Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2013年5月1日(水)

イビウーナの中村さんからのメールに、2種類のお役立ち情報があったので、以下にコピーしてみた。

国立がんセンターの「がん情報さがしの10ヵ条」

1、情報は“力”。あなたの療養を左右することがあります。活用しょう。いのち、生活の質、費用などに違いが生じることもあります。
2、あなたにとって、いま必要な情報は何か、考えてみましょう。解決したいことは?知りたいことは?悩みは?メモに書きだして。
3、あなたの情報を一番多く持つのは主治医。よく話してみましょう。質問とメモの準備して。何度かに分けて相談するのもよいでしょう。
4、別の医師の意見を聞く「セカンドオピニオン」を活用しよう。他の治療法が選択肢となったり、今の治療に納得することも。
5、医師以外の医療スタッフにも相談してみよう。看護師、ソーシャルワーカー、薬剤師なども貴重な情報源です。
6、がん拠点病院の相談支援センターなど、質問できる窓口を利用しましょう。がん病院、患者団体などに、あなたを助ける相談窓口があります。
7、インターネットを活用しましょう。わからないときは、家族や友人、相談支援センターに頼みましょう。
8、手に入れた情報が本当に正しいかどうか、考えてみましょう。信頼できる情報源か、商品の売り込みでないか、チェックして。
9、健康食品や補完代替医療は、利用する前によく考えましょう。がんへの効果が証明されたものは、ほぼ皆無。有害なものもあり要注意。
10、得られた情報をもとに行動する前に、周囲の意見を聞きましょう。主治医は?家族は?患者仲間は?あなたの判断の助けになります。

「医者に騙されない がん治療9つの心得」
ーー近藤誠著「『余命3ヵ月』のウソ」からーー

1、元気なのに「余命3ヵ月」「余命半年」はありえない
2、治療をしなくとも、人はがんですぐには死なない
3、検診で「がん」と言われても、簡単に信じてはいけない
4、リンパ節まで切り取っても、がんは治らない
5、CTやレントゲンの放射線量には要注意
6、どんながんにも、複数の治療法や対処法がある
7、セカンドオピニオンは、違う病院の違う診療科で
8、「免疫力を上げる」が口癖の医者には要注意
9、転移しても、苦痛がなければ様子を見るのがいちばん

2013年5月2日(木)

昨日はメーデーで休日だった。それで毎週土曜日にうちの手伝いにきてくれるふたりのジョゼは一緒に魚釣りに行く予定にしていたのに、水不足でここ数週間トラブっている我が家の窮状を見かねて、その予定をキャンセルして、昨日も井戸作りの作業に来てくれた。ありがたい限り。先週の土曜日の朝には、エリゼウが給水タンクを満杯にしてトラクターで運んで来てくれたお陰で、何とかしのげている。私たちの周りにおしみない支援の手を差し伸べてくれる人たちがいることに心から感謝。

2013年5月3日(金)

以下は、ニッケイ新聞2013年4月12日付け「コラム 樹海」からの転載。

『県連故郷巡りの一部がSC州都フロリアノーポリスへミニバスを借りて出かける追加ツアーに加わった時、サントアントニオ・デ・リスボアという鄙びた海岸に寄った。伯人ガイドの「ここには島最古の石畳がある。18世紀中頃、島で最初に文明化された場所の一つ」との言葉を聞き、ピンとくるものがあった▼ここが若宮丸漂流民4人を乗せてきたロシア軍艦が1803年に停泊した場所ではないかとガイドに聞くと、その歴史自体を知らず、ガッカリした。1793年に石巻を出港した「若宮丸」が難破して16人がロシアに流れ着いた。うち4人を乗せたロシア軍艦が嵐に遭って破損箇所を修理するためにデステーロ港(現フロリアノーポリス)に立ち寄ったとの歴史で、初めて世界一周した日本人先駆者たちだ▼『埋もれ行く拓人の足跡』(鈴木南樹、67年)で確認すると、やはり「おそらく北口から進航して今日のサント・アントニオ・リスボーア付近に錨を下ろして停泊したものと思われる」(10頁)と指摘している▼だがニッポ・カタリネンセ協会サイトで確認すると「サンタナ要塞近くに停泊」とあった。古い大橋のたもとに建っている建物だ。南樹の指摘する地点で小舟に乗り換えて、要塞に上陸したとも考えられる▼宮城県には「石巻若宮丸漂流民の会」が01年に創立し、同州都側にも若宮丸協会が11年に発足した。州都セントロの文化センターに記念碑はあるが、肝心の同要塞にはなにもないという。7月に創立60周年式典をする宮城県人会と協力して、最古の日伯関係210周年を記念し、地元伯人にも知れ渡るような何かができないか。(深)』

2013年5月4日(土)

去年は家の南側の三角地帯に植えたカラの成長があまりはかばかしくなく、小さなカラがほんの少し収穫できただけだったけれど、今年は、三角地帯だけでなく、畑にもカラを植えたら、両方とも元気にたくさん大きな実をつけているので、最近少しずつ収穫して食べ始めている。カラは芋の一種なのだけれど、ヤム芋や里芋のように地面の中で実をつける根菜ではなく、つる性植物なので、添え木を登っていって、実をつける不思議な植物。皮をむくとちょっとヌメヌメして里芋のような感じ。芋の色は白ではなく、皮の色よりも少し薄い程度なのだけれど、皮をむいて空気に触れるとすぐに薄茶のような紫色のような色になる。調理後の味や食感は里芋とあまり変わらないので、里芋の代用のようにお料理して食べることができる。でもこのカラは商品として市場には出回っていないので、都会の人たちはこの土着の野菜について知らないという人が少なくない。

2013年5月5日(日)

木曜日の夜、アチバイアのデマーコから電話があり、土曜日に訪ねて行ってもいいかというので、往復5時間あまりドライブして土曜日に日帰りするのは大変だから、金曜日の夜ここに着くようにして、土曜日はゆっくりして、午後ゆとりを持って戻ったら?と、エドソンが提案。それで、金曜日の夜10時頃うちにやって来た。彼らが到着してから、お茶を飲みながら12時半頃までおしゃべりをして、就寝。土曜日はうちの作業を手伝ってくれているふたりのジョゼを迎えに行かなければならないし、はるのオシッコとウンチがあるので、私たちは6時起床。7時過ぎにふたりが起きてきたので、食卓を囲んでゆっくりとおしゃべりを楽しみながら朝食(以下の写真)。その後、森の中の井戸のところや、丘の上のモビのお墓などにみんなでお散歩をしたり、ベランダの椅子に腰かけておしゃべりしたりと、のんびりと過ごした。1時半頃からまたゆっくりとお昼ご飯を食べて、午後4時過ぎにアチバイアに向けて帰って行った。

デマーコとシオックはとてもいい人たちで、話題が豊富なので、おしゃべりがとても楽しい。デマーコは半年くらい前にガンであることがわかり、放射線治療や抗ガン剤治療を受けているので、坊主頭になっていて、少し年をとった印象はあるけれど、比較的元気にしていたので、ちょっと安心した。どうしてこんないい人たちが、ガンを宣告されて辛い思いをしなければならないのか?と、思うけれど、彼らは悲しみを乗り越えて、前向きに残された人生を精一杯生きようとしている。彼らの人生の中に、私たちもこのように関わっていられることは、私たちにとっても幸せなことだと思った。シオックは彼らの3人の子どもたちがみな結婚して、孫たちの顔を見るまではデマーコに生きていてほしいと言っていた。その気持ちとてもよくわかる。

2013年5月6日(月)

次の写真は、土曜日の午後、お昼ご飯の食卓でそれぞれデマーコとシオックが撮ってくれ、日曜日に送ってきてくれたもの。私が撮って昨日掲載した朝食時の写真は光の加減で少々暗かったので、この送ってきてくれた明るくきれいな写真も掲載することにした。お昼の献立は病気療養中のデマーコの体調を考慮して、お肉料理ではなく、セイント・ピーター(ティラピア)のムニエルと、茹で野菜のフレンチドレッシング和え、そして、きゅうりの酢の物とご飯という比較的あっさりしたものにした。

昨日の夕飯は、前々から約束していたジェラウドとホザが来てくれ一緒に食事をした。前回、焼きそばを作ると約束していた日はとても寒むかったので、急遽予定を変更して体が暖まるトマト風味のポトフにしたため、今回あらためて約束通りに焼きそばを作った。それにみそ汁ときゅうりの酢の物を加え、デザートはホザが作って持ってきてくれたレモンパイをいただいた。彼らも犬好きで、フィロというメス犬と一緒に暮らしているので、モビの思い出話しをたくさんたくさんした。この週末は千客万来で楽しい週末になった。昨日の午後お天気が崩れて気温が下がり始め、今朝はぐっと冷え込んでいる。

2013年5月7日(火)

ペトロポリスの安見さんが、『文化祭「食文化」の準備として、勉強会第二回目を実施しました』と、また写真をたくさん送ってきてくださった。今回はカツどん、てんぷらうどん、ソーメン、餅(アマ醤油、きな粉)、雑煮、餅入りお汁粉、お茶とようかん。どれもおいしそう。写真から推測すると、日系の人たちがお料理を作って、非日系の人たちが見学した後、一緒に試食という形の勉強会なのかな?

2013年5月8日(水)

安見さんは、Facebook上で、ペトロポリスでの活動を積極的に発信していて、私もFacebookへの登録のお誘いをいただいたのだけれど、エドソンと私はFacebookなどのソーシャルネットワークサービスには参加しない方針にしているので、登録していない。それで時々、こうして写真を送ってきてくださるので、ありがたく、楽しく拝見している。次の写真は4月中旬に安見さんが行かれたAndre Rielのコンサートの写真。クラシック音楽は眠気が出るものだけれど、この音楽会はとても楽しかったとメールにあった。こんな立派なコンサートはやはりリオやサンパウロだけのものだろうなあ・・・。多分ボトゥカトゥでは見られない。私たちはブラジルに来てから映画ですら一度も行ったことがない。ボトゥカトゥにはとても古い映画館が1軒だけあるらしいのだけれど、この辺の人たちにとって、映画はビデオを借りて見るものになっているような気がする。でも、私たちはここでビデオを借りたこともない。それでも欲求不満にならずに暮らしてこれたのはモビのお陰だと思う。現在ボトゥカトゥの入り口の手前の辺で、ゆっくりと建設準備が始まっているショッピングモールが完成した暁には、シネマコンプレックスができるそうだから、いろいろ便利になるのではないかなと期待している。

次の写真は、4月に行われた夜のマラソン「Night Run 5Km」に参加された際の写真。3Kmが砂地で、あと2Kmがアスファルトというコースで、砂地はものすごくきつかったそうだ。8千人位が参加したイベントだったそうで、娘のエリカさんやペトロポリスのお仲間と一緒に参加されて楽しそう。

2013年5月9日(木)

この火曜日は、車の定期点検でアヴァレのトヨタに行ってきた。定期点検が済むのを待つ間、アヴァレのセントロで買い物をしたかったので、はるを朝一番でペットホテルのヴィラ・シーコに預け、その足でアヴァレに行き、夕方、帰宅する前に迎えに行った。はるはヴィラ・シーコで思いっきり遊んだ後は、とても満足するようで、帰路は前回同様とてもおとなしく、家に帰ってからも自分のベッドで横になって静かにしていたり、寝る時間になって、はるのベッドを私達の寝室に移して寝る準備をしていたら、寝なさいと言う前に自分からベッドに入っていたのでおもしろいものだと思った。今回ヴィラ・シーコではドトーラ・ジャナイーナのお母さんと妹さんが仕事をしていた。前回1週間続けて泊まっているので、皆はるのことをよく知っていて、とても良くしてくれるのでありがたい。次の写真は、ヴィラ・シーコの受付とロビーの一部。

次の写真は、外の庭から見たヴィラ・シーコの建物。真ん中の赤い壁の建物の1階に広いロビーや受付やシャンプーやグルーミングのための部屋などがあり、2階がドトーラ・ジャナイーナの家族の自宅になっているようだ。左側の建物は受付から続いているペットクリニックの診察室や手術室のある棟。右側の建物が、はるたちが泊まる際の宿泊施設。

次の写真は、宿泊施設の内部で、前回はるが泊まった部屋。

ヴィラ・シーコのことをもっと詳しく見てみたい方は、こちらへ

2013年5月10日(金)

水曜日の午後、ドトーラ・ヴィットリアのペットクリニックのポリヴェットで、はるは去勢手術を受けた。最初の生理が始まる前に手術することで、乳ガンなどの病気を防ぐことができるということで、前々から予定されていたことではあるけれど、モビを亡くしたばかりなので、ちょっと不安がないわけではなかった。でも、モビのこともよく知っているドトーラ・ヴィットリアは、二重、三重に気をつかってくれ、無事に手術を済ますことができた。今回の手術の麻酔医師は、大学病院で時々見かけていた日系3世のドトーラ・リディアだった。モビの治療では彼女とはまったく関わりはなかったけれど、私たちは大学病院の常連だったので、彼女も私たちのことを憶えていてくれ、モビが2年余りの治療の甲斐なく亡くなったとエドソンが話したら、日本から来て慣れない生活で大変なところにもってきて、愛犬まで亡くして大変でしたねと、優しい言葉をかけてくれた。手術の後、エドソンがはるをベッドごと抱きかかえて帰宅。モルヒネを打ってもらっているので、強い痛みはないようなのだけれど、気分はいまいちのようで、ずっとベッドの中でおとなしく寝て過ごしていた。次の写真は、水曜日の午後帰宅してから、居間の横のドアの前に置いたベッドの中で横になっているはる。

水曜日の夜、私たちの夕食が済んでから、ご飯を食べるかな?と、モビのために買っておいて、結局モビが食べることのなかった術後の回復期に食べる缶詰の特別食を与えてみたら、ちゃんと食べてくれたので、一安心。そして、翌日の木曜日の朝は、目が覚めると、いつものように寝室内で元気に飛び跳ねるので、その回復ぶりにびっくり。でも、その後は、またベッドの中や居間の横のドアの前の敷物の上の日だまりで、ゴロゴロとして過ごしていた。1週間くらいはお散歩はせず、おとなしく静養しなければならないので、超活発なはるがおとなしくしていられるだろうかと不安に思ったけれど、今のところおとなしく静養してくれている。次の写真は、木曜日の朝、ご飯を食べているはる。ちゃんと食欲がある。はるが着ているワンピースの服は、お腹の手術の傷跡をはるがなめないように、回復するまでの1週間着せておかなければならないのだけれど、これを着ているはるは、何だかとてもセクシーで可愛い。うまい具合にお尻の部分は開いているので、これを着たままオシッコやウンチができるようなデザインになっている。

2013年5月11日(土)

以下は、ニッケイ新聞2013年4月17日付け「コラム 樹海」からの転載。ブラジルの日系人はアメリカの日系人のように戦時中、内陸の不毛の土地に造られた強制キャンプに強制収容されるようなことはなかったけれど、サントスなどサンパウロ州の東海岸に住む日系人はこのコラムにあるように強制退去を強いられた歴史がある。そして、日系社会の指導的な立場にあった人たちは有無をいわせず連行され、リオデジャネイロ州の沖にある島に拘束された。アメリカほど大規模なものではなかったけれど、ブラジルでも似たようなことがあったのは事実。戦争になると人や国は狂気に走るという教訓がここにある。

『身近な割に起源がよく分からない食べ物に、パステルがある。まるで空気を食べているような独特の食感は〃フェイラの味〃として広く愛されているが、あれは東洋系移民が持ち込んだものらしい▼『百年史』第3巻548頁には、戦前は「パルテル屋=中国系というエスニック・イメージで捉えられていた」とある。中国系移民が持ち込んだ揚げ物を起源とするとの説だ。それによれば戦前のサントスには沖縄系移民が集住しており、多くが中国系のパステル屋で働いて生計を立てていたが、大戦中の1943年7月7日、海岸地域から日本移民やドイツ系が強制立ち退きさせられた。彼らが聖市に出てフェイラでパステルを一般化させたと説明されている。パステルの美味しさの裏には、〃悲しい歴史〃という苦い調味料が利いていた▼ちょうど70年前の七夕、日本移民約6500人もが24時間以内のサントス強制立ち退きを命ぜられた。『南米の戦野に孤立して』(岸本丘陽、曠野社、1947年、40頁)には「家も商品も家財道具も何も彼も一切を放棄し、羊の大群が追われてでも行くようにほんの着のみ着のままで、小さな手廻り品だけを持つ女達、子供の泣き叫ぶ声、老人のうめき声、兵隊の叱咤の声、長蛇のごとき堵列は追われるように鉄道線路へと引かれて行き、そこで貨物同様に汽車に積みこまれ」たとある▼岸本はこれを《大南米におけるわれらの「出埃及(エジプト)記」》(同42頁)と譬えた。虐げられていたエジプトからユダヤ人が脱出する苦難の物語は旧約聖書で読み継がれているが、日本移民の〃出サントス記〃も書き残されるべきではないか―と思った。(深)』

2013年5月12日(日)

2週間ほど前、サンパウロの岡井さんからお電話があった。ブラジル日本移民百周年記念協会が「ブラジル日本移民百年史」の最後の巻を刊行したという記事がサンパウロ新聞にあったから、連絡をして「香山文庫」に寄贈してもらってはどうかということだった。5巻4冊あって、1冊100レアルあまりするらしいので自費で購入するのはちょっと厳しい。それにサンパウロの書店に行かなければ買うことはできない。でも、どこの誰だかわからない私が厚かましく寄贈してくださいと言って、相手にしてくれるだろうか?何と言ってお願いすればいいだろう?と数日悩んだ。インターネットでサンパウロ新聞の記事を検索して読んでみると、編纂・刊行委員会の委員長は「楽書倶楽部」の同人の方だったので、少し気を強くして、岡井さんに教えていただいた電話番号に電話をしてみた。すると電話に出た事務局の女性は日本語がわからず、日本語がわかる人は今出かけているという。それで、メールアドレスを教えてもらい、メールで趣旨を説明して、「香山文庫」への寄贈をお願いしてみた。驚いたことに、同じ日の夕方、早速事務局の方からメールが来て、「喜んで寄贈します」というご返事をいただいた。感謝!感激!香山さんのことも、当然のことながらご存知だったので、私の心配は杞憂に終わった。そして、すぐに発送の手配をしてくださったようで、先週の金曜日(3日)に郵便局に行ってみると、すでに小包が届いていた。こんな分厚い立派な本を全巻寄贈してくださり、本当に感謝!感激!編纂作業はさぞかし大変だっただろうなと思いを馳せた。

2013年5月13日(月)

先月の27日(土)にサンパウロで楽書倶楽部の懇親会があった。でも、出欠の返事をする期限の3月末時点で、モビの手術を控えていて、4月がどういう展開になるか予想がつかなかったし、毎週土曜日は自前の水確保のための作業が続いていたので、残念ながら欠席と返事をした。当日は30人ほどの同人が集まり盛会だったよう。同人の方たちは主にサンパウロとその周辺の町にお住まいのようだけれど、私のようにサンパウロから遠く離れた町や、ミナス・ジェライス州在住の方などもいて、同人全員が集まれたわけではない。でも、これだけ勢ぞろいしている写真を見ると迫力があるなと思った。

2013年5月14日(火)

我が家の庭には、秋になると小さな白い花をたくさん咲かせる木が数本ある。ご近所の日系コーヒー農家のタケイシさんからもらって育てた木なのだけれど、名前は知らない。木が大きく育つほどに木を被うように花盛りになり、とても壮観。この木の右側にあるのはラベンダー。北海道のラベンダーは初夏が最盛期だけれど、ここでは夏はまだ花はほとんどなく、元気がなく、秋から冬にかけて最盛期となり、楽しませてくれる。

次の写真は、ランドマークの木の側の、来訪者向け駐車スペースの端っこで花を咲かせている野草。これまで見かけたことのない草が成長してきていたので、そのまま抜かずにほっておいたら、5月に入ってこんな黄色い花を咲かせ始めた。

2013年5月15日(水)

次の写真は、我が家で収穫したカラ(下)とシュシュ(上)。去年はあまり大きく育たず、たいした収穫もなかったけれど、今年は大きなものが次々収穫できて、うれしい悲鳴をあげている。左側のカラは大きく成長する前に地面に落ちてしまった成長不良のものなのだけれど、去年収穫できたのはこれと同じように小粒だった。でも、今年は右側のカラのように普通の大きさに育っている。シュシュは左側が普通の大きさで、右側は健康優良児。

カラは市場に出回っていないと以前書いたけれど、シュシュは、スーパーでも普通に見かける。特別強い味はないので、ジャガイモと似たような感じでお料理に使うことができる。次の写真は、シュシュをサイコロ状に切ってから茹で、その後ネギ、ニンニク、塩、コショウ、オリーブオイルで和えた一品。温サラダのような感じでお肉の付け合わせとしておいしくいただいた。

2013年5月16日(木)

次の写真は、火曜日の夕飯に作ったカラとハムとブロッコリーの炒め物。カラはいつも里芋を使うメニューに里芋の代用として使うのだけれど、里芋よりも硬いのでまず最初に茹でてから使う。茹でたカラにフライパンで焼き色をつけて、ハムと茹でたブロッコリーを加えて混ぜ、塩、コショウ、ニンニクでさっと炒めた一品。後で、お醤油をちょっとたらしても良かったかな?と思った。皮を剥いたカラはうっすら黄緑色で、空気に触れると皮を剥いて長時間ほったらかしにしておいたリンゴのように酸化して変色する。そして水につけると灰汁が出る。調理をした後は、ちょっと黄色っぽい色になる。でも味や食べた感触は里芋とあまり変わらない。

火曜日の夜は、この夕飯の準備ができて、さあ食べようという時になって電気がついたり消えたりする不安定な状態になったので、ブレーカーを落として、暗い中ろうそくを灯して食事をした。穏やかなお天気続きなのに、どうして電気のトラブル?と、不思議に思った。エドソンが電力会社に電話をして音声案内ガイドに従って、トラブルを報告。翌朝には直っていることを期待したのだけれど、水曜日の朝もやはり相変わらずの状態なので、朝食後にエドソンが自転車でカロリナ・ソイルのところまで様子を見に行ってくれた。カロリナ・ソイルに異常はなく、カロリナ・ソイルからこっちでトラブルが発生していることがわかった。我が家の入り口ゲートを出てすぐのところにあるマタブホの側の電線の下で、ワシのような大きな鳥が死んでいたので、どうやらこの鳥が電線にぶつかって、電気をショートさせたらしかった。カロリナ・ソイルのゲートが閉まっていたので、お隣のオリベイラ鉄工所の電話を借りて、電力会社に電話を入れて、再度対応を依頼。午前10時を過ぎてようやくトラブル解消。自然の間近で暮らしているとこんなこともあるんだなあ・・・。「電線に小鳥が止まっていても感電しないみたいだけれど、どうしてあの鳥は感電したの?」とおバカな質問をエドソンにすると、「電信柱の電線は2本通っているでしょう?1本だけなら触れても感電しないけれど、2本同時に触れると感電するんだよ」という返事。「へえ~、そうなの?」

2013年5月17日(金)

以下は、ニッケイ新聞2013年4月25日付け「コラム 樹海」からの転載。ブラジルの人は平気で嘘をつく人が少なくないけれど、その一方で親切な人も多い。そう言えば私も、めったに行かないサンパウロで、地下鉄で移動中、2~3回席を譲られたことがある。日本では一度もそんな経験はなかったので、高齢者でもない私が譲ってもらっていいものかどうか、最初はちょっと戸惑ったけれど、エドソンが「座りなさい」とサインをくれたので、遠慮なく座らせてもらったことがある。話はちょっと飛ぶけれど、旅行口コミサイトのトリップアドバイザーが、過去1年間外国人観光客から投稿された口コミでの評価をもとにまとめた「外国人に人気の日本の観光スポット2013」という記事を先日インターネットで見かけたけれど、何と、第1位は広島平和記念資料館で、厳島神社も第4位に入っていたのでちょっとびっくり。さらに広島県では厳島神社と原爆ドームが世界遺産に登録されていて、外国人観光客が多いので「ミシュランガイド広島2013特別版」が発刊されたというニュースも今週あった。以下の記事を広島の人たちはどう受け止めるだろうか?

『どの国でも一長一短ある。その国に住む外国人にとっては悪い部分が見えやすく、滞在国の悪口をいうのはどの国の人でも同じ。異国で同胞意識を深め合う作業でもあるのだろう。良い部分に目を向けると、当国においては市民の素直な好意に高評価が集まる。「ブラジル人は金のかからないことには親切」という皮肉屋の言葉はさておき▼老人や妊婦、子連れへの地下鉄における対応には感服するばかり。レストランでも子供連れは従業員や他の客の慈愛に満ちた視線に包まれる。日本社会の不寛容さも手伝って若い母親が育児ノイローゼになる話を聞くと悲しくなるばかりだ。子供を身体障害者に置き換えても同じこと▼現在、開催中の「ひろしま菓子博」での対応が大きな話題を呼んでいる。実行委員会が電気車椅子での入場を禁止。理由は「暴走する可能性があり危険」だとか。抗議を受けて平日のみ、後日、全日程で許可したが「混雑時は手動式に乗り換えること」が条件だ。今も全面受け入れを求める抗議文が届いているという。まるでジョークだ▼ブラジルでこんなことがあり得るだろうか。誰かが提案した段階で一笑に付されるだろう。うんざりすることも多いこの国だが、いいなあと心の底から思えることも多い。身体障害者が堂々と生き、それを普通のこととして受け入れる姿だ。それに気づくのもマイノリティに厳しい日本を知っているからだろう▼初の被爆地であり「国際平和都市」を掲げる広島には、国外からの観光客も多い。この判断が国際的に理解されると思っているのだろうか。広島市民も理解に苦しんでいると思いたい。(剛)』

2013年5月18日(土)

ずいぶん前に台所の窓用に、ブラインドを買ったのだけれど、窓の周りの壁がタイルで、窓の両側にタオルを掛けるためのフックを取り付けていたりするので、ブラインドの取り付けが難しいことがわかり、結局、取り付けを断念。以後、短めのカーテンを突っ張り棒に通して取り付けたいと思いながら、その突っ張り棒が見つからないため、ずっとほったらかしになっていた。先週の火曜日にアヴァレのトヨタに行った際、セントロのお店でようやく突っ張り棒を発見。同時にタオルやベッドシーツなどを売っている別の店でカーテンを購入したので、台所の2つの窓にようやくカーテンを取り付けることができた。次の写真は、カーテンを取り付けた後の流し台の前の窓。今の時期は太陽が北に傾いているのでこの窓から強い日差しは差し込まないけれど、春から夏にかけてはこの窓から差し込む朝日が顔に直接当たってまぶしく暑いので、これで顔が焼けずに済むようになった。感謝。

2013年5月19日(日)

以下は、ニッケイ新聞2013年4月24日付けのニュースからの転載。

『両親の離婚、海外移住、養父母との生活、そしてホームレスのシェルターへ―。あらゆる困難を乗り越え、日系三世のラファエル・ユキオ・クスキさん(20)は今年3月、念願の愛知大学入学を果たした。「ザ・ジャパン・タイムス」が報じた。

クスキさんは現在、「のわみ相談所」(愛知県一宮市)が運営する、ホームレスや生活困窮者向けのシェルターに住んでいる。20代、60代の男性二人との相部屋で、学習机もないが、「いい環境。施設に入れて良かった」と語る。

両親はクスキさんが生まれる前、ブラジルから同県豊橋市に移った。彼が小学校にあがる前に離婚し、母親は彼が中学校を卒業後、オーストラリア人と再婚した。

3人でオーストラリアに住んだが、新しい家族に馴染めず、1年半後、兄夫婦を頼って一人で日本に「帰国」。無職で収入がない兄の下、愛知県立知多高等学校に通い勉学に励みながら、1杯のカップヌードルでその日の飢えをしのいだ。

やがて兄との関係が悪化し、高校1年の夏、児童センターで紹介された養父母の下に移った。しかし、自宅での勉学を禁じ、働くことを強制する養父母との同居は楽なものではなかった。クスキさんはラーメン店とコンビニエンスストアでのアルバイトを掛け持ちし、深夜まで働いた。布団の下で見つからないよう勉強する時間だけ、「色々な問題から自由になれた」と話す。

高校では優秀な成績を収めるも、同年2月に疲労から肺炎を患い、入院。夏に退院後は、児童福祉センターで紹介された一宮のシェルターに身を寄せた。

同居人に迷惑をかけまいと、学校に通う電車の中で学業に励む日々。そんな彼の努力は、3月8日、愛知大の合格通知によって報われた。「何度も断念しそうになった」と長い道のりを振り返った。』

さらに、ニッケイ新聞2013年4月26日付けのニッケイ社会ニュース「大耳小耳」には、以下のような記事もあった。

『数々の逆境を乗り越え愛知大に合格したラファエル・ユキオ・クスキさんのジャパンタイムスの記事を、昨日本紙のフェイスブックに掲載。すると、わずか一晩で2300人以上が閲覧したことが分かった。普段のアクセス数は200人程度なので編集部一堂ビックリ。在日韓国人のファンからも「胸が熱くなった」とコメント。某大手新聞記者は「地方紙でも全国紙でもなく、英字紙が報道するとは…考えさせられる」との感想を書き込んだ。それをさらにブラジルの邦字紙が翻訳、報道してこの反響だ。多くの日本人に知ってほしい事実だ。』

2013年5月20日(月)

はるは今日でちょうど生後7ヶ月になった。先々週の水曜日(7日)に去勢手術をする前に測った体重は5.5キロだった。先週の火曜日に無事抜糸をしてもらい、着ていたワンピースをようやく脱いで、いたって元気にしている。次の写真は、はるお得意のお腹丸出しのポーズ。お腹の手術痕がまだはっきりと見える。最近はこんなふうにベッドの中で大の字になるとベッドからはみ出すほどになっているので、ずいぶん大きくなったなあと、あらためて感じる。

モビは何故かヨガマットが好きで、私がヨガマットを広げると隙を見てマットの上によく座っていたりしたものだった。はるも私がストレッチをしようとヨガマットを広げると必ず寄ってきて、「どいてちょうだい」と言ってもなかなかどいてくれず、私が仰向けになってストレッチを始めると、足元に来て座り込んだり、腕のところまで来て私の体の上に上がってこようとしたりする。何かおもしろそうなことを始めたと思って、一緒に遊びたいのだろうけれど、ストレッチの最中に私の手や足がはるにあたるのでちょっと困る。次の写真は、その証拠写真。ヨガマットの上の私の足元のところにいるはるをパチリ。

2013年5月21日(火)

今年はたくさん獲れるカラを消費しなければならないので、どんな献立でカラを料理しようかと頭を悩ませている。先日はカラとベーコンの炊き込みご飯を作ってみた。鶏ガラスープ、しょうゆ、酒、みりんで味付けし。炊飯器で炊く際バターをちょっと乗せてからスイッチオン。思いの外おいしくできて、エドソンの評価も上々だったので、満足、満足。

2013年5月22日(水)

去年の12月、クリスマス用に購入して部屋に飾っていた鉢植えのポインセチアを、1月にダイニングルーム下の花壇に地植えした。1年前に同じように鉢から庭に地植えしたポインセチアは、植えた時かなり弱っていて、枯れはしなかったけれど、葉を落としてずっとひょろひょろと貧弱で、何とか生きながらえているような状態だったので、今回は、赤い葉が落ちた後、完全に弱ってしまわないうちに植え替えてみた。すると数日前小さな赤い葉が出てきているのを発見。

ポインセチアの葉を赤くするためには、日本では10月頃1ヶ月ほど袋を被せて暗い環境の中に置いておかなくてはならないという新聞記事を、ずっと昔に読んだことがあるけれど、ここでは何もしないのに赤い葉が生えてきている。そう言えばパラカンビで暮らしている頃、人の背丈以上ある背の高い地植えのポインセチアが6月、7月の冬の時期に赤い葉をつけているのをあちこちで見たことがあった。ブラジルでは特別なことをしなくてもポインセチアの葉は赤くなるんだ・・・。次の写真は、1年前に庭に地植えにしたポインセチア。こちらも赤い葉が出てきている。これを植えた時、足元のアメンドインはまだここまで伸びてきていなかったのだけれど、今ではアメンドインに埋もれそうになっている。でも、アメンドインはブラキアーリアと違って、他の植物の成長を助けることはあっても、殺すようなことはしないので、葉の緑も濃く、小さいながらも元気そうにしている。

2013年5月23日(木)

以前、ここでは秋になっても木々が紅葉せず、落葉する木はいつの間にか葉が落ちて裸になるだけと書いた。今日はそれをちょっと訂正。冬に花を咲かせる準備として、最近桜の葉が少しずつ黄色くなり、落葉を始めてる。ただ、木がまだ若いせいか、日本で見るように木が丸裸になることはなく、去年7月に花が少し咲いた時は、落葉せず残っているたくさんの葉に隠れて花が咲いているような状態だった。そして、丘の峰沿いに防風林の列のひとつとして植えたカエデの葉も最近黄色くなり始めている。去年はまだひょろひょろだったので、葉の数も少なく、葉が黄色くなったりはしなかったけれど、今年はだいぶ大きくなっているので、たくさんある葉の一部が黄色く色づき始めている。でも、これもおそらく葉がすべて黄金色に染まることはなく、緑の葉と黄色い葉が共存して冬を過ごすのではないかと思う。次の写真は、グレヴィーリャの木の側から西北の方角を向いて撮ったもの。カエデの列の向こう側は桜の列。そして、そのさらに向こう側にセドリーニョの列が2列。この右側のカエデの右側に、モビのお墓がある。

次の写真は、上の写真のカエデをもう少し近くから撮ったもの。この苗木を買ったとき、ブラジルではカエデと言っても普通は紅葉したりしないけれど、いろいろあるカエデの種類の中で、この種類だけは葉が紅葉すると苗木屋さんが言っていたけれど、ちょっと半信半疑だった。でも、今年は本当に色が黄色くなり始めている。

2013年5月24日(金)

以下は、ニッケイ新聞2013年5月3日付けの「コラム 樹海」からの転載。先日アヴァレのセントロで買い物をした際、「象印」の保温ポットがあったので買った。値段はこの辺で普通に手に入るポットよりもかなり高かったけれど、保温力などの品質は比べ物にならないくらい象印のポットの方がいい。値段が高いのは高い輸入関税がかかっているからなのだけれど、品質のいい日本の家電をブラジルで現地生産してくれれば、安く手に入るのにと思うのは私だけではないと思う。以下の記事の中の、トルタというのはパイのことで、フェイジョアーダというのは煮豆のこと。炊飯器で煮豆を作るのは、可能かもしれないけれど、パイはどうかな?ボロ(つまり、ケーキ)の間違いじゃないだろうか?

『10年前まで「電気炊飯器」といえば、ブラジル人からすれば「東洋街の日系商店にしか売っていない奇妙なエスニック製品」というイメージだった。「便利だよ」と勧めても、「ご飯はなべでニンニクと炒めてから炊くもの。専用の炊飯器などムダ」と言われたものだった▼ところが先日、聖市内の某ショッピングの大手家電販売店に入ったら、入口にズラッと売り出し中の炊飯器が並んでいて驚いた。日本の会社でなく、みな当地の会社だ。それを見て、ブラジル社会が急激に変化している軋み音が聞こえた気がした▼大都市では核家族化が進み、夫婦共働き増加を背景に、例の家政婦正規雇用法が決定打となって炊飯器が普及しだしたのではないか。しかも売り場には「炊飯だけでなく野菜調理にも」との謳い文句が踊る▼本来は、昔から東洋街では幅を利かせている「象印」などが地道に営業して一般社会に販路を広げていれば、今ごろ当国市場を独占していたかも――と思うと、ちょっと残念だ▼思えば20年前からデカセギは日本で炊飯器を使っており、それで「トルタやフェイジョアーダを作った」との話をよく聞いていた。その時は「一体どうやって?」と思い、ブラジル人の発想は「実に自由だ」と半ば呆れながら感心したものだった。でも今こそ、そんな経験を持つデカセギからアドバイスをもらって「伯人向け炊飯器」を開発したらどうか▼日本の炊飯器を使い慣れたデカセギが4年で10万人も帰伯している。日本の製品を知っている彼らが口コミで一般市場に広げれば、「家政婦の代わりに日本家電を」という突破口にならないか。(深)』

2013年5月25日(土)

昨日、今日、はるをヴィラ・シーコに預けて、アチバイアのデマーコのところに行く予定だったのだけれど、月曜日の夜、デマーコから電話がありキャンセルになった。今月上旬うちに遊びに来る以前に受けた検査の結果が出て、抗ガン剤治療の効果がまったく出ていないことがわかったので、これまで3週間に1度だった治療が、金曜日から薬を変えて、週に1度行われることになったという。治療が始まり、薬を投与された後、どんな体調になっているか予測がつかないので、とりあえずキャンセルさせてほしいということだった。週に1度の抗ガン剤治療だなんて、モビが受けていた10日に1度の治療よりも頻度が高い。副作用から回復する間もないような短い間隔なのでとても心配。PETを含めあらゆる検査をしたのにガンの本体がどこにあるのかまったくわからず、胸骨や肝臓にあるガンは本体から派生した副次的なものなので、根本的な治療ができないのがそもそもの問題らしい。そんなことってあるのか?敵の居場所がはっきりしないというのは何とも歯がゆい。とにかく、辛く苦しい思いだけは最小限に止める治療であってほしいと心から願う。次の写真は、エドソンのワークスペースの机の下のパワーサプライの上で寝ているはる。この上が暖かいからなのか、危ないからダメと何度言っても、気がつくとここに座っていたり、こんなふうに丸くなって居眠りしていることがよくある。本当にはるはおかしな子だ。

2013年5月26日(日)

水曜日にお天気が崩れて雨になってから、気温がぐっと下がり寒くなってきた。まだ暖房を入れるほどではないけれど、長袖のババシャツの上にタートルネックのシャツを着て、その上から厚手のカーディガンを着て、冬の寒い時期と同じように着こんでいないと寒いと感じる。幸い、土曜日はいいお天気になり、昼前から暖かくなったので、戸外の太陽の下ではカーディガンなしでも過ごせるくらいだった。そして、今日もいいお天気になった。ただ水、木、金と3日も太陽が顔を出さず、寒かったので、金曜日の夕飯はチーズフォンデュで暖まることにした。いつも書いているように、サンパウロ州の田舎の人たちの食は保守的で代わり映えがせず、変わったものを食べないのだけれど、何故かこの寒くなる時期が近づくと、ボトゥカトゥのスーパーのパオン・ジ・アスーカーでは色々な種類のインスタントのチーズフォンデュやホーローのフォンデュ鍋などが店頭に並ぶ。それで以前から寒くなったら我が家でもチーズフォンデュをしようと思っていて、先日ハーブ風味のものを買っておいたので、それに白ワインを少し入れて溶かしてフォンデュを作ってみた。ここの人たちはフランスパンしか食べないけれど、私たちはブロッコリー、アスパラ、ニンジン、ベビーコーン、ジャガイモも用意した。フォンデュ鍋は20年近く前、アメリカ時代に買って以来使っている鉄製のもの。ホーローではないので、後の始末がちょっと大変なのが玉にキズ。でもこんな丈夫な鉄鍋を捨てるわけにもいかず、ずっと使っている。

2013年5月27日(月)

以下は、ニッケイ新聞2013年5月8日付け「コラム 樹海」からの転載。「国破れてサンバあり」う~ん・・・実に言い得て妙。深沢さんの書くコラムは、いつもとてもおもしろい。

『「BRICs」の名付け親ジム・オニール(ゴールドマン・サックス投資会社会長)が4月末の引退会見で「伯国には失望した」と発言し、話題になった。ここから透けるのは、世界的投資銀行ですら伯国の本質を見抜いていないという事実だ。失望すべきは、同社の分析力か▼同標語が広まった01年当時、最もピンと来ていなかったのは当の伯国民だった。膨大な対外債務を抱え、99年にはミナス州のイタマル・フランコ知事(前大統領)が対連邦政府債務モラトリアム宣言を発し、国内の金融危機が深刻化したすぐ後だった。地に落ちていた国際的信用をいかに回復するかというレベルの状況だ▼BRICsと聞いて当地知識人は、高名なユダヤ系作家ステファン・ツヴァイクが『未来の国ブラジル』(41年)を書き、将来有望な「未来の大国」であると欧米に紹介したことを思い出した。同本以来、国民は《永遠の「未来の大国」》だと自嘲するようになった▼92年に民族学者の梅棹忠夫と前山隆静岡大学教授が対談した時も、梅棹は「未来の国なんだけども、その未来にどうしてたどりつけるかが問題なんで、永遠にたどりつけないのかもしれない」と言い、前山は「いくたびにブラジルは変わってますよ。変わってますけれども、救いようのない点も姿を変えたままちゃんとあります(笑)」と応じた。経済専門家より文化人類学者の方がこの国を深く理解している▼「国破れてサンバあり」との国民性はそう変わらない。「Antes tarde do que nunca」(譬え遅れても来ないよりは良い)という当地の格言がある。〃永遠の未来〃でも、いつか来れば良いのだ。(深)』

2013年5月28日(火)

以下は、ニッケイ新聞2013年5月8日付け日系社会ニュースからの転載。

3・11以後の新移住者=パラグアイのイグアスへ
=「放射能汚染が怖い」=素晴らしい移住地に感謝

『放射能汚染から逃れて南米へ――3・11東日本大震災の後、比較的永住権を取得しやすいパラグアイには日本からの新来移住者がやってきている。中でもイグアス移住地には昨年5月に5人が移住し、今年もう一人が増える予定だという。現地通信員の澤村壱番さんの協力により、3・11後の新来移住者の移住動機、経緯などを聞いてみた。

「直接に被災した訳ではないが、震災がなければ移住はなかった」。昨年5月にイグアス移住地へ移った5人は、そのように動機を語った。

その一人、倉田美穂さん(46、東京)は3・11まで東京都で普通に整骨院を営んでいた。「震災までは、まさか自分が移住するなんて考えたことなかった」と振り返る。12歳の子連れのAさん夫婦(40代前半)も同様だ。来月には同夫婦の母も移住する予定。 倉田さんは「チェルノブイリ原発事故と比べても、福島の方が汚染数値が高いことが分かった。自宅があった東京都でさえ、チェルノブイリの非常区域より数値が高い地区があり、ここにいれば健康に異常をきたすのではと恐ろしくなり、東京からの脱出を考えるようになった」という。

もちろん最初は国内転居を想定したが、日本は地震大国で原発が散らばっていると気付いた。「食品にも影響が出てきている日本よりも、いっそのこと海外の方がいいのではないか。将来を考えたら今のうちに日本を離れた方がいい」と思うようになったという。

その頃、倉田さんは飲み水をわざわざ九州から取り寄せ、四六時中マスクをつける生活に「限界を感じていた」という。同様に整骨院で同僚だったAさんも「子供の健康を考えたらとても日本は無理」と判断していた。

残る一人は入内島(いなじま)理絵さん(38、東京)だ。大気汚染された東京が嫌で千葉に引っ越し、自給自足の生活を送る準備をしていた入内島さんだったが、もろにその場所が震災で放射能汚染におかされてしまい困っていた。互いの心配に共感し一緒に海外移住を真剣に考えるようになった。

移住先をネットで探す毎日を送る中、偶然テレビでパラグアイを紹介する番組を見た。「こんな素晴らしい場所があるのかと感激し日系移民について調べた」という。その結果、パラグアイが比較的永住権がとりやすく、日本語が普通に通じ、日本食が食べられることなどからイグアス移住地に決めた。同日本人会に相談したところ、「一度下見に来てください」との返事をもらい、11年12月に実際に訪問した。倉田さんは「想像以上に素晴らしい環境だった」と感動し、翌12年5月には移住した。

住居や仕事の問題があり、最初の半年間は首都アスンシオンに住んで永住権申請などをして生活を送っていたが「言葉の壁にストレスを感じる毎日だった」と思い出す。

全ての準備が整い、永住権身分証明書取得のめどが立ち、12年末に移住地に移った。「日本語が通じて外国とは思えない」との評判どおりで、現在は整体医療院を開業し移住地の人が連日、患者として通っている。

倉田さんは「こんな素晴らしい移住地を作ってくれて本当に感謝している。死ぬまでここで生活していきたい。地域に溶け込み、仕事も生活もがんばっていきたい。これからも移住地の一員としてよろしくお願いします」と語った。海外移住を迷っている日本の人に対しても、「勇気を出して一歩踏み出すことが大事。ぜひ1度この場所に自分の足で立ってほしい。ただし覚悟がなければ絶対に無理だと思う」とアドバイスした。』

2013年5月29日(水)

土、日とお天気が良かったのに、月曜日にまたお天気が崩れ、ぐずつく1日になった。そして火曜日はさらに輪をかけてお天気が悪化、ほぼ1日中雨が降り続き、何だかとても寒く感じられたので、夕方とうとうガスストーブをつけ、この秋初めての暖房をすることになった。今朝は雨は止んだものの、相変わらずの曇り空で、強い風が吹いている。

入り口ゲートの両サイドに2本ずつ植えたプリマヴェーラ(ブーゲンビリア)は、1本を除いて、みな枯れてはいないまでも、葉もほとんどなく、まったく成長が止まった感じで、去年は春になってもまったく花を咲かせなかった。それなのに、もうそろそろ冬というこの時期になって、左右の1本ずつが花を咲かせ始めたので右側のプリマヴェーラの写真に撮ってみた。プリマヴェーラはある程度成長すると、ほぼ1年中花を咲かせているので、今花が咲いていても不思議ではないのだけれど、一応、咲き始めはその名前の通り、「プリマヴェーラ=春」ということになっているので、この遅咲きは一体どういうことなんだろう?と、不思議に思っている。ただ単に、ブラキアーリアに被われていた時間が長かったので、成長を阻害されていただけなのか?ご近所のカロリナ・ソイルのフェンス沿いに植えられたプリマヴェーラは、だいぶ大きく成長して、色とりどりのきれいな花を咲かせているけれど、我が家の入り口ゲートのプリマヴェーラが咲き乱れるのはいつのことになるやら・・・。以下の写真は日曜日に撮ったもの。

2013年5月30日(木)

以下は、長年の韓国ウォッチャーである黒田勝弘記者(産経新聞韓国駐在記者)の5月4日付けの記事の転載。

『“アベちゃん”のおかげでこちらも大忙しだ。安倍晋三首相の発言が出るたびに韓国のメディアに呼び出され、弁明や反論をさせられているので他人とは思えない。韓国メディアがいうところの同じ「日本の極右」のよしみから“アベちゃん”と呼ばせてもらう。

今回の韓国の反日は閣僚や国会議員の靖国神社参拝に対する反発から始まり、憲法改正問題や村山談話にかかわる歴史認識などで広がった。

昨年、李明博大統領(当時)の竹島上陸や「天皇謝罪要求発言」で日本世論の激しい反発を受け守勢に回っていた韓国が、ここぞと巻き返しに出ているのだ。

テレビ、ラジオのインタビューや討論に呼ばれて分かったのだが、靖国問題や憲法改正問題への反論や弁明はそれほど難しくない。靖国問題ではいわゆるA級戦犯の合祀(ごうし)を決まって追及してくるが、これに対してはA級、B級、C級合わせ約1千人が合祀されている。

彼らは刑死ですでに罪をあがなっている、国のために殉じた人の霊をまつるのは当然ではないか、日本では「死ねばみな仏」という、韓国人も日本人の国民感情をもっと理解してはどうか…これでだいたいOKである。

憲法改正問題も「普通の国家になるため自前の憲法を作るのだ」という「普通の国家」論で十分対抗できる。韓国人の多くは今の日本の憲法が米国の手でつくられ、軍隊も持てず交戦権もないことなど知らない。マスコミの扇動で「改憲すれば軍国主義になる」とだけ思い込まされているのだ。

しきりに非難される「右傾化」論もそうだ。「右傾化ではなく正常化です。憲法は自分たちで作り、自分の国は自分で守れるよう韓国のような“普通の国”になりたいということですよ」と反論すればそれでおしまいだ。

慰安婦問題でも「日本は何もしていない!」と追及されるが、日本はすでに官民共同の「アジア女性基金」で61人の元慰安婦に償い金を手渡し首相のおわびの手紙も出していることなど、ほとんど知られていない。こんな話を紹介するだけで討論の幅は広がる。

やっかいなのは村山談話問題だ。安倍発言に対し韓国では「侵略否定発言」として官民挙げて非難キャンペーンが展開されているため「過去の戦争を美化するのか、安倍の真意は何か、クロダ記者はどう思うか?」とくる。

「たしかに侵略の定義は立場によって異なる。ベトナム戦争参戦の韓国もあれを侵略戦争とはいわない。日本の大東亜戦争には東南アジアをヨーロッパの植民地支配から解放した効果もあり、日本人の間には過去を侵略一辺倒で語られることに不満の見方がある。

安倍首相は村山談話否定というより過去の歴史について彼なりの談話を出したいようだから、もうちょっと見守ってはどうか」-弁明としてはこんなあたりが精いっぱいである。

それにしても韓国は毎日、日本、日本、日本である。一般の普通の人はもうそんなに日本、日本、日本じゃないのにメディアだけが“日本離れ”できず意地になって反日をやっている。ただ相手は李朝時代の“党争”をはじめ、激烈な論争体質を持つ民族である。揚げ足を取られないよう発言には注意した方がいい。』

この黒田記者の記事を読んでいて、アメリカ人女性学者ヘレン・ミアーズ(Helen Mears)のことをふと思い出した。以下は、ウイキぺデイアに掲載されている彼女の著書『アメリカの鏡・日本』(原題はMirror for Americans: JAPAN)の内容のコピー。このウイキペデイアのサイトはこちらへ

<内容>
日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。

開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。

以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。

また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。

さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合や満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。

実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛である。

2013年5月31日(金)

昨日は、コーパス・クリスティ(Corpus Christi=聖体祭)というキリスト教の祝日でお休みだった。イースターのように聖体祭の日も毎年変化するのだけれど、木曜日というのは変わらない。そのため飛び石連休になる。ただ、パーディーニョでは金曜日も町全体がお休みで4連休。ドナ・ベティのファゼンダでの仕事もお休みなので、ふたりのジョゼが、木、金、土と3日連続でうちに仕事に来てくれることになっていた。でも、今週は月曜日から続いていた悪天候がなかなか好転せず、ようやく今日、仕事に来てもらうことができた。そして幸いなことに午後から太陽が顔を出してくれ、まずまずのお天気になった。

次の写真は、お散歩から戻ってから、すぐに家に入らずベランダで過ごしているはる。ベランダでひとりだけで放っておくと、すぐ椅子の上に上がってこんな具合に辺りを見回したりしている。時には、2つの椅子のアームが隣り合わせになったところでうまい具合に横になって寝ていたりもする。はるは外から人が来ると吠えたりするけれど、警戒して吠えるのではなく、うれしくて、遊んで欲しくて、尻尾をフリフリ訴えかける。だから、本当の意味での番犬とは言えないけれど、一応、戸外の人や動物に反応するので、誰かが来るとすぐわかる。モビも普段は静かで穏やかな子だったけれど、やはり戸外の人の気配には敏感だった。常に常に私たちの傍らで穏やかにしていたモビの存在感は、今更ながらに大きかったなあ・・・と、寂しさがこみ上げてくる。



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