Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2013年1月1日(火) | ||||
新年あけましておめでとうございます。A Happy New Year! Feliz Ano Novo! 昨日の大晦日の夜は、疲れてしまって午前0時のカウントダウンまで起きていられなかった。夜は雨が降り出したので、起きていても周辺の町から上がる花火を見に、外に出ることはできなかったのだけれど、ベッドの中で、パーディーニョの町から上がった花火の音だけを聞いて、眠りに落ちた。 元旦の今日は、曇りがちながら、明るく、爽やかな風が吹き抜ける気持ちのいい朝を迎えた。次の写真は、朝ご飯の前、ケージの中でおとなしく待っているはる。はるは自分のケージよりもモビのベッドの方が好きなのだけれど、モビははるが彼のベッドに来るとはるを押しつぶさないように気を遣わなければならず疲れるのか、ベッドから出て行ってしまうので、はるはケージにつないで住み分けをしている。このところはるは食事の前、モビのように我慢強く待つことができるようになり、「ハウス」と言えば、ケージに入り、何とかケージの横に置いた新聞紙の上でオシッコをすることができるようになった。でも、私が彼女の視界からいなくなるとケージから出て泣くので、例えば、寝室でベッドメーキングをする際は、寝室のドアの前にケージを移動させたりと、なかなか大変。
お雑煮のためのお餅とかまぼこを買い忘れたので、今年の元旦は、お雑煮ならぬ、大根とニンジンと鶏肉だけで、お餅や紅白のかまぼこの入らないお澄ましを作った。そして、エドソンの希望で、日本酒の他に、コーヒーとトーストにジャムという献立になった。
午後2時頃からお天気が崩れ、すごい雷が鳴り初め、激しい雨が降り出した。今年はこれまでの夏よりも暑い日が多く、毎日のように雨が降っているのだけれど、今年は元旦の午後から雨になった。 | ||||
2013年1月2日(水) | ||||
昨日午後から降り出した雨は、時々暴風を伴いずっと降り続き、今朝は霧の中で夜が明けた。雨が降ったお陰で今朝の気温は高くないのだけれど、どんよりと曇って湿度が高いので、家事をしていると「蒸し暑い」と感じる。毎日はるが汚すバスタオルを最低2枚と、下のガレージの洗面所の掃除に使った雑巾を洗って干さなくてはならないので、お天気が悪いのはちょっと困る。お天気が悪くてもバスタオルの替えがあるように、はる用のバスタオルを数枚あらたに調達しなければと思っている。そして、家の中で私の動きに合わせてはるのケージを移動させるのもなかなか大変なので、何かいい方法はないかと考えた。何年も前に広島の友人からもらい、使っていなかったP´Sacという洋服のような形をした袋があったことを思いだし、カンガルーのようにその中にはるを入れて、袖の部分を私の腰に巻きつけて、常時彼女を持ち歩き、家事をすることにした。これをくれた友人にはこんな使い方をして怒られるかもしれないけれど、大きさもちょうどよく、はるも気に入ってくれ、この中ではとてもおとなしくしてくれているので、大ヒット!
クリスマスにエドソンのお母さんたちがパラカンビのシチオから持ってきてくれた果物の中の、パッションフルーツがまだ2~3個残っていたので、パッションフルーツを半分に切り、中の実というか種をスプーンで取り出して、スライスしたイチゴとキウィに混ぜて、朝食用のフルーツサラダを作った。次の写真は、そのパッションフルーツ。ちょっと古くなってしなびた感じのパッションフルーツでも、半分に切ると中身はまだまだ新鮮。中身の黒い色のものは種でコリコリとした歯ごたえがある。味は甘酸っぱい感じ。このパッションフルーツは、パッションフルーツのムースの上にこのままかけて食べたり、ジュースにしたりするのが一般的。ちなみに、パッションフルーツはブラジルではマラクジャ(Maracujá)と呼ばれている。
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2013年1月3日(木) | ||||
はるは、最初の夜は2時間、2日目は5時間近く通して寝てくれたのだけれど、一旦起きるともうダメで寝てくれなかった。それでその都度下のガレージの洗面所に移動させて寝かせた。以後は泣いても叫んでも、夜はとにかく下のガレージの洗面所に移動して寝かせていた。でも、これがトラウマになってしまってもいけないし、昨日からカンガルーのように彼女を袋に入れて過ごしていたらとてもいい子にしていてくれ、家の中でオシッコをほとんどしなくなり、お散歩の時にオシッコやウンチをしてくれるようになったので、夜も何とかなるかもしれないと思い、昨日の夜は私たちの寝室で寝かせてみた。ほぼ2~3時間ごとに目を覚まして、体をパタパタさせたり、ベッドから出てきてごそごそしたけれど、その都度叱ったり、静かに寝るように言い聞かせてベッドに戻し、何とか一晩過ごすことができた。朝までオシッコもウンチもしなかったのはちょっと驚きだった。やはり下の洗面所でひとりで閉じ込められるより私たちと一緒にいる方が安心するんだ。徐々に私たちの生活のペースに慣れてきたのかなと思う。 昨日は1日曇り、時々霧雨。今日も同じように曇りで時々雨がパラついている。お昼前にクリスマスツリーの飾りを取り外し、エドソンにクリスマスツリーを外に出してもらった。昨日も今日も雨が降るので、手伝いに来てくれる予定だったジョゼは仕事に来れなかったけれど、お天気が回復したらジョゼにこの木を庭に植えてもらう予定。玄関のドアに飾ったお正月のしめ飾りは、一応三が日が済んでから片付けようと思っている。このしめ飾り、元旦の午後の暴風雨で吹き飛ばされて、ベランダでびしょびしょになってしまったのだけれど、室内で乾かして、何とか、2日、3日と玄関ドアに戻すことができた。 | ||||
2013年1月4日(金) | ||||
だいぶ前、台所から出た野菜くずをランドマークの木の足元に何度にもわたって埋めたのだけれど、数ヶ月前から何かの芽が出て成長し始めたことは以前書いた。これが何なのかはまだわからないと書いたけれど、年末にエドソンがメロンだと言うので見に行ったら、丸い実がふたつ大きくなりつつあった。我が家でいつも食べるメロンはハニーデュー・メロンだけなので、これはハニーデュー・メロン?黄色い花はたくさん咲かせるのに、成長しつつある実は今のところ2つしか確認できない。この実が収穫できるまで成長するかな?楽しみ。楽しみ。
そして、この同じ場所から何かひょろひょろとした植物が生えてきていたのは知っていたけれど、やはり実がなるまでこれが何なのかわからなかった。すると年末にエドソンが「絹さやが5つ採れたよ」と言って、台所に持ってきてくれた。「ええ~っ、絹さやだったの?」と驚いた。年が明け、モビたちとお散歩しているときに見てみたら、あらたに3つ絹さやが大きくなっていたので写真に収めた。ここはこういう棚からぼたもちがときどきあるので、その発見がとても楽しい。
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2013年1月5日(土) | ||||
昨日はモビの大学病院での検査と、はるをペットクリニックでの予防接種に連れて行くためボトゥカトゥに行ってきた。これまでのようにモビだけではなく、はるの準備もしなくてはならないので、いつもより30分早い午前5時半に起きて、ふたりを散歩させてオシッコとウンチを済ませ、食事をさせ、私たちも食事をして、溜まっていたゴミ袋やリサイクルのビンやペットボトルなどを車に積み込んで、7時ちょっと過ぎに出発。大学病院には7時50分到着。受付を済ませ、外科に行って待っていると、8時15分頃には呼ばれ、モビの体調の回復程度をインターンの男性とドトー・ジョアオンに報告。そして、採血してもらう。昨日は血液検査の結果は午後にならないと出ないということで、また、ドトー・ジョアオンが検査の結果が出てから、他のドクターとも話し合って今後の治療をどうするかを決めて、メールをくれることになり、何と、8時半を少し回っただけという記録的な早さで病院を出ることができた。 次に、セントロまで戻って、ドトーラ・ヴィットリアのペットクリニックに行き、はるを診てもらい、予防接種をしてもらう。はるは前回受診した際、体重が1.5キロで望ましい体重よりも500グラム少ない栄養不良と言われたのだけれど、今回測ったら、2.2キロと700グラムも増えていて、薬の投与も終わり、ドトーラに合格点をもらった。そして、ペットクリニックに併設されたペットショップで、はる用のベッドなどを買った。次の写真は、帰宅して、お昼を食べた後、自分のベッドがちゃんと横にあるのに、買ってきたたばかりのタオルを敷いたはるの小さなベッドに、このベッドには大きすぎるモビが何故かデーンと座っているのがおかしかったので写真に収めた。モビのベッドはもう2年半近く使っていて、だいぶよれよれになってきているので、「僕にも新しいのを買って」という意思表示だろうか?
ドトー・ジョアオンやドトーラ・ヴィットリアに、どうしたら夜はるがおとなしく寝てくれるだろうか?と相談したら、ふたりとも昼間はるを寝かせないようにと言う。う~ん、それはちょっと難しいなあ・・・。でも、帰宅後、お昼を食べてから、雨で汚れたベランダをまたエドソンが掃除してくれたので、夕方まではるが泣いても叫んでもベランダにつないでおくことにした。でも少し泣いたりしたけれど、結構おとなしく座って景色を眺めたり、箱の中でうたた寝したりしていた。時々、はるが泣くとモビが気にかけてくれ、しばらく側に一緒にいてくれたりする。モビは本当に優しいいい子だ。この作戦と新しいベッドが功を奏して、はるは昨晩は一度も起きることなく朝までしっかり寝てくれた。お陰で、モビも一度も起きず、みんな久しぶりによく眠ることができた。次の写真は、昨日の午後ベランダでおとなしく座って景色を眺めているはるの後ろ姿を、居間の中からパチリ。
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2013年1月6日(日) | ||||
金曜日、土曜日といいお天気が続き、午後からは暑くなったけれども、久しぶりに明るく気持ちのいい2日間になった。お陰で溜まっていた洗濯物がよく乾き、外での作業もはかどった。昨日は手伝いに来てくれたジョゼに仕事の指示をしたり、自らも10月にやりかけて残っていたベランダの椅子にニスのようなペイントを塗る仕事をしたりと、エドソンも忙しく働いてくれた。でも。今日は朝のうちは少し日差しがあったものの、だんだん曇ってきて、10時頃から遠くで頻繁に雷が鳴り始め、お昼前からパラパラと雨が降り出した。次の写真は、ベランダの椅子を塗っているエドソン。これは10月に2つ仕上げた際に撮影したもの。
我が家の東側の庭に、ミツバチのジャタイが好む花木をいろいろ植えたのだけれど、今、その内のサブゲイロという木が白い花をたくさん咲かせている。そしてガーデン・グレヴィーリャも、たくさん赤いおもしろい花を咲かせている。
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2013年1月7日(月) | ||||
昨日は、午後から雨と風が強くなったけれど、主要な嵐はここの南を通過したので、大変なことにはならず、午後遅くにはお天気が回復し、みんなで少しベランダの椅子に腰をおろして過ごしたり、外のお散歩を楽しむことができた。モビは体調を崩して以来それまでのように鶏レバーと野菜を煮た食事には食欲がわかなくなったようなので、ここ10日ばかりずっと挽き肉と野菜(ニンジン、ビーツ、コウヴィ)を細かく刻んだものを煮て作っている。年明け前後から食欲が正常に戻ったので、ドッグフードも少し混ぜている。一方、はるの方は、ご飯と鶏胸肉をお水で柔らかく煮たものを作っていたのだけれど、投薬も終わり、体調が完全に回復したので、ニンジンとビーツとコウヴィを刻んだものとドッグフードも少し混ぜているので、よくウンチをして元気そのもの。モビはご飯などの炭水化物を食べてはいけないので、はるの食事とは別々に作らなければならない。これを1~2日おきに作らなければならないので、結構忙しい。次の写真は、それぞれの食事をそれぞれのお皿で食べているモビとはる。はるは食べ終わると、必ず鼻先にご飯粒をつけている。
昨日はお天気が悪かったので家事はお休み。その代わり年末年始バタバタしていてお年賀メールをまだどこにも出していなかったので、何通かメールを送って過ごした。次の写真は、居間のソファーに座って作業をしている私と、特等席のソファーの上のモビと、私の足元のベッドにいるはる。クリスマス前後から私のコンピュータが何度もクラッシュして長時間使えなくなり、ニュースもまともに読めず、短時間でメールの確認をしてブログをアップするのが精一杯だったのだけれど、年末にとうとう起動してくれなくなってしまった。エドソンがとりあえず彼のノートパソコンに日本語を入れてくれ、データを移してくれたので、コンピュータの部品を調達してエドソンが私のコンピュータを修理してくれるまで、この仮使用の状態が続く。
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2013年1月8日(火) | ||||
久しぶりにイビウーナの中村さんのウィークリー・ノートを以下に転載してみる。最後の方に、『単に「天皇陛下万歳!」を唱和する丈の日本の国歌とは異なり』とあるのは、日本の皇室が嫌いな中村さんらしい(?)国体軽視の言葉でちょっと悲しい。日本の天皇は西洋の王や皇帝とは違い、いわゆるpriest king(国民の幸いを祈ることを責務としている)ということをどうして無視するのだろう?不思議でならない。ブラジルは各国からの移民でできた若い国。それを何とかひとつにまとめて行かなくてはならない課題を抱えた国。世界にふたつとない数千年の長い歴史と伝統ある皇室を持つ日本とは異なることを念頭に読んでみてほしい。私はブラジル国家を歌ってみたことはないけれど、曲調が速く、その速く展開する音にたくさんの言葉を乗せて駆け足で歌わなければならないので、とても難しそうという印象がある。歌詞に使われている言葉は文学的には素晴らしいのかもしれないけれど、現在ではもう使われていないような言葉が多いので、ブラジル国家は歌うのがとても難しいというのがエドソンの評。
よくブラジルの国歌は、その詞と曲が高い評価を受けていると言われる。しかし、これ を歌い通せるブラジル人は少ない。あまりにも長過ぎるのだ。短いことで定評の「君が 代」と好対照をなしている。実は3番まであると聞くが、知っている人もあまりいな いし、歌うのを聴いたこともない。歌われても、精々2番までだ。歌詞は、凝ってい て、庶民には意味を把握するのが容易ではない。しかし理解すると「あぁ、好い国歌 だなぁー」と言う。サッカーの国際試合などで選手が歌う映像を見るが、大概は口をぱく ぱくしているだけのように見える。----- 長年ブラジルにお世話になっていながら、私 自身も歌えない。そのことが気になっていた。死ぬまで歌えなかったでは不名誉だ。 せめて1番だけでも歌えるようになりたいものだと念じて、2013年初のWeekly Noteの テーマに選んだ。
法令No.5700により、01/09/1971(コスタ・エ・シルヴァ大統領)付けで国歌と定められ、38年後の22/09/2009(ルーラ大統領)に学校での週一回の唱歌が義務付けられた。以下は原文(1番のみ):
日本語訳は:
他にも邦訳はあるが、この訳詞は曲に合わせて歌える初めてのものだ。訳文から読み取れるように、自由、平等、祖国愛、夢、希望、雄大な自然、未来という言葉で彩られている。単に「天皇陛下万歳!」を唱和する丈の日本の国歌とは異なり、主権在民の思想が、ブラジルの国歌には込められている。 | ||||
2013年1月9日(水) | ||||
ブラジルのスーパーなどで見かけるオクラ(ここではキアボという)は、収穫する時期が遅すぎるのか、大きくて硬くておいしくない。だからなのかブラジルに来て以来、オクラが好きという人に出会ったことがない。そうしたら先日、うちの手伝いに来てくれているジョゼがオクラ大好きだという。珍しい。うちの畑にあるオクラを見て、少し分けてと言うので、先日収穫できた数本を全部あげたら喜んでくれた。でも、この人なぜかブラジルの定番野菜のコウヴィは嫌いなのだとか・・・いろいろあるなあ・・・・次の写真は、今たくさん花を咲かせているオクラ。
そして、もうひとつ今、花をたくさん咲かせているのが大豆、というか枝豆。とても小さな薄ピンク色のこの花が全部枝豆の実になるかどうかはわからないけれど、とても楽しみ。ちなみに大豆の花というものを、今回初めて見た。次の写真は、小さくてよく見えないかもしれないけれど、その大豆の花。
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2013年1月10日(木) | ||||
『単に「天皇陛下万歳!」を唱和する丈の日本の国歌』と、「君が代」のことを称した中村さんの先日の文章が、やけに心に引っかかっている。戦闘的な内容の歌詞が多い諸外国の国歌に比べて、天皇の御世(つまり国と国民)の繁栄と平和を願う「君が代」ほど、争い事が嫌いな日本人の国民性に良く合った平和的な国歌はないのではないかと私は思う。インターネットで何かいい説明が見つけれらないだろうかと調べてみたら、以下のような内容でうまく説明しているサイトがあった。
国歌「君が代」について | ||||
2013年1月11日(金) | ||||
今週は日曜日からこっちずっとお天気が良くない。太陽はたまに顔を出すだけで、基本的に厚い曇に被われていて、1日に1~2回は必ず雨が降る。でも今朝は太陽が顔を出している。ただ朝の気温は13度で、夏の盛りとは思えない涼しさ。長袖のTシャツの上からサマーカーディガンをひっかけていないと寒い。今週もドナ・ベティのファゼンダの休暇が続いているジョゼが、毎日ここの手伝いに来てくれているのだけれど、雨が降り出すと仕事にならずシュハスコ小屋に避難して時間を潰したり、午後遅くから雲行きが怪しくなると、雨が降り出さない内に早く帰ってもらったりと、ちょっと雨にたたられている。ここに越してきた最初の夏も雨が多く、うちからパーディーニョの町に行く途中の舗装道路に出るまでの舗装されていない道路が水浸しになり通れなくなったり、ドナ・ベティのファゼンダの中の大きな貯水池が決壊するなど、あちこちで土砂崩れが発生したけれど、こう毎日雨が降ると同じようなことが起きないかと少し心配になる。 一緒に遊んだりお散歩をしたりする時以外は、はるとは少し距離を置いているモビ。でも先日、夕飯時に雷が鳴り始めた際、台所に置いたはるのベッドの中にしずしずと入り込んだのでおかしかった。モビの巨体に押しつぶされそうな小さなはるは、別に嫌な顔もせず、おとなしくモビと一緒にベッドの中にいる。以前だったら夕食時に雷が鳴ると、ダイニングルームのテーブルの下とか、エドソンの椅子の下がモビの避難場所だったのだけれど、はると一緒のベッドの方が安心だったのかな?この子たちはなかなかいいコンビになりつつある。
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2013年1月12日(土) | ||||
ニッケイ新聞2012年12月11日付けから3回の連載で、また中田みちよさんのブラジル文学の中の日系人についての文章が載ったので、以下にリンクをはってみる。この中に出てくるコッペイロ(copeiro、女性の場合はコッペイラ=copeira)というのは、台所関係のマネージャー的な仕事をする執事のような人のことで、掃除や洗濯や料理をする人はエンプレガード/ダ(emplegado/a)、または、ドメスティコ/カ(doméstico/a)と呼ばれ、掃除だけをする人はファッシネイロ/ラ(faxineiro/a)と呼ばれる。英語のメイド(maid)とか、日本語のお手伝いのように大まかに引っくるめた呼び方ではなく、仕事の内容により細かく呼び方が違うのは興味深いなと思う。ちなみに、以前、お隣のウィリアムの所のカゼイロ(農場などで住み込みで、農場の管理や農作業をする人)をしていたマウリシオの奥さんのドナ・クレウザは、今はパーディーニョの町で暮らし、週に4日、2~3軒の家でお掃除をする仕事をしているので、ファッシネイラということになる。ちなみに、ホテルの客室の掃除やベッドメーキングをする人(日本では客室係?)のこともファッシネイラという。 『ブラジル文学に登場する日系人像を探る4=マリオ・デ・アンドラーデの「愛は自動詞」=端役の日本人コッペイロ=中田みちよ 文学の中に最初に日系人を登場させたのは、たぶん、マリオ・デ・アンドラーデです。そのうちまた何かの拍子に、日系人が出ている作品に出くわすこともあるかもしれませんが…。
第1回 この連載記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2013年1月13日(日) | ||||
エドソンが私へのクリスマスプレゼントとして買ってくれた圧力鍋を、先日ようやく彼の指導の下使ってみた。これまで圧力鍋など使ったことがなかったのだけれど、ここではよく豆を食べるので、かねてからリクエストしていたのだ。でも、使ったことのない身の悲しさ、使い方がよくわからない。それで、エドソンに一緒に台所に立ってもらい、教えてもらった。レンズ豆と挽き肉とトマトのチリ煮を作るのに、レンズ豆だけ圧力鍋で煮たのだけれど、最初、20分煮たら柔らかくなり過ぎてあんこのようになってしまったので、もう一度やり直し、10分に時間を短縮したらちゃんとできた。普通の豆だったら20分くらいがちょうど良かったのかもしれないけれど、小さなレンズ豆で20分は長すぎたようだった。材料によって煮る時間を調整しなければならないので、しばらく試行錯誤が続くだろうけれど、圧力鍋を使えば固い肉も柔らかく調理できると言うことなので、これから出番が増えそう。感謝。感謝。
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2013年1月14日(月) | ||||
昨日も朝からシュヴァ、シュヴァ、シュヴァ(chuva=rain)。今朝は雨は降ってはいないけれど、どんより曇っている。気象レーダーで見ると、サンパウロ全州にわたって雨雲が散在しているので、いつ降り出してもおかしくない状態。今日のここの最低気温は16度。最高気温は23度。先週あちこちに出した「寒中お見舞い兼お年賀メール」には、こちらは暑いと書いたのだけれど、お天気がずっと悪く、気温の低い状態が続いている。それで先週の金曜日から夜はベッドシーツと夏用の肌掛けだけでは寒いので、もう1枚来客用の予備の毛布を掛けて寝ている。掛け布団を掛けて寝ても暑くはないのでは?と思えるような気温。次の写真は、昨日の午後1時頃、居間の前のベランダから撮った家の西側の様子。強い風は吹いていないので、竹や桜などはお辞儀をせず、真っ直ぐ立っている。
最近、1日に1度はモビとはるを一緒に遊ばせる。モビはボールにはまったく興味を示さないけれど、はるはボールを追っかけて、ベッドまで持って戻ってくる動作を繰り返すのが大好き。これをはると始めると、モビも寄ってきて、しばらくはるの往復を見物している。そして、はるが興奮してモビにちょっかいを出し始めると、モビもはるの相手をして、はるの体をなめたり、噛みつく真似をしたりして、しばらく戯れ合う。でも、時々私の方を見て、「もう止めた方がいい?」という顔をするので、「まだいいよ。どうぞ~」と言うと、また戯れ合うというのを繰り返している。はるは赤ちゃんなので歯止めが効かず、本当にモビを噛んでしまったりすることもあるけれど、モビは大人なので、真似をするだけで、決してはるを本気で噛んだり、傷つけたりはしない。程度というものをわきまえている。次の写真は、戯れ合っている2匹。モビが怖い顔で本気ではるを噛んでいるように見えるけれど、噛む真似をしているだけで、2匹とも尻尾をフリフリ楽しそう。
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2013年1月15日(火) | ||||
昨日は正午過ぎ頃から雨が降り始めた。夕方までには何とか止んだけれど、今朝もどんより曇り空。そして、10時過ぎにはまた雨が降り出した。こういうお天気が今週もずっと続くらしい。ああ・・・太陽が恋しい。 先日、はるのベッドの中にいるモビとはるの一緒の写真を掲載したら、最近趣味で鉛筆画を始めたという友人のご主人が、その写真を模写してくれ、その絵を友人が送ってきてくれた。ふたりの表情をうまくとらえて、良く描けていること。こういう才能はうらやましいなあ。そして、友人とのこんなキャッチボールも楽しいので、ここにその絵を掲載することにした。気の滅入るお天気が続く中、ほっこり気持ちをほぐしてくれた友人からのメールとご主人の絵に感謝。
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2013年1月16日(水) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2013年1月3日付け「コラム 樹海」からの転載。この記事の中に「当時は新聞社の呼び寄せによるブラジル移住があった」とあるけれど、今はないのかなあ?でも若い記者さんがいないわけではないので、新しい若い記者さんはどういう手立てでブラジルにやって来ているのだろう? 『昨年末に亡くなった遠山景孝さんは本紙の前身パウリスタ新聞のOBだった。百周年委員会の広報担当をされていたこともあり、会合などでよく顔を合わせた。子供のような年のコロニア新参者である記者に対し、いつも丁寧で誠実な対応をされた紳士だった▼新聞社を出られてからも、ブラジル政府などと組んだ広報活動、エスタード紙での日本移民百周年企画にも携わった。これからW杯、五輪を迎える。まだまだお互いに知るべき日伯両国間の橋渡しができるノウハウを持った人材だった。まだ75歳と若かった。ご冥福をお祈りしたい▼遠山さんもそうだが、当時は新聞社の呼び寄せによるブラジル移住があった。その数は分からないが、多くの人が新聞社を足がかりに様々な方面に羽ばたいていった。身近な人が実はOBだったりする。若い人がブラジルに来る手立てがなく、慢性的な記者不足の現在から見れば、羨ましい限りだ▼世代は移り、移民が新聞を作った時代は今は昔。1947年のパウリスタ新聞、その2年後に創刊した日伯毎日新聞が合併したのが1998年。つまり今年はニッケイ新聞社が生まれてから15年目にあたる。創刊時の読者数も激減し、経営も厳しいかぎり。しかし新年早々、青色吐息ばかり吐いてはいられない▼様々な企画だけでなく、読者の関心を呼び、コロニアの歴史を残すような紙面を心がけていきたいと思っている。コロニア10大ニュースで企業の進出をトップに上げたが、さらに拍車がかかり日伯関係の深化する1年に、そして読者のみなさまにとってよい年であることを祈りたい。本年もよろしくお願いします。(剛)』 | ||||
2013年1月17日(木) | ||||
夜の間ずっと降っていた雨が、夜が明けても降り続き、昨日もほぼ1日雨。午後遅くなってから止んでくれたので少しほっとする。今朝も雨は降っていないけれど、お天気は相変わらず良くない。 はるは私がコンピュータの前にいる時は、おとなしく私の足元のベッドで寝ているのだけれど、私がゴソゴソと家事で動き回っている時は、私が側にいないとじっとしていられず泣くので、カンガルーポケットに入れたはるを腰に巻きつけて持ち歩いている。問題はトイレに行く時。以前は私がトイレに行く際は、エドソンにはるを抱っこしてもらっていたのだけれど、週末などエドソンが下のワークショップで作業していたりするとそれができないので、カンガルーポケットに入れたまま、はるをタオル掛けの横のフックにぶら下げて、一緒にトイレに入るようになった。次の写真は、洗面台の横の壁のフックにぶら下がったはる。このポケットの中にいて私が彼女の視野の中にいる限り、とてもおとなしくしていてくれる。
12月の半ばから1ヶ月ほどの休暇でミナス・ジェライス州の実家に帰っていたエリゼウが、久しぶりに昨日やって来た。昨日は本当に久しぶりだったのでつもる話もあり、英語のレッスンはせず、夕食だけ一緒に食べておしゃべりに興じた。いつものように彼のお母さんの手作りのビスコイト・デ・ポウヴィーリョ(iscoito de polvilho)というお菓子と、自家製のハチミツをお土産に持ってきてくれた。お菓子は大きな袋の方は普通の塩味で、小さい袋の方はチーズ味。以前持ってきてくれたハチミツは、ジャタイのハチミツだったけれど、今回は普通のミツバチのハチミツだそうだ。いつもは11時頃まで話して帰って行くのだけれど、私は10時頃にはモビたちのオシッコを済ませて、お先に失礼する。でも昨日は、私が失礼した後も、何と午前1時半頃までエドソンとおしゃべりしていた。
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2013年1月18日(金) | ||||
先週、ドナ・ベティのところがお休みで5日間続けて手伝いに来てくれたジョゼに、アメンドインをあちこちにたくさん移植してもらった。前回、家の西側に移植してもらったアメンドインは移植直後に水やりをしてくれなかったため、ほんのわずかに生き残っただけで、ほとんどは枯れて根付くことはなかった。でも今回は、毎日毎日雨が降り、太陽がほとんど顔を出さなかったため、1週間以上経っても枯れずに緑を保っている。この分だと移植した芽の大多数が根付いてくれそうな感じだ。雨ばかりのお天気も困るけれど、こういう利点もあると思えば我慢もできる。次の写真は、大きく広がって成長している庭のアメンドイン。中心部から、移植のためにたくさんの芽を切り取ったため、まるでドーナツか火山の噴火口のような姿になっている。
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2013年1月19日(土) | ||||
昨日はモビを大学病院に連れて行くため、例によってみんなでボトゥカトゥに出かけて行った。前回は血液検査の結果が出るのを待たなくても良かったので、超最速で病院を出ることができたけれど、今回は採血までに1時間以上も待たされた上、検査の結果が出るのを待って、抗ガン剤治療をするかどうかを判断してもらわなければならなかったので、ずいぶん時間がかかった。先週後半にキナヴェットの投与を再開するようにという指示がドトー・ジョアオンからあったので、再開したものの、薬の副作用でモビはすぐ食欲をなくしてしまい、食事ができない状態になったので、翌日は投与を止め、食欲が戻ってからもう一度投与すると、また食事ができなくなってしまった。以後、投与することを完全に止めた。でも、その2度の投与だけで、せっかく回復していた肝機能を悪化させてしまったようで、検査の結果、肝機能が回復するまで抗ガン剤治療はできないということになった。それで肝臓の薬を何種類か処方されて、12時半を回って病院を出た。 この後、ボトゥカトゥのセントロ(中心街)にある調剤薬局で薬の調剤を頼んだのだけれど、できるのは翌日ということで、パオン・ジ・アスーカーで食料品を買った後、パーディーニョに戻った。パーディーニョでもいろいろ用事を済ませて帰宅したら3時半を回っていた。昨日は久しぶりに1日いいお天気で、気持ちが良かったけれど、帰宅すると曇りだしてきて、少し雨もパラついた。でも、太陽が西に傾いて日が沈むところは見ることができた。次の写真は、8時過ぎに日が沈んだ後の西の空。
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2013年1月20日(日) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2013年1月4日付けのコラム「大耳小耳」からの転載。「腐っても鯛」をもじった「腐っても日本人」という表現に共感を持って思わず笑ってしまった。ブラジルではこういうことは日常茶飯事。ここでの生活で、私たちも同じように感じることが多々ある。こういう国民性の違いはどこからくるのだろう?と、いつもエドソンと話しているのだけれど、要するに教育と社会環境だろうか?というのが私たちの今のところの結論。 『クリスマス休暇旅行に行ったが、ポウザーダの宿泊予約に一苦労した。予約のメールを度々送るが返事が来ず、ようやく連絡を取れ一安心かと思いきや、当日確認の電話をするとリストに名前がなかった。全く旅疲れより気疲れする当地の旅行。到着後も、受付嬢は宿泊料金を間違え、少なく請求。放っておけばいいものを、つい馬鹿正直に自ら訂正するコラム子は、やっぱり腐っても日本人。』 | ||||
2013年1月21日(月) | ||||
昨日、はるは3ヶ月の誕生日を迎えた。体重も2.5キロになり、ここに来た1ヶ月前と比べて1キロ増えたことになる。毎日本当によく食べ、よく寝て、よくウンチをする。まだオシッコをたまにベッドの中でしたりと、完全ではないけれど、まあそれは追々何とかなるだろうと思っている。モビとも仲良くやっている。時々調子に乗りすぎて、モビを怒らせて泣くはめになることもあるけれど、まあこれも発展途上のはるにとっては必要な学びなのだろうと思う。 この週末は少しお天気が回復して、穏やかな日々だった。土曜日は太陽が顔を出しているのにパラパラと雨が少し降ったり、午後からも雲が厚くなり短時間雨が降ったりして変なお天気ではあったけれど、雨量はたいしたことはなく、日曜日は爽やかな1日になった。去年の9月に2度目の花を咲かせたカトレアは、4ヶ月もの間楽しませてくれたけれど、先週ひとつまたひとつと花が枯れ落ちて終わってしまった。そして、以前ハチドリが巣を作っていた庭の木に花が咲き始めた。この木は小さな苗木から成長して今回初めて花を咲かせた。次の写真は、ベランダから庭の中央奥にあるそのクアレズマという名前の木を撮影したものと、すぐ側まで行って、花を近くで撮影したもの。お隣のコーヒーファームの入り口ゲートから家まで続く道沿いに植えられた同じクアレズマの木も同様に、今花盛り。
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2013年1月22日(火) | ||||
先週の金曜日にボトゥカトゥの調剤薬局で頼んだモビの薬の調剤は、土曜日にならないとできないということだったので、土曜日に再度ボトゥカトゥに行く代わりに、エドソンがボトゥカトゥに住んでいるハファエウに頼んで取りに行ってもらった。そして、昨日の朝、ハファエウが仕事に出る前に英語のレッスンに来た際、約束通り薬を届けてくれた。感謝、感謝。それで昨日からモビは5種類に増えた薬を飲んでいる。モビの首にあるガン細胞はかなり大きくなっているので、早くモビの肝機能が回復して、抗ガン剤治療を再開することができるよう願うばかり。次の写真は、ガンのしこりがある左側からと、上からモビを撮ったもの。しこりは段々硬く重くなってきていて、モビの首はずいぶん変形してきている。
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2013年1月23日(水) | ||||
日本ではバラが咲くのは1年に1回で、バラの季節というのがあったように思うけれど、ここでは何度も何度も繰り返し咲く。そのお陰で一年中というのはちょっと大袈裟だけれど、バラを食卓の上に飾っていられる時期が長いので、ありがたい。12月にたくさん花が咲いたのが終わった後、しばらく休憩していたけれど、最近また、たくさん芽が出始め、花が咲き始めた。それで、食卓に飾るべくバラの枝を切っていると、バラの葉の上で葉っぱと同じような色や形をしたおもしろい昆虫(写真中央)を発見!バラの新芽は赤茶色をしているのだけれど、この昆虫も緑一色ではなく、バラの新芽と同じような赤茶色の色が足や背中に入っていて保護色になっているので、よ~く見ないと葉っぱと見分けがつかない。自然の創造物って本当に不思議だなあ・・・。
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2013年1月24日(木) | ||||
ランドマークの木の足元に生えてきて、実をつけたメロンは、あまり大きくならない内に風雨に晒されたためか、実が茎から離れてしまい、これ以上大きく成長する可能性はなくなったので収穫してみた。次の写真は、右側はスーパーで買ったメロン。左側がその棚ぼたのメロン。重さを計ってみたらスーパーで買ったメロンは2.8キロで、我が家の棚ぼたメロンは590グラム。約5分の1の小ささ。スーパーのメロンに貼られた赤いテープには、¨estou MADURO¨、つまり、「熟してます=(I am ripe)」とあり、このメロンはいつ買っても甘くておいしく、当たり外れがない。
この590グラムのメロンとは別に、もうひとつさらに小さいメロンの実ができていたのだけれど、これも実が茎から離れてしまっていたので、地面の上でほったらかしにしておいた。そうしたら黄色く熟してきたようなので収穫してみた。次の写真の右側が590グラムのメロン。左側がそれよりさらに小さなメロン。切って試食してみたのだけれど、まずいという味ではなかったものの、ちょっと「微妙な味???」だった。まあ、ちゃんと成長できなかった棚ぼたメロンなのだから当然と言えば、当然かな?
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2013年1月25日(金) | ||||
年が明けて以来、ほぼ毎日雨が降るお天気が続いていたので、気温も低く異常な冷夏と言っていい状態だったけれど、今週は快晴ではないものの、太陽が顔を出している時間が長く、雨が降っても通り雨が短時間さっと降る程度なので、少しずつ気温が平年並みに戻りつつある。雨が続くと、外を歩く際、長靴が泥だらけになるので、あまり気楽にうろうろ歩き回れないのだけれど、このところのお天気で地面が乾燥してきて、長靴が泥だらけにならなくなった。それで、一昨日久しぶりに丘の上まで上がって写真を撮ってみた。うちの手伝いにきてくれるジョゼが丘の一番高いところまで真っ直ぐに草を取り除いて、歩き易い道をつけてくれたので、足元を気もせず楽々歩くことができた。ここの涼しい気候と、この丘の上からの眺めはここの財産。
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2013年1月26日(土) | ||||
昨日はアメリカーナからジョアオンがやって来た。前回のようにお昼を食べてから午後はふたりで仕事の話をするのだろうと思っていたら、休暇中の奥さん(カンピーナスにあるテレコミュニケーション関連の研究所の上級職員)と大学生(サンパウロ総合大学)の娘さんもひとり連れて来たので、昼食をはさんでみんなで長い間おしゃべりに花が咲いた。結局、エドソンとふたりで仕事の話をしたのは、ほんの1~2時間だった。今回の訪問は、仕事というよりも、奥さんと娘さんに私たちを紹介するのが目的で、ついでに仕事の話もしたといった感じだった。前もって奥さんたちを連れてくると聞いていたので、お昼ご飯はどうしよう?と、ちょっと悩んだのだけれど、鶏肉と野菜としいたけをお醤油と酢で炒めた中華風のおかずに、きゅうりの酢の物、そして、デザートにチーズケーキを用意。でも、何の問題もなくおいしいと言って食べてくれたでのほっとした。日本食は焼きそばくらいしか食べたことがないということだったけれど、飲み物はソーダよりもフルーツジュースの方がいいとか、野菜も好き嫌いなく食べるとか、私たちが知るこの辺の人たちと違い、嗜好が私たちと似ていて、偏食でなかったのはうれしかった。その上、この家族はみな英語を聞いて理解することができ、特に、大学生のバーバラは不自由なく話すことができたので、いろいろおしゃべりすることができて楽しかった。次の写真は、ジョアオンの奥さんと娘のバーバラ。
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2013年1月27日(日) | ||||
入り口ゲートから家まで続く道は、車のタイヤで踏みしめられた部分が下がり、真ん中でタイヤに踏みしめられることのない部分で旺盛に繁殖しているブラキアーリアが車のお腹を擦るようになった。それでエドソンがジョゼに頼んで、真ん中で盛り上がっているブラキアーリアを取り除くだけでなく、道路に沿って移植してもらったアメンドインがうまく成長できるように、周囲のブラキアーリアも取り除いてもらう作業を続けてもらっている。次の写真は、きれいになった真っ直ぐな部分と、まだこれからきれいにする入り口ゲートに向けて右折している部分。
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2013年1月28日(月) | ||||
ブラジルでは今、ブラジル最南部の州、ヒオ・グランジ・ド・スーウ州サンタマリアという町のナイトクラブで昨日起きた大規模火災が、とても大きなニュースとして取り上げられている。233人もの人たちが亡くなったということだけれど、これはブラジル史上2番目に多くの死者が出た火災なのだとか。そして、犠牲者のほとんどが大学1年生だったというから一般に与えたショックも大きかったようだ。夏休みが終わり、今日から新学年が始まるのを目前に、いつもは穏やかなキャンパスタウンで多くの若者が犠牲になったのだからたまらない。 我が家の庭の東端の丘の上には、大きな水槽がある。丘の下のお隣のウィリアムの敷地内にある森の近くの井戸から、水をこの水槽に汲み上げて、ここからウィリアムのところと、我が家に水が供給されている。その水槽を視界から隠すために、水槽の前、我が家の庭を囲むようにセドリーニョの苗をたくさん植えた。植えた時、小さかったセドリーニョの苗がだいぶ大きく育ち、最近は思惑通り水槽を隠すようになってきている。でも、せっかくここまで大きく成長したのに、何故か1本だけ茶色く立ち枯れてしまったセドリーニョがある。一体どうして枯れてしまったのだろう?
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2013年1月29日(火) | ||||
以下は、イビウーナの中村さんのウィークリーノートからの転載。日本人が食べている鶏肉の9割はブラジル産とあるのに少し驚いた。東京に住んでいる頃、近くにハナマサという業務用スーパーがあり、そこで初めてブラジル産の鶏肉を見かけた。国産よりも安く、ブラジルは鳥インフルエンザの影響を受けていない数少ない国だったこともあり、積極的に買うようにしていたけれど、それまではどこのスーパーでもブラジル産の鶏肉など見たこともなかった。ひょっとして、そのほとんどは家庭用ではなく、業務用に輸入されて、多くの飲食店で使われているということなのだろうか?
古いブラジルの資料で困るのは、作成日付けが見当たらないことだ。何処かに記されているかも知れないが、探すのが馬鹿ばかしくなり諦めることがしばしばだ。日伯関係は20年前どうなっていたのだろうか、当時と比較して現在のそれをどう見ればよいのだろうか、そんなことをふと考えることがある。以下は、1991年と思われる資料に基き2011年(最近のブラジル資料は作成年月日を明記)の数字を眺めてみたものだ。そこからうかがえるものがあれば、この試みもあながち無駄でないのではなかろう、と思う。 20年前のブラジルの輸出総額は314億米㌦で、日本は米蘭に次ぐ3番目の輸出先で7.5%のシェアーを占めていた。2011年の統計では、ブラジルの輸出総額は8倍強の2560億米㌦になっており、日本のシェアーは3.7%で中国(17%)、米国(10%)に遥かに及ばない。輸出品も、現在は鉄鉱石が47%とトップだが20年前は大豆、オレンジ・ジュ‐ス、コーヒー等が上位を占めていた(農産品が30%)。20年前の輸入総額は200億米㌦で2011年の2262億米㌦の8.8%、10分の1にも満たなかった。2011年の対伯輸出国として日本(3.5%)より上位のシェアーを持つ中国(14.5%)、韓国(4.5%)は20年前の統計にはいなかった。対伯外国資本投資残高は、1991年6月末現在で354億米㌦、1位米国(105億米㌦)、2位西独(49億米㌦)、3位日本(35億米㌦)とあるが、上位20ヶ国の中に中韓両国は未だ入っていない。2011年の対伯外国資本年間投資額だけでも、20年前の累積残高の2倍近い695億米㌦あり、1位オランダ(25%)、2位米国(13%)、3位スペイン(12%)、4位日本(11%)、となっている。最近、中韓の対伯投資が急増していると報じられているが、統計には現れていない。中韓投資はその他22%の中に隠れているのだろう。 ブラジルの輸出で注意を引くのは、20年前は統計に現れなかった中国が今やブラジル鉄鉱石の大得意先で半分近くを買っていること、日本人が食べている鶏肉の9割、飲んでいるコーヒーの3割がブラジル産だということだ。ブラジルの輸入については、20年前には見るべきものがなかった韓国からの輸入が4.5%と日本の3.5%を上回っていることが目を引く(もっとも、アルゼンチンからの輸入9%にはアルゼンチン産トヨタ車も入っているが)。要は、韓国は自動車を輸出し、日本は現地生産を主としているということだろうと思う。近年、中韓両国が急速に存在感(プレゼンス)を増していて、良くも悪くも話題を提供している。
只、20年前と言えば、コロール大統領(1990年就任)の時代であり、ブラジル経済はハイパーインフレーション(月率81%、年率126,000%)の真っ只中にあり、対外的には閉鎖経済だったので(コロール大統領が解放経済に踏み切った)、20年前と現在を比較すること自体に無理がある。大まかな流れが分ればよい、という程度のことだと思う。未来学者は現在から未来を予測するが、過去から現在をみることからも学ぶことが多いのではないだろうか。 | ||||
2013年1月30日(水) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2013年1月16日付け「コラム 樹海」からの転載。記事の中の「ロテリア」というのは、宝くじのこと。 『日々の路上には、良くも悪くもブラジルらしい光景が展開する。昨年のことだが、前かがみに腰を浮かして座ったラッパー風青年の絵が描かれた壁があり、毎朝その前を通って通勤していた。たいしたことのない、よくある落書だ▼だがある日、絵の腰部分の下に立派なウンコがしてあった。平面的な絵から〃立体〃が飛び出したかのような絶妙な位置関係で、おもわず「ある意味、芸術的かも」と妙に感服した。いくらセンスが絶妙であっても、そのまま美術館に飾るわけには行かない〃過激な作品〃だ▼その「路上の芸術」は時に雨で流されキレイになったかと思ったら、ある時、下痢ベンになっていたりして、おもわず「病気か」と密かに心配させた。でもある日、通りかかったら、市役所の職員に白ペンキでキレイに塗られてしまい、ただの壁に戻った▼ブリガデイロ街のある飲食店の入口には、ロテリア売りのおばさんが狭い立ち机の前にいる。髪の毛はボウボウで飾りっけのない、大声で卑語をしゃべる貧困階級的風情の中年女性だ。でも一昨年の正月、突然その立ち机の正面に「Presidenta」(女性大統領)と手書きされたのを発見したときは、思わず吹き出した。ジウマ大統領の演説台にみえないこともない。テレビのバラエティ番組は笑えないが、この種の庶民のお笑いセンスはどこか微笑ましい▼数年前、東洋街の道端に座って何かを食べている乞食女性がおり、通りがかりに好奇心で覗いたら、箸で器用にヤキソバを食べていて魂消た。世界広しといえど、乞食までハシを使うのは西洋文化圏ではここだけではないか――と妙な誇りを感じた。(深)』 | ||||
2013年1月31日(木) | ||||
モビの首のガンは短期間に驚くほど大きく、硬くなり、その重みで最近モビはいつも首を左に傾けている。この状態で何の治療もしないでいると、転移などの問題も出てきて、坂を転げ落ちるように状態が悪くなるのではとないかと心配でたまらない。それで、ここ10日ほど食欲が戻り、体調が安定しているので、抗ガン剤治療をしてもらえないかと思い、昨日はモビを大学病院に連れて行った。血液検査の結果、肝機能がほぼ正常に戻っていたので、抗ガン剤治療をしてもらうことができた。昨日モビを診てくれたドトーラ・ルシアナが、特別のことがない限り顔を出さない教授をモビのためにわざわざ呼んでくれたので、モビの治療に関して教授と話すことができた。先月上旬この教授と話をした際、モビの耳を切り落としたり、モビの背中の皮膚を切り取って、首に移植するようなアグレッシブな手術はせず、キナヴェットという新薬を使って、生活の質を落とさず、モビがガンと共存して穏やかに生きて行けるようにしたいと決めて、投薬を始めたのだけれど、私たちの希望に反して、キナヴェットはモビには合わず、肝機能をひどく痛めつけてしてしまったことは残念だった。ここまで大きくなったガンに抗ガン剤治療がどこまで有効かはわからないけれど、ベストを尽くすしかない。というようなことを話してくれた。私たちは大学病院にもう2年も通っているので、毎年顔ぶれが変わる新米のインターンの人たちは別として、ドクターやレジデントの人たちはみなモビのことをよく知っていて、名前もちゃんと覚え、いつも気にかけて話しかけてくれる。そんなこともあって教授まで私たちのために出てきてくれて、時間を割いて説明してくれることは、実にありがたいことだと思う。ちなみにこの教授は40代くらいの女性。そして、昨日はまた、1月半分残っているけれど、いらなくなったキナヴェットを大学病院に持参し、他の患者犬で使えれば役立ててくださいと言って、寄贈した。 次の写真は、今朝ベランダで撮ったモビ。ちょうど目をつむってしまったので、まるで瞑想でもしているような顔になってしまった。首のガンが大きくなってきて、手術の傷痕を押し上げているから痒いらしく、後ろ足で首を引っ掻いて、手術痕から血がにじんだりするので、それを防止するために、昨日から首に布を巻いて、モビが首を引っ掻かないようにしているので、「襟巻き犬」といった風情になっている。
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