Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2013年4月1日(月) | ||||
先日、ペトロポリスの安見さんからメールをいただいた。今年のペトロポリスの日本文化祭のテーマは「食文化」で、安見さんいわく、「ペトロポリスはサンパウロと違って、日本食といえば寿司、刺身、焼きそばしか知らず、彼らは日本人はこれらを毎日食べていると思っているようなので、展示物準備担当グループへの勉強会をした」ということだった。次の写真は、その勉強会のときの様子を撮影した1枚。
サンパウロ市内には、いろいろ日本食のレストランがあるだろうけれど、サンパウロの人たちみんなが日本食に馴染んでいるわけではないと思うし、個人的に日系家族と親しかったり、親戚だったりする人たちは別として、一般的に日本食と言えば、寿司、刺身、焼きそば、そしてみそ汁というのはあまり変わらないのではないかと思う。3年くらい前にあったボトゥカトゥ文協主催の日本祭りでは、弁当、焼きそば、カレー、天ぷらがあったけれど、天ぷらは安物のうどんやそばに乗ってくる、丸くて薄いかき揚げのようなもので、パステウのように紙に包んで食べていた。ボトゥカトゥには日本食のレストランが2~3軒あるけれど、出しているのは寿司がメインだろうと思う。何しろここで日本食のレストランに行ったことがないので、よくは知らないけれど、日本食レストランに行ったことのあるブラジル人から、お寿司とかみそ汁が好きという話は聞いたことがあるけれど。水炊きやすき焼きを食べたことがあるという話は聞いたことがない。たぶんそんなメニューはないのだろうと思う。そもそも私たちの周りには豆腐が嫌いという人がほとんどだし、野菜を食べない偏食の人が驚くほど多いから、食べ慣れない料理を食べてみようと思う人はとても珍しい部類に入る。だから我が家に人を招待して食事をする際も、作っても食べないだろうと思われる日本食は避けるようにしている。ここの人たちの日々の普通の食事は、お肉とフェイジャオン(肉などと煮込んだ塩味の煮豆)とご飯。非日系のブラジル人の食生活に比べたら、おいしいものは何でも食べる日本人の食生活は本当に豊かだと思う。 それから、エドソンの解説によると、リオ州やミナスジェライス州は、昔、黒人奴隷がたくさんいたから、彼らが手に入るあり合わせの食材を無駄なく、おいしく食べる工夫をしていたので、リオやミナスの食事はバラエティーに富んでおいしいのだそうだ。コミダ・ミネイラ(ミナス料理)がおいしいのは特に有名だ。それに比べると、サンパウロの人たちの食生活はとても保守的で、サンパウロには名物料理と言えるものは何もない。 次の写真は、安見さんが勉強会で用意された朝食メニュー。日本旅館の朝食よりも品数が多くて豪華!様々な器やお皿をたくさんもっておられることにもびっくり。ご飯茶碗とみそ汁のお椀(しかも蓋なし)が4つずつと、水炊きセットくらいしかない我が家とは大違いだ。でも、そもそも我が家の食器が少なすぎるのだけれど・・・
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2013年4月2日(火) | ||||
今日は、大学病院でのモビの手術の日。でも朝からあいにくの雨。昨日、エドソンがシャワールームでモビの体を洗い、手術前日にしなくてはいけない注射をしてくれ、準備を整えた。今晩は何時に戻れるかわからないので、午前中に夕飯を作っておいて、病院で待っている間に食べるためのバナナブレッドやバナナ、おせんべい、ジュースなどを、洗っておいたモビの毛布やタオルと一緒にかごに積め、はるのためのドッグフードもタッパーに入れて準備。11時半過ぎに雨の中を出発。まず、ボトゥカトゥとパーディーニョの間のパーディーニョ寄りにある、ヴィラ・シーコ(ViILACHICO)というペットホテルにはるを連れて行った。ここはドトーラ・ヴィットリアが関わっているもうひとつのペットクリニックで、広い敷地内で大きなペットホテルなどをやっている。ここのオーナーは以前ドトーラ・ヴィットリアのクリニックでモビの歯のクリーニングをしてもらった際、麻酔医師として来てくれたドトーラ・ジャナイーナだった。まだ、できたばかりの新しい施設で広い芝生の庭のあるとてもきれいな所だった。ちなみに料金は、1泊30レアル(1500円弱)。次の写真は、今朝のモビ。手術を受けるため朝食は抜き。木曜日に大学病院で受診した時よりも、腫瘍がまた巨大になってきて、顎の下や顔が腫れてきている。
はるをヴィラ・シーコに預けた後、1時半までに来るように言われていた大学病院に向かう。指定の時間よりも少し早く到着し、手術の準備室に呼ばれるのを待った。予定の時間を少し過ぎて呼ばれ、準備室で麻酔医師の人がモビに麻酔をかける前の注射をしたり、男性インターンの人がモビの上半身左側の毛をバリカンで剃ったり、別の手術スタッフの人がモビの後ろ脚に点滴などをするための針を入れたりした。でも、バリカンが古くて歯が少し欠けている上、続けて使っていると刃の部分が熱くなるため、男性インターンの人が休み休みていねいに毛を剃っていたら、別の女性が新しいバリカンを持ってきて、すごい勢いでガーガーガーとやるので、びっくり。それが終わったらモビの左耳の付け根から出血していたので、文句を言うと、「どうせ左耳は切り落とすんだから関係ない」と返されて唖然。そういう問題じゃないでしょうに!患者に不必要な苦痛を与えて平然としていられるその神経に驚くばかり。 午後2時を少し回って、いよいよモビは手術室に。準備室で何をされてもじっとおとなしくしていたモビがいよいよ大変な手術に向かうのだと思うと涙が溢れてきて止まらなかった。エドソンとふたりで泣きながら準備室から外の患者犬で混雑している待合の廊下に出て、さらに外のベンチに行って座っていると、私たちの泣き顔を見たからだろう、セントバーナードのような大きな犬を連れていたおばさんやチワワを連れていたおばさんが、入れ替わり私たちに大丈夫かと声をかけに来てくれた。動物好きの人たちは人間にも優しい。 午後4時頃、腫瘍はすべて取り除くことができ、モビの状態も安定していて、これから皮膚移植に入るという一報が入った。それから約1時間半後の5時半を回って手術が終了。手術が終わってから、手術を手伝ったレジデントのドトーラ・パウラが状況説明に来てくれ、続いて、手術を自ら執刀してくれたヴァレリア教授が説明に来てくれた。モビは回復室に移されて、すべて順調ということだった。午後4時を回った頃には他の患者犬の診療がほぼ終わったようで、待合の廊下で待っているのは、私たちと同じように愛犬の手術が終わるのを待っている2組の人たちだけになった。その人たちとおしゃべりをしながらモビが麻酔から覚めて、回復室に呼ばれるのを待っていると、7時前後になって術後の合併症でモビの首や顔が腫れてきたので治療していると言われ、不安になる。 8時前後になり、今晩はモビを家に連れて帰らず、ICU施設のある別の民間の病院に行って、集中治療を受けた方がいいということになり、その内の1軒を紹介してもらい、エドソンが電話連絡。ドトー・エマーソンが毛布に包んだモビを抱きかかえて、同行して、状況を説明してくれることになった。大学病院から車で20分足らずのところにある、これもとても新しいオスビタウ・ヴェテリナリオ・ボトゥカトゥ(Hospital Veteriário Botucatu)に行くと、ドトー・フェリピとドトーラ・イザベラというふたりの医師が集中治療の準備をしてくれた。酸素吸入をしながら、心拍数や、脈拍、体温、血中酸素などをモニターするコードをモビの体につけて、体の状態を一晩中モニターして、指定の薬を所定の時間に投与してくれるということで、人間の治療とまったく変わらないのだなと思った。モビのことが心配で、最初は泊まり込むと言っていたエドソンも、ここの対応に安心し、私たちはモビを預けて帰宅した。家にたどり着くと10時近くになっていた。 | ||||
2013年4月3日(水) | ||||
集中治療をしてくれている病院の先生が、いつ電話をくれてもいいですよと言ってくれたので、エドソンは昨晩帰宅してからと、今朝一番に電話をして、モビの様子を問い合わせた。昨日の夜モビを預けた時点で、だいぶ状態は良くなってはいたけれど、夜の間もずっとモビの状態は安定していたようだった。夜の間に2度ほど嘔吐したけれど、これは投薬の影響で普通にあることだから心配ないということだった。モビを設備の整った集中治療が可能な病院に預けることができたので、昨晩は私たちも少し眠ることができた。 今日はモビを集中治療の病院から引き取って、午後大学病院に連れて行かなければならなかったので、モビを迎えに行く前に、お昼前にヴィラ・シーコに寄ってはるの様子を見て、宿泊をもう1泊延長してもらうことにした。ヴィラ・シーコに行くと、はるはドトーラ・ジャナイーナが飼っている2匹の犬と一緒に庭を駆け回り、とても楽しそうにしていたので一安心。これならこれからも必要な時にいつでもはるをここに預けることができる。はるの他にも1~2匹、宿泊している犬がいるようだったけれど、外で自由にドトーラ・ジャナイーナの犬たちと走り回っているのは、はるだけだった。犬の性格を見て、他の犬と仲良くやって行けるようならお天気が許す限り、外で自由にさせているらしかった。次の写真は、庭で走り回っているはるたち。はるのすぐ側に立っているのは、ドトーラ・ジャナイーナのお父さんのセージオさん。このペットホテル兼クリニックはファミリービジネスのようで、彼らはこの同じ敷地内にある自宅で暮らしているらしい。
この後、オスビタウ・ヴェテリナリオ・ボトゥカトゥにモビを迎えに行く。モビは私たちを見ると、ずっと寝たきりだったのに、フラフラと立ち上がってうれしそうに尻尾を振ったので、泣きそうになった。エドソンと顔を見合わせると、エドソンの目はすでに涙で溢れていた。こんなに辛い思いをしているのに、何という愛情深い子だろう。ドトーラ・イザベラの話だと、モビは我慢強い子で、一晩中じっと痛みに耐えていたということだった。でも、痛み止めの薬のお陰で、眠ることはできたらしい。そのためだいぶ普段の表情に戻っていた。次の写真は、集中治療を受けていたケージの中のモビに声をかけているエドソン。その隣の女性は、モビの夜の間の様子を説明してくれているドトーラ・イザベラ。
午後2時からの診察に間に合うように大学病院に行ったのだけれど、相変わらず外科は多くの患者でひっくり返っていて、モビの傷の具合を見て、包帯を取り換えてくれるはずのヴァレリア教授もなかなか来てくれず、3時半頃ようやく傷の消毒と包帯の取り換えが行われた。ヴァレリア教授とドトー・エマーソンがモビの手術跡の消毒をしていると、他の患者を診ていたレジデントの人たちが入れ替わり立ち替わりモビの傷を見にきていた。この処置が終わって、病院から開放されてから、薬局に行き、必要な薬や包帯やガーゼを大量に買って帰った。帰宅したら午後5時近くになっていた。久しぶりの我が家に、モビは満足そうにクンクンと匂いを嗅いでいた。 | ||||
2013年4月4日(木) | ||||
モビはかなり強力なモルヒネのような痛み止めの薬を飲んでいるのだけれど、それでもやはり痛みがあったり、喉の腫れのため狭くなった気道で呼吸が苦しかったり、喉が乾いたり、オシッコに行きたかったりと、絶えずいろいろあって頻繁にベッドから出てくるため、昨晩、私たちはほとんど一睡もできなかった。でも、手術の後は動くことさえできない状態だったのだから、何とか自分の足で立って、フラフラしながらも自力でオシッコに行けるようになり、状態は前進していて、希望が持てることに感謝するばかり。次の写真は、台所のカウンターの上に並んだモビの薬や、包帯やガーゼの山。モビに飲ませる薬が9種類とたくさんあって、しかも、食事の2時間前のもの、2時間後のもの、食事と一緒に与えるもの、8時間ごとの痛み止め2種類を交互にと、とにかくややこしい。投薬を間違えないようにするためにメモを側に置いて、その都度確認しながら、投薬している。
次の写真は、ドトーラ・パウラとドトー・エマーソン。ドトーラ・パウラが着ている黄緑色のシャツは、パンツも同じ黄緑色の手術着で、手術の際は、これまた同じ黄緑色のマスクとキャップで、全身黄緑色になる。ドトー・エマーソンの着ている水色のシャツは、背中に外科レジデントと書いてあるレジデントのユニフォーム。ドトー・エマーソンはいつも元気で、フレンドリーで、笑顔がとても可愛い。
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2013年4月5日(金) | ||||
モビは、一昨日我が家に帰って来てから少しずつ食事ができるようになっている。ただ、食事は普通食ではなく、術後の回復期の特別食で、大学病院でこれを食べさせるようにともらった缶詰。そして、昨日の夜は、前の晩よりも体が少し楽になってきているようで、午前0時の痛み止めの投薬以後は、起き出しても、苦しそうな感じはなく、側に置いてある水を何度か飲むくらいで、オシッコに行きたがることもなく、朝まで比較的穏やかに眠ることができたようだった。そのお陰で、私たちも少し眠ることができた。今日は、モビの術後の状態を再度診てもらうために午前中大学病院に行ってきた。次の写真は、モビの手術をしてくれたヴァレリア教授。ちょうど2年前の4月下旬に、モビは最初の手術を受けたのだけれど、今回は再発を繰り返した後の大変な手術になったからなのか、ヴァレリア教授自らが何度も診察して手術を執刀してくれた。ペットクリニックのポリ・ヴェットのドトーラ・ヴィットリアの話だと、ヴァレリア教授自らが手術をしてくれるというケースはそうあることではないらしく、その上、ヴァレリア教授の手術の腕はとてもいいから、モビはラッキーだということだった。でも、2年前の最初の手術をヴァレリア教授がしてくれていたなら、モビはこんなに苦しい思いをしなくても良かったのではないのかな?と、ふと思った。
次の写真は、ヴァレリア教授に手術の傷口を消毒してもらって、ガーゼを当てられ、包帯を巻いてもらうのを待っている診察台の上のモビ。
ちなみに、はるはペットホテルのヴィラ・シーコでのステイをもう2日延長してもらい、土曜日の午前中迎えに行くまで預かってもらっている。本当は今日、ポリ・ヴェットでワクチン接種をしてもらう予定だったのだけれど、ヴィラ・シーコに週2回診察に行くドトーラ・ヴィットリアにお願いして、はるのワクチン接種は昨日ヴィラ・シーコの方でしてもらった。また、はるは昨日宿泊していたメスの大型犬とすっかり仲良くなったらしく、小さなはるが大きな犬ととても仲良く遊んでいる様子がとても可愛いので、ビデオに撮影したのだけれど、その映像をヴィラ・シーコのホームページにアップさせてもらってもいいかと聞かれたので、エドソンは「どうぞ、どうぞ」と返事をしたということだった。何だかはるはヴィラ・シーコにいる方が自由で、幸せそうだなあ・・・ | ||||
2013年4月6日(土) | ||||
昨日の夕方久しぶりに真っ赤な夕日が沈むのが見え、きれいな夕焼けを見ることができた。モビも少しずつ食事ができるようになり、何となく穏やかな気持ちで夕方から夜にかけて過ごした。
でも、その穏やかさは午前0時の薬を投与して、しばらくしてから一転。モビがベッドから頭を出して、床にゲボゲボと夜食べたものを嘔吐。私が急いで台所からペーパータオルなどを持ってきて床を拭いている間、エドソンがモビにお腹の薬を与えてくれた。その後もずっと気持ちが悪いのが改善しないのか、何度もベッドから出てきては身の置き所がないようなふうを繰り返すので、その度に、しばらく床に座ってモビの体をさすってからベッドに戻ると、またベッドから起き出してくるのを繰り返した。それで、私が楽な態勢でずっとモビの体をさすっていられるように、モビをバスタオルに包んで抱っこして私のベッドで一緒に横になることにした。その態勢で1時間程経っただろうか?モビが突然体を動かして、苦しそうにし始めたので、モビの頭をベッドの端に移動させようとしたその時、ゲボゲボと嘔吐してしまった。モビを私のベッドからモビのベッドに移してからも、2回嘔吐を繰り返した。エドソンとふたりでモビの嘔吐で汚れたベッドシーツをはずしたり、床を掃除したり、窓を開けて、部屋にこもった匂いを扇風機で追い出したりとバタバタした。その後は朝まで床に座って、ずっとモビの体をさすって過ごした。 土曜日は手伝いのふたりのジョゼに、引き続き森の中で井戸を作る作業をしてもらうので、エドソンはパーディーニョに彼らを迎えに行き、その間、私は朝食の仕度と、モビを大学病院に連れて行くための準備をした。エドソンが戻り、食事を済ませてから大学病院に向け出発。大学病院では8時を過ぎても掃除の人たちが掃除をしているだけで、まだ誰も来ておらず、しばらく外科の建物の外のベンチで待っている間にもモビは嘔吐を繰り返した。当番医のドトーラ・ブルーナが来てからようやくお腹の薬や痛み止めを注射してもらい、多少脱水症状があるということで点滴が行われた。その後モビが落ち着き、嘔吐しなくなったので、治療が終了し、昼過ぎ頃モビを家に連れて帰った。でも、帰路車に揺られたせいか、家に帰るとまた一度嘔吐した。 家に帰ってからは、お昼も食べずにエドソンはふたりのジョゼの仕事を手伝いに森に行き、私はモビをベッドに寝かせてから、モビの嘔吐で汚れたタオルやベッドシーツなどを洗濯したり、寝室でベッドを拭いたり忙しく立ち働いた。でも、私があちこち移動する度に、モビがフラフラとした足取りでベッドから出て来て私の後を追うので、必要最低限の用事を済ませた後は、モビの側に座って体を撫でて過ごすことにした。エドソンが午後3時半頃下の森から戻った前後からまたモビの嘔吐が始まった。水や薬を与えると嘔吐してしまい、嘔吐物の中に血が混じるようになったので、また急いでモビを病院に連れて行くことにした。大学病院は24時間態勢ではないので、今度は術後の集中治療をしてもらった病院に電話をして連れて行くことを伝えた。その前にふたりのジョゼをパーディーニョの町に送って行かなければならないので、仕事を急いで切り上げてもらい、彼らを送ってから、その足で病院に向かった。 | ||||
2013年4月7日(日) | ||||
昨日、午後5時25分頃病院に到着。ドトー・ギリェーミがすぐにモビを診てくれ、吐き気を止めるための薬を注射。モビは昨日の夜食事をして以来何も食べていないので、ビタミンや種々の栄養素の入った点滴を始めてくれた。そして、集中治療室に移動して超音波検査や血液検査などをして治療を続けることになり、私たちは7時前に病院を出た。 自宅ではなすすべもなくモビが苦しむのを見ているしかなかったけれど、集中治療をしてくれる病院にモビを預けたことで、回復するかもしれないという希望が出てきて、少し気分が楽になった。昨晩は8時前に帰宅。簡単な夕飯を食べ終わった頃、ドトー・ギリェーミから電話。私たちが帰った後、モビの心臓が2度止まり、何とか蘇生したけれど、3度目は蘇生できるかどうかわからないという連絡が入り、エドソンとふたり抱き合って、声をあげて泣いた。そして10分ほどしてまた電話があり、モビが息を引き取ったと聞かされた。 モビは大変な手術を何とか乗り越えたものの、腫瘍が巨大になっていたため、やはり内臓に毒素が回っていたようで、胃や肝臓だけでなくすい臓の機能も悪化していて、術後に投与しなければならなかったたくさんの薬で、さらにダメージを受けてしまい、その大きな負荷に心臓が耐えられなくなったようだった。 今朝、モビを病院に迎えに行き、きれいにビニールと毛布で包まれたベッドの中のモビを、丘の上のカエデや桜の木の側に埋葬した。今日も仕事に来てくれたジョゼに掘っておいてもらった穴にモビをベッドごと入れ、土をかぶせ、石を並べて、庭に咲いていたバラを手向けた。モビの命を助けることはできなかったけれど、最期は病院で、強い痛み止めを打ってもらったので、苦しむことなく旅立ったこと。そして、家に連れて帰って、ここに埋葬できたので、これからもモビとここで一緒に暮らせることがせめてもの慰めだと思っている。「また明日来るからね」と言って、モビを集中治療室に預けて帰る際、ドアのところで振り返ってモビを見ると、立ち上がって私たちのことを穏やかな顔で見つめていた。それが生きているモビの最後の姿だった。私たちに「サヨナラ」と言っていたのだろうか・・・?
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2013年4月8日(月) | ||||
広島の友人がいつも送ってくれる「暮らしの手帖」の中に、私が愛読している聖路加国際病院小児科の細谷亮太先生の「いつもいいことさがし」という連載がある。2012年秋60号に掲載されていた「共感を大切にして」という文章のほんの一部を以下に引用してみる。細谷先生は長年小児白血病と闘ってきた先生。モビとの遠くない別れを覚悟しながら読み、エドソンにも要訳を聞かせ、ふたりで涙した文章。残された者は生きつづけなければならない。辛いけれども、Life goes on. 『十年以上も、再発をくり返す白血病と闘ったあと、もう治す手だては無いということになり、自分の家で最期を迎えることを希望した十七歳の女の子がいました。祐子ちゃんという名前でした。最期の夜、息苦しさも、モルヒネがうまくカバーしてくれて、家族のみんなに見守られて、静かに時間が過ぎていきます。朝がくるまでは、もたないような状況でした。私も看護師さんもずっと付きっきりでした。 少し明るくなりかけた頃に、彼女のお姉ちゃんが、すっと席を立ってお勝手の方へゆきました。その後、私が徹夜のねぼけ顔を洗わせてもらうために、洗面所をかりようと廊下を通ると、流しで、背の高いお姉ちゃんが肩をふるわせながらお米を研いでいました。ジャッ、ジャッ、ジャッ、心に沁みる音でした。死にかかっている妹のすぐ脇で、生き残り生きつづけなければならない者達のために彼女は食事を用意しているのです。生きていくことって、本当に悲しいことだと思った瞬間でした。 きれいに炊き上がったご飯は、のりを巻いたおむすびになりました。祐子ちゃんの死亡宣告のあと、思い出話をしながらいただきました。』 日曜日の午後、エドソンが井戸の様子を見においでというので、一緒に森まで行く途中、マナカの木の近くまで行ったので、写真を撮ってみた。ピンクと白の花が美しい。
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2013年4月9日(火) | ||||
昨日は、朝一番のハファエウの英語のレッスンはお休みさせてもらい、朝食の後、洗濯と掃除をし、土日2日分のブログをアップしてから、お昼前にヴィラ・シーコにはるを迎えに行った。昨日はモビのようなダックスフントが2匹と、ピンシャーとチワワとのミックスのような犬や、ヨークシャーテリアなどたくさんの犬たちがいて、彼らと一緒にはるは伸び伸びと芝生の上で遊び回っていた。ドトーラ・ジャナイーナにモビが亡くなったことを話し、支払いを済ませて、はるを連れて帰宅。これまでは助手席の前の床はモビの定位置だったけれど、これからはここがはるの定位置。家に帰ってからは、モビがいないので、首輪を外して自由に家の中を走り回らせた。ほんの少しモビを探すようなしぐさをしたような気がした。でも、モビがいなくてもこれまで通り、居間の横のドアの前とか台所のベッドの中で結構おとなしくしている。昼食の後、洗濯物を取り込んでから、はるの体を洗い、はるを抱っこして、丘の上のモビの所まで行って、ここにモビが眠っているんだよと、はるに教えた。今日から日に1回はモビのお墓を、はるとのお散歩のコースに入れることにした。 毎日モビのことを思い出して涙してもいい。でも、モビはいつも穏やかでハッピーな子だったから、僕たちにもハッピーでいてほしいと思っているに違いない。だから仕事に専念して、畑や庭の草取りなどで体も動かして、おいしいお料理を楽しく作って食べて、楽しいことをたくさん計画しよう、とエドソンが言うので、昨晩のジミーとジェフのレッスンはキャンセルせずに、実施した。疲れたけれど、キャンセルしないで良かったなと思った。 1週間ヴィラ・シーコで預かってもらっていたはるは、思いっきり遊んだからか、何だかちょっと成長したようで、家に戻ってから、私たちが悲しみに包まれていることを感じているのか、静かに私たちに寄り添ってくれている。はるはモビではないけれど、彼女がいることで私たちは癒されているような気がする。はるをプレゼントしてくれたエリカに感謝。次の写真は、昨日の夕方台所に置いたベッドの中のはる。お腹を出しているのは、彼女の得意のポーズで、お腹を撫でてかまってほしいというサイン。しばらくお腹を撫でてやってから、夕飯作りを始めると、くるりと体を丸めておねむの態勢になった。
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2013年4月10日(水) | ||||
疲れているのにエドソンも私も夜あまりよく眠れない。目が覚めたとき、夢を見ていた記憶があると、あれ?寝ていたのかなと思うのだけれど、眠りが浅いせいか、寝た感じがしない。この土日にモビのことであたふたすると同時に、ふたりのジョゼに手伝ってもらって井戸作りも進めていたので、エドソンは疲労困憊で免疫力が下がっていたのだろう。ジョゼがふたりともひいていた風邪をしっかりもらってしまったようで、昨日はダウン。風邪薬や滋養強壮の薬を飲んで、休み休み仕事をしていた。今日もまだ同じような状態が続いている。 一方、はるがいるので、朝はるが目を覚ましたらオシッコとウンチに連れ出さなくてはならないし、お散歩も欠かせないので、寝てばかりもいられない。否応なしに日常が戻ってきた感じがする。ヴィラ・シーコにいる間、一度もシャワーをしていないので、月曜日に連れて帰って体を洗ったのだけれど、はるのベッドもずいぶん汚れていて、匂いに敏感なエドソンは匂いがきついから洗わなきゃだめだというので、今日は、はるのベッドや替えたばかりのタオルも洗い、部屋じゅうの床も雑巾で拭き掃除をした。そして、泥で汚れた外ベランダと階段の掃除をし、ベランダ横のバラの花壇周辺の草取りなどをして体を動かした。これで今晩は少しはよく眠れるかな・・・?次の写真は、先週半ば頃からつぼみがふくらみ、花が咲き始めたランの花。ダイニングルームの窓辺からテーブルに移動させて楽しんでいる。
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2013年4月11日(木) | ||||
先月21日に中国新聞に送った40本目のブラジルリポートの記事が、26日付けでサイトに掲載されたのはすでに書いた。そして、この記事を夕刊紙にも掲載するからと、中国新聞の編集担当の方から補足の質問やら確認やらがあり、今週はメールで何度かやり取りをした。それでとても疑問に思ったことがある。 夕刊紙用の記事で私が指摘した部分は修正したと、記事のドラフトを送ってきてくれたのだけれど、香山さんが「恭子さん、移民史やりませんか?面白いですよ移民史」と何度も言われたという記述を、「恭子さん、移民史の研究をしませんか?面白いですよ」と彼女が変更した文章に戻し、修正しないと言ってきた。話し言葉なので「移民史やりませんか。面白いですよ移民史」のままで紹介したいところだが、まず、新聞ではなるべく同じ言葉を繰り返さないというルールがあるので、「」の中に移民史という言葉が二度出てくるのを避けて、後の移民史は削除になり、さらに「移民史をやる」ではさまざまな意味に受け取られる可能性があるので、「移民史の研究をしませんか?」でいきたいと言う。新聞というのは、人の発言をそのまま掲載せず、事実を曲げるようなことを平然とするのか?と、唖然とした。 移民史という言葉を繰り返さないために、1つは削除というのはまあいいとして、香山さんが「移民史やりませんか。面白いですよ移民史」と言われる意味が、当初は私にもよくわからなかったのだから、さまざまな意味に受け取られて何も問題はない。香山さんが移民史を研究していることは知っていたので、それを一緒にやらないかというような意味なのかな?と思っていたけれど、知り合って2年ほどして、蔵書を引き受けてもらえないかとはっきり言われて初めて、ああ、そういう意味だったのかと思ったのだ。だから「移民史の研究をしませんか?」に香山さんの発言を変えてしまうと、香山さんの意図を汲みかねた私の戸惑いや、香山さんが何を思ってそんなことを言っているのかという疑問を無視することになり、意味合いが変わってしまう。 それから、香山さんと知り合ったのは移民史の資料を探していたときではなく、インカ人がペルーからブラジルを横断して大西洋岸まで造った「ピアビル」という道のことを調べていて、たまたま香山さんが「ピアビル」に関するルイス・ガルジーノの本を持っていることを知り、連絡したのが始まりだったので、『この「海外メール」への寄稿を書くため、移民史の資料を探していて香山さんと知り合った。』ではなく、『海外リポート(または、海外メール)に書く記事の資料を探していて香山さんと知り合った。』と訂正したのに、それも修正されず元に戻っている。香山さんと知り合うまでは日系移民の人たちとはほとんど接触がなく、知り合いもおらず、移民史のいの字もなかった頃なので、移民史の資料を探していたときとするのは事実とは異なる。再度そのことを説明して訂正をお願いしたけれど、これだけ言っても受け入れてもらえない可能性は高いので、何だか徒労感を感じて、最終的な判断は任せると伝えた。さて、どうなるか・・・? 些細なことかもしれないけれど、事実と異なることを書かれることにはとても抵抗がある。「恭子さんは正確に記事を書く」と香山さんに何度か褒めてもらったことがあるけれど、それも香山さんが私を見込んで香山文庫を託そうと思われた理由のひとつなのではないかと、私は思っている。これからもそうありたいと思っている。 次の写真は、ダイニングルームの下の花壇。いろいろな植物を植えて、以後ほったらかしなので、ワイルドになってきているけれど、まあ、にぎやかでいいか?と思っている。葉物植物の種が風で飛ばされて、自然にたくさんの芽がでてきている。
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2013年4月12日(金) | ||||
エドソンは風邪で絶不調。仕事の合間にベッドで横になっていると、はるがエドソンの足元の敷物の上で寝そべって、付き添いをしたりしている。はるは常に私かエドソンのどちらかにぴったり張り付いている。時々、ふたりの中間のような玄関マットの上で台所にいる私と、仕事をしているエドソンの両方が見渡せる位置にいたりすることもある。これらはみんなモビがやっていたことと同じ。ダックスフントの元々の性格なのか、モビのことを見ていて学び取ったことなのかはわからないけれど、しっかり自分の役割を果たして、私たちを慰め、癒してくれている。次の写真は、居間の横のドアの前に置いたベッドで寝ていたら、日差しが強くなって、暑いのでベッドからはみ出してウーンと伸びをしているはる。この後、陽の当たっていないヒンヤリしたタイルの床の上で、寝そべっていた。これもやはりモビがやっていたことと同じ。
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2013年4月13日(土) | ||||
昨日は、午前中、約4ヶ月余り振りにエディナの美容室に行って、髪のカットとカラーをしてもらった。モビのガンが再再発して、モビが体調を崩すようになって以来、自分たちのことはずっと後回しにしてきたので、髪が白くなってボサボサになっていたのだけれど、ようやくすっきり。頭が軽くなったような気がする。午後からは庭の草取りに精を出した。 そして、夜半過ぎからザーザーと降り出した雨が、今日は1日降り続く予報。あいにくのお天気なので、ふたりのジョゼには仕事をお休みしてもらった。彼らに進めてもらっている井戸作りの作業は、エドソンも無理をしてでも頑張ってしまうので、風邪がなかなか治らないエドソンにとっては、この雨で作業ができないということは、今日は無理せず寝ていることができて、ちょうどいい恵みの雨になったように思う。一方私は、今朝起きたらちょっと喉の調子がおかしく、どうやら時間差でエドソンの風邪をもらったのかも・・・雨が降っていても、はるをオシッコなどのために外に連れ出さなくてはならないし、午後からはジミーたちのレッスンがあるので、寝ているわけにはいかないけれど・・・朝食後にまだ少し残っていた葛根湯を飲んで、昨日届いていた「暮らしの手帖」を読みながら1日ボーッとして過ごすことにした。 | ||||
2013年4月14日(日) | ||||
昨日は1日雨が降ったり止んだり。今日は濃い霧に包まれて夜が明けた。霧が晴れた後も、相変わらずのどんよりした曇り空が続いている。でも、はるは何故だか今日は朝一番から超元気で、6時前にオシッコとウンチに行ったのに、その後も寝室内を走り回り、何度、ベッドに戻りなさいと言っても、ヒーン、ヒーンと小さく泣いて、外に出たいと言う。仕方なく7時を回って、お散歩に出たら、またオシッコとウンチをした。元気だねえ~君は・・・エドソンの風邪は、咳が出始めたけれど、少しずつ快方に向かっている。私の風邪は鼻に広がっているものの、エドソンほどひどくはならないで治まりそうだ。次の写真は、おしゃぶりの骨を口にくわえて、エドソンに飛びついたり、エドソンの椅子の下で、おしゃぶりの骨をムシャムシャしているはる。
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2013年4月15日(月) | ||||
エリゼウのレッスンと夕食を毎週水曜日の夜にしていたのだけれど、彼がセマナ・サンタの休暇でミナスの実家に帰っていた3週間前から、ジミーたちの集中レッスンを始めたので、先週からエリゼウのレッスンと夕食は木曜日に曜日を変更してもらった。でも、エリゼウはドナ・ベティのファゼンダのマネージャーの仕事を辞めてミナスに帰ることにしたので、後2~3ヶ月くらいしかここにいないという。彼は私たちにとってとても信頼できる数少ない良き友なので、とてもとても残念。次の写真は、ミナスの実家からおみやげとして持って帰って来てくれたミツバチの蜜の詰まった巣。これを絞ってハチミツを取り、残りのワックスの部分はジャタイの餌にすることができる。
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2013年4月16日(火) | ||||
今年になってまた、ミツバチのジャタイの巣をエリゼウやジョゼなどからもらい、ジャタイの数が増えてきているので、エドソンがカンピーナスのハチの巣箱を作っている会社に注文して、4つの巣箱を新たに購入した。以前、エリゼウがこの会社から入手してくれたのは横長の巣箱だったけれど、今回注文して入手したのは縦長の巣箱。ジャタイの巣箱が増え、シュハスコ小屋の軒下のスペースが混雑してきたので、別の場所に移動させなければならないのだけれど、その場所に簡単な屋根を取り付けたりといった作業をするために、手伝いのジョゼの助けを借りないといけないので、井戸作りを優先させている現在、なかなかそちらまで手が回らない。
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2013年4月17日(水) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2013年4月2日付け日系社会ニュースからの転載。
日本の法務省が先月ホームページ上で発表した「2012年末の在留外国人数について(速報値)」によれば、昨年末時点におけるブラジル国籍者の在留者数は19万3571人で、前年比で7・5%(1万5694人)減少した。ここ10年間で最多を記録した、リーマンショック前年の07年末(31万3771人)と比べると12万人も減少したことになる。帰伯したデカセギは各地に拡散しているとみられるが、当地の日系社会、在日コミュニティにどう影響を与えるかが注目される。 在留外国人数の国籍別でみると、中国が65万3004人で全体の32%を占め、以下韓国・朝鮮、フィリピン、ブラジル、ベトナム、ペルーと続く。ここ10年間、例年ブラジル人数は3番目に多かったが、昨年末にフィリピン人数(20万3027人)を下回った。 リーマンショック以降のブラジル人在留者数の推移をみると、08年~09年にかけて4万5千人弱、09~10年には3万6千人弱、10~11年には2万人弱ずつ減っている。中国、韓国・朝鮮、ペルーもそれぞれ前年から2~4%減少したが、ブラジル人の減少率は著しい。 CIATE(国外就労者情報援護センター)の大嶽達哉専務理事は「雇用先が決まっていないと定住ビザが取得できなくなった。新規でブラジル人労働者を募集する企業もあまりない」と日本側デカセギ受入れの現状を説明し、しばらくこの傾向が続くと分析した。 ただし、大嶽氏によれば「経済危機以降は日本に帰化するブラジル人が増えた」という。その種の人たちはこの統計に含まれず、実態は若干異なる可能性もある。 一方、ベトナム、ネパール国籍者はそれぞれ前年に比べ17・9%、19・7%も増加した。最長3年間で日本の産業・職業上の技能等の修得、習熟をさせる「外国人技能実習制度」が一因とみられる。企業主からすれば伯人より安価で雇用でき、日本政府からすれば永住者にならない外国人として歓迎されているとの話もあり、伯人と入れ替わるように増加している。 送り出し国であるベトナム、タイ、ベトナム、ネパール国籍者は10年前と比べてそれぞれ1・3~8倍に増えている。 また、日本とフィリピン、インドネシアとの間で締結された経済連携協定で、フィリピン人、インドネシア人看護師・介護福祉士候補者の受入れが、インドネシアは08年度、フィリピンは09年度から行われていることも一因とみられる。リーマンショック以前にも傾向があったこの種のアジア出身者の増加と、在日ブラジル人減少の流れはコインの裏表ともいえる現象であり、今後も続くと考えられる。 | ||||
2013年4月18日(木) | ||||
今週の月曜日に、ボストンマラソンのゴール付近で2度爆発があり、死傷者が出たというニュースをインターネット上でほぼリアルタイムで目にした。ボストン(正確にはお隣のケンブリッジ)で私たちは8年ほど暮らしていたので、この爆発があった近くのコプリースクエアにはよく行った。9.11の時もボストンは標的になって、しばらく緊張が続いたと友人から聞いたことがあるけれど、また再び、どうしてボストンなのだろう?月曜日の夜、ジミーたちがレッスンに来た際、玄関に入るやいなやこの話題を持ち出したので、へえ~と思った。ここの人たちはこういう海外のニュースにはさして興味がないようで、これまでこういうことを話題にする人たちを見かけたことがなかったのだけれど、彼らは関心があるようだった。 このところ朝はほぼ毎日濃い霧の中で明けるのだけれど、しばらくすると霧が晴れ、お昼前までには湿度が下がり、いいお天気になるので、昨日、一昨日と午後は畑の草取りをした。ずっとほったらかしていて、草ボウボウ状態になっていたので、結構時間がかかったけれど、ようやくすっきりした。収穫がとっくに終わり、立ち枯れしたトマトや枝豆も引き抜き、ワイルドに広がったハーブにはハサミを入れてカットし、畝にくわを入れてきれいにした。これでまたいつでも苗を植えたり、種を蒔いたりすることができる。ちなみに、枝豆は3月下旬頃まで毎日のように食べることができ、とてもお世話になった。次の写真は、畑の北東側から撮ったもの。中央の緑が茂っているのはマラクジャ(パッションフルーツ)。一度花が咲いたので写真を掲載したけれど、その後まったく花が咲かない。黒い毛虫がたくさんついているので、エドソンが時々タバコの液を噴霧するのだけれど、なかなか退治できないでいる。右奥は、ヤーコンという芋。一度食べてみたけれど、芋というよりも、食感や味はちょっとしょうがのような感じだった。
次の写真は、畑の南西側から撮ったもの。手前のひょろひょろした葉物野菜はコウヴィ。葉っぱを1枚1枚取って使うのだけれど、後から後から葉が生えてくるので、時間が経つと背が高くなってくる。その同じ畝の後ろの方の背の高いひょろひょろしたものは、オクラ。2メートル以上の高さのネットに届いてしまい、いまだに次々とオクラの実をつけている。このコウヴィとオクラにもとてもお世話になっている。
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2013年4月19日(金) | ||||
次の写真は、ヤーコンの花。このヤーコンという根菜、エリゼウからもらって畑に植えた時はとても小さな苗だったけれど、今では高さが私たちの背丈ほどになり、横にもずいぶん広がって、畑の中で存在感を示している。植えたときは、こんなに大きくなる植物だとは知らなかった。
そして、次の写真は、小さなポットから畑に植えたとうがらしが大きくなって、たくさん実を付けたので、赤くなっている実だけを収穫して、天日干しにしているところ。日本のとうがらしよりもサイズが小さいので、種類が違うのだろうけれど、これでもお料理に使うとうがらしの代用になるのではないかと思っている。
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2013年4月20日(土) | ||||
今日で、はるはちょうど6ヶ月になった。まあとにかく元気で、じっとしていることが苦手なので、写真を撮ろうにも、なかなかアップでいいシャッターチャンスがつかめない。カメラを見つめているからチャンスと思ってシャッターをきっても、撮れた写真を見ると目を半分つむっていたりする。それで何とか撮れた写真が次のような写真になった。
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2013年4月21日(日) | ||||
今年1月20日に101歳で亡くなった柴田トヨさんの詩集「くじけないで」と「百歳」を、サンパウロの前園さんにプレゼントしようと思い、広島の兄に頼んで送ってもらった。この金曜日に郵便局で受け取った小包が本2冊だけにしては大きいのでびっくり。中にはこの詩集が2冊ずつと、義姉の筆による小林一茶や加賀千代女の句を書いた色紙3枚と、その色紙を入れる額縁がひとつ入っていた。詩集は1冊ずつと頼んだのだけれど、何故か2冊ずつあったので、1組は私の手元に置いて、時々開いて読んで楽しむことにした。色紙の方は、以前、松尾芭蕉の春の句を書いたものと、それを掛ける掛け軸を義姉からもらい、台所とダイニングルームの間の壁に飾っているのだけれど、春夏秋冬の句があるとうれしいなと、頼んでおいたら、夏、秋、冬の句の色紙をそれぞれ書いて送ってくれたのだった。これで季節毎に義姉の書いた色紙を入れ替えて楽しむことができる。ふたりの優しい心遣いに心から感謝。感謝。
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2013年4月22日(月) | ||||
先週から毎日少しずつ庭の草取りなどをしている。家の北西側の車寄せの片側に、だいぶ前カコで買ったラベンダーの小さな苗を直接地植えにしたものが少しずつ育ってきている。ビニールのポットに植え替えて育てていたものよりも大きくなっているので、ポットのラベンダーも地植えにしてみた。一番手前の列の5株が直接地植えにしたもので、後ろの2列の7株が、先週ポットから植え替えたもの。大きさの違いは歴然。このラベンダーの左側の大小の木2本は、フランボヤンジーニョという木で、1本は元気に大きくなってきているけれど、もう1本はなかなか大きくならない。何故かな?
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2013年4月23日(火) | ||||
高速道路のカステロ・ブランコを下りて、パーディーニョに上がってくる舗装された道路を上がりきったところに、工場地帯がある。その真ん中に右折する舗装されていない道路がある。そのガタガタの道路を1キロほどノロノロ行くと我が家の入り口ゲートに到着する。そして我が家に到着するまでに、次の写真のようなものが2ヶ所ある。これはマタブホ(mataburro)と呼ばれるもので、マター(matar=to kill)は殺すという意味で、ブホ(burro=donkey)はロバのこと。つまり牛や馬などの動物を通さないためのもの。次の写真のマタブホは、我が家の入り口ゲートのすぐ手前にある2つ目のもの。蹄のある動物はこの上を歩くことができないらしく、左手前で放牧されている牛たちが境界を越えて侵入できないような仕組みになっている。ご近所のガウーショ(カウボーイ)の人たちが馬に乗って通る際は、このマタブホの横の柵を開けると通れるようになっている。でも、たま~に、このマタブホの上を歩く技術を身につける牛がいて、我が家の入り口ゲート前のブラキアーリアを食べに来たりすることもある。ブラキアーリアを食べてくれるのはうれしいのだけれど、おみやげに巨大なウンチを落として行くのが玉に傷。2枚目の写真は、このマタブホを通り越してすぐのところにある我が家の入り口ゲート。
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2013年4月24日(水) | ||||
モビが大学病院で受けた最後の治療の請求書が届いていたので、昨日、大学病院に支払いに行ってきた。そして、抗ガン剤を始めモビのために買って、結局使いきらなかったたくさんの薬を、大学病院に寄付するために箱詰めにして持参した。モビが亡くなった晩、集中治療設備のある動物病院からドトー・エマーソンにも連絡が行き、連絡を受け取ってすぐにドトー・エマーソンがうちに電話をくれた。彼は、モビは残念だった。僕に何かできることがあれば、遠慮なく言って欲しいと、優しい言葉をかけてくれたとエドソンから聞き、人間相手のお医者さんでもこんな思いやりを見せてくれたりはしないだろうにと、とてもありがたく思った。それとも、動物相手のお医者さんだからこそ優しいのかな?とも思ったりした。昨日はドトー・エマーソンとドトー・ジョアオンが診察していたので、エドソンがふたりとモビの亡くなった時の状況について話をし、薬を渡して、大学病院を後にした。その後、ボトゥカトゥで2~3件買い物などの用事を済ませ、昼過ぎに帰宅。モビがいないのに大学病院に行くというのは、何だかとても変な感覚のものだなと思った。 | ||||
2013年4月25日(木) | ||||
このところ秋らしい爽やかなお天気が続いている。以前も書いたけれど、ここは秋と言っても紅葉は見られない。入り口ゲート付近の道路沿いに元からある木々で、落葉する木が何本かあるけれど、紅葉などせず、いつの間にか葉が落ちて裸になるだけ。葉が紅葉するのは土の中の温度に関係があるらしく、ここは外気温は低くなっても日差しが強かったりするので、土の中の温度はあまり下がらないのが原因らしい。ここ1ヶ月くらい続く最低気温は15度前後、最高気温は25度前後なので、暑くなく寒くなく過ごし易く、一番いい季節のように思う。我が家の庭で唯一紅葉というか、葉の色が変わるのは、ハイビスカスガーデンの横の葉物植物2株だけ。この植物が花を咲かせ、青々とした葉をたたえている写真を見た友人が、この葉はしょうがの葉に似ていると教えてくれたけれど、エドソンの話だと、しょうがではないけれど、似たような薬草らしいと言うことだった。
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2013年4月26日(金) | ||||
いつも我が家から見た周辺の景色の写真を掲載しているので、今日は少し離れた場所から見た我が家の写真を掲載してみることにした。我が家の西隣のコーヒー農園のさらに西側の牛の放牧場から撮った我が家。家の前に植えた木々が大きくなって家を隠すようになり、見えるのは赤い屋根だけになっている。手前の草原と我が家の間にあるのが西隣のコーヒー農園。2枚目は、我が家を少しアップで撮ったもの。右側にすっくと立っているのが我が家のランドマークの木で、その手前のうっそうとした木々がある場所は、我が家とお隣の境にある森。ここから右下に向かって続いている。コーヒー園に植えられている背の高い葉物植物は、まだ小さいコーヒーの木の風避けと、ブラキアーリアをはびこらさないためのものらしい。
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2013年4月27日(土) | ||||
前園さんが先週発送してくださった2013年4月15日発行の「楽書倶楽部」第18号が、昨日届いていた。この号は「楽書倶楽部」創刊3周年記念号。だからだろうか?記事の最初にそれぞれの筆者の写真と簡単な紹介文が掲載されている。これまではお名前だけだったけれど、今回掲載された写真と紹介文で、いろいろな経歴の方たちがおられるんだなあ・・・と、前園さんのネットワークの広さを実感し、同人の皆さんが身近に感じられた。私は去年の2月から参加させていただいているので、2周年のちょっと手前から加わったことになる。そして、同人の方たちの中ではだいぶ若輩者の部類に入る。本職の印刷会社の仕事だけでも大変だろうと思うのだけれど、いくら手伝ってくれる人たちがいるとは言え、前園さんは女の細腕でよくがんばるなあ~と感心してしまう。私も70代後半になっても前園さんのように元気でいたいなあ・・・
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2013年4月28日(日) | ||||
以下は、「楽書倶楽部」第18号に掲載された私の寄稿文のコピー。
大正十年生まれの父は、七人兄弟の末っ子として生まれ、のびのびと育ったのか、標準よりも体格のいい兄たちをも上回る百八十二センチの身長に恵まれた。青春時代はバレーボールに打ち込み、バレーボールの名門である広島二中から早稲田大学に進み、何度も全国優勝を経験し、バレーボール一色の生活を送っている。 一九四◯年(昭和十五年)に、予定通りに東京オリンピックが開催されていれば、父は日本代表として出場していたはずだった。しかし、当時戦争に向かいつつあった日本に対する国際世論の反発で東京オリンピックは開催されず、代わりに日本は「東亜競技大会」を開催した。父は日本選抜チームの中衛(その頃のバレーボールは九人制だった)として出場し、優勝している。とは言っても、参加したのは日本の他、旧満州国や汪兆銘の南京政府などで、バレーの対戦相手は満州チームだけだったというから、勝って当然だったのかもしれない。それでも3回戦を戦って、ほぼストレート勝ちだったのだから、父は満足しているようだった。このことは朝日新聞の取材を受けて、北京オリンピックのあった二◯◯八年八月十五日付けの夕刊に、『幻の「五輪」選手が見る夏』と題する記事となったことで、私も詳しく知った。
そして、翌年、大学を繰り上げ卒業して徴兵され、フィリピンに送られた。フィリピンではバギオやセブでの任務の後、マニラから飛行機で南に1時間程のところにあるパナイ島という島にあった部隊本部に配属された。当初はまだ状況が穏やかだったようで、地元の人たちとの心温まる交流があり、そのことは思い出話として何度か聞いたことがある。アメリカ軍がフィリピン南部の島に上陸して戦況が厳しくなると、戦力をレイテ島に集結させるため、パナイ島の部隊本部も船でレイテ島に向かうことになった。しかし、彼らの乗った船は港を出たところで爆撃されて撃沈されてしまう。父は部隊本部とは別行動で、後からレイテに移動するよう言い渡されていたため、その船には乗っておらず命拾いしている。その後戦況が悪化する中、マラリアに罹りながら、山中を転戦し、終戦まで何とか生き延びた。パナイ島で生き残った唯一の将校だったため、戦後帰国してから、横浜の占領軍基地で缶詰になって報告書を書かされたと聞いたことがある。 日本が負け、戦争が終わったことをアメリカ軍の宣伝ビラで知った父は、部下の兵士たちと話し合い、自分は投降すると伝えたという。父よりも年上の兵士が少なくなかっただろう中で、23歳の若い将校に皆が従い、生き残った兵士全員で9月に投降している。そして、捕虜収容所で見たアメリカの雑誌「LIFE」で広島に原爆が落とされたことを知った。広島では爆心地からあまり遠くない実家で、父親と長兄の嫁とその子供たちが被爆死している。幸い母親はあの日たまたま市外に出かけていたため助かっている。母親がどこにどのように保管していたのか、前述の東亜大会の時のユニフォームも無事で、以後父自身も大切にそれを保管していたため、父の葬儀の際には、その日の丸のついた競技用ユニフォームを記念の品として飾ることができた。 戦後広島に戻った父は、母と結婚し、傾きかけた小さな出版社で金作に飛び回る仕事をしていた。しばらくして学校の先輩の口添えで、ある実業団の女子バレーボールチームを育成する職を得た。そのお陰で、私たち家族の生活は豊かではないまでも、安定していった。当時、父はほとんど休日返上でチームの監督をしていたため、私が小学校を卒業するくらいまでは、家にいないことが多く、我が家はまるで母子家庭のようだった。夏休みに母と兄と私の三人だけで毎日のように海水浴に出かけていたことを今も思い出す。それでも私は父親っ子だったようで、休日にはよく金魚の糞のように父親にくっついて、チームの練習や試合を見に行き、チームのお姉さん選手たちにマスコットのように可愛がってもらっていた。ちなみに、父が育てたこのチームは全国優勝を果たしている。 当時は私も大きくなったらバレーボールの選手になると言っていたけれど、小学校を卒業する頃には熱も冷めてしまい、中学校や高校でバレーボール部に勧誘されても入部しなかった。食の細い私はスポーツ選手には向かないと父は見抜いていたし、母は母で、両親の血を受け継いで、それでなくても背の高い私がバレーなどやってはどこまで身長が伸びるかわからないから止めて、と言っていたことも影響したかもしれない。 父は生真面目で頑固で、少々融通のきかない人だったけれど、優しい人でもあった。「東洋の魔女」を育てた大松監督が後年、合宿の際、選手に自分の下着を洗わせていたというエピソードを聞いた際、「お父さんは女子選手に自分の下着を洗わせたことなんて一度もない!」と呆れたように言っていた。私たち子供にすら一度も手を上げたことのない父には、体罰や公私混同の行為は論外だったのだろうと思う。 幸か不幸か、父の外見だけでなく、その気質も私に遺伝してしまったようで、我ながら時々やれやれと思うこともある。似た者同士の父娘だったからか、十代の頃には反発してぶつかったこともあった。成人してからは心配しながらも、かなり自由に私のやりたいようにやらせてくれたことには心から感謝している。 その父は、八十歳を過ぎて発症した四肢の神経が徐々に麻痺してゆく難病と闘っていたけれど、二◯十一年の四月、肺炎をきっかけに多臓器不全となり、あっと言う間にあの世に旅立って逝ってしまった。九十歳まで頑張ると言っていたけれど、それには半年足りなかった。父の八九歳と半年の人生は、バレーを離れてからは平凡なサラリーマン人生だったかもしれない。しかし、定年退職後も第二の職場で七十歳近くまで真面目に働き、最期まで寝たきりになることもボケることもなく、孫二人と曾孫二人にも恵まれ、精一杯生きたいい人生だったのではないかと思う。こじんまりとした家族葬をと考えていた兄が、広く通知しなかったにも関わらず、葬儀には多くのバレーボール関係者の方々が駆けつけてくださったことからも、父のバレーボール人生は有意義なものだったのだと思った。 私が日本に向けサンパウロを出発したその日に亡くなったため、息を引き取る前に枕元に駆けつけ「ありがとう」と言ってあげることはできなかった。それでも私が戻るまでぎりぎり葬儀を延ばしてくれた兄のお陰で、葬儀には何とか間に合い、棺の中で穏やかに微笑んでいるような表情の父に、「ありがとう。お疲れ様」と言って、お別れをすることができたことは、何よりの慰めだった。(つづく) | ||||
2013年4月29日(月) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2013年3月29日付け「コラム 樹海」からの転載。 『サッチャー元英国首相の死去が大々的に報道されている。亜国からすれば1982年のマルビナス(英国名=フォークランド)戦争時の憎き相手だ。伯国も同戦争に密かに関係していたと昨年明らかにされた▼米国の支援を受けた英国と戦うという冷戦の構図から、ソ連・キューバが亜国支援に裏で乗り出していた。本紙昨年4月4日付け2面「マルビナス戦争30年=伯国の真相が明らかに」でも、ソ連が亜国の核開発のために濃縮ウラン100キロを送るとの文書が残されていると報じた▼伯国の立場は実に微妙だった。亜国は隣国で、同じ軍事政権だ。一方、伯国にとって英国は独立前から関係が深く、米国は第2次大戦以降、最重要パートナーとなった▼1833年から同諸島の亜国領有を認めている伯国は、その支援のためにペルー、リビア、アンゴラからの戦略物資を載せた飛行機の領空通過を許可した。しかし、ソ連の物資を載せたキューバ機が無許可通貨しようとした際は、戦闘機が発進させて強制着陸させたという▼南米から革命の火を起こそうとしたゲバラがボリビアで殺された後、手を拱いていた共産陣営からすれば、マルビナス諸島紛争は亜国を自陣営に引き入れる絶好の機会だった。もし亜国が原爆を持った共産主義国になっていたら、伯国の歴史も変わっただろう▼男以上に漢(おとこ)であった彼女らしい名言として、同戦争派兵を決める閣議で躊躇する男性閣僚らに向かって「この内閣に男は一人しかいないのですか!」と言い放ったのは有名な話だ。亜国も女性大統領だがウルグアイ大統領から「ババア」扱いされたばかり。まだしも女扱いで良かったか?(深)』 | ||||
2013年4月30日(火) | ||||
昨日の朝、洗濯物を干し終わって家に戻る際、外階段のところに不思議な昆虫がいるのに気づいた。セミのような、アブラムシの一種のような、体長は3~4センチくらいで結構大きい。何なんだろうこの虫?じっとして動かないので、死んでいるのかな?と思って触ってみたら、ちゃんと生きていた。少し動かしても、すぐに写真のように階段のコーナーに戻ってしまい、この体勢でじっとしていた。でも、どうしてこんなところでじっとしているの?
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