Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2011年11月1日(火) | ||||
先日ジョアオンがうちの土地に石灰を撒いた後雨が降ったので、先週の木曜日の夕方またトラクターでやって来て、雨で石灰が染み込んだ土地を再度耕し、土曜日の午後には、とうもろこしの種を蒔く作業が行われた。本格的に何かを栽培しようと思うと、何度もトラクターで土地を耕して土の準備をしなければならないので、農業って大変だなあと、つくづく思う。 まだフィオナが元気で、下のガレージで仮住まいをしていた時に、モビとフィオナが狭いベッドの中で仲良く同じ方向を向いて、まったく同じ恰好をして寝ている写真を、「シンクロナイズド・スリーピング」と紹介したことがあるけれど、最近はモビとエドソンが同じような恰好をしていることがよくあり、笑いを誘う。先日の夜も、居間でテレビを見ていて、ふと側のエドソンとモビを見ると、ふたりともテレビなど見ておらず、同じ方向を向いて、同じようにぐっすり眠っているので、写真に撮ってみた。
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2011年11月2日(水) | ||||
今日はジア・デ・フィナードス(Dia de Finados)という祝日で全国的にお休み。でも、エドソンは土曜日の夜の暴風でイタチンガのテレビ塔が倒壊して以来ダウンしているインターネットサービスを、早急に復旧させる作業で会社が大変なので、今日もいつもより早く仕事に出て行った。テレビ塔のあったすぐ近くに適当な借地が見つかったらしく、そこに自前でタワーを建てる作業が行われているということだった。一方私は、月曜から続けている草を抜いたり、密生しているハイビスカスを植え替えたり、カロリナソイルを撒いたりという庭仕事に勤しんだ。 「雨後のタケノコ」とはよく言ったもので、最近よく降る雨であちこちから新しい竹の芽がたくさん出てきている。次の写真は、家の西側のヒメシマ竹の芽。親竹からずいぶん離れた場所で何本も生えているのを発見。このカメラのフレームの中だけでも7本の芽が確認できる。
次の写真は、家の北側の丘に沿って防風林として植えた竹。植えてから2年近くになるのに、枯れはしないものの小さいままで、まったく成長が見られず、いつまで経っても防風林として役に立ちそうにないので、エドソンがセドリーニョかグレヴィーリャに植え替えようかと考え始めていたところ、この2ー3週間でどの竹にもぴゅーんとびっくりするほど背の高い芽が伸びてきている。
「フィナードス」というのは、「死者の日」とか「万霊節」という意味で、日本でいう「お盆」にあたる。日系人の人たちは「ブラジル盆」と呼んでいるそうだ。この世を去った全ての人々を思い起こし、祈りを捧げる日。10世紀にカトリック教会が11月2日を故人の日あるいは故人追悼の日として「フィナードス」を定めて今日に至っているという。ポルトガル人の間では、この日は一切の殺生をしないという習慣があり、それがブラジルでも普及したといわれている。この日は日系人に限らずお墓参りをするので、墓地がお墓参りの人たちで混雑すると聞いた。夜、エドソンと私とモビで、今年この世を去ったフィオナと私の父のためにろうそくを灯して、追悼した。
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2011年11月3日(木) | ||||
ニッケイ新聞に2011年10月15日付けから、「世界市民的な移民女性=平田美津子という生き方」という連載(6回)が始まった。昔、文藝春秋だったかで、九州の隠れキリシタンの村の住民が大勢、信仰の自由を求めて同じキリスト教国のブラジルに移住し、その中から政治家になった人たちもいるという連載記事を読んだ記憶がある。そのひとりがこの人のご主人だったのかもしれない。すべての記事が自由に読めるようになったので、ここにその記事のサイトを紹介しようと思う。 『「コスモポリタン(世界市民)そのものの移民女性の生涯を書いてみたいと思いました」。ブラジル日本移民史料館9階で9月15日夜に行なわれたポ語人物評伝『Cecilia Hirata』(editora Terceiro Nome刊、10年)の日系社会向け刊行記念パーティで、著者の優美(ゆみ)・ガルシア・ドス・サントスさん(42)はそう執筆動機を語った。セシリアは カトリック洗礼名、本名は美津子(88、大阪)だ。平田ジョアン進連邦下議(1914—1974)の妻だと知っている人は多いが、その世界市民的な生涯は意外と知られていない。父は外交官という裕福な家庭に生まれ、大戦前に米国、マニラ、北京、香港などで当時珍しい英語教育を受け、戦争中は大東亜大臣秘書のほか外国人向け英語放送(現NHK)のアナウンサーとして有名な〃東京ローズ〃と働き、平田進と結婚して伯国へ移住、子供を仏ソルボンヌ大学教授などの優秀な文化人に育てた。夫とは別な意味で波乱万丈なその生涯を、刊行を機にふり返ってみた。 第1回=英語で教育された才女=父と兄弟3人は外交官 第2回=大東亜省で大臣秘書に=「東京ローズ」と働く 第3回=「移民の子と結婚するのか」=家族の反対を押し切って 第4回=カトリックが結ぶ愛=400年経て結実するもの 第5回=娘が学生運動で監獄に=州知事に直談判し亡命? 最終回=百周年で顕彰されたルイス=平田家に流れる信仰の血』 この連載記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2011年11月4日(金) | ||||
今日付けのロイターニュースに、キリンがブラジルのスキンカリオール社を完全子会社化することが決まったと出ていた。キリンがスキンカリオールの株を取得して、子会社化するというニュースはだいぶ前にあったけれど、一部株主からの反対で協議が続いていたのが、ようやく決着したようだ。 『[東京 4日 ロイター] キリンホールディングス<2503.T>は4日、ブラジルのビール・清涼飲料会社、スキンカリオール・グループを100%子会社化することで合意したと発表した。 今年8月に50.45%の株式を約1988億円(39億5000万レアル)で取得することで合意していたが、一部株主の反対を受けて協議が継続されていた。キリンは残る49.54%の追加取得に約1050億円(23.5億レアル)を支払い、今回のスキンカリオール完全子会社化に総額3038億円を投じることになった。 キリンは11時から都内で会見を行う。 スキンカリオールの買収をめぐっては、一部株主がキリンによる買収に反対を表明し、手続きの停止を求める訴訟になっていたが、8日までに取り下げることで合意した。 キリンは4日付で残る株式の取得を完了する。日本のビール大手がブラジル市場に本格的に進出するのは初めて。キリンは、国内のビール市場が縮小する中で、成長の見込めるブラジル市場の取り込みを図る。 スキンカリオール・グループは、ブラジル第2位のビール事業(シェア15%)、第3位の炭酸飲料事業などを手掛けている。(ロイターニュース 江本 恵美;編集 山川薫)』 | ||||
2011年11月5日(土) | ||||
ニッケイ新聞2011年10月22日付けのブラジル国内ニュースに、「FIFA=14年W杯の公式日程を発表=聖市では開会式と6試合=リオとブラジリアは各7戦=欧州勢からは早くも不満」という記事が掲載されていた。この記事のサイトは、こちらへ。 先週、先々週と丸2週間エディたちが仕事に来ていないので、畑やシュハスコの小屋にまったく進展なし。このところどうやらモラエス家具店の上にできつつあった家の仕上げをしているらしい。モラエスさんも遅々として進まない作業に我慢に我慢を重ねてようやくお店ができたので、その続きで上の自宅も一気に完成させてほしいと望んでいたのだろうけれど、うちの家の方を優先してくれていたので、あちらは完成が延び延びになっていたわけだから、今エディたちがあちらの仕事に行っていても仕方がないなと思う。でも、私はこの1週間毎日庭仕事に励んだので、庭は少しきれいになってきたかなと自己満足している。私たちが家を建て始めた時、ここには木が1本もなく、ただ放牧牛の食べる草のブラキアーリアが生い茂っているだけの荒地だったけれど、自分たちで穴を掘り、木を植え、草を除去して行って、少しずつ庭らしくなってきているのを見るととてもうれしい。
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2011年11月6日(日) | ||||
エドソンは今日、朝からパウロと一緒に、この週末アマチュア無線のフェアが開催されているインダイアトゥーバへ出かけて行った。去年の同じ時期ここでエドソンは「SDRゼロ」の講演をしたけれど、今回もSDR技術やSDRゼロに関する1時間半ほどの講演をするので、ノートパソコンを抱えて行った。私は午後クラスがあるので、モビとお留守番。朝一番のモビとのお散歩に出て、1週間ほど前にジョアオンが種を撒いたとうもろこしの芽が出ていることを発見。その成長の早さに驚いてしまった。次の写真は、入り口ゲート近くの耕された土地に、規則正しく一列に芽を出しているとうもろこし。
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2011年11月7日(月) | ||||
テレビのノヴェラで時々、「テン ハザオン(Tem razao.)」という表現を聞く。razaoは英語でreasonのことだと察しがつくのだけれど、「Tem razao.」を英語に直訳すると、「You have a reason.」ということになって、どうも意味がよくわからない。なんて思っていたら、先日、アメリカのテレビドラマを見ていて、「That´s right.」というせりふのポルトガル語訳の字幕に「Tem razao.」と出ていて、「へー・・・そういう意味になるの?」と納得した。アメリカのテレビドラマを見ながら、すぐ消えるポルトガル語の字幕を見るのはちょっと大変なのだけれど、短い表現のポルトガル語訳なら何とかキャッチできるので、ブラジルのノヴェラだけでなく、ブラジルで見るアメリカのテレビドラマもポルトガル語を学ぶのに結構役に立つものだなあと思ったりしている。 | ||||
2011年11月8日(火) | ||||
昨晩、ブラジル被爆者平和協会の渡辺さんから、26日に行われたETEC TAKASHI MORITAの命名セレモニーの時の写真が、メールに添付されて数枚送られてきた。私自身はセレモニーに参加していないので、この件に関してリポートを書きたくても書けないなと思っていたのだけれど、せっかくいい写真を送ってくださったので、私の知っている範囲で簡単に短いリポートを書いてみることにした。いつものことながら、リポート書きに集中すると、時間があっと言う間に過ぎてしまう。リポート書きの合間に家事をしたり、モビのお散歩をしたりとバタバタしていたら、本当にあっと言う間に1日が終わってしまった。でも、今日中に原稿のドラフトを渡辺さんに送信することができ、渡辺さんもすぐに目を通して確認してくださり、とても充実した1日になった。次の写真は、送られてきた写真の1枚。セレモニーの後で撮られたようだ。後列左から2人目が森田さん。右から2人目が渡辺さん。後列の若い男の子たち3人は、この学校の新しい校章デザインに応募して最終選考に残った生徒たちで、最終選考は全校生徒による投票で、真ん中のネクタイをしめた生徒の鶴をあしらったデザインが選ばれ、新しい校章になったということだった。
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2011年11月9日(水) | ||||
月曜日の朝、エディとマノがやってきたので、モラエス家具店の家の方は終わったのかな?と思いつつ、いつものように彼らのためにコーヒーを作ってポットに入れ、物置小屋に持って行った。朝食後しばらくエディと話していたエドソンが戻ってきて、エディたちは何か道具を取りにきただけで、ここに作業に来たわけではないという。「ええ・・・コーヒーを入れて持って行ったのに・・・」とぼやくとエドソンが、「コーヒーはせっかくだから持って行って飲ませてもらうって言ってたよ」という。「そういうことなら入れたコーヒーは無駄にはならないから、まあいいか?」 そして、昨日の朝はエディとマノとサンドロの3人がやってきたのだけれど、ここで1日作業をするのかどうかをエドソンに確かめてもらってからおもむろにコーヒーを入れた。午前中はお隣の倉庫の修理をしに行っていたけれど、午後からは、エディとマノは屋根裏で、太陽光温水機からお湯を引くパイプの取り替え作業をし、サンドロは外階段のペンキ塗りのための下塗りをしてくれた。ここで使っているお湯は、太陽光温水機で温められたお湯を使っている。使い始めて数日したらシャワールームの床のタイルがうっすら緑色に変色してきたので、どうしたのだろうと思っていた。どうやら、ここの地下水は良質のミネラルウォーターではあるものの、ここの土と同様酸性度が高いので(降った雨が土を通って地下に行くのだから当然のことだけれど)、その熱湯が銅製のパイプを通る際に反応して、水を緑色に変色させているらしい(つまり緑青?)ということがわかった。それでパイプの取り替えをしてもらう必要があったのだ。これでお湯の問題が解決し、ほっとした。感謝。感謝。次の写真は、下塗りされた外階段。
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2011年11月10日(木) | ||||
車の走行距離が25,000キロを超えたので、昨日はアヴァレのトヨタに定期点検に行った。モビも連れて行ったので、点検と整備が終わるのを待つ間、町の中心部には行かず、トヨタの近くの2軒の店で買い物をした。モビを連れていると、どこに行っても店の人やお客さんが寄ってきて、モビに愛想を振りまいたり、私たちに話しかけてくるのでおもしろい。モビの人相というか、犬相がいいからだろうか?モビはどこに行っても人気者になる。午後3時前にアヴァレから戻ると、仕事に来ていたエディたちが早々と引き上げて行くのとすれ違った。家に戻ると、外階段のペンキ塗りが完了し、家の下のガレージの外壁の下塗りがだいぶ進んでいた。
5時を回って日差しが少し弱まってきてから、買ってきたジャスミンやアメンドインなどを植える作業をした。これらを植えるためにエドソンがたくさん穴を掘ってくれ、私がひとつひとつ植える作業をしている間に、外階段の箱庭部分に、エドソンが買ってきた小さなソテツを植えてくれた。庭がどんどん良くなってきているので、とてもうれしい。次の写真は、今朝撮影したソテツ。これからこの庭にも少しずついろいろな植物を植えて、きれいにして行こうと思っている。このソテツはその作業の第一歩。
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2011年11月11(金) | ||||
ニッケイ新聞の2011年10月28日付け日系社会ニュースの中から、以下に3つほど記事を紹介したい。どれも私は興味深く読んだ。 「高拓生80周年=戦中の迫害を州政府が謝罪=教育を伝え、「絆の日」制定も=東海林、千葉さんに名誉市民章」 この記事のサイトは、こちらへ。 「日系紙記者がみた移民社会=琉球大がフォーラム開催=米、亜、伯の4人が報告=『忘れるな、受け継げ、伝えろ』」 この記事のサイトは、こちらへ。 「第52回海外日系人大会=「強めよう日本との絆」=文協から3提案を発表」 この記事のサイトは、こちらへ。 次の写真は、外ベランダ横の花壇。バラとベイジョを植えた後、クローバーを移植し、その後エドソンがキアボ(オクラ)の種を撒き、水曜日にはアヴァレで買ってきたカラフルなケイトウの苗を15本植えた。左側奥の苗は、まだ植えていない飾り用の小さな唐辛子の苗2つ。エドソンが撒いたキアボは、ちゃんと6つとも芽が出てきている。「どうしてキアボを花壇に撒いたの?」と聞くと、「花がキレイだから」と言っていた。本当にキアボの花は派手ではないけれど、芙蓉の花のようなきれいな花が咲く。
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2011年11月12日(土) | ||||
今朝、朝食の後、エドソンがせっせとアメンドインなどを植えるための穴掘りを始めたので、私も台所を片付けてバナナブレッドの用意をしてから庭仕事に参加した。私が参加するまでにエドソンはすでにアメンドイン用の小さな穴を数十個掘り、虫が嫌うニムという木の苗木を植え終わっていた。私はラベンダーの苗を3つずつ、エドソンが用意してくれた4つの穴に植えた。小さな苗だけれど、とてもいい香りがする。このいい香り、何故か虫は嫌うらしいので、少しずつでも増やして行きたいと考えている。
ラベンダーの苗を植え終わってから家に戻り、オーブンの中のバナナブレッドをチェックしたら、焼く温度がいつもより高かったのか、ちょっと焦げかけていた。やれやれ危なかった。お昼前にエドソンが戻ってきて、腰かけて庭と景色を眺められるようにと、ベンチを庭の中程に作って来たというので、外に行って写真に撮った。このベンチの後ろにはクヌギの苗木が2本植えてあるので、この2本が育つと、いい木陰ができると思う。
午後1時前、ドナ・ベティが訪ねてきてくれた。リリオ ダ パス(Lirio da paz=Lily of peace=平和の百合)という名前の鉢植えの植物と、小さな飾り用の竹の鉢植えと、エリゼウが作ったという竹細工のトンボをお土産に持ってきてくれた。この竹細工の土台はフランシスが作ったのだそうだ。何とも可愛い。くちばしのところで、やじろべいのようにとてもうまくバランスを取っている。ドナ・ベティは昨日アメリカから戻ったばかりで、夜中過ぎにパーディーニョにやって来て、今日の午後にはまたサンパウロに戻らなければならないという忙しいスケジュールの中を縫って、約1年余りぶりに、わざわざやってきてくれた。70代も後半だというのに、元気だなあと思う。朝焼いたバナナブレッドとお茶で1時間半ほどおしゃべりを楽しんだ。前回彼女がここに来た際は、まだガレージでの仮住まいだったけれど、今回は家ができた後なので、「まあ、いい家ができたわねー」と喜んでくれた。
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2011年11月13日(日) | ||||
今朝も短時間庭仕事をして、残りのアメンドインを植える作業を完了した。朝食後にパウロから電話があり、お昼にシュハスコをすると言うので、11時過ぎに庭仕事を終えて出かけて行った。午後から英語のクラスがあるため、長居はできないけれど、2週間余り前に、子宮の摘出手術をしたジャナイーナのお見舞いも兼ねて顔を出すことにした。ジャナイーナはまだ本調子ではなく、時々痛みがあると言っていたけれど、今日の体調はまずまずのようだった。日本だったら最低1ー2週間の入院が必要な手術だと思うけれど、ブラジルはアメリカ同様入院日数がとても短く、たった3日で退院しなければならず、大変だったと言っていた。痛みのある中、家に戻っても、小さな子どもはいるし、家に帰ると主婦は家事が気になり、彼女にはパウロの会社の仕事のこともあるので、なかなかゆっくり療養するという感じではないようだった。それを考えると、日本のように1ー2週間しっかり入院して療養した方が、術後の回復も速いのではないかなと思った。 日曜の午後の生徒たちは、だいたい1時半頃ホドリゴの車で一緒にやって来るので、1時にパウロのところを出れば十分間に合うと思っていたら、まだ1時半にならないのに、ホドリゴがうちまで行って、ゲートに鍵がかかっていたので、引き返すところに出くわした。今日はルアナは何かの試験でお休みで、ヴィトーも昨日は夜中過ぎまで遊んだので疲れて寝ているからお休み。それで、ホドリゴがひとりでやって来たのでいつもより早かったようだ。と言うか、もっと正確に言うと、弟のパウロ・エンヒケ(Paulo Henrrique)を連れてやって来ていた。パウロ・エンヒケはサッカー留学をしている16歳。サッカー選手になるために、ひとり家族と離れて、ここから北西に200キロほど行ったガーサ(Garca)という町のサッカークラブのジュニアチームに所属している。ポジションはボランチだそうだ。彼の話は時々聞いていたけれど、会うのは今回が初めて。今週末は火曜日が祝日なので4連休を取る人たちが多いのだけれど、彼も4日間の休暇で家に帰って来ているようだった。それでお兄ちゃんにくっついて行動しているらしく、英語のクラスにも一緒に来てしまったらしい。「一緒にする?」と聞くと、恥ずかしそうに、「見学だけ」と言って、お兄ちゃんのレッスンを見ていた。まだ16歳だというのに、もうすでに5歳年上のお兄ちゃんよりも少し身長が高い。レッスンが終わって彼らが車に乗り込む前に記念にパチリ。
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2011年11月14日(月) | ||||
昨日の夜降り出した雨は、夜が明けてもまだ降り続いていたけれど、エドソンが仕事に出て行った頃から雨足が軽くなり、相変わらず深い霧に包まれてはいるものの、雨は何とか止んでくれた。今回の雨は雷を伴う土砂降りではなく、霧が立ち込めて、日本の梅雨のような感じの雨だったので、雨がしっかり地面に染み込んで、植えた木やアメンドインには恵みの雨になった。 最近、ギャーギャーと鳴く緑色の鳥が家の回りを飛んでいたり、木の上にとまっていたりと、毎日のように見かける。今朝などは居間の窓から見える外ベランダの手すりの上に、2羽がしばらくの間仲良くとまっていた。パパガイオ(Papagaio)だと思っていたら、エドソンが「あれはマリタカ(Maritaca)だよ」と教えてくれた。見た感じ違いが分かりにくいのだけれど、大きさがパパガイオよりも小さく、マリタカはパパガイオのように人間の言葉を憶えたりはしないのだそうだ。日本語にすると、パパガイオはオウムで、マリタカはインコということになるのだろうか?どうやら巣を作る季節らしく、つがいで営巣のための場所を探しているのだろうと、エドソンが言っていた。 | ||||
2011年11月15日(火) | ||||
今日は、「共和制宣言記念日」で、全国的に休日。でもせっかくの休日も、降り続く雨のため外での作業ができないので、家にこもって過ごす。今年の7月にガンのため闘病生活に入ったイビウーナの中村さんは、それまで書いていたウィークリーノートをお休みして、代わりにガン闘病記を書いていたけれど、ぼちぼち以前のような随筆を復活されたようなので、それをここに転載しようと思う。だいぶ体調がよくなり、気力、体力ともに回復しておられることが想像できる。
この2週間ほどNHKニュースの話題はTPPに集中していた。参加反対の報道に偏っていたとの印象を持った。環太平洋の9ヶ国が開国の話合いをしようという枠組みの中に入ってはいけない、ということが病人には理解できなかった。TPPの参加国で、21項目に亘って協議するということだが、大きく分けると、関税とルール作りの2つで、貿易立国を標榜する日本がその協議に参加しないというのは鎖国せよということかと、首を傾げざるを得なかった。 国益という言葉も多用されたが、食糧自給率40%以下の国に鎖国せよ、外国と話をするな、と言っているのだとしたら、正気の沙汰と思えない。そうではなかろう、準備不足だから待ってくれ、ということだったら、相手があることだから、何時まで待ってくれと言わねばならないだろうし、TPP参加表明諸国が「待てないから見切り発車する」とすれば、関税とルール作りの協議に参加しないことによるリスクをどう考えればよいのだろう。そのリスクなしという場合の国益とは一体何なのか、病人の頭には入ってこない。 そうこうしているうちに、野田首相はTPP参加すべく事前協議に入ると言い、APECホノルル会議に飛び立った。TPP絶対阻止派のリーダ―も「事前」協議ならOKだと、納得した。元々参加9ヶ国全員のOKがなければ参加できないわけだから、今回の野田首相のホノルル行きの目的は事前協議以外の何ものでもなかったのではないか?そうだとすると、あの来る日も来る日も絶対阻止派の報道とは、何だったのだろう。議論不十分だ、情報不足だ、という反対派の議論も肯けない。現代の問題は、情報と議論が過剰で、行動力不足ではなかったのか? 事の本質でなく、報道の姿勢こそが問題だったように思う。たまたま読んでいる時代小説に、「親分、町に暮らす者にとって、真相がどうであるかは大事ではない。話に尾びれをつけておもしろおかしゅう伝えられればそれでよいのじゃ」というセリフがあった。報道機関は市民が面白がりそうな話に跳びつき尾鰭をつけ、それが恰も世論のように仕立てる。政治家や団体の幹部がそれに煽られ、その尻馬に乗る、更に報道機関は市民をおもしろがらせようと努める、そういうことか。事の本質「世界は相互依存を益々強める」位は弁えて置きたいものだ。14/11/2011、中村 勉/イビウナ庵主 | ||||
2011年11月16日(水) | ||||
昨日はほぼ1日雨、雨、雨で、食事作り以外に何も家事をする気にならず、ただメールを書いたり、インターネットのニュースを読んだり、テレビを見たりして、ぼーっとして過ごした。たまに雨が軽くなると、モビを用便のために連れ出すことを繰り替えしているうちに1日が終わった感じだ。でもそんな雨の中、お隣ではお昼にシュハスコをしたらしく、その食事作りに駆り出されたドナ・クレウザが、後片付けを終えてから、夕方近くになってマウリシオとマテウスと3人で我が家を訪ねてきてくれ、以前製作を頼んでおいた敷物3枚を届けてくれた。この3枚の敷物は、私たちの寝室と、来客用の寝室の床に置くためのもの。私たちの寝室用の2枚はそれぞれ70レアル(約3500円)。来客用寝室のものはサイズが大きいので120レアル(約6000円)。合計260レアル(約13000円)を支払ってありがたく受け取った。私の希望通り、とてもきれいな敷物を作ってくれ、感謝。感謝。彼女はお料理も上手だけれど、編み物もとても上手だ。「また何か作ってほしいものがあったら、いつでも言ってね」と言い置いて、帰って行った。
予報では今日は雨が上がるはずだったのに、朝起きたらまだ降り続いていた。うーん、ちょっとうんざり。エドソンが仕事に出かける頃、ようやく雨足が軽くなり、しばらくして止んだものの、風は強く、空は厚い雲に被われて、いつまた降り出してもおかしくない空模様なので、気が滅入る。今日は台所の痛んだふきんを何枚かおろして、雑巾にするための縫い物でもして過ごすことにする。 | ||||
2011年11月17日(木) | ||||
降り続いていた雨がようやく上がり、今日は朝から太陽が顔を出し、すっきりと晴れた気持ちのいい1日になった。家の窓も、下のガレージの扉とエドソンのオフィスの窓もすべて開け放ち、風を通し、たまっていた洗濯をして物干しへ。その後、家とガレージの掃除をし、モビと久しぶりに長いお散歩をした。今月初めにあちこちから芽を出し始めたヒメシマダケのことを写真で紹介したけれど、芽を出していたヒメシマダケはどんどん成長し、私の背丈よりも高くなっているものもあり、その後出てきた新しい芽もたくさんあって、数えてみると70本近くが確認できる。まさに爆発的な成長ぶりだ。縦の成長が止まると、今度は葉を生やす横の成長が始まるのだろうけれど、そうなるとここに素敵なヒメシマダケの壁ができることになるので楽しみだ。ヒメシマダケの足元に植えたアメンドインも元気に育ち、地面を被いつつある。
ジョアオンが種を蒔いたとうもろこしも順調に育っている。次の写真は、入り口ゲート付近から南を向いて撮影。とうもろこしの芽がきれいに並んで生えている。左側手前の木は、2年くらい前に植えたパイネーラの木。この木も植えた時と比べると、2.5倍くらいに成長している。電信柱の向こうに見える大きな木は、我が家の西側にあるランドマークのような木で、我が家を建てる前から唯一ここに生えていた木。この木の左側に我が家があるのだけれど、ちょうど丘の影になっていて建物は見えない。
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2011年11月18日(金) | ||||
昨晩、マックス・フェファー文化センターで、Sustainability(持続可能性)に関するイベントがあるというので、出かけて行った。何か専門家による講演があるのかと思っていたら、ドナ・ベティのジャトバス研究所とマックス・フェファー文化センターの活動報告兼資金調達イベントのような感じだった。パーディーニョの市長、市会議員、そしてパーディーニョでビジネスをする人たちの一部を招いてのイベントだった。エドソンから詳しいことを聞かされずに行ったのだけれど、実のところ、招待されていたのはエドソンではなくインターネット関連会社を経営するパウロで、彼が昨日はイタペヴァに行っていて参加できないので、代わりにエドソンに行ってほしいと頼まれて、出かけることになったようだった。とても立派な報告書や活動ビデオが作成されていて、その質の高さにずいぶんお金がかかっていることが想像できた。でも、招待客がこのちっぽけなパーディーニョの政治家と、会社を経営している人たちの一部というのに、ちょっと首を傾げた。持続可能な活動を続けて行きたいと思うなら、ボトゥカトゥを始めとする近隣の町やサンパウロからも理解者を招待するなどして、広く浅く存在感を示す必要があるのではないかと思うのだけれど、どうなんだろう?でも、まあ、鉄工所を経営するジミーと彼の奥さんも招待されていて、私たちを見つけると、私たちが座っていたテーブルに来て座ってくれたので、いろいろ話ができて良かったとは思う。次のピンボケの写真は、このイベントの始めに挨拶をするドナ・ベティ。彼女の横に立っているのは、パーディーニョの市長。このところ11月とは思えない低い気温が続いていて、昨晩の気温は14ー5度だったため、長袖のTシャツの上に長袖の上着を着ていても、開けっぴろげの会場では風が吹きつけて寒くて参った。
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2011年11月19日(土) | ||||
木曜夜のマックス・フェファー文化センターでのイベントで、今週末はサンパウロからフランシスも一緒に来ているとドナ・ベティから聞き、昨日の夕方、エドソンが仕事から帰宅した後、ドナ・ベティのファゼンダにお邪魔した。イタチンガのテレビ塔が倒壊したあの暴風の際、ドナ・ベティのファゼンダでもゲートの看板が吹き飛ばされたり、柱が壊れたりと、いろいろ被害が出たらしく、フランシスはそれらの修理のために駆けつけて、忙しくしているということだった。夕食前なのだけれど、ドナ・ベティ手作りのチョコレートケーキやクッキーと番茶をいただきながら、久しぶりの再会を楽しんだ。少しして、エリゼウも仕事を終えて合流しおしゃべりに加わり、自分で作った竹のギターでいろいろな曲を弾いてくれた。普通のギターよりもとても繊細で柔らかい、居心地のいい音色だった。彼はドナ・ベティのファゼンダの竹ファームの管理を任されている人なのだけれど、とにかく多才なので驚いてしまう。フランシスもとても才能豊かな人で、いろいろなことをする(例えば、フランス語、日本語、英語を話し、鍼灸治療をしたり、琴を弾くこともできる)人だけれど、如何にもフランス人という感じで、斜に構えたところがある一方、エリゼウはとても真っ直ぐな人柄が滲み出ていて、好対照といった感じだ。次の写真は、手作りの竹のギターを弾くエリゼウ。
7時過ぎて失礼する前に、エリゼウがドナ・ベティのファゼンダの敷地内に手作りしている彼の小さなエコハウスを見せてもらった。お休みの日を利用して、ペットボトルとレンガとコンクリートを積み上げて、少しずつ建てているのだそうだ。ペットボトルは無色透明のものと、緑色のものだけを使い、完成すると壁面のひとつにジャトバの木が現れるようにデザインしているらしい。次の写真は、エリゼウの建てている家を見学しているところ。左からフランシス、エリゼウ、ドナ・ベティ、そしてエドソン。エリゼウは何故か元気に半袖シャツ1枚だけれど、本当は気温が低く寒いので、みんなウィンドブレーカーを着たり、厚手のカーディガンを着ている。
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2011年11月20日(日) | ||||
今日は、午後のクラスがキャンセルになったので、洗濯を終えた後、私は心置きなく庭仕事に励んだ。1本だけ植え残っていた桜の苗木を先週植え、昨日の午後イペーの苗木5本とその他1本を植えたので、それらに水をやり、植えたばかりのアメンドインなどにも水をやり、アメンドインの周辺の草取作業をした。次の写真は、外ベランダの横に作った花壇のバラ。2ー3日前からつぼみがふくらみ始めていたのだけれど、昨日、花開いた。
一方、エドソンも今日は頑張りモードで、家の中の彼のワークスペースに無線機を置くための小さな棚を作ったり、ダイニングルームのカーテンを取り付ける作業をしたり、家の南側の三角地帯からカラやシュシュが芽を出し、つるを伸ばし始めたので、それらがうまく成長できるようにつるをひもに這わせたり、以前収穫して食べずに取っておいたカラの実を植えたりと忙しく動き回っていた。気がついたらもう1時半になっていたので、今日の作業はおしまいにした。次の写真は、エドソンが取り付けてくれたダイニングルーム西側の窓のカーテン。外がとても明るく逆光なので、写真が少し暗くなってしまった。
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2011年11月21日(月) | ||||
ジョアオンがとうもろこしの種を蒔いた数日後に、丘の峰に沿って防風林として植えているリグストルンと、グレヴィーリャと、竹の間に何かの豆の種を蒔いていたけれど、やはり1週間くらいしたら芽が出てきて元気に育っている。次の写真はリグストルン(左)とグレヴィーリャ(右)の列の間のスペースに生えてきている豆の芽。この写真の向こうに見える家は、西隣のコーヒー園のクラウディオの家。と言っても、彼らはバウルに住んでいるので、めったにここにはやって来ない。ここで働く人たちの車やトラクターが、家の左側の倉庫を出たり入ったりするのが見えるくらいで、いたって静か。
今日もせっせと草を取ったり、建設工事で庭に散らばった砂利を拾ったりという庭仕事をした。草取りなどの庭仕事をしていると、心配事があっても、体を単調に動かしているせいか、いつのまにか頭の中はからっぽになり、何も考えておらず、作業に集中している自分がいることに気づく。まるで座禅のようなメディテーション効果があると実感する。 | ||||
2011年11月22日(火) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2011年11月9日付け「コラム 樹海」からの転載。 『経団連会長を務め、「土光臨調」といわれる行政改革の舵取りをした財界の大物・土光敏夫(1896— 1988、岡山)は伯国と縁が深い。彼の本棚を覗くという『文藝春秋』10月号記事によれば、やはりブラジル関係の本が残されていた▼1920年に東京石川島造船所(現IHI)に入社、経営の危機にあたり50年に社長就任して再建に取り組み成功させた。その途中、52年にブラジル海軍への軍隊輸送船2隻の納入が国際入札で決まったのがきっかけで、59年にリオに石川島ブラジル造船所(イシブラス)を設立した。「主力銀行幹部からは『海外進出は国内の本業を固めてから』と反対され」(同)る逆風の中で実現させた▼『ブラジル特報』09年9月号にイシブラス元副社長が90年代に休業状態に陥った経緯を書いており、近年はレシフェ郊外の工業団地に設立されたアトランチコスル造船所(伯国資本)が一人気を吐いているとあり、その最期に同造船所の「生産を担う幹部は工場長をはじめ殆どが元イシブラスの社員で、図らずもイシブラスがレシフェで再起したかの観がある」とあるのは感慨深い▼昨年3月のエスタード紙には、その造船所で日本のデカセギが溶接工として約80人も契約されたとの記事が出た。技術陣はイシブラス、溶接工はデカセギ—と聞き、日本企業ならではの日伯を繋いだグローバルな展開ができないものかと考え込んだ▼昨年11月にIHI広報は当地に「新しい現地法人」を開設したと伝えた。土光敏夫は晩年「妻と二人でブラジルで畑でも耕して暮らそうと思っていた」と話していた。長期的な戦略で捲土重来を期待したい。(深)』 | ||||
2011年11月23日(水) | ||||
昨日は夕飯にエリゼウを招待した。彼はリオデジャネイロ州の北部と州境を接するミナス・ジェライス州の出身。ミナス州の郷土料理は総称してコミダ・ミネイラ(Comida Mineira)と呼ばれ、おいしいことで有名。それでミナス出身の彼に敬意を表して、エドソンが夕飯はミナス風の献立にしようと言い、鶏肉と野菜の煮込みと、コーンミルを使って作るポーレンタを、夕方仕事から戻ってから作ってくれた。ご飯と煮豆はエドソンがパーディーニョの町で時々お昼を食べに行くレストランのテイクアウトでまかない、私は野菜サラダとデザートのブラウニーを作った。エドソンは母方の祖母がミナス州の出身なので、「その子孫が作ったミナス料理だよ。ちょっと怪しいけど」と言ってエリゼウを笑わせていた。エリゼウは体の大きな人なので、たくさん食べるだろうと思っていたら、意外に少食なので少し驚いた。どおりで太っていないわけだ。これまで何度か会ったことはあってもゆっくり話をしたことがなかったので、昨日はゆっくり、たっぷり、おしゃべりした。物静かで口数の少ない人だけれど、エドソンとすっかり意気投合したようで、11時過ぎても話しに花が咲いた。この時間帯、いつもなら私はもう寝ている時間なので、居間のソファーに座って話しを聞きながら、だんだん瞼が重くなってきて困った。でもいろいろな話ができ、楽しいひとときだった。
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2011年11月24日(木) | ||||
昨日は3ヶ月ぶりにエディナの美容院でカットとカラーをしてもらった。お昼休みにエドソンが帰宅し、うちで一緒にお昼を食べた後、私をエディナの所に送ってくれた。午後3時にカットとカラーが済み、トコトコとエドソンのオフィスまで歩いて戻り、彼の仕事が終わる5時までの間、オフィスから少し離れたスーパーにモビの食事用の鶏レバーやブロッコリーなどを買いに行ったり、彼のオフィスの隣にある別のスーパーで働いているルアナの所に顔を出して、少しおしゃべりしたりして時間を潰した。ルアナはこのところ2週続けて何かの試験があり英語のクラスをお休みしていたので、久しぶりだった。私が顔を出すと、満面の笑顔で抱きついてきて、「うれしい!」と言い、「今度の日曜日はクラスに行きます」と、言っていた。とても素直ないい子だなあと思う。 | ||||
2011年11月25日(金) | ||||
2週間ほど前に送った私の37本目のリポート「タカシ モリタ 工業高校」が、今日付けで中国新聞のウェブサイト上の「海外リポート」のコーナーに掲載された。このサイトは、こちらへ。 ちょうど1週間ほど前、広島の母にちょっとしたアクシデントが降りかかった。午後いつものデイサービスから戻り、義姉が仕事から戻るまでの間、雨が降る中、外の郵便受けまで傘を差して郵便を取りに行って戻る際、傘と郵便物で両手がふさがった状態でバランスを崩して転び、その場で動けなくなっていたところを、通りがかりの人が見つけて、お隣の奥さんに知らせ、救急車を呼んでくれ、病院に運ばれた。検査の結果、お尻や頭の骨には何も異常はなく、打ち身程度ということで、その日の夜帰宅。翌日は転んだ際に打ったところが痛いこともあって、1日中居間のソファーに座ったままでうつらうつらとして過ごしていたらしい。そしてその夜、食事の際、何故かだんだんろれつが回らなくなり、腕が動かなくなり、口に入れたものをいつまでもモグモグするばかりで、喉に入っていかないなど、おかしな状態になったので、土曜日の夜だったのだけれど、兄夫婦が再度病院に連れて行ったところ、熱が少しあり、病室も空いているからということで、入院して様子を見ることになった。雨の中倒れて動けなくなっていたため、風邪気味となり熱が出ていたらしいのだけれど、その後熱は下がり、打ったところの痛みもひき、昨日の医師からの説明によると、検査の結果、他にはどこも異常はなく、治療の必要がないので、退院してくださいということだったらしい。転んでも骨折などの怪我をしなくて本当に良かったと思う。これからは昼間だけでも母ひとりを家に置いておけないので、兄夫婦は今後母をどうするかをケアマネージャーさんたちと相談しなければならない。地球の裏側にいる不詳の娘としては、ただただ兄夫婦が側にいてくれることを感謝するのみ。 | ||||
2011年11月26日(土) | ||||
今朝、朝食後台所の片付けをしていた8時頃(日本時間土曜日の夜7時頃)、兄から電話があった。今日母が退院して家に戻り、家に戻ると何だかとても元気になり、ごそごそと動くことができ、食欲もあり、入院する前の状態に戻っていると知らせてきた。そして、母に電話を代わり、久しぶりに母の元気な声を聞くことができた。入院しているときは、自分が家にいないことはわかっていても、兄たちが何度説明しても病院に入院しているということがどうしても理解できなかったらしいのだけれど、今日の電話では、自分が郵便を取りに行った際、転んで動けなくなったことや、入院していたことがちゃんとわかっており、ほぼまともな会話が成立し、本当に以前の調子のいい時とほとんど変わっていないので、ほっとした。 朝一番のいい知らせに気を良くして、午前中はモラエス家具店に出かけて行き、来客用の寝室に入れるベッドを2つと補助のマットレスをひとつ買った。これでずっと後回しにしてきた来客用寝室の準備が整い始めた。次の写真はモラエス家具店のオーナーのモラエスさん。店を出る際、出入り口まで見送ってくれたので、店内を背景に1枚撮らせてもらう。
お昼過ぎに、早速モラエス家具店からベッドの配達があった。空っぽだった部屋にベッドが入り、ベッドの間にドナ・クレウザに作ってもらった敷物を敷くと、ぐっと部屋らしくなってきた。後はベッドシーツや毛布、枕などを買い揃えれば、準備ができ、いつでも来客を迎えることができる。
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2011年11月27日(日) | ||||
今日は、昨日のいい知らせの引き続きで、気分良く、穏やかに1日が始まったのだけれど、11時過ぎて兄から電話があり、急転直下、状況が変わった。「何かあったの?」と聞くと、「うん、まあ。お母さんと話してみて」と言う。この時間、普通母は寝ているはずなのにと訝りながら、電話を代わった母の声に耳を傾けると、「私の父は大昔に亡くなりまして、、、何と言ったらいいのでしょう、、、」と、変なことを言って、後が続かない。「???」「何があったの?」と聞いても、はっきりとした返事はなく、何をどう説明したらいいかわからない様子。そして、「もうどうしたらいいかわからない」「早くお迎えがきてほしい」というような意味のことを言って、号泣。「年をとるといろいろなことを忘れてしまうけれど、忘れてもいいんだよ」「いろいろなことができなくなっても、それはそれでいいんだよ」「自分でできないことは、回りにいる人たちに手伝ってもらえばいいんだから」と慰めても、とても難しい、辛い、どうしたらいいかわからないと言って、声をあげて泣き続ける。母は気の強い人ではないけれど、我慢強い人で、母がこんなに泣くなんてことは初めてだったので、参った。私たちの会話を母の隣で聞いていた兄が、電話を代わり、一旦この辺で切ろうと言って、電話を切った。母と話している20~30分の間は冷静に話せたのだけれど、電話を置いた途端、堰を切ったように私も号泣してしまった。ただただ母が可哀想で、悲しかった。 そして、母を寝かしつけ、再度電話をくれた兄から今日あったことを聞いた。今日の母は昨日とはまったく様子が違い、朝から元気がなく、下痢ぎみで、2度ほどトイレを汚したらしい。おそらくそのことに自分自身とてもショックを受け、もうどうしたらいいかわからないというような、ちょっとした混乱と鬱状態になったのではないかと兄と話した。そんな状態なので、軽く夕食を食べさせた後、7時頃には寝かせたらしいのだけれど、10時頃母が呼ぶので行ってみると、特に用事はないのだけれど呼んでみただけのようで、ベッドの上に座っていたという。ふたりでしばらく話しをしていると、私と電話で話した際のように声をあげて泣き続けるので、私の声を聞かせ、話しをさせれば落ち着くかと思い電話をしたということだった。でも、私と話しても状況の変化はなく、母の混乱状態は変わらなかった。 | ||||
2011年11月28日(月) | ||||
昨日は、身も心もどんよりと重く、何もしていないと押しつぶされそうな1日だった。このところ毎日続けていたエドソンのジーパンの修理の仕上げをしたり、ちょっと横になったり、夕食後にはエドソンとモビと3人で、敷地の外に長いお散歩に出たりして、沈んだ気持ちを持ち上げる努力をした。次の写真は、ブラジルに来て以来、ずいぶん擦りきれてボロボロになったエドソンのジーンズの1本。何度も何度も接ぎ当てをして、修理をしてきたのだけれど、こんなになってもエドソンはまだ大事にはいてくれている。これは彼のここでの勲章でもある。
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2011年11月29日(火) | ||||
日本では12月は、忘年会だ、クリスマスだと、みなとても忙しいけれど、ブラジルでも12月はクリスマスシーズンで、プレゼントを買うためのショッピングに忙しかったり、長い休暇を取ったり、家族や親戚と一緒にクリスマスを過ごすというのが定番なので、やはりそれぞれにみな忙しい。2クラスある大人の英語のクラスの生徒さんたち6人全員を一堂に集めるのはとても難しいため、日曜日のクラスと月曜日のクラスで別々に、12月になる前にちょっと早い忘年会をすることにした。日曜日のクラスの生徒さんたちは、予定していた日の直前になって都合が悪くなり、結局、まだ忘年会はできないでいるのだけれど、月曜日の生徒さんたちとは、予定通り、昨晩いつものクラスの時間に、レッスンをする代わりに、我が家で忘年会をした。3人とも好き嫌いなく何でも食べるとは言っていたけれど、初回から食べたこともない和食というわけにもいかないので、無難にローストビーフの定番メニューにした。変わったものとしては、食事の前にワインを飲みながら、おつまみにあられを出して、食事の際に、きゅうりの酢の物とラディッシュの酢の物を、食べなければ食べないでいいというつもりで出した。みな一応に出されたものは全部食べてくれ、酢の物は初めて食べるけれど、おいしいと言ってくれたので、ほっとした。 酢の物は日曜日に準備し、その他は月曜日のお昼頃から準備をした。それで、昨日は午後の時間のほとんどをバタバタと台所で過ごし、その後やってきた生徒さんたちと、楽しく賑やかに食事をしたので、日曜日から引きずっていた重たいやるせない気持ちが少し軽くなり、楽になった。そして、母は「老いる」とはどういうことなのかを、私たちに見せてくれているのだ。辛い思いを溜め込まず、今からでも遅くないから、心からの感謝の気持ちで日々を過ごしなさいと教えてくれているのだと、思えるようになった。 | ||||
2011年11月30日(水) | ||||
ニッケイ新聞2011年10月12日付けから「高拓生80周年」と題する4回の連載が始まり、すべての記事が自由に読めるようになったので、ここに紹介しようと思う。こういう記事を読んでいると、日本人ってすごいなと思うと同時に、私も同じDNAを受け継いでいるかな?受け継いでいるといいなと思う。 『【マナウス=児島阿佐美記者】アマゾン開拓の夢を抱いて渡伯した日本高等拓殖学校卒業生(高拓生)の初入植から今年で80年。内輪だけで節目を祝ってきた高拓生の多くは逝去した。先月25日、二世らでつくるアマゾン高拓会(佐藤ヴァルジール会長)の働きかけにより、州議会での正式謝罪(先月28日付け本紙 7面)がなされ、高拓生らの貢献に光があたった歴史的な日、マナウス市であったミサ、祝賀会でそれぞれの思いを聞いた。 (1)歴史を後世に伝えたい=州議会が正式に謝罪=感慨深い表情の遺族ら=高拓会の働きかけ実る (2)3百人が盛大に記念祝賀会=高拓生、未亡人らを表彰=上塚芳郎氏「国民に広く貢献知られた」 (3)それぞれが誇りを胸に=多くは親元離れ、学校に=二世ら、親の教育に感謝 (終)パリンチンス唯一の俳人=戸口久子さん=高拓生と生きたアマゾン』 この連載記事のサイトは、こちらへ。
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