Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2012年7月1日(日) | ||||
このところいいお天気が続いているので、昨日、ふたりで外ベランダの木の手すりに塗料を塗る作業をした。この1年余り風雨と太陽の強い日差しに晒されて、当初の塗料が剥げてきていたので、お天気が続いたらこの作業をするつもりでいたのだけれど、昨日ようやくそれを実行に移すことができた。まず、紙ヤスリで手すりを磨いて、次に塗料を塗り、一旦乾かして、午後からさらに上塗りをして、作業完了。次の写真は、1回目の塗料を塗る作業を始めたエドソン。
この後、エドソンは玄関ドアの不具合を直してくれた。その不具合を直すために取り付けた金具の存在を隠すために、ウィンドベルを取り付けることをエドソンが思いついたので、日本で使っていたウィンドベルを納戸の引き出しから探し出してきて、ドアの金具に取り付けた。ドアの開け閉めをすると、かすかにウィンドベルの音がするようになり、なかなかいい感じ。
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2012年7月2日(月) | ||||
「学校の冬休みが始まったら、一晩うちに泊まりに来ませんか?」と、ライラとシディを誘っていたのだけれど、冬休み中、週末はボトゥカトゥに行ったりといろいろ予定があるらしく、平日の方が都合がいいということで、今日から明日にかけて来ることになった。昼食後にエドソンが迎えに行き、彼らが到着してから、お散歩をしてここの景色をゆっくり見てもらったり、ライラがデザートのレモンパイを作ってくれるというので、側で道具や材料を出すなど手伝いながら、ライラの作業を見守った。次の写真は、ライラがレモンパイのパイ生地を作っているところと、出来上がったレモンパイ。
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2012年7月3日(火) | ||||
平日、エドソンは仕事があるので、家にいるとはいっても、ずっとライラとシディの相手をするわけには行かない上、昨日の夕方、私はエリカとルーカスの英語のレッスンがあったため、ライラとシディをほったらかしにしておく時間があったので、今日は朝から私が車でご近所の景色のいい場所に連れて行ったり、戻ってからは、エドソンも加わって、居間でいろいろおしゃべりしたりして過ごした。普段、シディは朝4時起きで、ライラを学校に送り出してから、パーディーニョの高校に行き、午前中授業をし、午後は一旦家に戻って家事をしてから、夕方からまた学校に行って夜間の授業をするという忙しい毎日。ライラもボトゥカトゥの学校に通っているので、朝が早く、母子家庭ということもあって、いろいろ大変なこともあるので、ここでのんびりしてもらおうというのが、そもそもの目的だった。冬休みに入ったばかりで、ふたりともだいぶ疲れている感じだった。昼食後にエドソンが彼らを家に送って行ったのだけれど、少しはのんびりできたのかどうか・・・??? | ||||
2012年7月4日(水) | ||||
ニッケイ新聞に2012年6月14日から「日本に戻るか定住か=デカセギ大量帰伯世代」という8回の連載があった。なかなか興味深い内容だったので、ここにそのカバーページとリンクを転載しようと思う。戦前戦後の日本人のブラジル移住者の数は約2万5千人で、現在ブラジルの日系人口は約150万と言われている。そのわずかな人たちですらブラジルに与えた影響は少なくないのだから、今回日本からブラジルに戻ったこの10万人の人たちは、今後ブラジルにどんな影響を及ぼすのだろう?昔の移住者のように、できればプラスの影響を及ぼしてほしいものだと思う。 『2008年暮のリーマンショックに端を発した金融危機の影響で、日本に住むブラジル人労働者が「派遣切り」に遭い、3分の1にあたる約10万人が帰伯したといわれる。その中には既にブラジルに再適応して根を張ろうとする人、決心がつかずに悩んでいる人、日本に戻りたいと手を尽くしている人など様々なケースがある。わずか3年間で10万人が帰伯した未曽有の〃民族大移動〃である『大量帰伯世代』は、将来的に日系社会やブラジルに大きな影響を与える可能性があると思われる。「日本に戻るのか、ブラジルに定着するのか」。帰伯者らに聞いた。(田中詩穂記者)
(1)=「直ぐにでも戻りたい」=現在も残る未練と迷い この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2012年7月5日(木) | ||||
この月曜日に、ライラとシディを迎えに行ったついでにスーパーで買い物をしてくれたエドソンが、スーパーにあったパーディーニョ新聞を持って帰って来てくれた。今年ブラジルは地方選挙の年なのだけれど、投票があるのはまだずっと先の10月。それなのに、もうすでに選挙戦が始まっているようで、選挙登録された2組のパーディーニョ市長と副市長候補の写真が一面にドーンと出ており、中ページには市会議員の候補者の写真と名前もずらずらと出ていた。市会議員9議席に対し、36人もが立候補している乱立ぶりに驚いた。ブラジルでは18歳から選挙権があり、同時に18歳から選挙に出ることもできるのだけれど、立候補者の中に、ドラッグ売買で捕まった前科があるという18歳の高校の男子生徒まで立候補しているその顔ぶれにも驚いた。 日本でも同族関係の強い小さな田舎町では同じようなことがあるのではないかと思うけれど、パーディーニョの町はここ40年近く、ふたりの市長(しかも従兄弟同士)が2期の任期(ブラジルでは2期以上続けることは法律上禁止されている)をずっと交代でやってきていて、選択肢がなく、町のほとんどの人は現市長派か元市長派に分かれているらしい。しかも、パーディーニョ在住でない人が、買収されてパーディーニョ在住という虚偽の選挙登録をして、どちらかの市長に投票している不正なケースが多々あることで、この町は有名というおまけまでついているからたちが悪い。写真の左側は、現市長の従兄弟で元市長(左)とその副市長候補(右)。右側は、現副市長(右)とその副市長候補(左)。でも、元市長の対抗馬は無投票での当選ではなく、ちゃんと選挙をしましたと体裁を整えるためのお飾りのようなもので、元市長が次回の市長になるというのが慣例らしい。ブラジルでは日本では考えられないほど政治家になると私腹を肥やすことができるらしいので、こんなおいしい商売はなく、辞められないのだろう。
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2012年7月6日(金) | ||||
先週の金曜日に開花した桜が、今満開になっている。とは言っても、花の数はなさけないほど少ない。でもとにかく咲いてくれてありがとう。中村さんからいただいた苗木なので、ヒマラヤ桜だと思っうのだけれど、ひょろひょろとした木の感じ、花のピンク色が少し濃いところ、そして、花が下を向いて咲いているところは、何だか緋寒桜(沖縄桜)のような感じ。そして、ご近所の日系のタケイシさんからいただいて育てていた梅も、どうやら今年は花を咲かせそうな感じで、つぼみの芽をつけ始めていると思ったら、昨日、ほんの2つ3つ小さな小さな白い花が開いていた。日本だったら普通、まず梅が咲いて、その後に桜が咲くものだけれど、ここでは咲く順番が逆なのでおもしろい。
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2012年7月7日(土) | ||||
ニッケイ新聞の2012年6月14日付けから「座談会=ブラジルの日本食を占う」と題する9回の連載が始まり、最近自由に読めるようになったので、以下にそのカバーページとリンクを転載しようと思う。 この連載は、ブラジルの日本食の状況について、アメリカやヨーロッパなどとも比較しながら多角的に話が展開するので、とてもおもしろいと思った。 『日本食ブームと言われて久しい。高級なものからテマケリアといった手軽なものまで広がり、2006年にはブラジルの伝統料理を供するシュラスカリアの数を日本食レストランが超えた。名実共に「市民権」を得た格好だが、本場のものとはほど遠いのが現実。そんななか、醤油の老舗メーカー『キッコーマン』、日本で最大の店舗数を誇る牛丼チェーン店『すき家』、岩手の蔵元「南部美人」がブラジルを次世代の巨大マーケットと捉え、〃正しい〃日本の味を伝えようと奮闘している。それぞれの代表にブラジルゆえの難しさ、今後の展望などを語ってもらった。(構成・本紙編集部)
第1回=醤油、牛丼、日本酒の雄に=市場開拓現場の声を聞く この連載記事のサイトは、 こちらへ。 | ||||
2012年7月 8日(日) | ||||
昨日は降水確率90%の予報だったのだけれど、1日不穏な空模様ではあったものの、雨雲はここの南側を通過して行き、ここは夜まで何とか雨が降らなかったため、ジョゼの仕事がはかどった。午前中は先週に引き続き、下の三角地帯の草刈りをしてもらい、午後からは、朝のうちにエリゼウが持って来てくれた孟宗竹や果物の苗木やコロア・デ・クリストなどを植えてもらった。孟宗竹を5本、白い花が咲くという苗木を2本、ヤシの木の一種でパウミトという名前の木を2本、そして、果物の苗木を7本、合計16本植えてもらったので、植林総数は639本になった。コロア・デ・クリストは育つとブッシュを形成するものの、木ではないので、植林総数にはカウントしていない。次の写真は、エリゼウが持って来てくれた苗木の一部。エリゼウに感謝。
昨日は、エドソンと私も、ガレージの掃除をしたり、車を洗ったり、家の外で草取りをしたりと、ほぼ1日家の外で過ごしたけれど、今日は、昨夜降り続いた雨は止んだものの、霧が出ており、気温も低いため、家の中にこもっている。そんな中、ダニングルーム下の庭に植えた葉物植物のひとつに花が咲いているのを発見。写真に撮った。6月の暴風雨でかなり葉っぱを痛めつけられたにも関わらず、ちゃんとかわいい花をつけてくれ、何ともうれしい。
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2012年7月 9日(月) | ||||
今日は何の休日なのか知らないけれど、サンパウロ州限定の休日なので、エドソンもハファエウも仕事は休み。それで、英語のレッスンもお休みになるだろうと思っていたら、一昨日メールが来て、先週仕事で休んだから、今日はできたら来たいというので、いつも通りに8時から9時までレッスンをした。ハファエウのレッスンがなくても、ジョゼが今日も手伝いに来てくれることになっていたので、もともと6時起床の予定で、問題なし。夜のエリカとルーカスのレッスンはお休み。 昨日は1日曇りですっきりしないお天気だったけれど、今日は朝から快晴。但し、しばらく暖かく穏やかだったのが嘘のように、今日はぐっと冷え込み、朝の気温は8度だったので、午前中はストーブをつけた。今日の午前中にようやく下の三角地帯の草刈りが終わり、ジョゼには午後から家の西側にあるランドマークの木の周りの草刈り作業をしてもらった。次の写真は、草刈りが終わった下の三角地帯の状態と、ランドマークの木の側で草刈り作業をしてくれているジョゼ。ジョゼがくわで草刈り作業をしているところを撮ろうと思ったのだけれど、私がカメラを持って側に行ったら、仕事の手を止めてカメラに向かってポーズをとってくれた。
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2012年7月 10日(火) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2012年6月20日付け「コラム 樹海」からの転載。 『〃移民の祖〃水野龍は1950年5月にブラジルに戻って以来、聖市カシンギーに息子と共に住んでいた。三男・龍三郎さんによれば、水野は毎朝必ず7時に仏前に座り、2時間半も念仏を唱えていた。ブラジル移民事業に協力した恩人、笠戸丸などの移民、親類縁者ら何百人もの名前を諳んじ、51年8月14日に92歳で亡くなった▼この逸話を聞き、東郷連合艦隊の参謀だった秋山真之中佐が、日露戦争で亡くなった多くの戦友を弔うために、僧侶になりたいと宗教に強い関心を示して晩年を過ごしていたことを思い出した。Z旗の「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ」の文面を作ったのは秋山真之だが、水野龍の「皇国」植民会社は同時代にできた会社であり、明治の同じ熱気を共有していたに違いない▼水野龍が弔おうとした〃戦友〃は移民本人だけでなく、移住事業を影で支えた日本政府関係者や実業家も含まれる。若き日に爆殺計画を図った大隈重信侯への謝罪の気持ちも、その念仏には込められていたに違いない▼51年当時は勝ち負け抗争の生々しい傷跡が残る時期であり、一般社会からの評判は最悪で、二世のコロニア離れが激しかった。そんな世情を愁いた水野龍は移住事業を失敗だったと思い込み、「失意のうちに亡くなった」と龍三郎さんは証言する▼その後、伯国は世界有数の親日国になり、百周年で日本移民は大賞賛された。今では移住事業の成功を疑うものはいない。水野龍の墓は聖市ピニェイロス区のサンパウロ墓地第36区121号(Terreno 121, quadra 36, Cemiterio Sao Paulo)にある。何かの折に線香の一本、あげてもいいのではないか。(深)』 以下も、同じくニッケイ新聞2012年6月21日付け「コラム 樹海」からの転載。 『「夜もすがら 荒き風吹き外にかけし 馬の首輪の鈴鳴りつづく」。15日、96歳で亡くなったコロニア歌人、清谷益次さんの作品だ。10歳で家族と移住、ミナスの開拓小屋での耳の記憶を詠んだもので、日本の賞も受けたときいた▼戦後に復刊させた短歌誌「椰子樹」の編集に長く携わり著作も多い。本紙「ニッケイ歌壇」の選者も務めた。元同人によれば「静かな人で研究熱心。ちょっと短歌をかじっただけの戦後移民では太刀打ちできなかった」と振り返る。コロニア文芸を支えたのは準二世だが、その牽引役の一人だったことは間違いない▼冒頭の歌は、2006年に人文研が発刊した『ブラジル日系コロニア文芸』(上巻)の出版記念会で書いてもらった。作品を残すのみならず、「移民の精神史を残したい」と短歌における〃移民の想い〃へのこだわりは、同胞への愛惜溢れる同書に結実した▼清谷さんの話題はコラム子と同郷の広島でも出た。90年代の取材で知己を得た中国新聞(本社・広島)の西本雅実編集委員との共通の知人だった。逝去を伝えるとすぐさま電話があり、訃報を掲載するという。ご本人は「郷里にもう知り合いはいない」と語っていた。86年間、異郷で日本を想い続けた一移民の死に何をか思う人はいるだろうか。それを推しての判断に少々胸が熱くなった。訪問のさい持参した同紙を「いくら離れても広島のニュースは知りたい」と愛しそうに読まれていた。最高の餞だと思う▼本紙の前身であるパウリスタ新聞の初期に社会部デスクを務めた大先輩でもあった。その謦咳にわずかでも触れることができたのは幸せだった。合掌。(剛)』 | ||||
2012年7月 11日(水) | ||||
先月は一度も作業に来なかったエディたちは、今月は先週の金曜日と昨日の火曜日に来てくれ、やりかけの作業を続けてくれたので、家の北西側の車寄せと花壇とを仕切るレンガ積みが少し進んだ。写真の中央奥と右側のレンガ積みはまだ。今日、作業に来てくれていれば、この作業は今日完了しただろうけれど、今日は作業に来なかったので、まだできあがらない・・・でも、少しずつでも前進はしているのだから、まあ、いいか?
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2012年7月 12日(木) | ||||
モビは時々変な恰好でゴロンと横になっていることがある。先日も長い間仰向けになったまま体勢を変えないので写真に撮った。ああ~恥ずかしい~。両足を大きく開いて、すべて丸見え。
上の写真を撮り終えると、ベッドの中で伸びを始めた。う~ん・・・
ああ~
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2012年7月 13日(金) | ||||
昨日は1日、雨が降ったり止んだりで、強い風が吹き荒れた。今朝は最低気温が3度と冷え込む予報だったけれど、予報通りに冷え込むことはなく、風がなく暖かな日差しで1日穏やかだったので、午後からは外で庭作業をしたりして、体がポカポカと気持ちがいいくらいだった。 ニッケイ新聞の記事にあったのだけれど、サンタカタリーナ州にイタ市という名前の町があるらしい。その「イタ」という町の名前は、先住民のトゥピー・グァラニー語の〝石〟という意味で、町の中心の広場には、町のシンボルとなる巨大な石が飾られているのだそうだ。そして、イグアスの滝の近くにあるイタイプーダムの「イタイプー」というのは、〝歌う石〟という意味なのだとか。そのことをエドソンに言ったら、「そうだよ。ブラジルにはイタで始まる名前の町がいっぱいあるよ」という返事。そう言えばそう。この近辺でも、イタチンガとイタぺヴァというのがある。そして、リオのパラカンビのお隣はイタグアイ。イタペセリカという名前の町もサンパウロの近くにあったと思う。どうして、石という名前のつく町がたくさんあるのだろう?イタチンガには何回か行ったことがあるけれど、別に石がゴロゴロしている訳でもない。不思議だなあ・・・でも、日本語でも人の名前に、石川とか、石井、石橋などなど、石がついているものがたくさんあるけれど、やはり先住民はアジアから来た人たちだから、私たち日本人と何か似た感覚を持っていたのだろうか・・・? | ||||
2012年7月 14日(土) | ||||
先日エドソンがインターネットで見つけたというクイック・ピザの作り方というメールを送って来て、作ってみてというので、昨日の午後、いつものようにスーパーに買い物に行ってもらった際、材料の牛乳を買って来てもらい、作ってみた。ピザ生地はミキサーで混ぜるだけと簡単なのだけれど、どのくらいの大きさのピザになるのか、焼き時間はどのくらいなのかなどの詳細がなく、とてもアバウトなレシピーで、うまくできるのかどうか半信半疑だった。まず、右側の四角いパイレックスに生地になる液体を入れてみると、どうも量が多すぎるので、もうひとつ丸いパイレックスを出して生地を少し移して、2つにしてみた。でも、結論として、この2倍近くの量ができることがわかった。丸いパイレックスで作ったピザは生地の量が適当だったので、まずまずピザらしく出来上がったけれど、四角いパイレックスの方は、生地が厚すぎて、まるでパンケーキのピザといった感じになった。もうそろそろ焼きあがるかな?という頃、オーブンの中をのぞいてみると、四角いパイレックスのピザは生地がグーンと盛り上がって、おばけのように器から溢れそうになっていて、おかしくて、爆笑してしまった。エドソンもそれを見て大笑い。ふたりして、しばらく笑いが止まらなかった。ちょっと成功とは言い難い結果になったけれど、エドソンは「失敗じゃないよ。おいしいじゃない」と言って、食べてくれた。トッピングはアスパラガス、ソーセージ、オリーブ、トマト、モッツァレラチーズに、オレガノ。
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2012年7月 15日(日) | ||||
昨日は、ジョゼに草刈りを続けてもらい、それが終わって午後遅くから、家の建設過程で出た廃材の山を少し片付けてもらった。庭の桜の木の側と、家の西側に積み上がっていた廃材の一部を、家の南東側に積んであるレンガの横に移動してもらったので、少しすっきりした。本来ならエディたちが片付けてくれなくてはいけないのだけれど、ここの作業が終了するまでは片付ける気がないようで、月にほんの数日作業に来るだけではいつまで経っても終了せず、木を植えたり、庭作りをしようと思うと、自分たちで何とかするしかなく、結局ジョゼに手伝ってもらうことにした。あちこちに散らばっている釘やワイアーや塗料の空き缶など再利用できないものは、私がひとつずつ拾ってまとめてゴミとして出せるようにしているのだけれど、これらの廃材はシュハスコのかまどが出来て、シュハスコをする際に薪として利用しようと思っている。次の写真は、玄関先から見た家の西側で、廃材を片付ける前と、一部片付けた後の様子。
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2012年7月 16日(月) | ||||
土曜日にエーナーニとカロウを夕食に招待したら、カロウが可愛い花の小さな鉢植えをおみやげに持ってきてくれた。パーディーニョには花屋さんなどないのだけれど、叔母さんがボトゥカトゥの大学病院に入院したのでお見舞いに行ってきたと話していたから、そのついでにボトゥカトゥのお店で買ってきてくれたようだ。次回の我が家での食事は魚のフライという約束をしていたのだけれど、土曜の夜は冷え込んだのでメニューを変えて、豚肉と野菜のあつあつのポトフーにした。カロウもやはりセロリは食べたことがなかったらしく、「これは何?」と聞くので、「アイポとかサルサオンと呼ばれる野菜よ」と言うと、「ふーん、食べたことない。でも、おいしい」と言って食べてくれた。
以下は、ニッケイ新聞2012年6月30日付け「コラム オーリャ!」からの転載。
『文協で24日にあった白寿者表彰。受賞者の代表として謝辞に立った水本薫さんの姿に胸を打たれた。 | ||||
2012年7月 17日(火) | ||||
昨日から太陽が顔を出さないあいにくのお天気のため、冷え込んで、かなり寒い。そのため1日中ストーブをつけているのだけれど、それでも寒い。モビも太陽の日差しがないため、夜以外はストーブの前にベッドを移動して、1日中毛布に包まって過ごしている。予報によれば、最低気温は5度前後、最高気温は15度前後という日々がこれからしばらく続くようだ。せめて昼間太陽が顔を出してくれると、家の中が暖かくなるんだけどなあ・・・ここでの生活では、太陽の恵みの偉大さを切実に感じる。 先日の日曜日にまたラベンダーを少し収穫して、葉を落とし、花を乾燥させるために家の中に吊るした。この乾燥させたラベンダーの花束と、乾燥させた葉を、お呼ばれした先におみやげとして持って行くと、結構喜ばれるので、少し作りおきしておくことにした。
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2012年7月 18日(水) | ||||
先日、ここの市長選挙のことを少し書いたけれど、それに関係するポルトガル語を少し紹介しようと思う。まず、市長はプレフェイト(prefeito=mayor)、市役所はプレフェイトゥーラ(prefeitura=city hall)、市議会議員はカマラ・ムニシパウ(câmara municipal=city council)、普通city(市)のことはシダージ(cidade)と言う(例えば、有名なブラジル映画にCity of God=Cidade de Deusがある)けれど、行政区域としての市は、ムニシピオ(municipio=municipality)と言う。 この他、最近よく耳にし、覚えたポルトガル語は、多分とかおそらくという意味のタウヴェス(talvez=maybe)。英語のlistenという意味のエスクータ(escuta)。これに似た言葉で暗いと言う意味のエスクーロ(escuro/ra=dark)。その反対に明るいという意味はクラーロ(claro/ra=bright)。クラーロにはまた、はっきりした(clear)、 [色が]薄い(light)、[肌の色が]白い(fair)という意味や、もちろん(of course)という意味もある。人が話しているのを聞いていると、クラーロとか、セート(certo)という言葉を頻繁に耳にする。セートは正確なとか正しいという意味で、反対語の間違ったという意味の言葉はエハード(errado/da)という。正しいという意味ではコヘト(correto/ta=correct)という言葉もある。 | ||||
2012年7月 19日(木) | ||||
ニッケイ新聞2012年7月4日付け日系社会ニュースの「大耳小耳」に、次のような記者さんのボヤキがあり、同病相憐れむの感を強くした。ブラジルではこういうわけのわからないミスが非常に多く、私たちも携帯電話を解約する手続きをしても解約にならなかったり、では、プランを変えようとしても変わらなかったり、ようやく変えることができたと思ったら、今度は何度も確認した料金の自動引き落としが以前と同様になっていなかったりと、とにかく不思議なことが多い。その理由はやはり「ブラジルだから」というほかないという最後の言葉に、本当にその通りと思った。 『毎月届いていた請求書が来ない。待っているうちに支払期限を過ぎたのでネット上で再発行し、払い込んだ。確認のため会社に電話すると、住所の番号が勝手に変更されている。これでは届くわけがない。住所を新たに設定し直し、何度も応対した係員に確認した。翌月―。それでも届かない。また電話すると住所の通りは合っているものの番号が全然違う。呆れ果てながら再度修整…。かつては自分の言葉の問題、と諦めていたこともあるが、そんなことは決してない。何故かと聞かれれば「ブラジルだから」というほかない。』 | ||||
2012年7月 20日(金) | ||||
先日、エドソンが「ちょっとアイデアが浮かんだから試してみて」と言うので、ご飯にレンズ豆を混ぜて炊いてみることになった。レンズ豆は他の豆と違って、圧力鍋を使わなくても、普通に野菜と煮込んでちゃんとおいしいスープができあがるので、よく使うのだけれど、ご飯に混ぜてみる発想はなかった。それで、いつも通りに3対1でご飯と玄米を混ぜた中に、玄米よりも少し多めにレンズ豆を入れて、塩少々をふって、炊飯器で炊いてみた。思いのほかいい具合に炊き上がった。レンズ豆は小豆のように赤くはないけれど、ちょっと見た目は赤飯のようにご飯に少し色がついて、味も悪くない。成功。成功。でも、よく考えてみたら、アメリカ時代同僚のインド人の女性がよく、お昼のお弁当にレンズ豆の入ったご飯を持ってきていて、時々ご相伴に預かっていたんだった。ただ、彼女のご飯はいろいろスパイスが入っていたので、味は今回作ったものとは違ったけれど、何となく懐かしく思い出した。
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2012年7月 21日(土) | ||||
ブラジルはサンパウロ州の東側半分と、南部の3州以外はほぼ1年中暑い気候の国だけれど、ここは標高が高いので、夏は涼しく、冬は氷点下にはならないものの、しっかり寒い日々がある。そして、日本では冬に咲くのは寒椿くらいで、ほとんど花など咲かないけれど、ここではサツキや桜や梅が咲く。ブラジルの桜は寒い地方から先に咲き始めるので、サンパウロ州とパラナ州では、7月から8月にかけて咲き、この2ヶ月間は各地で桜祭が開催される。我が家の桜は7月の初め頃咲き始めたけれど、まだ木が若いせいか、一斉に咲かずに、あっちの枝、こっちの枝と、ちょろちょろと咲くので、咲き始めから2週間以上経って葉っぱが出てきた今でもまだ花をつけている枝がある。この他、ハイビスカスやベイジョは夏ほど元気にたくさん花をつけないけれど、冬も花が絶えない。ここで一番元気なハイビスカスは赤い色の花で、薄いピンク色や白っぽい花をつけるハイビスカスの木の成長は遅く、花もめったに咲かせない。でも、何故か最近少し花を咲かせている。次の写真の中央の背の低い木には白っぽい花が2つ咲き、左側のこれより少し背丈のある木には、薄いピンク色の花が3つ4つ咲いている。夏の間ほとんど花を咲かせなかったのに、この寒い時期になって花を咲かせるなんて不思議だなあと思う。
そして、パラカンビのファームにあったカニシャボテンは5月に赤い花を咲かせていたけれど、我が家のランドマークの木の三股になった部分に、マウリシオが置いたサボテンの一種のような植物は、今花を咲かせている。ここは冬でも花を咲かせる植物がたくさんあり、一年中花が絶えない。
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2012年7月 22日(日) | ||||
昨日、エドソンはいつものようにジョゼを向かえに行き、戻ってから朝食を食べて、8時にパウロと一緒にアメリカーナでのアマチュア無線愛好家の集まりに出かけて行った。これは以前、私も一緒に行ったイベントなので、ジョゼが仕事に来てくれていることだし、今回私は同行せず、モビとお留守番をした。ジョゼは先週やりかけた家の西側の廃材の移動を完了してくれ、植木鉢に枝差しをして育てていたハイビスカスを6本植えてくれ、午後からは草刈り作業をしてくれた。エドソンが何かに使おうと考えたらしい丸太3本を残し、すべてを移動してくれたので、後は残ったゴミを掃除して、少しずつここに木を植えたりしてきれいにして行こうと考えている。
午後5時までには帰ると行って出かけたエドソンだったけれど、戻らないので、私がジョゼをパーディーニョまでモビと一緒に車で送って行った。エドソンによると、ジョゼはおしゃべり好きな人らしいのだけれど、私は簡単なことしか理解できないので、入り口ゲートは閉めた方がいいか?とか、パダリア(パン屋)のところでいつも下ろしてもらうんだけど、場所はわかるか?とか、必要なとこしか話さなかった。でも、モビが一緒にいてくれたので、彼も足元のモビの頭を何度も撫でてくれたりして、あまり居心地の悪い思いはしなかったようだった。エドソンは結局6時近くになって戻って来た。 | ||||
2012年7月 23日(月) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2012年7月7日付け「コラム 樹海」からの転載。サンパウロ市の最低気温は10度をきることは珍しいかもしれないけれど、サンパウロ市よりも500メートル余り海抜の高いここは、冬の間の最低気温が5度前後になることはそれほど珍しいことではない。まあ氷点下の極寒の地に比べればどうということのない暖かな気温ではあるけれど・・・。このコラムを読んで、ずっと昔アメリカ、サウスダコタ州のインディアン居留地に住む友人を訪ねた際体験した氷点下30度近い寒さを思い出した。息を吸い込むと鼻毛がバリバリと凍り、鼻が痛くなった。家の中ではストーブがガンガンに焚かれていたけれど、それでも寒くて靴下をはいて厚着をして、毛布を何枚も重ねて寝たのを憶えている。ちなみにここの冬の最低気温は5度前後、夏の最高気温は30度前後なので、温度差は25度前後で、平均気温で言うとそれほど温度の変化がなく、穏やかで過ごし易いところだと思う。 『サンパウロは四季がはっきりとしない―そうだが、やはり夏は暑く冬は寒い。俳句をたしなむ人たちは、先月の22日辺りがサンパウロの「冬至」であり、1年で最も昼の時間が短いとする。日本では、この日から日が長くなり春が近づくので一陽来復とも云う。この冬至の日には、南瓜やお粥を食べるけれども、移民たちにも、こんな昔からの習慣が守られていたかは疑わしい▼まあ、冬将軍とは云っても、ここでは寒暖計が10度を切るのは珍しく、ちょっと厚い上着を着れば寒さは防げる。退社し帰宅を急ぐサラリーマンも、馴染みの赤提灯で「おでん」を楽しみ、熱燗でご機嫌なのだが、近頃はそんなお袋の味を自慢する店が少なくなり、昔に比べると寂しく、呑兵衛も中々に辛い▼それに―日本の極寒の地・北海道の陸別町に比べれば、サンパウロは真夏のようなものだ。この町は1978年に零下38度の記録があり、2000年には零下40度以下になったらしいが、こんな厳寒に驚いてはいけない。露のシベリアにあるサハ共和国の村は、なんとマイナス71・2度にもなり、これが世界一寒い村なのである▼オイミャコンという村で村人は900人。家には薪ストーブが燃えているが、それでも家屋内は零下20度ほどと寒い。それでも、村人らは「暖かい」とにこやかなのだ。何しろ,戸外で鼻水でも垂らせば、たちまち氷柱となり、夏には30度を超すから冬との温度差は100度を突破の凄さだし、サンパウロの厳冬?は真に「暖かい」のである。(遯)』 | ||||
2012年7月 24日(火) | ||||
昨日、エディたちが約2週間ぶりに来てくれ、作業が途中で止まっていた家の西側の車寄せと庭を仕切るレンガ積みの残りの作業が行われた。お陰で何とか一通りレンガの仕切りが出来上がった。
このレンガの仕切りの側で積み上がっていた廃材がなくなっていたり、セメントの袋やダンボールなどを燃やした灰の山がなくなっていたり、以前と比べてだいぶきれいになっているので、エディたちは作業を始める前にしばらくあたりを眺めていたのがおかしかった。そして、シュハスコ小屋の中に作るシュハスコのかまど用のレンガと、セメントと混ぜるための砂を追加注文したらしく、午後から配達のトラックが来て、ランドマークの木の側に積み上げて帰って行った。ということは、いよいよ今日からシュハスコのかまどを作る作業が始まるのかな?と、ワクワク期待していたのだけれど、また肩透かしをくらってしまい、エディたちは姿を見せなかった。今度はいつ来てくれるのかなあ・・・? | ||||
2012年7月 25日(水) | ||||
ニッケイ新聞2012年7月4日付けから「山本喜誉司と護憲革命=家族が語るコロニア秘史」と題する4回の連載記事が掲載されたので、そのサイトを以下に紹介したい。東山農場というのはここから北東に2時間ばかり行ったカンピナスというサンパウロ州で2番目に大きな町にあり、三菱創始者である岩崎家の三代目当主、故岩崎久弥氏によって作られた農場。ちなみに今月9日はサンパウロ州限定の休日とは言っても、何の休日か知らないと書いたけれど、この記事に出てくる「護憲革命記念日」だったことを思い出した。 『「今回語ったことの多くは、家族しか知らなかったことです」。2時間半にわたる取材の最後に、山本喜誉司(1892―1963、東京)の二男の坦カルロス(たん、88、北京生まれ)はそう付け加えた。ブラジル国家の背骨を作ったといわれるヴァルガス政権初期に起きた、伯国史最大の市民戦・護憲革命から数えて、この9日で80周年となる。笠戸丸から24年、1932年9月下旬、連邦軍と聖州軍は東山農場を挟んで対峙し、最後の激戦を繰り広げた。今年11月に創立85周年を迎える日系最古の企業の一つ、東山農場がブラジル史に残る貴重な歴史的舞台となった瞬間だった。その時の農場長・山本喜誉司は、戦後に聖市400周年や文協創立をはかり、日系社会統合をなしとげた。知られざるその家族史を聖市の自宅で坦に聞いた。
(1)=東山挟んで撃ち合いに この連載記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2012年7月 26日(木) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2012年7月13日付け「コラム 樹海」からの転載。昨日紹介したニッケイ新聞の連載記事の山本喜誉司氏が、芥川龍之介と親友だったという内容に、人生のめぐり合わせというのは不思議なものだなあと思った。 『「山本には芥川をブラジルに呼んで、広々とした自然、清浄な大気、そして激しい熱帯の太陽の下で、衰弱した芥川の肉体と精神を甦らせるが、初めからの夢であった」と『山本喜誉司評伝』(人文研、81年、18頁)にはある。「芥川」とは龍之介のことで、東京府立三中時代からの親友だった▼月刊『望星』(東海教育研究所、07年8月号)の《特集― 芥川龍之介の「手紙」》には驚くべき内容が書かれている。山本と芥川は一高時代、同性愛にも譬えられそうな熱烈な親交があった。芥川が送った書簡中には「僕は君によりて生き候君と共にするを得べくんば死も亦甘かるべしと存候」(33頁)との言葉まであったという▼山本は「私の死後この書簡類は焼却する」と言い、54年に大宅壮一が聖市の山本邸を訪れて、書簡を見せてほしいとお願いした時も断った。しかし山本が63年に亡くなった時にはなぜか焼かれず、日本の研究者の問い合わせを受けた遺族が全書簡を送った。次男の山本坦は「父はいつも手紙をやり取りしていたが、母は芥川のことを『頭が切れすぎる人だ』と怖がっていた」と思い出す▼芥川が自殺したのは27年7月、山本が渡伯した翌年だ。もし山本が芥川を当地に呼ぶことに成功していたら、当地を舞台にした傑作をものにしていただろうと想像すると興味深い▼30年に移民船で渡伯した経験を元にした小説『蒼氓』(石川達三)が、35年の第1回芥川賞に輝いたとき、最も喜んだのは天国の芥川だったかもしれない。ある種の奇縁か。芥川が渡伯していれば、そのテーマの本格小説をまっ先に発表したのは彼自身だったかもしれない。(深)』 | ||||
2012年7月 27日(金) | ||||
エドソンの話だと、モラエス家具店のオーナーのモラエスさんは、メインの商売の家具店だけでなく、何件も借家を持っているらしく、彼の自宅だけでなく、新しい借家の方も現在エディが建てているため、それでここの作業にはほとんど来れないのだということがわかった。複数の作業現場をあっちに行ったりこっちに行ったりでは、どの現場もなかなか作業が進まないはずだ。特に、我が家の作業は、メインは完了しているので、後回しになっているのだろう。でも、ずっと放っておくわけにもいかないからか、たま~に作業にやって来るんだ。一昨日、昨日と続けてやって来たのはいいけれど、手伝いのおにいちゃんをひとりだけここに残して、エディは他の現場に行ってしまった。でも、このおにいちゃん、まだ作業に慣れていないので、レンガが水平に積み上がらない。見かねてエドソンがどうすれば水平に積み上げられるかを何度も教えてあげるありさま。エディがすればほんの2~3時間でできてしまうことを、このおにいちゃんは1日がかりでがんばってやっていた。次の写真は、レンガの壁と壁の間のコンクリートの柱部分の板が取り外され、中央左側の雨水を排水する排水口ができ、ほぼ完成した車寄せと庭とのレンガのしきり。
次の写真は、ずっと未完成だった家の東側の壁の水平部分のコンクリート塗りが終わり、雨水を貯める貯水タンクを置くスペースの左側後ろのレンガ積みが終わったところ。
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2012年7月 28日(土) | ||||
昨日の夜は、またエーナーニとカロウの所で夕飯をご馳走になった。今回は子どもたちも全員揃って8人でテーブルを囲んだ。エーナーニの4人の子どもたちは、上のふたりが前の奥さんとの間にできた子どもたちで、下の男の子ふたりがカロウとの間にできた子どもたち。みんなとても明るくていい子たちで、お母さんが違っていても仲がいい。特に、おねえちゃんはいつも下の弟ふたりの面倒をよくみている。長男で15歳のネトは、少し学習障害があるらしいのだけれど、学校ではとても人気があって、私たちにもいつもちゃんと挨拶してくれるし、人をよく観察していて、よく気がつく。お父さんの農作業をよく手伝っている上、ピザの配達のアルバイトもしたりして、学習障害があるとはとても思えない、しっかりしたおにいちゃんだ。下の男の子ふたりはとても元気がいいけれど、お客さんが来ている間は、大声で騒いだりはせず、自分たちの食事が終わったらちゃんとお皿を台所に下げて、その後、居間に行って静かにテレビを見て過ごしていた。みんなとても表情豊かで、のびのび育っている。次の写真は、居間でテレビを見ていた下の3人をパチリ。
昨日の夕食は、エナーニの所で飼っている地鶏(ガリーニャ・カイピラ=galinha caipira)の料理と、煮豆、ポーレンタ、ご飯という典型的なブラジル料理だった。ニワトリのことをポルトガル語で、フランゴ(frango)と言ったり、ガリーニャ(galinha)と言ったりするのだけれど、それがどう違うのか知らなかった。それで、昨日の夕飯がガリーニャ・カイピラだったこともあり、フランゴとガリーニャの違いを聞いてみたら、フランゴは若い雄のニワトリのことで、ガリーニャは雌のニワトリのことなのだということがわかった。雄と雌で呼び名が違うんだ。フランゴは若鶏なので、肉が柔らかいので、普通の鍋で調理するけれど、ガリーニャはフランゴに比べて肉が硬いので、圧力鍋で調理するのだとか。ガリーニャは年をとって玉子を生まなくなってから食卓に乗るから肉が硬いのかな?それで、ラーメンのスープや固形スープに使われるのもガリーニャなのかと、納得。 | ||||
2012年7月 29日(日) | ||||
毎週土曜日にここで草刈りなどの作業をしてくれているジョゼは、昨日と来週の土曜日は、今一緒に暮らしている姪のご主人の農作業を手伝うためお休み。家のすぐ北側の庭の草取りは私がちょこちょこやっているのだけれど、それ以外の広い地域の草取りまではとてもできない。でも、ジョゼのお陰で家の南側の三角地帯も、家の北側の広い地域もきれいにしてもらえるので、とてもありがたい。次の写真は、家の北側の庭の一番手前のリグストルン(ねずみもち)とグレヴィーリャの列を西側から撮ったもの。リグストルンの足元のアメンドインは元気にしており、それ以外の草が刈られ状態。
次の写真は、グレヴィーリャのさらに北側のカエデとセドリーニョの列を、やはり西側から撮ったもの。グレヴィーリャの左側には竹を植えていたのだけれど、なかなか思うように成長してくれないので、西側の森の近くに植え替えて、その代わりにカエデを植えたのだけれど、まだひょろひょろなのでこの写真ではよく見えない。でも、ひょろひょろの幹からちゃんと新芽が出ている。さらにその左側にはセドリーニョの列が2列。これを植えたときは、10センチほどの小さな苗木だったのだけれど、1年ちょっとで50~60センチ以上に成長し、この写真でもはっきりとその存在が確認できる。このセドリーニョの列のさらに左側には、コロア・デ・クリストの列があり、ここまでが一応、我が家の庭。
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2012年7月 30日(月) | ||||
昨日はお昼前にここから南に下りたカステロブランコ上にあるホドサーブ・スター に行って、車の燃料を満タンにし、車を洗ってもらった。ここで燃料を満タンにすると洗車はサービスしてもらえるので、とても助かる。その作業が完了するのを待つ間、エドソンがパステウとソーダを買ってきてくれ、日陰に腰を下ろして簡単にお昼を済ませた。ホドサーブの中にはモビを連れて入れないので、ここではいつもこんな感じになる。その後、帰宅途中にあるタケイシさんの農園のゲートが開いていたので寄ってみると、タケイシさんだけでなく、奥さんのナンシーもいた。ナンシーはここ2年半近く不治の難病で闘病中の妹さんの看病のため、ほとんどサンパウロに行ったきりで、ずっと会っていなかったのだけれど、2週間ほど前にその妹さんが亡くなったので、戻ってきたと話していた。近いうちに食事に来てと招待すると、妹さんの喪が明ける9月まで待ってと言われた。49日が過ぎるまでは喪に服すのだそうだ。日系人でしかも沖縄系の人なので、こういうことはちゃんとするんだなと感心。しばらくふたりとおしゃべりをした後、失礼した。久しぶりにふたりの元気な顔を見て、話すことができ、うれしかった。 そして、うちの入り口ゲートまで戻って来たら、2頭の馬に乗った親子連れが通りかかり、挨拶してきたので、誰かと思ったら、お隣のコーヒー園オーナーのクラウディオと彼の長男だった。この男の子はまだ小学校低学年だと思うけれど、とても上手に馬を乗りこなしていた。この週末は彼らが住んでいるバウルからここに来て過ごしているのだけれど、クラウディオはお隣のコーヒー園だけでなく、ドナ・ベティのファゼンダの先にあるもっと大きなコーヒー園も所有していて、そこにはお隣に建てた家よりももっと大きな家があるので、この週末はそちらの方に来ているということだった。ブラジルではお金持ちというと、ドナ・ベティやクラウディオのように日本ではめったにお目にかかれない桁外れなお金持ちが結構いて、驚いてしまう。その後、ジャナイーナのお父さんがかねてからの約束通り、トラクターで牛糞を運んできてくれた。牛糞が少しあるからと聞いていたのだけれど、少しどころかトラクターに取り付けたカートに山盛りの、しかも良質の牛糞に、感謝!感激!
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2012年7月 31日(火) | ||||
今月は比較的暖かく穏やかなお天気が続いていたけれど、最終日の今日は、深い霧の中で夜が明けた。西隣りのクラウディオの家も、いつもなら台所の窓から見える南側のウィリアムの家はもちろん、倉庫もまったく見えない。こうなるとまさに陸の孤島と言った感じだ。その後強い風が吹き始め、霧は消えたものの、少し寒い、風の強い曇りがちの1日になった。
以下は、ニッケイ新聞2012年7月18日付け「コラム 樹海」からの転載。 これはブラジルが抱える現実であり、大きな問題。でも、人々の考え方や価値観が変わらない限り、解決しそうにない問題のように思える。それでも、〃聖州最良市長〃に宮下ニウセさんという日系の女性市長が選ばれたり、約10年前にはパラー州ガラフォン・デ・ノルテという町で大沼ネリーさんという日系女性元市長がいたことがあり、現職では同州イガラッペ・アスー市の上杉サンドラ市長、マラニョン州アマランテ・ド・マラニョン市の鎌田アドリアーナ市長の2人がいるというから、がんばっている人たちもいるのは確か。ちなみに宮下市長はサンパウロ州初の日系女性市長。 『「バストス経済の8割5分は日系人が握っているが、政治は9割をブラジル人に握られている」。旅館を経営する傍ら、日本語教育に尽力してきた戦後移民の宇佐美宗一さん(74、大分)が、苦々しい表情でそう語ったのが印象的だった▼日本移民が作った町だけに、かつては7代も続けて日系市長が君臨するというコロニア史に輝く大記録を作った。今回その後日談を初めて知った。「市長をやった日系人は例外なく、そのあと倒産している」のだという。驚くべき事実だ▼以前、さる政治家夫人から「夫が立候補した次の日から、近隣の市民が電話代、電気代、水道代の銀行振込み票を持って毎朝、家の前に列を作るようになって心底驚いた」と聞き、呆れた。投票と引き換えに支払いを求めるのだとか。そのような出費を賄うには、議員給与だけでは足りないから、政治家は当然のように公費から掠め取る、とはよく聞く話だ▼宇佐美さんは「なにか問題が起きると、日系人は直ぐに自腹を切る。責任感がありすぎ。真面目すぎるから、すぐに倒産する。伯人政治家のようにエンホーラ(明言を避けて時間稼ぎ)したり、カーラ・デ・パウ(鉄面皮)を決め込むことができない」と嘆く。「日系人の長所」といわれる特徴が、政治家としては弱点になってしまう。この長所を継承することは重要だが、政治家として伯人に伍していける人材を育てることも大事な課題だ▼「国民は、自分と同レベルの政治(家)しか持てない」とは、よく言われる箴言だ。当然ブラジルしかりだが、最近の祖国の様子を見ていると「日本よ、お前もか」と胸が痛くなる。(深)』
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