Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2012年2月1日(水) | ||||
昨日の夕方、エドソンが仕事から戻り、彼のワークスペースでごそごそしている間、夕飯にはまだ早い時間なので、私はリビングの自分のワークスペースでメールなどをチェックしていると、モビが台所のベッドから居間のドアの前の敷物の上に移動し、デレーっと横になり、犬のぬいぐるみを枕に、うたた寝を始めた。これは何とものどかな我が家の典型的な午後のひととき。モビは、抗ガン剤、投薬治療が始まったので、その影響でまた少し太り出したような気がする。
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2012年2月2日(木) | ||||
昨夕のエリゼウとのプライベートレッスンから英語のクラスを再開するつもりだったのだけれど、なかなか時差ボケから抜け出せず、午後は必ず少し横になるという状態が続いているため、急遽キャンセルさせてもらった。でも、これまでレッスンの後でいつも一緒に夕飯を食べてもらっているので、昨日も夕飯だけは一緒に食べてもらった。彼は独り者なので、自炊して食べることには慣れているだろうけれど、やはりいつもひとりというのは侘しいし、エドソンが彼とのおしゃべりをとても楽しみにしていることもあって、週に一度我が家に来たついでに一緒に夕飯を食べてもらっている。私の留守中もエドソンが夕飯を作って同様に過ごしたと言っていた。彼は正式な学校教育は小学校の5年生までしか受けていないそうなのだけれど、向学心がとても強く、独学でいろいろなことを学んでいて、小学校5年までしか正規教育を受けていないとは思えないまともなポルトガル語を話し、そこらの大学出の人たちよりもとても考え方がしっかりしている、地に足のついたインテリだというのが、エドソンのエリゼウに対する評価。こういう人が身近にいてくれることをうれしく思う。 我が家のダイニングルームの南側の窓辺に、いくつも観葉植物を置いていて、朝食の仕度をしながら毎朝それらに水をやるのが私の仕事なのだけれど、私の留守中はエドソンがそれをやってくれていたので、みな元気にしていた。そして、戻ったら、とうがらしに小さな白い花が4つ咲いていた。「へえ~・・・とうがらしの花って白いのかあ・・・?」
次の写真は、窓辺の観葉植物。左から、昨年8月にドナ・ベティにもらったオーナメント用の竹。その右はクリスマス前にクリスマスツリーと一緒に買ったポインセチア。その右は名前はわからないけれど、ガレージでの仮住まいを始めた頃に買ったもので、この家に移動する前頃から元気がなくなり、葉の色が少し薄くなってきている。その右はとうがらし。そして、お隣で居候生活をしていた頃から育てている我が家最古参のジャブチカバの盆栽。窓から見える景色はすべてお隣の敷地。
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2012年2月3日(金) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2012年1月18日付け「コラム 樹海」からの転載。 『在東京ブラジル総領事館で語学留学ビザの取得条件が厳しくなり、交流目的でその査証を取得していた者に悪影響が出そうだとの報道があった。日伯間の将来を考えたとき、若者が気軽に取得できる1~2年のビザがあることはとても重要だ▼交流目的で使えるビザがないから、しかたなく語学留学のそれを使う若者が多く出るのが現状だ。交流を試みようとする方向性自体はとても良いだけに、それを尻すぼみにするのはもったいない。ぜひ政治家や外務省関係者には日伯間のワーキング・ホリデー査証を実現してほしい▼このビザの特徴は、相手国で決まった期間働くことができ、生活しながら総合的な海外体験ができることだ。国際的な視野と経験を持った青年を育成することは、閉塞感が強い今の日本社会に風穴を空ける意味でも意義深い。日本語がある程度通じる日系社会は手が届きやすい存在であり、そこを通してブラジル社会に接してもらうことで深い互恵関係を築けるだろう。アジアや欧米に偏りがちな若者の海外長期滞在先に、南米という新しい選択肢を加えることになる▼すでに日本はカナダ、韓国、仏、独、英など11カ国とこの協定を結んでいる。 中でもオーストラリアには毎年1万人以上の若者がこのビザを使って渡航している。伯国にもそれぐらいの若者が来ることになれば、どれだけ将来の友好に役立つか分からない▼サッカーW杯、リオ五輪など日本の若い人のブラジルへの関心が高まるこの機会を逃がす手はない。日系団体や日系企業は素晴らしい交流の受け皿になれるはずだ。日系代表団体が音頭をとって両国政府に要請したらどうだろうか。(深)』 今回、日本からロンドン経由でブラジルに戻るフライトで、お隣の席が若い日本人女性だったので、いろいろおしゃべりをした。何と彼女、一年前からパラグアイの学校で教えていて、夏休みで2ヶ月ほど日本に一時帰国し、これから新学期の始まるパラグアイに戻るところだと言う。日系人が作った幼稚園から高校まである学校で、日本語を教えているのだそうだ。日系人が作った学校とはいっても、生徒の半数以上は地元のパラグアイ人だと言っていた。日本で国語教師の資格を持っているけれど、JICAから派遣されたわけではなく、個人で見つけた仕事なのだそうだ。海外ではよくこういう勇気のある日本人の若い女性を見かけることがあるけれど、彼女も明るく元気なお嬢さんだった。ロンドンからサンパウロまでも席は離れたけれど、同じフライトだったので、ロンドンの空港でも乗り継ぎ待ちの時間を一緒に過ごすことができ、待ち時間が短く感じられた。彼女はサンパウロで、さらにパラグアイ行きの便に乗り継ぐという長旅で、すごいエネルギーだなあと、感心してしまった。こういう人がどんどん増えると日本もまんざらでもないなと思うのだけれど、若い日本人男性にこういう冒険心のある人が少なく、内向きだということがちょっと気になる。 | ||||
2012年2月4日(土) | ||||
今回、モビのガン治療に使う抗ガン剤は2種類ある。これらは人間にも使う薬で、かなり高額。1種類は前回と同じく血管に注射する液体の薬なので、大学病院で血液検査をしてから、その検査結果により、注射をするという治療をしている。もう1種類は錠剤なので、決められた日に家で投与している。でも、この錠剤、冷蔵庫で常時保冷しなければならず、劇薬らしく、肌に触れてはいけないということで、扱う際、医療用の使い捨てのラッテックスの手袋をはめなくてはならない、なかなか大変な代物。この他、毎日、2種類の液体の薬を朝晩2回と、錠剤を朝1回投与している。液体の薬は2種類を混ぜて、小さな注射器でモビの口に入れて飲ませるのだけれど、モビはこの薬があまり好きではない。飲ませている時に嫌がって抗うということはなく、おとなしく飲んでくれるのだけれど、ご飯の前に薬の準備ができて、さあ飲ませようと思うと、台所に置いたベッドから雲隠れして、呼んでも戻ってこないので、こちらから行って連れ戻さなければならないというささやかな抵抗をたまに示すことがある。次の写真は、エドソンが起きがけのパジャマのまま、モビにこの液体の薬を飲ませている今朝の様子。
この薬を飲み終わると、スライスハムに錠剤を包んで食べさせ、最後に、食事をさせている。一応、嫌な物を我慢した後に、ご褒美という段取りだ。大学病院で足の血管に注射してもらう際も、治療台の上に乗ると怖がって体をブルブル震るわせるのだけれど、決して暴れたりはせず、おとなしく治療を受けてくれるので、モビは本当に賢い、聞き分けのいい子なので助かっている。
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2012年2月5日(日) | ||||
今日から3日間、エドソンは仕事で家にいない。火曜日の夜、帰宅予定。ブラジルに来て初めて一人ぼっちで数日過ごすことになった。モビがいてくれるので寂しくはないけれど、何となく心許ない感じは否めない。サンタカタリナ州の州都のフロリアナポリスで、セミナーか何かがあるらしく、パウロとハファエウ、そしてイタぺヴァ支店の人と合わせて4人で出かけて行った。かなりの距離を移動するにも関わらず、往復は飛行機ではなく、パウロの車で移動するため、今朝は5時半起きで、6時前には家を出て行った。疲れるだろうなあ・・・ クリスマスにパラカンビからやって来たエドソンのお母さんが、パラカンビのファームにある月桂樹(Laurel)の枝を2本ほどおみやげに持ってきてくれた。それで葉を切り落として、ザルに入れて台所の朝日が当たるキャビネットの上に置いておいたら、いい感じに乾燥できた。市販の月桂樹と違って、完全に乾燥しても緑の色が残っていて、カールしている。去年、ガレージでの仮住まいをしている時に、マウリシオから月桂樹の枝を貰い、同じように葉を切り落としてザルに入れて、昼間は外で天日に干し、夜は家の中に入れるようにしたのだけれど、多雨だったせいか、通気の悪いガレージの湿度が高かったせいか、結局、きれいに乾燥せず、カビが生えて来てしまい、捨てるハメになったのだけれど、今回は台所に放っておくだけで、特別なことは何もしなかったのにきれいに乾燥でき、感激。使い終わって取っておいたマヨネーズのプラスチックのボトルに入れて保存することにした。これで当分、お料理用に月桂樹の葉を買う必要がなくなった。
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2012年2月6日(月) | ||||
今日は、大学病院でモビの2回目の抗ガン剤治療があるため、6時起床。準備をして7時に出発するつもりが、朝焼けや日の出がきれいだったので、写真を撮ったりしていたら、10分ほど出遅れてしまった。次の写真は、午前6時半を少し過ぎて、日の出前に東の空が赤く染まり始めた様子。そして、その次の写真は、7時少し前に太陽が上り始めた様子。
今日はエドソンがいないので、私ひとりでモビを大学病院に連れて行かなければならない。でもひとりではちょっと心許ないので、先週エドソンがドナ・クレウザに頼んでくれ、一緒に行ってもらうことになった。ドナ・クレウザと、まだ新学期が始まらないため家にいるマテウスを迎えに行き、7時半頃パーディーニョの町を出る。途中ちょっと飛ばしたので、何とか予定通り8時ちょうどに大学病院に到着。受付はたくさんの患者犬で溢れていた。番号札を取って順番を待ち、受付を済ませ、前回の支払いを済ませて、外科に移動。外科には患者犬が1匹しか待っておらず、ラッキー!と思ったのも束の間、モビのカルテファイルをインターンの人に渡すと、その女性が早口に長々と私に何かを説明するのだけれど、何を言っているのかさっぱりわからない。横からドナ・クレウザが「もう少しゆっくり話してあげて」と口をはさんだけれど、そういう問題でもないような・・・。でも再度ゆっくり目に話してもらったところ、要するに、ドクターやレジデントの人たちが今朝はみな会議か何かでいないので、治療は午後からしかできないらしいということだけは何となくわかった。でも、血液検査のための採血はでき、それを検査に回すことはできるらしいので、まずはそれをしてもらった。午後の診療は2時からなので、5時間半もそこで待つよりも、一旦パーディーニョに戻って、午後から出直すことにする。 午後は2時ぎりぎりに行くと、駐車スペースの確保が難しく、ほぼ着いた順番で診察が始まるので、1時頃に着くようにパーディーニョの町を出た。1時はやはりまだ、外科の建物は鍵がかかっていたけれど、駐車スペースはたくさんあり、日陰に車を止めることができた。外科の建物の前にある木陰のベンチで、他の患者犬を連れて来ている人たちと診療開始を待つ。次の写真は、ベンチに腰かけて待つドナ・クレウザとマテウスとモビ。以前マテウスはじっとしていることができず、おしゃべりで、落ち着きのない子だったけれど、学校に通い始め、集団生活をするようになったせいか、前よりも落ち着いて、大人のいうことを比較的よく聞くようになった。体も大きくなったけれど、精神的にも成長しているのがわかる。
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2012年2月7日(火) | ||||
次の写真は、昨日、治療台の上で抗ガン剤治療のための点滴を受けているモビ。前足に針が刺さっている間、私は点滴がうまく落ちて行くように、モビの足を支え、ドナ・クレウザはずっとモビの体を撫でてくれていた。
午後3時半を回って、ようやく大学病院を後にし、ドナ・クレウザとマテウスを家に送り届け、帰宅すると4時半近くになっていた。やれやれ、今日もやはり1日仕事になってしまった。今日のクラスをキャンセルしておいて良かった。車をガレージに入れ、まず、モビとモビのベッドを車から下ろして、家の中に入れ、もうひとつ車の中に残っていた荷物を取りに行き、ガレージを出た瞬間、頭の左側に何かが落ちてきたと同時に「チクリ」と痛みを感じた。その場所を少し離れて上を見ると、この辺でよく見かける体長3センチ近い大きな蜂が1匹飛んでいた。「ヒェー・・・!ハチに刺されたんだ・・・痛い!」急いで家に戻り、アルコールで消毒して冷やし、虫さされ用の薬をつけようと思い、台所に行くと、モビがダイニングルームの隅っこでおしっこをしていた。「ああ~・・・」 荷物を取って戻ったら外での用便に連れ出そうと思っていたのだけれど、緊急事態発生でそれどころではなく、失敗、失敗。薬を後回しにして、ダイニングルームの床を雑巾で拭く。「ああ~やれやれ・・・薬、薬」と思っているところにエドソンから電話がかかる。モビの治療のことと私に降りかかったアクシデントについて状況を説明する。蜂に刺されたところが張れてきたり、めまいがしてきたりしたら、誰かに頼んで私を病院に連れて行ってもらわないといけないから、すぐに電話してと言われて、電話を切る。頭に薬をつけて、とにかくベッドに横になる。「トホホ・・・」 ズキン、ズキンという痛みと同時に、針で刺すような痛みがしばらく続いたけれど、2時間余り横になっていたら少し痛みが和らいだ。ベッドから這い出して、モビと私の晩ご飯を作り、まずモビの投薬と食事を済ませる。それが終わり、私の食事をしようとしたら、エドソンから再度電話。少し痛みが和らいだと伝えると、安心したようだった。 昨日は、何だかいろいろあった1日だったけれど、夜寝る前に時差12時間のグアム在住の友人と予定通り、スカイプで1時間余り心置きなく話すことができたので、終わり良ければ、すべて良しということにしようと心に決めて、シャワーを浴びて、床につく。「ああ・・・疲れた~」でも、エドソンのラップ・トップを使ってスカイプで話すことができるようになり、感謝。感謝。 今朝は、ほぼ痛みが取れ、いつも通りに洗濯やシャワールームの掃除などの家事をこなすことができた。「やれやれ・・・エドソン早く帰ってきてぇ~」 | ||||
2012年2月8日(水) | ||||
昨日、午後6時前にエドソンが無事帰宅。お互い元気な顔を見て、ほっと一安心。フロリアナポリスはとてもきれいな町でシーフードがおいしかったと、エドソンはすっかり気に入った様子。いつか連れていってね。 先日、グアム在住の友人が、グアムは観光だけが産業のような島なので、最近は目減りしていて、あまりお金を使わない若い日本人観光客に代わり、中国人やロシア人のお金持ちの観光客を当てにしているのだと言っていた。グアムはアメリカ領土なのに、15日間の短期の観光であれば、中国人もロシア人もビザなしでグアムに入れるようになったのだとか。時代は変わったなあと思った。それと同様、ブラジル人のアメリカビザ取得が簡単になったという記事(以下)を、ニッケイ新聞で見かけた。9.11の同時多発テロ以降、ブラジル人に対しては、以前必要のなかった、トランジットでアメリカ国内の空港で飛行機を乗り換えるだけでもビザの取得を義務付けていたのに、近頃では裕福になったブラジル人が大勢アメリカに観光で押し寄せて、お金を使ってくれることを期待している。時代の流れと言うことか? ニッケイ新聞2012年1月21日付け「ブラジル国内ニュース」、「米国ビザ取得が簡単に=更新のための面接は免除=大枚はたく伯人は大歓迎」という記事のサイトは、こちらへ。 次の写真は、うちの西隣のコーヒー園の北の端の景色。手前のとうもろこし畑はうちの敷地で、その向こうに細長いコーヒー園入り口部分があり、入り口ゲート(右)からこのコーヒー園の家(左)まで続く道沿いに、濃いピンク色のような紫色のような花を咲かせている木が規則正しく植わっている。その向こうは、また別の持ち主の放牧場。
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2012年2月9日(木) | ||||
ニッケイ新聞2012年1月24日付け「日系社会ニュース」に、「大日方伝と競演したスイス移民=健在のベレナさんに聞く映画『南米の曠野に叫ぶ』=家族総出で撮影に協力」というおもしろい記事があった。この記事のサイトは、こちらへ。 戦後の混乱したブラジル日系社会であった「勝ち負け抗争」については詳細な事実は別として、あったという事は良く知られていているけれど、もうひとつの「円売り、円買い事件」は、公式にはなかったことになっているらしい。でも、いろいろな資料を読んでいると、本当はあったのではないかと、私には思える。先の戦争では、実際にはなかったことが、あったことになってしまっていたり、あったことが、なかったことになってしまっていて、歴史の真実を知ることの難しさを感じる。また、この記事に関連して、同じくニッケイ新聞2012年1月24日付け日系社会ニュース「大耳小耳」に、次のような雑記もあった。 『恋人役をやったベレナさんが日本語で挨拶してきたので、記者を案内してくれた新井勝男さんが「じゃあ、日本語で取材してもいいですか?」と冗談をいうと、「日本語だけはダメね。ドイツ語かフランス語、英語、ポ語ならいいわ」とドイツ語でペラペラとしゃべり始めたのでビックリ。特に語学の達人という訳ではなく、欧州の大国に囲まれて多言語が当たり前のスイスでは、一般人がそれぐらい話すのは普通のこととか。来伯4年で伯人役ができるのも納得? 大日方伝演じる主人公「酒田」に対する悪役は川平。細川さんの著書には、「背後には日系銀行重役、元移民会社官吏、そしてサンペードロ新聞の社長が控えている。この巨悪トリオが、名前や風体から当時の観客にはあまりにはっきりと実在の人物が特定できたため、監督に対して脅迫があったり撮影中に妨害があったほか、上映にも圧力がかけられた」(同137頁)とある。〃幻〃にしておくのは惜しい映画だ。』 2月に入ってから気温が上昇し、家の中にいても毎日とても暑い状態が続いている。そのためモビはベッドや敷物の上ではなく、ひんやり冷たいタイルの床に直接ゴロンと横になっていることが多くなった。そして普通、戸外を散歩する時は別として、口で呼吸したりしないのに、時々口を開けてハーハー言っている。その顔が何だか笑っているように見えるから、可愛いと言って、エドソンがモビの写真を撮った。
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2012年2月10日(金) | ||||
外ベランダの横に作ったバラやベイジョの花壇に、エドソンが種を蒔いた7本のキアボ(オクラ)が元気に育ち、葉っぱは虫に食われてはいるものの、綺麗な花をたくさん咲かせて、キアボの実がなるようになった。次の写真は、ベイジョやバラよりも背丈が伸びて、元気に成長し、いくつも花を咲かせているキアボ。
次の写真は、キアボの花の接写。派手ではないけれど、ちょっと芙蓉の花のようで綺麗だと思う。
家の南側の三角地帯に種を蒔いたキアボは、あまり生育状態がよくなく、たいした収穫がないまま終わってしまったけれど、ずっと後に種を蒔いたこの花壇のキアボは元気に育っている。それで、このところ毎日コンスタントに2~3本のキアボの収穫があるため、さっと茹でて夕食の際にいただいている。モビもこのキアボが大好きで、私たちが食べるときは、彼にも少しお裾分け。
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2012年2月11日(土) | ||||
この辺にはいろいろな種類の蜂がいるけれど、次の写真の3種類の蜂が一番一般的で、窓を開けていると必ずといっていいほど家の中に入ってくる。左から、普通のミツバチ。真ん中はうちの軒下に繰り返し巣を作ろうとする蜂。そして右端が私を刺したのと同じ種類のマリンボンドと呼ばれる蜂。大きさをわかってもらうために、3匹を並べて物差しを横に置いてみた。グアムには通称「土(ド)バチ」と呼ばれる蜂がいて、土で巣を作り、しかも30分くらいであっと言う間に巣を作ってしまうと、友人が言っていたけれど、エドソンの話だと、このマリンボンドも巣は土で作り、やはり短時間で完成させてしまうらしいので、同じような種類なのかもしれない。
うちの軒下に何度も巣を作ろうとするこの真ん中の蜂、つい最近、外ベランダの軒下天井の照明を取り付けるための穴に、小さな巣を作っているのを発見。ここはまだ電気の配線が終わっておらず、電球が取り付けられていないので、蜂に占拠されてしまったようだ。でも、軒下に巣を作る際は、すごい数の蜂が集団で巣作りをし、大きな巣を作るのだけれど、この穴は直径10センチくらいなので、中にできているのはとても小さな巣で、数匹の蜂しか見当たらない。
ここに屋根裏での配線が完了し、電球が取り付けられると、次のような感じになる。これは玄関前のベランダの天井にある照明を写したもの。
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2012年2月12日(日) | ||||
一昨日、2週間ぶりに少し雨が降ったので、気温が下がり、それまで10日ほど続いていた暑い日々が一段落した。昨日も今日も午前中は深い霧が出て、厚い雲に被われて、いつ雨が降り出してもおかしくないような空模様。それで昨日は3時間ほどエドソンとふたりで庭の草取り作業に勤しんだ。アメンドインやラベンダーなどの間に生えている草を1本、1本抜く作業は、土が雨で湿っているお陰で、比較的容易くできたけれど、土が湿っている分、軍手とその下の手が泥だらけになってしまった。次の写真は、手前が草を抜いた後の状態で、向こう側はまだ草ボウボウの状態。
次の写真は、外ベランダのバラとベイジョの花壇の端に、花を咲かせたひまわり。背が低く、花も小さく、あまりひまわりらしくないけれど、種を蒔いたものがちゃんと成長して、花を咲かせてくれると、何ともうれしい。
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2012年2月13日(月) | ||||
以下は、それぞれニッケイ新聞2012年1月13日付けと、20日付けの「コラム 樹海」からの転載。 『愛読者から「非常に参考になる欄」との声を聞く本紙「ニッケイ法律相談」の今週号で、「加害者は自分の身を守るためにウソをつくことが許されています。不利な証拠は隠しても罪にならないのです」との説明を読んで、目からウロコの心境だった。ウソをつくことは加害者の〃権利〃なのだ▼思い出されるのは、2000年前後に静岡県浜松市付近で連発した、殺人事件や交通事故を起こして帰伯逃亡したブラジル人の件だ。一人だけ事実関係を認めたが、残りの容疑者は全員容疑を否定した。あの時、犠牲者家族は「本当のことを言って」「自ら日本に戻って謝罪して欲しい」とことあるごとに訴え、日本のメディアもそのまま繰り返し、その報に接した日本人一般は「ブラジル人は容疑を認めない、ウソつき」という印象だけが広がった▼当地の事件を見ていても、容疑を認める犯人は実に少ない。「加害者にはウソをつく権利がある」としても、現行犯で逮捕されてすら容疑を否認する場合があるから驚く。因果関係としては、そのような法思想の前提には「性悪説」という精神文化があるのだろう。人間は生まれたときから性悪な存在であるとの思想だ。特にカ トリックにはその雰囲気を感じる。日本人的には、それでいいのかと根本的な疑問も感じるが、それが文化であれば善し悪しの問題ではない▼日本の日本人には性悪説という文化自体がよく認識されていないので、なぜ「ウソをつくのか」まで踏み込んだ理解に行き着かないことが多い。「話せば分かる」という〃美しい世界〃が日本のドラマには溢れているが、現実の西洋文明では通用しない。(深)』 『13日付け本欄で《「加害者は自分の身を守るためにウソをつくことが許されています。不利な証拠は隠しても罪にならないのです」との説明を読んで、目からウロコの心境だった》と書いた。原文となった弁護士の記事には「ただし、証人は嘘をつくことは許されていません。ばれると刑務所行きです」ともあった▼それに対し、ある読者から「被告のウソが許されるハズがない。証人は法廷でウソをつくと有罪だとある。証人と被告人のウソが同罪にはならない、というところに一般的な見解から疑問を感じました」とのメールをもらい、別の専門家(大学法学部教授)にも見解を尋ねてみた▼やはり、「ブラジル法の下では被告は、何を言っても良いことになっていて、嘘をついたからと言って、特別な処罰を受けるわけではありません。但し、嘘をついたことが発覚した場合、自らの無実を立証することが困難となり、求刑通りの判決が下されることになります」と説明する。さらに「被告が刑を宣告される前に発言を訂正、または撤回すれば、処罰の対象とはならなくなります」とも▼分かりやすく言えば「バレなければいい」という考え方と言えそうだ。自分が有利になるようなウソをつきとおし、いざバレそうになったら判決前に謝れば許される――ということらしい▼件の専門家は「真実のみを述べることを宣誓させる日本やアメリカの場合とまったく異なります。アメリカでは特にそうですが、法廷で嘘をつくことは重罪です」と興味深い比較をした。つまり、伯国の法と日米などとは根本的に違うわけだ。その間に横たわる溝は長いため息が出るほど深い。(深)』 | ||||
2012年2月14日(火) | ||||
ニッケイ新聞2012年1月31日付け「コラム 樹海」と、2月13日付けの中村さんの随筆を読んで、「大丈夫か?日本?」と思ったので、少し長くなるけれど、以下に、その両方ともを紹介しようと思う。まず、「コラム 樹海」から。 『日本は狭く、鉄鉱や原油・天然ガスなどの資源もない。こうした工業資源を安く輸入し、精密で頑丈な製品に加工 し世界の国々に売り捌き利益を得て暮らすという「輸出大国」が、国の基本だったし、経済界も命がけのセールス活動を繰り広げなんとか生きてきた。ところが、この「輸出大国」の看板が大地に叩きつけられ31年ぶりの貿易赤字になってしまった。これはもう「情ない」で済む話ではない▼歴史的な円高や大震災の影響が大きいし、欧州危機もあったけれども、やはり高い法人税や電気料などの問題も忘れてはいけない。このような厳しい客観情勢を直視した経済界は、すでに生産工場を海外に移している。三菱自動車は、あの世界戦略車「ミラージュ」をすべてタイで生産することを決めたし、日産はブラジルにも輸出している 「マーチ」をやはりタイで製造し、日本にも逆輸入なのが現実なのである▼韓国や台湾に押され気味の電気業界にも「海外シフトはやむをえない」の考え方が広がる一方だし、この産業空洞化には国を挙げて取り組むしかあるまい。昨年の暮れに経済産業省は、「15年には貿易赤字に転落する」と指摘していたが、それが4年も早くなり11年度になってしまったのだから事は深刻である。それでも海外投資などの利子や配当などの所得収支はまだ黒字だが、市場では10年代後 半には赤字になるの見通しが強い▼もし、この市場の見方が正確であり、経常収支が赤字になると、これはもう1千兆円とかの国の借金どころの話はない。ある財界人は「日本経済は転換点にある」と語るが、この指摘は耳に痛い。(遯)』 次に、イビウーナの中村さんの今週のウィークリーノートから。
国債は安全な投資だと思い込んでいた人々は、過去を振返り、国家の名の下に行なわれた数々の徳政令(モラトリアム)を思い出したに違いない。Sovereign(国)のリスクがにわかに注目を浴び出した。支配者(Sovereign)が近代国家の形をとる(500年前)以前の800年前から支配者は金融危機を繰返してきた。その歴史は、改めて指摘されるまでもない。欧米では常識だが、戦後の徳政令で塗炭の苦しみを味わった筈の日本国民は、国家は破綻するものだという常識を何処かに忘れて来てしまったようだ。ギリシャの国債/GDP比率が1.8倍であるのに対して日本のそれは2.2倍で、世界一危ない状況にあり、「待ったなし」どころか、既に破綻しているのではないか、と危惧されるが、又しても日本別格論だ。未だに「日本国債の9割強が国内で消化され、国際経常収支が黒字だから、日本が破綻する心配はない」という日本国債の神話が罷り通っている。 私のような外国居住者は常に「国家とは何か」を意識する。ブラジルに住んで足掛40年、とても神国日本不滅論や日本国債神話とかを信じることは出来ない。ブラジルがモラトリアムを宣言した時、外国人や外国企業に止まらず、ブラジルの人も企業も多くが国外に脱出した。重い対外債務を抱えたブラジルに国際金融市場は冷たかった。外国に逃れたブラジル人(個人)の外国の隠し財産(外貨)はブラジルの対外債務額を上回る等と実しやかに囁き合ったが、市場は相手にしなかった。IMFの経済指導とモニタリングの下でしか事は運ばなくなった。国家の自主性は失われ、破綻したのだ。ギリシの現状を見よ、国民が騒ごうが、国会がどう考えようが、債権者の言うことを聞かねば事は運ばない。ギリシャがブラッセル・コンデショナリティーを受入れたと表明しても市場は折込済み、とシラッとした反応を示しただけである。国家破綻とは国の自主運営が許されなくなることだ。 日本脱出する人や企業が増えている。「日本円だけでなく複数の外貨に投資を分散せよ」と言う投資指南書も目につくようになった。国債の9割国内消化という世界の異例事態が何時まで続くか疑問、何れ日本も「破綻することあるべし」という前提で国家運営に当たる「普通の国」になる。「国が民を選ぶ時代」は疾うに過ぎ去り、既に「民が国を選ぶ時代」になったようだ。イビウナ、13/02/2012 中村 勉 | ||||
2012年2月15日(水) | ||||
我が家は西側に居間、玄関、台所、ダイニングルームがあり、来訪者や、私の英語のクラスの生徒さんたちが出入りするので、こちら側をパブリックスペースとし、私たちの寝室、来客用の寝室、シャワールーム、納戸がある東側はプライベートスペースというふうに一応区別している。この区別を来訪者にもそれとなく知らせる意味で、この2つのスペースの間に、天井から床までのカーテンを取り付けている。モビが台所に置いたベッドの中で寝ていたりすると、モビをそのまま動かさずに、私ひとりでプライベートスペースに行ってエドソンのワークスペースのコンピュータでメールをチェックしたりすることがある。しばらくして私が台所にいないことに気づくと、モビは大抵、私の足元までやって来るのだけれど、何故かときどき、カーテンの手前までやって来ても、私の側までは来ずに、その場で寝そべって、こちらを眺めているだけのこともある。すぐ側にいなくても、目の届くところにいれば満足なのかな?
最近よく耳にし、覚えたポルトガル語の表現が2つ。ひとつは、「コモ アシン?(Como assim?)」英語にすると、What do you mean?とか、How come?というような意味になる。つまり、「どういうこと?」「どうして?」など、相手に更なる説明を求める際に使われる。もうひとつは、「コモ エ キ エ?(Como é que é?)」 コメキエ?と言っているように聞こえる。これは日本語にすると、「何ですって?」と相手の言ったことに驚いて聞き返す際に使われる。英語ではWhat?とかWhat did you say?という表現になるだろうか?「オ ケ?(O que?=What?)」という言い方もあるのだけれど、これらは状況によって使い分けるらしい。Comoには、「Como vai?=How are you?または、How is it going?」「Ele tem um carro como nosso.=He has a car like ours.」「Como? A Senhora pode repetir?=Sorry? Could you say that again?」のように、いろいろな意味があるのだけれど、Whatという意味で使われるこれらの表現もよく耳にする。 | ||||
2012年2月16日(木) | ||||
ニッケイ新聞2012年2月1日付けの「コラム 樹海」に、とても貴重な情報サイトにリンクするアドレスがいくつか掲載されていたので、以下に転載することにした。 『現代はインターネット上でより多く、大きく扱われるかどうかが、そのテーマの重要性を示すといわれる。02年から現在までの約10年分の日系社会とブラジル関連の過去記事(www.nikkeyshimbun.com.br/backnumber/2012.html)が無料(直近10日間は有料購読者のみ)で閲覧検索できる弊紙サイトは一定の役割を果たしていると自負する▼しかし、08年に日本の国会図書館が作った「ブラジル移民の100年」サイト(www.ndl.go.jp/brasil/greetings.html) は百年間の歴史を一望できると常々感心している。笠戸丸以前から現代までが7章に簡潔にまとまっている▼本文も的確だし、各頁に掲載の写真や当時の文献が実に参考になる。なかなか見られない日本の史料もあれば、余り見たことない伯国側の史料もある。さすがに国会図書館だけあってよく調べている▼驚くべきことにサイトのポ語版(www.ndl.go.jp/brasil/pt/greetings.html) もしっかりある。本来はブラジル移民史料館がこのようなサイトを運営すべきだ。日本側がやってくれたことに心から感謝したい。このサイトは半永久的に残して欲しいし、できることなら頁を増やして欲しい▼式典関係は別にして、日本側でやってくれた最も有益な百周年記念事業の一つではないか。このサイトを通して、ブラジル移民のことを調べた日伯の学生は実に多いだろう。日系社会側でもネット対応を充実させる必要性は大分前から言われていたが、実際はポ語日系用語辞典「ニッケイペジア」(nikkeypedia.org.br)などが奮闘するのみだ。さらなるブラジル移民関連サイトの健闘を願う。(深)』 次の写真は、先日エドソンが試しに1つ収穫してきたうちのとうもろこし畑のとうもろこし。色が何だか白っぽいので、収穫にはまだちょっと早いのだろうと思う。でも、去年私たちが家の南側の三角地帯で育てたとうもろこしよりも綺麗にぎっしりと実が詰まっている。
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2012年2月17日(金) | ||||
ブラジルではクリスマスと元旦が過ぎると、次はひたすらカーニバルに向けてアクセルが踏まれる。テレビのコマーシャルなどは年が明けると、カーニバルの雰囲気を煽り出す。そして、2月に入ると、リオやサルバドールでカーニバルの前哨戦のような賑やかなお祭り騒ぎが始まる。そして、今年の本番は明日から。サンパウロでは確か今晩グルッポ・エスペシアウ(Grupo Especial)のパレードがスタートする。21日(火)までの4日間が一応カーニバルの期間なのだけれど、4連休というわけではなく、20日(月)は休日ではなく、21日(火)がお休みなのだそうだ。土日はみんな大騒ぎをするのだろうから、月曜日は疲れて仕事にならないのではないかと思う。でも、そこはそれブラジルのこと、仕事にならなくてもまあいいのだろう。 私たちが住んでいる田舎町のパーディーニョには、サンバスクールなどないので、地区ごとに分かれているのか、いくつかのグループがあって、パレードに参加する場合、どこかのグループに加わって、グループごとに決まった同じTシャツを着てパレードをする。そして、特別な会場などはないので、パレードは町の中心部の公道で行われる。でも、リオやサンパウロにはたくさんのサンバスクールが存在し、パレードはサンボドロモ(Sambodromo)と呼ばれるカーニバルのパレード専用の会場で行われる。このパレードに参加するためには、どこかのサンバスクールに参加しなければならない。次の写真は、サンパウロのサンボドロモ。両側に観客席があって、真ん中の通りでパレードが行われる。
![]() この会場が、夜になるとガラッと雰囲気が変わり、別世界になる。
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2012年2月18日(土) | ||||
ニッケイ新聞2012年2月4日付け「ブラジル国内ニュース」に、『在パラグアイの伯人に危機=7千余の土地なし農民大挙』という物騒なニュースが掲載されていた。 『伯国と国境をなすパラグアイのアウト・パラナ県サンタ・ローザ・デル・モンダイで、伯人農夫らが生命の危機に直面していると3日付エスタード紙が報じた。 フォス・ド・イグアスから約57キロの同地域では、ここ40年間に移住し、〃ブラジグアイオス〃と呼ばれる伯人農夫らが大豆栽培や牧畜にいそしんできた。 ところが、そこに少なくとも7千人の土地なし農民が押しかけ、伯人らを追い出そうとしているという。1日には警官200人が補強されたが、土地なし農民はサンタ・リタやニャクンダイでも増えており、緊張はますます高まっている。 同国では、国境から50キロ以内の土地を外国人に売却する事を禁じたため、25万7千ヘクタールの土地が接収される可能性が生じた。 同国に住む伯人は35万人で、国境から50キロ以内に住む5万人を始め、大半が農業に従事。土地なし農民達は、伯人農夫の所有地周辺にキャンプを張り、作物を荒らしたり家畜を殺したりしているが、警察は何もとがめず、むしろ支援している感もあるという。 ルゴ大統領は抗争事件発生を避けると約束したが、2日現在の警察力では土地なし農民の攻撃を防ぐには不充分で、伯人達は大量殺人の危機に直面しているという。』 同じく、ニッケイ新聞2012年2月4日付け「日系社会ニュース」には、『世界の邦字紙から=最近のパラグァイ事情=坂本邦雄』という記事があり、何故、土地なし農民が伯人農地や日系移住地への不法侵入や不法占拠をしようとしているのかが分かり易く説明してあった。 この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2012年2月19日(日) | ||||
昨日、まだ起きがけで、朝食の準備も始めていない午前7時過ぎに、エリゼウがうちの草刈り作業を手伝ってくれる男性をひとり連れてきて来てくれた。イズラエウ(Israel)という名前のこの男性は、普段はエリゼウが管理するドナ・ベティのファゼンダで仕事をしている人たちのひとりで、今日はカーニバルで本来の仕事がお休みなので、うちで仕事をしてくれるという。助かる~!
この人、仕事がとても早く、まず、エリゼウが持ってきてくれた竹の苗木6本を植えてくれ、去年のクリスマスにクリスマスツリーとして家の中に飾っていた木を三角地帯に植えてくれ、私たちの朝食が終わった頃には、すでに玄関先の外階段の向こう側でボウボウに生い茂っているブラキアーリアを取り除く作業をしてくれ、お昼までにすべてすっきり取り除いてくれていた。
彼のためにお昼の用意をする必要があるのかな?と思いエドソンに聞くと、ちゃんと昼食を持参して来ているということで、助かった。お昼の食事休憩をするまで、ほとんど休みなく作業をしているようだったので、「きつい作業だから休み休みやってもらっていいんだよ」とエドソンが声をかけると、こういう作業は毎日やっていて、慣れているから大丈夫という返事だったという。1~2時間草刈り機をかついで作業をすると、すぐ疲れてしまう自分とは大違いだと、エドソンはしきりに感心していた。 午後からは、入り口ゲートまでの道沿いの両側の草を切り倒してくれ、とてもすっきりした。特に、入り口ゲートの両サイドは草ボウボウで、まだ背丈の低いブーゲンビリアはもちろんのこと、リグストルンや桜の苗木も草で隠れるほどだったので、草が切り倒された後はそれらが顔を出し、「ちゃんとまだここにいますよ」と言っているようだった。
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2012年2月20日(月) | ||||
先週の木曜日、仕事から戻ったエドソンが、「今日、職場に10代の女の子が訪ねてきてね、あなたの奥さんは日本人だと聞いたのだけれど、奥さんに日本語を教えてもらえないかと言ってきたんだけど、どうする?」と言う。聞くと、最近ボトゥカトゥからパーディーニョに引っ越して来たばかりなのだけれど、ボトゥカトゥの語学学校で3ヶ月ほど日本語を勉強していたから、ひらがなとカタカナは読めるし、結構、本気で日本語を勉強したいと希望しているようだということだった。それで、土曜日の午前10時にお母さん同伴で会って、話しをすることにした。パーディーニョの町で待ち合わせをして、我が家に来てもらい4人で話しをした。 お母さんはレバノン系の家系でボトゥカトゥ出身。UNESP(サンパウロ州立大学)からスイスの大学に行き、博士課程を終了した人なので、ドイツ語と英語も話せる人だった。パーディーニョの高校で数学と物理を教える先生として、2週間前に赴任して来たばかりなのだそうだ。お父さんはドイツ系でサンパウロ在住。聞きはしなかったけれど、どうやら離婚して一緒には暮らしていないようだった。娘が両親が話すドイツ語や英語ではなく、日本語を勉強したいと言った時は、驚いたと言っていたけれど、マンガやアニメを通して日本語に興味を持ち、俄然勉強したいと思うようになったらしかった。パーディーニョに来てまだ2週間だというのに、日本語を教えてくれる人がいないかを、ちゃんと自分で情報収集して、エドソンの職場までやって来て交渉するなんて、何てしっかりした子なんだろう?いろいろ話し合った結果、今週の金曜日から週に1回レッスンをすることなった。降って沸いたような思わぬ転回で驚いているけれど、何だかおもしろくなってきた。日本語を教えるのは初めての試みになるけれど、楽しみが増えたように思う。日本で暮らしていた時に、エドソンが持っていた日本語の教科書などの教材を引越しの際に捨てずに持って来ておいてよかった。次の写真は、私の初めての日本語の生徒さんになる14歳のライラ(Laila)と、彼女のお母さんのマリア・アパレシーダ(Maria Aparecida)、通称シディー(Cidy)。
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2012年2月21日(火) | ||||
昨日はモビの3回目の抗ガン剤治療で、1日休みを取ったエドソンと大学病院に行ってきた。今日までカーニバルなので、世間はほぼ4連休。治療に来るように言われたものの、本当に診療しているのかな?と、恐る恐る出かけて行った。大学病院に到着すると、思った通り駐車場はガラガラで、診療している感じではなかったけれど、救急と、モビのような定期的に治療を受けなければいけない患者は受け入れる休日対応をしているということがわかった。8時少し前に着いた受付は、やはりガラガラで誰もいない。前回ドナ・クレウザと一緒に来た際は、8時前から来ていた人たちで座る場所などなく、立ったまま受付の順番を待ったのだけれど、えらい違いだ。今回は、私たちが受付を済ませたところに、針を誤飲したという犬を連れた人がやって来たくらいだった。
外科に行くと、カリナ先生とナターリアという名前の日系のインターンの人しかいなかった。私たちが一番乗りだったので、すぐに血液検査のための採血をしてもらった。モビは太っているので、首の血管が見つかりにくくなってきていて、昨日は採血するのに、右も左も首の血管がうまく見つからず、後ろ足の血管から採血したので、何度もあちこち針を刺されて、かわいそうにちょっと痛い思いをした。次の写真は、治療室前の廊下のベンチに腰かけて、治療に呼ばれるのを待っているモビと私をエドソンがパチリ。私たちが待っている2~3時間の間に、次々とやって来た猫3匹、犬3匹の診察・治療が行われた。そして、ようやく11時半近くになってモビの治療が始まり、12時過ぎには病院を出ることができ、今回はラッキーだった。
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2012年2月22日(水) | ||||
昨日は、カーニバルの最終日で休日だったので、午前中、洗濯物を干し終わった後、エドソンとふたりで庭仕事に勤しんだ。私は、ベランダと外階段の掃除をし、ヒメシマダケが植わっている辺りから、玄関前の外階段の側までアメンドインの緑の壁を作るべく、庭のアメンドインを50本くらい移植する作業をした(写真、左手前側)。エドソンはイズラエウに草を除去してもらった外階段の向こう側のでこぼこの土地をならして、植林をする準備をした後、草刈り機でイズラエウがやり残した草刈り作業をしてくれた。
3時間足らずの作業だったけれど、ふたりとも汗びっしょりになった。シャワーを浴びて、お昼を食べて、洗濯物を取り込んだ頃から、空模様が怪しくなり、雨が降り始めた。月曜日も大学病院を出た後、スーパーに寄って買い物をして、2時過ぎに帰宅したと思ったら、ザーっと雨が降り出し、短時間で一旦は止んだのだけれど、5時ころからまた激しい雨になり、ひょうまで降った。そして昨日も午後はまた何度も雨がぱらつき、夜、寝ている間にザーザーと降った。今朝は曇り空。でも、この連日の雨のお陰で気温が下がり、過ごし易くなった。 | ||||
2012年2月23日(木) | ||||
日本では英語の言葉を日本語に訳さず、そのままカタカナ表記して使っている場合が少なくないけれど、ブラジルでは英語の言葉がポルトガル語に訳されて使われている場合が結構ある。例えば、Super Homen(スーペー オーメン)。homenは男(man)のことなので、これはスーパーマンのこと。では、Homen Aranha(オーメン アラニャ)と言えば?aranhaは蜘蛛(spider)のことなので、蜘蛛男?そう、スパイダーマンのこと。では、cachorro-quente(カショホ ケンチ)はどうだろう?cachorroは犬(dog)のことで、quenteは熱い/暑い(hot)という意味。つまり、熱い犬で、 ホットドッグのこと。このcachorro-quente(カショホ ケンチ)という言葉を初めて聞いた時は、食べ物の名前なんだから、そこまで訳さなくてもいいのにと、ちょっと笑ってしまった。 次の写真は、玄関前の階段のところでじっとしている虫。最初は風で飛ばされてきた枯れ草か、枯れ枝かと思ったのだけれど、よく見ると、色は違うけれど、カマキリのような虫だった。この色は保護色なんだと思うけれど、この赤い色の階段のところにいたのでは、目立ってしまって、全然保護色になっていない。虫や動物たちは何故か、玄関横のベランダやこの階段が好きなようで、雨の降った後は大きなミミズが階段をはっていたり、夜は、大きなカエルがベランダに座っていたり、蜘蛛や蟻、その他の虫だけでなく、ご近所の犬までこのベランダにやって来てオシッコをしたりする。モビだってベランダや階段ではオシッコをしないのに・・・
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2012年2月24日(金) | ||||
ブラジルの銀行の出入り口は、日本と変わらず普通のガラスの扉で、そこを入るとまずATMで現金を引き出したりするスペースがあるのだけれど、その先の窓口業務をしている所に行く場合は、もうひとつ別のガラスの回転扉を通っていかなくてはならない。この回転扉は金属を探知すると動かないので、ショルダーバッグの中のカメラや携帯電話、お財布に小銭がたくさんある場合は、そのお財布を取り出して、小さな窓口ポケットに入れてから通過しないと、ドアがうまく回ってくれないという結構面倒くさい代物。しかもこの回転扉の内側にはいつも怖い顔をした警備員さんがこちらをにらんでいる。ショルダーバッグの中の物を出しても、回転扉がうまく回ってくれないこともあるので、扉を元の位置に戻してやり直すこともしばしば。常々不便なドアだなと思っていたら、ニッケイ新聞2012年2月10日付け「ブラジル国内ニュース」に、『銀行が回転扉の撤去を開始』という以下のような短い記事があった。 『イタウ銀行とブラデスコ銀行が、強盗事件回避のための回転扉を撤去し始めた。手術で使った金属や義足などによる入行拒否、心臓のペースメーカーを使っていた男性が警備員に射殺されるなど、裁判沙汰が増えたのが原因。1980~90年代は年1200件を超えた聖州での銀行強盗も昨年は251件だった。』 先週と今週、ほぼ毎日少しずつ庭の草取り作業をしている。ハイビスカスガーデンの足元に密生していたマーガレットを取り除いたので、ハイビスカスの足元がすっきりした。そして、庭を被っていたブラキアーリアなどの草が徐々に姿を消して行くと、体にはちょっと響くけれど、とても気持ちがいい。次の写真は、少しずつきれいになっている庭。
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2012年2月25日(土) | ||||
今週の水曜日は私の誕生日だった。エドソンも私も忘れずにちゃんと憶えていたのだけれど、特別なことは何もしなかった。エドソンが夕方仕事から帰宅する際、スーパーでホカンボーリ・ゴイアバーダ(Rocambole Goiabada)という名前の、グアバジャムのロールケーキを買って来てくれたのが、特別と言えば、特別という程度。しかもいつもあるデコレーションケーキがひとつもなかったからこのロールケーキになったというのだから、どこまで特別なんだかちょっと「??」でも、甘ったるくなく、おいしいロールケーキだった。それに、エドソンとモビと私の3人が、みな元気でいるのだから、私はそれだけで十分ハッピー。そうしたら、翌23日に、先月日本に一時帰国した際、いろいろ買い物をして、スーツケースに入りきらない物を、広島を出る前日にSALで発送したその小包が無事届き、うれしいバースデープレゼントになった。というのも、広島から小包を発送する際、郵便局の人が、「ブラジルは福島原発の事故以来、日本の食料品の輸入規制をしているから、ひょっとすると税関でひっかかって戻ってくるかもしれないけれど、いいですか?」と心配してくれていたので、届かないかもしれないなと、ほぼ諦めかけていたのだ。でも1ヶ月足らずで届いたのだから上等、上等。1週間で届くはずのEMSで送っても、届くまでに2~3週間かかったりするのだから、それに比べたら、SALで送った場合は料金は安く、ほとんど税関の検査が入らず、3週間前後で必ず届くので、EMSよりもよっぽど確かだと確信するようになった。 次の写真は、今日収穫したとうもろこし。最近、オクラと同様、時々とうもろこしを茹でて夕飯に出していたのだけれど、今日はまとめて収穫して、茹でて冷凍保存することにした。とうもろこしは皮をむいてみないと中の実の状態がわからないので、なかなか難しい。同じような条件のものを収穫してみても、虫に食われていたり、実がまばらにしかついていなかったりする。さらに、虫に食われることなく大きく育っていても、濃い黄色になったものは固くて、家畜の飼料にしかならないということなので、これまで何本か捨てなければならなかった。にわとりがいれば、いい飼料になるのにと思うと、とても残念だった。ジョアオンがなかなかとうもろこしの収穫をしないなと思っていたら、家畜の飼料として販売する予定なので、実が固くなるまで待つ必要があり、まだ当分、収穫の時期ではないのだそうだ。
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2012年2月26日(日) | ||||
夏時間が終わるのは、例年2月の第3日曜日と決まっているのだけれど、今年はカーニバルと重なったため、予定が1週間延びて第4日曜日の今日から標準時間に戻った。これで今日から日本との時差はマイナス12時間。つまり、日本の午前10時は、こちらでは前の晩の10時。 それでNHKの番組の放送時間も1時間早まったので、ちょっと不都合が起きた。とういうのも、この金曜日から始まったライラの日本語レッスンで、NHKの「どうも!にほんご講座です。」という15分間の番組を見せることにしたのだけれど、夏時間の終了とともに、次の金曜日は番組の時間が午後6時から5時になり、5時半にやって来るライラは見ることができない。録画すればいいようなものだけれど、そのための機材がない。ここではこういう電化製品は隣町のボトゥカトゥまで行かなければ入手できないので、すぐにというわけには行かない。そうしたら、エドソンが「You Tubeで調べてみたら?映像がアップされてるかもしれないよ」と教えてくれた。検索してみると、「ありました。ありました」4ヶ月ほど前にアップされたものが10回分。コンピュータでこれらを見ることができることがわかり、感謝、感激!これなら何度も繰り返し見ることができるので、テレビよりもさらに便利。文明の利器、さまさま! | ||||
2012年2月27日(月) | ||||
今日は、bastante(バスタンチ)とういとても便利な言葉について。これは英語ではa lot ofとかenoughという意味で、muito(ムイト)の代わりに使うことができる。この言葉の便利なところは、この言葉に続く単語が女性名詞であろうと、男性名詞であろうと、複数であろうと、単数であろうと、bastante(バスタンチ)という単語も、それに続く単語も変化しないこと。例えば、I have a lot of things to do.と言う場合、a lot ofをmuitoを使ってポルトガル語にすると、Tenho muitas coisas para fazer.となり、a lot ofの次に来るthingsは複数形なので、coisaをcoisasと複数形にしなければならない。そして、coisasは女性名詞で複数形なので、muitoをmuitasに変化させなければならない。けれど、bastanteを使うと、Tenho bastante coisa para fazer.となり、単数か複数かや、女性名詞か男性名詞かを考えなくてもいいので、とても便利。ただし、「どうもありがとう」と言う際のMuito obligado.(ムイト オブリガード)のmuitoは、bastanteに置き換えることはできない。Muito obligado.(ムイト オブリガード)は、Muito obligado.(ムイト オブリガード)のまま。 | ||||
2012年2月28日(火) | ||||
このところ毎日、午前中はいいお天気なのだけれど、午後になると雲行きが怪しくなり、雷が鳴り、夕方近くからザーザーと雨が降る。これはここの夏の典型的なお天気。昨日は、昼過ぎ頃から西の空が黒い雲に被われて、遠くの方で雨が降っている様子が見えた。次の写真のように、右側(北側)では雨が降り、左側(南側)では雨が降っていないのがはっきりわかる。この雲がここまで移動してくるのかな?と、思っていたのだけれど、幸いやってこず、夜、英語のクラスが終わり、生徒さんたちが帰って行き、彼らが家に帰り着いたのではないかと思われる頃、雨が降り出したので、良かった。彼らがここを出入りする際、ザーザーと降っていると、車を降りて入り口ゲートを開けたり閉めたりするのに濡れてしまうので、不都合なのだ。次の写真の、画面右側に突っ立ている白い物は、お隣のコーヒー園の貯水タンク。
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2012年2月29日(水) | ||||
ニッケイ新聞2012年2月16日付けの「日系社会ニュース」に、『全日空の直行便が就航か=今年5月までに正式決定=来年3月には運行開始へ=坂本ブラジルANA代表「実現の可能性大」』という以下の記事があった。ただ、これが実現しても、現在ヨーロッパ経由のTAMとANAのコードシェア便を利用している私たちにはあまりメリットはないかも?というのも、この直行便はおそらく以前のJALのようにアメリカ経由ということになるだろうから、エドソンがアメリカのビザを取る手間と、時間と、お金を考えたら、直行便ゆえの利点である、乗り継ぎのための待ち時間が短くなるというだけでは、メリットがほとんどないからだ。それでも、日本の航空会社が、日本とブラジルを直接結ぶ路線を開設するということは、おおいに歓迎したい。 『日本の翼が再びブラジルに――。全日本空輸株式会社(ANA、以下全日空)が、昨年10月から日本―ブラジル直行便の就航を検討している。ブラジル全日空の坂本エドゥアルド代表は「5月までにはっきりする。実現の可能性は高い」と本紙の取材に答えた。正式決定すれば、来年3月には運航を開始する見込みだという。コロニアが反対運動まで行なったJAL直行便の撤退から、約1年半。W杯、五輪を控え、日伯両国の交流に拍車がかかることが期待されそうだ。 「ブラジルは将来性のある市場。現在も日本企業などが調査のため多く訪れており、2国を繋ぐ足がなければ。いずれは乗り込むべき国だった」(坂本代表)。 全日空は2002年からヴァリグ・ブラジル航空と共同運航していたが、06年に廃止。現在は、TAMブラジル航空とヨーロッパ経由で共同運航している。 坂本代表によれば、主な問題は機体不足。日伯直行便には他路線で就航中のボーイング777が採用される予定だが、それを置き換えるための新機種ボーイング787の開発・輸送が大幅に遅れているからだという。「この遅れがなければもっと早くに検討されていたはず」と説明する。 週の便数や経由地などは、経由国や空港との交渉も必要とあってまだ検討段階にも入っていないようだ。旅行会社「アルファインテル南米交流」の中村アデマールさんは「JALの直行便がなくなって乗り換えが面倒。日本の上質なサービスはブラジル人客の間でも評判。それで直行便となれば客はすぐに飛びつくだろう」と話している。』
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