助けられたとずっと恩義に感じていたらしい。何しろお祖父さんが運ぼうとしていたのは、山の中での避難生活に必要な食料などだったのだから無理もない。それから間もなくして、家族は山の上から日本軍の船が港を出たところで撃沈されるのを目撃している。当然のことながら、その船に乗っているはずの父も戦死したものと思っていた。 前述の元フィリピン陸軍大将夫人は、その長女ディヴァだった。戦死したと思っていた父が生きていることがわかり、フィリピンの家族の間でも大騒ぎになった。何度かのやり取りの後、父と母と私の三人は家族を訪問するためにフィリピンへと旅立った。 戦後三十五年を経て、彼らの祖父はもちろん両親も亡くなっていたけれど、六人姉弟はみな健在で、父との再会を涙を流して喜び、一族総出で大歓迎してくれた。父にとってはすばらしいセンチメンタルジャーニーとなり、母と私にとっては初めて会う人たちだったにも関わらず、まるでずっと昔から知っていたような錯覚を覚えるほど懐かしく、忘れられない訪問になった。 以後、父は六人の姉弟に宛てて、毎年クリスマスカードに手紙を添えて出すことを欠かさなかった。毎年十二月になると、父から手紙の翻訳を頼むという連絡がきた。フィリピンからは長女のディヴァが生前よく手紙をくれた。そして彼女の長男のヴィップがバレーボールをやっていた関係で、日本に何度か来ることがあり、その都度、広島の両親を訪ねてくれたり、他にも何人かの家族の訪問があり、こちらからも再訪したりと、交流は続いた。
「死ぬ前にもう一度フィリピンに行って、家族に会いたい」という父の願いは、残念ながら叶えることはできなかった。ただ、父が亡くなる半年前に、急に日本に一時帰国する用事ができた際、もう次の機会はないかもしれないと思いヴィップに連絡すると、私たちの帰国日程に合わせて、都合をやりくりして奥さんと一緒に広島まで来てくれたので、父はとても喜んでくれた。期せずして、これが最後の親孝行になってしまった。(おわり) | ||||
2013年6月18日(火) | ||||
エリゼウは本当に器用な人で、先週のレッスンに来た際、彼がいつも使っている眼鏡のフレームが竹に変わっていて、自分で作ったのだと言う。これまでにトンボのヤジロベイのような飾りや、ウクレレのような小さなギターなどを作っているのだけれど、今度は眼鏡フレーム!微妙な曲線もうまく出して、ネジもすべて竹で作ってあるのだから恐れ入った。
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2013年6月19日(水) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2013年6月18日付け「日系社会ニュース」からの転載。日曜日の朝届いた広島の兄からのメールには、「眠いのに朝4時から見た日本VS.ブラジルは0ー3の敗戦で、そのあと12時からの中電VS.廿日市FCの県リーグ首位攻防戦は1ー5の敗戦と、今日はついていません」とあった。
【ブラジリア=酒井大二郎記者】国際サッカー連盟(FIFA)主催の『FIFAコンフェデレーションズ杯2013』が15日、首都のエスタジオ・ナシオナル・デ・ブラジリアで開幕した。開幕カードとなった日本対ブラジルの試合(3対0でブラジルの勝利)には、6万人以上の観衆が詰め掛け、日本からもサポーターが応援に駆けつけた。会場では、それぞれのチームのファン同士が一緒になって記念撮影する様子や、日本代表のユニフォームを着たブラジル人の姿が目立つなど、友好的な雰囲気が漂い、両国の関係の良好さを改めて示す一戦となった。 「ブラジルに関わり始めてもう40年近くなるかな。簡単に言葉にすることが出来ないほど大きな存在」と話すのは、静岡県在住の杉本昭太郎さん(78、静岡)。水産業社の代表として、マグロの買い付けのため、毎年のようにサントス港に通った。サッカー観戦暦は「(78年の)アルゼンチン大会から全てのW杯を現地で観戦している」という大ベテラン。 この日は40年来の友人で「日産自動車(現横浜Fマリノス)への移籍に関わった」という元ブラジル代表のジョゼ・オスカー・ベルナルジとその家族らとともに来場。スタジアム前で仲良く肩を組み、それぞれのチームの健闘を誓い合った。 揃いのブラジル代表のユニフォーム姿で来場したのは、ブラジリア在住の島袋リカルドさん(48、三世)一家。日本代表の印象を聞くと、「ジッコが(日本代表の)監督をしていた頃はよく情報が入ってきたんだけど…」と苦笑い。それでも「ブラジルの次に応援しているよ。やっぱり日本は好きだからね」とエールを送った。 満員となったスタジアムの8割以上がカナリア色で埋まる中、日本代表の青いシャツを着たブラジル人の姿もちらほら。他のブラジル代表サポーターからの記念撮影に応じていたのが、日の丸の鉢巻に数世代前の日本代表ユニフォームという、一際目立ついでたちのパウロさん(43)=ブラジリア在住=だ。 「2006年の(ドイツ)W杯で、日本とブラジルが対戦した時、現地で日本ファンと交換したシャツがこれ。それ以来日本が好きになった」と笑顔で語ったが、試合予想を尋ねると、下に着込んだ〃BRA4―1JAP〃と書かれた黄色いシャツを見せながら「日本には悪いけど、今回もドイツの時と同じ(1対4で日本が敗戦)だね」とユーモアたっぷりに語った。
リベルダーデの東洋会館でも日系人ら約150人が試合を見守った。 リベルダーデ商工会(池崎博文会長)、IPK(小林ヴィットル代表)が観戦イベントを主催、TVグローボ、バンデイランテス、NHKなど日伯の主要メディアも取材に訪れた。 ブラジルが得点するたび大きな歓声を上げつつも、日本チームを応援する参加者も多かった。 アレサンドロ・アゾーニさん(43)は「日本は健闘した。上手くはなっているんだけど、ツメが甘いね」と感想を述べ、歌手の平田ジョーさん(45)は「どちらを応援していいか心が二つに割れた。だけどブラジルの方がちょっとだけ上かな」と複雑な心境を覗かせた。 在聖総領事館の中山雄亮副領事(32)は「強い! の一言。ただでさえ強い相手のホームで戦うのは凄いプレッシャーだったと思いますが、力の差が出たということでしょうか」と残念顔を見せていた。 | ||||
2013年6月20日(木) | ||||
はるは今日で丸8ヶ月になった。体重は5.9キロ。5キロくらいから体重の増加はかなり減速して横ばい状態になり、月に1キロ増ということはなくなった。だいぶ意思表示ができるようになり、夜中や早朝に目が覚めてオシッコに行きたいという場合、「ヒー、ヒー」と、か細い声を出して知らせるようになって久しい。これはモビと一緒に暮らして学んでくれたのだろうと思う。昼間は玄関マットの上に行って座り、オシッコという合図を送ることが増えた。そして、食べ物を前にして「待て」というこちらの指示に従って、少し待つことができるようになった。私たち3人で暮らしている限りは、だいぶおだやかに私たちの生活のペースに合わせることができるようになったけれど、外から人が来ると興奮して、もう一瞬たりともじっとしていれない。そのため英語のレッスンで生徒さんたちが来ると、台所のテーブルの脚にひもを巻きつけて、勝手にうろうろ歩き回ったり、飛びついたりしてレッスンの邪魔をしないようにしなければならない。そのうち静かになるものの、それもせいぜい1時間くらいしかもたない。そして、静かにしていてもタスキがけのひもをかじって、脱出を図ることもある。こちらの言うことがわからないわけではないのだけれど、遊びたい盛りのはるはなかなか言うことを聞いてくれない。それにつけてもモビは本当によく私たちの言うことを聞き、手のかからないいい子だったなあと思う。 次の写真は、居間の陽溜りのベッドの中でデレーっと寝ているはる。そして、その寝顔のアップ。最後の写真は、お昼寝から起きたところをパチリ。
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2013年6月21日(金) | ||||
今、ブラジルでは各地で大規模なデモが広がっている。昨夜のTVニュースでは、サンパウロ、リオ、ブラジリアからの生中継でデモの様子を伝えていた。このデモはそもそもサンパウロのバス料金の値上げに反対する人たちが、3週間ほど前に始め、それが飛び火して、リオでも同じようにバス料金の値上げに反対するデモが始まり、あれよあれよと言う間に、ブラジリアその他の都市にも拡散したもののようだ。当初は特定のオルグが先導していたのかもしれないけれど、今では自然発生的に学生など若い人たちを中心に、子供連れの家族を含め、ありとあらゆる人たちがデモに参加して、コンフェデレーション杯やW杯でお金の無駄遣いをすることへの反対や、政治不敗や現政権への不満などを訴えている。ブラジル人はサッカーが大好きなので、W杯などを受け入れる事自体に反対しているのではないかもしれないけれど、ブラジルではこういう大規模プロジェクに大量の資金が注ぎ込まれると、その多くはどこかに(大抵は政治家の懐に)消えてしまう現実があるので、それに反対しているのだと思う。そして、おもしろいことに現政権の労働者党など政党の横断幕などを持ち込もうとするグループはデモから排除しているらしい。まるで「ブラジルの春」と言ったところだ。多くのデモ参加者は平和的に参加しているようだけれど、中には混乱に乗じて破壊行為をしたり商店に侵入して商品を盗む輩もいるので、困ったものだと思う。昨日のTV中継でも、デモ参加者が火をつけたのかバスが燃えていた。でも、一方で消化器を持ってきて火を消そうとしている人などもいて、混沌としている感じだった。これらのデモが今後どうなるのか、そして社会にどのような影響を及ぼすことになるのか目が離せない。 次の写真は、先週エリゼウが持ってきてくれたミツバチの巣。この竹の巣の出入り口のトンネルが輸送中に取れてしまったので、入り口に見えるハチたちはトンネルの再生作業をしているようだ。エドソンの話だと、これはジャタイよりもさらに小さく、黒い色のミツバチなのだとか。世界で一番小さなミツバチなのではないかと言っていた。それにしても、中が空洞になっているかららしいのだけれど、ここのミツバチたちは竹の中に巣を作るのが好きなようだ。
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2013年6月22日(土) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2013年6月21日「コラム 樹海」からの転載。同じく昨日の別の記事では、この24日から予定されていたジウマ大統領の日本公式訪問が、この長引いて収拾のつかなくなっているデモのためにキャンセルになったという報道もあった。 『「目覚めよ、ブラジル!」との紙を掲げて行進する数万人の若者の大半は、すでに〃目覚めた〃中上流の子弟が多いように見える。何に目覚めたかといえば、政治家の汚職、治安の改善、初等教育の充実、国民の数割を占める文盲者の根絶、無料保険制度SUSの充実、道路・港湾・空港整備などの最優先課題が、左派政権になっても遅々として進まない中で、W杯という見世物には大金を投じている現実に―だろう▼伯国はこの10年ほど、BRICsという幻想の中で、右肩上がりの経済成長期を生きてきた。この幻想を打ち砕き、〃目覚め〃させたのは4月のインフレ高騰だった。あそこから政権批判が一気に高まり、ジウマの支持率は急激に落ち、PTを見限ったその若者層が今回のデモの中心になった。この現象からは1990年前後に被った超インフレへの恐怖心が、今も国民には根強く残っていることが分かる▼注目すべきは、PTの支持基盤たる北東伯でもデモが起きている点だ。経済発展に伴って中流階級が増え、ようやく教育を受けた青年らがまず敏感に現実に目覚め、一般市民が追随した。若いブラジルが社会として成熟するための、重要かつ正常な過程を踏んでいると感じる▼バス賃値上げ撤回を聖州知事や同市長が宣言したことで収束に向かうか、または別の運動に変質していくのか、まだ見えない所だ。いずれにせよ、来年のW杯本番、大統領選挙では更に大きなうねりになるだろう▼興味深いのは、ジウマ大統領自身が40年前にはこの種の学生運動の最も過激な部分にいた人物だった点だ。もしや今回のデモ首謀者MPLから40年後の大統領が生まれるかも。(深)』 | ||||
2013年6月23日(日) | ||||
今日は朝から雨。ただ、雨足は強くはなく、そぼ降る雨と言った感じ。昨日はいいお天気になり暖かかったけれど、今日は気温が下がり、日差しがないため、何だかちょっと冷える感じがする。こんな時は薪ストーブの出番。日差しがあると、はるの午後からの居場所は居間の陽溜まりなのだけれど、今日のような日差しのない日の居場所は、薪ストーブの前。モビもそうだったけれど、はるも暖かい場所が好き。次の写真は、今朝撮った庭の桜の木。4本の内、左側奥の1本は植えた時期が1年くらい遅いので、まだ小さいけれど、他の3本はだいぶ大きくなり、特に一番右側の木は去年よりも葉を落として、たくさん花芽が出てきているので、今年は去年よりも多くの花が見られるのではないかと、楽しみにしている。
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2013年6月24日(月) | ||||
4月~5月の2ヶ月間、週三日の集中レッスンを終え、スウェーデンでの林業用機械の国際フェアに行っていたジミーとジェフが無事に帰国。集中レッスンを始める前に、スウェーデンから戻ったら週一回のレッスンを続けたいと言っていたけれど、その言葉通り、先週の月曜日からレッスンに戻ってきた。スウェーデンでのフェアはとても良かったけれど、食事はどうもいまいちだったよう。毎食ご飯ではなくジャガイモが出て、朝から生のサーモンが出たと言って苦笑していた。スモークサーモンの間違いではないかと聞いても、生だったと言い張っていた。やはりブラジル人にはご飯と塩味の煮豆がないと物足りないんだなと思った。ふたりとも30代で若くて元気な人たちだけれど、さすがに長旅と時差ボケでとても疲れたと言っていた。次の写真は、ストーブの前で毛布に包まっているはる。この毛布はモビが使っていたものなので、洗った後もモビの匂いが染み付いている。それで、はるにとって初めての冬を暖かく越すために、精神安定剤として、この毛布を使わせることにした。モビと一緒にこの毛布の中で寝ていた頃のことを思い出しているかなあ・・・?
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2013年6月25日(火) | ||||
日曜日からこっちお天気が良くない。連日濃い霧が出て、日曜日は午前中が雨で、月曜日は午後遅くから雨。今日も雨。肌寒い日が続いている。6月になってから薪ストーブの煙突が屋根裏の煙突につながり、使えるようになったので、以来、お天気の悪い日やちょっと寒い日は、朝からストーブに火を入れいる。このストーブで燃やす薪は、我が家建設の途上で出た廃材。家の南東側に使わないで積み上げられているレンガなどと一緒に、廃材も一ヶ所にまとめて置いているのだけれど、ストーブがそれほど大きくないので、小さなものから使っている。時々それらをシュハスコ小屋のかまどの下などに移動させて積み上げて、雨に濡らさないようにしておいて、家の中に持って入った廃材がなくなると、エドソンがそこに取りに行って、火を絶やさないようにしてくれている。大きく長い廃材もたくさんあるのだけれど、それらは小ぶりに切ってからでないと使えないので、今のところ小さなものから利用している。次の写真は、シュハスコ小屋のかまどの下や前に積み上げた廃材。
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2013年6月26日(水) | ||||
ポルトガル語でブラジル人のことをブラジレイロ(brasileiro、女性の場合はブラジレイラ)と言う。でも、イタリア人のことはイタリアーノ、アメリカ人のことはアメリカーノ、メキシコ人のことはメキシカーノ、インド人のことはインジアーノと言う。そこで疑問に思うのは、何故ブラジル人をブラジリアーノではなく、ブラジレイロと呼ぶのか?だ。ブラジルがブラジルと呼ばれるようになったのは、パウ・ブラジルという木に由来するということは有名な話。黄色い花の咲くこの大木からは、赤い染料がとれるため、ヨーロッパの国々、特に、フランスなどはこの染料を求めてブラジルにやって来た。当時、繊維を赤く染めることは難しく、赤く染めることのできるパウ・ブラジルは貴重だったらしい。その木を伐採して切り出す過酷な仕事をしていたのは、ヨーロッパから送られてきた囚人たちで、ブラジレイロと呼ばれていた。つまり、ブラジレイロとはそのパウ・ブラジルの伐採・切り出し作業をする人たちを指し、一種の差別用語だったのだ。でもこの言葉は、何故かそのままブラジル人をひっくるめて呼ぶ言葉になったというのが真相だという。 ポルトガル語で中国のことはシナ、中国人のことはシネーズと言う。世界の国々がシナとかチャイナと中国を呼ぶ一方で、日本が中国のことをシナと呼ぶと差別用語になるというのもおかしな話だと思う。差別用語から出発したブラジルのブラジレイロが、今では普通に使われている一方で、元々は差別用語でも何でもなかったシナを、日本だけは使ってはいけないと中国は言う。言葉の変遷というのはおもしろいものだと思う。 | ||||
2013年6月27日(木) | ||||
2週間くらい前、ボトゥカトゥのスーパー、パオン・ジ・アスーカーに行った際、たくさんランの鉢植えを販売していたので、あまり高価でないものを2鉢ほど買って帰った。シオックやドナ・ベティからいただいたランが、水やりをするくらいでほったらかしにしていても、長い間花を咲かせ、一旦咲いた花が終わった後も、しばらくするとまた花を咲かせてくれた経験から、私もエドソンもランの花がすっかり気に入ってしまった。パオン・ジ・アスーカーでは様々な種類のものを販売していたけれど、大きなものは50レアル前後(約2500円)もして結構高いので、22~3レアル(約1100円)と手頃なものを買った。ダイニングルームの棚の上に飾っているのだけれど、お天気が悪く外がどんよりと暗くても、この花があると家の中が明るくなる感じがして、なかなかいい。写真の左側の白い花はDenphalaenとあるのでデンファレのことで、右側はPhalaenopsisとあるのでファレノプシスというのかな?と、勝手に解釈している。
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2013年6月28日(金) | ||||
一昨日はるが家の中で3回もオシッコをしてしまった。朝食後のお散歩から戻って、エドソンにシャワールームで体を洗ってもらった後、私がドライヤーではるの体を乾かし、自由になって少しして、午後は運動不足解消のために追いかけっこなどをして遊んでいる最中に1回、そして、夕食前のお散歩の前にもう1回。これまでにも、もうそろそろ外に連れ出さなくてはと思いながらも、忙しさに紛れてタイミングをはずしてしまった時など、気がつくと玄関マットの上でオシッコしてしまったりすることが時々あったけれど、1日に3回もシャーッと本格的にオシッコするなんて記録的!しかも、外にオシッコに行ってからまだそれほど時間が経っていない間隔でのオシッコだったので、参った。お天気が悪く、なかなかお散歩に出られないからとか、寒いからという理由が考えられるのだけれど、本当のところは何故だかよくわからない。でも、とりあえず寒さ対策として、フィオナが使っていたセーターをはるに着せて暖かくして、なるべく頻繁にオシッコに連れ出すしかないか・・・?モビもフィオナもセーターを着せても全然嫌がったりしなかったけれど、はるはセーターを噛んだりして、何とか脱ごうとしばらく抵抗した。フィオナのセーターは、はるにはまだちょっと大き過ぎるのだけれど、大は小を兼ねるから、まあいいか・・・
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2013年6月29日(土) | ||||
昨日は、6日ぶりにお天気が回復し、太陽が顔を出した。外気温も午前中にすでに20度で、暖かい1日になり、洗濯、掃除に勤しんだ。ここは冬の間は乾季で、雨はそれほど降らず、湿度の低い爽やかなお天気が続くはずなのに、6日も雨が降り続いてちょっとうんざり。でも、薪ストーブを使っているお陰か、ガレージで仮住まいしていた時のように、そこらじゅうカビだらけという状況には少なくともならないことはありがたい。そして、今日もいいお天気。ただ、予報ではまた明日から2日間くらい雨になる模様。 以下は、ニッケイ新聞2013年6月28日付け「コラム 樹海」からの転載。 『ジウマ大統領が学生運動家だった60年代後半、治安警察(DOPS)に逮捕された時に撮影された調書の写真は有名だ。デモ隊の中には、その写真の横に「我々の戦いはまだ終わっていない。コンパニェイラ(同志)よ、共に!」と書かれた紙を掲げた若者の姿が新聞に掲載された。分厚いレンズの眼鏡をかけた若き日のジウマは、まったく飾りっけのないボザボサな髪型をしている▼その彼女があれから40数年後、26日付けフォーリャ紙にテレビ演説前に毎回3125レアルもの公費を調髪化粧費として払っていると批判された。月に一度は首都ブラジリアを訪れ、ジウマ大統領のヘアメイク(調髪化粧)を担当する専属スタイリストは日系三世のセルソ・カムラさんだ(12年9月20日付けに詳細)▼今回のテレビ演説前にもカムラさんは首都に行っており、「私の日課は1万レアルなの。でも大統領はお得意さんだから安くしているのよ」とヴェージャ・サンパウロ誌サイトの取材に余裕のコメントを返している。「大統領専属」との肩書きのためには普段は無料で調髪し、特別な時だけ金をもらうとか▼新聞雑誌の大半は数十万部程度の伯国では、全世帯の90%以上が所有するテレビの影響力の大きさは計り知れない。今の政治家にとってテレビ映りは何よりも重要だ。カムラさんは「私が調髪化粧したのはテレビ演説の前の日。当日は自分で化粧直しをしているはず。もう一人でも立派なもの」と賞賛し、「でもあの時、大統領は寡黙で神経質そうだった」とも▼「髪は女の命」ともいうが、ジウマの髪型の変遷は長い月日の間に変わった何かを象徴しているのか。(深)』 | ||||
2013年6月30日(日) | ||||
土曜日の英語のレッスンに、ダニエラとガブリエラは今のところ休まず、通ってきている。この子たちのレッスンの依頼があった同じ頃、私がいつも髪のカットでお世話になっている美容師のエディナがパウロを通じて、娘をレッスンに通わせたいと言ってきていたので、年齢は15~6歳と少し上だけれど、一緒のクラスに合流しないかと連絡をした。ぜひ行かせると言っていたのに、前もっての話し合いにも、初回のレッスンにも姿を見せないので、てっきり気が変わったのだと思っていた。そうしたらそれから3週間ほどして、エディナの娘の同級生の母親から電話があり、「うちの娘もエディナの娘と一緒に通わせたい」と言ってきた。ダニエラたちはもう3回のレッスンを済ませているので、ちょっと困ったなと思ったのだけれど、「最初のレッスンは30分くらい早めに来てください」と頼んで、その30分で少し遅れを取り戻そうと考えた。でも、先週から来ると言っていたのに何の連絡もなくレッスンに来なかった。ダニエラの話だと、その子の母親はダニエラの学校の先生で、その日はどこかに行くと言っていたという。まあ急な用事ができたのなら仕方ないけれど、連絡くらいしてよねと思った。そして、昨日こそはレッスンに来るのかと思っていたのだけれど、やはり何の連絡もなく来なかった。ここの人たちのこういう何を考えているのかわからない、言葉と行動の不一致は私にはいまだにどう理解したらいいのかわからない。本当にレッスンを受ける気があるのか?と、とても疑問に思う。ダニエラたちはもう5回分のレッスンを終えて、テキストも15ページまで進んでいるので、今更彼女たちを合流させることはできない。さてどうするかなあ・・・?次の写真は、昨日のレッスンで、練習問題に取り組んでいるダニエラとガブリエラ。
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