Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2011年10月1日(土)

冬が終わり、日の出の時間が少しずつ早くなってきて、6時前には日が昇るようになった。モビは明るくなると自然に目が覚めるようで、だいたい7時前後に起きていたのだけれど、最近、日の出が早くなったため、6時半には起きて、「ウーン、アーン」と声をあげて、私たちのベッドの足元に来て私たちに起きるよう催促するようになった。今朝など、日の出とともに、6時前に起きて「ウーン、アーン」とやり出したので、さすがに早すぎる。「まだ6時にもなっていなんだから、もうちょっと待ってね」と言い聞かせて、ベッドに戻すと、しばらく静かにしていたけれど、30分くらいすると、また「ウーン、アーン」。仕方がないので起きることになってしまった。私が着替えて、「じゃあ、行こうか」と言うが早いか、いつものように玄関に向けて全速力で走り出し、玄関マットの上に座って、「早く、早く」と催促する。モビと一緒に暮らしていると、お休みの日と言えども朝寝はできない。

2011年10月2日(日)

先週、家の南側の屋根を突き抜けて、煙突が姿を現した。でも、まだこの煙突には屋根が設置されていないので、雨が降ると、雨が降り込む状態なので、金曜日の午後、エディはビニールカバーで煙突をぐるぐる巻きにして、雨が降っても大丈夫なようにして帰っていった。でも、ずっと前に注文した薪ストーブが店と製造元との行き違いか何かで、いまだに届いていないので、この天井裏から立ち上がっている煙突は、部屋の中ではまだつながっていない。「これで、今年のクリスマスにはサンタクロースがやって来れるね」とエドソンは冗談を言っていたけれど、家の中に暖炉があるわけではないので、煙突から入ってきても天井裏で行き止まりで、家の中までは小鳥のように小さくなくては入ってこれない構造になっているのだけれどなあ・・・

2011年10月3日(月)

土曜日の午後、英語のレッスンに来ていたエリカとアナ・パウラが、レッスンを平日の夜に変更して欲しいと言ってきたので、ハファエウひとりがレッスンを受けていた月曜日の夜に、先週から移動、合流した。独身のハファエウは若い女性ふたりが合流したので、喜んだのもつかの間、ふたりとも結婚していると知り、がっかり。彼女達が土曜日の午後から月曜日の夜に移動したことで、土曜日は午後4時の子どものクラスが始まるまで私はフリーになり、買い物などの用事に出かけることができるようになった。それでこの土曜日はボトゥカトゥの建築資材の店や、日本食料品店のウエノや、スーパーのパオン・ジ・アスーカーなどをはしごして用事を済ませた。

ウエノでは、こんにゃく、油揚げ、ちくわなどだけでなく、水菜や大根、ごぼうなどの野菜もあり、季節によって、桃やすもも、アセロラなどと言った果物も安く大量に販売されるので、私たちにとってはとてもありがたいお店。そして、この土曜日に行った際は、サヤから出した新鮮なグリーンピースをたくさん販売していた。それを見て、「ああ、春だなあ」と思い、大小2種類のパックの内、270グラム弱の小さい方のバック、3.35レアル(約165円)を買って帰った。それで今日はこの1部を使ってグリーンピース入りのご飯を炊いた。これまでは缶詰めか冷凍のグリーンピースを使っていたのだけれど、フレッシュなグリーンピースご飯はさすがにおいしかった。旬の食材で季節を感じられるのは何とも贅沢な気分。

2011年10月4日(火)

昨日のお昼過ぎに、居間の横のドアの外側にようやく網戸が取り付けられた。でも、窓の網戸はいまだにできていない。そろそろ暑くなるので、蚊などの虫を家の中に入れないためには絶対必要なものなのだけれど、早く作って取り付けてくれないかなあ・・・

昨日エディたちは午後からやって来て、煙突にコンクリートの天井を取り付け、屋根のてっぺんに瓦を置く作業を完了してくれた。次の写真は、屋根のてっぺんで瓦を置く作業をしているエディ(煙突のうしろ)と、左側に少しだけマノの頭が見えている。

2011年10月5日(水)

ニッケイ新聞2011年9月22日付け、日系社会ニュースの「大耳小耳」に、次のような雑記があった。ちょっとしたトリビアの泉と言った感じで、つい「ヘェー」とうなってしまった。

『「実は池坊は日本で2番目に古い企業なんです」—。そう話すのは、池坊華道会伯国4支部の教授者向け講習のため来伯している森部隆教授。西暦587年に京都を訪れた聖徳太子が、六角堂で有名な頂法寺を開いた。その時太子が沐浴した池の傍に立てられた住坊(寺の管理所)が「池坊」と呼ばれ、毎日宝前に花を供えた僧侶達が後に生け花の名手として知られるようになったとか。ちなみに最古の企業は578年創業の金剛組。聖徳太子が百済から招いた宮大工が創始した建築会社だ。』

2011年10月6日(木)

昨日、エディたちは他所での仕事に行ったらしく、ここでの作業はお休みだった。今日もお休みかなあ?と思っていたら、いつもより30分程遅れて到着し、外ベランダなどのレンガむき出しだった壁に、コンクリートを塗り、きれいにする作業などをしてくれた。そして、外ベランダの横に小さな花壇を作ろうと思っている場所に、火曜日にマノが大きな穴を掘ってくれたので、昨日、私はカロリナソイルと、ジョアオンが耕してくれた一番近くの場所から土を運んで来て、穴を埋め、花壇を作る準備をした。

2011年10月7日(金)

家が完成したら、中国新聞の「海外リポート」に家造りで七転八倒したことを書こうと思っていた。この8月から我が家に住んでいるのだから、まだ工事中とは言え、ほぼ完成と言っていい状態なので、今週そのリポートの原稿書きに着手した。でも、日伯の家造りの違いを書くのなら、七転八倒したことよりも、ペドレイロに焦点を当てて書いた方がいいかな?と思い至り、大幅に軌道修正。このリポート用に、今朝玄関前のベランダでエドソンとおしゃべりしていたエディのアップ写真を撮らせてもらった。次の写真はリポート用の写真とは別に、ブログ用にエドソンと一緒のところをパチリ。こうやって毎朝ふたりで作業に関することだけでなく、いろいろなことをおしゃべりするのをエドソンもエディも、共にとても楽しんでいるようだ。

2011年10月8日(土)

水曜日の作業で外ベランダ横の花壇の準備が完了したと思っていたら、エドソンが予定を変更して、花壇のスペースを倍にすることにし、昨日マノにさらに穴掘りを頼んたので、今日また、せっせと土運びをするはめになってしまった。それで、朝食の片付けや洗濯が済んだ後、10時頃から1時過ぎまでかかって、花壇にカロリナソイルと普通の土を運んできて混ぜ、土の用意をしてから、以前買っておいたバラ3本だけでなく、ずっと以前パラカンビから持ち帰って育てていたベイジョ(beijo=キス)と呼ばれるピンクや白の花を4本植えた。ベイジョは鉢から花壇に植え替えた直後は、植え替えのショックと強い日差しで、少し元気がなかったけれど、夕方曇ってきたら元気を取り戻しほっとした。

2011年10月9日(日)

昨日の夜から降り出した激しい雨は、今朝、一旦止んでいたけれど、朝食後エドソンが丘の上の木々に石灰をまく作業をした後、モビとのお散歩をして戻ると、9時半頃からまた降り出した。今日は1日雨で、これから数日雨が続く予報。うーん、そろそろ雨期の始まりか?昨日の午後のレッスンの際、ミレーニが「明日は私の12歳のお誕生日だからとってもハッピー」と、とてもうれしそうに言っていたけれど、あいにくの雨のお誕生日になってしまった。

ニッケイ新聞2011年9月27日付けのブラジル国内ニュース「東西南北」に、次のような短い雑記があった。以前、中国新聞の「海外リポート」に、ブラジルの地名について記事を書いたことがあるけれど、聖人の名前をつけた地名は本当にたくさんある。そして、先住民の言葉を使った地名はさらに多いように思う。

『ブラジル地理統計院の最近の調査によれば、国内5565市のうち652市(11・7%)にキリスト教の聖人名が付けられているという。最多は60市につけられた「サンジョゼ」、2位「サンジョアン」、3位「サントアントニオ」であることが分かった。都市名は実はカトリック聖人の人気投票だった?』

2011年10月10日(月)

今日も降水確率90%で、雨の予報だったのだけれど、曇り空ながら雨は降らず、暑くもなく寒くもない1日になった。昼食後にモビとお散歩に出ると、直径1センチくらいの穴が地面のあちこちに開いているので、何だろう?と思い、近づいて見ると、その穴の中や側で、長さ2センチくらいの赤茶色をした大きな蟻が穴を掘る作業をしていた。雨が降った後で、土が柔らかくなっているので、穴掘り作業にはもってこいの状態になっているのはわかるけれど、とにかくその数が尋常ではないので驚いた。普通の小さな蟻たちは集団で穴掘り作業をしているのに、この大きな蟻は1匹がひとつの穴をせっせと掘っていた。

2011年10月11日(火)

以前、「話す、言う」という意味のポルトガル語は、ファラー(falar)で、この言葉ひとつで、英語のto speak, to talk, to say, to tell のすべてを意味すると書いたことがある。例えば、Eu nao falo portugues. = I don´t speak Portuguese. (私、ポルトガル語は話せません)とか、 O que voce falou? = What did you say? (何て言ったの?)など。でも最近、この他にジゼー(dizer=to say, to tell)と、コンター(contar=to tell)という言葉もあると、ノヴェラを見ていて気づいた。例えば、dizer ならto tell you the truth = dizer a verdade (実を言うと)とか、contar ならTell me what happened yesterday. = Conte-me o que aconteceu ontem.(昨日何があったか話して)というふうになるので、ポルトガル語でもやはり使い分けがされていることがわかった。

それから、ガニャー(ganhar=to earn, to win)という言葉。土曜日のクラスの子どもたちがゲームをしていてよく口にする。神経衰弱やカルタなどをしていて、一番たくさんカードを取った子が、「ガニェイ、ガニェイ」と喜びの声をあげるのだけれど、これはEu ganhei.つまり、I won.(「勝った」とか、「一番」)と言っているのだろうと推測できた。そして、その後ノヴェラの中で、主人公のおばさんが宝くじに当たって、「Eu ganhei!」と狂喜する場面に出くわした。今まで知らなかったひとつの言葉が理解できると、次にその言葉を耳にした時に、ちゃんと聞き取れ、理解できるようになるものだなあと思った。

2011年10月12日(水)

今日は、ノッサ・セニョーラ・アパレシーダ(Nossa Senhora Aparecida、聖母マリア・アパレシーダ)、つまり、ブラジルの守護聖人の日で祝日。と同時に、ジア・ダス・クリアンサス(Dia das Criancas、子どもの日)でもある。

土曜日の夜からこっち、何度も雨が降り、今日は朝から薄日が差していたので、エドソンとふたりで植林作業をすることにした。朝食後に私が洗濯をしている間に、エドソンはモビを連れてお散歩をし、その後、植えた木々に石灰をまく作業をし、あらたに木を植えるための穴を開ける作業をしてくれた。そして、私は洗濯物を干し終わった後、エドソンが開けた穴に木を植える作業をした。くぬぎを3本、桜を1本、セドリーニョを1本、名前はわからないのだけれど、アロエのような植物を2本。合計7本植えた。これで植林総数は566本になった。次の写真は、ジョアオンがトラクターで耕してくれた、家に一番近い所に、丘の上から移植した6本のセドリーニョと、ナーサリーで枯れかかっていたセドリーニョの小さな苗1本。その回りにレンガを置いた。その向こう側にあるのは同時に植えたくぬぎ2本。ここにも目印のため、レンガを置いた。

この作業がすべて終わった後、モビの体を洗って、家に連れて入る際、エドソンが私たちの写真を撮ってくれた。この後、私たちもシャワーを浴びてさっぱりして、みんなで遅い昼食をとった。

2011年10月13日(木)

先日、大きな蟻のことを書いたけれど、エドソンがエディから聞いた話によると、穴を掘っていたあの大きな蟻は、古巣を巣立った若い女王蟻で、この時期、自分で穴を掘り、卵を産みつけて新しく自分の巣を作るのだそうだ。蟻のお尻があんなに大きかったのは、産みつけるための卵がいっぱい詰まっているからということだった。それにしても、毎年、あんなにたくさんの女王蟻が巣立って、それぞれに自分の巣を作っていたら、地面の下は蟻の巣だらけなのではないだろうか?なんて思ってしまった。

ニッケイ新聞2011年10月1日付け、日系社会ニュース「大耳小耳」に次のような雑記があった。

『全日本コーヒー協会では今日10月1日を「コーヒーの日」に制定している。世界一の生産量を誇るブラジルでのコーヒーの実の収穫が9月に終了し、国際協定で決められた新年度が10月に始まることから1983年に定められた。ちなみに国際コーヒー機関によれば、消費量世界一はアメリカで、ブラジルが2位に 続く(日本は4位)。ところが一人あたりの消費となると、欧州ルクセンブルクが首位に。何と年間2740杯、一日に7・5杯飲んでいる計算。』

2011年10月14日(金)

家の北東側に作る予定の野菜畑を囲むレンガの低い壁ができ、その後、この畑をネットで被うための柱が、月、火の2日間で立ち上がった。ここには野性の動物や鳥がたくさんいるので、レンガで低い壁を作ったり、ネットで被ったりしないと、作っている野菜はすべて彼らに食べられてしまうことになるので、これは必要な自衛手段。昨日も今日も雨降り続きなので、ここには水曜日に撮った写真を掲載。

昨日、エドソンが帰宅して話してくれたビッグニュース。パーディーニョの東隣にあるボフェチ(Bofete)という町の宝くじを売る店に強盗が入り、金銭を強奪。その犯人が逃走途中、カステロブランコからパーディーニョに上がってくる道路で、軍警察と撃ち合いになり、犯人は撃たれて逮捕されたのそうだ。午後7時過ぎのバウル(Bauru)を拠点とするTV TEMというテレビ局のローカルニュースのトップで、このニュースを伝えていた。犯人はパーディーニョの西隣のボトゥカトゥからわざわざボフェチまで行き、強盗を働き、ボトゥカトゥに戻る途中だったらしい。そして、何と、撃ち合いがあったのはカステロブランコから上がってくる舗装された道路と、ここに入ってくるための舗装されていない道路の角にある、アグロフォーンという工場の前だったと、映像を交えて伝えていた。こんなすぐ近くで撃ち合いがあったなんて、何と物騒な!

2011年10月15日(土)

先週の土曜日の夜から降り出した雨は、今週ずっと降ったり止んだりを繰り返しながら続き、昨日も今日も1日中一時も止むことなく、うっとうしい1週間になった。でも、日曜や水曜にエドソンがまいた石灰は、この雨でよく地面に染み込んだはず。そして、新しく植えた木々にはいい雨になった。この雨で、野うさぎのオサマ・ビンラーデンに食い荒らされていたアメンドインも元気を取り戻し始めた。次の写真は、金曜日の昼前に写した居間の窓越しの外の様子。

2011年10月16日(日)

今日から夏時間が始まった。時計の針を1時間進めるので、これまでの朝6時はすでに朝7時。初日が日曜日なのでいいけれど、ちょっと眠い。これで今まで日本との時差がー12時間だったのが、ー11時間になり、日本の夜7時は、これまでのこちらの朝7時ではなく、8時になった。この夏時間は、ブラジル全土で実施されるものではなく、ブラジル南部、南東部、中西部の各州とバイア州だけ。この夏時間は2月26日まで続く。

この金曜日の夜から昨日、今日と、ボトゥカトゥ日本文化協会とボトゥカトゥ市の共催で「友達祭り」が開催される予定だったのだけれど、屋外での催しなので、この連日降り続く雨でおそらく取りやめになったものと思う。太鼓、踊り、ミス・友達コンテスト、柔道大会、コスプレショー、ミスコンなど様々なイベントが催され、終日バンカでは焼きそば、天ぷら、カレー、お弁当や焼き鳥などが販売される予定と、ニッケイ新聞にあったので、私たちものぞいてみようと思っていたのだけれど、ひどい雨と雷のため買い物に出ることすらできず、連日、ひたすら本を読んで過ごした。

2011年10月17日(月)

今日も空は厚い雲に被われ、相変わらず太陽が顔を出さない1日になったけれど、幸い雨は降らなかったので、何日かぶりで溜まっていた洗濯をすることができた。曇っていても風があったため、外に干した洗濯物は何とか乾き、感謝。感謝。先週は悪天候のためほとんどここの作業はお休みだったエディたちが、今日は久しぶりに仕事にやって来た。でも外での作業は無理と判断したようで、ガレージの中で製作がストップしていたダイニングルームに置く、組み立て前のキャビネットに塗料を塗る作業をしてくれた。そして、お昼を食べて、ガレージ内の整理をし、外の野菜畑の周りに立てた柱の支えなどを取り除く作業をしたら、今日はそれだけで仕事を終えて帰って行ってしまった。

2011年10月18日(火)

先週の初めに中国新聞に送った私の36本目のリポート「ペドレイロは万能職人?!」が、今日付けでウェブサイトの「海外リポート」のコーナーに掲載された。このサイトは、こちらへ

この土曜日に、ブラジル被爆者平和協会理事の渡辺さんからメールが届いた。会長の森田さんが長年にわたり、ブラジルの学生たちに自らの被爆体験を話し、平和の大切さを訴え続けており、世界中にある核兵器の廃棄も求め続けていることが評価され、サンパウロ市サント・アマーロ地区にあるサンパウロ州立工業高校に「ETEC TAKASHI MORITA(=Escola de Tecnologia Takashi Morita)」と、森田さんの名前がつけられることになり、26日(水)にそのセレモニーが行われるという。そのセレモニーへの招待状をいただいた。サンパウロ市内に住んでおらず、ここからサンパウロ市西部のバハ・フンダまでだけでも高速バスで少なくとも2時間半の田舎町に住んでおり、エドソンの仕事もあるので、平日のイベントへの出席はとても無理。せっかくのご招待ながら、失礼する旨のメールを返信するしかなかった。残念。

2011年10月19日(水)

ニッケイ新聞2011年10月6日付けのニッケイ社会ニュースに、興味深い記事があった。ブラジルのイタリア系移民の子孫がイタリア本国で就労していることを描いたドキュメンタリー映画 『MERICA』(2008年、イタリア、フェデリコ・フェロネ監督)の上映会が、イタリア移民130周年記念行事の一環として、サンパウロで行われたとあった。この映画の題名の 『MERICA』は、♪メリカ、メリカ、メリカ、何に出会うだろう?と、新大陸に向かうイタリア移民の気持ちを歌った有名な曲から題名を取ったのだそうだ。ブラジルへのイタリア移民は1875年から1920年の間だけで150万人。戦前の日本人移民の数が約20万人だから、この数は半端な数ではない。その子孫は本国の国籍が取得できることから、現在では逆転現象が起き、30万件以上の伊国籍のパスポート申請が在伯イタリア総領事館に出ているという。「ブラジルから来た子孫はイタリア人がやりたがらない低賃金で厳しい労働に従事し、国の発展に貢献してくれているにも関わらず、〃外国人〃として差別されている」とは監督の弁。『「自分はブラジルで生まれたイタリア人だ。イタリアで新しい人生を切り開くつもりだ」と熱く語る子孫の情景から映画は始まり、途中には「国籍があるにも関わらず、外国人扱いされて屈辱的だ」というセリフになり、最後には「お爺さんから幻想を植え込まれてきたことが分かった」と幻滅する子孫の心の軌跡が描かれている』という。何だか日系移民の子孫のデカセギの問題にも相通じるものがあることに、ちょっと考えさせられた。

今日エディたちは、ダニングルームの両側の壁にキャビネットを取り付ける作業をしてくれた。とは言っても今はまだ、ただの棚だけの状態で、扉がついていない。それは扉を取り付けるための金具の購入がまだだから。この棚の半分に扉を取り付けてもらう予定。そして、このキャビネットもダイニングテーブル同様、とてもシンプルで、武骨な感じにできつつあり、まずは満足。

2011年10月20日(木)

以下は、ニッケイ新聞2011年10月7日付けの「コラム 樹海」からの転載。これもブラジルという国の特徴を示す一側面だと思った。ちなみに、記事の中のコムニダーデというのは、コミュニティーのこと。

『中華民国(台湾)の建国百周年を記念して、同コムニダーデが文協の国際民族舞踊祭に参加したが、事前にさる筋から「あれは国として認められていないから出場させるべきではない」との圧力が実行委員会にかけられたとの話を、内幕に詳しい人から聞いた。それを頑として跳ね除け、中華民国として出場させた実行委員会の英断たるや立派なものだ▼90年代にユーゴスラビアが分裂した時代、民族舞踊祭の案内来社時に同コムニ ダーデ代表は、「私達が渡伯した時はまだ祖国は一つだったから、私たちだけは別々にならず、あくまで『ユーゴスラビア』として出場したい」と語っていたのを聞いて、涙が出そうになった▼40回の伝統を持つ同舞踏祭は、すでに聖市の伝統行事だ。創立以来の文協の理想である、各民族が持つ文化価値を高める行事だ。「ブラジルではアラブ子孫もユダヤ子孫も仲良く暮らす」ことはこの国に住む者の誇りだ。これはアジアについてもいえる▼小泉首相の靖国神社参拝に対する批判から中国で反日旋風が吹き荒れた05年6月、ある日系人がリベルダーデ広場で静かな抗議活動をすることを呼びかけたが結局は取りやめになった。「ブラジルで民族紛争の元を作ってはいけない」と判断されたからだ▼今回の台湾系への圧力も同様に、あってはならないことだ。この国ではあらゆる文化や民族が混ざる過程にある。国外においては国際関係といわれるものが、ブラジル国内ではエスニック関係として反映する。世界の縮図がここにある。でも民族紛争だけは例外だ。ここでは吐いて捨てるほど強盗事件は起きているが、民族テロだけはない。(深)』

2011年10月21日(金)

この18日の火曜日に、中国新聞のウェブサイト上の「海外リポート」に掲載された私のリポートが、来週25日(火曜日)の夕刊紙にも掲載されるという連絡が、中国新聞の担当の方からあった。紙面は文字数に制限があるため、例によって、かなりはしょって、とても短くなっている。

水曜日の夕方、エディたちが仕事を終えて帰って行った後、モビとお散歩に出ると、外ベランダの横の花壇のレンガがきれいに並べ替えられていた。私たちはレンガをただ平らに置いただけだったのだけれど、何だかとてもきれいになっていてびっくり。エディに直してと頼んだわけではないのだけれど、あまりに粗末なので見るにみかねたのか、それともバラやベイジョを植えた後、その間にクローバーを移植したり、カロリナソイルを足したりして、花壇作りに精を出している私を見て、喜ばせようと思ったのか?不思議だけれど、うれしいサプライズだった。

2011年10月22日(土)

ハイビスカスの花壇にたくさん咲いているマーガレットを、時々食卓に飾っているのだけれど、昨日切ってきたマーガレットを瓶に差して、1本変なのがあるのに気づいた。花びらは、一枚一枚離れていて平たいのが普通なのに、この左下の1本、花びらがラッパのように筒状になっている。突然変異だろうか?おもしろい。

ハイビスカスの中にも、花びらが八重の変わったものが数本あり、マウリシオからもらって育てていた1本は、花が普通のハイビスカスのように開かず、常につぼみから開きかかった状態で、下を向いて垂れ下がって咲く。日本では見かけたことのない種類だけれど、ブラジルではごく普通によく見かける。次の写真は、順番に八重のハイビスカスと、花が開かず、垂れ下がって咲くハイビスカス。

2011年10月23日(日)

ジョアオンがうちの土地でとうもろこしを育てるための準備が進んでいる。これまでに土地が2度耕され、昨日は石灰が撒かれた。ここの土はとても酸性度が高いので、石灰を撒いて土壌を改良しないと、肥料を撒いても植物がそれを吸収することができないのだそうで、とうもろこしが吸収する肥料は当然ながらジョアオンの責任で買うとしても、土が吸収する石灰はうちで購入することをエドソンが決めた。UNESP(サンパウロ州立大学農学部)でやってもらった土壌検査の結果を、先日ボトゥカトゥの農業資材の専門店で見てもらい、撒くべき石灰の種類と、必要な量を計算してもらい、注文した。その店は配達はしてくれないので、パーディーニョからトラックでそれを受け取りに行ってもらう人とトラックを雇い、昨日のお昼前に5トン(1,185レアル=約5万9000円)の石灰を届けてもらった。私たちにはちょっとした散財だけれど、この土地で今後木を植えるにしろ、何かを栽培するにしろ、土の改良は絶対不可欠なことなので、先行投資といったところだろうか?午後から、ジョアオンのお兄さんがトラクターでやてきて、ジョアオンと二人で真っ白になりながら石灰を撒く作業が行われた。家の北側から入り口ゲートまでの土地一帯は、撒かれた石灰でうっすら雪が積もったように白くなっている。

2011年10月24日(月)

この家で生活を始めてから何度も雨が降り、先日はジョアオンが撒いた石灰が風に飛ばされてきたりしたので、窓がだいぶ汚れていることが気になり始めた。それで、今日はお昼を食べて、洗濯物を取り込んだ後、窓拭きをした。南側の窓はハシゴを立てかけないと届かないので、拭けないけれど、せめて北側の窓の内外だけでもと思い作業を始めた。それらが済んで止めておけばよかたのだけれど、南側の客間の窓の外側の手の届く位置の汚れが気になり、手を伸ばして思いっきりごしごしやったら、窓の鍵枠フレームに、右腕の肘をしこたま打ち付けてしまい、負傷。「痛ーーーい!」我ながらどうしてこうも不注意で不器用なのだろうと、情けない。よく体をいろいろなところにぶつけたり、手に持った物を落として壊したりと、結構トラブルが多いので、いつもエドソンに注意されるのだけれど、気をつけていてもときどきやってしまう。英語のclumsyという言葉がまさにぴったりな私。傷口にタイガーバームを塗り、小さなカットバンを貼り、その上から湿布薬を当て、しばらくソファーにダウン。夕方になり夕食の仕度をしているとエドソンが帰宅。薬があまり好きでない私に、痛みと腫れが引くからアスピリンを飲めと言うので、しぶしぶ飲むと、驚くほど痛みが引き、英語のクラスの生徒さんたちがやって来る頃には普段の調子を取り戻すことができ、無事クラスをすることができた。エドソンに感謝。

2011年10月25日(火)

今日は降水確率80%の予報通り、お昼前頃から西の空の雲行きが怪しくなり、遠くで雷が鳴り始めた。そしてどんどん黒い雲が広がり、辺りが暗くなり、1時前頃から激しい雨が降り出した。そして、すぐ近くで雷も鳴り始めた。コンピュータの電源を落とし、テレビなどのコンセントも抜き、ブレーカーを落として、臨戦態勢に入る。雷を怖がるモビを彼のベッドごと居間のソファーの私の足元に連れて行き、嵐が通り過ぎるまでソファーの上で雑誌を読んで過ごした。次の写真は、お昼前にダイニングルームの窓から撮った西の空。西隣のクラウディオのコーヒー園では、このところ毎日のように石灰などの配達があるようで、大きなトラックが頻繁に出入りしている。この時もちょうどトラックが来ていて、土か何かを下ろしているところだった。

お昼の嵐は1時間半ほどで通り過ぎ、雨や風が収まり、一旦静かになったけれど、第2段が5時頃やって来た。インターネット上の気象レーダーで見ると、今度の雨雲はサンパウロ州を北から南まで縦断する縦長の巨大な雨雲で、それが西からぐんぐん迫って来ていた。5時過ぎのエドソンの帰宅と同時にザーッと雨が降り出した。次の写真は、5時少し前にダイニングルームの窓から南の空を撮ったもの。巨大な雨雲の先端が、西(右)から東(左)にのし掛かってくるように移動している様は迫力があった。

そして、2時間ほどして激しい雨を降らせた雨雲が通り過ぎ、西の空の雲の切れ間からうっすら光が見え始めた。次の写真は、太陽が沈んだ後の7時半頃の夕焼け。

2011年10月26日(水)

以下は、ニッケイ新聞2011年10月15日付けブラジル国内ニュース「東西南北」から転載した記事2つ。

『リオ・デ・ジャネイロ市のコルコバードのキリスト像(クリスト・ヘデントール)が12日、建造80周年を迎えた。1921年に翌年の伯国独立100周年を記念して建設案が出された。同像の工事は1926年から開始され、1931年10月12日に完成した。キリスト像は、全身を三角形の凍石を使ってモザイク加工されており、胸の部分にはハート型のシンボルがある。また、2007年には、新・世界七不思議の一つに選ばれており、他の六つが歴史的に古いものであるのに対し、キリスト像だけは20世紀の建造物だ。』

『ミナス・ジェライス州セッテ・ラゴーアスで13日、サントスFCがアトレチコ・ミネイロに2対1で敗北した。しかし、試合の結果よりも注目を集めたのは、 ブラジル代表でサントスFWのネイマール選手の退場だった。後半38分、イエローカードを出した審議に文句を言い、拍手までしたため、審判を馬鹿にしたとして二枚目のイエローカードをもらい退場となった。フィールドからロッカールームへ戻るネイマールに対してムリシー監督は怒鳴りつけていたが、試合後の ロッカールームでは、「お前は良い選手なのだから、あんな馬鹿なことをやってはいけない」と話しあった。反省したネイマールは泣きながら謝罪したというが、これからはさらに精神面を強くする必要があるだろう。』

このネイマール選手、まだ19歳だけれど、とても実力があり、人気がある。携帯電話その他のテレビコマーシャルでもよく見かける。彼のモヒカン頭は有名で、お隣のジョアオンのところのパブロも一度、真似をして髪をムースで固めたモヒカン風の頭で、クラスにやって来たことがある。次の写真は、Wikipediaに掲載されているネイマール選手の写真。

2011年10月27日(木)

先日、うちのハイビスカスの花壇に八重のハイビスカスが咲いていることを紹介したけれど、今朝、その赤い八重のハイビスカスとはまた別に、ピンク色というか、サーモンピンクのような八重のハイビスカス2本が、それぞれ2つずつ花を咲かせていたので写真に撮ってみた。このハイビスカスの苗はだいぶ前に買って植えたのだけれど、買った際、花は咲いていなかったので、何色の花が咲くのか知らずに買った。さらに植えた丘の上の土が良くなかったのか、いつまでもひょろひょろで元気がなく、ほとんど花を咲かせなかったのだけれど、丘の上からこのハイビスカスの花壇に植え替えてからだいぶ経った最近、ようやく少しずつ元気になりつつある。どうやら赤、黄、サーモンピンク、オレンジの花を咲かせ、赤とサーモンピンクは八重だということがわかってきた。

2011年10月28日(金)

4月28日に、モビが悪性リンパ腫の手術を受けてから、今日で丸6ヶ月が経過したことになる。抗がん剤治療が終わってからでも3か月余りになる。幸いなことに(ポルトガル語で言えば、グラサズ・ア・デウス=Gracas a Deus.英語で言えば、Thanks to God.)モビはとても元気にしている。手術前の超音波検査のために剃ったお腹の毛はもちろん、手術の際に剃った首の毛も、皆ちゃんときれいに生え揃って、よほど注意をして見ないと、そのことを知らない人には、首に手術の痕があることすらわからない感じになってきた。次の写真は、昼食後のお散歩の際、いつものように尻尾を高く上げて左右に大きく振りながら、ご機嫌で私の前を歩いているモビ。風で耳が片方ひっくり返っている。

お散歩折り返し地点の入り口ゲートのところで、しばし景色を眺めているモビ。

私が台所で食事の準備のためにごそごそし始めると、例え、それまでいびきをかいて寝ていても、素早く起きてきて、「ご飯なの?ご飯?」というような顔をして、しばらくの間、台所の入り口からこちらを見つめているモビ。「ご飯はまだよ。今は準備をしてるだけ」と繰り返し言ってやると、納得して、私が彼のベッドを台所に持ってくるまでは、台所で私が立ち働くのが見える玄関マットの上で腹ばいになってこちらを眺めている。

2011年10月29日(土)

今日エドソンは仕事で、朝5時半に家を出て、ここから南西に2時間半余り行ったところにあるイタぺヴァ(Itapeva)という町へ、パウロと一緒に出かけて行った。さすがに外はまだ真っ暗で、目覚まし時計のアラームでモビも目を覚ましたけれど、私たちが起きて着替えをしていても、ベッドから出てこようとはせず、「何してるの?」というような顔をして私たちを見ているだけだった。懐中電灯を持ってパウロが迎えに来ている入り口ゲートまでエドソンを送って戻ると、ひとり取り残されたことに気づいたモビが玄関マットの上に座って、私の帰りを待っていた。

今月中旬に開催予定だったボトゥカトゥの「友達祭り」が、やはりあの豪雨で中止となり、この週末に延期されたというので、出かけて行けるかな?と、思ったのだけれど、エドソンの仕事が入りアウト。明日は午後のクラスがある上、雨の予報なので、明日もダメ。まあ仕方がない。

最近ちらほらかわいい小さな薄紫の花をつけているひょろひょろとした草花を、モビとお散歩に出た際採ってきて食卓に飾った。

2011年10月30日(日)

以下は、10月27日付けCNNの「世界人口が70億突破」というニュース記事の転載。これだけの人口を抱えても、条件付きながらさらに経済成長が維持できるという国連人口基金の指摘、どうだろう?今後徐々に資源が枯渇していく状況で、何だかあまりにも楽観的過ぎるのではないかと思った。今後予想される資源・食糧・水などの争奪戦が恐ろしい。

『(CNN) 世界の人口が今月31日に70億人を突破する見通しとなった。国連人口基金(UNFPA)が26日に発表した2011年版「世界人口白書」で明らかにした。

それによると、現在の世界は25歳未満の若者が人口の43%を占め、全体の約半数が都市部に住む。60歳を超える高齢者の人口は現在の8億9300万人から2050年までに24億人に増える見通し。

1人の女性が生涯に産む子どもの数は、1960年代の平均6人から2.5人へと減少した。ただし女性の数は60年代に比べて大幅に増えている。

1927年に20億人だった世界の人口は、13年前に60億人に到達。国連の5月のリポートによれば、2050年までに93億人に達し、今世紀の終わりまでに100億人を突破する見通しだ。

人口は主にアジアとアフリカで増えている。今世紀中はアジアの人口が最も多いままになると予測されるが、アフリカの人口は2011年の10億人から2100年には36億人へと3倍以上に増えると予想。一方、アメリカ大陸、欧州、オセアニアを合わせた現在の人口は17億人で、2060年に20億人に近付いた後は、徐々に減少に転じる見通し。

国連人口基金では、今のうちに計画を立て、適切な投資を行っておけば、人口70億人の世界でも経済成長は維持できると指摘。具体的な方策として、若者に経済的な機会を与えること、都市の計画的な成長、地球資源の共有と維持のための開発計画、性教育を含めた教育の向上を挙げている。 』

2011年10月31日(月)

土曜日の夜、8時を回って何だか風が出てきたなと思っていたら、数分後にいきなり台風の暴風雨圏に入ったような激しい雨と風が吹き荒れ始めたのでびっくり。急いでコンピュータの電源やブレーカーを落とし、ろうそくを灯して居間のソファーで2時間余りうたた寝をしながら嵐が通りすぎるのを待った。とにかくすごい風で、また家の周りのいろいろな物が風で飛ばされていたものの、日曜日の朝は穏やかに明けた。と、思ったら、起きがけにメールをチェックしていたエドソンが、お隣の町、イタチンガが大変なことになっていると言う。土曜夜の暴風で、イタチンガにある市所有のテレビ塔が倒れ、そのテレビ塔を使わせてもらってインターネット提供サービスをしているパウロの会社のサービスは、イタチンガの町全域でダウンしているということだった。朝食を終えて、何か手伝えることがあるかもしれないからとエドソンが言うので、モビと私もエドソンと一緒にイタチンガに向かった。

イタチンガの町の一番高い場所に立っている高さ25メートルくらいの古いテレビ塔が、地上から10メートルくらいのところでポキンと折れて倒れていた。幸い塔が立っている敷地の周りは道路に囲まれていて、すぐ側に家がないので、敷地を囲っているブロック塀が少し壊れていただけで、周辺の住宅には被害はなかったようだった。でも、この塔が倒壊したことで、イタチンガの町ではテレビもインターネットも機能しない状態らしい。パウロが応急処置として他の町の電波塔を使わせてもらうために奔走している以外に、エドソンたちには何もできることはなく、しばらくイタチンガ支店の人と話をしてからお昼頃パーディーニョに戻ってきた。

昨日の日曜日は、降水確率90%の予報だったのだけれど、午前中のお天気は比較的安定していて、英語のクラスの生徒さんたちがレッスンを終えて帰って行った後、午後3時半を回ってほんの数分間ザーッと雨が降り、夕方もう一度短時間降っただけだった。でも、今朝は気温がぐっと下がり、10度を大きく下回っている上、冷たい風が吹きつけているので、冬が戻ったような感じだ。朝、牛の世話をしていたジョアオンも、さすがにいつものような半袖のTシャツ1枚では寒いので、ジャンパーを着込んでいた。



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