Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2013年2月1日(金)

モビのお陰もあって、はるは私たちとの生活に慣れ、だいぶ落ち着いてきた。夜もまずまずよく寝てくれる。時々夜中に目を覚ましたりするけれど、ほっておいても泣いたりせず、また静かに眠りにつくことができるようになった。オシッコのコントロールも、たま~に我慢できずに、床にシャーッとしてしまうことがあるけれど、その頻度は格段に減った。私が家事をしている間、カンガルーポケットに入れて持ち歩いていたのだけれど、はるの体重が増えたこともあって、私の腰に響くようになったため、最近では仕事をしているエドソンのデスクの側にはるのベッドを置いて、その中で待つように言うと、モビも側に置いた彼のベッドの中で静かにしているので、何とかおとなしくしていてくれる。お散歩に出る際、最近は時々はるの紐を外してやるのだけれど、勝手にどこかに行ってしまうようなことはなく、飛び跳ねながらモビの後をついて行き、モビの行動を真似するようになった。人が訪ねてくると最初は興奮してしきりにその人の匂いを嗅いだり、飛びついたりするけれど、私たちが居間のソファーや、ダイニングルームの椅子に腰かけておしゃべりを始めると、モビと同じようにベッドの中で寝たり、静かにしていられる。次の写真は、ベッドの中でおとなしくしているはる。モビと同じようにひっくり返ってお腹を丸出しにしていたり、2枚目の写真のように首をぐにゅっと曲げた変な体勢で寝ていることもある。いびきをかいたり、夢を見て寝言を行ったり、行動パターンはまるでモビのミニチュア版と言った感じ。

次の写真は、今、我が家の庭で咲いているカモミールの花3株。まだやってみたことはないけれど、この花を摘んで乾燥させてから、それにお湯を注げば、カモミール・ティーができる(はず?)。

2013年2月2日(土)

以下は、ニッケイ新聞2013年1月18日付け「コラム 樹海」からの転載。この記事の中の「ソグロ」というのは、義理の父のこと。つまり奥さんのお父さん。

『大島渚監督が15日に亡くなった。妻で女優の小山明子が当地に深い縁を持つことは有名だ。パラー州のトメアスー移住地に胡椒の苗を持ち込んだ南米拓殖会社の社員・臼井牧之助が実父だからだ。その関係で約30年前の1984年9月、アマゾン入植55周年式典に同夫婦は初来伯した▼大島は『愛のコリーダ』(76年)『愛の亡霊』(78年)『戦場のメリークリスマス』(83年)と立て続けに話題作を発表した絶頂期だった▼当時のパ紙をひっくり返すと、同監督来伯の記事がほぼない。ところがポ語欄では2度も大きく取り上げられていた。すでに日本的、コロニア的というより、国際的な存在だった▼84年9月19日付け同ポ語欄で大島監督の講演内容を紹介している。当地のグラウベル・ロッシャ監督の作品に共感を覚え、実際に本人と話をする機会があったという。セルトンの厳しい現実を描いた映画『Deus e o Diabo na Terra do Sol』等を代表作とする天才の誉れ高い監督だ▼グラウベルは62年に聖市で大島の『青春残酷物語』『太陽の墓場』を見ている。まだ欧州では未公開だった時期であり、日本以外で最大の同胞社会があったからそれが可能だった。大島は「グラウベルと後に知り合ってこう言われた。あの映画をみて、オオシマはきっと年寄りに違いないと思ったって」と大笑した▼大島の伯国との出会いはソグロだった。「妻の父が常々ブラジルのことを熱く語って聞かせたので、その映画には自然と深い興味を持つようになり、いつの日か訪れたいと強く願うようになった」とある。臼井のそんな隠れた功績にも喝采を送りたい。(深)』

2013年2月3日(日)

昨日の朝、6時半過ぎにエドソンが手伝いのジョゼを迎えに行くために家を出た時は、まだ日の出前で、雨もパラパラ降っていたので出ていなかったのだけれど、7時前にモビとはるを連れてお散歩に行こうと玄関を開けると、目の前にど~んと虹が出ていた。それで、モビたちをベランダに残して急いでカメラを取りに戻り、西隣のコーヒーファームの家の後ろから立ち上がっているように見える虹の写真を撮った。西の空はまだ暗い雲に被われていたけれど、東の空は太陽が顔を出し、青空が少し見え始めていた。この写真には写らなかったけれど、この虹の外側にもうひとつうっすらと虹が出ていて、二重の虹の饗宴だった。

そして、いつものように入り口ゲートに向かってみんなで歩き始めると、その虹の右端が目の前に現れた。朝一番からこんな虹を見られるなんて「ラッキー!」っと、すがすがしい気持ちになった。でもエドソンがジョゼを連れて戻り、朝食が終わり、私が洗面所で歯を磨いていると、無線で誰かと話しているエドソンの側にいたモビとはるがすさまじい声をあげて喧嘩を始めたので、水が出ている蛇口をそのままに洗面所から飛び出して、はるの頭に噛みついているモビを抱きかかえて止めなければならなかった。モビが自分のベッドの中で、数日前から噛み噛みしていたおしゃぶり用の骨を噛んでいると、それを欲しがって、はるがモビに飛びついて骨を取りあげてしまったので、モビが怒って、はるに本気で噛みついたらしい。はるは鼻と顎の下に少し血をにじませる流血の事態となってしまった。そのためモビを引き離してもはるは泣き叫んでしばらく泣き止まなかった。ああ、やれやれ・・・「はるは自分が何をしているんだかわかっていないんだから許してあげてね。本気で噛んじゃダメよ」と、モビに言うしかなかった。虹を見て、「こいつは朝から縁起がいいぞ」と思ったのだけれど、とんだ展開になってしまった。そして、この虹は2時間以上経過した、9時半頃に姿を消した。

次の写真は、 大泣きをした後、私の膝の上でぐっすり眠っているはる。ちょうど頭を反らすようにしていてアゴの下の傷が見えるので、写真に撮った。少し赤く血がにじんで、腫れている部分がモビに噛まれた場所。幸い、お昼前頃にはモビとはるはお互いをペロペロなめ合って仲直り。傷口に塗った薬の他に、エドソンがはるに痛み止めの薬を与えてくれたので、昼食後のお散歩はいつも通りにはるは元気に尻尾をフリフリ、モビの後をついて仲良く歩いてくれ、ほっとする。

次の写真は、昨日の朝の同じ虹をお隣のウィリアムの所から撮ったもの。我が家から南東の方向にある彼の家から見ると、虹の右端が我が家の後ろから立ち上がっているように見える。そして、さらにこの写真では虹が2重になっているのが写っている。

2013年2月4日(月)

昨日はパウロの誕生日でシュハスコをするからと呼ばれて行ってきた。でも、場所はいつものパウロたちの家ではなく、我が家とパーディーニョの町の中間辺りにあるパウロの知り合いのシャカラだった。土曜の午後から断続的に降り続いていた雨が、日曜の朝になっても降り続いていて、こんなんでシュハスコできるのかなあ?と、思ったのだけれど、幸いお昼前頃から何とか雨が止んでくれたため、濡れずにすんだ。次の写真は、そのシャカラから見えるパーディーニョの町の西側部分。

次の写真は、一応屋根のあるシュハスコ小屋。でも、シュハスコのかまどの煙突が、何故か屋根の上ではなく屋根の下にあるというデザインミス(?)のため、煙が充満ぎみで、ちょっとやれやれ。

次の写真は、シュハスコ小屋の手前に建っている家。普段ここには誰も住んでおらず、持ち主が週末などにいわゆる別荘として使っている家のようだった。家のレイアウトは、入り口を入ったすぐの部屋が小さな居間で、その奥が台所。右半分にシャワールームをはさんで、寝室が2つというものだった。これは、この辺の典型的な家のレイアウト。そして、家の前には小さなプールがあった。この日は強い風が西から東に向けて吹いていたため、シュハスコ小屋の煙とシュハスコ小屋の裏の焚き火の煙が家の方に向かって流れていて、家の中は煙が充満していて煙たかった。

次の写真は、煙たい家とシュハスコ小屋を避けて、シュハスコ小屋の外の煙が来ない場所で椅子に座っているモビ。私たちがおしゃべりをしたり食事をしたりしている間も、モビは例によって、ずっとこうやっていい子にしていてくれた。はるにとっては初めてのシュハスコだったけれど、彼女も私の腰に巻きつけたカンガルーポケットの中で、まずまずおとなしくしていてくれた。

2013年2月5日(火)

次の写真は、土曜日の朝、エドソンが収穫してきてくれた我が家の野菜畑のミニトマトと玉ねぎ。ミニトマトは長らくお世話になったけれど、これが最後の収穫だと言っていた。玉ねぎは植え方が悪かったのか大きくならず、ミニトマトとあまり大きさが変わらない。玉ねぎというよりも、まるでエシャロットのよう。玉ねぎはこれが初めての収穫。台所の流しにゴロゴロとエドソンが置いたままを撮影してみた。ちなみに、12月に苗を買ってきて植えたレタスとルッコラは、1月が異常な冷夏で、雨が多く、日照時間が少なかったためか、ほとんど成長しないまましおれたようになり、結局、収穫するまでには至らなかった。残念至極。土曜日の夕飯は、早速この玉ねぎを使い、骨付きの鶏肉と野菜の煮込みをエドソンが圧力鍋で作ってくれた。野菜はカリフラワー以外は我が家の玉ねぎと、ミニトマト、ネギをどっさり使ってご満悦。この圧力鍋は私のために買ってくれたのだけれど、エドソン自身がすっかり気に入ってしまい、毎週のように週末になると圧力鍋を使って何か作ろうかと言ってくれるのでありがたい。

2013年2月6日(水)

昨日は午前中、はるの2度目の予防接種のためにボトゥカトゥのペットクリニックに行ってきた。ドトーラ・ヴィットリアに注射をしてもらうついでに、先日モビに噛まれた鼻とあごの傷を診てもらった。幸い傷は浅いので、痕は残らないだろうと言うことだった。そして、体重測定の結果は、3.25キロで、前回からまた1キロ余り増えていた。次の写真は、ペットクリニックで発行されたはるの健康手帳。POLIVETというのはこのペットクリニックの名前。この手帳には、はるの名前、誕生日、飼い主の名前、いつどんなワクチンを接種したか、その際、体重は何キロだったかなど、様々な情報を記録するようになっている。また、このクリニックにはペットショップが併設されていて、ドッグフードを始め様々なものが販売されている。そして、1階にあるクリニックの他に、地階にはシャンプーとヘアカットをしてくれる部門もある。

次の写真は、昨日の午後、台所で私が立ち働いている側に置いたベッドの中で、ぐっすり眠っているはる。

2013年2月7日(木)

モビが昨年12月に体調を崩した際、決められた投薬をする以外、私たちにはどうしてあげようもないけれど、せめて精神的に楽にしてあげたくて、彼を抱っこしてソファーの上で一緒に横になったりしたことがあった。それ以来、モビはソファーの上がすっかり気に入ってしまい、時々ソファーに上げて欲しいとせがむようになり、最近では毎日お昼前後からソファーにタオルを敷いて、その上でモビを自由にさせている。この上にいると体調が悪くても、気持ち良さそうに寝ていたりする。このソファーの上が午後からの彼の一番のお気に入りの場所になった。以前だったら、いくらモビのためでもソファーに上げるなんて思いも寄らないことだったけれど、今ではまったく何の抵抗もなくエドソンも私も、モビを上げている。不思議なものだなと思う。まあ、それだけモビは私たちにとって特別な存在なんだとつくづく思う。次の写真は、ソファーの上にいるモビの頭の上に、エドソンがいたずらでネズミのオモチャを乗せて面白がっているので、写真に撮った。モビは押さえるとプープー音が出るこのネズミのオモチャがあまり好きではないのだけれど、頭の上に乗せられても文句を言わず、じっとしてカメラを構えた私の方を見ている。

2013年2月8日(金)

以下は、ニッケイ新聞2013年1月25日付け「コラム 樹海」からの転載。私もブラジルのイミグレーションを何度も通っているけれど、一度も鼻唄なんか歌っている出入国管理の人に当たったことはない。男性でも女性でも、日本と同様に、だいたい無表情で、高飛車ではないまでも、こちらがにっこり「オラ」とか「オブリガーダ」と言っても、笑顔を返してくれる人はめったにいない。それから、中国のトイレではトイレットペーパーを流さず、横にあるゴミ箱に捨てるというのを何かで読んだ憶えがあるけれど、これはブラジルでも同じ。例えば、ホドサーブ(高速道路のサービスエリア)のような公共施設の掃除の行き届いたとてもきれいなトイレでも、いつもモビの治療で通っている大学病院の古くてちょっと壊れたようなトイレでも同じ。大学病院で私がいつも使う女性用トイレのドアの内側には、紙はトイレに流さず、ゴミ箱に捨てるようにと張り紙がしてある。そして、個人の家でも例外なく紙はトイレに流さず、トイレに置かれた小さな蓋つきのゴミ箱に捨てる。我が家もトイレの汚水は自前の小型浄化槽に流れるようになっているので、同様にトイレットペーパーは流さず、蓋つきのゴミ箱に捨てている。蓋を取れば多少臭うけれど、ちゃんと蓋がしてあれば洗面所が臭うことはない。

『椎名誠といえば、多くの旅行記や冒険談をものにしている有名作家だが、週刊文春10月25日号の彼のコラムはあまり頂けないものだった▼軽い文体で中国をケナす主旨なのだが、《まず国際感覚でいうと、その国の「気性」は入国や出国の際のイミグレーションでだいたいわかる》とし、中国のそれは高飛車だが《ラテンの国などはイミグレーションの役人が鼻唄なんか歌っていて緊張感のカケラもない》と対比させる。ラテンの一角を占める伯国の入管では、少なくともコラム子は緊張しっぱなしだ▼中国では従業員が信用できないから、店で売り子にお金を直接払うことが出来ず、わざわざ会計で払って、後から商品を受け取る。それをさも特殊な事例のように書いているが、当国でもまったく同じだ▼特に気になったのは《その国の「民度」は車の走行マナーでだいたいわかるが、中国は世界でも最低部類に入るだろう。とにかく「意地が悪い」。車間を詰めてできるだけ他車を入れないようにするし、無意味にスピード競争をする》と列記する部分だ。ならば当国も限りなく「世界でも最低部類」に入るのではという気がする▼彼は何十カ国も旅行しただろうが、途上国や新興国に長期滞在したことはないだろう。貧困層がわずか10年程度で中産階級に大量に移動している国で、マナー云々いうこと自体ナンセンスだ。別に中国を弁護する気はないが、先述の状況が世界でも特殊とするのは、先進国の驕りをさらけ出していないか。先進国十数カ国の人が「世界でも最低部類」と思っているかなりの部分は、実は先進国以外の百数十カ国の〃常識〃かも。(深)』

2013年2月9日(土)

今年は昨日8日の夜から12日(火)までがカーニバル。でも、1月に続いて、2月に入ってもずっとお天気が悪いので、カーニバル期間中も雨なのではないかと思う。少々の雨ならパレードが中止になることはなく、雨の中で行われるらしいけれど、大雨が降った場合はどうするのだろう?パレードに出る人たちも見物の人たちも大変だ。ちなみに今日もここやサンパウロを含め、サンパウロ州の広い範囲で雨。毎週月曜日の朝、英語のレッスンに来ているハファエウは、この期間ガールフレンドのマイーラと一緒に、サンパウロ州の大西洋岸にあるサントスの近くの町のビーチで過ごすから、月曜日のレッスンはお休みすると言っていた。沿岸部のお天気は良さそうなので、ビーチでの休暇は正解だったかも。

次の写真は、我が家のランドマークの木の側、道沿いに生えて大きくなった野性の雑草低木。このランドマークの木の足元の土壌はあまり良くないのだけれど、1本だけではこの木も寂しいだろうと、ここにリグストルンやハイビスカスの苗木を植え、自然に生えてきた雑草低木も育つに任せていたら、意図したわけではないのだけれど、いい感じに道沿いに壁を作るように成長してきている(下の最初の写真)。そして、ここ1~2ヶ月ほどこの雑草低木は花盛りで(下の2枚目の写真)、お天気のいい日は、すごい数のミツバチがこの花の蜜を求めて飛び交っている。

2013年2月10日(日)

ニッケイ新聞2013年1月10日付けから11回の連載で、「第2の子供移民~その夢と現実=日伯教育矛盾の狭間で」と題する記事が掲載されたので、以下にリンクをはってみる。日本からブラジルに戻った日系ブラジル人の子弟が、将来この国にどのような影響を及ぼすのかとても興味がある。

『あと2年で、デカセギ開始年といわれる1985年から30年が経とうとしている。金融危機以来の4年で約10万人のデカセギが帰伯した。戦後移民5万人の2倍に匹敵するこの〃民族大移動〃は「第2の戦後移民」ともいえる出来事だ。しかも、この30年間に日本で育ち人格形成した世代は2、3割以上を占めるともいわれ、年々その割合を増しており、「第2の子供移民」ともいえる層を形成している。彼らは訪日就労ブームの申し子のような世代だ。「デカセギは是か否か」――20数年前に邦字紙を騒がせたそのような問いかけの結果が、いま当地に次々と舞い戻っている。どこに居場所を作り、何をして生活していくのか。帰国数年の率直な声を11回にわたり連載する。(酒井大二郎記者)

第1回=3歳で訪日、母と再会=義務教育わずか2カ月
第2回=ITビジネスで成功?!=「絶対ビッグになる」
第3回=ブラジル人に距離感じる=「日本人的な方が合う」
第4回=「何とかなる」と高校中退=工場労働で後悔の日々も
第5回=妊娠、帰伯、離縁、解雇...=四世に対する厳しい壁
第6回=非日系の母に日本語強要=不法滞在迫り〃帰国〃
第7回=「単調な工場労働イヤ」=家族残し、自分の意志で帰伯
第8回=馴染めない〃祖国〃ブラジル=「時経つほど日本恋しい」
第9回=見た目はフツーの女の子=日本恋しさで空手道場に
第10回=同じ辛さを共有する仲間=ネット上で8百人が集い
最終回・第11回=血統より技能が〃結論〃=デカセギ28年の結果を是に』

この連載記事のサイトは、こちらへ

2013年2月11日(月)

昨日は日曜日だったのだけれど、モビの抗ガン剤治療の日に指定されていたので、大学病院に行ってきた。週末や休日は基本的には救急の患者しか受け付けないのだけれど、モビのケースは時として、お休みの日に治療になることがある。昨日は、レジデントのドトー・エマーソンが担当で採血をしくれ、血液検査の結果が出てからインターンの女性が抗ガン剤治療をしてくれた。ドトー・エマーソンはドクターの中では採血が一番うまく、いつも一発でさっと採血してくれるのでモビへの負担が少なくてとても助かる。そして、救急の患者は2~3いたけれど、いつもよりも断然患者の数が少ないため、血液検査の結果を待ったり、治療を待ったりする時間が比較的短くて済み、お陰で11時過ぎには病院をでることができた。その後、薬局でモビの薬を買い、スーパーで少し買い物をして帰宅。昨日の朝一番のお散歩の後でガレージ前の水場でしゃがみこんで2匹の足を洗っている時、ぎっくり腰一歩手前のような痛みが走った。その痛みが引かないため、昼食後に片付けなどを済ませてから、3時間近く横になって休んだ。寄る年並のせいか、だいぶ体がガタピシしてきたなあと実感する。トホホ・・・それで今朝はエドソンが2匹の散歩をして、足を洗ってくれた。感謝。

2013年2月12日(火)

2013年2月15日付け発行の「楽書倶楽部」第17号(写真)が、前園さんから届いた。以下は、この号に寄稿した私の文章のコピー。

「香山文庫」継承の重責

「恭子さん、移民史やりませんか?おもしろいですよ、移民史!」と、香山さんから何度言われたことだろう。ブラジル日系移民史関連の本を読んでいると、本当におもしろい。想像を越えた濃厚な人生がぎっしり詰まった世界に、時間を忘れるほど引き込まれてしまう。しかし、研究者でもない私が移民史だなんてとんでもないと思っていた。まさか「香山文庫」をお引き受けすることになるとは夢にも思っていなかった。

私がイビウーナにお住まいの香山栄一さんと知り合ったのは、パーディーニョに越して来て間もない二〇〇九年の八月上旬。その頃、広島出身というご縁で、広島市に本社のある中国新聞という地方紙のインターネットサイト上にある「海外リポート」というコーナーに、素人リポーターとして身の回りの話題を記事にして送っていた。その記事のひとつにしようと、インカ人が作ったといわれる道「ピアビル」について調べていたところ、ニッケイ新聞の古い記事に「ピアビル:ブラジルに於けるインカ人」というルイス・ガルジーノの著書と香山栄一さんの名前を見つけ、ニッケイ新聞から電話番号を教えてもらいご連絡したのがきっかけだった。

以来、「移民史入門として、まず読んでごらんなさい」と、日本移民の草分けと言われる鈴木南樹の著書や、香山さんの自分史、チエテ移住地のことを偏さんされた本のコピー、その他様ざま貴重な本や資料を次々に送ってきてくださり、その都度大変興味深く、楽しく読ませていただいた。そして、中国新聞に送る記事のアイデアを何度も助言してくださり、香山さんから本や資料をお借りして書いた記事は数え切れない。

一昨年(二〇一一年)の七月初め、桜が開花したからと、同じくイビウーナにお住まいの中村さんご夫妻のお宅でのお花見に誘っていただいた。寒くてぐずつくあいにくのお天気になったため香山さんは体調を考慮して参加されなかった。それでパーディーニョに戻る前に、香山さんのお宅にご挨拶に伺った。その際、蔵書の整理を少しずつ始めていること、そして、その蔵書を私に譲るから引き受けてほしいということを、はっきりと言われた。

二〇一一年七月、香山さんのお宅に伺った際に撮影。左から香山さん、香山さんの次女シルビア・のぶ子さん、筆者、筆者の夫

二〇一〇年の一月、私たちの家がまだ建設途上で、お隣の果樹園農家で居候生活をしている頃、香山さんと同じチエテ移住地のご出身で、古くからのご友人の岡井二郎さんが、遠路サンパウロから奥さんと息子さんご夫婦の四人で、パーディーニョに訪ねて来てくださったことがあった。その際、「香山さんはいい人を見つけた。これで安心だ」と言われ、長年かけて香山さんが集めた本の行き場所がないことがずっと気がかりだったのだという話しをされた。香山さんが「移民史やりませんか?」と言われるのは、そういうことなのかなと、その時、漠然と思ったものの、まだ本気にはしていなかった。

それが、こうはっきりと言われると、本気で考えざるを得なくなり、しばらく考えさせてくださいと言って、その場はひとまず失礼した。それにしても、私はつい最近ブラジルに移住して来たばかりの新参者で、知り合いの数もごくごくわずか。従ってブラジルでの友人・知人のネットワークなどもなく、どこの組織・団体ともまったくつながりのない、何の力も影響力もない普通の主婦。しかもサンパウロ市内ではなく、とんでもない田舎暮らし。蔵書を託す相手なら、もっと他にちゃんとした人や場所があるだろうに、どうして私なんかに?という思いでいっぱいだった。しかも、こんな貴重な蔵書を引き受けてしまったら、私の責任は重大。

しかし、これまで香山さんにはたくさんの本をお借りしたり、コピーをいただいたりと、とてもお世話になっている。香山さんのお陰で、中村さんご夫妻や「楽書倶楽部」の前園さんを始め、いろいろな方たちとの出会いもあり、ここでの私の世界が思いがけず広がってきているのだから、無下には断れない。その後のメールでのやり取りで、香山さんは気を使ってくださり、あまり難しく考える必要はない。本をもらったらたまたま数が多かったと思えばいい。何らの責務も生じないと書いてこられた。蔵書をいただいて、たくさんの貴重な本が自由に読めるというのは本当にありがたいことではあるけれど、私ひとりが読むだけでは宝の持ち腐れになってしまう。「う~ん・・・どうしよう・・・」と思い悩んでいると、「どんなふうに活用していくかは、これからゆっくり考えるとして、これをここでの君のライフワークにしたらいいじゃない。僕も手伝うよ」と、夫が言ってくれた。その言葉に背中を押され、無謀にも「香山文庫」をお引き受けすることにしてしまった。

我が家がほぼ完成し、仮住まいをしていたガレージから上の家に移動した後、ガレージ横に夫の事務所兼ワークショップとして確保していたスペースの北側の壁一面に、急遽、予定になかった書棚を作ってもらった。その後、香山さんから引き継いだ八五〇冊あまりの本を、とりあえず箱から出して、その書棚に移しはしたものの、それ以上はまだ何も具体的には進んでいない。

ガレージ横の事務所の書棚に並んだ「香山文庫」

とにかく大変貴重な蔵書をお引き受けしたのだから、この片田舎で埋もれさせることなく、多くの皆さんにその存在を知っていただき、何らかの形で利用していただける「香山文庫」作りを目指さなくては・・・そのために、私にできることは何だろう?と、ない知恵を絞ってみた。まず、インターネット上に「香山文庫」のホームページを作ることにしよう。それから追々、どのような本や資料があるのかをデータベース化して、インターネット上での検索を可能にしていこう。ほとんどが貴重な一点ものなので、貸し出しはできないけれど、研究者や移民史に興味のある人たちが、ここに来て宿泊しながら本を読めるようにするのはどうだろう?ブラジルに興味があり、ブラジルの片田舎での生活体験を希望する人たちに、場所を提供して、ボランティアで本を整理してデータベース化する作業を手伝ってもらうのはどうだろう?・・・などなど、いろいろ思いを巡らせている。

「楽書倶楽部」の同人の皆さんからも、「香山文庫」のあり方や活用方法について何かアドバイスをいただければ幸いと思い、この一文を綴ってみた。

2013年2月13日(水)

ブラジルと言えば、リオのカーニバルを思い浮かべ、一度は現地で生のカーニバルを見てみたいと思っている人も多いかもしれない。でもそれにはいろいろと大変なことがある。まず、カーニバルを見ようと思えば、何かのツアーに参加することになる。その場合、だいたい、マイクロバスか何かでホテルを夜遅くに出発して、カーニバルのパレードが行われる会場に行き、長い間パレードの開始を待ち、明け方にパレードが終わって、迎えのマイクロバスが来るまでは、どんなに眠くても、疲れていても、ホテルに戻ることはできない。それを考えただけで、徹夜の苦手な私には到底無理だと思う。自力でホテルに帰ろうとしても、治安が悪く人でごった返しているリオの町中は危険。何事もなく無事にホテルに戻れたら奇跡に近いかもしれない。それにカーニバル会場に行けば臨場感はあるかもしれないけれど、実際のパレードは遠くてあまりよく見えないだろうと思う。浅草のカーニバルとは訳が違う。リオのマラカナン球場でサッカーの試合を見るようなもので、グラウンドで誰が球を持って攻めているのかは、ラジオの実況中継を聞きながらでないとわからないというようなことが現実としてある。それで、一番いいのは我が家でゆったりと、飲んだり食べたりしながら、テレビのカーニバル専門チャンネルでパレードを見ること。テレビで中継するカーニバルはカメラがパレードを間近から、または中から写し出すため、会場では見ることのできない部分までしっかりと見ることができる。つまり以下の写真のような迫力満点な場面は、テレビ中継だからこそ見ることができる。そして、各チームがテーマに掲げていることの説明を聞きながら見れば、そのチームの山車や衣装や音楽の意味するところがより良く理解できる。花火はその場に行って見ないと、テレビでは実際の迫力も色も伝わってこないけれど、カーニバルはテレビで見た方がよりその迫力が楽しめるのではないかと思う。いつかカーニバルを見てみたいという方はパーディーニョの我が家でのんびりとテレビのカーニバル中継を見ることをお薦めしたい。

2013年2月14日(木)

2月に入っても相変わらずお天気の良くない日々が続いていたけれど、この月曜と火曜は久しぶりに太陽が顔を出して気持ちのいい日になった。カーニバル休暇でドナ・ベティのファゼンダの仕事がお休みだったジョゼが、このお天気を利用して我が家の手伝いをしてくれたので、入り口ゲートまでの道の真ん中の草を取り除く作業を完了し、ゲートの周辺も草を取り除いてきれいにしてくれたので、入り口ゲートの辺りがとてもすっきりした。月曜日にエドソンがジョゼに「カーニバルはどうだった?」と聞くと、土曜日の夜のカーニバルに友人と一緒に出かけて行たのだけれど、お酒を飲み過ぎて、日曜日はひどい二日酔いで1日寝ていたということだった。昨日はまたほぼ1日雨が降ったり止んだりで、今日は時々曇りながらも、午後からは気温が上がり、久しぶりに暑い、まずまずのお天気になった。

次の写真は、入り口ゲートに向かう道に沿って3本植えたイペーの木の1本。植えた後もなかなか大きくならず、ブラキアーリアに圧倒されて存在が危うかったのだけれど、ようやくここまで少し成長してくれた。イペーの木は南米原産の木で、日系の人たちの間ではブラジルの桜とも称されている。もちろん桜のような形の花が咲くわけではないけれど、桜と同じ時期に花を咲かせる。花の色は黄色が一番一般的なようだけれど、白やピンクの花もあるという。

2013年2月15日(金)

はるはおかしな子で、無防備にお腹を出して大の字になって眠っていることがよくある。昨日の午後も私のコンピュータデスクの足元で、そんな体勢で寝ていたので証拠写真を撮ってみた。モビもお腹を出してゴロゴロしていることがあるけれど、それは起きているときにすることで、大の字になって寝ることはない。

モビの抗ガン剤治療の効果が少しずつ出始めていて、パンパンに腫れていた首のしこりが少し柔らかく小さくなってきている。芯の硬い部分は相変わらずだけれど、ちょっとうれしい。ただ、どこかが痛いとかいった不快感はないようだけれど、抗ガン剤治療をすると体が少しだるくなるようで、1日ゴロゴロと寝ていることが多く、お散歩に出てもあまり長く歩きたくなかったり、はると一緒にじゃれ合ったり、はしゃいで遊ぶということは少なくなった。

2013年2月16日(土)

先週、エリゼウからスーパーの袋に山盛り一杯、柿をもらったのだけれど、まだ青い渋柿だったので、どうしようと思いながらそのまま台所の隅に置いておいた。1週間余り経って見てみるとすべてしっかり熟してしまっているので、ジャムを作ることにした。柿のジャムなんて聞いたこともないけれど、果物ならどんなものでもジャムになるのではないかと、ネットで調べてみたら、作り方がいろいろ出ていた。インターネットって本当に便利。適当にそのうちのひとつを選んで、昨日の午後、作ってみた。ジュクジュクの柿の中に砂糖を入れて、しゃもじで混ぜながら、弱火でコトコト煮ること1時間余り。何となくそれらしいものができた。大きな空き瓶2つにちょうど収まる量だったので、1つは来週エリゼウがレッスンに来た時に、進呈しようと思っている。昔、広島の我が家の畑のいちじくができる時期になると、生で食べるだけでなく、母がせっせといちじくジャムを作っていたのを思い出す。おいしかったなあ・・・お母さんのいちじくジャム・・・

2013年2月17日(日)

昨日で夏時間が終わり、昨日から今日に日付が変わる午前0時に、1時間時計を戻して標準時間になった。これで日本との時差は、またマイナス12時間に戻った。昨晩は、モビが何度もベッドから起き出して外に出たがったので、エドソンが二度ほどモビをオシッコに連れ出してくれたのだけれど、お陰で今朝はエドソンも私も起きられず、ようやくどっこいしょと起きたら8時になっていた。とは言っても、夏時間の8時なので、標準時間ではまだ午前7時。何とも、助かる。

ここ2週間ほど雨も降るけれど、お天気のいい日の方が多く、お天気がいいと午後は気温が上がり暑くなる。年が明けてからずっとお天気が悪く、冷夏だったのに、夏時間が終わり、これからそろそろ秋になろうかというこの時期に、少し夏の暑さが戻ってくるというのも変なものだなと思う。この悪天候で畑のレタスとルッコラは育たなかったと以前書いたけれど、家の南側の三角地帯に植えたカラは、去年よりも元気に育って実をつけ始めている。支柱を通り越して、すぐ側のグレヴィーリャまで伸び、さらにグレヴィーリャを伝って上に伸びつつある。カラの足元で地面を這っているつる性の植物は、シュシュという野菜。

そして、同じくこの三角地帯に植えた里芋も2株が元気に成長している。

2013年2月18日(月)

はるはとにかく元気が良くて、エネルギーが有り余っているので、最近はお天気が許す限り日に1~2回、外で自由に走り回らせるようにしている。次の写真は、日曜日のお昼前、庭でエドソンと追いかけっこをしているはる。

はるはアメンドインや芝生の上、そして、次の写真のハイビスカスガーデンの中が大好き。この中で芝生に埋もれてゴロゴロしたり、鼻を突っ込んで臭いを嗅いだり、飛び跳ねたり、しおれたハイビスカスの花を口に入れてモグモグしたり、とにかく忙しく動き回る。お天気続きの日はまだいいのだけれど、雨上がりだったりすると、体中びしょびしょになるので後が大変。

2013年2月19日(火)

ハイビスカスガーデンの横に植えた葉物植物が、冬の間すっかり葉が枯れて消えてしまい、春にその植物が生えていた同じ場所から別物のピンク色の花が咲いたと、以前書いたことがあるけれど、どうやらそのピンク色の花は別物の植物などではなく、この葉物植物の花だったのかな?と、今では思っている。と言うのも、次の写真の2株ある葉物植物の左側の葉が生え始める前にピンク色の花が咲いたのだけれど、右側のものには現在、同じ形の白い花が咲いているからだ。去年はこの白い花、もっと背が低くて違った感じだったのだけれど、今年咲いた花を見ると、色が違うだけで、形は左側に咲いていたピンク色の花と同じなのだ。ただ、ピンク色の花は葉が出る前に咲き(現在は葉の足元で完全に枯れている)、白い花は葉が大きくなった現在咲いているという時期的な違いはあるのだけれど(???)。

次の写真は、右側の花をもう少し近くで撮ったもの。カメラを構えていると、はるが前を通り過ぎ、フレームの中に入ってしまった。

2013年2月20日(水)

以下は、インターネット上で見た柴田トヨさんの訃報に関する記事のコピー。何かの雑誌(名前はど忘れ)に掲載されたものだった。広島の母にもこんなふうに心穏やかに大往生してもらいたいなあ・・・そして、私自身も・・・

「『健ちゃん、もし私が逝ったときには涙を流す葬式じゃなくて楽しい葬式にしてちょうだいね。あんたは話が上手だから、葬式でも面白い話をして笑いをとってね』母は昨年、そう僕に話しました。ユーモアがあって優しい母らしいなって思いました」

本誌にそう語るのは、1月20日未明、老衰のため他界した柴田トヨさんの長男・健一さん(67)。トヨさんは調理師の夫と死別後、90歳を過ぎてから、健一さんの勧めで詩作を始め98歳で『くじけないで』(飛鳥新社)を出版。160万部のベストセラーとなり、100歳を超えて第2詩集『百歳』(同出版社)を刊行。101歳の大往生だった。

24日、栃木県宇都宮で行われた葬儀には100名が参列し、その旅立ちを惜しみつつ、口々に「ありがとう!」と声をかけた。参列者への御礼状には、トヨさんの遺作となる未発表作品が掲載されている。

皆様に
お迎えが 何回か来たけれど 口実を作って お断りしてきたの
でも私も101歳 次は無理かもしれない
私のお葬式 たくさんの人が 来てくれるかしら
その時は悲しまないで
トヨさん がんばったね
って 声をかけてください
その言葉を励みに 天国でもしっかりと暮らしてゆきます

皆様のご多幸を 日射しとなり そよ風になって 応援します
今まで ありがとうございました 倅夫婦をよろしくお願いします

「これは母が亡くなる半年前、101歳になったころに書いたものです。『いつお迎えがくるかわからないから準備しないとね』って。もう起き上がれなくなった母の声を口元に耳を近づけて聞き取りながら2人で作った最後の作品になりました。母は自分が天国にいったならば被災地の人を励ましたいって言っていましたから、そよ風になって誰かのためになっているかな。天国で休むのではなくて母らしく頑張ってほしいなと思います」(健一さん)

2013年2月21日(木)

畑のオクラは今回も毎日たくさん収穫できるだけでなく、ぐんぐん成長して、現在は私の身長を越える高さになっている。オクラの木が私の身長を越えるほど大きくなったのは今回が始めて。それでいつも上の方ばかり見て収穫していたら、下の方にあったオクラに気づかず、先日すっかり大きくなってしまっていたオクラが1つあった。次の写真は、右端がその20センチの巨大なオクラ、左端の方が普通のオクラで、右よりのものはそれよりもちょっと大きめのもの。でもこの巨大オクラ、触った感じも食べた感じも普通のオクラと変わらず柔らかく、おいしかった。では、どうして店で売られているオクラはみずみずしさがなく、硬くておいしくないのだろう?不思議だ!収穫から店に並ぶまでに時間がかかりすぎているからだろうか?

次の写真は、プロパンガスの配達に来てくれたお兄さんを上の台所からパチリ。ここは不便なことも多いけれど、プロパンガスに関しては、電話一本で配達してくれるのでとても助かる。約半年前は2つで84レアル(約4200円)だったのに、今回は94レアル(約4700円)に値上がりしていた。やれやれ・・・

2013年2月22日(金)

昨日は、例によって、モビの治療で大学病院に行ってきた。モビが通っている小動物外科にはレジデントのドクターが6人いて、後、同じくらいの数、ないしはそれ以上のインターンの人たちがいるのだけれど、定期的にレジデントを終えたドクターが3人ずつ入れ替わるシステムで、今ちょうどその時期に当たるらしく、2週間ほど前にドトー・レオナードがレジデントを終えていなくなり、来週はドトーラ・カリナ、3月にはドトーラ・ルシアナがレジデントを終える予定なのだそうだ。それで、新しい3人のレジデントが来るまでは、ドトー・エマーソン、ドトー・ジョアオン、ドトーラ・パウラが分担して患者を診るらしい。ドトー・ジョアオンが手術中だったり、休暇で留守だったりで、このところいつ行っても、診察室で忙しく患者を診ているのはドトー・エマーソンだけ。ドトーラ・パウラはいつも見かけるけれど、私たちとの接触は何故かほとんどない。

昨日も、モビを診てくれたのはドトー・エマーソン。彼はとても明るく陽気な人で、てきぱきとインターンの人に仕事を指示して立ち働いている。採血も上手だし、モビとも長い付き合いなのでよく気にかけてくれる。昨日は、教授がまたモビを診に来てくれ、手術の必要性を話し合った。抗ガン剤治療が癌細胞を叩いているのは、腫瘍の大きさが少し縮小していることからも目に見えてわかるのだけれど、治療を長く続けると他の正常な細胞にも悪影響が出て、モビの命に関わるので、腫瘍が少し小さくなったらやはり手術をした方がいいと言う。首の腫瘍の腫れた部分の皮膚が薄くなってきているため、このままいけば皮膚が破れて出血が始まるのも時間の問題。でも、手術ということになると、モビは左耳を失い、背中の辺りの皮膚を首に移植する手術も同時にしなければならない。手術をしてつらい思いをさせるのは忍びないけれど、このままどんどん状態が悪くなるのを何もしないで見ているのも忍びない。モビにとってどうするのが一番いいのだろうか?と、教授やドクターたちに問いかけてみるのだけれど、彼らは外科医なので当然のことながら手術を勧める。私たちは難しい判断を迫られている。この手術を避けるために、キナヴェットに望みを託したのだけれど、モビとは相性が悪く結局使えなかったので、やはり、手術をするしかないのかなあ・・・?

2013年2月23日(土)

昨日は私の誕生日だった。それでエドソンがパーディーニョの町に行って、私の好きなチョコレートケーキを買い、夕食にローストビーフとローストポテトを作ってくれた。野菜サラダときゅうりの酢の物と茹でオクラを添えておいしくいただいた。感謝!感謝!

最近、モビは薬の副作用で頻尿ぎみ。昼間はむしろ動きたくないようなのだけれど、夜中に何度も起きてオシッコに行きたがる。一昨晩、2~3時間の間に2度も起きてオシッコに行き、少しするとまた起き出すので、いくらなんでもまたオシッコなんてことないだろうと、様子を見ていると、何だか気分が悪いのか、私のベッドの側の敷物の上に座り込み、しばらくするとはるのベッドの中に入ったので、そこで寝かせることにした。モビのベッドをエドソンの側から私の側に移して、はるをモビのベッドで寝かせると、やっと落ち着き朝まで寝てくれた。それで昨晩は最初からモビのベッドを私の側のはるのベッドの横に置いて2匹を寝かせたのだけれど、モビは一度もオシッコに起きることなく、朝までよく寝てくれた。以前は、はるがモビのベッドに来ると、はるがじっとしていないのでモビは嫌がってベッドから逃げ出していたけれど、最近はモビがはるのベッドの中に入っていったり、モビのベッドにはるが来ても嫌がらずに結構一緒にいることが多くなった。はるのことを、ちょっとうるさいやつだと思いつつも、はるがモビと一緒にいることを好むので、まあいいか?と思っているのかな?

2013年2月24日(日)

以前、ランドマークの木の側の雑草低木が花盛りと書いたけれど、この雑草低木は家の東側のフェンス沿いやいろいろなところにたくさん生えていて、最近、花が終わり白い綿帽子のような種が風に乗ってたくさん飛び交っている。 緑のセドリーニョを背景に、物干し台の側でまるで雪が降っているみたいにこの白い綿帽子がたくさん飛んでいたので写真を撮ったのだけれど、うまく写真の中で捕らえることはできなかった。それで、地面の草の回りに吹き溜まっているその白い綿帽子の写真も撮ってみた。

2013年2月25日(月)

昨日は、アメリカーナからアディネイが息子のガブリエウを連れて遊びに来てくれた。アメリカーナはサンパウロ州第2の大都市カンピーナスのベッドタウンのような町なので、前回のジョアオンの家族もそうだったけれど、感覚がここの人たちとは違って、オープンで都会的な感じがする。ガブリエウはお父さんのアディネイの影響で、最近アマチュア無線の免許を取得したのだそうだ。それでアマチュア無線仲間のエドソンにもいろいろ息子を刺激してもらおうと、一緒に連れてきたらしい。アディネイの本職は、アメリカーナ市警の警察官。しかも犯罪者のプロファイリングを専門にしているので、人に対する観察力や洞察力がすごい。プロファイラーと言えば、アメリカのテレビドラマに「Criminal Mind(クリミナル・マインド)」というのがあるけれど、彼らはFBIの捜査官。ブラジルには地方都市の警察にもプロファイラーがいるのかとちょっとびっくり。そして、昔日本語の基礎を少し勉強したことがあるそうで、モビとはるを見て「これはイヌです」なんて日本語で言うので、おもしろい人だなと思った。彼らはふたりとも日本食が好きらしく、ガブリエウは中でもみそ汁が好きと言っていた。今回はお昼にスパゲティを作って出したのだけれど、次回は日本食を作るかな?

2013年2月26日(火)

以下は、ニッケイ新聞2013年2月14日付け日系社会ニュースからの転載。カーニバル関連の他の記事で、パレード参加者が「カーニバルは見るよりも、出る方が楽しい」と言っている記事を見た記憶があるけれど、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」というのは洋の東西を問わない真理なのかな?コシノジュンコさんが出場したチームは、12日のパレードの最後の登場だったので開始予定時間は午前5時。実際に始まったのは5時半頃だったというから、出るのもなかなか大変だ。

聖市カーニバル=コシノジュンコさんが出場!
=日系人アーラ、存在感放つ=「心がひとつになった」

【既報関連】サンパウロのカーニバル4日目の12日未明、聖市の会場サンボドロモでグルッポ・プリメイロ(グルッポ・エスペシアル、グルッポ・アセッソの下)の12チームのパレードが行なわれ、最後に登場した「バロッカ・ゾナ・スール」には服飾デザイナー、コシノジュンコさんが自らデザインした衣装を着て参加した。来月放映予定のNHKBSプレミアムのドキュメンタリー番組「旅のチカラ」の企画。パレードにはコシノさんのほか、福嶌教輝在聖総領事、日本人駐在員や日系人など約90人が出場し、他のアーラを圧倒する一体感で力いっぱい、楽しそうにサンバのリズムを刻んだ。

「一生に一度はやってみたいと思っていた」というコシノさんはパレードの後、「とても満足感がある。素敵な体験をさせてもらった。皆さんの心が一つになった気がする」と感激した様子で話した。
自らのデザインに関しては「典型的なカーニバルの衣装ではなく、珍しかったと思う。人が見たことがないものを作りたかった」と自信をのぞかせ、「一回だけじゃもったいないとも思う」と次回への意欲も見せた。
かつて名門だった同チームは、一昨年にグルッポ・プリメイロまで降格。初めて日本移民をテーマにパレードをしたチームでもあり、コシノさんの参加で昇格を図ろうと、本番に向けて練習に取り組んできた。
テーマは、チームが拠点を置く聖市ジャバクアラ区の歴史。コシノさんが担当したのは、ジャバクアラで最初に日本人が入った地区ジャルジン・オリエンタルを表現した〃日系人アーラ〃だ。
アーラはパレードの中盤、一番前で踊った花魁に扮した女性を先頭に登場した。「本当に出ると知ったのは、つい一週間前」と本番前笑いながら話していた福嶌総領事は、提灯を掲げ、白い上下のはっぴ姿で力強いステップを踏んだ。
それに続き、銀色の衣装に身を纏ったコシノさんが現れ、鮮やかなピンクと緑の衣装を着た集団約90人に交じって軽やかに踊った。
パレードの後、太陽が昇り始めた空の下で顔中に汗を浮かべた出場者らは、興奮冷めやらない様子でコシノさんとの記念撮影に興じていた。初めて出たという聖市在住の日本人女性は、「すっごく楽しかった!練習の成果が出たと思う」と満足げに話した。
アーラの中でも飛びぬけて元気に踊っていたパウロ・ヨリオカさん(22、四世)は友人2人と参加した。他のチームでも踊った経験があるが、「キモノみたいで、10点満点の衣装。軽くて踊りやすかった。いろんな人と知り合いになれて楽しかった」と笑顔で話した。

2013年2月27日(水)

モビの調子が良くない。パンパンに腫れていた首の腫瘍が、抗ガン剤治療を再開してから少し小さくなり始めていたのだけれど、数日前から元のように大きな腫れが戻って来ていた。そして、昨日のお昼を食べた後、オシッコから戻ると、モビの様子がおかしい。どこか痛いのか動きがとても緩慢で、呼吸が荒い。体も熱いので、熱を計ってみると40. 3度だった。犬の体温は人間よりも高いのが普通だけれど、エドソンによると39度前半以上は熱がある状態らしく、熱を下げる効果もある痛み止めの薬をエドソンがモビに与えてくれ、首に保冷パッドを巻いて様子を見ることにした。数時間後に熱は下がり、夕飯は普通に食べることができ、少しほっとした。でも、午後9時を過ぎて彼らのベッドを私たちの寝室に移動させて寝かせる準備をすると、また熱が出ていたので、またまた薬を飲ませて、水を与え、保冷パッドを首に巻いて横にならせた。夜中に2~3度起きてオシッコに行ったり、はるのベッドに移動したりと、ちょっと落ち着かない感じだったけれど、午前2時頃にようやく寝てくれた。今朝は、熱が下がり、辛そうな感じはないので、やれやれと安堵したのもつかの間、朝食が終わって、居間の横のドアのところに移動した9時半頃からまた熱が出てきた。計ると今度は40.8度。それでやはり大学病院に行くことにした。次の写真は、今朝家を出る前のモビ。居間の横のドアのところでグロッキーという感じで横になっている。

大学病院には10時45分頃到着。朝一番からの患者がほぼはけていたのか、すぐに診てもらうことができた。採血をして、結果が出るまで1時間あまり待ち、再度診察室へ。血液検査の結果、白血球数や他の免疫システムの数値が危険なほど低いから、明日から自宅で4日間投与する予定だった抗ガン剤も来週月曜日の治療もキャンセルして、モビの体調回復に専念することになった。ドトー・ジョアオンに薬の処方箋を書いてもらってから12時半過ぎに病院を出ることができた。いつも行く薬局ではなく、ここならどちらも揃うだろうという薬局に行ったのだけれど、処方された2種類の薬の内、1種類は取り寄せになるので、薬局からの連絡待ちということになった。昨日の午後から熱が出ても、昨夜の食事も、今朝の食事も普通にできていたのだけれど、病院から戻ってお昼を用意すると食欲がなくまったく受け付けない。薬を投与して、時々水を与えながらモビの様子を見守る状態が続いている。

2013年2月28日(木)

投与した抗生剤やお腹の薬のお陰か、モビは昨日の夜には食事ができるほどになった。夜中に2度ほど起きてオシッコに行ったけれど、動きが正常な感じになってきていてひと安心。次の写真は、私のベッドの側に置いた彼らのベッドの中で、私が着替えをしているのを見ている今朝のモビとはる。夜の間、どちらかのベッドで一緒に寝ていたり、ベッドを入れ替わって寝ていたり、お互いのベッドを行ったり来たりしている。一緒にいたいときと、ひとりでいたいときと、彼らなりにいろいろあるようでおもしろい。



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