Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2013年3月1日(金)

先日、リグストルンの列の前に生えていた草に花が咲いているのを発見。写真に撮ってみた。1枚目は全体像を。2枚目は花の部分をもう少しアップで。こんなかわいい花が咲くのなら、今後は草取りの際、この草は抜かずに残しておいてもいいかなと思ったりしている。こんな花が咲き乱れている庭も悪くないかも。

そして、野菜畑にも植えた憶えのないつる性の植物が生えてきていたのをそのままほったらかして、成長するにまかせていたら、ここに植えているセージの苗を圧倒するようになってきた。そして最近、たくさん花をつけ始めた。まるで「ワイルドだろう?」と自己主張しているよう。

2013年3月2日(土)

畑で育てている枝豆がたくさん実をつけているのだけれど、なかなかその実が膨らんでこない。以前試験的に育ててみたものよりも大きくはなっているけれど、もう少し放っておけばもっと膨らんでくるのかなあ・・・?日本のお店で販売されているものも、昔父が畑で育てていたものも、実がプリプリしていてきれいだったけれど、我が家の枝豆はちょっと貧相。栄養が足らないのかなあ・・・?味見も兼ねて少し収穫して食べてみた。次の写真は、茹でたてを少しお昼にいただいた後のその残り。オクラもそうだけれど、枝豆もちょっと塩茹でしただけのシンプルなものなのに、どうしてこんなにおいしいのだろう?天の恵みに感謝。

2013年3月3日(日)

昨日、取り寄せを頼んでおいた薬が届いたと、ボトゥカトゥの薬局から連絡があったので、今朝薬局まで取りに行き、その足で大学病院に行って、特別の細い注射器で5回分の注射を用意してもらった。以前も書いたけれど、自宅で飲むための薬の処方箋をもらって調剤薬局に買いに行くのは日本もアメリカも同じだけれど、ここでは病院でのモビの抗ガン剤治療に使う薬も自分で手配しなければならないので、ちょっとややこしい。今回処方されて、取り寄せを頼んだ薬は、モビの免疫力を高めるための5日分の皮下注射液なのだけれど、注射器は大学病院で用意してもらわなければならないので、薬局と病院を行ったり来たりしなければならなかった。抗ガン剤治療に使う薬など人間のものと同じなので結構な値段がする。この皮下注射液も5回分で250レアル(約1万円以上)もした。ほぼ10日に1度の通院治療と、家で飲ませる種々の薬を合わせると、この2年間で相当出費がかさんでいる。でも、「ヨイトマケの唄」の歌詞ではないけれど、「モ~ビちゃんのため~な~ら、え~んやこ~ら」と言った心境だ。次の写真は、病院で用意してもらった注射。帰宅してすぐに今日の分の皮下注射をエドソンがしてくれたので、残りは4本。そして、その次の写真は今朝、朝食前のモビとはる。彼らの食事は毎食私たちの食事が終わってからと決まっているのだけれど、モビがいいお手本になって、はるもちゃんとおとなしく待つことができるようになった。はるは自分のベッドがすぐ側にあるのに、モビのベッドで丸くなっている。

2013年3月4日(月)

畑に植えたマラクジャ(=パッションフルーツ)が、元気に成長して、初めてひとつ花を咲かせた。この花の受粉を助けるのはたった1種類の蜂しかいないらしく、自然のままで放っておくと、花が咲いてもちゃんと実をつける確率はかなり低いため、人間の手で受粉を助けてやらないといけないらしい。

2013年3月5日(火)

3月に入ってからたくさんトンボが飛び交うようになった。先日、玄関前の外階段のところでずいぶんたくさん飛び交っていたので写真を撮ってみた。でも、小さ過ぎて見えないかなあ~?赤トンボではないけれど、日本でよく見かける黒っぽいトンボともちょっと違い、黄色がかったトンボだった。家の南の三角地帯のセドリーニョの木のところでもたくさん飛んでいた。ここではトンボを夏の終わりから秋の初めにかけて良く見かけるので、季節は確実に秋に向かっているということなのだと思う。

2013年3月6日(水)

昨日は、はるの3回目の予防接種のために、午前中ボトゥカトゥのペットクリニックに行ってきた。ここでもいつも何匹かの患者犬が待合室で待っているけれど、大学病院のように長く待たされることはないので助かる。ワクチンを打ってもらう前の体重測定では、はるの体重は4キロになっていた。この子はひょっとしてモビよりも大きくなるかもしれないと、ドトーラ・ヴィットリアが言っていた。それって肥満児になるかもしれないということ?モビが太っているのは薬の副作用なので、はるがモビのように太ることはないと思うのだけれどなあ・・・それとも太るという意味ではなくて、ただ体が大きくなるということなのだろうか?うちに来た2ヶ月あまり前と比べると、ずいぶん大きくなっているのは事実。はるは本当によく食べるのだけれど、現在太っているわけでもなく、過食をさせているつもりもないのだけれど・・・食事の量を減らした方がいいのかなあ・・・?

2013年3月7日(木)

昨日の朝、サンパウロの岡井さんからお電話をいただいた。岡井さんはイビウーナの香山さんの古くからのご友人で、私たちがお隣で居候生活をしている時に、奥さんと息子さん夫婦と一緒に訪ねてきてくださったことがある。「楽書倶楽部」の第17号に『「香山文庫」継承の重責』という私の寄稿文が掲載されたので、ご報告を兼ねてそのコピーを添えてお手紙を差し上げたら、早速お電話をくださった。昨年、心筋梗塞で入院し、以来呼吸が苦しく外出はままならなくなったため、話したいこともあるから訪ねて行きたいのだけれど、出かけて行けないとおっしゃっていた。香山さんと同い年で今年88歳になられるのだから、いろいろ体に支障が出てくるのは仕方のないことかもしれない。でも、香山さんといい、岡井さんといい、今でも頭ははっきりとしておられるのだからすごいことだなと思う。

家の東側の物干しの側、お隣との境界の柵の前に可憐な花が咲いていたので、写真に撮ってみた。ここで咲いている野の花は黄色いものが多いけれど、時々、こんな風に赤い色のものもある。

だいぶ前にエリゼウからもらって、外階段の横の花壇に植えた植物が成長して、最近ピンクの花をいくつか咲かせている。ちょっと芙蓉の花のような感じだけれど、何という名前の花なのかは知らない。

2013年3月8日(金)

昨日は正午過ぎに、サンパウロとイビウーナの間の、イビウーナ寄りにあるコチアから加藤きよみさんという日系3世の70代の女性と、そのアシスタントのクリスチーナさんと、このふたりとの関係はよくわからないのだけれど、ポルトガル人の歴史家という男性の3人が、エリゼウの紹介で我が家にやってきた。コチアは昔日系人が作った南米最大のコチア産業組合があったことで有名な町。きよみさんはそこでコレジオ・コスモスという名前の学校をやっていたのだけれど、体を壊しのを機に学校は閉校し、これからは少し違うプロジェクトを始めようとしているということだった。ブラジルにある孟宗竹はコチアの人が日本から持ってきて、あちこちに広がったらしく、パーディーニョにジャトバス研究所という竹を育てているファゼンダがあるので関心を持ったらしい。エリゼウがインターネット上の竹栽培などに関するディスカッショングループで活発に発言しているので、インターネットでブラジルの竹に関して検索すると、パーディーニョが出てくるからだろうとエドソンは言っていた。それで何週間か前、まず、ジャトバス研究所を訪ねて、エリゼウやサンパウロの事務所の人たちと会って話したのだけれど、今回は午前中パーディーニョの市長と会って話して来たということだった。それで何でうちへ?と思うのだけれど、前回来た際エリゼウからご近所に奥さんが日本人のシャカラがあると聞いて、訪ねてみようと思ったらしい。日系の老夫婦が暮らしていると思ったらしいのだけれど、結構若いカリオカ(リオっ子)と日本人の夫婦だったので驚いたようだった。それにしても70代で3世ということは、ご先祖は笠戸丸かそれに近い初期の移民なのだろうと思う。この年齢でまた新しいプロジェクトに取り組もうとしているそのバイタリティーはすごいなあ。

この人たちが来て1時間ほどするとお天気が下り坂になり、帰って行った午後2時前後が一番ひどく、ベランダでお見送りする際、吹きつける雨で体がびしょ濡れになった。そして、嵐が収まってブレーカーを戻して電気をつけようとしたら、停電していた。ここに入ってくる道路の入り口のところにあるカロリナ・ソイルも停電のようで電話がつながらないため、雨が止んでからエドソンが自転車でカロリナ・ソイルまで出かけて行った。雷がここの電信柱に落ちたらしく、電気会社の修理を待つしかないことがわかった。何しろ我が家の電気はカロリナ・ソイルのところからつながっているので、ここが停電だと、当然のことながら我が家も停電になる。結局、停電のため午後は何もできず、夕飯はろうそくの灯りで食べ、午後8時前頃ようやく電気がついてくれ、やれやれとほっとした。

2013年3月9日(土)

以下は、ニッケイ新聞2013年2月26日付け「コラム 樹海」からの転載。昨日、ここの停電について書いたけれど、実はこの田舎町よりも、大都市のサンパウロの方が停電の頻度が高いというのが現実。

『例年なら「カーニバルを過ぎたら涼しくなる」というのに、今年の夏はその前に冷え込み、その後が暑い。ところが、日中は暑くなり午後は雨のパターンがしばらく続くと聞いた直後の20日、「夕べから気候が変わった」と呟いた人がいた▼インターネットでは暑さが続くとあったが…と思いつつ見ていたら、少なくとも聖市ではその日から、雷や雨はあっても午後の豪雨が止み、脱帽のコラム子。インターネットなどの情報に頼り、自分で判断したり風を読んだり出来ない事を痛感すると共に、こういう事でもないと自分が集めた知識や情報に頼る癖は直らず、他者の判断力や知識を尊重する事を忘れるのだろうとも考える▼「自分が出来る事や知っている事は微々たるものだ」と知る人は他者に教えや助けを請う事もいとわないが、自分は出来る、自分は知っていると思いたい、思わせたいのも人の常。知ったかぶりをしてえらぶる若者の姿にかつての自分(今も?)を重ね、何も知らないと知る人はより深くより広い知を求めるようになるのにと考える▼ソクラテスの「無知の知」との言葉や、「賢い人は愚かな人からも学ぶが愚かな人は賢い人からも学ばない」という本で生齧りの言葉が思い出される。気候が変わって「降れば土砂降り」の状況が終われば、雷鳴、豪雨、停電の連鎖を恐れる必要がなくなるから、少し安心して仕事も出来る。そういえば、豪雨・停電で何も出来なくなった先週月曜午後、場所や機械を貸して下さった方や編集部の仕事が終わるまで待っていてくれた他部門の人もいた。色々な人や先人の厚意、知恵に支えられ、毎日が過ぎてゆく。(み)』

2013年3月10日(日)

昨日、「楽書倶楽部」の前園さんから、中村さんご夫妻がリベルダージの事務所に訪ねてくれたとメールがあり、みんなで一緒に撮った写真を送ってきてくださった。抗ガン剤の投与量が減ったので、副作用が激減したと言っておられたけれど、外出できるほどに体調が回復しておられることをうれしく思った。左から、中村さん、中村さんの奥さん、前園さん、右のおふたりはおそらく同人の方で、同じように前園さんを訪ねていた方達ではないかと思う。

昨日の午後3時頃お散歩から戻り、台所で枝豆やオクラを茹でた後、居間に置いたベッドの中のモビの様子を見に行くと。巨大になった首の腫瘍から出血していた。腫瘍が大きく盛り上がってきてかゆいのか、皮膚が薄くなっているところを後ろ足で引っかいて出血したようだった。急いでモビの後ろ足にテープを巻いて傷口をこれ以上引っかかないようにしてから、ガーゼや薬を取りに行き、傷口をアルコール消毒し、ガーゼに薬を塗って傷口を覆い、首に布を巻いて処置した。手術をするためには抗ガン剤治療をして腫瘍を縮小させなければならないのだけれど、抗ガン剤治療が続くと、その副作用で体調を崩すようになった。それで治療をストップすると、また腫瘍がすごい勢いで大きくなって、今にも破裂しそうになるというのを繰り返している。モビが体調を崩すことなく、この腫瘍の成長を止めることはできないものかなあ・・・今のところモビに苦しそうな様子はないけれど、この状態が続けば確実にモビの体はガンに蝕まれて行く。それを先延ばしするためには手術が必要。でも今の状態では手術はできない。ああ~・・・

2013年3月11日(月)

野性のミツバチのジャタイが竹の中に作った巣を、3週間ほど前またエリゼウからもらった。昨日の朝、エドソンがこれを新しい巣箱に移すというので、その過程を写真に撮ってみた。まず、ところどころにワックスを置いた新しい巣箱を開けて用意。

次の写真は、巣が中にある竹の外観。

次の写真は、この竹を半分に割っていることろ。

竹を半分に割ると、中はこんな具合になっていた。右側の上半分に巣があった。

次の写真は、この巣の部分を、新しい巣箱に移しているところ。この作業の過程で、ほんの少し(コップ半分くらい)のハチミツを収穫することができた。

2013年3月12日(火)

昨日はモビの受診日だったので、いつものように大学病院に行ってきた。ドトー・ギリェーミ、ドトー・レオナード、ドトーラ・ブルーナという新しいレジデントが10日くらい前から加わり6人体制になっていた。でも、新しい人たちはまだ慣れていないので、患者をさばく要領や効率がとても悪かった。昨日、モビはドトー・ギリェーミの診察を受けた。古いレジデントの人たちはモビのことをよく知っているので、モビの状態を遡って説明する必要はないのだけれど、彼はカルテも読まずにモビの状態について聞いてくるものだから、エドソンが説明を繰り返しながら少しイライラしているのが見て取れた。しかも採血もあまり上手ではなく、何度も何度も針を刺して血管を探るものだから、いつもは針を刺されてもおとなしく、ピクリともしないモビが痛みで飛び上がり、ひやりとさせられた。この血液検査の結果は1時間くらいで上がって来たものの、肝臓の状態を見るための血液も採らなければならないことを見落としていたことがわかり、再度採血するはめになった。でもやはりうまく採血できず、見かねてドトー・エマーソンが助け船を出してくれた。その結果を待って、女性教授と話をするということだったのに、待てど暮らせど血液検査の結果が出てこず、教授もやってこない状態で、放っておかれたような感じだった。そうしたら通りかかったロマンスグレーの男性教授が私たちに声をかけてくれ、ドトー・ギリェーミの代わりに私たちのフォローアップをするようにドトー・ジョアオンに指示してくれたので助かった。でなかったら、お昼を過ぎてもまだ待たされていたのではないかと思う。

夕方、ドトー・ジョアオンからメールが来て、検査の結果、モビの肝臓の状態がかなり悪いので、水曜日の午後超音波検査に戻ってきてほしいということだった。でも、モビは以前のような吐き気もなければ、いつも通りの食欲があって、肝機能が弱っているような症状はまったくないのにどうしたことだろう?通常の血液検査ではモビの状態がほぼ正常に戻っているので、再度の抗ガン剤治療はせずに、今の体力がある状態で手術をした方がいいかもしれないという判断になりそうな感じだったけれど、肝臓の状態が悪くては手術はできないだろうな。ちなみにモビの栄養は腫瘍の方にもだいぶ盗られているようで、体重が減ってきているようだとは感じていたけれど、体重測定の結果、11.1キロと、以前よりも1キロ余り減っていた。この数字には大きな腫瘍の重さも入っているわけだから、実質体重は10キロ近くに減っていることになる。

モビのカルテのファイルの裏表紙に、いつだったかドトーラ・ルシアナが何かを書いていたことがある。昨日、エドソンがドトー・ギリェーミにモビのことを説明している間、何気なくその書かれているものを読んでみたら、次のように書いてあった。Aos proximos residentes. Ésse é um cão especial. Cuide dele com carinho. (To the next residents. This is a special dog. Please take care of him with kindness. =次のレジデントの皆さんへ、この子は特別な犬です。親切に診てあげてくいださい。)このメモの周りにはハートマークが4つと、最後にスマイリーの顔が描いてあって、いかにもドトーラ・ルシアナらしいさりげない優しさを感じ、鼻の奥がつんとなり、涙が出そうになった。

2013年3月13日(水)

ダイニングルームの窓際に置いていた小さな鉢のとうがらしが、やせ細ってひょろひょろになり、今にも枯れそうになったので、いつだったかエドソンが畑に植え替えたら、しばらくして元気を取り戻し、今ではしっかり葉が茂り、たくさん赤や緑のとうがらしをつけている。鉢の中の狭い環境よりも、畑に植えたり地植えにした方が元気に育つものなんだなあと感心してしまった。

2013年3月14日(木)

モビの大学病院での超音波検査は私の聞き間違いで水曜日ではなく、今日の午後からだった。月曜日に大学病院で受診した際はまだ何の兆候もなかったのだけれど、モビの腫瘍が耳に広がってきているのに昨日気づいた。そして、首の腫瘍を足で引っかかないように、首の回りにいつも布を巻いているのに、今朝朝食後(と言っても、モビは検査があるので朝食抜きだったのだけれど)のお散歩から戻ると、首から出血していた。もうこうなると、肝臓の状態がどうあれ手術はできないのではないだろうか。この3週間足らずの間の腫瘍の成長のスピードは恐ろしいほどで、ただただ唖然とするばかり。ここまで来てしまったらもう手の施しようがないのではないかと思う。そして、これからモビがどんなことになるのか、考えただけでも恐ろしい。私たちがブラジルに来て丸4年が過ぎ、昨日から5年目に入った。その間3年半余りをモビと一緒に暮らしてきて、2年半近くの間モビはガンと闘ってきたけれど、後どれだけ頑張れるか・・・?モビとのお別れが確実に近づいていると思うと、気が滅入る・・・

今、外ベランダ横のバラの花壇で、黄色にピンクが混ざったバラがたくさん花を咲かせている。

2013年3月15日(金)

昨日の超音波検査の結果、モビの肝臓は薬の副作用で脂肪が増えているものの、特に異常はなく、他の臓器にも異常はなかった。血液検査の結果、肝臓の状態がとても悪いというのは何だったんだろう?それで再度血液検査をして、その結果、1種類の数値が低い以外は、ほぼ正常なので、抗ガン剤治療をすることになった。でも、レジデントが増えたと言っても、半数は手術で手を取られていたらしく、ほとんどドトー・エマーソンひとりで診療している感じで、治療を始めてもらうまでにとても時間がかかった。さらに昨日も女性教授のドトーラ・ヴァレリアが捕まらず、先日のロマンスグレーの教授、ドトー・ジョアキンに来てもらって、モビの治療に関して助言を受けた。結論として、抗ガン剤治療を1~2回して、腫瘍の縮小が確認されたらすぐ手術という方向で行くことになった。

抗ガン剤の点滴治療は新しいレジデントのドトーラ・ブルーナがしてくれたのだけれど、彼女はガンの専門医を目指しているのだそうで、彼女の対応に対するエドソンの評価は結構良かった。抗ガン剤に対して抵抗力をつけてきている腫瘍に対して、どこまで効果が出るか、副作用でまたモビが体調を崩すかもしれないので、不安を抱えながらの治療となった。昨日は午後2時の診療再開前に病院に着いて、超音波検査のところで待たされ、外科に戻ってさらに待たされ、治療を終えて病院を出たときはすでに午後7時を過ぎていた。それからボトゥカトゥの薬局に処方された薬を買いに行き、帰宅したら8時半近くになっていた。モビは検査を受けるために朝食と昼食は抜きだったので、私たちとはるは朝食は食べたものの、お腹を空かせたモビの前でお昼を食べるのも忍びなく、お昼を抜いたため、帰宅したときには疲れと空腹で、エドソンも私もヘロヘロになっていた。検査の後でモビとはるに食べさせようと彼らのお昼は持参したのだけれで、自分たちの食事のことは頭になかったため。後でクラッカーかチョコレートでも持って行けば良かったと後悔しきり。

次の写真は今朝、朝食を食べた後のモビ。腫瘍がさらに拡がって、左眼のまぶたまで来ているので、まぶたが腫れている。抗ガン剤が副作用を起こさず、効果を発揮して腫瘍を縮小してくれることを祈るばかり。

2013年3月16日(土)

昨日の午前中、エドソンがモビに痛み止め兼炎症止めの薬を飲ませてくれたせいか、夕方にはモビの左眼のまぶたの腫れが引いて、耳の腫れも少し薄くなってきた。エドソンの話だと、木曜日にドトー・エマーソンが助言を求めた教授のドトー・ジョアキンは、モビの耳の腫れは腫瘍が拡がったものではないだろうと言っていたそうだから、ただの炎症だったのかな?何はともあれ、モビはこんな状況でも結構元気でご機嫌が良く、昨日は2度ほど入り口ゲートまでお散歩することができ、家の中でも私が移動するとモビも尻尾をフリフリついてまわり、エドソンが外出から戻ると、以前のように玄関まで行ってお出迎えをしたりして、体調は悪くないようだ。ただ、薬の副作用で夜間の頻尿があるので、まったく元気と言うわけではないのだけれど、私たちのことを信頼しきって、愛情を注いでくれるモビのことがとても愛おしい。最近は、毎日のようにエドソンと、モビはもうあまり長くは生きられないかもしれないけれど、最期まで頑張ろうと話し合っている。

次の写真は、家の東側にミツバチのジャタイのために植えたアモー・アガハジーニョというつる性の植物。今かわいいピンクの花を咲かせている。この植物が花を咲かせたのはこれが初めて。ちょっとブーゲンビリアを小さくしたような感じの花の形をしている。

2013年3月17日(日)

今日は午前10時頃、先日訪ねてきたキヨミさんがまた訪ねてくることになっていたのだけれど、予定よりもだいぶ早く9時過ぎに息子さんが運転する車で到着した。今回は彼女のプロジェクトに関してもう少し話したいということでの訪問だった。でも、前回は観光プロジェクトと言っていたのに、今回は11月にコチアで開催する竹のフェスティバルに変わっていて、どういうことなんだろう?と少し不思議に思った。そして、どうして私たちにそんなに関心があるのか、私たちから何を引き出そうとしているのか、やはり何だかよくわからなかった。次の写真は、居間で私たちが話している間、側で静かにしているモビとはる。この写真ではモビがはるの体を枕にして頭を置いているけれど、反対にはるがモビの体を枕にしていることもある。とにかくはるは常にモビとくっついていたいらしく、モビがはるの小さなベッドの中にいても、無理やり隙間に入り込んでぎゅうぎゅう詰めになっていることもある。

次の写真は、昼食が終わって記念にパチリ。左から、キヨミさんの息子のヒカロさん、キヨミさん、エドソン、そしてエリゼウ。前回の話ではパーディーニョの竹に焦点を当てた観光プロジェクトを考えていると言っていたので、エリゼウにも来てもらったのだけれど、何だか話が変わっていて、ちょっとキツネにつままれたような感じになった。まあ、世の中にはいろんな人がいるのだとつくづく思う。昨日も雨だったけれど、今日も朝から冷たい雨が降り続いている。

2013年3月18日(月)

土曜日から冷たい雨が降り続いている。昨日も夜じゅう雨だったので、夜中に何度もモビがオシッコに行くのに、その度に私はウィンドブレーカーをひっかけて、モビのために傘を差し掛けてやらなくてはならなかった。夜が明けて雨は止んだものの、今朝は冷たい南風が吹き荒れている。昨日は毛布を1枚余分に掛けて寝たのだけれど、掛け布団でもいいくらいだった。このところ月曜日にモビの通院が重なったりして、ハファエウの英語のレッスンはキャンセル続きだったのだけれど、今日は、ハファエウが早朝から仕事に出なくてはならなくなって、キャンセルになった。最近、モト(moto=オートバイ)に乗り始めたらしいヴィトーが事故で足に軽傷を負ったことが原因らしい。火曜日のエリカとルーカスのレッスンも年明け以来、エリカの仕事が忙しくずっと休講状態が続いている。エリカはパーディーニョの町でお母さんが開いた衣料品店を引き継いで去年から切り盛りしているのだけれど、今年は、さらに隣町のイタチンガにも新しく店をオープンさせたので忙しいらしい。でも、こちらもモビのことがあって精神的にバタバタしていて余裕がないので、レッスンがなくて何だかちょうどいい感じで助かっている。ちなみに、以前ヴィトーたちと週末にレッスンに来ていたルアナは、予定通り去年の11月にバツイチの男性と結婚してイタチンガに住んでいるので、エリカのイタチンガの店で仕事を始めたらしい。ルアナは能力があって気立てもいい子なので、良かったなと思う。

次の写真は、昨日の夜、夕食にありつくのを待っているモビとはる。そして、2枚目は今朝、朝食前のモビとはる。私たちの食事が終わるまでだいたい寝て待っているのだけれど、私たちの食事が終わり、私が片付けを始めると、もうすぐ食事にありつけるのがわかるので、一斉に私に注目が集まる。照れるな~、そんなに見つめられると・・・

2013年3月19日(火)

ニッケイ新聞2013年3月6日付けブラジル国内ニュースに次のような記事があった。日本でも公開されるかもしれないので、その前情報として以下に転載してみる。コレーガス(colegas)は、英語でcolleaguesとかfriendsの意味。

〃いろんな人たちの一部〃=ダウン症の主演俳優が激白
話題の映画「コレーガス」

ダウン症の若者たちの日常を追った映画「コレーガス(仲間)」が1日から全国公開され、話題を呼んでいる。4日付フォーリャ紙が報じている。

「コレーガス」は、ダウン症の若者たちがそれぞれの夢を抱きながらアルゼンチンのブエノス・アイレスへ車で旅をする間の人間模様を追った作品で、12年8月に南大河州で行われたグラマード映画祭で公開されるとたちまち話題となり、グランプリを獲得。同年10月のサンパウロ国際映画祭では最優秀伯国映画賞を受賞し、現在は聖市だけで39の映画館で公開されるまでになっている。

この映画は主演俳優で聖市西部ペルジゼス在住のアリエル・ゴールデンベルグ(32)の発案で作られたもので、4日付フォーリャ紙は同氏にインタビューを行った。

アリエルは、「自身が一般の人と違うという意識があるか」との質問にも、「それはない。僕たちは染色体が人よりも1本多いというだけで、世にいるいろんなタイプの人間の一部に過ぎない」と自信を持って答えている。

この「コレーガス」は単にダウン症を扱っているだけでなく、これまでの映画で見られることのなかったダウン症同士の男女の恋愛も克明に描いている。この映画でのアリエルの恋人役は実生活で9年の結婚生活を送っているリタ・ポック(32)だ。アリエルはリタを「純粋な心を持った女性」と称えている。

母親のコリーネさんについては「安心」をくれたと評し、「(母との関係では)愛情以上に〃支え〃が大切」と語った。自分を通常の子供と同じ学校に入学させた後、ダウン症の生徒のための学校にも行かせ、テレビ局と交渉して俳優としての仕事を獲得するなどして、自分を支えてくれる母親への信頼を表した。

「この映画の成功のあとしたいこと」に「俳優としての仕事を確立すること」と答えたアリエルにはもうひとつの夢がある。それは、この映画を、アリエルの憧れの米国俳優ショーン・ペンに見てもらうことだ。それは、ペンが幼い娘の養育権獲得のために闘う知的障害者の男やもめを演じた映画「アイ・アム・サム」が、アリエルが俳優を志す契機となったからだ。アリエルは現在ネットで、ペンが来伯するための運動を起こしており、その署名は140万人にまで拡大しているという。

アリエル自身は、ダウン症の人々へ「ルット(喪)をルッタ(戦い)に変えるんだ」のメッセージを残している。

2013年3月20日(水)

先週末くらいからずっとお天気が悪く、太陽が顔を出さないので気温も低い。今週初めから夜は掛け布団を掛けて寝ているのだけれど、暑くなくちょうどいい感じ。最近、気温が低くなったからなのか、はるもベッドの中の毛布の下に潜り込もうとするしぐさをするので、そういうときは毛布をかけてやると、毛布の中で気持ちよさそうに寝たりする。今日も南風が強く、時々時雨れたりしている。去年の10月中旬、ドナ・ベティからもらった鉢植えのランは、3ヶ月近く白い花が咲き続けて楽しませてくれたけれど、花が終わってからダイニングルームの窓辺に置いていたら、先週くらいからまた新しい花芽をつけ始めた。その隣りの小さなサボテンの鉢植えは、繰り返し1つ2つ、花を咲かせ続けている。

2013年3月21日(木)

昨晩から今朝にかけて、モビが3度も起きてオシッコに行くというのだけれど、最初の2回は昨日のお昼前から降り出した雨が相変わらずザーザーと激しく降っていたので、「我慢して」とモビをベッドに連れ戻した。でも、3回目は小降りになっていたので、一緒に起きたはるも連れてオシッコに行くことにした。玄関ドアを開けるとモビがすごい勢いで飛び出して、何かを追っかけて捕まえたような騒ぎと同時に、私の腕の中のはるがワンと吠えた。急いで靴をはいてベランダに出て見ると、モビが口に何かをくわえている。最初は小鳥かと思ったのだけれど、この辺で時々見かける玉子大の野ネズミとは違い、結構大きなドブネズミのようだった。モビに「食べちゃだめ!口から放して」と何度言ってもしっかり口をつむって放そうとしない。はるの吠えた声でエドソンも起きてきて、ふたりでモビの口を開けさせてネズミを取り上げようと大格闘。普段は聞き分けのいいモビも、ハンターの血が騒いで捕まえた獲物は絶対放さないという感じで口を開けようとしない。エドソンが持ってきた歯ブラシの柄をモビの口に差し込んでモビの口がほんの少し開いた隙に、私が雑巾でネズミの体を包んで引っ張り出し、ようやく取り上げることができた。ああ、やれやれ・・・この格闘を終えて家の中に戻ると、午前4時近くだった。最近、夜中に必ず2~3回モビが起きるので、エドソンも私もちょっと寝不足。

はるは昨日で生後5ヶ月になった。体もずいぶん大きくなった。次の写真は、今朝のはる。朝食後に台所に置いたベッドから出てあちこち走り回っているので、「ベッドに戻りなさい」と言っているのだけれど、ひたすらハッピーにはしゃぐばかりで、こちらも今朝はなかなか言うことを聞いてくれない。

2013年3月22日(金)

以下は、ニッケイ新聞2013年3月8日付け日系社会ニュース「大耳小耳」からの転載。この記事が書かれたのは、今年に入ってからまだ2ヶ月ちょっとだというのに、停電がもう10回以上も起きているなんて、サンパウロは大都会なのに、片田舎のここよもひどいなあ。今日もお天気は相変わらずすっきりしない曇り空。リオデジャネイロ州のペトロポリスでは、夏が終わったというのに、また大雨で土砂崩れが発生し、犠牲者が出ているとニュースで言っていた。とにかく今年は雨が多い。

『7日午前、またもや本紙がある地域が停電。雨が降ったわけでもなく、全く理由が分からない。今年に入って10回以上、停電が起きている。エレトロ・パウロによれば、「戻るのは3時過ぎ」という。やり場のない怒りを胸に、紙面づくりに必要なコンピュータ機器を知人の事務所に運ぶや否や電気が戻った。うんざりしながら、編集部へ後戻り。新聞作りもつらいよ、の一幕。』

2013年3月23日(土)

モビの次回の抗ガン剤治療は、月曜日に予定されていたのだけれど、採血のために土曜日に大学病院に来てほしいということで、今日、いつものように朝一番で大学病院に行ってきた。土曜日で急患の患者がまだ来ておらず、採血だけだったので、長く待たされることなく病院を出ることができ、その後、薬局や、建築資材の店、スーパーなど4軒をはしごしてもお昼前には帰宅できた。でも午後、ドトーラ・ブルーナからのメールで、血液検査の結果、モビの白血球数が減少しているので、月曜日の抗ガン剤治療はキャンセルになったと連絡があった。抗ガン剤を投与しても腫瘍が縮小しない一方で、モビの血液を攻撃して白血球が減っているというのは、困ったものだ。でも、抗ガン剤治療をしなければ、腫瘍はどんどん大きくなってしまうのだから、全く効果が出ていないと言うわけではない。ガン治療というのは勝ち目のないlosing battleだとつくづく思う。

ここ1ヶ月ばかり毎週土曜日に、エドソンは手伝いのジョゼに助けてもらい、うちと西隣のコーヒー農園との間にある森に入って井戸を作る作業をしている。以前、ここにやって来た井戸を掘る会社に、取水口を取り付けて自前のタンクを取り付けてもらったのだけれど、これがちょっといい加減な仕事だったようで、うまく水が湧いているところまでパイプが届いていないことがわかった。本来ならエディがやってくれると約束した仕事なのだけれど、いつまでもここの仕事に戻って来てくれないので、それで、ここの湧水が出ているところに大きな穴を掘り、井戸を作り、石を入れて、取水口を取り付ける作業を進めているのだけれど、今日はこのところしばらく続いた悪天候で、森の中はドロドロで、作業ができるような状態ではないし、大学病院に行かなければならなかったので、ジョゼにはお休みしてもらった。午後、エドソンがこの井戸のために掘った穴の写真を撮りに行ったら、このところ毎日のように降った激しい雨で、せっかく掘った穴の内部が少し崩れていた。この穴の大きさは縦横2X3メートル、深さ2メートル。完成にはまだ時間がかかるけれど、この井戸というか、源泉の取水口ができれば自前の水を確保することができる。

2013年3月24日(日)

今朝起きてからしばらくは何ともなかったのに、ちょっと目を離した隙に首を引っかいたのか、着替えをして台所にモビたちのベッドを移動させようとした際、側に来たモビを見ると首から出血していた。それで、エドソンが急いでモビの首の傷を消毒してくれている間に、私はガーゼや、包帯、化膿止めの軟膏などを用意して、連携プレーで処置した。こういう時のために、伸縮性の包帯をエドソンに買ってきておいてもらったのが役立った。首に襟巻きをしているとこれまで首を引っかいたりしなかったのに、皮膚が薄くなって自然に出血したのだろうか?次の写真は、首に包帯を巻いて横になっているモビ。

今日は、久しぶりに朝から太陽が顔を出したので、午前中は洗濯に勤しんだ。1週間ごとに取り替えるモビの毛布も2日がかりで洗っておいたのを、ようやく外に干すことができた。午後からはこの秋2度目のアップルケーキを焼いた。今、スーパーにはたくさんいろいろな種類のリンゴが並んでいて、日本の紅玉のような小粒のリンゴは1ダースくらいが袋に入れられ安く売られている。アップルケーキやパイに使うリンゴはこの安いリンゴのお世話になっている。リンゴのお菓子を作る時期になると「秋だなあ~」と思う。

2013年3月25日(月)

以下は、ニッケイ新聞2013年3月13日付けの日系社会ニュースからの転載。ブラジルに神楽保存会があるというのもおもしろいなあ・・・広島の食文化としてお好み焼きというのは当然だけれど、尾道ラーメンというのは初めて聞いた。

古里の文化、広めたい=神楽団が初の「広島祭り」

広島の食文化を知ってもらおうとブラジル神楽保存会(道菅武保代表)が、広島文化センターでブラジル初となる「広島祭り」を開き、来場した約400人がお好み焼きや尾道ラーメンなどに舌鼓を打った。

同会は1969年に結成されたが活動は低迷。2005年に元県費研修生らを中心に復活、現在約20会員がブラジル各地のイベントで舞台を披露している。本イベントは11月にある島根県益田市での公演のための訪日費用捻出が目的。

03年度の県費研修生でイベントのまとめ役、中森紳介さん(33、二世)は「実現すれば日本での舞台は初めて。本場の人たちにブラジル流の神楽を見てもらいたい」とヘラを両手に汗をぬぐい笑った。

道菅代表(68)は「若い人たちが自主的にイベントを実施するのは頼もしい」と笑顔を見せ、大西博己県人会長(68、二世)も「県人会を担う次世代が交流事業を始めた。協力していきたい」と話した。

谷口範之(87)、節子さん(84)夫妻は「父祖の文化を伝えようと頑張っているのは嬉しい」と目を細めていた。

お好み焼きは300、ラーメンは200食を完売し、ビンゴやバンド演奏、ダンスなどのアトラクションで会場は終日にぎわった。

2013年3月26日(火)

去年、日本語のレッスンに来ていたライラは、7月の冬休み中はお休みして、新学期からレッスンに戻って来ると言っていたけれど、家計が厳しいからというような理由で、結局戻ってこなかった。そして、パーディーニョの高校で教えていた彼女の母親のシディは、勤め始めてすぐに学校でスクール・コーディネーターの人と何かトラブルがあったようで、1年勤めただけで。12月いっぱいで仕事を辞めてしまい、どこかに引越して行ってしまった。私のレッスン料2ヶ月分だけでなく、パウロの会社のインターネット接続サービス料金も1ヶ月分踏み倒して消えてしまった。このお母さんの娘として育つライラは一体どんな大人になるのだろう?そして、土曜日に学校の英語の勉強を見てあげていたパウロの娘のイザベラは、今年から学校の友達が行っているボトゥカトゥの英語学校に、友達と一緒に行くことになり、お陰で土曜日も私はフリーになった。エリカとルーカスも、エリカがイタチンガに新しい店を開店して忙しくなり、ずっと休んでいるので、年が明けて以来、英語のレッスンはハファエウとエリゼウのプライベートレッスンが週に2日あるだけになっていた。モビのこともあって寝不足の日が多いので、まあその方が今は気が楽でいいと思っていたら、先週、パーディーニョの町で林業用機械の製作所を経営しているジミーとジェフの兄弟から連絡があり、6月にスウェーデンのストックホルムである機械の国際フェアに行くので、その旅行に役立つ基本的なことを勉強したいという依頼があった。それで、今週から出発までの10週間、月曜と水曜の夜と土曜の午後の週3日の集中レッスンをすることになった。次の写真は、昨日からレッスンを始めたジミー(右)とジェフ(左)。

2013年3月27日(水)

中国新聞インターネットサイトの「海外リポート」のコーナーに、昨日3月26日付けで、私の40本目の記事となる『移民史資料「香山文庫」を継承』と題するブラジルリポートが掲載された。中国新聞のサイトは、こちらへ

月曜日に予定されていたモビの抗ガン剤治療は、薬の副作用でモビの免疫が下がっているためキャンセルになった。その上、月曜日の夜、ドトーラ・ブルーナから電話で、もうひとつの血液検査の結果、またモビの肝機能が弱っているので、薬を処方するから取りにきてという連絡があった。それで今日、いつものように朝一番で大学病院へ行くと、処方箋をもらうだけでなく 、また血液検査をすることになった。モビの首の出血してジュクジュクになっている部分が広がり、炎症を起こしているため、それが起爆剤となってモビの免疫数値が上がったらしく、血液検査の結果が非常に良かったらしい。それで、モビを診察してくれたヴァレリア教授が、モビの体調が安定していて、今はまだ手術を受られる十分な体力がある。おそらくモビにとってはこれが手術を受けることができる最後のチャンスだろうから、手術をしましょうと言う。腫瘍がとても大きく、左耳を切除したり、背中の皮膚を首に移植したりしなければならないので、とても大変な手術になるけれど、このまま何もしなければ腫瘍が破れて出血が続き、患部が化膿して感染症をおこし、モビの状態は坂を転げ落ちるように悪くなるだろうから、難しい決断だったけれど、手術をすることに同意した。

次の写真は、居間の横の扉のところで外を眺めているはる。以前はモビがここに座ってよく外を眺めていたけれど、最近のモビは横になっていることが多く、ここに座って外を眺める姿はめったに見られなくなった。その代わりに、はるが今同じことをしている。5ヶ月の誕生日を過ぎたころからはるの乳歯が永久歯に生え変わる時期になったのか、毎日のようにベッドや床に、抜け落ちた歯が転がっているようになった。モビが残された生を精一杯生きようとしている一方で、はるは確実に成長の道を歩んでいるんだなあ・・・

2013年3月28日(木)

今朝、大学病院のドトー・レオナードから電話があり、モビの手術の予定が、執刀するヴァレリア教授の都合で、月曜日の午後から火曜日の午後に変更になったと連絡があった。でも、モビの手術を前にした、心臓の検査とレントゲンの検査の日程に変更はなく、今日の午後行われるということで、予定通り検査に行ってきた。心電図の検査もレントゲンの検査も、モビはエドソンの言うことをよく聞いておとなしく受けてくれたけれど、これがはるだったらこうはいなかいだろうなあ、と思った。モビは本当に聞き分けのいい特別な子だと思う。

大学病院からパーディーニョに戻ると4時半を回っていた。ジャナイーナから渡したいものがあるから事務所に寄ってと言われているとエドソンが言うので、帰宅する前に事務所に寄ると、イースターエッグのプレゼントだった。今年は3月31日(日)がパスコア(Páscoa=イースター)なので、その前の一週間はセマナ・サンタ(semana santa=聖週間)とブラジルでは呼ばれている。スーパーなどでは先月半ば過ぎくらいから、ジャナイーナがくれたような卵の形をした大きなチョコレートで溢れ返っているので、スーパーに行く度に、「ああ、イースターの時期か・・・」と思っていたけれど、今はモビのことで頭が一杯なので、イースターのことはすっかり忘れていた。でも、そう言えば明日の金曜日は、パイシャオン(Paixão=Good Friday)で休日だから、月曜日にモビの手術でジミーとジェフのレッスンができない代わりに、明日レッスンをすることを、昨日の夜のレッスンでふたりと話し合ったばかりだったんだ・・・。

2013年3月29日(金)

中国新聞の「海外リポート」のコーナーに書いた記事の本数が、この火曜日に掲載された記事で、40本になった。2009年の4月から記事を書き始めたので、ちょうど丸4年になる。最近はすっかりペースダウンしてしまったけれど、トータル4年で40本というのは悪くない数字かな?と思う。これを記念して、以下に、これまでの4年間に書いて、サイトに掲載された記事のリストを記録しておくことにした。2011年3月の31本目の記事からサイトがリニューアルされて移動したため、せっかくこのブログで各記事にリンクをはっているのに、旧サイトへのアクセスはできなくなり、30本の記事は読めなくなってしまっている。さらに去年からは字数制限が加えられ長い記事は書けなくなった。自由に書かせてもらえた旧サイトの記事は、いろいろリサーチして時間をかけて書いたものが少なくないので、読めなくなってしまい、とても残念。

中国新聞「海外リポート」掲載記事一覧

(2009年)
1、5月17日付け:「日系人の少ない町のスーパー事情」
2、5月26日付け:「広い国土 こもごも交通事情」
3、7月6日付け:「子どもは伸び伸び初等科教育」
4、7月23日付け:「『皇帝の町』に息づく日本を探訪」
5、7月25日付け:「第二の人生 第二の故郷で生き生き」
6、8月14日付け:「繊維工場の町 危機乗り越え『知の町』に」
7、9月24日付け:「小さな町の壮大なエコタウン構想」
8、10月19日付け:「多彩で奥深いブラジルの音楽」
9、11月13日付け:「インカの力『すべての道はペルーへ』」
10、12月3日付け:「日系人の教育志向と高い向上心」
11、12月25日付け:「交流の先駆け 若宮丸漂流民の数奇な運命(上)」
12、12月28日付け:「交流の先駆け 若宮丸漂流民の数奇な運命(下)」

(2010年)
13、1月29日付け:「リオ気質に戸惑いと違和感」
14、2月23日付け:「田舎町を挙げて ゆる~いカーニバル」
15、2月26日付け:「歴史・文化・産業・・・地名の由来さまざま」
16、3月23日付け:「ブラジルらしさ満点の旅の誘い」
17、4月16日付け:「ドライバーの味方ホドサーブ」
18、5月4日付け:「活発に活動 アマチュア無線愛好家」
19、6月4日付け:「日本と違う税制に戸惑いと驚き」
20、6月24日付け:「素朴な秋祭りフェスタジュニーナ」
21、7月26日付け:「知って味わって楽しい定番野菜」
22、8月23日付け:「在ブラジル被爆者<上>『生かされている』を全うする人生」
23、8月24日付け:「在ブラジル被爆者<下>日系人の誇りサンタクルス病院」
24、9月16日付け:「ブラジル大統領選迫る」
25、10月22日付け:「異色の移住地アリアンサ(上)」
26、10月23日付け:「異色の移住地アリアンサ(下)」
27、11月9日付け:「初の女性大統領が誕生」
28、12月17日付け:「豪快な牛の丸焼き『ボイ・ノ・ホレチ』」

(2011年)
29、1月21日付け:「お祭りで明けた新年」
30、2月15日付け:「リオデジャネイロ州で未曾有の豪雨災害」
31、3月11日付け:「建築士からシイタケ事業家に転身」ーーこの記事から中国新聞のサイトが移動し、この記事は新旧両方のサイトに掲載された
32、3月22日付け:「ペトロポリスで広島原爆展」
33、4月22日付け:「ブラジルの飲み物あれこれ」
34、7月13日付け:「ブラジルの冬を彩る桜」
35、9月2日付け:「ブラジル各地から日本にエール」
36、10月18日付け:「ペドレイロは万能職人?」
37、11月25日付け:「タカシ モリタ工業高校」

(2012年)
38、3月6日付け:「動物に優しい国 ブラジル」
39、12月21日付け:「ブラジルで餅つき」

(2013年)
40、3月26日付け:「移民史資料『香山文庫』を継承」

2013年3月30日(土)

ここ数日お天気がいいので、今日はジョゼに来てもらって、森の中の井戸堀り作業を続けてもらうことができた。前回の作業から、ジョゼだけでなく、同じくドナ・ベティのファゼンダで仕事をしているもう一人のジョゼにも手伝ってもらっている。この人はペドレイロの仕事もできる人なので、この井戸造りの作業には必要な人なのだそうだ。パーディーニョの町には建築資材の店が二軒あるらしいのだけれど、エディがいつも使う店は頼んだ資材を約束の日に届けれくれないことがよくあるので、エドソンはもう一軒の別の店を今回使ってみることにした。エディがこの店を使わないのは、以前この店の店員さんとの間で誤解があって、感情を害したようで、オーナーが直接謝罪したにも関わらず、以後この店を一切使わないことにしているらしい。でも、エディの使う店は当てにならないので、エドソンはこちらの店のオーナーと話をして事情を聞いてから、使ってみることにしたらしい。幸いこちらの期待に反することなく、井戸の穴の中に入れる石を今朝8時半過ぎに、セメントやパイプなどは正午頃、約束通りに届けてくれた。次の写真は、今朝トラックで届けられた石の山。

2013年3月31日(日)

今朝、朝食後にモビたちとお散歩に出たとき、秋になると花を咲かせるマナカの木に、ピンクと白の花が咲き始めていることに気づいた。下の森には何本かマナカの木があるのだけれど、次の写真のマナカは森の中ではなく、森の木々の一番外側にあるので花が咲き始めるとすぐわかる。今はまだ咲き始めたばかりで、写真では色の鮮やかさがはっきりわからないけれど、肉眼だととてもきれい。



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