Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2012年1月1日(日) | ||||
![]() 新年を迎え、まず昨年一年間を無事に過ごすことができたこと、そして8月に我が家での生活が始まったことを心から感謝したい。そして、家族や友だちといった私たちのことを気にかけてくれている人たちすべてにとって、また、私たちと面識はなくてもこのブログを読んでくれている人たちすべてにとって、新しい年が良い年でありますように、みんなが健康で幸せに過ごせますように、と祈りたい。 朝食にお雑煮を食べて、お屠蘇代わりに熱燗のお酒を少しいただくというのが、エドソンとふたりだけで迎えるいつもの元旦。クリスマス前におもちとかまぼこはウエノで買ったのだけれど、大根と水菜(または、ほうれん草)が手に入らなかったので、お雑煮の具は大根の代わりに白菜を、青みの水菜の代わりにルッコラを入れて、今年のお雑煮にした。
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2012年1月2日(月) | ||||
大晦日、元旦と雨で、気温が低く肌寒かったのだけれど、今朝はさらに気温が下がり長袖のTシャツでも寒い感じだった。でも、お昼頃からお日様が顔を出し、暖かくなり、夏が戻ってきたようだ。エドソンは今日から仕事。つまり年末年始と言っても、カレンダー通りに土日を休んだだけ。でも、お天気が悪かったこともあり、いつもの週末とは異なり、特に何をするということもなく、のんびりと過ごすことができ良かったと思う。今日は、私もいつも通りに洗濯、掃除、庭の草取りに励んだ。 家の東側の物干し場の近く、お隣との境界線の柵のところに、ピンクの花を咲かせている植物が密生していたので写真に収めた。こんな風に花を咲かせていると、草取り作業をしていても抜かずに、そっとしておいてあげようと思ってしまう。
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2012年1月3日(火) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2011年12月15日付け「コラム 樹海」からの転載。ブラジルでの韓国系人口は日系人口に比べてまだ絶対的に少ないはずだけれど、テレビで見る韓国系の自動車や家電製品のコマーシャルはすごく多い。家電製品を販売する店などで見かける日本製品は、パナソニック製テレビのVIERAくらいで、洗濯機も冷蔵庫もないけれど、韓国の製品はありとあらゆるものがある。テレビのノヴェラ(連続ドラマ)の中でさえ主要なキャラクターが乗る車は韓国製のKIAだったりする。本当に韓国勢の宣伝の仕方と市場に占める割合は半端ではない。 『「K—POPのグループがブラジルで公演するので—」と取材を依頼する電話があった。何故日本から電話してきているのかなと思ったら日本語の流暢な韓国人だった。来伯したコーディネーターも数度取材の確認をしてきた。その熱心さに加え、個人的な好奇心もあって公演に足を運んだ▼会場の周りに行列が出来ていた。その面々を眺めると半数強が韓国系の若い世代だが、残りは非日系。公演中、ハングル語で歌っていたのにも驚いた。来場者4千人。それほどの数ではないが、独自のファン層がいるのだろう。韓国系グループのサンパウロ公演は今回が2回目だという▼黄色い声援が飛び、失神する来場者が出るほど熱を帯びた輪から離れると息子の付き添いで来たという知人の日本人女性が。息子さんに「…このグループは日本でいうと誰なの?」といささか恥ずかしい質問に対する説明は「4MinuteはSPEEDかな。「BEAST」は踊りの上手い「SMAP」。「G.na」は、そうだなあ…あっスペルが違いますよ」とメモを指摘されてしまう始末▼公演前の10日付けエスタード紙では1ページを使い紹介していた。自動車、家電業界もそうだが、韓国勢は宣伝への力の入れ方がハンパではない。日本語の邦字紙でさえ冒頭のようなのだ。今回の公演も初の南米に続き、来年は欧州、米国と〃世界制覇〃 の勢い。外向きで元気な感じに好感を持った▼さて。大した宣伝もせず6千人を集めた先月末の『BEGIN』コンサート。完全コロニア向けであったにも関わらず本紙の取材にもそっけない。世界的競争力の違いを見た気がした。(剛)』 | ||||
2012年1月4日(水) | ||||
今日は、親バカ「モビ自慢」をひとつ。モビは本当に賢くていい子だ。例えば、私たちが食事をしている間、テーブルの側に置いたベッドの中でおとなしく自分の食事の番が来るまで、静かに待っていることができる。テーブルの下を歩き回っておこぼれを頂戴しようとか、私たちが食べているものを欲しがって、おねだりするようなことはしない。私が英語のクラスをやっている時も同様に、側で静かにしている。ただし、時々いびきがうるさくて生徒さんたちの笑いを誘う時もあるけれど・・・下のガレージで私たちと暮らし始めて以来、家の中に入る際は足を拭いてから入ることになっているので、お散歩から戻ると、入り口玄関のところで入ってもいいという私の許可が出るまで待っていることができる。許可するとしずしずと入ってきて、私が彼の足を拭くのが終わるまでおとなしくしている。特に教えたわけではないのだけれど、私たちがそうして欲しいと思い、そのようにしてと言うと、その通りにしてくれる。
昨日は、バカリャウ(bacalhau)料理に初めて挑戦した。バカリャウというのは干したタラの塩漬けのことで、ポルトガルやブラジルではとてもよく食べられている保存食。調理する際、しっかり塩抜きをしてから様々な料理にする。クリスマスの前に買っておいたのだけれど、すごい匂いがするので、タッパーの中に入れて匂いが出るの防いだ。このバカリャウ、300種類以上の料理法があるらしいのだけれど、私は一番簡単なオーブン料理を作ってみた。じゃがいも、玉ねぎ、トマト、じゃがいもと重ねてからコショーをふり、オリーブオイルをたっぷりかけて、パン粉とパルメジャンチーズをふってオーブンで焼くだけ。塩辛くなるのではないかと心配したのだけれど、どちらかというと塩抜きし過ぎた感じで、その上オリーブの実を切って入れるのを忘れたため、ちょっとあっさりし過ぎの味になった。でも、簡単においしくできたので、次回からは自信を持ってできそうだ。
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2012年1月5日(木) | ||||
ニッケイ新聞で2011年11月25日から『第5回世界のウチナーンチュ大会=子孫と沖縄結ぶ「万国津梁」=母県と県人会の関係探る』という連載が始まった。ブラジルには沖縄からの移民が多いというのは知っていたけれど、世界各地へ移民して行った人たちを呼んで、沖縄で世界大会をしているというのは初めて知った。そして知らなかった沖縄の歴史の一端にも触れることができた。どれもとても興味深い記事なので、早く紹介したかったのだけれど、次々に連載が続き、何と22回もの連載というすごい大作だったので紹介までに時間がかかった。今日ようやくすべての記事が自由に読めるようになったので、紹介しようと思う。 『母県と県人子孫の心の絆とは何なのか。それはいつまで継承されるものなのか——どんな県人会にとっても重要なこの問いに答える壮大な取り組みが、いま沖縄で行なわれている。5年に一度の「世界のウチナーンチュ(沖縄県人)大会」に参加するためにブラジルから1千人以上が馳せ参じたこと自体凄いことだが、ただ単にその現象を報じるのではなく、「なぜそんな来ているのか」について分析・推論を連載にした。一体、沖縄県民とその海外子孫に何が起きているのか。琉球大学の招待で大会に参加した機会を利用し、各国の日系社会の状況とそこにおける沖縄系社会の様子に加え、どの県や県人会にとっても役立つ活性化のヒントが含まれていないかを探る。沖縄をたたき台に、母県と県人子孫が一体となって取り組んでいるルーツ意識の掘り起こしについて取材してみた。(深沢正雪記者) 第1回=全県挙げての大歓迎=「お帰り」と握手攻め 第2回=ハワイ人口の1/3日系=戦前はなんと半分を占めた?! 第3回=記念撮影という¨儀式¨=移民の家系図は世界的資料 第4回=移民が支えた母県経済=海外送金が県歳入の6割 第5回=米国=「今も新来者が絶えない」=進駐軍と結婚多い戦後女性 第6回=亜国=終戦5ヵ月前まで日語報道=最終ニュース「慶良間侵攻」 第7回=120年経て覚醒する子孫意識=初訪沖のNカレドニア勢 第8回=ニューカレドニア=配線で出自封印した子孫=「沖縄の家」で活性化へ 第9回=南米各国で存在感示す=沖縄県系が約7割は普通 第10回=特異なブラジル県人会=戦後移民の多さが特徴 第11回=沖縄方言で胸を張る=ルーツ目覚める伯国二世 第12回=明治の精神を持つ県系人=ルーツ意識深める二世ら 第13回=ご真影踏まず¨島送り¨=故郷でやり直した戦勝帰国者 第14回=母県が失った何か南米に=¨明治の沖縄¨と肝心 第15回=逆遠隔地ナショナリズム=海外に学べとの掛け声 第16回=ペリー来航が歴史の分岐点=琉球独立図った米国政府 第17回=挙県体制とメディア連携=大会誕生の経緯を探る 第18回=失業した若者海外へ=100億円基金で多言語人育成 第19回=「沖縄」と「琉球」の違い=歴史的な二重構造とは 第20回=二つの顔が盛衰する歴史=文芸復興運動に集約か 第21回=国境を越える芸能の力=民族的¨武器¨としての歌 最終回=100年後に価値が出る=各県人会で取り組みを この連載記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2012年1月6日(金) | ||||
昨日は、モビをボトゥカトゥの大学病院(UNESP)に連れて行き、受診した。当然のことながらインターンの人たちは全員入れ替わっており、ちょっと見たところ顔なじみの人は誰もいなかった。けれどここの主任のような立場のカリナ先生はいて、診察室の前の廊下のベンチに座っている私たちを見つけれると、「あら~モビ~、久しぶりねえ~・・・昨日あなたのことを話してたところなのよ」と言って、モビの頭を撫でてくれた。前回モビの手術と治療をしてくれたカリナ先生がいてくれてほっとした。さらに待っていると、モビのことをただひとり「モビちゃん」と呼んでいたもうひとりの女医さん(名前は知らない)が、薄緑色の手術着、帽子、マスクに身を包んで手術室から出てきた。モビと私たちがいるのに気づくと、「わ~、お久しぶり~、元気だった?」と言って、側に来て少しおしゃべりしてくれた。みんなモビのことを可愛がってくれるのでとてもうれしい。 いつものことながらとても混雑していたので、診察室に呼ばれるまで延々2時間以上待って、ようやく受診。手術の前に抗ガン剤治療をして、ガン細胞を縮小すれば、手術は可能ということだった。それで、これから抗がん剤治療に使う薬をサンパウロにある会社に注文して取り寄せる手配をエドソンがして、届いた薬を大学病院に持参して治療を開始することになった。まず何回か薬を投与して、様子を見て、手術。そして、またしばらく抗ガン剤治療をするという手順だ。そして、今回は前回使用した2種類の薬だけでなく、もう1種類の薬を追加するということだった。カリナ先生にとってもこのモビの再発は予想外に早いものだったようで、治療のプロトコールを少し変えるということらしい。 次の写真は、居間の隅のワークスペースで私がコンピュータを使っていたり、夕飯の献立を考えていたりすると、私に一番近い敷物がある場所ということで、この居間の横の扉の前の敷物の上が、モビの定位置になる。風が強い日は、重石がないと敷物が飛ばされるため、重石代わりに小さなぬいぐるみなどを置いているので、モビは時々これを枕代わりにして頭を乗せていたりする。
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2012年1月7日(土) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2011年12月16日付け「コラム 樹海」からの転載。 『当地には県人会が多々存在するが、実は移民と「郷土愛」ほど相反するものはない——と証言映画『闇の一 日』(IMJ、奥原ジュン監督)を観て痛感した。生国を離れたからこそ移民であり、離れたからにはそれ相当の理由があったはず。出たほうが良いと判断せざるを得ない状況や、自分は出たくなかったが家族の判断でそうせざるを得なかった事情や、若さゆえの勢いも人生にはあっただろう▼どんな事情であれ、故郷を離れた瞬間から移民は「望郷心」という〃病〃に執り憑かれる。郷土に居たときには感じなかった強い郷土愛に目覚め、異文化ストレスの強い環境の中でそれを溜め、憧れに似た心持ちで地球の反対側の祖国を眺めた▼その結果が、日本在住者には理解が出来ないほどの強い郷土愛として結晶化する。それが日本のナショナリズムと結びつき、戦争中の強烈な迫害体験によって平時ではありえない極端な域にまで達していた。郷土愛と祖国愛は不可分のものであり、「日本戦勝」を信じただけで刑罰を受けて〃島送り〃にされる伯国側状況も、まともとは言いがたい▼戦争という特殊状況による病気ギリギリの集団心理の中で、最も先鋭化したごく一部の若者が要人暗殺を実行した。証言映画の主人公・日高徳一さんが考えていたことは特殊なことではなく、当時のコロニアの多くがその方向性に共感していたのではないか。だからこそ、これが呼び水となって共時発生的に同様の事件が頻発した▼従来のように「狂信」と蔑み隠すのではなく、むしろ光を当てて真相を明らかにし、当時のコロニア大衆の気持ちの奥底を掬い上げようと試みる証言映画だ。(深)』 | ||||
2012年1月8日(日) | ||||
私にとっては、ポルトガル語は日本語をベースに理解するよりも、英語をベースに理解する方がわかり易いので、英語でこう言いたい時は、ポルトガル語では何と言うのかな?とか、ポルトガル語のこの表現は英語ではどういう意味かな?といつも考える。そして、ポルトガル語と英語の違いに、おもしろいものだなあと思うことがよくある。例えば、英語でgood(良い)、better(より良い)、best(最良)、あるいは、bad(悪い)、worse(より悪い)、worst(最悪)と言う場合、ポルトガル語では、goodはbom。betterはmelhor。でもbestに当たる別の言葉がなく、これもやはりmelhorと言う。反対語の方も同じで、badはmau。worseはpior。でも、worstもやはりpior。ポルトガル語には英語のようにはっきりとした3段階の区別がないようだ。 お天気に関する表現も、暑い(quente)、寒い(frio)はあっても、暖かいという表現は特になく、やはりquenteと言うので、暑いのか暖かいのかよくわからない。そして、涼しいに関しては、フレスコ(fresco)という言葉があるのだけれど、パラカンビのお母さんなんかはちょっと涼しいとすぐフリオ(frio)と言い、フレスコ(fresco)とは言わない。そして、ここではみんなフレスキーニョ(frescinho)と言っている。 それから次の2つの表現は、最近ノヴェラ(連続テレビドラマ)で覚えた言い回し。Mais sedo ou mais tarde.(遅かれ早かれ、sooner or later)そして、Mais rapido possivel.(できるだけ早く、as quickly as possible/as soon as possible)このmaisという言葉は英語のmoreとmostの両方の意味で使われる。これも英語とはちょっと違い、文脈の中で比較級なのか最上級なのかを判断しなければならないので、ちょっとややこしい。 次の写真は、以前咲き始めた際に紹介した花が開かないタイプのハイビスカス。今、夏真っ盛りなので、たくさん花をつけている。でも、みんな普通のハイビスカスのように花が開かず、下を向いて咲いている。
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2012年1月9日(月) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2011年12月21日付け「コラム 樹海」からの転載。このコラム、深沢編集長始め、複数の記者の人たちが書いているのだけれど、中でも深沢編集長の文章はいつもおもしろく、いいなと思う。 『クラブ世界一を決める大会で、サントスがバルセロナ(スペイン)に惨敗したことで、ブラジルはいい教訓を得たと内心感謝した。ほかの競技で負けるより、サッカーで負けた方が国民全体の心に響く気がする▼特に相手チームの監督の一言がグサッと伯人の心に刺さったに違いない。「祖父や父からブラジルのサッカーは素早いタッチでより長くボールを支配し、わずかなスキを見つけては一瞬にして勝負を決める。我々はそれを目 指して練習してきた」。穴があったら入りたいと思った伯人サッカー狂は多かった▼バルセロナは自分の学校に世界から神童を集めて英才教育を施す。天才の名をほしいままにするメッシはもちろん、一軍選手の大半はそこ育ちだ。才能ある若者が幾らいても、開花させられるかどうかは教育にかかっている▼メッシへの決定的なパスを何本も出して大活躍した相手チームの伯人選手ダニエル・アウヴェスだが、ブラジル代表としては正選手の座を争ってベンチを温めていた時代もあった。ブラジルは才能の宝庫だが組織、教育、戦略が足りない▼現在の経済も同じだ。しっかりした土台の上にしか高い建物は立たない。インフラが脆弱なままで高度経済成長ができる訳がない。まずは教育などのインフラに徹底投資し、土台固めに注力すべきだ。バルセロナの学校のように▼スペイン系のサンタンデール銀行グループは世界利益の25%をブラジルでたたき出しているが、2年以内に30%になる見通しとの報道があった。スペイン人はサッカー同様、ブラ ジル人の才能とお金の引き出し方をよく知っている。さて日本企業はどうか?(深)』 次の写真は、今日現在のハイビスカスガーデンの一角。
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2012年1月10日(火) | ||||
イビウーナの中村さんは、先週2日からすでに今年のウィークリーノートを再開されたので、以下は、今年2本目の随筆。行動しなければならないときに、何もしなかったことが、日本の犯した大きな間違いだったというのには、納得。今年、日本は果たして行動を起こせるのだろうか?
同著上巻の副題は「何もしなかった日本」、下巻のそれは「天下分け目の『改革合戦』」となっている。文藝春秋2012年新年特別号に「日本はどこで間違えたか」という特別企画(識者30人へのアンケート)を載せているが、こちらも多くのことを考えさせられた。しかし、多くの識者が「何もしなかった日本」を振り返って、あの時チャンスを逸したと言っているのに瞠目させられた。 さて今、フクシマ被災国の日本が世界で買われている。一見、1円=US$76の最高値を付けている円、100ユーロを割り込んだ円は、被災国日本の多くの庶民には不思議だろう。しかし、世界は今度こそ日本は災害という外圧によって改革をせざるを得ないだろう、と観ている。米㌦ベースでみる、一人当たりGDP、株価も上昇、エネルギー・資源コストを始め輸入価額は大幅に下落している。そこには勤勉な民がいる。これが悩める世界が日本を買っている背景だ。復興支出は景気刺激策でもある。 常時悲観一色の日本よ、何年か後で、矢張り「何もしなかった」と反省することがないよう、今度こそ千載一遇の機会を逸することがないように頑張ろうではないか。失敗こそ最良の教師、日本は失敗先進国だ。失敗から学んだことを武器にして未来に立ち向かおうではないか。フクシマから学ぶことは多い、そこに原発恐怖症を克服する鍵もあるような予感がする、恐怖症を正視し学ぶことなしにはそれを克服することは出来ない。 原発恐怖症に罹って、原発No、太陽光、風力など再生可能なエネルギーYesに全面転換すべしという議論が大手を振って罷り通っているが、原発の犯した誤りは政官財学挙げての支援にあったことを忘れてはならない。市場の失敗より恐ろしいのは政官財学の介入だ。原発安全神話も政・官・財・学の癒着から生まれた。フクシマ後の今や、政も官も財も学も安全神話の誕生に手を貸した憶えなし、と言う。今となっては、それはどうでもよいが、新エネルギーの開発には、政・官・財・学の癒着に呉々も注意して欲しい。 「平成三十年」という近未来小説から改革を阻む巧妙な手口のいろいろを学んだ。又、文藝春秋新年特別号の淺川芳裕氏論文「日はまた昇る・わが農業」から農水省の省益擁護策のあの手この手を知った。実(げ)に怖るべしは、思考停止の民、政官財学の癒着。イビウナ、09/01/2012 | ||||
2012年1月11日(水) | ||||
週に2~3度している草取り作業は、ブラキアーリアその他の繁殖がとても旺盛なため、やってもやっても追いつかない感じだ。でも、草に被われて隠れていたセドリーニョの周りの草を取ると、30センチくらいに成長したセドリーニョが姿を現した。植えた時は10センチくらいの小さな苗だったのに、ちゃんと成長していることに感激。向こう側のくぬぎは、大きさにあまり変化はないけれど、小さな新芽が少し出てきている。
雨が降る季節になり、「雨後のたけのこ」よろしくヒメシマダケがたくさん芽を出していることは、少し前に紹介したけれど、その後、縦の成長が止まり、葉っぱがたくさん出てきて、だんだん竹のきれいな壁ができつつある。
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2012年1月12日(木) | ||||
イビウーナの中村さんのところから、ヒマラヤ桜の小さな芽を数本いただいて帰ったのが、ちょうど2年前のお正月。それらを大事に育て、芽が成長するに従い、少しずつ鉢の大きさを大きくして行き、20~30センチくらいの苗木に成長してから庭に植えた3本が、だいぶ大きく育ってくれた。成長途上で、野うさぎのオサマ・ビンラーデンに枝を折られたり、強風で枝を折られたりと、何度も何度も繰り返しさんざんな目に遭いながらも、ここまできれいに大きく育ってくれたかと思うと、感慨深い。桜というのは何年くらいしたら花を咲かせ始めるのだろう?「桃栗三年」と言ったりするけれど、まだ最低1~2年は無理かな?
ここのアルメイラオンやアメンドインなどを食い荒らす野うさぎのオサマ・ビンラーデンは、もともとはブラジルに生息していた動物ではなく、昔、イギリス人が娯楽としてする狩猟のために、イギリスからチリに持ち込んだものが繁殖し、天敵のいない南米全体に広がったものなのだそうだ。ブラジル全土で農作物に被害をもたらしているということだけれど、特に、ここパーディーニョの町を含むソロカバ地方での農作物への被害は深刻なものらしい。困ったものだと思う。 | ||||
2012年1月13日(金) | ||||
何ヶ月か前にエドソンが、家の南側の三角地帯に種を蒔いたマンジョキーニャは、最初の頃は元気に芽を出して問題なく成長するかに見えたのだけれど、何故か、その後の成長はあまり思わしくなく、葉がだんだん黄色くなってきたりして、収穫は期待できそうにないかも?と、思われた。やはりというか、それにもかかわらずというか、先日エドソンがごくわずかのマンジョキーニャを収穫してきてくれた。もともとマンジョキーニャはジャガイモよりも一回り小さい感じの芋だけれど、収穫されたものはそれよりもさらに小さいものだった。
ほんのわずかながらも収穫できたことを感謝し、昨日、マンジョキーニャを調理してみた。皮を剥いて、にんにくと塩、コショウだけで煮るという簡単なものだけれど、金時芋のように黄色いマンジョキーニャは、ほんのり甘く、独特の味がして、おいしかった。
昨年12月のクリスマス前に、老人介護施設に入所した広島の母の様子を見に、明日14日(土)から2週間ほどの駆け足で日本に一時帰国するため、戻るまでまたしばらくブログはお休みします。 | ||||
2012年1月29日(日) | ||||
昨日の早朝、予定通りにサンパウロ空港に到着。今にも雨が降り出しそうな空模様で、気温も16度と低く、冬の日本から夏のブラジルに戻った感じがしなかった。空港でエドソンとセージオに出迎えてもらい、正午前に無事帰宅。帰路は、タクシーと高速バスを乗り継ぐのではなく、我が家の車で迎えにきてもらったので、所要時間が短くてすみ、私は後部座席で横になって戻ったので、だいぶ楽だった。それでも体のあちこちが痛く、やはりかなり疲れていたので、家に戻るとシャワーを浴びて、ベッドに潜り込み、爆睡。エドソンも私を出迎えるために3時起きだったので、前の晩からドナ・クレウザに預かってもらっていたモビも一緒にみんなでお昼寝。 モビの抗ガン剤治療のための薬の入手に手間取り、モビの治療開始は遅れ、26日(木)にエドソンがひとりでモビを大学病院に連れて行き、第1回目の治療を受けていた。そのためモビは金曜日はちょっと元気がなかったようなのだけれど、預かってもらっていたドナ・クレウザのところから戻ってきて、私の顔を見て元気を取り戻してくれたようだったので安心した。次の写真は、私の留守中、エドソンが夕食の仕度をしている間、ガスレンジの前の敷物の上で、座って待っているモビ。
私の留守中エドソンは、仕事に、モビの世話に、家事にと、ひとりで大変だったので、私の帰宅をとても喜んでくれ、ダイニングテーブルの上に庭で咲いている花を飾って待ってくれていた。私は夕方7時過ぎまで一度も目覚めることなく爆睡したのだけれど、エドソンは一足早く起きて、夕食を作ってくれ、至れり尽くせりで、感謝、感謝。8時近くにエドソンが作ってくれた夕食をいただき、食後はみんなで一緒にテレビのノヴェラを見て、10時半にはまたベッドに潜り込んだ。日本から戻るといつも、とにかく寝ても寝てもまだ眠たい。
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2012年1月30日(月) | ||||
土曜日はここに戻った頃からお天気が回復し、太陽が顔を出し、昨日の日曜日も朝一番の霧が晴れると、1日いいお天気になった。私の留守中ずっとお天気が悪く、ほとんど太陽が顔を出さなかったらしく、エドソンは私がお天気を連れて戻ってきたと言って、喜んでいた。それで、この晴天を利用しないわけにはいかず、洗濯機を2度回して溜まっていた洗濯をし、モビの毛布やタオルも手洗いしたので、外の物干し場だけでは足りず、柵も使って洗濯物を干した。それだけで、お昼を過ぎてしまった。ちょっと頑張り過ぎたせいか、疲れてだんだん気持ちが悪くなってきたので、1時過ぎにお昼を少し食べて、再度ベッドに潜り込んだ。3時半頃起きて、掃除機をかけ、洗濯物をおさめて、また7時頃まで少し横になる。エドソンはあまり無理をするなと言うのだけれど、私の留守中ずっとお天気が悪く、ほとんど太陽が顔を出さなかったと聞いては、この晴天を利用しないわけにはいかない。 今日も朝から晴天で、エドソンが仕事に出てから、ベッドシーツなどの洗濯で、また2度ほど洗濯機を回した。そして、家事の合間にモビとお散歩をするというのどかな日常が戻り、とても穏やかな気持ちになっている自分がいて、うれしかった。家を留守にしたのは2週間だけだけれど、出発前には咲いていなかったひまわりが咲いており、庭はブラキアーリアで被われてしまっているのには驚いた。雨降りが続いていたので、どこもかしこも草ボウボウになっている。次の写真は、入り口ゲートに向かう道路の両側にうっそうと茂るとうもろこしとブラキアーリア。
次の写真は、入り口ゲートから振り返って撮影した、とうもろこしの前で咲いているひまわり。ブラキアーリアがぼうぼうに茂っているので、背丈の低いひまわりはほとんど隠れてしまっている。
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2012年1月31日(火) | ||||
昔、ぎっくり腰になって以来、毎晩欠かさず自己流でストレッチをしていたのだけれど、ブラジルに来て以来、ストレッチをするスペースがなかったり、床が硬いタイルなので、この3年近くずっとできないでいた。前回日本に一時帰国した際ヨガマットを買って帰ろうと思い、広島市内でたまたま通りかかった大きめのスポーツ店で聞いてみたものの扱っておらず、またそのまま月日が経ってしまっていた。今回一時帰国した際、義姉が、通っている近所のフィットネスクラブでどこに行けば入手できるかを聞いてくれ、買ってきてくれたので、持って帰ることができた。感謝。それで早速、昨晩からストレッチを再開。久しぶりのストレッチで体がコチンコチンになっているのがわかった。今回の一時帰国は2週間での往復という強行軍だった上に、日本が一番寒い時期で、しかもこの冬は例年になく寒さが厳しく、毎日寒くて参った。そのためブラジルに戻ると体のあちこちが痛くなり、ガタピシ言っており、時差ボケと疲れがなかなか取れずに苦戦している。午前中ははりきって家事をこなすのだけれど、午後になるとどっと疲れて、気分が悪くなり、横にならないではいられない。でも、疲れれば休むことができ、のんびりとできることをありがたく思う。次の写真は、買って帰ったヨガマット。これから毎日大活躍が予想される必需品。
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