Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2012年9月1日(土) | ||||
とうとう我が家に薪ストーブがやって来た!3週間前にアヴァレのトヨタに行った帰りに買った薪ストーブは、普通の乗用車では持って帰れないので、トラックを持っている誰かに頼んで取りに行かなくてはならなかった。ピックアップトラックを持っていて、週に一度はイタぺバに行くパウロが、イタペバの帰りにアヴァレの店に寄って、薪ストーブを持って帰ってくれることになった。そして、とうとうこの木曜日の朝、イタペバからの帰りにアヴァレに寄ってくれ、お昼過ぎにうちに届けてくれた。次の写真は、家の前に止めたピックアップトラックからストーブを下ろしているエドソンとパウロ。
次の写真は、家の中に設置した薪ストーブ。ストーブの足元にレンガか何かを置いたり、天井に開けた穴に煙突を通した後、その天井の穴を隠すためのプレートか何かをアンドレに作ってもらったりしなくてはならないので、まだ使えない。それに、ストーブの右側にある煙突の半分は、天井裏に上がらないと設置できないので、そのままストーブの横に置いてある状態だけれど、とにかく、我が家のこの場所のためにわざわざあつらえたようなパーフェクトなストーブを見つけることができ、エドソンも私もとってもハッピー!パウロに感謝!この薪ストーブを置くために、左側に移動させたガスストーブが小さく見える。このガスストーブはあちこち移動させることができるので、寒い日に台所で使おうと思っている。このふたつのストーブがあれば、来年からすごく寒い日でも暖かく過ごせるだろうと思う。感謝。感謝。
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2012年9月2日(日) | ||||
金曜日の午後6時を過ぎて、台所で夕飯の支度をしていると、陽が西に沈んだ後、東から少し赤みを帯びたま~るい月が出てきた。なかなかいい眺めなので、エドソンに知らせると、台所まで来て、「ああ、きれいだね。月と一緒に写真を撮ってあげる」と言って、カメラを持ってきて、月を背景に写真を撮ってくれた。私の顔の右側にある赤みを帯びた黄色い丸いものがお月様。
そして、この月の出から約12時間後の昨日(土曜日)の朝6時過ぎ、日の出前にモビとお散歩に出ると、月が西の空に沈むところだったので、カメラを取りに戻り、写真に収めた。モビがいなかったら、とってもこんな時間にお散歩をする気力は起こらないと思うけれど、モビがいるお陰で毎朝気持ちのいいお散歩ができ、自然の美しさに様ざま触れることができるのだから、とてもありがたい。モビさま、さま。
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2012年9月3日(月) | ||||
我が家の西側に立っているランドマークの木はとても不思議な木だ。一年中裸になることがないので、常緑樹なのかな?と思うけれど、一年に一度、たくさん葉を落とす時期がある。それが今年は先週から始まった。次の写真は、地面を被うこの木が落とした葉。
そして、葉を落とすと同時に新芽がたくさん出てきている。次の写真の中央左右の茶色っぽい枝は、枯れているのではなく、新芽が出てきている枝。以前、この茶色い葉の枝を見たときは、枯れてしまったのかと思ったのだけれど、この茶色っぽい葉は、その後緑に変わっていったので、へえ~っと思った。これまで日本で見慣れていた新芽は薄黄緑色という常識を覆される思いだった。新芽が茶色っぽいというのは、フランボヤンの木も同じで、ここでは桜の木も完全に裸になることがなく、やはり新芽を近くで見ると、赤茶色をしている。これは日本とはちょっと違うここの気候のせいなのかな?
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2012年9月4日(火) | ||||
4月中旬、デマーコとシオックがアチバイアから遊びに来てくれた際、おみやげに持ってきてくれたランの花は、ずいぶん長い間私たちを楽しませてくれたけれど、ある日突然、枯れてもいないのに花が次々に落ちてしまった。水が不足したのか、やりすぎたのか、どっちだろう?などと思いながらも相変わらず、いつもの調子で毎日ほんの少し水をやっていると、7月下旬頃から新しい芽が伸びてきたので、ランを殺してしまったわけではないことがわかり、ほっとした。それで新しく伸びてきた枝に支柱を移動させて枝を固定した。
枝が少しずつ伸び、5つあるつぼみが少しずつ大きくなってきた。
そして、8月末につぼみのひとつが開き始め、9月になって完全に開いた。残り4つあるつぼみの内の3つも少しずつ大きくなってきているけれど、1つだけまったく成長していないので花は咲かせそうにない。次の写真は昨日の朝撮影したもの。
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2012年9月5日(水) | ||||
先週、ドトー・ジョアオンからメールが届き、今後の治療に関するいくつかの選択肢の説明があった。それで昨日、大学病院に出かけて行き、ドトー・ジョアオンと直接話し合って、モビの治療方針を決めた。今回は3回目の治療ということで、初回と2回目の抗ガン剤治療で使っていた薬よりも強いものを使い、1度か2度モビの様子を見ながら投薬して、ガン細胞を縮小させてから手術。そして、その間術後のガンの再発・進行を抑えるという薬を入手する手配をして、術後はモビのQOLを確保しつつ、モビが苦しむことなくできるだけ長くガンと共存して行けるように治療を続けることになった。以前も書いたけれど、ここではモビの薬は大学病院ではなく、飼い主である私たちが自分で調達しなくてはならず、特に、抗ガン剤治療に使う薬はそんなに簡単に入手できないので、なかなか大変。今回は手術前の抗ガン剤はちょうど大学病院にあったので、それを使わせてもらうことになりラッキーだったけれど、術後の薬は輸入しなければならないので、この薬を輸入している代理店を教えてもらい、手配しなければならない。でも、モビに頑張って生き続けてもらうためには、私たちがまず頑張らなくては何も始まらないので、できることはしようと思っている。 この土曜日にジョゼが野菜畑の土の準備をすべて終えてくれたので、昨日の大学病院からの帰路、またカコに寄って、トマトやブロッコリーなど野菜の苗を少し買って帰った。次の写真は、昨日カコで買ってきたトマトやブロッコリーなどの苗。
昨日の夕方、私がエリカとルーカスの英語のレッスンをしている間に、エドソンがこれらの苗を植えてくれた。次の写真は、今朝撮った畑の様子。新しく植えた苗は小さいので見えにくいけれど、手前右側の存在感のある緑の葉は、コウヴィ。これはレタスやルッコラなどの苗を植える前に、種をまいたもの。だいぶ大きくなったので、少しずつ収穫して食べている。コウヴィは葉を一枚ずつ採って収穫し、根っこから引き抜くことはしないので、長い間収穫を続けることができる。写真左側のレタスや2列目のカリフラワーやルッコラもだいぶ大きくなってきている。
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2012年9月6日(木) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2012年8月21日付け「日系社会ニュース」の、「パラグァイ=なぜチャベス嫌いなのか=2国にひそむ歴史的因縁=坂本邦雄」からの転載。 『パラグァイは決してベネズエラの国民が嫌いなのではなく、チャベスの如き大統領がのさばっている間は、ベネズエラのメルコスール加入は絶対御免だと考えている。それには歴史的な根強いものが裏にある。 パラグァイはスペイン植民地時代の1544年代と1717ー35年代の二度にわたり「コムネロス反乱」と呼ばれる革命運動を起こした歴史がある。これはラテン・アメリカ開放の最たる英雄と言われる亜国のサンマルティンや、ベネズエラのボリバールによる1800年代のラ米諸国独立運動よりも遥かに昔の事に当たる。 パラグァイが独立したのは1811年になってからだが、その後1814年から26年間にもわたり、ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア終身総統が絶対専制の独裁恐怖政治の許に、パラグァイ国家アイデンティティ形成と保存の為に極めて厳しい鎖国政策を徹底した。 フランシアは政敵や不徳行為は容赦なく厳罰に処したが、その統治行政は至って清廉で、1840年に74歳で亡くなった時は自分は僅かな身回り品しかなかった程に質素な私生活で、一方国には大変豊かな財政を遺した。 当時フランシア(暴君)の鎖国政治下のパラグァイは内外人の出入国の取り締まりも極めて厳しかった。そんな中、フランスの国際的植物学者Aime Jacques Alexandre Gaujaud Bonplandがパラグァイの植物群落研究の名目で入国を許された。 しかし、同植物学者は本来の学術研究以外に余計な政治問題(どうも独裁鎖国政策の規制緩和)にも首を突っ込んだらしく、暴君の逆鱗に触れ軟禁拘束され、いつ出国が許されるかも分からない破目になった。近隣諸国のとりなしで同学者の赦免を、手を替え品を替え求められたが、暴君は頑として聞き容れない。 そこで乗り出したのがベネズエラの自他共に許すシモン・ボリバール南米解放の英雄であった。ボリバールは再三の折衝にも応じない暴君フランシアに、最後に親書を送り件の植物学者の釈放を求め、さもなくばパラグイァイに解放軍を遠征させると脅かした。 しかし、フランシアはこのボリバール親書を最後まで黙殺し握り潰してしまった。ボリバールの差し回しだったとも見られる問題のフランス人学者が釈放されたのはそのずっと後になるが、この様に昔からパラグァイはそう易々と外圧に屈しない一つの例として知られる。 フランシア死後1841年に後任に指名されたカルロス・アントニオ・ロペスは、1844年の憲法制定と共にパラグァイ初代立憲大統領に選出され、フランシア独裁政権より受け継いだ豊かな財政を以って善政を布き、門戸を開き南米で当時最も富強と言われたパラグァイ国を育てた。 そして国会の決議によって、ロペス初代大統領の死後、その嫡子フランシスコ・ソラノ・ロペス将軍(後元帥)が第2代大統領に就任した(1862年)。 この第2代ロペス大統領の念願は、フランシア独裁鎖国政権及び第1代立憲共和政権に惰性的に引き継がれた鎖国政策の画期的改革開放を図り、ヨーロッパ諸国との貿易の振興を目指す事にあった。 そして父君の遺言に従い、近隣諸国との紛糾を避けるには、最後まで外交折衝を続けるべく努力したが、不幸にしてパラグァイを、手遅れにならない内に叩き潰さんとしたブラジル、アルゼンチン、ウルグァイの秘密同盟によった彼の呪わしい〃三国戦争〃の犠牲になったのである。 ここでベネズエラの話に戻ると、ボリバール時代の協和思想に基づいた開放干渉と、パ国フランシアの保守思想はその昔既に自ずと相容れないものがあったのである。そこへボリバール協和思想を左傾化したチャベスの〃21世紀新自由主義〃制覇の話をゴリ押しに持ち込まれても、パラグァイ人は〃化学的〃にどうも馴染めないのである。 これを打破する為に〃坊主崩れ〃の元司教ルーゴ大統領が登場したのであるが、その極左イデオロギーがバレて国会の弾劾裁判の決議で追放されて仕舞った。一般の市民は〃それ見た事か〃と手を叩くが、複雑な国際政治情勢の中で如何なるか中々予断は許せない。』 | ||||
2012年9月7日(金) | ||||
今日はブラジルの独立記念日で、祝日。この火曜日にモビを大学病院に連れて行った帰り道、道路の真ん中に立っている高いポールに大きなブラジル国旗が翻っていて、記念日前からすでに祝賀ムードが高まっている感じだった。日本では近年、建国記念日といえども日の丸が街の目立つところに翻っているようなことはないけれど、ブラジルの人たちはブラジルの国旗が大好き。日本の人たちも日の丸をもっと大事にしてほしいなと思う。 今日はドナ・ベティのファゼンダでの仕事がお休みなので、ジョゼがうちでの仕事に来てくれた。それで午前中、3人で野菜畑にネットをかける作業をした。次の写真は、左側半分のネットかけが終わり、右側半分のネットかけを始めているところ。
次の写真は、お昼過ぎに、左右両側のネットかけが終わった状態。畑をぐるりとネットで囲む予定なので、まだ完成ではないけれど、少しずつ少しずつ前進している。ずっと上を向いて作業をしていたので、首が痛くなったけれど、満足、満足。畑の外のネットのない場所と、畑の中のネットの下とでは、ただこれだけのことだけれど、日差しの強さが違い、はっきりと暑さの違いが感じられ、びっくり。
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2012年9月8日(土) | ||||
今日、「楽書倶楽部」を主宰、発行している前園さんと、同人で編集、校正などを手伝っている大西さんが、 サンパウロからはるばる訪ねてきてくださった。前園さんはリベルダージにあるニッケイ新聞が入っている同じビルで、ひとりで出版社を切り盛りしているとは思えない、とてもおちゃめで可愛くソフトな女性で、大西さんは大の犬好きで、インテリかつとても楽しい方だった。車の運転をしない前園さんが行きたいというところに、よく連れていってくれる大西さんは、仲のいいご友人だそうで、今回もパーディーニョに行ってみたいという前園さんの希望を叶えてくださったのだ。 おふたりとも戦後移民で、在伯40~50年の大先輩。70代ながらお元気で、とてもとても楽しい1日になった。本当は1泊していただきたかったのだけれど、大西さんはハチという名前の犬(ボストンテリア)を飼っておられ、昼間はいいとして、泊まりがけで家を空けることができないので、日帰りということになった。次の写真は、家の下のエドソンのワークショップに作った「香山文庫」の前で記念撮影。あなたは背が高いから、隣に立ったら私の背の低いのがさらに目立つから、座ってちょうだいと言われ、私だけデーンと椅子に座っている。エドソンに写真を撮ってもらったのだけれど、ちょっとピンボケ。
前園さんが来られる前に、事務所はリベルダージにあるのだから、何か必要なものがあったら買って行くから遠慮なく言ってちょうだいとおっしゃるので、お言葉に甘えて、ボトゥカトゥで手に入らない、または入りにくい、ポン酢と片栗粉を厚かましくお願いしたら、それぞれをひとつだけではなく複数、しかも減塩しょうゆやめんつゆ、うどん、煎茶、せんべいなど、たくさんのお土産を持ってきてくださった。大西さんも私たちのためにようかんと梅酒、モビのためにはスティックのおやつだけでなく、動かすとお腹の中の木の鈴がコロコロとカエルの鳴き声のように聞こえる人形まで持ってきてくださった。そのお土産の山と、モビにやさしく接する大西さんを見ていて、本当に犬がお好きなのだなあと思った。感謝感激。お昼をここで一緒に食べてくださいと前もってお願いして、お昼前にここに到着するようにしていただき、かやくご飯とお味噌汁ときゅうりの酢の物を用意して、食べていただいたものの、遠いところからわざわざ来ていただいた上、宝船が着いたようにお土産をたくさんいただいてしまい、散財させてしまったこと、恐縮至極。
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2012年9月9日(日) | ||||
うちの土地の西側の、お隣のコーヒー園との境界に小さな森がある。そこには何ヶ所か泉が湧いている。今はまだ東隣のウィリアムのところの井戸水を使わせてもらっているのだけれど、将来的にはこの水源から水をポンプで汲み上げて使おうと考え、一応、取水のためのパイプを土中に挿して、水槽タンクに水が入ってくるようにしてある。でも去年の今頃エドソンがエディと見に行くと、このタンクから水がほとんど出ておらず、乾季の間は干上がってしまうのかとがっかりしたことがある。この金曜日の午後、ジョゼに森の入り口から水源までの草を刈ってもらい小路を作り、エドソンが確認に行くと、何と今年はたっぷり水が出ていたという。それで今朝、朝食後にモビと三人でその水源まで見に行ってきた。次の写真は、草が刈られ歩きやすくなった、森の入り口まで続く小路。
きれいに草が取り除かれた小路を、森の中へと進むエドソンとモビ。
取水している水槽タンクのさらに西側奥に、土中からプクプクと泉が湧き出ている場所が4~5ヶ所あった。今年は乾季に入る前に何度か激しい雨が降ったけれど、ここ6週間ほどまったく雨が降っていないのは去年と同じ、何がどう違って、今年はこんなに豊富に水があるのだろう?と、不思議に思った。
水槽タンクのある場所から戻り、森の出口の近くでエドソンをパチリ。
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2012年9月 10日(月) | ||||
ここ10日あまり気温の高い日が続き、夜、掛け布団をどけて、夏用のパジャマに着替えても、扇風機が必要なほどになったので驚いた。夏でもこんなに暑い日は数日しかないのに、春の到来を前にひとっ飛びに真夏になったようで、一体どうしたのだろう?と不思議に思っていたら、今朝は少し霧が出て、気温がぐっと下がり、いつもの気持ちのいい気温に戻っていて、ほっとした。 先月中旬、ひとつ花を咲かせて驚かせてくれたカラーの花が、命をまっとうした後しおれると、葉の新芽とは違う、薄緑色の花のつぼみのようなものが葉の間に隠れているのを発見。花が咲くのかなと思って毎日観察していたら、背が少し伸びてきて葉の間から姿を現し、花を咲かせ始めた。
そして、このカラーの側の小さな葉物植物の足元のクローバーも、今、黄色い小さな花を咲かせている。クローバーの花を見たのはこれが初めてのような気がする。
このクローバーは、私が意図してここに移植したのではなく、自然に生えてきたもの。ソテツの足元にも生えてきて、少しずつ大きく広がりつつある。とても強い草のようで、種が風で飛ばされてきたのだと思うのだけれど、サツキの足元でも生えて広がってきている。
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2012年9月 11日(火) | ||||
昨日夕飯の仕度をしていると、エドソンが「あっ、忘れてた。今日はロータリークラブの副ガバナーが来るから、キョウコもミーティングに来てって言われてたんだ・・・ミーティングの後で食事会があるんだけど、もう夕飯作っちゃった?」と言う。「ええ~っ、夕方になってそんなこと急に言わないでよ」炊飯器のスイッチは入れてしまい、おかずを作るための材料を切ったり、下味をつけたりする作業も済んでいるのに・・・やれやれ、仕方ないか・・・と言うわけで、昨晩はパウロのビデオ店でのロータリークラブの例会に行き、その後、建物の裏手で行われた簡単な串焼きバーベキューに参加した。副ガバナーという人は、ボトゥカトゥで神経科クリニックをやっている医師で、エドソンが昨年受診したのはそのクリニックで、一緒に診察をしている息子さんの方だったということがわかった。奇遇ですねえ~。 今朝起きると、夜中の間に雨が降ったらしく、家の外が少し濡れていた。久々の恵みの雨だ。モビとのお散歩から戻り、朝食を食べていると、またパラパラと降り、どうやら今日は一日降ったり止んだりのお天気が続きそうな空模様。お天気が崩れてうれしいというのも変だけれど、今日の雨はうれしい雨。次の写真は、エリゼウからもらって、西側の森の近くに植えたマンゴーの苗。先日、森まで泉を見に行った帰りに撮影。カラカラのお天気が続いていたのに、元気にしていてくれて、うれしかった。
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2012年9月 12日(水) | ||||
先週ようやく手続きをして、ニッケイ新聞のPDF判の購読を始めた。インターネット上で無料で読める古い記事は主要な記事だけで、すべての記事が読めるわけではない。でも、PDF判だとすべての記事をその日に読むことができる。日本のスポーツ記事などには興味はないけれど、コロニアのニュースが早く読めるのはとてもうれしい。昨日11日付けの記事をダウンロードして読んでいて、「死亡通知並びに会葬御礼」という広告を見て驚いた。パラナ州ロンドリーナ在住の沼田信一さんが、9月4日に肺炎のため94歳で亡くなられたとあった。沼田さんのロンドリーナでの開拓当時の体験を書かれた「信ちゃんの昔話」(十巻)をずいぶん前に香山さんからいただいて、楽しく読み、いつか直接お目にかかってお話しできたらなあ・・・と、思っていたのだけれど、叶わぬ夢となってしまった。パラナ州の重鎮として知られた沼田さんは北海道出身で、生まれつき体が弱く、医者から長くは生きられないと言われていたそうで、寒い北海道から暖かいブラジルに移住すれば少しは体にいいかもしれないという両親の思いがあって、満州ではなくブラジルを移住先に選んだこと、そして、ブラジルの気候が合ったのか、その時の両親の判断のお陰で、90歳を過ぎても元気にしているのだから不思議なものだと書いておられた。ああ~、亡くなられてしまったのか、寂しいなあ・・・親しくしておられた香山さんにとっては辛いニュースだろうなあ・・・ 次の写真は、我が家の野菜畑から初めて収穫したレタス一株。この日曜日から夕食にはサラダにして、朝食にはサンドイッチに挟んでと、おいしく食べている。
次の写真は、この月曜日に収穫した初めてのルッコラ。一株根っこから抜き取って収穫したら、エドソンに怒られた。コウヴィと同じように、葉を外側から一枚一枚取って、根っこを残しておけば、新しい葉がどんどん成長して、長く収穫できるのだそうだ。知らなんだ・・・我が家で育てた野菜は、葉がしっかりしていて、何だかどれも味が濃いような気がする。
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2012年9月 13日(木) | ||||
先週の木曜日(6日)に、モビの第1回目の抗ガン剤の投薬を自宅で行った。前回よりもさらに強い薬ということで副作用がちょっと心配だったのだけれど、体調に特に変化はなくほっとした。でも、今日予定されていた大学病院での超音波検査のために指示されていた別の2種類の薬を、昨日の朝、昼、晩と3回飲んだせいなのか、夜寝る前頃から少し元気がなくなり、寝ている間に気分が悪くなったのか、夜中にベッドから起きだして、いつも寝ているエドソンの側から私の側にやってきてうずくまった。モビは体調が悪いときは、何故か自分のベッドから出てきて、私の側の足元までやってくる。エドソンがモビをベッドに戻してからも、明け方近くまでモビのいびきが聞こえなかったので、眠れなかったのではないかと思う。そして、今朝の排便は4~5回しゃがみ込み、ちょっとゆるい便を出していた。検査のために朝食は食べてはいけなかったので、検査が済んで食べさせるために、水の他にモビの食事を持って病院に出かけた。 お腹と首のしこりの回りの体毛をバリカンで剃ってから、検査が行われた。内臓に関しては何も異常なしということでひと安心。検査の後、ドトー・ジョアオンと話しをして、血液検査のための採血をしてもらい、病院を後にした。病院では食事に見向きもしなかったけれど、この後、少し気分が良くなったのか、ボトゥカトゥでエドソンが用事を済ませるのを待っている間に食事をしてくれた。次の写真は、昨日のお昼に薬を飲ませる前のモビ。この居間の横のドアの前は外を眺めることができ、日が当たり風が通って気持ちがいいので、モビのお気に入りの場所。
次の写真は、エドソンがモビに薬を飲ませているところ。嫌がって暴れたりはせず、おとなしく飲んでくれるけれど、嫌々飲んでいるのがわかる。
次の写真は、1つ目の薬を飲み終わって、上目遣いに恨めしそうな顔をしているモビ。
次の写真は、エドソンが2つ目の薬を持ってきて、モビに匂いを嗅がせているところ。顔を背けてささやかな抵抗をしている。
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2012年9月 14日(金) | ||||
昨日はエドソンの誕生日だったのだけれど、モビを大学病院に連れて行ったり、ボトゥカトゥで用事を済ませたりと、バタバタしたので、午前中はそれどころではなかった。しかも昨日は、モビだけでなく、エドソンもよく眠れなかったようで、朝から頭痛がすると言ってご機嫌斜め。午後2時頃帰宅した後、少し仕事をしてから、モビに痛み止めやお腹の薬を与え、自分も頭痛薬を飲んでダウンしてしまった。やれやれ・・・でも、6時過ぎには頭痛が引いて気分が良くなったようで、私が野菜畑の水やりから戻ると、夕飯作りを始めてくれていた。バースデーケーキをパオン・ジ・アスーカーで忘れずに買っておいたので、何とか誕生日のお祝いの恰好だけは確保できた。モビも夕飯時には体調が回復し、食欲も戻ったのでほっとした。 またまたうちのランドマークの木が驚かせてくれた。昨日、モビと一緒に朝一番のお散歩に出ると、白いものがヒラヒラと舞い落ちてくるので、何だろう?と、上を見上げると、ランドマークの木が白い花をたくさん咲かせていて、その花びらが風に吹かれて舞い落ちてきていた。花びらの大きさは桜と同じくらいで、色は真っ白。まるで桜吹雪のよう。ここに来て3年になるけれど、この木が花を咲かせたのを見るのは今回が初めて。次の写真は、白い花を咲かせているランドマークの木と、花の部分を拡大して撮ったもの。
去年、この木の足元の土が雨などで削られ、根っこの一部が少し露出して傷ついていたので、いい土をたっぷり入れて、露出していた部分を土で被ったら、その後、元気に新芽がたくさん出てきて、新しい枝が伸びてきたので、へえ~・・・これだけのことでこんなに変化するものなのかと驚いた。そして、今年は3~4ヶ月前頃から台所から出た野菜クズや玉子の殻を埋める場所がなくなったので、木の周りの足元に捨てて、土をかけて被うことを繰り返しているのだけれど、どうやらそれが栄養源にでもなったのか、今度は花を咲かせてくれたのだから、本当にびっくり。葉が落ちる現象は、花を咲かせている今でもまだ続いているので、本当に不思議な木だと思う。次の写真は、地面に舞い降りたこの木の花びら。
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2012年9月 15日(土) | ||||
木曜日の夜、大学病院のドトー・ジョゼからエドソンにメールがきて、血液検査の結果、モビの白血球数がかなり減少しているので抗生剤の処方箋を書くから取りにきてと連絡があった。それで昨日の午前中、またボトゥカトゥの大学病院まで行ってきた。処方された薬は、大学病院からの帰りに2軒目に行った薬局で購入できたものの、1回に与える量をモビの体重に合わせるて調整する必要があり、それができるのは翌日ということで、今朝、またボトゥカトゥの薬局に量の調整が終わった薬を取りに行ってきた。これで3日間連続ボトゥカトゥ通いをしたことになる。白血球数が減少すると免疫力がなくなるので、何でもないことでフィオナのように感染症を起こしたりするため、散歩はしばらく禁止。用便以外で外に出る際は歩かせず抱っこすること。外から戻ったら足を洗って、アルコール消毒することなどなど。これから数日できるだけ雑菌に触れさせない厳戒態勢を取ることになった。さらに、モビの食事にコウヴィとビーツを加えるように言われたので、これまでの鶏のレバーとジャガイモ、ニンジン、ブロッコリーを煮たものに、コウヴィとビーツを加えて煮かえして、ドッグフードと一緒に与え、グレープジュースも飲ませるように言われたので、時々、注射器で飲み薬と同様にして飲ませている。昨日は、ボトゥカトゥからお昼過ぎに戻り、モビの食事を作り直したり、モビの毛布とベッドを洗濯して干したり、モビの体を洗ったりと、モビを清潔に保つための環境改善に精を出した。 こんな私たちのドタバタとは何も関係ないかのように、我が家のランは順調に花を咲かせ、思った通り4つのつぼみが花開いた。10日ほど前にこのランの一つ目のつぼみが開花した写真をブログに掲載した際、その写真を見た友人が、よく開花させたねと感心してメールをくれた。でもこれはファレノプシスという育てるのが難しい種類のランではなく、カトレア・ラビアータ、あるいは、カトレア・プルプラータというブラジル原産のランなのだと思う。これらはサンパウロを中心に、ほとんどの地域でよく生育し、放っておいても毎年花を咲かせてくれる丈夫なランなのだと、「楽書倶楽部」の最新号の中のランの花に関する記事にあった。だからうちでも特別なことを何もしなくても、ここの気候が生育に適しているので、もらった時の花が終わっても、また花を咲かせてくれたのではないかと思う。
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2012年9月 16日(日) | ||||
昨晩は、パウラとジャイミの家での夕食に招待されて行ってきた。彼らの家は、パーディーニョからボトゥカトゥに行く途中の、ボトゥカトゥ側にある農村地帯のファゼンダの中にあった。お呼ばれした午後7時はもう真っ暗だったので何も見えなかったけれど、ジャイミが自分で建てたという彼らの家は、山小屋風のこじんまりとした居心地のいい家だった。パウラはパーディーニョのセントロでお父さんがやっていた薬局を、お兄さんと一緒に継いでやっている薬剤師。私たちはいつも彼女の薬局のお世話になっている。ジャイミはサンパウロで自動車のパーツなどを販売する店などをやっていたのだけれど、数年前サンパウロでの生活を引き払い、田舎暮らしを選んでここに引っ越してきた人。ふたりともこの田舎町では珍しいインテリで話題の豊富な人たちなので楽しかった。初めてのお呼ばれなので、我が家の定番のドライラベンダーとワインを持参した。
ジャイミはお料理が好きらしく、パウラとふたりで何度もベランダと台所を行ったり来たりして夕飯の準備をしていた。次の写真は、夕飯の準備ができるまでベランダでみんなでワインやビールを飲みながらおしゃべりしているところ。左端は、ジャイミのお父さん。ポルトガル移民一世。ということはジャイミは二世。一緒に招待されたウィリアムも同じく二世(ドイツ系)。エドソンは四世か五世なので、彼らふたりと比べると、根っからのブラジル人と言っていい(しかも、家系的にはスペイン、ドイツ、フランスに加えて、先住民のインディオまで少し混ざっているらしい)けれど、ブラジル国外での生活が長かったこともあり、一番ブラジル人らしくない。
夕飯の準備ができ、みんなで食卓を囲む。左から、パウラ、ジャイミ、ジャイミのお父さん、ウィリアム、エドソン。モビは映っていないけれど、エドソンと私の間の足元に置いたベッドの中でずっとおとなしくしていてくれた。夕飯のメニューは、豪快な豚足の丸ごとローストとマンゴーのソース、ゆでジャガイモとご飯。野菜はゆでジャガイモにかけられた手作り特製ソースの上に散りばめられた刻みパセリだけ。本当にブラジルの人たちは野菜を食べない。
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2012年9月 17日(月) | ||||
毎週土曜日にここでの草刈りなどの手伝いに来てくれているジョゼは、先週と今週の2週間、ドナ・ベティのファゼンダの仕事を休んでうちの手伝いに来てくれている。せっかくのお休みだけれど、安月給の彼にとっては、有給休暇を取ってうちに仕事に来て、追加収入を得る方がうれしいようだ。お陰で、先週の月曜日から金曜日までの5日間で、家の周りのあちこちに積み上がっていたり、散らばっていたレンガや瓦を移動してくれたり、入り口ゲートの木々の周りの草を取り除いてくれたりと、様々な仕事をしてくれ、家の周りがだいぶきれいになってきていてうれしい。次の写真は、入り口ゲートを撮ったもの。ゲートの左右の草を取り除いてくれたので、植えた木々の周りがすっきりした。
ゲートの左右に植えた木々は、去年ご近所の放牧場から拾ってきた牛糞を置いたのに、庭や家の南側の三角地帯に植えた木々よりも成長がとても遅い。土の質が悪いせいだろうか?特に左右に2本ずつ植えたブーゲンビリアの状態が今年は良くない。4本のうち1本だけ元気に枝を伸ばして花を少しつけているけれど、他の3本は木の成長が見られず、小さな芽が出てきてはいるものの、一見枯れてしまったように見える。ジョゼに肥料をまいてもらわなければ・・・
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2012年9月 18日(火) | ||||
昨日の朝7時半頃にパウロから電話があり、ロータリークラブの例会を我が家でやらせてと言ってきた。今日ガバナー夫妻が来るので、それに合わせて例会も月曜日から火曜日に変更したはずだったのに・・・。その日のことを当日になって言ってくるところがいかにもパウロらしいというか、やれやれ・・・。でも、エドソンがOKしてしまったので仕方がない。今日ガバナー夫妻を迎えるための話し合いなのか、召集が急だったため2人が欠席し、集まったのは7人。パウロがコシニャか何かを持ってくるから、うちではサラダを用意するだけでいいとエドソンが言うので、我が家の菜園で収穫したばかりのたっぷりのレタスとルッコラに、ゆでジャガイモとゆで玉子、そしてベーコンを小さく切って炒めたものをジュッと混ぜて、ボリューム感を出して、自家製のフレンチドレッシングで食べてもらった。ソーダはたまたま2リットルボトルのものがあったのでそれを出し、メンバーの誰かが缶ビールを1ダース持ってきてくれたので、何とか例会の後の軽食を賄うことができた。次の写真は、例会に集まった7人。手前から時計回りに、エーナーニ、ジュニオー、パウロ、クラウディオ、ジェラウド、ウィリアム、そして、エドソン。
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2012年9月 19日(水) | ||||
今週は毎日強風が吹き荒れている。この風は北からの風なので暑い、というか、熱波のような感じ。窓やドアを開けていると部屋の中にその熱波が吹き込んでくるので、外の気温が上がるお昼近くなると窓やドアを締めて、扇風機をかけて過ごしている。そして、夕方陽が落ちて外気温が少し下がった頃に、窓やドアを開けて家の中の空気を入れ替えて、室内の温度を下げるということを繰り返している。予報では現在、南西のパラナ州から大きな雨雲が近づきつつあるので、明日から明後日にかけてお天気が崩れるらしい。以前も書いたことがあるけれど、この風は北から南西の雨雲に向かって吹きつけているので、ここでは強い風が吹き荒れると、お天気が崩れる場合が多い。 昨日の夕方、エリカとルーカスの英語のレッスンを始めた頃、エドソンはロータリークラブのミーティングに出かけて行った。月曜日の例会で、ガバナーを迎える火曜日はみな背広を着てくるようにというお達しがあったようで、背広なんてもっていないと言うエーナーニに、例会の後、エドソンが背広の一つを貸してあげていた。ふたりは背格好が似ているので、サイズの問題はなくエーナーニにぴったり合っていた。でも、この暑い中、背広にネクタイだなんて何ともご苦労さまなことだ。私は英語のレッスンがなかったとしても、ミーティングの後の会食がレストランのカンポネーザではモビを連れては行けないので欠席し、エドソンがひとりで出かけて行った。 | ||||
2012年9月 20日(木) | ||||
昨日は猛烈な風が1日中吹き荒れ、時々、暴風が襲った。1回目はちょうどお昼頃だった。木の下で昼食休憩を取ろうとしていたジョゼをシュハスコ小屋に避難させるためにエドソンは外に出て行った。午後4時前に来た2回目の暴風はさらにひどく、風速何十メートルというくらいのひときわ激しいものだった。とても戸外に出られる状態ではなかったので、家の中から戸外の様子を撮影してみた。ランドマークの木の左側に積み上がった白い砂が吹き飛ばされているのがわかる。
次の写真は、ランドマークの木から視線を左に移して撮ったもの。真横から吹きつける風が砂や土埃を飛ばしていて視界が霞んでいる。ヒメシマ竹が右からの風で左におじぎをしている。これらの写真を撮った後しばらくして、雨とひょうが少し降ったけれど、カラカラに乾燥した地面を湿らすほどではなかった。そして、5時頃から本格的に雨が降り出し、雷が鳴り始めたので、ブレーカーを落として、嵐が過ぎ去るのを待った。ここは雨がシトシトと降ることはめったになく、いつもこんな風にすごい嵐になることが多い。すごい風と雨は1時間足らずで通り過ぎ、小降りの雨が夜寝る前頃から明け方まで一晩中降り続いた。カラカラだった地面や木々がしっかりと雨を吸い込んで、今朝は空気がしっとりしている。気温がぐっと下がり、気持ちがいい。こんなふうに雨が降り出すと、いよいよ乾季が終わり、春の訪れとなる。予報では今日と明日も雨らしい。
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2012年9月 21日(金) | ||||
昨日はお昼頃に少し霧雨が降った程度で、ほとんど雨は降らず、1日曇り空だった。夕飯が終わり、台所の流しで洗い物を始めると、窓縁に何かうごめくものがウヨウヨしているので見ると、羽アリだった。2ヶ月近く雨が降っていなかった状況で、水曜日に久々に雨が降ったからなのか、大量の羽アリが発生して、台所の灯りに引き寄せられて来ているようだった。次の写真は、台所の窓縁に次から次へとやって来てたむろする羽アリ。
そして、夜中の2時を過ぎてから雷を伴う雨がザーザーと降り出し、夜明け前頃まで続いた。今朝、雨は一旦止んだものの、モビをボトゥカトゥの大学病院に連れていく途中でまた降り出し、今日はずっと雨の1日になった。大学病院でのモビの血液検査の結果、白血球数が前回の危険なほどに少ない800から、ほぼ正常に近い4800に回復していてほっとした。飲んでいる薬と食事療法の効果が出ているようだった。でも、次の抗ガン剤治療は白血球数が6000に回復するまで待った方がいいというドトー・ジョアオンの判断で、今日は治療はせず、1週間後に再度受診することになった。一応、抗ガン剤治療のために持参した薬をドトー・ジョアオンに預けて帰宅した。 | ||||
2012年9月 22日(土) | ||||
昨日1日中降り続いた雨は夕方、陽が沈む頃になってようやく止んだ。今日も雨か曇りのお天気を予想していたら、幸いなことに太陽が顔を出し、爽やかなお天気になった。朝一番のモビとのお散歩に出たら、昨日の雨でランドマークの木の花びらが地面にびっしり落ちていたので、あの雨で花は全部散ってしまったのかな?と、上を見上げると、まだまだたくさん咲いていた。
今日は、バルーンプロジェクトの準備で、バウルからデミウソン(Demilson)が、サンパウロからはアミウトン・オータ(Hamilton Horta)がやって来た。デミウソンはサンパウロ州立大学バウル校の気象観測技術責任者で、気象観測のために定期的に飛ばしている風船というか気球に、以前、アマチュア無線の人たちが参加して、無線機を搭載して信号を送受信する実験をしたことがあった。このプロジェクトはプロジェト・イカロ(Projeto Ícaro)と呼ばれていて、エドソンはそれに参加して以来すっかりデミウソンと仲良くなり、来月予定の実験にも参加協力するつもりらしい。アミウトンもこのプロジェクトに参加協力しているアマチュア無線愛好家で、サンパウロで不動産業を営んでいるのだそうだ。ちなみに、彼の名字のオータ(Horta、オにアクセント)というのは菜園とか野菜畑のことを言うのだけれど、変わった名前の人もいるものだ。最初にエドソンから名前を聞いたときは、日系人で太田という名前なのかと思い、「日系の人?」と聞いたくらいだった。そして、来月の実験ではパーディーニョの高校の生徒も何人か参加させて、アマチュア無線技術に対する彼らの関心を高めようと企画しているので、その準備のために2人は朝早くからやって来て、夕方6時近くまでエドソンと3人で、下のワークショップにこもって作業をしていた。次の写真は、予定通りにやって来たアミウトン(右)との朝食がほぼ終わった頃、寝過ごしたと言って、遅れてやって来たデミウソン(真ん中)が食事を始めたところ。
午前8時に朝食を出し、午後1時前に昼食を出し、その合間に洗濯をしと、今日はおさんどんに忙しい1日になった。3時過ぎにはおやつを出す予定で用意していたのだけれど、作業の方が忙しかったらしく、結局、上に上がってこなかったので、おやつはキャンセルとなった。以前アメリカに住んでいた頃、ニューハンプシャー州の山の中の小さな町に住んでいるエドソンの友人のところによく遊びに行ったものだけれど、アマチュア無線の競技イベントがあったりすると泊まり込みでやって来るご主人の大勢のアマチュア無線仲間に、せっせと3度の食事を作ってあげていた彼の奥さんのことをふと思い出した。 | ||||
2012年9月 23日(日) | ||||
ここ2週間余り続いていた真夏のような暑さは、この水曜日にお天気が崩れてからガラッと変わり、涼しい日々が戻ってきた。夜はまた掛け布団を掛けて寝ている。暑い日々が続いていた時は、北からの風だったけれど、お天気が崩れてからは南からの冷たい風が吹いている。お昼前に南の空を見ると、風で雲が北に向かって吹き出している様子が見えた。
この木曜日と金曜日はお天気が悪く、ジョゼは仕事に来れなかったけれど、先々週から続けてくれていた作業で、草を取り除いて入り口ゲートまでの小路を確保してくれたり、小路(右)と車道(左)との間の斜面の草を取り除いて、ラベンダーを植えるための準備を進めてくれたりと、大活躍してくれている。
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2012年9月 24日(月) | ||||
ニッケイ新聞の日系社会ニュースに、「ブラジル文学に登場する日系人像を探る」と題して、2012年8月29日から9月5日までの6回に亙り、中田みちよさんのおもしろい記事が掲載されたので、以下にリンクをはってみる。中田みちよさんというのは、お目にかかったことはないけれど、「ブラジル日系文学」の選者のひとりで、同時にブラジル文学(ポルトガル語で書かれたもの)に関する文章を書いたり、文章サークルを主宰したり、日本語教室もしているという人だということは、ニッケイ新聞や香山さんが以前時々送ってきてくださっていた「ブラジル日系文学」という雑誌で見て名前だけは知っている。
ニッケイ新聞2012年8月29日付け、「ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街=第1回 =『人形の街』の日本人たち=中田みちよ」
ニッケイ新聞2012年8月30日付け、「ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街 =O Bazar das Bonecas=中田みちよ=第2回」
ニッケイ新聞2012年8月31日付け、 「ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街 =O Bazar das Bonecas=中田みちよ=第3回」
ニッケイ新聞2012年9月1日付け、「ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街 =O Bazar das Bonecas=中田みちよ=第4回」
ニッケイ新聞2012年9月4日付け、「ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街 =O Bazar das Bonecas=中田みちよ=第5回」
ニッケイ新聞2012年9月5日付け、「ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街 =O Bazar das Bonecas=中田みちよ=第6回」 | ||||
2012年9月 25日(火) | ||||
ここ2週間 ほど、家事の合間に読書に勤しんでいる。前園さんと大西さんが訪ねて来てくださった際、下の「香山文庫」にご案内したら、大西さんが書棚から「光を放った男たち」というブラジル工業移住者協会が工業移住40周年を記念して2000年に出した本を取り出して、彼のことが書かれているページを見せてくれた。それで翌日から即、まず大西さんのページを読み始め、その後最初から全ページを読んだ。以前、ニッケイ新聞に掲載された「国家事業を救った8人の侍」という連載記事を紹介したことがあるけれど、この8人の侍だけでなく、戦後の工業移住者の人たち(約1350名)がそれぞれの分野でどれだけ社会に大きな影響を与え、ブラジルの国造りに貢献してきたかということが、この本を読むととてもよくわかる。そして、日本人の技術レベルの高さ、仕事に対する責任感の強さ、狭い日本を飛び出して自分を試してみようという心意気などに触れ、感心したというよりも、とてもうれしくすがすがしい気持ちになった。
以下は、この本の前書き「刊行にあたり」からの一部抜粋。
そして、今読み進めているもう1冊は、弓場農場の矢崎さんを通して購入した最近刊行されたばかりの「アリアンサ移住地創設八十年」という記念誌。まだ最後まで読み終えてはいないけれど、大正から昭和にかけてアリアンサが直面した苦しい歴史的状況を読みながら、日本が国策として行った満州武装移民と、国のためではなく、移民がブラジルの人々と共生しながらその大地に根付くことを目指して、民間の手で実行されたアリアンサ移住とが、それぞれ迎えた結末の際立つ違いに思いを馳せている。
以下は、この本の歴史編の中の記述の一部。 | ||||
2012年9月 26日(水) | ||||
月曜日の午後、エドソンがパーディーニョの町に出かけて行く用事があったので、ついでにずいぶん以前、町のギフトショップで見つけて注文しておいたランプが届いているかどうかを確認してと頼んだら、店に寄ってくれ、届いていたランプを2つ持って帰ってくれた。私たちの寝室のベッドの左右に置くランプをずいぶん長い間探し、ようやく入手できたのでとってもハッピー。ボトゥカトゥには日系の人がやっているきれいな照明器具の専門店が1軒あり、ダイニングルームと居間の照明はそこで買ったのだけれど、ここの商品は全般的に値段が高く、私たちが思うようなシンプルなデザインで、比較的安いものがない。小さな卓上ランプでもみんな1つ100レアル(約5000円)以上する。それであちこち探していたところ、たまたまパーディーニョの店に適当なもの(2つで100レアル)があり、注文したのだけれど、これが届くまでにずいぶん時間がかかった。でも、とにかくようやくランプが手に入り、またひとつ前進。
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2012年9月 27日(木) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2012年9月12日付け「コラム 樹海」からの転載。ヴィラ・ラタ(vira-lata)というのは野良犬という意味だけれど、テレビのノヴェラを見ていると、女性への蔑称としてよく使われている。男性に対しては英語で「こんちくしょう」と言う際のson of a bitchと同じ意味で、filho da mãeという言い方をよく聞く。ブラジルとアメリカは同じような多民族の移民国家だけれど、一番の大きな違いは、アメリカはいわゆるサラダボールで、ブラジルはメルティングポットだと思う。つまり、アメリカは多民族が存在していてもあまり混ざり合っておらず、ブラジルは過半数は混ざり合っているのではないかと思えるほど、異人種に対する偏見が少ない。でも、そんなブラジルも昔はやはり白人至上主義のような時代があり、今現在に至っていることを思うと、多民族が平和に共存・共生していくためのヒントがこの国にはあるのではないかと思える。 『「野良犬コンプレックス」(Complexo de vira-lata)とは、8月に生誕百周年を迎えた劇作家ネルソン・ロドリゲス(1912―80年)が残した、ブラジルの国民性を象徴する有名な言葉だ。1950年、伯国初開催のサッカーW杯の決勝戦、満員のマラカナン蹴球場でウルグアイに惜敗した時、念願の世界一になれなかった劣等感をそう表現した▼伯国エリート層は30年代まで白人至上主義を標榜した。イタリア移民などの白人系を懸命に導入し、黄禍論を唱えたりしたのは、実際の国民の半分以上が黒人奴隷の末裔やインディオの混血であった劣等感の裏返しともいわれる▼58年のW杯で初優勝し、さらに62年には連続2回目の優勝を飾って、サッカー世界一のイメージを定着させた。その時の立役者が聖州出身の主将ベリーニ、黒人ペレやジジ、インディオの血をひくガリンシャであり、「混血主義」の優位性を国民の心に刻んだ▼それでもレーガン米大統領時代にボリビアと勘違いされたり、先進国首脳が「ブラジルの首都はブエノス・アイレス」と発言したり、欧州クラブで活躍するブラジル人選手が「猿」との罵声をあびるたびに、この思いが頭をもたげるようだ▼この連続優勝のあと、70年に3度目の優勝を果たして国民の支持を強めた軍政は、85年まで政権を継続させた。その後は四半世紀もの空白を経て次の一巡りが始まった。94年、02年に続き、14年に地元で3度目の優勝を狙うことでPTは長期政権化を期待している▼いつの間にか〃野良犬〃がBricsという〃血統書付き〃に変わるとは、さすがのネルソンも想像出来なかったに違いない。(深)』 | ||||
2012年9月 28日(金) | ||||
先週後半お天気が崩れるまで、夏でもないのに真夏のような暑い毎日が続いていたのだけれど、3日間続いた悪天候の後、季節が逆戻りしたように気温が下がり始めた。今週に入り気温はさらに下がり、最低気温が一桁になり、朝の寝室の気温が13度という真冬のような気温になってしまい、南からの冷たい風が吹き荒れているため、悲鳴をあげている。水曜日にはサンタ・カタリナ州とヒオ・グランジ・ド・スーウ州の間にある山岳地帯で雪が降ったというニュースがあった。寒さ対策のため、私は長袖のババシャツを着て、その上にタートルネックのシャツと毛糸のカーディガンを着て、厚手の靴下をはき、さらにもう今年は使うことはないと思っていたガスストーブをつけて暖をとっているような状態。エドソンも重ね着をしたうえ、毛糸の帽子をかぶっている。暑い毎日が続いていた間は、居間の横のドアを開けると涼しい風が通るので、そこがモビのお気に入りの定位置になっていたけれど、ここ数日は一番暖かいガスストーブの前が彼の定位置になっている。
以下は、ニッケイ新聞2012年9月13日付け「コラム 樹海」からの転載。記事の中のUSPというのは、名門のサンパウロ大学のこと。昨年、ペトロポリスでの広島原爆展に送られてきた写真パネルはポルトガル語ではなく英語のものだったため、安見さんたちが慌てて簡単なポルトガル語の説明をつけたということがあったけれど、USPで展示されたパネルはポルトガル語のものだったのだろうか? 『全町避難中の福島県浪江町の町長が「5年は戻れない」との見方を示したことで、老人らが「それまで生きてない」とニュースで見せた落胆の表情が印象的だった。11日は東日本大震災からちょうど1年半。被災者の今まで、これからを考えれば、時の経つのは早い―とは口が裂けても言えない▼11日からUSPで原爆展『広島・長崎イン・サンパウロ』が開かれ、核の恐ろしさを伝えている。広島平和資料館の提供による写真パネルの展示があり、初日にはブラジル被爆者のメンバーによる体験談も。21日までの開催で、多くの学生の目に触れるだろう▼長崎の被爆者だったラーモス移住地の小川和己さんが4日に亡くなった。移住地内にある「平和の鐘公園」、昨年5月に落成したブラジル初の「平和資料館」の建設に尽力した。サンタカタリーナ州内の学校で体験を伝える活動も行なった。冥福を祈るとともに、その遺志が地元に留まることを祈りたい▼8月にはレジストロに続き、サンパウロでも灯ろう流しがあった。一過性のものでなく、これからも続きそうだ。いずれも反戦歌を歌ったり、灯ろうを作ることで学生らが平和を学ぶ機会となっている▼25年前の今日13日、ゴイアニア被爆事故が起こった。医療廃棄物から漏れたセシウム137で250人が被爆、4人が死亡した。今も苦しむ人々の様子を、在外被爆者を追う亜人映像作家ロベルト・フェルナンデス氏がこのほど完成させた「08:15 de 1945」で記録している。反核、反原発は長く議論されるだろうが、ブラジルの子供たちが将来考える糧を今、コロニアが作っている。(剛)』 | ||||
2012年9月 29日(土) | ||||
昨日はモビの治療のためにボトゥカトゥの大学病院に行ってきた。血液検査の結果が良かったので、予定通り血管に点滴をしながら抗ガン剤を入れる治療を行った。ドトー・ジョアオンが研修に行っていて留守だったので、メインのドクターはドトー・レオナードとドトーラ・ルシアナしかおらず、ずいぶん待たされた。それで治療が終わったら正午を過ぎてしまっていた。でも、とにかく前回白血球数の減少でできなかった治療を行うことができたので良かった。モビが元気で頑張ってくれていることがとにかくうれしい。 今ブラジルは地方選挙のキャンペーン期間中で、どこに行っても候補者の看板があちこちに立ち並んでいる。約2年前に大統領選をジウマ現大統領と戦ったジョゼ・セハ氏は、今回の地方選挙でサンパウロ市長に立候補している。大統領選を戦ったような人だから簡単にサンパウロ市長に当選しても良さそうなものだけれど、それがそうはいかないところがブラジルらしい。ブラジルでは真面目な人はあまり人気がなく、中身がなくてもアクが強くリップサービスの上手な人を好む傾向があるので、下馬評ではセハ氏は第2位だという。エドソンが昨日のインターネット版の新聞に、キャンペーン中のセハ氏に女性がキスしたというニュースが大きく取り上げられていると言って、たくさんの連続写真を見せてくれた。こんなニュースもやはりブラジルらしい。次の写真は、ブチューと若い女性がセハ氏に強烈なキスをしているその瞬間。
次の写真は、この強烈なキスの後、マスコミに取り囲まれているセハ氏。
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2012年9月 30日(日) | ||||
またまたニッケイ新聞の記事になるけれど、以下は、ニッケイ新聞2012年9月14日付け「コラム 樹海」からの転載。このコラムの最後の「〃軍隊〃すら持たない東洋の平和な国には、世界の弱肉強食な現実は想像すら出来ないかもしれない」という一文に、警察や警備員がいるから犯罪が起こるわけではないのに、軍隊があると戦争になると言い募る人々のナイーブさを思った。そして、 野獣に囲まれて、何の備えもなく丸腰でいれば襲われて当然というのが世界の常識なのだけれどなあと、日本の外にいるとつくづく感じる。 『それが鞍馬天狗であれ月光仮面であれ、〃正義の味方〃に憧れた幼年期を送った人は多い。正義は絶対的に正しいというイメージだったが、大人になるに従い、それぞれの立場に正義があると分かり、むしろ「なにが正義か」と考え込むようになった▼「正義は行われる」。リビアで自国大使を殺されたオバマ米国大統領が発したその言葉を聞き、「また戦争か」と思ったのはコラム子だけではないだろう。「魔の9月」。大統領選をあと2カ月後に控えた微妙な時期に大使殺害…。しかも政敵共和党のロムニー候補は保守強硬で知られる。武力行使に繋がりやすい局面だ▼正義には、どこか「力で押付ける倫理」という雰囲気が漂う。「弱い正義」は様にならない。「目には目を、歯には歯を」という報復的正義の論理は今も健在だ▼当国のニュースでも殺人事件の被害者家族が「ジュスチッサを!」と叫ぶ場合、官憲がダメなら「自らの手で」という意味合いが強い。当地では〃正義のリンチ殺人〃、いわゆる「Justiceiro」がかなり多い▼10年間で50万人が殺人事件の被害(08年1月29日付けエスタード紙)になり、その殺人事件の2%も解決されていない(07年11月2日付け同紙)となれば、「自分の手で」となるのも無理はない▼伯国最高裁の前には、先入観に捉われないことを象徴して目隠しをした女神が長剣を持つ有名な坐像モニュメントがある。司法の象徴だ。判決には強制力が伴わないと意味がないことがよく表現されている。〃軍隊〃すら持たない東洋の平和な国には、世界の弱肉強食な現実は想像すら出来ないかもしれない。(深)』
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