Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2011年12月1日(木) | ||||
先日の夜、マックス・フェファー文化センターで催しがあった際、何か軽食が出るらしいけれど、ちゃんとした食事ではないようだから、行く前に何か少しお腹に入れてから行こうということになり、エドソンが仕事帰りにスーパーに寄ってインスタントのスープとパンを買ってきてくれた。お店の人に聞いて、これがおいしいというお勧めのスープを買ったということだった。よく見たらAJINOMOTOとあった。味の素のアジ塩は普通のスーパーでも見かけたことがあるけれど、こういうポタージュスープも作って販売しているのか?と、ちょっと感激。でも、日本では見た覚えがない。ブラジル向けだけの商品なのだろうか?ただお湯を注いで作るだけの簡単なスープだけれど、結構おいしい。週末のお昼などあまり食欲がない時に、このスープとクラッカーがあると、とても助かるので、最近よくお世話になっている。全部で何種類の味のスープを販売しているのか知らないけれど、今手元にあるものを出して写真に撮ってみた。下段左から、ペイト デ フランゴ コン ケイジョ(Peito de Frango com Queijo=鶏胸肉とチーズ)、エスピナフレ コン ケイジョ(Espinafre com Queijo=ほうれん草とチーズ)、アボボラ コン カーニ(Abobora com Carne=かぼちゃと牛肉)、上段左から、ミリョ コン トハジーニャス(Milho com Torradinhas=とうもろこしとクルトン)、ミリョ コン フランゴ(Milho com Frango=とうもろこしと鶏肉)。一袋がスープカップに一杯分。どの袋にもクレモーザ(Cremosa)とあるのは、クリーミーという意味。
| ||||
2011年12月2日(金) | ||||
1年に1度、モビは予防接収を受けなければいけないのだけれど、今年は予防接種をする時期に、ガンの治療や手術で予防接種を受けられなかった。治療後も何だかんだと私たちの都合で延び延びになっていたところ、先日、パウロのところのマルチーズのような小さな犬のキコが、夜の間に家出をして、翌朝戻って来てから血を吐くので、パウロがボトゥカトゥのUNESPに連れて行き診てもらったところ、どうやらガハバトというたちの悪い虫に噛まれて病気になったらしいということがわかったという。それを聞いてエドソンは即、ボトゥカトゥのペットクリニックに連絡を入れて、モビの予防接収をしてもらうことになり、今日、朝一番で行って、注射をしてもらった。料金は34レアル(約1700円)。やれやれ、これで一安心。1週間後に歯のクリーニングもしてもらう予約を取り付けてから、後は、銀行などの用事や買い物をして回った。 そのお陰で、来客用の寝室のベッドシーツや枕などの買い物もできたので、一応、客室の必要最低限の準備が整った。夏の間は掛け布団は必要ないので、シーツの上の肌掛けだけで、掛け布団や毛布は夏が終わる頃買おうかと思っている。でも、このところ12月とは思えないほど気温が低く(最低気温14度前後)、今でも掛け布団が必要な日がよくあるので、クリスマス近くになってもこの状態が続くようなら、急いで掛け布団を買うことになるかもしれない。
| ||||
2011年12月3日(土) | ||||
パーディーニョの学校は昨日が今学期の最終日で、今日から夏休みに入ったらしい。それでお隣のジョアオンのところは今日、家族そろってパラナ州の奥さんの実家にでかけて行った。子どもたちだけはそのまま2週間くらいおばあちゃんのところに滞在する予定らしく、とりあえず今日のクラスはお休みになった。今日は、エーナーニ(Hernani)と、奥さんのカロウ(Carol)を夕食に招待していたので、その準備や家事で私は1日バタバタした。エーナーニはパーディーニョの町で手広く農場をやっている人で、マウリシオと仲が良く、アマチュア無線にも関心があるのため、知り合って以来いろいろよくしてもらっている。この4月から5月にかけて私がひとりで日本に一時帰国して、家を留守にした際も、一度エドソンを夕食に招いてくれたので、そのお返しに夕食に誘っていたのだけれど、なかなか日程が合わず、ようやく今日実現した。彼らには14歳から6歳までの子どもが4人いるのだけれど、その子たちを一緒に連れてくるのかどうかが、ぎりぎりまでわからず、直前になって夫婦ふたりだけで来るということがわかった時はほっとした。ふたりとも気さくでよくしゃべる楽しい人たちなので、楽しい夕食のひとときとなった。
| ||||
2011年12月4日(日) | ||||
先月予定していた日曜日のクラスの忘年会がキャンセルになり、数日前に今日なら大丈夫ということになり、午後のクラスの後で少し早い夕食にする予定にしていたら、お昼頃みんなの取りまとめ役のホドリゴからメールが来て、午後は行けなくなったので、クラスはなしで、夕方6時半からということになった。それなのに、約束の6時半になっても、7時になってもやって来ない。7時半になってもやって来なければ入り口ゲートの鍵を締めに行って、ふたりで夕食にしようと話していると、7時20分頃ようやくホドリゴとヴィトーがやって来た。ルアナはひどい風邪をひいて下痢をして寝込んでいるため来れなかったという。楽しみにしていたのに、来れなくなったので泣いていたと言っていた。この子たちはみんないい子なのだけれど、ちょっと時間にルーズなところがたまにキズ。ワインを1本とソーダの2Lボトルを2本も持ってきたので、20代のホドリゴが私たちと一緒にワインを飲んで、10代のヴィトーがソーダを飲むのかと思ったら、ホドリゴがソーダで、ヴィトーがワインを飲むという。ヴィトーは「もう17歳になったから」と言うのだけれど、基本的にブラジルでは18歳以下は未成年でしょう?まあ、ちょっとだけならいいか・・・ それに加え、ヴィトーが手作りのムースのデザートを持参したので、びっくり。ヴィトーはこの16日が高校の卒業式で、最近大学受験で忙しいのに、よくまあこんなまめなことを・・・「こんなデザートが作れるなら、もう結婚できるね」と、エドソンが冗談を言うと、うれしそうに頷き笑っていた。「誰に教えてもらったの?」と聞くと、「インターネットで作り方を見た」と言っていた。昨日は私が写真を撮ったので、今日はエドソンに食事が終わってデザートを食べる際に写真を撮ってもらった。ちなみに昨日の夕食はローストポークで、今日はローストチキン。テーブルの上の白い大きな器がヴィトーが作って持って来てくれたムースのデザート。私の作ったブラウニーと一緒にいただいた。この写真を撮る際、それまでテーブルの側でおとなしく寝ていたモビが起き出してきて、「僕も」と言うので、私が抱っこして一緒に写真に収まった。モビも男の子なので、4人の男性に囲まれ、私は紅一点。「しあわせだな~」
| ||||
2011年12月5日(月) | ||||
我が家の北側の丘に沿って、防風林用として植えた竹がなかなか成長しないと思っていたら、最近急に新しい芽を出し始めたのだけれど、エリゼウの話では、この竹は成長は遅いけれど、成長すると25~35メートルもの高さになるということだっだ。このままこの場所で成長させると、すぐ側にあるグレヴィーリャやセドリーニョの成長の邪魔になるだけでなく、側にある電信柱や電線に被害が及ぶ可能性があるので、邪魔にならない場所に移動させた方がいいということになった。それで昨日の日曜日の午前中、エドソンがせっせと植え替えのための穴を堀り、竹を掘り起こして2本ほど移動してくれた。もうだいぶ根を広げているので、掘り起こすのも一苦労のようだった。家や電信柱からずいぶん離れた丘の上の竹はそのまま残すとしても、まだ4~5本移動させなければならない。一度に全部は移動できないので、少しずつ時間をかけて移動させる予定。次の写真は、家からだいぶ離れた西側の森の近くに移動させた竹の1本。
| ||||
2011年12月6日(火) | ||||
10月21日を最後に7週間あまり作業に来ていなかったエディたちが、今日久しぶりにやって来た。厳密に言うと、この間11月に2日だけ作業に来てはいるのだけれど、それからでも4週間ぶり。まあ何とお久しぶりだこと。モラエスさんのところの家は、まだまだ完成にはほど遠いので、今年はもうずっと来ないのではないかと思っていたので、ちょっとびっくり。でも、昨日午後から明け方にかけて何度か降った雨の続きで、今朝もすっきりとは晴れず、ずっと霧が立ちこめている。そのため、ガレージの壁のペンキ塗りをする予定と言っていたようだけれど、それもできず、12時過ぎには仕事を切り上げて帰って行ってしまった。ぬか喜びだったようだ。これからクリスマス休暇に入るまでの2週間ほどの日々を毎日ここに作業に来てくれるかどうかは、「???」たぶん、良くて来たり来なかったりなのではないかなあと思う。 | ||||
2011年12月7日(水) | ||||
ニッケイ新聞2011年11月25日付けの日系社会ニュースに、『「落語で日本人の心知って」=落語家桂三枝さんが来伯=USPで「笑い」の講演』という記事があった。何でもNHKの「旅のチカラ」という番組の収録だったようだ。これに関して、同日付けの「大耳小耳」に次のような記事もあった。ちなみに、USPというのは、サンパウロ総合大学のことで、日本風に言うと、東大か京大のような名門校。 『USPで講演した桂三枝さんによれば、現在日本には7〜8百人ほどの落語家がいるとか。落語について「〃噺〃とも書き、口から出る新しい言葉という意味。 能や狂言とは違い新しいものを取り入れ、それが古典になってきた」と説明。通訳がつかなかったので「いくら日本語を勉強しているとはいえ…」と思っていたが、落語の実演では何人かが、きちんと笑うべきところで笑っていたのを見て「さすがUSPの学生」と感心。 「旅のチカラ」は一人が世界のある国を旅し、その様子を追うドキュメンタリー番組。上方落語の大名跡「桂文枝」の六代目を、来年7月に襲名することが決まっている三枝さんは「船に乗って移民した人は次世代に何をどう伝えたのか知りたかった」とか。「ヒントは得られましたか」と聞くと「いやぁ、難しいね」 と苦笑い。さて最後にクイズを—。講演のなかで、7つの生き物の名前が隠されているという小林一茶の句「昼からはちと陰もあり雲の峰」を紹介した。参加者は積極的に回答し、楽しんでいた。読者の皆さんはわかりますか?』 桂三枝さんのUSP講演の記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2011年12月8日(木) | ||||
昨日に続きまたまたニッケイ新聞からの転載。11月25日付けの「コラム 樹海」には、以前紹介した高拓生80周年に関連した次のような記事があった。 『高拓生80周年で同会の佐藤ヴァルジル会長は「政府が正式謝罪をしたことで高拓生の汚名は拭われた。今日ようやく、逝去した我々の父母にこう宣言することができる。我々子弟は義務を果たし、あなた方の名誉は回復された。平和の内にお休み下さい」と演説し、聴衆の涙を絞った▼高拓生の歴史をひもとくと、1917年に東京に設立された私塾「国士舘」(後の国士舘大学)にたどり着く。上塚司らが創立メンバーとなり、吉田松陰の精神を範とし、文武両道を掲げて「国家社会に貢献する智力と胆力を備えた人材『国士』を養成すること」を旨とした学び舎だ▼その学内に上塚が校長となり、アマゾンに入植する人材育成を目的に30年に設立したのが高等拓殖学校だった。ところが国士舘自体は政府の軍国主義政策に傾き、満蒙開拓を目指す人材育成を目的に「鏡泊学園」を別に設置した。大陸侵攻ではなく、平和的な移住手段にこだわった上塚は、ここで袂を分かち「日本高等拓殖学校」として独立した▼その後、「鏡泊学園」は軍事教練を拡大し、国の発展を支えるはずの尊い学生を戦地に赴かせる結果となった。片やアマゾンでも資産凍結・強制収容。どちらが幸せだったか・・・▼国士舘の建学の志にして、明治維新の精神的な指導者といわれる吉田松陰の辞世の句「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」が意味するのは「子供が親を思う心よりも、親が子供を思う心の方が深い」だが、高拓二世が苦労した親を思う様を言い表すには「父の恩はアンデスより高く、母の徳はアマゾン川より深し」の方が適当か。(深)』 次の写真は、庭の中程にエドソンが据え付けてくれたベンチに腰かけて見える景色。家の建設が完了していないので、ボロボロになったエディの納屋があったり、建築資材が散らばっているのは、ご愛嬌。ここに腰をおろして景色を眺めていると、しあわせだなあと思う。
| ||||
2011年12月9日(金) | ||||
冬の間、野うさぎのオサマ・ビンラーデンに無残に食い荒らされてしまった庭のアメンドインは、春になり雨が降るようになってから、元気を回復し、順調に成長している。今ではかなり密生して、とてもいい感じになってきている。アメンドインは芝生と違い、常緑で、芝刈りの手間がいらず、土壌にとっていいだけでなく、可愛い黄色い花を咲かせるので、目にも美しい。
それでオサマはいなくなったとばかり思って安心していたら、とんでもない勘違いだったことがわかった。防風林用に植えたリグストルンと、グレヴィーリャと、竹と、セドリーニョの間に、ジョアオンがたくさん種を蒔いた豆が、元気に芽を出して成長し始めていたのに、先日気がついたら、あっという間にオサマに食べられてしまい、ほぼ全滅してしまっていたのだ。こっちの方がおいしいからアメンドインやアルメイラオンには手を出さなかっただけのようだ。とうもろこしはまったく被害に遭っていないので、ここのオサマはどうやら好き嫌いの激しい、相当のグルメのようだ。次の写真は、葉っぱが食べられてしまい、茎だけになってしまった豆の芽の列。
| ||||
2011年12月10日(土) | ||||
昨日は午後12時半に予約しておいたモビの歯のクリーニング治療のため、お昼前に家を出て、ボトゥカトゥのペットクリニックに行った。UNESPで抗がん剤治療を受けていた時に、かなり歯石がたまっているからクリーニングするよう言われていたのだ。犬の場合、歯のクリーニングといっても全身麻酔をかけてするので、麻酔の専門医に来てもらう都合上、予約が必要なようだった。麻酔医師も若い女医さんで、とても感じのいい人だった。麻酔薬を打つ際もモビがびくともせずにおとなしくしているので感心していた。治療に約1時間かかるというので、その間徒歩でメインストリートまで行き、少し買い物をして時間をつぶし、2時半頃戻ると、ちょうど治療が済んだところだった。歯の状態によっては犬歯を抜くかもしれないと言われていたのだけれど、まだそこまでひどくなっていなかったようで、歯は1本も抜く必要がなかったと聞き、ほっとした。モビは麻酔がまだ完全に抜けておらずトロ~ンとした状態だったけれど、一応目を覚ましていた。ヴィットリア先生や麻酔医師から、麻酔や痛み止めのモルヒネの影響がしばらく続くこと、その間体温が低い状態が続くので、毛布にくるんで暖かくしてあげてといった指示を受けて、3時を回ってから、持参した毛布でモビをくるんで、エドソンが膝に抱っこして家に連れて帰った。次の写真は、昨日買って帰ったモビの歯みがきと、歯ブラシ(手前の緑色のゆびぬきのようなもの)と、口の中を殺菌するためのスプレー。週に3回くらい歯みがきをしないといけないらしい。
昨晩は、ロータリークラブがパーディーニョの町の学校(小・中・高)の優秀な生徒を表彰するという恒例の行事があり、エドソンはひとりで出かけて行った。普通ならモビも同伴で私も行くのだけれど、モビがまだフラフラしている状態なので、私は行かず、家でモビの介護をした。彼の様子を見ながら、水をやったり、特別食の牛肉のペーストを食べさせたり、用便に連れ出したりした。エドソンが戻ってからもふたりで、12時近くまでモビの様子を見守った。グロッキーな状態がずっと続いていたので、少し心配したけれど、今朝はまだ100%ではないものの、だいぶ調子が戻ってきていて一安心。朝、エドソンが仕事に出て行ったら、一時も私の側を離れたくないようで、私がトイレに入っているとドアの前で「クーン、クーン」と泣き、いつもなら、寝室でベッドメーキングをしていると、何をしているのか確認に来ても、「ベッドメーキングしてるから、ちょっと待ってね」と言うと、納得して台所のベッドに戻って行くのに、今朝は私がベッドメーキングしている側を離れず、寝そべって、私の仕事が終わるのを待っていた。
| ||||
2011年12月11日(日) | ||||
先月の25日付けで、中国新聞のウェブサイトに掲載された私のブラジルリポート「タカシ モリタ 工業高校」の縮小判が、13日(火)の夕刊に掲載されることになった。最近、「海外リポート」のコーナーは以前の盛況に陰りが出ているようで、リポートを送っている人の数が減ってきている。それであまり選択肢がないのか、私のリポートがよく夕刊にも掲載されるように思う。やはり、ウェブサイトをユーザーアンフレンドリーなものに変更して以来、誰もが自由に気楽に読むことができなくなったので、リポーターの方もリポートを書いて送る意欲が減退しているのではないかと危惧する。 ニッケイ新聞2011年11月29日付け日系社会ニュースの「大耳小耳」に、次のような雑記があった。ちなみに、来年のカーニバルは2月18日から21日。 『週刊漫画雑誌「モーニング」で、現在ブラジルが舞台となっている「社長・島耕作」とタイアップし、アメリカン航空(AA)は日本・ブラジル(サンパウロ、リオ)往復運賃を1月1日〜3月末日までの往復に限り、10万円で提供している。漫画でもAAの機内食や空港ラウンジなどを紹介。耕作はファーストクラスを利用しているがこのサービスはもちろんエコノミー。ちょうどカーニバルの時期。ご家族、友人に来伯を呼びかけてみては?!詳しくはAAのサイトま で。』 | ||||
2011年12月12日(月) | ||||
先週は、ほとんど毎日のように朝は濃い霧に包まれて明け、10時くらいになってようやく霧が晴れ、太陽が顔を出し、午後遅くに雨が1~2度ざっと降るというお天気が続いた。けれど、今日は朝からすっきり、からっと晴れ上がって、気持ちのいい青空が広がった。こういう日は掃除に洗濯、ガレージの掃除、庭の草取りと、がぜんやる気が沸いてくる。エドソンが仕事に出かける頃になって、エディがひとりでふらりと現れたので、どうしたのかな?と思っていたら、どうやら支払いを頼みに来たようだった。手伝いの人たちにクリスマスのボーナスを出さなければならないからだろうと思う。エディたちはここ8週間ほどほとんどここの作業に来ていないのだけれど、彼への支払いは日当ではなく、1平米いくらという単価で支払うことになっているので、支払う総額はだいたい決まっている。それを毎月少しずつ小切手を書いて支払っているので、仕事に来ても来なくても、まだ支払いが完了していない限り、払い続けなければならないという具合だ。次の写真は、昨日のお昼頃に撮影した我が家。先週、エディたちが1日半ほど仕事をしてくれたので、家の下のガレージの壁(西側と、南側)のペンキ塗りが完了した。
| ||||
2011年12月13日(火) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2011年11月30日付けの「コラム 樹海」からの転載。 『移民にとってハワイとブラジルは意外と関係が深い。1868年の日本初の移民〃元年者〃の行き先がハワイであり、1898年に米国に合併されるまで同地は独立国だった。その11年前、1879年に明治政府が実施した「琉球処分」で琉球王朝は消滅し、沖縄県と名前を変えた。ハワイと沖縄は太平洋の近代化の過程で独立を失った▼水野龍の皇国植民会社の移民送り出し先は元々、ハワイ等が中心だった。当時の移民の実態は奴隷労働に近く、多くの移民会社が渡航費で暴利を貪っていた。それに憤った水野は「適正な値段で送る」ことを志したという。そんなハワイ移民の中には後に当地で大仕事を成し遂げた人物もいた。星名謙一郎だ▼星名は伯国最初の邦字紙週刊『南米』を1916年に刊行した。彼は渡伯する20年ほど前、実はハワイにいた。前山隆の『三浦鑿の生涯』(お茶の水書房)によれば、1895年頃から邦字紙『日本週報』の経営に関わっていた。当時ハワイでは邦字紙が30紙も乱立していた。そんな星名だからこそ当地最初の邦字紙が発行できた▼ハワイ、米本土まで星名と一緒だった妻子は、ブラジルに渡航する前に帰国していた。当 地では娘ほどの年のお玉と同棲していた。1925年11月にアルバレス・マッシャードで、土地問題でもめる伯人が星名とお玉の住む板小屋を襲撃し、銃弾が壁を射抜くなか、応射した星名の弾丸が不幸にもお玉に当たった・・・▼その一周忌の直後、26年12月、星名自身が駅頭で銃弾に倒れる悲劇となった。日本に戻った妻は、星名の母校同志社の女子部で教鞭を執り、息子は後に同志社の学長にまでなった。(深)』 | ||||
2011年12月14日(水) | ||||
ここはとてもいい自然環境に囲まれているので、「とても静か」と言いたいところだけれど、いわゆる街の騒音はないものの、風の吹く音や、鳥たちはとてもにぎやか。日の出から日暮れまでほとんど絶え間なく聞こえる様々な鳥たちの鳴き声は半端ではない。日が暮れると鳥たちは静かになり、今度はカエルの鳴き声がにぎやかに聞こえてくる。ここの鳥たちは、飛び回っていなければ、高い木や、電信柱や、電波塔の上に止まっていることが多く、カメラに収めることはなかなか困難なのだれど、珍しく家の南西側の地面の上でちょろちょろしている「キッ、キッ、キッ、キッ」とにぎやかに鳴く鳥がいたので、写真に収めた。名前はわからないけれど、この鳥はとてもよく見かける。
ここのアンドリーニャ(Andorinha=つばめ)は、家の軒下の隙間から屋根裏に入って巣を作る習性があるらしく、何とか隙間を見つけて屋根裏に入ろうと家のすぐ側を、毎日飛び回っている。今朝もアンドリーニャの集団が台所の窓のすぐ側を飛び回っていたので、台所の流しの前の窓を開けて写真に撮ってみた。ここには煙突と瓦の間の隙間から入った雨が、屋根裏に漏れないように外に流し出すためのステンレスの滑り台のようなものが瓦の下にあって、瓦との間にほんの少し隙間が開いているため、そこから中に入ろうとして飛び回っているのだけれど、中には入れないようにしてあるので、隙間があるように見えて、実は入っては行けない。それでも彼らは諦めずに、飛び回っている。
| ||||
2011年12月15日(木) | ||||
11月下旬から毎週水曜日の夜、エリゼウの希望で英語のプライベートレッスンを追加で始めたのだけれど、昨晩の彼との3回目のレッスンが私にとっては今年の仕事納めとなった。彼はこの土曜日から3週間近く休暇でミナス・ジェライス州の実家に帰ると言っていた。今年最後のクラスなので、レッスンの後は一緒に夕食を食べてもらった。今年初めにホドリゴひとりから始めた英語のクラスは、少しずつ生徒さんが増え、大人のクラスが3クラス7人に、子どものクラスが1クラス5人になったのはとてもうれしいことだった。 以下は、ニッケイ新聞2011年12月1日付け日系社会ニュース「大耳小耳」の雑記からの転載。すべてのブラジル人への短期滞在ビザの免除が難しいとしても、せめて日本人の配偶者への短期滞在ビザの免除はできないものかと切実に思う。 『日伯両国政府が先月28日に覚書に署名し、正式に発給が取り決められた商用数次ビザ。日本の経団連日伯経済委員会に会頭で手紙を出すなどした会議所の平田藤義事務局長も「長年の念願が叶った」と大喜び。平田氏によれば、EU主要国、韓国とは短期滞在ビザが免除されており、米国とは10年、中国とは3年有効の数次ビザが発給されているとか。大きく後れを取った日本だが、経済活性化に期待。そして観光ビザを含む短期滞在ビザの免除も実現してほしいところ。』 | ||||
2011年12月16日(金) | ||||
2~3日前から少しずつクリスマスの飾り付けを始めた。このドアの小ぶりなリースは東京で暮らしていた時、出入りしていた東京YWCAの売店で手作りのものを買って以来、毎年玄関ドアに飾っていたのだけれど、ブラジルに来てから飾るのは初めて。何しろこれまで我が家がなく、これを飾るための玄関がなかったので、ようやく待望の我が家ができ、玄関に飾ることができた。このリースもさぞかし喜んでいるものと思う。
次の写真は、ボトゥカトゥにある植木屋のプロ・ヴェージで買った今年のクリスマスツリー。去年のツリーは年が明けてから庭に植えたので、今年用に新しいものを買いに行ったら、スーパーマーケットのパオン・ジ・アスーカーでも、植木屋のプロ・ヴェージでも、もうすでに完売状態だった。それで、これはクリスマスツリーとして売られていたものではないのだけれど、似たような木で、大き過ぎず、小さ過ぎず、大きさがちょうどよかったので、代用できると考え購入。まあ、質素な我が家のクリスマスツリーとしては、上等、上等。
| ||||
2011年12月17日(土) | ||||
今年になってモビの首の左側のこぶはガンだったことがわかり、手術や抗ガン剤治療をしたのだけれど、モビがそれらの試練を乗り越えて、以前と変わりなく元気にしていることは、とてもありがたいことだとつくづく思う。でも、この出来事があって以来、エドソンはほとんど毎日のようにモビの体を撫で回して、異常がないかどうかを細かくチェックするようになった。モビは私たちにとって特別な存在なので、エドソンの気持ちはよくわかる。幸い、つい最近まで何も異常はなかったのだけれど、先週モビの歯のクリーニング治療をしてもらった後、3~4日すると首の左側の手術痕のすぐ上にそれまでなかった小さなしこりがあることをエドソンが発見。ガンの再発かもしれない。それで病理検査をしてもらうために、ペットクリニックのヴィットリア先生に連絡をして、昨日午前10時の予約でクリニックに連れて行った。これからのことは、検査の結果次第だけれど、ガンの再発となれば、また大学病院に連れて行き、どのような治療をするかを決めなければならない。ただ、ひとつはっきりしていることは、モビが苦しんだり、辛い思いをすることのないように、彼にとって一番いい方法を考えて行こうと、エドソンと話し合っている。モビのガン再発は、まったくの予想外というわけではないけれど、できることなら再発であってほしくないというのが正直なところ。でも、はっきりと再発だということになれば、覚悟を決めて治療に専念し、何があってもモビの命を見つめて行こうと考えている。 | ||||
2011年12月18日(日) | ||||
今朝、広島の兄から電話があった。今日母が予定通りに、家の近所の介護施設に入所したという連絡だった。病院から戻って以来、夜も目が離せない状態になってしまったので、ケアマネージャーさんから紹介してもらった介護施設を何ヶ所か兄が見て回り、家から徒歩でも行ける近所の介護施設がたまたま即入所可能だったため、そこへの入所手続きを始めたことなどは、これまでの連絡で聞いていたので、少しほっとした。いろいろなことが何とかスムーズに運んだことを喜びたい。母は、夜眠れないらしく、このところ昼夜が逆になり、昼間はボーッとした状態が続いているらしいので、何とか睡眠導入剤が効いて、夜眠れるようになればと願っている。それにつけても、母のことを一切引き受けてくれ、逐一連絡をくれる兄には感謝の言葉もない。 先週、仕事納めをした英語のクラス。でも、忘年会や翌週の最後のクラスに仕事などの都合で出席できなかったルアナが、とても残念がって、今日どうしても私たちにお昼をご馳走したいというので、その申し出をありがたく受けることにした。彼女は日曜日の午前中も仕事なので、代わりにお母さんに作ってもらったというパスタ料理の入ったアツアツの鍋を持って、1時過ぎにホドリゴの車でやって来た。ヴィトーは高校の卒業式後のパーティーで朝まで盛り上がったらしく、今日は欠席。次の写真は台所で鍋からパスタ料理を器に盛っているルアナと、それを見ているホドリゴとエドソン。見た感じマカロニ&チーズか、チキンストロガノフのような料理で、とてもおいしくいただいた。ルアナは本当に心優しくて気立てがいい。私は聞いていなかったのだけれど、ふたりとも今日は昼食後にレッスンを受けるつもりでやって来たようなので、食事の後でルアナに片付けを手伝ってもらってから、1時間ほどクラスをした。
| ||||
2011年12月19日(月) | ||||
昨日、お昼前後にすごい暴風雨が短時間だけれどやって来て、停電になったりしたのだけれど、今日はそのメンテナンスのためなのか、また午前中数時間停電し、お昼前になってようやく電気が回復した。やれやれ。電気がないと、洗濯機も掃除機も動かない。それにコンピュータも電話も使えない。まあ、電話は広島の兄からかかってくるぐらいで、それ以外はどこからもかかってこないし、しかも兄からは昨日連絡があったばかりだから、まあいいのだけれど、ガレージの掃除をしようと思っても扉が電動なので、開けられないなど、ないないづくし。電気って本当になくてはならないものだと思う。 次の写真は、以前芽を出し始めたと紹介したろうもろこし畑を、ほぼ同じアングルから撮ってみた。とうもろこしの背丈は膝下から腰の上くらいと、成長の度合いは様々だけれど、緑が青々しているのは何とも壮観。「ざわわ、ざわわ、ざわわ」というのは沖縄のさとうきび畑が風に揺れる音だけれど、ここのとうもろこし畑も風で、「さわ、さわ、さわ、さわ」と音を立てている。
| ||||
2011年12月20日(火) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2011年12月7日付け「コラム 樹海」からの転載。ソクラテス選手はジーコら他の3人の選手と一緒に活躍したので、この4人は「黄金のカルテット」と呼ばれていたこと、医学部出身なので、ドトー(つまりドクター)と呼ばれていたことなどが追悼記事にあった。 『サッカー伯国選手権の優勝を賭けた一戦となった日曜、パカエンブー蹴球場では試合前に、コリンチャンス側客席のほぼ全員が握りこぶしを作った右手を黙って高々と掲げた。1980年前後の名選手ソクラテスが点を入れた時のガッツボースを再現し、その日の朝に亡くなった彼に追悼の意を示したのだ▼父親が文学青年で、古代ギリシアの哲学者プラトンの『国家(対話編)』を読んでいる時に生まれたから、プラトンの師ソクラテスから名をとった。10歳の時、64年、あれほど愛していた本を父が泣く泣く焼いていた姿をみて、軍部がクーデターを起こしたことを知り、その光景が彼の人生に大きな影響を与えたという▼USP医学部に入学するも、サッカー選手になると決意して退学した変り種だ。同クラブ在籍時の80年頃、彼の発案で選手と経営陣が対等に話し合ってクラブ経営する「デモクラシア・コリンチャーナ」を作った▼軍事独裁政権への一種の抵抗運動ともいえる。83年の大統領直接選挙を求める運動では最前線に立って大衆に訴えた。85年に大統領選挙が実施され、88年憲法の制定によって民政移管された。最大級の同クラブ応援団は 2300万人を誇る。そのアイドルたるソクラテスが関わることで、それまで一部の活動家中心だった民主化運動が拡大した▼同クラブファンで有名なルーラもそうだ。労働運動に大衆を巻き込み、その勢いで大統領に当選した。同応援団の中心をなす貧困層が中産階級に移行するのが、この10年間の経済発展でもあ る。ソクラテスの死は民主化の成熟を意味するのか、それとも連続する大臣汚職を見れば〃爛熟〃か。(深)』 | ||||
2011年12月21日(水) | ||||
モビの首のしこりは、やはりガンの再発だった。前回と同じタイプのガンだったことが病理検査の結果わかったと、昨日、ヴィットリア先生からエドソンに連絡が入った。年明け早々にはモビを大学病院での診察に連れて行かなければならない。犬の寿命は10歳から13歳で、犬の1年は人間で言うと4~5年に当たるそうなので、これからはこれまで以上にモビとの生活を、1日、1日、大切に暮して行かなければと思う。次の写真は、今日の午後お散歩から戻り、ベッドで一休みしているモビ。足元の青色のボールは、モビのおもちゃにと思い最近買ったのだけれど、ボールを投げたら追っかけて行って、取って持って来るということはせず、モビの口元めがけてワンバウンドでなげてやると、キャッチしてくれることがある程度で、思ったほど興味を示さない。やはり噛んだら音がでるボールの方が良かったかな?
| ||||
2011年12月22日(木) | ||||
今月上旬まで12月とは思えないくらい気温が低く、この状態はいつまで続くのだろう?と心配していたら、中旬になり気温はぐんぐん上がり始め、朝のうちは涼しくても、お昼ごろから暑くなり、夕食を食べるころには暑さもピークになり、扇風機がなくてはやっていられない。まさに夏本番の到来といった感じだ。夜になるとまたすーっと気温が下がるのだけれど、このところ風がないので窓を開けていても外から涼しい空気が家の中にあまり入ってこず、家の中は外より気温が高い状態がしばらく続く。それで、ここ数日、夜も扇風機をかけて寝ている。こんなこと、ひと夏に何日もあることではないけれど、比較的過ごしやすいここでこんな状態なら、リオデジャネイロはきっともっと暑いのだろうなと思う。明日からリオデジャネイロ州パラカンビの実家からエドソンのお母さんと、妹夫婦がクリスマスをここで一緒に過ごすために、我が家にやって来る。にぎやかになりそうだ。 | ||||
2011年12月23日(金) | ||||
パラカンビのお義母さんたちは、今朝早く出発したようなのだけれど、途中リオデジャネイロ州内での事故による交通渋滞で、サンパウロ州に入るまでに時間がかかり、午後4時前にようやく無事ここに到着した。久しぶりの再会を喜び、家の中をくまなく案内して見てもらった。「いい家ができたねえ」とみな喜んでくれた。そうこうしているうちに、仕事を早めに切り上げてエドソンが帰宅したので、ますますにぎやかになった。次の写真は、マンゴー、バナナ、アセロラジュース、月桂樹の枝、バスケット、手作りのお菓子など、様々なおみやげを出して披露しているお義母さん。お義母さんは浮かない表情をしているように見えるけれど、本当はうれしさ余って泣きべそをかいているのでこういう表情になってしまっている。エリカの隣にはデニウソンが座っているのだけれど、お義母さんとエドソンをほぼ中心に据えたら、カメラのフレームから外れてしまった。失敗。失敗。
エリカたちはたくさんクリスマスプレゼントを持参して、ツリーの周りに置いて飾ってくれたので、写真に収めた。でも、私たちは食事の心配だけして、彼らのためにクリスマスプレゼントを用意することは考えてもいなかったので、さて、どうしよう・・・困った。手前に映っているバスケットのプレゼントのセットは、パウロの会社からもらったもの。
| ||||
2011年12月24日(土) | ||||
今朝の朝食はクリスマス特別メニューで、普段のパオンズィーニョフランセーズにハムとチーズの組み合わせだけでなく、果物や前もって作っておいたバナナブレッド、お義母さんが買ってきてくれたパネトーネもテーブルに出して、好きなものを好きなように食べてもらった。ゆっくりと朝食を食べた後は、みんなで(もちろんモビも一緒に)ボトゥカトゥとパーディーニョの町の観光に出かけた。観光と言ってもこの田舎町ではたいして見るものはないのだけれど、リオとは違う風景や町の様子を見てもらった。パーディーニョでは、例によって、マックスフェファー文化センターに案内し、2階の売店が営業していたので、そこで少し買い物をし、その後、ルシアとセージオの家に寄り、少しお邪魔した。次の写真は、左から最近ルシアたちと同居を始めたルシアのお母さん(78歳)と、ルシア、そしてエドソンのお母さん。
この後、ここの数少ない観光スポットであるジガンチ・アドメシードの見える小さなランショネッチに行き、コシニャを食べてお昼を済ませ、午後帰宅。帰宅後、各自自由にやりたいことをしていると、雨が1時間足らずザーっと降った。そして、雨があがりしばらくすると、パウロとジャナイーナがクリスマスプレゼントを持って挨拶に来てくれたので、家族を紹介し、みんなで1時間余りおしゃべりをした。パウロの会社からクリスマスプレゼントをもらっているのに、娘のイザベラが英語のクラスでお世話になっているからと、さらに特別にプレゼントを持ってきてくれ、恐縮。恐縮。私たちは彼らへのプレゼントなんて何も考えていなかったので、またまた、困ってしまった。それで、お義母さんたちがおみやげにたくさん持ってきてくれたマンゴーとライムをお裾分けして、持って帰ってもらった。パウロたちが帰って行った後、お義母さんに手伝ってもらって、ローストチキンを作る準備をした。次の写真は、ローストチキンのお腹に詰めるブラジル風のスタッフィングを作ってくれているお義母さんとエドソン。
今年は5人で夕食を囲むので、2人だけでは大きすぎて買えない約4キロくらいの普通サイズのチェスターを買った。1時間半以上オーブンで焼いたチェスターは、おいしそうに出来上がり、8時近くに予定通りみんなでクリスマスディナーの食卓を囲んだ。副菜にはチェスターと一緒に焼いたローストポテト、お母さんが作ってくれたスタッフィングの他に、豆と野菜のサラダ、ニンジンとツナのサラダ、きゅうりの酢の物を用意したのだけれど、エリカは豆は食べないと言い、デニウソンはきゅりが嫌い。お義母さんはツナは好きだけれど、食べるとお腹の調子が悪くなるから食べられないと言い、ちょっとやれやれ・・・野菜をほとんど食べないパウロのところの子どもたちといい、ブラジルの人たちは好き嫌いが多く、食が偏っている人が多いというのが、私の印象。でも、ローストチキン、スタッフィング、ローストポテトはみな気に入っておかわりをして食べてくれた。
| ||||
2011年12月25日(日) | ||||
昨日の午後雨が降った後、少しずつ気温が下がり始め、夜中にも雨が降ったらしく、今朝は涼しく気持ちのいいクリスマスの朝になった。エドソンのお母さんは「寒い」と言って、タンクトップの上に長袖の綿シャツを着込んでいた。今朝は、エリカたちが昨日買ってきたフランスパンをスライスしてトーストしたものや、私が昨日作っておいたフルーツサラダを朝食メニューに加え、今日もよりどりみどりで食べてもらった。朝食後はクリスマスプレゼントをひとつひとつみんなで開けて大いに盛り上がった。エリカたちのためのクリスマスプレゼントを用意していなかった私たちは、パネトーネ、アップルサイダー、ジュース、カシューナッツなどがバスケットに盛り合わさった、パウロの会社からもらったギフトセットをエリカたちにプレゼントした。貰い物の使いまわしのようで申し訳なかったけれど、他に何もないのだから仕方がない。 その後、デニウソンとエリカがショッピングモールに買い物に行きたいと言うのだけれど、ボトゥカトゥのショッピングモールは現在建設中でまだできていない。ここから一番近いショッピングモールと言えば、車で片道1時間半ほどかかるバウルまで行かなくてはならない。しかも今日は日曜日でクリスマス。ショッピングモールが開いているかどうかをインターネットでエドソンが調べると、週末、祝祭日ともにオープンしているとあったので、お昼過ぎにエドソンがみんなを連れて出かけて行った。ただ、ショッピングモールにはモビを連れて行けないので、私とモビはお留守番。この間、私はブログを書いてアップしたり、テレビで桂三枝さんの来伯を取材した「旅のチカラ」という番組や、「坂の上の雲」を見て過ごした。午後5時前にエドソンたちが戻って来たので、その速さに驚いていると、ショッピングモールは閉まっていたから、即Uターンして帰って来たのだとか・・・無駄足だったのか・・・祝祭日も開いているとインターネット上にあったのに、クリスマスは特別なのかな? 今日はお義母さんがローストチキンの残りを骨から切り取って、スタッフィングと一緒に温め直してくれたので、昨日とほぼ同じメニューで夕食をいただいた。次の写真は、ローストチキンを解体しているお義母さんと、それを眺めているエリカとデニウソン。そして夕飯を食べている写真は、デニウソンが撮影してくれた。
| ||||
2011年12月26日(月) | ||||
昨日の夕方から冷たい南東の風が吹き出し、今朝は昨日よりもさらに気温が下がっていた。どんよりと厚い雲に被われて風が吹き荒れるとても涼しい1日になった。今日はエドソンの家族がパラカンビに向け出発する前に、お昼をここから降りて行ったところにあるカンポネーザというレストランで一緒に食べようと予定していたのだけれど、モビのことを忘れていたことを思い出し、急遽予定変更。モビをレストランに一緒には連れて行けないし、ひとりで家に置いておくこともできないからだ。まあ仕方がない。それでみんなで朝食をいつものようにゆっくり食べてから、エリカたちは車に荷物を積み込んで旅仕度をして、9時頃ここを出発して行った。そして、エドソンも一緒に仕事に出て行った。一斉にみんながいなくなり、いつものモビと私だけの日常に戻っただけなのに、急に静かになってしまい、とても変な感覚だった。 私たちがパラカンビに行った際は、エリカもデニウソンも仕事で帰宅時間が遅かったりして家にいないことが多く、看護師さんというエリカの仕事柄、週末でも夜勤があったりするので、毎日朝晩ゆっくりとみんなで食卓を囲むということは滅多にないのだけれど、今回は彼らが休暇を取ってここにやって来たわけだから、仕事のストレスもなく、毎日みんなでのんびりゆったりと過ごしたり、食卓を囲むことができ、とてもいいファミリークリスマスになった。待望の我が家でこのようなクリスマスを過ごすことができたことを心から喜びたい。次の写真は、朝食後に私が流しで食器を洗っているところをエリカがパチリ。
| ||||
2011年12月27日(火) | ||||
久しぶりにイビウーナの中村さんの随筆を紹介しようと思う。今年を締めくくる随筆だ。「坂の上の雲」を見ても思ったのだけれど、「国家」とは一体何なのだろう?
実は、台湾は国連で加盟を認められた国ではない。国連創設以来1971年まで、台北(蒋介石)政府が中国の国連代表だったが、それ以降は北京(毛沢東)政府が国連代表になり、台湾にとって代わった。一人当たりGDPがドイツ並みで、軍事予算も世界第18位であるにも拘わらず、国連は国家として認めていない。 一方、人口4万人以下のサンマリーノ、モナコ、リシテンシュタインは国連で認められた国家だ。最近の国際基準のサッカー競技場の観客席を満たすことも出来ない。では、国家とは一体何だろう。国家の定義が出来たのは、1933年のモンテビデオ国際会議に於いてだが、それによると、①永住人口がいる、②領土が確定している、③政府が存在する、④他国と関係を持つ能力がある、こととなっている。人口の大きさは問われていない。従って、上述4ヶ国は立派な国家として認められているのだ。しかし、台湾の問題は④の条件だけ、国連安保理事国中国の拒否権に妨げられている。その他の条件は申し分なく合格している。通商規模も大きい。 詰り、国家とは政治的に決められているわけだ。理屈に合わないこともある、例えばソマリアだ。1991年以降領土を管理できていない、南部の大部分はアルカイダに繋がる軍事集団に掌握されていて政府機能は不全だが、国連に席を持っている。東北部のソマリーランドは中央政府が機能し自国通貨も持っているが国連に席がない。 パレスチナも18年もイスラエルと交渉しているが、国土はJigsaw puzzleの体だ。パレスチナ管理下の領土あり、イスラエル管理下の領土あり、パレスチナ市民とイスラエル軍の管理下の領土あり、と言うのが現状だ。この9月にパレスチナは国連加盟を申請し193ヶ国中130ヶ国が賛成しているが、安全理事国USAが拒否権を行使するだろうからパレスチナの国連加盟は難しかろう。世界に中央政府がなく、無政府状態なのが、問題の根本にある。世界政府の夢を担ったEUも経済危機に陥り、デンマークが国境をコントロールした如く、ユートピアの夢は遠退いた。英国もEUから距離を置いた。 環境問題も、経済問題も、平和と戦争問題も、エネルギー問題も、世界の重要問題はどれも国家主権主義では解決できないものばかりだ。国家は何処へ向うのか、国家とは何か、改めて問うてみた。2011年の暮れ、現在直面している問題の核心がここにある、と考えるからだ。では、よい新年をお迎え下さい。イビウナ、26/12/2011 中村 勉 | ||||
2011年12月28日(水) | ||||
ニッケイ新聞2011年12月13日付け日系社会ニュースから「アマゾンの魅力を知って=アマゾナス州観光公社が=日本語でガイドブック制作=観光客の誘致を目的に」と題する記事を以下に転載する。アマゾン観光に関心のある人にはいい情報ではないかと思う。 『【マナウス発=田中詩穂記者】アマゾナス州立観光公社「アマゾナスツール」(オレーニ・ブラガ社長)がこのほど、日本人観光客誘致を目的に日本語版ガイドブックを刊行し、ランサメントを6日夜、州都マナウス市内の西部アマゾン日伯協会(錦戸健会長)の会館で行った。この日は同会館で在マナウス総領事館(長沼始総領事)主催の天皇誕生日祝賀会が開かれており、州政府や市役所、地元警察関係者に加え同市に進出している日本企業や近隣日系団体の関係者が 多く訪れ、完成を祝った。 全263頁でオールカラー。地図や主要ホテル、レストラン、旅行会社の情報、同州の地理や歴史、料理、動物、植物に加え、旅行に際しての注意点なども網羅している。 編集・制作を行ったのは聖市の「Empresa das Artes」社。マナウスに工場のあるホンダ社から資金援助を受け、翻訳家の松村ウンベルト氏が日本語翻訳、校正はUSP日本文化研究所が担当した。 03年の州観光業促進プロジェクトが発足以来、ガイドブックは英、ポ、仏、独、中、西語の6カ国語版で既に刊行されており、日本語版は7番目。 アマゾナスツールの販売促進部長のジョアン・アラウージョ氏(48)によれば「同州に最も多く訪れるのは米国人で、2番目はドイツ人、日本人は6番目」だという。 「アマゾナス州はブラジルに来る日本人の間でリオ、イグアスの滝に次ぐ人気。遠いためになかなか足を運ぶ人が少ないが、観光客を増やすには、観光情報を母国語で提供することが必要だと思った」と目的を語り、ファビオ・アヴィラ社長(53)はサンパウロから駆けつけ「アマゾナス州の魅力を日本人にもっと知ってもらえれば」と意気込む。 初版として一千部印刷、「Empresas das Artes」社のウェブサイトで35レアルで販売中。州内のバンカ、書店では既に店頭に並んでいる。今後全国への販売展開も行われる予定。 連絡先はアマゾナスツール(Amazonastur - Empresa Estadual de Turismo、電話=92・2123・3801、HP=www.visitamazonas.am.go.br)、Empresas das Artes(電話=11・3159・4448、HP=www.empresadasartes.com.br)』 | ||||
2011年12月29日(木) | ||||
昨日、エドソンが仕事を休んでくれたので、ボトゥカトゥのペットクリニックに行き、検査の結果を受け取り、ヴィットリア先生とモビの今後のことをいろいろ相談した。モビは治療をしなければ、長くて1年くらいの命だと告げられた。今はこんなに元気なのに、何だかとても信じられない。年明け早々、大学病院で受診し、手術が可能かどうか、手術ができなければ、他の治療方法を相談する予定。しこりが耳にとても近いので手術ができない可能性があるからだ。ヴィットリア先生は手術ができない場合は、鍼灸治療などを勧めていた。 モビは私たちがここに来るまでの間に蓄積した何か悪いものでガンを発症してしまったのだろうけれど、せっかくこんなに自然環境のいいところに暮しているのだから、私たちはなるべく体に悪いものを蓄積しないように、良いものを食べて健康に暮らそうと、前にも増して切実に考えるようになった。それで、最近は朝食のコーヒーは止めて、ショウガをすってマテ茶に入れて飲んだり、砂糖は白糖を止め、ブラウンシュガーにしたり、ご飯はいきなり玄米だけを食べるのは無理なので、白米に混ぜて食べたりしている。次の写真は、ここでも簡単に手に入るサトウキビのブラウンシュガー。
次の写真は、もち米(左)と日本米の玄米(右)。ブラジルでは玄米のことをインテグラウ(Integral)と言って、ここの普通のスーパーでも簡単に手に入り、現在はそれを日本米に混ぜて食べている。でも、先日ボトゥカトゥのウエノでいつも食べている銀米ブランド(日本米)の玄米があったので買ってきた。最近読んだ本に、白米と玄米を混ぜるとあまりおいしくできないから、混ぜない方がいいとあり、白米の代わりにもち雑穀を玄米に混ぜると食べ易いとあった。でもこの辺ではもち雑穀だけでなく、普通の雑穀すら見かけないので、このもち米を見て、じゃあこれを混ぜてみるかと思ったのだ。でも現在、白米と玄米を混ぜて、炊飯器を玄米炊きにセットして炊くと、玄米も柔らかくおいしく仕上がるので、このもち米は必要なかったかも・・・
| ||||
2011年12月30日(金) | ||||
新年を迎える準備として、昨日、玄関の扉に飾っていたクリスマスリースを外し、日本でも飾っていたしめ縄を飾った。たったこれだけで、他には何もお正月らしいものはないけれど、一応これで我が家は新年を迎えることができる。
クリスマスが終わりベッドシーツの洗濯などに精を出し、家と物干場を何度も行ったり来たりしていたら、ガレージの前の水場の前に黄色いマーガレットが咲いているのに気づいた。このマーガレット、家のベランダの前のハイビスカスガーデン、つまり家の北西側にたくさん咲いているものだけれど、家を飛び越えて、南東側でポツンと咲いているのでびっくり。風で種が飛ばされたのか?鳥が運んで来たのか?こんなに土が硬く、セメントや砂利や煉瓦の破片で被われた環境の悪いところなのに、しっかり花を咲かせている。すごい生命力だと思う。
| ||||
2011年12月31日(土) | ||||
今日は、午前中ずっと霧に包まれ、1日中雨が降ったり止んだりの大晦日となった。それで家事はほとんどせず、最低限3度の食事の仕度をテレビを見ながらする程度で、ゆる~い1日を過ごした。午前8時15分からの「紅白歌合戦」と、12時45分からの「ゆく年くる年」を見て、まず日本時間での年越しをした。そして、10分間のBSニュースを挟んで、13時45分からは「年の始めはさだまさし」という1時間半余りの番組を見て笑った。日本から遠いブラジルにいても日本と同じような大晦日を満喫できることに感謝。次の写真は、紅白を見ている時に、私の足元のベッドの中でくつろいでいるモビ。モビがいてくれることも感謝。
外ベランダ横の花壇のバラやベイジョが元気に育っている。特に、ここ数日バラがいくつもつぼみをつけて、小ぶりの花を咲かせ始めた。次の写真は、今日のお昼過ぎにエドソンが撮影したバラの花。
夜になっても雨は降ったり止んだり。サンパウロもリオデジャネイロも雨。それでも大勢の人がアヴェニダ・パウリスタ通りやコパカバーナに繰り出していた。ブラジル各地からの大晦日の様子をテレビ中継で見ながら、12時のカウントダウンをして、予定通り始まった各地の花火を見て、今日二度目の年越しをした。
|
Home | Copyright (C) 2009 Kyoko Yoshida | Next |