Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2011年9月1日(木)

今週は、月曜日に書棚の塗料塗りが終わり、書棚が完成したので、火曜日と今日の2日間で、香山さんからお引き受けした蔵書を箱から出し、1冊ずつホコリをはたき、カビを拭き取り、掃除をしながら書棚に移動する作業を終えることができた。いろいろな県人会や地域がまとめて出している何十周年記念誌や、個人やグループが出している句集や随筆集、個人の自分史、今ではおそらく入手不可能な移民初期の頃の主要な人物の評伝。人名録。ベストセラーにも関わらず、もう印刷されていないため、書店に行っても手に入らない「百年の水流」もある。古くてだいぶ痛んだ本もある。日本語の本だけでなく、ポルトガル語の本もたくさんある。ポルトガル語の本の中には、日系移民関連の本だけでなく、イタリア系移民、ドイツ系移民、スカンジナビア系移民などに関する本もある。ブラジルの日系移民関連の本がほとんどだけれど、アルゼンチンや、ペルー、パラグアイ、メキシコ、アメリカ、カナダなど、他の国の日系移民に関する本もある。

何十年もかけて収集されたとは言っても、よくもまあこんなに貴重な本をきめ細かく集められたものだと思う。探せばあちこちに散在しているものもあるのかもしれないけれど、どこかの移民資料館の図書館でさえ、1ヶ所にこれだけまとまって揃っているところは珍しいのではないかと思う。どれもこれも、ブラジルの日系移民のことを理解するためには必要な、貴重な本ばかり。まさに「宝の山」と言っていいだろう。

2011年9月2日(金)

中国新聞のウェブサイトの「海外リポート」のコーナーに、先月送った35本目の私のリポート「ブラジルの地方都市が日本にエール」が、「ブラジル各地から日本にエール」と、タイトルが変更されて、今日付けで掲載された。このサイトは、こちらへ

以下は、ニッケイ新聞2011年8月19日付け「コラム 樹海」からの転載。ここにある岩崎家は、元駐日大使ライシャワー氏夫人のハル・松方・ライシャワーさんの父方と親戚関係にあったように記憶しているけれど、明治の時代を担ったこのような人たちが、今の混沌とした閉塞感にあふれた日本にこそ出てきてほしいと思うのは、無いものねだりというものだろうか?

『水野龍は後藤象二郎の紹介で妻を娶ったことは、連載の中で書いた。そこでアッと気づいた。後藤の娘・早苗と結婚したのは、三菱創立者の岩崎彌太郎の弟・彌之助。その岩崎彌太郎の長男・久彌が、1927年に個人出資でカンピーナス市に購入したのが東山農場だ。このような維新以来の人脈が当地にも反映されている▼調べていて分かったが、移民事業そのものにも三菱は深く関係する。というのも、岩崎彌太郎が創立した三菱商事と共に、三菱グループの源流企業をなす日本郵船会社が移民事業をやるために作った傍系企業が吉佐移民会社だからだ。この会社がオーストラリア方面の事業で忙しかったために、ブラジル移住を始めるに当たって作ったのが東洋移民会社だ。この会社が、水野率いる皇国殖民会社とそれが潰れた後を引き継いだ竹村殖民会社と競うように初期移民を運んだ▼昔から大商人だった三井や住友と違い、岩崎彌太郎は土佐藩の下級藩士に生まれた。身体一つで財閥を築き、上役だった後藤象二郎、板垣退助らと志を同じくし、その政治活動を裏から支えた人物でもある▼その岩崎久彌の長女美喜が、外交官・澤田廉三夫人だ。彼女が46歳の時に神奈川県大磯に混血児を預かるエリザベス・サンダース・ホームを開設し、65年にはパラー州トメアスー第2移住地に同第2ホームを建設した。そこに美喜自身まで移住する意志すらあったというから、当地とは所縁が深い▼後藤、岩崎ら土佐藩を基盤とする人脈に、福沢諭吉の国際的な視野、水野の実行力が合わさって初めてブラジル移民は生まれたのだ。(深)』

2011年9月3日(土)

最近、エディの奥さんの弟のサンドロ(Sandro)が、ここでの作業を手伝いに来ることが多くなった。彼もとてもいい人のようで、エドソンが彼と話していて、本業はパン職人だということを発見。自分の店は持っておらず、学校や病院やスーパーなどからの注文を受けて、奥さんと一緒に自宅でパンを焼いて、配達し、その後、ここの手伝いに来るのだとか。何と毎朝3時起きで、ここで仕事をする時は、午後5時まで仕事をするので、14時間もぶっ続けで仕事をしていることになる。すごいなあ・・・いくら若いとは言っても、よく体力が続くものだと感心してしまう。

パンが欲しかったら持ってきあげるよということになり、昨日の朝、6個(1.5レアル、約75円)ほど持ってきてもらった。その日の朝の作りたてのパンだけれど、彼らがここに仕事に来るのはいつも7時20分頃なので、出来てから少し時間か経過していてる上、朝の最低気温が4度と寒いので、パンはもう暖かくはなかった。でも、オーブントースターでほんの少し温めると、できたてのいい匂いと、ふかふか感が戻り、とてもおいしくいただいた。

また、お隣のカゼイロのジョアオンのお姉さんのところで、ニワトリをたくさん飼っていて、玉子を店に卸しているのだけれど、欲しかったら持ってきてあげるというので、こちらもお願いしたら、昨日、3ダースも地鶏の玉子を届けてくれた。1ダース4レアル(約200円)と、普通にスーパーで買う白い玉子の値段の2倍近くと高いのだけれど、ブロイラーではなく、地鶏玉子なので、これをスーパーで買おうと思うともっと高いはず。3ダース分12レアルを支払い、ありがたく玉子を受け取った。これらはすべて田舎暮らしだからこその贅沢!田舎暮らし万歳!!

2011年9月4日(日)

昨日の朝、寝室の窓を開けて、ベッドメーキングをしていると、大きな鳥が部屋のすぐ前をひょこひょこ歩いていたので、写真に撮った。この鳥は、以前、鳴き声が「ハーハーハーハー」と笑っているように聞こえる鳥がいると書いたことがあるけれど、その笑い声の鳥。この辺では何羽もよく見かける鳥だけれど、こんなに家の近くに来たのは初めて。しかもつがいではなく1羽だけというのも珍しい。家の周りの虫やヘビを見つけてせっせと食べてくださいな。歓迎!笑い鳥!

2011年9月5日(月)

先々週だったか、お隣のカゼイロのジョアオンが、とうもろこしを育てたいのだけれど、うちの土地を貸してくれないかと言ってきた。私たちがまだ木を植えていない、「何も植わっていないところは、自由に使ってもらっていいよ」「賃貸料なんていらない」「時々、ここの草刈りなどの作業を手伝ってくれるだけでいいよ。それと、とうもろこしの収穫の際は、僕たちが食べる分を少し分けてね」というのがエドソンの出した条件だった。ここの痩せた土地にブラキアーリアをはびこらせておくよりも、土地を耕してもらい、何か作物を育ててもらった方が、土地を肥やすことになるので、それだけでも私たちにはありがたいと考えたようだ。

それで今日、お隣での勤務時間が終わった午後5時を回って、ジョアオンがトラクターでやって来て、陽が沈むまでの時間を利用して、土地を耕し始めた。ジョアオンは本当によく働く。毎朝7時過ぎには牛の世話などを始めている姿を見かけるし、彼が来てから木々の周りの草を刈ったり、肥料をやったりと、きめ細かに世話をしているので、うちの台所の窓から見える果物の木々がずいぶん大きく育ってきているのがわかる。それに、お隣の入り口ゲート沿いの、いつまで経ってもひょろひょろのとても貧弱だった桜並木が、今年は見事な花を咲かせ、花が終わった今もとてもたくさんの葉を茂らせている。そんな彼が育てるのだから、きっと立派なとうもろこしができることだろう。

2011年9月6日(火)

お隣でジョアオンが飼っている牛に赤ちゃんが生まれたらしく、昨日から元気に走り回っている姿が見える。今朝は我が家の南西の一角で草を食んでいる姿が見えたので、ダイニングルームの窓を開けて、写真を撮った。真ん中の白っぽい小さい牛が、その生まれたばかりの赤ちゃんで、左側の茶色い大きな牛がお母さん牛のようだ。これでお隣の牛は、4頭から5頭に増えた。

2011年9月7日(水)

今日はブラジルの独立記念日で祝日。

2011年8月24日付けニッケイ新聞の日系社会ニュースに、「〜OBからの一筆啓上〜=人生変えたブラジルサッカー=沢田啓明(元パウリスタ新聞記者)」という記事があった。この沢田さんはお会いしたことはないけれど、中国新聞の海外リポートのコーナーに私と一緒にブラジルからリポートを書いている人。20数年前にブラジルに移り住んだ当初は、パウリスタ新聞の記者をしていたのか?この記事のサイトは、こちらへ

以下は、同じくニッケイ新聞2011年8月24日付けの「コラム 樹海」からの転載。

『当然のように日伯、伯国と表記しながら「伯剌西爾」の由来を知らない。最初の2字は中国語の巴西(パーシー) の発音からきているとか。あとは当て字のような気もするが。当て字といえば「舞楽而留」▼皇国移民会社の水野龍の作とも言われ、移民募集の名コピーだろう。「舞って楽しみそして留まれ」というわけだ。金の成る木とあいまって楽園のイメージを掻き立てられる。笠戸丸移民到着を報じた「コレイオ・パウリス ターノ」紙も(何を根拠にか知らないが)「文盲はいない」と書いているから、文字通りの美辞麗句に舞うどころか踊らされたのだろう▼サンパウロ新聞の主幹だった故内山勝男氏は著書タイトル『舞楽而留ラプソディー』に使っているが、表紙には「ブラジルよいとこ誰いふた 移民会社にだまされて 地球の裏側来てみれば 聞いた極楽見た地獄」と移民哀歌を併載している。「憮」然とし、法「螺」に怒るも「辞」もできず襤「褸」まといて珈琲もぎ—とも当てられる▼本紙で連載、第一部が終了した『水野龍60年忌特別連載 大和民草を赤土に植えた男』の第4回。福沢翁が1869(明治2)年に出版した『世界国尽』には「武良尻」と表記される。この書き方もあったようだ。記事によれば、一般にブラジルのことを紹介した書籍としては初らしいから由緒は正しい▼南米大陸の地図に目を転じれば、チリ、アルゼンチンを足に見立てると、ブラジルの北東伯あたりはお尻を突き出したような形。ペルーの古都クスコは、ケチュア語で「へそ」。 位置的にはつじつまは合う。カーニバル時期には舞楽尻と当てようか。(剛)』

2011年9月8日(木)

またまた、ニッケイ新聞からの転載だが、2011年8月25日付けで、私も中国新聞にリポートしたペトロポリスの文化祭に関する連載記事が、『旧都で育むニッポン〜ペトロポリス「BUNKA-SAI」』と題して掲載されたので紹介したい。ニッケイ新聞は文化祭の最終日にわざわざ記者を取材のためにサンパウロから派遣してくれ、連載記事を書いてくれたようだ。安見さん夫妻がとても喜んでいた。良かったなと思う。深沢編集長に感謝。

『【リオ州ペトロポリス市発=田中詩穂記者】「日伯交流発展のため、日本文化を市民に知ってもらいたい」—。8月6日から今週末まで、リオ州ペトロポリス市で『日本文化祭2011』が開催されている。企画・立案したのはペトロポリス日系協会。冒頭に紹介した安見清会長(71、茨城)、道子さん(73、東 京)夫妻の熱意が込もった手作りの文化祭だ。市がほぼ予算全額にあたる5万レを捻出。驚くことに人口30万人のうち日系人はわずか0・1%に過ぎない。文化・習慣の違いによる様々な苦労に頭を抱えながらも奮闘する会員の取り組み、メインプログラムの様子、参加した人々の声を4回にわたり伝える。

(1)杉村公使ゆかりの土地で=日系人口わずか0.1%

(2)リオ日系団体も駆けつけ=市が全面協力、「連帯のお返し」

(3)生花、漫画、陶芸に熱い眼差し=震災支援の浄財も集まる

(終)ロマンス風「姥捨て山」?=伯人中心の珍しい文化祭』

この連載記事のサイトは、こちらへ

2011年9月9日(金)

夕方、エドソンが仕事から戻り、車がガレージの前まで来ると、モビはその音でエドソンが帰宅したことがわかるらしく、その音に反応して玄関まで駆け出して行く。玄関ドアの前で時々「ウーン、ウーン」と声を上げながら、今か今かとエドソンがドアを開けて入ってくるのを待っている。何とも可愛い。

そして、エドソンがドアを開けて入ってくると、玄関ドアの前だけでなく、玄関を上がった所でも、しばらくの間、大喜びで何度も何度も飛びついて、精一杯の愛情表現をする。

2011年9月10日(土)

ウグイスの鳴き声が「ホーホケキョ」というのは、実際に鳴き声を聞いたこともあるので知っていたけれど、ホオジロの鳴き声は「イッピツケイジョウツカマツリソウロウ」と聞こえるのだそうだ。それで、一筆啓上は「ホオジロ」を指すこともあると、先日ニッケイ新聞で読んだ。こんなふうに鳥の鳴き声などを人間の言葉に置き換えて聞いているのは日本人だけかな?と思っていたら、ブラジルにも同じような例があるらしい。

この水曜日は休日だったので、エドソンは屋根裏でベランダや家の軒下の電気の配線作業をし、私は入り口ゲート前の道路の補修や、庭の木々に肥料をやる作業をしたのだけれど、それらが終わってから、木陰で景色を眺めながらエドソンと休憩していたら、西側の森から鳥の鳴き声が聞こえてきた。するとエドソンが、あの鳥は「テンポ ケンチ(tempo quente)=hot weather=暑いお天気」と鳴いているんだよと言う。鳥の正式名称は知らないけれど、「テンポ ケンチ」という鳴き声から、それが通称になっているのだという。1年でこの時期だけ聞こえる鳴き声で、そろそろ暑くなるよと、春の到来を告げる鳥なのだそうだ。

2011年9月11日(日)

度重なるニッケイ新聞からの転載で、恐縮なのだけれど、2011年8月26日付け「コラム 樹海」を読んで、いろいろ考えさせられたので、紹介することにした。エドソンはこの深沢編集長の見解に疑問を呈していたけれど、ご近所の日系二世のタケイシさんも、日系人はいつまで経ってもジャポネースと言われると言っていたことがある。日系人は外見ではっきりと区別がつくことに加え、日系人自身も他の国からの移民に比べ、自分は日系人だと意識している人が多いという印象もある。反対に日系であることを否定して生きている人たちもいるけれど・・・やはり背負っている文化的な背景や価値観が、他の移民たちとはだいぶ異なるからなのだろうか?それからエドソンのオフィスで働く日系三世のホドリゴ君のことを、パウロたちは名前を呼ばず、「ジャパ(Japa)」と呼んだりするらしく、悪気はないのかもしれないけれど、どうしてだろう?と思う。ジャパは英語で言うと、ジャップ(Jap)ということなので、アメリカでは特大の差別用語なんだけれどなあ・・・アメリカに比べて人種偏見の希薄なブラジルでさえ、人々の感覚というのはとても複雑なもののような気がする。

『なぜ百年祭では一般社会からあんなに盛大に祝われたのかをずっと考えている。もちろん日本移民の貢献への高い評価がそうさせたという意見には同意するが、それだけではドイツ系やイタリア系より盛大であった理由は説明しきれない気がする▼知人が通っているバレエ教室の伯人教師が、ある日系二世を「セグンダ・ジェラソン。ブラジルで生まれたジャポネースね」と評したとの話を聞き、考え込んだ。一般伯人の多くは一世と二世を我々ほど区別していない▼ジャポネースと一括りにされるのは見かけによる部分が大きい。ブラジルの三大構成要素たる白人、黒人、インディオではないアジア系は一見して区別されやすい。目の前のジャポネースが当地生れの伯国籍者かどうかより、見かけだけで判断する。二世にしてみれば迷惑な話だ。つまり百周年の時、我々は一世二世の区別なくジャポネースとして祝われた気がする▼ブラジル人は客人に対して驚くほどのオスピタリダーデを発揮して丁重に迎える。つまり百周年で我々が大変なもてなしをされたのは、家人ではなく客人として扱われたからではないかと思い至った。実態としての二世以降の世代は急速に伯人化しているが、一般社会からの先入観は依然としてジャポネースに留まっている▼百年祭の時にリベルダーデ駅構内にはよく日本語看板が掲げられ、まるで 日系人みんなが日本語を読めるかのような誤解をスポンサーや広告代理店がしていると感じた。一般社会から見たコロニア像と、実態はだいぶズレている。そんな誤解があることを自覚し、むやみに日系人としての自尊心を高めすぎず、謙虚さも忘れないことが大切だ。(深)』

2011年9月12日(月)

ベランダの前のハイビスカスの花壇でマーガレットが花盛りなので、時々数本切って食卓の上に飾っている。たったこれだけのことだけれど、この花があると食卓がパッと明るくなり、部屋の雰囲気がずいぶん変わるので驚いてしまう。この切り花のマーガレット、結構丈夫で、1週間近く枯れずに目を楽しませてくれる。写真の背景にある3本のバラの木は、先日ボトゥカトゥに買い物に行ったついでに、買ってきたもの。この週末は金曜日から3日続けて雨が降る予報だったので、植林作業に励もうと思い、アメンドインなどと一緒に買っておいたのだけれど、予報に反して雨は一滴も降らず。結局、しばらく家の中で育てることにした。

2011年9月13日(火)

今日はエドソンの誕生日!去年は私だけでなく、彼自身も忙しさに紛れて、うっかり誕生日ということを忘れてしまったため、何も特別な準備ができず、付け焼き刃であわてて小さなチョコレートケーキを作ってお茶を濁した。でも、今年は前もって、エドソンにバースデーディナーの希望を聞き、ケーキもパーディネンセで買うことにし、準備をしたので、まずまずのお祝いをすることができた。エドソンの要望によるバースデーディナーのメニューは、ローストビーフにヴィナグレッチ、レタスとルッコラとトマトのサラダ、ニンジン+セロリ+玉ねぎの入ったホテトサラダ、ラディッシュの酢の物、ご飯、そして、マラクジャ(パッションフルーツ)のケーキ。

2011年9月14日(水)

下のガレージの中で作ってもらっているダイニングテーブルが、ほぼ出来上がったので、昨日のエドソンの誕生日に合わせて上に運んでもらいたかったのだけれど、昨日はエディがここの仕事に来ておらず、サンドロとマノの2人だけだったので、残念ながら移動できず、新しいダイニングテーブルでのバースデーディナーとはいかなかった。このテーブル、素朴でごっつい代物なので、大の男4人がかりでないと運べない重量があるのだ。

今日、エディたちは他所の仕事に行っているのか、誰も来ず、ここでの仕事はお休みだったので、私は午前と午後に分けて、植林作業などに勤しんだ。彼らが外での作業をしている時は、私が側でうろちょろすると邪魔になるけれど、彼らがここで仕事をしていない時は、自由にカートを使わせてもらうこともできるので、絶好のチャンス。それに、今日は朝から曇りがちで、日差しがなく、風が強かったため、外での作業もそれほど暑くはなく、ちょうど良かった。今日は、くぬぎとグレヴィーリャを1本ずつと、セドリーニョを7本植えたので、2週間ほど前に、エドソンが植えたくぬぎやセドリーニョ6本と合わせて、これまでの植林総数は、558本になった。

2011年9月15日(木)

一ヶ月ほど前、ボトゥカトゥの家具店に頼んでおいたダイニング用の椅子が、昨日の夕方届いた。注文の際、製造元から椅子が届くまで約一ヶ月かかると言っていたけれど、本当にちょうど一ヶ月で届き、即日配達してくれた。私たちが椅子だけ買って、テーブルを買わないので、不思議に思っているようで、とてもいいダイニングテーブルが入荷したからぜひ見にきてくれと言っていた。でもこの椅子、今使っている簡易のダイニングの椅子よりも若干高さがあるため、問題が発生。エディが作っているテーブルは、テーブル下の梁がやけに大きくて、テーブル下のスペースが十分ないことがちょっと心配だったのだけれど、その心配が現実のものとなってしまった。それで、今朝、エドソンはこの椅子をひとつ持ってガレージに行き、エディに見せて、テーブルの梁を削ってもらうことになった。これでまたダイニングテーブルの完成は遠のいてしまった。エドソンは、このダイニングテーブルが完成したら、まず最初にエディを食事に招待するからねと、エディに言っていたけれど、そんなことに釣られて急いで仕事をするような人でもないので、まあ、気長に完成を待つしかない。

2011年9月16日(金)

これまでアメリカで暮らしていた時も、日本で暮らしていた時も、スーパーへの買い物は二人で一緒に行くか、私が一人で行くかのどちらかで、エドソンが一人で食料品の買い出しに行くことはめったになかった。そして、ブラジルに来てからは、買い物はいつも二人で行っていた。でも、最近は週末に英語のクラスがあり、なかなか買い物に出られないため、何か用事があって、1ー2週間に1度、ボトゥカトゥに行った時に、パーディーニョでは手に入りにくいものを買いだめし、パーディーニョで手に入る物、例えば、お肉や砂糖や小麦粉、ジャガイモや玉ねぎ、ニンジンなど葉物ではない野菜の買い物は、エドソンがしてくれるようになった。普段、エドソンが車で仕事に出ると、私は足がないため家から出られないので、買い物に行きたくても行けない。それで必然的にエドソンが買い物をするようになった。メールで買い物リストをエドソンに送ると、その日の夕方、仕事の後で、スーパーを回って買ってきてくれる。彼の中では、お肉はシェーロ・ベージ、ワインはパーディネンセなどと、買い物の内容によって、行く店が決まっている。結構買い物を楽しんでいるようで、頼んでいないものでも、珍しくいい白菜や果物があったと言って買ってきたり、チョコレートを買ってきたりする。基本的に自分が食べたいものを余分に買ってくるという感じだ。そして、モビのためのレバーは私が忘れていても、ちゃんと忘れずに買ってきてくれる。昨日も、ハムと、チーズ、ワイン、生クリームを頼んだら、その他に、骨付きの鶏のもも肉やリングイッサ(腸詰)、冷凍の魚などを買ってきてくれた。

2011年9月17日(土)

今日は、午前中エドソンが下のガレージ横のオフィス兼ワークショップの片付けを始めたので、私も一緒になって掃除を手伝った。部屋の奥の本棚の周辺だけは、「香山文庫」を書棚に移動させた際、掃除をしてきれいにしたのだけれど、部屋の半分以上はエドソンの無線機や、引き出しや、空き箱などが整理されないまま床に置かれていたりしたので、まだ完全には片付いていなかった。それで、いらないものを捨て、埃をかぶった無線機などを掃除し床からベンチや書棚に移動させ、部屋全体を掃除したので、ようやくすっきり片付き、きれいになった。まだちゃんとしたエドソンの作業用のベンチができておらず、一部だけ仮設したり、「香山文庫」用の机もこれから設置する必要があるので、部屋はまだ未完成ではあるものの、出入りが楽になり、作業をしようと思えばできるようになった。部屋の南側の窓を開けて、窓の外から部屋の写真を撮ってみた。

2011年9月18日(日)

お隣のジョアオンは、飼っている牛のミルクを搾って、パラカンビのお母さんのように、家でチーズを作っているらしく、金曜日にできたてのフレッシュチーズをお裾分けと言って、持ってきてくれた。すぐに食べないで、1ー2日置いて食べた方がおいしいということだったので、その言葉に従い、今日の朝食まで待っていただいた。

チーズをスライスして、金曜日の朝サンドロが作って持ってきてくれたパオンジーニョ・フランセーズの上に乗せ、オーブントースターで少し焼いて、ちょっと溶けかかったチーズに塩とオリーブオイルを少々ふるというのが、エドソン提案の食べ方だった。フレッシュチーズはお豆腐のような感じで、あまり強いチーズの味はしないので、塩とオリーブオイルが味のアクセントになっていておいしかった。

2011年9月19日(月)

お隣でカゼイロをしていたマウリシオは、仕事を辞めてから半年ほど失業中だったのだけれど、6月の末頃からカステロブランコまで下りたところにある大きなコンドミニオのニーニョ・ヴェージで、補修・維持・管理などの仕事をするフルタイムのスタッフとして働き出したので、以来お休みは週に1日だけで、忙しくしているらしい。ドナ・クレウザも週に2日くらいパーディーニョの町のどこかのお宅で掃除をするアルバイトを始めたと聞いている。それで最近は用事がある時にモビを預かってもらうこともできず、全然音沙汰なしだったのだけれど、以前の約束通り、ドナ・クレウザに寝室などで使うタぺチ(tapete=rug=敷物)を作ってもらうことにし、昨日の午後4時頃、ドナ・クレウザがここに来てくれることになっていた。でも5時半になっても現れないので、もう来ないだろうと思い、エドソンは入り口ゲートの鍵を締めに行き、私は夕食の支度をしていた。すると、6時半近くになって、薄暗い中、突然ドナ・クレウザがベランダ側の窓のところに現れたので、びっくり。玄関のドアを開けて、「一人で来たの?」と聞くと、マウリシオとマテウスはゲートのところにいると言う。それで、エドソンが大急ぎで鍵を持ってゲートを開けに行った。その間、私は早速、彼女から借りていたタぺチのデザインの本から選んだものを見せながら、作ってもらいたいものを伝え、色や大きさなどを確認した。そのうちマウリシオたちがやって来たので、みんなでしばらく賑やかにおしゃべりをした。この人たちとはパーディーニョに来て以来、一番付き合いが濃くて長いので、気が置けない。夕食時に来るとわかっていたら、一緒に食事ができるように支度をしたのだけれど、そういう予定ではなかったので、彼らは30分くらいして、7時を少しまわって帰って行った。

2011年9月20日(火)

最近、ポルトガル語のSで始まる、似たような言葉がどうも耳に残って頭から離れない。例えば、セギー(seguir=to follow=に続く、従う)、セグランサ(segranca=safety=安全)、セグロ(segro=safe / sem risco=安全な/危険のない)、セグレド(segredo=secret=秘密)、サグラドまたはサグラダ(sagrado/a=holy or sacred=神聖な)などだ。そして、この sagrado/aという言葉を耳にした時、ふと、サグラダ・ファミリアというのは聖家族という意味だったのかと、何故か見ていたテレビのノヴェラとはまったく関係のないサグラダ・ファミリアを思い出してしまった。サグラダ・ファミリアはスペインのバルセロナにある世界遺産で有名な教会で、名前は知っていたけれど、それがどういう意味なのか別に考えてみたこともなかった。それが突如、Sagrada Familiaは、sacred family(聖家族)という意味なのかと、何だか大発見をしたような気持ちになり、ひとり笑ってしまった。

また、ロボット(robot)のことはホボ(robo、後ろのoにアクセント)、強盗(robbery)のことはホウボ(roubo)というので、発音が似ていて紛らわしいのだけれど、ノヴェラのストーリーの流れを見ていると、どういう意味で使われているのか、英語から察することができる種類の単語なので、結構区別がつくものだなあと思うことがある。

2011年9月21日(水)

昨日、エディたちはいつもの4人の顔ぶれが揃っていたので、先週の金曜日に仕上げてくれていたダイニングテーブルを、4人がかりで下のガレージから上のダイニングルームに運び込んでくれた。エドソンが結構細かいことにこだわるので、エディは左右の壁からの距離をちゃんと測り、部屋の中央にデーンと置いてくれた。私たちふたりだけの生活でこんなに大きなテーブルは必要ないと言えば、そうなのだけれど、私たちは気の置けない友人たちを招いて家で食事をすることが好きなので、どうしてもゆったりとゆとりのあるテーブルが欲しかったのだ。このテーブルなら私の英語のクラスの生徒さんたちも、思いっきりノートやプリントを広げることができる。お陰でエドソンも私もとってもハッピー!エディに感謝。

2011年9月22日(木)

昨日は朝、ドナ・クレウザのところでモビを預かってもらい、日本総領事館で私のパスポートを更新するために、日帰りでサンパウロに行ってきた。サンパウロに行ったついでにリベルダージで買い物をして、午後4時発のバスで戻る予定で帰りのチケットを買った。普通、1週間後に再度受け取りに戻らなくてはならないパスポートなのだけれど、遠方から2度も往復するのは大変だろうからと、40分くらい待てば、即日作ってくれると言うことになった。そうするとリベルダージでの買い物をする時間が足りなくなるかもしれないのだけれど、来週また来なくてもいいというのはとてもありがたいので、パスポートができるのを待つ時間を利用して、大急ぎでリベルダージに行って、買い物をすることにした。地下鉄を乗り継いでリベルダージに行き、バタバタと買い物をして、総領事館に折り返し戻り、更新してもらったパスポートを受け取り、バハ・フンダのホドヴィアーリアに着いたのが、バスの出発4分前。滑り込みセーフ!一時は完全に乗り遅れるかと思ったのだけれど、とてもラッキーな1日になった。感謝。感謝。

それにしても、アメリカに住んでいた頃、ボストンの日本総領事館では、郵送した在留届けが届いていないことになっていたり、いつ行っても対応が何だか冷たく、教えてもらった情報も間違っていたりと、あまりいい印象がなかったのだけれど、ブラジルに来てからはリオの総領事館も、サンパウロの総領事館もかなり対応がいいように思う。ところ変わればということで、ブラジルという国柄が在留邦人に対する対応の違いにも反映しているのかな?と、ふと思った。

午後6時半過ぎに無事、パーディニョのホドサーブ・ソヒーソのバスターミナルに到着し、そこのガソリンスタンドで預かってもらっていた車にアルコール燃料を満タンにしてもらい、ドナ・クレウザのところにモビを迎えに行った。でも、ドナ・クレウザへのお土産をリベルダージで買うつもりだったのに、とても焦って買い物をしたため、すっかり忘れてしまっていたことに気づく。失敗。失敗。反対に、彼女が作ったお菓子(Pao de Mel)をふたついただいてしまった。このお菓子作りは、タぺチ作り同様、彼女の大事な内職なのだ。それで、エドソンは彼のオフィスに持ってきたら、買ってくれる人たちがいるから、持ってきたらいいと彼女に伝えていたけれど、作ったお菓子が完売するといいのだけれど・・・

2011年9月23日(金)

今日は、日本では「秋分の日」なので、ブラジルでは「春分の日」ということになる。でも、日本のように休日ではない。ブラジルでは暦の上では、9月21日に冬が終わり、22日から春。夏は12月22日から始まる。あくまでも暦の上のことではあるけれど、一応の季節の目安ではある。そして、10月の第3日曜日には、まだ暦の上では夏になっていないのに、早くも夏時間が始まる。

以下は、2011年9月9日付けニッケイ新聞の「コラム 樹海」からの転載。このイグアス移住地というのは、ブラジルではなく、パラグアイにある日系移住地のこと。

『イグアス移住地には戦後移民が圧倒的に多く、現在の日本に近い雰囲気、若い感じを受けた。いったい何が原因なのかと考えた結果、あちらが新しいというより、ブラジルのコロニアが古風なのだと思い至った▼伯国には戦前移民が約20万人も入り、錦衣帰郷叶わずに第2次大戦が起きたため、定着率は異例の9割以上となった。戦後も約5万人が入ったが半数は帰国したので、結果的に圧倒的多数は戦前派が占めた▼何度も書いていることだが、戦前派の中でも1926年から35年までの10年間に計13万人が集中しており、全移民の半数以上に相当する。これが「ブラジル移民の団塊世代」を形成し、現在に至るまでの気風の底流となった▼この団塊世代の家長は、日露戦争前後の国家主義気運の強い時代に人格形成した世代であり、明治の気風を強く残している。その雰囲気が子供や孫にも色濃く影響を残しており、大宅壮一のいう「明治の日本」を思わせる何かが伯国コロニアの特徴となっている▼ これは国際政治の流れとも密接に関係している。日露戦争で日本が勝利したことで米国内での黄禍論が高まり、1924年の排日法案となった。米国が禁止されたために伯国行きが本格化して「団塊世代」が流れ込んだ。ブラジルでも34年に日本移民の入国を制限する二分制限法が施行され、困った日本が送り先を探してパ国が候補となり、初の移住地ラ・コルメナが1936年に開設された。しかしその頃には満州移住が本格化し、南米行き移住が復活するのは戦後となった▼ 「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、そんな国際情勢があったから今の伯国コロニアが生れた。(深)』

2011年9月24日(土)

次の写真は、先週末現在の家の北側の状態。芝生を植える予定の家の前のスペースに、コンクリートの通路ができつつある。向こう側に見える小屋は、野菜畑で収穫した野菜を、家に持って入る前にざっと土を落として水洗いするための流しと、シュハスコのかまどを設置する予定の小屋。そして、私たちが昼間モビを置いて留守にしなければならない時に、モビを入れておくためのスペースとしても使う予定。

次の写真は、今日現在の上の写真と同じ場所を撮ったもの。左右両側のコンクリートの通路ができ、外ベランダの床にテラコッタのタイルが貼られ、向こう側に見える小屋の屋根の枠組みができつつある。

2011年9月25日(日)

ニッケイ新聞2011年8月31日付けで、「イグアス移住地50周年=パラグアイの若い息吹」と題する10回の連載が始まった。ようやく10本の連載記事がすべて自由に読めるようになったので、ここに紹介しようと思う。この移住地は今後どんな発展を続けて行くのだろうかと、記事を読んでいてわくわくした。

『創立50周年を迎えたばかりの若いイグアス移住地は、パラグアイへの殖民事業の最後発にして、最大規模のものだ。いまも活気ある農業組合があり、移住者の 大半は農業で生計を立てている。そして20歳前後が中心の二世層はまるで日本の日本人のような言葉を使う。8万7千ヘクタールを誇る移住地はそのままイグ アス市という行政区域になっているが、選挙で選ばれる市長よりも日本人会の会長の方が大きな権限を持っているような雰囲気すら漂っている。イグアス市の人口8700人のうち、日本移民とその子孫は200家族(約700人)で人口に占める比率は10%に満たないが、経済力は9割に達している(日本人会役員 談)からだ。かつてブラジルにも同様に活気のある移住地はあったが、百周年を経た現在はだいぶ事情が違ってきている。ブラジルと比較しつつ、同地の今後を探ってみた。

第1回=伯国から変った矛先=「ここは大森林だった」

第2回=「最低10年我慢すべし」=4世代同居の第1陣家族

第3回=「南米に理想郷作る」=弓場農場のパ国叛構想も

第4回=網走発「温かい所へ行きたい」=冬がない二毛作の地へ

第5回=不耕起栽培と除草剤工夫=農協立て直す¨中興の祖¨

第6回=「子や孫の代まで土守る」=原始林を再現する栽培法

第7回=百人いれば百通りの移民史=「踏ん張りぬいた人残った」

第8回=国際空港へ15分の好立地=採石場経営する日本人会

第9回=高い日本語能力持つ子弟=ここ数年移住者絶えず

最終回=藤倉電線が社員50人募集=「第2期開拓」に向けて』

この連載記事のサイトは、こちらへ

2011年9月26日(月)

この週末は金、土、日と雨の予報だったけれど、連日強い風が吹き荒れはしたものの、雨が降ったのは、金曜日の夜から翌日の明け方までだけで、土曜日も日曜日も雨は降らなかった。この季節にお天気が崩れると、気温がぐっと下がるため、昨日は何だか寒く、仕舞い込んだ毛糸のカーディガンを出してきて着込むほどだった。でも、最近の最低気温は10度を下ることはなくなり、最高気温も20度代の後半で、暖かくなってきているのは確か。

昨日は、ホドリゴたちが英語のクラスをお休みしたため、午前中エドソンが、玄関や居間の壁にドリルで穴をあけて、額縁や掛け軸を掛ける作業をしてくれた。お陰で、部屋の中の殺風景だった壁が、見違えるように主張し始め、少しずつ部屋らしくなってきた。

午後、私がのんびりとCDをかけて音楽を聴いていると、それに触発されたエドソンも自分のお気に入りのCDをかけたいというので、私のCDを途中で止めて彼のCDを聴いた。音楽を聴きながら、そして、日の入りと夕焼けを見ながら、ゆったりとした時間を過ごした。そう言えば、ブラジルに来て以来、こんなふうにのんびりとふたりで居間のソファーに腰かけて、ただ音楽に耳を傾けたのは初めてのような気がする。

2011年9月27日(火)

先週の金曜日に書き忘れていたのだけれど、9月23日付けで、中国新聞のウェブサイトの「海外リポート」のコーナーに、沢田啓明さんの「サッカーの名選手育てるクラブ」というブラジルからのリポートが掲載された。彼は日本のサッカー専門誌に記事を書いているということなので、本領発揮といったところだろうか。このリポートのサイトは、こちらへ

先日、インターネット上で、東洋経済オンライン配信の『「海外移転=空洞化」と考えるのは誤りだ』という興味深い記事を読んだ。この記事は、前向きなグローバル化は国内の経済成長を後押しすると主張し、海外直接投資が国内投資、研究開発、雇用にプラスの影響を与えることが証明されているとあった。つまり、企業は、国内からの輸出だけに頼っていた場合よりも、海外市場でのシェアを拡大できるからというのがその理由のようだ。そして、海外での売り上げが占める比率が、10年前の10%から現在は40%へと急上昇し、13年の目標を50%に設定している資生堂の例をあげている。この記事のサイトは、こちらへ

2011年9月28日(水)

畑の横の小屋の屋根葺きが月曜日に行われ、即日完了した。居住するための建物ではなく、小さな作業小屋なので、屋根の枠組みができたら、後は瓦を並べるだけ。さすがに時間がかからなかった。

そして昨日、ずっと後回しになっていた家の屋根と煙突の最後の仕上げ作業が始まった。昨日の午後、モビと散歩に出た際、エディとマノが西側の屋根の上で作業をしていたので写真に撮った。左がエディで右がマノ。エディは下を向いて作業をしていたのに、私がカメラを構えたら作業の手を止めて、こちらを向いてカメラ目線になっている。私が写真を撮り終えると、親指を立てて「OK?」というサインを送って来たので、私も親指を立てて「オブリガーダ(ありがとう)」と返した。

2011年9月29日(木)

ニッケイ新聞2011年9月10日付けの「日系社会ニュース」に、『伯国での事業拡大に注力=東京三菱UFJ銀行=4億ドルの大型資本増強=外資系10位入り目指す=15年に100億ドル融資へ』というニュースが掲載されていた。ブラジルに東京三菱UFJ銀行の支店があるのは知っていたけれど、それは岩崎久弥の時代に遡るブラジルとの関係があったからなのだと再認識。この記事のサイトは、こちらへ

この記事に関連して、同じくニッケイ新聞2011年9月10日付けの「大耳小耳」に、次のような雑記が載っていた。

『岩崎久弥によって東山農場が1927年に開始され、後に東山銀行などにも発展し、それがブラジル三菱銀行の前身となった。一方、政府系の横浜正銀が1919年にリオ支店を開設し、戦後に当地の東京銀行になった。その二つが合併してブラジル東京三菱UFJ銀行になったことは記憶に新しい。ちなみにブラジル東銀が買収したパウリスタノ銀行にはコロニアでは有名な蜂谷専一氏が64年に頭取へ就任した。伯国経済の第一人者として著名な鈴木孝憲氏も同社の頭取だった。思えば先日スキンカリオールの買収を発表したキリンビールも三菱系。明治の岩崎弥太郎の勢いが、今も当地では残っている?!』

2011年9月30日(金)

入り口ゲートの東側と西側の柵沿いにそれぞれ2本ずつ、計4本のブーゲンビリアを植えてから、1年近くになるだろうか?最初に植えた際、東側のブーゲンビリアは花がたくさん咲いていて、西側のブーゲンビリアにはほとんど花が咲いていなかった。花の時期が終わってからもほとんど成長が見られず、大丈夫かな?と思っていたら、1か月ほど前から西側の2本は花盛りの状態になった。ブラジルではブーゲンビリアはプリマヴェーラ(primavera=春)と呼ばれているので、今の時期がちょうど花が咲き出す時期なのかもしれない。でも、東側はまったく花が咲いておらず、葉も小さなものが少し出ているだけで、一見枯れかかっているのかと思うほど哀れな状態。どちらも同じように、側に牛糞を置いているのだけれど、どうしてだろう?



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