Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2012年6月1日(金) | ||||
6月のブラジルは、フェスタ・ジュニーナ(Festa Junina=6月祭)の季節。今月は7日がコーパス・クリスティ(Corpus Crhisti =聖体祭)で祝日。13日がサン・アントニオ(聖アントニオ)の日、24日がサン・ジョアオン(聖ヨハネ)の日、29日がサン・ペドロ(聖ペドロ)の日と、祝日ではないけれど、3つも聖人の日があり、中でもサン・ジョアオンの日は、ナターウ(クリスマス)、パスコア(イースター)に続く、カトリックの三大イベントと考えられているのだそうだ。そして、聖アントニオは愛の守護神なので、ブラジルではその前日の12日はジア・ドス・ナモラードス(Dia dos Namorados=恋人たちの日)と呼ばれていて、恋人たちや夫婦の間では大切な日。ブラジルでは2月のバレンタインデーはほとんど関係なく、こちらのジア・ ドス・ナモラードスの方が重要なようだ。さらに、22日は日本では夏至、季節が反対のブラジルでは冬至で、秋から冬になる季節なので、フェスタ・ジュニーナは、これらの聖人をまとめてお祝いすると同時に、秋の収穫祭のような意味合いを持っているのだと思う。
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2012年6月2日(土) | ||||
1週間続いた穏やかな好天は、昨日は一転、ぐずつくお天気になった。深い霧の中、モビの治療でボトゥカトゥの大学病院にいつものように行ってきた。一応、昨日の治療で大学病院通いは終了するはずだったのだけれど、抗ガン剤治療は終了したけれど、血液検査をするから、後もう1回来なさいということになった。それまでは家での投薬は続けなければならないので、モビが治療から完全に解放されるのはもう少し先になった。 今日は昨日のようにぐずつくことはなかったけれど、朝はやはり霧の中で明け、日差しがほとんどなく、暑からず寒からず、曇りがちのお天気だったので、外で作業するにはもってこいの1日になった。それで、道路の補修をしたり、エドソンを手伝って野菜畑の柱にワイアーを渡す作業をしたりした。野菜畑はまだまだ完成には程遠いけれど、少しずつ前進はしている。今日もジョゼが手伝いに来てくれたので、草刈りや、セドリーニョの足元に肥料をまいてもらったりした。私たちだけではすべてに手が回らないけれど、ジョゼが手伝ってくれるので、本当に助かる。
野菜畑での作業中、パウロがやって来たので、畑の横のシュハスコ小屋の前で話しをしていたら、私たちの足元でおとなしくしていたモビがすごい悲鳴を上げた。驚いて見ると、以前私を刺した蜂と同じタイプの大きなマリンポンドがモビの腰の辺りに止まっていたので、急いで叩き落とした。モビを連れて家に戻り、刺されたところを調べて、アルコールで消毒した。幸い私の時と同じように蜂の針は体に食い込んでおらず、その後少し腫れる程度で済んでほっとした。 | ||||
2012年6月3日(日) | ||||
今日は、ロータリークラブ主催のポーコ・ノ・ホレッチ(豚の丸焼き)があり、準備を手伝うため朝9時に出かけて行った。でも、会場のテーブルの準備をするくらいであまり手伝うことはなく、11時のオープン近くまでメンバー間でおしゃべりに興じた。11時前にエドソンがシディとライラを迎えに行き、彼女たちが到着してからは、エドソンは時々立ち働いていたけれど、私はずっと彼女たちと一緒のテーブルで過ごした。以下の写真は、豚の丸焼きの様子。会場の裏手で、こういう豚が6頭丸焼きになっていた。
セルフサービスの食事を取って、テーブルに戻ってきたシディとライラ。
我が家を建設してくれた(というか、いまだに、してくれている)ペドレイロ(左官)のエディと彼の奥さんと娘さんのひとり。彼の家族には今日初めて会った。上の娘さんはこの写真を撮った際、テーブルにいなかったので、ここには写っていない。
最後に、食事が終わった後で、エーナーニにみんなそろった記念写真を撮ってもらった。
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2012年6月4日(月) | ||||
今日、午前中ボトゥカトゥの公証役場にウィリアム、ジウダ、エドソン、私の4人で(正確にはモビも一緒に)行ってきた。約3年の月日を経てようやく、この土地を私たち夫婦の所有地として登記することができた。ブラジルでは何をするにも日本では考えられないほどの時間がかかるのは、これまでの経験でわかっていたし、ブラジルでの土地の登記手続きには1年くらいかかるのが普通と聞いてはいたけれど、さすがに2年と10ヶ月(ほぼ3年)という時間は長かった。その間に万が一の不測の事態が起これば、私たちのここでの生活の根本を揺るがす大問題になるような状況が続いていたので、エドソンが何度も何度もウィリアムにしつこく進捗状況を確認しながら、常に常に不安が付きまとっていた。でもそれがようやく解消され、エドソンとふたりほっと肩の荷を下ろした。だから今日は記念すべき日。 そもそも土地の登記に、何故、こんなに時間がかかったのか?土地の登記には三段階のステップがあり、まず、第一段階は、ウィリアムが自分の土地を測量して、彼の所有地と境界線を接する周囲の複数の土地の所有者との間で合意して、境界線を確定する作業をしなければならないのだけれど、それを完了するのに何と2年5ヶ月かかった。これが一番大きな理由だった。そして、第二段階として、私たちが購入した土地の中にある保護すべき森を測量して、ウィリアムの土地から私たちの土地を正式に切り離す手続きをするのに5ヶ月かかった。そして、最終段階は、この土地をウィリアム夫婦から私たち夫婦が購入したという、正式な登記書類に、4人全員が署名して完了。今日は、その署名をするために、4人が揃って公証役場に行ったのだ。長い長い道のりだったけれど、何はともあれ、シャカラ・ド・ソウナセンチ(Chácara do Sol Nascente=日の出小農園)が、名実共に私たちの所有地となり、私たちが抱えていた一番大きな問題が解決したので、とにかくほっとした。 | ||||
2012年6月5日(火) | ||||
昨日は、1日中北からの暖かく強い風が吹き荒れ、お天気が崩れることを予感させた。午後4時頃から西の空模様が怪しくなり、遠くで雷がなったり雨が降っている様子がうかがえた。そうこうするうちに5時頃から暴風雨になり、ひょうまで降ってきた。家の北側を直撃するすごい風と雨で、居間のドアの隙間から大量の雨が吹き込み、玄関も水浸しになり、エドソンとふたり大慌てでタオルなどを床とドアの隙間に置いて水を取り除く作業に追われた。30分ほどで嵐が去り、やれやれと、後片付けをしていると、エリカとルーカスがレッスンにやって来た。だいたいこういうひどいお天気の時は、彼らはレッスンをお休みすることが多いのだけれど、どうやらパーディーニョの町の方は大したことがなかったようで、ここの局地的な荒れようを見て驚いていた。次の写真は、それぞれ嵐の後で無残に汚れたベランダの様子と、玄関前の外階段の下で吹き溜まったひょうのつぶつぶ。
エリカとルーカスのレッスンを終え、夕食を作って食べていると、8時頃突然停電になり、再度の暴風雨に襲われた。その後、10時半頃停電が回復したので、シャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。でも、1時半頃に3度目の暴風雨で起こされ、ブレーカーを落としたり、ドアの隙間から吹き込む雨とまたまた格闘した。そして、暴風雨が去り、やれやれとベッドに戻って眠れないまま1時間くらいすると、ピチャッ、ピチャッという音がするので起きて、音のする台所に行ってみると、居間と台所の間のカウンターテーブルの上のシーリングランプのひとつから水が落ちてきていた。波状的に襲った3度の暴風雨で屋根の瓦が飛ばされたのかもしれないと、エドソンが懐中電灯を持って、外に確認に行った。でも、幸い瓦は飛ばされておらず、強風のため瓦の隙間から大量の雨が天井裏に吹き込んで、その水が溜まり電気配線の穴から漏れているらしいことがわかった。カウンターテーブルの上にバケツを置いて、雨漏りの水を受けるようにして、ベッドに戻った。家の天井から雨漏りなんて、子供時代に経験した台風以来で、何十年ぶりのことだろう?そんなわけで、ふたりとも眠れぬ夜を過ごし、今朝は疲れてグロッキー。今日は暴風雨ではないけれど、雨が断続的に降り続いている。予報によると、この悪天候はこの先1週間ほど続くらしい。やれやれ・・・とほほ・・・ | ||||
2012年6月6日(水) | ||||
月曜日の夜は嵐で何度も起こされ大変だったので、火曜日は寝不足で1日ゾンビ状態だったけれど、昨日の夜はよく眠れ、今朝、目が覚めたらすでに8時を過ぎていた。今日も雨足は強くないものの、1日雨が降ったり止んだりの状態で、外に出られないので、3~4日に1度作るモビの食事を作ったり、先週の金曜日に大学病院の帰りに寄ったウエノで買っておいたラディッシュで、作り置きのお惣菜を作ったり、今が旬のりんごでトータ・デ・マサン(torta de macã=アップルパイ)を作ったりと、長時間台所で過ごした。 今日は夕方エリゼウがレッスンに来る日なのだけれど、6時を過ぎてもやって来ない。いつもだいたい5時45分頃に来るのだけれど、6時45分頃になっても来ないので、「今日はもう来ないね」とエドソンと話し、テーブルの上に出してあったテキストなどを片付けて、夕飯を食べる準備を始めた。そしてエドソンは入り口ゲートの鍵を掛けに行くため玄関を出たところで、エリゼウがちょうどやって来た。滑り込みセーフ。でも、今日はレッスンなしで、夕飯だけ一緒に食べることにした。夕飯の後で、片付けをしていると、台所の窓の外に少し大きめの蛾が止まっていたので写真に撮ってみた。今日は気温も比較的低く、お天気も悪いのに、何故か外ではたくさん虫が飛び交っていた。
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2012年6月7日(木) | ||||
今日はコーパス・クリスティ(聖体祭)で休日。この土曜日は用事があってここでの仕事に来れないから、代わりに今日仕事をしたいと言っていたジョゼは、今日も雨なので、それはならず。降り続く雨のお陰で外での仕事ができないだけでなく、モビのお散歩もままならず、みんな家の中に閉じこもって運動不足。モビの用便は雨の止み間を狙って連れ出すのだけれど、雨が降っているとベランダから外に出たがらない。そういう時は、傘を差し掛けてベランダのすぐ側で、何とかオシッコだけはさせるようにしている。 エドソンは4月の中旬に受けたアマチュア無線のライセンスのアップグレードのための試験に合格し、希望した新しいコールサインでの登録が完了。今朝はしきりに誰かと無線で話していた。彼の新しいコールサインは、パパ・ヤンキー・ドイス・セアラ・デルタ・ロメオ(PY2SDR)。「ブラジルはパパヤンキーばかりで、ママヤンキーはいないの?」と、私が冗談を言うと、「僕がパパヤンキーだから、ママヤンキーは君だよ」と笑っていた。 | ||||
2012年6月8日(金) | ||||
今日も相変わらずの雨。昨日の午後から徐々に気温が下がり始めたため、とうとう夕方、ガスストーブをつけた。電気ストーブとの違いをはっきりと感じる。今朝の最低気温は8度。少し雨がパラついていたけれど、朝食前のモビとのお散歩を強行。お散歩から戻りガレージ前の水場でモビの泥だらけになった足やお腹を洗うと、モビは水の冷たさと寒さでブルブルと震え、私の手はかじかんだ。家に戻って、早速ガスストーブをつけて一息ついた。寒さ対策のためにガスストーブをつけたとは言っても、たかが小さなガスストーブ1台では家中がポカポカと暖かくなるわけではないので、エドソンはフリースのジャケットを着て、お気に入りの毛糸の帽子まで出してきて被って仕事をしていた。
雨続きのお天気なので、毎日、窓の結露を拭き、シャワーを使った後は、壁の水分も拭いて、なるべく家の中の湿気を取り除くようにはしているのだけれど、朝になるとまた窓には結露ができている。でも幸い、下のガレージと違い、あちこちからカビが生えてくるようなことはないので助かっている。唯一、シャワールームはどうしても湿気がこもりがちなので、天井にうっすらとカビが生えて黒ずんで来ている。何度も天井の拭き掃除をして黒ずみを取り除く努力はしているのだけれど、またしばらくすると戻って来てしまい困っている。 | ||||
2012年6月9日(土) | ||||
毎週金曜日に日本語のレッスンに来るライラは、少々寒くても半袖のTシャツ1枚だったりと、元気だけれど、さすがに昨日は短いトレンチコートのようなものを着て、手には指先のない毛糸の手袋をはめてやって来た。昨日、レッスンの中で「ここはひろしまです」という文章が出てきた際、去年ボトゥカトゥで開催された「ヒロシマ原爆展」を見に行ったと言う話しになり、「ひろしま」はカタカナで「ヒロシマ」と書いてあったけれど、どうして?と聞いてきた。「Good question!」それはたぶん、「No more Hiroshimas.」というような英語のスローガンが、そのまま「ノーモアヒロシマ」と使われるようになったりして、つまり英語からの借用だから、「ひろしま」ではなく「ヒロシマ」というふうにカタカナを使っているのだと思うと説明すると、「ふ~ん・・・」とちょっと不思議そうな顔をしていた。原爆展はおそらく学校から社会見学のような形で行ったのだろうけれど、彼女は好んで教育テレビの番組をよく見ているようで、先週は日本特集の番組をやっていて、桜がきれいだったと言っていた。 次の写真は、ライラのノートの1ページ。彼女はひらがなとカタカナを上手に書くので、ノートの写真を撮らせてもらった。この写真のページは去年、彼女がボトゥカトゥの日本語の学校に行っていた頃のものなので、まだちょっとたどたどしいけれど、現在のものはもっとしっかりきれいに書いている。ただ、鉛筆の色が薄いため、最近のページはうまく写らなかったので、濃い鉛筆で書かれた昔のページを撮らせてもらった。
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2012年6月10日(日) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2012年5月26日付けの日系社会ニュース「大耳小耳」からの転載。南大河州というのは、ブラジル最南部のヒオ・グランジ・ド・スーウ州のこと。いつだったか最近、武田薬品がアメリカの製薬会社を買収したというニュースを読んだ覚えがあるけれど、ブラジルにも進出していたことをこのニュースで知った。頑張ってますねえ・・・ブラジルはバイオテクノロジーの部門を発展させるにはいい選択かもしれないと思う。 『日本の製薬メーカー最大手「武田薬品工業」(大阪市)が、南大河州の中堅製薬会社「Multilab」を200億円で買収することで合意したと25日に発表した。武田薬品は「武田ブラジル」として既に伯国に進出し、消化促進剤、鎮痛剤、抗生物質等を販売している。この買収で伯国内の医薬品売上高の上位10社に入るといい、「Multilab」の役員は「武田グループの一員になることでより多くの患者さんに製品を届けられる」とコメント。これを機に、伯医薬品市場での日本企業の存在感が高まる?』 | ||||
2012年6月11日(月) | ||||
昨日のお昼は、ライラとシディの家で、シディ手作りのアラビア料理をご馳走になった。本当は3~4週間くらい前に一度招待してくれていたのだけれど、直前にボトゥカトゥに住むシディのお母さんが体調を崩して入院したため、急遽取りやめになり、今回仕切り直しとなった。1週間続いた悪天候がようやく好転し、昨日は太陽が顔を出し、寒さが少し緩んだので、彼女たちの借家のベランダは陽が当たり気持ち良かった。 シディが作ってくれたのは、写真の左から順番に、クスクスのような材料を使ったサラダ。レタスも乗っている。ビーフンのような麺が混ざったご飯。そして、ランショネッチで「コシニャ(ブラジル判鶏肉コロッケ)」と同様によく見かける定番の牛挽き肉の「キビ」。但し、ランチョネッチのキビは小さなラグビーボールのような形に丸めたものを油で揚げてあるのだけれど、シディのキビはキャセロールに平らに入れてオーブンで焼いてあるので、ちょっとミートローフのような感じで、あっさりしたものだった。半分には刻んだオリーブが、もう半分にはレーズンが混ざっていた。そして、生のキビ(つまり生の牛挽き肉料理)。どれもとてもおいしかった。
デザートは、リコッタチーズの上に、ご飯に混ざっていたのと同じビーフンのような麺をカリカリにローストしてカラメルを混ぜたものを乗せて、冷蔵庫で冷やした感じのものだった。リコッタチーズにはくるみなどが混ざっていたように思う。このデザートも甘過ぎずおいしかった。このビーフンのような麺は、ビーフンではなくアラビア料理の食材なのだそうだ。金曜日にボトゥカトゥまでわざわざ買いに行って来たということだった。
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2012年6月12日(火) | ||||
今日は、ジア・ドス・ナモラードス(Dia dos Namorados=恋人たちの日)。と言っても、特別なことをするつもりのない私はすっかり忘れていた。予定通り朝モビを大学病院に連れて行った後、パオン・ジ・アスーカーで買い物をして、レジで支払いをしていると、後ろに並んだ男の人が赤いバラが1本ずつ入った透明な長方形のブラスチックケースを3つ持っていた。その時は「へえ~バラがケースに入ってる・・・」と思っただけだったのだけれど、その次に用事を済ませに行った所で側を通った何かの宣伝カーが、ジア・ドス・ナモラードスのセールの宣伝をしていたのを聞いて、「ああ、そうか、だからあの人バラを買っていたのか」と遅まきながら気がついた。
今日、モビは大学病院で血液検査をすると聞いていたのだけれど、それはなく、直接外科に行って、主任のドトー・レオナードの診察を受けて、一応抗ガン剤治療はこれで完了とし、しばらく様子を見て、3ヶ月後に再度受診して検査を受けることになった。ガンが完治したわけではないのかもしれないけれど、今回の治療がひとまず終わり、まずは良かった。 | ||||
2012年6月13日(水) | ||||
私たちが夕食の後、ブラウニーなどのデザートを食べていると、モビも私たちが食べているものを欲しがるので、モビにはお料理でベーコンを使った際に切り落とした固い皮の部分などをデザートとしてあげたりしていたのだけれど、ひとくちかふたくちで飲み込むようにペロリと食べてしまうので、最近は、歯のクリーニングにもなる骨の形をした固いクッキーのようなものを食べさせるようになった。これだと食べ終わるまでかなり時間がかかり、満足感が違うようだ。ちなみにここでは日本にあるような薄切りのベーコンは珍しく、だいたい500~600グラムくらいの塊のベーコンを買ってきて、自分で切って使っている。次の写真は、その骨の形をした固いクッキーのようなもの。
最近、モビに「待て」を教えたら、大好きな食べ物を前に、私たちが「はい、どうぞ」と言って許可するまで、待つことができるようになった。次の写真は、デザートの骨クッキーを前に許可が出るまで私を見つめて我慢強く待っているモビ。
この骨クッキーはかなり固いので、モビは両手(というか両前足)を使って、骨クッキーを支えながら上手に食べる。
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2012年6月14日(木) | ||||
この日曜日と月曜日は午前中は太陽が顔を出しても、午後から何度も雨が降るというお天気で、月曜日など次の写真のように、日差しがあるのにザーザーと雨が降る変なお天気だった。
火曜日は何とか1日雨は降らなかったものの、夕方からすごい霧が出てきて、水曜日の朝起きると、ベランダやベランダの椅子が雨でびっしょり濡れたようになっていた。朝一番のモビとのお散歩も霧雨の中を歩いているような感じで、眼鏡が濡れ、モビは何度も体をパタパタさせて水気を払っていた。そして午後からようやくお天気が回復して、少し太陽が顔を出してくれたので、窓やドアを開けて空気を入れ替えた。夕方、太陽が雲に隠れ、暑くなく、寒くないちょうどいいお天気だったので、エドソンとモビと私の3人でうちの外にお散歩に行き、ドナ・ベティのファゼンダのエリゼウの所まで行って戻ってきたら、エドソンの万歩計は約7800歩をカウントしていた。最近エドソンは万歩計を下げて、ここの生活で日々どのくらい歩いているか調べたところ、昼間は仕事でコンピュータの前にずっと座っているので、時々、敷地内のお散歩に出るだけでは2000~3000歩くらいしか歩いていないことがわかり、なるべく歩く努力をしようと思ったようだ。毎日うちの外に出てお散歩をすれば歩数は簡単に1万歩になるけれど、さて、毎日1時間以上のお散歩ができるかどうか・・・?私たちが家に戻り、しばらくしてレッスンにやってきたエリゼウは、彼が育てているカラを持ってきてくれた。我が家で今年収穫したカラは栄養が悪いのか、とても小さいのに、彼のカラはちゃんと育って普通サイズ。何が違うのかなあ・・・?
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2012年6月15日(金) | ||||
今週は火曜日から今日までの4日間、雨は降っていないのだけれど、朝晩深い霧が出て、お昼前後にならないと霧が晴れない日々が続いている。今朝も深い霧の中をモビとお散歩。木々も草花もみんな霧で濡れている。次の写真は、桜の側のセドリーニョ。これが氷だったら霧氷だけれど、ここは気温が氷点下になることはないので、この水滴が凍ることはない。それに最近ひところの寒さが和らぎ、最低気温は一桁台を脱し、11~2度、最高気温は20度前後で、太陽が顔を出しさえすれば、暖かく気持ちがいい。
今日お昼頃、エーマーニ(Hermani、ちなみに彼の名前はエーナーニだと思っていたら、正しくは、エーマーニだということがわかった)から電話があり、明日、カロウ(Carol)と結婚すると連絡があった。「えっ???」10年も一緒に暮らしていて子どもも数人いるのに、正式に結婚していなかったの?カロウはエーマーニの2人目の奥さんだということは知っていたけれど、彼らは結婚しているものとばかり思っていた。それで明日の午後7時からある彼らの自宅でのお祝いのパーティーに呼んでくれたのだけれど、とても急な話なので結婚祝いをどうしよう?日本と違い現金というわけにはいかないから、何かカロウのためにプレゼントを調達しなければいけない。でも、パーディーニョの店で見つかるかなあ・・・? | ||||
2012年6月16日(土) | ||||
ニッケイ新聞 の2012年5月26日付け記事から、『国家事業救った8人の侍=知られざる戦後移民秘話』と題する7回の連載が始まり、今日すべての記事が自由に読めるようになったので、ここに紹介しようと思う。こういう事実を知ると、個々の日本人はやはりすごいと思うし、同じ日本人として誇りに思う。 一方、 先日インターネットのYahooニュースで、民主党の小沢一郎氏の奥さんが昨年秋、支援者に送った手紙というのが「週刊文春」に掲載されたという記事を読んだ。それによると、奥さんの手紙は『昨年3月の東日本大震災後の小沢元代表の言動について触れ、「このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」と書いている』とあった。ブラジルに移民して来た市井の人たちの気高さと、その真逆のような日本の政治家に関する記事を見て、なんだかなあ・・・と思った。以下は、ニッケイ新聞記事のカバーページ。リンクは一番最後に。
『30年前の1982年、イタイプーダムは静かに貯水湖へ水を湛えはじめた。以来、世界最大の名をほしいままにしてきたブラジルが誇る巨大建造物に、戦後移民の〃8人のサムライ〃が重要な役割を果たしていたことは、『ブラジル日本移民80年史』や『戦後移住の50年』にすら書かれておらず、事実上、南米産業開発青年隊(以下、青年隊)の内部でしか知られていなかった。ところが、有名なノンフィクション作家の山根一眞が『メタルカラー列伝 日本力』(小学館、07年、以下『列伝』)でこの話を紹介し、日本では有名になった。それでいてコロニアでは知られていない状態は良くないと考え、さっそくその時のメンバー、ミナス州都ベロ・オリゾンテでダム建設を中心に土木コンサルタント業を営む青年隊の荒木昭次郎と、ゴイアス州アナポリス在住のダム建設コンサルタントの袋崎雄一に話を聞いた。(敬称略、深沢正雪記者) この連載記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2012年6月17日(日) | ||||
昨日は忙しい1日だった。エドソンは朝6時に起きて、手伝いのジョゼを迎えに行ったのだけれど、何故か彼が待ち合わせの場所に現れなかったため、7時前にひとりで戻り、シャワーを浴びて朝食を済ませてから、8時にお隣のウィリアムや金曜日の夜からウィリアムのところに来ているアマチュア無線仲間と一緒に、バウルにあるサンパウロ州立大学(UNESP)バウル校に出かけて行った。以前、バウルで気象観測用の風船に無線装置を取り付けて、信号を送受信するという実験を一緒にしたバウル校の気象観測エンジニア(この人もアマチュア無線愛好家)の人が主催するイベントで、プレゼンテーションを頼まれたのだそうだ。一方、私は朝から珍しく霧も出ておらず、いいお天気だったので、私たちの衣類の洗濯、モビの毛布の洗濯、車の中の掃除、ガレージの掃除、普段ジョゼやエディたちに使ってもらっているガレージ横のトイレの掃除、午後からは我が家の掃除、イザベラのレッスン、モビのお散歩などなど、好天を最大限に利用して働いた。そして、6時過ぎにエドソンが帰宅してから、シャワーを浴びて着替えをして、7時前にエーナーニの家に出かけて行った。もちろんモビも連れて。 先日、エーナーニの名前はエーマーニだったと書いたけれど、エドソンが本人に確認すると、アマチュア無線の登録名はタイプミスか何かでエーマーニと間違って記載されてしまっているけれど、本当はやはりエーナーニ(Hernani)が正しいのだとわかった。ややこしい。さて、ブラジルではパーティーと言えば、やはり、定番のシュハスコ。エーナーニの家では少数の家族や友人がすでに集まり、男性たちはシュハスコのかまどの前でビール片手にお肉を焼きながらおしゃべりをしており、女性たちは台所でご飯を炊いたり、ビナグレッチを大きな器に移し替えたりと、カロウを手伝いながらおしゃべりしていた。次の写真は、ベランダ奥のシュハスコのかまどの前の男性陣。
カロウに「今日、教会で結婚式をしたの?」と聞くと、「教会じゃなくて、公証人役場で午前11時にサインしたのよ」という返事だった。エーナーニは普段着だったけれど、カロウは私がいつも行く美容室のエディナに髪をきれいにセットしてもらい、きれいなドレスを着ていたので、「Ta linda!(きれいね)」というと、とてもうれしそうにしていた。次の写真は、ダイニングルームでウェディングケーキを前に4人で撮ってもらったもの。ウェディングケーキの上に乗っているカップルの人形はエーナーニが買って来たのだけれど、女性の髪が金髪だったので、カロウが「これは私じゃなくて、前の奥さんじゃないの」と言って、髪をマジックで黒く塗り直したんだと言って笑っていたのがおかしかった。
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2012年6月18日(月) | ||||
今、こちらは柿の季節。日系の人たちが作っている富有柿は、パーディーニョのスーパーでは見かけないけれど、ボトゥカトゥの大きなスーパーのパオン・ジ・アスーカーや、日系のウエノやドナ・マリナの店に行けば手に入ることがある。特に、ドナ・マリナは日系食料品店というよりも、メインは八百屋なので、野菜や果物が豊富で、しかも最近、店を改装して前より少し広くなり、きれいになったので、たまに行くようになった。先週、モビを大学病院に連れていった後、2~3ヶ所で用事を済ませて帰る際、ドナ・マリナの店にも寄ってエドソンが果物をいろいろ買って来てくれた。写真の右のカゴにあるのは富有柿とハニーデュー・メロン。左のカゴにあるのは上から時計回りにマンゴー、パパイア、バナナ、オレンジ、リンゴ。このうち、パパイアとオレンジ以外は、すべてドナ・マリナの店で買ったもの。たくさんあるように見えるけれど、朝食で食べるだけでなく、バナナやリンゴはデザートのケーキやパイなどを作る際に使うので、あっという間になくなってしまう。それで週に1度エドソンがパーディーニョのスーパーに行ってくれる日は、必ず何か果物を買って来てもらうようにしている。
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2012年6月1 9日(火) | ||||
日本のスーパーは、多種多様で新鮮な野菜が毎日山積みになって販売され、他の商品も常に補給されて品物を切らしているということはまずないけれど、ここでは、サンパウロの中央市場から週に一度くらいしか品物を仕入れないパーディーニョのスーパーはもちろん、ボトゥカトゥの全国チェーンの大きなスーパーのパオン・ジ・アスーカーですら、曜日によって、野菜や果物の棚がスカスカで、その他の商品も切らしていることがよくある。そして、いつもすべての種類の野菜があるわけではなく、ブロッコリー、カリフラワー、セロリなどはないことの方が多い。めったに見かけることのないグリーンアスパラガスが、最近、パオン・ジ・アスーカーに数週間続けて出ていて、珍しいので何回か買って楽しんだ。今が旬なのだろうか?でも、ペルーからの輸入と書いてあり、ブラジル産ではなかった。日本で見かけるものよりも太いけれど、ゆで上がりは硬くなく、とてもおいしかった。 以前、外資系のカルフールなどの大型スーパーが日本で生き残れなかったのは、日本人消費者の眼は厳しく、週に何度も買い物に行き、新鮮な旬の食材を好んで求めるという日本人の独特な買い物スタイルにうまく合わせることができなかったからという記事を読んだことがあるけれど、なるほどと思った。パーディーニョのスーパーだけでなく、パオン・ジ・アスーカーですら、古くなってしおれたような野菜をそのまま売っていることもあるのを見ると、日本のスーパーのよりどりみどりの新鮮な野菜がなつかしくなる。次の写真は、昨日の朝の日の出前の朝焼け。 朝焼けはきれいだったけれど、日の出からしばらくしてから太陽は曇の後ろに隠れてしまい、昨日は1日曇天。そして、今日は1日、雨、雨、雨・・・
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2012年6月20日(水) | ||||
今日も雨。サンパウロ州の半分くらいを被う大きな雨雲がじっと動かず居座り続けている。北からの風と南からの風が私たちの上でおしくらまんじゅうをしているため、身動きせず居座っている。やれやれ、ため息が出る。そして、今朝、この低迷する気分にさらに追い討ちをかけるような訃報が入った。うちのご近所にあるオテル・ファゼンダ、アグアス・ダ・セハのオーナーのマーセロが亡くなったという。ちょっと変わったガンでここ2年近く病気療養中だったのだけれど、昨年の8月にロータリークラブの夕食会がアグアス・ダ・セハであった際は、少し体調がいいからと、ボトゥカトゥから駆けつけていた。それが私たちが最後に会ったマーセロだった。この辺では珍しいインテリで、おしゃべり好きな楽しい人だった。奥さんのアンジェラはずいぶん気落ちしているだろうなあ・・・ご冥福をこころからお祈りします。 先週木曜日の午後、思い立って万歩計をつけて、夜寝るまでの半日の歩数をカウントしてみたら、5100歩余りだった。それで金曜日は朝から1日中万歩計をつけてみた。午前中は3700歩余り、午後からは4000歩余りで、合計8000歩近くになった。普通に家事をしたり、モビとのお散歩に行ったりしているだけの生活で、思ったよりも歩数があったことにちょっとうれしい驚き。もうちょっとコンピュータの前に座っている時間を減らしたり、庭仕事をしたりすれば、すぐに1万歩を越えそうだ。エドソンに数値を見せたら、「どこにも行かず、家にいてゴソゴソしているだけで、どうしてそんなに歩数が上がるの?」と、自分の歩数の少なさと比較して驚いていた。モビとのお散歩がなかったら、きっとここまで数字は伸びなかったと思うので、モビさま、さま。でも、昨日、今日のような悪天候の日には、モビのお散歩ができない上、私も家の中で掃除も洗濯もせず、コンピュータの前でじっとしていることが多いので、極端に歩数は減ると思う。よく家を建てる際、主婦の家事動線を効率よく短くするフロアプランという話を聞いたりするけれど、ひょっとして、無駄に動線が長いというのもまんざら悪いことでもないんじゃないかと思えてきた。多分私の歩数が結構多かったのも、台所の片付けを終えてからシャワールームの掃除に行って、「ああ、そうそう雑巾忘れた」と、台所に取りに戻ったり、台所のタオルを新しいものと交換しようと、納戸にタオルを取りに行くつもりが寝室に行ってしまい、はたと、「あれ?何しに来たんだっけ?」と考えて、「そうそう、タオルを取りに来たんだ」と寝室から納戸に行ったりと、無駄が多いからかもしれない。無駄イコール悪ではないんだ・・・人生には無駄なことも必要なのかも・・・ | ||||
2012年6月21日(木) | ||||
去年のこの時期は、アップルケーキを何度か作って、旬のリンゴを楽しんだのだけれど、今年はブラジルに来て初めて、久しぶりにアップルパイを作ってみた。そうしたら何故かエドソンがすっかりハマってしまい、何度もリクエストするため、もう3回も作った。でも、私の作るのは手抜きのアメリカンアップルパイなので、手間はそれほどかからない。パイ生地を耐熱皿にしいて、残った縁をちょっとリンゴのフィリングに被せるだけで、リンゴも煮たりせず、生のままという簡単アメリカンアップルパイ。パイのてっぺんに生地が乗っていないので、エドソンは「またフタをするの忘れてる」と毎回冗談を言いながら、うれしそうに食べてくれる。次の写真は、焼きたての手抜きアメリカンアップルパイ。
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2012年6月22日(金) | ||||
ニッケイ新聞2012年6月12日付けの日系社会ニュースに、「通訳なし、孤軍奮闘の18歳=サッカーの西村竜馬選手=マウアー4部リーグ所属=グローボTVも取材」という記事があった。こういう若い人が日本を飛び出して、ひとりブラジルで頑張っているのは偉いなあと思った。この記事のサイトは、こちらへ。 そして、この若者を取材した記者が、同日付けの「コラム オーリャ!」に以下のような文章を書いている。
『「今年にかけている」。そう記者に語ったサッカーの西村竜馬選手には、18歳とは思えない落ち着きがあった。 | ||||
2012年6月23日(土) | ||||
2012年6月15日発行の「楽書倶楽部第14号」に、私の寄稿した2本目の文章が掲載されたので、少し長いけれど、以下に転載してみる。この文章の中のCPFというのは、納税者番号のことで、アメリカのソーシャル・セキュリティー・ナンバーのようなもの。
ブラジルで暮らし始めて3年あまりの月日が過ぎた。現在はサンパウロ州のパーディーニョという人口5千人ほどの田舎町の農村地帯で暮らしている。ブラジル到着後、パーディーニョに引っ越して来るまでは、夫の実家があるリオデジャネイロ州のパラカンビという町で4ヶ月ほど暮らした。このパラカンビでの4ヶ月は、少々過激な「ブラジル入門集中特別講座」を受講しているような日々だった。 まず、虫除けのクリームを塗るなどの対策をしていても、毎日虫刺されに悩まされた。夫の家族は誰も刺されたりしないのに、私だけが虫に刺されるため、四六時中痒くて手足が傷だらけになった。義母には「日本人の血はよほどおいしいのね」と笑われ、どうしてブラジルの家には網戸というものがないのだろうと、恨めしく思った。 また、ブラジルでは物事が日本のように効率よく、スムーズに運ぶことを期待してはいけないということを学んだ。とにかくあらゆる手続きにとても時間がかかった。例えば、CPFを取得するのに1ヶ月、自動車の運転免許を切り替えるのに4ヶ月、外国人登録証を受け取るまでに約1年といった具合だ。 そして、これら諸手続きのための正確な情報を得ることが非常に困難で、人々の約束はリップサービスが多く、たとえビジネス上のことでも、ほぼ間違いなく守られることがないということも思い知らされた。ブラジル生まれでブラジル育ちの夫も、20年近く海外で生活していたせいか、それまで多国籍・多文化の人々と仕事をする中で身につけた常識がまったく通用せず、コロコロと変わる人々の言動に振り回され、ほとほと疲れ果てるほどだった。 一番大変だったのは、自動車の運転免許の切り替え。日本の自動車免許をアメリカのものに切り替える際も、アメリカのものを日本の免許に切り替える際も、必要なものが明確で、何も問題なく短期間ですんなり行ったという経験があるため、ブラジルでも同様に行くものと思っていたら、さにあらず。4ヶ月間すったもんだすることになった。 パラカンビに到着早々、リオデジャネイロに出向き、日本総領事館で在留届けを提出し、日本の運転免許証をブラジルのものに切り替えるために必要なもののリストをもらった。そして、同じく総領事館で教えてもらった公証翻訳人のところへ行って、夫婦ふたりの日本の運転免許証のポルトガル語への翻訳を依頼した。連邦警察での外国人登録手続きも含め、ここまではスムーズに行った。 1週間後、免許証のポルトガル語訳を始めとする必要書類を揃えてリオのデトランに行くと、私のパスポートのコピーやCPFがないからと、受け付けてもらえなかった。ブラジル人の夫が免許切り替えに必要なものと、日本人の私が必要なものとは少し違っており、総領事館でもらった情報はブラジル人の場合のものだけだったということがわかった。そして、夫の方も銀行での申請料金の支払いが済んでいないと言って、門前払いをくらってしまった。 その頃リオやその周辺の町では、バスや汽車のストライキが続発していた。リオに行くにも、その途中のノヴァ・イグアスという町にある連邦警察や、日本で言うところの国税庁の出先機関に行くにも、高速バスやローカルバスを利用するしかない私たちは、しばらく身動きが取れなかった。そして、ようやくストが終わりノヴァ・イグアスの国税庁に行くと、今度はコンピュータのシステムがダウンしており、後日出直しとなった。再度の挑戦で窓口に行き、3~4時間待たされてようやく申請手続きを完了。CPFは1ヶ月後に届くと言われたときは、気が遠くなる思いだった。 私のCPFが届くまでに1ヶ月もかかることがわかり、バラバラと何度もリオに出向くのは非効率でも、とにかく夫の免許切り替え手続きを先に進めることにした。リオのデトランでの申請を無事終えた翌日、パラカンビにあるデトランの出先機関で心理テストや視力検査を受けるための予約をして、1週間後にそれらをクリア。後は実技試験だけで、順調に進むと思ったのもつかの間、パラカンビの自動車学校を通して行わなければならない運転の実技試験を受けるまでに、それから3ヶ月かかってしまった。 これにはいろいろな悪条件が重なっていた。まず、私たちがブラジルに来る少し前に運転免許の取得や、更新のためのシステムが変更になったばかりという状況があった。そして、パラカンビの自動車学校では、外国の免許をブラジルの免許に切り替えるなどというケースを扱ったことがなく、どうしたら良いかわからないようだった。新規の免許取得ではないので、私たちには自動車学校での普通のコースを受講する必要はなく、実技試験だけ受ければ良かった。ただ、それでは自動車学校側にほとんどメリットがないため難色を示しているのかもしれないと考え、ブラジルでの運転に慣れるために2人で何回か運転の講習を受けるからとマネージャー氏と交渉して、とにかく何とか運転の練習を始めた。 実際、道路が隆起したロンバダでは、必ずギアをセカンドに落として通過しなければ減点になるとか、日本ではめったにすることのない縦列駐車など、実技試験でひっかかるであろうと思われる点を集中的に練習させてもらうことができたのは、とても良かった。そして、ポルトガル語がまだよくわからない私にとっては、インストラクターの指示を聞いて理解する練習になったこともプラスだった。しかし、夫が何度しつこく確認しても、マネージャー氏がいつまで経っても実技試験の登録をしてくれない日々が続いた。 そうこうするうちに私のCPFが届き、デトランでの申請を終えると、次なる関門が立ちはだかった。心理テストの説明がポルトガル語では、私にはお手上げ。説明を英語でするか、それが無理なら、夫が通訳として入ることを認めてもらえないかと、パラカンビのデトランの出先機関で何度も交渉を試みた。そして、その回答を得るまでにまた数週間の時間を要した。結局、心理テストの説明はポルトガル語のみ。夫の通訳も認められなかった。ただし、他の受験者と一緒ではなく、私ひとりのために時間を割いて、ゆっくり説明してくれるという。幸い、夫がすでに心理テストを受けていたため、試験にはどのような課題があり、それらはどのようにするものかを記憶をたどって説明してくれたので、当日試験官の説明が理解できなくても何とか課題をこなすことができ、私も無事パスすることができた。ふたり同時にデトランで手続きできなかったのは、不幸中の幸いという結果になった。 この時点で、ふたりの実技試験の予約を7月5日で入れたが、デトランからの確認がまだ取れないというのが自動車学校のマネージャー氏の説明だった。それで、夫はデトランに電話をして問い合わせを試みるものの、長時間、様々な部署をたらい回しにされたあげく、結局、実技試験の予約はオンラインでできることだから、デトランからの確認の連絡を受け取る必要などないことだけはわかった。さらに、知り合いを通じて隣町の自動車学校の関係者に試験日を問い合わせてもらったところ、7月5日という試験日は存在せず、6月の試験の受付はすでに終わっており、次の試験は1ヶ月以上先の7月22日だということがわかった。マネージャー氏がどうしてそんな嘘をついたのか、まったく理解できなかった。 さらに悪いことに、試験日の確認を頼んだだけのこの隣町の自動車学校の関係者が、こちらの許可なく勝手に夫の試験登録をしてしまったため、パラカンビの自動車学校から正しい登録ができなくなり、それを取り消してもらうために2日間駆けずり回るはめになった。パラカンビの自動車学校のマネージャー氏からは、デトランに問い合わせをしたことや、他の自動車学校から登録手続きが行われたことをなじる脅迫的な電話を受け、こんな調子で果たして無事に免許の切り替えなどできるのだろうか?と、夜も眠れないほど不安になった。それから数日して、7月22日で実技試験の登録がされたことを確認できたときは、心の底から安堵した。 それまで私たちを避けるようにしていた自動車学校のマネージャー氏は、実技試験の直前から人が変わったように対応が親切になり、試験の3日前の日曜日には、わざわざリオの実技試験が行われる場所の下見に私たちを連れて行ってくれた。免許の更新のための実技試験は、ノヴァ・イグアスの試験場ではなく、リオまで行かなければならず、マネージャー氏にとっても初めてのことだったので、デトランから入手したコース地図を頼りに、1時間半ほど練習させてくれた。 そして、試験当日もマネージャー氏が同行してくれ、朝4時半にパラカンビを出発し、7時の開始を待った。7時半にようやく手続きが開始され、9時過ぎにまず夫がコースを走り、問題なく合格。また列の最後尾に並び直して、11時過ぎに私の番が来てコースを走り、合格。「ああ~やれやれ・・・良かったあ・・・」と、ほっと胸を撫で下ろした。 マネージャー氏も大喜びで、帰路パラカンビに戻る途中、高速を下りる少し手前にあるレストランで、お祝いだと言って、昼食を振る舞ってくれたのには少々驚いた。今回のことは彼にとってもすべて初めてのことばかりで、どう対応して良いかわからなかったため、のらりくらりと時間稼ぎをするしかなかったのだろうかと考えるに至り、素直にありがたくご馳走になった。 パラカンビでの4ヶ月間は、この運転免許の切り替えのドタバタと同時平行して、日本ではまず考えられないような様々なトラブルに次々と見舞われた。その渦中にいる間は、イライラしたり、落ち込んだりして、まるで「これがブラジルの現実だ!それでもここで生きて行くつもりか?」と、挑戦を受けているようだった。 けれどこの4ヶ月の「集中講座」のお陰で、ブラジルで暮らして行くための覚悟のようなものが、少しできたのかもしれない。その後の生活はずっと楽になり、ブラジルの人々の考え方やペースに戸惑うことがなくなったわけではないけれど、以前よりも鷹揚に構えていられるようになった。それと同時に、親切で信頼できる人々に出会うと、心の底からその幸運を喜び、物事がスムーズに行った時は、それを当然とは考えず、深く感謝する気持ちが強くなった。「人生万事塞翁が馬」どんな経験も決して無駄ではないのだと、あらためて実感している。 | ||||
2012年6月24日(日) | ||||
金曜日の午後、ようやく雨が止み、土曜日は太陽が顔を出してくれた。先週来なかったジョゼが昨日は仕事に来てくれ、草刈りをした後、11本の苗木を植えてくれたので、植林総数は623本になった。1日お天気が良かったので、洗濯に掃除にとバタバタした。そして、夕方、日の入りの際は雲で太陽が沈むところは見られなかったけれど、その後、きれいな夕焼けが見られた。しばらく「きれいだなあ」と見惚れていたので、「おう、そうそう」と写真を撮ろうと思った時は、赤い部分がだいぶ小さくなってしまっていた。
先週に引き続き、昨日もエーナーニとカロウが夕食に呼んでくれたので行って来た。今回はカロウが彼らの家の畑で採れた立派なマンジォッカで、マンジォッカと牛肉のシチューのような料理を作ってくれた。とてもおいしかった。ふたりは私たちを夕食に呼んでくれる時はいつも、「キョウコは~~を食べたことがある?」と必ず聞き、私の知らないブラジル料理に腕をふるってくれる。私においしいブラジル料理を食べさせることを楽しんでいるようなふしがある。おいしいものは何でも大好きなので、感謝。感謝。次の写真は、彼らの買ったばかりのダイニングテーブルを囲む初めての夕食会だというので、記念にパチリ。エドソンの隣の男の子は、エーナーニの長男の15歳になるネト(Neto=grandson、孫)。彼の本当の名前はお父さんと同じエーナーニで、彼のおじいさんの名前もエーナーニだったので、そのおじいさんから見て孫息子なので、ニックネームがネトになったらしい。彼の下に妹ひとりと、弟2人がいるのだけれど、彼らはマックス・フェファー文化センターであったフェスタ・ジュニーナに行っていていなかった。ネトの向かいにいるのはエーナーニの親戚の人で、カステロブランコ上のホドサーブのひとつの「Graal(グラアウ)」で、パン職人をしているということだった。そして、エーナーニとカロウ。
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2012年6月25日(月) | ||||
先日紹介した果物は、バナナを除いてほぼすべて食べてしまったので、金曜日にいつものようにエドソンにスーパーに買い物に行ってもらった際、必要な食料品の他に果物をみつくろって買ってきてもらった。そうしたら、あまり選択の余地がなかったらしく、マンゴーを2つ、アボカドを1つ、そして、バナナを1房買ってきてくれた。でもバナナはまだ5~6本残っていたので、大量のバナナを前に、これを何とか消費しようとデザートを作ることにした。でも、いつもバナナブレッドやバナナケーキばかりでは代わり映えがしないので、手元にある材料で、これまで作ったことのないものに挑戦することにした。まずスポンジケーキを作り、次にカスタードクリームを作って、スポンジケーキの上に塗り、その上にバナナを乗せてオーブンで焼くだけの、バナナのクリームグラタンを作ってみた。牛乳の代わりに豆乳を使い、卵黄をひとつケチったので、出来栄えはまあまあかな?でも、エドソンはおいしいと言って、喜んで食べてくれた。
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2012年6月26日(火) | ||||
今朝、朝食の後でエドソンが「今日は何の日?」と聞いてきた。「??今日は・・・6月26日?何の日だっけ?」「ええっ~忘れたの!?20周年でしょう!」米国マサチューセッツ州ケンブリッジのMITの近くにあったサテライフ(SATELLIFE)のオフィスで、ふたりが初めて出会ってからちょうど20年。「えっ?7月じゃなかった?」「僕がボストンに着いたのは6月25日、君が着いたのは2日後の27日でしょ?」「あれ?6月だった?7月だと思ってた。」何とズボラな私・・・どうやら25日と27日の間をとって、エドソンの中では26日が記念日になっているようだった。細かいことはどうあれ、そうか、あれから丸20年が経ったんだ・・・長かったような短かったような・・・山あり谷あり、いろいろあったけれど、よく一緒にがんばってきましたね。お互いを褒めてやりましょう。これからもよろしく。 | ||||
2012年6月27日(水) | ||||
今日、私にとっての一番大きなニュースは、ザ・ピーナッツの伊藤エミさんが亡くなったというニュース。71歳という年齢を見て驚いた。でも、私が子どもの頃にすでに大人だった人なのだから、その子どもだった私がいいおばさんになっている今、当然と言えば当然なんだと納得。あの頃は、「シャボン玉ホリデー」や「ザ・ヒットパレード」をいつも楽しみに見ていた。テーマ音楽は今でも口ずさめるし、ザ・ピーナッツの歌は、題名を見ただけでメロディーが浮かぶ。「シャボン玉ホリデー」の中で、ほぼ毎回クレージーキャッツのハナ肇さんを相手に、「おとっつあん、おかゆができたわよ」とやる寸劇は今でも思い出す。何だかあっけらかんと、バカバカしく、楽しかったなあ。特別、彼女達のファンだったわけではないけれど、あの頃のテレビ番組はそれくらいどっぷりと私の生活の一部になっていたんだなとあらためて思った。時代は確実に移り変わっているんだ・・・ | ||||
2012年6月28日(木) | ||||
今日はエドソンの仕事関係の来訪者があった。ここから北東に約2時間ほど行ったアメリカーナという町のアマチュア無線仲間のジョアオンという人。プロジェクトのことでエドソンと話し合うために先週の水曜日に訪ねて来る予定が、急な仕事で木曜日に変更になり、木曜日はまた別な急用でキャンセルとなり、今日ようやく三度目の正直でやって来た。お昼の食事を用意して待っていると、お昼前に到着。しばらくエドソンと家の周りを見て回ったり、居間のソファーでおしゃべりした後で、3人で食事。昼食が終わってから、エドソンのワークスペースで話し合っているところをパチリ。昨日、今日とお天気がよく、風がなく穏やかなので、窓やドアを開け放していても寒くないのだけれど、この人、半袖シャツに半ズボンでやって来た。昼間はこれでもいいけれど、陽が沈んで、夕方帰る際には、さすがに寒いと言いながら帰って行った。
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2012年6月29日(金) | ||||
サクラ咲く!!2年前の8月、イビウーナの中村さんご夫妻とサンパウロ州奥地の弓場農場を訪問する際、30センチくらいの桜の苗木を持ってきてくださったので、弓場から戻ってすぐに下の三角地帯に植えた。あれからそろそろ2年近くになる。最初はキレイな葉をつけて、ぐんぐん育っていたのが、この1年くらい強風のせいなのか?栄養不足なのか?成長が止まったように、何だかひょろひょろしてきて、葉も以前のようにゆたかにつけなくなっていたので、大丈夫かなあと心配していた。そうしたら、今年6月に入って何だか花の芽のようなものをつけ始めたので、注意して毎日観察していたら、それがつぼみになり、徐々にそのつぼみが膨らみ始め、今日とうとう花開いた。次の写真は、ほんの少し花を咲かせ始めたこのひょろひょろの桜の木。この桜はヒマラヤ桜のはずなんだけれど、このひょろひょろ感は、お隣のウィリアムのところや、ご近所のドナ・ベティのところにある沖縄桜のよう。やはり中村さんからいただいて、とても小さな芽から育てて、庭に植えた桜は、植えてからまだ1年なので、葉が茂っており、花はまだまだ。唯一この2年ものの桜1本だけが、花を咲かせた。でも、とにかく花をつけてくれてうれしい!
次の写真は、順番に、昨日の午後撮った写真と、今日の午後撮った写真
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2012年6月30日(土) | ||||
モビは日当たりのいい場所が好き。この季節、朝食の後はエドソンのワークスペースの東側の窓から入る日差しでできる日だまりが好き。午後は居間の北側の窓際と、同じく北側のドアの前とを行ったり来たり。このドアを開けていると網戸越しに外を眺めていることもよくある。このドアの前には敷物を置いて、重石の代わりに小さなぬいぐるみを2つ置いているのだけれど、このぬいぐるみを枕にして寝ていることもしばしば。昨日、モビが例によってドアのところで寝っ転がって、ぬいぐるみが敷物からはみ出していたので、エドソンがいたずらでそのぬいぐるみをモビの体の上に乗せておもしろがっていた。モビもモビで、ぬいぐるみが上に乗っていても嫌がらず、そのままの体勢でしっぽを振っているので写真に撮った。
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